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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0402 リサーチ・ダイビング(6)

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そのころのドライスーツ(コンスタントヴォリューム)胸の前に垂れ下がっているのが水返し マスク部分は被って頭部分と一緒に密閉される。ソフトラバーのヘルメット式のようなものだ。

 大学時代の調査潜水(2)

 人工魚礁調査(1)
 三越屋上ですごした夏も終わり、秋も中ごろ、人工魚礁の調査潜水が宇野教室に持ち込まれた。
 この本で、人工魚礁については、詳しくのべているが、人工魚礁は1935年ごろから、コンクリート製がぼつぼつ作られ注目されていたが、戦争で中断、そして戦後になり、食料としての魚類生産拡大の切り札のひとつとして、各地に沈設されはじめた。
 日本潜水科学協会の主要メンバーには東海区水産研究所もあり、各地の水産試験場もマスク式潜水などでの調査は行っていたのだが、まだアクアラングによる調査例は少なく、アクアラングによる調査の先端を走っていた宇野教室に調査の話が持ち込まれたものであった。
 人工魚礁は、後に自分のライフワークの一つになるわけだから、当然、僕はやりたかった。しかし、僕と原田は夏に採集したサザエの日周成長線を数えるのに忙しく、とても人工魚礁はやれない。後に日本アクアラングの社長になる上島君が、宇野教室に来て、やることになった。しかし、上島さんは、まだ、ダイビングについては、潜水実習を終えただけのキャリアであった。目標とする人工魚礁は神奈川県浦賀の鴨井漁港の地先、水深33mである。水深33mは、今でも昔でも深い水深だが、1958年では、33mに潜ったスクーバダイバーは数えるほどで、僕もまだ、30mは未経験だった。
 定置網の調査を始めていた一級上の恵里さんは、水深80mに潜って窒素酔いの経験があると豪語していたが、彼は、漁業科である。
 宇野教室でこのテーマをやろうとすれば、僕が潜る他ない。僕は潜りたい。
 
 季節は晩秋 スーツがなければ、潜れない。
 その頃のウエットスーツだが、今と同じ独立気泡ネオプレーンのものはない。これができるのは、1960年である。映画「沈黙の世界」で、クストー等が使ったような、単なるスポンジのスーツは、水産大学にもあって、一年先輩の竹下さん、橋本さんはそれを使って小湊でサザエの調査をした。しかし、そのスーツは、僕と原田が、ためしに使って見て、接着剤が老化していたらしく、バラバラにしてしまった。
 潜水服としては、、ウエットスーツの前にドライスーツは、あった。いわゆる潜水服とはドライスーツのことなのだ。ヘルメット式、マスク式の潜水服は、ドライスーツである。しかし、これは、ごわごわと固く、泳ぐスクーバには使いにくい。使えない。
 スクーバ用のドライスーツとしては、これもクストーのグループが作った、コンスタントヴォリューム型と呼ばれるものがあった。
 密閉されたドライスーツは、内圧外圧(水圧)の不均衡によって、スーツの内側が陰圧になり、身体が吸いだされ、絞られるスクィーズが起こってしまい、深く潜れない。10m以上、深く潜るためには、スーツ、潜水服の中に空気を送り込んで、内圧外圧を均等にする必要がある。ヘルメット式の場合には、ヘルメットと潜水服は接合されていて、服の中にも空気が送り込まれるようになっているから、スーツスクィーズは起こらない。クストーの工夫は、ヘルメット式と同じように、服の中にも空気を送り込んで、圧を均等にする。わかりやすく言うと、潜水服とマスクを接合して密閉状態にして、その中にダイバーの呼気を吐き出して均等にする。それが、コンスタントボリューム型と呼ばれるもので、スーツの頭の部分にも、足の部分にも排気弁が付いていて、内側全体が外の水圧と釣り合うようになっている。(※現在のドライスーツは、レギュレーターの高圧弁を通してインフレ―ターで空気を送り込んでいるが、これは、直接に服の中に空気を吐き出す。)
 つまりダイバーは、ドライスーツの中に密閉されている状態である。
 このドライスーツは、後に大学を卒業してから、就職した東亜潜水機で、クストーの複製(多分無断)を作っていたものであるが、こちらの(潜水科学協会)仲間内には、菅原久一さんが持っていた一着しかなかったので、それを借りて使っていた。
 僕がこれを使った経験は二回、一回は大学のプールで、ぺガスという水中スクーターのテストをした時、もう一回は木更津の実習場で海苔の養殖網の水中撮影をした時で、二回とも水深は1.5mほどだった。
 このドライスーツを着て、生まれてはじめて30mの水深に潜ろうというのだ。今考えれば無謀である。自殺行為と言われるかも知れない。しかし、そのころ(今でもだが)海はフロンティアである。人跡未踏である。勇み立ちこそすれ、不可能とは思わない。
 
 僕らはまだ車は持っていない。教室にも車はない。
 充填したタンクを木枠に荷造りして、鴨井の漁協まで送る。充填済みのタンクは爆発物だから、それなりの方法で、運送会社に依頼しなければなりない。
 潜って写真の撮影もしなければならない。手作りのハウジングは持っていたが、これは、ようやく小湊の水深5mあたりまでが限界、30メートルでは使えない。押しつぶされて水没する。
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  理研(理化学研究所)が作ったカメラ。中にはスプリングで巻き上げる35ミリカメラ、トプコンが入っていた。

 カメラは理化学研究所に借りに行った。20万とか40万とかするカメラである。そのころの大学卒の初任給は1万5千円、15万ではない一万五千円。だから、20万は月給の一年分に相当する。面白いのは、それ以後、自分がハウジングを作って売るようになった時も、価格は20-40万、今でも20-40万、貨幣価値は、まったく違っているがなぜか同じ。
 宇野教室にとって一大プロジェクトになった。潜るのは僕でも、論文を書くのは上島さんで、宇野先生、上島さん、僕の三人で出発する。


0403 リサーチ・ダイビング(7)

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        写真はこの時のものではありませんが、当時の人工魚礁です。


大学時代の調査潜水(3)
人工魚礁調査(2)
 鴨井港から漁船を出してもらう。人工魚礁の位置を魚探で探る。記録紙の上を上下にせわしなく針が動いて、海底の影を作り出して行きく。1,5m角のコンクリートブロックが二段、最高部で三段に積まれていることがわかる。
 錨が人工魚礁の中に入ってしまうと引き上げることができなくなってしまう。少し外して、人工魚礁の脇に落ちるようにする。
 ドライスーツは、胸の部分が薄いゴム地で筒のようになっていて、この筒から服の中に入り込み、足と手を入れ、頭を被ってから、この筒を畳んでよじるようにしてギリギリとゴム紐で結んで水密を保つ。この筒の部分を「水返し」と呼ぶのだが、これが胸の部分に盛り上がっている。
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      これは僕ではありませんが、水返しがわかりやすい。
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    これは僕で、コンスタントヴォリューム 締めているのは原田です。

 ドライスーツに入って、マスクのガラスを一番後でクリップのような金具で締め付けると完全に密閉される。このマスクは視野がせまく、特に下方への視界は、胸の水返しで妨げられるので、その水返しが見えるだけだ。閉所恐怖症ならば耐えられない。ドライスーツの中に突き出しているマウスピースを咥えて、これは普通のスクーバと同じように呼吸できるが、吐く息を鼻から出してやれば、その空気は服の中に溜まり、服の外の水圧と服の中の圧が均衡し、スクィーズを起こさない。服の中の余剰の空気は、フラッターバルブと呼ぶ、ゴム製のバルブから外に出されて、服が膨れ上がることはない。コンスタントヴォリュームを保つわけだ。
 正常に恐れるということが大事とは、今の信条だが、20歳の僕は恐れを知らないことを、誇りに思っている。それでもなお、恐ろしくないと言えば嘘になる。30mは、初めての体験でだ。30mは浅くない。ドライスーツに閉じ込められる。動きは不自由で、これも慣れてはいない。
 斜めになっているアンカーロープを手繰って行くのだが、このドライスーツは下の視界が悪い。見えるのは前方だけだ。眼が慣れないので暗黒の世界への潜降である。
 ようやくロープの終点、アンカーにたどり着き、周囲を見回すが魚礁は見えない。探さなくてはならない。
 
 これは、予想していたことで、捜索用のロープを持っている。一端をアンカーに結び、一端を手に持って、進んでいく。ロープの長さは20m。だんだん目が暗いのになれて来て、透視度は10mほどだった。足元から1mほどもある大きなヒラメが飛び跳ねた。このシーンは60年経った今でも鮮烈に覚えている。
 20m進んでも魚礁は無い。サークルサーチと言って、円を描くように捜索する。ということは知識として知っていたが、練習はしていない。とにかく、左側に円を描くように泳いでみる。しかし、そろそろ戻らなくてはいけない時間になった。ロープを手繰って戻る。
 その頃のアクアラング、スクーバには残圧計はない。そして時計も無い。時計を水密ケースに入れて持って行くのだが、僕らにはそれも無い。リザーブバルブと呼んで、残圧が20キロになったら、空気の出を制限する装置があるのだが、僕らの教室は貧乏で、それも付いていない。空気が渋く、つまり呼吸抵抗が大きくなったら浮上する。それと、大体の時間経過で浮上してくるようにする。伊豆大島で、20キロの充填圧での潜水を何回か繰り返しているから、空気が無くなる感覚は磨かれている。はずである。だから、戻る時間が来たことの察知は間違っていなかった。
 
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    写真が無いので、模型で再現します。こんな風に並んでいたと、

 アンカーまで戻って、アンカーロープをたどって浮上を始める。少し行くと、眼下に魚礁が固まって見えた。一番高いところで三段のようだ。魚もメバル、クロソイののようなものが見える。潜って行くときに、下方視界が悪いために、腹の下の部分が見えなかった。空気がそろそろ渋くなってきて、浮上しなければいけない。
 しかし、ようやく送ったタンク、借りてきた高価なカメラ、一枚でも撮らなければすべてが空しくなってしまう。降下して魚礁に降り立ってカメラで撮影した。その時魚礁の上に膝を突いたらしく、ちくっと痛かった。このドライスーツは、動きやすくするために、薄いコム地だった。すぐに浮上しようと足を蹴った。薄い袋のようなドライスーツの足の部分に水が入ってダブダブになって動きが鈍い。焦ってなんとかアンカーロープをつかんだ。ロープを手繰り始めた時、空気が尽きた。
 潜水病だとか空気塞栓、肺の破裂など頭に浮かばない。とにかく空気を求めてロープをたどる。ロープは長い。肺が空気を求めて痙攣する。息を吸い込もうとする。密閉されているから、吸い込むことはできない。あとから考えればこのことが幸いして水を吸い込まなかった。肺に水を吸い込んでいれば、直ちに入院でした。死んだかもしれない。
 手にしていたカメラ、これがかなり重かった。捨てれば、早く上がれる。しかし、40万、死んでもカメラは離せない。
 とにかく水面にたどり着いたのだが、ガラスを外さなければ息ができない。ガラスを外せば沈没する。20歳、抜群の運動能力だから自力で船に這いあがれた。ガラスを外した上島さんは、顔はチアノーゼで土気色だったという。先生はパニック状態で怒鳴っていたが、何を言われたか覚えていない。1954年に二人死んでいて、こんどは船の上で一人殺す。どうなるかわからないが大変なことです。前の時はともかく、これで、先生の将来は無いかもしれない。僕が死んだ場合母親はどうしただろうか。先生と学校を訴えただろうか。訴えなかったと思う。今とはちがう。息子が迷惑をかけたと謝りに行く時代であった。水に入ってからのことは、すべて自分の責任なのだ。
 この場合、バディがいたら、バディを殺していたかもしれない。自分だから助かった。自分だけだから助かったと思った。
 その後、人工魚礁の調査はもう少し浅い水深15mぐらいの場所、横浜三渓園沖で沖で実施されたのだが、もはや宇野先生は僕を潜らせようとはしなかった。上島さんが潜り、僕は上回りになる。
 今度は、上島さんにロープを結び付けて、潜らせた。アンカーとロープが絡むといけないので、アンカーは揚げている。
 何回目かの潜水の時、時間が来ても、上島さんがもどってこない。
 「須賀君、ロープを手繰りなさい」
 ロープの先に、上島さんが付いていない。居ないのだ。先生は顔面蒼白、本当に蒼白になった。船頭に頼んで、潜降を開始した地点に船を回してもらって、水面を探す。離れたところに浮いているのを見つけた。
 「どうした」先生はどなるように聞きます。「流れが速くなってきて、ロープが引っ張られるので、外しました。」そういうことなのだ。ロープを結んでも、人間は鵜と違うから、手でほどいて外してしまう。
 潜水科学協会の機関誌 ドルフィンに宇野先生が人工魚礁について寄稿したが、僕が命がけで撮った写真、クロソイが使われていた。頭がかげになって見えない、通常ならば、NGカット、それでも写ったのはこの一枚だけで、もしも死んでいれば、これがこの世で僕が見た、シャッターを押した最後の光景になった。
 
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 考察すると
 ①無理をしてでもやり遂げようとする性格、責任感が若者を殺す。
 ②海士なみのスキンダイビング能力が命を救った。しかし、自信過剰が一番危険。
 ③アンカーロープがあったから、たどって船に戻ることができた。ロープが無かったら浮上できなかった。
 ④幸運の第一回目だった。
 
 以下は蛇足 カットする部分
 その後10年ほどして、1967年、日本潜水会という指導組織を作って、教える立場になり、このアクシデントのことを話して、おなじようなエア切れを経験したことがある人は?と聞いた。およそ半数が手を挙げた。中には小便を垂れ流したとか、水を吸い込んで、救急車で運ばれたとか様々だった。そういう時代だったのだ。
 そして、今でもエア切れは、ダイバーにとって致命的になる。

今ではタンクの充填圧は200キロだが、1980年代までは150キロ、1960年代の国産のスチール容器は120キロだった。120キロというと、今ならばそろそろ、ターンプレッシャー帰る気持ちになる。ターンするのは、おおむね80キロで、エキジットした時が50キロを目指す。昔は50キロでスタートすることも普通だった。午前の潜水で50キロ残したら、午後は50キロでスタートだ。自家用の車は持っていない。レンタルタンクは存在しないから、みんな自分のタンクを買う、クラブで、車を持っている人が充填の世話をしてくれたり運搬してくれたりする。車(貨物車でいい)を持っていることが、ダイビングクラブの中心メンバーになる要件だった。そして、やがてクラブがダイビングショップになっていく。
 その代わりに、減圧症には、なかなかなれなかった。一日にタンク一本では、減圧症にはなれない。減圧症になれるのはプロ、潜ることを収入源にしている人だった。まれに、どうしてなったのかわからない減圧症もあり、相談を受けたが、そのうちに治るという答えしかだせなかった。

0404 リサーチ・ダイビング(8)卒業

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  大学の4年間でその後の自分のリサーチ・ダイビングで重要になる事のほとんどすべてを体験した。そしてその時期は、日本のスクーバダイビングの黎明でもあったので、詳しく述べた。
 そのすべてを恩師 故宇野寛東京水産大学名誉教授の指導をいただいた。
 1954年の二名事故死の責任を問われて裁判中にもかかわらず、1956年には講習を復活させ、さらに、ぼくのような「冒険児になりたい」などと唱えて高校時代を送り、その気質のぬけない弟子を教室に入れ指導した。最後は見放して、潜水をさせなくなったが、ともあれ、先生は、日本のダイビングのパイオニアだった。
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      左側、その頃の宇野先生、右側は一級上、橋本先輩

 一連の出来事の中で、僕の一生のダイビングにつきまとうテーマとなったのは、二つ。一つは、1954年、日本最初のスクーバダイビング事故の事で、もしも頭上の海面に櫓漕ぎの小舟、サジッタが居れば死ななかった。
 このことは、後の裁判でも問題にされ、最終的には「うたがわしきは罰せず」になったのだが、もしもこのときにこれが有罪になっていたら、日本のスクーバダイビングは、ビーチエントリー禁止になってしまう。そのことは、ずっと、今でも頭に引っかかっている。
 僕なりの解決は、リサーチ・ダイビングを仕事として行う場合には、ボートダイビングで行う。レクリェーションダイビングでは状況に応じて使い分けるが、経費の点で、ボートは使いにくい。
 なお、東京水産大学の潜水実習は、小湊に実習場があった時代は、1957年の講習と同じように、サジッタを頭上に浮かべて行っていたが、館山に移ってからは、サジッタがエンジン付きの大きなボートになったこと、地形が小湊のような波静かな入り江ではなくなったこともあり、実習のほとんどの科目がビーチエントリーになった。
 ともあれ、僕は舟、もしくはゴムボートがが使える状況であれば、使うことにしていて、不思議と、上に舟がある時に、事件がおこり、助かっている。
 もう一つは、命綱で、1954年の事故を受けて、1956年の実習再開の時は、講習を受ける学生に命綱をつけた。僕はそれには大反対で、何とか綱をなくして自由になりたい。なぜならば、スクーバとは、拘束されない自由に泳ぐ、セルフコンテインドこそが他の潜水機とは区別される特色だと思っていたたからであった。
 幸い?僕らの代からは、命綱はなくなり、その代わりに、海底に引くラインが使われ、卒業論文もラインサーチ(ライントランセクト)での調査でおこなった。
 しかし、切羽詰まると船上の監督者は助けを命綱にもとめる。人工魚礁調査で、上島さんが命綱をつけ、流れが出て来たので、それを自分で解いてしまったことを述べた。流れがあっても、後年の水中レポートシリーズでは、有線通話ケーブルを離さず、そのために事故から逃れたこともある。命綱を使う場合も打ち合わせと練習が必要である。


 スクーバダイビングとは、自由=危険、安全=拘束の相克の谷間にある活動であり、それが以後の自分のダイビングライフの芯になるのだが、卒業の時点ではまだ気づいてはいない。

0406 リサーチ・ダイビング(9)

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   自作、手作りのフルフェースマスクを着けて100mへ
           1963年



東亜潜水機 100m潜水(90mで戻ってきたけど)


 卒業前の数ヶ月、1月、2月。3月は、卒業論文で終始してしまう。幸い論文の研究発表は好評で、水産学会で発表することになり、学会での発表も、いくつかの賛辞をいただいた。好評だったのは、発表の内容とともに、作成したスライドがわかりやすく良くできていたこと(まだPPなど遙か先です)などで、潜水と映像撮影、調査と、将来戦う武器を身につけて卒業できたわけだが、論文に没頭して試験勉強ができず、公務員試験を通らず、就職の見通しが立たなくなり、研究者になろうと留学も考えたが、折悪しく、実家も倒産、東亜潜水機という、主としてヘルメット潜水機関連の機材を製作販売する会社に拾ってもらった。
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      僕が入社した当時の東亜潜水機(南千住にある)

 その東亜潜水機で、スクーバ器材の開発と販売を担当するのだが、チャレンジ、冒険、探検という悪い虫が動き始める。
 潜水機メーカーに籍を置いてのチャレンジは、潜水機の改善、改良より他にはない。東亜にはマスク式潜水機というレパートリーがない。スクーバのレギュレーターにホースで中圧の空気を送り込む送気式潜水にフーカーというのがある。フーカーとマスク式を合体させるハイブリッドを作ろうと考えた。それは正解なのだが、その潜水機を使ってのテスト潜水として100mを目指した。無謀という他ないが、僕の場合、100mへのチャレンジがまずありきで、100m潜水の理由づけとして、デマンドバルブ付き全面マスクの試作とテストを考え出した。その頃、親しくしていた舘石昭さんを誘って、毎日新聞社の後援で、系列のTBSの番組を制作する体制で千葉県、館山湾で、実行した。もちろん紆余曲折はあった。特筆することは、その頃東亜潜水機に嘱託としておいでになった清水登さんに総指揮をお願いしたことだ。清水さんは、旧帝国海軍で潜水の神様と言われた方で、あの伏龍特攻潜水機の開発者でもあった。
 
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        伏龍を作った清水登さん
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      5本重ねたスクーバを背負う舘石さん
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      千葉県の漁業監視船 ふさかぜ を使わせてもらった。

 自分は、手作りした不完全なマスクにフーカーを取り付けホースで潜水したが、舘石さんはそんなものを使ったら死ぬということで、タンクを5本束ねた通常のスクーバで潜水した。
 もう一つ、テレビ番組の制作のためには、音声、100mの底からの声によるレポートが必須と番組のディレクター竹山さんに言われ,有線通話の開発を行った。もともと、ヘルメット式潜水機は、ヘルメットの内側にマイクレシーバーを付けて通話ができるのだが、マスク式や、もちろんマウスピースで呼吸するスクーバでは、通話機は無かった。通話機は見事に成功して、90mの底から、舘石さんが失神して墜落したことを水面に報告して番組の芯になった。そして、後にテレビ朝日のニュースステーションなどで、成功した水中レポートの基になった。
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     ふさかぜ 船上 二人で潜水するが再圧タンクは一個
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     有線通話で交信する、通話機設計者の片田さん
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       これから潜降!

 窒素酔いは、人間という生体に現れる反応だから、個人差、体調、呼吸気体の状況(多少、質)周囲の状況などで千差万別であるが、水深30mぐらいから発現し、40mを超えれば,ほぼ確実に体感する。状況によっては、快感に近い場合もあり、酒酔いと同じように、くせになることもある。この潜水では、空気の質、不足があって、非常に不快であり、耐え難くて浮上する事態もあった。おそろしいのは、意識が途切れる、失神であり、失神すると落下していき、ホースなどで引っ張られれば、意識がもどり、また引き揚げてもらうこともできるが、スクーバでの墜落は非常に危険である。
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      93mの海底で、舘石さんが撮影した僕の顔

 この潜水では、命綱を付けており。テレビ番組のタイトルも「命綱を降ろせ」であり、命綱とホースで命が保証されているように考えて実行していたが、予期していなかった事態が起こり、危機一髪だった。それは、僕のホースだった。ホースが長くなるので、従来の潜水用ゴムホースでは、太くて嵩張る。ビニール製の細いホースを使った。このホースは耐圧は十分だったのだが、熱に弱く、夏の暑い日差しとコンプレッサーの圧縮熱でやわらかくなり、膨れ上がった。膨れて、ホース金具から外れたり、破裂すれば、僕の命はなかった。コンプレッサーだけでは空気が不足するので、高圧親ボンベからの送気も用意していた。ボンベからの空気を足したのでその気化熱でホースが冷やされて、破裂しないで済んだ。
 この潜水での機材開発の基本的な考えは、ハイブリッドで、マスク式と、デマンドバルブフーカーのハイブリッドだったが、スクーバとのハイブリッド、送気ホースと一緒に背中にタンクを背負う、ホースとタンク、二系統からの送気を考えれば、これは危機一髪ではなかった。それを考え着かなかった理由は、レギュレーターが、ダブルホースだったからで、現在のようにシングルホースでオクトパスを着けていれば、容易に考え着いただろう。
 その後、現在ではデマンドバルブを付けた全面マスク式が作業ダイバーの潜水機の主流になっている。日本でそれを考えて最初に実施したのは、僕で、1963年のことだった。技術者として多少は誇りに思っても良いかもしれない。しかし、僕は、このコンセプト、この潜水機を完成させることなく、1969年に東亜を退社してしまう。社長の三沢さんも専務の佐野さんも引き留めてくれた。あんなとんでもないわがままをさせてもらったのに、とんでもなく申し訳ないことだった。辞めた理由は、もっとダイビングをやりたかった。機材の開発と制作販売の片手間に潜るのでは足りなくなってしまった。ダイビングの指導の団体、全日本潜水連盟を創ったことが直接の引き金だった。
   
 実現しなかったが、次はヘリウムを使って120mに潜る計画だった。 
 ヘリウムは高価なので、水中へ電動コンプレッサーを持ち込み循環させる計画だった。
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 このコンセプトは、後にプッシュ・プル方式と呼ばれて、シートピアはこの方式を使った。特許を取っておけばよかった。が、実施していたら、多分、命はなかっただろう。
 

0411 リサーチ・ダイビング(10)

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摩周湖 1968年 日本で初め摩周湖で水中撮影した。かまえているのは16mmシネ、ベルハウエルDR70 歴史的なカメラだから知っている人は知っている。この時は、日本スキューバ潜水の鈴木博と一緒に潜った。
この時に後に親しくなった知床、網元の佐々木さん斜里モーターの佐野さんら斜里の人たちと知り合った。
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 摩周湖、アイヌの舞を撮る、このとき、アイヌが、キャデラックに乗って現れたのに仰天した。踊りの前に、この衣装に着替えた。プロなのだ。


 この翌年 東亜潜水機を退職してスガ・マリンメカニックを設立、カメラハウジングの製作販売をはじめる。
 


 スガ・マリン・メカニック発足
 

 東亜潜水機の時代もカメラのハウジングを作った。学生時代、撮影が自分の得手だった。アルバイトで、新東宝の撮影、水中撮影の助手をやった。リサーチ・ダイビングもカメラが自分の武器だ。
 加山雄三の海の若大将(1965年) 撮影の35mmシネカメラの巨大ハウジングも作った。そのころの16mmシネカメラのスタンダードだったベルハウエル70DRのハウジングも作って、東亜潜水機製造、大沢商会販売で売った。
 そのDR70で、日本テレビの番組で、日本初、摩周湖の撮影をした。この撮影で北海道斜里の人たちとの人脈ができた。
 
 東亜潜水機を辞めてもまだダイビングで生計は立てられない。日本潜水会から全日本潜水連盟というダイビング指導団体を作り、これに時間をとられてしまうことが東亜潜水機退職の引き金になったのだが、これが純粋ボランティアだった。純粋ボランティアだったことが日本国産ダイビング指導団体、痛恨の敗走になるのだが、これは置いておき、1970年の時点では全国統一団体になり、僕はそのプロデューサーであったが、収入にはならない。振り返って、本当に愚かだったが、とにかく、これは収入ではなく支出のほうだ。
 東亜潜水機を辞めても大恩ある東亜潜水機と同じ商品、手がけていたマスク式フーカーとスクーバのハイブリッドを作ることはできない。これも後から考えれば子会社を作ってもらう途があったのではないかと反省するが、後の祭り。
 カメラハウジング作りは、東亜潜水機で、僕が始めたビジネスであり、持って出ても良いだろうと考えた。海の若大将の35mmも、ベルハウエルの16mmも自分が製作図面を描き、旋盤を回し、ヤスリでこすって仕上げたものではない。こういうものを作ってくれと概略の絵を描き、改良点を指示監督して作ったものだ。その作り手が川崎に居た島野徳明で、新しいスガ・マリン・メカニックの発起人にもなってもらって、ハウジング作りを開始した。もう一人、中学時代の友達の友達で、ダイビングショップ(日本スキューバ)を始めた鈴木博も発起人になった。
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カバーになる写真がなくて、これはトラック島の沈船だ。話題にしている空光丸は、大波で岸壁に打ち付けられてバラバラになってしまい、機関部だけが海底に鎮座していた。波の力の恐ろしさを思い知った。


空光丸 遺体捜索
 ハウジング作りを始めたが売れるわけのものではない。そんなとき、1970年1月30日、太平洋岸に発生した爆弾低気圧が、日本海に発達した低気圧と連携して二つ玉低気圧となり記録的な被害になった。
 福島県いわき市小名浜港に嵐を避けて入港していた
1万1千トンの貨物船(木材運搬船)空光丸.は、錨が抜けて岸壁に打ちつけられ、人々が見ている前で沈没し、14名が死亡した。その遺体捜索の仕事が舞い込んだ。
 遭難して直ちに捜索も開始されたが、14名が行方不明、何人かが遺体で見つかったが、何人かが見つからない。船は堤防に叩きつけられたのだが、恐ろしいことに11000トンの船がバラバラに粉砕されて、積んでいた原木が流出して、港を埋めて荒れ狂った。これに挟まれて死んだ人もいて、1週間の捜索でまだ見つけられない遺体は堤防のテトラに挟まって居るのではないか。上からは見下ろして捜索したが水中はまだ見ていない。地元の潜水業者はテトラの中には入らない。そこで、僕らのところに来た。僕らといっても潜水するのは鈴木博と僕だけだ。フリーのダイバーをかき集め、日本スキューバのお客でも、セミプロを集めた。島野は、自分は潜らないが人集めと河搬コンプレッサーでの空気充填を担当した。
 遺体捜索も、リサーチ・ダイビングである。
 腰に命綱を巻き付け結んでテトラの隙間に一つ一つ潜り込んで行く。透明度は1m以下、まるで見えない手探りのところもある。波があれば引き込まれ押し出される。そして2月の福島、小名浜である。水温は6ー8度 まだそのころは5ミリのかぶりウエットスーツだった。死ぬほど寒い。日本スキューバ潜水の鈴木博は、この寒さで、降参して、ドライスーツの開発、販売を決意した。その頃、すでに、シーハントの尾崎君、波左間の荒川さんらが、水密チャックを輸入して、東亜潜水機が製作するGスーツと呼ぶドライスーツを作っていたのだが、それとは別に独自のものを作ろうとした。日本スキューバには、小川君というアイデアマンがいて、水密チャックを使用しないで、水返し(コンスタントボリューム型のところで説明)を薄いスポンジ生地で作り、最小限度に短くして、それを胸の部分でチャックで閉じる格納する。これならば、一人でも着られる。小川式、小川君は退社したので、O式ドライスーツができた。これが成功して、日本スキューバの柱の一つになり、やがて、そのドライスーツ部門が、今の「ゼロ」になる。「ゼロ」の会長は鈴木博の奥さんである。博は残念ながら亡くなった。
 結局、テトラの中で遺体は(今はご遺体というが、1970年代は、遺体である)見つけらなかった。その後、港を埋めている材木の下などをロープを横に4人で引っ張るようにのばしながら、見ていくジャックスティと呼ぶ捜索方法をやった。これは、下手が入ると両端が水中で鉢合わせしたりしてめちゃくちゃになる。
 ここでの、遺体捜索の中心は、スバルという引っかけ針を鉄の棒に付けて、海底を引き回す方法であり、地元の漁船が総出でこれをやっていた。そのスバルに引っかかって船縁まで上げたが落としてしまった。その場所に舟を止めているから直ぐに上げに来てくれ、と要請が入った。誰と行こうか、大方洋二君がそばにいたので行こうと声をかけた。大方君は、今やカメラマンとして有名人だが、当時は日本スキューバのクラブの中心的一員で駆り出されていたのだ。アルバイトで、良いギャラにもなったが。僕のそばにいたのが不運で、「行こう」というと、顔面蒼白になったが、断れない。
 潜ってみたが、舟の直下には居ない。サークルサーチをする事になり、洋ちゃんに芯になってもらって、僕がサークルを描いたけれど居ない。スバルが枯れ枝をかき集め枯れ枝にシャツが巻き込まれて居たものと判明した。
 結局ご遺体と出会うことがなく、調査は終わったが、ギャラはしっかりもらうことができて、半年ぐらい、息を継いだ。 


※この部分は,出版予定の「リサーチ・ダイビング」では、大幅にカットしなければいけないだろう。おそらくは、全部カット? リサーチ・ダイビングに直接関わる比重が小さい。しかし、書いて、後から、カットする方向で書いていく。せっかく書いたのだから、情報にはなっているので、ブログには順に出していく。



0416 リサーチ・ダイビング(11)

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1965年、海の若大将を撮影した35mmアリフレックス


スガ・マリン・メカニック2
 作ったハウジングは、ゼンザ・ブロニカを入れた。
人工魚礁のことを書こうとしたのだが、ハウジングと書いただけで、作ったハウジングに脱線してしまう。コロナの自粛中にリサーチ・ダイビングの原稿仕上げてしまいたいのだが、脱線してしまうと、行くところまで行かないと止まらない。
 以下は全部「リサーチ・ダイビング}ではカットのつもり。
前回に触れたのだが、東亜時代、最初に作った1965年、海の若大将の35mmフィルムのアリフレックス。よくもこんなものを作ったと思う。僕は作らせた側で、作ったのは島野徳明さんだ。、
 
 島野さん、僕よりも年上だから、さん付けで呼んでいた。最初に島野さんとであったのは、潜水科学協会の集まりの時だったが、向こうから話しかけてきた。次は、東亜潜水機に訪ねてきた。そのころ、日野自動車でライセンス製作していた、小さなルノーに乗ってきた。当時、川崎の東芝に勤務していたのだが、それはアルバイトのようなもので、機械加工の小さな工場もやっている。レギュレーターの部品、切削加工をしたいという。
 さらに横道にそれて、そのころの日本国産レギュレーターについて、触れておこう。クストーの作ったアクアラングは、フランスのスピロテクニクが作っている。クストーは、スピロの技術者であるエミールガニアンに頼んで、試作のレギュレーターを作った。クストーが作ったわけではない。こう言うのがほしいと要求しただけなのだ。もの作りの技術者は、世の中で何が必要なのか、何がほしがられているのか、中には、一人ですべてができる天才もいるが、だいたいが、チームプレーでものはできる。その流れで、アクアラングの製作はスピロ。そのスピロを訪ねていった時の話まで脱線するともとに戻れなくなる。島野さんの話をしているのだ。
 スピロは日本の帝国酸素、現在はテイサンと同系列だ。いや、帝国酸素はフランスの会社なのだ。しかし、スピロのレギュレーターを輸入していたのは、日本の貿易商社バルコム交易で、そのルートで日本にスピロのレギュレーターが入ってきていた。まだ、USダイバーは、日本に入ってきていない。
さらにもう一つ、スピロがだしている一段減圧、ダブルホースの「ミストラル」があり、日本の自衛隊はこのミストラルを採用していた。シンプルで故障が無く、故障しても空気が止まることはない。一番好きなレギュレーターだったが、日本の高圧則は、レギュレーターは二段減圧であることと、定めてしまっているので、民間では使えなかった。軍艦の上は治外法権だから、使えたのだが。
 日本では、川崎航空がタンクとレギュレーターを作って売っていた。タンクは本格的なアルミタンクで、オレンジ色にきれいに塗装されていた。レギュレータの内部は見ていないが、このころのレギュレーターは、すべてスピロの真似だったから、同じようなものだっただろう。伊東精機という会社もレギュレーターを作っていた。この実物を見たことがない。潜水科学協会の機関誌「どるふぃん」に広告が載っていた。
 もうひとつ、菅原久一さんの潜水科学研究所が出していた、無印がある。学生時代、僕はスピロの純正とこの無印を使っていた。使ってみての差は、ほとんど感じられなかった。
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   左側、スピロテクニックの純正アルミタンクと無印レギュレーター
   右側 スピロテクニックの純正レギュレーターと消火器タンク
   互い違いになっている
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 右端のタンクが川崎航空のアルミタンク(船の科学館の展示)

 さて、僕は東亜に入社して、僕の前に東亜でスクーバをやっていたのは、菅原久一さんだと知った。いろいろな事情はあったのだろうが、菅原さんと東亜潜水機の間は、断絶状態だった。断絶状態だったが、東亜潜水機が売っているレギュレーターは、菅原さんと同じ無印で、田無の中のさんという方がつくっていた。
,どうも、伊藤精機のレギュレーターもこの人が作っていたらしい。中野さんは、そのころまだ世にでたばかりのスバル360に乗って、東亜潜水機に3台とか4台のできあがったレギュレーターを持ってくる。ほぼ注文生産なのだ。
 注文しても、いそがしいらしく、持ってこられないことがあった。田無に催促にいった。工場と言えるようなものはない。才能のある人で、他にも何か、アイデア商品のようなものをつくっている。それでも工作機械など何もないのだ。机とバイス(万力)だけ、あとはスパナーの類と、ドライバーだけだ。
 東亜潜水機に入社する前、大学はでたが職のない僕は古石場(なんといま、直ぐ近くで、図書館のとなりあたり)の日本建設機械という大げさな名前の町工場で工員さんを3ヶ月くらいやった。この会社は駐留軍が飛行場とかの建設のために使って、用済みでで捨ててあった建設機械、ブルとーザやクレーンを掘り出してきて、バラバラに分解して、ガソリンで洗い、損耗している部品は、別に作って、組立上げると新品同様につかえるようになる。すなわちスクラップ再生をやっていた。
 組み立てる時にマニュアルというものを見る。その機種のマニュアルをコピーして青焼きにしたもので、これで、部品を組み立てる順番をみる。ボルト一本、ナット一個でも、欠落していれば、事故になる。
 これで、機械というものは壊れても、バラバラに分解して、壊れている部分を作り直し、新品と交換すれば、元通りに動くようになる。という極意?を得た。
 ダイビングのレギュレーターなんて、本当に簡単、一個の弁にしかすぎない。自分で作ろう。
 弁構造とは、ノズルとそれを抑える弁、と弁を押しつけるスプリングだ。それにボディ、筐体、ゴムのダイヤフラム、あとは蛇腹管,マウスピース、東亜潜水機は、ゴムの加工もしているし、後は、下請け工場で旋盤切削で部品を作れば良い。簡単な製作図面ぐらいは、描ける。
 で、TOA・SCUBAができあがった。参考にしたのは、basic scuba という本で、これが、建設機械工場でいうマニュアルになった。
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      BASIC SUUBA 1960年
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     数日前に紹介したハイドロパックの組み立て図
    
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     僕の作ったTOA SCUBA マウスピース部分の不環弁が金属製
     で、アクアマスターのように浮き上がることが無かった。そして
     分解しての清掃が便利
 
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      僕が手掛けた、タンク、9リットルダブル
      リザーブ圧力を可変することができた。
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     左、TOA SCUBA 右 アクアマスター 日本アクアラング

 弁の部分のテフロンとか、いろいろ苦労もしたし、テスト中に空気が停止して危機一髪もあったけれど、とにかく1年弱で、レギュレーターを作り上げた。
 その当時、ものをつくるためには、部品を作ってくれる下請け工場が近くになければできない。東亜潜水機の近くには、いくつかの工場があり、向島あたりが、多かった。優秀な下請けを持っていれば、いいものができる。大田区とか川崎も、もの作りの場であり、小さな下請け工場がたくさんあった。
 島野さんは、僕の下請けとして立候補、売り込みに来たのだ。向島の切削工場をやめて、島野さんに切り替えた。島野さんは、川崎という地域でもの作りをする一つの天才であり、その上に、電気のことがよくわかっていた。本当になんでもできた。
 その一つが「海の若大将」の大型ハウジングである。
 
 次回はハウジングの話をしよう。
 作ったハウジングは、ゼンザ・ブロニカを入れた。

0418 リサーチ・ダイビング (12)

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      ブロニカ マリン


スガ・マリンメカニック 3


 作ったハウジングの種類は数えていない。記録もしていない。もちろん制作台数の記録も、残っていない。
 今から考えると本当にルーズであり、もったいないとも思う。しかし、その時、その時期は生きることに、生き残ることに全力投球で、とうてい記録などできなかった。
 それを言えば、今だって生き残りに全力投球だから、ただただ、ルーズだっただけだが、それでも、残っている写真とか、書いたもの、記録を掘り出してこれを書いている。
 これも、出版予定のリサーチ・ダイビング では、二行か三行に縮めてしまうけれど、ブログは記録である。1970年代に今と同じくらいに書いていれば苦労はないのだけれど。だから、今、とりあえず役に立たなくても書いておく。
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 「水中写真の撮影」という単行本を、当時、水産大学の助手だった小池康之さんと共著でかいた。小池さんは先日、恩師の宇野先生がいただいたと同じ勲章をフランスから授与されている。小池さんはフランスでアワビの養殖の研究、指導をされていて、地中海でのアワビは、すべて小池先生の功績だ。その「水中写真の撮影」の出版が1972年で、これを見ると、島野さんと一緒に作ったハウジングのほとんどすべてが紹介されている。
 振り返って、1969年がスガ・マリンメカニックの事実上のはじまりだから、両三年のうちに、よくもこれだけのことを仕上げたものだと、自分で自分に感心してしまう。
 
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    最初のブロニカマリン
 とにかく、ブロニカが、ハウジングつくりの始めであり、また一区切りの終わりでもあった。う。
 そのブロニカだ。創業者がゼンザブロウという人で、趣味でハウジングをつくってビジネスに伸ばしていったとかで、ゼンザ・ブロニカが正式名称だ。ブローニーフィルムで6×6版、一コマの大きさが6cm×6センチ、12枚撮り、レンズは標準で70ミリ、広角で50ミリになる。一眼レフであるが、二眼レフのように、レフファインダーを上からのぞき込む。ボディが立方体なので、ハウジングが作りやすい。水密にするオーリングは、原則として、円筒形の内径シールだから、立方体であれば、円筒の経を小さくすることができる。
 ハウジングを作るメーカー、メーカーと言えるほどのものではなかったが、ハウジングを作る人は、競ってブロニカのハウジングを作った。スガ・マリン・メカニック、sea & sea、タテイシブロニカマリン、そして恒木マリン、菅原さんの潜水研究所もブロニカのハウジングを作った。そのころ、まだ、フィッシュアイは、まだ、出てこない。現社長の大村さんは、まだ青山学院の大学生だったはずだ。
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 中で先進、一番進歩したのは、僕のスガ・マリン・メカニックだったと思う。ブロニカの6X6サイズのレンズの画角は、現在の広角レンズにくらべて、ずいぶんと狭くて、広角の50mm でも、70度だった。それでも、そのままだと、平面のポートで、水中からの入射が屈折するので四隅、周辺部はぼけてしまう。これを補正するために、球面のポートを採用した。今ではこれも当然のことになっているが、計算ではなく(計算ができないから)実験と試行錯誤の繰り返して、独自のドームポートを作り上げた。R!!6型、16回のモデルチェンジで、最終完成に到達した。
 そして、スチルのカメラハウジング作り、販売に意欲を失ったのは、カメラ本体、ブロニカがS2型からETR型へのモデルチェンジだった。中に入れるカメラの型が変わってしまえば、ストックしているハウジングは、すべて、新品としては売れなくなってしまうし、モデルチェンジを繰り返されては、やっていられない。それでも、ブロニカは、モデルチェンジがほとんどなく、16型まで、やることができた。
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 もう一つ、忘れられないカメラ・ハウジングは、アサヒペンタックス の17mm対角線 画角180度レンズを使ったハウジングだ。いまでこそ、画角、170度なんていうのがスタンダードになっているが、1970年ごろには、画角90度が水中でも最も広角で、それでも補正が必要だった。
 カメラマンが下手、才能がない(自分のこと)場合、カメラ(機材)の優劣が作品、撮ったものの優劣を決める。機械(メカニズム)をインターフェイスにした場合、出来栄えの90%は、機械が決める。すなわち、水中では、撮影の画角は基本的に広ければ広いほどいい。
 この画角180度カメラの注文をしてきたのは、朝日新聞社のカメラマン、工藤五六さんだった。ただでさえ、画角90度でさえ周辺部がボケる、歪むのだから、180度なんて到底無理、と断ったが、なぜか工藤氏は大丈夫やってみよう。ダメでもお金がもらえるのならば、とチャレンジすることにした。工藤さんの分と、自分の分、これはテスト用だが、それともう一台、合計3台の試作をした。島野さんがひとつの天才だと思ったのはこの時だ。これまで、ハウジングの基本は円筒形だったのだが、あえて四角、角型を採用し、角型では内径シールができないので、圧着型として、エキセントリック(異径)の回転で締め付ける留め金を使った。
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 これで、水は一滴もはいらなかった。そして、驚くことに、四隅の歪みも、新聞社の基準で考えて、合格(使える)水準だった。おそらくは、レンズとポート(窓ガラス)を密着させたために、歪みが少なくなったのだろう。これを持つことによって、工藤さんの朝日新聞カメラマンは、他社では撮れない写真を撮ることができる。報道写真は、マクロではない。被写体に肉迫する。水中では望遠が使えないのだから、広角勝負になる。僕自身も水中の建設現場撮影で、ずいぶんと役に立った。真鶴の岩海岸で、小松の水中ブルトーザの撮影をして、ブルトーザが走り回り、濁った水中で、よく、こんな写真が撮れると感心された。機材が撮ったのだ。
 工藤五六さんの写真を見て 旭光学でも、これを売りたいということになり、20台ほど売れた。
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 カメラハウジングとして一番売れたのは、8mmシネカメラ、エルモのハウジングだった。これは、シンプルでコンパクト、8万円で売っていた。量産といっても100台ほどを、20台を5回に分けて作った。僕らの場合、20台がワンロット(一回の生産量)だった。
 しかしながら、結局、島野さんが作る数、利益を上げられるだけの台数をスガ・マリン・メカニックは売ることができなかった。ハウジングを作って売るよりも、潜って、ダイビングで調査仕事をしたりして稼いだ方が、資本が寝ない。スガ・マリン・メカニックは、島野さんも資本を出しているのだから、別れはしなかったが、島野さんも自分の販路で、ブロニカなどを売るようになり、一つの製造会社としての態勢は崩壊して行った。
 その後、というか、それまでもだが、スガ・マリンメカニックは、人工魚礁など、水産関係の調査とカメラハウジングの販売、そしてレジャーダイビングのクラブを平行して行っていて、自分のやる調査の撮影機器を自作、工夫してやれることを売り物にしていた。たとえば、間歇撮影、今では付属した機構となって、どんなカメラにもついているが、その頃は、自分でタイマーを作らないとできなかった。今では、ぼくはタイマーなどとてもできないが、そのころは、作れた。
 そして、時代は16ミリ、8ミリフイルムから、ビデオカメラの時代に移る。ビデオに移る時代から、僕のカメラの作り手は、ダイブウエイズに移行した。島野さんとも別れたわけではなく、作ってもらっていたので、製造の下請けは、2社になった。島野さんも僕、スガ・マリン・メカニック以外のもの作りもやっていた。無理をしない自然な流れで、それぞれが、若干の利益をあげる。
 sea & seaの山口さんは、イエローサブという黄色いストロボを出して、これがヒットした。ストロボについては、後藤道夫の後藤アクアディックも「トスマリーン」という小さなストロボを東芝から出した。島野さんと僕は、「シーレヴィン:海の稲妻」という大型ストロボをだしたが、高価だったためかあまりうれなかった。
 1980年からは、僕の仕事は水中撮影、ビデオカメラによる撮影が本業のようになり、それ用の大型ビデオカメラハウジングをダイブウエイズで次々と作った。しかし、そのビデオ撮影の始まりも、島野さんから出たものだった。日本テレビが大型の水中テレビカメラを作ったのだが、それを整備するところがない。それを島野さんが引き受けた。そのカメラで水中撮影をする人、ということで、僕のスガ・マリン・メカニックが引き受けた。
 日本テレビのロケで、南洋のポナペに行くことになり、社員の河合君がカメラマンをやる予定になっていたのだが、出発の間際になって、彼のお母さんが亡くなってしまい、ピンチヒッターで僕が行くことになり、それがおもしろくて、社長業を放棄して、カメラマンがメインになってしまった。
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 僕が社長業を事実上やめて、水中撮影にのめりこんだのは、ポナペのナンマタール(遺跡)の呪いのためだ。ナンマタールに潜って水中の聖跡を見たものは呪われるという伝説がある。
 以来、スガ・マリンメカニックは社長が潜水をやめさえすれば、伸びるのに、と何度も言われた。自分としては、何とも言えない。結果として、スガ・マリンメカニックは、伸びず、僕も潜水をやめないでいる。


 ローリングストーンとは、よく言ったもので、人の一生、仕事なんて、転がる石のようなものだ。
 コロナの結果もどうなるかわからない。人類全体で、なにかのタブーに触れたのかもしれない。
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    ダイブウエイズがつくるようになってからのビデオハウジング
    本来は機材メーカーなのだから
    僕が使うカメラを作るだけでも手一杯だった。と思う。

0419 リサーチ・ダイビング(13)

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       波佐間海中公園です。
 
 リサーチ・ダイビング転回


ここまで、「リサーチ・ダイビング」と題して、出版ではカットするようなことを 書いてきたが、おなじようなことを何回か書いていて、出版の寸前まで行き、お金がなかったためにストップしていた、原稿がある。
2008年、というと足掛けで12年前になるが、参考のために、と読み直したら、2008年版のほうが、まとまっていて、はるかに面白い。それに現在の視点、考えを※印で書き加えた方が良い。


以下、前に書いていたものの梗概
   

  第1章 アクアラングの時代
1-1 アクアラングの誕生
 1943年、フランス海軍に籍があったジャック・イヴ・クストーは、スキンダイビングの延長線上で、圧縮空気のボンベを背中に背負い、フィンで泳ぐ潜水器を実用化した。
1-2 日本で最初
 1953年・5月25日の朝日新聞に、「アメリカ軍の海洋電波研究所 海洋学主任であるロバート・ディーツ博士が千葉県小湊の東京水産大学実習所で日本の若き海洋学者に実技指導を行った」という記事がある。日本におけるスクーバダイビングの始まりであると同時にリサーチダイビングの始まりでもあった。リサーチダイビングとは、スクーバで何かをする目標のある潜水を指す。リサーチダイビングでは、スクーバは手段であり、目標ではない。一方スポーツダイビングは、スポーツとして、楽しみのために潜る。ダイビングそのものが目標である。
1-3 アクアラングで潜る
 1956年8月、著者は、初めてアクアラングで潜る体験をして、水中写真を撮影した。
1-4 マスク式の時代
 スクーバが日本に来る前、マスク式潜水では日本は世界一だった。しかし、それは、潜水病罹患死亡率20%という、壮烈な潜水でもあった。
1-5 昭和32年
 1957年、日本ダイビング協会が発足し、アクアラング普及が途に突いた。
1-6 潜水実習
 著者は、大学3年生、本格的な潜水実習を受ける。この実習のプログラムは、現在のスクーバ講習と基本は同じであった。
1-7 日本初の事故
 それより以前、日本にアクアラングが紹介された1953年の翌年、1954年に水産大学小湊実習場で、日本で初めてのアクアラング実習を受けた学生二名が、事故で命を落とした。日本で始めてのアクアラング事故になってしまった。
※この項については、今度書いたものが正しい。
1-8 潜水部誕生
 1957年、水産大学潜水部を創った。2008年、50周年を迎えている。
1-9 ぺガス
 フランスから輸入した、水中撮影スクーター、ペガス(天馬)に乗る。


 第2章 リサーチダイビングのさきがけ
2-1 磯根調査
 サザエの生態調査をライン調査法で行う。
2-2 人工魚礁
 人工魚礁は、日本の海に築く、万里の長城のようなものだ。
 
2-3 はじめての危機
 その後の潜水生活のメインテーマの一つになる、人工魚礁調査を始めて行い、スクーバの宿命とも言えるエア切れで、危うく命を落とす危機一髪を体験する。
2-4 リサーチダイビングの安全について
 運用のミスが、危機一髪を生んだ。ミスについて解析する。ここにリサーチダイビング事故の原点があった。
※ この項については、刊行するリサーチ・ダイビングに掲載する。


 第3章 100mを目指す
3-1 100mを目指す
ヘルメット式潜水器を製造する東亜潜水機に入社、アクアラング部門を立ち上げつつ、新しいタイプのマスク式潜水器であるフーカー式潜水器で100mまで潜る試験潜水を企画する。
3-2 ハンネス・ケラーの300m潜水
 世界では、すでに、300mの潜水に成功している男がいた。が、この潜水では、参加した4人のダイバーの二人が死亡している。
3-3 館山湾の潜水
 水中カメラマン館石昭氏(現、マリンダイビング社長)と100mを目指し、90mで炭酸ガス中毒と窒素酔いで倒れる。潜水中、須賀のホースが破裂しそうになり、九死に一生を得る。


3-4 退社・タンク破裂
 お世話になり、わがままの限りをやらせてもらった東亜潜水機を退社した。社長も専務も好きだし、社員も皆親切、しかし、もっと潜りたかった。自由になりたかった。
 退社した直後、東亜潜水機では、タンクのテストを行っている時にタンクが破裂して、一人の若者が即死した。
 ※、ここから反転したいのだが、すると、今回の原稿とダブってしまうところが多くなる。ここだけを抜き出そうか。やはり、ダイビングの歴史に回す。


 第4章 転がる石
4-1  遺体捜索
 独立して自分の会社を設立し、ダボハゼのように何にでも食いついて、生き抜くことになった。二つ玉低気圧に急襲され、防波堤に打ちつけられ木っ端微塵になった1万トンの貨物船空光丸の遺体捜索に、北国の凍てつく海で潜った。
4-2 日本初のダイビング練習用プール 
 日本初のダイビング練習用プールが建設され、指導スタッフを請け負ったが、息こらえ練習中の若者が、死亡し、経営難でプールも倒産した。
4-3 野垂れ死に覚悟
 スガ・マリンメカニックは、水中カメラのハウジングを売るべく設立されたのだが、カメラの販売はあきらめ、野垂れ死に覚悟で、夢と探検を追って、自分が作った撮影機器で行う水中撮影を中心業務とすることにした。カメラは作っているよりも使う方が楽しい。

 ※ここからでもいい。


4-4 ナンマタールの呪い
 ※ここから乗り移ると、つながりが良い。
 太平洋の孤島、ポナペには、石造の遺跡ナンマタールがある。ナンマタール神殿前の海に潜ると、呪いを受けるというタブーがある。まじめに社長さんをやり、会社をしっかり経営しようと決意していたのだが、なぜか、ピンチヒッターでカメラマンをやることになり、そのままテレビ番組撮影のカメラマンになってしまった。社長さんをやれば、ビルの一つぐらい建てられたのに、ナンマタールの呪いで、カメラマンになってしまった。 
 
第5章 スクーバダイビングサーカス
5-1 船酔いの大海原
 テレビ撮影もやったが、人工魚礁の調査も仕事の柱にしていた。ただただ、潜るのが好き、海が好きであった。にもかかわらず、船酔いをする。


5-2 釜石湾口防潮堤
 水深60m、リアス式海岸で深い釜石湾の湾口防潮堤の工事を引き受け、ヘリウム酸素混合ガスによる潜水を行う。
5-3 地底湖
 岩手県竜泉洞に潜り、巨大地底湖を探した。NHKの特集番組の撮影であった。巨大地底湖は見つからなかったが、水深73mまで潜り、ドキュメンタリーとしては、史上最高に近い視聴率をあげた。
5-4 立ち泳ぎ
 娘の須賀潮美が、大学のダイビングクラブに入った。クラブの同級生が、レスキューのための泳力トレーニングで、心臓麻痺を起こして死亡する。それまでの体育会系のスクーバ講習では危ないと考え直す転機となった。


第6章 事故

6-1 ニュースステーションの撮影
 須賀潮美を水中レポーターとしたテレビ朝日のニュースステーション、水中の自然シリーズがヒットした。
6-2 ケーブル・ダイビング・システムの発想
 水中レポートは、音声を水面に上げるために有線通話をしている。この有線、ケーブルのおかげで、何度か危機をすり抜けることができた。有線ケーブルを使った、安全管理システムの構想が生まれた。
6-3 ケガニの調査
 海底に何台かのビデオカメラを置いて、継続的に観察するシステムを作り、売り物にしていた。このビデオカメラで北海道噴火湾のケガニを調査をした。
6-4 若者の死
ケガニ調査で、カメラの回収に一人で当たっていた脇水輝之が、減圧停止中に呼吸停止し、死亡した。原因は不明であったが、二人で、バディで潜っていれば死なないですんだはずだ。そして、試作のケーブル・ダイビング・システムは、船上に置いたままだった。これを使っていれば若者は死なないで済んだはずだ。
6-5 結末
 遺族との対話、賠償について、全力を上げ、許してもらい、親戚同様の付き合いをするようになった。
6-6 法的な責任
 海上保安部、労働基準監督署の取調べ、責任追及を解決しなければならない。
6-7 死因は
 死因は不明、健康上の理由があったと思われるが、本人でなければ、本当のことはわからない。ただ、スガ・マリン・サーカスなどと、思い上がっていたことも一因だと強く反省した。


第7章 安全のための道具
7-1 ケーブル・ダイビング・システム
 ケーブル・ダイビング・システムを使わせていれば脇水は死なないで済んだ。ケーブル・ダイビング・システムの普及に一生をかけようと思い込み、全財産を、そして、人脈からの資金提供もうけてつぎ込んだ。
 7-2 水中通話装置
 ケーブル・ダイビング・システムは水中通話装置である。通話機で一番確実な方式は、有線通話機であり、このケーブルを命綱にするシステムであるが、やはり、スクーバダイバーは、ケーブルに繋がれることを嫌う。
 7-3 漂流
 漂流もスクーバダイビングの事故の大きな要因である。漂流を防ぐ道具も、いくつか開発され、売り出されるが、1万円以上のものは売れない。ケーブル・ダイビング・システムは20万であった。


 第8章 60歳の100m潜水
 8-1 地中海
 27歳の時に100mにチャレンジし、90mであきらめた。60歳で再度のチャレンジを試みた。100mダイビングと平行して、ダイビングのすべてを紹介するテレビ番組を製作することになり、アクアラングの故郷である地中海に向かった。クストーと会う約束も取れていたのだが、健康が優れないということで、キャンセルになってしまった。
 憧れであったモナコの海洋博物館の紹介、ニースにあるアクアラングを誕生させた会社、スピロテクニックに行き、1943年に作られた、アクアラングのプロトタイプの実物を見る。
 
 8-2 珊瑚とり、アランの潜水
 アランは、地中海、ニースから一飛びのコルシカ島で、水深120mまで潜り、深紅の宝石珊瑚を採集している。混合ガスを呼吸して、日常的に100mを超えて潜るアランのダイビングを見に行った。
 アランの潜水システムこそが100mに潜る実用的な方法だと思い、できれば、アランのようなダイビングをしたいと思った。しかし、100mダイビングはすでに別の形でスタートしていた。
 8-3 テクニカルダイビング
 100m潜水での減圧表の提供など、アドバイスをアメリカの混合ガス潜水の大家であるビル・ハミルトン博士にお世話していただいた。
 ハミルトン博士は、テクニカルダイビングの権威者でもある。
 テクニカルダイビングとは、まず、スクーバであること、そして混合ガスを使って60m以上に潜るので、リブリーザー(完全閉鎖式)を使うことが普通になる。
 計画し進行していた100m潜水は、テクニカルダイビングとは言えない。船から吊り降ろすステージに乗って完璧な安全管理の下で潜るシステム潜水であった。なんとか、システム潜水とテクニカルダイビングのハイブリッドをやろうとした。
8-4 心臓カテーテル
 60歳の潜水は、海との闘いであると同時に自分の身体、自分の健康との闘いであった。
いつの間にか高血圧症になっていた。40歳を過ぎて、高血圧症で潜水するのは自殺行為に近い。と言われる。
 海上自衛隊の潜水医学実験隊の大深度潜水施設を使用させてもらうための健康診断を受けた。診断の結果、大深度どころではない。そのあたりで潜るのも危ないと言い渡され、心臓カテーテル検査で、冠状動脈の異常をしらべなければ、潜水できないことになった。
8-5 南西の強風
 カテーテル検査では、異常がないことが分かったが、検査入院のために11月の適期を逃して、厳冬の2月に実行が延びた。冬の季節風は北西だから、伊豆の東海岸で潜水することにした。ところが連日、南西の強風が吹き、リハーサル潜水ができない。ようやくできたリハーサルで失敗し、安全第一の潜水を強いられることになった。自分としては、テクニカルダイビングに近い、冒険的な潜水をしたかった。
8-6 天気晴朗
 潜水当日は快晴、気持ちの良い潜水で103mまで潜った。浮上の時に少しだけ、右肩が痛んだ。軽い潜水病にかかったが、無事に潜水を終えた。
 ただ、この潜水で、貯金はすべて使い果たした。
 
8-7 ケーブル・ダイビング・システムの終焉
ケーブル・ダイビング・システムは、プロがお金はいくらかかっても、安全第一のシステムで行うシステム潜水の簡略版であった。その考案者である自分が、100m潜水では、できるだけ安全システムから離れて、自由にテクニカルで潜りたいと思ってしまった。
スクーバは、自由に水中を飛翔し、自分の責任で自分の安全を確保する。水面と繋がって自由を束縛されながら守ってもらう安全システムにたよるのはスクーバではないと思ってしまった。自分が信奉しなくなっては、終わりだ。ケーブルダイビングシステムは終焉を迎えた。


 第9章 豊かな海
 9-1 豊かな海つくり
 日本の海を豊かにするために営々と海底に礁を築く、人工魚礁の調査を50年かけてやってきた。人工魚礁の調査は、典型的なリサーチダイビングである。
 1998年から2002年まで、63歳から67歳まで、北海道から沖縄まで、全国の人工魚礁を撮影して旅をした。幸せな仕事だった。
 9-2 並型魚礁
 並型魚礁は人工魚礁の最小単位である。水中の自分の家のように思っている並型魚礁もある。
 9-3 人工礁
 人工礁は天然の磯と同じ大規模な人工魚礁である。水深70mから立ち上がる高さ35mの鉄塔の林立する高層魚礁などを潜る。
 9-4 黒潮牧場
 黒潮牧場は、高知県足摺りの沖合、黒潮の真っ只中の浮魚礁である。
 66歳、命を賭けて、黒潮に潜った。


 第10章 新しい波
 10-1 テクニカルダイビング
 60歳の100m潜水で果たせなかったテクニカルダイビングとは何か。
 10-2 インスピレーション
 21世紀の潜水器といわれた電子制御のリブリーザー(閉鎖循環式スクーバ)の一機種、インスピレーションを購入し、練習を開始した。
 10-3 リブリーザーからの撤退
やはり、70歳という年齢は、新しい潜水器に習熟することは無理だった。体験的には使えるが仕事に使えるレベルまで上達することは難しい。それに重さが35キロのインスピレーションを背負うのはフィジカル的にも無理だった。涙を飲んで撤退する。撤退しなければ死ぬ。
 10-4 フリーダイビング
 74歳で自殺した素もぐり潜水の巨人、ジャックマイヨール。
 日本でも、水深100mまで息を堪えて潜るフリーダイバーが現れた。
 ※ この項はスキンダイビングセーフティに 書いている。


 第11章 スクーバダイビングの危険
 ※ テキストじみているので、ここにはそぐわないかもしれない。
 11-1 スクーバダイビングの特質
 スクーバダイビングは、危険を追いつつ安全を追求する。50年、自分は危険をすり抜けて生き残ったが、幾人かの若いダイバーを見送った。
 スクーバの安全について、書かないわけには行かない。
 11-2 スポーツダイビングの安全確保
 遊びのダイビングをレジャーダイビング、レクリエーションダイビング、スポーツダイビングに分けて、それぞれの安全を考える。
 11-3 リサーチダイビングの安全確保
 目的、目標があるリサーチダイビングは、遊びとは、安全についての責任の有り場所が違う。
 
 11-4 バディシステム
 バディシステムはダイビングの安全の基本である。しかし、声もかけられず、見通しも効かない水中でバディシステムで行動することは至難である。
 11-5 エキスパートダイバー
 水中でスクーバダイバーが、自分で自分の命を確保して生き残るためには、上達する以外に道はない。

 

0422 リサーチ・ダイビング 番外の1

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4-4 ナン・マタールの呪い


 日本に帰ってきて、まじめに社長さんをやりはじめた。営業努力をするということだ。日本テレビの山中康男プロデューサーのチームでテレビ番組の水中撮影をすることになり、まず、第一作は、日本一周の海底紀行だった。カメラマンをやりたかったが、社長さんをやることにして、カメラは新井拓と河合君にやらせることにした。第二作は、バハ・カリフォルニアでの鯨の撮影だった。これも我慢して、新井と河合にやらせた。
 
 ※印は今書き足して、わき道にそれいる部分、書き足しの方が長くなったしまうこともあると思うけど、それはそれでおもしろい構成かもしれない。


 日本に帰ってきてというのは、短い時間だったが、サウジアラビアに行ってきた。名古屋に日本シビルダイビングという新興拡大を続けている潜水会社があり、日本アクアラングの名古屋支店長だった石黒さんの紹介で、知り合い、ジョイントするようになる。シビルが、本四架橋工事の延引で倒産するまで、波瀾万丈の冒険だった。そう、社長は大畠さんだった。潜水を全くやらない人で、完璧に事業としてとらえて、業績を伸ばしていた。
 零細企業としての潜水業は、本当に冒険そのものなのだ。そんな会社の興亡を書いたら、冒険小説になる。自分のスガ・マリン・メカニックもそうだけど。
 その大畠さんから、サウジアラビアで、オイルのパイプライン敷設の潜水工事会社をやっているので、そのマネージャをやらないかという誘いがあった。
 僕は、一応社長なので、海外にいったままになるのは、困るというと、日本の会社はナンバー2にまかせて、須賀さんはサウジで稼いで会社に日送りすれば、会社の業績もあがる。現時点でのスガ・マリン・メカニックの利益部分くらいの給与は払うという。当時のスガ・マリン・メカニックの売り上げは、月別で300万くらいが、採算分岐点で、日本の税制の下で、利益はほぼゼロに近い。給料を払って生き延びているだけの形だ。利益を上げればその40%は税金で持って行かれる。税金を払う金は手元にない。借金して税金を払い、ボーナスをはらう状態だ。サウジに逃げて、毎月100万も日送りして、帳簿だけ見て文句を言っていれば良いならば悪くない。そのころ、1970年代、世界のダイビング業界はオイルで潤っていた。日本でも金回りの良いのはオイルダイバーだった。
 現地視察に大畠社長といっしょに行った。
 驚き、以上だった。相手先の会社は、社長はベドウィンの王族の連枝、それでなければオイルに関連する事業の経営者にはなれないのだ。経理担当は、同じくアラビア人、営業はパキスタン人、アメリカ人はロイヤーで、アラムコとの連絡担当、日本人は現場監督とダイバーで、下働きの労務者は韓国人、国別、民族別に得手を担当して、ペルシャ湾海底の送油管の敷設、メンテナンス仕事が進行している。
 新しい作業展開のミーテイング、といっても、仕事はすでに走っていて社長の表敬訪問だけだった。
 一応の会議が行われ、アラビア人社長の邸に招待された。大広間にテーブルがあり、豪華で、とても食べきれない料理が、どっとでている。料理はタイ人が仕切っているとか。全部食べるものではないと隣に座る社長に言われる。行儀よく欲しいだけ食べる。
 食事が終わると、大広間には分厚い絨毯が敷かれていて、円座のようなものに座る。それぞれが定められた座につくと、大きなステレオがバックミュージックを流しはじめる。と、食事をしたテーブルとこちら側、コの字型に壁を背に座っているのだが、テーブルとの間にするするとカーテンが降りてくる。女人たちの食事が始まるのだ。奥さんが4人までいるわけだから、その子供たちと騒がしい声が聞こえてくる。
 こちら側、サウジは禁酒の国だと言うが、酒はどんどん出てくる。ここは治外法権なのだ。しかし、酔って表にでたら、たちまち宗教警察に捕まると注意された。僕は基本的に酒飲みではないので問題ないが。
 これは、1970年代の後半、今から40年前、そしてその後に湾岸戦争があり、その取材には女性である潮美がレポーターで行ったりしているから、状況がどんな風に変わっているのかわからないが、対女性については、本当に驚かされた。顔を見せないのだ。絶対に。空港でフルメイクした女性にすれ違う。濃いアイシャドウ、目だけ出している薄いベールを透かして深紅の唇が見える。美人に見える。アラは見えない。そうなんだ。美の演出。
 カルチャーショックをあげていると際限もないが、ここで自分は何をするのだ。日本側の総括責任者になってもらいたいということだった。ダイバーであって、経営者でもある。そこそこの実績があり、誠実度で信頼できる。僕が大畠さんを裏切って、商売を転回させることなどない。よく言えば誠実、悪く言えば度胸がない。日本での仕事で失敗していれば、スカウトしない。低空飛行だが維持している。これから上昇しそうだ。
 大変魅力的な提案だったが、踏み切れなかった。サウジで成功できるなら、日本で自分の会社で成功させることの方が容易に見えた。経営者として再出発する気持ちで日本に帰ってきた。
 ぼくがお断りしたので、このポジションは、商社マン、トーメンの課長クラスをスカウトしてきた。僕よりもはるかにやり手の人で、英語はペラペラだった。ダイビングは全く知らない。僕と、どちらがよかったのだろう。やがて、国際情勢でサウジは撤退し、その時ダイバー作業の責任者だった荒川さんという方が後に日本シビル倒産の後、ダイバーセクションを整理引き継いで、神戸で成功されている。
 サウジでは、その間、通訳として日本から連れて行った若者夫妻、奥さんは現地宿舎のハウスキーパーをされていたのだが、その奥さんが、喉を掻き切られて殺されるという悲劇が起こる。これも、サウジ撤退の一因になったのかもしれない。
 ※印、長々と脱線してしまったが、スガ・マリン・メカニックのことを書いて行くにあたって、日本シビルダイビングは、ポイントであり、これまでその視点から書いたことはなかったので。
 そして、振り返ってみると、僕は、ある時代、ある期間、誰かと密着して事をしていて、その誰か、がとても大事な自分の人生の区切りになっている。
 
 日本テレビ スペシャル番組での水中第三作は、ポナペ(現在の呼称はポンペイ)のナンマタール遺跡(ナンマドールとも言う)の撮影をやることになった。
 ところが、カメラマンの新井拓はなぜかプロデューサーの山中康男さんとの打ち合わせをすっぽかした。
 
 新井拓
 スガ・マリン・メカニック創立以来、7年間苦楽をともにしていた高橋実が去り、一人になってしまったところに専属フリーで手伝いにきてくれたのが新井拓だった。大崎映晋の弟子で、東洋ビデオという撮影会社に一応の席を置いて、海底居住シートピア計画の機材係りに出向していたが、忙しくはなく、遊んでいるみたいだった。奥さんのK子ちゃんは館山の大きな葬儀屋の娘で美人、拓ちゃんを放し飼いにしていた。
 拓は、片岡義男の小説のようなふるまいで、単車を乗り回し、波乗りの代わりにダイビングをして、東京水産大学、僕の母校だが、その女子学生をくどいて、死ぬの生きるのともめていた。ちょっと撮影をてつだってもらって、意気投合して、高橋がぬけた穴を埋めてくれた。その拓が撮影の打ち合わせをシカトした。
 
 カメラマンはプロデューサーを絶対に立てるというのが、営業努力をする社長としての考え方だったから、彼をこの仕事から降ろした。代わりに河合をメインの水中カメラマンとした。ところが、出発の前、河合君の母親が亡くなってしまった。病が重くても、まだ生きていれば、この仕事は親の死に目には逢えないのが普通とか言って送り出してしまうが、亡くなってしまったら、そんなことは言えない。急死だった。
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ナンマタールの石造の神殿遺跡の前の海には、なにかわからないが不思議なものがあり、それを見ようとしたものには呪いがかかる。そこで泳いで、水中を見たドイツ人(ポナペはドイツ信託統治のの時代がある)瘧(おこり)のような状態になり、死んだともいう。新井のすっぽかしも、河合君の母の死も異常なことだ。ナンマタールの呪いだろうか。
 急遽、自分がピンチヒッターとして出かけることになった。鶴町をサブカメラマンとしてつれて行く。
 もともと、僕は学生時代から映画撮影の助手の仕事はしていたし、シネのフィルムもまわしている。カメラマンとしては新井拓よりは上のつもりではあった。ただ、まじめに社長さんをやろうと決めて、我慢していただけなのだ。
現地には、北海道知床・斜里の定置網漁業の潜水士たち(佐藤雅弘、相内栄巧、木村耕一郎、染谷久雄 )が、潜水の助手として同行した。山中康男プロデューサーが日本一周水中撮影のロケをした際、知床の水中撮影で懇意になった若い漁師たちである。
 その頃のテレビのロケ、とりわけ山中組のロケは極楽だった。単なる友人である斜里の若い漁師を四人も、水中撮影のケーブルさばきの名目でポナペ島まで引き連れてゆかれる。
しかし、容赦なくナンマタールの呪いは私たちに降りかかってきた。グアムを出発したコンチネンタル・ミクロネシア航空は、トラック(チューク)、ポナペ(ポンペイ)、マジュロ、コスラエを回ってホノルルに行く。その後も何度となくひどい目にあう恐怖のコンチネンタル・ミクロネシアだが、この時は水中撮影器材を降ろすことなく、ホノルルに向かって飛び立ってしまった。この飛行機がホノルルから戻ってくるまで、三日間遊ぶことになる。
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水没したベルハウエル、今も水没した時のままの状態で、富戸の大西のところ(スガマリン博物館か?)にある。



 機材が来て、撮影を開始した。からだならしに、海底のドロップオフ(崖)で、鮫の撮影をしている時、サブのカメラとして持ってきていたベルハウエルのフィルムカメラを水没させてしまった。ナン・マタールの水中神殿は鮫に守られているという言い伝えもあるので、サメの映像が欲しかったのだが、事実上、サメにカメラを水没させられてしまうことになった。これも、呪いのせいで、カメラを使っていた鶴町は悪くない、ということにした。
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 ※鶴町とは、今、波左間海中公園支援クラウドファンデイングを推進している turumati の亡きパートナーである。この写真、出して良いかどうか迷ったけれど、どこにでも、顔を出す人がけど、自分からはこの写真だせないだろう。美人だから、いいだろう。


 水中神殿に潜らせてもらう交渉はとても大変だった。交渉はプロデューサーの役目であり、カメラマンは静観している他ないのだが、ナンマタールを司る酋長は、日本にも来たことがある日本通である。そして、ここポナペも日本の委任統治領であったから、日本語教育を受けている。日本語は話せる。あなたたち日本人は、僕たちがポナペ人が日本に行き、伊勢神宮の神殿の中を見たいといったら見せてくれますか。」などと正論じみたことを言う一方、川崎堀の内のトルコは良かったなどと下世話な話もできる。
 言うまでもなく、山中さんは、ロケハンにポナペに行って調べ上げており、ロケの台本は分厚く、ムー大陸のガイドブックのようになっている。
 潜ることも交渉済みなのだが、もったいをつける儀式のようなものだ。その間ぼくらは遊んでいる。
 
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 なんだかんだ、結局札束の効果で、ついに許可が出て、大型カタマランのボートに船外機を2基着けてナンマタールに向かった。往路は潮が満ちていたのでリーフの内側を走った。そして鮫が守っていると伝えられるナンマタールの水中神殿に潜り、帰途についた。潮が引いてしまったので、リーフの内側は通れない。潮が満ちてくるのを待ったら暗くなってしまって、リーフの中も外も通れなくなる。キャンプをする用意はしていない。リーフの外側に出て、島を半周して再びリーフの中に入ってくるコースを予定していた。
 途中、大型のエイが次々とジャンプする光景に出会った。これまで見たことがないようなシーンだったが、しぶきをかぶるといけないのでカメラは防水して格納してしまっていた。そのころのENGカメラは、カメラとVTR部分は別々だから、とっさに出すわけにはいかない。そのために、サブのフィルムカメラを持って行ったのだが、水没させてしまっているので、これを撮影することは出来ない。
 そしてその時、ナン・マタールの呪いで、エンジン1基が止まってしまい、片肺で走ることになった。島を周って行くにつれて、うねりが大きくなってくる。もしも残ったもう一基が停まってしまったら遭難する。ボートには無線など積んでいない。無線があったとしても、連絡を受けてすぐに救助に出てくる船はない。今の話ではない。ポナペには、ダイビングサービスなどまだできていない1979年のことだ。(タンクは公立の研究所で借りている)
ポナペはムウ大陸の沈下で山の頂上が海面に残ったところである。(信じるか信じないかは別として)だから神殿の遺跡があるのだという。石造りの神殿のつくられた年代はムウ大陸とはまるで合致しないが、とにかく、住民はムウ大陸の生き残りの子孫で(これも信じるか信じないかは別として)侍階級である。専制政治が行われないところには遺跡は残らない。侍階級、士族は魚を獲るなどという下賎な労働はしない。ポナペは海洋島なのに、住民は海洋民族ではないのだ。やはりムウ大陸は本当にあり、次第に沈降してこの島だけが残ったのか。漁業は遠く離れたカピンガマランギ環礁から来た人たちがやっているだけだ。カピンガマランギという部落があり、漁業者は、そこに暮らしている。だから漁業は盛んではなく、カヌーのような舟で沖にでている。無線を積んだ漁船が沖に出ていることも無い。もしも残ったエンジンが止まって漂流したら、捜索してもらえる希望はない。要するに簡単に助かる方法は無い。北国オホーツクの凍るような荒波で鍛えられた半端ではない漁師たちも「あの時はやばかった。覚悟した。」と語っていた。
 
なんとかリーフの入り口までは来た。水路は、前が見えないほどのうねりだ。とにかく突っ込む他は無い。波に乗ってしまったらエンジン一基では舵が利かない。思わずネンブツを唱える一瞬があり、リーフの中に入ることができた。
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 ところで、ナンマタールの水中には何があったのか。光り輝く黄金の柱があった。神殿の柱か、海に面した桟橋の杭か、人工物としか思えない石の柱があり、黄色の海綿が一面に着いている。水面から差し込む光の加減で、黄金に光って見える。撮りようによっては、黄金の神殿の柱に見えなくも無い。何なのか謎である。
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    奇妙はキノコのような、岩、これが育って柱になる。まさか


ナンマタールの呪いはまだ続く。テレビの良き時代に巨費をかけて製作したこの番組は、スペシャル番組枠では放送されなくなってしまった。山中プロデューサーは人間関係の争いに巻き込まれたのだと言うが、とにかく、一年以上お倉に入った後に、ランクの下がった日曜の午後にひっそりと放送された。誰も見た人は無いくらいの視聴率だった。当時、僕が撮った水中は、好視聴率を誇っていたから、呪いだろう。
 そしてまだ呪いは続く。僕は黄金の柱のスチル写真を撮影した。そのころまだ世界でだれも見たことの無いナンマタールの海底だ。大事なものだからと山中プロデューサーに念をおして預けた。1年後、超自然現象などを扱った雑誌、「オムニ」が僕のところに取材に来た。写真があれば高く買うという。かなりの値段だったから、さっそく山中プロデューサーに電話をした。数日後に山中プロデューサーから返事が返って来た。大事にしまいすぎて紛失したという。ポナペの守護神は、黄金の柱の映像が世に出るのをくいとめようとしている。
その後、ずいぶんたってから、全日本潜水連盟の副理事長をやってもらっていた親しい友人の鉄さん(清水で鉄組という潜水会社をやっている実力者)が、息子と一緒にナンマタールの撮影をするという。呪いがあるからやめなさいと忠告した。もちろんそんな忠告でやめるような人ではない。撮影して、世界で初の映像ということで放送された。私たちの番組があまりにも視聴率が悪い時間帯だったので、後からの撮影が世界初になった。
きっと何かの呪いがふりかかっているに違いない。この撮影のADが行方不明になったと言ううわさもある。


 ※鉄さん親子にはナン・マタールの呪いはプラスに働き、鉄さんは、日本潜水協会(港湾土木作業の元締め的協会)の理事長になり、国から勲章をもらった。息子の鉄君は、卒業した母校、東海大学の準教授になっていて、ダイビング業界で次代を背負うスターになりつつある。
 しかし、鉄さん親子が、その後ナン・マタールの水中のことを口に出されたことはない。


 ナン・マタールから帰った後、僕はすっかりカメラマンに変身し、社長業は放り出した。その後の山中組のすべてのロケには、カメラマンとして参加し、以後、およそ20年、ビデオのカメラマンとして水中撮影を続けることになる。社長業を放り出したおかげで、普通、会社というものは、30年続けばビルが建つか倒産するかどちらかだと言うが、創業40年のスガ・マリンメカニックはビルも立たず、僕は、65歳で胃ガンになり、これでもう終わりかと引退して、一人で水中調査の仕事を楽しく続けながら野垂れ死にへの道を歩んでいる。これもナン・マタールの呪いだろうか。


 ※これを書いていた2008年頃には、引退した後の水中調査は鶴町と組んでやっていたが、鶴町はスキルス性のガンで倒れ、一度は復帰して、こいつは、不死身かと思われ、一緒に潜っていたが、2010年日本水中科学協会を一緒に立ち上げようとしているときに再度倒れ、逝ってしまった。
 
 本当のことを言うと、ナンマタールの呪いとは、人間だと思う。タブーを冒した者は、ポナペの侍に拉致されたり、殺されたりしたのだろう。
 しかし、それとは別に、人が生きているということは、蜘蛛の巣のような運、不運の絡められていて、それを呪いと呼ぶのかもしれない。
 それから数十年が経過し、兄貴分の白井祥平先輩を訪ねたとき、先輩がナンマタールに深い縁があり、ナンマタールを司っている第22代酋長サムエル・ハドレイと親交があったことがわかった。白井先輩はナンマタールの呪いの虜になっていて、ずいぶんたくさんの雑誌や新聞にナンマタールのことを書いているのに、弟分の僕がそのことを知らなかった。見ていても見えなかったのだろうか、これも呪いかもしれない。 先輩の書いた420pの大部の本、「呪いの遺跡、ナン=マタールを探る」8500円を買った。すばらしくおもしろい本だけど8500円だ。


 ポナペの撮影をやらせてもらった山中プロデューサーとは、その後、知床で、流氷、キタキツネ、摩周湖、原生林の神の子池の発見をやり、海外では、アラスカ、ガラパゴスの撮影、石西礁湖では、三浦洋一さんとともに、大学生だった潮美も参加して、黒島をロケして、このときから河童隊の中川が参加する。そして、これが一番重要なのだが、慶良間の座間味から、民放初の水中レポートにより水中とスタジオを結ぶ同時中継を、須賀潮美も参加しておこなった。すべては、ナンマタールから始まった。呪いではなくて、なにか「縁起」のようなものかもしれない。鉄さん親子のれいもある。呪い、なんかにしないで、縁起にして祀ったら人気がでるのではないだろうか。
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右端が潮美、中央はポナペにも行った、知床の佐藤雅弘定置網の経営陣だ。北海道と座間味とスタジオを結んだ三元同時中継



 山中さんは僕と潮美がニュース・ステーションに行った後、ヨーロッパの文化を紹介する番組を何本か作られてから、引退した。
 そして、その後、奥様と中国を旅していた途中で亡くなられた。糖尿病だったが、幸せな死に方だったと思う。
 そして、僕が「ニッポン潜水グラフィティ」を潮美の編集で月刊ダイバーに連載して、このナン・マタールのことを書き、山中さんの奥さんに送らせていただいた。それが到着した日が、山中さんの命日だったという。奥様が感動して仏前に置いてくださった。
 そして、山中さんがロケで撮ったいたというスチル写真を全部、僕に送ってくださった。
 その写真の中に、あったのだ。僕が撮ったナン・マタールの水中が。
 山中さんは僕がオムニにこの写真を出すこと、断りたかったのだ。でも、心優しいから、ダメとは言えず、ナン・マタールの祟りで紛失されたことにしたのだろう。
 山中さんは文筆家でもあり、「しるえとく:地の果てるところ」「アラスカ夏物語り」は、朝日ジャーナルのノンフィクション大賞になり、それぞれ、単行本になっている。
 「しるえとく」は、知床の話で、ポナペに同行した若者たちが活躍している。50年がたち、若者たちは、それぞれ、実力者になったり、行方不明になったりしている。そして、知床は娘の潮美が流氷の下からの水中レポートでブレイクした。
 「アラスカ夏物語」は、アラスカのカトマイ国立公園の羆と自然の話で、僕も出てきて活躍?している。


 ※アラスカも、しるえとくも、アマゾンで¥1 だった。良き時代、極楽時代のテレビ製作ノンフィクションとして、絶対に面白い。


 そうだったのだ!今気づいた。山中さんは、ナン・マタールでノンフィクションを書くつもりだったので、僕がオムニに写真を出すのを止めたかったのだ。そのように、言ってくれれば、よかったのに。申し訳ないことをしてしまった。


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 上の写真は、その当時ビデオカメラで人工魚礁を調査撮影している。カメラとVTRは別々で、船上にVTRを置き、ケーブルで繋いでいる。ライトも有線ライトで、発電機を船上に置いていて、ケーブルを曳いている。
 このケーブルのために、救われたことが幾たびか。ライトマンとカメラマンの組み合わせは絶対的なバディシステムであり、このために救われたことも幾たび。この場合、ライトマンが先導するのか、カメラが優先するかだが、僕の場合、このころは、ライト優先で、ライトを当てた部分をカメラが撮影するようにしていた。
なお、本文はビデオ撮影ではなくて、スチル撮影である。
 つくづく、当時の写真が全部残っていれば良いのにとおもうことしきり、なのだが、流転のうちにほとんど紛失してしまっている。
 なお、このスチルは、ペンタックス17mmで撮影したもので、当時の超広角、ちょっと四隅が蹴られている。



  僕は、一応、ものを書くのがすきだ。今書こうとしている本で10冊目になる。 山中プロデューサーのように、ノンフィクション大賞は取れないだろうと思って、応募もしないが、なんとなくまとまった良い文章、そんなものを書いてみたいと常々思っていた。
 この文は、そんな気持ちで、2008年に書いたものに、今、付け加えながらの復刻である。
 ナンマタールは、ちょっと付け加えが多くなりすぎて、ほぼ、支離滅裂になった。そこで、今度は、2008年のほぼ、原型のままで行ってみたい。
 テーマは人工魚礁調査である。先日、オープニングのところだけ、フェイスブックに出したら、全部読んでみたいという人も居たので、調子に乗って、ということもある。
 ダイビングワールドに1970年代に掲載したものの、復刻を2008年に書き、そのまた復刻である。


5-2 人工魚礁調査 船酔いの大海原
 

2008年、、ダイビング雑誌は、ダイビング・ワールド、ダイバー、マリンダイビング、三誌が本屋に並んでいる。と書いたら、ダイビングワールドが休刊してしまった。そのダイビングワールドに、1976年5月から1977年3月まで、「青い大きな海へのちっぽけな挑戦」と題して、11回の連載を書いた。
 その最終回に、人工魚礁調査を書いた。少し書き直してここに入れる。
 ※ なんだ、書いたのは1977ねんだったか。
 薄緑色のコロナ・ハードトップクーペのシートに納まる。シートは僕の身体をぴったりと包み込む。15万キロもこのシートに座って走ったのだから、身体とシートは一つになっている。秋の大気を車内にいれようと窓を開ける。ギリギリときしんで片手でハンドルを廻しても開けるのに、苦労する。細かいところはガタが来ていて、外回りは凹んでいるけれど気持ちよく走る。房総の低い山なみは、そろそろ冬枯れに近い。春から夏になる季節の移り変わりはゆっくりゆっくりだが、夏から冬へは早い。
 このあたりでは、最も大きな漁港である勝浦で、千葉県水産試験場の調査船「ふさみ」が待っている。出港は明朝だが、港に着くとその足で船に挨拶に行く。魚市場の前の岸壁に船尾を着けている船の周りには、魚の腐った臭い、ディーゼルエンジンの油の臭い、船のペンキの臭い、全部を混ぜ合わせて、網の臭いと潮の臭いを加えた漁船の臭いがする。この臭いをかぐと、なんとなく食道にこみ上げてくる。
少年の日、青い海原にあこがれた時、誰もこの臭いのことを教えてくれなかった。高校生のころ、12フィートのディンギー(小さいヨット)を乗り回したが、船酔いはしなかった。さわやかな潮風の香だけを感じた。
大学に入ってから、海洋観測実習で船酔いとの付き合いが始まった。海原に船を停止させ、定点観測をする。生徒に船酔いの洗礼を与えるためだけの実習にしか思えない。船での食事のあと、交代で食器洗いをするのだが、洗うために前こごみになると胃が圧迫される。それに食べ残しの臭い。たちまちのうちに今食べたものが、洗っている食器の上にぶちまけられる。「お前は洗っているのか汚しているのかわからないなあ」OBのサードオフィサーが笑っている。
 定点観測は、24時間船を定点に止めて観測する。止まっている船に揺られるのが一番辛い。観測だから、海に降ろした水温計を引き揚げて細かい目盛りを読む。海はまあまあの凪で、うねりでゆるやかに船が揺られているだけだが、走っている船よりも停まっている船の方が酔う。吐くものがなくなって苦しいくらい吐いた。
海、海原という言葉からの連想が「船酔い」になった。
海辺育ちの同級生はみんな船酔いする。船酔いのことを知っているからだ。山の中育ちは意外に酔わない。船酔いを知らないからだ。
都会育ち、江戸っ子の真骨頂は「負け惜しみ」だ。船酔いに苦しみながら海からはなれられない者こそが海を愛する男なのだ。と負け惜しみで自分を納得させる。
大好きな海洋冒険小説家、アリステア・マックリーンの描く北海は、厚いデッキコートの上にさらにダッフルコートを着ても、骨の芯までしみとおる寒さを描いている。鉛色の大波を感じさせるが、船酔いを描いていない。アリステア・マックリーンは、船酔いしない体質だったのだろう。スコット・フォレスターのフォンブロアーシリーズも全部読んだ。主人公のフォンブロアーは、生涯を帆船の上で過ごし、英国がフランスと戦っていた帆船時代のアドミラルに登りつめるヒーローなのに船酔いをする。親しみを感じた。

朝早くの出港だから、民宿に泊まる。
6時のテレビ予報を見ながら民宿の朝食を食べる。コアジの干物、味付け海苔、生卵、ワカメのミソ汁、どれも胃から逆戻りする時の味が思い浮かぶ。干物のわきに付け合わされている昆布の佃煮をご飯の上に乗せて、お茶をかけて流し込む。
不連続線のちょっとした動きが出港できるかどうかを左右する。船酔い状況にも影響する。
洋上では寒冷前線が温暖前線を追いかけている。調査船が75トンの「ふさみ」でなく、28トンの「第二ふさみ」だったら、今日は沖には出ないはずだ。「ふさみ」は船幅が広く、船底が丸い。波に強い船だが、ころころと横揺れする。船酔いしやすい船型だ。波に強くて、船酔いしやすい船、最悪だ。
 目的地の九十九里沖までは、3時間かかる。九十九里は遠浅で、岸の建物が見えなくなるくらいまで沖に出ても、まだ水深は25mぐらいだ。ヒラメを漁獲対象にした大型の魚礁が設置されている。それが潜水の目標だ。
 やはり、少し時化ているけれど出ることになった。この「ふさみ」には収入予算というのがある。試験船だが、調査操業で獲った魚を売った収入を毎年の予算に入れ込んで、運航費、人件費の足しにしている。たくさん獲れると船員にボーナスが出る。船員たちは、漁をしない調査よりも、漁をする調査操業を好む。当然の話だ。
魚礁の調査をやっている間は魚を獲ることができない。魚礁調査は、早く終わらせて、魚を獲りたい。だからとにかく出港だ。
 船にあるだけの漫画週刊誌をかき集めて、二段ベッドの上段に潜り込む。船員の誰かが寝ているベッドだ。左側を下にして、身体を少し曲げて、一番楽なショック体位で横になって、身体に出来るだけ負担をかけないようにする。しめった毛布にくるまって漫画週刊誌を眺めながら揺れに身をあずける。おそらくは、風速10~15m、風の波と北に上がっていった低気圧の残して行ったうねりが混ざっている。
重ねた漫画週刊誌の山が半分ほどになった時、やっと浅く眠ることができた。眠りながらも、船の上下動で波の高さを瞼の裏に描き出している。
エンジンの音が急に低くなって、船のゆれのピッチが変わる。時計を見ると11時に近い。目的地到着だ。ベッドから這い降りてブリッジに登る。魚探(魚群探知機)と電波測距機で調査目標である人工魚礁を確認しなければならない。
 九十九里は、陸地から遠いので、陸地の目標、山を見通すことが出来ない。電波測距機だけしか手段が無い。
電波測距機は、陸地にA局、B局、二箇所に電波を発射する器材を据えて、A局と船、B局と船の距離を電波で測定し、二つの線の交点で船の位置を特定する。今ならば、GPSで簡単に位置をだせるが、その当時(1973年ごろ)は山立てか、電波的な山立てともいえるこの測距で決めるしかなかった。洋上での船の位置の測定には、ロランとデッカがある。地域によって、ロランが使えるところと、デッカが使えるところがある。これも、原理として電波測距であり、恒久的な電波ステーションであるロラン局が発信している電波をとらえて位置をだす。ロランは、精度が低い。100m以上の誤差がある。広い洋上での100mは、海図の上では鉛筆の点だが、100m以上の誤差では、人工魚礁を探すことができない。より精度の高い、電波測距機を使う。この電波測距機ならば、誤差が20m程度、ダイバーが捜索できる範囲にブイを入れられる。
いつか悲しいことがあった。その日は天気が良く、波も無く、絶好の潜水日和だった。A局、B局は、水産試験場の職員が器材を所定の位置に据えて電波を出すのだが、「A局の電波が出ません。故障らしいです。」無線通話が入ってくる。これでその日はもう終了だ。また別の日となる。もしかしたら、次のシーズンになってしまうこともある。
魚探は魚の群れを見つけようとするソナーだが、海底の深さを測ることによって、海底の起伏も見ることができる。測深した深さを湿式記録紙の上に連続的に描くと魚礁の形が現れる。(これも現在はカラーモニターで見ることができる。)
高さ7mの大型のジャンボ魚礁の上を船が通過すると、高さ7mm程度のピラミッド型のパターンが記録紙の上に描かれる。
ゆれるブリッジで記録紙の上を上下する針を見ていると、少しづつ気分が悪くなってくる。しかし、長い船酔いとの付き合いで、船酔いをしながらしかも仕事を確実にやり遂げるノウハウを身につけている。それは、如何に吐くかである。たくさん食べ過ぎると、吐くときに胃の中から大量に吹き上げるので、人前に汚物を広げてしまうことになる。食べないと吐くものがないので、おさまらない。吐くという動作で気分を一転させ船酔いを軽減させるためには食べる量が適切でないといけない。吐いてしまえばたいていの場合気分爽快になるが、吐いた後に後味の悪いものを食べると効果は半減する。僕の場合は麺類が良いが、宿の朝食に麺類は望めない。次善のものとしてお茶漬けにしている。
酔い止めの薬はかなり効果があるが、連用すると胃腸や肝臓を痛めるというので、控えている。潜水のために船酔いの薬は良くないと、医者は言うが、その医者は船に強いにちがいない。
船酔いはなれることができる。一つの船に一週間以上乗り続ければ、船の食事をおいしいと思って食べられるようになる。船が変わってしまったり、船から下りて一ヶ月ほどすれば元に戻ってしまう。人工魚礁調査で乗る船は変化に富んでいて、しかも、乗る期間はだいたいの場合は一日だけだ。船に慣れるほど乗っていないから何時でも船酔いする。
むかつく胃をなだめながらウエットスーツを着る。一度吐いたぐらいでは今日の波では吐き気はおさまらない。波高は2m以上あって、船は左右に揺れる。70トンもあるのに本当によく揺れる船だ。
魚礁の位置に投げ込まれた浮標のロープの長さ、魚礁と浮標の方位関係を再度確認する。舷側に立って船が浮標に接近するのを待つ。漁をたくさんやる船だから、こういう操船は上手だ。浮標との距離5m、片手を上げて船長に合図を送ると飛び込んだ。浮標につかまってバディが来るのを待つ。他の調査に出払ってしまっていて、うちのダイバーは誰も居ないので、後藤道夫の弟子で、真鶴でダイビングサービスを営んでいる志村嘉則君をたのんで、一緒に車に乗ってきた。減圧停止をしなくても、減圧症になりにくいダイバーで、本当に良い男だったが、後年、ただひたすら酒を飲んで死んでしまった。あれだけ飲んだら死んでも当然と誰もが思うから、悲しんだりする仲間はいなかった。誰にでも好かれる本当に良い男だったから、参列者が多い。真鶴の小さな集会場でお通夜をやったから、多人数がお経を聞くために座るスペースなどない。そのまま通過するご焼香で流れて、お清めになり、直ちに食べたり飲んだりだ。ご焼香の通過に5分、1時間以上盛り上がった。男の葬式はこうありたい。
彼の役割はサポートだ。2人がそろうと、急降下に移る。
目指すのは、周囲8m、高さが7mの大型の魚礁だ。このあたりの海底は、粘土質で平坦だ。波で砂が舞い上がることがないので、10m以上の見通しがある。
魚礁の中には、15cmくらいのイシダイの群れ、ウマヅラハギの群れが入っている。魚礁の目的は、ヒラメだ。
ヒラメは魚礁の周辺部の海底に張り付いている。前回の調査の時には、魚礁の中の底に80センチほどの大型のヒラメがいたが、原則として、魚礁の周囲にいる。
 魚礁が壊れていないことを確認しながら、魚の撮影をする。魚礁は4基入っている。次々と見て行く。時間が足りなくて、4基全部は見られなかったが、浮上する。魚礁を設置すると、設計どおりに設置されているか、海底で転倒などしていないか、確認のために必ず潜水調査をする。もちろん、目的としている魚が見つかれば、めでたい。その写真を撮る。が、めでたいと言うくらいの確率である。魚が来ているかどうかの確認は、釣りをした方が直接的である。
 日本は、沿岸の海底に魚を集める万里の長城(人工魚礁)を築いているのだが、海底にあり、人の目に触れないから、この長城は、わからない。1970年代から1990年代が、長城を築く最盛期であった。
 水面に浮上して、浮標につかまり、船に合図をする。船が接近してくるが、潜り始めたときよりもさらに波が高くなっているように見える。
 僕たちを収容するために舷側のゲートが外してある。波がデッキを洗っている。この船の良いところは、甲板の位置が低いことだ。それでも、水面すれすれからダイバーの眼で見上げると、二階から船が落ちてくるように見える。落ちて来た時にデッキに流れ込む波と一緒に跳ね上がり、タンクを背負ったまま、甲板にすっくと立った。ダイビングで一番怪我をしやすいのは、船に上がる時、岸に戻る時だ。今ならばこんな危ないことはやらないし、できもしない。まだ若かったから、こんなことが出来た。
 タンクを外し、ウエットスーツを脱いだら、どっと船酔いがやって来た。ゆれる水平線と盛り上がる波を見おろして吐いた。鼻がつまって眼から涙がポロポロとこぼれる。小雨交じりの風が、波のしぶきと一緒になって顔と裸の上半身に吹き付ける。良い気持だ。船酔いはするけれど、寒さには強い。海から上がって10分ぐらいは体が火照っていて、寒くない。船の人は、房州の船乗りだから口は悪いけれどみんな親切にしてくれる。私の船酔いを馬鹿にする人もいない。笑って見ていてくれる。あの大波と一緒にデッキに跳ね上がるところを見せるのは、馬鹿にされないためだ。バケツにきれいな水と、大鍋に沸かしたお湯を持ってきてくれる。バケツから水を飲んでうがいする。お湯と水を混ぜて頭からかぶる。潜水した体の火照りが消えないうちに身体を拭いて厚いセーターとデッキコートに身を包む。
 潜水する前には、気難しく私を拒んでいるように見えた海が、潜り終えた今は、こちらを向いて笑いかけているようだ。潜った後は、いつでも気分がいい。
 ハードルの選手にとってハードルがあたりまえのものであるように、僕にとって船酔いはあたりまえのものだった。
 
 スガ・マリン・メカニックの人工魚礁調査の中心は、千葉県、茨城県、福島県で、千葉では「ふさみ」、茨城県では「ときわ」福島県で「拓水」に乗る。
 書いてきた千葉県の「ふさみ」の時から何年かあとだった。
 ある日、茨城県の「ときわ」に乗っている時のことだ。二つ玉低気圧が走りぬけ、大陸の高気圧が張りだして、今年で始めての強力な冬型の気圧配置になり、北北西の風が海上では風速12m、船は船酔いに充分なピッチングとローリングを繰り返している。ところがどうしたことだろう。船に乗って、潜水を終了するまで船酔いをしなかったのだ。
 潜水を終えて、うすいインスタントコーヒーに砂糖とクリームをたくさん入れて、舷側に寄りかかっていると、船の上下動が気持ち良いものに感じられる。
 すっかりうれしくなって、船長と食べ物のはなしをはじめる始末だ。「ときわ」の戸羽船長は、豪快な酒飲みで、50トンの船を信じられないほど岸近くまで寄せて潜水させてくれる。次の調査の時にはもう「あんこう鍋」がおいしくなっている。今度は北茨城の大津港に入港して「あんこう鍋」を作ろうなどとうれしい話をした。
 しかし、つかの間の幸せで、次にこの船に乗るときは、海はもっとひどく酔わせるのかもしれない。それでも良い。人生だって幸せを感じる時はほんの一瞬だ。船に弱いからこそ、海がほんのちょっと、とけこむ表情を見せる時に、きわだって嬉しさを感じるのだろう。
 ある日、「ときわ」に乗る予定で、朝、出発しようとしていると電話が鳴り、戸羽船長が死んだと言う。昨夜、少したくさん飲んで寝たら、朝起きなかったそうだ。豪快な酒飲みは長生きしない。豪快に死ぬ。幸せだと思う。僕は酒を飲まないで長生きしている。しかし、何も考えずに酒を飲み、死んだ方が良かったかな、と、このごろしばしば思う。
  
苦労を重ねても、ダイバーが魚礁を観察している時間はほんの数分だけだ。磯に定着している魚、魚礁に住み着いている魚も、どこかに出かけていれば、魚を見ることが出来ない。広い海を泳ぎ回っている回遊性の魚では、タイミングが良く、ラッキーな時だけ、通り過ぎ、寄り道をして、魚礁に立ち寄った魚を見ることができる。
 魚礁の調査は、潜って魚を見ること、そのふるまいを観察すること、そして、その証拠として撮影してくることだ。証拠がなければ、どんな嘘でもつける。釣り師のほら話と同じだ。
 スチルカメラが今も昔も撮影調査の中心だ。最初の人工魚礁調査で、死にかけて以来、水中ではスチルカメラは手放したことがない。侍の刀のようなもので、カメラを持っていないと潜水できない。
 8ミリ映画カメラも使った。やがて小型で誰でも使えるテレビカメラが世に現れ、さっそく水中ハウジングを作って、水中に持ち込んだ。
 魚を観察するために、テレビカメラを魚礁の中に据えつけて長時間の観察撮影をしようとした。
今ではVTRとカメラは一つになっているが、1970年代にはカメラとVTRは別々であった。VTRもハウジングを作り、カメラのハウジングと一緒に水中に持ち込むことにした。
 これとは別に、テレビカメラを吊り下ろして曳航する方法もやり、次には、スクリューで走らせる自走式のカメラも試作した。
日本海海戦で沈んだロシアの巡洋戦艦ナヒモフ号の金塊引き上げのための飽和潜水作業に協力していた縁で、自走式カメラを作るお金を出してもらった。1年間の苦労の末出来上がったカメラを、ナヒモフ号の現場で水深90mの海底に沈めて、テストをした。走ることは走った。しかし、走らせるモーターの力が弱く、少しの流れでも押し流されてしまって前に進まない。僕の作った自走式カメラは、「役立たずのポチ」号と呼ばれて短い生涯を終えた。


 とにかく、海のことがわかるためには、船に乗り組み、海に出なければだめだ。現場第一主義、調査の虫にならなければいけない。机に座っている人には海のことは、半分しかわからないだろう。

 2008年現在、73歳の今でも人工魚礁の調査で潜っている。もう、タンクを背負ってすっくと立つことはできない。タンクを背負わせてもらって、海に落ちる。重力の無い水中では、自由自在に動ける。水面でタンクを外し、ウエイトを外して、引き上げてもらう。それでも自分の身体は、フィンで蹴って船によじ登ることができる。
 ※これを書いた時が73歳、書かれた時点は30歳代のころだ、今は85歳、水中でもよぼよぼしているけど、館山で人工魚礁に潜っている。今では、タンクを脱いで、引き揚げてもらって、空身にならなければ、船に上がれない。




 ※ ポチのことを書いたので少し付け加える。
   ポチの話も機会があれば、別にしたいのだが、
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ナヒモフ豪の金塊引き上げに活躍しなかったポチ
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ポチから数年後、購入した日立造船のROV、日本の本格的ROVとしては、草分けである。そして、今もなお、富戸の大西君のところにあり、彼がメンテナンスと改造をして、沼津の内浦湾の海底居住の遺跡?の撮影などで、動いているおそらく、世界最長寿のROVである。今度は、伊東沖の海底噴火の跡をさつえいするとか、この話では、その海底噴火口に潜水した潮美が講演とかしている。
 

0425 リサーチ・ダイビング 釜石湾港防潮堤

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      船上減圧のタンク



5-2 釜石湾口防潮堤
日常は、人工魚礁の調査、藻場の調査などをやりながら、大きな仕事が来るのを待っている。じっと海底に横たわっていて餌が頭上に来るのを待っている。来たら飛びつく。
 昭和55年(1980)岩手県釜石湾口の防潮堤の基礎調査工事をやることになった。サウジアラビアでのマネージャー就任を断った、日本シビルダイビングとのジョイントでの作業だった。シビルダイビングからは、田中君という監督が来て、ダイバーは,スガ・マリンメカニックと、それに、シートピア(海底居住実験)を実施していた海洋科学技術センター(今のジャムステック)から 田淵君、米倉君 が加わり、ベテランのフリーダイバー上村君、それに、清水の望月さんのところから、横田君が参加した。大きなプロジェクトだから、参加して、名前を出して置くことに意味があると、誘ったものだった。
 ちょうどその時、田島雅彦が、茨城県立那珂湊水産高校の専攻科を卒業して入社した。船乗りになるため、船長免状をとるための専攻科だが、僕が茨城の調査をする時の定宿である万年屋に下宿していた縁で知り合った。
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     田島雅彦、このあとジャムステックの深海潜水コースに入学した。
     その時の写真。残念なことに癌で逝ってしまった。

湾口防潮堤は、春から秋へ、長い期間の仕事だったから、休日を作り、体育館で運動したり、近くの観光をしたりした。
体育館では、バスケットをやった。僕は中学から高校まで、バスケットのプレィヤーだった。大学一年でバスケットをやめて以来始めてボールに触った。フリースローがリングにとどかなかった。体育館で、田島は、腹這いになって後ろに手をまわして両足首を掴み、腹筋で跳ねた。ボクシングのチャンピオン、具志堅がこれを出来た。それと同等の身体能力ということになる。
 湾口防潮堤とは、津波が起こったときに被害をくいとめるための堤防である。釜石湾は、リアス式の三陸海岸であるから深い。深い湾の湾口、水深64mの海底から堤防を築き上げる大工事である。石を積み上げるために、船底が開く石積み船から石を落とす。その石が、どのように積み上がったか、設計通りに積み上がっているかを確認して行く調査である。水深64mの海底で、ポールを立て、線を張りめぐらせて、測量をする。水深64mだから、普通の空気では窒素酔いになってしまう。ヘリウムと酸素の混合気体を使う。
ヘリウム・酸素混合ガスによる潜水は、よく知られていたが、1980年の日本ではまだ実際の作業例は少なく、各方面の注目を集めた。技術指導と機材の貸与(もちろん有料)をしたジャムステックとしても、数少ない工事実施例になった。しかし、実際の現場では、連日、高価なヘリウムは使えない。かなり慣れてきた途中からは普通の空気で潜った。減圧は、船上に副室のある小型再圧タンクを置いて、船上減圧で潜水した。船上減圧とは、完全な減圧停止はせず、第一段目の減圧だけをして浮上し、3分以内に、減圧症罹患してはいるのだが、まだ発症しない状態のうちに再圧タンクに入って、治療を開始してしまう。発病しないうちに治療してしまえば何事も無いという理屈だ。
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 この潜水で使っていた潜水器は、ホースでカービーモーガンタイプのバンドマスクに送気するフーカー(潜水士のテキスト・最新版では、デマンドバルブをつけたフルフェースマスクと呼んでいる)であった。バンドマスクは、重いフルフェースマスクであるが、水面からの送気と背中に背負っているタンクからの空気供給を切り替えることが出来、米国のコマーシャルダイビングでは一番多く使われている。
 ※今のダイブウエイズのフルフェイスマスクは、それに対応している。カービーほど重くないし、顔当たりも良い。
 深い潜水ではガスの消費量が大きいので、ホースで送気する。エア切れの心配は無い。そして、もしも、送気装置が壊れたり、ホースが挟まったりして送気が停止した場合には、背中に背負っているスクーバタンクに送気を切り替えて浮上できる。減圧停止ができなくても、船上のタンクに入って減圧を加えることができる。国際的なルールでは、このように、送気が2系統の潜水器でなければ、水深55m以上の潜水作業はしてはいけないことになっている。また、水中で失神したとき、マウスピースを口から放して溺水することが無いように顔の全面を覆う、フルフェースマスクを使わなくてはならない。いわゆるシステム潜水だ。
 このシステムこそが、東亜潜水機でやらせてもらった水深100mの実験潜水の完成形であったが、残念ながら、完成させたのは、外国のメーカーだった。
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       ガスバンク
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      ガス分配器 オペレーターをやった田渕君
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     よくも、こんな梯子から潜水出来たものだ。

 この釜石の潜水からさらに25年後、2005年、道路拡張工事で移転した東亜潜水機を久しぶりで訪ねた。機械工場は、佐野専務の息子さん、東亜潜水機を退社したときにまだ小学校高学年だった弘幸さんがやはり専務になり、大きくなった工場を取り仕切っていた。僕が好きだった佐野専務、三沢社長はすでに逝ってしまっている。
 「僕がここに残っていれば、東亜潜水機は、フルフェースマスクの世界的なメーカーになったかもしれませんね。」
 息子の佐野さんも優しい人で、きっとそうなりましたねと言ってくれた。
 退社した当時、ヘルメット式潜水器のメーカーは二社あった。東亜潜水機と横浜潜水衣具だった。横浜は後年、海上自衛隊関連の仕事で、釜石でも使っているカービーモーガンのバンドマスクのライセンス生産をした。日本の製品の常で、原型よりも質が良く、世界的にヨコハママスクとして人気があった。その横浜潜水衣具も、2007年の今は会社を閉めてしまって無い。主力製品であったヘルメット潜水が、作業潜水の主力の座をフーカー式に譲って、今や伝統技術として保護しなければ残らないような状態になってしまったから、持ちこたえられなかったのだろう。
 東亜潜水機は、ヘルメット式潜水器のメーカーとして唯一になったが、それでも今やコンプレッサー関連の売り上げが8割だという。
 今はもう、コンプレッサーのメーカーですよ、と佐野さんは言う。コンプレッサーも、僕の100m潜水実験のあと、次の120mを目指すために、ヘリウムを回収して再使用するヘリウムコンプレッサーが売り物になっているとか。
 スガ・マリンメカニックとしての釜石湾口防潮堤のメンバーは、須賀、河合、鶴町、米田、井上、田島、以上スガ・マリンメカニックの社員で、フリーの助っ人は、田渕(ジャムステックから紹介されエンジニアリングをお願いしたチーフダイバー)、ジャムステックからの米倉、フリーの上村、横田で、現場監督はシビルダイビングの田中君だった。

 ※、後に、2010年、日本水中科学協会を作って、プライマリーコースをやるときに米倉君は、ジャムステックの担当になってくれて、多大なお世話になった。
 日本シビルダイビングは、名古屋の会社で、お金に渋い。サウジではほぼ、使い放題だったけど。

監督の田中君が契約してきた宿舎に入って見て、「ワン!」と吠えた。八畳間が二つ、襖を取り払って一つにして、全員が一つの部屋で寝る。布団は厚さ2cm、本当の煎餅、窓から光は射さない。夕食のカレーライスには、蝿が入っていた。風呂は無いので、向かいの銭湯に行く。近所のお爺さんが入ってきて、毎日、千昌男の「北国の春」を歌う。僕たちも声を合わせて合唱する。今でもこの歌をカラオケで歌うと、涙がにじんでくる。
ある日、シビルダイビングの社長が視察に来た。サウジアラビアに一緒に行った大畠社長だ。良い旅館をとり、マットレスを敷いた上に厚い布団を敷いて寝ている。こっちは厚さ2cmの煎餅だ。同じ社長でなぜちがう。愚痴を言ったら、田島に言い返された。では、明日から良い布団で寝て隠居してください。もう、ダイビングはしなくていいです。「ごめん、僕はここで寝て、潜る。」
 45歳、まだまだダイビングでは、人に負けないつもりであったが、やはりホースさばきが下手くそだった。径が8mm、ホースとしては細いが、水深60mを越すから、120mぐらいのホースを曳いて潜らなければならない。それでも、次第に上達して、終了ごろには、みんなと対等に潜れるようになった。
石を落として、山を作る。その山が設計の通りかどうか確認のための測量である。ソナーでも大体の形はわかる。しかし、10cmぐらいの精度で測るとなると、実測する他ない。恒久的なポールを立てて、ポールの間に水糸を張る。水糸からスタッフを立てて、山の高さを測定する。本格的な測量をやった。透明度が良いので、こんな測量ができた。
40m以上に潜水する場合、ヘリウムとの混合気体を使う理由は、窒素酔いを防ぐためだ。僕らは経費節減、名古屋の会社だから、と陰口をきいたが、ヘリウムはなくなったら補充せずに空気で潜っている。
 ある日、本来の仕事である測量ではなくて、錨引き揚げの仕事が来た。大きな錨を、工事の船が落としてしまった。潜水して太いワイヤーロープを錨にはめこんで、ボルトを締めて来る仕事だ。錨を落とした、地点に目印のボンテン(浮き)は入れてあるが、それを目印にロープを降ろしても海上のことだ、5mや10mは離れてしまう。海底でそれを引きずって、錨に取り付けなければならない。僕がやるような仕事ではない。だけど、やることにした。良くない性格だ。なんでもやりたがる。鶴町と一緒にやることにした。水深は少し浅くて、55mだったと思う。作業に10分はかかるだろう、余裕を見て潜水時間15分として潜降した。
 アンカーとワイヤーロープは10mほど離れている。引きずらなくてはならない。ワイヤーロープは重いから重労働になる。フルフェースの空気をフラッシングにした。フラッシングとは、前面のガラスが曇った時に、空気を吹き付けて曇りを落とすために、送気を、フリーフロー状態にすることだ。こうすれば、ヘルメット潜水同様になり、デマンドバルブ(レギュレーター)を経由する呼吸抵抗がゼロになる。ヘリウムを使っていたらこんなことはできないが、空気だから、幾ら吹かしても良い。二人でロープを担ぐようにして引っ張り歩いた。10mは遠い、ようやく錨にロープをボルト止めにして、そこで、力尽きて、二人とも打ち伏した。所要時間は5-6分しか経過していない。呼吸はもとに戻ったが、二人とも動く気持ちにならない。上から、電話で、時間経過を告げてくる。「8分経過、」しごとは終わったのだから、浮上しても良いのに、そのまま横たわっている。潜水時間15分というのが焼き付けられているのだ。窒素酔いで、仕事が終わればすぐに浮上したほうが減圧時間が少なくて済む、と頭がまわらないのだ。「15分経過、浮上してください」「了解」で浮上した。
 何も考えられない、考えさせないほうが良いのかもしれない。
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 プロの潜水で深く潜るのは、このようなホース送気のシステム潜水でなければ、いけない。日本の高圧則でもそうなっているし、国際的にももちろんどうなっている。スクーバを使うテクニカルダイビングは、危険度が高い。
 仕事も完成が近づき、先が見えてきたある日、休日を作って付近の観光にでかけ、岩手県の竜泉洞にやって来た。洞窟の一番奥、引き込まれるように青い水を覗き込み、「潜ってみたいね」と話し合った。

ここ釜石でも、ダイバーが死んだ。僕たちの工事ではなく、地質探査のために、海底に爆薬を仕掛けるダイビングで亡くなった。親友と言うより、弟のように思っている石巻の福田君が受けていた仕事だった。僕らの仕事は終了して東京に戻っていたのだが、ピンチヒッターを買って出た。大阪のフリーのダイバー、上村君とバディを組んだ。彼も名人だ。水深65m、普通の空気で潜った。事故は、窒素酔いが原因だろう。僕は、窒素酔いにもなれ、重いカービーのバンドマスクにも慣れて、視界の狭さも苦にならない。秋も深まった釜石湾は澄み切っていた。見上げると、ホースも水面まで一直線に見える。海底に穴を開けて、ダイナマイトを差し込む。このまま、ここに居たい。窒素酔いになっているから気分が良いのだ。水面を見上げると、気泡が輝きながら、浮いていく、陶然とそれを眺める。水面から浮上を指示してくる。仕方がない。ふんわりと上がって、楽しく減圧停止をする。
 空気の質が良くて、空気量があまりあるほどあれば、窒素酔いは気分が良いのだ。それに、意識を失ったとしても、、ホースを手繰って引き揚げてもらえるから安心だ。窒素酔いは、酒酔いとおなじように、ジャンキーになる。酒のように二日酔いにもならない。
 湾口防潮堤の、測量工事が終わっても防潮堤の工事には、細かい潜水仕事が発生するかもしれない。日本シビルダイビングでは、釜石に駐在するダイバーがほしい。スガ・マリンメカニックから誰か一人出向してくれと依頼があった。かわいそうに、鶴町が島流しになることになった。人事の序列としてそうなるのだ。河合君と、鶴町が同列だが、河合は、コックの修行もしてことがあり、要領が良いのだ。軍隊の戦争で、下士官の要領の良さが、重要であるように、潜水仕事も要領なのだ。要領、つまりずる賢く立ち回ることが事故を防ぐ、事故の起こる臭いを嗅ぎ分けて逃げることに巧みなのだ。鶴町はまっすぐないい男で、悪賢くない。貧乏くじを引く。鍛えられてやがては賢くなって独立するのだが、まだ、この時代は、島流しになった。これという仕事もなく、半年ほど駐在した。
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    これは、釜石ではないが、寒さに震える
   左から、鶴町、河合、新井拓


 ※僕らが1980年に基礎工事の測量をした釜石の大湾口防潮堤は、30年近くかかって、ようやく完成した後に、東北大震災の津波が来た。津波は防潮堤を乗り越えて、釜石の街を襲った。防潮堤があったために、何分か潮が上がるのが遅くなり、そのために何人かの人が助かったのだという意見と、いや、防潮堤があるからと安心して逃げ遅れた人も居るのではないかという意見もあった。
 釜石は懐かしい街だ。グーグルアースで街並みをみる。昔とは、全く変わった。甲子川には、いまでも鮭は上ってくるだろうか。たしか、橋の上に市場があったはずと探しても見当たらない。湾口防潮堤は立派にのこっているけど。
 

0508 復刻 東京無人島紀行

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       大学生の潮美 


 ブログが書けないでいる。書けないわけではなく手、一応出来上がっているのだが、使いたい写真が一枚、どうしても、見つからないのだ。
 大した問題ではないのだけれど、あるはずだと思っていた写真がないと、そこで止まってしまう。もうこれで、15日近くブログが止まってしまっている。
 これではいけない。その写真、前にブログで使ているはずだと、ブログからコピーしようと、ブログをさがした。
 このブログの前に使っていた、楽天のブログをさがした。そこにあるはず。まだ、みつけられていないけれど、この楽天のブログが面白いのだ。自分で読んでも、面白い。 
 これを使って急場をしのごう。
 以下2008年のブログの復刻である。
 
 この文章は、1982年、娘の潮美が法政大学の一年生、ダイビングクラブに入った時、娘への手紙の形で、ダイビングのことを書き、やがて出版しようとして書いたものだ。その後、娘はニュースステーションの水中レポーターで有名になったから、出版できないこともなかったのだが、娘の同級生が事故で亡くなっていたので、につつしんだ。
 好きな文章だったから、どこかで人目に触れさせたいと思っていた。
 ※つまり、今回は復刻の復刻になる。


  以下は1982年に書いたもの。
 富士マリアナ火山列島の八丈島と小笠原の中間点たりにある鳥島の入り江に船を止めて、うねりに身体を揺られながら書いています。私は船に酔う人です。そのことを人が聞くと、「ええっ!」と驚くのですが本当です。船に酔わない人にとって、海の仕事は船遊びですが、船に酔う人にとっては、難行苦行です。それに耐えて海に出るのですから本当に海が好きなのです。(その後、潮美がニュースステーションなど海の仕事をすることになり、船酔いは遺伝することがわかった。)今度の航海では、毎日朝起きると酔い止めの薬を一錠ずつ飲んで、過ごして来ました。薬なんてスパシーポ効果(暗示効果)があるだけだと、どこかのテレビ番組で実験をやっていましたが、私にとっては、確かに効果はあります。  
 しかし、今回の船の旅も日を重ねるうちに錠剤も飲まなくて大丈夫になり、うねりに揺られながらものを書けるところまでに慣れました。やはり、船酔いは慣れで、克服できます。神経が過敏なだけなのですね。
 鳥島はアホウドリの繁殖地として保護が行われている島です。アホウドリは英語ではアルバトロスですが、アルバトロスと言うと、雄大な翼を拡げて大洋を遠く旅する海の王者の姿が思い浮かびます。アルバトロスは、長い翼で滑空する鳥ですから、着陸してしまうと長い翼を引きずって歩かなければならないのでよちよち歩きです。飛び立つ時は長い滑走距離が必要です。海から飛び立つのならば長い滑走距離が取れるのですが、陸からの離陸は崖から飛び降りなければ飛び立てません。だから絶海の孤島で繁殖していたのですが、人に見つけられたのが最後で、飛べないでよちより逃げるだけですから、いいように撲殺されて、羽根布団の材料にされてしまいました。ほとんど逃げずに殺されたので、アホウな鳥と呼ばれたと聞きます。明治時代から撲殺が繰り返され、絶滅に瀕してしまいましたので、今は、保護に大わらわです。ここから、アホウドリの飛び立つ崖が見えます。営巣のために卵が崖から転げ落ちないように植え付けた草も見えるのですが、許可なく上陸して近づくことはできません。
 私の乗っている船は、第五稲荷丸、19.99トン、つまり20トン未満のトビウオ漁の漁船です。この船で八丈島を出発し、目指すのは絶海の孤島、孀婦岩(ソウフ岩)です。孀婦岩は、孤島というよりももっと小さくて、海の真ん中に鉛筆を立てたような岩です。八丈島の潜水漁師であり、古い仲間でもある赤間君が、この孀婦岩に大きなイソマグロを突きに行くドキュメンタリーの撮影に出かけて来ています。
 小さい船で、沖合遥かに出かけるにはこの季節、梅雨が終わりかけて、まだ本格的な夏が始まらない時期が良いとされています。「まるで盥の中のように静かだよ。」と聞かされてでてきたのですが、今年は梅雨が終わらないうちにフィリッピンで台風が発生して、孀婦岩まで行かれるかどうか、危ない状況です。
 夏かぜをひいてしまい、八丈島をでるときは、8度の熱がありました。夜8時の出港で、港をでると同時に雨がしとしとと降り始めました。一応寝る所はあるのですが、小さい船で、船員の寝るスペースは、船室の床とエンジンルームの間の空間です。その空間ではディーゼルの匂いと魚の匂いがカクテル状態になっていて、すぐに気分が悪くなります。私が最初に身を入れた寝た場所は、エンジンのすぐ上で、天井と床の距離が40センチほどです。漁船の乗組員が沈没して助からないのは、こんな隙間で眠っているからでしょう。 エンジンが廻り始めると、その振動がそのまま身体に響きます。耳の中で平衡感覚を司っている石が踊り始めるようで、耳の奥がむずかゆくなり、そのうちに気が狂ったようになります。たまらずに、甲板に出て、寝袋に入り、その上から青いビニールシートをかけてもらって眠ることにしました。そのシートの上から、雨と波の飛沫が降り注ぎます。
 「盥の中のように静かな海」といったのは誰だ!盥の中に、笹の葉で作った舟をうかべて、手を入れてかき回しているような海でした。それでも、スミス、ベヨネーズ列岩と潜水し、撮影して船をすすめ、鳥島までやってきました。この鳥島で船は先に進まなくなりました。フィリッピンにいる台風のためです。プロデューサーの大橋さん、ディレクターの山崎さんは、天候の心配で落ちつきません。台風が頭をもたげて北上するようであれば、すぐに全速力で八丈島に逃げ帰らなければなりません。台風が追いついてくると、電信柱よりも高い、20メートルほどの波が頭の上から落ちてくるのだそうです。ただただ、念仏を唱えて、泣きながら走るより他はないと船長は言います。船長は丸い身体の愉快な人で1キロ先から見ても漁師だとわかります。機関長は細長い体であごひげを生やしたファンキーなジャズフアンで船長と喧嘩ばかりしています。ついさきほども、「おまいなんか出て行け」と船長が怒鳴ると、「こんなぼろ船にいるものか出ていってやる」と機関長が怒鳴り返していました。この海の上で、何処に出て行くと言うのでしょうか。港に帰ったら出て行くための、予約の喧嘩をしているのでしょうが、この二人だけがたよりの私達としては二人の仲はとても心配です。が、赤間さんに言わせれば、いつものことで、全然心配はないそうです。
※この機関長は、僕が船に持っていったジャズピアノの山本剛のテープ聞いて感動し、
その後、山本剛を八丈島に呼ぶイベントをやった。おかしな人だ。
 昨日、この鳥島で停滞しているうちに、いろいろと撮っておこうと、赤間さんが、30メートルまで素潜りで潜ってくるシーンを撮影しました。30メートル下でカメラを構えて水面を見上げると、遠く彼方に水面があります。赤間さんは水面から潜り込んできて、私のカメラの前で、反転して、上って行きました。
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 孀婦岩は、ウィキペディアによれば、東京の南約 650 キロメートル、鳥島の南約 76 キロメートルに位置する標高 99 メートル、東西 84 メートル、南北 56 メートルの顕著な黒色孤立突岩。火山性の玄武岩であり、頂上付近には水面に対して垂直方向の柱状節理が認められる。面積は 0.01 平方キロメートル。カルデラ式海底火山の外輪山にあたり、孀婦岩の南西 2.6 キロメートル、水深 240 メートルには火口がある。
 その形状のために上陸することは困難であるが、ロッククライミングなどで上陸・登頂した例がわずかに存在する(ただし転落事故も記録されている)。何れの町村に属しているかは未定の状態である。 
 周辺は航海の難所ながら、豊かな漁場として伊豆・小笠原漁民に知られる。また、高い透明度と豊富な魚影からスキューバダイビングの聖地とする人も多い。
 私たちは、NHKの夏休み特別番組「東京無人島紀行」の撮影のため、八丈島を第五稲荷丸で出発し、スミス、ベヨネーズ列岩を撮影して、鳥島まで来たところで、フィリピンに発生した台風のために先に進むことを躊躇して、鳥島の島陰で停滞している。鳥島の先、孀婦岩に向かって進んで、台風が北上して来れば、遭難の確率が20%ぐらいある。
 以下、再び娘への手紙である


7月15日
 昨日撮影した赤間さんの30メートル素潜りがなかなか格好良かったので、私もやってみる気になりました。どうせ、島影で、台風の行方を天気予報で見守って停滞しているのでやることはあまりないのです。
 気絶するといけないので、アシスタントをやっている鶴町君に下で見ていてもらうことにしました。彼はスクーバを付けて潜ります。
 私は赤間さんのようなスキンダイビングのエキスパートではありませんから、スキンダイビングで20mを越したことがありません。学生の頃で、20mくらいでしょうか。
 いまここで鼓膜を痛めてしまったら後の撮影の仕事が出来なくなります。本当は、こんな馬鹿なトライアルをしてはいけないのです。仕事中なのですから。
 それでもやってしまうのが、ダイバーというものでしょう。それとも単純な馬鹿でしょうか。
 身体にはウエイトは着けずに、手に6キロのウエイトベルトを持ちます。一番深くまで潜った時に手放してしまえば、楽に浮いて来られるはずです。捨てたウエイトは鶴町が拾ってきてくれる手はずです。
 目標を26メートルとして、26メートルの位置に鶴町が待っています。赤間さんも一緒にスキンダイビングで潜ってくれます。
 水面に浮いて下を見おろします。水は澄みきっていて、切り立った海底の崖の50メートルの底までが見通せます。崖の頂上は水深10メートルぐらい。崖の中間ぐらいに鶴町が私を見上げています。
 肺にできるだけ沢山の息を吸い込みます。潜るときは、浮力をつけないために、肺に八分目ほどの息で潜るなどという人がいますが、とんでもないまちがいです。深く潜って行くにつれて水圧が増加して肺が圧縮されます。
 肺がつぶれてスクイーズ状態になる深さが、特に肺活量の大きい人で50メートルが限度だといわれていました。ところが、フランス人のジャック・マイヨールは50メートルの壁をどんどん越えて、1970年には伊豆海洋公園にまでやってきて、76メートルの素潜り潜水に成功しました。潜って行き肺が縮むとそれにともなって横隔膜がせりあがって来て、肺が入っている胸腔が小さくなるのですが、彼は横隔膜の弾力性が大きいらしく、縮む率が大きくなっても耐えられるのでしょう。そして、身体中の血液が胸の大動脈の部分に集まって、大動脈は太く膨れ上がり、胸腔の隙間をちいさくするように働きます。これをブラッドシフトと言います。隙間がなければスクィーズにはならないので深く潜れるのです。
 私は水面で、15回、強い深呼吸を繰り返します。肺の中の炭酸ガスを出来るだけ追い出してから潜降を始めると長く潜れるのです。強い深呼吸で肺の中の炭酸ガスを洗い流してしまう呼吸をハイパーベンチレーション(超換気)といいますが、このハイパーベンチレーションをやりすぎると、長く潜りすぎて失神してしまう危険があり、効果もあるが毒もあるという薬のようなもので、使いすぎることはできません。とにかく、肺一杯に吸い込んだ肺の中の酸素を出来るだけ長持ちさせて、水面に戻ってこなければいけないのです。深く潜るスキンダイバーは、多かれ少なかれ、このハイパーベンチレーションという毒薬を使います。酸素の消費を少なくするためには、身体の動き、筋肉の動きを最小限度にします。潜り込むときに水面をフィンでばちゃばちゃさせるなどという潜り方は酸素の無駄遣いです。水面に残る波紋もほんのちょっとだけ、なめらかに潜降を始めます。スキンダイビングでもスクーバダイビングでも、身体を出来るだけ動かさないようにすることが大事です。フィンを、もちろん手も、ほとんど動かさないで潜ったり浮いたり、進んだりできるのが理想です。スクーバダイビングで上手な人ほど空気の消費が少ないのは、筋肉を少ししか動かさないので、酸素の消費が少ないからなのです。もちろんスキンダイビングでも酸素の消費が少なければ長く潜っていられます。
 耳管を開いて、耳抜きをしながら潜って行きます。耳の調子は良いようです。耳に少しでも負担がかかったら、潜降を停止しなければなりません。まだ、仕事の途中ですから、耳を痛めたら大変です。
 自分の耳に神経を集中させているので、周囲の光景には目が行きません。もっともスクーバで赤間さんのスキンダイビングを撮影した場所ですから、別にその時と変わったこともないのですが、とにかく鶴町の居る、26mに到着します。このまま楽に30mに行ける。全然苦しさは感じません。もっと行けるかもしれない。ある深さを通り越してしまうと、生と死の限界まで苦しくなく潜れるらしいのです。そのかわり、水面でブラックアウトを起こしてしまいます。とにかく仕事中です。何かが起こったら大変です。潜り込んでいた26メートルで手に持っているウエイトを鶴町に手渡して、浮上します。そんなに長く潜っているわけではないので、心配はないのですが、一応失神に備えて意識が正常であることを確かめるように脳の内側をサーチします。このように、自分の身体の部分に意識を集中して確認することを、私は自分で「サーチする」と呼んでいます。スクーバで潜るときは、心臓の鼓動や手足の筋肉などもときどきサーチします。意識はなんともないようです。ウエイトベルトをつけて息こらえダイビングをしているときは、浮上する時はベルトに手をかけていて、意識がうすれそうになったら、ウエイトベルトを外して、海底に落とします。そうすれば、意識が無くなっても沈むことはなく、 水面に戻れば意識を取り戻すことができます。これは自分でやった経験ではなくて、鶴耀一郎が教えてくれた方法なのですが。
 ウエイトベルトを26m地点で手渡して来たので、浮上速度も速く、ウエイトベルトに手をそえる必要もありません。水面に近くなったら、浮上速度をゆるめるようにします。速度をゆるめた方が、圧力変化が緩やかになり、意識を失う可能性が小さくなると言われています。ところでは問題ないのですが、ダイビングポイントなどで走ってくる船の多いところでは船に衝突しないように、浮き上がる時に船の接近を確認することも大事です。
 ウエイトベルトをつけていない浮上では、速度をゆるめることが難しいのですが、一応努力はします。手足を広げて大の字になって、抵抗を増やして速度をゆるめます。見上げる水面がきれいだと思う暇もなく、水面を割って、顔を出しました。
 赤間さんが泳ぎ寄ってきてほめてくれます。「いやー、素潜りもできるのですねえ。びっくりしました。」最大の賛辞と受け止めて、とても気持ちが良かったです。
 結局のところ、この手紙は、娘に渡したが、娘からは返事は来なかった。


0509 復刻 東京無人島紀行 2

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ところで、孀婦岩に行こうとして、台風が発生し、鳥島の島陰で停滞している、第五稲荷丸はどうなったのだ。孀婦岩には、行けたのか、それとも引き返したのか。
 
 鳥島で、何日ぐらい台風待ちをしていたのかわからない。今年、2008年、この前通り過ぎていった台風7号は、ずいぶん長い間、フィリピンの頭の辺りでうろうろしていた。だから、あの時の鳥島での待機も結構長かった。

 食事の残りは、漁船の上の生活では、思い切り良く全部きれいに捨ててしまう。残しておいたらたちまち腐ってしまう。腐ったものを食べて下痢をするのは怖い。全部洗い流すように捨てる。海洋投棄だって?プラスチックとか、ポリ袋はまだ貴重品だったし、捨てない。食べ物の残りは、海にまくと、あっという間に魚が集まってくる。20cmほどのササヨ(メジナの類)がまるで池の鯉に餌をやるように集まってくる。トローリングで大物がかかった時に掬い上げる大きな網で、伏せるように掬うと、いくらでも採れる。しかし、アンモニアのような臭みがちょっとあって、あまりおいしくない。この臭みを解消したのが、小笠原名物の島鮨だ。醤油に一晩漬けて置く。いわゆるズケだ。ワサビではなく、洋辛子で握る。大好物だけれど、自分で作るようなことはしない。ササヨなんて食べなくても、食べるものはたくさんある。船長が、ちょっとタンクを貸してと言って、背負って潜っていった。素もぐりはするけれど、タンクは初めてだと言っていた。急浮上して空気塞栓にでもなったら、船を動かす人がいない。。機関長がいるからいいか。殺しても死にそうではないから、大丈夫だろう。スカリに一杯、大きなエビを採って来た。いくらでもイセエビの類がいるのだ。それって密漁ではないのか。誰も来ない、無人島だ。売るわけではない、自分たちで食べる。誰も、採ることの無いイセエビだ。どんどん大きくなって、そのうちに、イセエビの天寿が来て死ぬ。もしも、この島に漂着して、ロビンソンになったら、密漁だろうか。どうでも良い。何も考えない船長が採ってきてくれたのだから、何も考えないで食べよう。
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 夕暮れ時、ジャズピアノをカセットで聞きながら食事をする。台風ははるかかなた、まだフィリピンだ。島陰の海は鏡のようだ。天国と言うのが、もしもあればここだ。
 目の良い赤間君が立ち上がる、カメだ!カメが夕暮れの凪ぎの水面をぱたりぱたりと泳いでくる。骨の髄までハンターである赤間君は、銛を探し始める。まだ、銛の用意ができないうちに、カメは船に近づき、コツン!と船にぶつかった。半分眠って泳いでいたのだろう。目を覚まして潜っていってしまった。
 あまり大きくないカメだった。あれはたしかタイマイだった。と、赤間君がぼやく。鼈甲のとれる高価なカメである。現在はワシントン条約で保護されている。逃がした魚は大きい、逃がしたカメは鼈甲だ。
 夜、撮影用の水中ライトを水の中で点灯すると、トビウオが集まってくる。カメラを持って水に入り、撮影する。光束に突っ込んでくる30cm大のトビウオだ。トビウオだけではなくて、そのうちに何でも集まってくる。
 その後、ニュースステーションをやるようになったが、何も撮影するものが無いと、夜の海にライトを点けて潜る。潮美のレポートと顔で、二分ぐらいは持つシーンが撮れる。その潮美はまだ大学一年生、どこかの海で、耳が抜けなくて呻吟している時代だ。

早朝、突然船が揺れだし、エンジンの音が響いた。
第五稲荷丸が動き出した。昨晩寝る時には、船長は何も言っていなかった。台風が北上を始めて、八丈島に逃げるのか。起きだして、船長のところに行く、当然みんな集まっている。船は孀婦岩に向かっている。聞けば、姉妹船の第十五稲荷丸が、今、孀婦にいるそうだ。思い切って突っ込んでトビウオ漁をしているらしい。二隻で助け合えば、少しは心強いと思ったのだろうか。南下することにした。
 このまま走り続ければ、今日一日、今晩いっぱい走り続けて、明日の早朝には、孀婦に到着する。
 夜、走りながら、全員で明日の潜水の作戦会議というのをやり、撮影した。単なる撮影の一シーンだけれど、真剣に打ち合わせをした。
 孀婦岩には東側に、ちょっとした棚がある。その棚に巨大な2mクラスのイソマグロがいるはずだ。それを狙って赤間さんが潜る。もちろんスキンダイビングで潜る。銛が刺さる瞬間はなかなか撮れないだろうが、2m級のイソマグロと、水中で引き合い、抱え込んで水面に出てくるまでのシーンはスペクタクルだろう。撮り甲斐がある。
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そして、孀婦岩は、鮫の巣窟だ。根つきの鮫だから、ホオジロとか、オオメジロではないと思うけれど、マン・イーター、人食いであるかもしれない。鮫の分け方としては、人食い鮫か、人に無害か、という分け方がある。一度でも人を襲ったという嫌疑がかけられれば、人食いと分類される。捕獲されて、腹の中から、人間が出てくれば、人食いとされる。生きている人間を食べたものか、溺死した遺体を食べたものかは、わからない。
 その頃の僕の鮫に対する知識は、鮫は何をするかわからない。あの、小さな脳で何も考えていないかもしれない。前に居るものにはすべて噛み付き、身体をスクリューのように回して引きちぎる。これは、クストーの沈黙の世界で見た鮫の姿なのだが。僕は、オーストラリアの鮫狩りで有名になった、ベン・クロップの著作を訳している。ベン・クロップは、ポップ・ガンという、散弾銃の弾を銛の先に付けたスピアで、当たるを幸いにすべての鮫を殺して、その有様をフィルムに取り、全世界に売って成功した。日本でも何回かテレビで放映された。とにかく、鮫は悪者であり、殺されれば、観客は手を叩く。特に日本人は鮫を恐れる。
 赤間さんは孀婦岩で、獲物のマグロを抱えて、鮫に獲物を取られないように防いだ経験がある。マグロを前に抱えて、背を鮫に向けて隠した。背中から噛まれるとは思わないのだろう。獲物を横取りされようとした時、獲物を手放して、とろうとした奴と闘うか、獲物を隠すかだけれど、手放せば他の鮫にとられてしまう。隠すしかない。海の中だから、隠すとすれば自分の身体の陰しかない。
 鮫にカメラを向けていれば大丈夫だろう。赤間さんの背中を噛まなかった鮫がカメラを噛むはずがない。もしも噛もうとしたら、すごい映像だ。そして、カメラには歯が立たず、逃げてゆくだろう。
 今の僕は、その後鮫についてずいぶん勉強し、経験も積み、鮫の本を出そうとしているくらいだから、当時とはまるで違う考えを持っている。しかし、孀婦岩の時は、そのように考えた。
 まずカメラを食べさせよう。
 実は、カメラを噛ませて助かった経験がある。鮫ではなくて、大きなモヨウフグだった。60センチ以上あったと思う。大きなフグだ。撮影のために接近しようとしたら、突然のように怒って襲撃してきた。撮影していた8mmシネカメラのグリップで受け止めた。カチンと音がして、アルミのハウジングに歯型がついた。フグはきっと痛かっただろう。しかし、もしもハウジングではなくて、腕で受け止めたら、齧られたにちがいない。
 フグと鮫ではだいぶ違うが、まあ良いだろう。
 ダイバーという人種は、決して自分が鮫に食われるとは思わない。日本の鮫は、日本人ダイバーを食わないと思っている。それが、大間違いであることが、後年になってわかるが、少なくとも、僕は食われない。僕が食われないことは間違いではなく、今でも生きている。
 孀婦岩に到着した。僚船の第15稲荷丸は、アンカーを入れて、大揺れに揺れている。もちろん、こちらの第5稲荷丸も揺れている。波高は2.5m以上だろう。
 ディレクターの山崎さんが心配そうに青い顔をしている。彼も後年とても偉くなった。プロデューサーの大橋さんはもっと偉くなって、紅白歌合戦で、優勝チームに優勝旗を渡していた。
 それはそれとして、山崎さんは「須賀さん、大丈夫ですかね、どうします。」波の心配をしているのだ。どうすることもできない。潜るだけだ。
 歩兵の歌というのがある。愛唱歌である。
 「バンダの桜は、襟の色、花は吉野に嵐吹く、大和男子と生まれなば、散兵戦の花と散れ」麻雀をやっていたころ、危険牌を切るときに歌った歌だ。
 鮫の海に飛び込んだ。
 流が強い、大きなカメラを押し、ケーブルを曳いて泳ぐ、当時のカメラは、VTRを船の上に置いている。周囲は鮫の群れで詰まっている。が、とにかく、赤間さんを追うだけだ。彼は空身でありスキンダイビングだから、タンクも背負っていない。ケーブル捌きを頼んでいる、八丈島の長浜君(困った、正確な名前を忘れた。タクシー会社の息子さんだ。)は片手に銛を持ち、片手にケーブルを掴んで懸命に泳いでくれる。後から僕を噛もうとする鮫がいたら、彼が追い払ってくれる。ことになっている。彼の後ろにはだれもいない。自分でなんとかするだろう。僕は前はカメラ、後ろは彼が守ってくれる。
 鮫のことなどかまっていられない。とにかく流に逆らうのが精一杯だ。鮫よりも流れが問題だ。なんとか、孀婦岩の陰までたどり着いた。その時、赤間さんの方で魚の黒い影が見えた。
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赤間さん曰く、「突き損じた。」
僕がテラスに来るのを待ったのだけれど、逃げてしまうといけないので、突いた。体の後ろの方を突いたので、銛がはねられてしまった。
 もう、他にイソマグロは、居ない。しかし、ハンティングだ。思うようには行かない。
 次の目標として、鮫を撮ろう。孀婦岩の周辺は、水深10mほどでテラスになっている。そのあたりにイソマグロもいたのだが、鮫も集まっている。鮫の種類は、後から思えば、いわゆるリーフシャーク、ツマグロとかツマジロの類だったと思う。立派な人食いである。しかし、人食いと認定されている鮫も、ほとんどの種類は人を襲わない。死んだ人が沈めば、もちろん食べるだろう。生きている人を襲うのは、グレートホワイト、ブルシャーク、タイガーシャークで、後に、それらを追い求める旅にもでるのだが、孀婦岩当時は、なにもわからない。2-3mクラスが真正面から向かってくれば、体をよけてしまう。避けながら横から撮る。後から、山崎監督に言われる。「須賀さん、カメラに真正面から噛み付いてくるカットが無いですね。」僕が憮然としていると、「いや、いや冗談です。」今ならば、こんな鮫、なんとも思わないのだが、ファーストコンタクトの当時としては命がけのつもりである。
 次に、孀婦の周囲に軍艦の観艦式のように群れてゆっくり泳いでいる鮫、これはやや小さく、1-2mサイズにカメラを向ける。鮫の群れの中を突っ切って潜ってくる赤間さんも撮った。これで撮影終了だ。潜水時間は30分も無かったと思う。
 船に上がると同時に、全速で孀婦を後にして、八丈島に逃げ帰る。
 台風は北上しては来ず、中国の方に流れた。
 帰路の航海は穏やかであり、曳き釣りの針に大きなカジキがかかって、引き揚げたり、カマイルカの大群に遭遇したり、無事に八丈に戻ってきて、東京に帰ってきた。
 ラッシュを見た山崎さんは、どうしても、赤間さんが何か魚を射つ瞬間の画がないとまとまらないという。それもそうだ。
 再び八丈島に来て、魚突きのシーンだけを撮った。イソマグロは望めない。大型のカンパチならば、八丈島周辺で撮れる。
 僕がカメラを構えて水深15mラインを行く。赤間さんは水面を泳ぐ。
 目の下、水深20mあたりにカンパチの群れが来た。僕は泳ぎを止めて、レギュレーターの排気を少し、上を向いて出す。気泡がきらきら上がってゆく、カンパチは気泡を餌の小魚だと思って下から上がってくる。上から赤間さんが降りてきて突く。僕は、30歳でダイビング指導団体、日本潜水会を発足させた時、水中狩猟をやめることを決議し、水中銃を置き、カメラに持ち替えたが、潜水の基本的教養は魚突きだ。だから、こんなチームプレーができる。
 番組は、NHKの夏休み番組として放映され、20%を超える視聴率を取った。その頃、僕はついていたから、撮るものは皆視聴率が良かった。
 その番組を見た潮美は言った。「お父さん、こんな魚突きの番組を撮っていると、若者の支持をなくすよ。」


※ そして、その年の秋、潮美たちの秋合宿で同級生が死亡した。部活は一時停止になり、その復活に努力し、なんとか復活させて、現在まで続いている。


0511 地底の湖 

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5-3  地底の湖 
  人間、勢いに乗っている時には、願っているとチャンスが向こうからやってくる。
釜石湾口防潮堤の翌年、昭和56年(1981)防波堤工事の休日にみんなで観光に行って、潜りたいねといった竜泉洞の水中撮影の依頼が、NHK仙台の大橋晴夫プロデューサーからあった。
  テレビ番組はビデオカメラで撮影するのが今の常識である。しかしフィルムのカメラから電子的なビデオカメラに移り変わるころ、報道番組やドキュメンタリーは、未だフィルムで撮影した映像をテレビ信号に変換して放送が行われていた。やがて小型と言っても、今のビデオカメラの数倍大きいのだが、小型のビデオカメラが出来てENG(エレクトリック・ニュース・ギャザリング)が主流になる、ニュースもドキュメンタリーもフィルムからビデオカメラに移り変わって行くその時期に、ナン・マタールに行き、仕事としてビデオで水中撮影を専門にするカメラマンになった。
 なけなしのお金を振り絞って、ビデオカメラを買い、ハウジングを作った。最初は、ビクターのKY-2000という、安いけれど、なんとかテレビ番組ができる画質で撮れるカメラだった。安いと言っても、レンズを入れれば150万、ハウジングの価格と、カメラの価格は、およそ同じぐらいというのが水中撮影カメラの常識だから、合わせれば300万だ。画質は多分、今のGoProよりは悪い、それでも、NHKとか、日本テレビが持っている水中カメラハウジングに比べると大きさは、三分の二くらいだ。この世界、ある程度の画質、性能があれば、小さいことは良いことなのだ。
そのカメラで、 NTVの木耀スペシャルをやり、ナショナルドキュメンタリー劇場をやり、テレビ朝日の水耀スペシャル、川口探検隊も撮った。そして、このNHKの龍泉洞も。
 NHKには、日本初の潜水指導団体である日本潜水会を一緒に始めた親友の河野、竹内カメラマンから始まって、畑中、森江、南方、蕗谷 枚挙の暇も無いくらいのベテランカメラマン、そして次のジェネレーションのカメラマン、やがて、NHK撮影班の大御所になり、残念なことに世をさってしまった木原君も、若手として、日本潜水会の指導員になってくれている。
 彼らのような、水中撮影については、僕に倍する能力があるベテランのカメラマンがいるのだが、NHKは大組織である。大きな組織には職制というものがあり仕事の分担が決められている。フィルムのカメラマンはビデオカメラで撮影することが職制上できない決まりになっていた。ビデオカメラを扱うのは、野球中継などをする中継の部署である。だから、ビデオカメラで水中撮影をするカメラマンがNHKには居ないことになった。
 その幸運な隙間の数年間で、竜泉洞と、東京の洋上に広がる無人島群のNHK特集を撮影し、そのどちらも高視聴率であった。
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         使ったカメラ バッテリーライト
   
 竜泉洞は、洞窟の中を川のように水が流れ出て、岩泉川に注いでいる。洞窟の中の川に沿うように観光用の道があって歩いて洞窟の行き止まりまで行ける。鍾乳洞は、巨大な石灰岩地形を地下水が溶かし、穿って、まるでスポンジの断面のように立体的な迷路となった洞窟がである。鍾乳洞は地球の歴史的時間の中で出来上がって行く。動物は穴があれば隠れ家とする。原始時代の人間も洞窟を家にした。穴居である。岩泉にも穴居のあとがあり、穴居人の博物館的な展示が行われている。
 水が穿った洞窟だから、人が鍾乳洞に入り進んで行くと、その進路は水に阻まれる。泳いで、あるいは潜りぬけて行かなければその向こうには行かれない。洞窟探検の一つは潜水であり、もう一つは岩登り、ロッククライミングである。障害物が水であれば潜りぬけて行き、壁であればよじ登り、人間が入れるような穴であれば身を縮めて通り抜けて先に進む。苦労して進んだ先が大きく広がる大洞窟であれば大発見である。人は、海にはどこまでも深く潜り、山があれば頂上まで上り、空には高く飛び、宇宙に飛び出し、洞窟に入れば行き止まりまで行きたい。そして、それが人の命を奪うことになる。
 この洞窟、竜泉洞に魅せられて行き止まりまで行きたいと探検を志した男が居る。古い友達であり、現在はダイビング用品メーカーとして成功している日本ダイビングスポーツ社長の松野庄治さんだ。
 松野さんが洞窟潜水探検に熱中していたのは昭和40年代である。昭和42年(1967)に行われた竜泉洞潜水調査の報告が、昭和43年(1968)に雑誌「海の世界・2月号」に掲載されている。書いたのは松野さんのパートナーであった越知研一郎氏だ。
「くぐり抜けて水深計を見ると、なんと52メートル。海でも経験したことのない深さだ。空中の6倍の水圧でウエットスーツが煎餅のように薄くなり、冷たさが身にしみる。身体の下にはぐんと深い淵。100メートルを越えそうな奈落が真っ黒く落ち込んでいる。奥へ奥へとロープを引っ張って懸命に泳いだ。松野君がピタリとすぐ横を進む。キャップランプの光がたよりない。
 ――中略―― 奥へ進もう。X洞の地点へ出て驚いた。水中にスパン!と断層が抜けている。ビルの谷間といおうか、いや大きな都市の駅前通りにいっぱい水をためたようだ。せめて15階建て以上のビルの群でないとその大きさは想像できない。
 広間だ。大地底湖だ。
 ぐんぐん浮上する松野君、かすかに水面の広がりを見た瞬間、私は急に気分が悪くなった。吐き気とともに頭も胸も苦しい。
 引き返そう。思いきりロープを引っ張って合図した。すぐUターンしたところまでは意識がはっきりしている。ロープだ。生きるためにはロープを引くのだ。目の前が真っ暗になり、ロープがクモの糸のように一筋に伸びているのだけが印象に残っている。」
 この時、越智研一郎さんと松野君は生還した。そして、彼らの見つけた幻の大洞窟をX洞と名付けた。
 鍾乳洞は立体的な迷路だ。同じ位置に行くことはとてもむずかしい。越智と松野(敬称略)のグループは、さらに調査を繰り返した。昭和43年、彼等のグループのダイバーであった高橋さんは、もう一名のメンバーを伴い調査を行った。新たな洞窟が見つかれば、観光の宣伝になる。隔てている壁を掘りぬけば、巨大な地底湖が壁の向こうに広がる。
 高橋さんは戻ってこなかった。
 鍾乳洞の潜水では、ダイバーが吐き出す気泡が鍾乳洞の壁にあたって、何万年もの間に壁に貼りついた水垢、泥のような堆積物が巻き落とされる。それまで水晶のように澄み切った水が、一瞬にして視界ゼロになってしまう。光の届かない暗黒の中での視界ゼロだ。ライトの光も全く通らなくなってしまえば本当の暗黒だ。視界を失い、出口を見出せなくなったのだろう。
 海の世界の記事を書いた越智研一郎さんも、タンカーの船底作業で生命を落としてしまった。
 巨大な高速タンカーの船底に牡蛎殻が付くと速度が落ちる。速度が落ちることは何億円もの損害になる。付着生物を落としてやらなければいけない。これが船底作業である。巨大タンカーの船底は平坦で、陸上競技場ほどの面積がある。グラウンドの大きさの屋根、しかも何の目印も無い、鉄の船底だから磁石も効かない。生命綱を曳くか、目印のために船底の「大まわし」をとる。(ロープで船底をぐるっと廻して横断させて目印にする。)入ったら出られなくなるという意味で、船底も洞窟も共通点があるが、洞窟で生き延びた越智さんは船底作業で生命を無くした。
 NHKの夏休み特集番組で、竜泉洞のX洞を目指すことになった僕は、松野さんに挨拶をしておかなければならない。様子も聞いて置きたい。友人だったから、知っていることは何でも話してくれると思ったのだが、竜泉洞については口を閉ざして何も語らない。語りたくないと言う。それでも、友達だからと、X洞入り口の部分の簡単な青焼きの図面をくれて、X洞は上の方向にあることと、上に向かう穴には全てと言って良いほど、ガイドロープが垂れ下がっているけれど、そのどれも目印にはならないと教えてくれた。つまり、ガイドロープがたれている穴は調査済みということらしい。

 それにしても、竜泉洞の奥に、大地底湖、X洞は本当にあるのだろうか。
 竜泉洞の奥、観光舗道の行き止まりは、差し渡しで15m程度、湖というよりも泉である。覗き込むと青い透き通った水が深みから湧き上がっている。湧き上がると言っても、強い流れではない。潜るのに何の支障もないような湧き上がりだ。ここから潜り込んで壁をくぐり抜ければ、本当の大地底湖がある。はずである。
 潜水メンバーは、河合、井上、田島、米田、鶴町、そして須賀だ。スガ・マリンメカニックのベストメンバーだ。それに、見習いの堀部を連れて行った。堀部は歩行者天国で踊っていたロックンローラーで、食べさせればいくらでも食べる力持ちだ。洞窟の中での荷物運び要員であるが、ダイビングでも使えないことは無かった。殺しても死にそうに無いずうずうしい奴だ。こういう性格がダイバーには向いている。やがて、数々の武勇伝を残してスガ・マリンメカニックを去り、父親の後を継いで成功し、青年会議所のメンバーにもなったが、お中元一つ、お歳暮一つ、送られてこない。
 まず水面からホースで空気を送るフーカー式潜水で潜ろうと計画した。洞窟での事故は、迷路に迷い、空気が尽きるために起こる。ホースで空気を送る潜水ならば空気が無くなることは無い。ホースは水面から空気を送っているのだから迷うことも無い。僕たちは釜石湾口防波堤の深い潜水では、ホースを使うバンドマスクのフーカーを使っていた。その機材と技術でX洞を目指せば行けるにちがいない。
 水に入り竪穴を降りて行く。水深35mで竪穴の底に着く。斜め下方に向かって急角度に降りている洞窟の奥にカメラを向けて、500ワットの有線ライトで照らした時、人生観が変わったと思うほどの衝撃を受けた。潜ってすぐのこの場所でも、地底の湖だと感じ取れる。陸上の空気と同じほどの透明度で光が通っている。そして透明な青、河合が別の有線ライトを持って先に進む。太鼓橋のようなブリッジが20mほど先にある。その地点までライトを進めて、ブリッジにライトをくくりつける。
 ダイバーはシルエットになり、気泡がライトに照らされて、光り輝きながら上に向かう。、ブリッジの下をくぐりぬけると、先には青黒い暗黒が下に向かっている。ブリッジの部分を第二ゲートと名付けた。
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 衝撃を受けた光景を映像にしたい。美しい映像を作るためには三次元的なカメラの動きが必要だ。ホースでは自由な動きが出来ない。自由に洞窟の空間で動くためには、ホースがどうにもならないほど邪魔だ。フーカーのホースはあきらめて、全てスクーバで行くことに決めた。ホースはX洞への通路に入るときから使えば良い。
 自分で撮る映像に、自分で魅せられてしまい、いくらでもテープをまわしてしまう。映像も大事だが、ほどほどにして、X洞への通路も探さなくてはならない。天井と呼んでよいのかどうかわからないが、天井にも下にもいくつもの、人間がようやく身体を突っ込めるような隙間がある。まるでスポンジのようだ。スポンジの隙間全部に入り込んでみる時間は無い。テレビ番組のロケだから、時間には限りがある。
 松野さんがくれた図面は、水深50mあたりから上へ向かう通路になっている。黙して語らない彼を拝み倒すようにして教えてもらったことは、穴の中を上に向かって行くと5mか6mで行き止まりのようになる。行き止まりの壁を左の方に、ダイバーがタンクを背負ってようやく入って行かれるほどの隙間のような通路がある。少し苦しいけれど何とか入り込んで2mほど進むと突然のように大きく開けて、そこがX洞だ。「大丈夫だよ、何とか行かれるよ」と教えてくれた。
 その言葉を念頭において、探す。
 鶴町は通算9回目の潜水で、第三ゲートを少し越えたあたりに人間がようやく入って行かれるような穴が上に向かっているのを発見した。
 次の日、6月24日、河合がカメラを持って行く。鶴町が見つけたと言う上に向かう穴を探すのだが、同じ場所に行かれない。行っているのかもしれないが、同じ穴なのかどうか区別がつかない。皆同じような穴に見える。松野さんたちは、多分、ある程度のところまで身体を入れ、先が開けないので、ロープをそのままにして戻ってきているのだろう。こうしておけば、同じ穴に二度入ることはない。そんなロープが上の方からいたるところに垂れ下がっている。僕たちは、見たという目印のロープを用意していなかった。ロープの先に浮きをつけて、上向きの穴に入れて浮かせれば良いのに、それをやらなかった。後の祭りだ。
 通算11回目の潜水は、須賀がカメラを持って撮影した。第二ゲートと第三ゲートの間あたりに、上に向かって、ダイバーが入って行けるか行けないかぐらいの大きさの穴を二箇所発見した。一箇所には、一度入ったという印のロープが吊り下がっている。もう一箇所がちょうど55mだ。上に向かっている。これに違いないと思った。しかし、入り込むには空気が不足している。スチル写真を撮り、思いを残して立ち去った。
 第三ゲートにくくりつけておいたライトを外して、下に降ろして見た。有線ライドだからあとで引き上げることができる。ケーブルを全部延ばすと、はるか下の方まで輝きが見える。ぽっかりと下に向かって開いている洞窟で、ライトが点のようなった。本当に透明なのだ。第三ゲート、鶴町の探した竪穴は水が濁ってしまっている。昨日の今日だから24時間以上経過しているのに濁りがとれていない。これがX洞ならば、中から水が流れ出てくるはずだから、ここではないだろう。

 6月25日 
 通算第12回目の潜水。河合、田島が撮影に入ったが、水面の基地においてあるVTRのトラブルで撮影出来なかった。
 とにかく潜降を続けた彼等は、洞窟は水深68mで行き止まりに見える。 この通路は、水深70mで底になっていると報告した。
 続いて通算13回目の潜水を鶴町、井上、米田で行い。水深55mで上に向かうたて穴を見つけた。二人は、この穴がX洞への通路だと言い張る。多分私の見た穴とおなじだろう。
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 6月26日
 6月19日から潜水撮影を開始したのだから、8日目だ。これで予定していた日数が尽きてしまう。とにかくこれで撮影終了である。。
 テレビ番組だから、何か山場を作って盛り上げて終わらせなければならない。あと一回だけの潜水だ。水深50mを越えるから、あれもこれもは出来ない。55mで上に向かう穴がX洞への入り口であったとしても、あと一回の潜水では、入って行くのは無謀だろう。それに、垂下がっているロープは当てにするなと言っても、これがX洞だという印をなにも付けないとはおかしい。X洞ではない可能性も大きい。
 一日前の潜水で、河合と田島は、水深68mで行き止まりになっていることを発見したという。底があるのならば底を極めよう。と相談がまとまった。最後の一回の潜水で、狭い穴に入り込んでゆくのが怖かったこともある。僕たちにも恐怖心はある。
 68mは深いけれど、釜石湾口防波堤の潜水で、深く潜ることはなんともないという心境になっていたから、深さについては、怖くない。行けるところまで行こうと皆が思った。
 最後の潜水だから、水面の基地で指揮をする米田を残して全員が潜水した。須賀がカメラを持ち、先行してルートを調査するのが河合と鶴町、彼等が確信している68mの底まで行こう.
。後方でビデオ信号のケーブルをさばくのが井上、田島、堀部だ。
 地底湖での潜水では、なぜか窒素酔いは軽い症状だった。少しおかしい感じぐらいで終わって居る。何故だろう。淡水で、しかも水が冷たくて8度だからか?
 一回一回の潜水ごとに重いカメラを水面まで引き上げるのは面倒だから、チムニーを降りた水深35mのところに、カメラを置き放しにしておいた。そのころの放送規格のカメラは、カメラとVTRとは別になっていて、水面の基地にVTRを置き、ケーブルで電源を送り、信号を受けて、基地で録画しているから、電池の交換、テープの交換は必要ない。カメラは水中に置いたままでも良い。
 潜っていって、水深35mで有線通話機のレシーバーとマイクを耳に付けて、カメラをかまえ、さあ行くぞ、と気持を引き締めたとき、意識の中で水深のカウンターはゼロにもどっているのではないだろうか。水深35mでカメラを持ち、それから20m下がれば55mだが、本人は20mしか潜っていないような錯覚を起しているのではないかと考えた。
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 とにかくこの時の潜水まで、窒素酔いは少しばかりいい気持になるだけで、不快感もなければ、意識が途切れることも無かった。
 どんどん潜って行って60mを越えた。すぐに70mだ。おかしい。70mあたりに底があるはずではなかったか。下を見ると、直径で10mほどの竪穴が真っ直ぐに下にむかっている。青黒い透明で、下の深さはどのくらいあるかわからない。70m地点で底なしの穴の中空に浮いている。深くてウエイトがオーバーになっているのでどんどん沈んで行く。サーチに出ていた河合と鶴町が戻ってきて、僕の腕をつかんで引き上げにかかった。到達地点で水深計の指針をカメラに収めようと思った。なにか水深の証拠が撮れなければこの潜水は終わらない。私は腕を振り解いて、その水深で停止しようとする。彼等は上に引き上げようとする。しばらく格闘が続いた。ようやく水深計をファインダーに入れたが、まだ彼等は一番深いところで水深計を撮影するという意図を理解してくれない。ようやく鶴町の水深計をつかんでカメラの前に持ってきて、意図を理解させた。その時は少し浮上してしまっていたので、再び下に戻った。水深計の指示は73mを示していた。なかなかピントが合わない。そのうちに面倒になった。カメラを静止することなど、この水深ではできない。撮影したテープの方で静止させれば、良いのではないか。それなりに、なんとかピントを合わせて浮上のサインを送った。それからが早いこと。あっという間に水面に向かって駆け上がった。用心のために減圧停止を長めにしてから浮上する。
 あとで計時を調べてみると、潜降を開始してから73mまで潜り、浮上して減圧点に戻るまで、3分弱しか経っていなかった。一分間に10mの率どころではない、一分間に50m以上も浮上している。そのころは未だ、停止点までは、早く上がっても良いと考えられていて、急浮上していた。その後、浮上の途中で減圧症になるダイバーが多くなり、深く潜った場合には、カタツムリが這うようにゆっくりと浮上しなければならないことになった。まだ、ダイビングコンピューターも無い時代だ。
 撮影が終わっていないのに、何故引き上げたのだと、彼らを問い詰めると、その時の僕の顔は、目が点になっていて、つまり視野狭窄の状態で、潜水を続けたら危ないと思ったのだそうだ。お互いに、水深50mを越えたあたりからは、きっと同じような顔、窒素酔いの顔をしていたのだろうが、これまでは、顔と顔を合わせたことが無かったのでわからなかったのだろう。彼らがターンして引き返して来たので、降りてゆく僕と顔を合せることになった。
 地底湖は、50mから60mの途中で、左右に二股に分かれていたのだ。鶴町と河合は前回の潜水で、わき道にそれてしまって底についた。今回は本筋を行ったので底がなかった。それにしても本筋に行ってよかった。枝洞に入って底を発見したなどと番組で放送したら大恥をかくところだった。本筋の竪穴の底の深さはどのくらいあるのだろう。200mなのか、それとも数千メートルなのだろうか。さしわたしが10mを越えていて、深さ数千メートルの竪穴、それはそれで巨大地底湖と言えるだろう。
 僕たちは、国内の鍾乳洞で水深73m潜水の記録を樹立した。というと聞こえは良いが、73mまで墜落したのだ。
 NHK夏休み特集「地底湖の謎―謎の大洞窟」は昭和56年8月20日に放送され、巨人対広島の野球放送の裏で、28%の驚異的視聴率を上げた。後に出世コースを驀進した大橋プロデューサーは、いつもこの視聴率を後輩に成功例として例にあげたそうだ。
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 龍泉洞を潜った、僕らのチームこの中で、もう、鶴町、米田、田島は、世を去っている。
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      この穴も向こうに巨大な地底湖がある。と思った。

 鍾乳洞というのは、人を引き込む魔力があるらしい。その洞窟が自分の洞窟だと思いこんでしまうのだ。これは、もしかしたら遠い祖先、人類が穴居生活を送っていた原始のころの記憶がどこかに残っているのかもしれない。人は洞窟の中に身を隠すとほっとする。
 この撮影に参加したみんなが竜泉洞は自分の洞窟だと思いこんだ。もう、あと一息でX洞が見つかるところまできている。あと一歩だ。この撮影をあと一週間続けられたならば、そして一度東京に帰って器材の整備と点検をして仕切りなおしができるならば、行けていたと思った。
 
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     沼沢沼揚水発電所取水トンネル、
     この底に見えるのが水面で、そこから潜って水深30m
     横に400mのトンネル 取水口だ。
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 次の年、昭和57年3月、東北電力の依頼で、福島県沼沢沼水力発電所の取排水トンネルの調査を行った。天然の鍾乳洞に引き続いて人工の洞窟である取排水トンネルだ。
 沼沢沼は会津若松から只見川を遡ったところにある。雪深いところで、3月には未だ2m近い積雪が残っていた。この発電所は揚水発電所である。水力発電は、山の上に溜めた水を落として、タービンを廻して発電する。揚水発電所とは夜間に電力消費が少ない時に、タービンを逆に廻して、発電で落とした水を逆流させてもう一度山の上の沼に引き上げる。昼間の電力消費の多い時間帯にまた落として発電する。水を揚げたり落としたりするトンネルには巨大な力がかかる。トンネルに亀裂などが無いか、詳細にビデオカメラを使用して撮影調査をするのが仕事だ。トンネルの全長はおよそ400m、出入り口は片側だけ、水深はおよそ30m、水位が低くなっている3月でおよそ25mだ。水温は3度だ。竜泉洞のような湧水ではなく、沼に溜めている水だから温度が低い。
 ホースもない、ラインも引いていない状態でトンネルに入ると、どちらが出口か完全にわからなくなってしまう。
 暗くて、視界の良くない水中では、直径3m以上のトンネルは、ただの壁に見える。壁に手を触れながら泳いで行くと、自分の身体も回転してしまうので、どちらが出口かわからなくなる。先端に向かって太いホースに沿って泳いでいても、はてな、と思うことがある。これで先端に向かっているのだろうか、それとも後戻りしているのだろうか。チョークで矢印を付けながら進む。自分で書いたその矢印も、この矢印は、入り口に戻る矢印だろうか、先に進む矢印だろうか疑いだしてわからなくなる。
 鶴町と井上が入社したばかりの時だった。長野の山の中にあるダムのトンネル調査に、ある潜水会社の手伝いに出した。まだ、プロになりきっていない大学を出たばかりの彼らであった。二人に年配のダイバーを加えて3人でトンネルに入った。年配のダイバーは、フリーランサーであった。監督をする社長は水面にいて、ダイバー三人との間は、命綱ロープで繋いでいた。無事に作業を終えて一旦出てきたが、トンネルの中に工具を忘れた、ちょっと取って来ると言って、年配のダイバーがトンネルに戻っていった。これがトンネルや洞窟死亡事故の古典的パターンなのだが、若い二人にはその知識がない。奥に戻ったダイバーはそのまま帰らなかった。何分待っても帰えらないので、ロープを身体に結び付けて、捜索に向かった。入り口から30mほどのところで沈んでいて、息を吹き返すことは無かった。多分、どちらの方向が出口なのか分からなくなったのだ。
 同行していた潜水会社の社長は、遺体と鶴町、井上を車に乗せ、ダムから下った。途中、車を止めると、社長は狂ったようにお題目を唱え、死んだダイバーの道具を谷底に投げ捨てた。しばらく狂うと、けろりと直って再び車を走らせた。その後もなんとも無く、仕事を続けたし、遺族が訴えるようなことも無かったらしい。
 何の目印も無いトンネルは恐い。
 沼沢沼では、太いホースをトンネルの奥まで引き込み、先端で細いフーカーホース四本に枝分かれさせるシステムを考えた。スクーバタンクを背負って、スクーバで呼吸しながら先端に向かう。枝分かれしたホースの先端は、水中で取り付け取り外しができるカプラー(接合金具)でフルフェースマスクに繋ぐ。そのままホースからの空気の供給で作業を行い、帰るときはホースを切り離して、スクーバで呼吸して戻る。太いホースを次第に先に進めながら撮影作業を進めて行く。太いホースには、20m間隔でマイクが付けられていて、水中で音を拾う。もちろん、フルフェースマスクには通話機のマイクとレシーバーがつけられていて通話することができるが、ホースを切り離す時にマイク、レシーバーの通話線も手放してしまうから、音信不通になる。そこで、ダイバーが着けるマスクの通話装置とは別に、太いメインホースにレシーバーを付けてトンネルの中の音を拾うことができるようにした。このレシーバーで30m以上先の音を聞くことができた。レシーバーに次第に接近してくるダイバーの呼吸音、やがて前を通り過ぎて、次第に音が遠くなってゆくと、次のレシーバーにダイバーが接近してくる音が聞こえる。ダイバーの動きを音で確認することが出来た。レシーバーはスピーカーでもあるから、水面からの指示を送ることもできる。
 沼沢沼で全ての作業が終了して、ホースの引き出し作業をした。何人かがトンネルに入った。引っかかったら担いで出すためだ。何の障害も無く、するすると引き出せた。
 ホースを完全に引き出した後に確認すると、未だ一人トンネルの中に残っていると言う。ベテランの太田さんが工具の忘れ物が無いか確認に戻ったと言う。あの時と同じではないか。血の気が引いた。そんなことが無いようにと生命線のホースを引いたのに、すべてが終わった後で、命綱無しでトンネルにもどる。古典的な事故のパターンだ。
 幸いにも、やがて太田さんは戻ってきた。
 沼沢沼に潜水した方法で竜泉洞を探ろうと思った。入口から水深60mまで潜って、X洞を見つけて、X洞の竪穴を水面まで60m浮上しても合計で120mだ。沼沢沼のシステムはホースの長さが、400mある。ホースの先端部で呼吸している限りは迷うことも無いし、空気が切れることもない。もちろん電話も通じさせておく。山登りで言えば極地式のようなシステムで潜れる。沼沢沼の工事に参加したフリーのプロダイバーにも話したら、皆、やりたいと竜泉洞を楽しみにした。
 何通も企画書を書いた。NHKは続編はやらない。その代わりではないが、大橋プロデューサーは、次の企画、東京無人島紀行の撮影をさせてくれた。
 昭和60年、某局の開局記念番組に採用がほぼ決まった。本当にX洞があるのかどうかを聞かれた。「あります。」と言い切れば良かったのだろう。テレビとはそうゆうものだ。NHKだって、X洞はあると信じて僕たちを潜らせたのだから。
 「あります」と言い切れなかった。あるかどうかわからないと言う理由で最終的には没になった。
 私はその後、ニュースステーションの成功などで乗っていて、忙しさにまぎれて竜泉洞はそのままになった。
 その後、アメリカでは洞窟潜水がテクニカルダイビングの名前で盛んになり、親しい友人の佐藤矩朗氏から、2000年、フロリダでケーブダイビングに実績のある、ラマール・ハイレスというテクニカルダイバーが潜水調査を行うという趣意書をもらった。佐藤さんから、X洞発見の知らせはもらっていない。
 この趣意書でも、ラマール氏のスケジュールでは、潜水日数は7日になっている。7日では無理だ。X洞があるのか無いのか、はっきり結論が出せるまで徹底的に潜らなければならない。
 2001年、書きまくって諸処に提出していた企画書に電通が興味を持ち、企画書の再度提出が求められ電通からNHKに企画を通すことができそうだった。しかし、NHK撮影班がフロリダで洞窟探検をやる。同じようなことを同じ年内にやることはできない。僕の企画は溶けて消え,僕の龍泉洞も終わった。

 ※ その後、佐藤さんの龍泉洞も終わりになり、PADI時代に親しくなり、アメリカに行っていた久保君がテクニカルダイビングの線で、龍泉洞にかかわることになり、僕に仁義を切りにきた。それが縁で、久保君とは日本水中科学協会を一緒にやるようになり、久保君の龍泉洞調査の結果を日本水中科学協会のシンポジウムで何度か発表してもらった。現在進行中の「リサーチ・ダイビング」でも龍泉洞について書いてもらう予定でいる。 
 大きなビルがすっぽり入るようなX洞は、存在しなかった。ただ、僕のダイビングでの行き止まりにちかいあたりから、上に昇って水面に出て、錯綜した洞窟の繋がりに出て、観光洞の行き止まりに出ることができる。
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     僕らが想像していた地底湖

 結局、ビルが入るような巨大な水中洞窟とそれを浮上して、上陸することができる巨大な洞窟は、越智さんの窒素酔いから来た幻想だったのだろうか。
 昭和43年(1968)に雑誌「海の世界・2月号」に越智さんが書いた巨大な水中洞窟は、窒素酔いからの幻想だったのだろう。しかし、それとは別に、僕らが73mまで潜った垂直の洞に横穴があり、その向こうに巨大な洞窟があるかもしれない。今、地下水の調査でかかわっている産総研の丸井さんんが地磁気で山の上から調べた結果、山の中の地下には大きな空洞があるらしいという。
 いま、メキシコのセノーテが、親しくさせていただいていた、三保先生らの活動もあり、その美しさから観光ダイビングとしても、脚光を浴びている。これら、セノーテは、横に長く伸びている行き止まり化、抜け出るところの探査は1000m単位だが浅い。龍泉洞は100m単位だが、垂直方向である。200mであっても、水平に200mと垂直に200mでは、それが水中であれば、様相、状況は全く異なる。200mは短い距離だが、垂直ならば、水深ということになる。垂直に1000mの洞窟に降りて行く、というのも、それはそれで、一つのロマンではあるけれど。


0531 「要約すると」 1

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「要約すると」 1


 ずっと、自分の潜水人生を振り返って見て、流れというか、逆らえない何かに導かれるように、その場所、位置に行ってしまう。
 大学時代に読んだサマセットモーム、「月と6ペンス」だったか、「要約すると」 だったか、その両方だったか、人生は経糸、横糸を紡いで、一つの絵柄を作っていくようなもの、モームはタペストリーと表現していたように覚えているが、
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 1963年、100mを目指した時、送気式、全面マスクを選んだ。フルフェースという言葉はまだ、なかった。そのマスクにレギュレーターをつないだ。そして、それを題材にして、テレビ番組を作ることんなって、監督(ディレクター)から水の底からの声、音声が無ければ番組は成功しないと言われて、東亜潜水機で水中電話機を担当していた、片多さんにお願いして、ヘルメット式潜水機につけていた水中電話機の改造型をつくってもらい、海底からの声、つまりレポートを上に上げた。93mで、意識を失って落下してくるバディの舘石さんをつかんで「舘石さんを上げてください」と絶叫して、命綱を引き上げてもらった。このレポートが効いたのか、番組のタイトルは「命綱を降ろせ」となった。意識を失った原因は、窒素酔いだか酸素中毒だったか、わからないが、93mが到達水深だった。

 このフルフェースにレギュレーター、デマンドバルブを付ける方式は、職業潜水のスタンダードになるのだが、それを完成させずに東亜潜水機を退職してしまった。本当に申し訳ないと思って、トラウマになっている。今朝(2020年5月16日)東亜潜水機の三沢社長が夢に出て来た。社長はゴムの配合をしていた。「須賀君88歳になったよ、」と言った。はっきり覚えている。僕は今85歳だ。八十八、末広がりが二つ重なって縁起の良い数字だが、僕はそのあたりで、世を去るのだろうか。


 そして、時は流れ、1980年、釜石湾港防潮堤工事で、水深60mの作業をして、フルフェースにデマンドレギュレーターを付け、ホースで空気を送る、カービーモーガンのバンドマスクシステムを使った。本来ならば僕が開発していなければならなかったシステムだ。
 親しい友人の武田さんが作った会社 ダイブウエイズに僕は役員として参加していて、そのダイブウエイズで、フルフェースにマイク・レシーバーを付けるシステムの開発をお願いした。釜石の後に、龍泉洞、そして沼沢沼揚水発電所の取排水トンネルの工事で、有線の水中電話を使った。マウスピースでしゃべっても、意味は通じるのだが、もこもこ声である。
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 そのころ、僕が1963年の100m潜水をやった前年の生まれた娘の潮美が大学生になり、法政に入り、アクアクラブに入部した。
 彼女は小さいときに何度も中耳炎を患ったことがあり、そのためか耳ぬけが悪かった。夏の八丈島合宿でようやく耳抜きがよくできるようになり、素潜りで10mできるようになった。「夏の合宿で、一番伸びた。」と先輩に褒められたと喜んでいた。
 そして、その秋の合宿で事故が起こる。
 そのころ、僕らは泳力こそが、泳ぐ潜水であるスクーバダイビングの能力の基であると考えていた。その泳力のテストで同学年の男の子が亡くなってしまう。
 部活は、活動停止状態になる。
 せっかく習い覚えた、しかも鍛えた泳力を無にするのはもったいない。僕の撮影の助手をさせることにした。
 父親にとって、自分の娘とともに仕事の旅をすること、しかもそれが、自分が選んだダイビングであること。それ以上の幸せは、ちょっと見つけられない。今もはっきりと思い起こせるシーンがたくさんある。
 石垣島で追い込み網の撮影をした。そのころのビデオ撮影は船の上にビデオレコーダーを置き、ビデオカメラとの間をケーブルで結んでビデオ信号を送り録画する様であった。ビデオレコーダーをハウジングに入れて水中に持ち込めば、自由に泳ぐスクーバで行ける。ビデオレコーダーをハウジングに入れたのは、僕ら、スガ・マリン・メカニックが一番早かった。ハウジングを作るメーカーから撮影に転じたからであり、そのハウジングの類を次々と作ってくれたのは、自分も役員に名前を連ねていたダイブウエイズであった。
 そのころのビデオレコーダーは、大きな箱型で、ずいぶんと重かった。水中だから浮力はゼロにしているので、水中で重さは無いが、質量は大きいから引っ張って移動するのは泳力が必要になる。
 追い込み網は、穫ろうとするグルクンの群の泳ぐコース、追っていくコースの前方に追い込む箱のような網、つまりポータブルの定置網を張って、ダイバーがスルシカーと呼ぶハタキのようなヒラヒラのついた棒で追い込んで一網打尽にする。追い込むダイバーは、グルクンの群と一緒に、時には前にでて追わなくてはならない。つまり、逃げまどう魚と同じ早さで泳がなくてはならない。それと、同じ早さでカメラを持つ僕、レコーダーを引く助手の潮美が泳がなくてはならない。潮美は水泳選手体型ではない。普通の女の子だった。
 追い込み網の親方に褒められた。「お姉さんすごいね。漁師になれるよ。」同期生が亡くなった立ち泳ぎトレーニングが役にたっている。
 沖縄では久高島のロケ、小笠原のロケも助手を務め、冬には知床ロケに同行した。
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丁度そのころ、フルフェースマスクにマイクを仕込んで水中からのレポートをするシステムの開発をダイブウエイズで進めていた。作業ダイビングの世界では、釜石湾口防潮提工事で、使ったカービーモーガンバンドマスクで通話が出来たし、シートピア海底居住でも普通に使っている。そもそも、ヘルメット式潜水機には水中電話が使われている。

 それをテレビ番組で使う発想は1963年の100m潜水で、TBSの竹山ディレクターから、テレビ番組はレポート、声がなければ持たない。いくら珠玉のカットを撮っても、ニュース性、話題性がなければ、それはフィラー、天気予報の背景にしかならない。水中からの現場の声、つまりレポートが必要と言われたことにあった。
 なお、一方では何の意味もない、ただ美しいだけの映像を動く壁画、動く絵として部屋に飾り、見るともナシに見ていて癒しにするという環境映像も創られるようになり、その撮影にも関わり、熱中するのだが、テレビ番組としてはレポーター、実況を報告するアナウンサーが実像として其処にいて、しゃべっている必要がある。彼が、彼女がテレビ画面の中にいることで、放送が成立するのだ。
 カービーでも出来ないことは無いのだが、工事ダイバーがレポートしているイメージになってしまう。
 
この項続く

0601 慶良間からの中継

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 陽圧ガスマスク


そのころ液化ガスを貯留している巨大な球状のタンク、工業地帯では見ることが出来るのだが、京葉工業地帯にある野球グラウンドほどの大きさのタンクを内部から点検する仕事が発生した。作業は、窒素ガスを巨大タンクに充填して、その中に人間が入って、溶接面などに亀裂が無いか点検する。
 なにしろこの巨大球状のタンクが大地震などで破壊され、ガスが漏れると、ガスは空気よりも重いので地を這う。海ならば水面を這う、水面を這って広がり、それに引火すれば、東京湾は火の海になる。ガスタンクが球状をしているのは紙風船の原理、紙風船はポン!と突かれればその部分が凹んで、破裂しないで舞い上がる。この巨大球状ガスタンクは、ステンレス製の紙風船で、土台の上に載せられている。地震が起きればポン!と突かれて、ある程度凹んで破裂を免れる。本当だろうか、計算通りに凹んでいるだろうか、中に人間が入って撮影して調査しなければならない。沼沢沼揚水発電所の中に潜って調べたのと同じようなものだ。
凹みを見るために、なかに圧力をかけなくてはならないのだが、巨大球タンクに空気を充てんするのは、費用が掛かりすぎるので、窒素を充てんする。液化窒素から充てんすれば安上がり、らしい。窒素は完全な無酸素だ。その中に入るためには、陽圧のフルフェイスマスクを着ける。陽圧とは、環境圧よりも高い圧力という意味で、陽圧ならばマスクから外に空気は漏れ出すが、外からマスクの中に無酸素の窒素ガスが入ってくるおそれはない。この仕事、日本アクアラングから親会社のテイサンに転じた、石黒さんから来た話だった。親会社から子会社に出されるのは、栄転ではないが、子会社から親会社に引き抜かれるのは異例のことで、栄転だった。その関わりで、その後のヘリウム潜水のヘリウムはテイサンから石黒さんルートになり、後の僕のヘリウム潜水は全部このルートになるのだが、窒素ガスもテイサンの仕事だった。
 窒素ガスの中に潜るのは、陽圧マスクを使ったとしても、命が危ない。1000万近い収入になる。そういう仕事大好きだった僕は、即飛びついた。残念なことに、窒素環境に潜水?ではないけど入る仕事は結局パーになり、窒素の代わりに水道代はかかり、時間はかかるにしても、窒素との価格差はそれほど大きくないということで、水を満たすことになり、結局は潜水の仕事になり、収入の〇は一つ減って、100万円代の仕事になったが、やらせてもらった。
 そして陽圧マスクが残った。

 僕と並行するように、NHKの河野祐一カメラマンが水中レポートを追っていた。かれは、オーストラリアロケで、口と鼻だけを覆う、通称モンキーマスクで、カメラで撮影しながらカメラマンがレポートするシステムで撮影をした。その河野がダイブウエイズに来て、この陽圧マスクを見つけてしまった。ダイブウエイズにとっては、身内(役員)の僕よりも、お客様であるNHKをないがしろにするわけにはいかない。それに河野は、日本潜水会ほ発足時からの指導員が、僕の親友である。僕と河野は、全日本潜水連盟の発足と同時に、全日本コイコイ連盟というのを結成した。指導員講習の夜、花札のコイコイをやる連盟である。僕らは若かった。若さとはバカさでもある。そんな仲である。
 水中レポートは、資力に勝る、NHKの方が先行して、日本の潜水界初、テレビ放送界初の水中と陸上を結ぶ中継は、NHKがやり、たしか石垣島の海底とスタジオを結んだ。その時の水中レポートは、目方頼子アナウンサーで、彼女がフルフェースを使った水中レポーターの第一号でもある。
 その目方さんは、彼女が上智大学の学生だったころ、日本軍戦士グアム島生き残りの横井庄吉さんのサバイバル生活を題材にして、横井庄吉と7人の女の子の無人島生活、という飛んでも番組で一緒になって、7人の女の子のうちで、ただ一人ダイビングができる子だったので、モデルになってもらった。人間関係というものは、綾のように入り組む。


  そのころ撮影の仕事をさせてもらっていたのは、日本テレビの山中プロデューサーで、知床のキタキツネ物語では、冬の流氷に潜ったし、ポナペのナンマタール遺跡、アラスカ、ガラパゴスなど世界の海にご一緒して水中撮影を担当した。当然、水中レポートの話も山中プロデューサーに持ち込んだ。マイクの改善、通話システムなどは、日本テレビの音声技術と一緒に開発した。
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 そして、この結実で、1985 年2月、沖縄は慶良間の水中と、北海道札幌の雪まつり会場、そして日本テレビスタジオの徳松アナウンサーと結んだ三元中継を行った。なぜ、北海道札幌か?、山中プロデューサーは、キタキツネの親子を追うテレビ番組制作の状況を四季を追って書き、朝日ジャーナルのノンフィクション大賞を受賞し。「シルエトク:地の果てるところ」という単行本を出した。その中で北海道斜里の定置網漁の若手ダイバーたちが活躍する。ぼくらの流氷の潜水、撮影もこの斜里の仲間が一緒に潜った。その中の一人、佐藤雅博が、慶良間の海で僕らと一緒に潜り、札幌雪祭りの会場に来ている家族と、水中でサプライズの対面、会話を交わす趣向だった。
 潮美も出演したが、まだメインの水中レポーターではなく、脇でささえるレポートをした。この水中とスタジオを結ぶ中継はNHKに先を越されているので、僕らは日本民放初というタイトルになった。
 別の番組で、知床の流氷撮影があり、ダイビングのできる若い女優さんをレポーターにしたが、その合間にアシスタントとして同行させていた潮美を氷の下に入れた。親バカの目かもしれないが、明らかに潮美の方がよかった。
 1986年、潮美は大学4年になり、就職は、当然日本テレビにと撮影スタッフたちは勧めた。しかし、アナウンサーの訓練も受けていない。一般入社では狭き門だし、万が一合格しても水中レポーターなどという職は、存在しない。就活で、たしか東京スバルだかに望まれていた。
 そして、その秋(1986)
 テレ朝の新しいニュース番組、ニュース・ステーションで、新しい試みとして日本の自然を紹介する15分程度のコーナーが設けられることになり、マチャアキ海を行くのプロデューサー 田島さんを通して応募して、東京湾を取り上げることになった。そして、それを水中レポートする、レポーターとして、今お台場を一緒にやっている風呂田先生(当時東邦大学講師)を起用した。
 これが、まずまずの好評で、第二騨が、そしてうまく行けばシリーズになる、僕は流氷を、水中レポーターに潮美を起用することを提案した。
 

0602 お台場調査ログ

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ブログはログ、記録と書こうとしている本の下書きのつもり。コロナで自粛だから、自分のログは(ダイビング)だから、あまり大っぴらにできない。なので、ログはあまり書いていない。しかし、ログがないと後で困る、
 そろそろログを書こうとするのだが、
 目下のところ腰痛である。タンクを背負うのが辛い。日本水中科学協会のメンバーだから、手助けしてくれる。僕がエントリーする手助けが2名必要である。情けないことだが、やむを得ない。
水中にエントリー、進水してしまえば、エキジットまでの航海は問題ない。
 
 オリンピックのおかげで、お台場に潜れなくなっていた。お台場でトライアスロン競技をやるために、海浜公園を一大改造する。その工事のために中に入れない。一方で港湾局は、お台場を含めた海浜公園の環境の保全、生物が生きる環境の保全と向上に熱意を持ち、様々な試みをしている。僕たちのこれまでの活動の方向と合致している。
 これまでの成果をアッピールして認めてもらい、お台場をはじめとする東京港の海浜公園の生き物調査を支援していただき、こちらからは資料を提供する態勢を作り、固めて行きたい。
 個人的なことだが、自分に残された時間は、わずかである。その間にできるだけのことをしたい。
 これまで23年間、お台場で、調査という名目のダイビング活動を続けてきて、調査報告書も4回出していて、特に最新の2017年版は、お台場という場所の生き物環境をアッピールする資料として、成果がある価値のあるものだったと思う。
 自分たちとしても更に向上し、さらに貢献できる形を作り継続して行きたい。
 お台場と言う環境でこれまでやってきたことは、東邦大学の東京湾生態系リサーチセンターが、調査研究を行いそれを日本水中科学協会がバックアップと称して遊びのダイビングをやってきた。遊びというと価値のない物のように聞こえるが、そんなことはない。今日ダイビング業界と呼ばれているものの90%(適当な数字、だが、ほとんどすべて、という意味)は、遊びのサポートであり、遊び・レクリェーションが社会の活力を作り出していると共に、大きな産業になっている。
 その遊びと調査研究を結びつけて行こうとするのが、日本水中科学協会のコンセプトの柱の一つである。
 調査研究と、ひとかたまりに表現した。密接なものだが、分けて考えると、調査とは、現状、現在ある姿を調べ記録する。すなわち、「どうなっているか」である。それが、なぜそうなっているか原因を追求すると研究になる。どうなっているかの原因を類推して発言することまでは、調査の分類に入るが、それを確認するのは研究である。はっきりと線引きできるものでもないが、そういうコンセプトで、自分はこれまで、およそ60余年調査を仕事にしてきた。
 仕事、すなわちプロの目から見て、お台場の調査は遊びであった。プロの仕事の眼で、いくつかの試みはしたが、好きなだけの遊びであった。遊びではあったが、プロの視点からの遊びであり、それなりの調査にはなっていたので、その部分を認められて、港湾局への協力、資料提供を条件として、調査(費用請求が発生していないので遊びではあるが)ができることになった。
 これまでやってきた自分の遊び調査とこれからの調査の違いは、記録性の向上である。記録とは、場所(位置)の特定、時系列(それが何時おこったのか)を特定した記録である。僕の場合その成果品は映像である。
 映像から遡っていくと、それが、何時どこで、どの位置で撮られたものであるか、記録されていないと調査成果としての価値が低い。
 そんなことを、なぜ、この期に及んで書いているかと言うと、現在執筆中の「リサーチ・ダイビング」にこの調査について発表掲載しようとしているから、である。
 さて、お台場でおこなわれている研究の方であるが、多留さん(東邦大学)尾島さん(お台場潜水の世話役としての、僕の後任)がやっている底棲生物の分類、風呂田先生のホンビノス研究、東大でドクターを取った杉原奈保子もお台場のホンビノスを研究している。おなじく、東京理科大で最近 ドクターになった科学未来館の三橋千沙もお台場でのアオサ研究がきっかけになっている。二人とも僕の弟子(ダイビングに関してだけの)である。海洋大学後輩の自見君は、先日、お台場で多毛類の新種を発見、発表して、話題になった。同じく海洋大学後輩の依田君は、東大大学院に進んだが、なにか、お台場の生き物(硫黄バクテリア?)の研究で学位を取ってくれないか、と願っている。
 これで、とりあえずお台場での調査研究のこれまで、についての説明は段落をつけて、今後の調査だが、港湾局に提案しているのは、①生き物調査 ②ライン調査である。
①生き物調査は、何が(種類)何処に(大体のエリアでよい)いたかを映像でチェックする。数と大きさは、映像から見てとれる。撮影は動画でも静止画でもいいが、報告は静止画を写真帳の形にする。写真帳は、PC上のファイルにする。②ライン調査は、100mの巻き尺を引き、巻き尺の上を、巻き尺が写っている状態で移動撮影する。これは、動画撮影になる。ライン調査の目標は、生き物、地質(砂地、ヘドロ、細かい粒 貝殻 ゴミなど)の広がり、を撮影する。目立った変化、あるいは、目立った生き物が撮影された場合には、その位置の、巻き尺を読み取る(映しとっておく)。ラインを外れた場所であっても、必要と思われることがあれば、撮影しておき、ラインのどちらがわか、ラインとの距離などがあとでわかるように撮影しておく。
 これらについて、機材と方法がきまったら、手順をマニュアル化しておき、かかわる者がなるべく同じ方法で撮影できるようにしておく。撮影の上手下手は問題ではない。何が撮れているか確認できれば良い。
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 5月31日
 この日は、僕が別の調査で東京にいないかもしれないので、月一のところを月に2回として、5月31日と、6月7日の二回を調査日として申請した。
 幸か不幸か、別の調査は、コロナパンデミックの現在、参加人数が制限されることから、フィジカルなアシストを必要とする、僕よりも、若い人が行った方がいいと判断して、行くことをあきらめ、お台場を行うことにした。
 お台場は、オリンピック工事もストップしているし、都民の入場も許可されていないので、僕たちだけ、専用使用の状態になった。
 調査参加者は、研究者として風呂田、多留 三ツ橋、尾島、尾島さんは全体のアレンジャーでもある。調査の方は、尾島さんの奥さん、ぼくは尾島ママと呼んでいるが、生き物、魚やカニを探す能力は僕の数倍ある。高齢の僕は、高齢ゆえの視界狭窄、運動能力の欠如が、成績を悪くしているものであり、若いころだったら負けなかっただろうと、負け惜しみを言っているが、とにかく負けている。しかし、問題は尾島ママは、見たと口で言っているだけであり客観的な証拠がない。彼女の驚異的な捜索能力を映像にしなくてはならない。しかし、彼女はカメラを持ちたがらない。絵は素晴らしく上手なのだ。得てしてそういうものなので、彼女にカメラを持たせ、なんとか撮影できるようにするのが現今の急務だ。

 ウエアラブルカメラをスチル撮影で使うことを考えた。これを手にぶら下げておいて、魚とか、何かを見たらカメラを突き出すように向けてシャッターを切る。スイッチを入れっぱなしにしても、2時間は持つ。
 カメラは3台用意したので、三ツ橋と奥村君にももってもらった。
 さて、僕のライン調査 2本のラインを予定している。そのうちのやりやすい方、ベースから、近い方に、山本さん、小林さんに手伝ってもらって、まずラインA を引いてもらって、準備が出来てから、僕がエントリーすることにしてもらった。
 当初の予定では、ゴムボートでラインを引く、引ける予定立ったが、やってみると、風に流されて、ゴムボートは、まっすぐに進めない。潜り、泳いで引くことにしたと言うこと。山本さんは、いつも、ケーブ潜水用の細いラインを引く練習をしているのだが、僕のシステムでは、巻き尺の数字を撮りながら進んでいくので、巻き尺が必須である。
 
 ところで、僕は腰が痛い。タンクを自分だけで、背負う練習をしていて、傷めたらしい。
 情けない話だ。65歳までは、12リットルをオーバーヘッドで背負えた。それから、20年、85歳の今、9リットルを、肩を入れて背負おうとして、腰を傷めた。泣いてもだめだ。老いた身体をだましだまし使っていく他ないのだ。
 小林さん、尾島さんに支えてもらって、這ってエントリーした。エントリー直後バランスが悪くて転がる。ドライの足に空気が廻っているからだ。
 何とか安定させて、ラインを撮影するような形で進んでいく。岸近くでの透視度は20cmもない。
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 底質を確認しながら、進んで行くと、30 m地点でクロダイが眠っていた。ちょっとさわったら、猛然と逃げていった。少し行くと、今度は、ツバクロエイの身体の一部?クロダイに触った反省から、触らなかったが、逆だったか?100mまで、行ったのに、覆砂らしき地形に出会わない。どうしたことだろう。
 そして、この季節になれば、硫化水素が発生して、硫黄細菌がはびこるのに、それがない。
 ホンビノスが、70m点まであった。お台場の海底全域にホンビノスが居るのではないか?
 これまで、この地点まで出張ったことがない。隅っこで遠慮していた。
 
 腰が痛いので、一本で終わりにしようかと思ったが、残圧が100ある。覆砂が見られていない。調査の目標は覆砂である。場所を右に、北に移して、今度は自分でラインを引きながら、潜って行くつもりでエントリーした。腰の痛みで、かなり苦労だった。
 とにかく、視界ゼロに近い。
お台場では、自分の居る位置を示すブイを曳航しているのだが、そのブイと巻き尺ラインが絡んでしまった。視界ゼロだからほどくことが難儀だ。格闘しているうちに右足のフィンが脱げて流れてしまった。これも探すことは絶望だ。即、引き返すことにしたが、ドライスーツで、片足、巻き尺と曳航ブイがからだに絡んでいる。カメラも手にしている。救助が必要か?
 何とか、背の立つところまで戻り、丁度エントリーしようとしてきた山本さんに手伝ってもらってエキジットした。結局覆砂は確認できずにおわった。
 
 尾島ママの撮影、午前はカメラミス、午後はあまりの濁りで真っ暗。それでも、三人のカメラにマハゼの5ー6月サイズ、5ー6cmが写っている。すれ違いに出て行った山本さんもマハゼを多く見ている。
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 ラインの上でも、小さいサイズのマハゼが砂煙りをあげて逃げるのをチェックした、かなりの数である。
 今年度は、お台場海底全域にマハゼが見られる。
 
 次回は6月7日、僕は、今日確認できなかった覆砂の状況をこのポイントでと思ったが、尾島さんはどうしても、対岸に行きたい。考えて見れば、一般開放したら、対岸は行かれなくなる可能性もある。
 ラインBをやろう。

お台場0531写真

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マハゼ 奥村君撮影
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赤潮濁り
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クロダイ
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ラインAに潜水
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ゴカイの類棲管
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ツバクロエイ?
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73m地点のホンビノス

0613 ニュースステーション 1

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  要約すると ニュースステーション 1


 窒素ガス用の陽圧マスクの改造型フルフェースマスクで、水中レポートが始まった。日本テレビ慶良間からの中継をやり、いくつかの小さい番組で流氷をやった。そして、ニュースステーションが始まり、東京湾を最初にやり、今、お台場で一緒に潜ている風呂田先生をレポーターに起用して成功した。

 この成功を足掛かりにして第二弾を
 流氷、ロケ地は知床の宇登呂を提案した。
 小説家の立松和平さんが、陸上でのレポーターと決まった。立松さんが氷の上に居て、潜っていく潮美の姿、水中をモニターに映し出し、それを見ながら、流氷のことどもをレポートする。潮美は氷の中に飛び込んで、水中レポート、立松さんとの 二人の会話で番組は進行する。
 大当たりを取った。「立松さーん、まるで氷の宮殿です。」潮美が氷の上の立松さんに呼びかける。「潮美ちゃん、生き物は何が見えますか?」立松さんは栃木弁で訥々と話す。アナウンサーの訓練を受けていない潮美の口調は、やや、教科書読み風だが明確だ。
 視聴者の気持ちとして、こんなに冷たい氷の下にかわいい女の子を沈めて、親の顔が見たい。親がカメラマンでカメラで撮っている。当時、女子大生というのはブランドだった。潮美は4年生、あと少しで卒業だが、まだ女子大生だった。


 それに、流氷も美しかった。知床半島、宇登呂側は、流氷原が押し寄せて接岸し、海は閉じる。漁もお休みである。その流氷原を歩いていき、四角い穴を開けて中に入る。水面は流氷が天井で、中は暗く、流氷の隙間から光が差し込む、カメラマンの水中ライトが氷を照らす。氷の宮殿なのだ。
 知床半島の反対側、羅臼では流氷は様相を変える。氷は、流氷は、北から南へと下るように流れて行く。知床半島の先端を回りこんで、羅臼側にはいるところで流氷原は、バラバラになり、小さい氷山になって流れて行く。
 羅臼側では冬でも漁ができる。
 小舟で岸近く、エゾバフンウニを水鏡で覗いて小網で掬い取るウニ漁を撮影する。潮美が潜ると、水面に浮いている小さな氷塊は、まるで雲のようだ。雲の間から陽が差し込む。氷を潮美が手で撫でると、氷が銀の粉のように光り輝いて散る。
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 この一作で、内定していた潮美の就職は蒸発した。すぐに次のロケのスケジュールを決めなくてはいけない。潮美は卒業試験がある、とか心配そうにしていると。監督の小早川さんは、バカ者、卒業したって、テレビ朝日には入れない。ましてや、ニュースステーションはさらに狭い門なのだ。しかし、彼女はなんとか卒業できたらしい。


 次の企画、僕は、流氷と同じくらい、摩周湖にも通っている、摩周湖は外に流出する河川はない。しかし、地下水となって流出し、川になる。そのうちの一つに西別川がある。日本の鮭は悲しいことに、自然遡上、自然産卵は、ほんのわずかに限られている。親の鮭は、河口で捕らえられ、卵は搾られて人口受精、孵化場で孵化し育てられて放流される。その放流が幼い鮭の旅立ちだ。「早春、西別川からの鮭の旅たち」その一行だけで企画は通った。もちろん、釧路湿原の鶴だとか、道産子馬とか、立松さんのための付属品は付け加えられたが、芯は、鮭の旅立ちだ。
 ところで、鮭の旅立つ西別川の孵化場に連なる出口の川は浅い、水深で30CMぐらいだ。立松さんにも、タンクを背負わせ、フルフェースをつけさせ、二人腹ばいになって、会話する。子鮭の群れが、きらきらと二人の目の前を通過して流れに乗り下っていく、このシーンも評判になった。僕は自分の感性だけでカメラを振っている(撮影している)一つの画面に潮美の顔が半分、立松さんの顔が半分、首を振れば、顔は合うが、そんなカメラワークをした。普通のカメラワークならば、彼女がしゃべるときは、彼女の顔をとらえ、立松さんが話すときには、立松さんに付けるのだが。
 
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         流氷溶けて 春風吹いて。
 
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         襟裳の春は 何もない春
 
 それから、日本全国を巡る旅が始まるのだが、バックの音楽は、その土地その土地の演歌をつかった。このあたりが、小早川監督のすごいところなのだが、襟裳岬に行った。アザラシを狙った企画だったが、アザラシは超望遠レンズで撮るもので、潮美と一緒に泳ぐなんてとても、無理、しかし、監督はそれを要求してくる。
 ただ、風が吹いているだけ。外の海にもでられない。ロケは日数、スケジュールが決まっているから、天気回復を待つことはできない。
 磯にでた。広がっている磯には タイドプールが連なっている。磯歩きする。何もないけど、春の陽の光だけはある。ここでも、深さ30cmのタイドプールに潮美を漬けた。小さなハゼ、ギンポも見える。いつも、小さなモニターを用意している。立松さんは、そのモニターに話しかけているのだ。これで、立松さんはタイドプールの中を水中からの目線で見られる。「立松さん、ギンポが居ました」「かわいいギンポがいるねえ。」
 立松さんは磯を歩き、何もない春の話をする。バックは森進一の襟裳岬だ。このシーンも視聴率はしっかりとった。
 浅いところに這ってばかりいたわけではない。
 

0615  ニュースステーション 2 十和田湖

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       十和田湖の垂直なドロップオフ



浅いところに這ってばかりいたわけではない。
 積丹にもいった。
 積丹もなにも無かった。巨大ミズダコがいるのだが、その季節ではない。昆布は波打っている。でも昆布はもう知床でも氷の下の、美しい昆布を撮った。
 ニシン御殿を立松さんは、ニシンの話をレポートしたが、海にニシンは泳いでいない。 
 夜の海、水中を撮ろう。やや濁っている漁港の中に潜った。ライトに大型プランクトンが集まった。ウリクラゲも浮いている。「立松さーん、銀河の中に居ます。」「そうだねー、海の中は宇宙だねえ」これで窮地を脱した。
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 十和田湖に行った。
 十和田湖のターゲットはヒメマスだ。そして、ヒメマスは少なくなっている。養殖池にヒメマスはいて、放流はしっかり行われているけれど不漁である。不漁を撮影しなければならない。行けども行けども見つからない。それはそれで良い。しかし、それだけでは、終われない。
 自然だけ、生き物だけをあいてにしていて、苦しくなると、ダイビングそのもの、撮影技術そのものに逃げる。積丹での夜の海はそれで成功した。深く潜るアドベンチャーで行こう。女の子が、深く潜る。成功するだろう。ダイビングは、深く潜るためのものではないと言いながら、人は、何メートルまで潜ったかを話題にする。
 僕自身は、節目節目で、深く潜ることで自分をアッピールしてきた。潮美も。
 日本の湖で一番深いのは田沢湖、423,4m、二位が支笏湖、三位が十和田湖で326、3mである。まさか、326mに潜るわけにはいかない。調べると岸近くに垂直に70mの切り立ったドロップオフがあり、その下に326mの深さがある。70mのドロップオフを降下しよう。行けるところまで降りて、下を見下ろして、深さのコメントをすれば良い。
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 無謀?窒素酔いは?窒素酔い状態でのコメントをとれれば成功だ。
 10m間隔でタグを付けた降下索を降ろした。
 十和田湖の深さとか、湖の深さをコメントしながら降下する潮美を撮影フォローしながら、降下していく。垂直に近い崖だけだけど、彼女をフォローしていれば、絵は成立する。
 そして、水深50mで僕のレギュレーターが吹いた。空気の噴出が止まらなくなる。フリーフローの状態になるのだ。流氷を潜ったことがあるダイバーならば、知っているであろうが、レギュレーターの高圧弁が凍り着くと空気が噴出状態になる。幸いにして凍りついて、空気が来なくなる。停止することはないのだが、噴出してタンクの空気が無くなれば、空気は来なくなる。流氷の場合、宇登呂側ならば、穴を開けて潜っているから、空気が噴出したら、すぐに穴から這い上がり、用意してあった魔法瓶の熱湯を高圧部分にかけて凍結をとかし、噴出を止めて、また潜ることができる。開けた穴から離れて、戻れない場合には、死ぬほかない。命綱必須だ。
 レギュレーターメーカーは、凍結防止には努力していて、1986年当時は、シャーウッドのレギュレーターが凍りにくかった。わがダイブウエイズも僕が氷の下に潜ることが多かったのd、工夫をこらしていて、一応大丈夫な製品を作っていた。氷の下は、おおむね零度である。マイナス1度で海水は凍る。レギュレーターの高圧部分は、空気が噴出するノズルだから、気化熱で温度が下がり、零度に潜っていても、マイナス1度になり、レギュレーターの高圧部は凍るのだ。
 十和田湖は3度、氷の下に比べれば温水だ。凍るとは予測していなかった。しかし、十和田湖は淡水だから零度になると凍るのだ。そして、深く潜れば、高圧部を通る空気量は増える。零度以下になったのだろう。凍って噴出した。
 僕は、ためらいなくカメラを放り出し、有線のカメラだから投げ出しても船の上とはつながっている。潮美に自分は空気が吹いたので、浮上することを手信号で合図して、急浮上した。空気の噴出が続いているうちに、ボートに上がらなければならない。減圧症だとかは、命が助かってからその後の問題だ。このあたりのことを誤解していて、死んでも減圧停止をする非常識なダイバーもいる。
 幸いにも、エントリーしてすぐ、降下中だから、潜水時間も短かった。空気があるうちに水面にでた。
 ボートの上では、下にいると思った僕が、舟の上に上がってきたので、全員驚いたが、減圧症にはならなかった。僕の通話機はカメラについていたので、放り出してしまったが、潮美はフフェースで上と通話が保たれているから、通話機で状況を話し、通常通りに浮上して何事もなかった。しかし、この時、通話が保たれていなかったら、どうだっただろう。そして、吹いたのが僕のレギュレーターではなく、潮美のレギュレーターだったら?もっと長く、もっと深くまで降りていたら、背筋が冷たくなった。
 
 とにかく、有線テレビカメラ、有線通話機があったから、有線だから助かった第一回目であった。有線で水面との会話が確保されていたことが、深さへのチャレンジを採った理由でもあるのだが。
 そう、この項は、ニュース・ステーションの紹介のために書いたわけではない。有線で危機をくぐり抜けた話を書こうとしていたのだった。つい、悪い癖で、筆がニュース・ステーションに滑っていった。
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