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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0216 2月14日 第35回 人工魚礁研究会 波左間

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      調査中 
 
 風邪気味で喉が痛かったので、咳、喉の痛みのパブロンを3錠飲んで寝た。3回ほどの細切れ睡眠だったが、よく寝て4時30分に目覚めた。まだ眠いが、眠ってしまったら7時の事務所迎えに間に合わなくなってしまう。
 本を読んで起きていようと、石西礁湖のナミハタ、「海洋保護区で魚を守る」を開く。眠りそうになるので、この本はだめ。スマホを開いて、ニュースをみる。コロナのニュースをみる。この先どうなっていくのだろう。オリンピックは、断固としてやる構えで行くようだ。
 5時にベッドから、抜け出るが眠い。車の中で眠れば良い、と無理に心を励まして、すでに準備してナップザックに入れてあるカメラを取り出してタイム合わせを確認する。スマートフォンのインターネット時報で見るのがスタンダードと教えられているのだが、僕の腕に着けているカシオのプロテックス、古い型だが、すごいもので、2秒と差はない。このプロテックスも衛星インターネットで時を取っているから当然なのだが、このプロテックスにすべてのカメラ、SJ4000、とAKASO braveを合わせる。これらは、手慣れているから良いのだが、360度カメラはなれないのであわせにくい。
 眠い
 トーストを2枚食べ、ミカンを一個食べて、部屋をでる。事務所倉庫では昨日準備してあるダイビング器材をリストで確認する。器材のバッグ、ドライスーツバッグ、ドライスーツは、サンファンに提供してもらっているスパージャージの最高級だ。昨日、そのサンファンが、倒産した、とか誰かがフェイスブックに書いていた。そういえば、ダイフェスに出典していなかった。僕が宣伝を満足にしなかったからか、?、そんなことも無いだろうが、どうしよう。どうしようも無いけれどなにか責任を感じてしまう。それにウエイトを台車に積んで、階下に下ろす。
 まだ眠い。今日は鶴町が迎えにきてくれる。
 カメラは、360度を4台、Olympus TG4、今日からイノンの小さいが、ガイドナンバー20のストロボを使う。久しぶりのストロボだ。長年使っていたイノンのストロボが、沈して以来ストロボは使っていなかったが、やはりストロボは必要か?と、ダイフェスでイノンの井上さんに相談して、使ってみることにした。sー2000である。
 そして、フィッシュアイのライト。これは、ライトの明るさ調節が壊れてしまっているので、50%に固定して使っている。
 アーム類は昔の名残がたくさん残っているのでいろいろ組み合わせて、昨日、形を作った。
 まだ眠い。
 そうこうしている内に6時50分になったので、階下を見ると、車が見えたので、カメラ類をもって降りて行き出発、地下鉄で来る増井さんを途中で乗せて、9時40分頃に波左間着。睡眠は途切れ途切れだった。
 メンバーは、山本徹、増井 turumati masako (フェイスブックがローマ字になっている。亡くなってしまった僕の調査潜水のバディ、鶴町通世の奥さんだ)河童隊の中川、水産工学研究所の佐藤允昭君、それに僕の6人、それにガイドのようにして、荒川さんが一緒に潜ってくれる。7人のチームだ。
 
 天候、海況は、波状の不連続線が昨日通り過ぎて、曇ってはいるけれど、波も風もなくて凪。
 眠気を振り払うようにして、カメラを準備する。今日は、長い棒の先に360度カメラを付ける。こうすれば辰巳で最近テストを繰り返しているような映像が魚礁の中で撮れる。自分と魚と魚礁だ。本当は360度カメラを多数設置して、たとえばドリームの下段。中段、上段、上方、4台同時に回して見たいのだけれどそれは、次の課題として、今日は棒の先
 その上に今日はOlympus TG4にイノンのストロボのテストもしなければ。僕の撮影は基本的に動画のカメラワークだから、スチルがブレてしまう。ストロボで止まるだろうか。60年水中撮影をやっていて、まだそんなことを言っている。が、昔の撮影ノートにも同じ事を書いている。撮影ってそんなものなのだ。 
 
 ドライスーツを着たら、少し眠気が去った。
 出来るだけの気合いを入れて、ウエイトを着け、タンクを背負う、背負わせてもらう。着慣れた古い古いアポロのプレステージは、さすがにあきらめて、(まだ使えるのだが、使えなくなった時に困るので)、このごろは、やや新しい、それでも10年以上まえのTUSAのリベレーターにしている。ようやく身体になれてきている。
 棒に付けた360度 とOlympus TG4 ストロボ付き(ことさらにストロボである。)Olympus TG4、カメラの二つ持ちは、今の僕には無理。鶴町にバディを頼んで、交代で持ってもらう事にした。
途中で交代する。360度カメラを持てば、自然と自分撮りになるから、彼女の顔も写るというものだ。
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 今日の1本目はFP22 4m角の大型10個だ。つまり、いつものコース。
 ログ
 潜水開始 10時11分
 最大水深 26、7m
 潜水時間 31分
 水温17度C
 
 ダイブコンピューターも廉価版なので、計時を秒の単位まで、いや分の単位までも、合わせていない。
 僕の潜水は、皆よりも小さめの10リットルタンクで、ターンプレッシャーは、80、3mの安全停止3分は、ダイブコンピューターにしたがってする。舟にあがったときの残圧は50と想定している。これで、チームの誰よりも先にあがることになる。
 僕が50ならば、12リットルを背負う鶴町の残圧は80だろう。
 透視度はまあまあよくて、20mぐらい。どんよりと透明だ。 
 魚は少なく、メバルもまばらだ。オオモンハタも2ー3尾がちょろちょろしているだけ。ミギマキが2尾、イラが、カメラの前を行き来している。
 イセエビとカサゴを探したのだが、僕はみつけられなかった。あとから山本さんの、これはアイフオンの立派なハウジングで撮ったものだが、写っていた。いたのだ。
 アイフォンの写真は、とてもきれいだ。カメラとスマホの区別がつかなくなってきている。
 浮上して舟の上にあがって、見ると、360度カメラは水没している。バスタブでのテスト、辰巳でのテストで、大丈夫だったのに、25mは無理なのか。公称耐圧30mなのだが。今、4台持っているうちで最初の2台は、水没せずに使って来たのに、新しい2台が危うい。何か製作上の問題点があるのだろう。中国製だから、改善のアドバイスなどできないが、完全な円でなく、角がある部分が問題なのか。これで、この360は、購入打ち切りだ。やはり、山本さんの使っているリコーの360が良いのだろうか。インスタ360は、絶対大丈夫のように見えたがダメだった。
 さらにショックなのは、カメラは水没しても、撮影済みのSDは生きていて、撮影結果は見られると思っていたのに、これもダメで、結局360度は映像なしになってしまった。
 Olympus TG4の方は、ストロボは安定して光り、問題なかったが、撮った写真は、やはりブレていた。動画とスチルの二兎を追うのは、やはりダメなのだ。
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    FP20 増井武氏撮影 全景 手前が須賀


2回目の潜水
潜水開始 12時39分
水深 22。7m
潜水時間33分
水温17℃
 2回目の潜水、僕はドリームに行くものと考えていた。耳が遠いと打ち合わせが不十分になる。打ち合わせても聞こえないのだ。だから文書、指示書によるブリーフィングになり、かえって良いのだが、このチームの場合には、役割分担が前もって決まっていて、以心伝心(良くない)になっている。
 すなわち、僕がやることは、一応文書にして皆にくばっている。鶴町は、僕のバディというか、僕の面倒をみてくれる。歳はとりたくない。が、仕方がない。バディシステムとは、バディの面倒を見てくれる、ことなのだ。
 いつもは、山本さんは、僕のめんどうを見てくれるのだが、鶴町が替わってくやってくれるときは自由に写真をとったりしている。増井さんは、なるべく広い絵、魚礁の全景を撮るようにお願いしている。この増井算の映像があるので、(このブログでも使わせてもらっているが)全体像が把握できる。佐藤君は、環境DNAのサンプリングだ。中川は、全体を自分の好きなように撮っている。だいたいみんな互いに見える位置にまとまっている。
 で、打ち合わせ不十分で、ドリームの近くのFP21魚礁、大型が20個乱積みに入った。(通称ニューパラダイス)

 あんまり魚は多くない。もう一つのFP22の方は中心部にイセエビがいる隙間があったりして、土地勘があるのだが、こちらの方はどの箇所になにがいるのかつかんでいない。
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 あれこれ、探して、鎌首を持ち上げたウツボにインタビューしていると、鶴町から移動のサインが来た。荒川さんの後をつくように、引かれたロープラインに沿って泳いでいく。このラインが、このFP21からタイヤ礁を通って、ドリームに至る道だ。
 前回には、この道の上空、5mほど上を通って全景を空撮のように撮った。下方に魚が濃かったから、今度は低空飛行で行くことにした。
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     増井武氏撮影 右下が低空飛行をしている須賀

 増井さんが俯瞰を撮ってくれているので、わかりやすい。
 オオモンハタも5ー6尾の群が見えたし、メバルも群れている。ニザダイ、タカノハ、イラ、その他、そしてイサキの群がタイヤ礁の外周を通過する。
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       オオモンハタ 左側
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       イサキの群れ

 さきのFP、そしてタイヤを経て、ドリームに至る魚礁群を一つに見立てることもできる。
 タイヤ礁は、昭和50年頃考えられ、このまま行けば日本全国の海は廃タイヤで埋められる勘定になったのだが、幸か不幸かタイヤには、なにか、環境を汚染する化学的な物質が僅かに含まれているとかで、取りやめになった。とりやめになったが、これまで入れた分を回収するほどの毒でもないらしく、放置されていて、魚礁の効果を発揮している。体裁はスクラップ置き場の雰囲気だが、なかなか効果があるのだ。(このタイヤは昭和58年沈設)
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   ドリーム 増井氏撮影 右手の棒カメラを持つのは鶴町
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    ドリーム上方のイサキの群れ

 僕の場合、一回の潜水で三つ見るのは難しい。
 FPを離れるとき、100以下になっていた。急がないと、50で舟にあがることが難しくなる。多分このタイヤ礁には、イセエビもいるとおもうけれど、探さないで通過する。「豊かな海」の表紙を撮りたいので、イセエビを探しているのだが。タイヤ礁とドリームの間は、25mか30mぐらいだから、うっすらとは見えるが、ドリームに到着したときは70近くなっている。中には入れずに、上面を少し見て、浮上のサインを鶴町に送る。佐藤君に知らせに行くほどの空気量はない。みんなと一緒だからまあ良い。
 さて、浮上にかかるが、舟がどこで待っていてくれるのか、ラインがたくさんあってわからない。とりあえず、減圧停止用のバーがあるところを目指して、浮上する。
 3分の安全減圧停止を適当に済ませて浮上すると、舟は15mほど離れたところにいる。スノーケルは使わずにそのままレギュレーターの空気で水面を泳いで、梯子に膝を付く、鶴町の方が先に水面にでていて、待っていてくれて、フィンを外してくれる。トライスターは、良いのだけれど、ドライで履くと外しにくく力を入れて引き抜かなくてはならない。海が凪だから良いけれど、波のある時は引き抜くのが難儀だ。バックルで外れるマンティスドライフィンの方がいいかもしれない。いや、やはり泳ぎやすさではトライスターだ。
 荒川さんと、屋外の浴槽にはいる。幸せな時間だ。古い友人って良いものだな。
 全部のダイビング、といっても2回だがこれで終了。朝が一番元気がなく、一回目のダイビングで自分を取り戻し、二回目のダイビングで、末期高齢者としては、十分満足の元気で終了し、勢いをとりもどして、東京にもどれる。
 昼は、他にお客が居ないときの恩恵で、サバフグの唐揚げと、雑炊、いつもおいしい。
 トータルして、幸せなダイビング。
 何時まで続けられるのだろうか。


0220 「ダイビングの歴史」108 学生 事故例報告について

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、事故を飛び石のようにたどっているが、自分の体験が、そんなにあるわけのものではない。他の実例になるが、それが、僕の、日本人の感性では書きにくくて停滞している。
 そこで、もう一度、第15代のブラックアウトに戻ってみる。振り返って見れば、ただのブラックアウトだが、それ以後、何度も何度も考え、反省というとちょっと違うがどうするべきだったかとか、考えている。
 他人のヒヤリハットなどは、なるほど、と思うにとどまる。詳細を書いた報告書ならば、それを読むことで知識の蓄積にはなる。経験にはならないが、
 自分の経験ならば、考え続ける。同じような学生の指導をするとき考える、スキンダイビングについて書いたスキンダイビング・セーフティにも、この事件のことを書いた。そして今も書いている。これからも機会があれば書くだろう。
 事故、事件の体験をすると言うことは、そういうことなのだ。考え続ける。
 修羅場を踏むと言う表現もある。と言って、こんな経験を積むことを奨励するわけにはいかない。だから、安全を口にするならば、自分自身が危なかった時のことも、自分が責任者であった時も、そのチームの一員であったときも、体験したことは書いて、できれば公表しておかなければいけない。二度と同じような事故を起こさない、起こさせないために。
 もしも、その自己に関わって、その責任を追及されて、裁判になった際のことも、その時の自分の主張も、その是非、責任の大小にかかわらず、事情が許すならば、公表する方が良い。
 この水産大学潜水部15代を境にして、僕は、母校東京水産大学潜水部に直接にかかわることは、無くなった。一切、出入りもしなかった。再び、潜水部とかかわる、付き合い始めるのは第40代からだから、25年間 ブランクがある。
 当時の自分の忙しさ、自分が創業した会社の経営状況を考えると、しっかりと面倒を見ることはとても無理だった。責任をおうならば、しっかりと、時間もかけなければいけない。中途半端はできないと思った。
 そして、25年間のブランクができる。


 一方で、水産大学潜水部は、昭和49年、1974年、18代だと思うので、15代のブラックアウトから、たった3年後だ。ブラックアウト事故を起こす。
 「大島にて、水中でのブラックアウトによる事故発生、肺に水が入り、自衛隊のヘリコプターにより、事故者を東京まで空輸」という記述が水産大学潜水部のあゆみ、というガリ版刷りに残っている。記録はそれだけであり、僕はこのガリ版刷りを、30年後、潜水部50周年の時に見せてもらって知った。それが誰だったのか、どういういきさつでそういうことになったのか、何も知らなかった。
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 なお、潜水部は50周年を期にして、OB 会を立ち上げた。50年間、OBの集まりがなかったのだ。それは、つまり、創立時の僕たちの責任であろうと、発起人となり努力をして会ができた、それを記念して立派な記念誌ができた。その記念誌に僕は、15代のブラックアウトについて書いた。
 一方、ヘリコプター搬送のことは、この立派な記念誌には、掲載されていない。この記念誌のために集めた資料の中にガリ版刷りが入っていてしったのだ。記念誌の編集者は、これは、死亡事故にならなかったから、世にもでなかったが、自衛隊のヘリで搬送ということは、紙一重だったのだろうが、祝、OB会発足だから、載せられなかったのだろう。それはそれで、良い。
 ただ、このブラックアウトを起こした代、第15代 第18代は、50周年記念誌にも60周年記念誌にも寄稿がない。トラウマになっているのだろうか。
 
 そして、水産大学潜水部では、ヘリコプター搬送の事故例があるのに、その記憶の継続がない。
 マスクウエイトと呼ぶプールで水平潜水をしながら、一息で、マスククリアーを何回か繰り返す練習方法を誰かが考え出して、何度もブラックアウトを起こしていると聞いた。浅いプールだから、直ちに引き揚げて、大事に至っていないが、ブラックアウトが年に一度はある、というような日常化に近くなっていたと、第45代、の井口聡子、今も親しくて、シンポジウムに来てくれているのだが、それを教えてくれた。僕は40代から付き合いは始めたが、練習を直接に見ることはなかったから知らなかったのだ。
 そのことを聞いて、すぐにやめさせたが、この間、事故にならなかったのは、幸運という他ない。
 もしも、僕が監督というようなものに就任していて、15代の時のように合宿、練習を見ていれば、ヘリコプター搬送もなかっただろうし、「マスク・ウエイト」によるブラックアウトも無かっただろう。
 そして、僕は館山実験所の技官であった、益子さんにインストラクターになってもらって、監督、のようなものになってもらった。
 名前、呼び名は何でも良いのだが、継続して見ている大人がいないということは、記憶が、記録が連続しない。そして、これは後で詳述するが、2003年から、学連でSAIと呼ぶ安全対策をやった事の体験だが、賽の河原の石積み、せっかく積み上げても、鬼、次の代がやってきて突き崩してしまう。もちろん本人たちは鬼の自覚はないのだが、これが、学連という組織の根本的な欠陥になる。そして、監督という指導者がいる大学といない大学の乖離もある。
 少し脱線した。学連については、後で書くつもりだった。
 ここで書きたかった事は、書くことに抵抗があっても、事故(ブラックアウトは、立派な事故である)があれば、その記録、それが個人の視点からの感想であっても、書き残しておく責任があり、公表して共有するシステムが必要であるということだ。社会人のレクリエーションダイビングでは、指導団体という仕切りもあり、難しくても、学生のクラブ活動では、それが可能であったはずなのだが。
 数日前、ということは、2020年の今日現在から数日前だが、社会スポーツセンターの瀬田さんから、電話があり、7ー8年前に小笠原で、スキンダイビングで魚を突いていた大学生クラブの子が亡くなった。海洋大学だったか、東海大学だと聞いているけれど、その詳細を知らないかということだった。
 何か、事故者の母親からの電話が、その7ー8年前にあり、記録していなかったので、詳しいことを知っていれば教えてほしいということだった。
 スキンダイビングで魚突きをやっているクラブ?グループが海洋大学にあることは、知らされている。公式の大学承認の活動ではなく、自由にやっているクラブだとか。そのことは、聞いているけれど、事故のことは知らない。こんど潜水部の学生に聞いておくと答えておいた。東海大学のことは、知らない。聞いていない。
 同じような事故が起こる可能性があるので心配している。大学生の事故が報道されると、文科省から、社会スポーツセンターに聞いてくるので、詳しい情報を把握しておきたいとの事だった。
 ダイビング雑誌などでも、ヒヤリハットのことは気楽に書ける。しかし、死亡事故の詳細は、かかわった人たちを傷つけることになろうと書けない。当事者が発表、公表しているものがあれば、その引用はできる。
 

0101 日記と読書

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日記 31-1日
 31日 「完結 スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け」
 1977年が第一作だというから、40年余だ。そのほとんどを見た。全9作のうちで、7っは見ている。
 考えると辻褄のあわないところがずいぶんあるけれど、作り続けられた理由は、3D アイマックスができたからだ。3Dアイマックスは、スターウォーズとともにある。あった。完結編などと言っているが、復活は可能だ。ラストシーンで、あの光の剣を毛布に包んで砂の中に埋めている。掘り起こせば良いだけだ。
 もとより、荒唐無稽な空想の世界の出来ことなのだから、そのスターウォーズ・ワールドの中で、3Dでスカイウォーカーが超人的に躍動すれば良いだけだ。しかし、後で述べるように,その架空のワールドに矛盾があってはいけない。夢が破れてしまう。
 ストーリーはでたらめだったけれど、スターウォーズ・ワールドの綻びは、ほとんどなかったように記憶している。ストーリーは、でたらめだけど、ストーリーは、どうでも良いのだ。ジュダイがダークサイドを滅ぼして完結する。映像としては、うまく作られていた。そして、体育界系女子、ディジー・リドリーも悪くない。
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 スターウォーズを見て、戻ってきて、9時ごろから、紅白を見た。テレビは見ない習慣なのだが、年に一度、これは見る。(このことは、フェイスブックで書いたので、そのまま転記する)
 「紅白を21時ごろからみました。テレビ、知った人の作った番組以外では、これだけは、見るのです。良かれ悪しかれ、これで、その年の世情がわかる。オリンピックイヤーとかで、スポーツ一色でした。そして、オリンピックは空虚、ラグビーはチームのほとんどが来ていて、ユーミンが歌って、(歌詞は全然聞こえない)涙を流していて、ちょっと良かった。そう、ラグビーが収穫だった年、競技そのものもだけど、外国人選手が日の丸のもとで、桜のジャージを着て戦い、日本人が何の違和感も無く、感動したこと。
 そして、歌では、歌だか踊りだかわからない支離滅裂の中で、ただ聞こえたのは、「さよならあなた、連絡船線に乗り」。連絡船って、今の子たちはわかるのかな。船の科学館、羊蹄丸が無くなってしまったこと、悲しい。」
 とにかく、映画もテレビも音楽も耳が悪くて、明瞭に聞き取れないのだから、良いも悪いもない。
 
 あけて、2020年、新年だ。デンマークの竹川さん、法政OBの山中さんら、大学潜水クラブOB関係へのメールを出す。メールの原稿はすでにつくってあって、それを推敲して出す。
 シンポジウム報告と映像をファイメールでだす。なぜか、シンポジウム報告をグーグル添付で出そうとしたら、サーバーに拒否された。
 表に出て、深川富岡八幡経由で事務所に行き、届いている年賀状をピックアップするつもり。街はそれほど混雑していない。縁日で名物のベビーカステラの行列も長くはない。縁日の露店、新しい店がいくつか、「コットンケーキ」って、綿菓子を薄いプラケースに入れたもの。プラスティック公害の見地からは望ましくないな。どーでもいいけど、と言ってはいけない。問題にしなければ。
やはり、どーでもいい。
 いい天気だけど、風が冷たい。海は時化だ。元旦の初潜りは無理だろう。波佐間の海底洲崎神社の参拝が少なくなるのでは、と心配する。
 不動尊は、混んでいることがわかっているから素通り、八幡宮の方は、ちょうどいいくらいの列だ。20分ほどで、お賽銭をあげることができた。不景気のため、お札は少ないみたいだ。
 
 来ていた年賀状は、100枚前後、選んで、60通に返事的に、100枚用意した賀状に宛名をプリントした。賀状、拡大の時には、この人にも出そう、名刺をいただいたあの人にもご挨拶しようと、拡大していくが、あけて85歳、縮小の方向だ。やむを得ない。
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 できた賀状を出しに行き、ポストの向かいにあたるブックオフが元旦から、まじめに店を開けていて、割引もあるので、①作家と一日 :吉田修一:この人がANAの機内誌に書いている小文が好きで、小説は肩が凝るので、読まない。その小文集 ②沖縄・先島への道:司馬遼太郎、たしか前に読んでいるはずだけど、読み直してもいい。110円だから。③米国製エリートは本当にすごいのか:佐々木紀彦 おもしろそう。そして、ここまでは文庫で、④だいこんダイバー : 赤木正和・田中光嘉 2008年の著作だ。田中光が、こんな本を書いているって知らなかった。だいこんが減圧症の原因になるって本だ。おもしろそうで、読めそうだ。⑤ひと息で挑む紺碧の世界:なぜか亡くなってしまった木下紗祐里の半ば写真集の本だ。好きな子だったのに、なぜ?一月元旦、
なぜか亡くなった友人二人の本と出会った。
 
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 読んだ本の書評をしようとしていた。ついでに書いてしまおう。
 「星系出雲の兵站:林譲治」これは、ここまで、6冊出ていて、スターウォーズだけど、次、続きがでるのを楽しみに待っている。実は今、この手のファンタジー、宇宙戦争ものがブームなのではないだろうか。僕は、そのほとんどに目を通している。書く時間もないし、めんどうだから書かないけど、権威かもしれない。大した権威ではないけど、面白いのだ。
 「十二国記 小野不由美 白銀のオカ 玄の月 」十二国記は、フアンで、ほとんどが書架に保存になっている。今度のこれは、出版社、新潮社の鳴り物入りの宣伝で、1000万冊とか。
 18年ぶりの書下ろし、つまり、18年間抛っておいた作品の続きだ。そして、全4冊だ。
 これは、はっきり言って、詐欺のような小説だ。これまでの十二国記ならば、上下2冊だっただろう。上記のようにファンタジー戦争ものがブームなので、それに乗ったのだろうが。
 4冊にしたために、テンポが緩くなった。全4冊を3冊だけ買って読んだのだが、それでも緩い。そして、この本、十二国記は、もちろん荒唐無稽、、スターウォーズは、これに比べれば、かなり現実的?な世界なのだが、作られた世界に嘘がなければ、矛盾がなければ、なんでもありなのだが、ひどい矛盾がある。この世界で神格を持つような人たち?は、騎獣という空を飛ぶ騎馬に乗って移動している。十二ある国から国へは、これに乗って飛んでいく。幽閉された王を、戦いで腕を一本なくしている女性の将軍がこれを探し出すのだが、探し出した後、空を飛ばずに、森の中を歩いて移動していて敵につかまってしまう。それをもう一度救出するのに一冊を使っている。ファンタジーであるから、作者の頭の中で作られた嘘の世界なのだから、それに矛盾を重ねてはいけない。
  

お台場 まとめ&12月29日

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12月29日 きれいなヘドロ

お台場のことを書いているとき、自分の書いたことを調べる。直近のブログリストである。9月に、まとめ的に6回連続で書いている。 https://jsuga.exblog.jp/29634639/ なぜお台場  0911
https://jsuga.exblog.jp/29641978/ お台場物語 2 0916 https://jsuga.exblog.jp/29645432/ お台場物語 3 0918 https://jsuga.exblog.jp/29651751/ お台場物語 4 0922
https://jsuga.exblog.jp/29657620/ お台場物語 5 0926
https://jsuga.exblog.jp/29661022/ お台場物語 6 0928 ところで、お台場に月例で潜っていることの最近の記録は? https://jsuga.exblog.jp/29550448/  8月2日に 6月の代70回と7月の171回をまとめて書いてある。6月をスリップさせてしまったのだ。 https://jsuga.exblog.jp/29610349/  8月27日に 8月25日実施の記録を第172回を書いている。。 https://jsuga.exblog.jp/29676527/  10月8日に 173回の9月29日を書いている。  ここでプッツンと切れている。10月以降の記録がない。 ブログとはログ 記録なのだから、お台場の記録がきれている。そんなはずはないと焦った。 わすれていたのだ。10月は東京湾大感謝祭と重なったり、尾島さんの都合がわるかったりで、中止にして11月17日と12月29日で、今年度は終了、1月以降はオリンピック準備のために、お台場に入場できないので、オリンピック終了まで、お休み、オリンピック終了後もお台場が港湾局の管理に戻らないので、何時再開できるか見通しがつかない。ということになった、 それにしても、11月17日と12月29日 第174回と175回の記録、ブログ、ログがない、12月1日のシンポジウムの準備に追われて、ブログを書いていなかったのだ。12月29日の記憶はあるけれど、11月17日の記憶はまったく消えている。そういうことなのだ。書いておかないと端から忘れ去っていってしまう。85歳とは、そういう年齢なのだ。そして、書いたとしても、それをどこに書いたのかわすれさってしまう。11月17日、カレンダーの予定表に「お台場」とかいてあるだけだ。
写真記録をみると。11月17日は 午前中の水中 終点の杭の列まで行っている。っている。ほどんど魚は映していない。午後は360度カメラを棒の先に付けてとっている。牡蠣を割って、魚を集めて撮影している。このことをブログに書かないはずはない。もう一度ブログを調べる。ブログにはやはりなかったので、フェイスブックには、何か書いてあるはずだ。フェイスブックを調べる  フェイスブックにこれだけあった。
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「お台場,二回潜水、それなりに疲れた。牡蠣を割って魚を集める。ようやく、イソガニ(タカノケフサイソガニ)が姿を見せた。今年初めて見る。健在だったのだ。
小さいエビが多数。シラタエビだとか。午後には全部姿を消した。潮時で出てくるらしい。
お台場で360度カメラ、面白くもおかしくもない。」
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牡蠣を割っての魚集めに成功している。360度撮影、カメラは無事だったが濁った水が撮れているだけだ、 12月29日 第175回 これは、記憶にある限り書いておこう。 この日、すでに工事が始まっていたが、工事はお休みで、一般の人は日曜日でもだれも来ていない。 東京都港湾局環境課の羽田課長 さんが来られて、1月の中旬には、砂をコース上、おおよそだけれど、泳ぐコースの上あたりに覆砂するそのことについての僕らの意見をききたいということだった。 研究者の多留さんとしては、効果があるかないかわからないといういけんだった。僕もわかるはずもないが、匂いのもとである硫化水素の上を覆うのだから、一定の効果はあるとおもう。 そして羽田さんの説明では、コースは岸に沿った岸近くになるとのことで、これは、良いことだと思う。 一年前にオリンピックパラリンピック委員会にやはり意見を聞かれてお話に行ったときには、コースはお台場の中心を横切るような形の図を見せられた。 お台場海浜公園は、中心部はマハゼが巣穴を掘るようなやわらかい泥、俗にはヘドロである。 夏季、このあたりの海底は、富栄養化による赤潮(プランクトン)群衆が沈殿して、表層水温が上昇して、そして撹拌する強い波もないために海底との対流が起こらず、海底は無酸素状態になる。マハゼは酸素不足に強く、だから江戸前の魚なのだろうが、無酸素の海底にも元気でおよいでいるが、無酸素のヘドロの中に硫化水素が発生する。この硫化水素は猛毒とされているが、海底の泥を掬って舐めるわけではないから、僕らに被害を及ぼすわけのものではない。 水中を潜るぼくらに何の被害もないのだから、水面を泳ぐトライアスロンの選手に被害が起こるとは思えないが、硫化水素は匂うのだ。いわゆるどぶ泥のにおいは、この硫化水素が発する匂いである。2019年夏の予備大会で泳いだ選手の何人かがトイレの悪臭がすると発言したために、臭いものには蓋、ヘドロを砂で覆ったら匂いが治まるかと覆砂が行われる。 風呂田先生は覆砂について、どちらかと言えばネガティブな意見で、ヘドロの下に沈んでしまってあんまり効果はないのではないかという。   お台場海浜公園は、中心部はマハゼが巣穴を掘るようなやわらかい泥、俗にはヘドロである。 夏季、このあたりの海底は、富栄養化による赤潮(プランクトン)群衆が沈殿して、表層水温が上昇して、そして撹拌する強い波もないために海底との対流が起こらず、海底は無酸素状態になる。マハゼは酸素不足に強く、だから江戸前の魚なのだろうが、無酸素の海底にも元気でおよいでいるが、無酸素のヘドロの中に硫化水素が発生する。この硫化水素は猛毒とされているが、海底の泥を掬って舐めるわけではないから、僕らに被害を及ぼすわけのものではない。 水中を潜るぼくらに何の被害もないのだから、水面を泳ぐトライアスロンの選手に被害が起こるとは思えないが、硫化水素は匂うのだ。いわゆるどぶ泥のにおいは、この硫化水素が発する匂いである。2019年夏の予備大会で泳いだ選手の何人かがトイレの悪臭がすると発言したために、臭いものには蓋、ヘドロを砂で覆ったら匂いが治まるかと覆砂が行われる。 風呂田先生は覆砂について、どちらかと言えばネガティブな意見で、ヘドロの下に沈んでしまってあんまり効果はないのではないかという。  僕の考えでは、この覆砂がこの海域全体、覆砂をしていないヘドロ部分がまだ多いはずだから、その部分も含めての環境改善になるとは思えないが、覆砂した部分での硫化水素の発生が抑えられれば、その直上のにおいは軽減するのではないかと思う。お台場の人口砂浜は、ヘドロの上を覆っている部分もあるはずだが、その部分、つまり砂浜部分では硫化水素は発生していないと考えられる。 硫化水素の発生とその度合いについて僕らは定量的に測定したことはない。僕自身は測定の方法も知らない。 ただ、硫化水素の発生しているところには、硫黄細菌(硫黄バクテリア)が発生している。硫黄細菌は白い髪の毛のような形で海底を覆っている。硫黄細菌が毒なのかと、思っていたが、硫黄細菌には罪はなく、硫化水素を同化している。硫化水素を減らすことにもなっている。 この海底の白いカビのようなものは、ライン撮影で確認できるから、これで硫化水素の有無を視覚的に調べることができる。と僕は思って、2016年、17年、18年、19年と夏季の硫黄細菌の多い時にライン撮影している。 冬季には、ヘドロの上も無酸素にならないので、硫化水素は発生せず、硫黄細菌も見当たらない。きれいなヘドロである。 そのきれいな状況を、70mのライン撮影をした。 後から、この映像を羽田課長に送った。 これで、オリンピック前の例えば6月に同じラインの上を撮影して硫黄細菌が出ていない、あるいは少なくなっていれば、硫化水素の発生は防げたとみられるだろう。 風呂田先生の意見では、確かに、硫黄細菌の生えているところは硫化水素が発生しているが、硫黄細菌が見えなくても、硫化水素が発生していないと断定することは難しい。測定して見なければわからないという。研究者としての意見としてはそうだと思う。僕はかつて研究者の卵で会った時から、須賀の考え方は短絡的でいけないと怒られたが。僕はとりあえず短絡的に考えて、その検証をすればいいのだと思っている。 硫黄細菌の少ないところは硫化水素がない、もしくは少ないと短絡的に考えて、その場の硫化水素を定量的に測定して、比較すればよいわけだ。
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 さて、第176回の調査はいつできることだろう。

0224 ナミハタの話

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       写真はすべて、「海洋保護区だ魚を守る」より転写

「海洋保護区で魚を守る」サンゴ礁に暮らすナミハタのはなし
 名波敦・太田格・秋田雄一・河端雄穀 著 恒星社厚生閣 2018
 著者の名波敦氏は、1990年代、千葉県館山の磯根・人工魚礁調査をご一緒したことがある。当時名波さんは水産工学研究所に所属しておられ、潜水技術については、自分よりも優れていると思える良いダイバーであった。
 その後、南西海区水産研究所 亜熱帯研究センター(八重山支所)に移られ、研究活動の成果の一つとして、この本にかかわる研究をされた。日本水中科学協会については、その創立会員であり、最新ダイビング用語辞典のリサーチ・ダイビング部分の執筆をお願いし、書いていただいている。、今度もリサーチ・ダイビングの入門書、テキストとして「リサーチ・ダイビング」を企画するにあたって、21世紀の現役研究者がフィールドワークとしてのスクーバダイビングをどのように実施しているかの部分を分担執筆する予定である。
 なお、「リサーチ・ダイビング」は、できるだけ早く成山堂書店より刊行すべく執筆を開始している。この夏には須賀の書く部分を書き上げ、そのラインで分担執筆者に執筆をお願いする予定でいる。
 本題の「海洋保護区で魚を守る」であるが、名波さんにお願いする執筆部分は、この本のダイビングフィールドワーク部分を書いていただければと考えている。
 この本は、サンゴ礁に暮らすナミハタの産卵集群を海洋保護区を作って保護していくことをあらゆる角度から、実際の活動を書かれたもので、リサーチ・ダイビングに関心のある者、必読と言っていい。共著であることから、記述が重なる部分もあるが、そのあたりをダイジェストしていただいて、ダイビング技術をメインテーマで書いていただく予定にしている。
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 本のあらすじを紹介する。
 産卵集群とは、産卵のために魚が集まってくることで、サンゴ礁に暮らす魚は、この習性を持つ魚が多い。ハタの類も、そのほとんどぽぷの種類でこの習性で集まる。そして、その集まる習性のために、そこをねらって漁獲されてしまう。研究が行われた石西礁湖では、海人による突き獲りが主であり、集まってくるとき、4-6月の下弦の月、満月(大潮)から7-8日後の小潮まわりの時に集まってくるのであるが、その時に大漁されてしまって、漁価も暴落するほどである。産卵に集まる親を大量に漁獲していれば、魚が減っていくのは当然、のように考えられる。そこで保護区を作って、産卵時期を禁漁にして、保護するわけだが、これは漁獲を行う海人の協力がなければ、実現しない。この協力の実相も詳細に書かれているが、これもたいへん面白い。
 さて、ナミハタとはどんな魚だろう。僕は概して魚の種類に暗いので、種類で魚を追わないこともあり、これがナミハタだ、という写真を撮ったこともないのだが、こんどは、探そう。地方名は、サッコーミーバイ、ミーバイとは、ハタの類のことである。食用漁としては、ポピュラーで、漁獲重量としては、第二位、小型であるので、尾数としては一番多い。全長は30cm前後、ハタの類としては、小型である。4年で成熟して、だいたい20年ぐらい生きる。、性転換する。性転換は、サンゴ礁の魚としては珍しくないのだが雌性先熟、まず雌になり、そのあと雄になる。当然、大きい魚は雄である。
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 石西礁湖での産卵の場所は、この本では10か所紹介されているが、ここで保護区として詳細を取り上げられているのは、マンタが回ってくることでも有名なヨナラスイドウである。ヨナラスイドウのどこに、集まるのか、何尾ぐらい、何時集まるのか、名波さんたちは協力してくれる海人も交えて潜水で調べて行くのだが、流れの速い水道で、流れの速いポイントに集まる。どんな潜水をするのか、水中で、安全に、楽に、正確に調べなくてはならない。そのための道具は?
 集まった魚は、どこから来たのだろうか、産卵場にどのくらいの期間とどまるのだろうか、そして、産卵が終わったら、元の住処に戻っていくのだろうか。
 標識放流、名札を付けて放流して、採捕された場所と時間から判断する。標識を付ける魚は元気な魚でなければならない。突いて獲られた魚ではだめなのだ。水中で、短い釣り使って釣りをする。釣れた魚の雄雌、大きさを記録して、タグ(標識)を手早く、水中で付けて、元気な状態で放さなければならない。これを潮の速いヨナラスイドウでやらなければならない。ダイバーならば、その大変さがわかるだろう。今の僕には到底できない。
 これを調子のよい時には、一日に83尾とかやっている。名波さんらの表現によれば、とにかく潜りまくったという。水の暖かい、そして透明度の良い石西礁湖だからできたのだろうが、大変な潜水作業である。
 もう一つ、移動と滞在、そして、ナミハタのお出かけを測定する方法として、魚に超音波発信機を取り付け、これを受信機で受信記録する方法がある。超音波テレメトリーである。
受信機は1台25万円、発信機は5万円もする。発信機は、小さいとはいえ、30cmのナミハタにとっては大きいから、手術で身体の中に装着しなければならない。受信機27台、発信機は30台以上用意して 装着した。
 27台を潮の速いヨナラスイドウの要所に流されないように設置しなければならない。GPSで位置を決めて設置する。発信機を付けた魚が受信機の近くに来れば、それが記録される。
このごろの調査は、めちゃくちゃにエレクトロニクスなのだ。
 そんなこんなで、ナミハタは、一番遠くて8.8キロ離れたところから来て、産卵後は元の住処に戻ることがわかった。滞在日数は、雄が早くから来て、雌よりも遅く帰る。雌の滞在日数は、およそ7-8日、雄はその3倍ほど長く滞在する。
 当初、産卵場所の保護は、2日間だったが、それでは産卵のために集まるオスはみなとられてしまう。20日ぐらいに延長するわけだが、そのことを海人に納得させるためには、このような科学的、手間のかかる調査を繰り返さなければならないわけだ。
 また保護区を設定して、マークするブイを入れると、そこは、魚が確実に居ますという場所になるから、マイボートで釣りに来てつられてしまう可能性もある。レクリエーションの人たちにも周知して協力してもらはなければならない。
 また、このような苦労が本当に効果があったのか、その効果はどのくらいか、そのことも検証して証明して継続していかなくてはならない。
                
 そのようなことども、この本は詳述している。
 また、この本は石西礁湖という場所、海を知るためにも役に立つ。
 

0227 お台場 2020調査企画

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 コロナは厳しさを増し、この数週間が食い止められるどうかの山だという。食い止められない事態も十分に予測できる。だから、と言って自分を含めてだが、日本全国民が自宅に籠っているわけには行かない。そのことが、コロナの恐ろしさなのだが、
今日は都庁にお台場の潜水について、打ち合わせ、お話に行ってきた。
地下鉄に乗るのが恐怖だったが、大江戸線は空いていて、人との接触は最小限にとどめられた。
都庁、港湾局環境課、公園管理課 にお邪魔して、企画書をお渡ししてきた。
都庁は、みなさん元気に見えた。マスクをしている人は、20%ぐらいか、
僕は喘息の気があるし、寒さアレルギーのくしゃみが出るので、マスクは必携だ。くしゃみを連続して、地下鉄を止めてしまう恐れがある。それが一番恐ろしいのだ。混んでいる電車には乗れない。
 都庁の中では、咳もくしゃみもでないので、マスクは外していたが。

2020お台場潜水調査企画
日本水中科学協会
須賀次郎
Ⅰ 調査の沿革
 調査の沿革
東京港水中生物研究会は1993年より,東京湾潜水探検隊という名称で潜水を行っており、1996年お台場海浜公園リニューアル公開から、水中のクリーンアップを企画し参加しており、その延長線上で、1996年12月から、正式に水中の潜水調査を開始した。
2012年よりは月例として、これまでに述べ183回の調査を行っている。
 2020年も調査を継続するよていであったが、オリンピックトライアスロン競技などの会場になるため、観覧席の工事、等で、砂浜からのエントリーができなくなり、また海面も工事、競技の練習などのため立ち入りができなくなり中断している。
調査の予定
日本水中科学協会では、生物研究会のお台場調査報告書をまとめており現在部数が残っているものは、2016年版と2017年版(発表は2018年)である。
 2020年版を予定していたが、調査中断のためにできなくなっている。
 2020年版はできないので、2021年に これまでの総まとめとして、できれば、資金が溜まればだが、書籍として刊行したい。
 ※できるだけ早く調査を再開したい。死ぬまでに、やらなければいけないこといくつかあるがそのうちの一つだ。急がなければ。
Ⅱ オリンピック競技とそのための環境改善としての覆砂
 東京都港湾局では、トライアスロン競技者が競技中どぶの匂いを感じたと発言したことを受けて。それを改善する努力として、異臭の元と思われる夏季の無酸素状態によってヘドロ海底に発生する硫化水素を覆い抑えるために、きれいな砂を入れる工事を行った。
 東京港水中生物研究会としては、この覆砂を一つのイベント(出来事)としてとらえ、その効果と、生物に対する影響を調査したい。
 覆砂の効果については、研究会のメンバーで意見が種々出ている。
 異臭を抑える、硫化水素を抑える効果については、覆砂の後、夏季の無酸素状態を迎える6月に調査を行わなければわからない。
 
 本企画案作成者の須賀の私見としては、硫化水素発生を抑える一定の効果が見られるものと考えている。
 しかし、その効果が一過性のものなのか、ある程度継続してお台場の環境改善に効果があるものなのかは、継続的な調査を行わなければわからない。また、お台場生息の魚類などにあたえる影響も継続調査したい。
 ※お台場における優占種であり、なお、有用種として、江戸前と言われるマハゼがある。
マハゼはヘドロ域に巣穴を掘って冬季2-3月に産卵する。1996年に巣穴の存在を確認しているがその後調査していない。
 ※お台場では、外来種ではあるが近年クラムチャウダーなどで、船橋で人気があるホンビノスが砂とヘドロの中間域あたりに相当量が見られ、風呂田先生らが調査している。覆砂によって、ホンビノスの生息域が拡大するだろうか。
 ※風呂田先生は、覆砂はヘドロとの比重の違いで、ヘドロの下に沈み込んでしまうので、効果は継続しないと考えておられる。
 須賀の考えでは、覆砂は最終的にはヘドロと混ざりあいヘドロが表面にでてくるであろうが、その前の状況として、ヘドロ交じりの砂になり、それがかなりの期間持続する。その間、硫化水素の発生がどの程度抑えられるか継続的に調査をしなければわからない。
 そして、砂が播かれた、覆砂された位置によってもそれは変化するであろう。
 これらの覆砂の推移は、継続した定期的な観測、ライン調査で資料を得ることができる。
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Ⅲ 調査計画査計画
 1.これまで通り、2017年の調査報告書に掲載した項目は継続的に実施していく。
   魚類、甲殻類 多毛類 植物 など
 2.ホンビノス貝について、風呂田先生 杉原奈保子(東大)の研究
 3.現在南極観測隊の自見直人君が、多毛類の新種をお台場で発見しているが、その追跡
 4.覆砂のライン調査 これまで、須賀は2016年から17,18,19とヘドロ域と砂場へのライン調査を硫化水素を同化している硫黄細菌の消長について行っている。
 硫黄細菌の消長がそのまま硫化水素の消長を示していることは実験的に確認されていないが少なくとも、硫化水素のないところに硫黄細菌は繁殖しない。ラインちゅさを行いつつ専門研究者の研究参加を待つ。
Ⅳ 調査実施の方法について
 調査の中断している理由は、研究会の水中への出入り、エントリーエクジットが砂浜部分から行われているため、工事中、あるいは施設撤去工事のために、砂浜部分への出入りができなくなったからである。もちろん競技の妨げになる期間はできないが
 通常の調査工事のように、潜水調査船を仕立てて海から入る方法ならば、実施できるのではないかと考える。費用が掛かる(傭船料他)ので月例ではできないが、春夏秋冬の4回ならば可能と考えている。その乗り入れとか、潜水方法については別途考えて海保への申請などを行わなければならないが。
 諸般の情勢を見極めつつ、9月には必ず再開できるようにしたいので、ご支援いただきたい。
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0304 今日予定のワークショップ中止したこと

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 ※予定ならば、今日ワークショップを開催でしたが、中止にしました。


 ブログが書けなくなってしまった。学生のダイビングについて、リスクマネージメントの事を書いていたら、国として立ち向かわなくてはならないリスクマネージメントに遭遇している。
 僕は、医学の専門家ではないから、その方面のことを書けばすべて受け売り、シェアをするだけだ。だから、自分の書いたものとしてブログにリリースできない。
 しかし、ブログは自分のためのログ、記録だから、やはりここは、2020年3月3日、そうだ、今日はひな祭りですね。その時にあったこと、考えたことを書いて載せておかなくてはいけない。ただし、状況は時々刻々変転するから、今書いていることが、今考えていることでしかない。
 リスクマネージメントについては、ダイビングについてはその専門家とはいえないまでも考え続けている。今度のコロナのような事例については、よくわからない。わからないから、はっきり言ってパニックになった。パニックになり、4日にする予定だった、ワークショップ「マチャアキ海を行く」を中止してしまった。被害が出た失敗ではなくて、反省するだけの失敗だから、しっかり反省しよう。
 ダイビングのリスクマネージメントは、常に最悪の事態を想定して、行動することなのだが、とすると、レクリエーションダイビング活動そのものができなくなってしまう。ダイビングなど、不要不急のことなのだ。ただ、プロのダイバーになってしまった以上、それは不要不急ではない。なお、プロの定義をこの前に書いたけれど、ダイビングという活動を自分の生き方、生きる世界の中心か、もしくは中心付近に置いていて、それがなくては生きていけないと思っている人、とした。
 ダイビング、および、ダイビングにかかわることは、不要不急ではない。しかし、そのダイビングは、いつも最悪の事態を想定してとりかからなければならない。
 そして、マチャアキ海を行く だが、そのプロデューサーであった田島さんを招いての映像を見ながらのトークだった。その田島さんが高齢でもあり、コロナの心配もあり、おいでになれなくなってしまった。その時点で、中止すれば、それでよかったのだが、田島さんの代わりに僕がトークしてでも、映像だけ細々とやろう。おそらく、来る人もすくないだろうから、と計画を変更した。
 そして、総理大臣の公立の小中高校の閉鎖が来た。これは、社会の重要な機能を一時停止する重大な事項である。それに煽られて、最悪な事態を避ける方向に傾き、中止を決断した。 次の日、辰巳のプールでスキンダイビングの練習をすることができて、中止の判断は誤りだったと実感した。辰巳は個人使用は3月15日まで、休止、団体使用はこれまで通り、バランスがとれている。
 
 さて、ダイビングのリスクマネージメントは、準備とともに、一瞬の判断が要求される。一瞬の判断、とは、半ば運、自分の感覚の判断である。それが間違わないように、常に恐れている、恐れを財産として、判断の基準にしている。その感覚が働いてしまった。しかし、海での行動と、少人数で開催するワークショップとは、まったく違った行為である。それに
ダイビングのリスクマネージメントの現場判断の感覚を乗せてしまった。パニックである。
 自分のリテラシーと重ねて見た、反省文を書いている。
 危険に対応する判断基準は、自分の恐れの感覚に基づく直感的な判断と、釣り合いの感覚を重視した長期的な展望についての判断である。コロナの場合、ここでは、釣り合いの感覚、バランス感覚を重視するべきところだった。
 次のワークショップは、4月18日、古石場図書館主催の、「東京湾、入り口の波佐間と行き止まりのお台場」で、僕の映像を中心とした講演である。
 どうするべきか、古石場図書館は、昨日から休館になってしまったが、3月25日に再開である。僕の4月18日は微妙だが、集められる人数は少ないとしても、僕としてはベストを尽くしたい。


 写真は 意味のないカットです。
 デジタル毎日新聞にお台場の僕の活動の記事が載りました。
 

0305 日記 

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 4月18日に僕が東京湾についての講演する予定の古石場図書館は、3月25日まで休館、スキンダイビング練習会をやっている辰巳国際水泳場は3月15日まで一般の個人使用は休止、ぼくらのような団体使用だけが許可されている。それで、僕らの練習は、次が3月17日、その次が3月24日、その次が、30日、これでオリンピック準備のために休館、10月か再開予定だが、3月一杯は、薄氷を踏む思いだけど使える。浦安運動公園は、15日まで休止、その先はわからない。そして関わってはいないけれどディズニーランドも、3月15日、16日を目途にしている。
 ともかく、15日~25日、遅くも3月一杯で、次のフェーズに入る。
 ニュースウィークの特集では、コロナで直面する日本の悲劇で、最悪なストーリーは、経済の崩壊である。
 会社、生産設備の全停止、日本の国を一時的にフリーズさせる戒厳令もあるような風評ニュースもある。しかし、それは、中国のような常時戒厳令じ状態のような 国で、しかも、限定された地域でなければできないと思う。日本で、東京を、一時的にもせよ、フリーズすることはできない。14世紀のパンデミック、ペストのような死亡率ならば、(ヨーロッパでは三分の一の人口が失われた)イチかバチかになると思うが、今度のコロナの死亡率ならば、これしきのことで、日本と言う国を停止させてしまうことは考えられない。

 
 それにしても、コロナってなんなのだろう。立ち止まって考えてみよう。
 僕が参考にさせてもらっているのは、沖縄の高山義浩先生のコメントで、先生は沖縄中部病院のお医者さんで、厚労省関連の疫学方面の仕事もされている。なぜだか僕のフェイスブックの友達になっていて、そのコメントが目に入る。もしかして、ダイバーなのか?
 バイアスがかかっていないようで、しかもわかりやすい。

 そこで、先生のコメントで2月初旬のものだが、コロナは、風邪でくくられる流行性の疾患で流行の根源であった武漢では、致死率が6%と突出しているが、他のところでは、1.4%とか1%以下、罹患した人の80%は無症状である。逆に無症状であることが、流行を拡大する要因になっている。
 拡大が停止,収束するためには、国民が例えば20%とか、60%とか、なにがしかの免疫性を持つ、必要があるとか言われている。そして、今度のコロナの場合には免疫性が無い可能性もあるとかいう意見もある。
 ※ここに書いているのは、高山先生の意見、そのままではなくて、他の資料、発表されたものを見ての自分なりの要約も含まれている。読んだ資料の中で、高山先生の意見になるほどと思ったということであり、ここに書いたものの責任の一切は自分(須賀)にある。

 ここからは、様々な意見の中からの寄せ集めだが、
 武漢がなぜ突出しているかと言えば、これは、急な患者増加で医療が崩壊した。重症者が治療を受けられずに死亡したのだろうということだ。もともと、あの国の人は、行列できない。我先に突撃する。今回のことが教訓になって改まれば、良いのだが。
 
 中国の医療が患者急増で崩壊してたことが、日本でも起こるのが恐ろしい。免疫性を獲得するまでの致死率の勝負なのだろう。とすれば、今回の一連の措置は、急増の山を低くして、医療の崩壊を防ぐ、そういう意味なのだろう、と思う。
 ならば、そういう発表をしてくれれば、良いのだが。政府の発表は、この一二週間が勝負だとか、かなり抽象的だ。まあ、3月一杯で終息すれば万歳三唱だけど。
 話題になっている学校についてだって、今のフェーズでは、まあ、いいだろう。子供は喜んでいる。親は頭を抱えているけど。急増の山を抑えるだけならば、4月に入り、順次発症していったとして、順次学校を閉鎖していくのだろうか。閉鎖しておく必要はないだろう。その学級は閉鎖する程度で良い?幸い、子供の死亡率は低い。学校に限らず、すべての分野で、大多数は無症状者だろう。
 そして、一般企業、個人業者では、発症者もかかえて、業務を進行させて行かなければならない。日本の医学の実力の見せ所、死亡を最小限にして、国の力を落とさないように、がんばってほしい。こちらは、せいぜい医者に行かないように、と言って、重症になれば行かなくてはいけない。どこから重症なのか それぞれの自己責任での判断だろう。ダイビングと同じだ。
 それから、ダイヤモンドプリンセスだが、いい仕事をしたと思う。日本人だけ下ろして後はどこかの島に向かわせるとか。日本人も全員下ろさないで、船籍の国にもどすとか。そんなことできなかった。そして、とにかく、何人かの犠牲を払って終えた。武漢には、ならなかった。きっと、どこかがドキュメンタリーをそのうち作るだろう。
 
 ただ、中尾先生(早稲田大学先進理工学部教授で、日本水中科学協会理事)等が唱え、実現に努力されていた病院船ができていれば、違う展開になっただろうと思う。今度の反省を生かして絶対に造るべきだ。自衛隊が一隻、厚労省も一隻、国土交通省も一隻、これだけのことが、あったのだから、競作で3-5隻ぐらいあっても良いとおもう。使わない時には青年の船かなにかで、ミクロネシア、とかアジアを巡っていればいい。そう、ダイバー船にしようというのが中尾先生が、僕らを引き入れた考えだった。学生など載せて研究航海もできる。
 今回のコロナは、致死率2%以下だけど、同じコロナのSARS は9.6%、MERSは、33.4%だとか、突然変異で50%の奴が出てくるかもしれない。それだと、準備がないと国が亡びる。
 
 さて、自分個人だが、会う人みんな僕の高齢を心配してくれたという。ありがたいことである。自分個人としては、マスクもする。手洗いもする。電車に乗るときは手袋もする。しかし、流れ弾に当たったら、高齢+高血圧だから、難しいかもしれないが、その時はその時のことだ。
 こんな時世、レクリエーションダイビングの不要不急について、ワークショップを中止してしまった反省のところで書いたが、
 そのワークショップの中止だが、中止は早まったと反省したが、いまでは中止でよかったと思っている。3月4日の時点では、集まる人も親戚一同だろうから、集まっても良かったと思ったが、まだ、ピークを抑えるフェーズでは、集まっても楽しくないし、だれかあの中に隠性の感染者がいたのではないかとか、つまらない心配をされる。自分も心配する。そこで、僕が寒冷アレルギーのくしゃみでもしたら。
 マリンダイビングフェアが、4月の1,2.3だったか、どうなるのだろう。舘石社長は、しっかりしている人だが、と心配していた。サーモグラフを入り口に置き、次亜塩素酸での手洗い、個人の自己責任で、体調の悪い人はお断りで、開催する。偉い。体調が良ければ行きます。
 社会スポーツセンターの指導者講習会は4月4日から、一ヶ月、全国を転戦する。マスクと、アルコールの手消毒で予定通りに開催するようだ。これも偉い。僕の古石場図書館での4月18日の講演会もやりたい。テーマは東京湾だ。そろそろ準備を始めなくては。
 東京湾、海は大丈夫、(多分)だから、せいぜいダイビングしよう。ダイビングが萎まないように。そのうちに中国の人もまた来るだろうから、そのとき、少し、偉そうな顔ができると良い。
 そろそろ、桜が咲く。桜を見ると、日本人は目の奥があつくなる。理由はそれぞれだ。高齢になった僕は、もう桜を見られるのは今年で終わりか?そして、一年が経ち、また桜が見られた。桜を背負って特攻に散った若者を想う人もいるだろう。今年は、小学一年生のランドセルしょっての入学式はどうなるだろう。桜は日本人の美学なのです。今年の桜、庶民は、それぞれ花を見る。
 僕はまた、浦安海豚倶楽部でお花見をしたい。する。
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 今しばらく、自粛します。13日には波佐間に行きます、海は自粛しなくても良いのです。
 17日は辰巳のスキンダイビング、これは、15日を過ぎているので勝負!
 この文、自分への応援、コロナについての僕なりの結論です。
 何回も書き足し,書き減らしたので、論理的に不整合な部分があります。ちょっと恥ずかしいけどブログにリリースします。
 3月5日現在 元気でいます。今日は、車のタイヤ4本履き替えに行きました。一人でも海に行かれるようにと。(13日はみんな、行ってくれますが、海況が悪かった場合は、一人でも行かれるように)

0307 日記 ログ

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 写真は、カットです。ロゲイニング。


 自粛して、部屋でリサーチ・ダイビングの原稿を書こうと考えたけど、頭が空白状態。

 空白、とは、インプットはできるけれど、アウトプットができない状態。インプットする。フェイスブックを見たりすることはできる。本を読むこともできる。原稿、企画書、など、を書くことができない。メールの返事を書くことはできるけれど、こちらから出せない。
 とりあえず、できること、本を読むことに集中しようか。
 本を読むことについて、僕の基本的な教養、つまり 自分の視点は、歴史的な視点から見る、考える。でダイビングの歴史を書いているのですが、「リサーチ・ダイビング」の企画の方が先になってしまったことと、コロナのおかげで、歴史は停滞していますが、そのリサーチ・ダイビングも、自分の書こうとしている部分は、リサーチ・ダイビングの歴史からリサーチ・ダイビングを見て行こうとしています。ですから、半ば歴史書かもしれません。
 したがって読書の方位も、歴史が多くなります。
 今、読んでいる、進行中は、「全世界史 出口治明 新潮文庫 上下」出口さんは実業家として成功された人で、バランス感覚に優れた人で、文章は読みやすい。つまり、この人も歴史フアンであり、フアンとしてのの専門家でしょうか。かなりたくさん書いておられた、そのどれもが成功しています。
 全世界史は、人類史、を5000年として、1000年ずつのセグメントに分けて、中国を中心とした東洋、インドから中近東、そしてヨーロッパ、三つの地域を並列的に書いています。インドから中近東の部分は、耳新しいことが多く、そして三つの地域の関わりあいもこれまでの歴史書では、あまり焦点があたっていなかったので、歴史フアンの読書としては、興味深いです。
 14世紀を「寒冷化とペストの時代」と定義しています。
 ペストは、世界史を変えてしまったパンデミックです。全盛を誇っていたモンゴル帝国である中国の元を滅亡させてしまい、ヨーロッパへと転移してヨーロッパ人口の3割を死亡させ、その滅亡の淵からルネッサンスが立ち上がります。
 少し、引用、紹介します。
 パンデミックで、「ユーラシャのありとあらゆるところで、人が大量に死んでいく過程で、中国型、ヨーロッパ型、インド型の病原菌や抗体が混じりあって、ペストの大波が去ったとき、生き残った人々は、ユーラシャ共通の抗体を持つようになります。猖獗を極めた大疫病によって、人は強い抗体を持つようになったのです。そして、この強い抗体を持った人々が、ユーラシャの病原菌に対して、まったく抗体を持たない新大陸の人々に出会ったとき、また悲惨なパンデミックが起きるのです。」
 今度のコロナがなぜ、恐ろしいかといえば、人々がこのヴィールスに対して抗体を持っていないということでしょう。さらに恐ろしいことは、抗体ができないという発表もあるようです。罹患した後の致死率が小さいのが救いですが、高齢者から、亡くなっていくということです。

 やはり、抗体はあるとして。
 インフルエンザとか風邪で日本人が、新しいコロナヴィールスに対する抗体を少しでも獲得していれば、3月中には衰えて済むかもしれません。
 全人口の20-60%の人が、抗体を持たないと収束しないとも、言われています。
 致死率がほぼゼロとも言われている、子供のころから、抗体を作っていくと良いのではないか、と素人は思いますが。




 部屋で自粛では、おかしくなるので、まだ支払いをしなくてもいい支払いをしに銀行に行き、そのあと、ミスドに入り、ビールスの危険を冒して、ちょっとばかり、リサーチ・ダイビングの原稿を書きました。

0310 日記ログ

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 この写真  2008年 6月28日、今から12年前か、浦安海豚倶楽部で慶良間の古座間味で撮った。そして、スキンダイビング・セフティの表紙にもした。今日、10日は、海豚倶楽部の練習日、そして、そのあと、総会を開く予定だった。総会に必ずしも、僕は出席しない。任せているのだが、海豚倶楽部初期のことなど、今の会長さんは知らない。海豚倶楽部の歴史のスライドを作って、お話するつもりだった。浦安運動公園は15日まで休館,その後もどうなるか未定。


  医師でもないし、衛生学の専門家でもないから、コロナ新型について書くのは、もう止めておこうと思ったけど、ダイビングのリスクマネージメントについて、「リサーチ・ダイビング」で、書いている。今は新型コロナのリスクマネージメントが日本、いや世界で最大の関心。それに、半ばパニック状態の時に書いたものがブログに残っている。削除しようかとも思ったが、その時何を考えたかのログだから、そのままにしておくけど。しかし、それだけではちょっと、なので、ここに、2020年3月10日現在の自分の段落を書いてリリースしておこう。
 病気については、お医者さんの発表が情報源で、それ以上には、わからない。週刊誌的情報としては、ニュースウィークを見ている。

 ここ、一二週間が山ということで、学校閉鎖が行われ、公的な施設も次々と閉鎖、実は、山ではなくて、丘にして時の過ぎるのを待ちたかったのだと想像するけど、何にも考えなかった結果の判断だったかもしれない。かかわっている、プール施設などでは、一~二週間 3月15日をめどにしているところが多い。多分、そのまま据え置きだろうが、政府は、3月一杯には、長期的な見通しを決定、発表しなければ、ならないだろう。このまま死んでしまうわけには行かない。自分が零細業の経営者の時だったら大変、僕らの業界は、ほぼ100%が零細小企業だ。まあ、これまでなんとかなってきたのだから、今度も大丈夫だろう。とこういうのを「正常化の偏見」というのだと誰かが言っていた。僕は、正常化の偏見で、85歳まで、ここまで持ちこたえて来たのだけれど。
 自分たちのことはさておき、パニック的な対応はもう認められない。正式発表ではないが、専門家会議では、収束のみとおしは、数カ月、もしくは年になるだろうと。抗体が分離されたとか発表されたが、そこからワクチンができるまでの道のりは、僕にはわからないものの、ポンと明日できるというものではないだろう。多分、これも数カ月から年、たしかこの前のコロナでは、ワクチンができるころには収束していたとか聞いた。
 リスクマネージメントとは、悪い成り行きを予想して、対策をたてておくのが原則。仮に一年として、学校閉鎖を1年続けられないだろうし、誰か、陽性がでたら、その施設を閉鎖していたのでは、どんな施設も、会社も持ちこたえられない。戦場で兵士が一人倒れたら、退却していたのでは、戦いにならない。
 幸いに、という表現が適切かどうかわからないが、武漢では、新型コロナに二つのパターンがあって、30%が重症型、70%が軽症型だとか。
 検査で陰性だからといって、本当の陰性かどうかわからない。陽性になった人の80%は、風邪のようなものだという。日本が持ちこたえているのは、検査があんまり行われないからなので、検査をすると、元気でも隔離しなければならない。重症者の手当てができなくなる。韓国もそれに見習うようになるとか、どこかで見た。そうなのかもしれない。そして、国民の20-60%が抗体を獲得しなければ収束しないと、2月の初旬に沖縄の高山先生が書いておられた。とすれば、だれが考えても、とる方策は決まっている。

 ただ、ビールスは、人から人へ移っている間に変異する。その変異が、弱くなる変異であれば、そのへんで終息する。強くなる変異もある。その結果は、神(自然)頼みだ。


 もうこれで、3月25日までは、コロナのことは、書かないで、今書いている原稿、リサーチダイビングを出そう、出版する本の原稿なのだが、出版できるかどうか、できると思っているけれど、出せない時には、ブログが残る。
 
 

0314 人工魚礁研究会 第36回

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 ダイビングのログをブログにしてしまっているから、ダイビングができたら、ブログを書かなくてはいけない。
 ダイビングについて記録をブログする、のだが、コロナについても、ログしておかなくては、高齢、高血圧の自分としては、コロナで命を落とす可能性も3。5%から20%、最悪60%まであるのだから、記録を残しブログしておかなくては。
 コロナは、国民の20から60%が抗体を獲得しなければ収束しないという。多分本当だろう。ワクチンができれば、罹患しないで抗体を獲得することができる。ワクチンは最悪年単位、良くても数ヶ月かかる。
 安倍首相は非常事態宣言をした。その目標は国の被害をどこまで食い止められるかであろう。国の被害とは、致死率をどれだけ下げるか、経済的被害をどれだけ少なくすることができるかである。それについて、戦略が全く見えてこない。残念だけど無策、無能にみえる。衝動的とさえ思える突然で、小中高、休校にしたけれど、再開も衝動的にやるのだろうか。線引きをして、個々のルールを決めなければ、とすれば、最初からそうすればよかった。
 自分について考えれば死なないこと、そして、金が無くならないこと。85歳は、サバイバルには厳しい。非常事態だ。
 海に行かない、行かれないと言うことは事実上の死だ。
 海からコロナの抗体をもらって来よう。それが、僕が生き抜ける道と勝手に決めて。
 予定した通り、波左間に行くことができた。天気も良く、風も強かったが南西で波高は1、5以下で、まずまずの好条件だった。
 山本さんが30分早く迎えに来てくれたことと、道が空いていたことで、0830には波左間に入れた。荒川さんもお元気。僕は1mの棒の先にウエアラブルカメラ、360度カメラを並べ、映像を撮る事が目標である。
 
 朝はいつも調子が悪い。調子が出ない。
 でも、気合いを入れて、準備をする。360度カメラの取り付け部分がうまくできていない。ビニテで補強する。ウエアラブルカメラの時間合わせをする。自分の腕時計、カシオのプロテックスに一応、秒の単位まで合わせる。360度カメラは、これがどうしても上手にできない。
 末期高齢者になっいて、身体が思うように動かない。ウエイトを着け、タンクを背負うのが難儀だ。荒川さんを見る度に悔しい思いをする。多分、彼は毎日海に入っているから、持続しているのだ。僕だって毎日海に入っていれば、今更、これからのトレーニングでは、無理だが、ずっとやっていれば、と思うが、自分の選んだ途だ。泣かない。85歳で潜れることを喜ぼう。それにしても、エントリー、エキジットが難関だ。
 
 DIVE 1
 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット 4m FP礁10個
 ⑤天候 晴れ 南西の風 沖で15m 波高 1,5 m 
 ⑦水温 17 ℃
 ⑧透視度 20  m
 ⑨潜水開始 0943   
 潜水時間 25   分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深26,4 m
 ⑪潜水終了    
 ⑫インターバル プラン 60分
 ⑬チーム 須賀 山本徹 早崎 高野  久保 中川
 今日はイセエビの撮影をターゲットにした。これからしばらく、イセエビを狙おう。
 なんとか 水面では不安定だったが、ロープにつたわって潜降 イセエビの巣は、2段積みの大きな魚礁ブロックの重なりの中心にあるので、下段の海底には降りない。上段の上に着底して、360度カメラのシャッターを押して、撮影を開始する。周囲を見回しているうちに、荒川さんが呼びに来てくれた。ブロックの隙間に2個体見える。棒カメラを寄せて、撮影距離20cmぐらいで撮影する。
 荒川さんが、別の3尾を見つけたと呼びに来た。自分だけならば、この2尾のイセエビで満足して、次は移ってしまうだろう。場所は離れていない。ブロックの柱を回りこんだ、向こう側だ。縦の溝に寝ている?ウツボにイセエビが3尾密着している。イセエビ、ウツボ、タコの関係を書いたりしていたから、「やった」という感じで撮影する。
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 これで、この潜水の成果はあった。
 大きなウマヅラハギが居たので、接近する。ウマヅラハギは、のんびりと逃げるのだが、逃げてしまって、なかなか接近させてくれない。1mの棒の先でも、カメラから40cmぐらいの距離にたやすく接近できた。向こうから寄ってくる感じも撮れた。棒の先カメラの効用である。やった!と思って喜んだが、戻ってきてから、画像を見たら。カメラが下向き、でフレームの真ん中に魚が入っていない。棒の先なので、ファインダーが見えていないのだ。練習が必要だ。
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 久保君がDPVで走っている姿も撮った。僕は、停止している視点だが、走り回るとまた別の視点があるだろうと思う。
 イシダイとかイサキとかも目に入ったが、3ショット成功させたから、もう良し、ゲージが80になったので、浮上する。
 減圧停止の時、波に揺られているボートをしたから撮影録音した。
 2回目の潜水は、何時も、一回目よりも調子がいい。潜る前の準備も調子よく、タンクを背負って舟に乗り込んだ。
 棒カメラの録画は、一回目の成功で、これで良しとした。2回目は、買ったばかりのイノンのストロボのテストをしようと考えた。ウミトサカもきれいに開いているだろうから、キンギョハナダイを入れて、と、カメラをオリンパスTG4に替えた。
 向かった魚礁はドリームだ。
 飛び込んで、ロープに伝わって潜降だが、ロープに足を取られてバランスを崩した。態勢を立て直して、カメラを見るとクリップオンしてある、ウエアラブルカメラのAKASOがない。飛び込んだ時に飛んでしまったのだ。
 水に飛び込んだ時の衝撃というものは、大きい。ついこの前は鶴町にこのカメラを持ってもらって、飛ばした。そこで、新しく一台買ったのだが、それを飛ばした。自分ならば飛ばさないと思ったのだ。このカメラは7000円、消耗品だから良い。6万円のアクションカメラGoProは、買わない。
 この差し込み式は、カメラから外してマスクに付けることもできるので良いのだが、これまで、そんなことをした記憶がない。次回からは固着してしまおう。
 そんなことで、早めに浮上してしまった。
 一回目の潜水は成功だったので、自分としては良しだが、2回目はカサゴ狙いでもよかった。
 
 また、次回はドリームのイセエビスポットを荒川さんがキープしておいてくれる。しばらく、イセエビを追おう。そして、次回は棒を2mにする。これによって、接近ができて、別の視点の撮影ができるのではないかと期待する。四月は20日過ぎを計画する。それにしても、ことしのGWのツアーはどうなるだろう。
 

0318 海底の底生生物

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 写真はスナモグリの穴
 
「海底の支配者 底生生物」清家弘治 中公新書
 読んでいる。底生生物、僕はこれまで底棲生物という字を使っていた。底生生物の多くは、海底に穴を掘ってその中にいる。どんな穴を掘っているか、など面白い。それに読みやすい本だ。
 海底に穴を掘るというと僕がまず頭に浮かべるのは、マハゼがヘドロに掘る産卵のための巣穴だ。海底に生物が掘る穴は、プラスティック、昔は石膏を流し込んで、型取りをして調べる。僕は昔、マハゼをやったけど、深さ2mにもなって見事なものだった。お台場にもきっとあると思っていて、日本財団に助成金を申請したけれどあいてにされなかった。でも、そのうちにやろうと思いながらさぼっている。
 清家さんの本では、なぜかマハゼは紹介されていない。しかし、スナモグリが紹介されていて、複雑な巣穴だ。
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お台場には、無数のスナモグリの穴がある。写真は、6月の赤潮で、おそらく穴の奥が酸欠になって逃げ出て来たスナモグリだ。なぜか水中を不器用に泳いでいた。食べられてしまわないように砂の中にいるのだから、このスナモグリは、この後、たちまちクロダイなどに食べられてしまったと思う。砂に着地したから、すぐに穴を掘れば大丈夫だったかもしれない。
 お台場のスナモグリの穴の型取り、だれかメンバーでやる人はいないか、今度聞いてみよう、誰もやらなかったら、自分でやろう。浅い砂地に無数に開いているからすぐにできる。テーマが一つ増えた。
 この本で、ヤハズアナエビの巣穴が紹介されている、テッポウエビは、沖縄、八重山の砂地でたくさん見られ、この夏、観察に行く予定にしている。でも、ヤハズアナエビは見たことがないので、どんなエビなのか図鑑を見たのだが、出てこない。ネットで調べたら、すぐに出て来た。もはや図鑑は見て楽しめるが、実用としては不要だな。ヤハズアナエビは串本のダイビングサービスが紹介していた。このエビも海草を巣穴の中に貯蔵して、漬物を作って食べているとか。


0320 日記 雑感

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 今、二冊の本を企画しています。「ダイビングの歴史」と「リサーチ・ダイビング」です。僕らの出す本などは、一般に売れるようなものではなく、自分で売り歩かなければだめです。自費出版ではありませんが、それに近い方法でなければ、なかなか実現しないのです。1970年代は、ダイビングが目新しく、今ほど、指導団体のマニュアルが絶対ではありませんでしたから、企画も通りましたが。
 簡単に言って、100万円程度は自分たちで負担する。日本水中科学協会で出すのですが、金策しなければできません。そして、皆様に押し売りして、それを回収することになります。半分回収できれば、上出来でしょう。
 スキンダイビング・セーフティーだけは、当たった本でしたが、今度の二冊は、どう考えても当たる見通しはありません。
 なんとか頑張りますが、とにかくそういうことです。
 「ダイビングの歴史」の方が先に走り出していたのですが、金策ができず停滞しているうちに、「リサーチ・ダイビング」が先行する形になました。コロナの自粛、閉じ込められているうちに、書き進もうと思っているのですが、やはり、コロナが気になって、そのことを日記的に書いたりしています。
 その、リサーチ・ダイビングですが、自分のパートと、何人かの共著者に書いてもらう算段です。その自分のパートが「リサーチ・ダイビングのの歴史」になってしまうのです。これではいけないのではないか、と思い、しばらく筆を止めて考えたのですが、結論として、「それで良いのだ、それで行こう。」という考えに落ちづきました。
 僕は、1953年に日本にスクーバが来て、1954年に東京水産大学に入学して、スクーバを追っています。
それから、2020年までを実録として書けるのは僕しかいないのです。ことの良否にかかわらず、僕しかいない。今度のコロナで、運悪く死ぬかもしれませんが、全力で疾走しながら、倒れるならば、本懐です。
 遠慮しないで、走ります。足りない部分は共著者が補ってくれるでしょう。僕のパートは僕でしか書けないことで突っ張ります。
と決意して書き始めたのですが、ダイビングの歴史はともかく、リサーチ・ダイビングの方は、物語なのか,研究書なのか、という問題があります。自分では、両方だと思っているのです。物語、歴史展開の記述があって、
「まとめ」としてこれを大系づけて、その部分は図解を入れた技術書にしたい。
 しかし、その形になったとしても、今書いている物語的要素の強い部分については、今書いているような分量は使えない。大幅に削ることになります。
 しかし、削るためには、削られる原型がなければ、とにかく書いて、捨てるのも悔しいので、削る前の原型はネット、ブログでリリースしておこう。これまでも、ブログに出しておいて、そのリストを作って、使っているのだから、そして最近強く感じていることなのですが、本、印刷物とPCに入っている資料、ネットに上げていて、ネットで検索する資料とは、まったくちがうもので、どうしても、印刷された本や雑誌を資料としてみることが多いのです。
 複写、コピーしてしまった資料は、用済みになって扱いがおろそかになる。捨てはしないのですが、大きな整理された書庫があるわけではないので、見当たらなくなって焦って探したりしている。ジャック・マイヨールの最後のことを載せた「Playboy」が書棚になくて、さがして今見つけたところです。
 とにかく、印刷した本とネットでの資料とは違うということです。昨日書いたのですが、図鑑のようなものは、ネットの方が便利です。スマホで使えますから。それでもやはり、図鑑は持っていたい。
 何を言いたいかというと、書いた原稿をきちんとした形でブログに上げて置けば、それは印刷された書籍とは別のもので別の使い方ができる。削る前の原稿を全部ネットにブログの形で上げて置けば、出版する本の宣伝になるであろう。と、そんなことです。
 ところで、原稿書けるだろうか。コロナで逼塞して書くというのもつらいものです。原稿というもの、外で別の活動をしているときの方が筆、キーボードをたたく が進むものなのです。
 とにかく、やれるところまで、「リサーチ・ダイビング」の原稿、下書き、ブログにしていきます。

0321 日記 雑感

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  昨日書いたブログ 
 リサーチ・ダイビングのの原稿、歴史・沿革は自分でなければ書けないので、リサーチ・ダイビングのの歴史を気の向くままに書いて、後から削ろう、というコンセプト、崩れ去った。
 リサーチ・ダイビングの構成を考え直したら、それはやはり、ダイビングの歴史の範疇に入れるべきもので、リサーチ・ダイビングでは、時間の無駄で、そんなことをやっていると、また暗礁にのりあげてしまう。せっかくだから、書きだし、1953年の部分、ここに置こう、


 1953年
 日本にアクアラング(スクーバ)が紹介された経路は、軍事目的、駐留していた米軍ルートなども考えられるが、それらは、印刷物としての資料は残っていない。伝聞だけである。
 1953年 5月 東京水産大学小湊実習場に 米国の海洋学者ロバート・ディーツが、これは、新聞社なども招いて、実習場の大型生け簀に潜って見せたのが正式記録になっている。
 その時に、参加した水産大学漁業科の神田献二先生が撮影した写真が手元にある。その時、自分の恩師である宇野寛先生も参加されている。この時、若手研究者であった宇野先生、神田先生が、ディーツ博士から実技指導をうけたかどうか、定かではないが言葉によるレクチャーだけだったと想像している。
 その時、ディーツ博士は、小湊鯛の浦に潜って水中撮影もしている。その時の写真をみると、16ミリシネカメラと、その後、僕らが作ったような、しっかりした水中ハウジングを手にしていることから、当時のアメリカでも、ダイバーとして著名な人だったのだと想像できる。
※ロバート・シンクレア・ディーツ(Robert Sinclair Dietz、1914年9月14日 - 1995年5月19日)はアメリカ合衆国の地球物理学者、海洋学者。ハリー・ハモンド・ヘスとともに、海洋底拡大説の提唱者の1人として知られる。天皇海山群の命名者としても有名である。
1941年にイリノイ大学で学位を取得し、海洋地質学者 フランシス・パーカー・シェパード に師事した。1953年、フルブライト研究者として東京大学に留学し、海上保安庁水路部においても研究を行った。このときに天皇海山群の海山に歴代天皇の名をつける。
   https://ja.wikipedia.org/wiki/ロバート・シンクレア・ディーツ


体温についてこの10年、いやこの20年、30年かな、自分で自分の体温を測ったことはなかった。それが今度の騒ぎで体温計を買って計ってみた。最初の時が36.5度だったので、これが僕の常温だとおもってしまった。次に計ったとき36.9になり、その次が37度、37度というと微熱だろう。風邪もひいていないのに、と心配になった。そして、次も36,9 心配になった。次に朝目覚めて計ったら36.5で、足元が寒くて靴下を履いた。そのご、出かけてから夕方計ったら37度 足は暖かくて快適。そうなんだ。僕の平熱は26.5~37度 なにかに集中すると37になる。今度は運動後、泳いだ後に計ってみよう。コロナで、いろんなことがわかり、いろんなことが見える。個人と国家の問題、国と国との問題、地域と国、とかオリンピックがどうなるのかも興味深い。完璧な形でやる、という延期宣言もだましだましの達人、安倍さんのスタイルだ。安倍さんの評価は歴史がする。オリンピックも如何にやるべきか、スポーツと国家の関係、日本という国の在り方、グローバルの在り方、考えさせられることばかりだ。

0326 日記

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 写真は、2005年、辰巳の桜です。


 新型コロナとダイビングについて


 自分の情報源は、インターネット、主にフェイスブックになります。だから、どの程度正確なのかわかりません。コロナについては、お医者さんがいろいろ発信されていますので、それをあらかた見ています。その中で、最悪のシナリオを見ていれば、まあ、良いのかなと。最悪は、神戸大学の岩田先生の書かれたもので、このコロナは終わらない、コロナと共に生きていく、つまりこれまであったいろいろな病気と同じということです。別のお話を見れば、死亡する場合、高齢の持病がある人、まさに自分ですが、重篤化する可能性が高く、進行は早く、あれよという間に死んでしまう。そして、伝染性が強い。治療の決めてがない、大変な病気です。
 免疫抗体の獲得については、わからないところが多いので、もう少し調べます。
 まず個人的なことですが、ここまでよくも生きたものですから、死ぬことは覚悟していますが、コロナで死ぬのは、目下のところ、他に迷惑をかけますから避けたい。かからないように全力を尽くしますが、運不運もあります。
 高齢者は罹患すればだいたい死ぬから、生きて人に遷す可能性は小さいです。わかりませんが。


 そして、ダイビングですが、三つの密が避けられるので、活動の中では安全度が高い、かえって、予約が増えているとかテレビで紹介されていました。ただ、その往復が問題ではあります。自分の車でノロノロ行けば、と車のタイヤを4本新調しました。故障は良いのですが、バーストは怖いので。


 今、都市の封鎖、外出禁止がありうると呼びかけられています。ここまで、なんとか日本は陽性人数を抑えてきています。検査人数が少なかったから、というのも当たっているとおもいますが、とにかく他と比べて低く抑えて来た。
 オリンピックが延期になったとたんに検査数が増えた。陽性の人も当然増えた。このことについては議論がありますが、低く抑えなければならないのは当然です。韓国は検査数が多いので、罹患者数も多いのですが、ロックダウンなどは首都、大都市ではやっていないようです。
 東京の場合、お花見にどっと繰り出す人が多いので、懸命に自粛を呼び掛けています。これは、よくわかります。今年の桜は、仇になっています。

 ダイビングは、前述したように大丈夫ですが、29日のお台場調査の代替え、大井北公園については、禁止令がでないかぎり、予定通りに行います。人と人の接触に注意します。10人の予定です。
 人工漁礁について、日本水中科学協会の行事として行うのは、少し様子を見ようということで、4月の中頃に打ち合わせることにしました。
 4月の中旬には、国も一時しのぎではなくて、年間、来年度に延期したオリンピックに至るまでの長期シナリオを予想死亡者数も含めて、発表する必要があると思います。学校の閉鎖をどうするか、今度は夏休みまで、夏休みが終わるまで、次は冬休みまで、では、教育が破壊されます。
 それに産業をダウンさせ続けるわけには行かないでしょうから
 建設工事はアウトドアの仕事なので、年度末でもあり、盛んにおこなわれています。アウトドアのダイビングはできる。
 インドアの仕事は、マニュアルが必要でしょう。

 最後に、もう一度自分ですが、常日頃あんまり出歩かないです、写真展なども、ほとんど失礼させていただいています。去年は、中村征夫の写真店に行っただけ。
耳が聞こえませんから、セミナーに行くこともあんまりなく、これも、失礼させていただいています。自分たちのシンポジウムは11月の末ですので、何とかやり方を考えて実現したいとおもいます。終結していなければ、来客人数を制限して、報告書は充実させるなど。
 

0327 リサーチ・ダイビング 1

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写真は、今、面白がっている、ウツボとイセエビの仲良し関係である。


 リサーチ・ダイビング 1 
 ブログが書けていない(リリースされていない)何を書いてもコロナに行ってしまう。それはそれとして、本筋のリサーチ・ダイビングについて、今書いている部分をどんどん載せて行こう。出版の原稿としては、半分ぐらいにカットするつもりだから、ブログに載せて置くことは、意味がある。
まず「リサーチ・ダイビング」の企画書(目次)これも決定ではない、下書きの下書きで、書きながら、大幅に変えていくつもりでいる。


ブログ リサーチ・ダイビング 略してRDの第一回として、企画書である。次に序論、目標、キーワード。すでに原稿ができているので、どんどんブログにすることができる。


リサーチ・ダイビング Rsearch Diving 企画書
序論
 リサーチ・ダイビングとは、
 この本の目標
キーワード
各論
  運用の歴史(実例)
   運用のまとめ

  高圧測
  機材
  トレーニング
  安全管理と危機管理

  調査方法(調査の実例)
       調査結果よりも方法論を主体とする。
       調査結果は何を調べてか、何がわかったかの結果概略で良い。
       
      石西礁湖の海洋保護区 (名波敦:南西海区水産研究所)
      豊潮丸航海 (町田光史;早稲田大学)
      龍泉洞(久保彰良 日本水中科学協会)
  コラム
      人工漁礁をフィールドとして (佐藤允昭 水産工学研究所)
      フォーメーションとライン調査 (東大海洋調査探検部)
      東京港お台場 (科学未来館 三ツ橋知沙 東大海洋研 杉原奈央子)
※ コラムについては、日本水中科学協会会員で自分も書きたい、という人がいれば、書いてもらうつもりでいる。書いてもらいたい。

  対談  人工魚礁とは (高木儀昌 須賀)
      今後の展開 
      目標、目的 (中尾洋一 須賀潮美): 
      方法論 システム (久保彰良:工藤和由 :須賀次郎)


 出版社は成山堂で、300P 1500円程度を予定しているが、500Pになってしまうかもしれない。編集は須賀潮美を予定している。


0328 RD 2 序論 キーワード

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      出版予定の「リサーチ・ダイビング」の下書きです。
序論
 リサーチ・ダイビングとサイエンス・ダイビング
 この本のタイトル、「リサーチ・ダイビング」にしようか「サイエンス・ダイビング」にしようか迷った。
サイエンス・ダイビングの方が響きが良い。それに、この本で扱うのもサイエンス、科学に関連することが多い。
しかし、リサーチ・ダイビングの方が間口が広い。沈船の探検もあるし、宝探しもある。サイエンス・ダイビングとは、サイエンスのためのリサーチ・ダイビングである。タイトルは、リサーチ・ダイビングとする。
 リサーチ・ダイビングとは、
 人は何のために、どうして水に潜ろうとするのだろう。
 ①食料を求めて(search)
 ②未知なるものへの探求の本能
 この他にいろいろ挙げることができるが、その根を手繰ると上の①②にたどり着く。例えば、ダイビングは楽しい。なぜ楽しいのかそのなぜを手繰ると②に行きつく。陸棲の人間にとって、水中は危険であるが、その危険を克服することに喜びがある。なぜ、喜ぶのか、探求の本能が満たされるからであろう。
 そして、1943年クストーのアクアラング開発の目標は探求(リサーチ)であった。1953年にそのアクアラングが日本に持ち込まれたのもリサーチの道具としてであった。
 ※アクアラングという言葉は商品名であり。スクーバが汎用の言葉である。この本でも、以下、スクーバと呼ぶ。黎明期、始まりがアクアラングと呼んでいたので、ここだけ、アクアラングと呼んだ・
 今、スクーバダイバーの90%は、カメラを持って水に入る。そのカメラで写す撮影の目的は、自己表現であり、記録である。水中で記録することは、リサーチに他ならない。
 被写体にしたい生物がどこにいるのか、どんな様子でいるのか、調べて、見つけなければ撮影できない。すなわち、撮影のためのダイビングは、広義のリサーチ・ダイビングである。
 言うまでもなく、図鑑制作のための撮影はリサーチ・ダイビングである。
 撮影は、あまりにも現代のスクーバダイビングの全分野を覆ってしまっているために、ことさらにリサーチ・ダイビングと言わなくなってしまったともいえる。
 さて、リサーチ・ダイビングに含まれるサイエンス・ダイビングとは?
 ①プロの研究者であってもアマチュアの研究者であって良い。自分が科学研究者であり、研究の為に潜る。
 ②自分が研究者でなくても、研究者の役に立つ記録、あるいは採集をおこなう。
 ③研究者といわれるほどの者ではないが、海の生き物、海のいろいろな事象を調べたい。
 ④「言葉として格好が良いから使う」言葉で口に出すことで、なにか、科学の目で水中を見ようという気になる。そう、科学の目で記録、撮影を行えばそれはサイエンス・ダイビングなのである。
 ※ 現在1200字 序論は、400字ぐらいにまとめる。

   
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      ウツボとイセエビ


キーワード
各論の前に、総論的にキーワードを置くことにした。
  ①フォーメーション formation 隊形 編隊
  水中における、仲間(チーム)の各ダイバーの位置関係とその動きの法則をいう。
  誰が何処にいるかを互いに知っていれば事故は未然に防げる。ほとんどのボールゲームには、名付けられたフォーメーションがある。
  バディシステムは、フォーメーションの一つである。バディシステムをパターンで分けていくと、フォーメーションとしてわかりやすくなる。
  ②サーフェスコンタクト surface contact
これは、ここでの造語、提言であるかもしれない。どこかで、小耳に挟んだのかもしれない。サーフェス、つまり水面の上、ボートとか岸のベースとどのような連携をしているかである。
 スクーバダイビングは、糸の切れた凧のようなものであるから、ほとんどの場合、サーフェスコンタクトは希薄になる。そして、ほとんどの事故は、サーフェスコンタクトの不在、不十分で発生する。
  ③ローカル ルール local rule
 その場所の、そのチームの安全に関する取り決めである。指示書を用意してのブリーフィングで周知することが望ましい。
※ 目標を設定したことによる危険の増大、義務感、達成意欲は、適切にコントロールされていないと危険である。
  ④ウエアラブルカメラ
2010年頃から普及してきた手のひらサイズのカメラで、マスクに取り付けたり、棒の先に取り付けたりしてできて、調査記録のスタイルを一変させた。
  ⑤定点・継続
 サイエンスでは、同じことが再現できるか否かが問われるが、自然環境調査の基本は、定点の継続調査である。コンセプトの一つ。
⑥リサーチ research
調査研究 業務としての調査 下見  
⑦エキスペディション expedition
遠征、探検 日常の調査ではなくて、特別な意味合いを持つ非日常である。
⑧エキスプロレーション exploration 同じく探検
  ⑨冒険(adventure)と探検
個人によって意見、考え方の差があるが、探検とは、調査・記録が主目的であり、したがって、調査結果、資料を持ち帰ることが、条件となる。冒険は不可能に挑戦する、結果が読めない行動も含められる。冒険は遊びの概念としてつかわれることもある。冒険は必ずしも報告が求められない。
 探検と冒険がオーバーラップすることも多い。
 ※書き進むことで、フィードバックして、付け加え、書き直しも多々出てくる。その意味では「まとめ」ともいえる。
 

0329 RD2 序論2 & 歴史と沿革

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この本の目標
 この本を読んでいただきたいのは、
 ①大学・研究機関で、ダイビングを研究活動の道具としようとしている,あるいはダイビング活動に関わろうとしている関係者。
 ②学生のダイビングクラブ、同好会で、同じく何かをしようとするとき。
 ③海洋高校、専門学校のサイエンス・ダイビング補助テキストとして
 ④一般のレクリェーションダイバーへのサイエンス・ダイビング入門書
 ⑤海、そしてその海の探求に関心のある全ての方にダイビング活動とは、どういうことなのか知ってもらう。 
 など、であるが、いわゆるダイビングのスキルのテキストではない。それは、各学校,各指導組織などに用意されているものがあり、この本は、それらを駆使する、安全に運用するためにはどうしたらよいのか、考えてもらうためのものであり、欠けているものを知ってもらうためのテキストである。
 目指したものが二つある。
 一つは運用の考え方であり実例である。
 実は、1953年に我が国でスクーバが使用されるようになった当初から、現在まで一貫して欠けているのは運用の考え方であり、その欠落のために、幾多の事故が起こり、命がうしなわれた。
 その運用の技術と考え方を示した。
 もう一つは
 ダイビングで何かをしよう、としたとき、どのようにしたら良いのか、その実例をしめした。何かをしようとしたとき、その方法、道筋を知る参考になればと考えた。
 ということは、とてつもなく広範囲にわたることになり、ここでは、そのほんのひとかけらを示すスペースしかなかった。ただ、考え方の方向付けができればと努力した。これを参考にして、読者に考えてもらう、そして、それぞれが、自分たちの運用ルールを編み出してもらえれば良い。
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リサーチ・ダイビングの沿革・歴史 
 現在、大学:研究機関:研究者・学生が研究の為のダイビングをするためには、潜水士の資格と、初級のCカードを持っていれば良いとされている。そこから先は趣味の世界である。いうまでもなく、ダイビングを趣味にしてもらうことは、望ましい、良いことである。
 研究者は、もちろん系統だって分析的に考えることができ、その多くはフィジカルでも優れている。これまでに感じた恐怖は、科学研究者が、ダイビングの運用の知識がなく、フィジカルがすぐれていたことによるものだった。つまり体力にまかせて強引にやる。だいたいはそれで成功するのだが、10年に一度くらいは危ない目に遭う。そして、危ない目にあっているのだが、そのことに気づいていないことも多い。
 ダイビングの運用についての知識とその応用は千差万別であるが、その本質、考える道筋だけわかっていれば、知力の優れた人たちだから、自分で考えることができる。
 
 ものの本質を見るためには、その歴史を見ることがいちばんわかりやすい。ダイビングも同じなので、、リサーチ・ダイビングの沿革、歴史を見ていくことにする。そしてそれは、事故から事故へと飛び石伝いに歩いて行く、ようなことになる。ダイビングとは、そういうことなのだ。ちょっと付け加えれば、人間の歴史が戦争から戦争への飛び石だったように。
 そして、その例を見るということは、危機一髪の例、ヒヤリハットの例などをその部分、その時点の出来事だけとして見るのではなくて、その人の生まれ育ち、そして、その出来事が起こった環境、事情、その日の朝から、いやもっと前のダイビングを習い始めた時から、その時に至る経過もすべて、書き記す必要がある。
 と、そんなことは、自分のことを書く以外にはできない。事故に関わる自伝のようなことになってしまう。しかし、これしかない。他の人の例は、プライバシーの侵害になるし、許しを得ていても、失礼がありはしないかと気になって書けない。
、それで、ここでは、自分のこと、自分のやってきたことの沿革、となる。
 別の人、別のダイバーには、また別の沿革、歴史があるでのだが、そのことを考えてもらう一助になれば良い。
 まず1953年、日本にスクーバダイビングが来た時から始める。
 
 

0329 RD4 1953-1954

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      16mmシネ撮影中のディーツ博士


1953年
 日本にアクアラング(スクーバ)が紹介された経路は、軍事目的、駐留していた米軍ルートなども考えられるが、それらは、印刷物としての資料は残っていない。伝聞だけである。
 1953年 5月 東京水産大学小湊実習場に 米国の海洋学者ロバート・ディーツが、これは、新聞社なども招いて、実習場の大型生け簀に潜って見せたのが正式記録になっている。
 その時に、参加した水産大学漁業科の神田献二先生が撮影した写真が手元にある。その時、自分の恩師である宇野寛先生も参加されている。この時、若手研究者であった宇野先生、神田先生が、ディーツ博士から実技指導をうけたかどうか、定かではないが言葉によるレクチャーだけだったと想像している。
 その時、ディーツ博士は、小湊鯛の浦に潜って水中撮影もしている。その時の写真をみると、16ミリシネカメラと、その後、僕らが作ったような、しっかりした水中ハウジングを手にしていることから、当時のアメリカでも、ダイバーとして著名な人だったのだと想像できる。
※ロバート・シンクレア・ディーツ(Robert Sinclair Dietz、1914年9月14日 - 1995年5月19日)はアメリカ合衆国の地球物理学者、海洋学者。ハリー・ハモンド・ヘスとともに、海洋底拡大説の提唱者の1人として知られる。天皇海山群の命名者としても有名である。
1941年にイリノイ大学で学位を取得し、海洋地質学者 フランシス・パーカー・シェパード に師事した。1953年、フルブライト研究者として東京大学に留学し、海上保安庁水路部においても研究を行った。このときに天皇海山群の海山に歴代天皇の名をつける。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ロバート・シンクレア・ディーツ


1954年の事故
1954年夏「日本初の学生対象のスクーバダイビング講習」が東京水産大学安房小湊実習場で行われ、そこで、日本初のスクーバダイビング事故が起こってしまう。
以下は、兄事する先輩白井祥平氏の「サンゴ礁探検」1975 あかね書房 を参考にしている。
 1950年ごろ、東京水産大学(現海洋大学)では、漁業学科と増殖学科の三年次に潜水実習(任意選択)が行われていた。実習の対象の潜水機は、マスク式(旭式)で、これは、小型の手押しポンプで送気して、水深5~8mまで潜る実習だった。この潜水機は、伊豆半島では、磯根のテングサ採取、伊豆七島では追い込み網、北洋ではサケマス独航船が網やロープをスクリューに絡ませたときに外す用途に使われていた。実習の内容など正確にはしらないが、自分たちも1957年にスクーバの前に、マスク式も体験させてもらった経験から推察すると、半日、一日程度、それも遊び半分の実習で、冗談で、「ポンプをとめてしまうぞ」と脅したりして、息抜きのような実習だった。小湊実習場では、突出した磯根の先端にコンクリートで8畳敷き程度の台地を作り、ここにポンプを置いて潜水していた。ここを潜水台と呼んでいて、事故が起こった1954年にもこの潜水台で実習が行われていた。
 
 1953年にディーツ博士がアクアラングを紹介し、それを見た当時小湊実習場の場長だった僕の恩師になる宇野寛先生、同じ年頃の、漁業科館山実習場の神田献二先生らがこれを購入することを希望し、2台とコンプレッサーを購入した。この購入と小湊での潜水実習にかかわったのは、魚類学の海老名教授、そして、猪野峻先生(後に潜水科学協会会長、海中公園センター理事長など)であった。
 1954年の潜水実習は、参加希望者13名、タンクは2セットだから、13名を2班に分けて行われた。それにしても、6-7名に2台である。
 実習は、まずマスク式が行われ、耳抜き、水慣れなどしてからスクーバに移行する。マスク式プラススクーバの体験、といったプログラムで、マスク式の延長線上で、スクーバがあっただのだろうと推察する。
 スクーバで、マスク式で潜ったおなじようなコースを水深8mまで潜った。誰でも、スクーバで一番最初に潜った体験、見た光景に感動する。それまで素潜りで、潜っていた経験があったとしても、スクーバはまた別の感動がある。
 白井さんたちは、二回目は、もっと深くまで潜りたいと相談する。この時潜水台の上で撮った記念写真を白井さんにいただいたが、学生と一緒に写っているのは、猪野先生で、宇野先生はここにいない。
 そして、もっと深くまで潜るために、そのコースラインにロープを張る、設定することになり、水泳の達者だった旭さんと伊東さんがまず潜ることになった。
 二人で一本のロープを引くのだから、完全にバディである。深いといっても、潜水台から海底の斜面を下っていき、適当なところから戻ってくれば良いだけ、直線往復である。2本を7人、1本を3回の潜水で分ければ30気圧前後が約束された空気量、とすれば5分程度で戻ってくるはず。しかし、みんなが心配し始めるほどの時間が過ぎる。そのうちに一人が水面に浮いてきて手を振っている。予想していたよりも沖であったという。そして、その一人も沈んでしまう。先生がロープをもって飛び込む。学生の誰かは、急をしらせに、宿舎の方にもどる。
 舟を出して、一人(多分、手を振っていた一人)は、引き揚げて人工呼吸を開始したが蘇生しなかった。もう一名は、潜水夫を入れて捜索、引き揚げたが、無論、死亡後の引き上げである。
 この事故の詳細について、1957年には同じ潜水実習を受けた僕ら学生に知らされていない。噂的に知っているだけだった。
 
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        1957年の実習時の小湊実習場

 この事故の翌年1955年には潜水実習は行われず、次の1956年に再開、1957年に潜水部を一緒に創立する、竹下徹さん橋本康生さんらが受講する。この時にはタンクも6本に増えているが、竹下さんらは、命綱を身体に着けて、鵜飼の鵜状態で潜水した。僕は事故の翌年の1955年に東京水産大学に入学し、その夏の館山水泳実習でアクアラングに出会う。1954年の事故実習でも責任者の一人になっている、魚類額の海老名謙一教授が、自らスクーバのタンクを背負って、館山の大桟橋で潜って見せた。僕らは、桟橋の上から、先生の出す気泡を眺めたのだが、その時すでに、僕はユージニー・クラークさんの著書「銛を持つ淑女」などで、ダイビングに惹かれていて、この気泡を眺めながら、これを、一生の仕事にしたいと思い定めた。
 そして、1957年、大学三年次に僕は潜水実習を受けるわけだが、その時には実習の態勢、プログラムなどはほぼ、現在のものに近くなっている。タンクの数も漁業科の館山と共用で10本ぐらいになっていたし、プログラムは、まず債一日目の午前中が潜水台からのマスク式潜水、その午後から、次の日一杯はスキンダイビングの練習、三日目からタンクを付けるが、実習場宿舎の下の桟橋から潜水台に向けて海底にロープラインを引き、これに沿ってバディで潜る。実習のすべて、水面には櫓漕ぎの木舟が浮いて、気泡を追って監視している。
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      サジッタを漕ぐ竹下先輩


 ※この小舟は、愛称を「サジッタ」と呼ばれていて、僕らのマスコットだった。サジッタとは大型の肉食プランクトンで、矢のような形をしているので、和名は矢虫である。櫓漕ぎの小舟は、矢というよりもダルマに近いのだが、櫓を漕ぐのは立っているので、気泡を追うのに適している。座って漕ぐカヤックでは気泡は追いにくい。なぜか、大学実習場の同じような小舟はサジッタと呼ばれている。
 マスククリアーなどを練習し、次は、このラインをマスクなしで泳ぐ、そして、最後は桟橋の下水深1,2mぐらいのところで、海底のウニを避けながら水中脱着、ウニの上に腰を下ろしたら大変だ。これができて卒業となる。のべ一週間、しっかりしたものだった。
 また、その中の半日、医科歯科大学の梨本先生が来て潜水医学の講義をされた。
 1954年の事故にもどって、原因は何なのだろう。すでに述べたように、バディでロープを引いて、磯根を降りて行き、戻ってくるだけ、事故を起こした学生は泳ぎが上手、想像できない、起こりえない事故だった。以来、ダイビング事故の多くは想定外の状況でおこる。想像では、空気塞栓だろうなどと言われた。経験の少ないダイバーの事故で、原因がわからないとき、まず空気塞栓が想像されることが多く、その大部分はあたっているだろう。しかし、解剖などされていないから、確定ではない。
 後述するように、僕は潜水実習の教官であった宇野先生の教室に入り、卒業論文を書く。そして、先生は、1954年の事故の責任を問われる訴訟中だった。詳しい話は聞かせてもらえなかったが、小舟が上に居なかった、居させなかったことが争点になっていると話してくれた。確かに、一人が助けを求めて浮上してきたのだから、小舟が上に居れば、最悪でも一人は救助できて、もう一人も多分、命はとりとめた可能性が大きい。
 僕は、そのころのサジッタを漕ぐのが好きだったし、57年の講習では舟が上に居るのが常態だったから、なぜ、舟を使わなかったかが疑問だった。しかし、これは事故の後の反省から、僕らのプログラムができたわけだし、1954年は、潜水台からのマスク式潜水の延長であり、マスク式では小舟は使わなかったから、そのままで、マスク式の乗りで行ってしまったのだろう。
 空気塞栓について、もうひとつ。その時、空気塞栓についての知識がまだ十分でなかったのではないかという疑いがある。当時のマスク式、ヘルメット式の教本には、空気塞栓の記述がない。ヘルメット式、マスク式のような口鼻が解放されている呼吸では浮上中に息を止めていることができにくい。普通に呼吸していれば、浮いてくれば息を自然に吐き出している。また、もしかしての事故も潜水病でくくられていたかもしれない。
 1957年の僕らの講習では、まず、いろはのいで息を止めるなと教えられたが、1954年には、どうだっただろうか。
 とにかく、1954年と1957年の間に長足の進歩があった。事故にも負けず、訴訟中にもかかわらず、機材を増やし、プログラムを研究して修正した先生等に感心、感謝する。
 さて、その訴訟だが、舟が上にあるとないと、あったからと言って必ずしも助かったとはいえない。「疑わしきは罰せず」で無罪になったよと、宇野先生は言っていたが、これが舟が居ないという理由で、有罪になったとしたら、ビーチエントリーで事故が起これば、すべて有罪になってしまう。ビーチエントリーで潜れるということが、スクーバの大きなメリットであり特色であるわけだから、これは一つの分水嶺だったともいえる。 
 
 そして今、1954年の事故を忘れないように、と遺族が作らせた石碑が、海洋大学の博物館に、展示はされないで、どこかに保存されている。小湊実習場は、実習場が千葉大学に移管され、僕らは館山に移るまで、ホームグラウンドだったから、数えきれないほど行ったが、この石碑がどこにあったのか知らない。この石碑を前にして、1954年の事故について説明したり、説明されたりしたことがない。事故は忘れ去ってはいけない。そのために遺族が石碑を作ったのであろうが。
 日本のスクーバダイビングの歴史は、この事故から幕があいた。

0331 RD5 大学時代の調査潜水(1)

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    1956年のウエット スーツ クストーが沈黙の世界で使っていた。


大学時代の調査潜水(1)

 サザエの棘(卒業論文)
 1958年、大学四年次になり、宇野寛先生のところで、卒業論文を書く。テーマはサザエの棘。サザエには、棘があるのと無いのがあり、波の荒いところのサザエは棘があり、波のないところでは、棘が無い。
 調査の場所は、伊豆大島の波浮港で、ここは巾着港と呼ばれていて、港と外洋の通路の部分、首の部分が細く長い巾着の形をしている。外側は外洋の波が打ち寄せていて、磯には棘のあるサザエがいる。首の部分の磯には棘のないサザエがいるのだが、その首の部分の海底にラインを引き、ラインにそってサザエを採集して、棘の有無、状態を調べればどこかに、ここからが棘あり、ここから内側が棘なしという境界があるはず。 
 大島にはまだ、タンクに空気を充填するコンプレッサーがない。まだ、全国、どこにも空気充填所などはなく、小さなコンプレッサーを持って行く時代だった。携帯用のコンプレッサーは、一本充填するのに2時間から3時間かかる。それはやめて、大きなボンベ、親ボンベを持って行って、親から子に移充填することにした。これならば、瞬時に充填することができる。ただし、空気の量に限りがある。
 宇野先生、そして、バディの原田進、3人ででかけ、夏季休暇の7月に15日間、現地調査を行うこととした。先生は、最初の3日間だけ指導して、方法が決まったら帰る。
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   トウシキでサザエ採集中の宇野先生

 サジッタという名前は付いていないが、おなじような大きさの木製、櫓漕ぎの舟が水産試験場にあり、これを借り、これで漕ぎ出して行って、ラインを張る。このライン調査がこの本(リサーチ・ダイビングの)の一つのテーマなのだが、ライン調査(ライントランセクト)は、日本では僕たちが嚆矢であった。スクーバを使う調査というのが、まだ、はじまったばかりなのだ。
 1957年、前の年に受けた潜水実習でも安全確保のためにラインを引いた。ラインには、検縄(けんなわ)という測量用のラインを使った。目盛りのついているラインなのだが、これに、さらに5m間隔でタグを付ける。この100mのケン縄を張って,その起点と終点の位置を測定して、海図に書き込む。そして、サザエを採集したら、その位置を目盛りで確認してサザエに記入する。サザエの殻の内側は白い部分に鉛筆で書き込むことができた。
 今ならば、ラインの起点、終点の位置はGPSで簡単に決めることができるのだが、GPSができるのは、まだまだ遠い未来である。六分儀を使って、陸上の建物とか目印を三つ選んで、六分儀で自分の位置とその目印地点との間を仮想の直線で結び、三つの目印との角度を測り、それを海図(地図)の上で三点分度器と呼ばれる定規で記入すると位置がでる。
 先生がいるうちに、まずこの地域全体のサザエの状況を調べる。波浮の近くに、トウシキと呼ぶ、今では有名なダイビングポイントで、岩礁が波を遮る、天然のプールのような澪筋がある。自分もその後何十回とこのトウシキに通い、撮影の天然スタジオのように使うのだが、この時が最初だった。
 いまでは、伊豆大島には、おそらく餌になる海藻類の変化だろうと言われている原因でサザエがほとんど居なくなってしまったが、当時は棘のあるサザエがたくさんいた。
 次にラインを引いて、波浮港の長い首の部分には棘のないサザエが居ることを確認した。
 これで、宇野先生が帰るのだが、そのころには親ボンベの空気はほとんど使い果たし、残圧は20キロほどしかない。それは、本当に深いところで使うこととして、ほとんどを素潜り、スキンダイビングで行うことになった。
 今、またスキンダイビングによるライン調査が脚光を浴びようとしているが、これの元祖になったわけだ。
 大きい5年もののサザエから、小さい、ピンポン玉くらいの大きさから、親指の爪くらいの大きさまで、ラインの両幅1mを徹底的に探して、殻の内側に、採集した位置を鉛筆で記入する。
 調査地点がだんだん深くなっていって、最終的に、僕は18m-20mぐらいまで潜れるようになった。職業的な海士さんは別として、そのころは、僕以上に深くスキンダイビングで潜れる者はいないと胸を張るようになった。
 貝の類は、一日の成長の量が、樹木の年輪のような成長線で見ることができ、サザエはそれがはっきりとしている。日周線を365本数えれば、サザエの1年前の姿がわかる。
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      サザエの日周線

 そして見つけた。成長線で2年目までは棘があり、以後棘がない個体、最初は棘があったが、後からなくなった個体、これは、サザエの棘の出来地帯とできない地帯を往復したものだ。そのあたりに境界線があるはずである。
 そこまでで、僕らのフィールド調査は終わって、後は戻ってからのデータ処理になる。これが大変だったが。


 潜水科学協会
 1957年、僕らが潜水実習を受けた年、日本潜水科学協会が発足した。今の僕らは日本水中科学協会で、水中と潜水で紛らわしいが、潜水科学協会の後を継ごうという思いもあってわざと紛らわしくしている。
 潜水科学協会は、日本のスクーバダイビングを、正しく発展させようという意図で、猪野俊先生、宇野寛先生、神田献二先生、医科歯科大学の梨本先生、旭潜水(マスク式潜水のメーカー)の佐藤賢俊さんらが中心になって作ったもので、残念なことに、途中でレジャーダイビングだけの団体に姿を変えてしまい、科学潜水を司る組織が無くなってしまう。その後を継ごうと僕らが日本水中科学協会を作ったものなのだが、その日本潜水科学協会に、僕は、1957年の創立時に学生会員の第一号として入会する。
 次に企画している「ダイビングの歴史」ではこの日本潜水科学協会について詳しく書こうとしているが、今、この協会のことを知っているひとは、あまりいないだろう。
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     三越屋上に置いたプール

 その潜水科学協会が、スクーバダイビング普及のために、日本橋三越の屋上に水深3m、円筒状のアクリル水槽プールを持ち込んでデモンストレーションをやる。何をやるかと言えば水中脱着。3mの水底に座って、スクーバ機材を全部脱ぎ、一旦浮上し、また潜っていって、その機材を全部着るという講習会でやるエキササイズをやって見せる。
 1957年の僕らの講習会は、事故が起こった1954年のころのものとは一変していこの水中脱着が技術の最終確認としてやるようになっていた。このデモストレーターは、僕しかいない、と売り込んで、学生会員第一号なので、やらせてくれて、それに間に合うように大島から帰ってきたようなわけだった。
 ここで、毎日3回、水中脱着をやって見せて、もう、目を瞑っていてもできるようになった。

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