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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1114 式根島ー1

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  旅の記録をAEEで、スチル、5秒間隔のインターバルで撮っている。マッチ箱を少しばかり大きくした程度でポケットにもどこにもはいりやすい。日付とタイムが秒単位で出る。
 画像の質はGoProの方が良いが、記録には十分だし、何か味があるような気もする。

 これは、11月2日、東京海洋大学の学園祭、海鷹祭だ。
 こういう雰囲気、こういう空気の日だった。
 空気を撮っている。自分の気持ちを撮っている。だから、こんな絵が好きだ。この日、こういう気分、こういう空気だった。


そして11月12日夜、東海汽船で式根島に向かう。


     レインボウブリッジ。

超広角は目の視野と同じ、170度、見えたもののすべてが入る。見えた通りには写らないが写り方を感覚的につかめばおもしろい。どうにもならないような失敗でもなんとなく味がある。その場の空気をうつしている。

朝起きてお腹が空いているが、船のスナックは開いていない。
400円の焼きそば、意外においしい。

 カメリア丸は、伊豆大島、利島、新島と各駅停車して9時に式根島についた。
 11時から潜水という。「よし!」行こうと腹に力をいれる。しばらくぶりの海、お台場は海とは言いにくいから、本当にしばらくぶりで、ちょっと壁が感じられる。式根島は、想像していたよりも寒い。
ところが、
 午前中は、潮が速いとかで、午後2時からの潜水と決まった。午前中も、潮のないところで予定通りに、11時に潜ってから2時に目的の場に行きましょうと提言する。なるべくたくさん潜りたいからなのだが。
 では、と、船を出してくれる式根島ダイビングサービスに行ったが、すでに早川さんは、出かけてしまった後。それでは、一時頃から支度して、とにかく2回潜ろう、ということになった。


 それまで、式根島をぶらぶら見ることにした。人の居ない海水浴場、地崩れの心配でクローズされている地鉈温泉、なぜ、式根島に来て駄菓子屋、駄菓子を買ったりして時間をつぶし、昼食を食べようと店を探した。思っていたとおり、食べた玉丼はまずかった。

 せっかく久しぶりで海に行ってもぐったのだから、2回に分けます。

1115 式根島2

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  松の下温泉のすぐ近くの式根島漁港から船を出して、ほんの5分も走らないところでの潜水。釜の下沖、下着のバッグを民宿においたのだが、そのバッグにダイブコンピューターを入れて、出すのをわすれた。浅い水深だから問題ないが、記録に困る。
 ドライスーツで、ウエイトを8キロにした。8キロのベルトはバックルが甘くなっていて、ベルトがずれる。これも、まあいいか。潜りながら締めなおすことが何回かあるだろう。
 8キロは少しオーバーだが、それでも潜り込む時はヘッドファーストで入った。ヘッドファーストになると、ドライスーツの足に空気が廻る。水面で十分に空気を抜けばいいのだが、3m潜れば、ちょうどよくなるからサボる。


 カメラはキヤノンの一眼にGoProを取り付けてイノンのライトを2本つけた今のメインシステム、少し重いのでカメラを海底に置くと、0.5キロぐらいの浮力差ができる。
 中尾先生の採集の手伝いをしながら、採集物も一応撮っておく。
 中世浮力で水平姿勢など、ドライスーツで波で揺られると、とても無理。
 年年歳歳ダイビングが下手になる。


   右は町田君、左が中尾先生、


  ややこじつけだが、こう考える。安全とは、その潜水で一番フィジカルの弱いものにペースを合わせる。今現在の僕はフィジカルでは、この3人の中では一番弱い。年齢順という生物の宿命だから仕方が無い。その弱いものが、経験の深いダイバーで自分のペースで潜っていて、それがチームの中心で、それに合わせているチームは絶対的に安全。スーパバイザ―は安全に、目標を達成するためにいるのだから、例えば、今のトップダイバーのだれかと潜るより、僕と潜る方が、この目標に関するかぎりは安全だ。ということにしよう。目標の採集はできたらしい。最後の夕方のダイビングは、僕が潜りたがったから付き合ったようなダイビングだった。中尾先生はネットを持たずに潜る。

 
 浮上して、ボートが来てくれる。どうもこの時の写真が好きだ。
 その時の気持ちを撮る。ボートでのエキジットは、不安がある。うまく上がれるかな。

 夕食は、またAEEの記録。

 ブダイの唐揚げがでた。ブダイは、海藻を食べる植食魚、植食魚なんて不味くて食べられないものと頭から決めつけていた。食べて見たら、おいしい。魚嫌いの僕がおいしいというのだから、魚好きは、さらに美味しいとおもうだろう。メインがブダイとカンパチの刺身だから、貧弱だが、おいしかった。
 
 帰りは、式根島から新島―利島―大島までカメリア丸で、大島からジェット船にのりかえる。なぜ式根島からジェットで帰らないかというと、大島からのジェット船は秋から冬は運航していないのだ。

     これはGoPro、AEEはバッテリー切れ。
 式根島―新島への途中、右が式根島、左が新島だ。遠くに三宅と御蔵がみえる。三宅と御蔵の間は近いのだなあとおもう。ジェット船が1隻増えるというから三宅まで行くだろうか。そして、このカメリア丸も引退、新しいたちばな丸にかわる。先代の橘丸は、ずいぶん乗った。覚えているのは中学の遠足で伊豆大島に行き、橘丸で初めての船酔いを体験した。戦時中の船で、一度撃沈されたものを引き上げて使っていたという。
 さて、伊豆大島にタンクを数十本積んで潜りに行ったのは、菊丸だったか橘だったか、まだダイビングサービスが無い時代のことだ。
 東海汽船はすべて花の名前がついている。菊、橘から、サルビア、カメリアになり、新しくまた橘に、漢字に戻る。


      これはキャノン1眼

 戻ってから、画像を整理して、ショッキングなこと、キャノンの一眼の絵よりも、上に載せたGoProの方がきれいでシャープなのだ。しかもGoProは動画から切り出した静止画だ。一眼はストロボを光らせないとシャープにならない。50万以上のカメラを買う仕事はしていないし、調査の記録と、ブログの記録にとどめるならば、ウエアラブルカメラだけでもよい。現在の僕のカメラの使い方は、海底に置く、放り出しておくから、高価な、しかもドームポートのカメラは使えない。TG2で、GOPROと併用するベースを作ろうか。ライトを強力にすれば、今のままでも良いかもしれない。今、あるもので間に合わせるとすれば、やはり、ストロボにもどろうか。まあ、テストをいろいろやる楽しみが増えたとかんがえよう。

 

1118 JAMSTEC研修

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 飼われている猫は、飼い主ともども幸せならば、それでいい。僕は、ノラの在り方、在るべき姿、人がノラとつきあうあり方を考えてしまう。野良猫は唯一、人と、人のテリトリーで共生している動物である。前にテレビ番組で新宿繁華街の野良猫のドキュメンタリーを見てなるほどとおもったことがある。猫のテリトリーを撮っていた。生態学的にすごく面白いとおもうのだが、研究している論文はあるのだろうか。
猫に会うたびに写真を撮っている。式根島の猫は、本当の野良だった。人を見ると逃げる。福島県久ノ浜の猫は、逃げないけれど、別に愛想もない。昨日JAMSTECでの猫は、すり寄ってくる。餌をもらって豊かな生活をしているらしい。
猫として、どうあるのがよいのだろうか?
 
JAMSTECにいる地域猫

JAMSTECでのプライマリーコース、今後、このプールの水温は下がる。温水プールだが、燃料費が節減されているので、暖めるのに費用がかかる。僕たちにはその費用は負担できない。現在でも、赤字であり、存続するためには抜本的に考え直さなければならない。明日の理事会で、議論する。
 
訓練プール全景 一枚で全景が撮れてしまう。
久保君はスポーツリブリーザーの試用、富永君はサイドマウントの練習

良いところはたくさんある。トリムを取っての水平姿勢は、次第に全体的な流れになりつつある。僕自身は長年のスタイルが身に沁みついているから、切り替えはほぼ困難。三月もやれば、できると思ったが、三年たってまだ上達しない。人に見せられるような形にはならないということだ。

このプールでは、ドライスーツのトレーニングをしている。
ドライスーツもシェル素材のものが良いのか、スポンジ生地の従来のものが良いのか、考える。薄い生地の方が動きは楽である。保温も下に着こむアンダーウエアが良いものであれば、十分だろう。つまり、素材の進歩で、次第に時代はシェル素材に移りつつある。器材を売ってのビジネスがある人は、最新型のものを身に着けて、それがサンプルとなって売れればそれで良いので、歩く広告塔のようなものだから、それでいい。僕は、とにかく今あるものを活かしてダイビングを続ける他ない。選択枝はないのだ。
それにしても、ドライスーツの大勢が変わるとなると、メーカーは大変だ。僕たちはその変化をダイビングビズショウなどの出展社の様子をみるのだが、そのダイビングビズショウが、今年の開催はどうだろうか。1月の28日、29日だとか、決まるのが難航したらしい。ダイビング業界というと、僕の概念では、器材を作るメーカーと販売するお店たちであるが、一年に一回の業界のお祭りとなるべき、ダイビングビズショウを、盛んに行うことが出来ない。もしかしたら、中止になってしまうというのは、だらしのない話だ。応援できる力がこちらにはないから、何も提言できないが。。。

もう一つ、JAMSTECのプールではフルフェイスマスクに慣熟するトレーニングをしているつもりだ。フルフェイスマスクは一人では脱着しにくいのだが、ここでは一人でやってみる。ドライスーツを着て、フルフェイスマスクを着けて、トリムとフロッグキックの練習をする。
もちろん、僕のやるべきことは、責任者でありプロデューサーだが、トレーニングもしておかないと、潜水がますます下手になる。
 

1120 スクーバ機材のセッティング

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 昨日1月19日のJAUS理事会、講習会の検定について、1時間でできるか、2時間必要かという議論をした。僕は、検定科目くらいのことは、流れるように1時間でできなければいけないという論だった。
 1時間ではとても無理、急がせれば、事故のもとになる。安全なプールで時間を区切ったとして、何が危険なのか、単に出来るかできないかだけの問題だろうと、僕は理解していた。その中で、セッティングにかかる時間が10分間とかいう意見があり、タンクにBCとレギュレーターを着けるだけならば、1分もかからないだろうという僕の意見。そして、セッティングには素早くそして確実にということが要求される。
 しかし、久保君、吉田君、石川君は、セッティングは落ち着いて確実にやらなくてはならない。落ち着いて確実にやった、そして速い方が良い。のろい人は練習不足、というのが僕の意見、ただし、テクニカルダイビングとか、リブリーザーのセッティングは所定の時間が必要であるから除外。議論をしたが、考えてみれば、今の僕は一番遅い。ダイバーには高齢者もいるからと折れた。要は合格のレベルをどこに置くか、であれば、多数派が正しい。しかし、何分でできるかのスタンダードは、決めておく必要がある。練習で素早くできる人が、落ち着いてゆっくりやれば間違いはなくなる。
 検定ということが、確かに事故の元になる。そんな例を見てきている。しかし、その中では速度を競うには、安全度が高いし、社会的にも許容される。
 その昔、僕は何事によらず、速度重視だった。泳ぐ速度、船に上がる速度、セッティングの速度、すべてが手早いことが要求される。出来れば、目を閉じていてもできるのが習熟ということだ。
 僕の要求しているのはプロのレベルであり、のんびり楽しくのレクリエーショナルダイビングでは違うというのが皆さんの意見。僕は、プロもアマもない下手は下手であって、プロはもちろん下手はこまるし、レクリエーショナルダイビングでも下手でよいということはない。しかし、ここではそれ以上の議論はしなかった。


 セッティングについては、海洋高校、水産高校の技術コンテストがある。潜水甲子園という別名で、毎年茨城の海洋高校、潜水プールで行う。確実にできていなければ失格、の条件で速さを競う。他に中性浮力、フリッパー競泳などの種目がある。それももう、8年の彼方だ。
 JAUSでは、この海洋高校、水産高校の技能のあり方についても提案し、指導する先生たちに、僕たちのやるプライマリーコースに来てもらおうと思っている。中性浮力については、考えを新しくしてもらえるだろう。ただ、文科省が決めたカリキュラムがあり、今度は日体大の先生がテキストを書くらしいから、これも錯綜した話になるだろう。
 消防などの救急を業とする潜水にも、このセッティングの競技会があるのをみたことがある。セッティングの速さの問題、根が深い議論があるかもしれない。実際にやってみて、スタンダードを決めることが出来ればと願う。

 これから、ダイビングの基本的な技術も大きく変革してゆく、指導する団体のプログラムも差が出てきて、しばらくは混乱状態が起こるかもしれない。
 

1122 ウエアラブルカメラ

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 ウエアラブルカメラが流行しつつある。今度また新しい機種が売り出された。これも中国製で20000円を切る。今僕の使っているAEE SD21とほぼ同等の性能だと思う。
ウエアラブルカメラの元祖であるGoProがでたとき、これで、カメラというものの概念が変わるとおもった。そのことは最新ダイビング用語事典に書き、以来、フォーラムでも発表し、JAUSでもウエアラブルカメラ研究会を立ち上げた。
  

    AEEで撮った。少し画角を狭めた設定

    GoProの動画から切り出した静止画、一枚の画ですべてが説明できてしまう。
    

 多分、記録の道具としてのカメラはこのタイプが、全盛のカメラになるだろう。スマホと同じデジカメはほとんどいらなくなる。そのまま発信できるスマホと競り合うには、何か強烈な特性がほしい。何度も書いているから繰り返さないが、人間の視角.と同じ160度、軽量、安価でコストパフォーマンスが良い。160-170度という画角は目に見えるもの、すべてを一枚で記録してしまう。家族の記録、旅行の記録、科学的研究のための記録は、これでいい。そして、もう一つの重要なポイントは、動画と静止画が撮影の上では一緒になったことが挙げられる。動画で撮っていて、コンピューターの上で静止画を切り取ることが、容易に、当たり前にできてしまう。そして、その静止画は、研究発表の印刷物、そしてSNSの画像として使える。今、僕が担当している、全国豊かな海づくり推進協議会の機関紙「豊かな海」の表紙に、GOPROの動画から切り出した静止画を使って見ることにした。まだ、雑誌が出来上がって来ないが、冒険である。もし、成功すれば、今後も使って行こうとおもっている。
それはチャレンジだが、本当に良い写真、良い写真という意味があいまいであるが、本当に自分の表現したいものを追求するには、ウエアラブルカメラでは無理だ。少なくとも陸上では、ウエアラブルカメラは、単なる超広角の小型カメラでしかない。望遠もマクロも、ズームもできない。露出をいじったりしての絵作りもできない。もしも、写真展を開く、写真集を出そうとするならば、このカメラで撮った画は10枚のうちで1枚つかえるかどうかだろう。
それでも、その場の空気を撮影するのには、超広角の超小型カメラは、他の追従をゆるさない。僕は、GOPROが出る前から、170度超広角レンズを使って35mmカメラで撮影していた。
水中では、これはもう広角の世界であり、広角以外のレンズは特別のプロでなければ使いこなせない。そして、さらにガイドダイバーやインストラクター、あるいは作業ダイバー、さらには調査のダイバーでも、消防でも海保でも水中で何かをしようとするダイバーは、大きい一眼のカメラを持ってはいけないし、一眼のファインダーなど覗いてはいけない。バディから目が離れれば致命的な事態も考えられる。バディが危急の場合にはカメラを捨てて助けなければならない。多くのプロのカメラマンダイバーが一人で潜りたがるのはそのためである。撮影することを犠牲にしなければバディシステムは成立しない。大きいカメラを持ちながら、何がレスキューダイバーだ。何かがあってレスキューしなければならないとき、まず、命よりも大事な高価なカメラを捨てなければならない。どうしてもバディで撮影をしたい場合には、ガイドダイバーを雇わなければいけない。僕は何時もそうしてきた。だから、良く仲間と話をしていて、ガイドダイバーについての概念と視点がまったくちがうので驚かれる。カメラマンにとって、ガイドとは自分の目標とする被写体を探してくれる人だ。あるいは、後ろにぴったりとついていて、カメラを数台持つ場合にはそれを持っていて手渡ししてくれる人、だから、当然、大きなカメラを持っているガイドダイバーなどはありえない。ガイドダイバーでもあるカメラマンはおそらくは一人で行動しているだろう。あるいはチームで動くときは、常に一人で撮影をしていて、バディも撮影していて、目のとどくところにいるようにする。
要するに、撮影に専心するプロ級のカメラマンでなければ、大きな一眼はもってはいけない。ウエアラブルカメラは、ガイドダイバーでもインストラクターでも、マスクマウントで持って行くことができる。そして、それは安全のための監視記録にもなる。
だから、水中では、ウエアラブルカメラが絶対であり、絶対に必要なカメラである。
しかし、僕自身も未だ試行錯誤の途上である。一眼は手放せなくて、一眼の上にGoProを載せて両方で撮ったりしている。そして、驚くべきことに、僕の撮影スタイルでは、メインの一眼よりも二階に乗っているウエアラブルカメラの方が使える画になることの方がおおいのだ。
一眼はストロボを光らせて、はじめてウエアラブルカメラよりも良い結果になる。ストロボを光らせて、良い写真を撮るためには、長いアームが必要であり、大きなはさみを振りかざすカニさんのようになる。このカニさんの扱いが神業にならないと、プロのカメラマンとしては落第する。今売出しのカメラマン、鍵井君は、カニさんの扱いが巧みで感心した。つまり、一眼で良い写真を撮るのは、容易なことではない。
現在、プロのカメラマンダイバー、これからプロを目指すダイバーは、頑張れば良い。
今現在でも動画のプロは、ウエアラブルカメラの使い方が巧みでないと、プロとしてやって行けない状況にある。

とにかく、ウエアラブルカメラは、少なくとも水中、あるいは海の上では、必須の道具になった。
陸上でも、記録用、家族の記録用には、このカメラがスタンダードになるだろう。他にアイホンを持っていれば、十分だ。僕はスマホで撮る写真はあまり面白くない。この170度広角が記録としては、良い。

水中の記録用として、僕は、GOPROのHERO2が3台、これが主力である。3のブラックが1台、これはバッテリーの持ちが、2の半分だ。少しばかり小さくするためにバッテリーも小さくしたのだろう。僕のブラックは出たばかりに買ったので、その後で出たブラックはシルバーはバッテリーが持つというのだが、持っていないからわからない。他にGoProは最初の型である9607を2台、他にAEE SD21を1台、あと2台これを追加する。これはスチルでインターバル撮影をする。陸上でポケットに入れておくのも、これが、惜し気が無くて良い。光が十分にある陸上ならば、きれいに撮れる。合計9台を使う。そんなにたくさん、何をするのだ。これから、おいおい結果を発表する予定である。
今度出るカメラも良いみたいだが、機種をそんなに増やすと、それぞれバッテリーがちがったりするので、今のラインアップで良い。

1123 東京湾大感謝祭

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 1123 東京湾大感謝祭。何に感謝するのかよくわからん。と言って、チラシを見たら、「東京湾の恵みに感謝しつつ、みんなで力を合わせて「世界に誇れる東京湾」へ再生させましょう」第14回東京湾シンポジウム てある。一般財団法人みなと総合研究財団、が東京湾再生官民連携フォーラム企画運営委員会事務局、すなわちそういうことだ。

 ゆりかもめに乗って行こうと思っていたら、フェイスブックで行くことを出したので、石川さんが一緒に行ってくれることになり、彼の車で行けることになった。

   科学未来館の吹き抜け 

ビッグサイトでは自動車ショーがあり、お台場の駐車場は満員。会場のタイム24が科学未来館の近くなので、科学未来館の駐車場に入れた。ここは穴場である。科学未来館に言ったら、未来館のなんというのか、研究員かな、の三ツ橋に会って行こうと呼び出した。彼女の担当する3階の展示は、説明がなければ理解できない。説明されても理解が困難な科学であった。

 宇宙船のトイレ、無重力だとどうなるのかな。

  宇宙食

 毛利さんが館長であるから、宇宙船関係の展示、そして、JAMSTECの深海6500の展示もある。JAMSTECの展示は、訓練プールの使用でお世話になった、米倉君が定年退職後、説明のボランティアをやっているとのこと、もしや、あえるかと期待したが、今日は出ていないということで残念。
 日本は海の国だが、もはや人間が潜る有人潜水は科学としては終わっている1980年代までの海底居住時代ならば、ダイバーの展示があったはずだが、今、ダイビングは、レクリエーションだけが目的、目標であり、もはや何でもない。テクニカルダイビングもレクリエーショナルダイビングに位置づけられる。JAMSTECにもダイビングを研究するセクションは過去のものになっている。JAMSTECで事業としてやっているダイビング研修は、消防と警察だけだ。水中科学協会が頑張ろうとしているが、まだ力がない。僕の力は年齢とともに衰退の一途をたどっている。最新ダイビング用語事典を出したりして、力を尽くしてはいる。


 さて、肝心の東京湾大感謝祭だが、僕の展示は、これまで撮ったお台場の映像をだしてくれと頼まれて、1998年の分、2012年の分、2013年の分を編集して出した。三つは、余分だった。2012年の分だけで良かったと思い。どれかを選んで映写してくださいと書き添えたつもりだったが、三つつなげるという。どうせ、見る人も無い展示、なぜかと言えば、こういう展示で,メインスクリーンで履ければ、見る人もいないのが常だから、と思ったのだが、まあいいか、せっかくだから、それにお客は見てくれなくても、少なくとも運営委員会の人たちは見てくれるかもしれないから、と出した。

東大の鯉渕先生のインターバルカメラが左隅に写っている。もっときちんと撮ればよかった。
 みんなの後ろに、お台場の映像のモニターがある。

  予想通り、足を止めて見ている人とてなかった。関係者一同、娘の潮美も取材で来ていて、展示モニターの前でばったり、お台場潜水の尾島さん一家と歓談したが、全員、モニターにはお尻を向けている。映像の映写は、僕たちのフォーラムのように、巨大スクリーンで、映画のように映写して暗くしなければ、みてもらえない。そういうものなのだ。このような、映像の価値とは、記録なのだ。それにしてもお台場の映像は地味すぎる。大きなモニターで、イシガニが鋏を振りかざして、攻撃してくるカットだけをくりかえし映写するなどすれば、立ち止まる人もいるだろう。

 場所は、タイム24の玄関エントランスみたいなところでの展示であり、それでも目標3000人とかで、ずいぶん知った人とは会えた。1000人ぐらいは来たのではないか。盛会だった。やはり、14回ぐらい続けないと人は集まらない。JAUSのシンポジウムは、ようやく来年2月の開催で3回目、目標は90名である。僕は5回までやれれば上等で、それまでに10回、20回と続けられる基盤を作らなければいけないが、困難を極める。とにかく続けなければ、いけない。
 大感謝祭、盛会で良かったが、一つだけ気になったのは、東京湾で遊ぶ、マリンレジャーとして、ジェットスキーの展示があったことだ。この前,運河に突っ込んできて、波打ち際をこわし、お台場に入ってくるというので、海保に見張りを厳重にするようにと厳重に申し渡されている。やるのならば、どこか場所を限定して、迷惑をかけないようにやってもらわなければいけない。そして、公園とか海水浴場、干潟などには決して近づかないようにとお願いする。そのために来てくれているのならば良い。

1124 お台場

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1124 お台場潜水

今日のお台場は、サンタマラソン大会
 ダイビングの数をタンク本数で数えるようになったのは70歳を過ぎてからだが、どんどん減ってゆく。 120本、100本、70本、最低50はキープしたい。お台場潜水が定例で月に一回、毎回2回潜るとして、これで24回、今年は80は行くだろう。プールは数にいれていない。でも、タンクの本数を数えるようになっては、、、、でも、本当のところ60年で何本潜れるのだろう。案外少ないような気がする。平均して、150とすれば、9000か。
 今日のお台場は、棒の先、ウエアラブルカメラで潜った。
 
透視度は、浅瀬ではとても良くて、それでも濁りの雲が、ところどころにある。午後、潮が上げて来たら、ずいぶん濁ってしまった。
午前中、ほとんど生き物が見つけられなかった。いつも居るアカオビシマハゼとかトチチブぐらい、それも少ないのだ。撮るものが無いから、自分を撮った。棒の先にカメラを着けると、水中で自分撮りができる。


昼休みにみんなに聞いてみたら、とにかく小さい、豆粒のような稚ガ二が多いという。
午後は、泳ぎまわらないで、ここぞと思うところで、停まってみることにした。止まっていると、小さな生き物が動くのが見えてくる。こちらが動いていると、生き物のかすかな動きが感知できない

   カニが牡蠣殻の中に隠れていた。中でこそこそ動くのでわかってしまう。

それでも思わしくないので、奥の手を使った。生きている貝、ミドリイガイを潰して、餌にする。3分も待つと、どことなくこそこそと牡蠣殻が動いたり、岩の下から、親指の爪ほどのカニが這い出てくる。ハゼの類も2-3尾集まってきた。いい感じだなと思ったとたんに、濁りが押し寄せてきた。

   左から濁りが来た。


それほど、頑張って撮るほどの被写体ではないから、この手はこれで終了とした。しかし、この撮影で、撮影技術的に、間違いをしていることがわかって、改良点が考えられて、有意義だった。間違いの内容は企業秘密。あ、秘密って書くと嫌な気分になる。たいした秘密ではなくて、コロンブスのゆで卵のようなものだから、次回に試すことにした。

久しぶりに一眼に長い玉を着けた。

尾島さん親子です。沙海ちゃん(たしか)大きくなった。この前、お母さんに手を引かれて、羊蹄丸のポンツーンに来ていたのに、もう、そろそろ大学だ。彼女のブイは、可愛いアヒル、お父さんは蛙。僕たちはただの赤い玉のブイを引いて潜る。僕たちはただの赤い玉のブイを引いて潜る。

一日中、良い天気で、気分が良い。
ところで、今回で、この潜水も、数え始めてから102回になった。定点で見ていると、いろいろなことが見えてくる。昨日の東京湾大感謝祭にビデオを出したが、やはり、説明する人が居て、資料を渡して展示しないとわかってもらえない。友達の東大の鯉渕先生も展示していたが、つきっきりで説明していた。これならば、わかってもらえる。見習わなくてはだが、余裕がない。しかし、考えなくては。シンポジウムで、とも考えるが、吉田君は、僕が発表したりしたら、次の人たちのスペースがなくなるという。その通りだと思うから、別のところで、別の機会に提案しよう。

潜水技術的には、ジャケットウエイトを4キロ、腰に5キロ巻いたが、これは失敗。いつものように、ジャケットウエイトが7キロ、腰に2キロが正解。もう4キロのジャケットは使わない。鈴木君に言わせれば、僕は何度も同じことを繰り返しているそうだ。
少し重いフィン、ドライフィンを久しぶりに使って見たが、これでは水平姿勢で足が持ち上がらない。レッグウエイトならばまだ良いのだが、フィンを重くするとだめだ。重いフィンはフロッグキックには使えない。
二つともわかりきっていることなのにやってみてダメだと確認する。お台場で失敗している分には、かまわない。お台場潜水のよいところでもある。

1125 フリスビー

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 11月25日
 21-22時の辰巳ダイビングプールでの練習会。24日現在で申し込みは一人だけ、斎藤真由美さんだけだった。それも良いかなとおもっていたら、当日、12人になった。福田君が来て、3Dの撮影をするという。3Dならば、最近凝っている?フリビーが最高。
 
 自分ももちろん3Dではないけれど片手にカメラでフリスビーをやろう。
 と思ったら、GOPRO2の動画が動かない。いつもならば必ず3台持っているのに、どうせ1時間だから1台で良いやと持ってきていない。なんだかわからない表示が出ている。デスクが一杯だとか、全部ゴミ箱に入れたが、なおらない。仕方がない。僕もフリスビーをやろう。

  3D撮影中


 メンバーは、吉田君、山本君、斎藤真由美さん、そして僕がちょっと、撮影は3Dで福田君、このゲームは瞬間的に潜り込まなくてはいけないし、潜って投げる先を考えて投げ、三次元の動き、回転飛行をしなければならないから、かなりハードだ。吉田君は、こんなことをしたら僕が死ぬという。しかし、スキンダイビングに関する限り、最近は調子が良い。スクーバの水平姿勢は全然上達しないで背中が丸くなっている。せいぜいスキンダイビングで矯正しなければ。

齊藤真由美さん


 


 見ると、最近来るようになったばかりのF さんが良い形で潜っている。彼女は、JAUSの会員ではないので、名前をだしたらいけないのかもしれないとF さんにしている。今度、名前を出しても良いか聞いておこう。他のメンバーはフェイスブックなどで、どんどん自分の顔と名前をだしているから、OK.。
 Fさんがかっこが良い。確か、「初心者です。」なんて来たのだが、初心者とは信じられない身のこなしで、とても良い。

 このフリスビー、辰巳国際水泳場という水深5m、広くて、クリスタルクリアー、ここでだけ成立するスポーツだと思う。しかし、たくさんメンバーが来てくれている時には邪魔になる。人数が少なくなる、これから冬に向かって、ラスト10分は、これをやるという事にしよう。ハードだから10分ぐらいが良い。バスケットで言えば、クォーターだ。21-22時のタイムですいている時には、15分ぐらいできるだろう。
 そのうちに上達して、また他のグループもやるようになったら、本当に選手権大会などできるかもしれない。

 GoProは外に出て、蓋を開けて、カードの出し入れをしたら治った。しかし、撮ったスチルは、両手でシャッターを押したから、こちらが動きながらの映像は撮れない。また、このカメラは、動画からの静止画切り出しの方がシャープだ。
 でも、まあまあだ。

1127 1986年

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  「オリバー・ストーンのもう一つのアメリカ」、ブッシュが泥沼のイラクにはまり込んで行くところを読んでいる。あと150Pほどで、全3巻を読み終わる。ちょっと、今はつらくなっているが、なんとか読み終えるだろう。
歴史とは、書く人の意見書みたいなものだが、この本は、もともとロシア寄りで、アメリカの大統領こき下ろしの小説のようなものだが、なるほどとは思う。めちゃくちゃにほめているのはゴルバチョフだ。
 この本を読んでいて、今の日本を思うと、これはもう悲しくなるばかり、しかし、1986年の日記を読んでみると、中曽根総理大臣をニュース・ステーションで糾弾して、潮美にまで、意見を聞きに来て、自宅で撮影している。潮美は洗い場でなぜかブーツをタワシでこすりながらコメントしていた。
 佐藤、中曽根、安倍、同じような顔をしている。日本の総理大臣の顔だ。安倍総理大臣も、総理大臣の顔になってしまった。それにしても、公明もみんなの党もだらしなかった。連立の中で制御してゆくという、公明党への期待は見事に裏切られた。少数派の野党は、とにかく反対することに命運をかけなければ、事実上吸収されてしまうのが政治の力学だ。細かい修正なんて後でなんとでもなってしまう。聞けば、渡辺さんは、安倍総理大臣のポン友だって。ということで、後期高齢ダイバーである僕は、「メディア関係は命を賭け、血を流さないとだめだなあ、」昔のニュース・ステーションだったら、どうしただろう。などと思うばかりだ。もちろん、一票を投じるとなれば、反対票だ。民主主義はそれしかない。この前の参院選、本当に日本国民は、民主党に輪をかけてアホだった。

 でも、古い日記は本当に面白い。

1986年、8月16日
※ニュース・ステーションで、僕たちは三宅島のモイヤーさんの話で、視聴率6%の惨敗を喫している。

 私が企画書を書いたところがどうなるものでもないと投げやりになってしまうが、シリーズの原点は私の企画書でうまくいっていた。もういちど遠慮しないでやるだけのことはやらなくては、自分たちのシリーズなのだから、やらなくては、と、次の三陸ロケの企画を書こうとワープロに向かった。三陸と言ったら、三陸大津波を忘れるわけには行かない。神田に行き、中公文庫「三陸海岸大津波」吉村昭著を買ってきた。
昭和8年の大津波、明治29年の大津波は確かに悲惨だったが、その後の防潮堤の建設、避難訓練の徹底によって、チリ津波では死者を最小限にとどめている、そして、なお防潮堤の建設は続いている。
それに引き替え、私たちの東京湾沿岸は、LNG基地、そしてオイルタンカー、LNGタンカーの衝突の危険性を大きくする横断橋の建設、もし大地震が来たらどうなるのだろう。自然の災害は来ないもの、人災は起きないものと仮定しても、恐ろしい無制限な開発が続いている。
おそらく、東京大災害の後、東京は良い都市になるだろう。一極集中人口の減少、大災害の反省に立った安全重視の都市計画が行われるだろう。そこでは、自然と人間の調和も大事にされるだろう。
そのための人柱に私も、私の子供たちもならなくてはならないのだろうか。
 そんなコンセプトがテレビに受け入れられるはずとてないが、とにかく書くつもりでいる。書いておこう。

今度出す龍泉洞の原稿を含めて、月刊ダイバーの連載は終わる。その続編でこの日記をどこかで出す当てとてないがブログに書いて積み重ねておけば、誰かが出版してくれるかもしれない。今でもその話はあるのだから。とてもできないと断ってはいるが。やれる気持ちになってきた。

1128 特定秘密保護法

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 もう。本気になってダイビングのことやらなければいけないと決意した。これまで、福島の調査の方が本気だった。特定秘密保護法案で、福島のことは、なかばあきらめなくてはならないと思ってしまう。ダイビングのこと、本気でやろう。
 

 なつかしい四倉亭「ただいま元気に営業中、がんばっぺ いわき」頑張って、築地から魚を仕入れて、魚料理をだしていた。でも、もしかして、また久ノ浜に行くことができるかもしれない。秘密でもなんでも守る。
特定秘密保護法案、そんなものを作らなくても、守秘義務というものがあり、仕事上知り得たことは、依頼者の承諾を得なければ、そのことを外に出すことは許されない。僕たちの調査業務でも、公の仕事であれば、契約の一項に必ず入る。何度か秘密を守らなければならない案件を扱ったことがある。環境調査なども外に漏らすと、次の仕事が無くなる。その例は、ここに書けない。

 宝さがしもその一つだ。だから、大部分の宝探しは実は外にでないけれど、実は宝はあったのだという説もある。残念ながら、僕は宝に当たったことはない。もはや、言ってもよいのだろうが、対馬沖のナヒモフ号は、プラチナインゴットが出たか、出ないか、出向していた田島は、口にしたら殺すぞと言われているから、しゃべれないと言っていた。多分、宝は無かったのだろう。だから、宝さがしはほとんど永遠に続く。
舞鶴沖のオプテンノールもまだくすぶっている。オプテンノールは、オランダの病院船で、国際協定で赤十字のマークの付いている病院船は攻撃してはいけないのに、日本軍は攻撃して捕獲してしまう。秘密がばれないように、船員も乗り組んでいた医者も看護婦も患者も密殺して、天王と名前を変えて、日本の病院船にしてしまう。終戦間際、シンガポールから、日本軍が、シンガポール占領の後で現地の金持ち、などから取り上げた財宝などを全部を積んで、日本に戻る。しかし、日本にこの船が戻れば、進駐している米軍に取り上げられてしまう。舞鶴まで戻ってきて、乗組員は全部降ろした後で、水深80-100mに、自沈する。その頃はまだこの深さには容易には潜れない。やがて、潜水技術が進んだ後で、潜れる技術ができたら、引き上げる。そのころには、日本に再び軍備が出来ていて、帝国海軍復興のための財とするように、と書き残されている書類があるのだ。もちろん残念だが、僕がその書類を見たわけではない。まことしやかな話であり、この宝を山師、海師のほとんどが狙った。実は、対馬沖のナヒモフ号を狙った飽和潜水も、こちらが主目的で、だから飽和潜水の台船は「テンオー」と名付けられている。ナヒモフのプラチナインゴットなどは、目をそらせるためのダミーだったという説もある。僕は、本当のことを知らないし、知っていてもしゃべらない。秘密は守るのだ。

1201 潜水士の受験参考書

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 一歩一歩冬になります。時は過ぎてゆき、街の飾りつけは、クリスマスツリー。そうです12月になりました。一年のうちで一番嫌いな月が、お正月と暮れの12月です。
11月29日、工藤君と書いている潜水士の受験問題集の初校打ち合わせです。
編集のプロ、つまり本を作るプロダクションの山口さんとの打ち合わせは、いつも池袋の芸術劇場です。新しい劇場で、劇場であるだけでなく、お茶を飲んだり、食事をしたり、人と待ち合わせたり、打ち合わせをしたり、良いスペースを提供しようというコンセプトで作られた劇場で、池袋では一番好きなスペースです。




芸術劇場の吹き抜けには、何やら、異様な像が、アンバランスでたっていますから風船のようなものでしょう。

潜水士の規則、改正に揺れています。この時期に本をだすこと、どうかな、と思ったのですが、改正されテキストが変わったら、その部分の補遺をつければ、すむことで、その方がわかりやすいとも考えました。全くの受験本ですが、説明部分は工藤君が頑張ってくれて、現行の潜水士テキストよりもよくできていると思います。
潜水士の制度は、1962年にヘルメット式潜水器を使う潜水の事故防止、減圧症防止のために作られたもので、当時のテキストは、ヘルメットダイビングが中心で、スクーバは、その他の潜水器として分類されていました。月日が流れ、ダイビングが進化するとともにテキストも書き直され版を重ねているのですが、積み重ねたようで、整理がついていないテキストになっています。そして、国家試験である潜水士資格受験を受ける人たちの大半はスクーバダイバーであり、ヘルメット式の実物を触ったこともない人たちなのです。そして、ホースを使って潜水する作業潜水に従事する人たちも、全体の5%もいないのです。
そんな実態に合わせつつ、新しい展開も視野にいれて、今は見ることも触ることも、難しくなってしまっているヘルメットについても理解してもらえるような説明、そして、潜水の基本である物理学、生理学も十分に理解できる、そして、受験勉強は最短距離で合格する。そんな本を目指して、これで2年近く頑張って来ました。いよいよ、その大詰めです。述べたように改正が間近ですが、間近とはいえ、改正の発表されるのが、来年の春でしょう。それからテキストが出て、試験問題が変更になり、そして国家試験が行われるのは、どのくらい先になるでしょうか、あとで触れますが、ヘルメット式はどのように扱われるのでしょうか。多分、来年の夏には間に合わないのではと思います。間に合わせたとすれば、改正される部分は、減圧表の部分だけになるのかと思います。いずれにせよ、潜水士のテキストそのものを書く人、受験問題を作る人よりも、現在のダイビングそのものについては、僕たちの方が先行していますし、現実に即応しています。
とにかく、受験生の多くであるスクーバダイバーを読者に想定して、作られる初めての受験本です。
問題集も充実しています。要するに、「スクーバダイバーが、ヘルメット式のダイビングを含めて、全体像を理解できて、ダイビングの基本理論もよく理解でき、短時間の勉強で試験に通れば、文句ないだろう」というコンセプトです。2月に本屋には並びますが、これから1月にかけて師走は、大変です。大変な気持ちに追い込まないと嫌いな12月1月でめげてしまうのではないか、と、まあ、そんな日々です。

地下鉄東西線から丸ノ内線に行く通路部分、は大手町タワーの吹き抜けになっています。

1204 芝浦工業大学 45周年

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芝浦工業大学体育会スキューバダイビング部、創部45周年記念式典に呼んでいただきました。
今日はもう4日ですが、11月30日のことでした。少し、ブログ、空いてしまいました。隔日を目指していますが、10日分ぐらいまとめて書いておかないと隔日が実現しません。月刊ダイバーが年末進行とかで、原稿を11月末にと言われ、書いたのですが、編集の潮美にNGをくらいました。報告書みたいで、箇条書きになっている。文章が流れない。そう、この数日、箇条書きの企画書を書いていたので、その残像が頭の中にあるのでしょう。それで書き直し、ブログに手が出ませんでした。という言い訳です。
とにかく芝浦工業大学です。
呼んででいただいたので、ご挨拶はあるのかな、と思っていたのですが、正式には言われていなかったので、まあ、なんとか即興でしゃべれば、としたのが失敗でした。
今、即興となると、思い出話になってしまうのです。
僕は1957年に東京水産大学を卒業して、東亜潜水機という会社に入ったのですが、その東亜の専務の佐野さんが、芝浦工大のOBでした。27歳の100m実験潜水は佐野さんのおかげでできたものなのです。しかし、1968年、東亜潜水をやめることにしました。なんでも言うことを聞いてやるからやめるな、と佐野さんに説得されたのですが、海が呼んでいる。夢と冒険を求めて、野垂れ死にに至る道を選びました。その時、その佐野専務の息子の弘幸君がたしか小学校6年生でした。その弘坊が、やがて大学に入ります。お父さんの出た芝浦工大です。そして、できたばかりのスキューバダイビング部にはいります。彼が二期だということで、そして、それから45年が経ったのです。気の遠くなるような時間です。

         佐野さんと僕

 そして、時間がポンと飛んで、今の顧問の足立先生に辰巳の国際水泳場に学生の練習についてきていたところで出会いました。先生は、この15日に行われます全国水中スポーツ室内選手権大会に出ていて、その大会の実行委員長をやっているということで、どちらからともなく声をかけて、僕はちょうどJAUSを始めたときだったので、それに入っていただき、そして、この夏、2013年の夏にはJAMSTECのプールに部員全員の合宿前の練習に来ていただきました。
そんな話をしてしまったのですが、45周年のお祝いにもなんにもなっていない。もちろん、冒頭におめでとうございます、ぐらいは言いましたが、もっと何か気の利いた話ができたはず。それはまあ良いとして、結びの言葉が出なかった。「50周年も呼んでください。それまでなんとか僕も頑張っていきます。」ぐらいのことは言えなくては、と、即反省していました。
会そのものは、大盛会で何人かのOBに声をかけていただき、楽しく時間を過ごすことができました。居心地の良い会でした。
そして、佐野弘幸先輩の挨拶もあり、OB会のお決まりである歌、芝浦節というのを聞かせてもらいました。踊って音頭をとるこれも大先輩に全員が手拍子を揃えます。宴会の歌で、「女は入れないスキューバー」というところが、大きく響きました。そうです。昔の工大は女の子が希少価値だったのです。希少だから、女は入れないと見栄を張るわけですが、考えてみると、1967年に発足した僕たちの日本潜水会も当初、女はインストラクターにはなれませんでした。そういう時代だったのです。
そして、このとても良い会、伝統とは何なのだろうと考えました。伝統とは人の和なのだなあ、と思いました。和がなければ組織は気持ちよく進んでは行かないものです。続いてきた組織には良い人の和があり、ふれる者の心を楽しくさせます。

歌の次に、顧問の足立先生が、後ろに現役を並べて、挨拶されました。今、関東学生潜水連盟で一番の大所帯だということです。現在の部にはかわいい女の子が何人もいます。でも、やはり、男が多いです。
なぜか、足立先生は、声を詰まらせていました。感動して、だろうと想像しました。そして、しみじみと、足立先生を顧問にして、芝浦工大はよかったなあ、と思ったのです。
先生は、顧問になったときはダイビングなど全くやらない、知らなかったのだといいます。それがダイビングを練習し、PADIのイントラにもなり、フリッパーの大会にも出るようになりました。
後で、足立先生は、フェイスブックで、挨拶が満足にできなかったと言い訳をされていまして。40周年から45周年までの5年間、無事故で過ごそうとするプレッシャーは大きく、それが、45周年でホッとして、安堵の涙だったということです。

この前のシンポジウムで、足立先生は芝浦工大の部活について、監督のこれもOBの北川さんとともにお話をしてくださったのですが、足立先生はスピリッツについて、北川さんは技術について、話されました。印象に残っている言葉は、大学生は子供(高校生)から社会に出るブリッジで、その教育にスクーバダイビングが大いに力になるという言葉でした。
僕も、東大の海洋調査探検部のお世話をしていたことがあり、何が悲しくて東大まで入って、危険なダイビングなんてやるのだ、と思ったものでした。ぼくが何時もついていてやれれば、よいけれど、それもできない。思い悩んだのですが、しかし、ダイビングを通しての、人間的な成長が見てとれるので、やはりやらなくてはと思ったものでした。そして、何よりも、だからこそ、学生の潜水部で事故が起きてはいけないのです。
そして、JAUSも学生の潜水活動が安全に行われるように出来るだけの手伝いをします。理事会でも、なぜ、学生にそんなにこだわるのだ、彼らはもう大人だし、甘やかせることはないのだ、という意見もあります。でも僕はこだわります。ようやく付き合い方がわかってきたところ、なのですが、もう僕の人生はあと少しです。なんとか、付き合い方と学生の活動を大事にすることが伝統になるように出来うる限りの努力をしたいとおもっています。
今度の2月2日のシンポジウムでは中央大学の海洋研究会の藤島監督が発表してくれます。中央大学もこの前、たしか40周年で呼んでいただきました。中央は、亡き仲間の鶴町が副会長をやっていたクラブです。早稲田の水中クラブもJAMSTECのプライマリーコースに来てくれています。学習院の宮崎監督も、足立先生、北川監督、その流れで、何かが生まれるような希望を持っています。

1205 「豊かな海」の表紙

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公益法人 全国豊かな海づくり推進協会の機関紙「豊かな海」の表紙写真を撮らせてもらっている。
 今度の号、千葉県のアワビ漁の記事がいくつか載っていた。できれば記事中にある魚介類を扱いたい。それで海女である。海女というと僕にとって数少ない先輩である大崎さんが撮った裸の海女が、このところ本になった。これは昔の話で、今では黒のウエットスーツ姿が海女のユニフォームである。しかし、ウエットスーツを着ると暖かくなって長く潜っていられる。長く潜れば漁獲が増え、獲りすぎで資源が減少してしまう。資源保護のためにウエットスーツは着ない。着たとしても、半袖半パンツまでとか、組合によって制限がある。この写真では、少し厚手のラッシュガードのようなものを着ている。千葉県白浜の海女、海士のユニフォームである。
 モデルは鈴木直美さんで、辰巳の国際水泳場でも泳いでいるし、本職の海女もやっている二足も三足もの草鞋を履いている友達だ。2012年に東京海洋大学の千足先生、山川先生のウエアラブルカメラを使った海女漁の研究で協力してもらった。
 だから、この写真はウエアラブルカメラで撮ったものである。
 ウエアラブルカメラで、しかも動画から切り出したスチルを雑誌の表紙に使ったことは、僕としては、これまでにない。そして、安いウエアラブルカメラだ。心配だが、やってみることにした。今、ウエアラブルカメラを使った漁場の記録も僕のテーマの一つになっている。その記録が「豊かな海」の表紙に使えれば、という狙いもあった。

   下の写真が基 色が違うのは製版の問題で、それほどうるさくない印刷だから、これ写真もつかってくれたのだろうから、仕方がない。

 使ってみようと決断した。
 動画から静止画を抜き出して、超広角だからトリミングもしている。出来上がって、少しばかり、質感が違うが、悪くはない。
 このところ、ウエアラブルカメラがどこまで使えるかということで、2012年以来このカメラを使うことが多くなっている。使えるとなると、表紙のための撮影を別にしなくても良くなる。

 そして、動画から静止画(スチル)を切り出すこと、PCの上で動画を見ながら、切り出すという感じでもう一度シャッターを押す、つまり二度シャッターを押すことになる。複写をしているようで、何かカメラマンとしては卑怯なような気がする。
 カメラマンとは、フィールドで、被写体に向かってカメラを構え、一瞬を切り取ることに命を(生活を)賭ける。
 これでは、カメラマンではなくて編集マンになってしまう。
 しかし、フィルムからデジタルに変わった時に、すべてが変わった。そして、カメラの機能、動画の質が向上して、動画と静止画の区別がなくなったとき、また変化、革命があった。そして、さらにカメラの小型化でもう一つの変革である。
 言うまでもなく、大きいカメラは、オールマイティだ。小さい、安価なカメラは、ひとつの手段、ひとつの道具でしかない。しかし、その道具がどこまで使える道具なのかを確認すること、使える道具ならば、使いこなすことがカメラマンの仕事でもある。
そして、動画と静止画の問題は、最新ダイビング用語事典を編集した2012年まで、「静止画と動画」という項目を作って説明していたけれど、もはやその説明も必要なくなって、動画として見せるか静止画として見てもらい、印刷物に使うかその区別があるだけのことになっている。大きい、100万近くのスチルカメラは、テレビ番組も撮影できる。逆にテレビ番組を作る規格のかめらならば、スチルが撮れる。カメラを構えている人を見て、スチルを撮っているのか、区別はつかない。ストロボが光れば、ああ、スチルを撮っているのだな、とわかる。

1207

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 潜水士の受験本を工藤君と共著で書いている。そこで、受験本では書けない、つまり受験とは全く関係がない潜水士のことについて、しばらくの間、時々、思いついたことを書いてみよう。月間ダイバーのグラフィティにも書いているが、1962年、昭和37年の3月に潜水士制度第一回試験があった。だから、それに先立って規則ができ、規則に沿ってテキストも作られた。そのテキストも持っていたのだが、昔のことは忘れた。と、度重なる引越し流転の間に捨ててしまった。

 それはどうでも良いのだが、1962年、潜水士の資格制度ができた。何が主たる目的だったかといえば、減圧症、その頃、それ以前は潜水病という事の方が多かった。潜水病の防止だった。同時にヘルメット式潜水器のいくつかの事故,吹き上げ、墜落などの防止だった。スクーバ、当時のアクアラングは、その他の潜水器に分類されていて、つまり付け足しだった。

 1935年に書かれた三浦定之助の「潜水の友」によれば、仲間のダイバーの20%は、慢性の潜水病に罹っていた。三浦先輩自身も潜水病で晩年はあまり具合が良くなく、僕の母校、今の東京海洋大学の前身の東京水産大学のさらに前身である水産講習所の卒業であり、大先輩であり、伊東の水産試験場の場長も務められ、オープンサーキットスクーバの元祖とも言われる大串式潜水マスクの改良型である山本式を駆使して、定置網潜水の普及に務められ、水深60mを越す潜水ができるダイバーを多数育成した。その20%が潜水病だったということだ。三浦さんは他にも魚の本を何冊も書かれていて、減圧症について無知だったわけではない。当時使われた帝国海軍の減圧表も残っている。しかし、それでも20%だったのだ。
 日本人の潜水というと、アラフラ海、木曜島群島の白蝶貝(真珠もとれる)採取の日本人ダイバーの物語がある。木曜島には、減圧症で死んだ日本人ダイバーの墓が林立しているという。僕のたしか3年後輩で東京水産大学潜水部出身の笹原捷夫さんが、真珠会社に就職し、このとこの思い出をかいた「アラフラ海の思い出」が自費出版されている。事情がわかって面白い。笹原さんは、アラフラから帰国後、日本ブリジストンに入り、初代の土肥101の所長でもある。
 笹原さんの本は容易には手に入らないが、直ぐに手に入る本として「木曜島の夜会 司馬遼太郎:文春文庫」がある。前にもブログで紹介したことがあるが、この本は、ダイバーについて書かれた絶対的な名作、ノンフィクションだと思う。司馬遼太郎の他の本も、坂の上の雲とか、かなり愛読した。しかし、歴史書としては、あれが日本人全体の史観になってしまうことには、賛同できない。木曜島の夜会だけは、ダイバーであってもし、読んでいない人がいたら読んで欲しい。文庫本で100ページほどの中編である。

 潜水病に罹っても死んでも海に潜りたい「ダイヴァー」の業が書かれている。この本に出てくる、藤井さんとは、笹原さんも会っている。僕もなんとしても、木曜島に行き、日本人ダイバーの夢の跡、墓場に潜ってみたいと思っているが、果たせそうもない。
 大串式潜水機のことを書いた「海底の黄金:片岡弓八と沈船八坂丸:山田道幸著、講談社」にも木曜島のこと、そして潜水病のことが書かれている。木曜島でヘルメット式ダイバーと大串式が競って勝利を収めるくだりは小説としては面白いが、ノンフィクションとしては、眉唾ものである。著者の山田さんは歯医者さんだというが、グレートバリアリーフにも行ったことがある、一応のダイバーで、新田次郎に師事して、ペンクラブ会員でもある。眉唾だなと思いながら、木曜島に大串式を売り込んで、八坂丸引き上げの資金稼ぎをしようと、ヘルメット式ダイバーと競争して、勝利をおさめる部分は小説として一気に読ませてしまう。
 潜水士の受験から、はるか遠くまで脱線してきたが、ついでだからもう少し脱線しよう。
 木曜島で使われていたヘルメットは、ヘンキー式(多分英国のヘインケという会社が原型だと思う)と呼ばれている通常のヘルメットよりも大きくてごつい。オーストラリア北端とパプア・ニューギニアの間の狭いトーレス海峡は急流なのだろう、その斜面、今で言えばドロップオフに白蝶貝が着いている。そこをドリフトで流しながら貝を取る。スクーバならばドリフトも容易だが、ヘルメットである。墜落と吹上げが恐ろしいヘルメットで、吹上げ墜落防止のために、潜降索に伝わって降りる。アメリカのヘルメットダイバーは、ステージに乗って上げ下ろしされる。ヘンキー式は、ハーフドレスである。
 ごついヘルメットに潜水服はへその上あたりまで、袖は半袖だ。余った空気は下から逃げるから、潜水服の足の部分に溜まる空気はないから、足を上にして転倒することはない。吹上げは起こり難い。ウエイトは頑丈なヘルメットのブレストプレートに付けてある。半袖の腕を締めると、服の中に空気がたまるから浮き、肘を開くと、空気が逃げて沈む。腕で調節して中性浮力で、流してゆく。頑丈だから、岩にヘルメットがぶつかっても大丈夫だ。

 こんなヘルメットのところに、歯で洗濯バサミのような開閉弁で空気を出したり止めたりするデマンドバルブを使う大串式は、どうだったのだろう。正反対の潜水器だ。もしかしたら、大串式は勝負に勝ったかもしれない。しかし、頑固なヘルメットに慣れたダイバーたちが、道具をマスクに替えたとは思えない。
 ヘンキーに何故詳しいかというと、僕の居た東亜潜水機で、ヘルメットもハーフドレスも作っていたからだ。ピカピカのヘンキーヘルメットを、一年に2台ぐらい作っていた。


 ヘルメット式は滅び行く潜水器だとは思う。しかし、来年2月2日のシンポジウムには、ヘルメット式潜水によるプロのダイビングを教える専門の種市高校の先生が来て、30分程度の講演をしてくれる。アマちゃんにも出てきたらしい高等学校だ。「南部もぐり」と呼んで、ヘルメット式を大事にしている。ここが、ヘルメット式を教えることを止めたら、もうヘルメット式を教えるところはない。ヘルメット式の練習はスクーバのC-カードとはちがう。2月2日のシンポジウムで、話をきかせていただいたあと懇親会で相談して、夏には、種市高校へ見学に行く、日本水中科学協会のツアー?をやりたい。

 一方で、先日の芝浦工大の45周年で、現東亜潜水機社長の佐野弘幸君に会った。日本で、もしかしたら世界でただ一つのヘルメット式潜水のヘルメットを作る会社だ。それが、ヘルメットを作る職人が居なくなってしまったという。山沢くんという僕と同年輩の職人さんがいた。先代は、向島にヘルメット工場があって、工場といっても、師匠と弟子の山澤くんだけの工場だが、職人といっても、素敵な男だったのだが、亡くなってしまったという。山澤さんとは、当時の若手どうしで、春はお花見、夏は海水浴、秋は温泉の、東亜慰安旅行で一緒に幹事もやったことがあるのだが、東亜に在籍10年の間に、一度だけ向島工場に見学に行ったことがある。師匠の名は、忘れてしまった。ヘルメットは、へら絞りというやり方で、銅の板から、カップをつくる。美術工芸品のようなものなのだ。出来上がりのヘルメットは工芸品だが、海で使われての耐用年数は、50年以上ある。ぼくが東亜潜水機に居たころ、明治何年というネームプレートのヘルメットが修理に入ってきた。明治18年ごろが日本のヘルメット潜水の黎明だから、歴史を生きてきた道具である。つくも神になっていたかもしれない。そして、来年潜水士の規則は幾分か変更になり、テキストも書き直されるだろう。そのテキストで、美術工芸品のヘルメットは、どんな扱いになるのだろうか。
 そして、種市高校の「南部もぐり110年のロマン」(そういうDVDをいただいている。)はどうなるだろうか。150年になるだろうか。日本のヘルメット式が、日本の潜水の文化と言えるのかも知れない。そうしなければいけない。

1209 潜水士についてー2

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 1961年 僕は、社長から分厚い書類を渡された。潜水士テキストの草稿のコピーだった。
 そのころ僕は、195?年版の US.Navy のダイビングマニュアルをノートをとりながら読み終わったころだった。まだ、バインダーの版ではなくて、一冊になっていた。そして、自分の潜水について、減圧症についての知識は最先端のものだと自負していた。そして真面目でもあったから、間を見てではあったが、一ヶ月くらいかけて意見書を作って、三沢社長に出した。社長はそれを編集しているところに送ってくれたと思う。
 そして、出来上がってきた潜水士テキストを見ると、僕の意見は全く反映されていない。誤字を直したところも、そのままだった。その時のテキスト、数年前まで確かに持っていたのだが、今は消えている。
 印象に残っていて、今も覚えているのだが、濁った水の中を浮上してゆく時、上下の感覚がなくなる。つまり空間失調だが、浮上しているのか潜降しているのかわからない時、胸毛のそよぎでわかるなどと書いてあった。胸毛のない人はどうするのかと意見書に書いたが、これもそのままだった。米国海軍のマニュアルかぶれ、米国かぶれしていた僕は、日本の潜水士テキストは、ずいぶんレベルが低いなとおもった。

1957年に東京水産大学を卒業して、東亜潜水機に入れてもらった。1961年は、まだ、卒業して3年、潜水器業界のことも何も知らなかった。だから、潜水士の規則について、どのようにして生まれてきたのか知らなかった。今、調べている時間もない。だからここに書く事は、すべて僕の視点からの話でしかないが、減圧症について、そして減圧表については、東京医科歯科大学の梨本一郎先生が主導していたと理解していた。梨本先生とは、東京水産大学3年生の時の潜水実習でもお話を聞いているし、日本潜水科学協会でも、そして、その後も長いあいだ、目にかけてくれた。


 第一回の潜水士試験は、62年の3月だと思っていた。僕の年表には3月と書いてある。今調べてみると1月である。試験場は、神奈川県小田原の水産指導所で。そのころの相棒、バディだった館石さんと一緒に出かけた。1月26日の朝、受験手続をするため遅刻は許されない。館石さんの奢りで、前日から湯河原温泉に泊まることにした。僕が、受験準備の講義、教えてあげることが条件での奢りだった。夕方、湯河原に着き、温泉に入って、ご馳走を食べてしまうともう教える、教えられる雰囲気ではなくなってしまう。
 魚突きをして一緒に遊んでいたころの館石さん、魚を持ち上げているのは僕ではない。現在、千葉県伊戸にいる田中次郎


将来の希望、これからやりたいこと、などなど、夜が更けるまで語り合ってしまった。雑誌を作る話もその時にした。今のマリンダイビングの話だ。
そして、眠い目をこすりながら試験場へ。答案用紙に向かって、僕はできないのだ。その時まで、ダイビングの通常の常識があれば問題は楽勝で解けると思っていた。常識では解けない。ダイビングの常識では疑わしいことが出ている。実際のダイビングでは白黒がつけにくいことが多い。経験と判断で行動する。試験問題はちがう。マルかバツだ。例えば、「スキューバ潜水でも、潜降索は必ず必要だ。」というと、潜降索など使ったことがないスクーバダイバーは、×にしてしまう。
減圧表の問題も一般の潜水とは違った。普通、減圧表の質問は、30mに55分潜った時の減圧停止のスケジュールは、という問われ方をする。ここでは、一日に2回潜るとして、一回目は25mに70分潜るとして、2回目の潜水として18m潜れば何分潜れるか?という設問になる。

舘石さんは、受験に受からなかった。当然、前の日の湯河原の勉強会をやらなかった僕の責任である。僕自身も、減圧表の問題は出来ていなかった筈だから,かろうじてセーフだったのだと思う。だから、勉強会と言っても、しっかりと教えることはできなかっただろう。しかし、僕の責任だろう。舘石さんは僕を責めることはしなかったが、恨めしそうではあった。
舘石さんは、その後すぐに行われる補講にでた。これは、出席すれば合格というものであり、これも小田原の水産指導所で、水産大学の先輩である指導所の所長、宮田さんが講師で、宮田さんも東亜のお得意さんだったこともあり、僕も一緒に行った。これで責任をチャラにするつもりでもあった。
落ちて集まったダイバーの大半は漁業者だった。中には、自分の名前を書けない人が何人かいる。話したり、普通に付き合ってもこのことはわからない。減圧症の防止とは、そういうことだったのだ。
潜水士の制度が始まったその頃は、試験は未だ国家試験ではなかった。委託講習と委託受験であった。委託される団体は、例えば、日本潜水科学協会でも良かったし、株式会社東亜潜水機でもいい。水産試験場でも、漁業組合でもいい。労働基準監督署に届出て委託を受けて、講習と試験をすることができた。
委託を受けるには講師を揃えなければいけない。まず医師、免許を持っていればいい。労働行政の専門家、これは基準監督署のOBであればまず問題ない。それと潜水の専門家、これは、既に潜水士の資格をもっている人で、4年制の大学を出ている者、この3人のセットで、一泊二日ぐらいの講習と受験をやる。僕は潜水の専門家として講師になり、ドサ回りをやることになった。梨本先生のチームにも加えてもらって、何回かお供させてもらった。
梨本先生のチームは、梨本先生が酒飲み、若干酒乱でもあるので、大抵は酒盛りになる。漁業組合の組合長クラスが饗応する。僕のところあたりまで、酒を注ぎに来て、「先生、全員受からなかったら覚悟せらっしぇいよ。」そういう雰囲気だったのだ。
労働省側でも、まず何とかして、現在潜水している漁業者、港湾労働者の全員にこの資格を持ってもらわなければ、制度を着陸させることができない。この苦労、講師のアルバイトをやる僕らにとっては、都合の良い小遣い稼ぎの状況は、いろいろと形を変えるが、現在までも続いている。アルバイトではなくて、職業にすることも出来た。
免許制度、資格制度というものは、すべてこれと似たような形態をとる。レクリエーショナルダイビングでもおなじことだ。
なお、当時の潜水士資格は、女性は除外された。潜水労働には女性は適さないと考えて、女性を含めなかった。漁業者でも海女さんは、息こらえ潜水だから、高気圧作業には入らない。専門(プロ)の潜水労働者としては今も女性は希であろう。レクリエーショナルダイビングのインストラクターが潜水士に含まれることから、女性の受験も認められ、女性の受験が多くなった。

 

1212 フリスビータイム

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 アクアディスク(水中フリスビー)
 辰巳のスキンダイビング練習会、ラスト10分をフリスビータイムにします。
 ゲスト、メンバーみんな参加してください。もちろん縁で黙々と泳ぎ続けておいででもよいのですが、ラスト10分、帰ってしまう人もいるし、寒くなっている人も、けっこうハードですから体が温まります。

  アクアディスク、水中用のフリスビーです。

  
  プラスティックと合成ゴムでできていて、中性浮力で水中をよく飛びます。陸上で投げて当たると危険ですが、水中で当たってもなんともありません。
 
 ウエアラブルカメラでの水中撮影も今のテーマですが、上手く結合します。撮影は手持ちのウエアラブルカメラ、プールの底においたウエアラブルカメラです。
 


 5年ほど前ですが、子供たちにスキンダイビングを教えていた時に、これを使うと、水を怖がって、プールの縁を離れない子供が面白がって積極的に泳ぎだした経験をしました。
 子供たちのクラブもみんな卒業してゆき、フリスビーもお倉入りしていたのですが、思いついて、辰巳でやってみました。

 内山君、吉田君、山本君、斉藤さん、町田さん、布施さん、石川さん、清水さん、小山さん 大白さんが参加してくれて、実験ができました。福田君はすごい3Dの映像を撮影してくれました。ディスクは3Dの画面で浮かび上がります。

 
 ①水の美しさ、広さ、辰巳ならではのスキンダイビングトレーニング、遊びとして最適でした。



 ②水中での視界を広く取って、敏捷に潜り込む、ダッシュするトレーニングになりますので、ドルフィンスイミングの練習にもなります。

 ③上手な人も、始めたばかりの人も、一緒にできて、かっこいいパフォーマンスも自然にできます。
 ④超小型のウエアラブルカメラも今のテーマで、プールで撮っては、記念に差し上げたり、していたのですが、それがスマートにできます。動画でとってYou Tubeにも出していますので、誰でも見る事ができます。自分が写って都合が悪い人は、この時間、縁で泳いでいれば写りません。
 ⑤撮影する人は、自分で左手でカメラを持ち、右手でディスクを投げて遊ぶことができます。僕はそれをやっていて、水中で撮影しながらするスポーツを初めて体験しています。撮りながら泳ぐ、ドルフィンスイミングの練習にもなります。大きいカメラだと撮影が専門になってしまいますが。
 ⑥プールの底にカメラを置いて撮る人もいますが、それも実験済みです。フォトジェニックな遊びです。

★そこで、ラスト10分をフリスビーの時間としました。黙々と泳がれる方、写るのが困る方は、ダイビングプールの飛び込み台のある半分の方で練習してください。遊ぶ事が好きな人は、全員参加、撮った画像は編集して月一ぐらいでYou Tubeに載せます。もちろん、ご自分でとったものをそれぞれ発表されるのもけっこうです。
辰巳の練習会メンバーへの連絡ですが、どなたでもおいでください。
おいでになる方法は  http://homepage2.nifty.com/j-suga/index.htm へ。

1214 潜水士ー3 再圧タンク

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 潜水士の資格制度、高気圧作業安全衛生規則は、減圧症、1961年当時は潜水病と呼ばれることが多かったが、その減圧症を防止することを主たる目的としてために作られたと書いた。減圧症は、潜水病と同時にやはり高圧環境で働く潜函工事で起こる減圧症である潜函病も同じように防止する。潜水も潜函も、同じような減圧を行うことからひっくるめて減圧症である。
 1960年当時、減圧症はすでによく知られていたが、その治療は「ふかし」と呼ばれる方法で行っていた釜に入れて蒸す(ふかす)からふかしなのだろうとおもう。釜すなわち再圧タンクなのだろうともおもっていた。しかし、ならばその釜も普及していなければならないはずだ。それがちがう。となれば、蒸かす釜は、ヘルメットなのだろうか。実際にはヘルメットに入れて蒸していた。
 房総半島でのヘルメット潜水による漁と言えば、アワビ漁である。ヘルメット式のアワビ漁の中心は外房大原沖にある器械根の漁である。ヘルメット式潜水機、すなわち器械でとるから器械根である。器械根の話に脱線すると大変なので、ここまでとするが、海女が潜れない深さであるからヘルメットを使う。明治11年(1878)頃にはじまった漁であり、ヘルメット式潜水の日本における嚆矢とも言える。この漁でどのような減圧表を使っていたのか、そしてふかしについては、「房総の潜水器漁業史」大場俊雄著・崙書房1993に詳しい。大場さんは東京水産大学で僕の5期先輩でとこれも脱線になってしまう。この本には「ふかし療法の開発」という章があり、房州勝浦の丹所春太郎が工夫し、この方法で多くの潜水漁師を救ったとして、勝浦市川津に銅像がある。川津にはアワビの調査で通ったことがあるのに、この銅像を見に行っていない。
 房総のヘルメット式漁師は、「ふかし」で治療をしていた。減圧表についても、明治年代にすでに「三十尋より二十五尋までは三十分、二十五尋から二十尋までは一時間、二十尋から二十尋までは二時間」とか、時間表があった。この時間表に従って潜り、腕の痛みなどが出た場合にはふかしたものだった。それでも深刻な半身不随になる潜水病もあり、テレビのドキュメンタリーで、房州器械根での潜水病の悲劇を見た記憶がある。僕の家でテレビを買ったのは遅く、1964年だったから、それ以後のNHKの番組である。痛みに苦しみながらのふかしに強い印象を受けた。
 
 それでは、再圧タンクは無かったのか?
千葉県の病院にあった。しかし、ヘルメット漁師たちは、あそこに行ったら終わりだと言って、よほど悪くなるまで行かなかった。悪くなってから行くから助からなかったという悪循環である。
たしか、1959年だったと思う。東亜で一人用の最厚タンク、ワンマンチャンバーを作ろうとした。作ろうとしたら特許に引っかかって作れない。クレームがついた。基本的な部分、タンクに圧力をかけて治療するという部分が特許になっているのだという。
特許は、公知公用になっていれば、通らない。異議申し立てができる。特許の申請の前に、申請者とは違う人が作って売り出していれば、通らない。社長がいろいろ調べたところ、昔に作った再圧タンクがスクラップになって横須賀にあるという。僕が調査を命じられ、横須賀までマツダのオート三輪に乗って調べに行った。もしもスクラップがあって買えるならば買ってくる。なんとかスクラップ屋さんまでたどり着いたが、残念、しばらく前に切断しバラバラにして捌いてしまったあとだった。
結局、この件は、梨本先生、旭潜研の佐藤さんらと語り合って、無効の申し立てをして、なんとなくうやむやにした。61年の高気圧作業安全衛生規則では、再圧タンクについて書いてあり、試験にもでるのだ。特許では労働省が困る。
 

    100m潜水の船上 真ん中に再圧タンクが置いてある。
 
特許は何とかなったが、そんな具合だから東亜には作る技術がない。佐野専務が担当したが、コンプレッサーが専門であり、忙しいのではかどらない。僕はレギュレーターを設計して作り、苦労している最中だから、それに再圧タンクの設計など無理。それで、招聘したのが、帝国海軍で潜水の神様と言われ、伏龍特攻隊のための潜水機を作った清水登元海軍大尉だった。僕は100mの実験潜水を計画し、その総指揮を清水さんにお願いすることになるのだが、その東亜製再圧タンクができたのは、1963年8月、100m潜水に出発するその日、僕は徹夜でタンクに電話機を取付けて、そのままタンクの中で寝てしまって、その朝、館山は100m潜水のためにトラックにそのタンクを乗せて出発した。
 

       再圧タンクの中の舘石さんと電話で話す僕
僕たちのために作ったようなもので、そのタンクに初めて入って圧力をかけられたのは、100mを一緒に潜った舘石さんだった。潜水を終了して、なんか具合が悪いというので、清水さんが、ちょうど良いとタンクに収容して圧力をかけた。元気になって出てきたから、きっと効果があったのだろう。
その再圧タンクは、どこかに売ってしまって、その後東亜で再圧タンクを作った記憶はない。現在、再圧タンク、大型減圧室の製作は、中村鉄工所、羽生田鉄工、現在はパロテックハニュウダ株式会社が分け合っていて、羽生田社長は親しい友人である。

次はそのころの減圧表について取り上げる。

1216 全日本スポーツダイビング室内選手権大会ー1

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12月15日の全日本スポーツダイビング室内選手権大会が行われる。
僕は、この大会の始祖でもあるから、大会の実行委員長をやらせてもらって、それは良いのだけれどネクタイを締めてご挨拶をしなければならない。

それとは別にいろいろなことがある。潜水士の参考書の追い込みに入っているので、ゆっくりブログを書いている時間がない。潜水士についても連載?がちょっと止まるけれど、大会のことを少しづつ3回に分けて書こう。

僕は、この大会で、実行委員長だけではなくて、大会の様子をビデオカメラで撮影し、それを会場の巨大スクリーンに映し出す、その水中部分の撮影を請け負っている。
水中に入って撮影するカメラマンは、毎年、東京海洋大学潜水部の現役に頼んでいる。彼らにとって、撮影の実習になる。
14日、大会の前日だが、撮影を頼んでいる学生のリーダーである大川君に来てもらう。彼は去年、一年生として参加、今年は二年生になり、リーダーを務めてくれる。
 去年、カメラに触っているので、説明が少なくて済む。

 撮影機材は、ソニーのVX-1000 という機種で、カメラハウジングから、ケーブルが引き出されていて、会場の中継室に映像信号を送る。このカメラとハウジングをつくったのは、20年ほど前か?まだ、僕の会社が撮影を引き受けていたころだ。カメラハウジングを作ったのは、この機種が最後だったかもしれない。
 VX-1000 は、ソニーが作った名機である。まだ、外国では、このカメラでカメラマン商売をしている人もいるという。ハウジングも名機だと思う。このカメラハウジングを真似て、ハウジングを作った人が、ハウジングメーカーとして成功した。その人はエレクトロニクスに強くて、電子的な構造にして成功したのだが、僕はメカニカルに操作する方法しかわからないので、メカ操作のハウジングである。メカは、壊れない。そして、円筒形のハウジングにオーリングをダブルに付けてある。鉄壁の防水だ。

 ただ問題は、余りにも古い。ハイビジョンカメラではない。超小さいGoProでもハイビジョンだというのに、ハイビジョン信号を送り出すことができない。

 習志野の水泳場は、今年の夏に映写設備関係を一大改造して、一新し、ハイビジョンになった。つまり、このカメラでは使えないということだ。映像の担当をしている古い友人である、河内君がこの大会の映像全般を担当してくれている。アダプターをレンタルで借りてくれば大丈夫ということで、まだ大丈夫、しかし、ハイビジョンスクリーンに美しい画像を出すことができるだろうか。やってみるしかない。新しい機材を開発する予算も無いし、レンタルで借りてくれば、レンタル料が持ち出しになる。VX-1000
でゆく事にした。バッテリーが足りなくなることを心配したが、JAUSウエアラブルカメラ研究会の中心である福田君が、丁寧に保管してあったものを持っていたので、補給することができた。
 それでも、実際に水泳上のスクリーンに映し出して見なければ、心配だった。大河くんと二人、習志野に潜水道具とともに運び入れ、ほかの準備万端をやっている河内さんと待ち合わせてテストした。アダプターを通して、立派に映写ができた。

 これで全ての準備が終わった。
 15日当日は大川君、松本くん、江原くん、大崎くん、全員男性で、見事に撮影してくれた。最初、小学生の子供たちが泳いでいる時間は全然下手だったが、どんどん上手になり、二年生は昨年の経験もあり、午後のメインレースのころには上手だった。特に大川くんは上手だったような気がする。一日多く付き合ったので、身びいきか?
このような形で、孫のような後輩現役と、映像の撮影を教えながら付き合うことは、本当に楽しい。水中での動画撮影の極意は、とにかくフィックス、フィックスのままの感じで、水平を保ってスムースにフォローする。
巨大画面に映った映像も、新しいハイビジョンスクリーンになったためだろう。昨年よりもずっときれいだった。まだ、来年もこのカメラで行けるね、と河内さんと話し合った。

1219 全日本スポーツダイビング室内選手権大会ー2

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12月15日 全日本スポーツダイビング室内選手権大会―2
 ウエアラブルカメラでの撮影を、当然のように考えた。
目標は二つ、一つは、ターンの時に手を一回だけ掻いても良い。それいがいは推進に手を使ってはいけないというルールがある。しかし、どうみても2回掻いているように見える。泳いできて、ターンの壁に近づくと、まず左手を出して掻く、その動作と連動するように右手を前に出して掻く、左手、右手、各一回だが、合計すれば二回になる。そうする選手が多いから、それで良いとなればそれで良いのだが、右手の一回だけしか掻かない選手もいる。当然,二回掻く方がタッチの差よりもっと大きな差になるはずだ。そのことを撮影する。今度の反省会で使ってもらおう。


もう一つはもちろん水中に置いて動画を撮る。ターンする壁の直下に置いて動画を回しておく。多分迫力のある画になるに違いない。何台も数多く設置したいのだが、最初の試みだから、壁の直下に一台、あとは、プールの真ん中のあたりに一台、二台を置いた。

       100m決勝

       50m決勝

メインレースを撮りたいから、午後の決勝からカメラを置いた。案の定、誰かが見つけてプールの中にGoProが落ちている。と中村くんが言ってきた。一応審判長に話を通してあったし、いい写真が撮れれば、来年のプログラムの表紙にする、ということで、そのままにしてもらった。
まず、50m決勝の15時からカメラを回した。
50mは、撮れただろう。100m決勝も撮れた。
とにかく、終わりまで回ってはいた。
戻ってPC で見てみると、壁の位置においた一台は素晴らしくきれいに撮れていた。しかし、プールお中に置いた1台がなんとなく曇っているカメラのミスかと思ったが、まだ調べていない。陸上で撮って見た限りではなんともない。

ところが、綺麗な方の一台、100mの決勝までは、良かった。次のバディブリージング競技で、ひと組のタンクがハーネスから落ちてしまって、その組は、プールの縁につかまって競技終了になってしまったのだが、その時にカメラを蹴飛ばしてしまって、それでカメラも終了になってしまった。こちらのカメラは最後まで回っていて倒れなければもっと撮れたはずと残念だ。

しかし、このカメラのおかげで、タンクが外れるトラブルの部分が全部撮影できている。このハーネスは主催者のこちら側が用意したものだから、そのトラブルはこちらの責任になる。次回からどうするかの反省材料になる。

雑誌取材用に水中撮影をしていなかったので、マリンダイビングと月刊ダイバーにこの写真を提供することができた。

1222 全日本スポーツダイビング室内選手権大会ー3

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 全日本スポーツダイビング室内選手権大会の特色のひとつは、生涯スポーツの大会だということである。生涯にわたっての健康と幸せのためのスポーツを目指している。
 午前中、幕開けのレースは小学生、それから次第に年齢を上げて、水産高校、海洋高校の生徒が主になるレースもある。大学対抗のリレーは昼休みの前辺り。そして、各種目毎に年代別の優勝者が決められ、表彰を受ける。僕は400mレースの60代の金メダルを四つ持っているが、70代に入り、ガタっとタイムが落ちたことから、そして、400m泳ぐのは辛いので100mに出たら惨敗した。以後、レースに出ていない。
 70代も後半に入ると、筋肉の質が変わってくるらしく、同じストローク、同じピッチで泳いでも、スピードが出ない。フィンを跳ねるようにして水を掻く、筋肉の弾力がうせたのだろう。
 しかし、プログラムを見ると、70代の女性が何人かでている。
 実は今年度僕も50mに出る気持ちだった。浦安海豚倶楽部でチームを作って出ようとしていたのだが、手違いがあって、申込みしていなかった。プログラムを見ると、今年度は、50m男子で60歳以上の出場者がいない。出ていれば金メダルだったか。
玉置先生

 石川さん、全日本潜水連盟の名誉会長である玉置さんと並んで、レースを見ていて、三人で出ようという話をした。玉置さんが会長で、僕が事務局長の時が、全日本潜水連盟の最盛期、頂点だった。全国制覇下1970-1980である。それはともかくとして、84歳の玉置さんは侮れない。フジヤマのトビウオ、古橋、橋爪の時代の関西の自由形チャンピオンだったという。

    篠田さん、深澤さん 高沢さん

50mフリッパーレース、女性高齢者の記録を見ると、竹内孝子さん79歳44秒、一位の篠田さんは64歳で38秒、二位深澤さん71歳40秒、三位、高沢さん、65歳41.4秒、竹内さんは惜しくも4位だ。僕はせめて40秒で泳げなければ、恥ずかしくてでられない。
とにかく練習を開始しよう、目標を持つことは良いことだ。50mを40秒を切って泳ごう。
浦安海豚倶楽部の女性は、60歳オーバーでも僕よりも速いから、1月の練習初めに、なるべく多くの選手をだして、勝敗はともかくとして、存在を示そう。
ちょっと泳いでみた。何か行けそうな気がする。
 
練習開始!

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