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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1123 雑感

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 少し、ブログの間が空いた。
 別にかまわないのだけれど、時間が少し空いた。あと1時間、ブログを書いて16時10分になったら、でかけよう。今日は、旧友の尾崎さんが、東京湾の生き物についての本をだして、その記念パーティがある。お酒を飲まないことにしている僕は、自分の主宰する何かのパーティでないと、出かけて行かない。考えようによっては、身勝手なことだが、周囲で行われるパーティの全部に出ていたら、今の僕の経済状態では破産してしまう。
 尾崎さんのパーティは、共同通信の新藤さんからの連絡で、発起人とされてしまった。自分主宰のような感じにさせられてしまった。
 パーティの場所は、永田町にある「オーシャン」という洋風居酒屋ということで、この「オーシャン」にも今日がはじめてということになる。行かなくては義理がわるいとおもいながら、上のような事情で行かなかった。今日が初めだ。初めての場所というのは、なんとなく不安である。なんとか行かれるだろう。
 ところで、尾崎さんのパーティで、なにかあいさつをしなければならなかったら、何を話そう。僕の話は長くなってしまうのが欠点だ。もしも、シャベルことになったら、尾崎さんの作ったGスーツの話をしよう。彼は日本でのドライスーツの元祖なのだ。このことはあんまり知っている人がいないのでは、と思う。
 これは、1976年のダイビングワールドに載った広告だ。
 1976年は海洋博のあったとき、いまから40年前のはなしだ。
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 発売元が東亜潜水機、代理店がオーシャンダイバーズになっている。
 東亜は、僕が大学を卒業して、10年間勤めた潜水機製造販売会社であり、オーシャンダイバーズとは、今、お世話になっている波佐間海中公園の荒川さんの会社だ。
 因縁が深い。僕は1958年から、東亜にお世話になり、1968年に退社するのだが、その退社する少し前のことだった。
 東亜に、尾崎さんと荒川さんが訪ねてきた。そのころすでに、尾崎さん、荒川さんとは仲の良い友達だった。その二人とのなれ初めというか出会いからの話は長くなるし、ここの主題であるドライスーツとはかかわりのない話だから、省略する。
仲の良い友達だったのだが、彼らは、僕を訪ねてきたのではなかった。東亜の社長、三沢さんを訪ねてきたものだった。
 
 ドライスーツは潜水服だから、ウエットスーツよりも古い歴史がある。東亜潜水は、その潜水服のメーカーなのだ。ただ、その潜水服はヘルメット式潜水の潜水服であり、スクーバでは、ドライスーツはコンスタントボリューム型という特殊なものしかなかった。そのコンスタントボリュームも東亜潜水機が作っていたのだが、とにかく特殊なものだった。
 ドライスーツをスクーバで使う際の問題は、まず、スクイースだった。今、ドライスーツにインフレータから空気を入れて、スクイーズにならないようにしているが、このインフレーターホースをつながないで、潜るとどうなるか?足の方から締めつけられてきて、10mも潜ると身体全体が締め付けられてひどいことになる。やってみたことはないが、実験してみると面白い。とにかく、服の中に、空気を入れて、服の内外の圧力を等しくしてやらなければならない。
 コンスタントボリューム型とは、マスクも服と接合されていて、マウスピースも服の内側にある。つまり、顔の部分が露出していないのだ。これで、服の中に、空気を入れることができて、スクイーズが防げる。 あ、時間が来てしまった。
 続きは、この話を尾崎さんのパーティでしたら、帰ってきてから書こう。でもこんなに長い話をパーティでできるだろうか?

1125 JAUS シンポジウム5

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                       福田克之撮影
12月1日のシンポジウム、午前中は学生のダイビング、午後は研究者の発表で、これは「環境DNAで、魚類の数と種類が把握できるか」、 「珊瑚礁の保全」、「東京湾お台場の水質管理」、プラゴミの問題は、JCUE でも熱心に取上げているし、別の切り口を探さないと、JAMSTECから、環境省にそのテーマで移籍した K君がアメリカ出張とかで、次の機会にまわしました。
 学生のダイビングは次第に盛んになっていますが、大きな曲がり角にきているとおもいます。残念なことに、この50年、自分なりに力を注いできた、関東学生潜水連盟は、求心力が薄くなっています。時代の趨勢だといえば、それまでなのですが、頑張っているいくつかの大学の潜水部を見ると、(それぞれ親しいので)趨勢に逆らって遡らなければ存在価値がない。そして、ひとつ間違えば命がないダイビングに真剣に取り組むことは、教育的な価値が大きい、教育的というと、忌避感があるとすれば、人間としての成長、それもいやだといわれると、勝手にしろ、死のうと生きようとどうでも良いと突き放したくなる。突き放して、事故が起こり、「やっぱり、」と自分の予想が当たったことが、喜べれば良いのですが、それでは、ここまで続けてきた努力が無になってしまう。自分の過去、自分の人生を無にすることは、できない。死ぬまで努力をしたい。そんな現われが、今回のシンポジウムの発表です。といって、強く指導したわけではない。現状で、できていることを見せてくれれば、良い。海洋大、東大、違ったスタイルの部活動です。ちがったスタイルを見てくれれば良い。そして、その先にあるものを見てほしい。それは、レクリエーションダイビングにも反映できるものだと考えています。
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 長らく(およそ60年)人工魚礁調査にかかわってきました。しかし、僕は学者、研究者になることを放棄してダイバーになった。いささか後悔はしていますが、だから、単なるリサーチャーなのです。若い、本物の研究者が人工魚礁に、それも、僕らの唱える、定点継続を10年続けたら、どういう成果が期待できるか。残念ながら、僕は10年先を見ることはできないでしょう。だから、10年、20年続けられる組織、システムを作っていかなくてはならない。日本水中科学協会がそれです。目的、目標の一つは、研究者とレクリエーションダイバーのコラボレーションで、そのキーの一つがリサーチダイビングです。
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この一年、そして、今回のシンポジウムは、その形がおぼろげながらできてきた過程です。
 今回は若い女性研究者、杉原奈保子、三ツ橋知沙が来年の予告発表をします。他に、2名の男の子、の予告を考えていたのですが、一人は乗船していてだめ、もう一人は、まだ学生なので、来年に、ということです。しかし、これもこのスタイル、若い研究者がダイビングで研究してことを発表する場、を確立していくことができれば、次の時代につなげられる。、これも、次の時代をみることができないのですが、バトンを作っておけば、たぶん繋げてくれるだろう。


 そんなことを考えながら、シンポジユウムを作ってきましたが、こんなテーマが一般受けするわけがない。集客状況は芳しくありません。でも、よろしければ、見に来てください。


 もしも、誰も来なくても、若い、学生、研究者、と一緒に、後につなげる形を作っていければ、とこれは、負け惜しみです。
  ぜひ来てください。


第9回 日本水中科学協会(JAUS) ダイビング活動研究シンポジウム
東京海洋大学品川キャンパス 楽水会館 大会議室 12月1日 日曜日
10時30分 受け付け開始 会費 一般2000円 会員1000円 学生無料


11:00-11:05 開会挨拶 総合司会 早稲田大学教授 中尾洋一
11:05-11:10 出版計画発表「リサーチ・ダイビング」JAUS代表理事 須賀次郎
11:10-11:15  JAUSジャーナル配布・説明  JAUS副代表理事 久保彰良
11:15-11:35 「海洋大学潜水部の活動と、館山坂田内湾の海について」
                 東京海洋大学 潜水部 佐藤新
11:35-11:50「学生による安全なリサーチ・ダイビング手法の追究」        東京大学 海洋調査探検部 田村陸、内田大賀、實藤美来
11:50-1200 映像 波佐間人工魚礁FP4m(上記 海洋調査探検部の映像)
撮影 福田克之
12:00-13:00 昼食休憩


13:00-13:30 「環境DNA分析で魚礁に棲む魚類を把握できるか?」
 佐藤允昭 博士・環境科学 水産研究教育機構 水産工学研究所研究員 
13:30-14:00 「石西礁湖におけるサンゴ群集の衰退と再生技術」
いであ株式会社技術顧問 藤原秀一
14:00-14:30 「泳げる海、お台場」の実現に向けて」
特定非営利活動法人 海辺つくり研究会理事 森田健二   
14:30-1440 「今年度のワークショップ総括」  JAUS理事 山本徹
14:40-:14:55休憩
流す映像 「お台場2019」須賀次郎 「西表島 石西礁湖の今」増井武
14:55-15:25 「ショートプレゼンテーション」
①「お台場で潜って見えてきた世界:海藻」
三ツ橋知沙  日本科学未来館 
②「お台場のホンビノスガイと私の10年」 
 杉原奈央子  (博士・農学)東京大学大気海洋研究所、学術支援職員
1525- 15:55 ☆来賓挨拶
①一般社団法人 社会スポーツセンター 事務局長 瀬田芳博
②(一財) 日本海洋レジャー安全・振興協会 安全事業部長 宮里 一敏 「DAN JAPANの活動について」。
③公益在団法人 海上保安協会  常務理事 宮野直昭
海上保安協会ってなに?
15:55-16:25  JAUS亜寒帯ラボ:特定外来種であるウチダザリガニの駆除:希少種のマリモの保護調査  JAUS理事 工藤和由
17:00-19:00
ワンコイン懇親会  大学会館食堂ホール2階 


1206  JAUSシンポジウム 6 締めの挨拶

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シンポジウム、反省点というか、考えさせられることは、山のようにあり、また、それで学習しているのではあるが、ワンコインの懇親会で、15秒で締めの挨拶をまとめろと言われ、ブログに書くから、読んでくださいと、挨拶した。早急にブログを書かなくてはならない。
 前回、第8回は今年2019年の2月3日なので、今年は、シンポジウムを2回やることになったのだが、前回の2月3日を終えて、これで自分の発表は終わり、ここからは、若い人たちの発表を中心にしようと思った。

 そこで、今度の第9回の自分の発表は、リサーチ・ダイビングのテキストを書く企画、自分の60年のリサーチ・ダイビングをまとめる、というその企画書を報告書に載せることで、その説明を5分程度させてもらうことでとどめて、あとは若いひとをと考えた。
 若い人、学生の発表は、東大海洋調査探検部と、東京海洋大学潜水部(自分の母校)の発表である。
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 海洋大学は、2年生で部長になったばかりの佐藤新君に、突然のようにお願いしたのだが、気持ちよく受けてくれた。多分、何も考えなかったのだろう。お願いする時期が夏もすぎたころで、その後、今年は大型台風の襲来があり、ホームである海洋大学館山ステーションが被害を受けたりして、準備ができなかった。が、とにかく、「今やっていることと、これからやりたいことを発表してください」とにかく、PPTを作って、その説明を報告書原稿に、ということにした。しかし、講演の時間ぎれで、今後やろうとすること、のところまで十分に説明ができなかった。とにかく勉強にはなったと思う。今年は予告編で、来年は、海洋大学館山ステーションの海底と、生物相の発表を期待している。「海洋大学潜水部の活動と、館山坂田内湾の海について」 東京海洋大学 潜水部 佐藤新
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 東大の方は、予想通りの発表をしてくれて、学生のこのような研究、そして発表のサンプルになると思う。タイトルは、「学生による安全なリサーチ・ダイビング手法の追究」
東京大学 海洋調査探検部 田村陸、内田大賀、實藤美来
 ここに、彼らのダイビングの様子を 福田克之君が撮った映像を発表した。8月7日、50mはあろうかという稀にみる透視度の映像で、美しい、僕はこれを午前中の売り物にしたかった。しかし、打ち合わせ不十分で、前半部分、ライトを落とさなかったので、美しさが半減してしまった。
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 人工魚礁研究会で一緒に潜っている佐藤允昭君の「環境DNA分析で魚礁に棲む魚類を把握できるか?」これは、若い研究者が、自分一人では潜れない、レクリェーションダイバーのエキスパートと潜ることで、安全が確保できるというねらいの皓歯だった。
 内容が難解なのではないかと心配したが、驚いたことに、耳の不自由な、自分も明確にわかった。プレゼンテーションすることになれている。環境学博士で水産研究教育機構 水産工学研究所研究員、つまり、バリバリの若手研究者で、良いダイバーだ。


 プレゼンテーションになれているということでは、午後の部での「ショートプレゼンテーション」で、「お台場のホンビノスガイと私の10年」:杉原奈保子(東京大学大気海洋研究所)
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お台場で潜って見えてきた世界:海藻」日本科学未来館 三ツ橋知沙の発表も良かった。お台場がオリンピックのために、来年は潜れない。その後も、公園の改装工事が続くので、いつ再開するかわからない。「必ず再開する」と心に誓ってはいるが、僕の命が保つだろうか、ということで、急遽発表してもらったのだが、短い、予告編的な発表ではもったいなかった。とともに、来年は、10分から15分のショートな発表を多数積み重ねるというパターンもあるのではないか、と考えさせられた。良い発表だった。
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  「泳げる海、お台場」の実現に向けて」海辺つくり研究会理事 森田健二さんの発表、「「石西礁湖におけるサンゴ群集の衰退と再生技術」 いであ株式会社技術顧問 藤原秀一さんの発表、どちらも、その分野での権威者であり、これも、耳の悪い僕でも理解できる発表だった。
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 来賓挨拶に代えて、社会スポーツセンター事務局長 瀬田芳博氏、DAN安全事業部長 宮里 一敏氏,海上保安協会 常務理事 宮野直昭に発表していただいた。実は、このコーナー、その他の発表とは色彩が若干違うので、水と油かと心配したが、お客の評判は悪くなく、安全のための発表として、良かったという評価をもらった。
 最後の発表、AUS亜寒帯ラボ:「特定外来種であるウチダザリガニの駆除:希少種のマリモの保護調査」 JAUS理事 工藤和由、おなじような支部的な組織ができていくことが、日本水中科学協会の目標の一つであり、この発表が、僕らの希望の実現の一つであった。
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 一つ一つ取り上げると、それだけでは、不十分であろうが、全体的にみると、多種、多方面にわたっていて、ダイビング活動のすべてがある、良いバランスだったと自賛している。
 毎年、集客に苦闘しているが、予想を上回る86人に来ていただくことができた。来年こそは、苦労しないで、90人(満員)を集めることができるようにしたい。きっとできると思う。

1218 Across the river and into the trees.

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Across the river and into the trees.「河を渡って木立の中へ」ヘミングウエイの1952年、終わりのころの小説、文庫本にはなっていない。日本では全集の中に収録されているだけ、だと思う?古書で、高価だったのを買った?ような記憶がある。ヘミングウエイにはまっていた頃だから、30代の前半だった?。そのもっと前に、三笠書房の全集の普及版をもっていて、それで、ヘミングウエイの作品、全集に収録されているもの全部を読んだのだが、それも、全部どこかになくしてしまった。僕は、愛書家ではないのだ。愛書家だったら、住むスペースが無くなっている。 いろいろ、御託を並べたが、「河を渡って木立の中へ」は、一度目に読んだとき良いと思って、二度目は終わりまで、読まなかった。ヘミングウエイで繰り返し読んだのは、「移動祝祭日」、移動祝祭日って何だ?知らないけど。これは、持っている。そして、僕は「釣りはやらない」と、「酒を飲まない」と同じレベルで、心に誓っているのだが、「ヘミングウエイ釣文学全集下巻 海編」これは、高い古書で買ったのにアマゾンでみたら、500円から1000円になっていた。おすすめです。とにかく、これは、愛読書で、晩年のヘミングウエイがエスクワイヤに連載したいくつか、「キューバ通信」が、載っている。  ※ 調べてみたら、僕の好きなキューバ通信、モロ沖のマーリン 海流に乗って、青い海で、などは、この釣り文学全集には載っていなかった。ヘミングウエイ全集に載っていて、僕はそれを図書館で借りて、コピーして持っている。このコピー+釣り文学全集で僕のヘミングウエイは、完だ。、  アマゾンとブックオフが僕の読書に果たしている役割は、大きい。読む本の30%は図書館、30%がブックオフ、20%がアマゾン、残りの20%が新刊で、これは、良いバランスだと思っている。  そのブックオフで、宮本輝「ひとたびはポプラに伏す」講談社文庫、全6巻を買った。 作家の書いた旅行記、紀行文が僕は好きなのだ。前述のヘミングウエイ「移動祝祭日」もその類で、若い日のヘミングウエイがパリで暮らしていた日々の話だし、村上春樹のこの類、「遠い太鼓」「シドニー」などなど、手に入った全部を読んでいるし、売れている作家のこの類は手にすれば読む。村上春樹の小説は読まない。 その宮本輝の「ひとたびは、ポプラに伏す」は、西安から、トルファン、カシュガルを抜けて、イスラマバードへと、シルクロードをたどる旅だ。宮本輝は、好きな小説家ではないのだが、飛ばさないで、じっくり読んだ。1990年代後半の中国からパキスタンへのシルクロードが、どんな様子、どんな途なのか、感じることができる。その中で「河を渡って木立の中に」という章がある。クチャを抜けるあたりの章だ。 この言葉は、アメリカ、南北戦争の時、南軍のリー将軍が、突撃の前に、つぶやいた言葉だという。ネットで調べたら、リー将軍の片腕だった、ストーンウォール・ジャクソン将軍が死の突撃の前の独白だったとも書いてある。どっちでも良いが、とにかく南北戦争の時の言葉だ。 宮本輝は、人によってそれぞれ、様々な木立があるのだと書いている。 木立、終着点なのだ。今、84歳の僕の木立は、「死」だ。木立というと、やすらぎのように感じる。  たしか、古石場図書館にヘミングウエイ全集があって、その中に「河を渡って木立の中へ」は収録されているはずだから、もういちど目を通してみようかと思っている。
 日本の「海流の中の島」はトカラ列島だ。僕はトカラ列島周航を4回やっているけど、4回とも忘れられない旅だった。命を失いかけたことは、一度、サメとも闘った?  今、 毎日、河を渡る日々を送り、木立に近づいている。

1228 第29回 人工魚礁研究会 波左間

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  魚礁の上に乗せた360度カメラ
12月26日
 今の季節だから、当然ともいえるが、風邪が流行っている。 今年最後の波左間, 潜り納め。出席は、須賀、山本徹 佐藤允昭、鶴町雅子の4名。 天候は薄曇り、波はなくて、凪。今頃の季節として、この凪はラッキーだ。  ダイブコンピューターの電池が切れてしまっていた。毎度わかっている潜水で、全員一緒の潜降、浮上だから、問題はないが。   ベルトのウエイトを1キロ減らして、5キロ、ジャケットが7キロだ。 出港して4mFPに行くが、ブイが切れてしまっていて、わからない。しばらく探したが見つけられない。午前中の潜水では、ここはあきらめることにして、どうしよう。ドリームとラインでつながっているきょりにある3mのFPに行こうと提案した。
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  図の中心の右側左から右へ、ドリーム タイヤ FP3mと、20m線を横に並んでいる。右のFPから入って、タイヤを通り過ぎで、ドリームに向かうコース。 

 持って入るカメラは、Olympus TG4とSJ4000blackの連結、マスクにはSJ4000のホワイトを着けた。鶴町に、360度カメラ、1キロのウエイトに、ビニール紐で繋いで、30cmほど上に浮かしたものを持たせた。 10時03分 一回目 潜水開始 今日からグローブを着けることにした。 飛び込むと、マスクからどんどん水が入ってくる。自分の顔には絶対に合っているラクーンなのに、どうしたことだ。一応、マスクの縁を確認するけれど、漏れはとまらない。仕方がない。とにかく底まで行くことにした。 透視度は20m以上ある。ラッキーだ。  魚礁の下の段に降りてしまったが、上の段に上って、魚礁の上に、360カメラを置く。なんとか我慢できる状態にマスクをなおして、カメラを作動させる。 海底に降りて、魚礁の中に入ろうと、浮力を調節する。えっ! BCに空気が入らない。ホースは接続されている。愛用している、身体にフィットしたアポロのBC.なのだが、もう20年以上使っている。とうとう、寿命が来たか。仕方がないので、ドライスーツに空気を入れて、浮力バランスをとる。。
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 20ー30cmクラスのイシガキダイが5尾、出迎えるようにして通過する。 ウミトサカ・ソフトコーラルは、何時もの、4mFPよりも、こちらのほうが多く生えているようだ。
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 2m角のドリームが、ソフトコーラルが多いことで美しく、ドリームと名付けられているのだが、どうもこの付近のほうがソフトコーラルが生えやすい環境なのだろうか。 ソフトコーラルにイシガキダイが絡んだスチルは使えるかもしれないと狙ったが、思うように撮れない。どうもタイミングが合わない。 イサキの群が、ソフトコーラルの下の段を通り過ぎた。良い形、40cmほどの成魚の群だ。この群は魚礁の中心に入っていたものが、ダイバーが接近したので、外に逃げでて行くものだろう。ダイバーとイサキの群の関係は、魚礁の近くの外に群れているイサキに接近すると、魚礁の中に逃げ込むが、ダイバーが魚礁の中に入ると外に逃げ出して、そのまま去っていく。
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 いくつかのソフトコーラルを撮影していると、荒川さんから移動のサインがでて、魚礁を離れて、泳ぎだした。海底にはラインが設置されている。 そうか、タイヤ魚礁を通過してドリームに向かうのだ。  ※タイヤ魚礁 1980年代の前半、廃タイヤを連結して魚礁にしようというアイデアが実現して、全国処々で実施された、波佐間のこのタイヤは昭和58年1983年の沈設である。しかし、タイヤの成分が長い年月で分解され、海水中に溶融していくと、害が出る可能性があるとして、中止になった。中止にならなければ、日本の沿岸全域が廃タイヤで埋め尽くされるところだった。景観は、美しくないから,やめてよかった。しかし、魚を集める効果は、コンクリートに比べて劣るものではない。  耳が聞こえないし、舟の上でのコース変更だったから、打ち合わせを聞いていない。残圧を確認すると120だ。ドリームを回るとギリギリだろう。 BC.に空気が入らないのでドライでバランスをとっているが、なんとか、うまく泳げている。ダイブコンピューターがバッテリー切れで付けていないので水深がわからない。多分、海底から8mか10m上、水深15m辺を泳いでいる。透視度20mと良いので、タイヤ魚礁に集まっている魚が俯瞰で見える。 メバルの群が見える。100尾ぐらいの群だ。降下して撮影したい。しかし、降りるわけには行かない。もしも透視度が悪ければ、もっと下を通るので、魚の撮影ができた。まあ、俯瞰の撮影はなかなかできないので、これはこれで、良いけれど。 俯瞰でみると、タイヤ魚礁の広がりはずいぶん大きく見える。
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 タイヤ礁からドリームへの間隔は70mぐらいか?今度巻き尺で測ってみよう。 その中間くらいのところで、ドリームからタイヤへ向かうような、イシガキダイ3ー4尾の群とすれちがった、
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 このあたりに多いイシガキダイは、20ー30cm前後、黒い点の紋様もはっきりしている。成魚になると口の周囲が白くなるのでクチジロと呼ばれる。さらに大きく、釣り師が釣り上げると魚拓にするサイズになると、口の周囲は黒くなり、紋様も消えて、イシダイとの区別が難しくなる。 イシダイ科の魚であるから、親類縁者のようなものであるが、このあたりではイシガキダイ4に対して、イシダイ1ぐらいで、圧倒的にイシガキダイの方が多い。しかし、イシダイも少なくない。
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 イシガキダイは人が接近しても逃げ方がのんびりしている。時に、接近してくることもある。イシダイも20ー30cmサイズは、敏感に逃げるというほどでもないが、イシガキダイよりは、すばやく逃げる。  ドリームに到着したときの残圧は80、常ならば浮上する残圧だ。上面には、何時になく、イシガキダイ、イシダイが群れていて、良いサイズのオオモンハタも1尾、逃げないでいる。いつものように中段と上段に入ってみたいが、もう、残圧は50になった。 佐藤君は、長時間継続撮影カメラをここに固定しているので、山本徹さんに手伝ってもらってとりはずしている。 僕は、浮上にかかったが、鶴町がそれに気づかず探している。なかなか上を向かない。降りていって浮上のサインをしたいが、原則として、浮上にかかったら降りない。浮上にかかる前に、サインをするべきだったと少し反省する。やがて上を見て気づき、全員浮上にかかる。 BC.の故障で、ドライスーツで浮力の調整をしている。ドライスーツ左腕、肩の近くの排気弁を自動排気にしているか確認したいが、右手にはOlympus TG4と、360度カメラを持ち、その360度カメラは、1キロのウエイトと結んでいる。左手は潜降索をつかんでいる。左手の潜降索を手放し、右手のカメラを左手に持ち直して、右手で排気弁を確認することになるが、それはちょっと、厭だ。 ドライスーツが膨れ上がる感じはないので、自動排気になっているものとして浮上した。 ダイブコンピューターが無いので、停止時間がわからない。荒川さんが先に浮上して、ボートの上に上がり終えてから浮上すれば良いだろう。浮上して、ハシゴに膝をついて、鶴町にフィンを外してもらう。 フィンさえ外せば、タンク、ウエイトを付けたまま、ハシゴを上がることができた。  10時40分 浮上 潜水終了 潜水時間は37分  浮上してから、BC.のインフレーターを確認したら、故障ではなくて、接続不十分だった。組み立てる時のテストが不十分だったのだ。60年を越してダイビングをしていても、こういう間違いをする。 愛用のラクーンマスクが浸水がひどかったので、予備に持ってきていたキヌガワのアビームに変える。そして、手袋をしてからマスクを付けるのではなくて、マスクを付けて、縁を手の指で触って確認してから手袋を付けることにする。  二回目の潜水 凪ではあっても 波が出てきていて、沖に向けて走ると、しぶきが顔にかかる。  佐藤君がFP 4mに長時間カメラを取り付けて居るので、どうしても、この魚礁に潜水しなければならない。山立てで当てた位置にブイを入れて、荒川さんが水中スクーターで走って探して、ロープを付ける。 10分もかからないで、見つけだした。  12時27分 潜水開始 毎度なのだが、1回目の潜水よりも2回目がなれていて調子がいい。 360度カメラも、AKASO brave付きのOlympus TG4二つを自分で持って潜降する。潜降の姿勢制御もまずまずだった。BCは、働くし、アビームは浸水しない。 魚礁の上に、360度カメラを置いて、シャッターを押して作動させる。 いつものように下段に降りる。 イシガキダイの4尾の群が出迎えるように顔を見せて、反転して行く。これは、午前中の魚礁と同じふるまいだ。好奇心の強い魚なのだと思う。1960年代スピアフィッシング時代、イシダイもイシガキダイも好奇心が強いために虐殺された。しかし、イシダイもイシガキダイも学習するので、そのうちに、ダイバーを見ると石の下に隠れるようになるのだが、悲しいかな行き止まりの石の下に逃げ込み、討ち取られてしまう。このことを「穴射ち」と呼んでバカにしたものだったが、1967年にスピアフィッシングはやめた。こんなものは、スポーツでもなんでもない。漁業、なのだ。漁業は漁業者に任せなくては行けない。そのことに気づいたのが1967年だ。ちなみに、大きなハタ、クエは、行き止まりの穴には入らない、向こう側に抜けられる岩の下にはいる。 いつものFP4m魚礁である。 オオモンハタを探したが、小型が1尾だけ、メバルは魚礁の外にでている潮回りらしく、魚礁の中には、散在で群は作っていない。
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 ブロックの隙間にイセエビが居るかと探したが、見えなかった。 佐藤君は、据え付けていたタイマーカメラを回収した。水産工学研究所は伝統的に、長期間(2週間以上)インターバル撮影するタイマーカメラが好きで、昔は超大型だったが、今はずいぶんと小さい。 無事浮上して 1時0分 浮上 終了  さて、戻ってからの映像整理だが、360カメラ2台のうち一台は、画像の下側が山型に突出した黒い部分があり、おかしい。原因究明の必要がある。 PC上で、切り取って、報告、ブログなどにつかうのだが、やはり短冊横型の切り取りが良いようだ。
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    下の写真は、下半分が持ち上がっていておかしい。カメラが悪いと思われる。

  とにかく、2019年の波左間、は潜り納めた。幸運にも凪がよく、透視度もよく、最高のコンディションだった。

1230  日記

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お台場ヘドロ調査、冬のヘドロはきれいなものです。


日記 2019ー12ー30
日記というと、三日坊主と連想する。自分の場合、3日ではなくて、3年坊主を一回、5年坊主を一回、一年坊主を一回、そのほかで、84年の生涯で、合計して10年ぐらい、日記を書いている。そのどれもが、すごく、有効。後になって、ものを書こうとするときに、役に立っている。2007年にブログを書くようになって、ブログを日記代わりのログと位置づけて、10年余になる。このブログ・ログを書き始めてから、日記は書いていない。いや、日記と題してブログを書いたことは、数回、もっとあったかな。
 ブログの上の日記とは、以前に書いた日記とは、趣を異にしている。ブログは、人に見せる、公開して居るもの、日記は秘匿する情報も含んでいる。どちらが良い、ユースフルかというと、記録としては、秘匿情報も含んだ日記のほうだが、何のために役に立つかと言えば、公表する文章を書くために役立つのだから、最初からブログを書いてしまった方が手間がかからない。それに、両方を書いている時間など無い。
 
 では、ブログで書く日記とは?特にテーマ、題を決めない、よしなしごとを、気ままに、ぶつ切りでも良いから書く。そんなことだ。
 
 何かを書くときにまず定義をするというくせは、あんまり良い癖ではないと思うけれど、自分の思考パターンなのだから、ときどき、こんなふうに書いてしまう。
 その日記だが。
 12月30日、もう今年は残すところ、あと一日と2時間か。
 今日は、銀行が業務をしている終わりの日。家賃とか、駐車場(これも家賃か)幸いにして、買掛金はない。あと、コンビニから電気代、ガス代、そして税金を払った。そうだ、税金と言えば、一つだけ残っている自分の会社アアクの均等割り、70000円を銀行から現金を引き出して、郵便局から支払った。これでもう、とりあえずの支払いはない。70歳で、経営していた会社から引退して、生きていく最小限度まで、縮まった。
 年末と言えば、年賀状が天の一角から落ちてくる。今年は、年賀状を書いている時間がなかった。年末のスケジュールが、自分の処理能力のいっぱいいっぱいだった。
 年賀状、もう、やめてしまおうと思ったこと幾たびか。でもやめてしまうと寂しいのだ。お正月に、いただいた賀状の返事だけ出すことにしよう。これも、最小限度の100枚にしよう。メールの通じる人には、メールで挨拶を送ろう。と心に決めて、郵便局で100枚を買おうとしたら、趣味に合わない印刷済みのものしかない。無いとなると、焦るのだ。車を駐車場から出して、何時もここならばある、という小さい郵便局に出向いた。予想通りにあって、100枚、6300円を買った。100枚では足りなくなることはわかっている、あと50枚買おうか?買わなかった。メール、もしくはメッセージをがんばることにしよう。
 明日、31日、年賀状作り、メールに添付する原稿を作ろう。かなりこれは忙しい。
 
 賀状を印刷しようとするとき、やはり、「賀正」「おめでとう」は、朱色にしてい。カラーインクが切れていて、僕のプリントはモノクロになっている。これから、アマゾンへの発注では、さすがに間に合わないだろう。ホームセンターへ行って、リサイクルのインクを買った。2200円。
 そのまま、ヨーカドーへ行って、映画の時間を見る。恒例のスターウォーズを今年も見るつもり。日本語吹き替えは聞こえないから、字幕版、だと18時だ。時間が合わないので、もしかしたら、明日にしよう。明日は紅白があるから、映画は空いているだろう、きっと。
 2階の紀伊国屋へ回って、「書くための文章読本:瀬戸憲一著」を手に取る。いまさら文章読本もないのだけれど、「文末問題」を論じていて、読んでおもしろそうなので、買うかどうか迷っていたものだ。読む本はたまっているのだから、買わなくても良いのだが。買った。
 
 29日、昨日のお台場、潜り納めのブログもかかなくてはならない。
 こんな日記を書いている時間があれば、順序としては、お台場のブログを書かなくては,なのだが、書くべきことが山ほどある。一日では終わらない。そして、「ダイビングの歴史」もたまっていて、今、学生のダイビングの部分を書いている。途中で載せると、完結しないので、全部書いてから、出そうとしているので、まだまだ路は遥かだ。
 明日31日は、年賀状と、年賀メールの原稿作り、そして、できれば、映画。
 元日は賀状作りとメール出し。これが大変だ。だから、先に映画を見てしまおうとおもっているのだが。
 
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 360度カメラが、今の僕の撮影研究テーマである。今、一番安い360度カメラ、PANO VIEW を2台使っていて、まだ極められないでいるが、これはこれとして、上級機種の RICOH THETA をさわってみたい。カタログを用意してあったので、調べたが、動画の録画時間が短い。それに水中ハウジングも買うと、7万弱になる。それに、これは、一緒に仕事をしている沿岸生態系リサーチもっているし、山本徹さんも使っている。もう一つの選択、INSTA 360 ONE-X を調べて、アマゾンに注文してしまった。明日31日に到着とか。本当か?すごいけれど、明日は事務所にいないだろう。
 1月7日の辰巳、初泳ぎに間に合えば、良いのだから。
 現在読んでいる、読みかけている本
 「皇帝フリードリッヒ二世の生涯 塩野七生」「DNA 鑑定 梅津和夫」そして、今日買った「書くための文章読本」ここまでは、新刊、「ニューヨーク散歩 司馬遼太郎」これはアマゾンだが、もはや、古典になっているのだが、やはり、おもしろい。後少しで終わる。「オランダ紀行」もアマゾンにでたら買おう。全43冊の大部分は日本の紀行で、かなり読んでいるが、今、これ以上日本についての紀行は読む気もしていない。
 フリードリッヒ 塩野七生は、十字軍物語の方が良かった。一人の伝記に絞ったものよりも、時代を俯瞰した地中海世界とかローマ人の物語の方が好みなのかな。ローマ人の方は、全部、ほとんど忘れてしまっていて、書架に保存の状態だが、読み直す時間も気持ちもない。
 とにかく、フリードリッヒ二世は、読了すると思う。

0101 日記と読書

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日記 31-1日
 31日 「完結 スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け」
 1977年が第一作だというから、40年余だ。そのほとんどを見た。全9作のうちで、7っは見ている。
 考えると辻褄のあわないところがずいぶんあるけれど、作り続けられた理由は、3D アイマックスができたからだ。3Dアイマックスは、スターウォーズとともにある。あった。完結編などと言っているが、復活は可能だ。ラストシーンで、あの光の剣を毛布に包んで砂の中に埋めている。掘り起こせば良いだけだ。
 もとより、荒唐無稽な空想の世界の出来ことなのだから、そのスターウォーズ・ワールドの中で、3Dでスカイウォーカーが超人的に躍動すれば良いだけだ。しかし、後で述べるように,その架空のワールドに矛盾があってはいけない。夢が破れてしまう。
 ストーリーはでたらめだったけれど、スターウォーズ・ワールドの綻びは、ほとんどなかったように記憶している。ストーリーは、でたらめだけど、ストーリーは、どうでも良いのだ。ジュダイがダークサイドを滅ぼして完結する。映像としては、うまく作られていた。そして、体育界系女子、ディジー・リドリーも悪くない。
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 スターウォーズを見て、戻ってきて、9時ごろから、紅白を見た。テレビは見ない習慣なのだが、年に一度、これは見る。(このことは、フェイスブックで書いたので、そのまま転記する)
 「紅白を21時ごろからみました。テレビ、知った人の作った番組以外では、これだけは、見るのです。良かれ悪しかれ、これで、その年の世情がわかる。オリンピックイヤーとかで、スポーツ一色でした。そして、オリンピックは空虚、ラグビーはチームのほとんどが来ていて、ユーミンが歌って、(歌詞は全然聞こえない)涙を流していて、ちょっと良かった。そう、ラグビーが収穫だった年、競技そのものもだけど、外国人選手が日の丸のもとで、桜のジャージを着て戦い、日本人が何の違和感も無く、感動したこと。
 そして、歌では、歌だか踊りだかわからない支離滅裂の中で、ただ聞こえたのは、「さよならあなた、連絡船線に乗り」。連絡船って、今の子たちはわかるのかな。船の科学館、羊蹄丸が無くなってしまったこと、悲しい。」
 とにかく、映画もテレビも音楽も耳が悪くて、明瞭に聞き取れないのだから、良いも悪いもない。
 
 あけて、2020年、新年だ。デンマークの竹川さん、法政OBの山中さんら、大学潜水クラブOB関係へのメールを出す。メールの原稿はすでにつくってあって、それを推敲して出す。
 シンポジウム報告と映像をファイメールでだす。なぜか、シンポジウム報告をグーグル添付で出そうとしたら、サーバーに拒否された。
 表に出て、深川富岡八幡経由で事務所に行き、届いている年賀状をピックアップするつもり。街はそれほど混雑していない。縁日で名物のベビーカステラの行列も長くはない。縁日の露店、新しい店がいくつか、「コットンケーキ」って、綿菓子を薄いプラケースに入れたもの。プラスティック公害の見地からは望ましくないな。どーでもいいけど、と言ってはいけない。問題にしなければ。
やはり、どーでもいい。
 いい天気だけど、風が冷たい。海は時化だ。元旦の初潜りは無理だろう。波佐間の海底洲崎神社の参拝が少なくなるのでは、と心配する。
 不動尊は、混んでいることがわかっているから素通り、八幡宮の方は、ちょうどいいくらいの列だ。20分ほどで、お賽銭をあげることができた。不景気のため、お札は少ないみたいだ。
 
 来ていた年賀状は、100枚前後、選んで、60通に返事的に、100枚用意した賀状に宛名をプリントした。賀状、拡大の時には、この人にも出そう、名刺をいただいたあの人にもご挨拶しようと、拡大していくが、あけて85歳、縮小の方向だ。やむを得ない。
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 できた賀状を出しに行き、ポストの向かいにあたるブックオフが元旦から、まじめに店を開けていて、割引もあるので、①作家と一日 :吉田修一:この人がANAの機内誌に書いている小文が好きで、小説は肩が凝るので、読まない。その小文集 ②沖縄・先島への道:司馬遼太郎、たしか前に読んでいるはずだけど、読み直してもいい。110円だから。③米国製エリートは本当にすごいのか:佐々木紀彦 おもしろそう。そして、ここまでは文庫で、④だいこんダイバー : 赤木正和・田中光嘉 2008年の著作だ。田中光が、こんな本を書いているって知らなかった。だいこんが減圧症の原因になるって本だ。おもしろそうで、読めそうだ。⑤ひと息で挑む紺碧の世界:なぜか亡くなってしまった木下紗祐里の半ば写真集の本だ。好きな子だったのに、なぜ?一月元旦、
なぜか亡くなった友人二人の本と出会った。
 
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 読んだ本の書評をしようとしていた。ついでに書いてしまおう。
 「星系出雲の兵站:林譲治」これは、ここまで、6冊出ていて、スターウォーズだけど、次、続きがでるのを楽しみに待っている。実は今、この手のファンタジー、宇宙戦争ものがブームなのではないだろうか。僕は、そのほとんどに目を通している。書く時間もないし、めんどうだから書かないけど、権威かもしれない。大した権威ではないけど、面白いのだ。
 「十二国記 小野不由美 白銀のオカ 玄の月 」十二国記は、フアンで、ほとんどが書架に保存になっている。今度のこれは、出版社、新潮社の鳴り物入りの宣伝で、1000万冊とか。
 18年ぶりの書下ろし、つまり、18年間抛っておいた作品の続きだ。そして、全4冊だ。
 これは、はっきり言って、詐欺のような小説だ。これまでの十二国記ならば、上下2冊だっただろう。上記のようにファンタジー戦争ものがブームなので、それに乗ったのだろうが。
 4冊にしたために、テンポが緩くなった。全4冊を3冊だけ買って読んだのだが、それでも緩い。そして、この本、十二国記は、もちろん荒唐無稽、、スターウォーズは、これに比べれば、かなり現実的?な世界なのだが、作られた世界に嘘がなければ、矛盾がなければ、なんでもありなのだが、ひどい矛盾がある。この世界で神格を持つような人たち?は、騎獣という空を飛ぶ騎馬に乗って移動している。十二ある国から国へは、これに乗って飛んでいく。幽閉された王を、戦いで腕を一本なくしている女性の将軍がこれを探し出すのだが、探し出した後、空を飛ばずに、森の中を歩いて移動していて敵につかまってしまう。それをもう一度救出するのに一冊を使っている。ファンタジーであるから、作者の頭の中で作られた嘘の世界なのだから、それに矛盾を重ねてはいけない。
  

0109 ダイビングの歴史89

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 ※巻頭の図に何を持ってこようか、日本潜水科学協会の機関誌どるふぃん、にしようか。
  結局1956年に、僕にダイビングを教えてくれた、白井祥平先輩の写真にした。
  手にしているのは、ニコンマリン、奄美大島でs、撮ったのは、たしか僕だった。
       
 ダイビングの歴史89


 9月5日にダイビングワールドの76年3月号について書き、以後、ダイビングの歴史停滞している。
 その後、お台場について書き、シンポジウムの準備から、実施、シンポジウムについて書くことが多く、ダイビングの歴史に時間を割けなかった。
 シンポジウムで発表したように、「リサーチ・ダイビング」も書き始めるし、難航が続くが、あきらめたわけではない。
 
 はじめに(再開するにあたって)


 歴史とは、俯瞰して大づかみに見る歴史と、細部に立ち入り個人の生きている道筋をたどるような、寄りの目で見る歴史がある。もちろん、その中間もある。大きく俯瞰して見るダイビングの歴史は、結果、結論の並記であって、年表とその解説ですむ。その部分は、だいたいできあがっている。
 できあがっているが、それだけでは、自分が書くという意味、苦労して本を書く、つくるという意義がないと思うようになった。寄って観る自分主観の細部こそが書きたいこと、書き残しておかなくてはいけないことだと思うようになった。
 このごろ、グーグルアースをよく見るのだが、地球全体から寄っていって、街角、自分の住んでいる場所まで寄れる。そして、平面で見るか、3Dにするかも選択できる。歴史も同様で、どこまで寄るか?どの視点でとめるか、どの角度から見るか?がポイントになる。
 ダイビングの歴史のように、限定されている範囲の歴史では、俯瞰は年表で事足り、寄ってみられる細部が重要、必要だと考える。
 細部は、ノンフィクション、物語のようなものでもある。
 ノンフィクションも物語も、生身の人間が書いている。主観を通している。
 自分のこと、自分の意見を書いておくことも意味があり、価値があると思う。例えば今の時点で、1970年代の雑誌「海の世界」を読み解いていて、菅原久一さん、猪野峻先生らが、自分のこと、自分の主観でダイビングのことを書いたものがあると、それは貴重な資料である。グーグルアースの、その時代の街角が見える。
 既に、自分のことは、ニッポン潜水グラフィテイで書いているが、自分のことが中心、ほとんどで、その時代の歴史としては書いていない。
 これまで、なにかと教本、マニュアルの類を書いていたことが多かったので、客観的に見て正しくなければいけないのではないかと思っていた。しかし、それは、PADI やNAUIなどのマニュアルで充分である。須賀次郎というダイバーが、歴史の視点で書いたものが良い。アメリカにはそんな本がたくさんある。もちろん、個人の主観だから異論はあると思う。それはちがうと、できるだけ資料の裏付けがあるもの、集めた資料よって、資料について、自分の主観、考えを通して書いて行く。事実としてでたらめではいけないので、できる限り、裏付けとなる印刷物を資料として集めている。
 その資料に基づいて、自分の位置、自分のその時の位置から書こうとしている。


 今現在、書こうとしていること、自分でなければ書けないこと、書かなくてはいけないと思っているテーマの主な項目であげると、
 ①学生のダイビング 主に関東学生潜水連盟について
 ②競技会 フリッパーレースについて
 ③日本の指導団体、指導組織について、揺籃期1967年から1980まで。
  日本潜水会 全日本潜水連盟 そしてNAUI、PADIなどアメリカ生まれの団体が、日本にやってきた、その揺籃期について。NAUIもPADIも、日本に入ってきて大変貌を遂げている。その変貌ぶりは、日本の団体の比ではない。そのことも、歴史としては書いておかなくては、この部分に一番、異論がありそうだが、そのことも期待して、自分の視点から書きたい。
 ④リサーチ・ダイビング 人工魚礁調査について
 これは「リサーチ・ダイビング」と言う本を別に企画しているが、その本も自分が書くと、どうしても、歴史がその背景になる。それで、良いと思っている。

 この四つについて、まず順に書いて行こう。


 なお、1980年までは、自分のダイビングがレジャーイビングとしても、スタンダードだと思っていたし、王道だったと思う。
 1980年代以来、リサーチ・ダイビングと撮影に進路を向けたので、レジャーダイビングについては、今現在の実情からは、偏っていると思うが、それはそれで、歴史の視点から見たものとして、価値があるだろうし、それで良いと思っている。
 自分と同じ考えを読んでも面白くないし、ためにもならないだろう。違う視点から書かれたものを読んで、考えたり。反論したりすることに意味があり、価値が生じる。
 ここまでは、まえがき、コンセプトなのだが、書き進んでいくうちに、フィードバックして前書きも変わっていく。最終的に出版原稿となるときには、がらりと変わったものになっている可能性が大きい。また、ちがって、進歩したものになっていることが望ましい。
 
 ダイビングについて、書こうとすると、その部門の如何にかかわらず、どうしても、その安全管理と危機管理が、背景、基調になってしまう。それはそうだ。生きて無事に成果を持ち帰ることが目標の第一なのだから。事故から事故へ、飛び石のようになってしまう。
 成果というと、リサーチ・ダイビングならば、調査記録になるが、「楽しかった」「生きる力を汲み上げた」も成果として重要である。そして、それが、レクリェーションの成果である。


ダイビングの歴史 INDEX

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ダイビングの歴史 INDEX
ダイビングの歴史節目なので、ここから書くために、これまでのダイビングの歴史ブログのインデックスを作った。それにしても、よく書いたと思う。今度書き始めたシリーズと 年表を整備して、コラムを入れて、全体を削って形を整えられれば、(自分では難しいかもしれないが、)ダイビングの歴史の出版ができる、
https://jsuga.exblog.jp/27997798/
2018 0113  ダイビングの歴史スタート
https://jsuga.exblog.jp/28002849/
0115 ダイビングの沿岸漁業(潜水漁業)
https://jsuga.exblog.jp/28083153/
0207 スクーバダイビング事故の歴史 1 1954
https://jsuga.exblog.jp/28089440/
0209 事故の歴史 2 人工魚礁調査
https://jsuga.exblog.jp/28093855/
0211 関東学生潜水連盟  50周年
https://jsuga.exblog.jp/28121107/
0213 スクーバダイビング事故の歴史 3  東京アクアラング 浮島での事故報告

https://jsuga.exblog.jp/28162595/事故の歴史 4 1968年学生のスキンダイビング事故 東京商船大学 ダイビング同好会の事故

https://jsuga.exblog.jp/28190484/
0314 スクーバ の歴史5 講習の歴史 ここからは、事故の歴史ではなくて、通常の歴史になっているが ブログのタイトルでは事故の歴史になっている。なおさなくてはいけない。
https://jsuga.exblog.jp/28195877/
0317 スクーバの歴史6 ドルフィン
https://jsuga.exblog.jp/28204876/
0322 スクーバの歴史 7 水中科学協会の消滅
https://jsuga.exblog.jp/28216038/
0327 ダイビングの歴史 8 日本潜水会
https://jsuga.exblog.jp/28227931/
0402 ダイビングの歴史 9 海中開発技術協会
https://jsuga.exblog.jp/28258601/
0420 スクーバの歴史 10    海中開発技術協会 役員の推移他 
https://jsuga.exblog.jp/28267965/
0423 ダイビングの歴史 11   海中開発技術協会
https://jsuga.exblog.jp/28326249/
0522 ダイビングの歴史 12  海中開発技術協会と全日本潜水連盟
https://jsuga.exblog.jp/28345099/
0602 ダイビングの歴史13 日本国籍潜水指導団体の推移
https://jsuga.exblog.jp/28669659/
0920 ダイビングの歴史 11  ここで番号がおかしくなっている 本当は14だがこのままいく。
世界海洋探検史 宇田道隆
https://jsuga.exblog.jp/28680733/
0924 ダイビングの歴史13  沈黙の世界
https://jsuga.exblog.jp/28680738/
0924 ダイビングの歴史 15
どるふぃん 1-2(1957) より 太平洋炭鉱
https://jsuga.exblog.jp/28683042/
0925 ダイビングの歴史 16 後藤道夫と自分の個人年表
https://jsuga.exblog.jp/28686264/
ダイビングの歴史「17 1958  どるふぃん 2-1 から
https://jsuga.exblog.jp/28687813/
0927 ダイビングの歴史 18 後藤道夫年表 1
https://jsuga.exblog.jp/28692858/
ダイビングの歴史19 どるふぃん 1959
https://jsuga.exblog.jp/28694876/
ダイビングの歴史 20  1960  後藤道夫年表
 このあたり、後藤アクアティックの写真がいくつか出ている
https://jsuga.exblog.jp/28698138/
1001 ダイビングの歴史 21 どるふぃん
どるふぃん 3ー3 1960 3月
https://jsuga.exblog.jp/28704654/
1004 ダイビングの歴史22 後藤メモ
https://jsuga.exblog.jp/28708792/
1006 ダイビングの歴史 23
どるふぃん 6ー1 1962 夏号 真鶴問題が出ている。
https://jsuga.exblog.jp/28711786/
1007 ダイビングの歴史 24 どるふぃん
「どるふぃん」 6・2 1962 秋
https://jsuga.exblog.jp/28714099/
1008 ダイビングの歴史25「どるふぃん」 6・3 1962 冬
どるふぃん 7-1まで、見るところ多々
https://jsuga.exblog.jp/28717557/
1009 ダイビングの歴史 26 どるふぃん  戦艦陸奥のコラム 浅利熊記氏について
https://jsuga.exblog.jp/28719912/
1010 ダイビングの歴史27 広告   東京アクアラングサービスの広告
https://jsuga.exblog.jp/28724201/
1012 ダイビングの歴史 29 1964  
どるふぃん 7ー4 1964 春
どるふぃんに 館石 須賀のチャレンジが掲載されている。
日本クレッシイサブ 千尋商事,
https://jsuga.exblog.jp/28727374/
ダイビングの歴史 30  どるふぃん 1964夏
工藤さんの下田ー大島間潜水
https://jsuga.exblog.jp/28742948/
1019 ダイビングの歴史 31   1964 秋
竜宮城の話
https://jsuga.exblog.jp/28748652/
1021 ダイビングの歴史32 どるふぃん  1965秋
https://jsuga.exblog.jp/28751511/
1022 ダイビングの歴史33 1965
どるふぃん 水中写真特集号 これが最終号
https://jsuga.exblog.jp/28761783/
1026 ダイビングの歴史 34 スピアフィッシング
https://jsuga.exblog.jp/28768516/
1029 ダイビングの歴史35  日本潜水会の発足
https://jsuga.exblog.jp/28832918/
1107 ダイビングの歴史 番外 デンマーク  デンマークの竹川さんのこと
https://jsuga.exblog.jp/28842181/
1111 ダイビングの歴史37    海中居住 1 マンインシー
太陽の届かぬ世界
https://jsuga.exblog.jp/28844780/
1112 ダイビングの歴史  38
  海底居住2 コンシェルフ
https://jsuga.exblog.jp/28847175/
1113 ダイビングの歴史 39  日本のシートピア
https://jsuga.exblog.jp/28852037/
1115 ダイビングの歴史 40    ハンネスケラーの大深度潜水
https://jsuga.exblog.jp/28866724/
1121 ダイビングの歴史 41 海中居住  海中居住学 関邦博
https://jsuga.exblog.jp/28869669/
1122 ダイビングの歴史 42 海底ハウス
  歩号
https://jsuga.exblog.jp/28907431/
ダイビングの歴史 43 後藤道夫メモ
https://jsuga.exblog.jp/28913537/
1129 ダイビングの歴史 整理
https://jsuga.exblog.jp/28919937/
1201 ダイビングの歴史 45 水中撮影
https://jsuga.exblog.jp/28935988/
1205 ダイビングの歴史46 潜水と水中撮影入門  後藤道夫と共著
https://jsuga.exblog.jp/28969608/
1213 ダイビングの歴史47
 1954年の 水産大学での事故について
https://jsuga.exblog.jp/28972614/
1214 ダイビングの歴史 48 1954年の事故2
https://jsuga.exblog.jp/28983967/
1218 ダイビングの歴史 49 1957年のスクーバ講習
https://jsuga.exblog.jp/29029314/
1220 ダイビングの歴史 50 1954年の事故  残された碑について
https://jsuga.exblog.jp/29036617/
1222 ダイビングの歴史51 整理
https://jsuga.exblog.jp/29049124/
     1227 アルピニズムと死
     
https://jsuga.exblog.jp/29178420/
0110 ダイビングの歴史 54 昭和史、平成史
https://jsuga.exblog.jp/29303570/
0311 ダイビングの歴史 52 ブルーゾーン 1
https://jsuga.exblog.jp/29305513/
0312 ダイビングの歴史53 ブルーゾーン2
https://jsuga.exblog.jp/29312886/
0316ダイビングの歴史54ブルーゾーンロレックス杯水中スポーツ選手権大会
https://jsuga.exblog.jp/29316207/
0317 ダイビングの歴史 55 ブルーゾーン ロレックス杯 2
https://jsuga.exblog.jp/29325370/
0323  ダイビングの歴史56  マリンダイビング創刊1969
https://jsuga.exblog.jp/29329100/
0325 ダイビングの歴史57 海の世界 1968-02
龍泉洞地底湖 越智さん        これ、雑誌のコピーやり直しの要あり
https://jsuga.exblog.jp/29330831/
0326 ダイビングの歴史58 海の世界 1972-01
海洋博を待つ
https://jsuga.exblog.jp/29332696/
0327 ダイビングの歴史 59 海の世界 1972-04
https://jsuga.exblog.jp/29334947/
0328 ダイビングの歴史 60 海の世界72年5/10  潜水艇はくよう
https://jsuga.exblog.jp/29338389/
0329 ダイビングの歴史61 海の世界1973-1  船の科学館建築中
スピアの是非をめぐって
https://jsuga.exblog.jp/29345769/
0403 ダイビングの歴史 62 海の世界 1973年-2
流氷潜水
https://jsuga.exblog.jp/29356727/
0409 ダイビングの歴史64 ライフジャケットからバランシングベストへ
https://jsuga.exblog.jp/29363870/
413 ダイビングの歴史65 海の世界73-10 スノーケリング
https://jsuga.exblog.jp/29382268/
0222 ダイビング事故の歴史 index
https://jsuga.exblog.jp/29384211/
0423 ダイビングの歴史 66 海の世界  水中オリエンテーリング
https://jsuga.exblog.jp/29387936/
0425 ダイビングの歴史67 海の世界
マイヨール新記録  事故について 須賀の連載はじまる。
https://jsuga.exblog.jp/29389681/
0426 ダイビングの歴史68 海の世界2974
 スポーツダイバーの事故 須賀 宇野澤インタビュー
https://jsuga.exblog.jp/29391633/
0427 ダイビングの歴史69 海の世界1974
田中さん海底居住  シートピア計画
https://jsuga.exblog.jp/29419078/
0513 ダイビングの歴史 70 海の世界 1974年 5月
各指導団体のカード、 工藤さんの論
https://jsuga.exblog.jp/29424371/
0516 ダイビングの歴史 72 海の世界 1974-07
船の科学館 開館
https://jsuga.exblog.jp/29426004/
0517 ダイビングの歴史 72 海の世界1974-7月  また72はダブり
菅原久一さん 稲葉さん
https://jsuga.exblog.jp/29439157/
0525 ダイビングの歴史 73 海の世界74年 8月
海中公園特集
https://jsuga.exblog.jp/29457685/
0605 ダイビングの歴史74
スピアフィッシングの時代は終わった 須賀
https://jsuga.exblog.jp/29497146/
0629 ダイビングの歴史 75
沖縄の珊瑚を奪ったのは誰だ  白井祥平
ブームを呼ぶコンパス競技
内浦湾
大瀬館の50年史
https://jsuga.exblog.jp/29500379/
0701 ダイビングの歴史 76
プレ沖縄海洋博
https://jsuga.exblog.jp/29505204/
0704 ダイビングの歴史 77
海の世界 DOスポーツプーる紹介
海は誰のもの、スピアフィッシング論議 まだこんなことやっていた。
https://jsuga.exblog.jp/29509796/
0707 ダイビングの歴史 78
イルカ特集 鳥羽山さんの意見。大地のイルカ漁
NHK 撮影班の話
https://jsuga.exblog.jp/29554977/
0803  ダイビングの歴史 80
海の世界 1975年 6月
海底居住の話
ウミガメを食料に 倉田洋二
https://jsuga.exblog.jp/29556338/
0804 ダイビングの歴史81 海の世界 1975-7月
後藤道夫、海洋博用大型映像の撮影 大型カメラでカリブ
ダイビングは危険なスポーツか
https://jsuga.exblog.jp/29557936/
0805 ダイビングの歴史82海の世界 75-8月
全国潜水スポット100選
https://jsuga.exblog.jp/29603222/
0822 ダイビングの歴史83 海の世界1975-9-10 海洋博
海洋博めぐり
海洋博 ダイバーズフェスティバル
ダイバーは未来へ第一歩を踏み出した 須賀次郎
https://jsuga.exblog.jp/29611360/
0828 ダイビングの歴史 84 ダイビング・ワールド 75-05
ダイビングワールド創刊
内浦湾、海底ハウス訪問
https://jsuga.exblog.jp/29611627/
0828 ダイビングの歴史 85 1975 DW 11
沖縄でダイバーの祭典  須賀
工藤さんはけなす意見。
https://jsuga.exblog.jp/29616799/
0831 ダイビングの歴史 86 DW76-1
海洋博、潜ってしゃべって 益田安規子
https://jsuga.exblog.jp/29619032/
ダイビングの歴史 87 DW1976-2
シートピア 100m成功
スタッフの表が発表されている。
この号から、須賀の連載 「青い大きな海へのちっぽけな挑戦 」がはじまる。
https://jsuga.exblog.jp/29624565/
0905 ダイビングの歴史88 DW76-3
富戸の港が血の海 イルカ漁
第一回潜水技術シンポジウム 潜水用機器展 海中協がやったのだが、成功したのに続かなかった。青い海の連載が終わるまで、この手法続けたかったが、著作権法が気になってしまって、やめた。[青い海]は,自分の書いたものだし、傑作だったと思っているので、この部分だけ、ブログに掲載しようと思っている。


人工魚礁研究会 INDEX

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人工魚礁研究会  INDEXhttps://jsuga.exblog.jp/29378922/が1回から28回までの人工魚礁研究会の INDEX である。 これに引き続いて、29回から 2020年までの2019年分を まとめておく。 5月22日 
 第24回 人工魚礁研究会  24回は間違い、29回になる。https://jsuga.exblog.jp/29437438/
 参加メンバーは 須賀 寺内羊子 鶴町雅子 山本徹 高野道夫さんと、東大海洋調査探検部 田村陸(3年) 實藤未来(2年女子) 内田大河(2年)秋に研究発表をおこなう東大探検部のメンバーが 充実した調査をおこなった。透視度は良く、一回目FP4m 二回目 ドリームブログも、良いブログだった。 6月23日第30回https://jsuga.exblog.jp/28408288/須賀 増井、小俣、鶴町、佐藤、中川、それにサイドスキャンソナーの国方の7名。土曜なので波左間は満員 7月は豊潮丸航海に参加したため、行わなかった。 8月11日第31回(ブログでは26回になっている)https://jsuga.exblog.jp/29567072/ 須賀 山本徹 早崎 増井 高野 鶴町 奥村 福田 東大探検部 田村陸 實藤未来 内田天気がよく、透明度も最高で、福田君の撮影で、東大探検部の素晴らしい映像が撮影できた。12月の日本水中科学協会シンポジウムの良い題材になった。 9月14日第32回https://jsuga.exblog.jp/29638868/ 台風15号は、館山に未曾有の被害を与えた。台風は8日の夜半から9日の早朝に通過山本、増井、小俣、早崎、は、参加を表明し、それに中川、国方が加わり、鶴町雅子は潜水ではなく様子見、後かたづけ、にくる。潜水は一回だけ、FP4m水中の状況は悪くなかった。 11月15日第33回https://jsuga.exblog.jp/29771604/佐藤允昭、山本徹、早崎、高野、鶴町、そして須賀の6人、時化が予想されたが行って良かった。FPから、ドリームへ、 360度カメラのテストは、一応の成果を得ることができた。 12月26日第34回https://jsuga.exblog.jp/29852999/ 押し詰まって、行くかどうしようか迷ったのだが,行ってよかった、透視度がよかった。一回目FP4mのブイがなくなってしまって、3mFPからタイヤ魚礁経由でドリームに行った。このコースはなかなか良くて、次回もこのコースをやりたいと思わせられた。佐藤君の長期間インターバルカメラが設置されていたので、どうしても、FP4mに行かなくてはならない。荒川さんがスクーターで探した。この季節何に、魚は多く、特にイシガキダイが目立って多かった。 人工魚礁研究会  INDEX継続について アマチュア・ボランティアダイバーとして、水中の生物、事物について調査研究することの手法として大事なことは、継続だと考える。継続観察、撮影してその移り変わり、遷移を記録する。その記録から何かを見出して研究を進めるのは、研究者の分野で、その研究者に継続観察してきたアマチュア・ダイバーがなって、アマチュア研究者になっても良いし、プロの研究者に資料提供しても良いし、一緒に潜水して協力しても良い。 ここで重要なのは継続するということ、自分は長らく調査会社を経営して来たが、プロの調査会社で出来にくいことは、継続なのだ。フィールド調査の多くは公的な予算で行われるが、予算は一般的には3年単位、悪くすれば単年度、一年で終わる。継続する予算であっても、ほぼ毎年、入札によって業者が選定される。一つの調査会社が継続して、受けることは難しいのだ。 調査会社でなく、公的な研究機関、研究所が行う調査であっても、よほど重要なテーマであり、成果が見えないと継続は難しい。 よく、「継続は力なり」などと言われるが、継続は難しいのだ。継続のモチベーションを高めるために、継続の証、第何回というタイトルをつかう。お台場の潜水、東京港水中生物研究会の調査は、現在、次の4月末の調査で169回を迎える。僕らのやるような、ちいさな活動では、100回を越えれば、実績として誇ることができる。 人工魚礁研究会の全記録を確認する。 2014年の3月3日が第一回で、2019年4月15日、直近で28回になった。各回、必ずブログを書くことを義務づけているから、ブログをたどって行くことができ、各ブログのURL を記入したリストを作り、これもブログに載せて置くことで、タブレットで何時でも何処でも参照、見直すことが出来て、使うことが出来る。こんなことは、初歩の初歩なのだろうが、異図してやっていない。なにしろ、何回目になるのか数えることもしていなかったのだから。  この手法でブログに書きためているダイビングの歴史も整理出来る。心配なのは、ブログというデータバンクが、ある日突然消失してしまうことだ、この消失を、この業界で大手であり、会費も高いニフティに突然にやられてしまったのだ。ニフティとは縁を切ろうと決めているのだが、辰巳の練習会の掲示をしているので、なかなか出来ない。 とにかく現在のところ、EXブログは大丈夫そうだ。  話を人工魚礁研究会にもどして、このブログデータリストを共有する事で、グループメンバーにここまでの、成果を知らせてここから先を目指すことができる。このリスト・indexを日本水中科学協会のホームページに掲載することで、共有の幅を広げることが出来て、日本水中科学協会の成果にすることもできる。  僕のブログ科学研究者の論文・報告とはかなりへだたりがある。しかし、それ故に読みやすいともいえる。 以後、このINDEXに、その内容要約を書き加えて行くことで、仕上げて行くことが、できる 第1回
2014年3月3日
https://jsuga.exblog.jp/22183077/
https://jsuga.exblog.jp/22188414/2014年3月3日 をこの研究会プロジェクトの第一回とする事にした。 目標:この研究会は、2012年からスタートし、一応の成果を納めているウエアラブルカメラ研究会の延長線上で、その実際的な応用例を試行していく。 本来は、それまで調査を続けてきた塩見の魚礁に潜る予定が時化で潜れずに波左間に廻り、ドリームに潜る。第2回
2014年8月23日
https://jsuga.exblog.jp/23216513/山本徹 清水まみ 須賀 ガイドは荒川さん FPに潜水、ロゴシーズのテストもする。 イサキの群が見事。第3回
2014年10月31日
人工魚礁調査
https://jsuga.exblog.jp/23665178/水深30m 高さ12mの鋼鉄魚礁 魚礁の図3台のウエアラブルカメラを垂直にロープ連結してインターバル撮影をする。3連のウエアラブルカメラ撮影は成功した。 第4回
2014年12月26日
インターバル撮影
https://jsuga.exblog.jp/23927525/
https://jsuga.exblog.jp/23933795/
https://jsuga.exblog.jp/23945416/福田 小俣 清水 須賀水平ラインに延縄式にウエアラブルカメラを付けて設置する。0、8角の魚礁に設置ロープが細くて絡んでしまう。メアジの群、イサキの群。2mの延縄にイサキの群は入らない。上空の群は目視で記録。 第5回
2015年 2月 16日
https://jsuga.exblog.jp/24141858/
https://jsuga.exblog.jp/24143698/
https://jsuga.exblog.jp/24148149/ウイング 垂直翼を付けた11台のウエアラブルカメラを沈める。これによって波左間魚礁群全体のサカナの蝟集状況を調べようとした、100mのラインに10m間隔でカメラをつけた。結果、魚礁と魚礁の間に魚は居ない。キタマクラだけがふらふら出歩いているだけ。
☆2015年3月
漁港漁村漁場研究所 研究会発表
https://jsuga.exblog.jp/25492558/
https://jsuga.exblog.jp/25496100/第6回
2015年 4月11日
https://jsuga.exblog.jp/25649436/
https://jsuga.exblog.jp/25653421/第1回調査でもねらった、波左間の隣の隣区域塩見の魚礁を目指した。 整然と積まれたドリームと対照する乱積みの魚礁。 もう一つ僕もその製作コンセプトに関与したカネクラ魚礁を探した。これは、時間切れで、探したにとどまった。

第7回
 2015年 9月14日
 吊り降ろし 11台のカメラを2台づつ5ヶ所に入れた。
https://jsuga.exblog.jp/24897445/ 
 33m 鉄骨4本柱型 潜水と吊り降ろし
https://jsuga.exblog.jp/24903943/33m線にある4本タワーの鉄骨魚礁に8基のカメラを下ろした。 吊り降ろし 11台のカメラを2台づつ5ヶ所に入れた 第8回
 2015年 11月16日
 宮内のROV 小俣さん
 ハウス型 スカスカの鉄骨
https://jsuga.exblog.jp/25093478/宮内のROVを走行させた ROV とダイバーのコラボレーションが良いのではないか。

第9回 
 2016年 1月 15日
https://jsuga.exblog.jp/25269865/ガーミンで捜索、13番の鉄骨魚礁サカナは少ない。☆ここまでのインターバル撮影のまとめ。吊り降ろしのまとめ
 2016年 1月 21日
https://jsuga.exblog.jp/25288017/第10回
 2016年 2月20日
https://jsuga.exblog.jp/25379259/https://jsuga.exblog.jp/25381216/
水深33mの鉄骨 1番の魚礁に5台のカメラを下ろす。 3連が1本 2連が1本 第11回
 2016年 4月11日
https://jsuga.exblog.jp/25649436/
https://jsuga.exblog.jp/25653421/ガーミンと、魚探で 塩見の魚礁を見に行く。 波左間から館山方向に、西崎 塩見 香 大賀と組合の地先(領分)があり、房総半島先端にむかって波左間から板田 洲崎となる。 この計画の第一回目に行こうとしていたところである。 沖側に、波左間のドリームに対応するような乱積みの魚礁がある。 整然と積まれたドリームとの比較、対比ができる。 岸側には、開発に関わったカナクラ型魚礁が入れられている。 時間切れで、カナクラは発見しただけで終わった。 第12回
 2016年5月18日
45mの鉄鋼製魚礁にもぐる、
そして0。8ブロック
https://jsuga.exblog.jp/25810945/第13回 
 2016年 6月30日
https://jsuga.exblog.jp/25971960/ 鋼鉄45mにカメラを設置する。設置だけ、潜水はしない。 FP21に潜る 二本目は浅いエビ魚礁から潜って 高根に浮上するコース 西崎の組合 隣に西崎の魚礁に潜るお願いにいく。 第14回
 2016年8月4日
FPに潜る、イサキが群れていた。
https://jsuga.exblog.jp/26081745/以前、2年間、毎月通った、西崎のハウス型魚礁に向かったが、それは見つけることが出来ずに、代わりにFPを見つけて潜る、イサキが群れていた。 ☆8080テスト 2016年 9月
https://jsuga.exblog.jp/26163588/
インターバル撮影☆2017 6月4日 5月22日の メガマウスシャーク
https://jsuga.exblog.jp/26913359/
https://jsuga.exblog.jp/26916082/第15回
 2017年6月30日
ドリームとアオリイカ産卵
https://jsuga.exblog.jp/26960239/第16回
 2017年8月26日
イセエビ礁 なぜイセエビが入っていないのだろう。
https://jsuga.exblog.jp/27075557/第17回
 2017年9月15日
https://jsuga.exblog.jp/27117270/ 昔の天然礁 松根の上にFPが載っているのに驚いた。 FPにサカナは集まっているが、松根は、海藻がなくなり、寂しくなってしまっている。 第18回
 2018年 1月18日
ドリーム
https://jsuga.exblog.jp/28014801/☆2月26日 28日 潜れサカナくん ロケ
https://jsuga.exblog.jp/27117270/
https://jsuga.exblog.jp/28171170/
 
第19回
 2018年 3月24日
0、8角 ミギマキの群
https://jsuga.exblog.jp/28209266/ 2018年4月2日
人工魚礁研究会について
https://jsuga.exblog.jp/28225681/ 4月7日 人工魚礁研究
https://jsuga.exblog.jp/28235489/第20回
 2018年4月26日
 18年度予備調査 大型FP 
 ドリーム 360度カメラ
https://jsuga.exblog.jp/28272172/第21回
 2018年 5月19日
 大型FP
 このあたりから、ログなど 現在のスタイルになる。
 調査のフォーマット(須賀としての)が決まった。
https://jsuga.exblog.jp/28320415/
第22回
 2018年 6月23日
 水産工学研究所の佐藤允昭君が加わる。
 国方君サイドスキャン 
 自分のカメラシステムも 決まる
 FP礁
台風で中止が続く
https://jsuga.exblog.jp/28408288/第23回
 2018年10月18日
 FPとドリーム
 11月が中止
https://jsuga.exblog.jp/28740594/第24回
 2018年 12月8日
 FPとドリーム
 須賀 山本徹 早崎 東大探検部 石原 東大探検部 田村 高野 小俣 ガイド荒川
https://jsuga.exblog.jp/28959004/第25回
 2019年  1月16日
 波高く ドリームだけ。オオモンハタ
https://jsuga.exblog.jp/29200630/第26回
 2019年  1月30日
 FP21とドリーム
https://jsuga.exblog.jp/29244983/☆2019年2月 シンポジウムでの発表
https://jsuga.exblog.jp/29257853/第27回
 2019年 2月20日
https://jsuga.exblog.jp/29270608/ 魚類記録表を掲載 このスタイルで今後の調査は行われていき、この記録表に沿った監察を続けていく、結局、このような一番クラシックな方法とウエアラブルカメラの組み合わせが自分たちにできる最終的なスタイルだろう。
3月は中止第28回
 2019年4月15日
 FP21 とドリームに定着する。
https://jsuga.exblog.jp/29376979/


人工魚礁 補遺2015年 09月 18日 0918 インターバル撮影 https://jsuga.exblog.jp/24911680/2015年 11月 10日 1110 人工魚礁、波佐間人工魚礁について https://jsuga.exblog.jp/25075481/2015年 11月 17日 1117 ROVとダイバー https://jsuga.exblog.jp/25097901/2016年 02月 27日 0227 インターバル撮影の沿革https://jsuga.exblog.jp/25414129/

0111 ダイビングの歴史 101 学生のダイビング

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写真は1958年、東京水産大学 一級上の竹下徹先輩
 着ているウエットスーツは、独立気泡ではないスポンジ クストーらが映画沈黙の世界で着ていたものと同じ(多分)背負っているタンクは、フランス、スピロテクニックのアルミ製 手にしているフィンはチャンピオン、足元には、竹下さん自作の二眼レフカメラ(ハウジング)が置かれている。大学4年で、手探りでカメラを作り、とにかく写ったのだ。海は、人間が飛び込んで行ける本当に、フロンティアだった。
 僕らはフロンティアを目指した。


ダイビングの歴史 101 学生のダイビング ①

 ここまで、ダイビングの歴史は89 重複を入れると95ぐらいになる。改めて101からスタートすることにする。
学生のダイビングについて、関東学生潜水連盟を中心として。
 なぜ、関東学生潜水連盟の推移が①になったか? 今、学生のダイビングが大きな曲がり角に来ている。いや、もう曲がってしまっているのだろう。それを、歴史の目でみて、整理しておきたい。
 今ここで整理しておかないと、伝統が無になってしまう。伝統を基にした上で、これからのことを考えなくてはいけない。それは、すなわち歴史である。
 関東学生潜水連盟は、1968年にダイビングのビジネスとは、離れた位置でスタートし、現在にいたっているが、大学のサークル、同好会をダイビングショップが世話(安全管理・危機管理)をするビジネスの形態は、関東学生潜水連盟のはじまりと、ほぼ 同じ1970年ごろからはじまり、定着している。関東以外、関西や中部、九州の学生のダイビングについては、直接かかわっていないので、ここでは、述べることができないが、ショップとのかかわりが強かったのではないかと想像する。ショップや、ダイビングサービスとの関わりのパターンはいくつか考えられるが、ダイビング業界にとって、卒業後もダイビングを趣味にしてくれることも含めて、大学クラブのダイビングは、業界にとって大きい存在である。
 身近な例を挙げると、1990年、僕は テ・ルというケーブル・ダイビング・システムを売る会社をつくり、その一環として、レジャーダイビングのお店、都市型のダイビングショップ、ユースリーダイビングコミニュケーション(U3)を作って、その担当を、現在は伊豆の富戸でダイビングサービスをしている大西君に任せた。ほぼ同じ頃、僕が理事長をやっていた全日本潜水連盟に東京学芸大学の学生がダイビングサークルを作る相談に来ていて、それを受けて指導をした。それに大西がかかわった。僕と学連の関わりもあって、学連への加入も勧めたが学芸大学は学連には加入しなかった。その理由は憶測でしかないが、なにも、学連に入らなくても活動は自分たちだけで、大西が指導していれば続けられる。大西君も、自分の商売になる相手だから、横槍はいれてもらいたくない。その商売とは、僕が経営するユースリーの商売である。都市型のダイビングショップは、非常に難しい。毎年それなりの商売になる大学のクラブ、同好会は、一つの財産になる。
 時が来て大西君が独立することになり、学芸大学は、そのまま大西君の財産になり、クラブも平穏にそのまま継続している。
 このような、ダイビングショップと大学クラブの関わりは、さまざまなバリエーションがあり、人間関係の葛藤はあるだろうが、ダイビングサービス、都市型ダイビングショップと大学ダイビングクラブ繋がりは、数え切れないほどあり、ダイビング業界のドル箱の一つになっている。
 
 近年の日本における学生ダイビングの動きは、月刊だったダイバー誌の「学生ダイバー青春記」でその動向のおおよそを知ることができ、その経過を追っていくとこの数年の学生ダイバーの同好会・サークルの進展がわかる。大学生サークルの紹介は、現在はマリンダイビング誌だけになっているが、紹介が間に合わないほど増えている。その分析は後にして、まず学連についてその歴史をのべるのだが、現状では、大学ダイビングクラブ、同好会の伸張に反比例するように関東学生潜水連盟は求心力を次第に失い、2016年、の50周年記念のときに17大学が加入していたものが、現在は8大学に減少している。
 そのいきさつなども視野にいれて、大学生ダイビングの誕生の時から、いままでのことを、自分の眼を通して述べていこう。そして、できれば、学連には、求心力を取り戻し、継続させたい。

※ここから、ブログのダイビングの歴史INDEX で並べた事項を背景、参考資料として、あたらしく、自分の視点で 書いて行こうとしている。時に応じて、ここまでのブログを参照する。


 学生ダイビングクラブの誕生 東京水産大学潜水部


 日本にアクアラングが紹介されたのは、正式には、つまり、新聞記事とかに掲載されたのは1953年のことである。そして、その次の年、1954年、東京水産大学では、学生の実習中に死亡事故が起こった。これらのいきさつ詳細については、リサーチ・ダイビングの歴史の項でのべたい。
 上記 ブログINDEXからも、その事故について述べているブログを検索できる。
 https://jsuga.exblog.jp/28089440/ 1954年の 水産大学での事故について
https://jsuga.exblog.jp/28972614/  https://jsuga.exblog.jp/28983967/
 そして、筆者(須賀)が潜水実習を受けたのが、1957年、大学3年次のことであった。
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  潜水実習 原田進、右は清水君、南米に渡り成功して財を築く。


 ところで、せっかく実習を受けて、アクアラングが使えるようになったのに、潜る、実際にダイビングをする機会がない。ちょうど、僕が潜水実習を受けた、その1957年に、日本潜水科学協会ができた。(この協会についても別の項で詳述する。)この協会の行事や潜水講習を手伝うというのも、一つの機会ではあったが、それは、回数も限られているし、参加できるのも、2ー3名、そして、自分の、自分たちのダイビングができるわけのものではない。
https://jsuga.exblog.jp/28204876/
 潜水実習の担当教官であった宇野先生(当時は講師、後に名誉教授)のところに行き、顧問になってもらって、つまり、道具を貸してもらう、使わせてもらうルートを作って、ダイビング同好会を作った。これならば、自分の、自分たちのダイビングができるだろう。振り返って、「自分の、自分たちのダイビング」というのが、重要なキーワードだった。
 先生、教官とか先輩の指示ではなく、自分の自分たちの考えで自分たちのダイビングをやりたいのだ。「自分たちのダイビング」それが何であったのか、具体的には、今振り返ってわからない。多分、「自分たちで決める」ということだったのだろう。これも、重要なキーワードだ。
 自分たちのダイビングをしたい、と集まったのが、秋、9月か10月だった。7月に潜水講習があり、その翌々月だから、かなりの速攻であった。
 ダイビングで重要なのはバディシステム、僕は、同級生の原田進が、バディだった。兄弟が居ない。兄が死んだ一人っ子の自分にとって、原田は兄弟以上のバディだった。
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 写真は左から原田、生田、浅見 岩橋 橋本 須賀 竹下


 僕と原田進は3年生、4年生の竹下徹さん(後に海上自衛隊 水中処分隊、隊長などを歴任して、退官、三井海洋開発から海洋研究開発機構に出向してシートピア計画に携わる)とそのバディの橋本泰生さん(後に牛深で真珠養殖業)を語らって、周囲に呼びかけた。同級の原田(大洋真珠)1学年下の 浅見国治(日本アクアラング)遠藤(福岡潜水)岩橋義人(静岡県水産試験場場長)生田国男(大分大学教授)、等があつまった。これは、記念写真に収まっているメンバーだ。ところで、2年生はまだ潜水実習をしていない。屋外プールで体験実習をやった。このプールが、今も変わらぬ海洋大学のプールである。このプールが65年間、変わらないことは、驚きだが、プールというものは、そういうものだろう。しかし、ウエットスーツが世に出るのは1960年だから、まだない。寒さに震え上がるスタートだった。十一月には大学祭、水産大学では海鷹祭がある。クラブとして、機材や写真を出展して、クラブとしての市民権を獲得した。これが、学生ダイビングクラブの嚆矢である。ちなみに、第三代は、笹原捷夫(後に土肥のブリジストン101の初代所長)蜂谷禮 (ニューギニアで、白蝶貝真珠養殖で活躍) 第四代が村松守光であった。ここまでが直接に親しく、卒業して社会の荒波に翻弄されると、ダイビングクラブとは、少し距離ができるが、 後に縁ができるのは、第五代の井田齋(北里大学名誉教授)神尾尋司(素潜りで、水平75m潜れて、スガマリンメカニックに来てくれる話があったのだが、すれ違ってしまった)高橋正敏
第六代 清水信夫(深田サルベージ)水口憲哉(東京水産大学教授、環境問題にかかわりが深い)第七代 今野敏得(東京水産大学教授 水産植物学)第九代 黒川治雄(マリン企画社長 ダイビングワールドを出した)本山雄策(帝国酸素 ヘリウムガスを担当、現在も日本水中科学協会会員になってくれている)第十代 石川文明(西川名マリンパーク経営 日本水中科学協会会員)
 親しく関わりをもつことができた人だけを上げた 第十一代から後は、次の項になる。 
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 1968年 日本潜水会での加藤芳正君
 前出の竹下さんの写真から、10年後である。
 ウエットスーツは、今のものと外見はほとんど同じ、タンクは12リットルのスチールになり、レギュレーターはシングルホース、なぜか、左側からホースが出ている。おかしいと思ったが、逆焼きではない。(次の写真で見ればわかる)彼は左利きだったのか?
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 荒波からのエキジット 左は長谷川剛(ミナミスポーツ)右は加藤君


 フィンはまだチャンピオンだ。この直後から、後に述べるような理由で、チャンピオンは消えていく。ただ、東亜のカタログには、2020年の今も載っているはず。
 
 法政アクアの誕生

 東京水産大学を卒業した後、1959年、東亜潜水機に就職し、ダイビングの指導にも関わるようになり、幾多の空中戦の結果、1967年の12月に日本で初の潜水指導団体である日本潜水会を結成する。これらのいきさつについては、日本の指導団体の歴史の項で述べるが、その日本潜水会の第一回の指導者講習会が、伊豆の海洋公園で行われ、法政大学の加藤芳正君が参加した。日本で第一号の学生指導員(インストラクター)である。その加藤君が、一年上級の高桑君らと、法政アクアクラブを設立する。
 法政アクアについては、法政アクアの創立30年記念誌「法政アクアの曙」を参照しているが、これによれば、法政アクアクラブの創立は1965年である。
日本ではじめての潜水指導団体、日本潜水会よりも古い。
 ※このあたりのいきさつについては、時系列で年表形式にまとめたい。
 1963年、僕は、全面マスクにデマンドバルブを着けた潜水機のテストをするという名目で、舘石昭さんと館山湾で100mに潜る実験潜水を行い、それをTBSのカメラルポルタージュという30分のドキュメンタリー番組で放映した。
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     館石さん、5本セットのタンクを背負って100mを目指した。



 それと、時を同じくして、同じ番組、カメラルポルタージュで、カメラマンの伊藤則美さんと工藤昌夫さんのチームが戦艦陸奥に鎮魂の潜水を行った。瀬戸内海の海に、原因不明の爆発事故で沈没した戦艦陸奥に、アクアラングで潜り、陸奥の甲板の上、水中にアクリルの透明な箱を伏せて作った空間の中で蝋燭のお灯明を灯してくる趣向で、映像的には印象深かった。
 伊藤則美さんは、舘石さんと一緒に水中造形センターを創った。後に別れて、水中造形センターは、舘石さんの主催になり、やがてマリンダイビングを発行して今日に至っているのだが、伊藤則美さんは、舘石さんのライバルである。舘石さんは、須賀と組み、伊藤則美さんは工藤昌夫さんと組んでいる。
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    伊藤則美さん かっこうの良い人だった。


 工藤さんと僕も、時に助け合うことはあったが、基本的には、これも、ライバルであり、コンペティターであった。その伊藤・工藤組の戦艦陸奥の潜水に、法政の学生である高桑君と、加藤芳正君のお兄さん(名前失念)が、参加する。そしてその縁で高桑君が中心で、芳正君が加わって、法政アクアができる。工藤さんが、アドバイザーである。法政アクア、1期が高桑君、2期が加藤芳正くんである。
※ 一期 高桑克祐 山田成美 高波和義 二期 加藤芳正 大河原寛 若林良彦 伊藤久男 剣持孝雄 深谷三郎 黒沢一男 椎橋良三 三期 銭元健二 谷内秀昭 渡辺敏夫 大村喜昭 城所若男 藤田裕二 松永猛 本田和宏
 そして、3期が銭元君、谷内君である。
 谷内君は、浅草の玩具問屋の息子で、東亜潜水機によく遊びにきてくれていた。
 そして、この3期の代が、日本潜水会の一級講習会に来てくれた。日本潜水会の一級のきまり、基準は、海で死ぬことが許されない。二級は、普通のダイバー、一級は、三級、初心者ダイバーを助けなければならない。海で死なない、海で助けるためには、一にも二にも泳力、泳ぐ力、そして、スキンダイビング能力だと考えていた。ほぼ、バカの一つ覚えで、生きるためには泳げ、溺れるな、それしかなかった。
 BC.が生まれ普及するのは、まだあと10年先である。ライフジャケットは、必要か、邪魔ものかという議論が行われている時代である。泳力こそが命の綱である。「死なないためには泳げ」これもキーワードとして重要である。
 練習種目には、たいてい、地獄というニックネームが付けられた。タンクを背負って完全装備、適正ウエイトを着けた状態で、それに加えて5キロのウエイトベルトを手に持つ、それでスノーケルは使わずに、海洋公園の小プールで10分間の立ち泳ぎをする。これは、地獄鍋と言われた。これは、フィンの性能の向上とともに、それほどつらくはなくなったのだが、そのために、どんどん、立ち泳ぎの時間が延びていく。
 僕は当時、東亜潜水機の作るチャンピオンというフィンを使っていて、10分の立ち泳ぎで、精一杯、で10分という基準を作った。それが、クレッシイのロンディンを借りて使ったところ、10分では、全然辛くないのだ。自分が売っていたチャンピオンが泳ぐには不適、効率が悪いことを知って、愕然とした。ただし、チャンピオンはフィンを履いたまま岩によじ登るというような動作には、強かった。
 また、ウエイトを適正に着けてタンクを背負い、海洋公園の50mプールを、マスク、スノーケルを使わずに泳いで、4周する。これは、座頭市地獄旅と呼んだ。
 この練習を、法政の銭元君らは経験して、自分たちの練習に取り入れた。後の法政アクアの立ち泳ぎ事故の種が蒔かれたことになる。

0113 ダイビングの歴史102 学生のダイビング2

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 ダイビングの歴史101を書いてみて、これは大変、まずテキストで下書きをする。これを僕はキングジムのポメラという小さい、テキスト専用のワープロで打っている。下書きをしながら、資料を参照して、確認したり、写し取ったりする。
 それを、およその一回分ぐらいずつ、PCにとりこんで、推敲するとともに、使う写真を探し、選ぶ。
 自分の視点で書くということに決めている。これまで、テキスト、マニュアルのようなものを書くことが多かったので、内容が正しくなくてはいけないと考えていた。しかし、この世に、正しい視点などというものがあるのだろうか。所詮、それぞれの人は自分の視点、自分のものの見方で、見て、そして判断している。
 たとえば、ここで法政アクアのことを書いたとして、法政アクアのOBである娘の須賀潮美の視点と、僕の視点は天地ほど違っていることだろう。それが、どちらが正しいかなど、言えるはずもない。僕は潮美の視点で書いたものを読みたい。また、1982年のそのときの僕の視点と、今の視点も同じであるはずもない。昔のことは、記憶と、記録をたどるだけだが、その見方もずいぶん違う。
 それで良いのだと思う。別の人間が別の視点から真剣に見た、考えたものは、知る価値がある。
 ところで、こんなことを書いてどうするのだろう。どう使うのか。出そうとしている本、ダイビングの歴史には、とうてい収録しきれない。
 でも、昔と違って現在は、切り捨てられる下書きであっても、ブログという形で人に見てもらうことができる。見た人が、これは違うとか、同意とか、面白いとか思ってもらうことができる。


 東京水産大学潜水部

 卒業以来、自分のことで精一杯、潜水部の現役と一緒に活動したりする機会は、あんまりなかった。
 第10代の石川文明君のところまで来たが、彼とのつきあいは彼の卒業後、今、日本水中科学協会でお世話になっている白井常夫氏の経営する、当時として、おそらく東京で最大のダイビングショップであったリックに勤めてからである。
 11代の島義信君は、マスク式潜水の旭潜研に入社して、ウエットスーツの担当になったが、これは、商売の上での競争相手であった。
 この11代あたりまでの10年間で、最初はただ集まっただけのクラブが、潜水部と呼べるような、部の形ができた。僕はそれには、関わっていない。「大学はでたけれど」という言葉もあった時代、就職も難しかったし、やっと拾ってもらった東亜潜水機では、アクアラング事業を一から組み上げなくてはならなかったし、100mを目指す実験潜水も企て、潜水部のこと、なにもしてあげられなかった。ただ、ダイビング器財の製作販売に携わったわけだから、相談にきてくれた場合にはできるだけのことはしたいと思っていたし、連絡が途絶えたわけではないが、具体的にこれといった何かをした記憶がない。
 だから、その時代の潜水部の後輩たちは、毎年、部を創るような働きをしたのだろうと想像する。
 が、とにかく、この10年の間に、学校が認める部活動になった。
 そして、1968年に日本潜水会をつくり、法政の加藤芳正君が学生で指導員になった。もう一人、学習院の野田君のも学生だった。学習院は 1967年の創部である。
 ただ、日本潜水会は、その最初の会議で、もしもの場合、学生では責任を負えないだろうと、指導員は25才以上の男性と定め、学生、女性は準指導員までと決めたので、学生である指導員はこの2名で打ち止めになる。後にこの制限はなくなったが、女性はともかくとして、学生については、議論があると思う。後年、関東学生潜水連盟でSAI スチューデント・アシスタント・インストラクター(SAI)という制度を作ろうとして、躊躇して実現しなかったのは、その資格を持つものが、責任者になり、そして、死亡事故が起これば、その責任を一身に背負う可能性があると思ったからであった。このことについては、後で述べる。
 
 1968年、日本潜水会を創り、法政の加藤君が指導員になり、法政アクアの銭元君等が一級を受講したことから、母校の東京水産大学(現海洋大学)にも、一級を受けるようにアプローチした。結果、来てくれたのが、第12代、1966年入学だから、その時3年次になる 佐藤英明君、船水欣一君だった。二人は、指導員の研修と一緒に受講してもらって、助手のようなことまで、させて、資格は一級だった。
 そして1967年入学の第13代 僕は事実上の監督、コーチのような気持ちになり、小湊での合宿などの指導をした。事実上のということは、大学の認めている部活に監督という制度が無いことから、部員たちも、先輩としては認めても、監督、コーチとは呼ばない、考えなかったからである。監督と先輩とどちらが恐ろしいかといえば、水産大学の場合優劣は付けがたいが、とにかく、今、2020年に至るまで、水産大学、海洋大学には、学校が認める正式な監督もコーチもいない。
 
 僕が教えた13代は、ダイビングについて、黄金世代だった。
 高橋実(1970年にスガ・マリン・メカニックを作った時に来てもらって、一緒にはじめた。7年勤めて、退職して自分の会社「海洋リサーチ」を作った。この会社は、スガ・マリン・メカニックよりも成功している。)
 後藤一郎(プロダイバーになり、後に「潜海」という会社を立ち上げ、成功して、金持ちになったが、残念なことに、昨年、亡くなってしまった。)大掛俊二、奥川均のバディは、そろって、海洋研究開発機構に行きアクアノートになった。大掛は、400mの潜水メンバーに選ばれたのに、単車の事故で、命を落としてしまう。奥川は、撮影会社を作り、僕のスガ・マリン・メカニックよりも、業績をあげたが、早くに病死してしまう。
 そして、和久井敏夫は、芙蓉海洋開発にはいり、深海潜水球のパイロットになるのだが、その潜水球が故障して、たまたま、体調が悪く、乗っていなくて、命を拾う。
 その和久井君が、関東学生潜水連盟結成時に、副委員長になる。委員長は法政の銭元君、二代目の委員長が和久井になる。それから、13代の佐倉彰は、学連の書記になっている。発足時の学連は、法政と、水産大学でかためていた。
 第12代の 佐藤、船水から、13代に至る流れの中で、監督?のつもりの僕は、みんなでまとまって、力を合わせて何かをやる目標が必要と考えた。
 2020年の今も、学生のクラブは、何か目標が必要と考えている。今はリサーチ・ダイビングと、ライン調査をターゲットにしようとしている。ライン調査は安全性が高いので、新人の訓練にいい。
 ライン調査についてだが、1957年は竹下、橋本バディが、千葉県小湊実習場でのライン調査、1958年には、須賀・原田のバディが、伊豆大島の、いずれも宇野先生の研究テーマであるサザエのライン調査で卒業論文をかいている。なぜ、潜水部のテーマがライン調査にならなかったのだろうか?
 ライン調査はプロの調査潜水の仕事であり、遊びの要素が強い大学のダイビングには適合しないと考えたのでは、ないだろうか。今、2020年でも同じ議論がある。ラインを引くことは安全の確保にも役立つのだから、1968年にもラインをやれば良かった。
 とにかく、ライン調査ではなくて、別の目標を考えた。ヒントは映画「海底の黄金」(1955)だった。巨乳で人気をはくした女優、ジェーン・ラッセルが主演で、カリブ海での宝探しをする。テーマ音楽の「セレソ・ローサ」もヒットした。
 宝を積んでカリブ海で沈んだ帆船時代の船から黄金を引き上げるという宝探しの定番なのだが、その沈船を探すために、水中ソリ、ソリと言っても、板切れ一枚なのだが、板切れに捕まって、どこまでも透明なカリブの珊瑚礁の上をビキニのジェーン・ラッセルが滑走する。やってみたい。どこでやろう。奄美大島の大島海峡だ。1956年、僕は白井祥平先輩の奄美探検隊に参加して、帝国海軍の駆逐艦があるという情報を聞き発見しようとした。これは、結局のところガセネタだったのだが、1967年には、まだあると思っていた。
 もう一つのヒントは、その頃、アメリカの雑誌「ポピュラー・メカニック」を購読していて、その雑誌に、木の柱に翼を付けたような、やや進化した水中ソリが載っていた。これだ、と思った。これを潜水部の探検としてやろう。すばらしいアイデアだ。
 これを12期の佐藤英明君に話した。佐藤君も「やりましょう、やりたい」ということになった。
 佐藤君は、一期上、11代の大塚優君に話した。大塚君の実家は、鉄鋼場で、ここで大塚君設計の水中飛行機ができあがってきた。残念なことに、これができあがって来た時には、大塚君は卒業していたし、佐藤君も卒業期を迎えていた。
 さて、大島海峡での駆逐艦探しだが、当てにしたのはテレビ局だった。もう少し時が後になれば、水曜スペシャルでできただろうが、まだ僕は東亜潜水機にいる。63年には100m潜水をやったり、68年には日本潜水会、その上に大島海峡だ。東亜潜水機の夏は、忙しい。スピアフィッシングに反対しながら、「シャーク印」の当たっても大きな魚には、跳ね返される水中銃を2000丁も売らなくてはならない。そんなこんなで、結局1999年に、わがままいっぱいさせてくれた大恩ある東亜潜水機を退職してしまう。後から考えれば辞めなくても良かったのだが、智恵がなかった。傘下の別組織にしてやりたいことをやればよかった。
 とにかく、そんな混乱の中で、100mをやったTBSに企画書をだした。
 大阪の朝日放送が乗ってきてくれた。そのころは、まだ朝日放送と言いながら、東京のキーは、TBSの時代で、TBSへ出した企画書が回って行ったものだった。
 ただし、予算がないので、大島海峡は無理だ。結局、妥協して八丈島にきまった。
 佐藤英明君は、潜水部50年記念誌にこの水中グライダーのことを書いているが、放送された記憶が無いという。可哀想に卒業して生活に追われて潜水部のことを振り返る余裕が無かったのだ。今のように、メール、SNSの無かった時代である。
 でも、僕もどのチャンネルでいつ放映したか記録がのこっていない。ビデオ録画などできない時代だが、朝日放送のディレクター、お世話になったのに名前を失念している、が、フィルムをくれた。そのフィルムをビデオに直したものがある。これが水産大学(東京海洋大学)60年の唯一の映像記録であり、50周年、60周年には上映している。
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 八丈島で水中ソリ、いや、良く飛んだので、水中グライダーと呼ぶことにした。福座、二人乗りの大型?機、柱に跨がる単座は、操縦性が良く、戦闘機のように横転もできた。
 後藤一朗は、とっぽい奴で、そのころ舘石さんの水中造形センターに入社して、退社し映像プロダクションをつくっていた第9代の黒川治雄のところにこのトンボ(と呼んでいた)を売り込んで、番組をつくってしまった。後輩たちのやることだから、文句も言えない。役に立ってよかったね。と言うしかない。黒川君はのちに、雑誌ダイビングワールドを発行する。僕も、ずいぶんお世話になった。
 潜水部として、このグライダーをシンボルのようにして、年々改良を加えていけば、やがては自走するように作れる。自走にしなかったとしても、このような曳航システムは、調査の道具として有効だから、実績になったのではないか。
 しかし、前述したように、僕は東亜潜水機を辞めて、13代の高橋実と一緒にスガ・マリン・メカニックをつくる。また、沖縄海洋博のダイバーズフェスティバルにとりかかり、潜水部どころではなくなり、グライダーは、大塚君のところに戻して、処理、朽ち果てさせてしまった。
 このごろ考えると、グライダーに乗っても、息を吐き出して浮上すれば、肺の圧外傷にはならないだろうが、浅いところからの浮上速度は早くなる。続けていたら、減圧症になる者が出たかもしれない。吉凶は糾われる縄のごとしだ。
 水産大学の部、続く
 ※ダイビングの歴史101を書いてみて、やがて、出版のことを考えているからだろうか、飛ばしすぎている。
 出版は出版として、学生のダイビング、どうせ書くならば、じっくり書いても良いのではと、思いはじめている。

0114   座右の銘 

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ブックオフで110円で、座右の銘1300(宝島文庫)を買った。辛い日々が続くから、この本を開いて、目に入った座右の銘を読めば、耐えて生きる力を取り戻せるか、と期待したのだが、110円では無理か?
 古今の有名な人の言葉、「この言葉は、この人だったのか」と言うことがわかり、その意味でこの本は、座右に残すかも。
 それぞれ、自分には自分の座右の銘があると思う。
 無い人もいるだろうけど。


 神々の山頂 夢枕漠、その末尾から、


 よく考えてみれば、あれは私の姿なのです。そして、あなたのね。
 この世に生きる人は、全て、あの二人の姿をしているのです。
 マロリーとアーヴィンは今も歩き続けているのです。
 頂にたどりつこうとして、歩いている。
 歩き続けている。
 そして、いつも、死は、その途上でその人に訪れるのです。
 軽々しく、人の人生に価値などつけられるものではありませんが、その人が死んだとき、いったい、何の途上であったのか。たぶんそのことこそが重要なのだと思います。
 私にとっても、あなたにとっても、
 何かの途上であること
 あの事件が、私に何かの教訓をもたらしてくれたとすれば、たぶんそれでしょう。 
  N..E オデルインタビュー
 1987年1月 ロンドンにて
 「岳望」1987年3月号 「ヒマラヤの証言者」より
 オデルは1987年2月イギリスで死んだ。96才であった。




 知ってのとおり、ジョージ・マロリーはエベレストの初登頂を目指し、1924年、山頂付近を登頂している姿が望遠鏡で確認されている。遺体は1999年に発見されている。彼が山頂に立ったかどうか。


 僕は、小学校6年生の時、富士山に登ったことがある。生涯での忘れがたい経験だったが、その後はハイキングもしない。だから、足腰が弱い。弱点になっている。でも、登山にのめり込んでいたら、生きていなかったとも思う。登山家では、小西政継さんとラジオで対談したことがある。僕が60才100m潜水をやったあとだった。「もうこれからは、無理をしない登山を楽しみます」と言っていた。そのあとすぐに、1996年、小西さんはヒマラヤ、マナスルで亡くなった。
 登山の本はずいぶん読む。座右に10冊くらい残している。


 ダイビングはしないけど、ダイビングの本は座右に5冊くらい残している。と言う人が居るようになるといいのだけど。僕には、もうほとんど時間が残されていない。
 夢枕漠さんとは、テレビ番組の撮影で一緒にトカラ列島の旅をしたことがあり、その時のことは、書いた記憶がある。忘れがたい旅だった。漠さんが帰ってからだったが、流されて死にかけた。

0122 ダイビングの歴史 番外

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ブルーゾーン
 1月15日、辰巳プールの練習会に行った時、集合しているテーブルに辰巳水泳場事務所の横山さんが来て、僕宛の封書があると持ってきてくれた。どういう経路で、僕宛のものが横山さんのところに行くことになったのかわからない。封書の宛名の部分に須賀の名前はない。封も切っていなかったから、おそらく、メールなどの別の往復があって、封書が送られてきたのだろう。
 差出人は野尻紀美子さん、住所は山形県だ。全然心当たりがない。封を切ってみると、1968 年の雑誌「ブルーゾーン」の第2号が入っていた。
 あっ、あの野尻さんだ。ブルーゾーン、日本初のダイビング専門誌を出した野尻純康さんだ。同封の手紙を読むとやはり、野尻さんの奥さんで、野尻さんは2004年 2月に急性の癌で急死された。66歳だったという。それまでは、タフに仕事をされていたとか。
 僕がブログに「ブルーゾーン」のことを書き、三冊だけ出たこの雑誌の第2号を持っていないと書いたので、送ってくれたものだった。
 奥さんはネットサーフィンをしていて、野尻という名前から、僕のブログに行き着いて、それを読まれたとのこと。
 このことは、フリッパーレース、日本のスポーツダイビングの歴史を書くときにもう一度、やや詳しく書くつもりでいるが、とりあえず、奥さんへの返信のつもりで、このブログを書いている。野尻さんは、少しばかり、それでも1ー2年はやったのだろう、ダイビングをやって、ただそれだけで、ダイビングの雑誌を出そうと決意した。なぜ?亡くなったのが2004年66歳だから、逆算すると30歳の時だ。
 そのころ1965年から、1975年の沖縄海洋博あたりまで、海、ぼくらが潜れる、潜っている海には夢があふれていた。海が好きな人たちは、それぞれの場所で、それぞれの視点(このごろ、この言葉ばかり使っているが)で、海に、海に潜ることに夢を追った。海底ハウスの田中さんもそうだし、今、書きかけている、日本初の屋内ダイビング専用プール、ジョテックを造った、そして失敗した二井さんもそうだ。もちろん、僕も後藤道夫も、一緒にスガ・マリン・メカニックをやった日本スキューバの鈴木博も、キヌガワを作った杉田さんも、だれもかれも、みんなだ。みんな海へと夢を求めて踏み込んだ。今、ダイビング業界を形成しているあの人も、この人も。
 人類の発生、人類が今の姿になるのは、アフリカの浅い海だったというアクア説もある。その説が本当ならば(本当とは思えないけど)みんな海へ還ろうとしたわけだ。
 
 「海へ」と目指した人たちは、10年ほど早くダイビングをはじめただけの、今考えるとほんのタッチの差にしかすぎないが先行した僕たち、10代からダイビングをはじめた、世の中まるで未経験の若者たちに相談を持ちかけた。僕も後藤道夫もクールにわかっている、つもりだったから、「おやめなさい」と忠告した。僕らの忠告を無視して成功した人たちもいる。失敗した人たちもいる。野尻君は失敗組だった。彼の能力が少なかったからではない。足場固めが出来ていないで突進した結果であり、それはそれで、すばらしいことだったと今は思う。
 NAUIの田口君にも相談をもちかけていて、僕は「ブルーゾーン」の創刊号の原稿をずいぶんと書いて、第二号は、田口君がたくさん書いてる。僕は書いていない。だから、僕は第二号を持っていなかったのかな?
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 そして、第三号だ。野尻さんはスポンサーにロレックス時計を引っかけてきた。そして、僕たちが伊豆海洋公園でやっていたフリッパーレースと結びつけ、全国大会として、優勝チームには、金メッキのロレックスカップと、そして、各競技の優勝者に副賞としてロレックス時計を出してくれて、北は北海道から、南は九州まで、全国大会として、出場する選手たちの交通費まで出してくれることになった。全国大会といっても、交通宿泊費が出なければ誰も来られない。
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          大会優勝チームは、関東が1位、2位、3位を独占した。
          優勝チームの監督は益田一さん(真ん中)
          左側、2位は鈴木勇、鎌倉橋で「いさみ寿司」をやっていた。
          右側は、大崎映晋さん。
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            その頃の海洋公園


 ブルーゾーン第三号は、ロレックスカップ特集だった。これは、競技の記録として、貴重なものだし、懐かしい、その時の顔が並んでいる。なぜか、僕の顔はチラリとだけだ。
 そして、ブルーゾーンは、三号で消える。
 僕もあんまり酒が好きではないし、後藤道夫は下戸だ。それでも一夜、野尻の愚痴をきく酒を飲んだ。
 お金さえあれば、という、ぼくらが聞いても、どうにもならない愚痴だった。
 その後野尻君が、どういう風に生きたのか、知らなくていい。彼が、ブルーゾーンを作ったとき、精一杯チャレンジャーだったことはまちがいない。ぼくらはみんな、海へ!のチャレンジャーだった。その証として、「ブルーゾーン」はある。日本で初のダイビング専門誌であり、僕らのダイビング競技の頂点、ロレックス大会は、彼がいなかったら出来なかった。
 それから、7年後1975年、沖縄海洋博で、ロレックスがスポンサーで国際規模のダイビング・スポーツフェスティバルが、開かれるが、ブルーゾーンはない。さらに、その後伊豆海洋公園でのロレックスカップ競技会が何回か続き、やがて、ロレックスカップは、海洋フリッパーレースのカップになったが、これは、一つの事故まがいがあり、そして、ロレックスは、水中スポーツを育てるという役割は、果たしたとして、スポンサーから降りた。そのことも競技の歴史で書くけれど、ロレックスカップ海洋フリッパーレースは、伝説となり、今は、競技ではなく、「海を泳ぐ会」として残っている。
 今年で26回を迎えた全日本水中スポーツ室内選手権大会は、1969年のロレックスの大会以来で数えれば、49回になる。途中抜けている年もあるので、よくわからないが、来年は50周年になる。
 

0123 ダイビングの歴史 103 JOTEC (1)

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               箱根小涌園プールでバディフリージング

 ダイビングの世界は、何かというと「安全潜水」という言葉が出てくる。ダイビングが安全であるという言葉ではなくて、「安全に潜水しましょうね」と言う意味だとおもう。安全に潜水するためには、事故が発生した場合、真剣に検討し分析して、どうしてその事故が起こったのかを究明し、同じパターンでの事故を起こさないようにすることが、なによりも優先させるべきことであろう。
 1960年代から1970年代前半、僕はかかわっていた日本潜水会、全日本潜水連盟で、事故の当事者は、詳細な事故報告書を作成して提出することが、義務の一つだと提言し、そのようになるよう努力した。ダイビング人口も少なかったので、死亡事故の概ねは事故報告書を書いてもらうことができた。できることならば、それを雑誌などにも公開することも提言したが、これは、受け入れられなかった。
 山岳、登山は、ダイビングと同様自然を対象とする活動であるが、重要と思われる事故の多くについて公表され、議論も交わされている。登山の危険度は、ダイビングよりも高く、もしも、自分が登山家であったならば、生きている可能性は低かったとおもう。しかも、不可抗力と思われる事態も少なくない。ダイビングの事故は、登山の事故に比べれば、起こる可能性は低く、そしてケアレスなミスによるものが多い。事故報告がつくられ、公開されれば、さらに事故は少なくなると思われるのだが、事故当時者による報告書が作られることは、1980年以降、現在の形のダイビング業界が成立してから、ほとんど見られなくなっている。
 といっても、僕は、現在、現状のダイビング業界に包含されているのであるから、その根幹について反対するものではない。
 事故例について、中田誠さんが、多数、発表していて、参考にしているが、商品スポーツという視点からの業界批判であり、自己責任を否定している。商品スポーツという見地から、賠償責任を追及する訴訟においては、自己責任の否定は当然であるが、訴訟、裁判のすべては、遺族対賠償責任者との争いであり、命を失ってしまった死者とは、関わりはない。自己責任を否定しても、命はもどらないのだから、自分の命は自分の責任で保持しなくてはならない。
 なお、関係者による事故報告書が作成されなくなった理由は、事故報告は、過失を認めて反省する部分が多くなるから、賠償責任を追及する法廷での争いでそれを書いた関係者が不利になる、あるいは妨げになる可能性が高いからでもあった。
 自分がダイビングについて書こうとするとき、あるいは自分のダイビングにおいて、1960年代に書いてもらった事故報告はずいぶんと参考になっている。ここで、全てを公開することは、やはり、出来ないが。自分がかかわった事故についての報告ならば書くことができる。
 話がだいぶ横にそれてしまった。テーマは学生のダイビングである。商品スポーツとしての学生クラブのダイビングも存在するが、商品ではない学生ダイビングとの境界は微妙であり、学生の活動と商品スポーツとの関わりには、幾つかのパターンが考えられる。少しだけ、前に書いているけれど、重要な課題であり、後述することにする。
 
 ここで、書こうとしているのは、自分が関わった事故の報告であり、事故の反省が分析され流通していなかったために事故が繰り返されたこと、あるいは、その逆に事故の記憶が参考になって、事故の被害が軽減されたこと、また、これからの事故発生が防げる可能性について述べる。答えは実にシンプルで、自分ならば、そんな馬鹿なことはしないと考えてはいけない、それの思い上がりが事故に直結する。また、自分は真摯に注意していても、自分の周囲のスタッフ、あるいは組織、責任体制には注意は行き届かず、事故が発生する。  
 話をもどして、ここでは、1968年、50年ほど前、関東学生潜水連盟が結成された頃のことを書いている。
 参考までにそのころ自分が何をしていたか、自分の年表をここに示す。事故と、事故当時者が、その時置かれていた状況、環境とは、密接にかかわる。年表、すなわち、自分が置かれていた立場、環境である。
 1959 東亜潜水機入社 10月
 1961 自社のレギュレーター TOA SCUBA 設計製作
 1962 読売ランド水中バレー竜宮城がオープン、呼吸器の設計製作と、潜水技術指導、初代の舞台監督に就任(東亜潜水機に在籍していて、パートタイマーであるが)
  須賀潮美誕生
 1963 8月9日 館山湾で舘石さんと90m潜水
 1965 フィルモ35mmシネハウジング製作 海の若大将撮影に使った。
   撮影そのものにはかかわらなかった、
 1966 2月 全日空羽田沖墜落:現場水中撮影
  7月 アクアラング潜水 浅見国治と共著 出版
 1967 フィルモ DR70 16mmシネ ハウジング製作 販売
  上記フィルモで 摩周湖水中撮影 日本テレビ番組で放映
  12月 日本潜水会誕生
 1969 東亜潜水機退社 スガ・マリン・メカニック創立
 1972 水中写真の撮影 小池康之と共著
       全日本潜水連盟結成

 1975 沖縄海洋博 公式行事として全日本潜水連盟でダイバーフェスティバル実行
 1976 スポーツダイビング入門 竜崎秀夫と共著
      大磯で人工魚礁オリンピック 調査を担当する。
 この全力疾走の最中での東京水産大学潜水部との付き合いがあり、指導であった。
 
 ジョテックの建設
 スガ・マリン・メカニックは、メカニックという名称にあるように、ダイビングに関わる諸々の道具、メカを作ることを主な目標にしたもので。その中心はやはり、カメラハウジングであった。

 しかし、それだけでは食べて行かれない。また、独立した目的は、ダイビングを自由にやりたい、ダイビングを実際にやる、潜るということであれば、何でもやりたい。そして、そのために必要な道具は自分で作るというコンセプトであった。
 また、ダイビング技術の指導を指導する組織の全国統一をしたいということも目標であった。
 スガ・マリン・メカニックは、自分と、カメラハウジングなどを作る島野製作所、そして、当時は、ダイビングショップとウエットスーツの製作をしていた日本スキューバ(現在はダイビング工事会社と、そして、ドライスーツで成功しているゼロの母胎である。)三者の協力で設立した。成功の暁には分裂必至、いや、だからこそ、最初から分裂した形で協力を続けて行こうとした会社であった。、その意味では葛藤はあったが、最後まで、島野が亡くなるまで協力は貫いたから、この時代を生き抜く上では、成功したと言える。
 そんなスガ・マリン・メカニックグループに、日本初のダイビングトレーニングプール、ダイビング教習所の話が持ち込まれた。
 川崎、新丸子にある大きな家電小売り店のオーナー、二井さんが、ダイビングの練習専用プールを作り、教習所のようなものを作りたいと相談に見えた。それまで、全然付き合いのなかった方で、ご自分がダイビングをする訳ではなかった。泳ぐこともしなかった。それがなぜこんなことをはじめようとしたのかわからない。多分、自分がやることは、すべて成功させるノウハウを持っていると、信じている人だったのだと思う。事実、家電販売では成功を収めていて、ダイビングなどに関わらなければ、ヤマダ電機ほどの会社になったかもしれない。そして、元気でおられるならば、今も、日本のどこかで、そこそこの小売り業を成功させているに違いない。
 成功されておいでならば、これを見て、お便りをいただけるかもしれない。
 その二井さんの相談に、僕は直ちに、ほとんど何も考えずに乗り気になり、かねてから理想にしていたダイビングプール構想を話した。
 大きさは縦15m、横10m、水深は10mと5mの二段階で、壁面には大きなのぞき窓を作り、窓の外側からプールの中で練習するダイバーの姿が見える喫茶室を造る。潜っている人と、ボディランゲージで話をすることもできる。
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※流れるプールは作らなかった。
  話はんとん拍子に進み、二井さんの会社がプールを経営し、僕たちは講習やツアーなどを請け負うことになった。1970年5月、日本海洋技術開発株式会社、(Japan Ocean Technical Exploitation Co,Ltd) 略称 JOTEC ジョテックを設立し、プール建設を開始した。


0124 ダイビングの歴史 104 JOTEC(2)

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 スナックとの間のガラス窓 背中に付けているのはフーカーでタンクを背負わずに潜ることができる、指導員はフーカーで潜った、


 1970年の日本は、大阪で万国博覧会が開催されて浮かれていたが、1971年はその反動か一転して不景気モードになり、銀行はお金を貸さなくなった。二井社長は、自分が持っていた土地を担保にして、プール敷地の地所を買い。それを担保にして建物、プールを建てるという計画だったが、当てにしていた銀行が融資してくれない。建設途中で資金が尽きて、建設業者が立て替えてようやく完成した。

 設計段階では、入っていた監視用のテレビカメラも省略された。
 日本で初の本格的ダイビングプールは、まだ時代が早かったのか、事業計画が甘かったのか、その両方だったのだろう。
 発足と同時に資金繰りが苦しくなった。給料がもらえないのだ。
 みんなで手分けして駅でビラ配りなどもして、100人近くの講習生を集めた。頑張ったと思うが、100人の会費で、水深10mのダイビングプールが維持できるはずがない。がとにかく講習が始まった。
 多分、社長になった二井さんは、自分が全財産を投じたのだから、僕らも全てをジョテックにかけて、働いてくれるものだと思ったのだろう。ジョテックの仕事範囲に、僕のやっていリサーチの仕事も、日本スクーバの鈴木のダイビングショップも、ウエットスーツの製造販売も、島野のカメラハウジングの製作もすべて一元化してジョテックの中に入り、その本拠としてダイビングプールのある、そして、喫茶ルームもある建物を本社とするという構想だったのだろう。しかし、ダイバーという種族は、そうゆう風には働かない。僕は、講習とツアーだけ、島野と鈴木はアドバイザーであり、このジョテックを根城にして、自分のビジネスの展開はするが、ジョテックの社員としては働かない。
 講習とツアーの担当として、グライダーを作った潜水部13期の高橋実と吉川忠をスカウトした。まだ、4年次であり、在学中だが、その頃、大学は学園紛争で、ほとんど授業がなかった。
 その頃の大学紛争のテーマ、理由はよくわからない。よくわからないけど、いくつかの理由のうちの一つは、産学協同に反対するというのがあった。産業界と協同しては、学園の自由が阻害される。産業に支配されるということに反対なのだ。いまや、産学連携は、大学の旗印の一つだ。振り返れば、ばかばかしいことで、紛争で授業が行われなかった。
 バカバカしいけれど、良き時代だったのかもしれない。そのような時代背景の中で、関東学生潜水連盟は誕生する。社会人のダイビング指導団体と一線を画した理由の一つだったのだろうと思う。とにかく授業のない高橋と吉川は、日本潜水会の指導員になり、ジョテックでの講習のインストラクターとなった。アルバイトというより、とにかく一緒にやろう。そんな感じだった。
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 僕は、誰の見張りもなく、お客さんだけがプールに入って泳ぐことなどは、考えもしなかった。大学時代からの僕のダイビングキャリアで、危なかったのは、たいてい一人になったときだった。しかし、経営の苦しいジョテックでは、一人のお客も欲しい。給料などは、あってもないような状態になった。上手な人、常連だったならば、良いのではないか、と考えて当然、僕は教習所の責任者だったから、僕の目の届くところ、自分の指揮下では、お客を一人にすることはなかった。しかし、自分のスタッフ、自分が一人でプールに入ることはあった。そして、自分には自分のまた別のダイビングの仕事がある。常駐しているわけではなく、留守の方が多かった。
 インストラクターの一人、高橋実は、息を止めていられる時間が長かった。3分は止めていられる。今はフリーダイビングでの競技があるから、6分だとか、5分だとか普通になっているが、その頃、1970年の3分は長かった。潜っていって、5mのプールの底に息を止めて腹ばいになる。1分でも見ているだけならば長く感じる。1分が2分になり、3分になると、もうそこに誰かが潜って息を止めていることなど、忘れている。忘れたころに、おもむろに身体を起こして、浮き上がってくる。
 やっている本人も得意になっている部分が当然あっただろう。サーカスを見せているような、感じでもあった。
 その日は、吉川忠が講習を担当していた。
 何人かの講習生にスクーバを着けさせて水深10mに潜っていた。水深10mのプールの底からは5mのプールは見えない。喫茶室の覗き窓からは、10mの部分は見えるが、5mの底は見えない。吉川たちは、練習を終了して浮上する途中5mのプール底で、うつぶせになって動かないダイバーを見つけた。直ちに引き揚げて救急蘇生法を施したが蘇生しなかった。
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 その頃、僕は千葉県の鎌ヶ谷に住んでいた。川崎とは、ずいぶん離れている。知らせを受けてすぐに走った。
 警察に行くと、二井社長が肩をおとして椅子に座っていた。「今は吉川君が事情を聴かれているところ、さっき私も聞かれたけれど特になにも・・・・」やがて、吉川が取調室から出てきた。事情をきかれただけだったという。僕は現場にいなかったので、何も聴かれることはなかった。
 亡くなった若者は、ダイビングプールの近くのアパートに住んでいた。外付けの鉄の階段を上がった2階の一室、せまい1DKに棺が置かれ、潜り仲間が集まり、壁に寄りかかって座っている。棺の前で、女の子が泣き伏している。聴けば、このグループは、江東区の大野さんのグループだとか、大野さんは親しく知っている人で、その場であいさつされた。しかし、僕は、大野さんのグループがジョテックに来ていることをそれまで知らない。知らされていない。多分、ぼくのところに訪ねて来たのだろうが、僕は常駐していない。そして報告がなかった。報告があったとして、この練習を止めただろうか。高橋がやるのを止めないのだから、止めなかったと思う。逆に、知らないでいたことが、自分の責任が軽減したように感じていたかもしれない。なお、大野さんは、OKアクアラングの土山さんが売り出した、OKガンの製作者だであり、本人もスピアハンターだった。だから、息こらえの練習をすることは、当然である。
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 目に入った魚は何でも突いていた。持ち上げているのはオオセ、日本潜水会は、1967年から魚突きは、やめて居た。



 若者は、奄美大島の出身で、東京に出てきて職に就いたが、ダイビングの指導者になって故郷に戻ろうと練習していた。高橋が、プールの底に伏して息こらえの練習をしている姿を見て、同じ練習を始めたものだった。もしも、生きて奄美大島にもどって、ダイビングサービスを始めたら、奄美大島での草分けになったことだろう。
 今、スタティックアプネアがあり、そのルールから見れば、なんということを、と言われるだろう。しかし、ジャック・マイヨールが富戸で76m潜り記録を更新したのが、この年1970年だ。そして、マイヨールは、坐禅を組んで息こらえをしている。、まだアプネア競技は生まれていない。この練習を止めるべき理由はない。ただ、誰も見ていない。一人での練習が問題である。まだ、このことの責任をジョテックに追及する世の中ではない。息こらえの練習をしたのは、当人であり、だれもそれを命じたわけのものではない。
 
 二井社長は、若者の死に大きな衝撃を受け、自分がこんなプールを作ったために、事故が起こったと思い込んだ。繊細な人だったのだ。それに資金の逼迫が重なり、経営意欲を失った。僕が施設を買い取って事業を引き継ぐ話がもちあがった。当時、自分の持っている、親から譲り受けた不動産を処分してもまだ足りないけれど、みんなが支援してくれれば、なんとかならないこともない。考え抜いた。連れてきた、卒業寸前の二人のこともある。
ジョテックに専務として就任してきた、スイミングスクール経営の経験のある征矢さんというかたも、経営は見てくれるという。日本潜水会の本部にすれば、形が整うし、プールの使用者も増えるだろう。

 人生の、そして,日本潜水会の岐路だった。結論として、お金の不足額が大きすぎた。ダイバーの本能は、生還の余地をいつも残して行動する。2020年の今現在でも、これを書きながら、あの結論が正しかったのかどうかわからない。多分、残念ながら失敗したと思う。日本潜水会の本部にすれば、機材販売の大型ショップにはなれないだろう。これはまた、日本の指導団体の歴史のところで述べるが、ビジネスとして成功する体質をもっていないのだ。ビジネスとして成功しなければ、生き残れない? 生き残れたかもしれないと思ったりする。未練だ。。
 そして、1974年、新宿にDOスポーツプラザ、新宿に海ができたが、現在は残っていない。

 ジョテックは閉鎖され、土地と建物は売り払われ、日本で初の本格的ダイビングプールは埋められた。
 
 残念なことに、この時のこのプールの外観の写真が手元に残っていない。プールの水中の写真が何枚かある。ここに乗せた。、そして
 一葉のパンフレット、チラシが残っている。
 

0126 ダイビングの歴史 105 学生 サジッタ

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   櫓を漕ぐ竹下徹先輩、一年上 今もお元気




サジッタとは、海に住む大型の肉食プランクトンである。 (https://www.hro.or.jp/list/fisheries/marine/att/o7u1kr0000001asr.pdf )   ※上記 面白いので読んでください。
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ジョテックは閉鎖になった。後始末をつけなければならない。 まず、せっかく来てくれた。集まってくれた受講生、長く、一緒にダイビングをしたい。それについては、ダイビングクラブをつくることにした。みんなで相談して名前を決めた。「レッドフィン・ダイビングクラブとした。大学を卒業する高橋君に引き続きめんどうをみてもらうことにした。高橋君には、スガ・マリンメカニックのリサーチ業務もてつだってもらうことにした。 吉川忠君は、キヌガワに入社してもらうようお願いした。吉川君は、僕らと一緒にレッドフィンをやれなかったことに不満があったかもしれないが、安定性ということでは、比べ物にならなく、キヌガワがいい。もしも、今まで、キヌガワにいてくれたら、たぶん重役になっていたと思うが退社してしまった。 あれやこれやで、忙しく、特に日本潜水会が発展的に解散して全日本潜水連盟になるのだが,これが大変、
 そして、その全日本潜水連盟での沖縄海洋博行事の開催、食べるためには、カメラハウジングも売らなくてはならない。ハウジングは、スガ・マリンメカニックを構成する、島野製作所が作り、販売はスガ・マリンメカニックである。島野さんも食べなくてはならないので、スガ・マリンメカニックが売らなければ、他所にもっていってしまう。 忙しくしていることで、ジョテックが無くなってしまったあとの心の隙間を埋めていたのだが、やはり、ジョテックを継がなかったことが、こたえていた。 越路吹雪の歌「誰もいない海」が流行っていた。「今はもう、誰もいない海」  東京水産大学潜水部は? 第13代は、潜水部の事実上の監督だったのだが、そして、監督になりたかったのだが、潜水部などかまってはいられなかった。第14代は、ブランク、そして第15代、なぜか、忙しい中でぽっかりと穴が開いたような日、その日のことを今もよく覚えている。 千葉県、鎌ケ谷に住んでいたのだが、わりと大きな敷地を庭にしていて、庭をなんとなくながめていた。その時、頭の中で鳴っていたのが「今はもう、誰もいない海」電話がかかってきた。15代 潜水部の小湊合宿のコーチをしてくれないか、という依頼だった。僕の空虚な部分にぴったりとはまり込んだ。少しだけど時間の余裕も出てきている。引き受けた。「お金はいくらかかりますか?」僕にギャラを払うつもりなのだ。他人行儀というか、時代が変わったというか、僕の現役時代、先輩と一緒にいて、飲食、足代、すべて先輩持ちだった。その代わり、先輩のいうことは、まちがっていても正しい。しばらく考えて、交通費だけ持ってくれれば、ギャランティは不要と答えた。この子たちの監督をやったとして、いくらかかるのだろうと、こちらは持ち出せる費用を考えていた。  潜水部の合宿に限らず、僕は小湊でのダイビングでは、必ずサジッタを使う。サジッタは木製の小さな、それでも、6人は乗れる櫓漕ぎの小舟だ。そのころ、大学の臨海施設では、、例えば、下田の教育大学でも、水産大学でも、商船大学でも必ずこういう学生の遊び友達でもある櫓漕ぎの小舟があり、どこでも、その名前はサジッタだった。今の東京海洋大学の館山ステーションにも小舟があり、今では船外機付きだが、名前はサジッタだったはず。


 船外機付きも良いけれど、それとは別に、やはり櫓漕ぎの小舟、サジッタが学生の友達としてほしい。船外機付きでは、実習場の技官が乗らなければ動かせない。学生が気軽に漕ぎ出すことはできない。シーカヤックはあるけれど、シーカヤックとサジッタでは、全く違う。その違いについては、後で述べるけれど、想像もつくと思う。 たしか、館山の隣、冨浦にある商船大学の臨海施設では、櫓漕の小舟が今もおいてあるはず。ただし、木製ではなくてFRPだ、ということだけど。 サジッタとは、大型のプランクトンで、矢のような形をしているので矢虫ともいう。櫓漕ぎの小舟は決して矢のように走るわけではないが、なかなか良いネーミングなので、各大学でまねをしてどこでも小舟はサジッタになったものだ。 小湊実習場のサジッタは古く、僕の学生時代に遊んでもらい、さかのぼって、何時からあるのか知らない。僕は、僕らは、この櫓漕ぎの小舟が好きで、時間があれば、櫓を漕いで遊んだ。実習場の対岸の小湊誕生時までも漕いで渡ったことがある。 櫓漕ぎの舟は、立って櫓を漕ぐから、ダイバーの出す泡を見ながら、追って漕ぐのにいい。
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       サジッタの上の橋本康生先輩


 1953年、この小湊実習場に、アクアラングが紹介され、そしてそのすぐ次の年1954年、潜水実習中に二人の学生が事故で亡くなった。日本で初めてのアクアラング事故だ。その事故の時、サジッタが泡を追っていたら死亡事故にはならなかった。 これは、本当のことがどうかわからないが、恩師 宇野先生が、この事故の責任を問われて訴えられ、裁判になっていた。その裁判で問題になったことの一つが、上に小舟が居なかったことなのだと、先生が言っていた。結局、そのことで、有罪にはならなかった。「疑わしきは罰せずだよ」と先生は言っておられた。 しかし、この日本初のスクーバダイビング事故がたいへんな問題を内在させていたのだ。裁判は、判例が大きな意味がある。スクーバ事故で、もしも小舟が上にいたいことが瑕疵になるという判決が降りていたならば、ビーチエントリーは認められなくなる。そしてまた、その後いくつか、数えられないほどのスクーバダイビング事故が、上に小舟がいたら救助されていたにちがいない。 スクーバ、セルフコンティンドの根源の問題である。  この1954年の事故から、僕は、そこに小舟、サジッタの類が使える状態であったならば、必ずそれを使うことにした。使える状態にある、ということが、大変なのだが、今の海洋大学の館山ステーションには櫓漕ぎのサジッタはない。サジッタは、学生が手軽には使えない船外機付きのボートになっている。 とにかく、僕は櫓漕ぎのサジッタが実習場にあった時代、必ずサジッタを自分が漕いで、学生に随伴した。やってみるとわかるけど、シーカヤックでもゴムボートでも、ダイバーの泡は追えない。立って漕ぐ櫓漕ぎでなければいけないのだ。立って扱うことができる船外機ならばいいが、船外機のスクリューは、ダイバーを傷つけるおそれがある。   小湊での合宿。第一日目、集合した日の午後だ。まずスキンダイビングで身体ならしをする。僕がコーチする潜水部の小湊での合宿は、宿舎の真ん前の入り江ではなくて、磯の間の水路を通って、隣の磯、ここは、宿舎の前よりも波が静かで、水深も2m前後で海底は平たんだ。  、

0130 ダイビングの歴史 106 小湊合宿

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   1950年代の東京水産大学小湊実験場
   真ん中の円形の建物が、一階は水族館、2階が僕らの実験実習室、左手が僕らの宿舎、右手の建物が先生たちの実験室。
中央に海に降りる,階段がある。
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  現在は千葉大学に移管されている。海に降りる階段は、昔のままだ。


 小湊での合宿。第一日目、集合した日の午後だ。まずスキンダイビングで身体ならしをする。。 練習メニューは、まず、息こらえから始まる。そのころ、ダイビングの上手下手、危ないか大丈夫かを見分けるために、息をどのくらい長く止めて居られるかを一つの判断基準としていた。今でも悪くはないと思うけど、もちろん、やり方が問題だが。1958年、東京水産大学の潜水実習に参加できる基準をまず、息こらえ1分20秒としていた。 さきに述べたが、13代は、平均して2分以上、何人かは3分に達していた。みんな、息こらえの練習をしたものだ。大学3年のころ僕は井の頭線沿線に住んでいた。井の頭線は、駅と駅の間隔が狭い。発車してから、次の駅まで息をとめる。駅に停車している間に呼吸を整えて、次の駅まで息を止める。 ヘルメット式の時代から、ダイバーは、もしもの場合には息を止めている時間が長ければ長いだけ、生き延びるチャンスが大きいと思うから、息こらえの練習を欠かさなかった。 僕がコーチする潜水部の小湊での合宿、息こらえの練習など、スキンダイビングの練習は、宿舎の真ん前の入り江ではなくて、磯の間の水路を通って、隣の磯、ここは、宿舎の前よりも波が静かで、水深も2m前後で海底は平たんだ。宿舎の前は遠浅で、水深が2mほどになると、海藻が繁茂する良い磯場になっていて、ウエイトを落としたりすると、探すのに手間がかかる。  右手隣の入り江の真ん中あたりに錨をいれてサジッタをとめる。水深は2m、必ず二人一組、互いに向かい合うようにして、潜って、海底の海藻か石につかまって息こらえをする。上がってくるのがみんな早い。40秒もしないうちに頭をだしてくる。僕の頭中に、1分20秒が最低基準という固定観念がある。僕は怒鳴ったりはしない。船縁にみんなを集めて、「どうしたの、僕らの潜水実習参加基準は1分20秒、前の代は、みんな2分を超えたよ。潜水部だからね。一般の海洋実習の学生とはちがうのだ。」とそんな意味のことを言った。 みんな潜ったが、今度は、1分を超えた。そして、一人が、自分のバディが上がってこないという。すぐにみんな、誰ともなく潜って引き揚げてきた。身体は棒のように硬直して、顔は土気色、チアノーゼだ。もちろん、息はしていない。 「死んだ」と僕は思った。自分が死にそうになったことはあるけれど、こんな経験はない。何も考えず、よく、呼吸の有無をかくにんするとかなんとか講習では教えるけど、そんなこともしない。とにかく、とっさに、口をつけて顎をあげて息を吹き込んだ。 2回か3回吹き込んだ時、「うーっつ」とわめくようにして、身体を伸ばして、暴れ始めた。僕は引き揚げ、二人がかりで持ち上げて、サジッタに乗せた。ほほを叩いて、意識をもどそうとした。胸をかきむしるようにして苦しがる。二人係で押さえつけて、バディチェックで人数を確認してから、僕は櫓を漕いで、桟橋にむかった。
 もしも、これがサジッタではなくて、その頃にはまだなかったが、シーカヤックだったら、どうだろうか。暴れる身体を確保することができただろうか。シーカヤックではなくて、一枚のボードだったらどうだろう、そして、そのボードもなかったとしたら。 大学の合宿だから人数もまとまっていた。もし、ディだけ二人だけだったらどうだろうか。暴れられたら支えられない。学生の頃、赤十字の安全救助法の講習を受けた。暴れたり、しがみつかれたりしたら、こっちの命が危ない。しがみつかれた手を、体を沈ませて空振りさせて、後ろに回って羽交い絞めにする練習などもした。  桟橋に着き、誰かが救急車を呼び、みんなで、風呂場でウエットスーツを脱がして、毛布にくるんだ。その頃には、意識もしっかりして、起き上がろうとする。もしも、水を飲んでいたら、肺に水を吸い込んでいたら、呼吸機能が減って、二次的な死の可能性があるということ、本で読んで知っていた。とにかく、元気になっても、動かしてはいけない。 救急車は、隣町の鴨川の亀田病院から来た。亀田病院は今では、減圧症の治療で名高く、鈴木先生がいたりするが、当時もそのあたりでは大病院ではあったが、救急車には、亀田医院長が直々で乗ってきた。そして、話すには、これまで何度となく溺水で救急車で運んだが、助かったという記憶がない。ほとんどが、死亡を確認するだけの仕事だった。助ってうれしいということだった。 診察するころには元気になって不通に話ができるようになっていたが、溺水の場合にはICUに入る規定になっているということで、一晩泊まり、僕は実習場にもどった。 合宿は、まだ始まっていない。どうしよう。続行か中止して解散か、その夜は、ミーティングを行った。 みんなには、自由に意見を言うようにさせた。批判的な意見を言う子もいたが、まずは無事でよかった。貴重な体験をしたという意見もあった。とにかく、合宿の続行は無理だった。僕が平静に指導ができるかどうかもわからない。鋼鉄の神経をもっているわけではないのだ。自分の神経は、ガラスのように壊れやすいという自覚がある。中止、解散として、翌日は、僕と、キャプテンの誰だったか,と亀田病院に迎えにいった。 僕の心配は、学校にように報告して、どのような結果になるかということであったが、何も事故が起こったわけではない。おぼれて救助して、病院に運送し、翌日退院だから不問ということになった。 事故を起こしたのは、栗原君で、話を聞いた。彼は、普通に2分以上息を止めていることができて、その年、第15代では潜る能力では、最右翼だということだった。ただ、この合宿にくるため、そしてその費用を捻出するために、冷蔵庫のアルバイトをしていて、睡眠不足状態だった。冷蔵庫というと、今では(行ってみたわけではないが)オートメ化されて大工場のようになっているが、当時は人力でほとんどの作業をやっていたので、重労働で名高いアルバイトだった。その代わりにギャラは良い。そのアルバイトをその日の朝までやって、そのまま汽車で小湊にやってきた。そして、午後一番の練習である。 そのような状況にあることを僕はしらなかった。コーチといっても、監督と言っても、それは意識の上でのことであり、実質、一人一人のことを何も知らないのだ。そんなことで責任を持てるわけのものではない。監督もコーチもできない。 そして、彼は自分の息こらえ能力、泳力には自信をもっていた。ブラックアウト(失神)するその時までは苦しくなったら浮上していたが、1分30秒と時間を切られて、まさか、自分がそんなに短い時間で浮上していたとは思わなかった。そして、腕にした時計を眺めていた。一分を超える時までは、文字盤が見えていた。そして、知らないうちに意識が消えていて、それから先何があったのか覚えていない。ただ、助けられて、舟に揚げられてからは、苦しく、痛かった。 そうなのだ。意識を失う時、その時のことは覚えていないのだ。人が眠りに落ち瞬間を自覚できないのとおなじであろう。 
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    僕らの時代の舟着場
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    今、
    海の中は昔とほとんど変わらない。


 そして、今後のことだが、目標時間を設定した練習はするべきではない。その時の自分の限界を知ることはとても難しい。自分のその時の限界を超えてしまう。 そして、さらに、2mというのは深すぎる、背の立つ水深で行うべきだろう。 今のフリーダイビングのスタティック競技は、そんな形で組み立てられている。しかし、そうなるまでは、ずいぶんと様々なことがあり、もしかしたら、何人かは亡くなって今の形になったのだろう。 僕はジョテックで死亡事故を見ているのに、同じような練習をさせて、ブラックアウトさせている。前の事故から何も学んでいないのか?バディを厳守させたから、助かったのだから、経験を生かしたといえないこともないが、 今、僕は、辰巳の国際水泳場で、スキンダイビング練習会をしているが、居るのだ。一人できて、梯子につかまって息こらえ練習をしている人が、そして、それは大抵の場合、フリーダイビングを志しているひとだ。申し込みの注意に、一人では絶対に息こらえ練習をしないように、そして、水平25mを折り返さないようにと明記してあるが、だめなのだ、目についたら注意しているが、恐ろしい。僕が不運であれば、だれかがブラックアウトを起こすだろう。水深5mは十分に深い。と言って、レッスンだとして、号令をかけて目標設定をしたら、これもまた恐ろしい。 意識を失った栗原君のお父さんは、陸上自衛隊の幹部の方で、北海道に居られたのだが、息子が迷惑をかけたと丁重な詫びをおくってくれた。しかし、亡くなっていれば、どうだっただろう。 水産大学から海洋大学になり、50周年、60周年を迎え、OB会もでき、記念パーティも行われた。栗原君のその後は、やはり自衛官かもしれない。会って古い話をしたいが、50周年にも60周年にも顔をだしていない。 そして、50周年記念誌、60周年記念誌に15代の記述がない。やはり、あのブラックアウトが利いているのだろうか。ただ、この代の松野くんは、富山県黒部の漁協の組合長になっていて、上京したさいに、訪ねてきてくれた。

0203 ダイビングの歴史 107 学生連盟

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ようやく、関東学生潜水連盟に話をもどす。 話を戻すので記述は、少しダブル。
 1968年
  関東学生潜水連盟は、法政アクア3期の銭元健二君が初代の委員長、第二代の委員長が、水産大学潜水部 13代の和久井俊夫君、書記が同じく13代の佐倉彰君だった。1968年結成時の参加大学は、法政、東京水産(海洋)中央大学、獨協大学、(東京商船)となっている。その獨協とは、なぜか、その発足時も、そして今までも、親しくなる機会が無かった。
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      手前 和久井君

 関東学生潜水連盟の発足した1968年の12月、学連の行事として行われた講演会で講演をしたりはしたが、学連としては、社会人の団体とは必要以上の強いコンタクトは持たない方針だったように思われる。それはそれで、一つの見識だし、立派なことだから、強く干渉するようなことはしなかった。
 1968 年、商船大学が死亡事故を起こす。当時日本潜水会は、事故を起こすとその詳細を報告書にして、世に発表することを要求していた。商船大学は、日本潜水会の主要メンバーであった、鈴木博(日本スキューバ)が関わっていて、遺体捜索にも関わっていたこともあり、この商船大学の事故も、報告書があり、そのあらましをブログに収録している。事故の歴史を書くうえで、そして、当時の学生のダイビングの様相を知る上でも、貴重な資料である。そして、伝聞によれば、この事故で東京商船大学潜水同好会は廃部になっていると聞いたが、その次の年、1969年10月に東京商船大学のプールで第一回の競技会が開催されたと、法政アクアの記念誌に記述があり、学連の50周年記念誌では、東京商船大学と早稲田大学水中クラブが、1969年に加盟したとある。
 学連の50周年記念誌では、1970年に学習院大学と立正大学が加盟し、第一回の学生潜水連盟の競技会が開催されたとある。
 関東では、大学のダイビング部活動が始まると学連に加盟することで、その存在が認可されるような風潮であった。
 混線しているが、1970年時点での加盟校は、法政、東京水産、独協、中央大学、早稲田大学 学習院大学,立正大学で、(商船大学)である。
  とにかく、東京商船大学ダイビング同好会は、このあたりで消滅している。その理由は、明確ではないが、やはり、死亡事故が原因だったのだと思う。
  1967年、日本潜水会が設立されたときのもっとも重要な主張は、そのころ全盛だったスピアフィッシングをやめて、水中撮影と、水中スポーツ競技の振興に全力をあげる、ということだったが、この主張は学生潜水連盟も同じだった。
 
 水中スポーツの項でも述べるが、競技会では若い関東学生潜水連盟が強く、特に法政が強かった。関東学生潜水連盟が主催する競技会も1968年の第一回より毎年開催されて、2018年まで、50年続いた。
 
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 もう一つ、東海大学の海洋探検部に触れておかなくてはならない。
 東海大学 海洋探検部、通称「カイタン」の創立は、1962か、1963だと思う。東亜潜水機に居た僕のところへカイタンを作った、初代が訪ねてきて長話しをした。古いことなので、名前を失念しているが、学生にしては、ずいぶんとしっかりした人と思った。すでに卒業されていた、OBだったかもしれない。
 それから後、たしか1968年か、1969年、僕が東亜潜水機を退職する2年前だから、1968年だろう、深田サルベージ(当時、日本最大のサルベージ会社)が、大学新卒をダイバーとして採用し、スクーバによる「深海潜水研究班」というのを作り、僕は1963年に100m潜水の実績があったので、その講師(コーチ)になって、教え、海に同行して、水深40mに潜っていた。そのメンバーは、潜水部の後輩の清水信夫君(後に海洋研究開発機構に出向して、シートピアでの現場責任者になる)横尾嘉明君、(やはり、海洋研究開発機構に出向して、シートピのアクアノートになり、水深30mでの居住実験メンバーになり、さらにその後、独立して 海洋計画という会社を作り、海洋研究開発機構の潜水講習を引き受けていて、最近まで、僕もお世話になっている)この二人は東京水産大学卒、僕の後輩だ。ただし、横尾君は潜水部ではなくて、空手部であり、この深海潜水研究班でダイビングを覚えた。後の二人が東海大学でカイタンの卒業生、そのうちの一人が岩城君だが、彼に聞いた、なぜカイタンが関東学生潜水連盟に入らなかったのか?と。「軟弱だったから」という答えが返ってきた。日本潜水会の悪しき?ハードなトレーニングの伝統を受け継いだ関東学生潜水連盟を軟弱だったという。カイタンは、死のしごきで勇名を馳せた。カイタンは、入部しても途中で、2年でやめてしまう、途中退部者が多かった。一年、二年とがんばって、3年になり、しごかれる側からしごく側に回るとやめてしまうのだ。なぜだろう。スガ・マリン・メカニックに入社した井上君もカイタン途中退部、河童隊のあの中川もカイタン途中退部だ。意外なことに、ゼロの五月女社長がカイタンを最後までやりとげている。最後の頃のカイタン卒業者の一員といえるだろう。
 そのカイタンの終末は謎だ。
 伊豆海洋公園は、東海大学の訓練センターになっていた。カイタンのホームも当然海洋公園だ。海洋公園のエントリーポイント、波が高い時には、隣の入り江からにエントリーする。日蓮上人をまな板岩と呼ぶ、岩の上で切り殺そうと送り出した、ので送り出しの入り江と呼んでいる。なお、日蓮上人は、首を落とそうとしたときに、一天にわかに掻き曇って、振り上げた刀に落雷し、天罰だと処刑がとりやめになった。そのことを縁起として祭ったのが、連着寺である。
 その送り出し入り江でカイタンはドラム缶で海底居住実験をやろうとした。そして、おそらく酸欠だろう、死亡事故が起こる。そして、それが直接原因でカイタンは、消失した、ということをそのころ僕は聞いた。
 NHKのカメラマン河野は、その事故の時に、学生に話を聞いたという。僕も海洋公園の友竹にその話を聞いたが、自分の目では確認していない。
 ところが、カイタンのおそらく最後のころのメンバーだった、ゼロの五月女さんに聞くと、「そんな話、あったかなあ。」中川も知らないと言う。仮にも死亡事故である。そのころのメンバーがよく知らないなんてことがあるだろうか?今、確認したくても、友竹も益田さんもいない。河野に聞いてみようと思っている。
 もしも、死亡事故があったのならば、商船大学の報告のように詳細でなくても良いから、概略は残しておく必要があると思う。せっかくの伝統があり、活躍している OBも多く、事故にしてもチャレンジの結果である。


0207 石垣島

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日記 雑感
石垣島、に行き、4日、5日と 一回づつ潜水して、6日は時化で、西海区水産研究所亜熱帯研究センターに遊びに行き、昨日7日に戻ってきました。亜熱帯研究センターには、前に、一緒に潜っていた友人がいるのです。リサーチ・ダイビング入門の本をてつだってもらうことになっています。本はいつになるかわかりませんが。
亜熱帯研究センターは、川平の隣の海大 にあり、素晴らしい景色のところです。造礁珊瑚の養殖などの実験も行われていて、見物できました。
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 海に出た、4日、5日、寒くて震えました。水温は23-24度と温かいのですが、舟に上がってから、調査が終わるまで、長い時間、舟の上で風に吹かれていなければ、ならないのです。ほかの人たちは、防寒具の用意を十分にしてきているのですが、僕は、南の石垣ですから、「恋する石垣島」のムードで、防寒具は用意しませんでした。流氷よりも寒かったです。流氷は、すぐに温泉に入ることができますから、冷たくはあっても寒くはないのです。まあ、コートを借りれば良いわけですが、やせ我慢して、アリステア・マクリーン、と言っても若い人は知らないか、北海を中心にした海洋冒険作家です。そのアリステア・マクリーンの世界を味わって震えました。何の調査か?は、いずれ、書くこともあろうかと思いますが、書くのが面倒な、ややこしい調査です。ダイビングのスタイルが、昔日のスガ・マリンメカニックと同じで懐かしかったです。スガ・マリンメカニックは、僕が70歳で引退してから、みんなも年をとり、一人、また一人、と亡くなって、この3月で、終わりを迎えるようです。みんなが若かったころを思い出した、そんな潜水でした。
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