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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0420 人工魚礁研究会  INDEX

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人工魚礁研究会  INDEX 継続について  アマチュア・ボランティアダイバーとして、水中の生物、事物について調査研究することの手法として大事なことは、継続だと考える。継続観察、撮影してその移り変わり、遷移を記録する。その記録から何かを見出して研究を進めるのは、研究者の分野で、その研究者に継続観察してきたアマチュア・ダイバーがなって、アマチュア研究者になっても良いし、プロの研究者に資料提供しても良いし、一緒に潜水して協力しても良い。 ここで重要なのは継続するということ、自分は長らく調査会社を経営して来たが、プロの調査会社で出来にくいことは、継続なのだ。フィールド調査の多くは公的な予算で行われるが、予算は一般的には3年単位、悪くすれば単年度、一年で終わる。継続する予算であっても、ほぼ毎年、入札によって業者が選定される。一つの調査会社が継続して、受けることは難しいのだ。 調査会社でなく、公的な研究機関、研究所が行う調査であっても、よほど重要なテーマであり、成果が見えないと継続は難しい。 よく、「継続は力なり」などと言われるが、継続は難しいのだ。継続のモチベーションを高めるために、継続の証、第何回というタイトルをつかう。お台場の潜水、東京港水中生物研究会の調査は、現在、次の4月末の調査で169回を迎える。僕らのやるような、ちいさな活動では、100回を越えれば、実績として誇ることができる。 人工魚礁研究会の方は、何回になっただろうか。
第1回
2014年3月3日
https://jsuga.exblog.jp/22183077/
https://jsuga.exblog.jp/22188414/第2回
2014年8月23日
https://jsuga.exblog.jp/23216513/第3回
2014年10月31日
人工魚礁調査
https://jsuga.exblog.jp/23665178/第4回
2014年12月26日
インターバル撮影
https://jsuga.exblog.jp/23927525/
https://jsuga.exblog.jp/23933795/
https://jsuga.exblog.jp/23945416/第5回
2015年 2月 16日
https://jsuga.exblog.jp/24141858/
https://jsuga.exblog.jp/24143698/
https://jsuga.exblog.jp/24148149/第6回
2015年3月
漁港漁村漁場研究所 研究会発表
https://jsuga.exblog.jp/25492558/
https://jsuga.exblog.jp/25496100/第7回
2015年 4月11日
https://jsuga.exblog.jp/25649436/
https://jsuga.exblog.jp/25653421/
 第8回
 吊り降ろし 11台のカメラを2台づつ5ヶ所に入れた。
https://jsuga.exblog.jp/24897445/第9回 2015年 9月14日
 33m 鉄骨4本柱型 潜水と吊り降ろし
https://jsuga.exblog.jp/24903943/第10回 2015年 11月16日
 宮内のROV 小俣さん
 ハウス型 スカスカの鉄骨
https://jsuga.exblog.jp/25093478/第11回 2016年 1月 15日
 ガーミンで捜索、13番の鉄骨魚礁
https://jsuga.exblog.jp/25269865/第12回 2016年 1月 21日
https://jsuga.exblog.jp/25288017/第13回 2016年 2月20日
https://jsuga.exblog.jp/25379259/https://jsuga.exblog.jp/25381216/
 つり下げしきインターバルカメラの撮影
 33mの鉄骨 1番の魚礁に6台のカメラを下ろす。第14回 2016年 4月11日
 ガーミンと、魚探で 塩見の魚礁を見に行く。
https://jsuga.exblog.jp/25649436/
https://jsuga.exblog.jp/25653421/第15回 2016年5月18日
45mの鉄鋼製魚礁にもぐる、
そして0。8ブロック
https://jsuga.exblog.jp/25810945/第16回 2016年 6月30日
鋼鉄45mにカメラを設置悟、近いFP②潜る
https://jsuga.exblog.jp/25971960/第17回 2016年8月4日
FPに潜る、イサキが群れていた。
https://jsuga.exblog.jp/26081745/8080テスト 2016年 9月
https://jsuga.exblog.jp/26163588/
インターバル撮影2017 6月4日 5月22日の メガマウスシャーク
https://jsuga.exblog.jp/26913359/
https://jsuga.exblog.jp/26916082/第18回 2017年6月30日
ドリームとアオリイカ産卵
https://jsuga.exblog.jp/26960239/第19回 2017年8月26日
イセエビ礁 なぜイセエビが入っていないのだろう。
https://jsuga.exblog.jp/27075557/第20回 2017年9月15日
坂田
FP礁
https://jsuga.exblog.jp/27117270/第21回 2018年 1月18日
ドリーム
https://jsuga.exblog.jp/28014801/2月26日 28日 潜れサカナくん ロケ
https://jsuga.exblog.jp/27117270/
https://jsuga.exblog.jp/28171170/
 
第22回 2018年 3月24日
0、8角 ミギマキの群
https://jsuga.exblog.jp/28209266/ 2018年4月2日
人工魚礁研究会について
https://jsuga.exblog.jp/28225681/ 4月7日 人工魚礁研究
https://jsuga.exblog.jp/28235489/第23回 2018年4月26日
 18年度予備調査 大型FP 
 ドリーム 360度カメラ
https://jsuga.exblog.jp/28272172/第24回 2018年 5月19日
 大型FP
 このあたりから、ログなど 現在のスタイルになる。
 調査のフォーマット(須賀としての)が決まった。
https://jsuga.exblog.jp/28320415/第25回 2018年 6月23日
 水産工学研究所の佐藤允昭君が加わる。
 国方君サイドスキャン 
 自分のカメラシステムも 決まる
 FP礁
台風で中止が続く
https://jsuga.exblog.jp/28408288/第26回 2018年10月18日
 FPとドリーム
 11月が中止
https://jsuga.exblog.jp/28740594/第27回 2018年 12月8日
 FPとドリーム
 須賀 山本徹 早崎 東大探検部 石原 東大探検部 田村 高野 小俣 ガイド荒川
https://jsuga.exblog.jp/28959004/第28回 2019年  1月16日
 波高く ドリームだけ。オオモンハタ
https://jsuga.exblog.jp/29200630/第29回 2019年  1月30日
 FP21とドリーム
https://jsuga.exblog.jp/29244983/2019年2月 シンポジウムでの発表
https://jsuga.exblog.jp/29257853/第30回 2019年 2月20日
 FPとドリーム クロホシフエダイ
 3月は中止
https://jsuga.exblog.jp/29270608/第31回 2019年4月15日
 FP21 とドリームに定着する。
https://jsuga.exblog.jp/29376979/



0222 ダイビング事故の歴史 index

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ダイビングの歴史を書いている。泥沼にはまり込んでいる感がある。書くためのノートをブログの形で残しているのだが、その整理がつかなくなっている。整理が付かなくなっている状態を書けば、さらに錯綜する恐れがあるのだが、ともかく整理する。

ダイビング事故の歴史について INDEX

2018年 02月 07日 0207 スクーバダイビング事故の歴史 1 1954 https://jsuga.exblog.jp/28083153/1954年の東京水産大学小湊実習場での、日本初のスクーバダイビングによる潜水事故、それがしかも、母校、僕の入学する前年におこっている。ここから、すべてが始まっているのだ。事故の前年1953年に、同じ小湊実習場で、日本にはじめ手、スクーバ ダイビングが紹介されたのだが、それがはじまり、ではない。この1954年の事故が日本のスクーバ ダイビングのはじまりなのだ。 2018年 02月 09日 0209 事故の歴史 2 人工魚礁調査 https://jsuga.exblog.jp/28089440/僕、須賀は1956年に、白井祥平先輩に教えられて、スクーバ ダイビングを始めるのだが、1958年、大学4年次に、これもおそらく日本におけるアクアラング潜水による人工魚礁調査の、始まりに事故を起こす。ダイビング事故の場合、死ななければ何事も無い、死ぬか生きるかなのだが、僕は生きたけれど、事故である。この事故が僕のダイビングの始まりななのだ。こうして書いてみると、すべて、事故が始まりになっている。だから、事故の歴史から日本のダイビングの歴史を見ていこうとしたのだ。 2018年 02月 13日 0213 スクーバダイビング事故の歴史 3 https://jsuga.exblog.jp/28121107/日本のレジャーダイビングは、クラブ形式ではじまった。これはダイビングクラブの事故である。当時のダイビング事故は、ダイビングが未だ始まったばかりということで、後に続く人たちが事故を起こさないように、事故の状況を克明に報告書に書いて残した。その点で、今のレジャーダイビングより良心的であり、進んでいた?ともいえる。これはその報告書の紹介、である。 2018年 02月 27日 0227 スクーバダイビング事故の歴史 4 https://jsuga.exblog.jp/28162595/学生のダイビングは、レジャーダイビングとは違って、これも、克明に記録を、報告書を残している。これは、学生のダイビング事故報告の最初のれいである。東京商船大学の事故であるが、残念なことに、商船大学の潜水部は、この事故の次の年、消滅してしまった。なぜ?と問いたいが、答えは発表されていない。 2018年 03月 14日 3014  スクーバ 事故の歴史5 講習の歴史 https://jsuga.exblog.jp/28190484/事故の歴史をそのまま書き続ければ良いのにここから、その当時の講習に進路をまげてしまう。従って、ここからは講習の歴史になる。事故の歴史は、この後、ブログにつつけるか、どうかはわからないが、事故の歴史、4の学生のダイビング事故の報告の、続きになる。 2018年 03月 17日 0317 スクーバ事故の歴史6 ドルフィン https://jsuga.exblog.jp/28195877/講習の歴史からさらに脱線して 日本潜水科学協会という、協会の歴史に入ってしまう。 2018年 03月 22日 0322 スクーバ事故の歴史 7 水中科学協会の消滅 https://jsuga.exblog.jp/28204876/ 2018年 03月 28日 0327 ダイビング事故の歴史 8 日本潜水会 https://jsuga.exblog.jp/28216038/ 2018年 04月 03日 0402 ダイビング事故の歴史 9 海中開発技術協会 https://jsuga.exblog.jp/28227931/ 2018年 04月 20日 0420 スクーバ事故の歴史 10 https://jsuga.exblog.jp/28258601/ 2018年 04月 25日 0423 ダイビング事故の歴史 11 https://jsuga.exblog.jp/28267965/ 2018年 05月 22日 0522 ダイビング事故の歴史 12 https://jsuga.exblog.jp/28326249/ 2018年 06月 02日 0602 ダイビング事故の歴史13 日本国籍潜水指導団体の推移(1)  https://jsuga.exblog.jp/28345099/潜水科学協会から、海中開発技術協会の推移になり、日本国籍潜水指導団体の歴史、推移になってしまった。ここからは、事故の歴史では無くて、日本国籍指導団体の推移 に移行する。


2018年 12月 13日 1213 ダイビングの歴史47 https://jsuga.exblog.jp/28969608/ここでもう一度、1954年の事故にもどる。自分が最初に述べた、1954年の事故についてが、まるで事実と違うことがわかったので、書き直している。本格的に書く事故の歴史は、 2018年 02月 07日 0207 スクーバダイビング事故の歴史 1 1954 https://jsuga.exblog.jp/28083153/から、ここにジャンプする。 1214 ダイビングの歴史 48 1954年の事故2https://jsuga.exblog.jp/28972614/本当の事故の詳細 1220 ダイビングの歴史 50 1954年の事故https://jsuga.exblog.jp/29029314/1954年の講習中学生事故について、その後処理について、記念碑がどこかに消えているというのが間違いで、現在の東京海洋大学に残されている。残されているが、展示はされていないので誰もみることはない。

0423 ダイビングの歴史 66 海の世界

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ダイビングの歴史 66 INDEXで道草をくってしまった。重要なことではあるのだが。  はやく、1980年までたどり着きたい。 マリンダイビングの1980年号について前にも書いたのだが、気に入らなくて消してしまった。消すほどのことはなかったのだが、仕切り直して、その地点に行きたい。 それと、ダイビング・ワールドも始めなくては。 INDEXをやってみて、さっきINDEXは道草だと書いたが、それよりも、この雑誌を見ていくというのが 道草に思えてならない。しかし、雑誌のノートをとって行くと言うことで、細部が見えてくる。 自分の目、自分の主観だけで、遠くすぎてしまったことを書くのは、いくらなんでも気がひける。 裏をとるつもりで、雑誌を読んでいるのだが。  海の世界 11月 シートピア計画60mの実海域での実験である。これについての商法は次号 12月という予告もされている。 それと、ブロニカマリンの広告も出しているので。 
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 水中オリエンテーリングのすすめ これは結局UWN アンダーウォーターナビゲーションに落ち着くのだが、今2019年、大西君がやっている ロゲイニングの原型といえないこともない。その大西君とは時代がずれていて、この競技に彼は参加、出場したことはない。
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 新型潜水器 電子制御のリブリーザだ。このリブリーザは、あんまり具合が良くなく、故障が多く、実用として普及はしなかった。
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 海の世界12月号
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 予告のあったシートピア 60mの詳報と写真が載っている。
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 シートピア計画と日本の海洋開発。シートピア計画を実施した 主力の方たちの座談会である。 今振り返ってみれば、海に潜るテクノロジーを追求した人体実験とも言える。しかし、ダイビングとは、所詮そのようなものなのかもしれない。
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 水中オリエンテーリングの2 大橋さんの意見、所詮ダイビングは遊びなんだから、そんなに一生懸命勝つために練習したってしょうがない。 勝つための練習ではない。上達するため、この競技のようなスタイルのれん週をすることで、ダイビングがより安全になり、より役立つものになるというのが僕のコンセプトだったのだが。 とにかく、僕はこれに熱中していた。
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 おもしろいのはコラム記事 「レジャーダイバーと減圧症」
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 連休の日そのころの減圧症の治療施設 広尾病院に 次から次へと大型ダイビングクラブの会員が減圧症患者として三人かつぎ込まれてきた。治療しないわけには行かないから治療する。しかし、これらの減圧症治療施設はレジャーダイビングの為のものではない、漁業者、あるいは作業ダイバー、潜水士のためのものだ。遊びのダイバーは減圧症にかからな違反委で遊ぶべきだという論だ。 さあ、どう答える、今のレジャーダイバー? 日本国民だから、レジャーで減圧症にかかり治療を受ける権利がある。のだろうか。

0425 ダイビングの歴史67 海の世界

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海の世界 1974年 1月
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海峡という海峡は泳ぎ渡ろうとしてきた中島正一君が今度は潜水で、潜水したまま、熱海ー初島感を潜り渡ろうとした。
中島君は、最後は僕もすこしばかり関わった、プロジェクト、タンデムのウインドサーフィンで、グアムまではしっていこう。そのテストで沖縄慶良間近くで命をおとしてしまう。海の植村直己とでも言おうか。
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海底2万哩は、100年前に書かれた潜水小説だが、それが映画化されたときの記事である。よくまとまっているが全文紹介するほどのことでは無い。ディズニーの映画で、浦安のディズニーシーには、展示がある。
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 ノーチラス号の図解、おもしろいけど、いくら何でもこれでは小さすぎる。原作にトン数は書いてなかったと思うが、5000トンは必要だろう。
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世界一周のコースと、映画の潜水器。ホースがない。スクーバなのだ。ここの潜水器の潜水服だったか、僕が入社する前年、東亜潜水器ダ作った。残念だけど、僕は見ていない。
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 マイヨールの話だから、全文紹介しよう。
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 スポーツダイバーが潜水指導中に亡くなった場合、インストラクターの責任はどうあるべきかを考えた。
刑事責任は負わなくて良いというか、刑事責任を追及された例はなかった。
 今ならば、直ちに民事訴訟だが、1974年は、まだ民事訴訟で訴えられない、牧歌的な時代だ。
 訴えられなかったから、賠償責任保険も無かった。
 ならば、どういう責任をとれば良いのか、人の命に責任を負いようがない。ここととは今も同じ。賠償責任、訴えられなければ、どうすれば良いのか、腹切り切腹か。あるいは、インストラクターはパーフェクトな過ちを犯さない人で無ければ行けないのか。その頃、僕たちがどんなことを考えていたのだろうか。どうすることも出来ないのだけれど。
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中島正一君の熱海ー初島間潜水の詳報
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0426 ダイビングの歴史67海の世界2974

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 テレビシリーズを撮影していたクストーらのグループのスクーバ装備、ちょっとわかりにくいが、胸の位置にレギュレーターのダイヤフラムがある。これによって、位置の差、水暑差によろ呼吸抵抗をゼロにして、純粋にレギュレーターの呼吸抵抗のみで呼吸が出来る。実は僕もその発想で試作をしていたが、クストーに先をこされてしまった。しかし、この装備では、BCもオクトパスも無い。

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 1974年、オイルショック、石油危機で銀座のネオンが全部消えた。原発事故で、電力事情が問題になったとき、ネオンは消えなかった。このときは、日本の国は、本気で節約モードにはいった、
 ダイビングのと羽前、節約の対象になる。生産的で無い遊びのダイビングなどやる余裕は無い。どうしたら良い?


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車もいらない。エアーチャージも必要ない。もう一度素潜りの原点に戻ろう。



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今の時代ではとても考えられないが、事故の責任と、プロとアマチュアの問題、商売になってしまって利益優先のために安全がおろそかになるという問題提起をしている。世の中節約時代であったことも、この考えの背景にはある。

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本気で、コマーシャリズムが良くないと考えている。それが、日本国指導団体組織の敗北、の要因ではあったのだが、間違っては居ない。要はバランス感覚なのだが、僕も、業界も若かった。


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正田薫 さんのインタビューシリーズ、今は亡い、宇野沢徳太郎の話だ。彼もまだわずか34歳、金塊サルベージの夢を追っている。

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正田薫さんの写真が出てきたので、少しばかり、彼女のことを。潜水士がまだ女人禁制の時代、薫という名前が男も女も居る名前であることで、受験して受かってしまい、女性第一号?の潜水士になったという伝説がある。そんなことあるか?
美人で、事業家でもあり、なぜか知らないが、バックグラウンドに有力者が居る。その頃’1974年だったか75年だったか、会う約束をしてすっぽかされた。
そして、CMASの世界大会が名古屋港で、富士丸を借り切って行われた時に 事務室が隣り合わせになり、親しくなった。この大会の名誉総裁に、三笠宮殿下を連れてきたのが彼女だ。なにか妃殿下と親しいとかで、しかし、連れてきてみて、ダイビング業界にとんでもない人がいるので、「須賀さんどうしよう」と相談されたが、野人であることは僕も同様で、どうすることも出来ない。
 最後にあったのは、マリンダイビングフェアで、大岩先生と一緒におられて、懐かしく話が弾んだが、その後どうされているだろう。


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ダイビングの世界には、アマチュアクラブもあれば、業者もいる。スポーツと考えているグループもあれば、未だに魚突きを追求している商売人も居る。統一など出来るわけでもないのに、今も昔も、指導組織の統一、を唱える人がいる。自分も、振り返ってみれば、ずいぶん見当外れなことを言っていたと思うが、それはそのときの時代背景があるから、一つの歴史として、おもしろいとはおもう。



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0427 ダイビングの歴史69 海の世界1974

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海の世界 74年 4月
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 水中オリエンテーリングは、UWN競技になり、コースセッターの講習会を沖縄で行った。

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 田中和栄さん
 潜水軌道カプセルを使って、水に濡れないでハウスに行き着く
とすると、水中展望塔とどのような違いがあるのだろうか?圧力を周囲の水圧と等しくして置けば、ハッチを開けて水中に泳ぎ出て行くことが出来る。ならば、水中展望塔にそのような圧力室を作れば良い。
 違いは圧力下で長時間過ごす海底居住のシュミレーションができる。
 もし実現していたとすれば、現在の考え方で言うと、ハウスは2気圧に加圧しているから、残留窒素を貯めまくることになる。そして、東京への帰路は、御殿場を越えることになる。減圧症患者でまくりか、それとも、現在の減圧症についての考え方が間違っていることが証明されるのか。


 これは2019年現在の考えだから、世は海底居住時代の70年代だ。夢があったのだ。田中さんの不慮の交通事故は本当にお気の毒だし、生きておいでなら、とも思うが、このアイデアは実現しない方が良かった。
 
 先日だが、人工魚礁化した海底ハウスについての偲ぶ会?が行われたと聞く、僕はこの人工魚礁に不幸にして行っていないので参加しなかった。
そこでは、このような議論がたたかわされただろうか。


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 シートピア計画は深海まで続く 村井徹 村井さんは、水中処分隊の隊長から、JAMSTECに横移動した。 海底に居住してしまう方式と、船上にDDCを置き、PTC(エレベーター)で降りていく方式の比較をしている。結局はPTCで降りていく方法になるのだが、この時点では海中居住は否定していない。海の中野研究をじっくりとするには居住してしまった方が良いという無理な理屈を展開しているが、これはやりかけたことだから、最後まで行くしかないというごり押しで、村井さんも、現場の人なのだから、この時点ではもう居住は意味ないとしっていただろう。でも行くしかない。実験は途中、途上なのだから。


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 海中居住観光艇で竜宮巡り 猿渡肇
 海の世界にも毎度生徒募集の広告を出しているJOC深海潜水技術学校の猿渡さんのこと、そしてその技術学校の詳細については、関心があった。ここに、一応の沿革が書かれている。昭和45年 1970年 11月、500トン積みのオイルタンカーを改造したバージを月島の隅田川に係留して、実習を初めて、3年後の7期生まで、137名の卒業生を送り出した。そして、九州の上甑島に移転する。
 そこで、社団法人の海洋開発技術研究所を引き受ける。この法人こそが、1970年に作られた水中技術振興協会の後身である。そこで、動く海中居住展望塔としての観光用潜水船のアイデア実現を目指す。
 これは、田中和栄さんのプロジェクトと重なる部分がある。
 僕、須賀の意見としては、猿渡さんは、海中観光などと身のないことをするよりも、学校に全力投球するべきだっただろう。今2019年、海中観光船もなければ、甑島にいっても深海技術学校もない。そして、この学校の卒業生で、成功されている方を何人か知っている。
 甑島に泊めた銀河丸、全寮制 スパルタ教育、ミクロネシア海洋実習 


 猿渡さんとは、ついに親しくお話しするチャンスもなかった。今、どうしておられるだろう。


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 正田薫魅力訪問 
 僕の師匠 間接的だが、恩師の一人である(つまり、何かとアドバイスをいただいた)猪野隆先生の話だ。


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 いま、海中公園センターもなく、海中公園もない、アマチュアダイバーを味方にというコンセプトは、日本水中科学協会が受け継いで、人工魚礁研究会などをやっているが、国家規模の動きにはほど遠い。コンセプトは、ほとんど同じなのに。
 なお、猪野先生は世を去って久しい。


 1970年代、日本人(僕たち)が海に描いた夢のほとんどは、夢と消えている。「夢とは消えるもの」?

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 潜水にスピードとパワーは必要か
 今の自分は、スピードは海豚倶楽部のみなさんに追い抜かれ、パワーは12リットルシングルを背負ってのエキジットも難しい。
 だから、つらい思いをしている。潜水を楽に、つらくなく行い、安全に生きて戻ってくる為には、スピードとパワーは必要であり、もちろん、救助、レスキューにはスピードとパワーは不可欠であり、スピードとパワーのない高齢者は、それなりの潜水しかできない。
 が、しかし、今でもスピードとパワーを求めてのトレーニング、を浦安海豚倶楽部で、そして辰巳の練習会で行っていて、生きる元気をそこからくみ出してはいる。


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 ここで展開されている議論は、今読んでもおもしろい。

0506 4月28日お台場調査

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  4月27日に始まった10日間のゴールデン連休は、今日、5月6日に終了する。

 4月28日には、お台場の撮影調査、1日令和初の辰巳国際水泳場でのスキンダイビング練習会、4日、5日の恒例のダイビングツアー、忙しいと言うべきか、充実していて、
5月3日にはお台場調査のブログを書き上げたが、ネットに載せる時間が無かった。3時間、半日かかるのだ。
今、4日、5日のツアーのことを書いているので、まず28日のお台場を載せないと、順不同になってしまう。次に4日5日のツアーを載せる。


☆お台場調査継続について
お台場で潜水調査するためには、東京都港湾局海上公園係、海上保安部航行安全課に許可の申請を行い、港湾局の管理課に行事届けを出さなければならない。港湾局へは、申請と許可書の受け取りで2回、保安部の方は、申請と修正、そして受け取りと3回は足を運ぶ。そして、その前に海上公園の事実上の管理をしている埠頭株式会社、元埠頭公社にスケジュール調整の連絡、お願いをする。これを毎月やるのは、無理なので、六ヶ月に一度やる。
 めんどうで、たいへんと思っていたが、今回はこれに助けられた。そして、考えてみれば、これは、ダイビングに必要なことなのだ。
 
 来年2020年、東京オリンピックがあり、その中のトライアスロン競技の水泳部分がお台場で行われる。なにも、お台場でやらなくても、誘致に懸命だった横浜でやっても良いし、どうしても東京にこだわるならば、伊豆大島でやっても、東京である。
 とはいうものの、僕らが1994年に、東京ベイクリーンアップ大作戦をお台場の海で始めたときのキャッチフレーズは「東京港お台場を子供たちが泳げる海に、」であったのだから、そこでオリンピックのトライアスロンがおこなわれること、喜ばなくてはいけない。
 ところで、お台場でトライアスロンをやるためには、大腸菌数の問題とかいろいろたいへんな条件があり、このことについては、このブログで何回も書いているので、ここでは省略するが、オリンピックをやるについては、2020年はともかく、その一年前の2019年も、お台場では、オリンピック関係の行事以外は、すべて禁止になるという噂がながれた。
 
 ぼくらが20年間も潜って、お台場の海の調査をしているからこそ、、大腸菌数は別として、海底のヘドロから発生する硫化水素が泳ぐ人体には別状ないことが証明されているようなものだし、「お台場を泳げる海に」というキャッチフレーズもオリンピックに沿うものだ。
 それに東京都の環境局、港湾局、オリパラ委員会にお台場の調査結果報告書などを差し上げて資料にしてもらっているのに、禁止など納得ができない。別に噂だけなのだろう、とまず、埠頭株式会社にスケジュールの調整をおねがいした。やはり、今年は難しいようだという。そこで、これまで資料を送ったところなど何カ所かに、僕らの調査がオリンピックを行う上に置いても、またその事後についても役に立つ調査であることをアッピールした。その上で、申請を行うところ各所にこちらの案、スケジュールを提出して、お願いをした。どこも、趣旨は十分に理解してくれて、なんとかやれる方向で考えてはくれるのだが、スケジュール、特に7月と8月の泳ぐシーズンで、日曜日については、決める権限がないので、困る状況だった。
 最後に海保の申請カウンターで、日程の決定について決められずにこまっていると言うと、係りのyさんが奥の係長?らしい方に聞いてくれて、電話をかけてくれて、ここに相談して決めなさいと教えてくれた、オリパラ組織委員会の会場整備の担当の方に電話した。もしかしたら、東京都のオリパラ委員会との連携があったのか、僕らの趣意は理解していただけて、場所と時間(スケジュール)の調整で、僕らの調査場所が、お台場の隅のコーナーであり、トライアスロンが泳ぐ中心部からは離れていること、などを理解していただけて、ようやく、決定することができた。


 ☆監視用ゴムボートについて
 今回から、監視用のゴムボートが新しくなった。お台場は、東京港の港湾区域にあるから潜水する為には、監視船を浮かべなければできない。
監視船といっても、僕たちのダイビング区域は水深、1m前後の磯場である。スクリューの付いているような船、ボートは、入ってこられない。ゴムボート以外に安全のための監視船は考えられない。説明して、ゴムボートで良いことにさせてもらっている。
 1990年代、初代の監視船は、ニュージーランドで買ってきた、ゴムボート風のカヌーで、これは気に入っていたし、漕いで遊ぶにもよかったのだが、特別なゴムを使っているとかで、補修が難しかった。そして、2006年に「海と渚美化推進機構」という水産庁の外郭法人の助成をいただいたときに、アキレスのゴムボートを買った。2006年から2018年だから、12年、さすがに寿命がきた。穴はゴムを貼り付けて補修したが、全体の縫い目、継ぎ目から細かい気泡になって漏れ出るのは、もはや修理不能になった。1時間以上浮いて居られない状態。これでは監視船のための救助ボートが必要である。新しいボートを買わねば。
 何でもとにっく、アマゾンだ。見ると、中国製で2万円前後のものがある。お台場で浮かしているだけなのだから、これでも何とかなるだろう。
しかし、やはり、しっかり長持ちするボートがほしい。アキレスが良い。
 アキレスの一番小さいゴムボートは7万2千円する。
 僕たちの潜水調査は、本当に純然たるボランティアというか、個人の行動であり、会費1000円プラスタンク空気代をそれぞれが負担している。主催する日本水中科学協会は累積赤字300万、最近、助成金もいただいていない。
 むかし、調査会社をやっていた頃ならばゴムボートは調査機材だったけれど、引退して久しい。
 スポンサーを探さなければ、探すといっても、とりあえずは親しくさせていただいている企業、それもダイビング業界以外、心当たりは一件だけ、テプラ、ポメラの「キングジム」だ。テプラはご存じの人も多いだろう。貼り付けるネームタグで、僕はダイビング機材のほとんどに貼り付けている。ポメラは今、この原稿を片手で持ち、片手でキーボードを叩いているテキストライターだ。
 その他、バインダー類はメインの商品だし、文具の類、オフィス器具はすべてある。電子メモパッド、ブギーボードとかも使ってみたい。
 宮本社長は、慶良間、沖縄に何度がご一緒したお客様だ。


 キングジムは快く、ゴムボート代金を寄付してくれた。
 さて、ゴムボートには、キングジムのマークを取り付けたい。宣伝用のステッカーが無いか、あればくださいとお願いしたが、ゴムボート貼り付けるようなものはない、とのこと。別になにも貼らなくても良い。単なる寄付で良いと言ってくださったが、それではこちらの気が済まない。
 そういうものを作ることについて、才能がある尾島さん(中心的なメンバー)に工夫製作をお願いした。

 ロゴマークを拡大プリンとして、パウチッコに入れて、それを国際信号旗 A 旗を形どった信号板 の下に並べた。なかなか格好が良い。
 

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 この赤い小さなゴムボートは、波のある海にこぎ出して釣りなどをしたら遭難必至であるが、お台場でのダイバー監視艇としては最高だ。小さくて軽いし、畳んでバックに入れて、車に積み易い。そして小さいだけに船縁が低いのだが、救助の場合、低い方が引き上げやすい。
 僕たちの潜っている場所は、水深が1,5mぐらい。8mも泳げば、背の立つところに来てしまうので、これまで24年間このゴムボートによる救助は行われたことがないが、お台場で遊ぶウインドサーフィンなどが接近しないようにとの見張りが目的なのだが、6月1日のベイクリーンアップ大作戦の時には、ダイバーが広く散るので、救助艇として活躍できるだろう。そのときは小さくて掴まりやすいボートだ。


 ☆28日お台場調査
 28日当日のメンバーだが、東邦大学名誉教授の風呂田先生、東邦大学沿岸生態系研究センターの多留さん そして、僕と並んで主催者の尾島さん夫妻、科学未来館の三ツ橋さん、日本水中科学協会と海をつくる会を股にかけている小林さん、小林さんは僕の機材積み込みを手伝ってくれるため、事務所に来てくれた。そして、海をつくる会の山田さん、臼島さん
柏の葉の東大海洋研の 杉原奈保子   も今日は来てくれる。この東京港水中生物研究会は、日本水中科学協会が主催しているから、原則として、日本水中科学協会の会員でなければ、参加できないのだが、日本水中科学協会ができる前から、この会があり、船の科学館が主催していたようないきさつもあり、徹底はできないでいる。
 幸いお天気は良くて、風も吹いていない。お台場は、波が立つことはないから、時化で中止と言うことはないが、雨が降っていたり、寒かったりするとめげる。


 僕の右腕の痛みは整形外科にかよっているので、かなり良くはなっているけれど、完治には至っていない。
 僕のこの日のテーマは、90個のLCDライトと組み合わせたカメラを設置して、カメラ前で、牡蠣を割って、カニ、ハゼを集めて撮影し、集まる様子、量を測ることだ。
 カメラはSJ4000のブラック SJは、2台使っているので、 ボディの白と黒で区別している。


 いつも三ツ橋に牡蠣の測定ライン(巻き尺)を引いてもらうのだが、毎度なので、小林さんにお願いした。いつもよりも少し深く、1,5mにとお願いした。


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 1020 潜水開始
 水温16度
、いつものように、尾島さんにサポートしてもらって、水の中に這いこむ。カメラを二つ持って入る。右腕の故郷、痛みが続いているので苦労する。
 それに、マスクが顔に合わない。常にはDWのラクーンを使っているのだが、もう一つこれもDWの新しいマスクを使ってみた。これは、顔に合わせて選んでいるので、一滴の水も入らない。ただし、顔に合えばなのだが、僕の顔には合わないのだが、あきらめきれていない。他の人の良い評判を聞くと試してみたくなる。
 やはりダメだった。もう一度顔の寸法を測りなおさなくては、だめか。でもラクーンで合っているのだから、マスクを換える必要もないのだが。
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 それやこれやで、ラインの44m地点に、ラインのすぐ横にカメラを置く地点を決めた。
 脚に着けたナイフで牡蠣を割って、その牡蠣をねらうようにカメラを置く。カメラの電源を入れて、廻し始める。割られた牡蠣の匂いで、すぐにカニが這いだしてくるはずなのだが、出てこない。 
 脚に着けたナイフの鞘にナイフを戻そうとするのだが、右手が痛むので、うまく鞘に収まらない。しっかり収めないと無くしてしまうので、sのまま、手に持っていることにする。
 マスクの水漏れが辛いので、少し岸に寄り、膝立ちできるところで水面に顔を出す。
 1034 マスクを直そうと頭をだす。


 透視度はまばらだが、よいところで2m


 1041誰かと平行に泳ぐ
 海底の牡蠣の様子をラインに沿ってラインを写し込みながら撮影する。
 
 なお、カメラは、Olympus TG4の上にウエアラブルカメラのSJ4000を着け、動画を撮っている。戻ってからこの動画映像をみながら、ノートを取っている。
 この方法には、タイムインサートが必須である。


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 1043 手のひらをカメラの前に出したらホワイトバランスが変わった。一つの手段として有効か。
 牡蠣の多い地点 浅い 浅い位置の水がきれいだ。透視度2mはあるだろう。
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 杭の列を通り過ぎてしまったので、少し探して、浅い位置から深くへ向かって見つける

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 1046 杭の列の中間に到着
 ユウレイぼやが密に育っている。

 マハゼは全くいない
 1047列の終わりに来て引き返す。







 アカニシの卵
 毎年4月には、杭のそばの砂地に小さい 3cmほどのマハゼが群れている位置なのにいない。どうしたのだろう。心配になってくる。今年はマハゼが遅れるのか?
 
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 1050小さいハゼを見た。 マハゼか?
 ここで、「見た」というのはカメラで撮っている。
 アゴハゼだろう。
 1051 アカオビシマハゼがいた。
 アカオビシマハゼの隣に小さなメバル 

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 Olympus TG4のシャッターを何枚も押すが、あとから見ると、レンズの位置の差がどっちつかずになってしまう。
 1053
 お台場では引き延ばして使うようなこともなく、印刷物で大きく扱うこともないので、Olympus TG4をあきらめようかと毎度のように思う。
 でもあきらめられないのは、カメラマンの性か。


 角ブロックの位置 アカオビシマハゼ


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 振り返ると、カメラにリングLCDを付けて撮っている誰か、 臼島さん? 
 1058
 引き返す 
 1101 マスクの調子が悪いのでもうち度、頭を出す。
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 1105 ランドマークにしている枕木 ここにメバルが居るはずなのにいない。メバルも、お台場全体で、あの小さなメバルが1個体だけなのか?サカナ探しの名人である尾島ママも、杭の列の1個体しか見ていない


 1108 ラインエンドにきた。 ラインを回収しながら戻ろうかと思ったが、設置してあるカメラの回収があるので、二本の手、右手が痛い状態では無理、ライン回収は2回目の潜水にする事にして、ラインをたどって戻る。
 1109カメラ回収
 1112ラインの開始地点
 砂地
 1113浮上
 1020潜水開始だから53分の潜水、残圧は100


 一回目のダイビングで ずいぶんと身体が元気を取り戻したので、昼前に、2回目を潜ってしまおうと準備をした。海洋大学の修士を卒業して、遊びに来ていた江原君にアシストしてもらって、エントリー、目標は巻き尺ラインの回収だから、50m先までしか行かない。
 マスクも常用のラクーンに変えたので、心配ない。ウエイトも調整した。快適に潜れるつもりだ。


 1209 エントリー、Olympus TG4の上のウエアラブルカメラは AKASO brave にする。


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 1214 小さいチチブ
 牡蠣は生きている個体が多いところと、ほとんど死んでいるところがある。
 1215 ラインのエンドに来た、巻き尺を巻き戻しながら戻る。
 巻き尺の巻き戻しのような場合には、ウエアラブルカメラをマスクマウントにした方が良い。     
 マスクマウントで巻き戻しながらの計測の方が良いかもしれない。
 1220 巻き戻し終了
 
 1221 巻き尺は浅瀬に投げて、砂地をもどってビノスガイを見に行く。
 砂地にもマハゼの姿はみられない、
 たぶん、風呂田先生がビノスガイを掘ったのだろう、堀り趾がある。
 1223
 このあたりと見当をつけて、手を砂の中に入れてみると、すぐに貝にさわる。
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 1224 
 風呂田先生は定量的に採集していて、研究論文を書くという。」


 1227
 エキジットして自力で立ち上がり、そのまま後ずさりで岸に上がり、歩いて戻ることができた。
                                 
 次回5月は、ランドマークの枕木のあたりを基点にして、杭列に向かってラインを引こう。
 設置カメラは、浅い、水のきれいなところあたりに置こう。


 なお、今回の設置カメラは、回っていなかった。デスクの上でテストするとバッテリーアウトまで回るのだが。
 SJ4000の白は、現役引退か?      

 ラインに沿って、ラインを動画で撮しながら進む、後で画像と、そのときのタイムを見ながら、メモを取る。この方法でしばらくやることにする。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

0511 ゴールデンウィークツアー

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 4月27日にはじまった、10日間のゴールデン連休は、今日(これを書いている)6日、終了する。
 28日にはお台場の撮影調査、1日の令和初の辰巳国際水泳場のスキンダイビング練習、4日・5日の恒例ゴールデンウィークダイビングツアー、忙しいというべきか、充実いていて、例によっての体調不良、この体調不良は、高齢ストレスによるものと思われ、ダイビングをした後、解消されていて、また次第にたまっていく。これは、50歳代のころからのものだが。その体調不良の中、3日には、28日のお台場調査のブログを書き上げたが、6日朝現在、まだネットに載せていない。 ゴールデンウィークのどこかで、伊東市富戸の大西君のところ、屋号はアクアティックプロ、のところに1泊のダイビングツアーに行くことを恒例としたのは、何時からだろう。すぐに思い出せないのだが、去年は間違いなく行った。その前の年も行った。その前の年は?もうわからなくなっているが毎年ではなくても(別のところに行っている)何回か行っている。ブログの索引をつくれば、わかるのだが。 大西君が18歳の時に、19歳だったか?僕の会社に入社したのは、何年前だろうか、30年前か?横須賀の、YMCA海洋科学専門学校、インストラクターを育成する専門学校から来た。だから、気持ちの上で親子のようだ。もちろん、親と子の間に葛藤があるように、会社を辞めるときとか、いくつかの葛藤があったけれど・・・それはドラマのようなものであって、トータルとしてすべてを肯定している。
 大西のところに泊まって、これも、本当に親しい友人であり、一年に一度は会えることを楽しみにしていた、赤沢のダイビングサービス、「マーブ赤沢」の平林君のところに、行くのが楽しみだったのに、3月に亡くなってしまった。どうしようもなく寂しいけれど、それが、生きているということ、生あることなのだ。
 赤沢に行かれないので、富戸の沖、ボートポイントになっている「ピラミッド」人工魚礁にボートから潜る。これも、一日目は赤沢、二日目がピラミッドだったのが、ピラミッドだけになる。
 このピラミッドは、人工魚礁のコンクリートブロックを五段ぐらいに、ピラミッドのように乱積みされている。乱積みとはでたらめにコンクリートブロックを放り投げたという、設置方法だ。ホームグラウンドの波左間のドリーム魚礁が、きちんと3段、6列に積み上げられているのと対象てきであるが、人工魚礁一般としては、このような、手が掛からない乱積み、放り投げである。このピラミッドは、その乱積みの中で、最大級のものである。両者の比較を見たいというのも、ピラミッドに潜る意味、意義なのだが。
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 このピラミッド、何個のブロックを、何時投入したのか知らない。知らないでは、調査という体をなさないので、大西君に調べてもらったのだが、組合でも、確かなことをだれも知らないのだと言う。県の水産課に聞けばわかるのだろうが、大西君もまだそこまで調べてくれていない。
 自分で調べなくてはダメか?
 国として巨額の経費で投入した人工魚礁の結果、成果がそういうことなのだ。日本の沿岸漁業の衰退の根がそんなところにある、と僕は思っている。その人工魚礁を管理する伊東市漁協、富戸支所は、組合直営のダイビングサービスなのだが、今年、施設を全面的にリニューアルした。といっても、女性用のパウダールームがつくられ、トイレがきれいになり、パウダールームの屋上がお弁当を食べる休憩所になったというだけなのだが、それでも、このことは、革命的?進化、女性ダイバーにとって、ということなのだ。そして、漁協が漁協としてダイビングサービスを重視して拡大していく、日本では希有の例なのだ。前述の赤沢は、施設の地所は組合のものだが、オーナーの平林が死んだら、施設が宙に浮いて、閉鎖になってしまう。赤沢も、富戸と同じ、伊東の漁協だから、漁協が直営にしたら良いのに。
 沿岸漁業の衰退と変遷、それにともなうレジャーダイビングとの相関関係の変化は、今手がけている「ダイビングの歴史」の重要な部分なのだが、富戸の組合の例は、その中での重要な部分である。その意味でも、富戸に行き、その実体を自分の身体で感じることは、意味があるのだ。
 
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 さて、ツアーのメンバーだが、これも大西君と同様、僕にとって、僕の視点からの大事なファミリーだ。だから、年に一度の家族旅行のような気持ちもある。

 黒田梨枝 
 東大海洋調査探検部出身、東大病院の救急チームのチーフ看護士から筑波大学看護学博士課程修了ということは、看護学博士だ。この学位ができて、初めてか2代目の卒業だ。看護学のエースというところ。
 8年ぶりのダイビングだと本人がいうのだが、ぜんぜん心配ない。中学時代、オリンピック水泳選手候補だった。

 村上緑とおとうさん。
 みどりちゃんと毎年一度は一緒に潜りたい。そのためにこのツアーをやっているという部分もある。小学校三年生の時だったか、船の科学館でやったスノーケリング講習に来てくれた時から、中学、高校、大学、そして社会人二年目。毎年、少なくても一回は一緒に小さな旅をしている。

 寺内羊子
 ??歳の時に辰巳のスキンダイビング練習会に来てから20年、ダイビングの弟子、ロゲイニングのチームメンバー、バディで、建築設計家、水泳、サーフィン、400ccの単車乗り、小柄なスポーツ美人

 小山さとし
 彼も、僕にとって羊子とほぼ同じキャリア、本職はMBA、体力抜群、空気消費も抜群、

 小久保英一郎
 東大教授、海洋調査探検部監督、お父さんの不例で来られなかった。
 他に来られなかった人の紹介をしていると、際限もない。
 僕のダイビング、このような小さなチームがいくつかあって続いていくスタイルに収斂してきている。 午前9時30分伊豆急富戸駅、集合
 高齢の運転だから、余裕が必要、ゴールデンの渋滞も予想できるので、5時にスタート、海老名に6時に着いた。海老名はすでに混雑。吉野家の牛丼を食べる予定にしていたので、長い行列で食べる。
 途中、通い慣れている路なのに、カーナビに騙され遠回りしたが、9時に富戸駅到着。予定通り。
 大西は、別のお客が入っていて、10時から11時まで潜水、僕たちのボートの予約は13時30分、午前中は潜らない。赤沢ならば大西のガイドが無くても、のんびり潜れるのに、オーナーの平林が亡くなって、クローズ状態。次の経営者が決まらないで宙に浮いている。

 山梨から、御殿場を越えてくる黒田が若干の渋滞で10時着。
 富戸は混雑で車が停められないのではと心配したけれど問題なく3台の車が停められた。
 見下ろす海は素晴らしい凪。
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 必ずする、忘れもの。FIXライト、メインのライトのバッテリーチャージを忘れ、25%の光量で10分しか持たない。サブのイノンライトにしようかと迷ったが、10分点けば良いだろうとFIXで行く。
 12時30分、高齢の体調の悪さを我慢してドライスーツに入る。
 サンフアンのハイブリッドジャージは、着やすくて、助かる。ドライスーツを着る、入り込むと、次第にダイバーの気分になっていく。

 大西がブリーフィングをするが、僕は聞こえない。
 ピラミッド魚礁は去年も潜っているので様子はわかっている。大きな魚礁を一周するようなことはしない。そのうちに一周しなくては、と思っているが、今の体力では?。手前の部分にソフトコーラルのきれいなところがあり、そのあたりに魚がいるはずだから、僕はその辺で撮影している。みんなは山を上って降りてくれば、僕を見つけて合流して戻れる。僕のターンプレッシャーは80で、ボートに戻って50、僕が80の時、羊子と黒田は110はあるはず。空気の早い小山は60で、ボートに戻って20でぎりぎりか。小山のゲージを見ていれば大丈夫、と大西に伝える。大西もすでにわかっているはず。 7キロのウエイトベスト、5キロのベルト、水深が20mを越えるので、レッグのウエイトは無しにした。ウエイトを着けると気合いが入って変身できる、と自己暗示をかける。が、筋肉は言うことを聞かない。舟に乗り移る時、大西にタンクを持ってもらう。舟に乗り込む特が怖いのだ。膝を痛めないようにしないといけない。今、右腕が傷んでいる。

 ログ  date 2019 0504
 ゴールデンウィークツアー
 恒例 メンバー 須賀 村上父と緑 寺内羊子 小山さとし、黒田梨枝
 ガイド 大西 一回目の潜水
 ①目的:タイトル GW ツアー
 ③場所 富戸
 ④スポット ピラミッド魚礁
 ⑤天候 晴れ 凪 
 ⑥風  
 ⑦水温 17 ℃
 ⑧透視度 15m ⑨潜水開始 1351 ダイブコンピューターの記録 
   ウエアラブルカメラのタイムと少しずれがある。   潜水時間34  分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深 24,8   m
 ⑪潜水終了 1419
 ⑫インターバル プラン ダイビングは一回
 ⑬チーム 上記 
 ⑭バディ 小山 村上緑 村上正巳
 ⑮残圧 50 ターンプレッシャー80
 ⑯適要   
  ピラミッドは舟で5分もかからない。
 ドライでの潜降はロープを手繰らないと安定しない。何時からこんなことになってしまったのだ、とくやしい。
 ドライに空気を入れて浮力を調整して、魚礁へのガイドロープをたどって行く20mぐらいでピラミッドの裾に着く。ウエイトのオーバーが大きすぎる。
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 すぐに、40cmぐらいのイシダイを見つけて撮影を始める。Olympus TG4のシャッターを10枚は押したい。身体のバランスが悪くて、身体を傾けると転げそうになる。イシダイにカメラを付けて行くと、オオモンハタが静止している。良い感じで撮って行く。
 このピラミッドは、5段ぐらいの乱積みなのだが、奥へは入って行けない。出られなくなる。奥にいる魚は、見られない。わからないのだ。そのつもりになって探検すれば入れるだろう。やりたい気持ちもある。
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 キンギョハナダイが群れている。これも撮る。「豊かな海」の表紙写真になれば、と思って、イシダイも、オオモンハタも、キンギョハナダイも撮っているのだが。メインのライトのバッテリーが尽きそうだ。
 空気は、潜降と到着に50ぐらい使っている。魚礁に着いて50ぐらい使って、200の充填圧が100になった。あとワンカットぐらいか、それと、戻ってくるみんなを探して、合流しなければ、戻るロープラインからは離れていないしすぐにわかるのだが。
 予想していたコースで戻ってくる気泡が見えたので、接近して、大西に戻るサインをする。良いチームなので、有機的につながりがあるので不安はない。繋がりが切れたときに不安になり、パニックになる。
 
 ボートの梯子にとりついて、膝を付くと、フィンを誰かが外してくれる。後についてきたのは、みどりだから、お父さんだろうか、みどりだろうか。富戸の舟の梯子は角度が付いているので、タンクを背負ったままどうにか上がれる。波左間の梯子は垂直に近いので、タンクを背負っては上がれない。
 
 富戸名物の温泉丸、に浸かってのんびりする。
 ダイビングを終えて、この時間が、黄金の時だ。体の不調の50%はストレスだ。ダイビングは集中しないと危ないので、ストレスが消える。体調も良くなる。
 
 大西のところに泊まる。部屋はペンション級だが、食事は作らないので、明日の朝食、とドリンクをスーパー マックスバリューに買い出しに行く。夕食はみんな、大西、大西の奥さんも加わって、近くのイタリア料理屋「紙風船}へ行く、お店の駐車場に黒田の車を置かせてもらっている。
 数年前までは、地魚の魚料理だったのだが、地魚が思うように手に入らなくなったとかで、廃業してしまった。魚の原産地にきて、イタリアンは?だが、雰囲気は悪くない。畳の魚料理屋より、リラックスできる。 
 イタリアンは、最初の野菜サラダがおいしかった。サラダはどちらかと言えば、無理に食べているのに、おいしいと思った。他の料理もまずまずおいしい。
 大西宅に戻ってから歓談、本当に歓談 楽しいのだ。
 黒田と、競技スポーツ(黒田)対 生涯スポーツ(須賀)で議論した。黒田とこんな議論をするなど初めてだ。彼女の講義は、ディズニーランド級におもしろくて学生に人気があるのだと言っていたが、久しぶり、耳が遠くなってから初めてか、おもしろいディベートができた。隣で緑が聞いていて笑い転げていた。ここで内容を紹介できなくて残念。

 朝、気持ちよく起きた。気持ちよく起きるのは久しぶりだ。
 寺内羊子と、村上お父さんと散歩にでた。朝、食事前に散歩するのも久しぶりだ。海岸といっても、柱状節理の崖だが、その崖に張り出した展望台に行った。
 その道筋で崖から見下ろしたら、リスが木の枝を走っていた。
 崖から投げ釣りをしている人がいた。僕はそれほどの高所恐怖症ではないが、足がすくむ。
 

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 玉田規子と旦那が、日帰りで参加、彼女たちは、高知の柏島に行っていて、もどって、連続は無理とかいって、一日おいて来た。
 玉田は、浦安海豚倶楽部の中心の一人で、彼女のお父さんと、その昔、赤沢に人工魚礁を入れるプロジェクトをやった。これも、長い縁である。
 
0505 二日目
恒例 メンバー 須賀 村上父と緑 寺内羊子 小山さとし、黒田梨枝
 ガイド  玉田夫妻が加わる 大西


 ①目的:タイトル GW ツアー
 ③場所 富戸
 ④スポット ピラミッド魚礁
 ⑤天候 晴れ 凪 
 ⑥風  
 ⑦水温 17 ℃
 ⑧透視度 15m
 ⑨潜水開始 1127 ダイブコンピューターの記録 
   ウエアラブルカメラのタイムと少しずれがある。
   潜水時間 35  分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深 23。7   m
 ⑪潜水終了 1203
 ⑫インターバル 前日から 21時間と6分
 ⑬チーム 
 ⑭バディ 小山 村上緑 村上正巳
 ⑮残圧 40 ターンプレッシャー80
 ⑯適要
 FIXライトのチャージャーも持って来なかったので、サブのイノン、を二本束ねてつかった。
 昨日、オーバーウエイトだったので、腰のウエイトベルトを1キロ減らした。良いバランスになった。
 ところが、Olympus TG4を陸上でセットしてこなかった。おかしくなっていて焦った。なんとかなおしたが、昨日見たイシダイもオオモンハタもいない。波左間のドリームならば、潮時に関係なく、必ず居るのに。ここ、ピラミッドは居るときと居ないときがある。入り込めない奥に隠れているのだろうか。
 キンギョハナダイを撮ったが、やはりイノン2本では、接写以外は無理だ。
 僕は、二本目の富戸ヨコバマ、ビーチエントリーはパスした。凪だから転ぶこともないだろうが、やめておいた。緑親子、黒田もパス、玉田夫妻、小山、寺内が行った。

帰りの運転は、寺内がつきあってくれたので、渋滞も退屈しなかったが、渋滞はそれほどでもなく、4時間弱で帰り着いた。
 言うまでもなく、疲れたが、二日間、素晴らしい凪だったし、海のパワーを充電して元気になった。これで、次の13日の辰巳、22日の波左間人工魚礁研究会まで保つだろうか。
 
 

0513 ダイビングの歴史 70 海の世界 1974年 5月

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 しばらく「海の世界」から遠ざかっていた。復活、戻らないと戻れなくなってしまう。とにかく1980年、ダイビングの、というかダイビング界のスタイルが大きく変動、舞台が廻りはじめるところまで、1970年代のダイビングを追う。 この作業をやってみて、わかったこと。1950年代のダイビング、1960年代のダイビング、そして、1970年代のダイビングが、明白にちがうこと。それは、箇条書きにすれば、①②③④⑤⑥⑦で言い切れてしまうのだが、箇条書きにまとめるためにはノートが必要だし、ノートで年代記風にまとめ、さらに①②③④⑤⑥⑦にする。そのためには、この「海の世界」のノートとり、が必要。1970年代、自分はどんなことを考えて居たのか、ダイビング界、世間はどんなことを?

 この時期、僕は、海の世界に「これからのダイビング」という連載を書いていた。それを、自分のためにも、資料としてまとめておかなくてはならない。

5月号は、特集「楽しいダイビング入門」、そのころのダイビングについてのまとめともいえる。 特集の1は、「こうすればあなたも潜れるようになる。」工藤昌男さんが書いている。工藤さんは、科学評論家の肩書きで、海の世界、マリンダイビングに毎号たくさん書いていた。 まず「スノーケリングをはじめよう」。次に「素潜りを徹底的にマスターせよ」。そして、「スキューバ潜水は必ず講習を受けて。」講習で取得するのは、ライセンスではなくて、技量認定証である。そして、認定証に何段階ものランクをつけるのは無意味である、と書いている。カリキュラムのチェックをする。そして、「クラブに入って安全潜水を」ベテランの知識を導入し、相互に助け合って安全を高める組織としてクラブは有効である。 商業主義、つまりダイビング業界を否定している。これが当時のダイビングの一つの流れである。これが逆転、敗北していくのが1980年代である。  同じテーマについて、僕の考えでは、まずスイミングがあり、そこからスキンダイビング、素潜り、スキューバであり、スキンダイビングの入門としてスノーケリングがある、と言う順であった。


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 あなたは、どんなダイバーに?工藤さんのダイビングのコンセプトである。体力に自信がありますか?で、あるとないにわかれ、自信がなければ、水中写真、水中生物の研究にまわる。自信があるとスポーツマンタイプでスピアフィッシングにまわる。そして、その先で、プロダイバー、インストラクターにまわる。この発想は、僕とはちがう。海洋科学、アーチストは体力は不要?科学者というのは、とてつもない体力を持っている人で、タフである。芸術家も同じである。インストラクターだって、今は女性が多い。インストラクターは、体力も必要だが同時にメンタルがより重要だ。ゴリラがインストラクター、プロダイバーになるわけではない。スポーツと言っても、僕たちはスピアフィッシングは否定している。 これは、考え方の違いだからどちらが良い悪いではないが。工藤さん自身も、外見はひ弱だが、下田ー大島を潜り渡ろうというめちゃめちゃにタフな人だ。僕も身体が弱い弱いと言い続けて、84歳まで潜り抜いている。
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 ダイビング入門の2 潜水講習会ガイド 当時のNAUI、PADI、そして全日本潜水連盟、海中開発技術協会の四つについて、それぞれの特色を述べている。全日本潜水連盟は日本独自の教程でスポーツに力点をおいている。海中開発技術協会は、頭脳的ダイバー育成と言っている。ダイビングは、メンタルなスポーツであり、バカは危ない。NAUI、PADIだって、すべて頭脳的なのだ。この四つが今後どういう道筋をたどっていくのか、今は、すでに結果がでている。 なお、海中開発技術協会の講習が全日本潜水連盟と合併されるのは1981年である。 いずれにせよ、1974年当時、ダイビングの指導組織は四つ、事実上三つだった。海中開発技術協会は指導組織では無かったし、指導組織であるべきではなかった。工藤さんが指導組織をやりたかったのだ。そのことが、後に悲劇を呼ぶ。 しかし、それぞれ特色があり、今現在振り返って読むと感無量のものがある。 なお、NAUI も PADI も現在の組織・態勢ではない。
 「ダイビングの歴史」で、日本国籍指導組織の推移、という小史を書くつもりだが、この部分は大いに参考になる。
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 ダイビング入門の3 「狂乱物価のなかで道具を上手にそろえる法」
 そのころのダイビングの生活の知恵風でおもしろい。商売否定の工藤さんの陰がかなり差している。


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 全国潜水トレーニングプールガイド これら、すべてのプールでフィンマスクで泳げたわけではないが、
 
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 日本潜水会所属のダイビングショップの講習会広告である。
 トウキョウアクアラングサービス
 日本スキューバ
 OKマリンプロ
 そして 須賀と高橋実(現、スリーアイ代表)で、日本潜水会の本家なので、ショップ名は書いていない。


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 NAUIの講習会広告。ショップでだけはなく、本部でも初心者講習をやっていたのだ。




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 漁業権とは、
 書いている人が余りよくわかっていないようにも見えるが、それが、当時のレジャー業界だったのだ。抽象論では無くて、具体的なテーマについての論がほしいのだが。

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 海洋博中心の海洋開発予算
 海洋開発という名前の予算が国にあり、それが沖縄海洋博に使われる。海洋博は、沖縄振興であり、海洋開発とは、少し違うような気もしないでは無いけれど、


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 これからのダイビング 須賀の連載で 第9回になる。
 「潜水にスピードとパワーは必要か」
 いま、よれよれになり、スピードもパワーも無くなって、「スピードとパワーは必要か」、など恥ずかしい限りだが
 「スポーツとしての潜水を確立したい。」
  ダイビングはレジャーなのかスポーツなのか。
 レジャーとしてスポーツをやるのではないのか。
  レジャーを静態型、動態型 にわけたりして、かなり本質的な議論を展開している。
 その後1988年に生涯スポーツという分野が確立され、そして、その生涯スポーツが高齢化社会、まさに生涯スポーツを盛んにしなければ、日本という国が地獄になる(オーバーか)というこの2019年に、オリンピック、競技スポーツがすべて、生涯スポーツは、脇に押し出され、葬り去られようとしている。数日前、看護学博士の黒田と議論した。

 ダイビングは本質的に、どういうスポーツなのか、どんなスポーツであるべきなのか。議論は続いていて、1974年に自分の考えていたことを今知ることは、自分にとっておもしろくもあり、重要である。
 
 議論はまだ続いている。

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0515 海の世界 1974-6月

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ダイビングの歴史 71 74年6月 潜水にスピードとパワーは必要か
 スクーバダイビングは、パワーとスピードを追求するものではないけれど、状況によってはパワーとスピードが命を救う。
 溺れたバディを救う、沈んでしまったダイバーをスキンダイビングで引き上げるのは、水中重量挙げだ。
 
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 ここでは、競技としてのフィンワークなどをチャンピオンの青木順一、競技に熱心だった竜崎さん、現JPのオーナー などと座談会風に扱っている。
 なぜ、競技会、スピードにこだわったかと言えば、スピアフィッシングをやめた。それに代わる活動が欲しかったのだ。水中撮影があるではないか?もちろん水中撮影は、スクーバダイビングの活動のトップにくる。
 僕も水中撮影の本を二冊書いている。スクーバダイビングイコール水中撮影のようなものだ。そして、その水中撮影のためにも、泳ぐ力は行動半径を決める。
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 日本潜水会 水中写真、映画・技術研究グループ
 水中撮影にも力を入れていたのだ。水中撮影は僕の仕事、商売だったし。


 現代の怪物と言われた糸山英太郎。
 献金は必要ない。お金は上げるという糸山代議士を全日本潜水連盟は総裁にした。賛否両論ある。賛否をまとめて行かなくてはならない連盟である。
 スピアフィッシングを巡る賛否で、一度全日本潜水連盟は分裂している。分裂したままでいた方が良かったのかもしれない。2019年の今になっても、まだそのことで、悔やんだりしている。
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 男性天国の台湾で友好ダイビング、
 大阪の山本進さんが書いている。台湾のダイビング界をリードしていて、今でも、ダイビングフェスティバルなどには必ずおいでになっている謝さんが、本業は花屋さんで、中華潜水公司を起こしたことが書いてある。
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0516 ダイビングの歴史 72 海の世界 1974-07

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1974年 7月
 船の科学館ができる。 写真を見ると船の科学館以外には何も建物がない。科学未来館はもちろんないし、何もないお台場は一望の原っぱだ。埋め立ての跡だから、夏になると蠅が発生する。「蠅の科学館」だなどと悪口を言われた。
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 しかし、大きな流れるプールは都心にある唯一のプールだ。夏になると、海水浴場となり、芋洗い状態に混雑した。
 1985年、プールの盛況ぶりを示したポスターである。
 説明不要、トウキョウの海水浴場だった。


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 この流れるプールで、浮力体、スノーケリングジャケットを着けた水面遊泳の講習会を企画したのは2004年だった。
 プールができてから30年後になる。
 ちょうどそのころ、救命胴衣を着けたスノーケリングが提案され、これによって、フィン・マスク・スノーケルを着けた溺水はなくなり、海水浴客にもフィン・マスク・スノーケル+スノーケリングジャケットを普及することにより、海水浴の溺死も激減し、スノーケリングからスキンダイビングへ、スキンダイビングからスクーバへの導入ルートが開ける見通しだった。
 2004年ごろ、船の科学館、シーサイドプールは、一時ほどの混雑はなくなったが、それでも夏休み時期の一日の入場者は2000から3000人、1000人だと空いている状態だった。空いている状態で、ちょうどのんびり泳げる良い海水浴場だった。
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 スノーケリング教室は、プールが終了する前の17時から暗くなる19時頃までとして、夏休みの期間中は毎日、母校の東京水産大学から船の科学館に就職した藤井さんと、後一人、名前失念中(次の年に止めて、八重山に行ってしまった。)の女の子二人とプールスタッフをコーチにして、実施した。一ヶ月の受講者は1000人を上回る予定(企画)だったが、100を上回る程度で終わってしまった。
 スノーケリング教室は次の年も行われたが三年目はなかった。
 
 それにしても、船の科学館と僕の東京湾での活動そして潜水器具の歴史展示と、切っても切れない。お台場の潜水調査、東京港水中生物研究会の事務局も船の科学館に置かせてもらい、煩雑な許可申請は、スノーケリング教室のコーチをお願いしていた藤井さんにやってもらっていた。


 さて、浮力胴衣を着けたスノーケリングだが、子供たちは、一刻も早く、胴衣を脱いで自由に泳ぎたい。そして、これは考えれば当然なのだが、胴衣を脱いだ子がスキンダイビングにすすみ、スクーバにすすむ。
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2004年8月の緑



 今、僕と一緒に潜っているみどりちゃんは、スノーケリング教室第一日から、胴衣をぬいでいた。2004年、8歳のみどりちゃん、そして今23歳のスクーバダイバーであるみどりちゃんだ。
 スノーケリング教室のダイビング視点からの成功例は彼女一人だ。


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                今年 2019年5月4日の みどり



 となると、現在日本各地に設立して、スノーケリングを広めようとしているスノーケリング協会のなすべきことは、できるだけ速く、できれば最初の一日目からジャケットを脱がすことなのだろうか?


 ダイビングと安全のパラドックスである。安全を目指すならば、ジャケットを脱がせない、すなわちダイビングをやらせないように指導することなのだ。
 言うまでもなく、僕は、ジャケットを脱がず、生涯を通して安全なスノーケリングを楽しんで欲しいと思っている。
 ジャケットを脱ぎ、積極果敢にダイビングにチャレンジする危ない子は、100人に一人だから、大事にして、事故を起こさないように育てて行かなくてはならない。それでも、事故は起こるから、スノーケリングで留めておくべきか?


 船の科学館は、東北大震災のあと、耐震の基準に満たないとして、休館になってしまっている。オリンピックが終わったら、建て直して復活するというが、どの程度の規模になるか、ダイビングとの関わりはどうなるか。プールが復活しないことだけは確かだ。
 お台場でトライアスロンが行われるが、僕は、使われていない船の科学館、シーサイドプールをつぶして、150ー200mの超長水路、トライアスロンプールを作れば良かったのに、と思っている。


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 潜水艇「はくよう」日本海洋産業という民間会社の潜水艇、使える実用になる潜水艇である。1990年代は珊瑚採取の漁船として活躍していた。
 僕はこの「はくよう」が好きだった。300mぐらいまで潜れる手軽な潜水艇。艤装に現在のテクノロジーを駆使して、大陸棚の調査、探検、観光ができれば、とても良いのだけれど。たとえば、宝石珊瑚を訪ねて、宿毛の海に潜水艇で潜るツアーとか。


 現在は、日本海洋産業も 「はくよう」もない。「潜水」「海」から人間はどんどん引き上げ、陸に上がり、ゴミが海洋にあふれ、環境悪化を憂う声だけが大きく聞こえてくる。海に夢はなく、ゴミと放射能をどうするかの環境問題だけが注目を浴びる。

0517 ダイビングの歴史 72 海の世界1974-7月 2

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ダイビングの歴史 72
海の世界 1974ー7月 の2

 お世話になった人、またこの方はどういうキャリア何だろうと知りたい。ご自分で書かれたものがあれば、それが確実で良い。もしかしたら、自慢もあり、大きく書くことも多々あるが、それでも、資料としては役に立つ。
 
 潜水技術パイオニアの苦労と誇り 菅原久一



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 僕とか後藤道夫の師匠であった、僕の場合はすこし屈折しているけれど、菅原久一さん、潜水研究所という、おそらく日本で初のスクーバダイビングショップを始めた。僕の「ニッポン潜水グラフィティ」にもページをとって書いている。
 職業軍人、それもパラシュート部隊だから、今でいうレンジャーの草分けだ。27歳、空のダイビングから海のダイビングに転じたと書いている。
 仙台の産と聞いていたので、ヘルメットダイバーになって、三陸のアワビでも採っていた、酒癖が悪い人で、酔うと密漁で生計を立てたといわれていたので、三陸のアワビ方思っていたら有明海でタイラギを採っていた。
 旧海軍の伏竜の潜水機を入手してノックダウンして新しいものをつくろうとしたというが、つくったものは、伏竜とはだいぶちがったものだったと思う。東亜潜水機潜水でPー1型(ポータブルと言う意味)というリブリーザをつくったのが昭和26年、27年だったという。ディーツ博士が日本にアクアラングを紹介するのが1953年、昭和28年であるから、pー1型の方が1ー2年早い。
 僕が菅原久一さんと知り合うのは、大学3年生、お茶の水にあった潜水研究所をたずねた時だから、1958年だが、その前年、1957年に潜水科学協会ができ、菅原さんは、その中心人物だから、そのときも顔を見ている。
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菅原さん
 日本最大、最悲惨な海難事故である洞爺丸の遭難が1954年、昭和29年、菅原さんは、ダブルタンクを担いで捜索に参加している。
 ヘルメットダイバーの中に混じって潜水したが仕事のじゃまになるばかりだったと書いている。この時は東亜潜水機に居て、その準備と送り出しにたいへんだったと、東亜潜水機の社員に聞いている。1953年に日本にアクアラングが来て、直ぐに菅原さんは東亜潜水機でダブルタンクを組み立てたのだ。レギュレーターを作ったかどうかは、定かではない。その1954年から56年の間に菅原さんは東亜潜水機を辞めている。
 円満退社ではなく、会社乗っ取りのクーデターの失敗の結果だったという。だから、海の世界には、東亜潜水機をやめた経緯、日にちなどは書かれていない。
 僕は菅原さん等が作った潜水科学協会の学生会員第一号であったので、協会では、後藤道夫とともに、菅原久一さんの弟子のようなつもりだった。そして、大学を卒業して、1959年昭和34年、東亜潜水機に入社する。仕事場で、座った作業台は菅原久一さんが使っていた、Pー1型を組み立てた台であった。しかし、そのPー1型は陰も形もなかった。
 
 P-1型とほぼ時を同じくして、ニッセン式という、過酸化水素、オキシフルで酸素を発生させるという、とんでもない潜水機が開発された。その写真はある。山下弥総左衛門の潜水読本によれば、「戦争末期に神奈川県久里浜を演習場として分隊訓練まで行った水際特攻兵器「伏竜」からヒントを得たものだという。本器の特色は、過酸化水素の補給だけで一回一時間近く潜ることができ、重量は12キロでこれを背中に背負い、水深20mぐらいまでを活動範囲とする。
 1953年6月、神田のYMCAプールで実験された。
 旧陸軍工科学校出身の米良勅夫氏をリーダーとして、元海軍技術大尉、中尉などのグループ5人が3年がかりで作り上げたものである。」

 菅原久一によれば、「そのころ日潜式という薬品による酸素発生装置によるものがやはりポータブル潜水機として量産されたが、実演ダイバーのあいつぐ死亡事故でまもなくストップした。」とあるが、本当に死亡事故が相次いだのだろうか。あいつが無くても、死亡事故がおこったことは、容易に想定できる。一度だけ、それも切れ端、部品のようなものだったが、神奈川県水産試験場でニッセン式を見たことがある。後に、これが残っていないかと、神奈川県の工藤孝浩氏にたのんでさがしてもらったが、捨ててしまったらしいと言うことだった。
 
 菅原さんのPー1型であるが、「事故が起きずに終息したのがせめてもの救いであった」という結末しか書いていない。
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         p-1 型 ポータブル1型 僕が東亜に入ったときは影も形もなかった。

 これも山下弥総左衛門の潜水読本に、東亜潜水機のカタログ、説明書からの転記と思われる記載がある。写真を見ると、コンスタントボリューム型(服内に空気を入れられる)ドライスーツを着て、フィンを着けている。背中に背負っている本体は、呼吸袋、炭酸ガス吸収筒(苛性ソーダを入れたらしい)酸素ボンベで構成されていて、イタリアのオキシラングの形に近い。そのオキシラングについてだが、これについて、「数年前、我が国でも伊海軍のかっての純酸素潜水器が輸入され、ラング潜水器よりも、軽量廉価で泡がでないため、スピアフィッシングや密漁に最適とされたが、死亡事故続出でストップとなった。」これは、ロスカンのブルーカード、後にNAUIを輸入した、クレッシイの田中さんが輸入したもので、田中さんの縁者が死亡事故を起こしたことを聞いている。田口君が生きているのは、これを使わなかったためか?
 田中さんが草分け時代の日本のダイビング界に果たした役割は菅原久一さんに並ぶもので、田中さんの系列が、クレッシイ、NAUIであり、田口君である。
 それはそれとして、菅原さんのP-1型も、ニッセン式も、伏竜特攻潜水機をプロトタイプとしている。ニッセン式もP-1も使い物にならなかったが、伏竜は特攻としての成否は別として、潜水機としては使い物になった。これも死亡事故多発というが、それは、この時代のスクーバの宿命であったのだと思う。ニッセン式もpー1型も伏竜から得たヒントは、ホースに拘束されない、スクーバであったということ。ポータブル、つまりスクーバのことである。



 深海開発の研究にも着手
 「われわれも200mに挑むべく四社共同でSDC「たいりくだな号」を製作し、医学陣梨本博士グループの指導のもと訓練に入り、43年8月(1968)伊東沖60m実験となったが、わずかな浮力計算の違いから6トンの巨体が手鞠のように海底からブローアップ、次いで墜落を猛烈に繰り返し、手の着けようがないとはこのことかと衝撃の失敗を喫した。内部の3人のダイバーは、一人は潜水機なしでハッチから吹き出され、一人は会ばれるチャンバーから捜索に往復し、一人は内部機器の操作にしがみつき、海底との往復4回にしてようやくとりしずめたが幸いに訓練のおかげで人命事故には至らなかった。」
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 四社共同とは、旭潜研、横浜潜水衣具、潜水研究所 中村鉄工で、東亜潜水機除外である。もしも、東亜潜水機が入っていたならば、僕もこのグループに入っていただろうし、危機一髪のダイバーになっていて、命を落とすか、生き残ってこのことを書いていただろう。
 レジャースポーツ潜水について
「水中銃は駄目なんて老人のようなこといわずに、発想を転換し、ゴルフ場造成よろしく、スピアフィッシングセンターを公海底に造成し、しぶといゲームフィッシュを養成してスリリングな技を競ってはどうだろうか。漁民のためだけに海があるはずはないから、妨害にならぬやりかたは工夫次第でなかろうか」菅原さんは、レジャーダイビングが仕事であったことはなく、横から野次をいれているだけのことだった。


漁場調査に捧げた潜水1800時間
 稲葉繁雄
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 マスク式潜水(大串式ー山本式)での定置網調査潜水を確立した三浦定之助先輩の弟子で、僕がお目にかかった時は、静岡水産試験場、伊東分譲におられた。
 大串式マスクの実習は15日間で、第15日は潜水病療法、ふかしの実習で、水深は37。5mとある。第二期講習で同じプログラムをヘルメット式でやり、第三期として50ー60mを5日間続ける。
 使用する潜水機も昭和31年(1956)頃からスクーバになり、34(1959)年からは漁業者に講習の対象を広げた。
 
 たしか、1965年頃だったろうか、僕はその伊東で行われる漁業者の講習に講師として呼ばれてお話をしたことがある。夜は稲葉さんの自宅に泊めていただいて、お話をうかがった。
 稲葉さんが潜水病 減圧症にかかった時のお話も聞いた。定置網の潜水で深く潜り、ふかしがすこし足りなかった。当時の減圧症は、たいてい、海況が悪くなったとか、体調がわるくなったとかで、ふかしを短めに切り上げた時に起こっている。
 調子が悪かったけれど、寝れば治ると思って横になり、眠って朝起きて、トイレに行き小便がでない。それからどんどん症状が悪化していき、
最終的には慶応病院の植田教授の診断で再度ふかし療法をしてなおしたと言う話を聞いた。これも、減圧症の症例としては典型的なもので、伊豆大島の大沼君も秋の浜で潜り、同じように小便がでなくなり、半身不随になり、これは江原病院で再圧治療で、治した。
 減圧症のことは別として、現在水産研究者、漁業者に対する潜水指導は行われていない。Cカードをとって、高圧則の潜水士をとればそれで終了である。いわゆるCカードが、そして、高圧則の国家試験がどのようなものであるかを考えると、寒いものがあり、日本水中科学協会では、プライマリーコースをそれに当てていたが、それも途絶えている。
 自分にできること、として、海洋大学の潜水部、東大の海洋調査探検部の指導をしている。CカードはCカードとして、海洋調査のためのローカルルールを作らせようとしている。お仕着せのルールではなく、自分たちで考え、経験によって磨かれていくルールを作らせたい。今、ちょうどその作業中である。
 
 魚たちに自然の摂理を教えられ 安田富士郎
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 研究者でありダイバーであり、魚類図鑑をはじめとして、魚についての一般向けの著書も残しておられる。沖縄の波の上のホテルで同宿する機会があり、親しくお話ししたことがある。
 亡くなられたと聞いていたので、ウイキで調べたら、1931ー1982 とある。なくなられていたことを確認した。




 レンズで追い続けた海中美 伊藤則美

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 則美さんは、舘石昭さんと、当時並び称されたカメラマンである。
 「どるふぃん」の1960年ごろの表紙を撮っておられたのだが、正直言って、僕には理解できない作品だった。
 ルックスの良い人で、ルックスは舘石さんに勝っていた。「海のグルッペ」というお店、グループも主催していた。




 スピードとパワーを競った2日間

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 伊豆海洋公園で二日間にわたって行った第七回 全日本水中スポーツ選手権大会。水中スポーツ大会として、このあたりからが最盛期をむかえる。そのころのスポーツダイバーは、ある意味野人の集まりで、永原さんのような、非ダイバーが斜めの視点からみるとこうなる。一面、わかりやすくよくとらえている。書かれたときは、あんまり愉快ではなかったが、今見返すと、グラビアなどよりも、よくわかる。
       
 軌道に乗る新しい潜水スポーツUWN

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 鐘と太鼓ではやし立てて、なんとか水中スポーツにしようとしていたアンダーウォーターナビゲーションのすべてである。
 残念なことに鐘と太鼓を叩かなくなったら、消えてしまったが、1970年代のダイビングが達成した一つの成果だと思う。

0522 人工魚礁研究会 波佐間

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5月22日 
 第24回 人工魚礁研究会  
 参加メンバーは 須賀 寺内羊子 鶴町雅子 山本徹 高野道夫さんと、東大海洋調査探検部 田村陸(3年) 實藤未来(2年女子) 内田大河(2年)
 須賀、寺内は事務所に0700集合、山本徹の車で館山 波左間に向かう。
 不連続線の通過で、21日は大雨、海上は嵐だった。ピンポイント予報のアプリでは、不連続線通過後 快晴になり、館山湾の波高は、1,5m、次第におさまって、12時には0,5mの凪になる。予報を信じて出発。
 波左間着は0920 波左間海中公園のオーナー、親友の荒川さんは、ウエットスーツ姿になって、ウエットスーツも塗れている。朝、定置網にジンベイザメが入り、マンボウランド(マンボウを飼って、収容している囲い)に連れて行ったところだという。朝、一仕事したわけだ。
 ジンベイが定置網に入るのは、例年8月なのに、今年は5月、ずいぶん早い。と言うけれど、2年前に、超珍しいメガマウスシャークが入ったのも、5月22日だった。(これは、フェイスブックの2年前の今日、でわかったのだが)
 探検部の3人の到着が、10時20分頃という連絡が入った。山本さんは、その前に、ジンベイに会いに行こうと準備をしはじめた。僕は学生にも見せてやりたいと思ったのだが。10時半からジンベイを見て、それから人工魚礁2回では、ちょっと無理かもしれない。
 高野さんも到着したので、ジンベイを見に向かう。
 僕は迷ったけれど、タンクを背負ってのエントリー・エキジットが労働なので、スキンダイビングで、水面から見るだけにした。
 水温が20℃になっていないので、僕はまだドライスーツだ。ドライスーツでのスキンダイビングはやったことがない。
 このごろドライスーツでの水面での泳ぎ、バランスが良くない。良く泳げないのだ。ドライスーツで水面での泳ぎの練習も、必要だし、今日のダイビングのウォーミンングアップにもなる。スキンダイビングとした。
 身体のバランスをとるために、4キロのウエイトベルトだけを着けた。これでは潜ることはできない。水面に浮いているだけだ。
 それで良い。
 ウエアラブルカメラを回して、現れるのを待つ。
 やはり、ドライで水面に浮いているのはバランスが悪い。足が浮いてしまって身体が水平になる。今のダイビングは水平になってトリムをとるのだが、僕は身体が水平になると不安になってしまう。腹筋のトレーニングは、しているのだが、腹筋が弱い。背筋が弱いのかもしれない。バランスが悪いからこそ、練習が必要と自分に言い聞かせて、我慢して泳ぎ回る。
透視度は、濁ってはいないけれど、きれいでもない。浅いところでは、底がかすかに見えるから、透視度8mか?
 なんとか転げないようにバランスをとって泳ぐ。だいぶなれてきた。
 白い魚が下を通った。大きなマンボウだ。マンボウランドなので、マンボウも4尾入っている。潜ればマンボウと遊べるのだ。
 ジンベイは大きいけれど鯨と違う。魚だから、水面に浮いて息をすることもない。水面で動画を回しておいても意味ないのではないかと、撮影を止めた。バッテリーがもったいないので電源も切ろうかと思ったが、なっぜかそのまま電源は切らなかった。
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 突然、大きな頭が現れた。水面近くを泳いでいたのだ。とっさにシャッターを押したが、背中のあたりから回ったのではないか。(結果、頭から撮れていた。さすが、もとカメラマン)後を追ったが、ジンベイはのろいようで速い。ドライの泳ぎでは追い越せない。尾の動きを撮るだけだ。マンボウランドの囲い網は、25mプールぐらいだろうか。もう少し大きいかもしれない。先回りすれば、頭から撮れるかなと思ったら、どん!と頭がボートにぶつかった。下を見て泳いでいたのでわからなかったのだ。そろそろ上がれと言うことなのだな、とあがることにした。
 なんとか梯子を上がると、荒川さんが戻ってきて、エンジンをかけ、空転させた。上がれという合図だ。
 それぞれ、ジンベイを見て撮影したという。僕も曲がりなりに撮影した。大きさ6m、ジンベイとしては小さいのだが、それでも水の中で見ると巨大だ。8mは、あるのではないか?まあ、6mなのだろうけど。


一回目の潜水は、まず大型のFP(6mの立方体ブロック2段重ね)から。
 学生がいるので、きちんとブリーフィングをした。この魚礁は範囲が小さいので心配していない。僕の動きは、まず下の段、一階に入ってあまり動かないで観察する。次に、上の段、2階と下の段の接点のすきまに伊勢エビが居るか、観察する。そのあたりがこの魚礁の芯で、メバルも多いはず。注意は、2階に上がったら、1階に戻らないこと。学生の3人は、まとまっていること。
 僕のバディは、寺内羊子、僕からあまり離れないで、僕の面倒を見てくれれば良い。ということだ。
 鶴町は何時も僕と一緒だから、3人のチームになる。
 一回目の潜水
 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット 6m 10個
 ⑤天候 晴れ 不連続線が抜けて 南の風 微弱、快晴 波高1。2m
 ⑥風  南
 ⑦水温 17 ℃
 ⑧透視度 20m
 ⑨潜水開始1137
   潜水時間29分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深25,8 m
 ⑪潜水終了 1206
 ⑫インターバル プラン
 ⑬チーム 須賀 寺内 鶴町 山本徹 高野 東大探検部 田村陸 實藤未来 内田大河 そして荒川さんが総体を見てくれている。
 ⑭バディ 寺内 鶴町
 ⑮残圧  50
 
 水面での身体の動きは、何時もよりも良かった。ジンベイザメとつきあって、スキンダイビングで泳いだ効果があったのだろう。
 高齢になるということ、年一年と平衡感覚が衰え、筋力が低下する。フィジカルがどんどん悪くなっていく。スポーツの身体の技能、技術とはフィジカルだから、年を追って、へたくそになっていく。トレーニングで挽回は可能だが、挽回よりも老化進行の方が速いから。老化の速度にブレーキを幾分かけられると言う程度だ。これが、すべての動作に絡んでくる。
 ドライスーツの空気をぬいて、潜降ロープまで泳いでいく。潜降しようとするときにバランスが崩れてひっくり返りそうになる。レッグウエイトをやめにしているので、足の浮きを戻すのにちょっと労作が必要。このごろ耳抜きをしないと耳がぬけなくなった。

 降りていくと、良い型、30ー40cmのイサキの群が魚礁から抜け出して行こうとしている、潜降、接近したダイバーから逃げだそうとしているのだ。昔、対馬だったけれど、ダイバーが接近するとイサキは魚礁に逃げ込んだ。中に逃げ込む魚礁と、中から逃げ出す魚礁があるのだろうか。対馬も同じ型の魚礁だった。とするとイサキの性向が違う?とにかく逃げ出してしまった。その数は500ぐらいだろうか。
 下から入り込むような接近が間違いで、上から制圧するような接近ならば、もう少し良い写真が撮れたかもしれない。
 水温はドライでも冷たく感じた。ダイブコンピューターの数値は17度だ。
 前回4月に比べてメバルが多くなっている。代わりにオオモンハタは、目には付くが、多くはない。メバルが5尾群れているのに接近して撮影した。隣にはゴンズイ玉。
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 芯の部分、イセエビが入っているところに行ったがイセエビは見えない。隙間の場所を何カ所か見るが、見えない。荒川さんは底の魚礁と砂の隙間で2尾みたという。
 メバルは群れていて、これも4月よりは多い。
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 探検部はどうしているかな? 魚礁の外側に3人でラインを引いていた。ラインは細いリールラインで、實藤君(女の子)がリールを巻いていた。この狭い魚礁では、リールの用はないが、リールを使うと言うことは、僕のスタイルだ。そして、三人一組のユニットも、僕が教えたのではないが、僕のスタイルだ。
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 東大は2007年の研究員の事故の際、事故処理、事故の再発防止の委員に呼ばれなかった。僕は探検部のアドバイザーを40年やっているのに、そして、ダイビングのスタイル、考え方がまったく正反対のNさんが、ダイビングについてのアドバイザーになった。Nさんの処理は遺族の激怒をかったりしただけだったが、今振り返ると、僕がその役に付いていたとすれば、この探検部と今こうして一緒に潜ることも無かったかもしれない。

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 バディは二人であるべきで、3人は犯罪的と言う人もいる。ガイドダイバーが二人のお客と潜っていて、一人が不都合になりそれを救助している間に、もう一人が死亡事故を起こした例を二例知っている。しかし、それは三人が離ればなれになったからで、三人の密接なチーム、ユニットができるならば二人よりは三人がいい。しかし、三人をルールにしてしまうと二人しか居ないときに行動できなくなってしまう。
 有機的な連携がある3人、5人のユニットが作れるグループである学生クラブならば、3人の行動方式を作っておくことは望ましいことである。実はそのようなことを話し合う機会を探検部と5月に持とうと予定したのだったが、果たさないうちに5月が過ぎて行ってしまう。でも、こうして、探検部現役と一緒に潜ることができて、実際の姿を見ることができて、ラッキーだった。
 このような行動様式、運用のローカルルールが、ダイビングの安全のキー(要諦)だと考えていて、母校の潜水部でも6月15日にその話をする予定になっている。6月には日本水中科学協会の年次総会もある。僕は乗り切れるだろうか。必殺のスケヂュールは、得意な筈、と気合いを入れよう。
 
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 お昼を食べる前に、インターバルを1時間とって、二回目の潜水をしようということになった。インターバルの間に實藤さんがログをつけていた。探検部のフオームで、これも議論の対象になるが、良いフォームだと思う。
 東大海洋調査探検部は、今日来ている3年生田村君の代が一人だけになってしまった。探検部は、博士コースの7年生まで部活をしているので、だれも居なくなることはないが、ピンチだった。それが、今の二年生の代が8人入り、そして、今年は1年生が11人入った。逆に、だからこそ心配になる。自分もいつまで生きられるかわからないが、母校海洋大学の泉水部、そしてこの探検部の安全の方程式をアドバイスして形にしたい。探検部は一つのスタイルができていることが感じられる。それが書類になって残っているだろうか。10年分ぐらいの記録はデジタル化されていて閲覧可能らしい。僕が見ていない年月の間に成長している。


 二回目の潜水
 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット ドリーム
 ⑤天候 快晴
 ⑥風  
 ⑦水温 19度℃
 ⑧透視度 15m
  インターバル 1時間29分
 ⑨潜水開始 1335
 潜水時間 32 分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深 22、5   m
 ⑪潜水終了 1305
 ⑫インターバル プラン
 ⑬チーム ⑬チーム 須賀 寺内 鶴町 山本徹 高野 東大探検部 田村 實藤、内田 荒川さん
 ⑭バディ 寺内が僕をフォローしてくれている。鶴町は眼の手術をした後なので、離れずにくるだけ。
 FPでは、魚礁の外側に群れていたイサキの群をミスしてしまった。ドリームでは、降りて行くときに群を探しながら、おさえて、それから、いつものコース、下段を縦に見ていく、そして2段に上がり、上段を見て、屋上に上がって浮上、これが僕のコース
 チーム総体を荒川さんが見てくれている。荒川さんは総体と僕をケアしてくれている。東大は、僕もケアしているが、みんながケアしている。ケアというのはどのあたりに居るのか見当をつけておくと言う意味である。
 人工魚礁だから、波左間だから、学生と一緒に、このチームで安心して潜れる。同じところに何時も、何回も繰り返して潜る。年老いてからの僕のダイビングのスタイルだ。
 隣の西川名は、大学潜水部の後輩で日本水中科学協会の会員にもなってくれている石川君がオーナーだ。西川名も僕は熟知しているから行きたい。天燃魚礁(西川名)と人工魚礁の同時期比較もしたい。ただ、西川名の流れが、そして、エントリーのロープからポイントのv字谷までのわずかな距離がドライスーツでは、今の自分ではためらわせるものがある。くやしいけれど、フィジカルは、海では絶対的な条件なのだ。でも、天然礁との比較は、水産工学研究所の佐藤君のリクエストもあるので、ウエットスーツのシーズンになったら計画しなくては。
 
 ドリーム上空にイサキの姿はなかった。メバルは魚礁の下段で群れている。中段にも群れていた。そして、カサゴの大きい個体がこのごろ。目立つ。オオモンハタは、やや減って、カサゴと同じくらいの数と言う印象だ。なぜかウツボがやたらと多いと思ったら、荒川さんが餌を撒いている。ウツボへの餌ではないと思うが、餌にウツボが群れてきている。

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かさご


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クダゴンベ


 きれいな、小さいクダゴンベが、トサカの上にいて、マクロは人工魚礁調査のターゲットではないのだが、撮影する。このクダゴンベは、外にはみ出したブロックに棲みついていて、そこから回り込んで魚礁の上段に入ると、そこは何時もキンギョハナダイが群れている。キンギョハナダイはどこにでも、そこにも、ここにも群れているのだが、この場所が特に多い。同じ位置で、4月に撮ったのが今一つだったので、腰を据えて狙おうかとカメラを構えたら、下の段を通り抜けた誰か、山本さん?の気泡が上がってきて、群を散らしてしまった。また集まるのを待つほどのことではない。
 そろそろ浮上する時間なので、探検部を探す。彼らはタバタの色鮮やかなプラスチックのフィンを履いているので、すぐにわかる。田村君に浮上のサインをする。魚礁から上へ浮上するロープは何本もあるので、荒川さんにどれで上がるか確認する。4月には間違えたので、5月は、いちおうわかってはいるのだけれど、確認する事が浮上の合図になる。
 浮上をはじめて、周囲を見ると、フオローしてくれている筈の寺内羊子が居ない。全周探しても居ない。下にも居ない。鶴町は、僕が寺内を捜しているのがわかっていたという。もう一周探して、少し不安になってきた。上を見上げると上に居た。ロープで上に上がったら降りてきてはいけないのが、ルールだから待っている他なかったのだ。このごろでは僕が先頭で上がるのが常になってしまって、上がブラインドになっていた。その間30秒か1分か?ロストしている。寺内は上から僕をキープしているわけだから、彼女を信じていればそれで、良いわけなのだが、彼女とは年に数回のチームなので、少し感覚がずれた。探検部のユニットの方が良いのでは、と反省した。ヒヤリハットの前段階に反省というのがある。
 3分の停止をして、僕が先頭でボートに上がる。梯子に膝を着くと、寺内がフィンを、これは、間髪を入れずに脱がしてくれる。タンクは背負ったまま何とか上がることができた。

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 昼食は大量のブリの刺身で、荒川さんのごちそうだ。久しぶり、といっても毎月ごちそうになっているのだが、魚を食べた。学生はよく食べるのだが、大量の刺身とご飯を平らげた。
 ログをつけている實藤と、田村に少しだけ講評をした。僕は自分の残圧で、ユニットの圧力を想定して、自分が80のターンプレッシャーで戻るが、探検部は、だれかが、120になったら戻る取り決めになっているという。彼らの方が、安全度が高いかも。
 
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              参加メンバー全員

 付記 波左間で、miho turuoka さん、大きなカメラを持って、すてきなマクロをとっている、カメラマンとご一緒して、フェイスブックの友人になった。 



0525 ダイビングの歴史 73 海の世界74年 8月

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ダイビングの歴史 73
海の世界 1974ー8月 
 海中公園特集のような号である。
 海中公園とは何?
 僕らが通う、館山の波左間は、波左間海中公園である。伊豆には伊豆海洋公園がある。串本には海中居住展望塔がある。房総の勝浦にもある。沖縄の名護にもある。兵庫県の竹野にもスノーケリングセンターがある。
 波左間と伊豆は、自分で命名したもので、法律規則で定められた講演ではない。
 この海の世界8月号にあるように、国の法律で定められた公園が全国で、いくつだろう。全国海中公園ガイドで数えたら、40カ所あった。
 今ごろのダイバーにとって国が定めた海中公園て何?と聞いても、波左間や伊豆は別として、何だろう、そんなものもあったかしらん。という程度だ。ダイバー誌にも、マリンダイビングにも、海中公園の話は、このごろ載っているのを見たことがない。


 海中公園ガイド  日本水中科学協会では、今年のシンポジウムで、海中公園のことを話題として取り上げ、長らく、消滅するまで海中公園センターの中心でおられた藤原秀一さんにお話をうかがう予定だ。大きな問題なので、ワークショップで2回ほど議論してから、シンポジウムへと考えている。




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 では、海中公園とは何で、どんな風にしてできてきたのか。
 「海中公園をダイバーに解放したい。」猪野峻 先生
  
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 海中公園がどうやってできて、どういうことだったのか、この記事でわかる。
 そう、海中公園はダイバーのために作られたものではなかったのだ。では、何のため、誰のため、ここに書かれているが、まとめれば、日本国民の為に、美しい海の中を残しておこう。まあ、ダイバーも日本国民ではあるけれど、前号の菅原久一さんが(スクーバダイバーの第一世代を代表する人、僕は第二世代)魚突き、スピアフィッシングフィールドを作ろうなどといっているくらいで、漁業者との争いを繰り返していたのだから、猪野先生の書かれるように「マナーをみにつけて」ということになる。アクアラングダイビングの海中公園への導入が悲願、だった。
 今、海中公園が立ち上がれば?と思っても、海中公園になりそうなところは、すべて、民間、業界ベースでダイビングサービスができあがっている。ということは、やはり、「なりゆき」で、これで良いのだということになるのかもしれないが、




 海中公園の旅
 そのころの主な海中公園の解説である。 

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海中公園の一方で、
 漁業法規とレジャーダイバー 須賀次郎
 漁業調整規則、漁業法 水産資源保護法について解説している。
 今でもここでした議論、特に共同漁業権についての議論は有効だ。漁業者が死んだりして、いなくなった海に、共同漁業権が設定されているのだ。水産庁沿岸漁業課の丹羽さんと対談している。


 

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例によって日本潜水会のマスターダイバー講習 
 講習課目など、そのころ、自分の主導していたダイビングが、どんな風だったのか 5キロのウエイトをもって10分間立ち泳ぎとか、スノーケルを着けずに50mプール5周(BC.はまだない)そして、事故分析のレポートとか。
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 今 船の科学館の屋外に展示されている 「うずしお」の事故、

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0528 5月26日 お台場 第170回

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 5月は赤潮の季節 赤潮になると透視度が1mを切る。水が赤茶けた色になる。 ただそれだけのことなのだが、都市排水の富栄養の結果であって、東京湾汚染の元凶であるとも言われている。まあ、そうなんだろうと思うが、ダイバーに直接実害があるわけではない。むしろ、今年の赤潮はどんな具合だろうと、面白がったりしている。 春濁りと呼んで、ダイビングポイントのそこかしこが濁ってしまって美しくなくなり、バディともはぐれやすくなる。その春濁りよりも、赤潮の方が良いかな。赤潮もイヤだけれど、慣れてしまっていて「迎え撃つ」そんな感じになっている。何しろ、お台場は、立ち上がれば背が立つような水深だから、濁りの恐怖はない。  ブログは、ログ(記録)なので、メンバーを紹介しておく。こちら側、スタッフとして、尾島夫妻と僕、東邦大学が風呂田 多留、参加者は、小林、奥村、清水まみ、海洋大学OBの江原、と、江原のゲスト(同じ会社)8人だ。
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 天気は快晴で、気温は30度を越えて暑い。 ドライスーツを着るのは暑いが、お台場では周年ドライスーツを着ると決めている。 そして、今日の一つの課題は、昔使っていたマンティスドライフィン、これはレッグウエイトを着けないで済むようにフィン自体が重くなっていて、ブレードもやや大きめ、ポケットは大きくて、スプリングのバックルになっている。このフィンを引っ張り出してきた。使ってみる。
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 尾島さんの海洋観測では、表面の水温は25度、水深1。5mになると、急に5度さがって水温20度になるという。 尾島さんがゴムボートキングジム号の警戒船看板 標識を完成してくれた。この看板で警戒船だとわかる。船というには小さすぎるが、看板をあげると貫禄がついたようで、かっこいい。
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 お台場ではダイブコンピューターが浅すぎて正確に作動しないので、ログは、Olympus TG4の上にのせたウエアラブルカメラのタイマー表示で測定する。のだが、今日の失敗は、そのウエアラブルカメラのAKASO braveが、まわっていなくて、戻り道、11時20分から撮影開始で、重要部分の撮影ができていない。回っているのを視認、確認しているつもり、目で見ているつもりなのだが、表示が小さいので、見損じていたのだろう。以後注意 ヒヤリハットの前段階として「反省」というのを作ることにしたのだが、その「反省」だ。反省は、「反省した」と記録に書いておく。  例によって午前中は身体のエンジンがかからない。奥村さんに手伝ってもらっての、荷物積み込みなどで身体を動かしたので、幾分ウォーミングアップにはなっているのだが、それでも、動きが鈍い。暑さのなかをドライスーツにのろのろと、入り、いやいやながら7キロのベストを着け、これを着ければダイビングモードにスイッチが入るだろう、などと言いながら4キロのベルトを着ける。
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 今日のもう一つの課題で、90個のLCDライトとウエアラブルカメラを組み合わせ、0、5キロのウエイトの上に張り付けた設置カメラを持って行く、カメラの前で、牡蠣を砕いて、カニとハゼを集めて定量しようという試みだ。濁りでロストする可能性が高いのでブイとロープを着けた。これを右手に持ち、左手でOlympus TG4とAKASO braveで撮影しながら泳いでいく。両手がふさがっている。これが、AKASO braveが回っていないのに気づかない理由になったのだろう。といいわけする。 今後は、目の前にカメラを構えて、ウエアラブルカメラの液晶を見ながら泳ぐというフェーズを水に入ってすぐの段階、そして目標地点での撮影の前に必ず入れるようにしよう。反省 尾島さんにタンクを背負うサポートをしてもらう。タンクを背負って歩くと、予想していたよりも、しっかりした足どりで歩くことができた。調子は悪くない。 フィンも多分自力で履けたかもしれないが、尾島さんに頼んでしまった。ドライフィンで後ずさりの歩きも悪くなかった。泳ぎだしてのバランスも悪くない。今後はこれをドライ用正規としよう。前にもこのドライフィンだったが、あおり足をするようになって、スーパートライスターに換えたのだった。 泳ぐバランスもドライフィンが悪くない。 ただ、絶対に顔に合っているはずのラクーンマスクが右の豊齢線あたりから水が漏れ入って来て、しかも抜け出にくい。 やはり透視度50cm以下では魚も見つけにくい。時々、といっても2回ぐらいか、クロダイとおぼしき魚が眼の下を横切る。  途中、清水まみとぶつかってラインが混乱して、頭をだす。後から考えれば、このあたりで彼女はイシガニ4匹を見ている。僕もこのあたりで、前に良いショットを撮影している。濁りがきつかったので僕は通過してしまった。反省  ゴールとしている杭の列に到着した。 いつもの杭の下にイシガニがもぐっていた。Olympus TG4と取り付けたAKASO braveで撮った。Olympus TG4はうまく撮れず、AKASO braveは回っていなかった。
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 そのまま左に移動して、底を見ると、3cmのマハゼ、稚魚が固まっていた。かたまってはいたが、例年ならば、この固まりはもっと広がっているはずだし。そこここに見られるはずだ。今年は、やはりマハゼは少ないのか。次の6月で、赤潮が去ってもう少しよく見えればと期待しよう。 Olympus TG4での撮影は濁りのためか、オートでピントが合わず、「この絵でマハゼが何尾みえますか?」というクイズのようなものになってしまった。おもしろいけど、失敗だ。同時に回っているウエアラブルカメラでは、ややシャープな絵が撮れているはずなのだが、それが回っていない。
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 せっかく、水中で片手を塞いで、苦労して運んできた設置カメラだ。そこに置いて、自分の姿を撮ってみた。赤潮の中でどのくらい離れたら姿も見えなくなるか。撮影の結果は、3mも離れると見えなくなる。くっきりと見えるのは50cmぐらいだろう。透視度という単位、考え方は、全くのアナログ、つまりいい加減なものだ。経30cmの白色円盤(セッキー円盤)が、形が歪む距離という、人間の眼で判断、測定するのだから、なんともいい加減な測定だ。 もう一つ濁度という測定があり、水を汲んできて実験室の中で、光学的に測定する。これはやや正確だが、潜水してみた海の中は、上下左右にだんだらだ。どこの水を汲めば良いのだ。そんなことで、こうして映像に撮って判断するのが、ダイバー的には納得ができる。 この撮影結果は赤潮としては、まあまあ、普通、もっとひどければ手の先も見えないで暗黒になる。それでも、見える地点では見えるのだが。 
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 設置カメラをさっきのイシガニ住居の前に置いてみた。こっちのカメラ、SJ4000は、廻っていたりいなかったり、不安定なので、慎重に確認する。だから廻っていて、これは撮影できた。この時に撮影したOlympus TG4の方は、撮れてはいたけれど、撮れていたというだけだ。  このまま設置カメラをイシガニの前に置いておこうかとおもった。30分のうちにイシガニは出て行くだろうか。後から考えれば、置いておくべきだったと思う。しかし、この位置はエントリー点から120mで、少し遠い。後からの回収が面倒だ。それに、このカメラを持ってきた目的は、牡蠣を割って魚、カニを集めて定量することだ。そして、設置地点は、泳ぐコースの中間地点にある材木(ここは貯木場だったので、引き上げこぼれの太い材木がいくつか残っていて、ランドマークになっている。そこに、カメラを置けば、いつも同じ位置で観測ができて、定量測定の効果がある。戻り道で、その木の位置に置こうと思っていた。  水深1,5mで20℃だが、ドライスーツにインナーは着ないでTシャツでもぐっているので、寒くはならないが冷たい。  メバルの稚魚(3cm)1尾居て、アゴハゼと一緒に撮影した。このメバルは逃げなかった。3月から同じ、この位置にいる1尾、同じ個体かもしれない。 
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 ランドマークの丸太の位置についた。カメラを置いて、生きている牡蠣を見つけようとするが、あいにくと見あたらない。牡蠣を開くために、100均で買った小さな釘抜きハンマーをライトのウエイトにゴムでくくりつけて置いた。一つだけカメラの前に牡蛎が居たので、釘抜き部分を牡蠣の殻の隙間に差し込んで開けようとしたら、閉じられてしまった。ハンマーの部分で叩いて殻を壊そうとしたが、なかなか、壊れない。やっと壊したが身が入っていない。これでは魚も集まらないだろう。
 そうこうしているうちに、残圧が50に近くなってしまった。いつもは100残して2回目のダイビングに使う。50では、ここまで来られない。新たにもう一本使うべきだろうか、カメラの設置をやめて戻ることにした。
 赤潮の中、今日は、これだけもぐればもう良いだろう。消極的姿勢、思考だ。しかし、ダイバーは消極的姿勢、思考の奴が生き残っている。行け行けだったら、生きられないと大学4年の時の事故で学んだ。元来は行け行けなので、そのあたりが僕の人格、行動をわかりにくいものにしている。と同時に、僕が生き延びて居るのも、この消極性のおかげだとも思う。
 しかし、これもあとから考える、反省すると、残圧50を使って、生きている牡蠣を見つけて、材木の陰にカメラを置くべきだった。
 そして、戻ってからの清水まみ聞いた、イシガニ4尾がいた情報の地点を目指して出てくるべきだった。イシガニを見て、撮影してから、設置カメラを回収して戻る。べきだった。


 エキジットは、自分でドライフィンははずしたが、尾島ママが迎えに来てくれたので、フィンは預けたが、タンクは背負ったまま、しっかり立ち上がり歩いてベーステントに戻った。体調は悪くなかったのだ。


 記録カメラが半分は廻っていなかったのだが、11時30分が戻り道の丸太地点、エキジットが11時46分、潜水開始が10時40分頃だろう(記録がない)、潜水時間は70分と、いつもよりも10ー20分長かったのだが、砂地部分にもマハゼが居たということなので、そして、ドライフィンも快調だったのだから、タンクを換えても、二回目の潜水をするべきだった。反省


 反省ばかり下が、トータルして良いダイビングだった。だからこそ二回目にいくべきだった。

0531 スキンダイビング セーフティ まえがき あとがき

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2015年に作った「スキンダイビング・セーフティ」おかげさまで好評。そして、この4年間で、スキンダイビング事情も大きく変化した。そしてまだまだ変わっていくだろう。ダイビング業界のメインフィールドがスキンダイビング、素潜りになるかもしれない。フリーダイビングに熱中して、50mまで潜ったとしても、テクニカルダイビングで50mもぐるほどのお金はかからない。フィンとマスク、ウエットスーツだけ持てば世界中、どこの海でも行かれる。荷物もいらない。もちろん人口に比例して事故も起こるだろう。 かなり苦労して、改版した。そのまえがきと、あとがきだ。まだ、決定稿ではない。こんな本ですという、PRもかねて、ブログに。 
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 まえがき 改版にあたって、執筆者4人のキーワードは「多様化」であった。 水に潜ってはいけない、水に浮く胴衣を身体に固着させて、水面を浮き漂うことだけのスノーケリングから、気楽に自由に水中を飛ぶスキンダイビング、身一つで、100mを越えて潜る、それこそ命がけで安全をキープするフリーダイビングまで、巾が広すぎ(海は広い)奥行きが深すぎる。執筆者4人の立ち位置も、バリバリの競技者であり、講習によるスキルアップ(安全とチャレンジの両立)を目指す岡本、6歳から80歳越えまでの生涯スポーツを実践しようとする須賀、教育者として、学校教育から研究者のフィールドワークまでの水中活動を向上させようとする千足、藤本は生理学の視点から総括するが、とてもまとまるものではない。 初版の時から、あえてまとめようとはしなかったが、それぞれの距離はますます離れる傾向(多様化)である。一番困ったのは潜らないスノーケリングを素潜りの仲間に入れるか?であったが、読者はそれも含めて多様化するスキンダイビング(素潜り)ワールドを俯瞰し、活動の安全を自分のものにしていただきたい。
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 あとがき まえがきで、まとまりのつかない私たちのスキンダイビングワールドについての執筆者の苦労?について述べたが、あとがきで、多様化のそれぞれを項目立てしてみよう。
    少子化が進む日本の小学校中学校教育の中で、何とかして、絶対的な安全を目指しつつ、海、水辺との直接的なふれあいを求めるスノーケリング。生涯スポーツとして、高齢化社会のQOLを求めるスキンダイビング高校教育(海洋高校、水産高校など)としてのダイビング、大学でのサークル活動、部活動としてのスキンダイビングスクーバダイビングの基礎としてのスキンダイビングレスキュー活動(セルフレスキューを含む)の基本としてのスキンダイビング。この分野については、社会スポーツセンターの主催する全日本水中スポーツ室内選手権大会がある。ドルフィンスイミングなど海での多彩なレクリェーション活動、研究者のフィールドワークとしてのスキンダイビング競技スポーツとしてのフリーダイビングフリーダイビングの能力を生かした水中撮影など、水中活動。海女、海士 など沿岸漁業との連携の可能性。
  多様化、そしてその隙間には未解決な問題が多数見て取れる。腰を据えて、時をあらため、この執筆チームで取り組む可能性を考えている。 しかし、そのチャンスがあったとして、この本、スキンダイビング・セーフティは、別のものとして残る価値があると自負している。  順天堂大学名誉教授の河合祥雄先生にいくつかのアドバイスをいただいた。お礼申し上げる。                    須賀 次郎
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 ブログのあとがき この本のカオス状態が好きだ。こんなこと、本のあとがきには書けないけど。

0605 ダイビングの歴史74

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まさか!ダイバーが シロワニをナイフで刺そうとしている?

ダイビングの歴史 74 海の世界 74年 9月-10月
 
 早く、雑誌の紹介、ノート取りから抜け出したい。抜け出して小史を書きたい。小史をまとめ、年表に細部を書き加えて、まとめれば、出版に歩みを進めることができる。そんなまどろっこしいことをしている時間は、僕には残されていないのでは?とにかく急ぎたいのだが、投げ出すわけには行かない。昔のことを書くとき、どうしても自分、書き手の視線になる。それが歴史と言うものなのだが、できるだけ間違いのない、思いこみの少ない、客観的資料の裏付けが必要である。それがこの雑誌を読み込んでノート(ブログ)を書いている理由である。
 最近だが、引用文献として、ブログに載せた「海の世界」を使った。どこにあるかわからない(国会図書館)でも大変(ほぼ不可能)だろう。ネットに原型を載せておくことで、資料文献になる。あとでindexを作るのが苦労だろうが、今、同時進行でindexを作る余力は僕にはない。

 海の世界 1974 9月

 スピアフィッシングの時代は終わった。「漁業法規とレジャーダイバー」長く続いた僕の連載、「これからのダイビング」もこれで最終回。
1974年からみたこれから、そしてこれからがずっと続いて、2019年になっている。数えてみると45年前だ。 法規では、潜水、水中めがねをつかっての魚突きは、日本の大部分の海で禁止だ。しかし、法規は法規として、やりたいことはやりたい。それが漁業者(生活者)の迷惑にならなければ、良いのではないか、漁業者から内諾を得れば良いのではないかと考える人、考えるダイバーは多くて、今でもそれは続いている。
 ダイバーは法律に縛られたくない。高気圧作業安全衛生規則もダイバーを縛る法律、特にレジャーダイビングについては、この規則は守り難く、魚突きでなくても、ダイバーは法規に違反しているのだから、みな同類?
 その中で、魚突き以外のダイビングの楽しみかたを模索し、こころみていたのが、1970年代の僕たちだった。 大橋禄郎さんと議論している。
 大橋さんは、魚突きをやめようといいながら、ショップにはキラキラ、水中銃をかざっている。これをそのままにして、議論をしてもどうにもならない。この業界、やめようといいながら水中銃を店にかざっている。
それで話にならないと言う。
 
 2019年のいま、ダイビングショップの店頭の水中銃を飾っている店はほぼ無い。魚突きをどうしようという議論もなくなった。これは、僕たちの努力の結果だと思う。が、スピアフィッシングはなくなっていない。一応視界の外には出たが、アンッタッチャブルになっただけだ。原則として、漁業者以外の魚突きダイバーは、ダイバーの人別にはいれてもらえない。このあたりが、なりゆきの到達点かもしれない。 幸い、多くのところで、スピアフィッシングの対象だった大型の魚たちがダイバーのお友達になっているが、懸念は、磯釣りで釣られて殺されてしまうことだ。館山の伊戸などは、昔のスピアフィッシングマンが見たら、狂喜して虐殺に励むだろう。ダイバーは磯釣りの根掛かりの道具などを、クリーンアップして、釣り師は、ダイバーの友達の魚を釣り上げる。そういう時代になった。
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 10月号
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 魅力いっぱい太平洋の無人島 赤間憲夫
 八丈島の赤間君が、八丈を南に下って、べよねーず、スミス、そして鳥島までを紹介する。
 そのころ、なにをするかと言えば、超大物のイソマグロを突く、赤間君はスキンダイビングで突く。
 1985年、赤間君と一緒に、鳥島のさらに先、霜婦岩までイソマグロを追って行く番組をNHKで撮影した。NHKだから、規則を破るわけには行かない。赤間君は八丈島漁協の組合員になっていて潜水漁の許可もとっているから、大丈夫ということで撮影した。
 番組的には成功したが、当時大学生、法政アクアクラブの須賀潮美(娘)から、「お父さん、こんな番組をやっていると若者の支持をうしなうよ」と指摘された。
 さらに歳月が過ぎ、独立したが、ファミリーのつもりの中川河童隊が、無人島生活で魚を突いて自給する番組「とったどー」で成功した。これは、組合の許可を得ていれば良いという理屈だが、魚突き推奨番組であることはまちがいない。自分も赤間君と一緒におなじようなことをやっているから、文句は言えない。
 2010年以降、世の中の流れとして、スピアフィッシングをやろうとするならば、このスミス、ベヨネーズ、鳥島 あたりまで行かなくてはダメと言うことで、それも、そんなところまでお金をかけて出て行くのならば水中撮影という時代になっている。
 なお、八丈島からのボートのチャーター料は、赤間さんの場合、三日間で50万(1974年当時)であった。すべて船中泊 10人ほど乗れるが、甲板で寝袋も覚悟する。
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 小笠原 クローズアップ日本の海

 当時小、笠原水産センターで、ウミガメの増殖をやっていた、倉田洋二先生、おがさわらダイビングセンターの古賀さん、小笠原支庁の渡辺さん(この方は知らない)の対談で小笠原の海のすべてを語っている。(1974年当時の) 小笠原の受けている海流のこと、大きな海蝕洞の中のエビの大群とか、ところで、今の小笠原、あのイセエビは、まだ群れているだろうか。
その頃の小笠原のこと、少し書こう。この座談に出てくる、古賀さんと、倉田先生のことだ。
 小笠原返還が1967年、だから、1969年頃だったと思う。小笠原に警察官として赴任した古賀さんは、小笠原の海の虜になり、警察を退職して、ダイビングサービスを始めるという、日本船水塊で相談を受けた僕は、「悪いことは言わないから、おやめなさい。」とアドバイスした。そのころ、まだ海のものとも山のものとも見当がつかないダイビングサービスのような商売が警察官としての、スクエアなキャリアの古賀さんには向かないかと思った。幸いにも大成功をおさめるのだが。(僕のアドバイスは、だいたい外れるので、その逆をやると成功するのではないか、とこの頃思っているが)
 倉田先生は、1958年、僕が大学4年生の時、伊豆大島で、卒業論文を書いた。そのとき、大島の水産試験場で要職にあった倉田先生のお世話になり、そのバーターとして、一緒に2回ほど潜水して、
若干のアドバイスをした。
 僕が初めて、小笠原に行ったのは、1971年だっただろうか。未だ、小笠原海運の小笠原丸はなくて、東海汽船の小さな客船、黒潮丸が就航していた。そして、小笠原には、まだ一般の人が宿泊する宿がなかった。上下水道の設備が出来ないので、ペンションも民宿も許可にならないのだ。かつて、戦争時代、小笠原には多数の日本人が住んでいたが、当時は下水などなく、糞尿はくみ取り、下水は垂れ流しだった。米軍が占領時代に、上下水道が作られたが、それで、住める人数は限定されていて、島民にならなければ、小笠原に宿泊はできない。僕は倉田先生の弟ということにしてもらって、倉田先生の官舎に宿泊させてもらって、古賀さんと一緒に潜水ができた。 古賀さんは旧島民にいじめられて、ボートの栓が抜かれ、沈められてしまっていたので、僕は岸からのエントリーポイントでしか潜れなかった。 そんな時代もあった。

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 トラック
 トラックの大酋長相沢さんは、プロ野球、東急フライヤースの選手(投手)だった。2ー3勝はしただろうか、というていどだから大した選手ではないが、それでもとにかくプロ野球の投手なのだ。草野球ではない。
 ダイビングについて語っているが、トラックの鮫が人間、ダイバーをもしかしたら噛むかも知れないが、アタックして殺すことはない。
 訪れた日本人ダイバーがモラルがない、ようなことを言っているが、僕を含めて、そんなことはないとおもうが。日本の漁業規則は守らなくても良いと考えている人たちが、トラックへ魚突きをしたのだから、大きなことは言えないけど、
 でも、今、相沢さんどうしているだろう。いろいろなことがあったけど。
 
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0617 スノーケリングとスキンダイビング

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スノーケリングとスキンダイビング 親と子のスノーケリング教室
  スキンダイビング・セーフティという本の、2訂版の校正を終了した。スノーケリングとスキンダイビングのすりあわせにだいぶ苦労した。それぞれの意見の違いがあるから、調整できない。読者に判断してもらうようなことになった。 一方で、浦安市民屋内プールでの、「親と子のスノーケリング教室(全4日間)を終了した。このスノーケリング教室は2000年からなのでこれで、18年目になった。
 このスノーケリング教室をはじめたころ、スノーケリングとは、「耳抜きをしない、一応教えるけど、できなくても潜れる深さ、水深、2ー3mまでの深さで、気楽にできる範囲で潜れるフィン・マスク・スノーケルを使って安全第一で潜って泳いで遊ぶこと」となっていた。
 しかし、それ以後、2004年頃から、社会スポーツセンターという、自分が常任理事を勉めていた法人が、スノーケリング協会という全国組織を立ち上げ、スノーケリングとは、「安全のために、カポック、発泡スチロールなどの浮力体で作ったジャケット(胴衣)を身につけて、浮き漂って水中を観察したりする遊び」と定義して、水にもぐる素潜りは、スノーケリングではないとされた。
 浦安プールには、床が可動式で、水深3mまで深くできる。このプールでの講習が、浮力体を付けて、潜れないのでは成立しない。潜るのだからスキンダイビング教室とすれば、良いわけだが、一度決めた名称というもの、それが、公のものであれば、容易にはかえられない。
 それに、周囲では全員泳いでいるプールで、胴衣を着けて浮いている練習などできない。そして、それが成人だった場合には、海ではジャケットを着けてくださいね、と言ったところで、着けてもらえない可能性の方が大きい。それで、親と子のスノーケリング教室ということで、子供は6歳からだが、必ず親子のバディできてもらうことにした。
 しかし、子供にしても。プールに浮かしておくだけでは、4日間の講習を持たせることは難しい。それに、こんなスノーケリングなどならいにくる子は、積極果敢に潜りたがる。ならば、どうしても潜りたい、ダイビングしたい子供たちのために、クラブを立ち上げることにした。浦安フリッパークラブの誕生である。
 子供が楽しく遊べるように、水中ホッケー、フリスビー(アクアディスク)そして、そのディスクを使ったラクビーもやった。親子対抗のゲームもした。千葉県館山に遠足にも言った。でも、労多くして大赤字で、続ける事ができなかった。ただ、2004年に来た、村上緑ちゃんは、その後も、別にやっている辰巳国際水泳場のスキンダイビング練習会にも参加し、御蔵島のドルフィンスイミングにも、行き、スクーバもならい、今でもGWに行う恒例のツアーでは、僕のサポートをしてくれる。彼女は去年大学を卒業して、社会人2年生だ。
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2004年の緑
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             今の緑
 なお、執筆中のスキンダイビング・セーフティでは、スキンダイビングの範囲は、水深10mまでとされていて、水深10mまで潜るとなると、かなりの練習が要求される。また水深10mを超えるとフリーダイビング競技の守備範囲になり、特別な準備をして、専門のインストラクターの指導を受けなければ危ない。
 自分自身も、今(84歳の今)水深10mは難しい。海ではせいぜい8mだろう。なにも、10mまでと言っても、10mまで潜らなくてはいけないと言うことではなく、気楽に3m程度まで、潜ろうとする、従来のスノーケリングで満足しても、良いわけだが、やはり、10mというと、練習を積んで、10mまで潜りたい人が多い。
 人間の潜る深さには、まず耳抜きが必要な5mに壁があり、次に5mの壁、8mの壁、そして10mの壁がある。無理をするなと言っておけば、浦安のプールは3m、辰巳国際水泳場のダイビングプールの深さは5mだから、5mより深くは潜れないわけで、問題はないのだが。
 浦安プールのスノーケリング教室は、水深1。2mまでにして、素潜りもさせて、「海に行くときには、かならず、ジャケットを着けてくださいね」とお願いをして、その要旨を書いたプリントを渡している。
 このお願いを守ってくれている限り、このスノーケリング教室は、安全度について、パーフェクトだろう。つまり、1。2mまで潜れる練習をした上で、胴衣を着けて潜らせないのだ。
 浦安の、親と子のスノーケリングは、親としては、絶対に子供は手の届くところに、子供としては、親から離れないバディシステムの繰り返し練習をしているので、このバディシステムを守ってくれれば、胴衣を着けている限り安全だろう。
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 僕は、最初の段階で胴衣を着けることには賛成だ。その提案者の一人でもあった。ちょうど今教えた子でも、小学校低学年の子は、ずいぶん上手に泳ぐなあ、と思った次の瞬間、スノーケルを口から離して、外の空気を吸いたがる、つまりおぼれる態勢になる。そのときに、近くにフロートがあれば、溺れないが、フロートを必ず上に置いておくというのも難しい。やはり、胴衣は必要である。
 ただ、この胴衣スノーケリングで疑問に思うのは、何時、どのようにして胴衣、ジャケットを脱ぐのだろう、ということだ。このまま胴衣スノーケリングを習った者は、生涯、潜ることなく、水面に浮き漂っているのだろうか? それは、別のスキンダイビング講習会を受ければ、良いわけで、スキンダイビングの講習会も今後は多く開かれるようになるだろう。
 しかし、その講習会はどこで、誰が、どんなプログラムでやるのだろう。
 スキンダイビング・セーフティ 2訂版では、フリーダイビングのチャンピオンである岡本美鈴がスキンダイビング講習のすすめを書いてくれた。具体的な練習方は海洋大学教授の千足先生が書いてくれている。
 ただ、それでも、水深3mを超え、5mを超え10mまで潜るのは独習では危ないという考え方もある。僕をはじめとして、昔の子供は、海辺で素潜りを勝手に練習して、10mを越して潜れるようになったが、その時代は子供の水死をよく見かけたものだ。現在、そんな乱暴なことはできない。
 スクーバダイビング指導団体のスキンダイビングテキストもNAUIなどは、良いものを出しているし、やがてPADIも、その他の団体も出すだろう。
 
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 一方、スノーケリングについては、「長谷川伸一著 スノーケリングテクニックガイド 誠文堂新光社 2013」があり、これはスノーケリングといいつつも、5mぐらいまで潜るテキストであり、美しい写真も多数入った、おすすめできるテキストである。そのうちの一冊は、今は亡くなってしまったが、僕のサポートをしてくれていた鶴町君が写真を担当している。
 たとえば、浮くスノーケリングから、胴衣を脱いで潜るとして、そのスキンダイビングを、スキンダイビングその1、水深3mまで、その2、3mから10mまでとすれば、その1のテキストとして、このスノーケリングテキストガイドは、とても良い本だ。 今日(6月14日)次回の日本水中科学協会のワークショップ、続いてシンポジウムの発表として、元海中公園センター主任研究員の藤原さんに講演をお願いする打ち合わせをした。現在、海中公園センターはもう無い。環境省が予算を打ち切った。2002年で終了した。
 その海中公園の中で、兵庫県竹野の海中公園は、スノーケリングセンターである。
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            竹野のスノーケリングー(ホームページから)
 竹野スノーケリングセンターでは、ウエットスーツとライフジャケットを着けて泳いでいる。スノーケリング胴衣ではないので50cmぐらいは潜れるだろう。少しは潜れるスノーケリングは健在である。ウエットスーツを着けてウエイトを着けなければ、危険なほどは潜れない。ただ、ウエットスーツは高価で、サイズをあわせなければいけない。そして、子供は成長が早いので、このようなセンターがないと無理だろう。
 学校教育、臨海学校ならば可能である。そして、ウエットスーツならば、泳ぎの上達とともに、若干のウエイトを着けて潜るようになることもでき、緊急の時に、ウエイトを落として、対処する練習もできる。落としたウエイトも、決まったエリアの範囲であれば、確実に回収できる。
 胴衣を着けた浮き漂うスノーケリングから、胴衣を脱いで、少し、3mぐらい潜れるスノーケリングに脱皮することができる。実はこのことは 200年に行われたエコツーリズムシンポジウムでの発表にも提案されていた。 また、学生クラブなどで、スクーバダイビングに先駆けての練習としてのスキンダイビングは、スクーバに移行してからのAGEを防ぐために、息を吐き出しながらのディスプレースメント浮上を行わせる。この方式では5mを超えると、ブラックアウトの可能性が高くなる。限度を超したためのブラックアウトである。ローカルルールとして、2mを超えないスキンダイビング、学生のスクーバダイビング練習のための、またタンクを背負えなくなった高齢者のための、5mを超えないスキンダイビングを考えて行きたい。
 一方で、10mまでのスキンダイビングをインストラクターの指導のもとで、きっちりと練習することもわるくはない。
 5mを超え、10mまで潜るスキンダイビングは、きっちりとした指導を受ける必要がある。スキンダイビングの範囲は水深10mまでだが、自由に楽しく、遊ぶのは5mまでである。昔、それをスノーケリングとよんだ。

0617 スノーケリングとスキンダイビング

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スノーケリングとスキンダイビング 親と子のスノーケリング教室
  スキンダイビング・セーフティという本の、2訂版の校正を終了した。スノーケリングとスキンダイビングのすりあわせにだいぶ苦労した。それぞれの意見の違いがあるから、調整できない。読者に判断してもらうようなことになった。 一方で、浦安市民屋内プールでの、「親と子のスノーケリング教室(全4日間)を終了した。このスノーケリング教室は2000年からなのでこれで、18年目になった。
 このスノーケリング教室をはじめたころ、スノーケリングとは、「耳抜きをしない、一応教えるけど、できなくても潜れる深さ、水深、2ー3mまでの深さで、気楽にできる範囲で潜れるフィン・マスク・スノーケルを使って安全第一で潜って泳いで遊ぶこと」となっていた。
 しかし、それ以後、2004年頃から、社会スポーツセンターという、自分が常任理事を勉めていた法人が、スノーケリング協会という全国組織を立ち上げ、スノーケリングとは、「安全のために、カポック、発泡スチロールなどの浮力体で作ったジャケット(胴衣)を身につけて、浮き漂って水中を観察したりする遊び」と定義して、水にもぐる素潜りは、スノーケリングではないとされた。
 浦安プールには、床が可動式で、水深3mまで深くできる。このプールでの講習が、浮力体を付けて、潜れないのでは成立しない。潜るのだからスキンダイビング教室とすれば、良いわけだが、一度決めた名称というもの、それが、公のものであれば、容易にはかえられない。
 それに、周囲では全員泳いでいるプールで、胴衣を着けて浮いている練習などできない。そして、それが成人だった場合には、海ではジャケットを着けてくださいね、と言ったところで、着けてもらえない可能性の方が大きい。それで、親と子のスノーケリング教室ということで、子供は6歳からだが、必ず親子のバディできてもらうことにした。
 しかし、子供にしても。プールに浮かしておくだけでは、4日間の講習を持たせることは難しい。それに、こんなスノーケリングなどならいにくる子は、積極果敢に潜りたがる。ならば、どうしても潜りたい、ダイビングしたい子供たちのために、クラブを立ち上げることにした。浦安フリッパークラブの誕生である。
 子供が楽しく遊べるように、水中ホッケー、フリスビー(アクアディスク)そして、そのディスクを使ったラクビーもやった。親子対抗のゲームもした。千葉県館山に遠足にも言った。でも、労多くして大赤字で、続ける事ができなかった。ただ、2004年に来た、村上緑ちゃんは、その後も、別にやっている辰巳国際水泳場のスキンダイビング練習会にも参加し、御蔵島のドルフィンスイミングにも、行き、スクーバもならい、今でもGWに行う恒例のツアーでは、僕のサポートをしてくれる。彼女は去年大学を卒業して、社会人2年生だ。
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2004年の緑
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             今の緑
 なお、執筆中のスキンダイビング・セーフティでは、スキンダイビングの範囲は、水深10mまでとされていて、水深10mまで潜るとなると、かなりの練習が要求される。また水深10mを超えるとフリーダイビング競技の守備範囲になり、特別な準備をして、専門のインストラクターの指導を受けなければ危ない。
 自分自身も、今(84歳の今)水深10mは難しい。海ではせいぜい8mだろう。なにも、10mまでと言っても、10mまで潜らなくてはいけないと言うことではなく、気楽に3m程度まで、潜ろうとする、従来のスノーケリングで満足しても、良いわけだが、やはり、10mというと、練習を積んで、10mまで潜りたい人が多い。
 人間の潜る深さには、まず耳抜きが必要な5mに壁があり、次に5mの壁、8mの壁、そして10mの壁がある。無理をするなと言っておけば、浦安のプールは3m、辰巳国際水泳場のダイビングプールの深さは5mだから、5mより深くは潜れないわけで、問題はないのだが。
 浦安プールのスノーケリング教室は、水深1。2mまでにして、素潜りもさせて、「海に行くときには、かならず、ジャケットを着けてくださいね」とお願いをして、その要旨を書いたプリントを渡している。
 このお願いを守ってくれている限り、このスノーケリング教室は、安全度について、パーフェクトだろう。つまり、1。2mまで潜れる練習をした上で、胴衣を着けて潜らせないのだ。
 浦安の、親と子のスノーケリングは、親としては、絶対に子供は手の届くところに、子供としては、親から離れないバディシステムの繰り返し練習をしているので、このバディシステムを守ってくれれば、胴衣を着けている限り安全だろう。
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 僕は、最初の段階で胴衣を着けることには賛成だ。その提案者の一人でもあった。ちょうど今教えた子でも、小学校低学年の子は、ずいぶん上手に泳ぐなあ、と思った次の瞬間、スノーケルを口から離して、外の空気を吸いたがる、つまりおぼれる態勢になる。そのときに、近くにフロートがあれば、溺れないが、フロートを必ず上に置いておくというのも難しい。やはり、胴衣は必要である。
 ただ、この胴衣スノーケリングで疑問に思うのは、何時、どのようにして胴衣、ジャケットを脱ぐのだろう、ということだ。このまま胴衣スノーケリングを習った者は、生涯、潜ることなく、水面に浮き漂っているのだろうか? それは、別のスキンダイビング講習会を受ければ、良いわけで、スキンダイビングの講習会も今後は多く開かれるようになるだろう。
 しかし、その講習会はどこで、誰が、どんなプログラムでやるのだろう。
 スキンダイビング・セーフティ 2訂版では、フリーダイビングのチャンピオンである岡本美鈴がスキンダイビング講習のすすめを書いてくれた。具体的な練習方は海洋大学教授の千足先生が書いてくれている。
 ただ、それでも、水深3mを超え、5mを超え10mまで潜るのは独習では危ないという考え方もある。僕をはじめとして、昔の子供は、海辺で素潜りを勝手に練習して、10mを越して潜れるようになったが、その時代は子供の水死をよく見かけたものだ。現在、そんな乱暴なことはできない。
 スクーバダイビング指導団体のスキンダイビングテキストもNAUIなどは、良いものを出しているし、やがてPADIも、その他の団体も出すだろう。
 
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 一方、スノーケリングについては、「長谷川伸一著 スノーケリングテクニックガイド 誠文堂新光社 2013」があり、これはスノーケリングといいつつも、5mぐらいまで潜るテキストであり、美しい写真も多数入った、おすすめできるテキストである。そのうちの一冊は、今は亡くなってしまったが、僕のサポートをしてくれていた鶴町君が写真を担当している。
 たとえば、浮くスノーケリングから、胴衣を脱いで潜るとして、そのスキンダイビングを、スキンダイビングその1、水深3mまで、その2、3mから10mまでとすれば、その1のテキストとして、このスノーケリングテキストガイドは、とても良い本だ。 今日(6月14日)次回の日本水中科学協会のワークショップ、続いてシンポジウムの発表として、元海中公園センター主任研究員の藤原さんに講演をお願いする打ち合わせをした。現在、海中公園センターはもう無い。環境省が予算を打ち切った。2002年で終了した。
 その海中公園の中で、兵庫県竹野の海中公園は、スノーケリングセンターである。
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            竹野のスノーケリングー(ホームページから)
 竹野スノーケリングセンターでは、ウエットスーツとライフジャケットを着けて泳いでいる。スノーケリング胴衣ではないので50cmぐらいは潜れるだろう。少しは潜れるスノーケリングは健在である。ウエットスーツを着けてウエイトを着けなければ、危険なほどは潜れない。ただ、ウエットスーツは高価で、サイズをあわせなければいけない。そして、子供は成長が早いので、このようなセンターがないと無理だろう。
 学校教育、臨海学校ならば可能である。そして、ウエットスーツならば、泳ぎの上達とともに、若干のウエイトを着けて潜るようになることもでき、緊急の時に、ウエイトを落として、対処する練習もできる。落としたウエイトも、決まったエリアの範囲であれば、確実に回収できる。
 胴衣を着けた浮き漂うスノーケリングから、胴衣を脱いで、少し、3mぐらい潜れるスノーケリングに脱皮することができる。実はこのことは 200年に行われたエコツーリズムシンポジウムでの発表にも提案されていた。 また、学生クラブなどで、スクーバダイビングに先駆けての練習としてのスキンダイビングは、スクーバに移行してからのAGEを防ぐために、息を吐き出しながらのディスプレースメント浮上を行わせる。この方式では5mを超えると、ブラックアウトの可能性が高くなる。限度を超したためのブラックアウトである。ローカルルールとして、2mを超えないスキンダイビング、学生のスクーバダイビング練習のための、またタンクを背負えなくなった高齢者のための、5mを超えないスキンダイビングを考えて行きたい。
 一方で、10mまでのスキンダイビングをインストラクターの指導のもとで、きっちりと練習することもわるくはない。
 5mを超え、10mまで潜るスキンダイビングは、きっちりとした指導を受ける必要がある。スキンダイビングの範囲は水深10mまでだが、自由に楽しく、遊ぶのは5mまでである。昔、それをスノーケリングとよんだ。

0621 波佐間人工魚礁研究会 6月20日

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 プラン:ログ  date 2019 0620
 第25回 人工魚礁研究会  
 一回目の潜水
 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット 6mFP 10個
 ⑤天候 晴れ 東の風 微弱、 波高0。3m (プランでは予想)
 ⑥風  東
 ⑦水温 23 ℃
 ⑧透視度   m
 ⑨潜水開始予定 10時30分  
   潜水時間    分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深25,8 m
 ⑪潜水終了    
 ⑫インターバル プラン 90分
 ⑬チーム 須賀 山本徹 佐藤允昭 早崎 小俣 
  東大探検部  田村陸タムラリク(3年) 實藤未来サネトウミク(2年)白寧杰ハクネイケツ(2年)
 ⑭バディ A 須賀 佐藤允昭 山本徹
      B 早崎 小俣
      C東大3人  
 ⑮残圧予定  50
  二回目の潜水
 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット ドリーム
 ⑤天候 
 ⑥風  
 ⑦水温 23 度℃
 ⑧透視度 15m
  インターバル 1時間30分
 ⑨潜水開始   時
 潜水時間 30 分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深 22、5   m
 ⑪潜水終了 13 時
 ⑫
 ⑬チーム 須賀 山本徹 佐藤允昭 早崎 小俣 東大探検部 田村陸 實藤未来 白
 ⑭バディ A 須賀 佐藤允昭 山本徹 B 早崎 小俣 C東大3人
 ⑮残圧予定  50 これは、いつも僕が使っているプラン:ログ シートで、このブログにもいつも貼り付けているもの 潜水前のブリーフィングでこれをプリントしたものをチーム全員に渡した。自分としては、これがPCにはいっているので、これに時刻とか水温とかの数値をダイブコンピューターから読みとって記入すればログになる。それに、経過、注意事項などを書き込む。
、プランとログの差を読みとることもできる。自分としては、ようやくたどりついた計画書プランである。
 
 6月18日 久保さんとこの潜水の計画、そして実施について、話し合った。
 この潜水、日本水中科学協会の主催行事として行っている。何事かあれば日本水中科学協会が責任を追及される。その代表理事である須賀の責任も追及される。日本水中科学協会の保険で対処できるだろうか?
 日本水中科学協会の行事とするのをやめてしまう。個人で勝手に、集まって潜っているのならば、責任は発生しない?まあ、バディとしての責任ダイビングの世話をする荒川さんの責任は消せないけれど。
 しかし、日本水中科学協会の設立の目的、目標の最大のものは、日本での海洋研究のフィールドワークの安全確保手段の確立と普及である。これを逃げてしまっては、僕はこの世に存在できる意味が無くなる。
 ダイビングは、突き詰めたところでは自己責任だが、主催者の管理責任が存在する。
 何かが起こり原因が追究される場合、その一が計画と実施の齟齬である。計画が文書として残っていなければ、その説明もできない。
 これまでも、この計画書は自分のPCに入っていて、ログにも、残していたが、それでは証拠記録にはなりにくい。プリントしてブリーフィングで渡すと言うことを、これまで一度しか、それも最初の一回だけしかやってなかったことが、おかしい。 10時30分 潜水開始とすると集合は0930、遅くても10時である。といって、急がせて事故を起こすようなことがあれば、この方が潜水事故よりも恐ろしい。遅れても待っているので焦るな。と言うことで、東大探検部の到着が、予想通り遅れ、ブリーフィングの時間がなくなり、ペーパーを配って、その意味、概略の説明だけで終わってしまった。次回からは、細部の説明それぞれの動きにつての質疑、打ち合わせができるようにしたい。 さて、潜水記録だが、
ログ  date 2019 0620
 第25回 人工魚礁研究会  
 一回目の潜水
 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット 6mFP 10個
 ⑤天候 晴れ 東の風 微弱、 波高0。3m 
 ⑥風  東
 ⑦水温 21℃ 予想は 23 ℃
 ⑧透視度 15 m
 ⑨潜水開始 11時12分 予定の10時30分から42分の遅れだ。  
   潜水時間 30 分 ターンプレッシャー 60 予定は 80
 ⑩最大水深26,1m 予定は25,8m m
 ⑪潜水終了    11時42分
 ⑫インターバル プラン 90分
 ⑬チーム 須賀 山本徹 佐藤允昭 早崎 小俣 東大探検部 田村陸 實藤未来 白
 ⑭バディ A 須賀 佐藤允昭 山本徹
      B 早崎 小俣
      C東大3人  
 ⑮残圧予定  50  実施50強
 
 5月には、この魚礁にイサキの群が来ていたが、まだ付いている状態ではなくで、ダイバーが接近すると魚礁から出て、逃げてしまったので、撮影できなかった。今回は、魚礁の外側を見回りながら接近すること、そして、魚礁の底の、ブロック下のイセエビの確認 オオモンハタとメバルの様子が僕の観察ポイントであることをバディの佐藤君に説明した。佐藤君は、魚類のDNA分析のための魚類観察と水の採取。山本さんは僕と佐藤允昭さんのフォローとサポート、そして自分の撮影。 東大探検部の3人は、前回 5月に見ていたところでは、まとまりがあり、動きにはまったく問題はない。そう、彼らの状況観察も僕のテーマの一つなのだ。
 前回、見ていたら、細いダイブラインリールをラインとして使っていた。ラインを基準にして動くというのは、僕のダイビングコンセプトの一つなので、良いことなのだが、ダイビングのラインでは細すぎて見えにくいし、遠くからはみえない。チームが確認できにくい。使い勝手も良くない。測量用の巻き尺を使ったら、とアドバイスした。アドバイスした手前、持って行ってあげようとした。ところが前回のお台場で使う予定でバッグに入っていたはずなのに、逃亡していてない。およそ2時間探したが無い。次回のお台場でも使う予定なので、アマゾンに発注した。水中で使うので一番安い、1500円のものだ。お台場用なので100mにした。
 間に合わないが仕方がないとあきらめたが、探検部は、30mのものを購入して持ってきていた。そして、30mのものだ。30mで、この調査では、必要十分だ。他の調査でも使うからと大は小を兼ねると100mにしなかったところが良い。30mは、コンパクトで使いやすそうだ。 早崎さん、小俣さんはテクニカルダイバーとして一人前なので、これという指示をしなかった。後から考え、反省するとすれば、東大について、それと無い、ケアを頼んでおけばよかった。つまり、3バディのチームとしての働きの考えが無かった。次回の注意事項にしよう。 僕一人だけ、ドライスーツだ。この前の宿毛で22℃でウエットで寒かった。ウエイトが重いこと、バランスが悪いことを辛抱するのと、寒さを辛抱することを比べて、寒さの方がつらいのでドライにした。この様子だと、周年、南の島に行くとき以外はドライになりそうだ。
  潜水開始して、キヌガワのドライフィンにして、この前のお台場でのテストではバランスが良くなったはずなのに、満足できない。これはもう、高齢者の平衡感覚失調だと我慢する他無いのだろうか。
  
 予想していたように、30cmクラスのイサキが群れていた。今回は魚礁に付いていて、ダイバーの動きで、魚礁から出て行くが、また戻ってきたりしている。また、小さい、10cmに充たないタカベの群も魚礁の中にいる。透視度は、15mとしたが、透明感が今一つ無い。カメラを向けて撮影すると、Olympus TG4が機嫌を悪くして画像が消えた。陸上でカメラがむき出しならば、バッテリーを抜いて、リセットすると元に戻るのだが水中ではできない。バッテリー節約のための自動オフなのかとそれは切ってあるのだが、ときたまこうなる。僕の能力では、理由がわからない。
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             イサキ 右側、タカベ 左側、ここでカメラが止まってしまった。

 仕方がない。AKASO braveに頼る他無い。むしろ、この撮影ではAKASO braveの方がきれいに見えることもある。
 AKASO braveも機嫌が悪くなることもあるので、撮影の赤い点灯を常に確認する。ところが、戻ってきて確認すると、このFP6mのAKASO braveが回っていなかった。作動ランプも確認しているのに、何と言うことだ。こういうこともあろうかと、サブのSJ4000をマスクマウントにして持って行っているのに、これは、AKASO braveが回っていると確認しているので回していない。で、この回の潜水はOlympus TG4のテストとしてシャッターを押している、最初の数枚だけで、映像が無い。イサキも、メバルも、そして、東大探検部も、良い(記録として)映像が撮れているのに悔しい。次回からは、撮影ランプ表示だけを信用しないで、水中で撮れていることの確認をして置かなくてはいけない。そして、マスクマウントも回しておく。 撮れていないカメラで、イサキの様子、メバルの様子。オオモンハタは寄れていないのだが、撮影した。中心部の隙間のイセエビは見られなかった。バランスが悪いので、良いポジションが決まらなかったのだが。小俣さんは底で、4尾見ている。 東大は巻き尺ラインを固定して魚礁の長辺に延ばし、テープに沿って撮影しながら、固定した基点にもどっている途中。しっかり撮影しているので進行速度が緩い。3年の田村君がカメラで、なかなか安定が良い。2年の實藤さんが、巻き尺の操作、同じく2年の白君が、サポートで良いチームワークだ。これを僕が撮っているのだが、撮れていない。
 僕の残圧が80に近づいている。東大にも上がる指示を出そうかとして實藤さんと眼が合いそうになったが、僕のタンクは彼らよりも小さい。それに彼らの空気消費は僕より遙かに少ないはず。まだ120以上残っているはず。そのままにして、僕のバディは浮上した。
 そこで、悔やんだのは、ベテランの小俣、早崎バディに学生のケアを頼んで置くべきだったということ。
 浮上して、先に浮上して待っていてくれる荒川さんにカメラを受け取ってもらい、山本さんにフィンを外してもらう。荒川さんが、タンクは背負ったまま上がりますかと聞いてくれた。自信がないのでタンクは受け取ってもらう。
 荒川さんは、一緒に潜ってくれた全般を見張り、ガードして僕より早くあがり僕を引き上げてくれる。
 僕らの後、学生3人が浮上して舟に上がる。
 次に早崎さん、最後に小俣さんだが、この二人は時間差があった。
 やはり、学生のフォローを頼んで置けば良かった。
 
 二回目の潜水
 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット ドリーム
 ⑤天候 
 ⑥風  
 ⑦水温 21度  予想 23 度℃
 ⑧透視度 15m
  インターバル 118分 プラン90分
 ⑨潜水開始 13時40分  時
 潜水時間 34分 予定30 分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深 23,3m 予定22、5   m
 ⑪潜水終了 13 時
 ⑫
 ⑬チーム 須賀 山本徹 佐藤允昭 早崎 小俣 東大探検部 田村陸 實藤未来 白
 ⑭バディ A 須賀 佐藤允昭 山本徹 B 早崎 小俣 C東大3人
 ⑮残圧予定  50 潜水のインターバルに昼食、荒川さんのカレーは、下手なレストランよりもおいしい。
 食事した分だけインターバルが延びた。 ボートの上で、ドリームの僕のコースを説明した。
 こちらの方は、AKASO braveも、Olympus TG4も問題なく撮影できている。
 どちらかと言えば、FPがメインの気持ちなのに。
 学生に、こちらは巻き尺はいらない、と言おうかとして、言わなかったが、持って入っていない。良い判断をしている。相変わらずまとまりはよくて、カメラを向けると、常に広角170度の範囲に3人が入っている。
 そうだな、バディの間隔として、超広角の撮影範囲に常に入る距離、という表現も使える。
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               狭い魚礁の中でも3人顔を寄せてなにか話し合っている。
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 これまで、日本水中科学協会のシンポジウムでは、学生のダイビングで監督 コーチの講演、発表をお願いしてきて、学習院、芝浦工大、中央、法政と続けてきたのだが、東大は学生に。彼らのシステムについて発表してもらおうかと考えている。自分たちのシステム、フォーメーションについて、かなり、自信を持っていて、確信的に動いているようにみえる。これは、僕が昔、指導していた頃の宿題でもあり、それが完成に近づいているとすれば、それをさらに向上させる意味で、僕らのシンポジウムでの発表、そしてディスカッションは、意義があるだろう。それにつけても、1回目の潜水で彼等を撮った映像のミスが大きい。 手慣れた場所なので魚についてだけ。
 まず、ドリームには、イサキの群がきていない。たまたまだと思うが、イサキが入り込むの二は、ドリームは密にすぎるのかもしれない。
 オオモンハタ、メバルは、予想していたよりも少ない。
 前回5月と同様に大型のカサゴが目に付く。
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               オオモンハタ
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                カサゴ
 
 僕のエキジット、今度はフィンを外してもらっただけで、タンクは背負ったまま梯子を上った。 戻り道、マンボウランドに寄って、ジンベイを見た。僕はタンクをぬいてしまっていたし、それにまたエキジットに手数をかけるのがいやなので、スキンダイビングでの水面から見るだけにした。
 ところが、そのとき、ペンタックスのメモカメラを手にしてバックエントリーで飛びこんんだら、その衝撃でだろうか、カメラが映像を映し出さなくなった。GPSも付いていて、タフが売りもののカメラなのに、寿命だったにしても、脆弱だ。
 その一代前の、同じペンタックスのW90も持っていて、使っていないので、こんどはこれ、W90が壊れるまで使うことにした。このw90の方がデザインとして良いし、大きさも一回り小さいので、後ろポケットに入りやすい。これで良い。 全体の反省をしてみると、僕、須賀と佐藤允昭さんのバディは間違いだった。これまで、バディになっていたのでその流だが、それも含めて、二人とも別の目標を持っている。
 今回、ここでは、小俣さんに佐藤さんのバディを頼むべきだった。
 小俣、早崎のバディ、は上手なテクニカルダイバーどうしの組み合わせで、これもここでは、無い話、うまく機能しない。
 ダイビング中、早崎さんとすれ違うことが多かったから、僕とのバディでも良いし、東大の3人に付いてもらってもよかった。そうすれば、僕の空気が少ないので、先に上がるときに、心を残さないで済んだ。
 人工魚礁という、安全なフィールドで、しかも荒川さんのサポートを受けているので、それだけで十分と、思考が停止していた。
 
 海洋調査探検部については、次回、もう少しコースと彼等のライン調査の方法を議論して、僕の魚類調査と重ね合わせ、僕の被写体が魚類+探検部になるような方法を考えよう。彼等も50周年での記念集会にここでのダイビングを発表する、そのときに、映像があれば、発表の材料になる。 機材はぼろぼろになったが、そのことも含めて、考えることの多い、充実したダイビングだった。
 このブログももう少し推敲したいけれど、その時間がない。
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