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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0831 ダイビングの歴史 86 DW76-2

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 海洋博のビッグイベントの一つ、マリノポリスと海底を結んで、リアルタイムの映像を水面にあげ、半球状のドームの中のレポーターと話ができる。


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レポーターは、益田安規子、海洋公園の益田一御大の娘で、1970年代のダイバーのアイドルだった。
 今、どうしているだろうか?と思ったら、先頃、娘さんがマリンダイビングだかに、ベストガイドとかで紹介された。親子二代、益田大先生から数えれば、3代になる。

この水中にヌイグルミが出てくる。そのころ、水中ヌイグルミといえば、水中撮影の大家になっている中村宏治で、たしか、この海洋博でもヌイグルミの指導は彼がやったはず。
 残念なことに、僕はこのショウを見ていない。実は、この海洋博自分が関わったもの以外、ほとんど見ていない。忙しかったのだ。振り返れば、残念。

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このマリノポリスショウのプロデューサーは、堀保彦、堀さんは、ズーッと後になって親しくなり、二人でISCという指導団体を作った。その後、堀さんが何かのことで事業に失敗して、目の前(ダイビング業界)から消えて、以後会っていない。どうしているだろう。
 堀さんは原宿にユニマリンというかなり大きい、当時東京で、10本の指に入るダイビングショップを作った。そう、広告でみた限りでは、慶松さんのショップといい勝負か。堀さんの場合は、テレビの番組制作にも、顔を出していた。そして、なんと、ペルシャ湾のオイルラインの仕事に雄飛した。そのころのちょっとしたプロダイバーは、中近東で、オイルビジネスのダイバーになった。僕もちょっと、堀さんの場合は成功した。ダイビングショップをやり、この海洋博でのビッグイベントを仕切りペルシャ湾へ、そして、日本に戻ってからは北九州のオイル備蓄基地のメンテナンスを仕切った。そのころ、僕と仲良くなった。そして、、、、
どうしていることだろう。
 
※この部分、1p切り抜かれてしまった無くなっている。
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ダイビングの歴史 87 DW1976-2

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ダイビングの歴史 87
 ダイビング・ワールド 76ー2

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 シートピア、100m潜水成功
 シートピアは、ここまで、30m、60mの実験に使っていたハビタット(海底居住基地)を捨てた。真上に支援ブイを置かなければならないし、そのブイが金食い虫だし、荒天などによる危険もある。船の上、デッキの上の圧力室(DDC)と海底に降りていく圧力室(PTC)で潜ることのなった。だから、プロジェクトのタイトルもシートピアでは、なくなった。言ったら悪いけれど、海底居住などは、クストーにのせられた夢なのだ。後になって思えば、ダイバーによる、有人の海中開発も夢なのだ。
 しかし、1950年代から、1980年まで人類は海に対する夢をダイバーたちと共有し、僕たちはその夢の中に生きることができた。
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 右上の写真、水産大学潜水部、13代の大掛君です。残念なことに、彼は、この後、交通事故で世を去ります。
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このグラビアは、ハビタット:シートピアの写真を何枚も使っている。だから、読者はシートピア号で100m潜ったと思ったかもしれない。 村井さんが、ポストシートピア として、シートピアを捨てた話を掻いているけど。

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下の表、シートピアの記事、数多いけれど、この表があるから、この記事がベストだ。(僕が持っている資料のうちでのベストだが)シートピアに、この時点で関わったダイバー全員とその配置の一覧だ。自分の友人、知人、縁者 だけを見ていこう。
 同じようなことをそのころに記憶、関心のある人は誰でも思い出すことができるわけだ。
 このプロジェクトのヒエラルキーもわかる。
 競技会などの紹介でも、僕は、こういう表を大事に乗せている。そのためにこんなことをしているのだ、といってもいい。
 そういう意味で、第一級の資料だ。
 まず、松源先生、このプロジェクトで一番偉い人だ。海上自衛隊横須賀地区病院の院長先生だった。
 次に村井さん、この項の筆者でもある。もと、横須賀の水中処分隊の隊長である。
 そして、竹下徹さん、東京水産大学潜水部を一緒に創った大事な先輩だ。竹下さんも水中処分隊の隊長だった。
 そして、アクアノート、100mに行くチームだが、潜水部の後輩、僕がコーチをしていた時の、第13代の大掛君が入っている。30mのシートピアの時には、やはり後輩の横尾君が、60mの時には、大掛君の同期の奥川君が海の世界に何か書いているが、ここでは、抜けている。
 本文で村井さんが、書いているが、30m、60mのときには、支援会社など、外の人が、多かったが、次第にプロパーに絞っていったこと、そして、この表は、シートピアなどを含めた、かかわった人全てではなくて、この100mに直接関わったスタッフということだ。僕も、今見直して、あの人はリストにいないけど、どうしたのだろうとか、思う部分が多い。
 
 その後、スガ・マリン・メカニックの専属フリー(おかしな言葉だが、準社員、客分とでも言おうか)になる、新井拓、1980年に釜石湾口防波堤工事で、混合ガス潜水をやったとき、手伝ってもらった、田淵君の名前が入っている。2017年にシンポジウムで講演してもらい、ダイビングの歴史の執筆をお願いしている山田さんもはいっている。
 
 ともあれ、潜水科学協会から、海中開発技術協会に、そして、海洋科学技術センター、シートピアから、海洋研究開発機構に移り変わっていく過程が、日本のダイビングの歴史の主要部分、柱である。書きたいけれど、書けるかどうか。  
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 この号から、自分の話をDWに連載で書かせてもらった。後に「ニッポン潜水グラフィティ」で同じ時代の部分もなぞったのだが、やはり、若いとき書いたものと、終わってから書いたものではずいぶんちがう。編集にかかわってくれた須賀潮美は、昔の方がおもしろいと言ったが、仕方がない視点がちがうのだ。
 そして、1975、1976年ごろは、日本のダイビングが一番ハチャメチャなフロンティア時代。チャレンジの時代だった。死ぬことは嫌だったし、人を自分の間違いで死なせてしまうなど、耐えられなかったが、若かった。若さは全てを是定してしまう。海底居住、なんてバカなことを国を挙げてやっているのだ。海底に居住してどうする。人間に鰓を着けて、海に還ってどうするんだ。
 そんな時代、そんな気分で書いたと同じものが、60歳過ぎて書けるか?
 出来れば、後に書いたニッポン潜水グラフィティと、比べ読みしてください。
 そんなこと,そして、この時代を書きたかったので、なにがなんでも、この試みがしたかったのです。


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0905 ダイビングの歴史88 DW76-3

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ダイビングの歴史 88
 ダイビング・ワールド 76ー3

 別に意図したわけではないのだが、伊東漁協がイルカ漁を再開しようとしている。
 で、この記事を紹介することを見送ろうかと思った。今の時点で、あんまり目立ちたくないのだ。
 どうしよう。
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富戸にしても川奈にしても、イルカを追い込む港は、ダイバーが潜るポイントの隣だし、ダイバーボートが出る港でもある。
 富戸の組合も知り合い、友達が何人もいる。
 ドルフィンスイマーは、過激な反対運動などしないと思う。僕の見たところでは、捕鯨を再開しようとしている人たち、イルカ漁を再開しようとしている漁業者の方が過激な人が居るように見える。
 イルカ殺しに心を痛めるダイバーは、ただ悲しむだけだろう。
 ただ、マリンダイビングも「ダイバー」も今度のイルカ漁で、どういう取材をすることだろうか。無視はできない。取材して、コメントしなければならない。
 このDWのような記事を載せられるだろうか。

 DWのグラビア、赤地に白で読みにくいので、書き抜くと、「富戸漁港はイルカ漁では日本で有数のところ、ここのイルカは、伊豆大島から、遠くは八丈島近くから追ってくる。」とある。御蔵島のイルカも、この時代には追い込まれていただろう。
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 御蔵島は遠慮したとして、最近見られた、熱海、初島のイルカはいなくなるだろう。利島はどうだろうか。最近、中川が取材してきて、人なつっこいと言っていた。 漁業というものは狩猟だから、始まってしまえば、穫らずには港にもどれない。イルカ漁でイルカ資源が絶滅するものではないだろう。捕鯨再開論者がいうように、資源としての数字を見る限りでは。
 しかし、数字ではなく、個体識別している友人とみた場合に、殺されることは忍び難いだろう。
 そして、イルカにはコミニユケーションの能力がある。昔だけど、沖縄の美ら海水族館の東さんと、名護から小浜島までマッコウクジラ探しに出たとき、鯨の鳴き声で所在を探ろうと集音マイクを水中に入れたが、沖縄の海は、イルカの姿は見えないのに、どこもかしこも、いるかの声、エコロケーションで満ちていた。
 御蔵島のドルフィンスイミングが始まった頃、急に世界中のイルカがフレンドリーになった。人間が害にならないと言う情報の伝達があったのかもしれない。 伊東のイルカ漁はやらない方が良いと思う。やったとして、一回はできるだろうが、マスコミの猛取材をうけ、反対の声が、ダイビング関係に満ち、評判を落とした末に、中止せざるを得なくなり、太地のイルカ漁も問題にされ、水族館でイルカを飼うことの反対運動にまで広がる可能性がある。
 この前、水族館でイルカを飼うことの反対運動が広まったとき、水族館で仕事をしていた、僕は、板挟みになり、気を使った。

 ダイビングの歴史78 海の世界 1975年 5月 でも、太地のイルカ漁をグラビアで紹介しているけれど、モノクロで、血の海ではなかった。
https://jsuga.exblog.jp/29509796/
 そして、イルカの権威鳥羽山先輩の特集記事を掲載してショックをゆるめている。イルカについて、知る上で、この記事はぜひ読んでほしい。 大学、一年上の鳥羽山先輩には学生時代から親しくさせていただき、海洋博の水族館の仕事も、すべて、先輩のお世話になり。足を向けては寝られない。性格的にも、人格的にも大好きだった。
 鳥羽山先輩は残念なことに亡くなってしまっているが、もし、生きておられれば、繁殖させた、イルカをかうのが、王道で、イルカを捕獲するならば、ショックを少なくして、飼育するイルカ以外は、逃がすべきで、殺戮する必要はない、と言われるだろう。
 水族館でイルカを飼うことの、反対運動が広がるのを見るのは辛いが、食用にイルカが殺されるのを見るのはもっと辛い。
 この記事の紹介をためらった理由でもあるのだが。 なお、食用で売られてイルカのほとんどは、三陸沿岸で突き穫られているイシイルカで、御蔵島にいるハンドウイルカとは、違う種類である。
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そのころ、わりと普及していた水中通話器、今のロゴシーズと比べてみるとおもしろい。

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弟一回潜水技術シンポジウム
 第一回潜水用機器展
 海中開発技術協会が主催 日本潜水工業会が後援で、東京北の丸の科学技術館で行った。後のダイビングフェスティバルの前身といえる。 
 工藤昌夫さんが解説を書いているが、後のダイビングフェスティバルよりも数等良かった。
 シンポジウムは、今でもこの演題ならば聴きに行きたいとおもうだろうし、自分もスポーツ潜水について述べた。これはあまり感心したできではなかったが、とにかく。

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そして潜水機器展 これを見れば、当時の業界の状況がよくわかる。そして、自分の会社スガ・マリン・メカニックも親戚であるダイブウエイズと一緒のブースで出展している。スガ・マリン・メカニックは、カメラハウジングを並べている。この機器展、僕のスガ・マリン・メカニックでも出典できるほどの金額で出展できたのだ。全部同じコマ割で、公平?だった。ダイビング業界は、今でも、この程度で良いのではないかとおもったりしている。今は、大きなところが大きく出していて、メーカー全部がでているわけではない。撮影機材は全部が出しているように思うが、機材メーカーは出していないところがある。
 業界のことは云々できる立場にないけれど

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自分の書いた第2回目、連載が終わるまでは、DWで続けて行きたい。
後藤道夫に言われた。自伝のようなもの、だいたい終末にかくもので、途上でかくものじゃないだろう。
僕は途上で書いて、終末でも書いた。後藤道夫も何か書いてくれたら良かったのに、彼が書いてくれたら、1958年頃の菅原久一さんのこと、そして、真鶴で日本で初めてのダイビングサービスを始めたこと、そして、進駐米軍ダイバーの話、真鶴半島潜水禁止、そしてその解除までのいきさつとか、ダイビングの歴史で、わからない部分を埋められたのに。そして彼は、僕よりも記録をしっかり取っていたし、写真も多数ある。今、生きていれば、なんとか書かせたのに。



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0911 なぜお台場、(1)

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               1996年 イッカククモガニ
 
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 さて、お台場にどうして、なぜ潜るのか、なにを調べようとするのか、書かなくては.長くなりすぎるから、ブログにしよう。それも5回連続ぐらいになるだろう。  まず、ここに書くのは、自分の個人的な理由、であって、僕たちのお台場に潜るメンバーそれぞれに理由がある。 大きく括れる部分としては、東京湾の水環境 これは、10月3日のワークショップのテーマだが、その大きなくくり(目的)の中でも、それぞれによって目標は違っている。また、それぞれの違うテーマ、つまり自分の目標を持たないと長く続けてはいられない。 これから、日本水中科学協会10周年記念で、完成できるかどうかわからないが、「リサーチ・ダイビング」という本を出そうと思っているのだが、そのリサーチ・ダイビングの基幹は、自分のテーマを持っていること。 おそらく、レジャーダイビングのみなさんも、それぞれ、自分のテーマを持っているはずだ。そのテーマが、調べる、記録することであれば、それはリサーチ・ダイビングである。というのが「リサーチ・ダイビング」の書き出しになるはずだが。  本題に戻って、お台場に潜水する理由、その①は、それが東京湾だから、である。大阪の人ならば、大阪湾だろうし、水俣の海の人もいる。地中海は、モンド・ソンメルソだったか、「我らの海」と言う意味だ。イタリー語? 我らの海、と地中海民族は言う。僕にとって、僕らにとって東京湾が「我らの海」なのだ。 お台場は、僕にとって、「我らの海」のヘソになる。  1985年から話を始めよう。1985年の秋、マチャアキ海を行く、を作ったプロデューサー、の田島昭さんが、テレ朝のニュース・ステーションに、日本の海を潜って巡る企画をだした。田島さんは、テレ朝出身なのだ。その中で僕は、東京湾に潜る企画を出した。 その前年、1984年に、僕らは水中レポートの、フルフェースマスクと通話装置を完成していて、1985年2月には、ケラマから中継をやった。これは日本テレビの番組で、日本の民放初の水中からの中継だった。  東京湾に潜る企画が通って、その時はまだ、須賀潮美は登場しない。日本テレビ就職したいとは、考えていたらしいが、ダイバーとして採用してくれる途はないので、あきらめて、就活していた。  東京湾の研究者と言えば、今も昔も、風呂田利夫先生だ。当時はまだ、東邦大学の講師だったのだが、同時に、NAUIの理事長もやっていて、よく知っていた。彼に水中レポートをお願いした。 潜った東京湾のポイントは、富津のバカ貝取り 船橋の巻き網漁業、人工島 羽田沖、残念なことにお台場は、入っていない。 企画案は、テレ朝の加藤雅穀 「東京湾で魚を追う」を書いている方だった。この本好きなのだが。 これが、秋の話で、翌 1986年、知床の氷の下からの水中レポートで須賀潮美がブレイクするのだが、それはそれとして、同じ頃、親しくしていた中村征夫が「全東京湾」というノンフィクションで全国区になる。
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 その「全東京湾」のグラビアで、お台場のイッカククモガニの写真がでる。お台場の海底、一面のイッカククモガニだ。そして、風呂田先生は、イッカククモガニの研究を進めているともこの本で知った。 イッカククモガニは、外来種である。外来種は環境の変化、悪化に強い。強いから海を渡ってこられたのだ。
 なぜ、僕らのニュース・ステーションでお台場をやらなかったのだ。この企画は風呂田さんの企画ではなくて、加藤さんの企画だったから仕方がない。 企画は自分たち、ダイバーが作らなければだめだ。 よく考えれば、僕は、お台場でマハゼの産卵孔の調査もしている。マハゼとイッカククモガニで企画できたのに。 僕らの東京湾は、それでも良い視聴率をとり、風呂田先生の水中レポートそして、スタジオ出演もよかったので、次の流氷につながったのだから、失敗では無かったのだが、なぜ、お台場にもぐらなかったのだ。お台場に潜らなければ、という思いが心に残った。
 なお、このイッカククモガニ、今のお台場でほとんど見ることができない。お台場は、種の変遷が激しいのだ。

0914 人工魚礁研究会 波佐間

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台風15号、房総半島を襲った台風として、その被害は未曾有のものだろう。  台風は東京の真上を通り過ぎていったが、東京は交通機関への影響をのぞいては、殆ど被害はなかった。 僕の生活には何の影響もなかった。  台風の右半径が直撃し、50-60mの風が吹き、被害の多かった南房総館山は、自分のダイビング活動の故郷であり、現在のホームグラウンドである。すなわち、1963年に100m実験潜水をしたのは館山湾であり、今は、月一で波左間に通っている。母校である水産大学、海洋大学の基地もある。  台風は8日の夜半から9日の早朝に通過して、僕たちは、その4日後になる、13日に恒例の人工魚礁調査潜水に行く予定であった。 災害があるととにかく現場に行かなくては、何かできることをしなければ、と言う本能のようなものが日本人にはある。ボランティア活動はその表れの一つであり、自分にもあるので、高齢となった今、行けば邪魔にしかならないのに、行かなければと焦る。 13日は、どうしよう。 僕がホームにするようになったのも、きっかけの一つになったのか、自分のファミリーが、自分よりも波左間に密着しているので、情報にはことかかない。鶴町は、電話の通じない波佐間と、どうやってか電話連絡をしているし、中川(河童隊)は、出かけていって現況を見て、知らせてくれた。交通は、信号が壊れているところもあるが、ほぼ通常通り、2時間半で、到着できたという。波左間のオーナーの荒川さんは、13日には、僕たちが来る予定があるので、何とかそれまでには、ダイビングできるようにしたいと言ってくれていて、疲れてはいるようだったが、めげてはいない。そうだろう。彼は不死身のダイバーなのだ。不死身と思うと事故が起こるので、不死身という言葉を使ってはいけないし、思ってもいけないのだけれど、ほぼ不死身である。 なにが何でも、行こう。こんな状況だから、メンバーは行かないかもしれないが、その場合には、自分の車を転がしても行こう。 とにかく、僕が行き、潜ることが、個人的ではあるが、励ますことになる。励ますのは、抽象的だから、何か具体的なものを一つもって行こう。  幸いなことに、人工魚礁研究会、日本水中科学協会のメンバー、中心の山本、増井、小俣、早崎、は、参加を表明し、それに中川、国方が加わり、鶴町雅子は潜水ではなく様子見、後かたづけ、にくる。 災害の時、とにかく集まって盛り上げて行くのも、基本なのだ。

 こんなときにダイビングなんて、不謹慎と言う人が、もしかして居るかもしれない。みんなボランティアをしているのに、遊びのようなダイビングなんて、と言うかもしれないが、波左間は、そのダイビングで生きている。暮らしているのだ。そして、災害の要諦は復興、通常に戻すことなのだ。できるだけ早く、ダイビング営業を再開してもらいたい。  館山には、伊戸、西川名、板田、波左間、4軒のダイビングサービスがあり、それぞれユニークなスタイルがあり、自分はその全部に義理がある。今現在、波左間だけに通う理由は、自分のダイビングのスタイルと人工魚礁という目標、そして、自分の安全に密な関係がある。悔しいけれど、84歳は、ほぼ身体障害者である。状況のわかったサポート、チームワークがなければ、自分の安全が保てない。波左間の荒川さんに依存しているのだ。たとえば西川名の石川君は、大学の潜水部の後輩で、心情的には弟のようなものだが、今の僕が行ったら、僕の面倒を見なければならないので、営業妨害になる。自分がインストラクターとして通用していた2010年までは、西川名に通っていた。  朝9寺、現地着 習合が10寺なので、波左間の前に、西川名に見舞いに立ち寄った。驚いたことに、まだ停電なのにお客が来て、通常の営業をしていた。よかった、よかった。伊戸は路を海岸まで降りて行かなくてはならない。時間が無いので遠慮した 坂田のシークロップは、だれも姿が見なかったので遠慮した。あとでフェイスブックでみたら、屋根の修理が完了したことが報告されていた。坂田の成田は親友で、その娘の早弥がやっている。若いから大丈夫だろう。  ダイビングサービスは、どちらかと言えば強者である。弱者の年寄りも気候の良い館山には多い。自分が隠退して住みたいと思う場所だった。そして、一人で住んで、屋根をとばされたら、どうだろう。車で走っていくと屋根に広げたブルーシートが多く目に留まる。保険に入っているだろうか、保険が利くだろうかと心配になる。そして、自分で、屋根に乗って、ブルーシートが広げられれば良いけど、無理して転がり落ちたらたいへん。人的被害になる。 
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 波左間の被害は、風で窓ガラスが飛んだために、室内が水浸しになった。そして、機材倉庫の屋根が飛んでしまった。これは、たいへんな物入りだろう。 2隻あるボートの1隻が壊れてしまった。 風が陸からの吹き下ろしだったので、海上の被害が小さく、ジンベイの囲いプールは無事、定置網の被害も小さかった。  西川名でも、そして波左間でも、動力の電気が来ないので、タンクの充填ができない。営業復活には、それが、ネックだ。いま充填すみのタンクが終わったら、そして、電力が復帰しなければ、東京に充填に来なくてはならない。  さて、ダイビングだが、
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    左から中川、5年ぶりのダイビングだという国方、山本、早崎、増井は飛び込み済見、撮影しているのが須賀



 ログ  date 2019 0913 第27回 人工魚礁研究会   ①目的:タイトル 人工魚礁研究会 ③場所 波左間 ④スポット 超大型FP礁10個 ⑤天候 曇り 波高 0。5 m  ⑦水温 26 ℃ ⑧透視度 8ー10mm 1ノットの流れ ⑨潜水開始 1138    潜水時間 23   分 ターンプレッシャー 80 ⑩最大水深25。9 m ⑪潜水終了 1201    ⑫インターバル プラン  ⑬チーム 須賀 山本徹 早崎 増井 小俣 中川、国方  ⑭バディ A 須賀 山本徹 B 早崎・小俣 C増井 中川 国方  ⑮残圧予定  50  摘要  カメラはOlympus TG4の上にAKASObraveを載せたセット そしてマスクマウントに SG4000をつけた。  BC.をタバタのリベレーターに変えた。陸上での背負い心地は最高だが、水中でのバランスになれていない。 ウエイトは腰に六キロ 軽くて、ロープを使わなくては潜れない。 流れは思ったよりも早くて、ロープまで泳ぐのが難儀だった。 
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 失敗していた。タンクのコックが全開でなかった、水深20mで空気が足りなくなり、苦しくなった。 いつもは舟の上でタンクを背負うのに、BC.を変えたので、背負い心地テストで、タンクを背負って舟に乗った。舟の上では、呼吸して問題なかったが、バルブ全開の確認はしていなかった。20mを越えたら、空気の出が悪くなった。魚礁の上面に這い上がって、後続の増井さんを捕まえて、タンクのバルブを開いてもらった、  透視度は10mぐらいで、調査には問題ないが撮影は期待できない。マクロならば撮影に支障はないが、魚の数、様子の撮影だから、ワイド系だ。 そして、撮影結果だが、マスクマウントは○だった。Olympus TG4は、予想どおりにダメ。上にのせたAKASObraveは、濁りの粒子に光を当ててしまっているし、そのライトも中心をはずしてしまっている。
このブログは、マスクマウント中心で写真を使えた。二つ同時に撮影しておくと、どちらかが使える。マスクマウントも報告としては、臨場感があって悪くない。

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     これは、マスクマウントでのイサキの群れ、濁りを照らしていない。
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     オリンパスの上に乗せた、カメラ、濁りを照らしてしまっていて、しかもライトの中心をはずしてしまった。




 30cm以上のイサキ成魚の群が、魚礁の中に入り込んでいたが、外に出て行った。 20cmサイズのイシダイが4ー五尾魚礁の中を旋回している。 
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 メバルの群は下段、底近くにいた。大型に育っていて、50ー100の群。 下段の底でも、センター(へその部分の隙間)でもイセエビは見られなかった。 
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 イサキの稚魚の群、4ー5gmサイズの群、3cmサイズの群、これは別群になっている。透視度がよければ写真になるのだが。
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 上段のうえに上がると、生魚のイサキの群が、魚礁を覆っている。透視度が悪いので、これも写真にならない。
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 荒川さんはいつでも、僕を見張ってくれている。オブザーブ状態だ。山本さんは、バディの位置に着けてくれている。見回せば居るという位置だ。甘えるしかない。自己責任が矜持であるスクーバダイバーにとって、甘えるのは苦痛だけど。 残圧70で浮上。流れが速くて、吹き流しになる。荒川さんが先に上がっていてカメラを取ってくれる。フィンを山本さんが外してくれる。 フィンを外せば、ウエットスーツでウエイトが6キロならば、梯子を上れる。  小俣、早崎バディが流されて、舟を動かして拾う。こんなことは初めてだ。ロープから離れたためだ。二人とも中性浮力に自信があるので、時に、ロープを離して、水平で浮上する。 今日の流れは速かった、この二人が流されるのだから、浮上時には2ノットあったか?  タンクを節約しなければならないので、1本で終わりにした。 電気がきたので温水のシャワーがでた。 僕らが機材の片づけを終わる頃には、全体の片づけもほぼ終わっていて、きれいになっていた。 これで、コンプレッサーが動けば営業できる。 次に僕らがくる10月にはボートもなおっているだろう。  いつものことだけど、僕の体調不良もダイビング一回で治癒。 治らなくなったとき、僕のダイビングは終わる?

 

0915 波佐間 増井さん撮影分

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13日の波左間リサーチ・ダイビングの撮影結果として、メンバーの増井武さんが映像を発表した。 僕の調査撮影手法は、イメージラインを引くように魚礁の中に入り込んでいく定点撮影で、これだけでは、魚礁の全容をとらえることはできない。そこで、大型カメラを駆使して、小笠原、西表などで撮影している増井さんには、広い絵、巨大な水中構築物である人工魚礁を一枚の絵で、全景を一望できるような、そして、それに魚群がからむ、位置関係をおさめるようにお願いしていた。  透視度の良いとき、大型6m礁、ドリームの全景を撮って魅せてくれていたが、魚群が絡み、魚と魚礁、それにダイバーの位置関係がパースペクティブにとらえた絵は撮れてなかった。これは、魚が居なかった、からなのだろうが、今回はうまくとらえている。 僕の撮影調査結果と比べてみると、視点の違いによる全体像の違いがわかる。増井さんの視点が人工魚礁撮影の王道であって、僕が2003年にだした人工魚礁写真集「豊かな海」もこの線を追っている。 では、なぜ、今の僕ができないかというと、もはや、流れに抗して中層に浮いて、静止して撮影する体力もなく、危険だから、魚礁の内部の定点、定線を毎月繰り返し撮影して、魚が、居る、居ない、居ないならば、居ない撮影をする手法にしているからなのだ。  増井さんのとった動画からの静止画で見ていこう。 まず、透視度なのだが、僕は濁っていて、8ー10m、ライトで濁りの粒子がハレーションを起こしてしまう、と書いている。それは、魚礁の中に入り込んだ印象、視線なのだ。広い全景視線では、水は青く澄んではいないが、10ー20mは見えている。でも、15mはなれて、浮いているダイバーは、影のようにしか見えていない。 透視度とは、その時、その視線で受け止めた、ダイバーの像の明確度なのだ。つまり、人間、ダイバーの感覚のいい加減な表現ということだ。 撮った映像からの結果論的表現かもしれない。 動画と静止画でも、印象がちがう。動画のほうがきれいにみえる。 なお、動画は、増井武さんのところに掲載されている。
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 右上に浮いている二人は、早崎さんと小俣さんらしい。二人とも、テクニカルダイバーであり、流れに抗して静止している。
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撮影している魚群を見ると、たぶん、カンパチがいる。早崎さんのカメラには映っているはず。カンパチはイサキの稚魚を狙って集まっている。
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僕が浮上にかかろうとしたとき、目の前をよぎっていったイサキの群れ、群れの大きさがわかる。
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10cm以下のイサキ稚魚、魚礁全体を覆うよう。
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魚礁の中に入り込んで観察していると、いつもはメバルが上にいたのに、今回は海底近くにいた、と書いているが、上にも群れていたのだ。その後ろには、4cm以下の小さいイサキ稚魚の群れ 昔、人工魚礁調査でお金をもらっていたころ、観察者は、自分ひとりだった。観察者、李アーチャーのそれぞれによって調査結果は、変動する。まあ、経験豊富であれば、見えない部分も予想してしまうのだが、それが、いいことなのか、正確さを欠くことになるのか?いま、複数4人以上のダイバーが同時に、撮影というごまかしようのない手段で同時観察すると全体像が正確に把握できる。複数のダイバーの観察を有機的に繋げるフォーマットができれば、 ただ、今現在、僕らの調査が産業的に意味を持っていない。意味を持つ方向を模索すると同時に、調査手法の研究、そして発表、公表して行くことを計画している。 

0916 お台場物語(2)

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          イッカククモガニ 蜘蛛のようだ。

イッカククモガニは、お台場の象徴種といって良いくらいだったが、2019年の今、よほど探さないと、見つからない。居ないといっても良いくらいだ。 なぜイッカククモガニが見られなくなったのか。 まず、何らかの理由で、その種が生きていられない状態になった。その理由はさまざま考えられるが、お台場の場合、無酸素がまず想像できる。わかりやすい。毎月、海洋観測を続けているが、お台場は、海底近く、水深3mは、夏期、7月、8月は酸素濃度がほぼゼロになる。ゼロになっても、マハゼなどは、生きているがそれでも、酸素濃度がある程度ある岸近くに避難してくる。 かにの類は、酸素不足に弱いのではないか、そして、移動の早さが魚ほどではないので、逃げ遅れる。あるいはどこかに逃げて、空き家状態になる。空き家に別の種がくると、そしてその種が短時間で大量に発生できる能力を持っていると、劇的な種の交代が起こる。
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      チチュウカイミドリガニ

 もう一つ、イッカククモガニ全盛の時代、やや大型のチチュウカイミドリガニも繁栄していた。チチュウカイという名の示すように、地中海あたりからやってきた外来種である。外来種は環境の悪化に強い。どこにでも行って繁栄し、もともとそこに住んでいた住人に取って代わる。そのチチュウカイがお台場あたりに殖え、日本国籍の在来種イシガニが駆逐された。イシガニはワタリガニの類で、ガザミを小型にしたもので、食べておいしい。なお、チチュウカイミドリガニもおいしいと言うが、食べたことがない。 外来種のほうが在来種よりも環境に強いので、交代するのだが、このところ2010年あたりから、チチュウカイがいなくなり、イシガニが目に付くようになった。イシガニの方が強いのか?イシガニが地中海に運ばれるとそこで繁殖して外来種となり、在来種のチチュウカイミドリガニを駆逐することになるかもしれない。  本題にもどって 1990年、一緒に撮影の仕事をしていた電通映画社のプロデューサーである神領さんから、21世紀を前にして、東京湾と東京の川を撮影しておきたいという提案というか、仕事が来て、その一環として、東京湾で、環境のために活動している人を集めて何かをしようという話があった。 僕の知っている範囲、限りに声をかけた。 風呂田先生、三番瀬埋め立て反対運動の中心である小埜尾さん、海をつくる会、そのころは、創立者であった塩井さん、横須賀で91年には市会議員となる一柳君、(彼の書いた、「誰も知らない東京湾」は、この種の本としてベストセラーだった。)それぞれが、自分の活動範囲を持っていて、それで手一杯、合同して何かができるとは思えなかったが、とにかく集まってもらって、東京湾海洋研究会というタイトルで活動を開始した。  もしも、電通がお金を出し続けたならば、それが続く限りは続いただろう。公共の予算とか、大きなスポンサーとかは、その予算が続く限りは続くのだ。予算が打ち切られたとき、終わる運命にある。 その時に、もしも、今の自分であったならば、お金がなくなっても、ゼロではないだろうから続けられたかもしれない。当時の自分は自分の経営する会社があり、しかも、その会社は大会社ではなく、個人会社であり、自分の腕力(働き)で、社員を養っているような会社であった。ニュース・ステーションの須賀潮美の水中レポートが当たっていたから内容は悪くはなかったが、東京湾海洋研究会に全力集中できるような状況ではなかった。 それぞれが、それぞれのポジションでがんばる、それを互いに支援するという友誼は残ったが、組織活動としては、横須賀の一柳さんが最後までがんばったが、続かなかった。 それでも、僕らは、せっかくだから、東京湾の各所を潜り歩いて探検しようという集まりをつくり、隊長を風呂田先生、副隊長を須賀潮美ということで、「東京湾潜水探検隊」という集まりを作った。  潜水探検隊として潜ったところは、富津岬、千葉港のビッグドッグというダイビングプールだった。お台場も潜って、1995年4月の撮影テープも残っている。
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 そして1996年、東京海上保安部 警備救難課長の宮野さんのお声掛かりで、東京港お台場の海をきれいにしよう、という活動を始めた。宮野さんは、彼が特急隊の隊長時代、テレビ取材で知り合った仲だった。 この活動のこちらの受け皿は、潜水探検隊ではなくて、当時自分が理事長を務めていた全日本潜水連盟であった。そこで始まったのが東京ベイクリーンアップ大作戦(略してベイクリ)である。
 ちょうどそのころ、港区に「スポーツふれあい文化健康財団が発足して、次年度からここが主催団体になり、今に至っている。 スポーツふれあい文化健康財団が発足したのが1996年であり、ベイクリと一緒である。2016年にこの財団の20周年記念行事が行われ、僕たちも表彰を受けた。  僕の潜水活動の原点は、リサーチであり、風呂田先生を中心にした潜水探検隊が、お台場で事実上復活して、いきものの調査を開始した。 当時、コーチのような役割をしていた東大の海洋調査探検部も加わって、その第一回の調査を1996年12月23日 に行った。 クリーンアップは6月であるが、これは、海上保安部の海をきれいにする運動月間が6月であることで決まったのだが、6月は、赤潮の発生とか、お台場が最悪になるシーズンである。 秋にやればいいのに、ということで、12月になったのだ。これは、なんとなく、東京湾潜水探検隊だったが、副隊長である須賀潮美は来なかった。  記録をみると、1996年に始めて、1997年には、4月6日と5月18日の2回、1998年は3月8日と9月15日、12月13日の3回、1999年は4月24日の一回だけである。 2000年は、第8回の2月19日、第9回の9月10日と、2回だけ。2001年は、無くて、2002年この年が東京港水中生物研究会の正式な誕生年である。それまでは、「なんとなく東京湾潜水探検隊」だった。

0918 お台場物語(3)

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1996年のお台場の海底 ゴミが集まっているところ。



 話が少し前後してしまうが、1996年、お台場のクリーンアップを始めたとき(僕らの潜水調査は1995年の記録もあるが、クリーンアップは1996年から)お台場のゴミの状況はどうだったのだろうか。
 クリーンアップをする位置は、僕らが前から潜ってた場所で、お台場北駐車場の前、ちょうどコーナーになっていて、流れの収斂する、ゴミのあつまりやすいと想定した場所である。
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 ビニール袋、ボール箱、大型のゴミ容器、バケツ、紙屑などが一面に散乱している。お台場は貯木場だったので、貯木されていた丸太、木の皮がが、ゴミの下にあって、これは掘り出せばいくらでもでてくる感じ、これでは、とうていい拾い尽くせるものではないと思った。
 にもかかわrず、クリーンアップの成果は芳しくない。濁っていて、見えないと言うか多数のダイバーが入るので、水をかき回し、ただでさえ濁っているところを視界ゼロにしてしまう。
 それでも、以後僕らの調査の時にもゴミを拾うし、クリーンアップも2019年、20年以上やれば、ゴミはとりつくして、ほとんどない。それでも、数日前に捨てられたようなゴミとか、下水と一緒に流れてきたゴム製品など、かなりの成果はあるのだが、でも、大型のゴミは殆ど見られなくなった。


 しかし、その大型ゴミが、魚やカニの隠れ場、魚礁になっているのだ。
 大型のゴミが海底に落ちると、たちまち、付着生物、お台場ではユウレイボヤ、カタユウレイボヤと呼ばれる、筒型の半透明なホヤである。
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 ホヤを漢字で書くと海鞘になる。ホヤは海の鞘、その名にぴったりのホヤ、ユウレイボヤである。
 ユウレイボヤの付いた大型のゴミは、まさしく小さい魚礁である。メバルの2ー3cm級の稚魚が集まっている。大型のバケツのようなゴミは、チチュウカイミドリガニの隠れ場になっていた。
 これら大型のゴミを一掃したら、魚やカニの住処がなくなるのではないか?
 しかし、ゴミはゴミであり、一掃(クリーンアップ)されなくては、ならない。
 幸い、お台場の、北駐車場からお台場史跡に至る通路の岸は、崩れた石垣のような転石が磯場を作っている。
 お台場の石垣の岸には、貯木場であった頃の舟着き場、桟橋の名残と思われる杭の並びが海底に沈んでいて、それが、魚礁の役割を果たしている。
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 1996年1997年頃は、転石の浅場の先海底、水深2mあたりは、一面のムラサキイガイが、一面に覆い尽くしていた。それが、現在はマガキが覆っている。元来このあたり、江戸前は牡蠣の産地であったのだが、それが、外来種のムラサキイガイに場所をとられて、それがまた、失地回復でマガキが取り戻したのだろうか。いま、2014年以降、外来種のチチュウカイミドリガニが、消えて、在来種のイシガニにが殖えているように。
 魚礁については、2012年にまた述べるが、とりあえず1996ー97年頃のお台場の海底状況について、のべた。
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               正面に見えるのが宗谷と船の科学館
               左手が羊蹄丸



 2002年8月、新しい展開で、僕らは船の科学館に潜るようになった。
 船の科学館の前の海は、ふ頭になっていて、帆船の海王丸が泊まったり、水産庁の観測船が泊まったりしていた。船の科学館の展示として、初代難局観測船「宗谷」そして、その対岸には青函連絡船「羊蹄丸」が、係留されていて、その羊蹄丸の船尾付近に、船の科学館の海洋実習基地ポンツーンがあった。船の科学館では、ここに青少年(子供たち)を集めて、海洋観測やシーカヤックの体験実習を行っていた。
 ここで潜れば?ということになり、潜ることになった。
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              今大学生になった尾島潮音ちゃんがまだ幼児
              誰かが捕まえてきた、カニを見ている。
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              羊蹄丸
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               羊蹄丸船底近くに群れるスズキ


 ここは、水の濁り、赤潮来襲、大腸菌数などは、お台場とあまり変わらないだろうが、ヘドロは、お台場よりはやや浅く、お台場よりは少し沖側であり、なぜか、その中心には、魚を集める投石がしてあるのだ。
 お台場ではメバルの成魚はみることができないが、ここにいる。生き物環境としては、羊蹄丸の留めてある「青海北ふ頭公園」の方が良い。
 それだけに、お台場が極限地として興味深いのだが。


 羊蹄丸に潜ることになってから、正式名称を東京港水中生物研究会として、船の科学館に事務局を置くことになった。船の科学館の研究員で、水産大学の後輩でもある藤井さんが事務局の一切を引き受けてくれるようになった。
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               羊蹄丸の一室を研究室にしていた。


 これらの手配、お世話の一切を引き受けてくれたのが船の科学館の小堀信昭学芸部長である。小堀さんは潜水の歴史についての展示も担当していて、それについてもお世話になっている。僕の古い大型カメラも、そのつてで、船の科学館に寄贈している。


 2003年の4月(第13回)からは隔月になり、お台場と船の科学館を交互に潜った。
 2004年の3月(第22回)からは、隔月ではあるが、午前中はお台場に潜り、午後は羊蹄丸となり、2005年は「海と渚美化推進機構」の助成をうけた。
 この時代が東京港水中生物研究会の一番幸せな時期であったと言える。


 そして、2011年3月 東北大震災が起こる。


0922 お台場物語 (4)

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 2005年3月 羊蹄丸ポンツーンで見つけたモクズガニ
また話が前後するが、生物の調査なので生物の話を挟んで進める。
 東京都水産試験場のこと。 1990年代、水産大学の仲の良い同級生仲村君が、東京都水産試験場 場長になる。中枢に、顔見知りの後輩が多い時代。前に述べた電通映画のプロデューサー神領さんが、衛星チャンネルというタイトルの衛星放送のドキュメンタリー番組をはじめた。衛星放送は当時は視る人も少なかった。殆ど誰も視ていない実験的な放送だったが、自由に作れるということもあって、ドキュメンタリーの質は高かった。僕は、その衛星チャンネルで水中撮影で24本の番組を作った。24本というと、自分の知っている、自分の活動範囲のほぼすべてであった。アラスカのキングサーモン、トラック島の沈潜、シャーク、もちろん東京湾も撮ったが、「東京の川」シリーズを撮った。多摩川、江戸川、荒川、神田川.これら、東京関連の多くで、東京都水産試験場の協力をえた。多摩川では、鮎の遡上、産卵、を撮った。協力してもらったのが都水試の小泉正行さんだった。その小泉さんが、2000年代、お台場調査のの担当になり、お台場にアマモを移植して増やそうと試みた。お台場が緑の海草、アマモの草原になるのだ。 残念ながらアマモはお台場では根付かなかった。濁りのために日照が不足してしまうのだ。
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       お台場に植え付けられたアマモ
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 そのアマモをやっているとき、小泉さんはシャンハイガニを捕まえてしまう。2003年のことだ。シャンハイガニとは、中国モクズガニ、上海名物の美味しいカニだ。かなり大型のカニだから、船の船底に貼り付いてくるのは、不可能。どうも、対岸の魚河岸から脱そうしたらしい。新聞では、ある研究者は在来種のモクズガニに影響がでると危惧した。 僕の外来種についての考え方は、「いいじゃない。美味しいものが殖えるならば。」それに、在来種のモクズガニなんて、このあたりで、見かけたことなんてない。その空き家で、美味しいシャンハイガニが殖えるならば、上等では?(モズクガニではなくてモクズガニ:注意 僕もよくまちがう) しかし、とにかく話題になった。シャンハイガニを探せ、そのテレビ番組のディレクターは、今フェイスブックのお友だちの、田川さんだ。 番組だから、何か探さないと成立しない。探しに探して、なんと羊蹄丸の近くで、モクズガニを探し出してしまった。漁師的には、隅田川河口でも、モクズガニは撮れることが珍しくはない、ということだが、僕は、視たことがなかった。なお、モクズガニは、四万十川などで、漁獲されていて商売になっている。おいしいカニなのだが、なんと僕は食べたことがない。  さて、話を鮎に戻そう。鮎は姿形が清々しいので、清流の魚と思われるが、決して清流ではない多摩川でも殖えていた。多摩川では産卵するのは中流域の泉多摩川付近だ。残念なことに僕は産卵シーンを撮れなかったが、このあたりで産卵し、稚魚はながれを下って、海で、春桜の咲く頃に遡上する。お台場でも、鮎の稚魚がいるので、僕も懸命に探したけれど、細くて小さく、速いので視られていない。地引き網で採集するととれる。なので、ここにはアユの稚魚の写真はない、 なお、お台場では、地引き網で採れる魚と、僕らが視る、撮影できている魚とは、種類が違う。僕らが視るのは岩礁、浅場の魚であり、地曳きで採れるのは、主に砂地の魚なのだ。 鮎は要領の良い魚で、秋から冬、お台場など江戸前の水が悪くないときに、その海で暮らし。無酸素になる夏は、川を遡上して産卵する。
 次は、二枚貝の話だ。二枚貝は、何か条件が整うと、爆発的に殖える。お台場の人工砂浜でアサリが殖えたのは2002年から2003年頃だ。その頃、潜って、手を砂の仲に突っ込んでかきだすと5個ぐらいのアサリが手に入る。黙っていたのだけれど、潮干狩りに来る人もいて、アサリが、大漁なことが、次第に口コミで知れ渡り、潮干狩りは2004年にピークをむかえた。あまりに採れるので、商売人が採りにくるようになった。小泉さんはこのアサリの資源量も推定して、潮干狩りは続けられる予測をしていたけれど、2008年頃には、採れなくなった。
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      お台場で潮干狩り
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       ついに商売人も来た
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        潮干狩り場のような制限がなく、無制限だったから、いなくなった。


 二枚貝の外来種のスターは、ホンビノスだ。ホンビノウがあるのだから、ウソビノスとか、ビノスガイモドキ、があるのかというと、無くて、ホンビノスだけだ。
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        ホンビノスと大きなアサリ

 ホンビノスは1998年に千葉で最初に見つかったことになっている。ホンビノスを僕が最初に撮影したのは2003年だった。大きな個体立ったから、育つのに数年かかるから、千葉と同じ時期にお台場まで北のだろう。ホンビノスは、ビノスガイ、ビノスとは、ビーナス、ヴィーナスクラム、クラムチャウダーになる貝で、米国東海岸のどこだっけ、マサチューセッツ?が本場だとか。
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 僕らが、クラムヤチャウダーを作って食べたのは、2007年のことで、羊蹄丸サイドで、風呂田先生が先頭にたって、ガスコンロなどを持ってきた。こういうことが好きな人なのだ。 クラムチャウダーは、美味しかった。僕らは幸せだった。 ホンビノスも外来種なので、当初、学者間では在来種を圧迫するなどという意見もあったが、蛤の生産が商売にならなくなった船橋三番あたりの救世主となり、クラムチャウダーを売り物にするレストランも殖え、最近では、クラムチャウダー選手権などが、行われたりしている。
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 僕らも、ホンビノスの網焼きも試みたが、今では東京千葉近郊では、焼き蛤は、特別になり、庶民は焼きホンビノスを一個300円とかで、喜んでたべている。 もしも、チチュウカイミドリガニが、イシガニを絶滅させて、爆発的に殖え、資源量が保持されたあらば、シャンハイガニならぬ、チチュウカイガニが、名産になったかもしれないが、お台場のカニ世界は、イシガニ世である。そのイシガニも、多くはなく、危ないものだが、イシガニが消えたら、その空席はなにが占めるのか? お台場とは、そんな環境なのだ。
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         イシガニ 2015年

0926 お台場物語 (5)

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       メバル、シマイサキ どちらも稚魚
       背景白い ヒメホウキムシ
      
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左端のハゼはチチブ

 ここまで船の科学館が、事務局を引き受けてくれていたのだが。何かの理由で、僕らのような、得体の知れないグループのグランドサービスを船の科学館が引き受けているのは不適切という意見がどこからか出てきたらしく、できないと言うことになった。ただし、羊蹄丸のポンツーンはこれまで通りに、使わせてあげるし、できることはしてくれる。
 おりしも、2010年僕らは特定非営利法人の日本水中科学協会を立ち上げていた。日本水中科学協会が船の科学館に代わってお世話をすることになった。
 風呂田先生たちも日本水中科学協会に加入していただけないかと打診したが、東邦大学の東京湾生態系研究センターという組織を作っているので、日本水中科学協会とは協力するが、加入することはできない。ということになり、申請など、これまで船の科学館が代行してくれていた事務局機能は、日本水中科学協会が、研究は東邦大学と日本水中科学協会メンバーの両者が協力して行うと言うことになった。
 
 そして、2011年3月 東北大震災が起こる。
 なぜか、大震災を機縁にして、研究調査は月例でおこなうことになった。第70回 2011年3月27日からのことである。
 2012年、3月、お台場に人工浅場という名称の人工礁が枕設されることになった。
 浅場とは、岸の岩礁に続いて、その延長のような磯を意味する。
 そして、そのころから、漁港の堤防囲いの内側に、人工魚礁構築物を入れて、その海域を稚魚が育っていくような有効利用をしようという計画ができあがりつつあった。その漁港内に入れる小さな魚礁も人工浅場である。つまり、水深3m未満の浅いところにおく魚礁が人工浅場である。ぼくらは、めんどうだから、一括して人工魚礁と呼んでしまっているが、設置する場所によって呼び名が変わるのだ。
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       人工浅場 高さ2mタイプ


 なぜ、こんな人工魚礁をお台場に設置するのか。かつて、このあたり、江戸前は、魚もおおく、牡蠣もとれ、周辺部岸近くは干潟、芦原で豊かな海だった。都市化、工業地帯化で、その豊かさは消えた。ゴミ捨ての「夢の島」など人工島は、今も拡張している。人工島の岸には、浅場をつくらなければならない。港湾局には、東京港を魚の住む、江戸前の海を復活させ、維持する義務、仕事がある。
 月例の潜水で調査して報告を港湾局に上げよう。


 ここで、僕らの潜る、お台場の海、について説明しよう。図を見てみよう。図1;海図・図2案内図、そして図3グーグルマップ。
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             図1
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         図2
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           図3

 お台場は東京の中心、高層ビルの真ん中にあり、海の終点、あとひと泳ぎすれば、隅田川だ。 変則的な方形で、右半分は四角形とみる。四角形の右隅が僕らの調査定点である。
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 四角の中心部分は深さ3mから4mで、海底はヘドロである。ヘドロとは、軟泥で、冬はきれいなもので、江戸前のハゼの産卵場だ。今、水上バスの通路になっているあたり、斜辺の下方で、1980年代に確認したことがある。マハゼの産卵は、海底に深さ2ー3mの産卵孔、(産卵室かな)を掘ってその奥で産卵する。深い穴だから、柔らかい泥でないと掘れないだろう。マハゼ産卵が多く見られる場所というか、調査で潜り確認したことがある場所は、羽田空港沖、行徳ディズニーランド沖で、おそらく、東京湾の全面で、穴の掘れるところは産卵場所なのだろう。その中のかろうじて末席に最奥部とお台場もはいる。入っていたというべきか、今現在は確認していない。
 夏になると表層の水温は27ー28度、場合によっては30度になる。お台場は、基本的に波がなく、流れは、潮の満ち干による水の移動だけで、強い流はない。熱い水は表層を動かない。対流は起こらない。都市の水は、排水が混じるので、富栄養でありプランクトンが多量に発生している。プランクトンは酸素を消費するので、動かない水、新しい水の参入がない底層は、無酸素状態になり嫌気性菌が繁殖し硫化水素が発生する。硫化水素は、猛毒であるといわれるが、底層の水は、表層の温度の高い水を移動させなければ、表層にはあがってこない。
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           硫黄細菌


 お台場のヘドロの上には、硫化水素を同化している硫黄細菌が発生、繁殖してカサブタのようになっている。最近東京には、下水網が整備され、ドブ川が見られなくなったが、ドブ川の底ではこの硫黄細菌がよく見られた。お台場の海底、底層、夏期はドブのようなものなのだ。
 1950ー1970年代、中心のヘドロ部分だけみて、お台場はドブだと言われた。
 お台場の中心部はヘドロだが、その周辺、岸近く、僕らが潜水する部分は浅場であり、湧水もあり、きれいだ。右側の辺は、人工砂浜であり、都民の海水浴場にしようと、港区はがんばっており、毎年、期間限定であり、条件付きだが、今年はお台場プラージュというタイトルで水遊びに開放された。プラージュとは、よくわからないが、パリのセーヌ川でもおなじような行事が行われていて、そのタイトルだとか。
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 人工浅場は、僕らの磯、浅場を拡張するように設置された。図、参照。
 設置された人工浅場は、棚が2段のもの(高さ1m)と3段のもの( 2 m)である、高いものは、上を船舶が通ると危険なので、竹竿、赤旗がたててある。
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          低い 1mタイプ



 3月に枕設して、4月には早くもメバルの稚魚が群れていた。このような人工魚礁の設置を待ちかねていたようだった。
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 しかし、5月には赤潮が発生する。赤潮の中で、ハゼの類などは、魚礁に残っているが、メバルなどはどこかに消えている。逃げた?


 そして、僕ら、東京港水中生物研究会にとっても悲劇が襲う。
 船の科学館が東北大震災の振動で耐震性に問題が発生して、休館になってしまったのだ。職員の大部分も解雇になり、ポンツーンも維持できなくなるので、使えなくなる。羊蹄丸脇は潜れなくなってしまった。
 双発の飛行機が片肺になったような気分だった。あまり離れていないのに、二つの異なった環境で午前、午後に分けて潜れることが、大きな効果を上げていたのに、また、後述するが、僕らはこのポンツーンでいくつかの実験をしようとしていた。
 それが失われてしまった。


 時間の経過とともに、お台場の人工浅場は、自重によって次第に泥の中に沈み込んでいく。
 そして、お台場に青潮が襲来する。
 東京湾は第二次大戦後、岸辺の干潟を埋めて工業地帯を作るため、海底を掘って土砂を穫ったその深い掘り後の穴は、水の出入りがない。
 すでに述べたように、夏期東京湾ほ赤潮が発生する。深い穴の中の海底は、お台場と同様に、水面と海底の温度差のため対流が起こらず、無酸素状態になる。穴の中も波浪、潮流による水の入れ替えがおこらないために、完全な無酸素状態が続く。お台場の中心部ヘドロ域と同じ状態になるのだ。
 先に述べた、硫化水素発生が、より大規模になっているわけだ。
 夏の終わりから秋にかけて、風が吹き、表層の水が移動すると、掘り後の穴の中の無酸素水が浮き上がってくる。硫化水素が水面に上がると酸化されて、海面が乳白色、乳青色になる。これが青潮である。青潮も風に流されて移動し、お台場にもくることがある。
 毎年多少の青潮は発生するのだが、大規模にならないと湾の奥のお台場までは来ない。
 経験的に5ー6年に一度ぐらい、大規模な青潮がくる。
 12年9月、東京内湾が大規模な青潮になり、お台場にまで襲来し、魚の類、カニなどの甲殻類はすべて消えた。死滅したのか、逃げたのかはわからないが、すぐ10月に青潮が去ると、魚が戻ってきたことから、逃げたのだろうと想定する。
 図らずも青潮の中に潜るという経験をすることができた。
 青く澄んでいるわけではないが、赤潮のような濁りはない。少し硫化水素の匂い、どぶ泥のような匂いがする。岩に付着しているカメノテが必死になっているように触手を動かしている。生きているもの、動いているものはそれだけだった。身体が臭くなったが、僕ら人体には害はなかった。
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 逃げることができない二枚貝、ホンビノスは、苦しがって砂の中から出てくる。僕らが潜ったのは9月30日だが、ちょうど青潮が来て、ホンビノスが死にかけ、あるいは死んで、砂から出てきている時だった。砂地一面が死にかけのホンビノスだ。ここに、こんなにたくさんのホンビノスが潜っていたのかと驚かされる数だった。死屍累々とは、このことなのかとおもうほどだった。
 しかし、なぜか死んだホンビノスは大型の成貝だけだったらしく、稚貝は生き残り、稚貝が成長して、2014年には元通りの量に復活したようだ。
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 10月に僕らが潜ったのは28日、青潮は去り、水はきれいに、透視度は2mぐらいになった。2mといえば、お台場では最高の透視度だが、驚いたことに、メバルや、シマイサキの稚魚が戻ってきて、浅場魚礁の中に群れていた。
 
 魚礁は、次第に沈んでいくのだがある線まで行くと止まり、安定する。お台場の人工浅場も三段のものは、下の一段が埋まって、2段になって安定した。
 冬になって、魚は居なくなったが、来年が楽しみと思っていたら、3月には撤去されてしまった。1年だけの研究テストだったのだ。
 研究の成果を基に次の展開ということもない。何だったのだろう。僕らが毎月撮った映像だけが成果?だったかもしれない。

0928 お台場物語り (6)

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人工浅場再建計画   お台場に置いた人工浅場は、岡山県に本拠がある「海洋建設」という会社が作ったもので、その海洋建設の社長の片山さんは親しくさせていただいていたのに、事前の情報がなく、プロジェクトに内側から参加させてもらうことが、できなかった。海洋建設が日本水中科学協会の会員になっていただけたのは、この人工浅場が撤去された後のことであった。 ということで、このプロジェクトのいきさつは、良く知らないのだが、おそらくは、こういうことなのだろう。東京港は、東京のごみ捨て場として、埋め立て人工島が次々と作られる。その人工島の周辺は都民の釣り堀、釣り場にしたい。そのために魚を集める人工魚礁を設置する。その魚礁として、効果をお台場でテストしたのだろう、と想像する。
 一方、本来の人工浅場、漁港の中、堤防の内側、岸近くに設置されようとする人工浅場はもっと小さい。
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 図のように、50cm立方程度のものもある。 お台場に設置された大きい人工浅場も上の図のような小さいのも鉄枠に円筒、貝殻入りメッシュパイプが組み合わせられている。 この円筒は、鉄で作られていて、筒の中には牡蠣殻が詰められている。この部分が海洋建設の特許、特色である。
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      魚はアカオビシマハゼ 人懐こいかわいいハゼだ。


 言うまでもなく牡蠣は食用として重要である。そして、食用になるのは、これも、言うまでもなく中の身である。殻の部分は牡蠣の産地では捨て場に困る。 その捨て場に困る牡蠣殻を筒に詰めるとこの隙間に小さい甲殻類や多毛類(ゴカイの類)が発生し、それが魚の餌になる。つまり餌付きの住居というわけだ。 この牡蠣殻入り円筒がお台場で効果的であったかどうか、わからない。  つくづく残念なのは、このプロジェクトに最初から参加出来なかったことだ。計画が終息してから、自分なりの計画書をつくって、要所に持ち込んだが、相手にされるわけのものでもない。一度終わったものは、同じような計画はもう、最初の実験がよほどの効果を上げていなければ、二度目の予算は付かないのだし、この計画元来がお台場の魚を増やそうとして立てられたものではない。  でも、その僕たちの計画の概略を書いておこう。
 まず、僕らのダイビング調査地点の様相の概略を言おう。人工魚礁も人工浅場も周囲の環境とあいまって効果が得られるものなのだから、その意味で僕らのお台場調査結果も先に挙げた人工島計画に反映させることができると良いのだけれど。  
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 人工砂浜からエントリーして、膝の深さで腹這いになる。4、5、6、7月、であれば、マハゼの2ー3cmの稚魚、もう少し大きくなったマハゼが群れていることがある。数の多い年であれば、どこに腹這いになろうとも、見られるが、数の少ないときは、魚探しの名人である尾島さん夫妻は見られても、自分は見られず、悔しい思いをする。
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  深さ1,5mー2mのあたりに、ホンビノスの群落がある。群落とは、集まっているということだ。集まっている場所では、一度手を砂に差し込んで撹くと、2個から3個、手に触れる。潜っている深さは、水管が砂の上にでる程度だから、浅い。
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 時に、大きなツバクロエイが居て、これも、尾島さんが見つけて教えてくれる。教えてもらってから、エントリーしても間に合うくらい動かない。
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        ツバクロエイ 大きなエイである。


 砂浜のすぐ右側、転石がまばらにあるが、この部分は侮れない。マハゼ、トサカギンポ、メバルの稚魚、イシガニ、お台場で見られるほとんどの生き物をここで見ることができる。見ることが出来ると言っても、何時でも、簡単に見られるわけのものではない。ここでも名人の尾島さん夫妻は見ることができるが、ぼくは見ることが出来ない場合もある。調査フィールドの全域にわたって、名人と僕は差がある。目視観察というのは、そういうものなのだ。個人差がある。自分をスタンダードとして記録していく。
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 この転石の合間に、50cm、30cmサイズの人工浅場を置いたらどうなるだろう。 人工魚礁、人工浅場、特に小さいものは、波打ち際の浅いところには置けない。波でさらわれる、打ち上げられてしまう。ここ、お台場とか、堤防で囲われた漁港の中ならば置ける。
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 今、このあたりに、設置型カメラを置いて、記録すること、毎月同じ場所において、毎月の連続記録をしようとしている。もっと早く、10年ぐらい前からやっていたとすると、すごい、記録になっていたのに、残念である。 この転石浅場は、岸が転石状態である終点まで続く。岸近くの海は、原則として、陸上地形の延長になっている。 転石地帯の左側(岸を右に見て左)は、斜面になっていて、水深2mほどまで、斜面になっている。この斜面と水深2mになってから、の10mほどの巾、真牡蠣がある部分では密生、ある部分ではまばらに海底を覆っている。1996年前後、このあたりはムラサキイガイの密集だった。ムラサキイガイは外来種で、マガキの殻を覆うようにして付着していた。在来種のマガキと競合していたのだろうが、ここでも在来種のマガキが勝利して、今はマガキの世だ。マガキは密集している部分と点在している部分があって。僕らの調査フィールドの全域を覆っている。
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 公衆トイレの前というと、何か汚らしく感じるが、もちろん、トイレの水が流れ込んでくるようなことはないと思うが、トイレの前あたりに湧水がある。目に見えてわき出して居るようなことはないが。測定(シーページメーター)したら、確かに湧水はある。このような湧水は、じんわりではあるだろうが、この岸全体にあるのではないかと思う。
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 エントリー地点から、およそ80mのあたりに丸太が横たわっている。貯木場時代に沈んだものの名残だろう。 調査フィールドの終点あたりに、その昔、何時のことかわからないが、船着き場があって、その名残と思われる木の杭が残っている。
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 これが魚礁効果があり、イシガニ、タイワンガザミ、マハゼ、ハゼの類、チチブヤアカオビシマハゼ、メバル、シマイサキ、トサカギンポ、アナゴを見たこともある。お台場に生息するすべての生き物が見られる。もちろん時と場合だが。冬の間は何もいないことが多い。
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         横になった杭の下にいたタイワンガザミ


   さて、もしもエントリーした右側の転石に並べて、小型の50cmをさらに低くして、20cmタイプ、30cmタイプを置いたら、どうだろう。終点の杭列と比較して見ることも出来る。小型の磯場を並べたらどうなるか。そして小型だから、移動して、場所との関連効果を見ることもできる。 もしも、人工磯場の実験に先だって、僕らの意見が採用されて、これが出来るようだったら、 このような提案を今したとして、オリンピックが終わったらしてみようと思っているが、公園だから難しいだろう。
 もしも、羊蹄丸の下が、今でも僕らのフィールドであったならば、このような実験も容易に出来る。まだポンツーンがあったときになぜ気付かなかったのだろうと悔やむ。 オリンピックが終わって、船の科学館が再建されたとして、ポンツーンは再建できるだろうか。 もう84歳の僕に残されている時間は僅少である。

1007  お台場 通算174回 0929

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 お台場物語を書いていて、その(6)は、自分の泳ぐコースについて説明している。人工砂浜からエントリーして。右側、転石に沿ってまっすぐ、120m、お台場の天然の人工魚礁(構築物の遺跡)とも言うべき、杭の列まで行き、戻ってくる。この繰り返しである。
 右側が水中に広がった転石であり、左が牡蠣の斜面で、水深2mで傾斜が緩くなり、水深3mでヘドロになる。
 今回、Olympus TG4をあきらめた。ウエアラブルカメラを2台、持って行く。AKASO braveと7000,SJ4000 を2台、4台のうちから、2台を持って行く、2回の潜水で4台だ。2台持参の1台は1キロのウエイトに取り付けた設置カメラで、1台はイノンの単3電池3本のライトと束ねた短い棒カメラだ。棒カメラは軽いのでBC.のD環にクリップして持っていける。設置カメラは、90個のLCDライトの上にのっている。20mの巻き尺をマーカーとして付ける。
 
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 今回から、ドライスーツだ。ウエイトはベルトに6キロ、ベストに7キロ、フィンはキヌガワの、マンティスドライフィンである。マスクはダイブウエイズのラクーンタンクは8リットル、BC.はタバタのリベレーター。
 
 今回のメンバーは、尾島、尾島ママ、多留 小林、清水マミ 須賀の6名だ。


 午前 10時15分潜水開始
 棒カメラはクリップ、設置カメラを手持ちで廻してエントリーする。サポートは尾島ママにお願いした。
 
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 黒い2ー3cmのハゼの類が多数点在「チチブ」の子供だ。真牡蠣の生きているのを割って餌にしてカメラを置く。真牡蠣も少なくなっている。
 小さいチチブは真牡蠣フィールドが終わるまで密度濃く居る。設置カメラには、チチブかくるに決まっているが数を数えるために有効であり、その時期その時のお台場の優先種が何であったのか、知るために有効である。
 前回8月27日は、季節も夏で、魚の季節なのに魚は、集まらず見られず、小さいヤドカリだけが集まった。
 
 ☆☆
 カメラをライト付き棒カメラとウエイト付き設置カメラに分けて記録結果を説明する。
 お台場に関する限り、撮影調査については、この方法が、現時点でのベストであるように思えるので若干詳しく述べておく。


 設置カメラを確認する
 棒カメラをBC.にクリップで留めたので、設置カメラを手持ちで撮影して移動し、設置が終わったら、棒カメラで移動撮影していく。※この方法がとても良かった。
 1015 潜水開始
 砂地から、右の転石を見ていく。
 1023 チチブ 3cm級3個体
 何か撮影対象があった場合には、設置カメラをそこに置いて、何秒か撮影する。この方法がなかなか良かった。
 1023 転石の際にチチブ集まっている。5ー7個体。
 1028 チチブ  6個体
 1031 牡蠣の生体を割って、餌として置く
 1036 ここから自分は棒カメラをもって移動する。以下は設置カメラの記録である。同時刻に2台のカメラが回っていることになる。
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 1037 たちまち魚が集まる。チチブ6、トサカギンポ2
 1040 13個体集まる。数としてはこれが最高。個体の大きさは2ー4cmであまり大きくはない。
 1045 大型のトサカギンポが混ざる。
 1048 チチブが5ー6cmと大型(成体)。
がくる
 1050 大型3個体が牡蠣の上に乗る。小さな個体は離れている。
 1057 大型が5ー6個体、小型も2個体混じる
 1116 なぜかカメラが一時切れてしまう。
 1時間で切れるのか設定の確認が必要
 1119分、戻ってきて、カメラを持ち上げて移動
 撮影終了  エキジット


 元来、チチブは、お台場で優先しているハゼの種類である。マハゼも江戸前で優先しているが、マハゼは秋から冬に産卵し、春先から稚魚で出てきて、ぐんぐん成長して、秋には、10cm以上の大きさになり、産卵する。生まれるのが遅く、秋に小さかった個体は年を越して次の年に大きくなって産卵する。産卵したあと生き残る個体もあるらしいが、ほとんどの個体は死ぬのだろう。すなわち、マハゼの寿命は一年か二年。
 チチブはよくわからないが(調べなくては)周年、5ー8cmの成体がいる。お台場にいるハゼの仲間では、もっとも数多いとおもう。常には、牡蠣殻の間、石の下などに潜んでいるが、よくよく探せば、何時でも見つけられる。2012年の青潮前の無酸素状態がひどかったとき、隠れ家から、全部そと、海底表面に出てきた。その数の多さに仰天したが、こんど、今居る稚魚が育ったら、さらに多くなるだろう。


 チチブは、牡蠣殻の中に潜み住むが、マハゼは、岩の下には入るが、牡蠣殻の中では見ない。棲み場を争うことはないと思うけれど、それにしても、今年のお台場でマハゼの少ないことは、チチブが多いことに影響されているかもしれない。マハゼはかなり上流まで川を遡るなど、行動半径が大きい。チチブは、あんまり移動しないで住み着いているようだ。


 ※ チチブとは、河野先生の「東京湾の魚」によれば、
 いわゆるダボハゼと言われていたハゼで、チチブ属は、チチブ、お台場でチチブ同様よくみられるフタオビシマハゼもその仲間である。
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         チチブ 成魚



 しかし、それにしても前回8月28日には、割った牡蠣に魚は集まらず、ヤドカリだけだったのに。
 昔、江戸前の時代、魚、ハゼなどが湧くといわれた。ハゼの類は、本当に涌くような感じだ。
 
 手持ち棒カメラの記録
 足下から4cmほどのギンポが飛び出してきた。おどろくほど人なつこい。手で追い払ってもレンズ前に寄ってくる。ピントが合わせられない。種類はニジギンポだ。普通種だが、お台場では、僕はこんな、接近してくるような経験をしたことがない。
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 しばらく遊んで、名残惜しいけど後にした。


 杭の跡 魚礁
 立った杭の間に倒れた杭が横になっているところがある。この横になった杭の下が、魚やカニが隠れ潜むところだ。この杭が横になって下が隙間になっている状態状況を再現するような、人工魚礁をつくれば良いわけなのだが、
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 その、人工魚礁的横棒のあたり、シマイサキが集まっていた。
 僕がここに到着したのは、みんなが魚を追い回した後だから、散ってしまっていたのだろう。尾島ママは、10尾程度の群を見たという。
 僕の見た数は4尾だ。そのうちの1尾は、杭の下に隠れているのを、棒の先カメラを突っ込むようにして撮影できた。いつものOlympus TG4では、これは、撮れない。
 
 一回目の潜水ではイシガニが見つけられなかった。ヘドロ部分も見ていない。砂地の上にマハゼがイルカもしれない。タンクが少なくなっていたので、タンクを代えて、二本目、砂地を巡り、岸側の浅場を縫うようにして、進んだ。中型のイシガニを見つけた。接近すると石の下に隠れながら、ハサミを広げて意地を見せる。石の下に、後退して行く、今日のカメラは石の下に差し込むことが出来る。カメラを入れると、ほんの狭い隙間に退いて固まった。銛で突き刺されれば採られてしまうが、自然界ならば、これで逃げきれる。
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 しかし、前回8月の潜水で、クロダイが石の下に突進して突っ込む姿を撮影している。あれは、カニを追ってたのだろう。
 大型の魚として、ボラは常連だが、最近クロダイが増えている。
 
 2回潜水すると身体の調子は良くなる。


 調査年月日:2019年9月29日測定地点 St.5水深水温PHDO塩分0m24.888.278.0825.20.5m24.888.237.2425.21m24.968.156.2425.41.5m25.058.196.4825.92m24.888.084.8926.42.5m24.618.003.6627.33m24.408.033.7128.13.4m24.438.023.9828.0海底3.5m

1018 シンポジウム 1

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ブログを書く時間がない。今までの続き、お台場ものがたり、ダイビングの歴史を書く時間がなくなっている。ここから先、12月1日のシンポジウムに向かって走らなければならない、 ぼくにとって、ブログはログ、記録だから、シンポジウムに向かっての、そのことを書いて行く他ない。  シンポジウム、ようやくプログラムが固まり、日本水中科学協会のホームページにリリースされた、https://jaus.jp/ そのプログラム案に沿って書いていくことは差し支えない。とにかく、一応まとまったので、まとまったプログラムに沿って、自分の考えを書いて行こう。PRにもなる。  まず、シンポジウムのコンセプトだが、

 「ダイビングを行うには、2つの大きな両輪がある。1つは「スクーバで何をするのか」という目標、もう1つは「どのように実行するのか」という運用。この両輪を追究してきた日本水中科学協会は、第9回のシンポジウムで「リサーチ・ダイビング」をメインテーマにした活動計画、ならびに活動報告を行う。」

 このシンポジウムに向けて、新たに運営委員を何人かお願いすることにした。お願いする方にはお願いし、会員に公募というほどの会員数ではないのだが、協力してくれる方を募った。幸い、お願いした方は、快く引き受けてくれたし、公募の方も大物が手をあげてくれた。スタッフとして、現時点で、日本水中科学協会として最善の態勢を整えることができた。 一番の問題点は、自分の能力低下で、悔しいけど仕方がないことで、これを補うスタッフ態勢を整える必要があった。 この点でも、一応の成功だった。  その新しい、と言っても、つきあいの古さは長年の仲間ばかり、+ 1名の若い人だが、日本水中科学協会の沿革、なぜ日本水中科学協会を作ったのか、からはじめて、日本水中科学協会ができてからの足かけ10年の沿革を書いて送った。書いては書き直して、これに一週間かけた。あまりに長文すぎて、読んでもらえたかと心配だが、とにかく書いておくった。 その「日本水中科学協会の沿革で、2010年からのシンポジウム、全部で8回の、プログラム項目を書き出した。手間のかかる作業だったが、自分にとって有意義な作業だった。 8回に共通している流れ、コンセプトは第一回から必ずしも一貫していない。それは、当然のことで、自分一人でやっていることではない。メンバーそれぞれの専門があるし、考え方も、立場もちがう。それだから、良いのだが、大まかな流れをみると。 やはり、ダイビングで重要なのは安全の追求であろう。絶対の安全、「事故ゼロ」は、ダイビングをやらないことなのだが、必ず「お家に戻ってくる」ことを目指し、願って、出て行き帰って来なくていけない。帰ってこなかったとき、その人の人生は終わる。それが怖いと出かけなければ、引きこもりになり、これも人生の終わりに近い。人間が生きると言うことは、すべての可能性を追求して水中へ、宇宙へ、出て行くことなのだ。 ※昔、1960年代だが、BCなどない時代、沖合まで泳ぎだして、潜り、浮いて頭を出したら、岸ははるかかなた、自動車も小さく見える。そんな時に起こすパニックを「お家に帰りたいシンドローム」と呼んだりした。なので、「お家」という言葉が出てきた。  出て行き、帰ってくるにはどのようにしたら、良いのだろうか、計画をたて、計画が計画通りに運ぶように段取りを立てなくてはならない。これをひっくるめて「運用」という。 「どのように実行するか」が運用で、安全が何より大事、と2014年頃からは「運用研究」安全追求のシンポジウムだった。 ところで、家を出ていく、出かけていくには、必ず何か目的、目標があるはずなのだ。「遊びに行く」でもかまわないし、一見無目的な散歩もある。これが「スクーバで何をするかの目標」になる。 目的、目標の重視は、自分がダイビングを始めたころから、たたき込まれ、刷りつけられた。大学は東京水産大学、今の海洋大学で、大学と言うところも基本的には何をするかを決めて、どのように実行するかを教えるところで、「何を」の目的、目標が重視される場である。そこで刷りつけられたのが、水産・海洋 だった。 「何をどのようにするか」で何をと、どのようには不可分であり車の両輪なのだが、どちら側から見るかの視点はちがう。 考えようによっては、視点というのは最重要事項の一つである。視点の違いが争いにもなる。視野を広くしなければ、いけないわけだが、シンポジウムでは、何をどこから見るかがポイントで、今回は「何を」の視点から見よう。そして、その「何?」を「リサーチ」にポイントを置くことにした。 

1019 JAUS シンポジウム 2

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タカベの群れ

12月1日 JAUS シンポジウム 日本水中科学協会の仕事の進め方は、今回のようなシンポジウム、できれば毎月(できないけれど)のワークショップによる、海洋にかかわる講演、ダイビングの運用についての研究成果の発表。実際に海にでての、主としてリサーチ・ダイビングかかわるフィールドワーク、そして、もう一つは、本を出すことである。。 このような、仕事の進め方、最初から予定していたものでは、なかった。出口を探してもがいている形で探した出口、手段とであった。 本をつくるというのも、フィールドワーク同様の一つの研究と考える。 太字はプログラムから引用11:10-11:15出版計画発表「リサーチ・ダイビング」(仮)JAUS代表理事 須賀次郎ダイビングを手段として水中の事象を調べ探求する「リサーチ・ダイビング」は一部の研究者だけのものではない。「リサーチ・ダイビング」をスクーバダイビングの1つのジャンルとして確立し、学生でもレクリエーションダイバーでも、安全かつ有益なリサーチ・ダイビングをするにはどうしたらいいのか。そのテキストとなる書籍の出版計画について発表します。  現代で、自分たちの主張を公にする手段は、SNS と 出版、である。マスコミに取り上げてもらう、というのもあるが、それは、マスコミの意見、考え方が強く反映される。 日本水中科学協会は2010年に発足して2019年まで、足かけ10年、来年2020年で満10年になる。その10年の間に日本水中科学協会は、「最新ダイビング用語辞典」:2012年、「潜水士試験完全攻略」2014、「スキンダイビング・セーフティ」 2016 と3冊の本をだしている。2016年から、少し間が開いている。 そこで、来年夏までに、「リサーチ・ダイビング」をだしたい。  リサーチとは何かというと、 人はなぜ潜るのだろう。食料になる魚介類をとることが、始まりだろう。そして、次には、水中を見たい、調べたい、探索、探検したいとなる。 そして、1943年クストーのアクアラング開発の目標はリサーチだった。日本に1953年にそのアクアラングが持ち込まれたのもリサーチの道具として、だった。 今、スクーバダイバーの90%は、カメラを持って水に入るが、撮影も、視点を変えればリサーチ・ダイビングなのだ。 あまりにも現代のスクーバの全分野を覆ってしまっているために、ことさらにリサーチ・ダイビングと言わなくなってしまったともいえる。 ここで、リサーチ・ダイビングというジャンルを明確にして、その沿革、安全な運用を提起して、リサーチ・ダイビングのテキストとしたい。  たとえば、科学研究者のダイビングは、リサーチ・ダイビングである。これまで、科学研究者と一緒に潜ったことは、数え切れない。そのうちの何回かは恐怖であった。自分の命も失うかも知れない恐怖であった。 現在、大学:研究機関:研究者・学生が研究の為のダイビングをするためには、潜水士の資格と、初級のCカードを持っていれば良い。運用の計画性、運用の技術、応用例を知る手段は、含まれていない。研究者は、もちろん系統だって考えることができ、その多くはフィジカルでも優れている。これまでに感じた恐怖は、ダイビングの運用に知識がなく、フィジカルがすぐれていたことによるものだった。 ダイビングの運用についての知識は、応用は千差万別であるが、考える道筋だけわかっていれば、知力の優れたひとたちだから、自分で考えることができる。 基本とその実例、応用例を挙げ、今後の展開についての知識を加えればたい。 事故例、自分の体験例、を多く使いたい。 11:15-11:20 JAUSジャーナルJAUS副代表理事 久保彰良JAUS 会員の活動。主張、などを発表する機関紙です。来場された方に配布して説明をいたします。
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 2019年6月号の内容は ☆  指導法  ちょっと大人の減圧症予防ー樽生ビールと減圧予防  工藤和由 ☆  潜水技術  プライマリーコース   倉田秀一 ☆ コラム フロッグマンのスキップ 一所懸命   久保彰良

1024 日本財団助成金申請提出終了

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            お台場の「チチブ(ハゼ科)
 今年から申請がグーグルになったので、少し戸惑ってコールセンターに電話して聞いた。 なれれば、この方式も悪くないって、来年もあるつもり?  申請しても100%受からない。そもそも、僕のやりたい、申請するような事案は、助成の対象ではないのだ。スクーバダイビングとは、ビジネスの範疇に入るものなのだ。 昨年の「潜水の歴史研究会をつくる」というのはちょっと見込みがありそうに思えたが、だめだった。今年のリサーチ・ダイビングは、ダイビングそのものの要素が強いからダメだ。ダメとわかっていてもやるのは、僕らの日本水中科学協会がこの助成金をいただいてスタートしたので、とにかく、毎年、申請をしようと思っていることと、この申請をすることで、なぜ、どうしてこのことをやるのか、それが社会のために何になるので、受益者がどのくらい居るのか、という視点で自分の活動をみることができて、頭の中の整理ができること、そして、その年に何を中心にかんがて活動していたかの記録になるからだ。学生時代の期末試験のようなものか。  と、半ば頭の体操のつもりもあって、助成金申請をする。終わってみれば、達成感はあるが、手をつける前は、例によってプレッシャーになっているのだが。これも期末試験的状況。 これまでの助成金申請のタイトルを書き出してみる。
2020  「リサーチ・ダイビングをスクーバダイビングのジャンルとして確立させる。」 これが今年で、ねらいは、来年出版予定の「リサーチ・ダイビング」をもしもこの企画がとおるようなことがあったら、その縮刷版の小冊子100pぐらいのものをつくって、全国の大学、研究機関におくりつけようということだ。 昨年 2019 「日本に潜水歴史研究会を設立する。」 これは、もしかしたらと思ったが、やはりだめ。 2018 「スクーバダイビングによるお台場海浜公園水中生態系定量、定性観察調査記録」 これは、助成がなくとも続けてやっていること、やってきたことだ。  2017 「潜水による放射性物質精査」  2016  お台場海浜公園におけるマハゼの産卵について 2015 「研究者のための新ダイビングシステムの試用実習」  プライマリーを手を変え品を変えてだしたけどダメ。 2014 「ハイブリッド潜水システムの研究」 80歳 80mダイビングを出したけど、当然だめ。 2012 「 研究者のためのダイビング実技講習」  プライマリーコース 2011 「東日本大震災にともなう瓦礫除去潜水作業」 2010年にプライマリーコース関連のシンポジウムに対して助成をうけていたのだから、その連続で、2012年の研究者を11年にやっていれば、通ったのだが、災害についてのボランティア活動として、自分でしかできないことで、なにか、社会の為になることをやろうと、大震災をテーマにしてしまった。 しかし、パラドックスになるが、この社会のためのテーマも団体で押し寄せるから、実績がないとダメ、ここでは、タイミングが悪かった。書くと長くなるから書かないが、このテーマはキヤノン財団にもだして、今一歩だった。無理な企画で、やれば失敗したと思う。  そして、これが通らなかったので、2017年の放射能調査の原型を理化学研究所と一緒に、2011年にやっていて、その延長線上で、テレビ番組もやったし、そのかかわりの潜水調査に、25日 明後日に出発する。人生も仕事も吉凶糾える縄の如しだ。このところ、大局的には吉、局部的には、凶が続いて、もがいている。

1029 JAUS シンポジウム(12月1日 海洋大学品川キャンパス) 3

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 学生の部活としてのダイビング  学生のダイビングは、自分が学生だった時から今日に至るまで、自分のライフワークの一つである。 まず、自分が大学3年の1957年に海洋大学、時の東京水産大学に潜水部を創ったこと。2017年に創立60周年を迎えた。 1968年、関東学生潜水連盟が誕生したが、それは、1967年に発足した自分たちの日本潜水会からのスピンアウト(だと自分は思っていた)だったので、初期の講習、技術指導を行った。この技術指導がハードだったために、関東学生潜水連盟の指導もハードになり、後に発生する事故の遠因にあったのではと反省する。  自分とダイビングの関わりは、すべて、事故がその基調になている。つねに最悪の事態を予想している。そのおかげで、自分も生き残り、自分の目前では、死亡事故は起こしていない。しかし、事故とは不条理なもので、自分の関わりの範囲、(自分の会社、関東学生潜水連盟、など)では、死亡事故が起こり、それが、トラウマになっている。自分が現場にいたら?  「最悪の事態を予測していても、一瞬の隙で事故は起きる。」それが、自分の視点である。 一瞬の隙間とは、事故を防止するシステムがない、もしくはそれがその瞬間機能していない。人間関係の隙間、思い上がり、油断などである。それを察知できるのは、空気(雰囲気)であり、かなり抽象的である。それが、具体的な形で見られた時には、即、手を打たないと危ない。多くの場合、手を打たなくても、無事に過ぎるが(事故の確率はそれほど高くないので)事故が起こったときには「やっぱり」と思うし、手を打ったから、無事だったと感じたこともある。  日本水中科学協会のシンポジウムは、安全性の追求が一つの柱になっているが、その具体例として、学生のダイビングを取り上げている。 太字はプログラムから引用 11:20-11:40「学生による 安全なリサーチダイビング手法の追究」東京大学 海洋調査探検部 田村陸  今年、50周年を迎える海洋調査探検部では、現役生(2年生、3年生)が50周年記念講演会で発表すべく、JAUSが波佐間(千葉県館山市)で行っているリサーチ・ダイビング研究会に同道し、独自の安全な海洋調査探検方法を探ってきました。その内容を今回のシンポジウムでも紹介します。  東大海洋調査探検部は、およそ、50年前、その発足時から、アドバイザーをつとめていて、幸いにも無事故で過ごすことができた。しかし、それは幸いにもであり、隙間がなかったわけではない。隙間をなくす具体的な方策として、目標の設定、目標に向かっての計画立案と実施がかんがえられ、その具体例の研究と発表である。 一般の大学、部活のダイビングシステムは、3年生の中頃には部活から退いてしまい、学内OBというかたちになるが、海洋調査探検部は、探検(リサーチ)が目標になっているので、ドクターコースまでが、かかわっていて、大学生が成熟するのは、4年生あたりからであるから、システムとして安全性が高い。  発表は3年生の田村君である。 11:40-12:00「海洋大学潜水部の活動と、館山坂田内湾の海について」東京海洋大学 潜水部 佐藤新  昨年、60周年を迎えた東京海洋大学潜水部は、学生が安全にダイビングを行うこと、フィールドである館山坂田内湾を継続してリサーチ・ダイビングする可能性についてなどを紹介します。 発表者の佐藤新君は3年生です。  なぜ、リサーチ・ダイビングが、学生のダイビング活動にふさわしいかというと、リサーチ・ダイビングでは、目標設定が必須、そして、記録することが、必須。その上に、うまくすれば、研究活動につなげることができる。プロの研究者にならなくても、アマチュアのダイバーでプロ級の人がたくさんいる。そういう人たちの集まりとしての側面を日本水中科学協会は目指してもいるのだが、道は遠い。
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 ましてや、海洋大学は海の研究をするのが、目標、海洋大学潜水部は、1957年創部、2017年に60周年を迎え、祝典を開いたが、その60年で研究した成果の発表は何もなかった。強いていえば、自分がコーチをしていた、1967~8年だったか、それは、関東学生潜水連盟のできた年でもあったのだが、「水中ソリの研究」を指導したくらいで、その時撮影したモノクロ16mmフィルムの映像が、50年間、アニバーサリーとして、繰り返し映写されている。(もう一度やってもいいかなと思っているが)以来、何の研究もない。年々、「今年も無事で良かったね」という成果だけだ。この数年、それも危うくなってきた。先に述べた、隙間、亀裂がみられた。心配して講演会など行ったが、何の効果も無さそう。  ところで、東大のところで述べた。人工魚礁が、なぜ。学生のリサーチ・ダイビング講習、実習に好適かというと、まず、場所の特定、位置の特定が容易であること、観察の第一歩は場所の特定、定位置の繰り返し観察記録なのだが、それが、容易にできる。そして、ダイバーが、どこにいて、どのコースで動くか、決めることができる。つまり、はぐれることがない。波左間の場合には、ボートが直上にあること。 それらのことが、なぜ、安全に直結するのか、そんなことは、ダイバーのイロハのイで、僕がこの年齢まで生き残り、未だにダイビングを続けていられる理由は、人工魚礁の調査とテレビ撮影が仕事であったからに他ならない。 海洋大学の館山ステーションの沖にも人工魚礁がある。それも、自分が誘導して整列設置した魚礁で、実習場(当時の名称)センター長だった小池先生の研究論文があるはず。 潜水部は、館山ステーションをホームにしているのだが、この人工魚礁の近況を聞いても、答えはない。ボートでなければ行きにくいのだろうが、シーカヤックだって良い。だいたい、シーカヤックをダイビングに使おうという文化がないのだろう。 それもこれも、潜水部にリサーチ・ダイビングw教える。リサーチ・ダイビングをするという意識がないからだ。 これを機会にその方向を向いてくれたら良いと願いながら、このテーマをリクエストした。  

1107 JAUS シンポジウム 4

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 日本水中科学協会 シンポジウム の沿革 ここで、シンポジウムの第一回から、今度の第九回までを振り返って見よう。
 2010年水中科学協会は、発足した。アメリカにはAAUS という、大学および研究機関のダイビングをつかさどる、団体がある。
 日本のダイビング活動のはじまりは、1957年、日本潜水科学協会であった。この協会は、東京水産大学の先生たち+当時のダイビング業界が集まって作ったものであり、自分はその学生会員の第一号になった。これがそのまま今日まで継続していれば、AAUSのような、もしかしたら、より優れた団体になったと思うのだが、残念なことに、サイエンスという流れは消え、この団体の、後身のさらに後身の後身がレジャースポーツの団体になって残っている。大学とか研究機関をお世話する組織は、現在の日本にはない。
 水中科学協会、JAUSは、AAUSを目指して発足した。
 その第一回のシンポジウムは、大学、研究機関など研究者の水中活動の基準つくり、安全基準、実技基準、の策定を目指した。          

 第1回 2010年 12月12日 「水中活動 基準とマニュアル 研究策定」
 ①水中活動基準 須賀次郎
水中での行動の型として、バディ(2人) ユニット(3-5人)グループ(10人以上) ソロ(1人)としている。
この原則は、とても重要である。今回のシンポジュウムで発表する、東大は、3人のユニットである。
 ②危機管理について雑感 駒沢大学法学部教授 松村 格
 ③プライマリー・コース基準 : 久保彰良
 研究者も含めて、水中で何か?をすることができる必要十分なの実技内容の実習コースを発表した。
 ④大学のダイビングクラブ活動マニュアル 学習院大学 宮崎雅博
 ⑤龍泉洞潜水調査活動における安全基準 久保彰良
 ⑥日本におけるセルフダイビングの現状と課題 吉田俊雄
 ⑦減圧症発祥誘因の検討 オルトメディコ
 ⑧パネルディスカッション 
  リサーチ・サイエンスダイビングについて
  発表者全員
  ゲストスピーカー 駒沢女子大学教授 芝山正治
           東京医科歯科大学 外川誠一郎
 ⑨結びの言葉 順天堂大学スポーツ健康医学部教授 河合祥雄 ※ 震災のため 2011年は出来なかった。 2011年、シンポジウムは行わなかったが、1年かけて、「最新ダイビング用語辞典」を編纂した。用語辞典の形をとってはいるが、実はサイエンスダイビングの教科書を目指したものであった。
 日本水中科学協会のコンセプトであるが、大学も研究機関も、サイエンスダイビングとしては、相手にしてくれない。相手にしてくれないというよりも、日本の大学、研究機関で、スクーバによるダイビングを研究の手段としてつかうところは、どこなのか、見えない。たての連絡も横の連絡もない。
不特定、見えない相手にたいしては、本の出版より他に、アプローチの方法がみつけられなかった。出版が日本水中科学協会の大きな目標になった。本は、なんと言っても、後に、後世に残る。また後世に残るような本を作らなくてはいけない。
 2012
 第2回シンポジウム  2012年 12月9日 
  「新しい水中活動に向けて」 東京海洋大学 品川 白鷹館」
 ①対談 「最新ダイビング用語辞典」 小川典子 応蘭芳
  出版をしてくださった、出版社、成山堂書店の小川社長と、日本水中科学協会の理事である、女優・・応蘭芳の対談
 ②ウエアラブルカメラによるラインサーチ 須賀次郎
  自然科学は、実験室での実験と、フィールドでの調査記録活動を二本の柱として展開される。自然科学は、プロの研究者が行うだけではない。一般のダイバーも科学的な活動を行うべきである。海の地球環境を考えた場合、一般のダイバーが果たすべき役割は大きい。そして、専門の研究者とのコラボレーションが、専門の研究者の安全を確保し、研究を促進する大きな力になる。
 ダイビングは、一人ではできない。バディ、ユニットが必須である。
 そのフィールドワークとは、採集、調査であり、いずれの場合にも記録が必須である。撮影記録によって、自然科学は実証されていく。その撮影記録にとって、手のひらに載る、ウエアラブルカメラが、2010年ごろより普及してきた。そして、フィールドワークの基本であり必須なのは、位置の確定であり、同じ場所に繰り返して行けなければ、科学にならない。水中ではラインサーチが記録の基本である。ウエアラブルカメラによるラインサーチ記録。
 ③龍泉洞地底湖テクニカルダイビングリサーチ 久保彰良
 洞窟探検調査も、ライン調査である。
 ④芝浦工業大学体育会ダイビングの活動 足立吉隆 北川裕一
 日本水中科学協会の創立者の一人である、須賀は、学生の、とりわけ自分の出身母体の大学である東京水産大学(現在の東京海洋大学)が、創立母体のひとつになって結成した関東学生潜水連盟の支援を、ライフワークのひとつにしていた。その学生連盟の安全活動、SAI(スチューデントアシスタントインストラクターの略)これは、上級生がアシスタントインストラクターの役割をするという発想だった。これは2003年から始まって、2013年まで続くのだが、やはり、大学の4年生がクラブのコーチ的働きをするのは、就職活動などがあり無理がある。監督にシンポジウムでクラブの活動の紹介、安全についての留意事項などをかたってもらおうと、その第一弾は、第一回の学習院の宮崎監督、第二弾が芝浦工業大学であった。
 ⑤裁判事例による事故研究 高野修 
 ⑥レクリェーショナルリブリーザの可能性 東浦暢有希
 2013 9月8日
 「第一回ダイビング活動研究フォーラム」というタイトルの、実はシンポジウムであり、素直に、これを第三回としておけば、今年、第10回になったのに、と反省している。結局、フォーラムは、これ一回で終了になった。夏と秋、2回の大きな行事をこなすのは、物理的に無理だった。
 しかしこのフォーラムは、重要なコーナーだった。


 第一部 テーマ 安全
 1、水圏環境リテラシー実習について
 カヤック&スキンダイビングで行うライン調査実習
    東京海洋大学准教授(現在は教授)千足耕一
 大学での実習は、スキンダイビングになり、スクーバダイビングは、部活動、あるいは趣味のサークル活動に移行していくのではないか。そのスキンだでリサーチダイビングの基本であるライン調査の実習をする。ライン調査の要領をこれで、覚えて、後はスクーバで同じことをやれば良い。
 2.ブレスホールドの生理と危険について、日本女子大学助教 藤本浩一(現、東京海洋大学準教授)
 この1.と2.の講演が基調となって2015年に「スキンダイビング・セーフティ」という本を出版する。フリーダイビングのチャンピオン、岡本美鈴も共著に加わり、版を重ねて、2訂版もつくられた。
 3.スキンダイビングとフリーダイビングの耳のトラブルについて、
    三保耳鼻咽喉科医院院長 三保 仁
 三保先生は日本のダイビングにおける耳鼻咽喉医療の第一人者であったが、ケーブダイバーとしても国際的なダイバーであり、メキシコに移住されてしまった。
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小山先生
 4.水と人体との関係を学び、みんなが泳げるようになるために、
   須坂市常盤中学校教諭 小川吉昭
 泳げるようになるために、プールに大きなバケツのようなものを沈めて、潜っていってそこから呼吸するというユニークな水泳練習法である。賛否両論あるであろうが、とにかく、これによって、溺れない、溺れることの原理を体得することができる。今流行の「浮いて待て」の前に、「沈んでみろ」、浮くことがわかるだろう。
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 第二部 ウエアラブルカメラ研究サークル 発表
                司会 斉藤真由美
 ①倉田秀一「いつもの伊豆海洋公園:ポールマウントカメラ ②山本徹「小笠原 マグロ、シロワニなど」③早崎光弘「本栖湖・静かな世界」④小俣雅宏「驚異の世界、ドリフトダイビング」⑤足立義隆「作業モニタリング 龍泉洞第三地底湖」⑥鹿島浩「南伊豆の秘境ヒリゾ」⑦寺内羊子「Play with Isoginntyaku 」⑧三宅裕子 「海遊び」⑨ 斉藤真由美 「ドルフィンスイミング」
 この構成のフォーラムは、なかなか良かった。
 
 2014 
 第3回 シンポジウム 2014年 2月2日  東京海洋大学 品川 楽水会館
 ①南部もぐりの伝統と各潜水機実習 岩手県立種市高等学校  下川顕太郎
 プロのダイバー養成の高等学校、見学ツアーを計画したが、岩手県は遠く、実現できなかった。
 ②中央大学海洋研究部の活動紹介 監督 藤島靖久 主将 斉藤慶介
 関東学生潜水連盟は中央大学
 ③ダイビング事故防止について事故当事者の視点から
                田中恒明  久保彰良
 ④ウエアラブルカメラ研究会映像作品発表 コメンテータ 斉藤真由美
  ※なお、この年 夏にはフォーラムも行った。
 第4回 「ダイビング活動研究シンポジウム」2014年 12月7日  東京海洋大学品川 楽水会館
 このときから、活動研究というタイトルになった。ダイビングの安全確保には、その運用と安全管理、危機管理が必須になるという思想である。
テーマ1 ダイビング運用の安全管理と危機管理
  関東学生連盟 50周年を迎え、これからの50年を考える
 ここまで、各大学に発表してもらっていて、この年は法政大学の番だったが、連盟が50周年を迎えるということで、各大学の監督・部長、学連委員長にに集まってもらった。
  学習院大学 中央大学 芝浦工業大学 法政大学  各監督、部長 + 学連委員長(東京海洋大学 筑紫君) によるフォーラム形式のディスカッション
※このシンポジウムの報告書として、関東学生潜水連盟の現況 データと 各大学の練習 講習 マニュアルの特集をおこなった。関東学生潜水連盟についての唯一の印刷物 資料である。
 テーマ2 ダイビング技能と理論
   プライマリーコースについての詳細
 テーマ3 水中撮影
 JAUS水中映像研究会 
  
 2015
 第5回 2015年 12月13日 「ダイビング活動研究シンポジウム」 東京海洋大学品川 楽水会館
 ①フルフェースマスクを使用した身体障害のある方のためのダイビングシステム研究  太田樹男
 ②ハイブリッドダイビングシステムについて  須賀次郎
 ハイブリッドダイビングシステムとは、フルフェース、3連のスクーバタンク、10mのホース を組み合わせ、送気式とスクーバのハイブリッドであり、これで水深80mまで高齢者でも安全に潜れることを目指した。プールでの実験は行い、成功したが、実海域には出て行かなかった。
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       フルフェースマスクによる水中レポート


 ③フルフェースマスクについて  ダイブウエイズ 武田寿吉 社長
 ④スノーケリングとスキンダイビングの生理学的安全について
 東京海洋大学準教授 藤本浩一
 ⑤水中調査撮影研究グループ 波左間調査 中間発表 山本徹
 ⑥映像作品 斉藤真由美 増井武 中川隆
 ⑦グラフィティ映像 後藤道夫追悼「まちゃあき海を行く」
 2016
  第6回 2016年 12月16日 「ダイビング活動研究シンポジウム」 東京海洋大学品川 楽水会館
 発表
 ①2016年 ワークショップの総括 山本徹
  この年度からほぼ月例で少人数の発表会 ワークショップを始めた
 その第1回から第11回までの総括発表
  フォーラムをやめた代わりにワークショップをはじめた。
 ②特別展示について 説明 須賀次郎
  この年、最新ダイビング用語辞典Ⅱ として「ダイビングの歴史」を刊行することを発表し、その第一歩をして、日本が世界に誇っていたマスク式潜水の展示を行い、その節明をおこなった。また報告書でマスク式潜水について説明しているが、日本におけるマスク式、フルフェースマスクの説明として、唯一のものである。
 また、このときの講演者である山田稔氏と協力して、報告書別冊としてダイビング年表を作り配布した。後に一部間違いが見つけられたが、ダイビング歴史年表としては、日本唯一のものである。
 ③沖縄のもずく漁でのマスク式 潜水について 杉浦武
 沖縄のもずく養殖、伊豆七島での追い込み網漁 テングサ漁などに、デマンドバルブを使用しない軽便マスク(ライトウエイトマスク)月代われているが、製造する会社がなくなり、供給が途絶えてこまっていた。沖縄の杉浦氏がこれを復刻して製造を開始した。その発表である。年間50台ていどしか売れないが、無いと、一つの漁業が消滅してしまうほど困るものである。  講演
 ④「シートピア計画など、30m60mの海底居住」山田海人
 ⑤「新法規に基づく減圧ソフトウエア使用の実際」 久保彰良
 ⑥ 最新ダイビング用語辞典 Ⅱ 企画発表  須賀次郎
 ダイビング用語事典Ⅰに不足しているのは、年表であった、年表からスタートして「ダイビングの歴史」という本の企画になったが、まだ、出版の見通しは立っていない。 映像発表
 ⑦人工魚礁 増井武
 ⑧牡蠣殻人工魚礁 海洋建設  田原実
 ⑨珊瑚礁と人魚 斉藤真由美
 ⑩伊勢志摩の多様な海辺の生き物たち 佐藤達也
 ⑪お台場の生き物たち 須賀次郎 2017
 
 第7回 2017年 12月10日 「ダイビング活動研究シンポジウム」 東京海洋大学品川 楽水会館
 発表
 ①2017年 ワークショップ総括 第12回から第18回まで 山本徹 
 特に福島第一原子力発電所については、別に発表した
 講演
 ②ボランティア リサーチ・ダイビング 学生クラブに置ける事故についての考察  弁護士 松村房弘 コメンテータ 久保彰良
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        35mmフィルムカメラ
 映像発表
 この回、フィルム時代、そしてビデオカメラになってからの1980年代からの水中カメラハウジングを展示し、その説明を報告書に置いて「カメラハウジングから見た、映画テレビ水中撮影小史」として掲載した。
 「ダイビングの歴史」の原稿を着々と書きためている。
 ③1960年代フィルムカメラによるテレビ番組映像「マチャアキ海を行く」
 ④1970年代 トラック島 水深60m 駆逐艦 追風
 ⑤現在のテレビ番組撮影について 中川隆
 ⑥360度全天周カメラの可能性  山本徹
 2019
 2018年の予定が、会場が借りられず年を越した2019年になった。
 第8回 2019年 2月3日 「ダイビング活動研究シンポジウム」 東京海洋大学品川 楽水会館
 ①ジャーナルの発行について 久保彰良
 ②ワークショップ 総括 山本徹
 ③人工魚礁 定量撮影調査  須賀次郎
 ④お台場の潜水調査について 須賀次郎
   自分の寿命、そろそろ、すべて発表しておかないと、いけないのではとこれまでの調査結果をまとめて発表させてもらった。
 ⑤サイドスキャンソナーによる海底面状況調査 国方多真紀
 ⑥スキンダイビングによるラインサーチ 東京海洋大学教授 千足耕一
 ⑦ダイブコンピューター今昔物語  久保彰良
    会場の後部スペースで、ダイブコンピューターの展示を行った。
 ⑧高圧則とは?             須賀次郎 第一回から第八回までのシンポジウムもプログラムと簡単な説明をした。
 内容も、そして構成のスタイルも、報告書も統一性がなく、試行錯誤を続けてきたように見える。それはそれで、見えてくるものがあり、それを踏まえて、第9回 を考えて行く。
 結局、第9回は、第1回のサイエンスリサーチダイビングへの回帰であった。
 第一回からフォーラムをはさんで、第8回まで、できる限り、詳しい報告書を出してきたが、もしもこれを、全部まとめて本にできたらば、「すごい?」と自賛している。ただ、映像発表、ビジュアルな趣を重視していたので、本にはなりにくいが。

1108 お台場物語 (7)

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 お台場潜水調査の許可申請、ようやく終わった。10月1日に書類を出し、港湾局に3回、オリンピック委員会に2回、海保に2回、足を運んだ。そして、11月17日と12月の29日に潜水できる。
 何となく、達成感はある。
 なお、申請先の役所はみんな親切に、できるだけ、僕らが調査できるように調整してくれた。
 1月、2月、3月まで申請はしたが、1月以降は工事が入るのでNG。何の工事かというと、オリンピックのトライアスロンを見るための観覧席を今の砂浜の上につくるらしい。これで1月から、たぶん10月頃まで、都民のオアシスだったお台場の砂浜は、入れなくなる。どこかで、都民ファーストって聞いたけど、オリンピックファーストなのだ。その観覧席、で入場料、5000円を払って、トライアスロン選手がお台場の海泳ぐのを見るらしい。なんだかなー。
 トライアスロンって、野山を走り、自然の中で泳ぐ競技だと思う。だから、プールで泳ぐのはなしなのだ。お台場で泳ぐのやめて、船の科学館の流れるプールを改造したら、といったら、プールはだめ、自然の海でなければいけないのだと教えられた。観覧席で、選手が遠くの水面をパチャパチャ泳ぐのを見るだけだ。まだ、ゴールは遠いから、途中経過である。もしかして、トライアスロンのゴールはお台場?ぐるっと回って帰ってくる?それにしても、スタートしてから、帰ってくるまで、マラソンも避けたという炎暑の中で、待っていなければならない。だから、ありえない。水泳がスタートだったはずだから、早朝のスタートもありえないだろう。それでも、オリンピックだから、満員だろう。まあ、テレビで楽しみに見ることにしよう。
 僕は、日本で、第一回のトライアスロンが宮古島で行われたとき、撮影に入った。24ノースの渡真利君が、水泳のめんどうを見ていた。まだ、第一回だったから、自転車に乗れて、マラソンを走れればこの競技ができるとおもっている出場者がかなり居て、水泳で溺れるのだ。溺れても泳ぎ抜くのがトライアスロンだと思っているらしく、ゴムボートに引き上げようとしても拒否する。僕はその有様をテレビカメラで撮っていた。そのまま沈んで、引き上げてから、気道確保をしたりしていた。それも撮った。このまま死んでしまったらスクープだ。
 それから、おむすび型の宮古島を走る。有力な招待選手などは、午前にスタートして、夕方ごろには、ゴールを設定した、小学校のグランドに帰ってくる。一番遅いのは、制限時間が、夜の10時だったか11時だったか、みんな最後の選手が入ってくるのを、運動場で待っている。グランドまではとぼとぼ歩いてきた選手が、グランドでは、手を振って、観客の拍手のなかを走る。テープを切ったあと倒れて見せたりして、そして、それでも、制限時間に入れなかった選手が気落ちして、帰ってくる。もう、ゴールのテープはないのだ。戻ってきたらテープが無いので、その場で座り込んだりして、牧歌的な競技だった
 そして、東京オリンピック、マラソンは、炎暑をさけて札幌に逃げた。選手ファーストなのだ。トライアスロンは、炎暑の中を、おそらくマラソンより過酷な走りをして、お台場のヘドロの上を泳ぐ。トライアスロンの選手はマッチョなのだ。泣いてはいけない。水がくさいなんて言ってはいけない。マラソンは逃げても、トライアスロンは踏みとどまる。そういうのって僕は大好きだ。オリンピックなのだ、トライアスロンなのだ。炎暑に倒れても、這ってでもゴールに進め。昔のトライアスロンで、溺れても救助を拒んだ先人がいるのだ。
 むかしむかし、ギリシャ時代、ペルシャとの戦争に勝ったスパルタは、伝令がマラトンの野を駆け抜けて、来た、見た、勝ったと知らせてばったり倒れて死んだのが、マラソン競技の先祖だとか、札幌に逃げるなんて、マラソンじゃない。

0905 ダイビングの歴史88 DW76-3

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ダイビングの歴史 88
 ダイビング・ワールド 76ー3

 別に意図したわけではないのだが、伊東漁協がイルカ漁を再開しようとしている。
 で、この記事を紹介することを見送ろうかと思った。今の時点で、あんまり目立ちたくないのだ。
 どうしよう。
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富戸にしても川奈にしても、イルカを追い込む港は、ダイバーが潜るポイントの隣だし、ダイバーボートが出る港でもある。
 富戸の組合も知り合い、友達が何人もいる。
 ドルフィンスイマーは、過激な反対運動などしないと思う。僕の見たところでは、捕鯨を再開しようとしている人たち、イルカ漁を再開しようとしている漁業者の方が過激な人が居るように見える。
 イルカ殺しに心を痛めるダイバーは、ただ悲しむだけだろう。
 ただ、マリンダイビングも「ダイバー」も今度のイルカ漁で、どういう取材をすることだろうか。無視はできない。取材して、コメントしなければならない。
 このDWのような記事を載せられるだろうか。

 DWのグラビア、赤地に白で読みにくいので、書き抜くと、「富戸漁港はイルカ漁では日本で有数のところ、ここのイルカは、伊豆大島から、遠くは八丈島近くから追ってくる。」とある。御蔵島のイルカも、この時代には追い込まれていただろう。
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 御蔵島は遠慮したとして、最近見られた、熱海、初島のイルカはいなくなるだろう。利島はどうだろうか。最近、中川が取材してきて、人なつっこいと言っていた。 漁業というものは狩猟だから、始まってしまえば、穫らずには港にもどれない。イルカ漁でイルカ資源が絶滅するものではないだろう。捕鯨再開論者がいうように、資源としての数字を見る限りでは。
 しかし、数字ではなく、個体識別している友人とみた場合に、殺されることは忍び難いだろう。
 そして、イルカにはコミニユケーションの能力がある。昔だけど、沖縄の美ら海水族館の東さんと、名護から小浜島までマッコウクジラ探しに出たとき、鯨の鳴き声で所在を探ろうと集音マイクを水中に入れたが、沖縄の海は、イルカの姿は見えないのに、どこもかしこも、いるかの声、エコロケーションで満ちていた。
 御蔵島のドルフィンスイミングが始まった頃、急に世界中のイルカがフレンドリーになった。人間が害にならないと言う情報の伝達があったのかもしれない。 伊東のイルカ漁はやらない方が良いと思う。やったとして、一回はできるだろうが、マスコミの猛取材をうけ、反対の声が、ダイビング関係に満ち、評判を落とした末に、中止せざるを得なくなり、太地のイルカ漁も問題にされ、水族館でイルカを飼うことの反対運動にまで広がる可能性がある。
 この前、水族館でイルカを飼うことの反対運動が広まったとき、水族館で仕事をしていた、僕は、板挟みになり、気を使った。

 ダイビングの歴史78 海の世界 1975年 5月 でも、太地のイルカ漁をグラビアで紹介しているけれど、モノクロで、血の海ではなかった。
https://jsuga.exblog.jp/29509796/
 そして、イルカの権威鳥羽山先輩の特集記事を掲載してショックをゆるめている。イルカについて、知る上で、この記事はぜひ読んでほしい。 大学、一年上の鳥羽山先輩には学生時代から親しくさせていただき、海洋博の水族館の仕事も、すべて、先輩のお世話になり。足を向けては寝られない。性格的にも、人格的にも大好きだった。
 鳥羽山先輩は残念なことに亡くなってしまっているが、もし、生きておられれば、繁殖させた、イルカをかうのが、王道で、イルカを捕獲するならば、ショックを少なくして、飼育するイルカ以外は、逃がすべきで、殺戮する必要はない、と言われるだろう。
 水族館でイルカを飼うことの、反対運動が広がるのを見るのは辛いが、食用にイルカが殺されるのを見るのはもっと辛い。
 この記事の紹介をためらった理由でもあるのだが。 なお、食用で売られてイルカのほとんどは、三陸沿岸で突き穫られているイシイルカで、御蔵島にいるハンドウイルカとは、違う種類である。
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そのころ、わりと普及していた水中通話器、今のロゴシーズと比べてみるとおもしろい。

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弟一回潜水技術シンポジウム
 第一回潜水用機器展
 海中開発技術協会が主催 日本潜水工業会が後援で、東京北の丸の科学技術館で行った。後のダイビングフェスティバルの前身といえる。 
 工藤昌夫さんが解説を書いているが、後のダイビングフェスティバルよりも数等良かった。
 シンポジウムは、今でもこの演題ならば聴きに行きたいとおもうだろうし、自分もスポーツ潜水について述べた。これはあまり感心したできではなかったが、とにかく。

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そして潜水機器展 これを見れば、当時の業界の状況がよくわかる。そして、自分の会社スガ・マリン・メカニックも親戚であるダイブウエイズと一緒のブースで出展している。スガ・マリン・メカニックは、カメラハウジングを並べている。この機器展、僕のスガ・マリン・メカニックでも出典できるほどの金額で出展できたのだ。全部同じコマ割で、公平?だった。ダイビング業界は、今でも、この程度で良いのではないかとおもったりしている。今は、大きなところが大きく出していて、メーカー全部がでているわけではない。撮影機材は全部が出しているように思うが、機材メーカーは出していないところがある。
 業界のことは云々できる立場にないけれど

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自分の書いた第2回目、連載が終わるまでは、DWで続けて行きたい。
後藤道夫に言われた。自伝のようなもの、だいたい終末にかくもので、途上でかくものじゃないだろう。
僕は途上で書いて、終末でも書いた。後藤道夫も何か書いてくれたら良かったのに、彼が書いてくれたら、1958年頃の菅原久一さんのこと、そして、真鶴で日本で初めてのダイビングサービスを始めたこと、そして、進駐米軍ダイバーの話、真鶴半島潜水禁止、そしてその解除までのいきさつとか、ダイビングの歴史で、わからない部分を埋められたのに。そして彼は、僕よりも記録をしっかり取っていたし、写真も多数ある。今、生きていれば、なんとか書かせたのに。



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1115 第28回、人工魚礁研究会

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コロダイ


 2019 11月14日
 海況は、僕の使っている国際気象海洋の情報ではNGだったが、南西ならば、なんとか潜れるという荒川さんとの電話で行くことにした。ここから先に季節は、現場判断するほかない。
 参加メンバーは、佐藤允昭、山本徹、早崎、高野、鶴町、そして須賀の6人、予定していた増井さんは、風邪でダウンだ。
 アクアラインを通過するとき、風速は15m、海は白波が立ち、山本さんの車はハンドルをとられる。やはりダメか。
 しかし、館山湾までくると、風は強いが湾内に波は
ない。
 波左間到着、僕らの他にお客は、親しいダイビングショップの横山君、そして、美人ダイバーの泉さん、彼女は、良いカメラマンでもある。
 
 今回の僕のターゲットは360度、全天周カメラのテストだ。このカメラ、一年以上前に辰巳と浦安海豚倶楽部で、画像処理がおもしろいので使ったが、たぶんバッテリー関係のトラブルと、使い方がわからなかったことで、死んでいた。見直したら動いて使える。
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 ※360度カメラも二種類ある。一つは、今回使うカメラで、これは水平には360度、前も後ろも左右も全周囲を撮すが、垂直には180度、上半分の全天周を撮すだけで、下方視界は撮さない。リコーなどの上下水平、全部360度撮すカメラとは違う。魚礁の上に置くような場合には、下方視界は不要であるから、ここでは、これでよい。


 魚礁の上におけば、魚礁の上に蝟集する魚類が、全天周で撮れる。これまで、魚礁の中に入り込んで、決めていたコースを撮影するだけで、その時に上空に蝟集する魚をとらえることができなかった。これで、できるではないか。なぜ、もっと早く気づかなかったのだろう。
 そのテストが、今回のメインターゲットだ。
 
 ログ  date 2019 01114
 第28回 人工魚礁研究会  
 波がやはり高く、ボートが大きい方でないといけないので、横山君のチームと交互で使ったので、出発が遅れた。
 一回目の潜水
 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット 4m FP礁10個
 ⑤天候 曇り晴れ 南西の風 沖で15m 波高 1,5 m 
 ⑦水温 22 ℃
 ⑧透視度 20  m 1ノット弱の流れ
 ⑨潜水開始 1053   
 潜水時間 25   分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深26,3 m
 ⑪潜水終了    
 ⑫インターバル プラン 90分
 ⑬チーム 須賀 山本徹 早崎 高野 鶴町 佐藤允昭
 ⑭バディ A 須賀 鶴町 B 山本徹 高野 C 早崎・佐藤允昭
  
 ⑮残圧予定  80
 実施
  FP ポイントは、弱い流れがあった。
  鶴町にOlympus TG4を持ってもらって、バックで飛び込む。前回、流れがあるのに、潜降索に津からまずに降りて、魚礁脇の海底に降りてしまった。今度は潜降索につかまらなくてはいけない。魚礁の上に、40cmほど、良い形のイサキが群れている。その脇、魚礁の上にツバメウオが5ー6尾群れている。360度カメラのバッテリーが短いという先入感があった。実は、それほど短くはなくて、寸前にバッテリーを挿入すれば、1時間は持つことがわかったのだが、
とにかく、電源は魚礁の上に置くときに入れようと思っていたので、回っていない。これは大失敗だった。このとき回っていれば、良いシーンが撮れたのに。
 カメラを回して、魚礁に置いたときには、イサキの群、ツバメウオは居なくなっていた。かろうじて、カメラの向こうにツバメウオが見える。
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 魚礁の上に群れる魚は、ダイバーが何人もで接近すると逃げてしまう。
 なお、今回、水産工学研究所の佐藤允昭君は、2週間連続して、間歇スチル撮影できるカメラを2台持ってきていて、魚礁の上に設置した。これなら逃げない。
 しかし、ダイバーが寄っても逃げない時もあるので、不思議だ。
 
 鶴町からカメラを受け取って、見ると、Olympus TG4の上に取り付けてあるAKASO7000が、取り付けステイが折れて、無くなってしまっている。強度が足りないのだ。こんなこともあろうかと、マスクマウントを回している。
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 メバルはかなり大きい群、100以上が群れている。コロダイが、海底を這うようにして、10尾以上群れていた。
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 浮上しようとして、360カメラを手にとるとき、手を滑らせて、魚礁の中に落としてしまった。荒川さんが素早く取ってきてくれた。自分の身体が反応しないのが恥ずかしい。
 浮上してボートにあがるとき、波が高くて揺れる。梯子から振り落とされそうになる。タンクをはずしてあげてもらおうとした。BC.が使い慣れていなくて、引っかかってしまった。BC.を使い慣れたアポロのプレステージ、これは20年以上使っているのだが、さすがにそろそろ新しいのにしようと変えた。これがいけなかったのだ。もとにもどそう。

 二回目の潜水
 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット ドリーム
 ⑤天候 曇り晴れ 南西の風 沖で15m 波高  1。5m 
 ⑦水温 22 ℃
 ⑧透視度 20  m
 ⑨潜水開始 1307  
 インターバル 1時間48分
 潜水時間  27分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深,23.3 m
 ⑪潜水終了    
 ⑫インターバル プラン 
 ⑬チーム 須賀 山本徹 早崎 高野 鶴町 佐藤允昭
 
 摘要 
潜降して、ドリームの上に着くと、イシガキダイとイシダイが乱舞している。
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今年は、2回の大きな台風が館山を襲い、海も大波に洗われて、ドリーム魚礁の美しいウミトサカが、きれいに飛ばされて、殺風景になってしまったと聞いた。本当だろうか、ウミトサカの類は、腔腸動物、サンゴの類で、潮まわりとか、何かの理由で、ポリプがしぼんでしまうと、見る影もなく小さく萎んでしまう。それなのではないか、と考えた。
 たしかに、全盛と思われた時よりも、トサカの数は減っているようだが、それも、潮回りのためか、よくわからない。大きいウミトサカがかなり多い。とにかく、不思議な動物なのだ。
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 いつもコースで三段重ねの、下段を縦移動した。FP同様に、コロダイが多い。遠くから見て、オオモンハタかと思って接近するとコロダイだ。オオモンハタは、少ない。このような種の変動は、季節変化なのだろうか。水温が理由なのか、それとも種の拮抗か。
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 上の段と、二段目は、イシガキダイとイシダイが優先していて、下段、海底付近はコロダイが優先している。
 波が高いので、また、船に上がるとき、BCがうまく脱げずに、おせわになってしまった。やはり、元のアポロに戻そう。少なくとも、波佐間ではアポロだ。


 東京にもどってから、360度カメラの画像(動画)取り込みと、静止画切り取りをした。画質はよくないが、リサーチ・ダイビングとしては、必要十分だ。
 バッテリーの関係で、FP4mだけこのカメラを使ったが、先に述べたように、魚礁の上に、置くという先入観にとらわれていたのが残念だった。
 ツバメウオを例にとってみていくと、魚礁の上面で群れていたツバメウオ、辛うじて、1尾だけ写っている。
 それから、次第に遠ざかって行って、点のように見えていて、それがまた、次第に魚礁の上に戻ってきて、群れが6尾だったことが数えられた。イサキの群れも、横を通り過ぎている。
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 もう一つ面白かったのは、浮上しようとしたとき、誤ってカメラを落としてしまった。0.5キロのウエイトの上にカメラを載せているので、まっすぐに落ちて、魚礁の真ん中に落ちた。その場でイシガキダイ4尾の群れが撮れた。次回は、魚礁の上面に一台、中に一台置こう。
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 残念なことに、12月は水温が下がり、魚が少なくなるが。
 水面への浮上は、手にもって撮影しながら浮上した。これは、面白い映像が撮れている。次回は、水に入ったらすぐにカメラを回して、そのまま潜降し設置、もって浮上することにしよう。
360度カメラは面白いし、有効だと思う。
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 ※コロダイは、2010年ごろには、レア、それほど数は多くなかったはず。それが、優占種になっている。温暖化のためか?魚礁の底部で、幼魚も見つけて撮影した。
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魚礁の中にいたコロダイ幼魚、親とは似ても似つかないが。
 

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