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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0426 ダイビングの歴史68 海の世界2974

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 テレビシリーズを撮影していたクストーらのグループのスクーバ装備、ちょっとわかりにくいが、胸の位置にレギュレーターのダイヤフラムがある。これによって、位置の差、水暑差によろ呼吸抵抗をゼロにして、純粋にレギュレーターの呼吸抵抗のみで呼吸が出来る。実は僕もその発想で試作をしていたが、クストーに先をこされてしまった。しかし、この装備では、BCもオクトパスも無い。

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 1974年、オイルショック、石油危機で銀座のネオンが全部消えた。原発事故で、電力事情が問題になったとき、ネオンは消えなかった。このときは、日本の国は、本気で節約モードにはいった、
 ダイビングのと羽前、節約の対象になる。生産的で無い遊びのダイビングなどやる余裕は無い。どうしたら良い?


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車もいらない。エアーチャージも必要ない。もう一度素潜りの原点に戻ろう。



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今の時代ではとても考えられないが、事故の責任と、プロとアマチュアの問題、商売になってしまって利益優先のために安全がおろそかになるという問題提起をしている。世の中節約時代であったことも、この考えの背景にはある。

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本気で、コマーシャリズムが良くないと考えている。それが、日本国指導団体組織の敗北、の要因ではあったのだが、間違っては居ない。要はバランス感覚なのだが、僕も、業界も若かった。


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正田薫 さんのインタビューシリーズ、今は亡い、宇野沢徳太郎の話だ。彼もまだわずか34歳、金塊サルベージの夢を追っている。

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正田薫さんの写真が出てきたので、少しばかり、彼女のことを。潜水士がまだ女人禁制の時代、薫という名前が男も女も居る名前であることで、受験して受かってしまい、女性第一号?の潜水士になったという伝説がある。そんなことあるか?
美人で、事業家でもあり、なぜか知らないが、バックグラウンドに有力者が居る。その頃’1974年だったか75年だったか、会う約束をしてすっぽかされた。
そして、CMASの世界大会が名古屋港で、富士丸を借り切って行われた時に 事務室が隣り合わせになり、親しくなった。この大会の名誉総裁に、三笠宮殿下を連れてきたのが彼女だ。なにか妃殿下と親しいとかで、しかし、連れてきてみて、ダイビング業界にとんでもない人がいるので、「須賀さんどうしよう」と相談されたが、野人であることは僕も同様で、どうすることも出来ない。
 最後にあったのは、マリンダイビングフェアで、大岩先生と一緒におられて、懐かしく話が弾んだが、その後どうされているだろう。


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ダイビングの世界には、アマチュアクラブもあれば、業者もいる。スポーツと考えているグループもあれば、未だに魚突きを追求している商売人も居る。統一など出来るわけでもないのに、今も昔も、指導組織の統一、を唱える人がいる。自分も、振り返ってみれば、ずいぶん見当外れなことを言っていたと思うが、それはそのときの時代背景があるから、一つの歴史として、おもしろいとはおもう。



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0629 ダイビングの歴史 25

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ダイビングの歴史 25
ダイビングの歴史が滞っている。雑誌整理を早くすすめて、なんとか1980年まで 行きたい。1982年あたりを一区切りと考えている。
が、まだ1974年だ。

海の世界1974 11月
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沖縄のサンゴを奪ったのは誰だ。 白井祥平
白井さんは僕の兄貴分で、博物学と探検の師匠だ。ここでは沖縄本島のことを書いている。




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1974年 12月
コンパス競技 UWN のことだ
海洋公園の友竹が賞状授与をしている。

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内浦湾 まだ大瀬崎がダイビングのメッカになる前のことだ。

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海水浴場の海の家だった大瀬館がダイビングの設備を作ったのは、昭和58年1983年のことだった。田中さんの「海底ハウス」の方が大瀬館よりも古いのだ。


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大瀬崎については、「潮風とともに半世紀:大瀬館50年の歩み」という立派な写真集があり、送っていただいている。

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世界の潜水作業技術はどこまで進んだのか。
ダイビングの歴史としては、押さえて置かなくてはならない。

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0701 ダイビングの歴史 76

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 海の世界 1975年 1月号
 ようやく、1975年になった。今から43年前だ。
 この年、沖縄返還を記念した海洋博が開催される。
 そう、1975年は海洋博の年だったのだ。
 僕も、いくつかの仕事、行事を抱えて、沖縄に何度も通った。まだ右側通行だった。沖縄からもどり、羽田空港において置いた車にのり、走り出す。空港をでて高速に乗る、そのロータリーのところがやばい。つい右側路線にはいろうとしてしまう。

 まずは、海洋博のコンセプトシート
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アクアポリス 海上都市だ。これら建設のために、どれほどの珊瑚が壊されたか、などを言うのは今現在の話だ。前号でか、白井祥平先輩が警鐘をならしていたが。
ばく進する海洋開発。
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 水族館、今の美ら海水族館の後ろ手にあたるところにつくられた。
 僕もいくつかの仕事をさせてもらったが、それはまたの機会。
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海洋牧場、今も僕たちの夢ではある。海洋牧場について、かなり長いものを書きたい。
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このブログ、コピーを半分、1ページずつに切って載せて居る。こうすると、スマホの画面から、拡大すると読めるのダ。今、結構自分で読んでいる。読むとコメントを書きたくなるのだが、それをしていたら、時間がいくらあってもたりない。

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その頃、トラック島、今のチュークといえば、沈船からの遺骨愁傷だった。沈んだ船には一つずつ、船それぞれに遺族会があって、毎年のように供養に行っていた。遺骨が日本に帰ってしまうと、供養に来てくれない。(観光的なしんぱい)がトラックでの話題だった。だから、収容せずに、船は墓石とする。
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 東京湾が、ホトトギスガイ小さな貝が絨毯のように広がり、その部分は他の貝が生息できなくなる。ホトトギス貝のことをメジメジと呼ぶのだが、その駆除をずいぶんやったが、大きな台風が来て、飛ばされる方が効果があり、やがて少なくなった。
自然の力を目の当たりにする思いだった。




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お正月パーティ、書いた新沼君と親しかった。今は亡い。


なお、このブログ、原稿をべつに書かないで、直接書き込んだ。うまくいっただろうか。


0704 ダイビングの歴史 77

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海の世界 1975年 2月
新宿から海が始まるという、DOスポーツプラザ新宿のダイビングプール、水深10mのプールだ。

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初代のDOスポーツの校長先生だった椎名勝巳が写って居る。今はもう居ない。


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 ダイビング練習用のプールに10mの水深が必要だろうか。
 今となって思えば、不要、オーバースペックだと思う。水深は5mで良い。深海ダイバーを養成していた、海洋科学技術センターのプールはたしか4.5mだった。水深は5mで良いのだ。素潜りの練習をすると、3m、5m、8m、10mに壁がある。(僕の経験からだから、医学的な根拠はない)
 そして、ダイバーは、ダイビングの練習をするような人物は、プールに底があるならば、底まで行きたくなる、行く生物なのだ。
 ダイビングを教える側も、10mに底があれば、10mの講習プログラムを作る。
 確か、TACは、深さ15mという井戸のようなプールがあって、事故を起こしている。立川の消防の訓練所のプールも15mで、問題があった。
 全国の海洋高校のたしか20何校かにダイビング練習用のプールがある。その中心になっている茨城県、那珂湊のプールも水深10mある。そのプールで、海洋高校の先生たちの、訓練を行ったが、鼓膜を傷める先生が続出した。
 
 スキンダイビングセーフティで、スキンダイビングの深さ限度、僕は8mとしたが、共著者の意見は10mで、10mとした。フリーダイビングは、100mを目指す。その感覚でスキンダイビングを教えようとするのだから、10mを超えさせるな、上手にするな、と僕は言うのだが。
 何度も言うのだが、スキンダイビングが10mならば、5mを限度とするスノーケリングがほしいのだが、それがない。



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 海は誰のものだ。
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 誰のものでもない、日本国民のものだ。それが、大間違いであることを、今ではみんな知っているはず。
 1975年には、日本国民もものだという考え方がまっとうであり、ハンティングの場ではない、と僕らは唱えて、他の楽しみ方、他の遊び方を、鐘をたたき、太鼓をたたいて、叫び続けたのだが、まだ、こんな意見、こんな記事が出てくる。
 結論からいうと、スピアハンティングを大多数のレクリエーションダイバーがあきらめたのは、それに代わるものとして、水中撮影の勃興があるのだが、水中カメラを脇に置いて、手ぶらで潜るか、というと、そこに水中銃が出てくる。
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 魚は食ってやるのが一番の供養、供養のために魚突きをするわけではないこと、幼児でもわかるだろうに。
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 でも、このキャプションだけ見て行っても面白い。
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全国ダイビングクラブガイド
そう、この時代は、ダイビングクラブが中心になって、レクリエーションダイビングが動いていたのだ。
懐かしい名前の羅列だ。

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素潜りクラブ、スキンダイビングクラブ、大橋さんが主宰していた。

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オニヒトデの有効利用


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今、このオニヒトデビジネスはどうなっているだろう。

0705 ダイビングの歴史 78 海の世界

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海の世界 1975年
 7月10日から、21日までのロードにでる。式根島戸九州 対馬と五島に行く。
 出発までに、ダイビングの歴史、できるだけ走っておきたい。
 10日間の留守と、帰ってきたら、その間の旅行記碌を書かなくてはならない。又、ダイビングの歴史が塩漬けになる。
ならないようにしたいけど。
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はっきり言って、この文章、好きではない。それに、日本でダイビング事故が起こっていない。空気塞栓も起こっていないというのが、大嘘なのだ。1954年、日本で初めての小湊での事故が、空気塞栓だったのだ。
それはそれとして、ここまでの日本でのアクアラングの経過を取りまとめている。
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僕の作っていた、これがブロニカマリンの最終型だ。特別計算のドームをつけていて、あんまり出っ張っていないで補正している。今見ても、恰好の良いカメラだと思う。作ったのは島野製作所だ。

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米国、アメリカの当時の状況がわかる。本当かどうかはわからないが。
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歴史的な意味で参考になった。収穫の一つ
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 先にダイビングコンピューターの特集をやったが、デコンピューターと呼んでいた。

0707 ダイビングの歴史 78

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ダイビングの歴史78 海の世界 1975年 5月

今日は、イルカのことを書こう。
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僕と1975年の海洋博を結ぶ絆の一つは、記念スポーツダイビングフェスティバル、もう一つがイルカだった。 トップのイルカの絵だが、海の世界では毎号海の生き物の特集を、ページの色を変えて、組んでいてこれが中々良かった。連載をまとめて別の本にしても良いと思ったものだったが、本にはならなかった。生き物の解説は歴史とはあまり関わらないので、ここには収録しなかったが今回はイルカのことを書きたいので、載せることにした。
 書いているのは鳥羽山照夫先輩、東京水産大学で僕の一年上の先輩だ。鳥羽山先輩は潜水を学生時代はやらなかったので潜水部ではなかったが、僕のことを引き立ててくれた。学生時代の縁がそのまま続いて海洋博でも、その後もお世話いただいた。残念なことに亡くなられてしまっている。
 鳥羽山先輩は日本におけるイルカ飼育の第一人者であり、ここに収録した解説も、簡潔でわかりやすい。ただ、1975年の時点では、まだ、野生のイルカとダイバーは、友達関係はなく、水族館を通しての付き合いだった。御蔵島での付き合いが始まるのは、ここから、20年後である。
 鳥羽山さんは当時鴨川シーワールドの館長であり、その実績で海洋博の売り物の一つである水族館の総合プロデューサーになっていた。
 その水族館の売り物の一つが、イルカがショウに参加する沖チャン劇場であり、僕は、沖チャン劇場仕事をさせてもらった。
 本当のことをいうと、イルカに芝居をさせるのは無理で、その演出には鳥羽山さんも僕も賛成では無かったが、とにかく仕事としては、沖縄に通うことができて満足だった。
 イルカ芝居と言っても、イルカの出きる芸当は決まっていて、その芸を人間、ショウマンの芝居と噛み合わせるのだが、現地募集したウチナンチューの女の子たちは、全く芝居ができない。芝居の演出家である監督はイルカにも彼女たちにも無理を強いているようで、「ちがう」と思うことがしばしばだった。僕は、これでも、高校時代は演劇部だった。役者としてはどうにもならないダイコンで、沖縄の女の子レベルだったが、演出家としては理屈をもっていた。無理なわざとらしい芝居は好きでない。まあそんなことはどうでも良いのだが、芝居は、イルカが海に落ちた人間を救助する話だった。


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写真は太地のイルカ漁。
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 よく、イルカや鯨を殺したり食べたりする事を伝統的な食文化だとか、漁法だとか言うが、現在の捕鯨は文化と言えるほど古くはない。太地のいるか漁のルーツは。伊豆で、1960年代に伊東に見学に来て習ったのが太地のイルカ漁の始まりだ。これも、水族館からの捕獲依頼え始まったものだという。水族館に必要な数だけキープして後ははなしてやったか、というとそうではなくて、食べちゃった。その後捕鯨がらみで反対運動がおこり、残りは解放したようなことも聞いているけれど確認していない。
 とにかく、イルカ漁については、伊東が本家なのだ。
 その本家は、ダイビングサービス業を漁協が行うようになってから中断していたものだが、それが、再開されるのだという。
 にわかには、信じられない思いがする。このことについて、長くなりそうなので稿を改めたい。


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 NHK 撮影班 当時は全員が日本潜水会だった。その中心であった河野、竹内、畑中、森江 さんは、親友といえる仲だった。

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 この頃、海底ハウスが注目の的だった。水深8mでの長時間滞在、長いハーフタイムのM値 がたまりまくるはず。そして、御殿場を越えて東京に帰ってくる。でも、それで減圧症になったという話を聞いていない。
 その代わりに?原始的な空気塞栓で、事故が起こり、閉鎖となった。でも、田中さんはあきらめていなかった。今、現在まで続いていたら、どうなっていただろう。

0713 2019年 (第18回)浦安海豚倶楽部 遠足(海洋実習)

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 浦安海豚倶楽部については、何度もブログで書いているが、2002年から、浦安運動公園屋内プールで毎月2回、練習を続けている、ある程度高齢のスキンダイビングクラブであり、運営はクラブ員が交代で就任する役員が行っている市民クラブである。毎年、一度 夏期、だいたい梅雨明けころ、まだ夏期休暇でこみあわない時期に海洋実習を行っている。
 クラブの練習の詳細については、2015年に刊行したスキンダイビング・セーフティに書いている。
 スキンダイビング・セーフティは、この7月に大幅に改訂した2訂版がでるが、本当は、この、今回の実習の結果、成果も掲載したかったのだが間に合わなかった。ということは、自分にとってこのクラブの活動がスキンダイビングの実践と言う意味で重要な部分になっている。
 
 このクラブの始まりは、浦安市主催で屋内プールで行われるスノーケリング講習会である。1990年代から、ちょうどこのクラブが生まれる2002年頃まで、今回の海洋実習で行うような、水深で言うと、5mぐらい、がんばっても7ー8mまでの素潜り遊びをスノーケリングと呼んでいた。ところが、スノーケリングは「潜らない、ジャケットを着けて浮き漂う水中観察」と定義されてしまったので、海豚倶楽部の活動も、スノーケリングではなくて、「ソフトな、無理をしないスキンダイビング」に移行する事になった。
 ところで、呼び名、定義にこだわるのは、指導者の側で、指導を受ける一般市民は、こだわっていない。今回の実習プログラムを見るとシュノーケリングになっている。
 名称定義は、指導する側、安全管理をする側にとっては、重要であるが、遊ぶ方にとっては、あんまり問題にならない。
 しかし、「海遊び」にとって、浮き輪、ジャケットの扱いは、まず第一に重要である。
 その意味で、スノーケリングをジャケット着用を義務づけてしまったこと、つまり、ダイビング、潜りではなくしてしまったのだから、ダイビングの側からは、困ったことではあるのだが、浮き具、フロートの重要性を強調、認識させる意味では大きな効果があり、昨年の沖縄での実習から、その研究、使用実験が、実習としてのメインテーマと考えるようになった。
 逆にいうと、それまでは、あまり浮き具(安全の命綱)にこだわらない、バディシステムだけが頼りの牧歌的な時代だったとも言える。

 「海遊び」ではなく、「海仕事」である海女は、非常に効果的な浮き具である「浮き樽」を古くから常用しており、「海遊び」もこれを範として、実習を組立てようとしている。  前回、昨年の沖縄での実習では、超小型、一人乗れるゴムボートのようなフロートを持って行ったが、これは全く役に立たない、むしろ危険でさえあった。小さいとは言え、人が乗れるのだから縁の高さがあり、よじ登らないと上がれない。そして、そのよじ登ろうとするときに簡単に転覆してしまう。これは、捨てることにした。
 今回、持参、試用したのは、まず前回 昨年の沖縄でも使用した Omer 製、(日本アクアラング 扱い)の二種類のフロート、このメーカーはスキンダイビング、フリーダイビングの器材を中心的に扱っているので、ノウハウが蓄えられていている。
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 セフティスタッフとして、同行してもらっている山本徹さんの使っている atoll 13000円 は、高価ではあるが、すでに道具として使える段階のものである。
 僕が使ったのは torpedo 5000円で、これは、価格も手ごろであり、一応使える。
 今年、新たに、キヌガワの スノーケリングチューブ 2300円を3個用意した、これは、4人までつかまれる。ただし、このチューブは、手動の空気入れが無いと、とても膨らまし切れない。
 
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 さて、今回の目的地は式根島で、一昨年に続いて、2回目になる。梅雨が開けず天候が心配だったが、10日、一日目は晴れた。
  式根島のビーチエントリーのスキンダイビングポイントは、中の浦。大浦、泊、石白川 で、どれも海水浴場である。逆に行うと海水浴場でスキンダイビングが出来る。スキンダイビングも出来るような素晴らしい海水浴場なのだ。
 どれも 巾着形の入り江で、入り口部分は磯で波が当たるが、中は波静かな砂浜と、波の遮られるプールになっている。
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               泊海水浴場
 10日 12時式根島着、午後、中の浦に行く。中の浦は、スクーバダイビングもできる。前に、スクーバのナイトダイビングを楽しんだこともある。イセエビがぞろぞろ這い回っていた。とにかく式根島定番ともいえるポイントで、学生連盟の合宿練習のポイントでもある。中心付近の海底には、少しではあるが造礁珊瑚がある。深さは7ー8mで透視度は20ー30mある。安全度の高いポイントである。
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 メンバーは、樋口 黒沢、佐古、舟橋、佐藤 安藤 玉田 以上女性 藤田(現会長)二見、小松 野村、山本徹(ガードをお願い) 小山(須賀のバディ)須賀 計14名
 常日頃、一緒に練習しているし、気心も知れているが、ブリーフィングでバディを確認し、必ずフロート周辺で潜り、エントリー、エキジットは、フロート単位でまとまってする。これによって、フロートを数えていれば全員の安全が確認できる。
 
 男性のグループは、自前の小さい浮き輪に、アンカーロープを着け、その周辺で潜っていた。手軽で良いけれど、浮き輪が小さくて、離れていると見えにくい。
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 最初に、フロート関係の結論を言ってしまおう。
 用意したフロートの数が足りなかった。女性は7名、3個のスノーケリングチューブで良かったが、男性4名 もう1個のチューブが必要で、これが、足りなかった。浮き輪で用が足りているものの、安全確保には、不十分である。まあ、数年前まではフロートをシステムとして考えたことは、無かったのだが。
 フロートアンカーを付けているのは、山本さんと、男性のこの浮き輪だけだった。
 アンカーを付けないフロートは、手放すと風で、あっという間に飛んでいってしまう。一人がフロートを持って、下を見張り、一人が潜る。これによって、潜っている者を必ず水面から見張っているというルールが徹底されるので、良いかと思ったが、考えてみると、もしも、救助が必要な場合、潜って助けて来て、フロートがその間に流されてしまう可能性がある。面倒でも、アンカーが必要。次回から必須で、アンカーの使い方がテーマになる。
 レスキューを考えると、形が大きい、スノーケリングチューブに、3人乃至4人のチームで、アンカーを付ければ、良いのだろうと思う。二人のバディならば、僕の使ったtorpedo(トーピード:魚雷)で、良いだろう。
 なお、最近だが、二人のバディよりも、三人の方が良いようにおもっている。特にスキンダイビングでは、その方が良い。4人ならば2人のバディが二つになる。
 式根島では、宿に曲がる角にある、いつも行くお店にフロート、浮き輪のレンタルがあり、1日500円でかなり大きなフロート、浮き輪が借りられる。海の家がオープンすれば、そこでも貸し出すだろう。
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 沖縄では、式根島の中の浦 のような海水浴場で、胴衣着用のスノーケリングでなければ、フィン・マスク・スノーケルが使えなくなっているところが多い。浦安海豚倶楽部がホームにしていた、慶良間の古座間味、阿真ビーチも、そうなっているらしい。その内に何か考えなければいけなくなるかもしれない。
 
 自分のダイビングだが、3mmワンピースのフルスーツで、ウエイトを5キロにした。フロートを持っているということで、少し、重めでも、溺れる心配が少ないので、6キロでもよかった。
 撮影だが、海水浴場なので、魚の多い磯にでるあたりに遊泳禁止標識ラインが設置されていて、出られない。安全なスキンダイビングについての実験的海洋実習なのだから、もちろん、ラインの外に出てはいけない。
 撮影の対象として魚はねらっていなくて、主に、潜る、フロートを使う形が撮影できれば良いと思っていた。NikonのクールピクスAW130を久しぶりに使った。
 ほぼ目標とする撮影が出来たが、水深8mになると、潜ることは出来ても、カメラでねらって撮る余裕が無くなってしまっている。(高齢のため)水深2mとか3mでは、身体が浮いてしまって被写体がねらえない。生き物の撮影のためには、6キロにして3mに合わせれば良かったかも知れない。魚はチョウチョウウオとスズメダイ、カゴカキダイで魅力のある被写体ではないが、それでもカメラを持つと、人間よりも、魚を追ってしまう。自分たちの使ったトーペードブイの写真がない。きちんとした撮影プランを立てなかったことを反省するはめになった。
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 水温は24度で寒くはなかったが、1時間ぐらいで、身体が冷えてくる。一日目が中の浦で、二日目、11日には、午前中 泊海水浴場、午後石白川海水浴場で潜った。天候は雨こそ降らなかったが、曇りで、潜った後での温泉が頭に浮かんだ。泊は、坂道が5キロのウエイトを担いでは一気には上がれず、息が弾んだ。それでも、自分で担いで上がれた。東京をでる時は、例によって瀕死?の状態だったから、海で活力を吸い込んだわけだ。
 午後の石白川は、前の海が開けていて、波が入っていて、濁っていて身体が揺られた。それでも、カゴカキダイなど、魚を追っているとおもしろくて、1時間の上、泳いでいた。


 三日目、帰る日、12日の午前も、昔だったら泳いだかも知れないが、さすがに全員パスした。それに、朝から冷たい雨だった。
 午後、高速ジェット船に乗る頃には晴れた。
 総じて、ダイビングも民宿のげんべいも、もちろん仲間のメンバーも居心地がよくて、良い旅で、活力を取り戻すことができた。
 終わりに、今期の会長で、春から準備に努力された藤田会長にお礼を申し上げます。
振り返れば、藤田さんは、数年前、伊豆大島に行ったころで、、目の離せない初心者でした。
言うまでもなく、本職のお仕事では、活躍されていた方ばかりであり、お互い、60をすぎて、進歩云々はない話ですが、それにしても、ダイビングの上達も含めてのアウトドア活動コントロールでの進歩、スキンダイビングの効用だとおもうのです。
 僕も、もう少しだけがんばって、来年も一緒に旅ができたらうれしい。 
 
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0724 豊潮丸 航海 2007~

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 豊潮丸航海 
 
 今年も7月14日に東京を飛び立ち、広島県呉から、広島大学の練習船豊潮丸に、早稲田大学中尾研究室、広島大学平山先生のグループが行う、航海、サンプリング実習に同行することができた。 毎年、これが僕にとってのこの航海の最後だと言っては、また出かけていく。同行してくれた久保君に「何時が最後なのやら?」と笑われているが、都会では半ば病人だが、海にでると活力を取り戻して、戻ってくる。
 でも、このあたりで、ちょっと総括しておこう。

 2007年 第一回(僕として)航海
 この航海への同行を始めたのは、2007年、この豊潮丸4世が新造船で就航した最初の年だ。僕は72歳だった。
 この年の僕のサポートは、鶴町君で、車にタンクを積んで、東京から呉まで、二人交代で運転し、走っていった。東京を午後にでて、夜通し走って、翌日の午前中に呉に到着した。 2007年の目的地は、奄美大島だった。豊潮丸は、400トン(総トン数は200)で、一週間の航海で、日本の南半分のほとんどをカバーしている。台湾まで行かれるそうだが、一応、奄美大島が通常航海の南限になる。
 奄美大島では、大島海峡、瀬戸内の諸鈍、安脚場で潜ったが、この時代の流儀は、本船(豊潮丸)からエンジン(船外機)付きの、ゴムボートにタンク、潜水器財と人間、僕たちダイバーを積んで発進する。中尾先生は、この航海(潜水)になれていて、採集の場所の見当を知っている。その場所は、いわゆるレクリェーションダイビングのダイビングポイントとは、少し違う。
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 岩の陰、隙間などにひっそりと張り付いている海綿など、無脊椎動物をナイフで剥がしとって採集するのだ。
 採集場所にくると、ゴムボートからタンクを下ろし、水面で身に着け潜水を開始するとゴムボートは戻って行ってしまう。広島大学のチームがスキンダイビングで海藻の採集をしているのと、かけ持ちしているのだ。
 時間がくると、浮いて待っているか、岸に這い上がっている僕たちをピックアップしてくれる。
 この年は奄美から戻り道、屋久島で潜水して帰港した。ほぼ一週間の航海である。


 2008年、第2回航海は、6月 対馬と五島、つまり今年2019年と同じだ。対馬、厳原では、「アビス」というダイビングショップの平江さんにお世話になった。ダイビングサービスのお世話になるときには、ショップの使うボートそしてガイドで、通常のレジャーダイビングとあんまり変わらない。
 この年から、中尾教室の学生、前嶋君 勝俣君が参加する。この二人は全くの初心者で、チームがバラバラになってしまったり、ポイントによっては、潜降索が用意されていなかったりして、怖い思いをした。
 五島では、ナイスバディというお店のお世話になった。2019年、今年も、そのお店のお世話になった。オーナーは今田さんで、普通の漁家をショップにしていて、それがおもしろかった。
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 その後、熊本の牛深にまわり、ニュース・ステーション時代におせわになったショップ、富川さんのお世話になった。そのニュース・ステーションの時、潮美が抱いて記念写真を撮った女の子が、嫁に行ったとか、20年の月日が流れている。
 この年は、三カ所全部、ダイビングサービスのお世話になった。
 呉に戻り、ヤマトミュージアムを見て、16時に呉をでて、車を走らせ、明け方の4時に東京、早稲田大学に着いた。
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 牛深に向かう途中でであったイルカ

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 牛深の海底風景

2009年 7月9日~ 第3回(僕が同行しはじめてから)
 広島大学 堀教授 平山真 助教授とその学生たち
 早稲田大学 中尾先生 前嶋君  勝俣君
 それに
 北海道大学 酒井教授 松永さんPHD
 
ダイビングのスタイルを僕の方式に変えた。
 僕は、サーフェスコンタクトと呼んでいるのだが、水面に浮かべた何かと、ダイバーを必ず、何らかの方法で連携させて潜る。
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             曳航するゴムボートに乗っているのは鶴町
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 別のゴムボートを用意して、エンジン付きゴムボートで曳航していき、潜るポイントに浮かべアンカーで留める。
 そして、そのアンカーから巻き尺 50ー100mを延ばす。このラインの上で、ラインの見える位置で採集する。ラインから離れて泳いで行っても、後戻りすれば、ラインは簡単に見つかるし、ラインをたどってゴムボートに戻れる。この方法は今と同じだが、今はゴムボートを並べて保持して走る。2008年は曳航である。
 このときも、鶴町と一緒で、曳航するゴムボートには鶴町が乗っている。残念なことに、鶴町は2010年の1月に亡くなってしまった。今でも、鶴町さえいれば、と思うことが度々である。奥さんの雅子さんが僕をたすけてはくれているが。
 種子島、鹿児島県 馬毛島、下甑島 串木野沖 天草 長崎を回る。
 広島大学の海藻採集はスノーケリングで、その面倒も少し見させてもらった。
 長崎では、市内を端から端へと歩き回る、僕にとっては、恐怖の大遠足を行った。
 
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             僕は、教授の一人部屋を使わせてもらっているので、気がひけている。
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              学生サロン、食堂

 2010年 7月 これで4回目の航海
 学生は喜納君が参加。 アシスタントとは高橋稔さんだった。
 伊予灘の小水無瀬島に潜水、ここは良いポイントだった。
 愛媛県長浜港で、夜、生きたアオイガイ(タコブネ)を掬った。
 佐多岬の瀬戸内海側と回り込んだ小梶谷鼻を潜る。
 宿毛に入港して、旧知のダイビングサービス森田君のお世話になる。
 沖の島に潜水
 土佐清水港入港 
 高知港  高知遠足
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              アオイガイ


 2011年 7月 6日から これで5回目の航海
 町田君が参加して 学生は喜納君と町田君、町田君はCカードとったばかり、
 屋久島で潜水 榎田君のダイビングサービスでお世話になる。
 台風のために硫黄島に行けないで、指宿遠足 
 竹島 大水無瀬島、小水無瀬島
 石川総一郎さんにアシスタントをお願いしている。
 ゴムボートとラインの潜水は安定している。ゴムボートも曳航ではなく、横付けで走る。
 
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              学生の緊急避難、防火訓練
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 2012年 7月1日~ これで6回目の航海
 奄美大島 
 僕が1956年に一ヶ月滞在してはじめてスクーバダイビングを経験した、瀬戸内町の久根津のダイビングサービス、こほろの太田さんのお世話になる。
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1956年の僕と古に屋の港

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部落の古老を集めて、僕の学生時代の滞在のことを聞いてみたけど、もちろん誰も知らなかった。

 学生は喜納君、町田君で、サポートは石川惣一郎さんにお願いする。
 2007年にも潜った安伽場で潜水するが、太田さんのボートとガイドで潜水すると、ガイド無しの2007年とは全く別の場所になる。
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                 マスクマウントで記録している。ラインが見える。
 徳之島では、ガイド無し、ゴムボートの潜水
 トカラ中之島は、港内での潜水


 2013年 7月4日~ これで7回目の航海
 瀬戸内海周航
 学生は町田君
 愛媛県 ひょうたん島 流れが速く、チームがバラバラになる。バディは崩していない。流れをさかのぼることができず、岸に上がる。
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                 瓢箪島

 風の子島
 瀬戸内海というと静かなイメージがあるが、流れが速くて危険な海だ。
 淡路島 由良
 良いポイントだったが、僕は水面でのボンベ着に失敗する。腕が回らなくなっているのだ。
 備後瀬戸 佐柳島(さなぎ島)ここも流れが速く(1。5ノットくらい)、ゴムボートに戻るのが危ないので、岸に上がる。
 マスクマウントでの撮影記録で、それぞれの動きがわかった。
 北大のチームまで責任を負って見なくてはいけないのか、その隙に早稲田の僕たちのチームが事故を起こしたら、どうなのだ。
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                 佐柳島(さなぎ島)流れが強い
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                 ボートが近くに居るので遭難ではないが、そのボートに泳いで行けない。
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               神戸港沖では機材を積んだゴムボートが転覆した。
               瀬戸内海は一番大変だったが、得た経験もたくさんあった。
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 2014年 7月5日~ これで8回目の航海
 日本海 隠岐の島
 学生は、町田君、石橋君 
 山口県長門市の青海島 見島
 境港で反転 嶋根半島で潜水
 中尾先生はダイビング歴30年近い、ベテランであり、豊潮丸の潜水も20回を越えている。現場での動き、採集ポイントの選定は中尾先生がおこなう。僕の役割は、ゴムボート、巻き尺ラインなどこの潜水のシステムを作り、学生の潜水を指導する。僕が関わるまでの潜水は、ゴムボートからエントリーしたら、ボートは戻ってしまい、浮いたならば本船から双眼鏡で見ていて、迎えにくる。流されて当然の潜水だから、自由度は大きいが危険も大きい。僕のスタイルはゴムボートからの半径が100m程度だから自由度はないが、一般のレクリェーションダイビングよりも安全度は高い。
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              2014年の日本海航海、航路、サロンあって、現在位置と航路がわかる。


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                 日本海「


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                 風呂です。

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               コンプレッサー




 2015年 7月24日~これで9回目の潜水
 80歳になる。
 学生は町田君 石橋君 相馬里奈さん(女性)早稲田のダイビングクラブ出身だから、完成されたレジャーダイバーといえる。
 僕のアシスタントは鈴木敏久君

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 このころまで、日本水中科学協会のプライマリーコースがあったので、みんなそれを受けている。サイエンティストのダイビングには、これが一番、良いコースだったのだが、プライマリーを続けられなくなってしまっている。


 奄美大島まで行く予定だったが台風の接近で行かれない。
 長浜港に入港し 小水無瀬島で潜る。この島は中尾先生のお気に入りだ。
 周防大島
 豊後水道をでて、宇和島沖、日振島潜水 宇和島港入港
 宇和島由良岬潜水、
 宿毛ではパシフィッマリンの森田君のお世話になる。森田君は旧知、足摺沖の浮き魚礁、黒潮牧場の調査で、無理な潜水をお願いしたこともある。
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 沖の島に潜る。採集場所として、その後毎年のように通うことになる。 
 土佐清水入港 土佐清水港内で潜水。港の出口あたりの岩礁が、良いポイントである。
 
 ブログにこんなことを書いている。
 「これで僕の80歳の夏が行ってしまう。次の夏が僕にはあるのだろうか、もう一度この旅に来られるのだろうか。海の上にいると、もちろん身体は疲れるが、次第に絶好調になってくる。そしてまた、東京にも度って半病人になるのか?
 学生たちには、これから何度も何度も、人生の夏がある。」
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 「大学と言うところは、研究とともに教育の場なのだ。その教育、海の教育に、広島大学の練習船、豊潮丸は、ずいぶんと大きな役割を果たしている。広島大学だけではなく、いくつもの大学が、僕たちのように載せてもらって、年間のスケジュールがフルに消化されている。」
 2015年にこんなことを書いた。
 
 2016年 7月16日~ これで10回目の航海
 僕は81歳になった。
 関門海峡を抜けて 壱岐の芦辺南 で潜る。
 学生は、町田、相馬里奈、 中尾先生 須賀 鈴木(ライフガード)
 北大が酒井先生と学生1名 7名分の器財をゴムボートに積む。
 壱岐、郷ノ浦 恐怖の遠足 そして夜はバーベキュー
 上五島 宇久島沖潜水
 下五島 多々良島沖 潜水
 福江入港
 南下して牛深に向かう
 牛深 下須島沖 潜水
 枕崎沖 番所鼻沖 潜水
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 山川港入港 猫がいて仲良しになる。
 
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 2017年、中尾教室の潜水はお休み
 2018年 豊潮丸エンジン故障のため、航海取りやめ
 そして2019年 今年だ。

0729 豊潮丸航海 2019

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  80歳以降、毎年、今年で終わりかなと思い続けている。今年も迷ったが、いろいろ迷うけれど、道が尽きるまで、行くのが旅の心だ。行けるところまで、ベストを尽くして行くしかない。
 それに今年は、日本水中科学協会の理事をお願いしている久保さんの扱っているDPV(水中スクータ)を使ってみるということになり、久保さんが行くならば、僕のフィジカルが役に立たなくても、大丈夫、本当に辞めるときの引継ぎも考えて、行くことに決めた。

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  今年の航海 行程、呉を出港して、関門海峡を抜けて、対馬に、そして、五島に下り、長崎、佐世保を経由して帰ってくる。

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 今年のメンバーは、広島大学の平山先生のスノーケリンググループと僕たち、早稲田大学の中尾研究室、北海道大学の酒井先生のグループは、不参加、で、二つの大学になった。 僕たちのメンバーは、須賀、久保彰良が、スーパバイザーで、中尾先生、それに、町田君がドクターになり、研究員になって中尾先生の助手、彼が全部をまとめてくれる。
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    DPVを走らせる、町田君、つかまっているバディが西岡君

 学生は、新たに西岡君がダイビングに参加することになった。辰巳で一日だけだが、スキンダイビングのテストをして、6月4日に潜水士の試験をうけ、久保君の紹介で、PADIのショップで、Cカードを取得した。研究者、学生のダイビング作業は、潜水士の資格とCカードが必要である。あとは、経験を積んで行けば良い。

 西岡君は体力抜群で、身体も大きく、ウエットス
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ーツはXLサイズ、僕の潜水機材の整理収納もやってくれる。特には頼んでいないのだが、やってくれる。
 
 今年の新たな展開は、久保君のDPVの試用、そして、町田君、西岡君が、僕のスタイルのウエアラブルカメラでの撮影をするようになったことだ。僕のスタイルとは、画面にタイム表示が出来るウエアラブルカメラを各自が持ち、動画を全潜水時間継続記録しておくことだ。これによって、安全管理の面でも、研究資料としても、大きな効用がある。この場合大事なことは、画面に日時表示がでることである。2011年、go-proがでて以来、研究、追求してきた手法なのだが、go-proは、なぜか、タイム表示が画面にでないので使えない。なぜかわからない。変なポリシーがあるのかもしれない。
 もっとも、タイム表示がでても、go-proは高価(4万円以上?)なので、使わない、使えないだろうが。カメラは、AKASO brave(僕が使っているものと同じ。9000円)で、消耗品的に使って、画質も満足できる。
 これまで、撮影記録も僕の仕事だったのだが、全員がカメラを持ったので、その意味では失業?いや、撮影記録の指導という意味では、仕事を果たしたことになる。
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  中尾先生のカメラシステム、前から使っているキャノンの上に、LCDライトを載せ、その上にウエアラブルで動画を撮る。
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  町田君の使う棒の先カメラシステム、


 0714日 
 0700 羽田発 ANA  
  広島空港からバス 1300円 広島駅 
  駅で学生たちと合流 
  学生は 
  中村 田中 西岡 中込、そして 町田君 それに女子2名、山崎瑞穂 滝口ありさ さん 美人さんでダイビングはしない。標本の記録とか整理を担当する。  13時豊潮丸出港 
  痛恨の忘れ物、 ウォーターボトル 
  PCは、古い、まだ中国製にならない前のIBM シンクパッッドをもってきた。キーボードが打ちやすい。2007年以来この航海で使っている。壊れたら捨てるつもりだが、壊れない
  
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  僕は教授個室を占領していて、心苦しい。
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  出港
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 学生の緊急避難訓練

 7月15日 ログ  date 2019 0715
 ①目的:(タイトル) 豊潮丸
 ③場所 対馬
 ④スポット 仁田湾 杓子灘 
 ⑤天候  晴れ  
 ⑥風   なし、
 ⑦水温  25℃
 ⑧透視度 20ー30 m
 ⑨潜水開始 1335
   潜水時間  42 分 ターンプレッシャー 50
 ⑩最大水深   10,7m アベレージ 7m
 ⑪潜水終了 14時18分
 ⑫インターバル プラン
 ⑬チーム 須賀 中尾 久保 町田 西岡
  ユニット
 ⑭バディ 久保・中尾 でDPVを 須賀 町田 西岡はいつも通りの採集と考えた。
 ⑮残圧 20 ⑯適要  巻き尺ラインを引いたので、バディといより、全員チームで動いて久保さんの DPV をテストした。



 
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 別に難しいところではなかった。例年通り、岩礁地帯の岸近く、水深2ー3mにアンカーを入れて、ゴムボートを留める。流れはない。アンカーから、沖、深みに向かって斜面を下るように巻き尺ラインを延ばしていく50mも延ばすと、水深10mになった。これがベースラインで、ここから、右方向、あるいは左方向に、中尾先生が決めた方向に進んでいく。場合によってはラインに沿って、ラインからあまり離れないでも、採集ができてしまうこともある。ラインに沿うのが従来のライン調査なのだが、僕らは、この調査では、ラインを、ボートに戻るマーカーとして使っている。 海に潜り 予定通り?身体は回復したが、ゴムボートの上でのフィジカルがどうにもならないほど動けていない。ゴムボートの上で、12リットルのタンク、8キロのウエイトを着けると、身動きができなくなってしまうのだ。
 それに、ゴムボートの上というのは、どこもかしこもブヨブヨしていて、身体の支えをしっかり出来ない。なんとか、飛び込んでかっこうをつけた。

 7月16日
 
ログ  date 2019 0716 ①目的:タイトル 豊潮丸
 ③場所 対馬
 ④スポット 厳原  川内さんのお世話になる。
 ⑤天候  晴れ  
 ⑥風   
 ⑦水温  24℃
 ⑧透視度 20ー30 m
 ⑨潜水開始 1119
   潜水時間  47 分 ターンプレッシャー 50
 ⑩最大水深   9,7m アベレージ m
 ⑪潜水終了 12時 6分
 ⑫インターバル プラン
 ⑬チーム 須賀 中尾 久保 町田 西岡
  ユニット
 ⑭バディ 
 ⑮残圧 20
 ⑯適要
  
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 日本の海は、津々浦々、どこに行っても、岸近く、地先の海は、漁協の管理下にある。大学の練習船で、学術研究のための採集である。無断でとは言わない。許可を申請すれば採集が許可されるか、というと、そうはいかない。しかるべき、伝をたよってお願いしなければならないのが、日本の海。
 対馬はダイブウエイズの武田社長の故郷なのだ。武田さんの弟にあたる川内さんにお願いして、採集が出来ることになった。 バディの組み合わせを変えて、いつも通りの僕と中尾先生のバディ、町田、西岡の学生バディとして、久保さんは統括的に二つのバディを見張り、必要があれば、手助けする。これが鉄壁の体制。

 各バディにDPV(スクーター)を渡して移動はこれでやる。
 なに、たかだか100mの範囲なのだから、実質的にはDPVは、必要ないし、これまでも無しでやってきた。試用、実験であり、結果を町田君にでも発表してもらえたら、と考えた。 久保さんの扱っているDPV、SUEX は、イタリー製である。手放せば、離した位置で、中性浮力で、静止している。目に見えない棚に載せておくような感じだ。そして、その棚は、任意の位置である。ハーネスで身体と連結しているので、離れていく心配もない。
 中尾先生がDPVを持つ、これに掴まって走り出した時、僕は、その身体のどこかに掴まれば良い。トルクが強いので二人を楽々と運んでいく。もちろん、練習して練度を上げなくてはダメだが、豊潮丸の航海では、危ない思いをした瀬戸内海では、危ない思いをしなくて済んだだろう。そう、流れのあるところで威力を発揮する。もちろん、広範囲の移動、捜索にも。ラインを引く、ラインの撤収には、最高だ。
 対馬のように楽な場所では、不要と思っていたが、楽な場所で使って練度を上げておかなくては、必要な場所で使えない。道具にしておかなくては、道具は使えないのだ。
 ぼくも、嘗て、スクーターをずいぶん使った。たとえば沼沢沼発電所取水トンネル、人工魚礁の捜索 定置網の点検など。そのとき使ったどれよりも、これは、使いやすい。
 このDPVを使って、僕はスクーターというものの認識を新たにした。これまでの、僕の使い方では、一人に一台だった。今回はバディで一台づつ使った。一人がハーネスで、DPVと繋いでいて、走り始まったら、それに掴まれば良いのだ。これによってバディシステムも完全に行われることになる。そして、かなり広範囲に動き回っても、元に戻る為のランドマークとしてラインがある。https://amtec-adv.com/?purpose=leisure
DPVは、上記URL.で詳細がわかる。 アムテック XJ VR
 
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  ハーネスで、腰に付けている。
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 手放して、採集していても、近くに中性浮力で浮いている。
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 16日2回目 通算3回目 ①目的:タイトル 豊潮丸
 ③場所 対馬
 ④スポット 厳原
 ⑤天候  晴れ  
 ⑥風   なし、
 ⑦水温  24℃
 ⑧透視度 20ー30 m
 ⑨潜水開始 1530
   潜水時間 47  分 ターンプレッシャー 50
 ⑩最大水深   7。8m アベレージ m
 ⑪潜水終了 1617
 ⑫インターバル プラン
 ⑬チーム 須賀 中尾 久保 町田 西岡
  ユニット
 ⑭バディ 須賀:中尾
 ⑮残圧  30 ⑯適要

 ボートに上がるときにウエイト落とす。ウエイトなしで4m潜り拾うのに命がけ状態だったが、拾い上げた。しばらくは、息が弾んでいたが、不整脈はでなかった。 予定では川内さんが豊潮丸に来てくれるのをゴムボートで迎えにいく手はずだったが、川内さんが自分のボートできてくれることになった。
 結局は、そのボートもゴムボートには着けず、すれ違い手を振っての挨拶にとどまった。テンガロンハットをかぶった姿は武田さんそっくり。会うのを楽しみにしていたのに、記念写真も撮れなかった。残念。


7月17日
 
 上五島
 五島も研究の為とは言え、勝手に潜水、採集できるものでもない。地元でのお世話を2007年にも手伝ってもらった、ナイスバディというショップ、今田さんにおねがいした。今田さんは代々の漁家であり、話が通る。
 今田さんは、久保君がPADIの役員だったときに、20年前にPADIのインストラクターになって、よく知っていたとか、互いに再会を喜ぶことになった。
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 通算4回目の潜水
 ①目的:タイトル 豊潮丸
 ③場所 五島
 ④スポット 上五島 祝言島 ナイス;バディの船
 ⑤天候  曇り 一時雨
 ⑥風   
 ⑦水温  21℃
 ⑧透視度 10ー15 m
 ⑨潜水開始  1046
   潜水時間 46  分 ターンプレッシャー 50
 ⑩最大水深 12・7m アベレージ m
 ⑪潜水終了  1112
 ⑫インターバル 18時間42分
 ⑬チーム 須賀 中尾 久保 町田 西岡 ナイスバディ 今田さんのガイド2名
  ユニット
 ⑭バディ 須賀・中尾 町田・西岡 久保総括 ガイドがそれぞれのバディに着く
 ⑮残圧 30
 ⑯適要
 
 対馬からほんの少し南下しただけなのだが、梅雨前線の縁に入り、天気が悪くなった。朝は雨だったが、幸い、潜水する時には上がり、迎えにきた今田さんのボートでポイントに向かう。
 
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 透視度も悪くなり、水温も低くなり寒くなったが、採集には良い場所だった。今田さんのところの、よく身体の動く、若い衆、ガイドダイバーが中尾先生のサポートをしてくれたので、須賀は何もする事がなくなり、撮影に専心。あがりやすい梯子で、やはり、、ダイビングボートは、ダイビングがやりやすい。 次の潜水まで1時間と少し、その間に豊潮丸で昼食をとる、ウエットスーツを脱いだら、喜るのが難儀だ。久保君がシチューとおにぎりを作って持ってきてくれた。今田さんと昔話をすこしする。
 月刊ダイバーで、潮美が訪ねていたとか。
 AKASO braveのバッテリー交換なのだが、部屋でチャージしていたので、ウエットスーツでは、取りに入れなかった。ゲージを見たらまだ半分以上残っている。大丈夫とした。
 そのために、次の潜水では、痛恨のバッテリーアウトをする事になる。 

 17日2回目潜水通算5回目の潜水
 ①目的:タイトル 豊潮丸
 ③場所 五島
 ④スポット 上五島 祝言島 ナイス;バディの船
 ⑤天候  曇り
 ⑥風   
 ⑦水温  21℃
 ⑧透視度 10ー15 m
 ⑨潜水開始 1315
   潜水時間 46分 ターンプレッシャー 50
 ⑩最大水深 13。1   m アベレージ m
 ⑪潜水終了 1401
 ⑫インターバル 1時間42分
 ⑬チーム 須賀 中尾 久保 町田 西岡 ナイスバディの2名
  ユニット
 ⑭バディ a 須賀 中尾 b 町田 西岡 総合的ウオッチ久保
      現地 ナイスバディ のガイド
 ⑮残圧  20
 ⑯適要 
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 この旅で一番 良いSPOTで、(ダイビングスポットの意味ではない)採集に良いスポット)で中尾先生も、もう一度来たい場所だと言っていた。
 その良いポイントというのに、動画がバッテリーアウトしてしまった。スチルしか撮っていない。まあ、記録としては問題ないけど。


 潜水終了後 下五島の福江島にまわり、入港した。
 今回の航海で初の寄港(岸壁着眼)である。
 福江は大きい町だが、やはりシャッター街、その代わりに、大きなスーパーがある。日本のローカルの定まりパターンだ。
 ホテルと見まがう福江城石田城跡(観光資料館)があり、大きなホテルも2軒ある。観光資料館は、閉館した後で入れなかった。残念。
 
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 五島は、うどんが五島うどんとして有名で、もちろん食べた。学生は地獄炊きという鍋から直接食べるのをとり、ぼくはふつうの「かけ」を食べた。

 船の生活をこのあたりで、

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  中尾教室では、学生のオモチャ?にドローンも買ったが、これが飛ぶ姿を見ることは無かった。


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  船が仮泊するときは、船員も学生も、釣に興じる。僕は釣はやらない主義。

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  食事、




 7月 18日
 夜のうちに走って、長崎へ。
 通算6回目の潜水
 ①目的:タイトル 豊潮丸
 ③場所 長崎 大蟇島 オオヒキジマ
 ④スポット 
 ⑤天候  雨  
 ⑥風   
 ⑦水温 23  ℃
 ⑧透視度 15ー20 m
 ⑨潜水開始 1248
   潜水時間 54  分 ターンプレッシャー 30
 ⑩最大水深 8。8  m 
 ⑪潜水終了 1342
 ⑫インターバル 22時間
 ⑬チーム 須賀 中尾 久保 町田 西岡
  ユニット
 ⑭バディ 須賀:中尾
 ⑮残圧  20
 摘要
 最後の潜水 雨だったが潜水中はひどくは降らず、全潜水 6回無事に終えることが出来た。
 この潜水での失敗は、水面でのタンク着で引っかかってしまって、久保さんに世話になり恥をかいた。練習していないためだ。そして、腕が回らなくなっている。
 場所は、想像していたよりも、良い場所だった。
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 長崎では昔、流れでひどい目にあったので、心配していたのだが、流れはなく、波もなくよかった。
 流れがあるところで、タンクを水面で着る失敗は、いけない。
 
 6回、すべての潜水を細かい反省事項は、ともかくとして、大きな失敗無く終了できた。


 長崎に入る予定が、変更になり、夕方、佐世保に入港 フェリーターミナルには、立派な食堂街があり、雨風が強くなっていたので、そこで食事した。しゃれた、イタリアンでおいしかった。
 
 19日 僕と中尾先生、久保君の3人は、一足先に、東京にもどった。
僕たちと入れ違うように北上していた台風が対馬と五島に大雨を降らせる。この台風とすれ違ったこと、ラッキーだった。

 第11回の航海を終えて、第1回はただ、飛び込んで潜水して、浮上して拾ってもらう。第2回から水面にゴムボートを浮かせて、ラインを使う潜水。第7回の瀬戸内海の流されそうな潜水も経験して、この手法を完成させてきた。それに、今回はDPVを使い、各自がウエアラブルカメラで動画を記録撮影する。はるばると道のりをたどってきたが、このような調査手法の確立でもあった。ポイントは、ライン調査のラインを、サーフェスコンタクト(ゴムボート)のマーカーとしても、使うところである。
 このマーカーがあれば、DPVで走り回っても、ゴムボートに間違いなく戻れる。
 全員がウエアラブルカメラを持っていて撮影する手法も、2012年以来、志して来たが、このチームで、実現しそうである。試しにやってみるというのと、道具になっている、ということの間には、飛び越えなくてはならない、溝がある。もう少し、がんばりたい気持ちになっている。どうなるかわからないが。
 日本で、実際の海で、調査の回数を重ねながら、潜水手法の発展も進めてきたチームは、私たちだけではないかと思う。
 久保君とそのことをまとめた本にしようという計画もあるのだが、この旅で、何となく、形が見えてきた。

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0802 お台場、170&171

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 たいへんなことに(自分にとってだが)気づいた。6月のお台場がブログに載せられていなかった。どうしたことだ。 6月と7月をまとめておく。

 6月30日
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 ログ  date 2019  0630 
 例によって朝は、体調があまり良くなかったが、潜水終了して、お台場用に今度買ったチェアーに座っていると 快調 ①目的:タイトル 東京港水中生物研究会 170 回定例
 ③場所 お台場
 ④スポット 
 ⑤天候  雨後曇り  
 ⑥風  
 ⑦水温22  ℃
 ⑧透視度 赤潮状態 赤い層が撮影できた 0。3から1m  ⑨潜水開始 潜水時間42  分  ⑩最大水深   2m
 ⑪潜水終了 
 ⑫
 ⑬チーム 須賀 多留 尾島 ママ 奥村奈央 ⑮残圧 100
 ⑯適要  SJ4000 AKASO brave
      Olympus TG4 今回の参加者は、須賀、多留、尾島 ママ 奥村

調査年月日:2019年6月30日 水深 水温 PH DO 塩分 0m 22.77 8.32 9.08 18.4 0.5m 22.77 7.92 4.93 18.7 1m 22.81 7.88 4.73 18.8 1.5m 22.88 7.80 3.57 19.0 2m 22.79 7.65 2.04 20.8 2.5m 22.27 7.76 2.16 23.3 3m 22.04 7.82 2.39 24.2 3.5m 21.94 7.90 2.38 25.3 海底 3.6m 測定地点 St.5 尾島さんの測定した、海洋調査データ
 
朝 砂浜から見下ろして、10cmの底が見えなかった。2013年以来の赤潮だと、話し合ったが、底はある程度見えることが予想された。

10時46分潜水開始
ドライフィンの足裏に砂が吸い付いて歩けない。いつものようにはってエントリー。
 思っていた通り、底はいつもより少し濁っている程度、 透視度30ー40cm見える。砂の部分でマハゼを探した。何尾か見たが、例年よりもずいぶん少ない。
 そのまま、いつものコースを泳いでいく。水深1mぐらい。良いバランスで気持ちよく泳げた。
 目の前に白いゴミのようなもの、よく見ると、泳いでいる。エビのようだ。さらによく見るとこれがスナモグリだ。2cmぐらい。カメラで追うと、泳ぐのをやめて、沈んでいき底に着いた。スナモグリだから、エビのようには泳げない。泳ぎ回っているクロダイに見つかれば一口だ。砂に潜るスナモグリが、どうしてこんなところで泳いでいるのだ。泳ぎもたどたどしい。低酸素で、這い出てきたのだろうか。
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 赤潮にぶつかった。表層から50cmから1mぐらい。赤い。これを汲んでいって顕微鏡で見たら、プランクトンの種類がわかるだろうか。きれいな赤に撮れた。
 表面近くの赤潮の層、思っていた通りのカットだ。
 
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 割と快調に泳げて、杭の列、引き返し定点にきた。ここも、6月にはいつもマハゼのたまっているところに何もいない。6月なのにいないのだ。赤潮の為にいないのかもしれない。イシガニも見えない。メバルもいない。例年6月と言えば、一番生き物のにぎやかな時期なのに。 それでも、赤潮の下、を潜るのはエキサイトする。体調も悪くない。
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 AKASO braveのバッテリーが少なくなり、FIXライトも50%にしておいたのだが、残り10分の表示がでた。戻り道もマハゼを探しながら戻るが、見あたらない。 朝、砂浜で赤潮を見たとき、今日は一回の潜水でやめようと思いこんでしまった。
 ドライスーツを脱いでしまってから、もう一本行くか、という気持ちになった。考えてみたら二本目は90個のLCDライトを棒の先につけて行けば、赤潮用に良いはず。この次は必ずそうしよう。と決意?して、今日はやめることにしてしまった。

 7月28日
 台風が紀伊半島方面に上陸したが、熱低になり、去った後は晴れて、暑くなり、お台場でも、禁止されている海水浴を、波打ち際で、ばちゃばちゃやっている子供たちも目に入った。
 トライアスロン用のフェンスが設置してあるのかと思ったが、未だで、8月には張られるだろう。
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僕たちのベーステント
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調査年月日:2019年7月28日 水深 水温 PH DO 塩分 0m 26.79 7.75 6.69 9.4 0.5m 26.50 7.83 7.07 9.8 1m 26.36 7.89 6.87 10.2 1.5m 26.08 7.99 6.04 15.1 2m 26.06 7.99 5.86 16.0 2.5m 25.98 7.97 5.80 17.0 3m 25.51 7.90 4.59 20.4 3.5m 25.09 7.85 4.00 21.6 3.8m 24.94 7.86 3.56 22.0 海底 3.9m 測定地点 St.5  尾島さんの測定した海洋観測でーた。
 水温が26,7度になっている、




ログ  date 2019  0728 
 ①目的:タイトル 東京港水中生物研究会 171 回定例
 ③場所 お台場
 ④スポット 
 ⑤天候  晴れ
 ⑥風  
 ⑦水温25  ℃
 ⑧透視度 30cmー60cm 
 ⑨潜水開始 潜水時間60  分 
 ⑩最大水深   2m
 ⑪潜水終了 
 ⑫
 ⑬チーム 須賀 尾島 ママ 奥村奈央 小林 山田 臼島
 ⑮残圧
 ⑯適要
 牡蠣を割って SJ4000にLCDライトを着けた設置カメラをその前においた。牡蠣に集まる、魚、蟹を撮影観察しようという仕掛けだ。

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 据え付けた近くに、チチブ(ハゼの類)の姿が見えた。
 赤潮状態ではないが、濁っていて、透視度は、30ー60だが、赤潮の先月(6月30日)よりも、見えにくい感じがした。赤潮の時は、赤潮の下の底は、見透かせた。
 今年はマハゼが例年よりも少ない。6月でも少なかったので、マハゼを探して泳いだ。ぜんぜん、マハゼの姿が見えない。例年、必ずみられる、杭の列まで行っても、見えない。
 小型のイシガニ見つかったので、撮影した。砂に潜るシーンが撮れて、まあまあ、良いカット(動画だが)がとれた。

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 設置していたカメラも無事回収して、回っていることも確認した。




 僕は見なかったのに、尾島ママ、臼島さんは、マハゼの群を見たという。
 僕が見ない(撮影しない)わけには行かないから、タンクを取り替えて、2本目を潜水した。
 何時もマハゼを見るところを全部チェックした。それでも、僕はマハゼを見られなかった。尾島ママはマハゼに嫌われたというが、だとしても、やはり、今年はマハゼは例年よりも、ぜんんぜん少ないといえるだろう。
 設置していたカメラは、ショックなことに、割った牡蠣が画面にはいっていない。濁っていて画面で確認せず、超ワイドだから、画面に入るとだいたいの感じでおいたためだ。
 これには、たぶん、チチブと思われるハゼが数尾来ているのが撮影できたが、たくさん集まるはずの、ケフサイソガニがぜんぜん、来ていない。

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             濁って見にくいがチチブのようなハゼが3尾みえる。カニはみえない。



 この撮影調査も、魚や蟹の居ないことの確認の様相になっている。
 メバルの姿も見られなかった。シマイサキの稚魚も見えない。
 クロダイが多く見られて目の前を横切る、一度は、カニを探して、岩の下をのぞき込んでいるカメラの前に、突っ込んで来た。


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 餌になる、カニでも見つかったのだろうか、すごい突進だった。一瞬で身を翻して逃げたが、

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 尾島、ママが取ってきた、特大のホンビノスガイ、これまでで最大だろう。



0803  ダイビングの歴史 80

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 海の世界 1975年 6月
 久方ぶりに「海の世界」に戻って来た。「ダイビングの歴史」で、本来書きたかったことから、雑誌という迷路にはまってしまった感があるのだが、これも、行けるところまで、行かなくては、先に進めない。
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 未だ、フリーダイビングなど、水面に姿を現さない。未だ、水中にも存在しない、1975年、素潜りの、ことについて、大岩先生が書いている。息こらえ潜水、素潜りについてだ。
 海女の潜水を題材にしている部分については、今読んでもおもしろい。 
 それから、これは全日本潜水連盟のシンポジウムでの講演であった。
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人間は、海に還れるか、「海に還ってどうするんだ」その部分は何もかいていない。
そう、何にも考えない、良い時代だったのだ。こんなことをまじめに?書いて、それを海の世界がメインで載せてしまう。それを僕は苦労して、ホームページに全部、収録してしまう。
読むと、それなりにおもしろいし、固有名詞の部分は参考になる。だから何?と問われると、何でも無い。海洋開発の時代だったのだ。僕らも日本政府も、世界が海洋に夢を描いていた。
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 小笠原で、ウミガメを養殖して、未来のタンパク源にしようという、倉田洋二先生の夢だ。倉田先生は、小笠原での僕のベースだった。 そのことは前にも書いたが、


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工藤昌夫さんが、事故についてなにやら書いている。その頃の事故についての一つの考え方だ。

 
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0804 ダイビングの歴史81 海の世界 1975-7月

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 海の世界 1975 7月
 
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 フィルムの時代、最も高画質なフィルムは、8x10 エイトバイテン 8インチ×10インチのシートフィルムであった。
 ロールフィルムでは無く、シートフィルムだから、1枚づつ撮影済みのフィルムをめくるように取り外さなければならない。これは、水中撮影では面倒だ。後藤道夫は、この手の撮影では権威であるドイフォトと組んで、航空写真用の大判ロールフィルム、23cmX18cmのカメラハウジングをつくる。もちろんレンズは、超ワイドである。
 ちょうど、このカメラ、ハウジングが完成したあたりで、海洋博がの準備がはじまる。このカメラを使って、海洋博のためにカリブ海にロケした記録である。
 おそらく、後藤道夫、頂点だったときの仕事である。

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 ダイビングは危険なスポーツか?
 1975年当時の、米国のダイビング指導状況である。
 当時の シーカードの定義、そして、日本の指導団体との関わり、そして1980年代に向けての資料として、価値がある。

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 東京水産大学、今の海洋大学潜水部が小笠原に合宿に行ったきろくである。
 残念なことに、この記録、一番重要な部分が欠落している。潜水部、第何代、誰がリーダーで、参加した部員の名前を、文のはじめか文末に記さなければならない。ちょうどこの頃、僕は大学潜水部などかまっっていられなかったブランクの時代である。今調べると、1975年の合宿は、19代から21代にそうとうする。21代には、新井章吾さんが居た。1代まえになるが18代には、水産大学、海洋大学助教授になられた、大葉英雄さんがいる。二人とも、植物学が専攻である。
 この報告は、その頃の学生合宿はこんなことをやっていたのだなあ、という参考になるが、学術的な研究へのアプローチはない。海洋大学の場合、今も同じようなものだろう。もしかしたら、退化しているかもしれない。今ならば、全員、エンジョイ班だろう。
 いろいろと考えさせられた。


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 ニコノスが、Ⅲ型になった。
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0805 ダイビングの歴史82海の世界 75-8月

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100は、ここに紹介できないので、今見て、おもしろいものだけ

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富戸が紹介されていて、海洋公園は出ていません。友竹が紹介しています。

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まだ、大瀬崎は水面下です。

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海底ハウスが呼び物でした。あの事故が起こらなければ、どうなっていただろう。今まで続いて、大きくなっただろうか。
ハウスでM値をため込んで、減圧症が多く発生しただろうか。

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豊潮丸航海で、まわった瀬戸内海の風の子島まで出ている。この100選穴場も紹介しているみたいです。

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同じく、五島も豊潮丸航海で行ったポイントです。


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慶良間には未だ、ダイビングサービスがありません。


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ダイビングショップなのか、クラブなのか、すべて出来るだけのせています。

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中華民国・台湾まで出てきたが、細かく見ると、おもしろいです。


0811 第26回、人工魚礁研究会

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増井 武 氏撮影

 今回の目標は東大の海洋調査探検部がその50周年記念に発表する研究調査の実施状況を、横から撮影記録して、発表に力を添える。それは、目を離さないことでもあるので、学生のダイビングの安全確保にもつながっている。
 別の眼で監視していることが、安全確保の要点でもある。 2000年、21世紀に入ってから、大学・研究者のスクーバダイビング事故がいくつか、あまり間隔を置かずに起こり、大学・研究室が、スクーバダイビングを使う研究をテーマに選ぶことは、稀れ、になった。その安全を確保する確実な手段が無くなったと思える現状では、無理からぬことである。
 自己責任と、ぼくらダイバーは唱えるけれど、それが、空念仏に過ぎないことは、よくわかっている。だからといって、リサーチ・ダイビングは、一生をかけて、追ってきたテーマである。やめるわけにはいかない。終わりまで行く、覚悟をしている。
 東大探検部50周年の現役の発表は、安全の追求に裏付けられていなければならないし、安全確保の方法の確立も、そのテーマであろう。
 そして、この自分は、東大海洋調査探検部50周年の、そのスタートの時から、アドバイザーで関わっており、そこで指導した縁で、僕のバディとして沖縄、オーストラリアに同行して、親しい付き合いをしている小久保英一郎(現、東大理論天文学教授)は、そのコーチ的な役割を果たしている。
 それでも、日本水中科学協会のタイトルの付いた研究会に彼らが参加することは、責任を負いきれないという意見もあった。
 しかし、
 日本水中科学協会が発足以来目指してきた最大のテーマは、学生、研究者の安全な研究活動の手法追求でありその支援である。実技としてはプライマリーコースをやり、最新ダイビング用語辞典を編纂した。最新ダイビング用語辞典は、辞典の形を取っているが、実は研究者のダイビングテキストなのだが、その意味では、ちょっと遠回しになってしまっていた。
 そこで、今「リサーチ・ダイビング」という本を計画している。
 その内容要旨は別に発表するが、この人工魚礁研究会は、その実験フィールドとして、最重要である。
 保険の加入も含めて、いくつかの実施上のトラブルというか議論が、ここにきて提起されているが、それも、このフィールドワークの実践的な効果である。 誰れでもそうなのかもしれないが、僕は走りながら考える。フィールドで実体験をして、間違いに気づき、間違いを指摘されながら、考えをまとめていく。海にでなければ、考えがまとまらない。言葉をかえれば経験から学ぶ。
 5月の調査までは、東大は東大、僕らは僕らで、別々の調査活動をしていて、陰ながら見て、安全をキープしよう、という形だった。
 6月20日の研究会で、東大のチームを撮影してみて、そうだ、彼らの動きを逐一撮影しようと、撮ったのだが、そのとった部分がカメラミスで撮れていなかった。
 7月は学生の期末試験、僕は豊潮丸航海で中止、8月の初旬、7日に予定を持ってきた。 台風8号が九州へ抜け、その後を追うように、9号が先島へ、さらにその後を10号が接近してくる。
 8月7日は、8号が高気圧の縁を巡るように九州に向かう、その横で、波左間は凪だと予想した。
 波左間の荒川オーナーによれば、20日以上凪が続いているという。その凪の最終日近くに滑り込みできた。 9時集合。
 何時も遅刻の東大チーム、早起きをお願いしたので、30分ほどの遅刻で、到着した。 ログ  date 2019 0807
 第26回 人工魚礁研究会   一回目の潜水
 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット 超大型FP礁10個
 ⑤天候 晴れ 南西の風 沖で5m 波高 0。5 m 
 ⑦水温 27 ℃
 ⑧透視度 30  m 1ノット弱の流れ
 ⑨潜水開始 1014   
 潜水時間 28   分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深26,4 m
 ⑪潜水終了    
 ⑫インターバル プラン 90分
 ⑬チーム 須賀 山本徹 早崎 増井 高野 鶴町 奥村 福田 東大探検部 田村陸 實藤未来 内田 ⑭バディ A 須賀 鶴町 福田 B奥村 山本徹 高野 C 早崎・増井 D 東大3人  
 ⑮残圧予定  50
 
 摘要  
  全員に上記の計画ログを渡してのブリーフィング
  計画 
  AとC バディは、Dの東大チームの動き撮影
  Aは、タンクが小さい須賀を含むので、早く上がるので、CはDを最後までフォロー、
  Bは3名が離れないようにして山本 主導 Aと一緒に浮上
  JAUS正会員である細田さんが臨時参加 須賀のAチームに入れる。 このログは計画書でもある。(上記はすでに書き込んである)時間、水深などをあとから書き込む。
 この計画書を各自メンバーに渡してブリーフィングを行う。

 実施
  FP ポイントは、流れがあるという。僕は流れが怖い。体力的にさかのぼれないおそれがある。
  出発の寸前まで、ドライスーツで行くつもりだった。身体が重いのがドライの難だが、それでも、寒いよりは良い。サンファンのハイブリッドジャージは動きやすさは、ウエットと変わらない。
 しかし、朝の暑さで、さすがに、これはドライは厳しいとウエットにした。
  ウエイトは6キロのベルト、沈まないと流れが恐ろしいので、レッグにウエイトをつけた。
 荒川さんは僕らが、多分僕が流されないようにガイドラインを張ってくれた。ボートを繋いでいるブイとは別に、魚礁からボートの梯子部分とを結んでロープを張った。
 僕は船首から飛び込んで、船尾の梯子まで流されていき(ゆるい流れだが)ロープをつかんで たぐり急速潜降した。
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 驚くほど透視度が良かった。夏なので、濁りを心配していた。この透視度ならば、良い撮影ができるだろう。何時もと同じように、増井、早崎組が先に降りていて、山本さんは、それに続き、荒川さんは船首の潜降策の途中にとまって、全体をウオッチしている。山本さんは、直下にいるが、とバディをお願いした奥村君と高野さんは見分けがつかない。。
 僕の後ろには、僕のバディの鶴町がいるはずで、それを見るようにして福田君がいて、そのさらに後にの学生Dバディがいるはず。
 Olympus TG4の上に載せた、ウエアラブルカメラのAKASO braveが回っている状況を確認する。これは、エントリーからエキジットまで動画を記録している。(またまた、時間設定を間違えた。9時との表示は、10時である)左手で、ロープを手繰りながら、右手でカメラを保持する。マスクマウントも回しておけば、この潜降シーンは、うまく撮れるのに、マウントの糊付けが剥がれてしまって、その後なおしていない。早く修理しなければ。 流れの速い水面近くは過ぎたので、ロープを離して自由潜降にした。これが、手放したことが、失敗だった。撮った絵的にも、ロープが写っていた方が良いし。ロープを手繰って魚礁の上に着陸した方が良かった。
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 海底に着底して、振り返るようにして、学生Dバディを確認する。彼らは着底しないで、三人固まって確認しあっている。それを下からあおり気味に撮る。上を通過して魚礁の方に向かう彼らをフォローしていくつもりになった。
 が、フォローできない。自分が進まないのだ。魚礁が流れを遮っているはずなのに自分の身体が進まない。進まない理由は、オーバーウエイト、水平姿勢が下手くそな上にカメラを構えて回しながら進むと身体が立ってしまう。プライマリーコースをやっていた時に、ずいぶん練習して、まあまあの線まで行ったのに、その後練習していないのでさび付いている。それに、加齢のため、背中が曲がっている。
 大きな、一番良いカメラを使っている福田君が追って撮っている。だから、まあ良いけど、情けない。僕が遅いので、心配して、ターンしてきた鶴町と並んで魚礁に向かう。
 いつもならば、まず下の段(超大型ブロック二段重ね)に入って、オオモンハタ、メバルをチェックするのだが、学生を追っていて追いつかなかったので、中途半端になってしまった。
 もう一度着底してウエイトを締め直す。30cmぐらいのイサキの群、が魚礁の中と外を出入りしている。イシダイ2尾通過


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 一応、魚類をチェックして、上の段に登り、学生バディを上から探す。
 ちょうど3人がラインを引いて魚礁に入ってくるところだった。それを上の段から俯瞰で撮る。
 先頭を3年生の田村君がカメラを構えて撮影しながら、(カメラをきっちりと保持しながら)ゆっくり移動撮影をしている。後から、2年の實藤さんが30mの巻き尺ラインを引いてくる。2年の内田君は、スチルで撮影、ストロボが光っている。周囲、全体状況を撮影している。このフォーメーションは、とても良い。實藤さんにマスクマウントを着けさせたらさらに良いだろう。
 泳ぎ方も安定していて水平姿勢もとれている。大した流れではないが、流れの中、入り組んだ魚礁のなかをうまく進んできている。バランスも悪くない。泳ぎ方フォームは今一歩だが実用的に問題ない。(今の僕はひどいので、指導はできないが、秋にでも考えよう)

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 魚礁にはシロガヤの類が密生している。手袋をしてこなかったことを後悔する。
 僕は、一応学生は打ち切って、魚の撮影に切り替える。30cmほどのマアジの群が、良い位置にいたのだが、福田君が撮影して散らしてしまった。が、まだマアジの群は魚礁を周回している。魚礁についているのだ。このマアジの群れは、僕たちが魚礁の中に入ってから、寄ってきたみたいだ。
 大きなイシダイを見つけたが、下の段にいる。下の段に降りてメバルの大きな群れとイシダイをいい感じで撮れると思ったが、残圧をみると60近くまで下がっている。残念だが下には降りられない。
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 荒川さんに合図して、ラインを手繰って浮上した。
 下で、学生を福田君が撮影しているのがみえる、
 後で福田君の映像を見ると、彼らは、延ばした巻き尺ラインを今度は手繰りながら撮影している。戻り途は田村君の撮影する映像にはラインが入り、それを實藤さんがまきながらもどる。これもゆっくりした移動撮影だ。

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 この撮影結果である程度の定量もできるだろう。結果の発表が楽しみである。  




 二回目の潜水
 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット ドリーム
 ⑤天候 晴れ 南西の風 沖で5m 波高  m 
 ⑦水温 26 ℃
 ⑧透視度 20  m
 ⑨潜水開始 1213  
 インターバル 1時間29分
 潜水時間  31  分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深,23.3 m
 ⑪潜水終了    
 ⑫インターバル プラン 90分
 ⑬チーム 須賀 山本徹 早崎 増井 高野 鶴町 奥村 福田 東大探検部 田村陸 實藤未来 内田
 ⑭バディ A 須賀 鶴町 福田 B奥村 山本徹 高野 C 早崎・増井 D 東大3人  
 ⑮残圧予定  50
 
 摘要  
 2回目の潜水の方が体調も良くなっているし、バランスも良くなっている。余裕を持って潜降できた。
 ドリームの上の面、タカベの小さな群、イサキの群が出入りしていて、オオモンハタも3尾、上面に出てきている。
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 透視度は、午前のFPより、一段低くなっていて10ー15mほどしか見えず、美しいというイメージにならない。その代わりに流れはない。


 学生のDバディが見つからない。彼らはラインを引くものとおもっていたので、ラインを捜した。ラインを捜せばすぐに見つかるはずなのだ。
 ところが、彼らは、この回、ラインを引かなかった。ちょっとした打ち合わせでも良いから、ダイビング直前のブリーフィングをしておけばよかった。
 これは、今回の最大の反省点だ。ドリーム魚礁は慣れていて、おろそかになった。
 それに、東大の計画書をもらって居ないのでミズテンになっている。しかし、彼らも走りながら考えているのだろうから、これで良いかもしれない。いずれにせよ、次回あたりで、ミーティングをして、みんなの意見を聞こう。そのためには、「ねらい」程度の仕様書がほしいので、田村君に頼んでおいた。
 
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 自分の毎度の調査パターンで、まず下の段を縦断、次に二段目を見る。下の段にはメバル、大きいカサゴ、2段目で、鶴町がイセエビを見つけた。何時も同じ場所にいる。
 特筆は、オオモンハタが、上面に何尾も出てきていたことだ。
 2段目を通過し、上の段に上がるタイミングで、学生チームを見つけた。しかし、ラインを引いていない彼らは、撮影しても絵にならない。ただ、そこに集まっているだけ、にしか見えない。面倒ではあるが、ラインの効用は大い。先月の豊潮丸の潜水でも、ラインが重要だった。
 「リサーチ・ダイビング」では、ラインに一章を設けるつもり、僕は、100mと50mの巻尺を持っているが、東大チームの使っている30mがコンパクトで良い。


 ドリームは、透視度がやや悪かった、といっても、10m以上見えているのだが、これまでの調査で、はじめて、ドリーム魚礁よりも、大きなFPの乱積みが魅力的に見えた。
 ドリームに近接したFP魚礁もあるのだが、このところ見ていない。
次の8月には、FP二つの見比べをしてみよう。
 波左間海中公園では、マンボウランドと呼ぶ、網囲いの中で、ジンベイザメをキープしている。これは、僕が先々月来た時に、定置網には入り、秋まで餌をやって飼っている。
 ジンベイがいるので、現在、マンボウはリリースしてしまって居ない。
 毎年のことなので、僕自身は、ことさらに、ジンベイを見たいとも思わないが、学生諸君にとっては、楽しいことだ。二本目の残圧を50残して、三本目をジンベイ見物に当てることにした。僕はどうしようか、迷った。僕が潜ると、エントリー エキジットに人の手を煩わすことになる。
 潜らないつもりでいたが、舟から見下ろすと、水がきれいだ。これは、良いかもしれない。潜ることにした。
 水面から見ると、この網囲いは、それほど大きく見えないが、潜水して見ると、ずいぶんと大きい。
 ジンベイ君は、網に沿ってぐるぐる回っている。待っていれば回ってくる。追ったらキリもない。待っていて、動画を撮った。残圧50を30ほど使って、回ってくるジンベイを二回撮影するチャンスがあった。
 まあまあ、気に入ったショットが撮れた。僕の使っているカメラはヤクザなコンデジだから、人に見せるような絵は撮れないが、それでも、まあまあ、見られる。現在、パソコンの背景にしている。
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 透視度が良かったので、良いカメラを持っている福田君、増井君 早崎さんはすばらしい映像がとれている。
 僕は返す返すも、FPのメバルの群れと、イシダイのショットが撮れなくて残念。



0822 ダイビングの歴史83 海の世界1975-9-10 海洋博

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 1975 沖縄返還を記念して開催された、海洋博、ひねくれた人も少なくないから、毀誉褒貶、いろいろあったが、ダイビングの歴史の中で、日本で行われた最大のイベントであったことは、間違いない。国がとりあえず全力投球したものだ。今で言えば、2020年のオリンピックが、そのすべてに、ダイビングが、特にスクーバダイビングが絡んでいると思えば良い。
 そして、オリンピックは、ほんの短い期間なのだが、博覧会は、ほぼ一年続くのだ。
 沖縄の人たちは、海洋博に賭けた、僕らダイバーも、海洋博に素直に賭けた。

 
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 これは、少し斜めに構えた、グループの一人、のレポート。しかし、絵がわかりやすく、だいたいの状況を知ることができる。
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日本のスクーバダイバーは、とにかく一つにまとまって、海洋博でダイバーズフェスティバルを開催した。
ロレックス時計がスポンサーで、全国各地域の、連盟が選手を出して、競ったのだ。
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僕は、そのダイバーズフェスティバルのプロデューサーだった。
言うまでも無く、たくさんの人たちが協力してくれた、おかげのことだが、
とにかく、日本全国のスクーバダイバーが(まあ、自分の仲間たちだが、マーケットシェアという見方をすれば、60%は越えている)沖縄海洋博に代表を送って、競技会を開催した。

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0823 ダイビングの歴史 84 ダイビングワールド 75年5月創刊

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 1970年代と言うのは、スクーバダイビングにとっても、海洋開発にとっても、峠だった。自分自身もその中で生きている。沖縄海洋博があった75年は、その峠の一番高い部分。
 「海の世界」で80年までなんとか、行くつもりだったが、75年、5月に「ダイビング・ワールドが創刊する。
 残念なことに、ダイビング・ワールド、75年は、5月創刊と、11月しかない。隔月だったから、7月と9月がないわけだが、とにかく5月創刊号
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 ダイビングワールドは、黒川治雄、田中龍彦、大竹憲一が作った。
 黒川君はは潜水部の近しい後輩だし、田中龍彦は、親友、大竹憲一は、高校時代から、東亜潜水機に来ていて、「海の世界」で活躍していた。一番若い大竹が亡くなってしまっていたことを、この前聞いた。そんなことで、1976年には連載をさせてもらった。
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 何回も紹介しているし、この写真もそのときに使ったが、沼津内浦湾の海底ハウス、今は別の位置に移されて、魚礁になっているが、このグラビアが、一番よくわかる。
 まだ、大瀬崎が有名にならない前のことだ。

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 この海底ハウス もしも、がたくさんある。
 もしも、事故が起こらないで、続いていたらどうなっただろう。
 海底ハウスに長く居たら、今だったら、長い半飽和時間の窒素をため込んで、減圧症になっただろう。この「今だったら」というところが肝要、昔だったから、減圧症にかからなかっただろうか。ましてや、ここで潜って東京に戻るには、御殿場という高所を越えていく。
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 クローズサーキットとセミクローズの試用
 当時、ダイバーだったら、使ってみたくなる。
 使ってみたら、命が無かったかもしれない。 

0621 波佐間人工魚礁研究会 6月20日

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 プラン:ログ  date 2019 0620
 第25回 人工魚礁研究会  
 一回目の潜水
 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット 6mFP 10個
 ⑤天候 晴れ 東の風 微弱、 波高0。3m (プランでは予想)
 ⑥風  東
 ⑦水温 23 ℃
 ⑧透視度   m
 ⑨潜水開始予定 10時30分  
   潜水時間    分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深25,8 m
 ⑪潜水終了    
 ⑫インターバル プラン 90分
 ⑬チーム 須賀 山本徹 佐藤允昭 早崎 小俣 
  東大探検部  田村陸タムラリク(3年) 實藤未来サネトウミク(2年)白寧杰ハクネイケツ(2年)
 ⑭バディ A 須賀 佐藤允昭 山本徹
      B 早崎 小俣
      C東大3人  
 ⑮残圧予定  50
  二回目の潜水
 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット ドリーム
 ⑤天候 
 ⑥風  
 ⑦水温 23 度℃
 ⑧透視度 15m
  インターバル 1時間30分
 ⑨潜水開始   時
 潜水時間 30 分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深 22、5   m
 ⑪潜水終了 13 時
 ⑫
 ⑬チーム 須賀 山本徹 佐藤允昭 早崎 小俣 東大探検部 田村陸 實藤未来 白
 ⑭バディ A 須賀 佐藤允昭 山本徹 B 早崎 小俣 C東大3人
 ⑮残圧予定  50 これは、いつも僕が使っているプラン:ログ シートで、このブログにもいつも貼り付けているもの 潜水前のブリーフィングでこれをプリントしたものをチーム全員に渡した。自分としては、これがPCにはいっているので、これに時刻とか水温とかの数値をダイブコンピューターから読みとって記入すればログになる。それに、経過、注意事項などを書き込む。
、プランとログの差を読みとることもできる。自分としては、ようやくたどりついた計画書プランである。
 
 6月18日 久保さんとこの潜水の計画、そして実施について、話し合った。
 この潜水、日本水中科学協会の主催行事として行っている。何事かあれば日本水中科学協会が責任を追及される。その代表理事である須賀の責任も追及される。日本水中科学協会の保険で対処できるだろうか?
 日本水中科学協会の行事とするのをやめてしまう。個人で勝手に、集まって潜っているのならば、責任は発生しない?まあ、バディとしての責任ダイビングの世話をする荒川さんの責任は消せないけれど。
 しかし、日本水中科学協会の設立の目的、目標の最大のものは、日本での海洋研究のフィールドワークの安全確保手段の確立と普及である。これを逃げてしまっては、僕はこの世に存在できる意味が無くなる。
 ダイビングは、突き詰めたところでは自己責任だが、主催者の管理責任が存在する。
 何かが起こり原因が追究される場合、その一が計画と実施の齟齬である。計画が文書として残っていなければ、その説明もできない。
 これまでも、この計画書は自分のPCに入っていて、ログにも、残していたが、それでは証拠記録にはなりにくい。プリントしてブリーフィングで渡すと言うことを、これまで一度しか、それも最初の一回だけしかやってなかったことが、おかしい。 10時30分 潜水開始とすると集合は0930、遅くても10時である。といって、急がせて事故を起こすようなことがあれば、この方が潜水事故よりも恐ろしい。遅れても待っているので焦るな。と言うことで、東大探検部の到着が、予想通り遅れ、ブリーフィングの時間がなくなり、ペーパーを配って、その意味、概略の説明だけで終わってしまった。次回からは、細部の説明それぞれの動きにつての質疑、打ち合わせができるようにしたい。 さて、潜水記録だが、
ログ  date 2019 0620
 第25回 人工魚礁研究会  
 一回目の潜水
 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット 6mFP 10個
 ⑤天候 晴れ 東の風 微弱、 波高0。3m 
 ⑥風  東
 ⑦水温 21℃ 予想は 23 ℃
 ⑧透視度 15 m
 ⑨潜水開始 11時12分 予定の10時30分から42分の遅れだ。  
   潜水時間 30 分 ターンプレッシャー 60 予定は 80
 ⑩最大水深26,1m 予定は25,8m m
 ⑪潜水終了    11時42分
 ⑫インターバル プラン 90分
 ⑬チーム 須賀 山本徹 佐藤允昭 早崎 小俣 東大探検部 田村陸 實藤未来 白
 ⑭バディ A 須賀 佐藤允昭 山本徹
      B 早崎 小俣
      C東大3人  
 ⑮残圧予定  50  実施50強
 
 5月には、この魚礁にイサキの群が来ていたが、まだ付いている状態ではなくで、ダイバーが接近すると魚礁から出て、逃げてしまったので、撮影できなかった。今回は、魚礁の外側を見回りながら接近すること、そして、魚礁の底の、ブロック下のイセエビの確認 オオモンハタとメバルの様子が僕の観察ポイントであることをバディの佐藤君に説明した。佐藤君は、魚類のDNA分析のための魚類観察と水の採取。山本さんは僕と佐藤允昭さんのフォローとサポート、そして自分の撮影。 東大探検部の3人は、前回 5月に見ていたところでは、まとまりがあり、動きにはまったく問題はない。そう、彼らの状況観察も僕のテーマの一つなのだ。
 前回、見ていたら、細いダイブラインリールをラインとして使っていた。ラインを基準にして動くというのは、僕のダイビングコンセプトの一つなので、良いことなのだが、ダイビングのラインでは細すぎて見えにくいし、遠くからはみえない。チームが確認できにくい。使い勝手も良くない。測量用の巻き尺を使ったら、とアドバイスした。アドバイスした手前、持って行ってあげようとした。ところが前回のお台場で使う予定でバッグに入っていたはずなのに、逃亡していてない。およそ2時間探したが無い。次回のお台場でも使う予定なので、アマゾンに発注した。水中で使うので一番安い、1500円のものだ。お台場用なので100mにした。
 間に合わないが仕方がないとあきらめたが、探検部は、30mのものを購入して持ってきていた。そして、30mのものだ。30mで、この調査では、必要十分だ。他の調査でも使うからと大は小を兼ねると100mにしなかったところが良い。30mは、コンパクトで使いやすそうだ。 早崎さん、小俣さんはテクニカルダイバーとして一人前なので、これという指示をしなかった。後から考え、反省するとすれば、東大について、それと無い、ケアを頼んでおけばよかった。つまり、3バディのチームとしての働きの考えが無かった。次回の注意事項にしよう。 僕一人だけ、ドライスーツだ。この前の宿毛で22℃でウエットで寒かった。ウエイトが重いこと、バランスが悪いことを辛抱するのと、寒さを辛抱することを比べて、寒さの方がつらいのでドライにした。この様子だと、周年、南の島に行くとき以外はドライになりそうだ。
  潜水開始して、キヌガワのドライフィンにして、この前のお台場でのテストではバランスが良くなったはずなのに、満足できない。これはもう、高齢者の平衡感覚失調だと我慢する他無いのだろうか。
  
 予想していたように、30cmクラスのイサキが群れていた。今回は魚礁に付いていて、ダイバーの動きで、魚礁から出て行くが、また戻ってきたりしている。また、小さい、10cmに充たないタカベの群も魚礁の中にいる。透視度は、15mとしたが、透明感が今一つ無い。カメラを向けて撮影すると、Olympus TG4が機嫌を悪くして画像が消えた。陸上でカメラがむき出しならば、バッテリーを抜いて、リセットすると元に戻るのだが水中ではできない。バッテリー節約のための自動オフなのかとそれは切ってあるのだが、ときたまこうなる。僕の能力では、理由がわからない。
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             イサキ 右側、タカベ 左側、ここでカメラが止まってしまった。

 仕方がない。AKASO braveに頼る他無い。むしろ、この撮影ではAKASO braveの方がきれいに見えることもある。
 AKASO braveも機嫌が悪くなることもあるので、撮影の赤い点灯を常に確認する。ところが、戻ってきて確認すると、このFP6mのAKASO braveが回っていなかった。作動ランプも確認しているのに、何と言うことだ。こういうこともあろうかと、サブのSJ4000をマスクマウントにして持って行っているのに、これは、AKASO braveが回っていると確認しているので回していない。で、この回の潜水はOlympus TG4のテストとしてシャッターを押している、最初の数枚だけで、映像が無い。イサキも、メバルも、そして、東大探検部も、良い(記録として)映像が撮れているのに悔しい。次回からは、撮影ランプ表示だけを信用しないで、水中で撮れていることの確認をして置かなくてはいけない。そして、マスクマウントも回しておく。 撮れていないカメラで、イサキの様子、メバルの様子。オオモンハタは寄れていないのだが、撮影した。中心部の隙間のイセエビは見られなかった。バランスが悪いので、良いポジションが決まらなかったのだが。小俣さんは底で、4尾見ている。 東大は巻き尺ラインを固定して魚礁の長辺に延ばし、テープに沿って撮影しながら、固定した基点にもどっている途中。しっかり撮影しているので進行速度が緩い。3年の田村君がカメラで、なかなか安定が良い。2年の實藤さんが、巻き尺の操作、同じく2年の白君が、サポートで良いチームワークだ。これを僕が撮っているのだが、撮れていない。
 僕の残圧が80に近づいている。東大にも上がる指示を出そうかとして實藤さんと眼が合いそうになったが、僕のタンクは彼らよりも小さい。それに彼らの空気消費は僕より遙かに少ないはず。まだ120以上残っているはず。そのままにして、僕のバディは浮上した。
 そこで、悔やんだのは、ベテランの小俣、早崎バディに学生のケアを頼んで置くべきだったということ。
 浮上して、先に浮上して待っていてくれる荒川さんにカメラを受け取ってもらい、山本さんにフィンを外してもらう。荒川さんが、タンクは背負ったまま上がりますかと聞いてくれた。自信がないのでタンクは受け取ってもらう。
 荒川さんは、一緒に潜ってくれた全般を見張り、ガードして僕より早くあがり僕を引き上げてくれる。
 僕らの後、学生3人が浮上して舟に上がる。
 次に早崎さん、最後に小俣さんだが、この二人は時間差があった。
 やはり、学生のフォローを頼んで置けば良かった。
 
 二回目の潜水
 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット ドリーム
 ⑤天候 
 ⑥風  
 ⑦水温 21度  予想 23 度℃
 ⑧透視度 15m
  インターバル 118分 プラン90分
 ⑨潜水開始 13時40分  時
 潜水時間 34分 予定30 分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深 23,3m 予定22、5   m
 ⑪潜水終了 13 時
 ⑫
 ⑬チーム 須賀 山本徹 佐藤允昭 早崎 小俣 東大探検部 田村陸 實藤未来 白
 ⑭バディ A 須賀 佐藤允昭 山本徹 B 早崎 小俣 C東大3人
 ⑮残圧予定  50 潜水のインターバルに昼食、荒川さんのカレーは、下手なレストランよりもおいしい。
 食事した分だけインターバルが延びた。 ボートの上で、ドリームの僕のコースを説明した。
 こちらの方は、AKASO braveも、Olympus TG4も問題なく撮影できている。
 どちらかと言えば、FPがメインの気持ちなのに。
 学生に、こちらは巻き尺はいらない、と言おうかとして、言わなかったが、持って入っていない。良い判断をしている。相変わらずまとまりはよくて、カメラを向けると、常に広角170度の範囲に3人が入っている。
 そうだな、バディの間隔として、超広角の撮影範囲に常に入る距離、という表現も使える。
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               狭い魚礁の中でも3人顔を寄せてなにか話し合っている。
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 これまで、日本水中科学協会のシンポジウムでは、学生のダイビングで監督 コーチの講演、発表をお願いしてきて、学習院、芝浦工大、中央、法政と続けてきたのだが、東大は学生に。彼らのシステムについて発表してもらおうかと考えている。自分たちのシステム、フォーメーションについて、かなり、自信を持っていて、確信的に動いているようにみえる。これは、僕が昔、指導していた頃の宿題でもあり、それが完成に近づいているとすれば、それをさらに向上させる意味で、僕らのシンポジウムでの発表、そしてディスカッションは、意義があるだろう。それにつけても、1回目の潜水で彼等を撮った映像のミスが大きい。 手慣れた場所なので魚についてだけ。
 まず、ドリームには、イサキの群がきていない。たまたまだと思うが、イサキが入り込むの二は、ドリームは密にすぎるのかもしれない。
 オオモンハタ、メバルは、予想していたよりも少ない。
 前回5月と同様に大型のカサゴが目に付く。
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               オオモンハタ
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                カサゴ
 
 僕のエキジット、今度はフィンを外してもらっただけで、タンクは背負ったまま梯子を上った。 戻り道、マンボウランドに寄って、ジンベイを見た。僕はタンクをぬいてしまっていたし、それにまたエキジットに手数をかけるのがいやなので、スキンダイビングでの水面から見るだけにした。
 ところが、そのとき、ペンタックスのメモカメラを手にしてバックエントリーで飛びこんんだら、その衝撃でだろうか、カメラが映像を映し出さなくなった。GPSも付いていて、タフが売りもののカメラなのに、寿命だったにしても、脆弱だ。
 その一代前の、同じペンタックスのW90も持っていて、使っていないので、こんどはこれ、W90が壊れるまで使うことにした。このw90の方がデザインとして良いし、大きさも一回り小さいので、後ろポケットに入りやすい。これで良い。 全体の反省をしてみると、僕、須賀と佐藤允昭さんのバディは間違いだった。これまで、バディになっていたのでその流だが、それも含めて、二人とも別の目標を持っている。
 今回、ここでは、小俣さんに佐藤さんのバディを頼むべきだった。
 小俣、早崎のバディ、は上手なテクニカルダイバーどうしの組み合わせで、これもここでは、無い話、うまく機能しない。
 ダイビング中、早崎さんとすれ違うことが多かったから、僕とのバディでも良いし、東大の3人に付いてもらってもよかった。そうすれば、僕の空気が少ないので、先に上がるときに、心を残さないで済んだ。
 人工魚礁という、安全なフィールドで、しかも荒川さんのサポートを受けているので、それだけで十分と、思考が停止していた。
 
 海洋調査探検部については、次回、もう少しコースと彼等のライン調査の方法を議論して、僕の魚類調査と重ね合わせ、僕の被写体が魚類+探検部になるような方法を考えよう。彼等も50周年での記念集会にここでのダイビングを発表する、そのときに、映像があれば、発表の材料になる。 機材はぼろぼろになったが、そのことも含めて、考えることの多い、充実したダイビングだった。
 このブログももう少し推敲したいけれど、その時間がない。

0827 お台場潜水調査 第173回、東京港水中生物研究会

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 8月25日 お台場は、周年ドライスーツにしようと決めていた。サンファンのハイブリッドジャージのドライは,ウエット並みに泳ぎやすいし、陸上でも動きは苦にならない。 しかし、さすがに暑い日が続いていてウエットが着たかった。先日の波左間に続いて、ウエットにした。

 ウエイトも6キロですむので、自力で立ち上がり、歩いて上がれる。

海洋観測 尾島
調査年月日:2019年8月25日 水深 水温 PH DO 塩分 0m 28.23 8.21 6.98 15.4 0.5m 27.67 8.24 7.51 15.7 1m 27.48 8.19 5.33 16.2 1.5m 27.05 8.07 4.50 19.1 2m 26.87 7.97 2.19 21.0 2.5m 26.41 7.94 1.26 23.3 3m 26.26 7.96 1.04 24.2 3.5m 26.14 8.00 1.24 25.1 4m 26.10 8.00 1.24 25.3 4.2m 26.22 7.99 1.20 25.2 海底 4.3m 測定地点 St.5

ログ 2019  0825  ①目的:タイトル 東京港水中生物研究会  ③場所 お台場 ④スポット  ⑤天候  快晴 ⑥風   ⑦水温  28.23℃ ⑧透視度 0。3から0。5m   ⑨潜水開始 0940 潜水時間 70分   ⑩最大水深   2m ⑪潜水終了 1050 ⑬チーム 参加者 多留 尾島 ママ 奥村奈央 三ツ橋、杉本 山田 臼島 ⑮残圧 100 ⑯適要  SJ4000 AKASO brave      Olympus TG4  前回失敗した、設置カメラを成功させたい。濁りで回収できなくなると困るので、30mの巻き尺をマークラインとする事にした。カメラを置いた場所から、30mのラインをのばして置けば大丈夫。  水は今話題の匂いは全く感じなかったが、濁っていた。濁っているとは言っても、部分的に、少しは見えるところもあるし、20cm程度まで寄れば、170度広角だから、それなりにシャープに撮影できる。 しかし、今日は本当に見えなかった。赤潮ではないので、暗く、黒くなることはなかったのだが、マスクが曇っているように見えない。マスクは曇り止めをしっかり塗ったのだが、それでも曇っているようなので、マスククリアーをした。このごろ、歳をとり、マスククリアーがうまくできなくなっている。鼻の下の水が残るのだ。クリアーしても、マスクが曇っているように見えない。片手にカメラを持ち、片手に、設置カメラと巻き尺を持ち、マスクが曇っているので、半ばパニックになった。パニックといっても、背の立つような深さだから、一回顔を出して、岸に戻ろうかというパニックだ。なんとか押さえて、設置して、巻き尺も10mほどのばした。マガキの生きているものの、口を細いドライバーでこじ開けてカメラの前に置く。昔、2003年頃までは、餌を置くと、すぐにケフサイソガニが現れるのだったが、今はそんなことはない。ケフサイソガニは、居なくなっているのだろうか。 
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 マハゼが居ないだろうか、注意深くカメラを左右に振りながら、ゆっくり泳いでいく。 突然、カメラの視界に飛び込んでくるようにイシガニの小型、が現れた。これだけしか見られない可能性もあるので、念入りに撮影する。
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 終点の杭列にくる。マハゼを探すのだが、見つからない。カニもいない。つまり何も居ないのだ。濁っていると、目の前に現れなければ、居ないのだ。 1尾だけ、顔を見せて、すぐに反転して石の下に隠れた。スチルを撮る余裕もなかったので、回し続けの動画だけだ。かなり大型なので、マハゼではなくて、秋に出てくるウロハゼかと思った。あとで、見ると、マハゼでこの季節、8月とすると、かなり大型である。
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 頭の中にあるイメージは、10cm程度のマハゼが群れて、水深50cmの浅瀬の石の上にいる。 それを求めて泳いでいる。半分ほど戻りかけた、位置で、マハゼがイメージの通りに、3尾ー4尾、カメラを向けるとすぐに浅瀬に逃げる。これも撮った絵を後で見ると、濁りぼけだ。それは、濁っているのだから仕方がない。写真展をやるような、コンテストに出すような写真を撮っているわけではない。記録なのだから。
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 設置カメラのあたりにくると、巻き尺のテープが見つかり、すぐ、2ー3mの位置で見つかった。カメラはバッテリーアウトに近くなっている。改めてシャッターを押すと回る。ほとんど全部回って撮影が出来ている。まずは成功だった。30mの巻き尺は使いやすかった。  ウエットスーツでは、お弁当を買いに行けないので、午前中に買って置いた。それを食べて、少しのんびりして、タンクの残圧をみると70残っている。ゼロまで吸うとして、遠くにはでていけない。砂地周りと近くの岩を探そう。じつは、この近くが一番生き物が多いのだ。  ログ  date 2019  0825 
    的:タイトル 東京港水中生物研究会  2回目の潜水
 ③場所 お台場 ④スポット  ⑤天候  快晴 ⑥風   ⑦水温  28.23℃ ⑧透視度 0。3から0。5m   ⑨潜水開始 1310 潜水時間 20   ⑩最大水深   2m ⑪潜水終了 1330 ⑬チーム 参加者 多留 尾島 ママ 奥村奈央 三ツ橋、杉本 山田 臼島 ⑮残圧 0 ⑯適要  SJ4000 AKASO brave      Olympus TG4  用意をして、尾島さんにヘルプを頼む。尾島さんは、さっき、水深2mのあたり、岸から遠くない砂地でツバクロエイを見たという。ツバクヲエイは、何回か撮っているが、ねらうことにする。 尾島さんの指さす方向に向けて潜降してまっすぐ泳いでいくが、ツバクロエイは見つからない。左右に振る。 イシガニが砂の中から飛び出してきた。かなり大きく、はさみを振り上げて威嚇してきた。正面から撮ろうと前に回り込もうとすると、遊泳肢を使って飛び立つようにして逃げていってしまった。 イシガニの反応は、ハサミを振り上げたりして、ちょっとつきあってくれてから、横走りで逃げる。飛んで逃げればそれで終わりだが、横走りだと、様子を見ている逃げ方だ。そして、身体を前後に動かして、砂地に潜り込もうとする。潜り込んだあとで、眼だけだしているから、こちらは、君がそこにいるのはわかっているのだよ、と指さしてやると、ぱっと飛び立って逃げる。遊泳肢で逃げられては、もう追う術もない。それでおわりだ。今のように最初からぱっと逃げてしまうのもいる。 砂地で、ちょっとホンビノスが身体を出していたので、一応掘って、砂の上に出した。どうしよう、持って帰って、味噌汁にでもするか。面倒なので、そのままにした。
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 また、イシガニが居た。今のお台場、カニワールドはイシガニオンリーだ。イシガニの世だ。 今度のは少し大きい。横に歩いて石の下に入ってしまった。Olympus TG4の上に載せた、SJ4000では、撮れない。後から気がつく、すぐにはずせるようにワンタッチに取り付けてあるのだから、外して、岩の下に置けば良いのに、そのことをとっさに思いつかない。あとから、ダメだなと反省する。 残圧がゼロに近くなったので、砂地を這い上がって、身体をだす。フィンを自分で外すことができ、自力で立ち上がることも出来た。  ツバクロエイを見つけることが出来なかったと尾島さんに言うと、悪いと思ったのか、小さいタンクですれ違うように、見に行った。出てきて、ツバクロは居なかったけど、大きいアカエイが居たという。僕はよほど魚に嫌われているのか。まあ、これほど濁った水中で魚やカニに出会うのは運、縁だろう。見つけるのが下手とは思っていないのだが。 だから、チームで調査するときは、結果をまとめる場合もあるが、たくさんの人で見れば、それだけ数も多くなる。種類と数の変動を見るならば、一人の人、たとえば自分だけで、記録を積み上げていく、というのも、スタイルとしてはある。かなり無精なスタイルだが、僕の場合は、常に、自分だけのデータとしている。居ない、少ない、見られないというのもデータなのだ。そこに、尾島さんの見たもの、見た数をくわえてしまうとデータにならなくなる。 お台場も初期のころは、データの聞き取りをやっていた。 たまにはやらなければいけないかな、と思うこともある。  もどってから、設置カメラの映像を見た。 カニは、あてにしていたケフサイソガニは全く現れなかった。いなくなったと結論づけても良いかもしれない。現れて、餌の全面を覆ったのは小さいヤドカリだった。
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 メバルの稚魚ではないかという泳ぎ方をした小さい魚がいた。近寄りたいのだけれど、近寄れない。そんな泳ぎ方をしていた。(左上方の黒い小さい魚、シマイサキかもしれない。)8cmクラスのマハゼも現れたが横を通過するだけ、餌には関心を示さなかった。マハゼは食性がちがうのだ。チチブとかアカオビシマハゼも現れるはずだったが、現れなかった。これは、たくさんいることがわかっているから、たまたま、場所のせいかもしれない。それとも、ヤドカリがくると、魚は忌避してしまうのかもしれない。  この手法は、思いだしたようにしか、やらなかったが、繰り返し、毎回行うことで、結果がでそうだ。
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            ケフサイソガニとチチブハゼが群がった頃2002年頃
 それに、次回からは、お台場ではOlympus TG4をあきらめて、棒の先にウエアラブルカメラとイノンライトを束ねて着けるシステムにしよう。これまで、何度も、そうしようと思ったし、長い測量棒を使って、杖代わりにしたこともあったのだが。やはり、少しでも質の高い写真を撮りたいという未練があって、Olympus TG4は捨てきれなかった。
 透視度がよくて、生き物も多い日の、二回目の潜水で、スチルをねらうときには、使おう。やはり、未練だろうか。

0828 ダイビングの歴史 84 ダイビング・ワールド 75-05

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  ダイビングの歴史 84 ダイビング・ワールド 1975
 1970年代と言うのは、スクーバダイビングにとっても、海洋開発にとっても、峠だった。自分自身もその中で生きていた。
 沖縄海洋博があった75年は、その峠の一番高い部分といえる。  「海の世界」で80年までなんとか、行くつもりだったが、75年、5月に「ダイビング・ワールドが創刊する。ダイビングワールドは1976年に僕が連載を書いていたりして、そして、75年、76年のダイビングワールドは、とても良かったので、ここからしばらく、ダイビングワールドに乗り換える。  海の世界から、ダイビング・ワールドに移るにあたって、こんな風に雑誌をそのままコピー、貼り付けているというの、「あり」だろうか?、著作権法というのもある。著作権者に訴えられれば?。しかし、このまま、紙屑ですててしまうのも、もったいない。自分も、ダイビングの歴史を書くために、読み直しができ、資料として、使うためにも、ブログでアップしておくと便利、そしてこれは、自分だけの資料でなく、ダイバーみんなの資料になる。海洋博のことも、シートピアのことも、ダイビングの歴史として、今のダイバーに知っていてもらいたいし、昔の記憶がある人は、懐かしがってくれる。でも、無断借用(自分の書いたものは別として)であることはまちがいない。  思い切って、このスタイルはやめた。
 とすると、どうしても、きりの良いところまで、やっておきたい気持ちになる。それに、自分の書いている部分は、どうしても、この形で残しておきたい。 ところで、著作権侵害をだれが訴えるのだろうか。
 自分の祖父が書いたものを、無断、引用していると、孫が訴えたり、また、若い日に、競技で活躍したことを、無断で拡散したことが、不愉快とか、若い頃の写真は不愉快とか、あるいは、出版した出版社。訴えられたら、その分は削除して、おめにかかって、昔話でもして、それも、ブログにしよう。
 その上で、訴訟になり、罰金刑が来たら、罰金支払いの、クラウドファウンディングでもするか、と、開きなおった。
ダイビングの歴史、この部分、点けたり消したりしていたのは、この迷いのため。もう開き直ったので、ここ、しばらくの分は続ける。
 いずれにせよ、もう、先は、長くない。 このブログが天の一角にあり続ければ、残るように、後に残る人にお願いしておくけれど、今から、50年後、100年後に歴史を書く人の役にたつことだろう。
 本当は、ダイビング歴史協会とか作って、資料を整理して、せっせとクラウド化すると良いのだけれど。
 
 残念なことに、ダイビング・ワールド、75年は、5月創刊と、11月しかない。隔月だったから、7月と9月がないわけだが、とにかく
5月創刊号  ※なお、この写真引用は、PCでも携帯端末でも拡大して読める。 また、これは、前にも一回出して、削除している。削除した理由は、前記のような理由で逡巡したからである。
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 ダイビングワールドは、黒川治雄君、田中龍彦君、大竹憲一君らが作った。
 黒川君は潜水部の近しい後輩だし、田中龍彦は、親友、大竹憲一は、谷中のあたりに住んでいて、高校時代から、東亜潜水機の僕のところに遊びに来ていて、特別な思いがある。そして、「海の世界」で活躍していた。その一番若い大竹が亡くなってしまっていたことを、この前聞いた。  海底ハウスについては、何回か紹介しているし、この写真もそのときに使ったが、沼津内浦湾の海底ハウス、今は別の位置に廃棄されて、魚礁になっているが、このグラビアが、一番よくわかる。


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 まだ、大瀬崎が有名になる前のことだ。
 ダイバー以外の素人に海を、海底を見せる試みとしては、空前絶後だったけれど。その素人が、ダイビング事故、空気塞栓で亡くなってしまった。やはり、この方向は、海中居住展望塔しかないのだろう。
 この海底ハウス もしも、がたくさんある。
 もしも、事故が起こらないで、続いていたらどうなっただろう。
 海底ハウスに長く居たら、今だったら、長い半飽和時間の窒素をため込んで、減圧症になる人が出ただろう。ましてや、ここで潜って東京に戻るには、御殿場という高所を越えていく。この「今だったら」というところが肝要、昔だったから、減圧症にかからなかったのか? 
 このグラビアを撮影した大竹君は、この海底ハウスに2泊したとか。
 そして、当時のダイビング識者が何人もこのハウスを応援している。知らなかったのだ。窒素をため込むなんて。それにしても、昔の人(僕もだけど)は減圧症になりにくかった?そんなこと、ないですよね。
 でも、人形町の菓子屋の若旦那が、水深10mを越していないのに減圧症のような症状になった。どうしてだろうと質問された。わからなかったので、そのうちに治るでしょうと答えておいたら、治った。しかし、それを機会にダイビングは止めたはず。
 ところで、僕は、この海底ハウスに行ったことがない。そのうちに、と思っているうちに、無くなってしまった。田中さんとは、別に、仲は悪くなかった、というか、お目にかかった記憶がない。一度、電話で話した。田中さんは、ダイバーの人出しもやっていて、その一人が回り回って、スガ・マリン・メカニックの現場にきて、そのとき話した。「これを機会にぜひ来てください」というような話を交わした。でも、仕事ではないから不要不急、そのうちに、と思っていたら、事故になってしまった。
それにしても、この海底ハウス、1970年代のビッグな、海中のトピックスだった。後で、振り返ってみると、シートピアよりも、とは言えないまでも,同等の。
 廃棄処分で、海底に眠っている海底ハウス、今、大西君たちが話題として取り上げているけれど、海底遺跡として未来に残るのではないだろうか。


 
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 クローズサーキットとセミクローズの試用
 当時、ダイバーだったら、使ってみたくなる。
 使ってみたら、命が無かったかもしれない。
 たしか、ここに紹介されたどれかは、事故多発だったはず。 
 
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0828 ダイビングの歴史 85 1975 DW 11

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 書き方のスタイルを変えて、まず画像をはりつけて、それからコメントを書くようにした。
 この方が、活字の大きさ、スタイルが一定する。
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 ダイバーを使っての追い込み網漁は、沖縄、八重山が本籍で、伊豆では神津島の建切網だけかと思ったが、三宅島でも三本でやっていたのだ。奄美以南の追い込み網は、ウミンチューが泳いで追い込むが、伊豆七島では、軽便マスク式、旭式マスクを使ってする、マスク式の写真がおもしろくて採択したのだが、説明文では、フーカーになっている。レジャーダイバー的には、ホースが使われていれば、何でもフーカーなのだろうが、一応、正式名称を使った方が良いだろう。ダイビング専門誌なのだから、そして、残念なことに、網の張り方、追い込み方などが書かれていない。
 40年前の雑誌の批判をしても、なんともならないが。今、見るひとのために。
 旭式は、水産の方面で、沖縄ではモズクの養殖。伊豆半島ではテングサ漁にも使われている。製造中止になって困ったということで、一昨年だった沖縄の杉浦氏が、クラウドでお金を集めて、リメイクした。
 先に、フーカーとは違うといった意味は、フーカーはデマンドバルブを付けている。マスクを使わなくて、レギュレーター(ホース付き)をくわえて潜るのがフーカーだ。
 デマンドバルブを使わないで、マスクの中にフリーフロー状態で空気を送り込むのが、これらのマスク式だ。
 構造が簡単で、壊れない。壊れるところがないから。小さなコンプレッサーで空気を送れば、簡単に潜れる。アメリカでは三角のマスク、デスコが長い歴史を持っていて、よく使われている。日本でも需要があるだろうから、杉浦氏のビジネスは、ビンゴかと思ったら、それほどでは無くて、年間50台売れれば、良い規模だとか。
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 海洋博での展示について、工藤さんが書いている。工藤さん自身も、どれかのプロデュースに関わったはず。
 これは、大型映像展示のはじまりだろう。
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 僕たちがやったダイバーズフェスティバル、競技会の説明を、須賀が書いている、
 伊豆海洋公園近くで、ダイビングサービスをしている、森田君が未だ少年で、海洋フリッパーレースに出て、一位でゴールに戻ってきたのに、ゴールの場所を間違えて、一位でゴール出来なかった。一位はロレックスがもらえたのに。
 良い子、今では良い人だから、文句もいわなかったが、くやしかっただろうなあ。
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