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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1224 22日の西川名ー1

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もうこの年齢になると、生きていることがエキスペディションになっているから、みんな潜りにゆくこと、もちろん調査の仕事も、エキスペディションだ。

レクリエーショナルダイビングでのフィッシュウオッチング、ウエアラブルカメラによる撮影も、ひとつの目的性を持った記録として、フォーマットを作って行えば、それは調査になる。目標を決めて、フォーマットを作って記録することがリサーチ(調査)である。
そんな狙いで 日本水中科学協会で人工魚礁研究会を提案している。その第一回のフィールドワークとして館山の僕のフィールドへ行こうと計画した。

12月22日、朝7時の現地との連絡でGOを決定する。この季節によくある、ちょっとした北西の風で、舟がだせない。もうみんなメンバーを車で走り始めている。このことがあることは昨夜から予想をしていた。目的地、内房の館山湾がNGだったら、館山湾の洲崎を廻れば風がさえぎられるから西川名には行けるだろう。西川名オーシャンパークは館山での出張所のようなもので、タンクを借りたりするお願いばかりをしていて、お客としては、あんまり行かないので、時にはゲストとして行かねばとも思っていた。風を機会としてそちらに回ろう。幸いなことに、波はかなりたっているけれど、外房としては普通、という電話連絡で西川名に向かうことにした。メンバーはバディの石川さん、プライマリーの指導員 倉田君、米沢君、伊豆大島のガイドをしている山本君、このごろお台場の潜水の常連になってくれている清水さん、みんな人工魚礁研究会参加の意志表示をしてくれているJAUSメンバーである。それに、今回は特別参加で、プライマリー師範の久保君が来てくれる。

 千葉のポイントはほぼすべて舟をだしてもらうボートダイビングである。波があれば船は揺れる、西川名は流れもある。レクリエーショナルダイバーは、こんなところで潜るのだから、みんな上手なのだと思う。言葉を変えれば危険という事だ。それぞれのレクリエーショナルダイバーにとって相当のエキスぺディションになっているはずであり、それで、リフレッシュする。この前西川名に来たのは、3mmのウエットの季節だった。今度はドライだ。ドライも、お台場でそしてJAMSTECでトレーニングはしているが、波のある船からのエントリー・エキジットは、体力的に厳しい。しかしやらねば、できなくなってしまう。12リットルのタンクを背負って、立ち上がるだけで大変だ。いつも使っている船外機付きの小さな舟、今日の人工魚礁はそんな小舟の潜水だったのだが、豊潮丸のゴムボートでは這うようにして頭から水に入るから、立ち上がらなくても良い。

 ここ西川名では、船の係留のしっかりしたロープから潜降するのだが、そのロープまで手繰って行かれるようにロープが張り巡らされる。立ち上がって飛び込もうとすると、このロープが邪魔になって飛び込めない。午後の潜水ではこのロープにひっかかってガイドに助けてもらった。これまではそんなことなど無かった。船首から飛び込んで、ガイド並みにゲストに手を貸していた。しばらくぶりのドライスーツを着てのボートダイビングということもある。それほど流れもないのだが、ロープを手繰って行く。ロープを手繰って進もうとすると、5月の鯉の吹き流しのようになる。レッグウエイトを着けるべきだったが、水平姿勢で足が沈まないように、付けるのを止めている。潜降ロープにたどり着くと、みんなはもう海底で待っている。これも、つい最近までは、僕の潜降速度が速すぎるとみんなに言われたほどで、先に入って出迎えていた。
 透明度は思ったほど良くない。良ければ目的地のV字谷がうっすらと見えるはずだが見えない。
 キャノンの一眼レフにストロボを着けて、ハウジングの上にはGoProを載せている。途中コロダイの群れに出会ったので、何枚かシャッターを切った。


 V字谷へ来たが、ここの名物であるヒゲダイの群れは見えない。谷を回り込んだところでシャッターが落ちなくなった。レンズを下にしてみると水滴がついている。水漏れだ。浅い水深ならば水面にすぐにあげてカメラを助けることもできるが、この状況ではあきらめるしかない。この水没が恐ろしいので、朝の直前にオーリングにグリースを塗って、ゴミなどが付いていないように確認したのだが、石川さんに言わせれば、そんなことをするからいけないのだということだが、そうかもしれない。この水没については、詳しく書きたいが、このハウジングは、裏蓋にオーリングが付いていて、平板に圧着して閉める形で、水漏れしやすい構造だ。飛び込む時の衝撃で蓋が緩んだのかもしれない。いつも水面で最終チェックをするのだが、そんなことが出来る状態ではない。鯉の吹き流しだ。

  飛び込んだ瞬間

 残圧をチェックしようとしたら、ゲージが所定の位置にきていない。でがけにゲージが不備だったので、レギュレーターを交換してきた。ゲージは、ベルトに挟まれて、目の前にあった。この位置も悪くないなと思ったりしたが、残圧は60になっている。多分僕の消費が一番早かったのだろう。みんなは100ぐらいあるはずだ。ガイドにゲージを見せて、戻ると伝えた。みんなにも戻るサインをだしたが、倉田君がカメラマン状態で、一人で遠くに離れている。久保君がライトを振って戻るサインをだしてくれたが、気づかずにどんどん進んでいる。僕はガイドを頼む習慣があるから、ガイドが見える。ガイドに見られやすい位置取りをしているが、倉田君は自分がガイドのスタイルだ。全員がベテランインストラクターで、ガイドであったりするから、ダイビング前のブリーフィングをしていない。その付けが廻ってきた。とりあえず僕だけが一足先に戻ることにした。
 これで午前の潜水は終了。
 午後の潜水は次回

 撮れている写真はすべて、一眼レフの上に載せたGoProの動画からの静止画保存

1227 22日の西川名 午後

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  12月22日午後の潜水
 午後とは言っても、お昼はダイビングが終わってからゆっくりと海鮮丼とかを食べることにして、1時間やすんで次の船で出ることにした。
 困ったことに、ハウジングを沈没させてしまったから、持ってゆくカメラが無い。GoProを台に乗せてライトを取り付けようかとやってみたりした。人工魚礁の調査で魚礁の隙間にカメラを差し込んで使うつもりでもってきた棒の先カメラがある。これにしよう。軽いからエントリー・エキジットも楽だ。
 午後のコースは、午前がV 字谷だったから、逆の方向、トビエイの根に行き、戻りながら、モロコ岩の下を覗けば、すぐに潜降索だ。
 エントリーの飛び込みで、張り巡らせてあるロープに絡まってしまった。ガイドに外してもらう。情けない。また、今度もみんなが下で待っている。
 どうしたら楽にできるのだろう。潜降索は、今書いている潜水士の潜降索のように梯子のすぐ脇に下ろすのが正しい。後ろの梯子出水に入り、舳先の潜降索まで泳いでいく間に姿が見えなくなってしまった事故もある。5キロほどの鉛をつけて、10mほど下ろせば良いわけだから、やってみる価値はある。ライン巻き上げの設備がある漁船ならば、なんの手間もないのだが、それがないとちょっと手間取る。今度のシンポジウムでそのようなローカルルールの、その船毎の細かい安全策が必要であることを発表してもらうのだが、、、、

      久保君


      米沢君


      倉田君


 トビエイの根までは潮に乗って下るから速い。
 久保君のトリム姿勢での移動を撮影した。師範だから、見事に型が決まっている。水平な姿勢でフロッグキックで、滑るように動いてゆく。2009年だったか、久保君に助手をやってもらって、乙浜の調査をしたことがある。その時はまだ、水平姿勢のことをよく知らなかったから、彼の泳ぎをよく見たわけではなく、お道具が多いな、これで仕事ができるのかしらん。なんて思ってみていた。その後JAUSを一緒にやるようになり、プライマリーコースを作ってもらった。僕も水平姿勢を練習しているが、海では、やるぞ、と心に決めないと、この泳ぎ方ができない。できたとしても、人に見てもらえるような泳ぎはできない。後にプライマリーコースをやることになって、やってみたが、とてもではないけれど、上手くできない。練習はすべて屋内プールでやったから、海での久保君は見ていない。久保君の泳ぎを撮影する。さすが、フォームは決まっている。
 このグループの中では、僕が一番下手だ。驚異のバランスと言われた僕の撮影フォームも今は昔だ。
 ミツボシクロスズメ

 清水まみさん

     
 この根にはイソギンチャクが群生しているので、僕の個人的な呼び名はイソギンチャクの根だ。トビエイの根というけれど、トビエイにはお目にかかったことが無い。イソギンチャクには、当然クマノミの類が住み着いている。ミツボシクロスズメの綺麗な群れがいたので、フィックスで撮影したつもりだが体が流れてしまって、カメラも揺れている。このような撮影の時は、カメラを三脚のように固定しなければならない。棒の先カメラに足を付けるか?先端部が大きくなることはあまりやりたくない。

 久保君の泳ぎを撮った部分も左右にわずかに揺れている。ハンドルを後ろ部分につけようか。
 戻り道は少し流れに逆らうのだが、久保君は一定のペースでフロッグのあおり足で泳いで着実に進んでいる。


 モロコ岩にいつも入っている大きなイシダイが、今度も居て、棒の先カメラで撮った。僕が棒の先を近づけたら、岩の下の向こう側から、山本さんが棒の先カメラを向けて泳いできた。イシダイは挟まれて、僕の方に戻ってきたが少し戸惑うように体をゆったりと回して、横手に泳ぎ去って行った。マハタも根の下に入っていったのだが、イシダイをとっているうちに奥に入ってしまった。多分、向こう側の出口に抜けているだろう。

 このような撮影には棒の先カメラが絶対に有利だ。問題はライティングで、僕はイノンの1000ルーメンのワイドを一灯、GoProと並べて取り付けている。光が回らないが、120度の広角に一灯で光が回るライトはないし、翼をつけて左右に一灯も考えられるが、大きくなってしまう。まあ、撮影結果は悪くなかったから、これでいいだろう。

     ライティングはこんなものだ。カサゴ

 午後の潜水では僕と、山本さん、米沢君が棒の先カメラを使っている。米沢くんの棒の先カメラは倉田君が100円ショップで買える材料で作ったものだが、倉田くんは別のハウジングを使っていた。
 僕としては、今回の結果から、もう少し改良して、この棒の先を魚の撮影に迷わず常用してもいいと思っている。
 船へのエキジットは、やはり難儀で、膝で金属の梯子を登ったので膝が痛くなった。今度からは、西川名では膝当てパッドをつけよう。

1230-水没

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 2013年も残すところ後1日になってしまった。年末の話題としては、どうかと思うけれど、22日の西川名でのキャノン・デジタルxの水没のことを書かないと年が暮れない。
ハウジングはフィッシュアイで、2004年ごろ買ったのだと記憶している。フィルムからデジタルに代わって、最初に買った一眼レフだ。一眼レフのハウジングとしては一番コンパクトだったから買った。

 在りし日の姿。去年の式根島でのタカベの撮影。このカメラはLCDで常時画像を見ているわけではなく、一眼レフのファインダーをのぞかなければならない。カメラとして当然だけれど、ファインダーを覗くと、周囲が見えなくなるので、そのことは気に入っていなかった。

  すべてフォーカスを手動で動かせないため、ナイトダイビングなどでは、ライトだけで撮影できるくらいの光量のあるライトでないとフォーカスが合わない。フォーカスが合わないとシャッターが落ちない。
 内蔵ストロボの光を、送ってストロボを光らせるため、二枚続けてシャッターを切ると、三枚目が撮れない。つまり連写が利かない。最高級ではない、しかも初期のデジタル一眼カメラだから仕方がないがそれでもハウジングは20万だった。
裏蓋は、オーリングを押し付ける水密機構で、円筒形シールではないから、僕のように荒い使い方では危ないなとは思っていた。僕が作ったカメラは、この水密方式は採らない。が、注意すれば大丈夫とおもっていた。しかし、1年ぐらいで水没させた。羽田沖でハゼの巣穴を撮影していて、真上を飛行機が低空に離着陸するので、望遠で撮ろうと、ハウジングからカメラを出して撮影し、またハウジングにもどした。このタイプのシールで水没原因の三本指にはいる原因だ。すぐに船に上げたので、レンズは助かったがボデイはだめだった。ボデイだけオークションであまり高くなく買った。
 この方式での裏蓋シールのハウジングは、コップ半分ぐらいは吸い取る汲水シートをメーカーが用意して組み込むべきだと思うが、新型はどうなのだろう。ハウジングの底部に敷き詰めるようにすればある程度の水没ならばカメラを助けることができる。これを機会に?強く提言しよう。

 それ以後は、注意して、出発前にオーリングにはグリースを塗り、慎重に閉じて現場ではなるべく開けないようにしている。しかし、内臓ストロボがポップアップしなかったりすることがあり、時には開けていたが、一度懲りているので、慎重に閉めるので大丈夫だった。
 今回も、そのように出がけにグリースを塗って閉めてきた。
 今度の水没の原因は、よくわからないが、多分、ボートから飛び込んだ時の衝撃で、裏蓋が少しずれたのではないかと思う。西川名は、僕にとって水中カメラの墓場のようなところだ。エントリーエキジットが厳しいのだ。このような厳しい条件のところでは、あまり高価なハウジングを使うことは薦められない。プロは、カメラハウジングの取り扱いには慣れているが、それでも命を優先するから、どうしてもカメラへの注意が散漫になる。飛び込んで、水面でゆったりして、カメラを受け取りチェックするという方法が取れない。
飛び込んだ衝撃
これが最後の一枚

 今回もしばらくぶりのドライスーツでの西川名で、重い12リットルタンクで余裕がなかった。
 潜ってから30mほど離れたV字谷というところを目指して泳ぎ、その途中でコロダイを撮っている。これがこのカメラの最後の一枚だ。おそらく飛び込みの衝撃で蓋がちょっとずれて、少しずつ水が入っていたのだろう。ポイントを回り込んだところで、キンギョハナダイを撮ろうとしたら、シャッターが落ちない。レンズ面を下にして、下から覗き込むと水がお猪口に一杯ぐらい入っている。この時にすぐに水面に上がればレンズだけは助かったかもしれないが、みんな一緒だし、すぐ真上に船があるわけでもないし、心配させて、全員が浮上するということになるのでそのまま潜水を続け、完全水没になった。

  ニコノスをはじめとして、水没を免れたが、使わなくなったカメラとハウジングが事務所にごろごろしている。大きい数百万の放送規格のカメラはすべて生き残っている。水が入ってもハウジングが大きいから、コップに一杯ぐらいならば大丈夫なのだ。

  この年賀状は1986年のもので、池上のHL-79Eという当時最新鋭最高級のビデオカメラだ。年賀状に姿を残している、最後まではたらいで、まだ十分に使える状態でリタイヤして、船の科学館に寄贈している。船の科学館は休館中だからどうなるか。まさか捨てることはないだろうから、タイムカプセルに入ったようなものだ。
 船の科学館はタイムカプセルになっている。100年後にカプセルが開けられたら、ハウジングはさらなるカプセルだ、まだ生きていて画像を送れると思う。

  僕のメインはウエアラブルカメラのマスクマウントとポールカメラで、仕事としてのたいていの事が出来る。しかし、雑誌の表紙を引き受けているので、これがちょっと困る。

 

1231 後藤道夫を偲ぶ

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 2013年、本当にあと一日。12月20日、20歳の時から、一緒に潜水生活を送ってきた親友以上の後藤道夫が世を去った。20歳の時から、時には別々でしたが78歳の夏まで、一緒にダイビングのことを、つまり潜水生活を送ってきた。僕の方が2つ年上だから、「死に花を咲かせてやる」JAUS発足に賛同してくれて、2011年の震災、原発事故以来、海の放射性物質調査のかけていた僕のために、γ線のスペクトル分析機器のハウジングを作ってくれた。まだ、この分析器は世に出ていないが、役に立つと思う・

    今年の8月 分析器 後藤道夫の顔が写っていない。



写真は、1978年、「潜水と水中撮影入門」という本を共立出版から共著で出した時のカバーの裏の写真だが、思えば、1978年は、僕たちの潜水の一つの頂点だった。そして、この時が僕と後藤道夫の潜水生活が交錯した時でもある。それまで、僕はスガ・マリンメカニックという会社を作って、ブロニカマリンなどのハウジングを売っていた。後藤道夫はカメラマンで「写真集・サンゴ礁の海」などを出し、テレビ番組「まちゃあき海を行く」の撮影をしていたりもしていた。
     以下はこの本からお転写
R116 というのは僕の作っていたブロニカマリン

 後藤道夫が作ったマスク、一眼で、シングルリップ目とガラスの距離が近く、顔によくフィットした。

後藤道夫はものつくりの天才でもあり、彼のデザインのウエットスーツは一番良かった。今では弟の勇毅さんがUGOという店を開いて、固定したフアンをもっている。そして、後藤道夫のデザインし制作したマスクは、そのころ一番人気が高かった。いまでもきっとリバイバルすれば売れると思う。

 彼は、自分の撮影はすべて自分の作ったハウジング、で撮影しなければいけないとおもっていたので、やがて、NHKの撮影機器をすべて作るようになり、大きな工作機械を次々と買い込み、水中機器製作の工場になってしまった。特に大型のステンレスの切削は、ここでなければできない。そんなことになり、この10年はJAMSTECの深海用の撮影機器の製作を日本では一手に引き受けていた。
しかし、切削機械を毎日扱って、切削の油からでる煙を吸い込んだことで喘息になり、それが死をはやめたのだとも思っている。僕の方はカメラマンとしてはニュース・ステーションの水中レポートシリーズ、沿岸漁業のリサーチャーになり、カメラマンとしての活動で生計を立てたから、病気になっても常に海で潜って治し、78歳の今日まで潜水生活を続けている。彼の門下の鶴耀一郎(故人)は、素潜りの達人で一世を風靡したし、潜水しての作業は、若い五島正哲、などがやっていて、これも繁盛していた。
実は僕もテレビ撮影のハウジングを作っていたし撮影もした。この部分ではライバルであったわけで、仕事を一緒にしていたということは無かった。
 話をもどして
「潜水と水中撮影入門」は、水中の広さを表現して、わかりやすく説明するために、当時の仲間の加藤画伯が挿絵を書いてくれた。 今見ても、この絵はすばらしく、そしてわかりやすい。 
撮影技術、潜水技術については、まだBCの普及する前のダイビングとしては、この本の時代の僕たちが、世界の頂点にいたと思う。

     僕のリサーチダイビングの記録用紙



正月が明けた、1月10日 13時から 小田原の湘和会館でお別れの会がある。スピーチをしなくてはならない。と同時に、彼の若き日が写っている、テレビ番組「まちゃあき海を行く」の一部を映写しようと準備をしている。この会ではすべてを映写するわけには行かないので、東京で別の機会をつくって、映写会をやりたいと思う。当時のダイビングのスタイルがよくわかるし、おもしろい映像でもある。
 怪物ウツボ君、ウツボに餌付けしている。

1231 水没ハウジングの復活&ブックオフ

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 ★ いろいろ、あきらめようと努力はしたが、どうしてもハウジングの水没が納得できない。飛び込んだショックぐらいで蓋が緩むとは思えない。もう一度しっかり見てみた。やはり蓋は、水に飛び込んだくらいのショックでは動かないだろう。大きなゴミも毛もついていないとすれば、それでもほんのちょっとの砂粒かもしれない。
ならば、自分が悪い。
 オークションで、キャノンデジタルXが20000円以下だったら復活させようと、ヤフオクを見たら、レンズ付きで即決18000円というのがあり、他には出ていなくて一台だけだったから、買うことにした。
 18000円ならば、別に200mmズームも持っているのだから、陸上の撮影のためでも良いだろう。


 ★、ブックオフへ本を持って行った。昨日、100冊、今日、100冊まだあと100冊以上、捨てる本があるけれど、とりあえずはこんなところ、100冊が2500円、200だから5000円だ。平均して25円、ほとんどが105円で買ったものだから、100円ー25円ー100円で循環していることになる。それがブックオフだろう。新しい本を買って50円だと損した気持ちになるが100円でかったものが25円ならば、良いと思う。うまい商売をしている。
 100冊売ると、2500円の他にサービス券500円がついてくる。これはブックオフでなければ使えない。500円X2だが、さっそく500円分かってしまった。文庫本ではなくて単行本だ。
 ① 日本の戦争力、VS 北朝鮮・中国 小川和久 2007年
 ② 第三次世界大戦 佐藤優 田原総一郎
 ③ 放射能汚染元年 西川栄郎他
  
 ④ 水中デジカメ入門 文月涼 2002年だから古いけれど、こんど同じような本を書く時の参考書になるかもしれない
 ⑤ ダイビングポイントマップ 慶良間 これはもしかしたら持っていたかもしれない。まあいいか。

 
 

0103 年頭のご挨拶

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 あけましておめでとうございます。
 また一つ歳を重ねる、生物学的には一歩一歩終わりに近づいているわけだから、ひとつもめでたくなんかないので、年賀状には迎春と書いた。しかし、春を迎えたわけでもなく、春を待ち、夏を待つわけだから、待春・夏 とでも言った方が自分の気持ちにぴったりする。とにかく年が変わって2014年になった。

待つ春 
待つ夏

このところ、企画書とか、会議の整理とか頭を整理しなければならないことばかり書いているので、整理疲れで頭の中がまとまらない。
でも、ブログを書くことは、自分にとって大事なことと位置付けている。

 31日、年の暮の夜は、普段、テレビを絶対と言って良いほど見ないのだが、紅白を見た。
今頃、どんな歌が歌われているのだろう。知らないと時の流れについて行けない。良くも悪くも紅白が国民的なのは、その年のやはり総括の気持ちになれるからだろう。それに、あんまり深く考えないで流して見られる。そして、それぞれの人が感想をもち、話題にしても、毒にならない。ノートPCを足元に置いて、下を向けば、画面が見られるようにして、耳が悪いからレシーバーで聞く。レシーバーにはアンプを着けて増幅している。これでようやく音楽が聴けるわけだ。
 年末にスーツケースに本を入れて、ブックオフに曳いて行って処分したサービス券で、飼ってきた「第三次世界大戦 佐藤優 田原総一朗 2009」を読みながら、紅白を(聴きながら、2014年の新年のご挨拶の原稿を考えた。我ながら、ながら、ながらと続く。
基本的に演歌が好きなのだが、前半、演歌が出てくると、やはり、今という時代に合わない。白痴のように思えてしまう。若いグループをバックに入れたりしてNHKも演歌を出すのに苦労している。それがまた、違和感を盛り上げているのかもしれないが、紅白だから、これで良いのだろう。テンポが上がってきて、は下を見ていることが多くなってきたと思ったらまた五木ひろしがでてきた。これはもう見苦しい。レシーバーを外した。
2013年、「あまちゃん」が大ブームだった。テレビは見ないから、これも見ていない。一度だけ、豊潮丸の航海で見た。その時、ちょっと僕のイメージと違うな、と思った。それはともかくとして、国民的な大ヒットになり、三陸への観光客も増え、復興の力になった。それはすごいことと思うし、時代に合わせて作る才能もすごい。紅白に団体で出てきて、なるほどと納得した。僕がこれを作るとすれば、たくましく海で生きて行く女に育って行く、例えば、パーフェクトストームに出てきた女船長で、この番組で潜るエキストラになった白浜の鈴木直美さんのようなイメージのサクセスストーリーで、震災の後の漁業の復興に立ち向かうという感じだけど???

 AKB48もしっかり見たのはこれが初めて。そういう意味でも紅白は見ておいた方が時の流れに遅れない。恋するフォーチュンクッキーも方々でやっているのを見るけれど、本家はこれが初めて。これもあまちゃんと同じく、発想の勝利、企画の勝利だろう。
そうそう、お正月に見る予定だった「ゼロ・グラビティ」を年末にみてしまった。これも3Dで宇宙、という企画と、それを実現する途方もない撮影技術の勝利で、しばらくぶりで興奮して見た。アバターもそうだが、3Dをうまく使うことが、現在の映画のキーだ。そして、宇宙と僕たちのダイビング、海の中と、いかに似ているか。宇宙船から外にでるのは、ダイビングにほぼ等しい。生きていられる時間を限って、無重力の世界で働く。ちょうど、潜水士の本を書いていて、質量と重量の問題を扱っていたのだが、この映画も重力が題名になっている。

さて、紅白だが、ほぼ感動して見ていたのは高橋真梨子で、もともと好きなのだがすごいとおもった。友達は色気が無くなったというが、64歳だ。64歳でこれより色気があったら気味が悪い。64歳の色気としてみれば、感動する。もう一人松田聖子も良い歌だった。50代、60代の女性の見事さと思ったが、北島三郎が出てきて、引退のご祝儀的、白組の勝利。今年の紅白はうまく作ってあった。

そして、除夜の鐘を聴きながら、フェイスブックにメッセージを送った。

As time goes by 「80歳までお金をいただいて潜水するダイバー」を目指して、あと一息です。
2014年は「go for broke」積極果敢に生きたい。皆様にとっても後悔のない年であることを願っています。 2014年 春を待ちつつ 歳を超します。

そしてメールでのあいさつは

迎春 2014 0101
今年も、よろしくお願いいたします。

2010年6月に始まった水中科学協会です。2014年5月で4周年になります。
① 活動研究会 ② 活動研究の成果、活動に役立つことを発表するフォーラム、シンポジウムの定例開催 ③ 成果を出版でまとめる。④ 活動に直接役立つ研修会(プライマリーコース)
2013年は、四本柱の具体的な道が開けてきた年でした。

①活動研究会
ウエアラブルカメラ研究会が発足し成果を9月のフォーラムで発表し好評、さらに2月のシンポジウムで発表します。
「ダイビングとは、水中で撮影すること記録すること」と言っても良いのですが、ウエアラブルカメラによって、本当にすべてのダイバーが撮影記録する途が見えてきたともいえるのです。誰でも持てる、水中で邪魔にならない。誰にでも買える。そして水中での記録についてはこれだけで十分と言える結果が期待できる。2014年にはこの研究をさらに拡大して行きます。研究会での活動とシンポジウムの発表の連環を目指します。
 リサーチダイビング研究会、潜水士制度研究会も理事会に提案され検討中です。会員の皆様も、何らかの形でご参加ください。そして、小さいことでも結構ですので提案してください。

②シンポジウム 2月2日 東京海洋大学品川キャンパス 13-17時
内容はたびたびお知らせしておりますが、ここでも別添しますが一都三県の会員の方は万障繰り合わせて、それ以外の地域の方も是非予定を組んでください。その際に、すぐ隣の学生食堂で1730から始まるワンコインの懇親会に必ず参加いただけるようお願いします。人と人との連携が財産です。発表の延長である懇親会でお話し合いができることを楽しみにしております。



0105 潜水士 減圧表

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 2013年後半を振り返ってみると、連載のようにまとまったことを書いておいて、あとでなんとかすることができる下書きにしたいなどと言って、数回書いて、置き去りにしてしまったテーマがいくつかある。これらのテーマを書き続けながら、日々の雑感、日記的なことを挟んで行こうということにしたのだが、それらのテーマが行き倒れ状態になっている。新しい年を迎えて、テーマを復活させようと、原稿をそれぞれのテーマでファイルを作って整理、まとめてみた。
 近々では「潜水士」、「福島」「人工魚礁」もうだいぶ前になってしまったが、「リブリーザー」「潮美への手紙」がそのままになっている。「ウエアラブルカメラ」「潜水技術」「グラフィティ」「お台場」「辰巳」「読書・映画」「JAUS」は、項目別整理のテーマだから、ぼつぼつ続いている。

 受験本も最終の校正に入っていることでもあり、「潜水士」から復活させよう。ここまでの展望だが、最後にこのテーマを書いたのは、12月14日で、潜水士の制度が作られる前、比較的深い潜水、長時間の潜水をする漁業者に重大な症例が多く、減圧症についての処置も、「ふかし」療法がほとんどで、再圧室を備えた病院もあったが、信頼されておらず、再圧タンクも特許の申請がされているような状況だった。そのころ、僕たち、まだ黎明期のスクーバダイバーはどうだったのだろうか。減圧表は?というところで、

      1943年版米国海軍減圧表

 ダイビングを始めたころ1956年ごろの僕たちのテキストは、「A Manual for Free Divers Using compressed AIR 」という61Pの英文で、ウズホールの潜水指導をしているダイバー、まだ、当時はインストラクターという言葉もつかわれていなかったのだが、今で言えばインストラクターのD.M.Owen が1954年に書いたものであった。61pとページ数が少ないから、僕にも簡単に訳すことができた。この本に示されている減圧表は、米国海軍のダイビングマニュアルに示されている米国海軍の減圧表で、1943年版である。米国海軍減圧表の元祖、原型だろうと思う。クストーのアクアラングの誕生が1943年であるから、この表は、それ以前のヘルメット式潜水器のためのものである。この表で、例えば90フィート、約27m潜ったとすると、30分までは無減圧、ストップは0分である。45分になると10フィートで6分の減圧停止になる。
 繰り返し潜水、一日に複数回数の潜水を行うときは、2回目に潜る時は、時間を2倍して表を引く。27mに30分潜ったとすれば、二倍だから60分潜ったことにして表を引く、大変にわかりやすく、30分でも60分で表を引くから、6mで9分、3mで16分の停止となる。
 僕たちは、この表に従って潜水しても3%、100人に3人は減圧症になるが、その症状は軽く、ふかしで対応できると教えられた。減圧症に対する安全度は、漁業者のヘルメット式よりもはるかに高いものだったと思う。
 そして、東亜潜水機に入社した1958年には、1952年版の米国海軍のダイビングマニュアルを原文で読んでノートをとっていて、減圧表も1952年版であり、現在の米国海軍の減圧表とは、数値は改善されているとしても、その組み立ては全く同じで、繰り返し潜水記号で、繰り返し潜水に対応している。

       1952年版米国海軍
 そして、1961年潜水士テキストに減圧表、(別表2)が発表された。米国海軍の表と比べて見ると、停止時間などについて、その数値は近い。ということは、このまま米国海軍の表を使っていても良いのだと、勝手に解釈した。自分はそれで良いとしても、一般のダイバー、当時は東亜潜水機勤務だから、そのお得意さんであるダイバーは、この表が規則になっているのだから、守らなければ規則違反になってしまう。
 繰り返し潜水についての修正時間は、別表3という、計算線の表を使う。定規で正確に線を引かなくては、数値が求められない。国家試験の問題に必ず出題されるようなことだから、大変に面倒であり、なおかつ手で定規をあてて線を引くのであるから、不正確である。こんなものは現場では使っていられない。しかし、規則である。使えないと切り捨てることはできない。
 この計算線(別表第3を見ると)、これは計算尺を印刷物の表にしたもので、定規で線を引くのは計算尺のカーソルと同じだと気づいた。ならば、計算尺を作れば良いと準備をすすめて、計算尺メーカーから見積もりをとった。1000の単位のロットで作らないと作ってくれない。社長にお伺いを立てたが、あまり良い返事がもらえない。ならば、と厚紙に印刷したもので紙と紙を滑らせるようにしたら、これでもできる。社長の許可をもらって、これを作り、全国のお得意さんに一回目は無料で配布した。
 一方、マスク式潜水機を作っている旭潜研は、少し遅れてだが計算尺を作って売り出した。旭の佐藤社長は潜水士制度の黒幕である。最初からそのつもりでこの別表3を作ったのかもしれないと勘ぐった。

      別表3の計算尺

      別表2の早見回転表示板

 そして、2012年、1962年から数えて、50年後だ。僕たちJAUSは、横須賀のJAMSTEC、海洋研究開発機構でプライマリーコースの研修会をやらせてもらっている。海洋研究開発機構では、主催事業として、消防士や警察官を対象にしたスクーバ研修会を開いている。海猿のトレーニングなみの一週間のコースである。この研修は当然、潜水士の規則に沿って行われる。その教室で僕は見た。あの時旭潜研の作った計算尺の現代版を。メーカーの名前が日本海洋産業と変わっているが、これは、この会社が旭潜研を吸収したためだ。
 懐かしいとともに複雑な心境になった。あの時、ボール紙細工ではなくて本格的な計算尺を作っていれば、今も売れていたかもしれない。50年後の今だ。50年売り続ければ金額は小さくても、かなりのものになっただろう。
 そして、50年変わらない減圧表というのも大変な代物だが、いまでも米国海軍の表が基本だから、この表で潜水しても、作業潜水としては、減圧症が多発するということでもないのだろう。

        現在の潜水士テキスト 80-90になっている

        48年版テキスト 55-60より下はない。

 しかし、現在のこの表の一番深い区分が80を超え90以下になっている。90mまで空気で潜水ができるのだ。このことが今取り上げられて問題になっている。しかし、昭和48年版の潜水士テキストでは、最深が55をこえ60以下になっている。何を根拠に30mも深くしたのだろうか。まさか、1964年に僕と舘石さんが100m潜水に空気でチャレンジして90mで引き返したから、90にしてわけではないだろう。僕たちは90mで、一時的に意識を失った。

0108 日記

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  月刊ダイバーの連載、ニッポン潜水グラフィティの最終回の締め切りが10日だ。最終回だから、まとめを書くのか、それともこれまでの流れにそって書いて、最後にまとめにするのか、考えがまとまらない。まとまらなくても書かなくてはならない。とにかく書こうと今日8日の半日を費やしたが、まとまらない。明日、9日こそはまとめないといけない。

  潜水士の受験テキストも大詰めに来ていて、写真選びとその周辺コメントを少しでも早く送らなければならない。写真を選ぶと、写真に沿ったコメントになるからここまで書いたこととのちょうせいもしなければならなくなる。これもなかなかはかどらない。

 ヘルメット式潜水について、こんど2月2日のシンポジウムで講演をしてもらう、岩手県種市高等学校海洋開発科の下川先生からヘルメット式潜水の写真を送ってもらった。僕が予想していたのよりも、立派な施設であり、伝統的なクラシックな潜水器であるヘルメット式も衰退に向かっていて、もはやいくばくもないのかと思っていたが、若い高校生が、本気になって取り組んでいるらしい様子をみると、まだまだすてたものではないのかと思う。シンポジウムでは、僕がコメンテーターだから、そのあたりを質問して、参加者に聴いてもらおう。

 昨夜、7日には中川隆の新年会があり、ぜひ来いということで引き出された。中川は、僕のテレビ撮影部分を引き継いで独立したものだから、僕の人脈、僕の知り合いが半分以上、それにただいま現在のJAUSの会員で、仲良くしている福田君とか、あやのさんなども来ている。僕はすでに伝説のひとになっているとか、で、一緒に記念写真をずいぶんとってもらった。ちょっと反省していることは、顔がうろ覚えの人に此方から声をかけなかったことだ。向こうから声をかけにくかったのだろう。どうも僕にはそういう、人見知りのところがある。
 しかし、テレビ関係者は、僕の80歳での80mの企画はぜひ応援したい、番組にしたいという人がいた。当然、中川がカメラマンをやることだろうから、それはそれでいい。中川はJAUSの理事としてもよく出てきてくれている。
 JAUSについては、こんな風にみんなに説明した。僕も60年近く潜水の世界で生きているのだから、結構な人脈がある。中川が受け継いだ半球もその一つだ。僕が死ねば一切は空になる。それをJAUSという形でまとめて、100人が、ともに協力し合って、裏切らないという組織になれば、きっとダイビングについてはなんでもできる組織になるだろう。あと長くて二年の間になんとかなるだろうか。それを思うと焦ってしまう。

0110 後藤道夫 お別れ会

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 12月20日に亡くなった後藤道夫のお別れの会が、今日、小田原でおこなわれる。
 挨拶と想い出を語ることになった。挨拶というのが苦手だ。挨拶がきちんとできない。電車で小田原まで2時間ぐらいだろうから、その間に考えよう。
 挨拶の他に想い出を語るのだが、何もなくて語ると脈絡が無くなってしまうので、PPを作った。

 後藤道夫にはじめてであったのは、僕が大学2年の時、葉山の磯に出かけた時だった。彼は弟の勇穀君と一緒にアクアラングの練習をしていた。1956年だったと思う。



 その出会いのことを月刊ダイバーのニッポン潜水グラフィティに書いた。

 やがて彼は真鶴に居をうつして、日本ではじめてのダイビングサービス、そのころはダイビングサービスという言葉はなかったから、セントラルダイビングセンターだったか真鶴ダイビングセンターだったか忘れたが、センターを作った。 

 僕は東亜潜水器に入社して、その東亜の三沢社長は面倒見のいい人で、後藤道夫のことを何かとおうえんしていた。ウエットスーツを作る生地の供給とか、コンプレッサーとか。ウエットスーツ生地の納品に僕がオート三輪で行くと、彼はベンツに乗っていた。金はどうすることもできないほど、無かったと思うのに。

 そして、1967年、後藤道夫と僕と、浅見国治の三人で日本潜水会を作った。日本で初めてのダイビング指導全国組織だった。

 彼はカメラマンとして活動し、全国一周の撮影旅行を企画して、旅にでた。ベンツではなくてオート三輪だったと思う。そして、南の果て、まだそのころは沖縄は変換されていないから、南の果て、奄美大島の加計呂麻島まで行き、そこでひっかかってしまいそこが彼の撮影スタジオになってしまった。 
 ちょうどそのころ、テレビ番組「マチャアキ海を行く」が企画され、彼がその最初のカメラマンになった。
 そのビデオを 紹介する。 4分ほどのクリップだ。


  
一緒に書いた本1978年の「潜水と水中撮影入門」このころから彼は水中撮影のハウジングとかストロボを作ることが専業になりカメラマンとしては卒業してしまったみたいだ。写真集「サンゴ礁の海」は、当時としては圧倒的だったのに、若い人を多数かかえていたから、海底キャラバンでは食べさせて行けなかったのかもしれないし、それに彼はものを作ることの天才だったから、ものつくりの方が好きだったのだろう。
 僕はそれまで水中ハウジングを作っていたのに、カメラマンの方に軸足を移した。

  日本潜水会の指導員講習にて、左端はユージニークラークさん、潜る研究者の創始者で高名
  
 日本潜水会は、全日本潜水連盟に発展的に解消してしまったが、その同窓会、毎年一度忘年会をやる集いは2009年まで続き、2010年、後藤道夫は、僕、須賀の死に花をさかせてやると、水中科学協会を一緒につくってくれた。僕の死に花はまだ咲いていないけれど、後藤道夫は先に行ってしまった。
   

   日本潜水会 2006年 益田一、後藤道夫、大津善彦

 未完だけれど、出かける時間になってしまった。

0112 ヘルメット式と種市高等学校

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2月2日のシンポジウム、岩手県種市高等学校の先生においでいただいて、話をしてもらう。岩手県種市高校はヘルメット式潜水機をアッピールポイントにしている。「南部もぐりの伝統を守る」テレビ番組「あまちゃん」にも出てきて、南部もぐりのちょっとしたブームである。そして、人々は「南部もぐり」というと、それはヘルメット式潜水機であり、ヘルメット式潜水機で潜るヘルメットダイバーの代名詞のように思っているだろう。
ヘルメット式潜水機は斜陽を通り越して、いまは落日寸前であり。かつてヘルメット式潜水の独壇場であった、港湾工事の作業潜水も、潜水士の用語でいえば応需弁をつけた全面マスク型送気式潜水機、俗称で言えばフーカー潜水機が主力である。潜水作業船は、ヘルメット式の装備で、フーカーで潜れる。工事潜水のフーカーは背中に4リットルのタンクを背負っているから、コンプレッサーが止まり、空気の供給が停止しても、背中のタンクの空気をスクーバと同じようにして呼吸して、ホースは切り離して、浮上脱出することが出来る。つまり二通りの空気供給方式を持っている。軽量であり、一人で装備の装着が出来、一人で船の上に上がってくることができる。ヘルメット式潜水機は重く、アシスタントである綱もちに手伝ってもらわなければ装備を着ることも脱ぐこともできない。空気の消費量でもヘルメット式の方が多い。コスト的に何一つヘルメット式が優れている部分は無い。

4リットルタンク付のフーカー

   一番簡単なフルフェイスマスクを使ったフーカー潜水器


 ヘルメット式が今後、滅びゆく潜水機であることは間違いない。それを売り物にして行くという事は、どういうことだ。どこに目標があるのだろう。シンポジウムでの僕の質問点である。

 しかし、若い高校生が、訓練を受けている姿を見ると、溌剌としている。何かが変わるのではないかと思う。僕が東亜潜水機にいたころとは、装備が変わっている。そして、こんな風に、中性浮力で浮くことは、潜水士テキストではいけないとされている。水に入ったり出たりすることについては、難儀であり鈍重だが、ヘルメット式は水中では決してのろくは無い。素早く動くこともできる。水中に中世浮力で浮くこともできる。ただし、潜水士の規則では、ヘルメット式はバランスを失うと、水面まで吹き上げられる。態勢を立て直すことが出来ずに、潜水服が風船のように膨らんで、水面に飛び出す。墜落は、浮力を失うと石のように海底に落下する。だから、水面への上り下り、は潜降索というロープを伝わって、行わなければならない。その点を学校ではどういう解釈をしているのだろう。もしかしたら、新しい方式の潜水服を使って、新しいテクニックで潜水しているのかもしれない。
一方で、先日東亜の佐野社長にきいたところでは、僕のほぼ同期のヘルメットつくりの職人、山沢君が死んでしまって作る人が無くて困っているという。もはや、美術工芸品のようなヘルメットは作れないのだ。
どういうことで種市高校の潜水教育はヘルメット式をやっているのだろう。

      新品のヘルメット

      金属製ハードハット

僕の解釈はこうだ。間違っているかもしれないが。ヘルメット式潜水の習得は難しい。スクーバのC-カードのようなわけには行かない。少なくとも一年はかかるだろう。その難しい潜水機を使うこなすことができれば、それと平行してスクーバとスキンダイビングをやっていれば、すべての潜水機を難なく使いこなすことができる。そして、転べば風船になって吹き上げられてしまうヘルメット式でバランスをとることを覚えれば、これも度の潜水にもあてはめられる。そして、できる人が少ない技術を身に着けていることは、誇りになる。教育効果は大きい。

そして、美術工芸品の金属製のヘルメットが作れなくなり、大量生産型のヘルメットを作ったとする。このヘルメットは、ハードハットと呼んで、全面マスク式の作業用としての高度なものだ。これもヘルメット式を覚えていれば難なく使いこなせる。
だから、次の世代の潜水機になっても、またその次の世代の潜水機になったとしても、ヘルメット式の教育をしていれば、通用する。
そんなヘルメット式だが、今は徒弟制度の時代ではない。ヘルメット式をもしも習い覚えようとするならば、日本では、種市高校の施設でなければできない。
そして、ヘルメット式潜水の練習は楽しいだろう。そして、就職率も絶対に良いはずだ。楽しく練習できて、3年間、そして海の仕事に付けるのならば、人生やり直すならば僕でもこの学校にはいりたい。これは、僕の考えであり、本当のところはわからない。2月2日のシンポジウムで質問し答えてもらうか、あるいは、同じ答えをすでに用意している、僕の考えが当たっているかもしれない。

1016 テクニカルダイビング

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ブログで、大きいテーマ、単行本になるようなテーマを、下書きのつもりで書いているので、単行本の切れ端のようになってしまい。読んでくださる人に申し訳ないといつも思っているが、仕方が無い。
そして、日々,モノを書くことが多く、それで時間がとられてしまい、ブログを書く時間がない。
このテクニカルダイビングとシステムダイビングのテーマも、1月6日に書き始めて、その間にいくつかの出来事があり、そっちへ行ったりしてしまって、そしてもちろん未完で、長い話の断片だ。しかし、断片でも、ブログにしないと間に合わない。

1月4日、JAUSシンポジウムで 3.ダイビング事故防止について、事故当事者の視点からの発表と提案 を発表していただく JAUS会員 田中恒明氏 と打ち合わせた。発表そのものについては、ここで論じてしまうことはできないが、有意義な発表、そして議論になるとおもっている。
このような発表の意義は、ディスカッションだと思う。耳が遠くなってしまったので、会場からの質問への応対はできにくくなってしまったのでできないが、イヤホーンをつければ聞こえるので、対談のような形を今年は考えよう。


その田中さんとのお話しの時に、僕が1996年にやった100m潜水の報告書を差し上げて、その話をした。この報告書も1000部印刷して、どんどん会う人に差し上げていたのだが、数年前から残り少なくなり、セーブしていたが、あと残りは30部ぐらいになってしまった。となると、貴重な文献になってくる。
 
 この潜水の問題提起とは、100m潜るという記録的なことではなかった。27歳1964年に舘石昭氏と、館山沖で空気を吸って100m潜水をめざした時には命を賭けた冒険だった。1996年には、もはや100m潜るという事は、さしたる事ではなく、一緒に付き添って潜ってくれた田島雅彦は、飽和潜水ですでに数千時間を潜っている。
 それでも1996年には、100m潜るということは尋常なことではなく、周到な準備が必要だった。
 この潜水で特に問題にしたこと、問題になったことは、一つは高齢と、それに伴う自分の体の内部との戦いであった。世の中の状況が変わった。つまり高齢化が進んで、今79歳を迎える自分の視点から見下ろせば、60歳はまだ若い。若かった。しかし、その頃も今も、赤いちゃんちゃんこの代わりに赤いドライスーツを着て100mを潜ることは、医学的には大変なことで、だから、必然的に僕の戦いは、外の自然環境に向けたものよりも、むしろ、自分の内なる世界、体の中の、特に高血圧の僕の場合は、循環器系が物理的な環境変化に対応してどのように対応するかの戦いだった。
 
もう一つのポイントがテクニカルダイビングであった。今、2014年、いろいろな意味でテクニカルダイビングが問題になり話題になるだろう。国際的に世界最大のダイビング指導組織であるPADIがレクリエーショナル・テクニカルダイビング(レクテク)を目指すという。
このことについて、業界では賛否両論がある。これまでテクニカルダイビングに専心していて、その道では知られるようになったダイバーは、テクニカルダイビングがレクリェーション、C-カードの延長線になってしまうことは面白くないだろう。そんなにイージーのものではないと考える。レクリエーショナルダイビングのインストラクターとして実績もありビジネス的にも成功を収めている人は、その上にレクテクが着陸してくることを愉快とはおもわない。通常の潜水とテクニカルダイビングのハイブリッドを作ることで、両側がどのように変化して行くのだろうか。その変化がプラス方向ではない可能性もある。技術的には問題ないだろうが、業界の構造がどのように変わって行くかを見定めたい。

ところで、そのテクニカルダイビングとは何なのだろう?わかっていない人が多いと思うし、PADIのレク・テクというものが正式にどういうコンセプトのものなのか、いわゆるテクニカルダイビングと同じなのか、先に書いたように、通常のレクリエーショナルダイビングのテクニカルダイビング版、つまりハイブリッドなのか正確には知らないが、
とにかくテクニカルダイビングとは何か。

  左から、ハミルトン博士の奥さん、ハミルトン博士・残念なことにお亡くなりになってしまったと弟子の田中光嘉氏に聞いた。後藤與四之博士、須賀 1996年

1996年の100m潜水を僕はテクニカルダイビングでやろう。僕のやる混合ガスをつかった非飽和潜水はテクニカルダイビングだと思っていた。
 僕の潜水の医学的側面のアドバイザーは後藤與四之博士であり、古い日本潜水会のメンバーで、前から、僕の100m潜水の面倒を見てくれることになっていた。お願いしてあった。
 後藤先生は、テクニカルダイビングの権威者、すなわち、混合ガス潜水の減圧表作成ソフトの権威者である、ビル・ハミルトン博士と懇意で、僕のダイビングの減圧表の作成、アドバイスなどをお願いしてくれた。ハミルトン博士は減圧表計算の専門家であるだけでなく、実際的な潜水のスーパバイザ―の経験も豊富であるということで、僕のダイビングについてのアドバイスもしてくれるよう、お願いしてあるという事だった。そして、ちょうどそのころにJAMSTECに用事があって来るということで、僕と会う時間を作ってもらえて、浜松町の地産ホテルでお話しすることができた。それとついでに、同じく地産ホテルで、ハミルトン博士のテクニカルダイビングについての講演会を行った。テーマはテクニカルダイビングについてで、すでにアメリカでは、テクニカルダイビングがダイバーの注目を集めていたのだが、これが、日本でのテクニカルダイビングについての最初の講演だったと思う。驚いたことに、この講演は地産ホテルの大広間を満員にしてしまった。宣伝の時間もほとんどないのにだ。そして更に驚いたことは、満員の聴衆のほとんどに、 僕は面識が無かったことだ。僕のテリトリーとは違うダイビングの世界までも、この講演会のニュースが伝わって、熱心に出かけて来ていたのだ。
僕は自分が日本のテクニカルダイビングの幕を開けるのだと自負した。

まず、テクニカルダイビングとはなにか、ハミルトン博士の講演から、僕の100m潜水の報告書「330Feet Dream at 60+1」から抜粋しよう。
「山登りにおけるテクニカル登山と類義の意味でテクニカルという言葉が使われ、複数の呼吸用混合ガスをつかうスクーバタイプの潜水をテクニカルダイビングと呼ぶようになった。
テクニカルダイビングは特別なダイビングであり、ハイレベルなトレーニングとセルフコントロールが要求される。深度限界を超える潜水であっても空気を呼吸ガスとする潜水はテクニカルダイビングとは言わない。ただし、大深度で空気を呼吸した場合も、減圧用に混合ガスを使った場合には、テクニカルダイビングとみなされ鵜こともある。
テクニカルダイビングでは、目標水深で呼吸するボトムガス、中間点、水深50mぐらいから水深10mぐらいまでの減圧に使用する中間減圧用のガス、減圧の最終段階の浅いところで呼吸するガスと、通常、三種類のガスを呼吸する。
深く潜水すれば大量の呼吸ガスを消費するので、ガス消費量の少ない循環式の呼吸器を使うことを頭に浮かべるが、複数の呼吸ガスを使用するので、循環式は使いにくい。
※酸素分圧を可変できるリブリーザーは使いやすいように思うが、薄めの用のデュリエントのヘリウムの%が可変ではないので、ボトムガスを考えると、リブリーザーだけでは使いにくく、オープンサーキットとの併用が考えられる。
ボトムガス(ボトムミックス)は、窒素とヘリウムと酸素の三種類を混合したトライミックスを使う例が多い。テクニカルダイビングでは水面からの潜降もボトムガスを呼吸してしまうことが多いが、潜水深度が深くて、酸素分圧が低いガスを使わなければならないときは、十分な酸素分圧の潜降用のガスを別に用いることになる。
中間点の呼吸ガスとしてはナイトロックスを呼吸し、浅い減圧点では純酸素を呼吸する。
テクニカルダイビングは水面からの供給ホースを使用せずに、自由に泳ぐ潜水であるから、水面からの熱源、例えば温湯の供給設けることが出来ない。効果的な断熱方法を工夫しなければならない。身体の浮力調整なども洗練された技術が必要になる。」
これは1996年、今から18年前の講演からの抜粋であるから、リブリーザーの開発も進んだし、理論的にも変化があったと思われるが、「複数の呼吸用混合ガスをつかうスクーバタイプの潜水」という定義はかわらないだろう。だから、ナイトロックスだけを使うリブリーザーでの潜水はテクニカルダイビングの定義からはずれる。別の定義を決めるか、もしくは、ハイブリッドと考えるべきだろう。
定義にこだわるが、こんごは、様々なスタイルのハイブリッドが出来るであろうから、元の定義をしっかり決めておかないと、混乱してしまう。

実は1996年の僕の100m潜水は、テクニカルダイビングとシステム潜水のハイブリッドになってしまった。そして、このハイブリッドこそが、100mあたりの非飽和の潜水としては、もっとも安全性が高いと体験的に考えた。
では、システム潜水とは?

1019 システム潜水

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  さて、システム潜水とはなにか?僕が尊敬するとともに年賀状の交換をかかしていない池田知純氏の「潜水の世界」「潜水医学入門」の索引を眺めても載っていない。これらの本が書かれた2002年には、潜水の世界でも一般的な用語ではなく、定義も無かったのだろうか。しかし、それより前、1996年の僕の60歳を区切りとする100m潜水では、「システム管理による潜水」という言葉を使っている。これは、この時、テクニカルダイビングをやろうとしていた僕にたいして、これはシステム潜水だと指摘されたからで、これもまた、この100m潜水の総指揮をやってくれて、ヘリウムガスを都合してくれた石黒信雄氏の、書いた「ダイビング・テクノロジー」2006年 で、システム潜水という項目で述べている。
「紀元前332年、マケドニアのアレキサンダー大王が潜水箱(ダイビングベル)を用いて潜行した。これが人類最初のシステム潜水だと言われている。」
要するに、ダイバーがカプセルに入って潜水して行う潜水で、SDC(サブマーシブル、水中に沈めるデコンプレッションチャンバー)とDDC(デッキデコンプレッションチャンバー)などの大規模システムを使ってダイバーの生命維持をする潜水という意味である。飽和潜水はすべてシステム潜水である。
  
  1996年僕の60歳、100m潜水、非飽和の混合ガス潜水、スクーバと送気式のハイブリッドであった。

 とにかく、その100m潜水で「これはシステム潜水だ。」と言われたことから、水面に生命維持の責任を少なからず負わせる潜水、デッキにチャンバーを置いて、船上で減圧する潜水を、システム潜水と呼ぶと解釈した。
深く潜る場合、自分の持つ呼吸ガスだけで減圧管理もおこない、自分の責任だけで潜るスクーバのテクニカル潜水、船上で減圧するシステム潜水とわけるとわかりやすい。
すべての事象は、まず実行があってそれが定義される。定義が明確であると、相互理解が進み、物事がうまくできる。
40m以上に潜る場合、レクリエーショナルダイビングは別として、何らかの業務を行う場合には、スクーバであっても、システム潜水、すなわち船上での減圧で行うべきであろう。そして、できるならばサーフェスサプライ[送気ホースによる呼吸]を併用することが望ましい。これは、テクニカルとシステムのハイブリッドと考える。
技能、技術の進歩は、二つ以上の定義の組み合わせも重要な方向であり、これがハイブリッドであり、ハイブリッドが定着して、広く行われるようになれば、新たな定義と呼称が生まれる。
ところで問題なのだが、ハイブリッドはたくさん生まれる。その一つずつに名前が付けられると、とめどが無くなる。そこでまた大きななまえでくくる。そんな経過をたどって混乱するのだが、果ても無く錯綜するから、言葉の定義をしながら、その事象についての説明をして行く他は無い。その定義が広く通用するようになるかどうかはわからないが、少なくとも、その場その場では理解してもらえる。現代社会で技術のことを述べる時には、前置きとして、使う言葉の説明、すなわち簡単な定義をしておかなくては理解がすすまない。つまり用語の説明、定義から入る。講演を聞いていてよくわからないことが多いのは、  言葉の説明、理解がないからで、印刷物は、脚注を入れられるから理解できやすい。

システム潜水という言葉の定義は、チャンバーを沈める、飽和潜水システムに源があるが、船上で再圧チャンバーで減圧するところまで範囲に入れるとすると、1980年に僕は釜石湾港防波堤の工事の基礎調査で、ヘリウム酸素の混合気体を全面マスク式に送気して、減圧は船上の副室のある、今の定義で言えば第二種のタンクを使用して、潜水したのだから、システム潜水をやったことになる。

    1980年、釜石での非飽和混合ガス潜水、手前にガスカードルが見える。


当時はシステム潜水などという言葉は使わなかったのだが、あとから考えればシステム潜水にまちがいない。このタイプの本格的な混合ガス潜水は、アジア海洋作業がダムの工事で行った例が本格的だったが、それに匹敵する作業だった。JAMSTEC、当時は海洋科学技術センターと技術的なタイアップもして、その後JAUSを作ってからのJAMSTEC訓練プールでのプライマリーコースでお世話になった米倉君がこの釜石に参加してくれた。彼が居たからこそJAMSTECでのプライマリーコースができた。今は定年退職されて、科学未来館のボランティアをつとめている。
1980年からの工事開始で、2009年3月に完成だから、およそ30年の年月がかかった。僕たちは63mの海底に投石してその足場を固める工事の調査だけだからおよそ1年足らずだが、僕たちのお世話をしてくれた工事会社の人たちは、ほとんどが定年退職したあとで完成した勘定になる。海底からの立ち上がりは60だからギネスにも乗ったが、63mから海底部分は巨大だが、水面に出ている部分は5m強の堤防だ。今度の津波では、浸水を6分遅らせ、ⅰ3mの高さを7-9mに低減したと言われるが、釜石の町は壊滅した。6分の遅延が何人の人の命を救ったのだろうか。1200億円の工費と30年、ずいぶんたくさんの人がこの工事で生活できたのだから、そして少なくとも数百人の命は救ったはずだから、失敗とは断じられないが、今度はもっと大きいとすると、水面の高さが13m以上の防波堤をつくろうとすると40年の工事期間が必要だろう。人は物を作って生活している蟻のようなものだから、賛成も反対もない。人間の業であり、本能だろう。また、今度もシステム潜水によって、破壊されたケーソンを引き上げてからでなければ、ケーソンが据えられない。工事会社は儲かるだろうな。あのままシステム潜水工事の会社になればとか思う。

だいぶ脱線してしまったが、元に戻って、船上で再圧室に入って潜水するか、水中にSDC(サブマーシブル チャンバー)を沈めるかということの差は大きい。このチャンバーを沈める潜水を、バウンス潜水と呼ぶこともあるが、バウンス潜水の定義は?とこれも複雑になる(よくわからない)ので、ここではふれない。潜水士の規則を改正することの主唱者である真野先生と、最新ダイビング用語事典の監修のお願い、打ち合わせをしていた時、プロは40m以上潜水するばあいにはこのSDCを使わなければいけないように提案しているとお話しされた。「ちょっと待ってください。」そんなことをしたら、すべて、プロの潜水はSDCとそれを吊りおろし吊り上げるクレーンを持ち、船上には、SDCとドッキングするチャンバーを持たなければできなくなってしまう。せめて、船上減圧に留めて、ほしいとお話しした。結果はどうなるかわからないが、システム潜水という言葉をなるべく幅広く広げておく必要があると思った。

 なお、この議論を進めている途中で、気づいたのだが、潜水士の規則、高気圧作業安全衛生規則について、レクリエーショナルダイビングのインストラクターが驚くほどその仕組みを知らないことに気付いた。議論がかみ合わない。この規則は、インストラクターが教える生徒の安全とは直接に関係は無い。自分、インストラクター自身の安全、労働環境の好適、維持のための規則である。生徒と先生(インストラクター)が別のルールで行動するというとんでもない話なのだが、このことが公に問題にされたことは今までにない。これは、レクリエーショナルダイビング業界と日本政府、厚生労働省との驚くべき断絶に起因している。そんなことを言い出すとまたまたシステム潜水から脱線するが、これは重大テーマである。たとえばテクニカルダイビングは、この規則の範疇の外にあるから、レクリエーショナルダイビングとしてだけ成立することなのだが、そのインストラクターは業務として、テクニカルダイビングの指導をしたとする。これは規則違反であり、厳密にいうと、この状態でインストラクターが減圧症を含めて事故を起こしたとする。労災が適用されるときに問題になる。たいていの場合は医師がなんとかうまくやってくれるだろうが、規則としては違反になる。
 先にのべたように、40m以上は、SDCはともかく、船上減圧のチャンバーを持っていなければならないということになると、どこかの従業員(労働者)になっているダイバーの40m以上の潜水は、もちろんテクニカルダイビングを含めて違反になる。
 そして、減圧症についての安全をいうならば、船上減圧のチャンバーを持っていることが正しい。水深40m以上で危急のために急浮上した際の減圧症、はレクリエーショナルダイビングの不定愁訴のような減圧症とは比べ物にならない。わるければ車いすの生涯、上手くいってつらいリハビリが待っている。

 脱線の枝葉が多く、まとまらないけれど、書き直す時間もないので、ご容赦。

 

0119 ウエアラブルカメラ新年会

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JAUSのウエアラブルカメラ研究会の新年会。一応ウエアラブルカメラだが、誰でも来てかまわない。来たい人、来られる人の忘年会で、食事は例年というか二年目、そして、おそらく僕の死後も続けてもらえるようにとの、フットボールブタ白菜鍋、JAUSでは、スガ鍋となっている。
 ナベに湯を沸かして、白菜とブタだけをいれ、大根おろしに七味を大量に居れて、醤油をかけたものに付けて食べる。僕の行くところ、どこででもやるナベだ。シンプルで、おいしく、安く、かついくらでも食べられる。煮野菜にダイコンおろしは食べるそばから消化してゆく感じだ。2時から食べ始めて、5時ぐらいまで食べていた。


 その間、おしゃべり、中川の持ってきた映像を見たり、最後は僕の映像をすこしばかり、そして、今度の全日本水中スポーツ室内選手権大会に僕が出て石川さんが出て、米沢夫妻がでて、寺内羊子も強制的に出場を決められたり。


 
 僕は今月の25日に79歳を迎えるのに、少し早めに80歳のケーキをもらってしまった。一気に2歳、年を取らされてしまった。80歳で80m潜るという冗談みたいなはなし。レクリエーショナルダイビングは40mまでしか潜ってはいけない。僕のこのダイビングは、どう考えてもレクリエーショナルダイビングだ。はてさて、どうしたものだろう。

 振り返って、公私ともに本当に愚かな生涯を送ってきた。自分でも身震いするほどの愚かさで、まだその恥に上塗りを重ねている。しかし、ダイビングについての熱い心だけは、ひと時も失ったことはない。だから、誰でもが同じように熱い心を持っていると誤解してしまう。その誰でもの中で、熱い心を持った仲間たちのあつまりだ。今度こそ、愚かな過ちは犯しませんと心に誓っても、もう遅い。せめて、50歳の時に、80歳までの先が見えていれば、とかなわぬ後悔に身を苛む。
 
 宴会だけでなく、2月2日のシンポジウムに臨むウエアラブルカメラ研究会の発表について、話をした。その事前1月22日に発表会の予選というか、予備集まりをやる。作品の公募をしたが、一件の公募も来なかった。まだ知られていないのだから無理もない。しかしやると決めたから22日はやろう。そして次も公募をしよう。
 僕の過ぎ去った日々の後悔の一つは、大きくなることに焦って、ただ大きくだけした。メンバーが楽しく思ったり、幸せを感じたりすることは考えなかった。集まっていれば楽しいメンバーの組織をあわてないで、10年、20年かけて育てて行く苗を植えて、この世に残して行ければそれで良い。


以下は、シンポジウムに向けての準備についてのメモです。

5.1600-1700
ウエアラブルカメラ研究会映像作品発表
  22日の予選会ですが予想通り、応募は無いようです。
 一般公募も今後は、形だけでもするとして、口コミでも良いから、メンバーを増やし、メンバーのレベルを上げて行くように図らなければいけないでしょう。
★22日は森下文化会館を借りてしまっています。メンバーは作品を各1本以上持ち寄ってください。その際、友人も見に来るようにできれば、誘ってください。

レジュメ 原稿の例

データ
①作者 須賀次郎 ②タイトル: アクアディスク(水中フリスビー)③撮影場所:東京辰巳国際水泳場 ④撮影日時:2013年11月―2014年1月
⑤時間:約2分40秒
ねらい
①何を撮ろうとしたか 
透視度の良い辰巳国際水泳場のプールでのスキンダイビングの飛翔、空中戦のイメージ
  ここまでは必須
  以下は任意
②なぜ、どうやって、その効果
マスクマウント、手持ちの撮影を行い比較してみてどのようなちがいがあるかを見た。マスクマウントでは、対象物に視線、カメラの向きを固定して、目で追い続ければ、ダイバーが激しく動いても、苦痛なく見られ、帰って臨場感がある。手持ちでは、優雅な感じの表現ができる。
この撮影でトレーニングすることにより、海でのダイビングでも、撮るぞと意識した時には、マスクマウントでかなり良い撮影が可能である。意識する時間と無意識の時間の配分が必要。


コメンテーター 斎藤さん
来てくれた人はこれを持っているので、見てもらうように促して、作者名とタイトルを紹介して、作者に出てもらう。作者はレジュメの原稿プラスαていどしゃべる、臨機応変、コメンテーターは感想を一言、前もって映像は見ているので原稿を作っておいてください。

福田君
例によって機種によるちがいとか比較を見せてもらえるならば、10分程度として、比較データーなどはレジュメにして、渡しておき、映像中心にしゃべってください。フォーラムの時と同じ調子でOKです。

0122 全日本スポーツダイビング室内選手権大会

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 ウエアラブルカメラの新年会、消化の良い白菜の鍋だが、かなりの量を食べて、その上に誕生日?のお祝いに頂いた、和菓子を食べまくったために胃腸の様子と腎臓の様子がおかしい。そして、毎日2時過ぎまで起きていて睡眠不足。あんまり調子は良くない。
 が、浦安海豚倶楽部
 舟橋さん[年齢不詳]と22mダッシュの競争を毎回やろうと申し合わせている。22mの速さがほぼ同じなので、ものさしになる。
 1回目は、僕がタッチの負け、2回目は同着、3回目は、40歳だったかの橋本君が加わった。彼には勝てっこないと思いながら、思いっきり泳いだ。
 ゴール方向の壁の下に、やや上を向けてウエアラブルカメラを置いて撮影している。動画だから、その部分だけ切り抜いてフェイスブックに乗せた。
 僕がタッチで一位に見える。二位橋本君、2位の舟橋さんは30cmほど遅れているように見える。切った(編集した)動画で秒数を見たら13秒だった。22mを13秒ならば、50mは32秒で泳げるかもしれない。


     左が橋本君、真中が僕 右が舟橋さん


ところで、全日本スポーツダイビング室内選手権大会のスケジュール、例年は12月の初旬の日曜日なのだが、今年は11月24日の振替休日となった。しかし、振り替え休日は多くの大学で授業がある。出場できない。この大会も、そして社会スポーツセンターも、会場の設営から、当日のボランティア、そして出場選手としても、関東学生潜水連盟に負っているところが大きい。何とか、通常の日曜日に、たとえ年を越しても変えられないかと、社会スポーツセンターの瀬田事務局長にお願いをした。しかし、オリンピックのおかげで休日は全部水連関係に抑えられていて、会場の習志野水泳場からは、土曜日にするようにと言われていたところを、やっととったのだから、変更は不可能だという。しかたがない。なんとか選手の人は、月曜日の授業を何とかする他ないだろう。瀬田さんとしてはで着るだけの努力をしてくれている。.
しかし、オリンピックってなんだ。スポーツにも競技スポーツと生涯スポーツがあり、生涯スポーツは幸せを追及するスポーツ、寿命の尽きるまでアクティブにできるスポーツ、をめざす。ダイビングは生涯スポーツにならなければいけないし、なりつつある。定年になるから、これからもっと潜れるからよろしく、という会員がいる。僕とせって泳いでいる舟橋さんも60近い。競技スポーツも、素晴らしいものだけれど、国民のためにどちらが大事か。譲っても五分五分だろう。国際水泳場と呼ばれるのだから、これからオリンピックに向けて、辰巳もどんどん借りにくくなるだろう。
森元首相は、原発を再稼働しなければオリンピックができなくなるという。オリンピックまでに何とか、停止しても電力がたりるようにして、世界から日本に来てもらうというのが本筋だとおもうのに、そして、日本は原発の輸出でお金を稼ぐ方針だ。福島の事故はまだまだ、大変な状況なのに。
そして、競技スポーツのために、クレイジーなスタジアムを作ろうとしているが、そんなものを作る金があれば、生涯スポーツのためのフィールドやプールを増やす方が良い。単なる国の見得のために巨大施設を東京に作り、自然もつぶす。全部国民の税金を使う話だ。
とにかく、オリンピックのために、日程の変更は無理、なんとか休日にプールを確保するのが精いっぱいということで納得するほかない。

今日、22日、ウエアラブルカメラ研究会の作品選考会が、江東区森下文化会館で1900からある。だれでも参加できるのだが、告知がホームページに載せただけという状況だから、研究会会員+α ぐらいしか集まらない。時間も21時までの2時間だから、仲間内のがやがやを公開しようという程度、集まらなくても良いのだが、面白いと思うし、次回からは、もっと告知に精をださないと、いけない。


そのプレ上映会、に見せようと思って。ふと思いついた。後藤道夫のお別れ会で流した「マチャアキ」の映像、での後藤道夫の潜る姿、そして、最近の水平姿勢、並べて2分半の映像にしてみた。シンポジウムでやるかどうか、ちょっとテーマがちがうのでどうするかわからないが、ならべてみると驚く、BCをつけるようになってからも、20年前までは、このフォームが基本で潜っていたのだ。まったくスキンダイビングの延長で、スキンダイビングでタンクを背負っていたような潜水だった。

今、トリムを重視した水平のフォームの練習を行うプライマリーコースを一生懸命にやっている。これについては、また別の機会に論じよう。


0124 2月2日発表する 3分のクリップ

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  シンポジウム 2月2日に発表するウエアラブルカメラ研究会の映像、3分、完成した。3分24秒 まあ24秒オーバーは良いだろう。
題材は、①お台場、②豊潮丸航海、瀬戸内海、③浦安海豚倶楽部 ④全日本スポーツダイビング室内選手権大会⑤辰巳国際水泳場のフリスビ―です。⑥最後は今年秋の全日本スポーツダイビング室内選手権大会に向けての僕のトレーニング状況、3分24秒で六つのテーマ、かなり無理があるが。


     海底すれすれの飛行


     生物の主役はイシガニ

①お台場は、生物も面白いけれど、海に潜ると言ってもここは、違う惑星に行って、飛んでいるような気持ちになる。トリムをとった水平姿勢を一生懸命練習している理由は、お台場のヘドロの海底を泥を巻き上げないように、滑るように飛ぶ努力をするとスクーバという乗り物にのったような飛行感覚があるからだ。フィンをバタ足キックにしてしまったら、飛べない。

    2013年の豊潮丸航海は瀬戸内海周航
ラインを引いて安全管理をする。
美しい豊潮丸

②豊潮丸は、飛ぶ感覚を味わうダイビングではなくて、採集と、安全管理のダイビングだが、僕の場合、自分の安全管理だけを考えていれば、僕と離れないで、僕を助けようとしてくれるであろう若い町田君、中尾先生は安全が確保できる。安全管理と危機管理については別に書くけれど、その基調になっていることは、3月号の月刊ダイバー、僕の連載、最終回に書いた。

③浦安海豚倶楽部は、浦安運動公園のプールをホームとするスキンダイビングクラブであり、平均年齢は、僕が高くしているのだがかなり高い。生涯スポーツとしてのスキンダイビングクラブとして、褒められるクラブだ。

④全日本スポーツダイビング室内選手権大会100m決勝を、プールに沈めたウエアラブルカメラで撮ったもの。

⑤辰巳国際でのフリスビー練習。
このゲームはタフだ。スキンダイビングは背中に翼を生やした飛翔だが、フリスビーは空中戦である。このところ、11月から続けているが、だいぶ要領がわかってきた。スキンダイビングでの身のこなし、敏捷性、ダッシュ力、視界の広さ、が養われる。今後も遊び半分、トレーニング半分で続けて行く。

⑥今年の全日本スポーツダイビング室内選手権大会、50mに出ることを公言し、石川さんと競争することにした。

さて、この作品で表現したい、言いたかったことは、このすべてをウエアラブルカメラで撮った。つまり、一年の記録をウエアラブルカメラだけで撮れる。そして発表もできる。撮影の目標の第一は記録である。プロのカメラマンは、作品でお金を稼ぐのだから、それなりの覚悟と投資が必要だから、ウエアラブルカメラは一つの道具であり、メインのカメラにはなりえないだろう。次第に多用されることにはなっているが、それだけではプロとしてのお金はもらえない。
プロでなければ、プロであってもリサーチとか作業、スポーツダイビングのインストラクターとかガイドダイバーは記録用として、これだけで撮影の仕事が出来る。
そして、記録撮影で一番価値があるのは、実は記念撮影なのだということを最近はヒシヒシと感じているので、このような記録が毎年作れるとすれば、それで十分、動画からの切り出しも、このブログの写真がすべてそれなのだから、使える。


0127 お台場、21世紀のダイビング

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 僕のスタイルの潜水は2000年まで、ということは20世紀のダイビングということだが、易しくて楽しかったと思うしダイビングショップも儲かった。21世紀のダイビングは、すごく難しい。20世紀のダイビングならば、60mでも普通に潜れたが、21世紀のスタイルでは、20mも危ない。僕が年老いたからということもあるだろうが、難しい。難しくなることが安全に繋がるかどうか。これは結果(統計的結果)を見なければわからないが、事故数は減るとは思えない。時代の差もあるだろうが、個のレベルで、日本のダイビング業が昔ほどもうかることはもうないと思う。儲かるのは上部組織だけだ。それはそれとして、僕は難しい今のスタイルを一生懸命練習している。いざとなれば昔のスタイルで生き残れるから、今のスタイルで潜れるようになれば、アドバンテージがあるな、と。
 今のスタイルは、トリムを完全にとって中世浮力で足を海底につけないスタイルだ。
1月26日・その月の最終日曜日は、お台場潜水の日だ。今は魚も見えないし、カニもどこかに潜っているのだろう。カニは冬眠したっけ。しない。最近のお台場では難しい21世紀のダイビングの練習をしている。お台場はトリムを取って水平の潜水練習に好適のプールのようなものだ。年をとり、バランスが悪くなっている。身体も硬い。覚えも悪くなっている。「練習あるのみ」
 カメラは、ウエアラブルカメラ、GOPRO2を棒の先に付けたポールカメラだけを持つ。
棒は2mの測量用のスタッフで、棒の先でカメラは180度自在に回転する。2mの棒を延ばして、先についているカメラを回転させてこちらに向ければ、泳いでいる全身が撮影できる。フォームの確認ができるのだ。

マスクはダイブウエイズの新しい一眼のマスク、石川さんにマスクマウントの受けを付けてもらったので、これにはGoPro3を付ける。
毎度難儀なのは、エントリーとエキジットだ。ウエイトはレッグに1.6キロ、ベルトに2キロ、ベストが7キロで10,6キロだ。タンクが10キロとして、20キロを背負うからしゃがんだら立ち上がれない。ポールカメラのポールが杖になる。
予想していたように水は濁っている。普通、本州沿岸は、1月2月3月は、水が澄んでいる。しかし、ここお台場は必ずしも澄んでいない。冬季発生のプランクトンが多いからと風呂田先生が教えてくれた。本当かどうかわからないが、とにかく濁っている。
まずは水深1.5mの砂地を進んでゆく、
何もいないし、何も見えないから、自分をビークルにイメージする。21世紀のダイビングは、ビークルにたとえやすい。

  ポールカメラを自分に向けてフォームを撮る。濁っていても濁りの程度がとれる。

身体を水平のまま、ドライスーツの空気を抜き、BCの空気を抜いて沈んでゆく、のだが、足の方に空気が廻っていると、水平のままでは物理的に空気は抜けない。やはり、一度は身体を立てて、腕のバルブから空気を抜く、再び水平になってBCの空気を抜いて沈む。水深は1.5m-2m。ちょっとバランスを崩すと、すぐに水面に出てしまう。これが2.5-3mならば、楽なのだが、1.5は難しいが、かなり慣れては来ているから、まあまあ、うまくできている。今日の自分なりのテーマは、この水深で底に手も足も着けないで、浮いてすべてをやる。水底からは15-20cmで静止する。

   ポールカメラ、長さ2m 岸近くは少し見える。

20世紀のダイビングは、スキンダイビングが基本であり、スキンダイビングの延長線上にスクーバダイビングがあった。僕の書いた本のすべてが、そのように記述したし、そのような初心者講習をしたし、それで、すべてがうまく行っていた。20世紀のスタイルならば、簡単だ、45度の前傾姿勢でBCの空気を抜き、膝を付いてしまう。お台場ではそっと着地しないと泥を巻き上げて、濁してしまう。そっと着地する。移動する時はフィンで泥を掻き揚げないように、BCのボタンをチョンチョンの押して体を少し浮かせてからフィンを小刻みに上の方で使って移動する。フィンキックもフラッターキックだから、注意はするが、この浅さだと若干は、濁らせる。今は、膝を曲げてフィンを上にあげてフロッグキックで泳ぐ。ドライスーツだからバランスが難しいが、どうやら移動することはうまくできるようになった。今回は移動ではなくて静止である。

しかし、本当に何もいない。とりあえず行動半径の最先端である杭のあたりまでゆくことにする。距離にして300mぐらいか。フィンキックはすべてフロッグで行く。数回前までは、ドライスーツでのフロッグでは、進みが鈍い。移動はこれまで通りのフラッターで、静止した時だけフロッグにしていたが、練習のためすべてフロッグにしてから、かなり速くなった。水平姿勢が完全になっていれば、水の抵抗が少ないから、水中を進む限り、フロッグの方が速くなるはずである。
ポールカメラを自分にむけるように廻して、棒を前にだし、横に伸ばしたりして、自分のフォームを撮る。杭に到着して、杭の付着生物、ヒメホウキムシなどを撮ろうとする。しかし、どうも腰が浮いてしまって頭を上げて前を見ることがむずかしい。頭を上げると足が着いてしまう。ここの深さは2.5-3mだが、ちょっとバランスを失うと体が浮き始める。ストレスなく水平に静止するためには、もうちょっと腰を重くしたい。今、2キロだから、4キロにしてみよう。そうなると全体が2キロ重くなってしまう。ジャケットウエイトの7キロが重すぎる。この次は、ジャケットを4キロにして、腰を5キロにしよう。


 20世紀のダイビングは、こんな苦労は無かった。BCの空気を抜いてそっと着地して撮影する。身体が振れないから撮影ポジションも決まる。水温は10度、かなり冷たい。一番遠い、杭の部分で、トイレに行きたくなった。もどるのに10分はかかるだろう。難儀なエキジットをして、タンクを脱ぎ、ドライを脱いで、トイレに歩いて行くので10分、20分は持ちそうにない。歳をとったために、トイレは、行きたいと思った時から、出てしまうまでの時間が持てなくなった。とにかく戻ろう。フロッグキックだから、少し深度をとって、3-4mで少しスピードを上げよう。何とか持ちこたえた。

杭のあたりから戻りながら、戻る岸を見ると遠い。


午後の潜水は、腰のウエイトを4キロにして、あまり遠くに行かないで、静止しての撮影をやろうと決めた。何も撮影する生き物がいないので、ナイフで牡蠣をこじ開けて餌にしよう。多分カニが集まってくるはずだ。
生きている牡蠣と死に殻の牡蠣と、生きているのが30%ぐらいか。死んだ殻も、そのままの形で石についている。死んだ殻をナイフで開けたら、ギンポが飛び出してきた。こんなところに潜んでいたのだ。別の殻を開けると小さなカニが逃げ出した。生きている牡蠣を開いた。これでカニが集まってくるはずだ。集まるまでの間、他の死に殻を開いてみようカニが入っているはず。殻の50%にカニが入っている。これで20年近く、この場で潜っているのに、蓋の付いた牡蠣殻が、カニやギンポの家になっていることを知らなかった。そう思って見ると、家並が連なっているように見える。端からナイフでこじ開けるのは、家を破壊している行為になる。そんなことを考えながら、ナイフで牡蠣を突くと突けないで体がバックしてしまう。中性浮力の静止だから、ちょっとした力で動いてしまう。ゼロ・グラビティだ。

   牡蠣の死殻に隠れていたカニ

暖かい季節ならば、牡蠣を剥くとすぐにカニがきて、ハゼも来るのだが、今はなかなか集まって来ない。寒さで、動かないでいるのだろうか。
空気が少なくなったので、カニが集まるのを待てないで上がる。膝を付いて、フィンを脱ぎ、手に抱える。ポールカメラのポールを杖のように突いて立ち上がる。
風が少し吹いてきて寒い。
こんなところで自分は何をしているのだろう。79歳にもなって、立ち上がり、肩にずしりと重いタンクの重みに耐えて、足を前に運ぶ。今日は、お台場でお台場駅伝とかいうスモールな市民マラソンをしている。僕のダイビングもスポーツだと思っている。人は発生して進化する過程で、何万年もの間、駆けて獣を追いつめて狩りをして食糧にしていた。海に潜って、貝を取り、魚を突いて食べていた。駆けるのをやめ、潜るのを止めたのは、人類の歴史では、わずかちょっとの時間だ。身体を動かしていなくては生きられない動物だ。僕の場合は潜っていないと具合が悪くなる。
着替えて帰る準備をしたりしながらそんなことを考えていたら、本当に風が強く吹いてきた。僕の好きな冒険小説作家、アリステア・マクリーンの北海の世界のようだ。ありステア・マクリーンの小説、ほとんどは忘れてしまったが、北の海、吹きすさぶ風、凍る世界だ。ここお台場は、もちろん、凍りはしないが、寒い。僕は寒いと凍る世界の冒険小説を思い起こすことにしている。

 20世紀のダイビングと今の、21世紀のダイビング、くらべることもっと書くことがあるが、それは次の機会にしよう。

0129 ダイビングビズショウ

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 土曜、28日、日曜29日とDIVE BIZに通った。成功だったと思う。出かけて行く側としては、人と会えること、製品が見られて話しができること、それが気持ちよくできればそれで満足する。あ、と見かけて、話ができなかった人もいる。逆もあると思うので、失礼してしまったこと、声をかけにくい姿をしていたのではないかと心配し、お詫びします。それに、挨拶だけして、話しこまなかったブースもあって、これも心残り。だから、あまり大きくする必要もない。自然に大きくなればそれはそれでいいけれど。
ダイビングフェスティバルが終わりを迎えたころ、規模は小さくても良いから、ブースになるべくお金をかけない形で続けてもらえれば、そして、人と会う場を提供してもらえれば、いいな、とお願いしていたような気がする。そのとおりに実現されている。ゆったりとしたスペースで無料のコーヒーを飲めたり、お土産のガチャポンがあったりで、以前よりもサービスされている感じも受けた。
規模が小さくなったというけれど、もともと、このくらいが適正規模の業界なのだろうと僕は思う。蟹は自分の姿に合わせて穴を掘る。これを生態学という。僕もバブルに浮かれて、大きな穴を掘った経験がある。これで良いのだ。業界がまとまらないというけれど、全部がまとまる必要は全くなく、集まったところから、あらたな業界が発生し、お金があまりかからないのであれば、それぞれの事情で参加を決めて行けばよいのでは?。バブル崩壊以来、スタンダードが五分の一になったのならば、五分の一で判断して行けば良いのであって、鬼怒川パシフィックの内田部長がお昼をごちそうしてくれて、そのスタンダードで業績を判断して、去年はおかげさまで良かったという。

日本アクアラングは、やはり、日本の中心だろう。畠中さんからタオルとボールペン入りのカタログ袋をもらったから、中心だ。良い、高いレギュレーターが並んでいる。18万のレギュレーターと14万のレギュレーターの差はわからない。僕が買えるような、クラシックと名付けられている7万円ぐらいのものとどこが違うのだろう。要は空気が気持ちよく来ればそれで良いのだ。と、そういうことを須賀さんが言ってはいけない。いつも最高のものが良いと言わなければいけないと注意される。ごもっともだけれど、それなら、僕に最高のものを使わせてくれるメーカーがあれば、何でも言える。「79歳が楽々潜れるレギュレーター、全然苦しくありません。」とか、良いと思うけれど、そういう話は無い。
以下、僕の書くことは、全部、僕が買えない僻みから、言っていることで、無料で提供してくれれば、すぐに意見を変える。

タバタの今村さんが、新しいダイコンを見せてくれた。ソーラー駆動で表示も大きく、腕時計式だからとてもいい。80000円だ。日本アクアラングにも同じようなものがあり、カタログでは日本製と書いてあったから、同じタバタのダイコンは、大きいので着けるのを忘れることがしばしば、今度のこれならば、いつも時計の代わりに付けていて、忘れることがない。実は、腕時計型のスントを持っていたのだが、新しいダイコンをもらったものだから、うれしくて、スントは娘にやってしまった。

マレスのブースには、日浅社長が居た。ここも新しいダイコンが並んでいて、フィンもジェットフィンの新型みたいなパワープラナを紹介してくれた。そう、今度マレスが指導団体のSSIを買ったという。「ふーん、ではSSI のダイバーは、少なくともインストラクターはマレスの道具を使わなくてはいけないのかな。」もちろんそんなことはないだろう。けど、指導組織をメーカーが売ったり買ったりって、その傘下のインストラクターは、どういう風におもうのかな。

TUSA タバタでは、マスクを見て石川さんと、どれにマスクマウントを着けたらいいかとか話した。僕の意見ではどのマスクにも付けられるように接着剤とセットで売らなければダメだという事。これだけマスクの種類があって、好きなデザインが選べるのに、マンティスでなければダメというのでは、幅が狭すぎる。

ライトは、村上商会のライトを僕は2台、水没させた、水没するわけのない、円筒形のオーリングシールで水没させた。フィッシュアイのライトも2台水没させた。今はイノンの細い、1000ルーメンを2本使っている。これは、水没はさせなかったが、一台流してしまった。ライトに恨みは数々あるけれど、ストロボではなくてライトだ、と最新ダイビング用語事典にも書いた。それでもイノンのストロボは良くて、まだ使っている。
村上君は大好きなのだが、ライトは14万円とかで、とても買えない。フィッシュアイの今度のライトは良いかもしれない。ふたを開けなくて、そのまま充電できる、小さくて、1800ルーメンで、25%ずつの光量加減ができる。ビズショウ特別価格で28000円だという、ライトが少なくとももう一つほしいから考えてしまう。

3階になぜか上がっている、田中光嘉さんのところに行き、スポーツリブリーザーのエクスプローラーを見せてもらって背負って見た。23キロとかで、ナイトロックスを使って水深40Mまで潜れる。12リットルダブルと同じだけ潜れる。それで、価格は70万。とても魅力的なコンセプトである。一番高いレギュレーターが30万もすることから思えば納得できる価格だけれど、どちらも買えない。
 50Mならば普通のボンベで数数えられないほど潜って来た。というと、そういうことを僕が言ってはいけない。若い人が潜水とはそういうものだと思ってしまう。それはそうだと思う。東大教授の小久保君が、50Mなどをケロッともぐるのはそのためだ。何かがあったら僕のせいだ。一生懸命止めるのだが、かくれて潜る。その僕が、潜水は40Mまでなのだ。と言いつつ、80歳で80M潜るなどと、いけないことを口に出している。しかし僕はテクニカルダイビングで潜るつもりはない。有線通話のケーブルダイビングシステムで混合ガスで潜る。ケーブルを付けなければ40Mを超して潜ってはいけないということなのだ。ということにすれば、許されるだろう。

0201 雑感

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 月刊ダイバー3月号、連載、日本潜水グラフィティ最終回になった。24回の予定が27回にしてもらった。26冊のダイバーを書架に並べる。まだ3月号は書店にはでていない。
 須賀潮美が編集してくれたのだが、全くの書き直しもかなりあった。娘だから厳しいのかなとおもったりしたが、直すと必ず良くなっている。いい編集者になったのだなあ、と思う。最終回、ここまでの流れから少し時代を飛んで、どうしても書かなくては終われないことを書かせてもらった。「ダイビングの夢と冒険とは何だ、そして安全管理と危機管理についての事を書いた。良い終わり方、自分にとっては感動的だった。どうか、ぜひ買って読んでください。

 絶対カットされるなと思いつつ、坂部編集長と潮美に謝辞を書いたが予想通りにカットされていた。 
この終わり方は、これで一番良かったと思うのだが、もう一つの終わり方、これまでの26回分を振り返ってようやくして終わる終わり方も考えた。

 サマセット・モームの自伝的な「要約すると:summing up」という作品がある。内容は忘れてしまったのだが、タイトルだけは覚えていた。最後に人生は経糸横糸を編んで行くタペストリーのようなものだというところが印象に残っていた。と思っていて、もう一度読もうと図書館で目を通したけれど、ちがった。これは、別の小説「月と六ペンス」と混同していたことがわかった。「月と六ペンス」は、ゴーガンをモデルにしたモームの長編ではベストだろうか。つまり、僕の潜水人生の要約、summing up にしようかと思ったのだった。
潜水、ダイビングの意味、それにかけた人生の意味は、何だったのだろう。
ブログに書きかけたけれど、容易にはまとまらない。


 ビズショウ、フィッシュアイのコーナーで、漏水感知のパイロットランプが点滅する仕掛けをみた。一緒に見ていた倉田君と話し合う。
ランプが点滅した時、安全停止もへちまもなく、毎分23mぐらいでまっしぐらに水面に駆け上がるのだということを、よく考えないといけない。若いころ、もちろん僕も一直線に水面に駆け上がった。
先日の西川名での水没では、カメラを犠牲にしした。僕だけが急浮上したら、一緒に潜っている仲間が心配して、一緒に急浮上するだろう。カメラよりも安全、物の損害はお金で解決できる。人の損傷はお金では解決できない。
安全のためには、ハウジングに入れる中のカメラを防水にしなければいけない。初心者が使うコンデジは、防水のカメラをハウジングに入れたものを使うべし、一人前のカメラマンならば、ケースバイケースで、カメラを捨てる覚悟が必要だとおもう。昔、カメラマンしていたころ、ビデオのハウジングは、大きいので、コップに一杯ぐらいの浸水ならばなんともなかった。ニコノスⅤの浸水は日常だった。僕のカメラの保険扱ってくれるところが無くなって、中村宏治にその話をしたら、保険屋を紹介してくれて、中村宏治の紹介だと言ったら、即断られた。

   水没した僕のキャノンデジタルX  左に見えるのは、中古を18000円で手に入れた。新品同様だった。



 忙しいプレッシャーの中で、本だけは読む。柳澤桂子 「いのちと放射能」1988年に書かれた薄い本だ。彼女は先天的異常の研究者だ。文庫になったのが2007年、放射能がDNAの螺旋を破壊する話を書いている。研究者にとっては常識だろう。僕だって知っている話だけど、読んだ本に託さなければ、僕が言える話ではない。
この本では遠く離れたチェルノブイリの放射能を日本の若者が浴びたことを懸念している。今、日本の福島の放射能も世界に広がる。子供が生まれた時、誰でも、手の指の数、足の指の数を数える。放射能の影響による先天的異常についての研究、福島が研究のメッカになるだろう。チェルノブイリがそうなったように。この前、高木仁三郎という人の作った基金の補助金に応募した。通らなかったけれど、この人はチェルノブイリでの研究で成果をあげた。僕ら、一般大衆は、発言できない。発言しても相手にされない。何の効果もない。ただ、発言しているひとに投票することはできる。
「何、原発反対に一票を投じた?君のところにはもう、仕事はあげないよ。」田 神さんに投票しましたと言うこともできる。僕はそう言うつもりだ。
もう一冊これはまだ読みかけだが、ジャレド・ダイヤモンド 「文明崩壊」草思社文庫、文庫は2012年だが、単行本は2005年、放射能被害の話は扱っていない。「いのちと放射能」も1988年の出版だ。


0202 横澤君

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 元社員、横澤敏和君が亡くなった。

 横澤君は途中入社で、僕と一緒の仕事は少なかった。一度くらいかと記憶している。日体大の卒業で、体力は抜群だったし、何でもできた、主には女川の原発前の調査を担当していた。植物(海藻)に熱心で、東邦大学の海藻研究の修士課程に入学した。理系ではないので、特別試験を受けて入学した。修士、一年目の時、女川で潜水しようとした直前、激烈な腹痛で倒れた。もしも潜水していれば、どうだったろう。また原因不明の死亡事故だったかもしれない。入院検査の結果、リンパ系の癌で、もはや末期、日本では例が少なく、助かった例はほとんどない。抜群の闘志で戦い、奇跡の生還をして、修士課程も卒業した。ダイバーは、やめて、高校の生物の教師になり、子供も生まれた。普通に働いていて、普通に夜やすんで急死した。享年46歳。
 もう、癌になってから、ちょっとの隙間を見て、僕と会い、結婚前の奥さんと一緒に写真を撮った。
 ここには出しませんが、本当に幸せそうにわらっています。
 彼女と結婚して、子供が生まれ、5歳まで、そして急死、神様がくれた時間だったのだろう

 お通夜でもらってきた、奥さんのメッセージ

 パパ、ありがとう、共に過ごして日々をわすれません。
 中略
 いつかこんな日が来るのかと、覚悟はしておりましたが、別れの時を迎えた今、心構え儚く、思い出の数だけ涙が流れます。
 それこそ何十年分に値するほど、5歳になる娘の佳澄を心からかわいがってくれました。 後略」
 
 長く生きるだけが幸せではない。横澤君のことをうらやましいと思っている。


 横澤君が居た頃の、作業場の彼のデスクです。彼の作った標本が下の段にあります。僕のオフィスカオスとは段違いです。反省するけれど。。。。絶望

0202シンポジウムー1

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   0202 シンポジウムが無事終了した。目標は、①人数は東京海洋大学楽水会館を埋めて、盛況に見えること、②参加者がみんな喜んでもらえること、③参加者のダイビングライフのためになってもらえること だから、ほぼ目標を達成した。
 目的は、ダイビングの運用(オペレーション)についての学会のようになることだ。言葉を変えれば、「ダイビング活動研究」である。
 繰り返していることだが、ダイビングは安全に目標、目的を達成すればよい。その目標、目的は、楽しみ(レクリエーション)、スポーツ、科学(調査)、作業業務だ。
 ダイビング事故とは、運用の失敗に原因があり、結果の一つが減圧症であり、溺水であったりする。原因を絶たなければいけない。

 プログラムは、下記
第3回JAUSシンポジウム
開催日 2014年2月2日(日)13:00〜17:00(12:30受付開始)
   ※17:30より懇親会(参加費500円)をおこないます
会 場 東京海洋大学品川キャンパス楽水会館

シンポジウムプログラム
1.1300-1350
南部もぐり(ヘルメット潜水)の伝統と各潜水機実習  
  岩手県立種市高等学校 海洋開発科  下川 顕太郎
     コメンテーター 須賀次郎
2.1350-1430
中央大学海洋研究部の活動紹介
  関東学生潜水連盟 中央大学海洋研究部
    中央大学海洋研究部  藤島靖久 監督  齋藤慶介 主将
 
3.1430-1510
ダイビング事故防止について事故当事者の視点から         
JAUS会員   田中恒明
コメンテーター 久保彰良

4.1510-1550
レクリェーショナルダイビングと人工魚礁
   独立行政法人水産総合研究センター 
          水産工学研究所 高木儀昌 
 ☆ プライマリーコース・アンバサダー 称号授与
5.1600-1700
ウエアラブルカメラ研究会映像作品発表
        コメンテーター  齋藤真由美

 総合司会  早稲田大学先進理工学部 教授 中尾洋一 
 
 懇親会、ワンコイン会費で隣の学生食堂で1930ごろまで

1.南部もぐり(ヘルメット潜水)の伝統と各潜水機実習  
  岩手県立種市高等学校 海洋開発科  下川 顕太郎
     コメンテーター 須賀次郎



 岩手県立種市高等学校 海洋開発科 には、立派な施設(訓練プール)があり、潜水実習船があり、充実した教育カリキュラムがあって、日本で唯一の、「潜水を高校生に教えている」学校である。

 この学校の潜水教育の核心は、ヘルメット式潜水「南部もぐり」である。
今、ヘルメット式潜水は衰退しつつあり、工事作業潜水では全体の10%、海産(漁業)潜水では、全体の20%である。海産は、全体が衰退しており、資源保護のためもあるので拡大が望まれるとしても最小限度である。その中で、なぜ若者たちにヘルメット式潜水を教えるのだろうか。そのなぜを聞きたかった。予想もしていたのだが、発表で十分に分かった。


 ①、もしもこの学校がヘルメット式潜水をやめてしまえば、この潜水機の技術が消えてしまう。南部もぐりという形で、一つの海の文化になっている。
 ② 潜水も、武道、スポーツと同様に、心・技・体が根本である。潜水は、その三つのうちで、心が最も重要と考えられるのだが、その心の教育指導が、意識されていない。実は、安全のためにもっとも重要な部分である。その心の指導が、南部もぐりというかたちでのヘルメット式潜水実習の目的なのであろう。
 ③ 潜水を歩く潜水、泳ぐ潜水に分けて見た時、作業潜水の送気式は、歩く潜水機である。そのうちで、デマンドバルブがついた全面マスク式は、習得が容易である。容易であることが、90%を占める理由になっている。ヘルメット式は習得が容易ではない。だから、ヘルメット式を習得すれば、作業潜水のすべての技術を習得することができ、全面マスク式は難なくできる。種市では全面マスク式のハードハットも練習しているが、それは、潜水の練習ではなくて、切断、溶接の練習という形のようだ。これは3年次にやるのだが、おそらく、1年、2年で、ヘルメット式を習得していれば、ハードハットは何の問題もない。ヘルメット式は頭で排気弁を押して、浮沈、バランスをとっているが、ハードハットでは、このことは何も必要ではない。


 懇親会の席上で、JAUSで、この学校への体験ツアーを定期的に、できるだけ数多くやろう。その時、こちらからも21世紀のダイビングの指導もおこなうことにしようと話し合った。
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