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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0312 ダイビングの歴史53 ブルーゾーン2

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広告、ダイビング機材の広告はその時代、その時期を反映する。
 1967年に日本潜水会は、スピアフィッシングの禁止を決議して、魚突きのチャンピオンであった鶴耀一郎は、奄美大島に移住(お父さんの実家だという)プロの漁師、ウミンチューになって魚突きを続けた。しかし、機材販売の世界は、また別の世界。1968年も水中銃が主役。
 しかし、年月が経ってみれば、今はスクーバで魚突きをするレジャーダイバーはいないだろう。ダイビングショップに水中銃は並ばない。ダイビング雑誌に水中銃の記事も、広告もない。
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 左上はスプリング手巻きの16mmシネカメラ、DR70のハウジング
 東亜潜水機で僕がつくって、ボイトの大沢商会が映画関係に販売した。
 ライフジャケットとゴムボート
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  そして、西伊豆雲見を紹介している。雲見は遠かったけれど、どるふぃんでも紹介され、伊豆海洋公園と並んで、二大ダイビングスポットだった
 ※写真を貼り付けて、PCで、見ると拡大して、字を読むことが出来る。スマホは少しつらいけど。

鮫狩り 田口哲
 爆薬で、銛を打ち込む、ポップガンで鮫を撃つことを書いている。
 サメは魚の仲間に入っていない時代 
 。
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 潜水医学に就いて
 海上自衛隊横須賀地区病院 院長 松田源彦
 松田先生は、その後、海洋科学技術センターに移られ、シートピアの指揮を執られる。
 
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 マレス 運道具用品問屋の東京トップ
 
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 ミナミスポーツも1pの広告
 BZM サロンの投稿を見ると、統一とか、きちんとしようという発言がみられる。

 野尻君は 孤軍奮闘してこの雑誌を作り上げた。
 彼は、ダイビングという閉鎖社会で、ダイバーとしての知り合いではなかった。どこからきたのだろう。なにをダイビング界でやろうとしていたのだろう。よくわからなかった。ダイビングは出来たが、素人だった。なにか、スーパーな能力を持っているように思えた。

0316ダイビングの歴史54ブルーゾーンロレックス杯水中スポーツ選手権大会

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ブルーゾーン 1969
 ロレックス杯水中スポーツ選手権大会 「三号雑誌」という言葉がある。三号でつぶれる、三号までしか出せない雑誌のことをいう。カストリ雑誌と言う言葉もある。戦後、ものの無い時代にカストリ焼酎という粗悪な酒があって、三合飲むとつぶれる。具合が悪くなるので、カストリ雑誌と言う言葉もあった。カストリのホウハ、エログロで、内容の方もカストリなのだが。
 ブルーゾーンも3号でつぶれた。
 その2号、探したが無いのだ。しまっておいた記憶があるのだが、探してもない。
 だから、3号。
 この3号、日本の水中スポーツ界にとって大きな意味がある。
 
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 ブルーゾーンがの野尻が営業しててロレックスがスポンサーの水中競技会ができた。これが、今もなお毎年続いている。全日本室内水中スポーツ選手権大会のはじまりなのだ。そして、そのご1975年の沖縄大会。そして、海洋公園での海洋フリッパーレースと続くロレックス時計の後援の始まりだった。ロレックスの援助がなければ、日本に水中スポーツというジャンルのダイビングは存在しなかった。
 そして、世界でも、日本の水中スポーツのようなダイビングはない。
 僕の死後どこまで続くかわからないが、とにかくその始まりが、このブルーゾーン第三号で紹介する「全日本ロレックス杯水中スポーツ選手権大会」なのだ。 そのころ、今でもその名残はあるが、競技水泳関係者には、フィンに対する忌避感がある。わからないでもない。人工の鰭を着けて、自分たちよりも速く泳いでしまうのだ。
 それまで、僕たちは、フィンは速く泳ぐためのものではない。フィンを使うことによって、手を、推進力に使わなくても良い。カメラを持ったりして、手を人間本来に使い方が出来るようにする。知っての通り、人間は二足歩行が常になったことで、人間となった。水中撮影は、人間の水中活動は、フィンがあってこそ誰でもできるようになったのだ。
 古式泳法とか、シンクロなど足だけで勝負する泳ぎもあるが、長いつらいトレーニングが必要であって誰でも出来ることではない。一方で、フィンは、誰でも、使ったその日から、魚のように泳ぐことができる。もちろん上手下手もあり、議論は無数にあるが、それは別の機会に譲って、とにかく、水泳関係者から、フィンは邪道だと憎まれていた。
 今でも、今後も 200年?は、フィンスイミングがオリンピック種目になることはないだろう。
 だから、プールという競泳プールから、フィンは閉め出されていた。ただ一つ、伊豆海洋公園に、海水ではあったが、50mの公式競泳プールがあり、このプールがあったことで、日本潜水会の泳ぐ力至上主義が生まれ、競技会が生まれた。海洋公園の基本コンセプトを考えた益田一の慧眼のおかげだ。
 その水泳界の継子であるフィンで泳ぐ競技会の全面的なスポンサーにロレックスがなってくれたのだ。
 そのロレックスと僕たちを繋いだのがブルーゾーンの野尻純康だった。
 ロレックスについて、説明することはなにもないだろう。超有名、高価ステイタス 水中時計の元祖で、昔も今も雲の上の時計である。もはや時計ではなく宝石の類である。
 ブルーゾーンの野尻が連れてきた。どういう関わりがあったのか?
 特別の縁故関係があったわけではない。タイミングだろうと推察する。雑誌の広告を取る営業に行って1968年に無理矢理にはじめてスタックしていた僕たちの水中スポーツのことを話したら、直ちに乗ってきた。ロレックスはスポーツを応援する。水中、水密が売り物だから、水中競技が良い。オリンピックの競技などは、莫大なお金をかけなければ、スポンサーになれない。それに比べれば、安いものだ。
 それからの、僕たちとロレックスの関わりは、一つの歴史ストーリーになる。そのこと、1章をさいてダイビングの歴史に書いておかなくてはいけない、と今改めて思うのだが、その第一歩、第1頁がブルーゾーンだ。
 ここから先は、ブルーゾーンの3号を見ながら話していこう。
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 それにしても、第一頁に野尻の顔がでてくる。野尻君、今どうしているだろうか。生きているだろうか。
 ブルーゾーンが3号で潰れるとき、飲み明かした。僕も後藤道夫もなにをしてやることも出来ない。僕が東亜潜水機を退社してスガ・マリン・メカニックを作るのが1969年、長どこの年なのだ。自分が食べて行かれるかどうかわからない。何とも出来なかった。
 このブログをどこかで見て連絡してくるかもしれない。ブログ、意外な効果があるのだ。
 
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 頁の順を変えています。
 大会のおいたち
 今回の全国大会開催に当たっては、水中ハンティングをいっさいやめて、ダイビングのスポーツ性を重視した企画からスタートが切られた。昨年夏、日本潜水会の後藤、須賀、浅見氏を中心に準備委員会が設けられ、この大会の企画について、検討がなされた。もっとも肝心なことは、開催に要する費用の捻出であった。
 幸いなことに弊誌ブルーゾーンが窓口となって、ロレックス時計日本本社にこの趣旨を話した所、大いに賛同をうることができこの大会に必要ないっさいの費用と賞品とがロレックス時計によってまかなわれる事が確定した。
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 写真は当時の伊豆海洋公園である
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 頁の順序を変えて並べるが 全国で地域別に10チーム、そのうちで関東はA、B,C 3チーム優勝が関東Bチーム監督が益田一、2位が関東C,監督が鈴木勇 3位が関東A 監督が大崎映晋だ。
 ここから先、写真、名前が出てくる一人一人について、僕には想いがある。本当はその全部を書きたい。ニッポンダイバー列伝が書けるとすれば、これは、写真入りの名鑑になる。が、今ここで書くことが出来ない。 出来るだけ、最小限やってみよう。例によって脱線気味になるが。
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            左端が鈴木勇 益田一 大崎映晋
 益田さん、大崎さんは置いておき,関東Cの鈴木勇について、勇は、中央区大手町鎌倉橋で勇寿司という寿司やをやっていて、突いた魚を握っていた。もちろん、それだけではないが。広義の密漁寿司だが、大のお得意が近くにある全漁連だったのがおもしろい。魚突き命がスポーツ大会の監督、というところが、当時を象徴している。しかし、快男児、気持ちの良い優しい男だった。最後は、これもスピアフィッシングハンターの医師、後藤輿四之先生と一緒に潜っていて(たぶんスピアフィッシング)亡くなった。関東C には、中村宏治(カメラマンで知らない人はいないだろう。)新沼義孝(TAC で指導していた。さっき彼が亡くなっていた話をしたばかり、仲良しだった)藤岡徹 片平恵美子さん 大崎映晋さんが監督の関東Aには、オリンピックチャンピオンの山中毅がいる。そして鶴耀一郎は、重量挙げにでた。ハウジングメーカーになった恒木毅 鬼怒川マスクに行った青木尚之、優勝した益田さんの関東Aは、益田安規 畑成盟は中村宏治の好敵手だった。谷内秀明は、法政アクアの創始者の一人だ。そして、ヨットのカメラマンとしてアメリカズカップを撮り、慶良間のサバニレースをやる添畑薫 
 そして、中部Bチーム 望月昇監督で彦坂隆雄さんがいる。
 知った名前を挙げたら際限がない。
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 大会役員だが、これも当時のオールスターキャストだ。
 舘石昭が関東の代表委員だ。玉置敏雄が関西 後に潜水病で車いすにのる川俣実隆が九州、僕、須賀は、大会実行委員長、以来、今日の室内選手権まで、50年実行委員長をやっている。田口哲も高橋実も、田中龍彦、ダイブウエイズの武田寿吉 
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 大会は5月9日集合で、10日の土曜日、11日日曜日 二日にわたって行われた。
 競技種目だが フリッパー競泳は 男子800m、女子300m
 スクーバを付けた潜水競泳は1000m
 そして水中射撃は、35m水平潜水していって、定められたラインの内側から、3m先の標的を打ち3回トライの合計得点を争う。
 水中重量挙げは海、海洋で行われて、水深8mの海底にウエイトベルトを置き、潜って引き上げて水面のボートに上げる。 今の、室内選手権は、6歳から80歳まで、生涯スポーツだが、これは、全国各地で予選をやり上位入賞者を代表選手として、賞品にロレックス時計がもらえる。ハードな競技大会だった。
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     商品のロレックス時計   
 続く 
 

0317 ダイビングの歴史 55 ブルーゾーン ロレックス杯 2

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            女子300mフリッパー 優勝益田、二位蜂谷

大会は、1969年 5月9日集合で、10日の土曜日、11日日曜日 二日にわたって行われた。 競技種目だが 
フリッパー競泳は 男子800m、女子300m
 スクーバを付けた潜水競泳は1000m
 そして水中射撃は、35m水平潜水していって、定められたラインの内側から、3m先の標的を打ち3回トライの合計得点を争う。
 水中重量挙げは海、海洋で行われて、水深8mの海底にウエイトベルトを置き、潜って引き上げて水面のボートに上げる。
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           2018年室内選手権大会
 ちなみに、現在2018年現在の室内選手権大会の種目を見てみよう
1. 50mフリッパー ジュニア6歳以上 一般 男子:女子
2. 100mフリッパー 一般男子女子
3. 400mフリッパー 一般男子女子
4. 200m潜泳
5. 100m バディブリージング
6. 100mレスキュー
7. 大学対抗200mリレー
8. 特別レース(高齢者) 今の、室内選手権は、6歳から80歳まで、生涯スポーツだ。
 50mフリッパー、100mフリッパー、400六リッパーの競泳競技、一般男子女子は、10歳以下のジュニア、高校生(文部科学大臣賞がでる)18歳から29歳の部、30-39,40-49,50-59,60歳以上 七つの年齢別セクションに分かれ、それぞれ優勝者が表彰される。1969年の大会は、各地で予選をやり上位入賞者を代表選手として送り出し、全国1を決める。ばりばりの競技スポーツで、賞品にロレックス時計がもらえる。ハードな競技大会だった。
 どちらが良いとか優劣の問題では無い。生涯スポーツと競技スポーツの違いだ。
そして、1969年、ダイバー全員若かった。
 それから、長い長い道のりで今日に至っている。
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 1000m潜泳 一日目に予選、二日目に決勝だ。
 優勝は甘草信二 関西の選手なので、親しくは知らない。
二位が東北の日高信一郎、三位が海洋公園にいた研究者の川瀬さん、4位が法政の谷内君だった。
優勝タイムは16分25秒 わかりやすいように浮子を曳いて泳ぐから、この
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浮きがずいぶん抵抗があった。浮きを着けないと、1000mの長丁場、だれがどこを泳いでいるのか潜水しているのかまるでわからない。今は水中テレビカメラで撮影して巨大スクリーンで映写している。
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 女子300mフリッパー競泳
 なぜ300mと半端になったのかわからない。
 優勝が 益田安規 益田一さんの娘だ。二位が中部の総帥、名古屋の蜂谷先生のお嬢さん 蜂谷由香里さん 三位が関西の南部未知先生、いまごろになって、えーっ 南部さんがそんなに速かったのと驚いたりしている。
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            左から山中 畑 中村
 男子800mフリッパー
 優勝は畑成明 通称は畑坊 二位が山中毅 三位が中村宏治だった。
 オリンピックの山中選手は悔しがり、後の大会で挑戦したが、また畑坊に勝てなかった。まあ、クロールとは全く別の競技だけれど。
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 水中射撃
 実は人気種目だった。50mプールで、水平に30m潜って、位置について3m先の標的を狙う。各選手3回のトライが出来て合計点数で勝敗を決める。中心に当たれば10点だ。世は、スピアフィッシングから徐々に水中競技、そして水中撮影に移行していく。この時点、水中ハンティングを中止して、競技会へと舵を切ったのだが、水中射撃競技が無ければ、収まりがつかなかった。
 優勝は九州の上山選手、全然知らない人だ。
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             左から鶴 中原 黒柳
 水中重量挙げ
この種目は、湯河原に現在住んでおられる歯医者の中原正博先生、僕の歯をほとんど抜いた先生だ。
 ゴムボートを海洋公園前、水深8mの位置に浮かべ、スキンダイビングで潜り、ウエイトを引き上げる。
 まず 20キロからはじめて、次第にウエイトを増やしていく、次々に脱落して行く過酷な勝負だ。中継があれば、迫力があっただろうが、岸からは何が起こっているのか全然わからない。
34キロは中原、そしてあの伝説のスキンダイバー鶴耀一郎が挙げた。
 そして35キロ、鶴は揚げられず中原先生の優勝。
中原選手の腕は紫色に腫れあがり細かくけいれんしていたとか。
 
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 水中ラリー
 後にUWN アンダーウオーターナビゲーション競技さらに今はロゲイニングと続く系譜の始まりだ、富戸の港がスタート地点で行われた。2018年3月17日(今日だ)行われているロゲイニング競技は同じ富戸で クラブハウスの新装、改装なった富戸漁協のダイビングサービスで行われる。
 やはり、一つの歴史だ。



 記念写真的な写真もブルーゾーンはたくさん載せてくれた。
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             益田 館石 大崎
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             友竹   後藤
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              石黒

 しかし、僕たちにはこれで良いとして、これでは書店では売れないだろう。
 3号で消滅して当然だったのかもしれない。
 そして、前にも書いたが、僕たちがこれを支えていく余裕などなかった。

 そして、50年の月日がながれた。ぼくは50年、実行委員長をやってきた。これから先の50年次の誰かが、続けてくれるだろうか。


0323  ダイビングの歴史56  マリンダイビング創刊1969

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 マリンダイビング 創刊号 1969年1月号
 
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 マリンダイビング 創刊号からかなりの数を持っていたのだが、潜水部の後輩のT君が水中造形センターに就職するというので、お祝いにあげてしまった。その時にはまだダイビングの歴史を書くとは思っていなかったので、ダイバーなども処分してしまった。

 現在の舘石社長に書写をしたいのでとお願いし、快諾を得ていたのだが、なかなかチャンスがなく、この今年3月にいよいよとお願いしたのだが、マリンダイビングフェアが終わるまでは待ってと言われ、今日に至っている。
 また、この創刊号は、デンマークの潜水歴史協会の竹川さんという方と友人になり、デンマークから送ってもらったものだ。

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 魚もビックリ
 この人知っているのだけれど、どうしても名前が思い出せない。
 1967 趣味の魚殺しはやめようと、日本潜水会で決議しただが、まだまだ、ダイビングの主流は魚殺しだった。

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               重巡洋艦熊野をさぐる。
 レックダイビング:サルベージ作業ではなくて、趣味で沈船に潜る。日本人初かもしれない。
 舘石さんと館山湾に潜っていた1962年頃、館山湾の水雷根という水雷艇を魚礁にしたものに潜っていたが、そんなのは、数にいれないとすれば、これが日本人初めてのレックダイビングだ。
 舘石さん以下、一緒に潜ったのは望月登、山本一雅、森良雄そして山入端きよ子さんだった。そしてこのとき60体分ぐらいの遺骨を引き上げている。
 そのころの軍艦レックは、潜れば、遺骨の山だった。
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 ところで、このレック、今はどうなっているのだろう。話題にならない。解体引き上げてしまっただろうか。
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 益田さんの写真、すいしん70m 海洋公園の二番の根だと思う。
 50mまでのニコノスで70mまで撮れたのだ。

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 全日本潜水連盟誕生、このとき誕生した全日本潜水連盟は、すぐ次の年
に、日本でのスピアフィッシングを合法化しようと、代議士小宮山重四郎を会長にした水中技術振興協会が発足し、それに吸収されてしまう。スピアフィッシングをやめた日本潜水会は、これに参加しない。ところが、その水中技術振興協会が空中分解してしまう。
 そのいきさつなど、日本国籍ダイビング団体盛衰記、として書こうとしているが、これは、その貴重な資料になる。
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 明日を拓く 日本の海洋開発のすべて、
 日本潜水科学協会が、科学者の研究、レジスポーツとしてのダイビングを捨て去って、海中開発技術協会となったこと、たびたび言及している。
その捨てられた時点では、苦情がましいことも、考えたが、「野放しにしてくれてありがとう」という気持ちもなくはなかった。
 その海中開発技術協会が海洋開発を一身に背負ったように考えて、取り組んだ末、それが海洋科学技術センター(いまの海洋研究開発機構)に移管され、行きどころを失って、Uターンするのだが、その途中経過、まだ海中開発技術協会の手に海洋開発があると思っていた時点で、その理事であった山中鷹之助氏が書いたもので、その時点での海中開発技術協会の状況、考えていたことを知る貴重な資料である。
 これによれば、その時点での海洋開発関連の予算規模は、ざっと54億円、その時点での僕の給与は、東亜潜水機入社以来9年目で10万円に満たない。日本アクアラングの上島さん(後に社長)が20万円程度、のと木の54億である。
 この予算項目と金額、その配分を見ることができる。
 なお、筆者の山中さんは、日本アクアラング東京支社が大塚駅前にできたとき、その支社長が、大学出たて、僕の同級生であった上島さんでは若すぎる?ということでか、どこかから来た人で、ダイビング関係者ではなく、おそらく、お風呂以外は水に入ったこともなければ、プールで泳ぐ姿を見たこともない。その上の帝国酸素の中村専務は、ウエットスーツを着て泳いだりしていた。とても良い人だったのだろうと想像するが、苦虫を噛み潰したような顔以外、拝見したことはなかった。
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 戸塚高圧は、タンク(小容器メーカー)で国産のタンクのほとんどを製作していた。レギュレーターも発売した広告だったが、実体は、当時のアメリカのヘルスウエイ社のレギュレーターのネームプレートを変えただけのようだった。
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 田畑 の埼玉工場にはプールが作られていた。日本潜水会公認のインストラクターが指導するとなっている。また名前が思い出せない。奥さんがアメリカ人で、ジープに乗っていて、おもしろい人で、仲良くしていたのに。
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 全国ダイビング関係団体名簿 これも僕にとって貴重な資料であり、その時点での混乱 ごった煮状況が偲ばれる。
 まだ、PADIもNAUIも水平線上に姿を現していない。

0325 ダイビングの歴史57 海の世界 1972-01

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雑誌でダイビングの歴史を追っている。
何か意味があるのだろうか?古いダイビング雑誌をノートをとって読んでおくということ、回り道のようだけれど、ダイビングの歴史を書く上で、必要なことだと思っている。でも、まどろっこしい。

 マリンダイビングの創刊が1969年1月号 ブルーゾーンが1968年の創刊、それよりはやく、「海の世界」があった。海の世界の創刊は昭和30年、1955年だ。ただし、海の世界は海と船の雑誌で、ダイビングはほとんど記事にしていなかった。
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 僕が今持っているのは1963年の11月号、これに同じ1963年8月9日に行った、僕と舘石さんの「水深90mへの潜水」が掲載されている。
 その後、次第に水中、潜水の記事も載るようになっていたのだが、それは、現在、手元にない。あるのは、1968年の2月号だ。これにしても、1969年のマリンダイビング創刊よりも前だし、ブルーゾーンの1968年7月創刊よりも前になる。50年前の話になると、書いたもの、印刷物がないと、記憶はすでに無くなっている。
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 その「海の世界」1968年2月号が大事にしまってあって、残っている理由は、これだ。
 「千古のナゾ秘める地底湖にいどむ:越智研一郎」
 岩手県・龍泉洞の潜水たんけんについに成功
 これが、1982年に NHKの番組で僕がこの洞窟の水深73m間で潜り、最近になり、盟友の久保彰良さんがテクニカルダイビングで、一応は、終点を極めた.(まだナゾは保留されているが)龍泉洞潜水探検の始まりだったのだ。
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 越智研一郎、通称越智研は、昭和31年 愛媛大学4年生の時に、日本で初めてのケイビングクラブをつくる。鍾乳窟は地下水が作る。地下水の湖である。鍾乳洞、洞窟をその奥の奥、行き止まりまで行こうとするならば、潜水しなければ進めない。昭和37年1962年 にスクーバを手に入れ、独学で練習を始める。僕は、そのころ東亜潜水機に機材を買いにきた越智さんと会って親しくお話ししたことがある。小柄な人好きのする人だった。
 その後、越智さんは、松野正司さんと知り合う。松野さんは、海上自衛隊から日本アクアラングに入り、独立して日本ダイビングスポーツという、今はダイビングの業界からは撤退されたが、レギュレーター、呼吸器メーカーとしては、優れた技術を持つ会社を設立した。そして、越智さんと松野さんは、ビーバーというダイビング集団をつくる。そのビーバー集団(ダイビングクラブ)の仕事の一つであった船底クリーニング作業で、後に越智さんは命を落とすのだが、ビーバー集団を中心とする龍泉洞学術探検が1967年に行われる。
 地底湖の断面図を見る。右端から左へ潜っていく。D洞の壁をくぐり抜けて第五ホールに入る。
「くぐり抜けて水深計を見ると、なんと52m。海でも経験したことのない深さだ。ウエットスーツが煎餅のように薄くなり、冷たさが身にしみる。
 体の下はぐんと深い渕。100mを越えそうな奈落が真っ黒く落ち込んでいる。奥へ奥へとロープを引っ張って懸命に泳いだ。松野君がぴたりとすぐ横を進む。キャップランプの光がたよりない。頭上にE洞の入り口を見つけた。浮上しかけた。岩の突起に体がひっかかって進みにくい。水が騒いだため、たちまち濁る。岩のくぼみにたまっている泥が舞い立ったのだ。あわてて、抱き合ったまま沈みなおした。
 奥へ進もう。
 X洞の地点へでて驚いた。水中にスパンと断層が抜けている。ビルの谷間といおうか。いや大きな年の駅前通りにいっぱい水をためたようだ。せめて15会建て以上のビルの群でないと、その大きさは想像できない。水底50mから見上げた大景観だ。
 広間だ。大地底湖だ。」


 この文章の大地底湖が始まりだった。その時、越智さんは、九死に一生にで浮上し、この文を書く。
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 大地底湖は、本当にあるのか?


 前述のように、資金稼ぎの船底清掃作業で越智さんは命を落とす。そして、ビーバー集団は探検を続け、潜水を重ね、X洞を発見した。といって、確認の為に潜水する。上がってきての祝いのシャンペンを用意して、入っていったのだが、二人のうち一人が戻ってこない。次の日に遺体で発見された。その後が1982年の僕のNHK番組での潜水であり、久保君の現在続行中の調査に続く。
 大地底湖はあるのか?



 世界一美しいバンダ島の珊瑚礁へ 白井祥平
 僕の水中探検の先輩である、白井祥平の1964年度のインドネシア探検の紹介である。先輩は、弱冠31歳でインドネシア政府、スカルノ大統領に働きかけて、未踏の海であったインドネシア潜水探検を企画し、実現してしまった。僕に一緒にと言われ、僕にもその義理はあったのだが、1963年に自分勝手な90m潜水をやり、その翌年、また長期の休みをとるなど、東亜潜水機のアクアラング部門の責任者としてできなかった。
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 それで、舘石さんを紹介したが、舘石さんとて、そんな探検にはつきあいきれない。で、舘石さんの水中造形センターのおそらく、最初の社員である永持君が行くことになった。
 僕としては本当に行きたかったのだが、そんな探検隊、バルーナ探検隊というのだが、その探検記である。
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 インドネシアという国はすごい国、海洋国家で、自分の国の領分を自国の海軍で探検に行かなければならないような国なのだ。ところで、今、世界の海がどこでも観光化される中、バンダ島ってどうなのだろう。


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 この探検について、昭和57年 1982年に 「インドネシアの海を探る」として 太平洋学会が太平洋双書の1として出版している。航路図をみて、あらためて、考え込んでいる。行けなかったけど、もし、行っていたら?と、
そして今、2019年、この海域はどうなっているのだろうか。やはり、行けば良かった。
 なお、永持君とは、まだ賀状の往復がある。白井先輩とは今年もお目にかかり、そのことはブログに書いている。
  


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 1967l年12月発足した「日本潜水会」ここで発表されている。


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 日本潜水会は、スピアフィッシングと縁を切る、やめようと言っているのに、グラビアは「舘石昭の海中探検シリーズ、大島の水中狩猟大会
 
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 とにかく,この1968年、2月号、僕にとって、波乱の海の世界だった。


0326 ダイビングの歴史58 海の世界 1972-01

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 1972年1月号 海の世界
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 1970年代、当初に述べたような事情で、マリンダイビングが手元にない。
 70年から、ダイビングワールド創刊の1975年6月まで、トピックスだけを「海の世界」で追って行こう。
 1972年 5月15日 沖縄施政権が返還された。1972年は沖縄が日本に帰ってきた年なのだ。その時代、その年に生きたダイバーは、このことに、このときの沖縄に様々な想いを持ち、さまざまな経験、体験をした。
 とにかく1972年は沖縄が日本の沖縄県になった年だ。ここから1970年代の海の世界を始めよう。 
 水中ゲームを楽しもう 田口哲
 まだBC.を付けない時代のダイビングスキルが写真でわかる。
 僕のスキルも基本的にはこれと同じだ。
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 にっぽんダイビングスクール
 「グアム島在住者にダイビングを普及しようと、さいきん日本潜水会公認指導員の野田充彦氏がダイビングスクールを開講した。公衆はホテルの一室やプールを使って夜9時から夜中の1時まで行われる。南国らしく、のんびりムードの訓練かと思ったら、さにあらず。ごらんのように旧日本帝国海軍の訓練を思わせる規律正しさ。それが受けてか、これまでに45人の青い目、黒い目のダイバーが誕生したという。」
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 野田充彦は、1967年、12月に行われた第一回の日本潜水会指導員講習会に、学習院大学の学生で時代に参加した。この講習会は法政大学の加藤君と、学習院の、この野田だ。
 浅見さんの弟子で、僕らの直系の指導員だ。
 しかし、僕らはこんな帝国海軍の指導は、教えていない。どちらかと言えば、規律的にはいい加減、適当を旨としている。
 プールサイドに並んだ生徒は挙手して号令一下、順に立ち跳びで飛び込んで行く。このころ、スキンダイビングでライフジャケットが必要か不要かという議論があったが、文句なしに着けている。バディシステムは絶対厳守だ。ダイビングの練習は規律で保たれる。というのが野田理論だ。海での交信はすべて手旗信号で行われる。レスキューのマウスツーマウスは、ダミーなど使わない。本当に口をつけて息を吹き込む。
 その、野田は,先日亡くなった兼高かおるの弟だったか息子だったかで、パンアメリカンは世界中フリーパスで行かれる。パンナムの飛行機の中では、FBIのフリーエージェントだと名乗っている。奥さんはもちろん、パンナムのスチュアーデスで、六本木に住んでいて、一度訪ねたことがある、部屋の中は滅茶苦茶で、女房の尻に完全に敷かれていた。 
 日本潜水会は、全日本潜水連盟ができて、指導団体としては、その役割を終え、あとは親睦団体として、後藤道夫が死ぬ、2014年まで40余年、毎年一回の定例忘年会をやってきたのだが、その第一回を六本木にあった彼の店でやった。
 野田君のことを話すと際限もないのでやめる。今、彼がどこにいてどうしているか知らない。一昨年だったか学習院大学アクアラング部の50周年の会があったが、現れなかった。どうしていることだろう。

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 特集 わたしの海洋博 
 沖縄返還を記念して海洋博が行われる。これこそ、ダイバーにとって、僕にとって、一大イベントになるのだが、その海洋博について工藤昌男せん。
 「施設を全島に散らしてサンゴ礁を守れ」
 海洋博はサンゴ礁への侵攻作戦 に他ならない。工藤さんらしい意見だが、全島に散らせ、散らしたら全島のサンゴ礁が影響をうけるのではないか。一カ所に、なるべくサンゴ礁のないところを選んで、まとめるというのが、普通の考え方だと思うのだけれど。
 そして、このイラストは永原建也さん、工藤さんと組んで描くことが多いイラストレーターで才能のある人なのだが、これで見ると、沖縄全島がディズニーシーになる? まだそのころディズニーシーはないから、それなりにたいしたプランだと思うけれど、
 よく読む、見ると、面白い。これをやれば、サンゴ礁は完全に消滅するだろうけど。
 永原さんをけなしているわけではない。1972年、海について、海洋博についての夢は、まだ牧歌的な時代だったのだ。

 広告をここに、まとめて紹介しておく。これが70年代のダイビング業界だ。
 
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 優良潜水専門店会って今はどうなっているだろう。消滅?

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 NAUI公認 潜水教師指名一覧表
 インストラクターといわないで潜水教師、という。
 日本潜水会は潜水指導員だ。
 
 懐かしい名前が並ぶ。松岡俊輔 大好きだった。亡くなってしまったけれど
 北海道の本間さん、流氷ダイビングの創始者だ。北海道にNAUIがおいのは本間スクールだったのかな?
 下の方に慶松さんがいる。 講師は田口君、早稲田の山根先生、液体空気のクライオラングを作られたとき、そのテストダイビングをやらせてもらった。これも話すとながくなる。
 パオロ・クレオゾラ 変なイタリア人?だった。

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 初心者にも国際ライセンスを 椎名勝巳
 この前の年というから1971年に 日本のPADIができ、椎名さんはその事務局長だった。ここから僕と椎名さんの本格的おつきあいがはじまるのだが。
 国際ライセンスと言ってのけたところが面白い、椎名さんらしい。
 しかし、やがて、国際ライセンスはCカードと名前を変える。ライセンスとは、国が公的に発行するもので、Cカードは修了証だとか。認定証だとか、免許ではないというわけだ。Cカードというライセンスなのだと言う人もいる。別に名称はどうでも良い、という人もいる。

 1970年代、グアム島という米国に、野田が、帝国海軍式講習をやり、国際ライセンスが日本に上陸する。

0327 ダイビングの歴史 59 海の世界 1972-04

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                タバタのウエットサブ
海の世界 1972年 4月号 「恐竜の子孫が生きていた」白井祥平
 白井先輩はインドネシアの バルーナ探検隊の調査に引き続いてニューギニア、そしてポンペイ、当時はポナペのナンマタール遺跡の探検、さらにポンペイからカピンガマランギ環礁の探検、そして、石垣島に探検の結果を展示し、造礁珊瑚の研究をする博物館・研究所を建設するのだが、ここでは、ニューギニアの東方、太平洋戦争で有名になった航空基地ラバウルのあるニューブリテン島の話だ。
 ニューブリテン島の北方にウィルメッツ半島があり、その突端にダカタウア湖という火口湖がある。この火口湖にマッサラム(怪物)が住んでい手、それを見た近くの部落民はおびただしい人数になる。

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 先輩は当然、マッサラム調査に入る。
 部落に入り、
 率直に質問する。
「お前たちはダカタウア湖のマッサラムを知っているか?」
 すると、彼らはしめしあわせたように。
「知ってる。知って居るとも」と口をそろえて首を大きく振った。
 彼らの中で一番年輩らしい男は、フランシス・ウエハーの名乗った。彼は、「俺がマッサラムについては一番よく知っている。俺は本当に見た」といった。
 そして、「俺だけでなく、プルムリ部落の人間はたいていマッサラムを見ている」と続けた。
 「マッサラムは大きいか」ときくと、彼らはあたりをキョロキョロ見回して、向こうに見えるホテルの入り口を指さして、「あれくらいだ」と答えた。それなら10メートルはある。
 次いで、どんな格好をしているのだと聞くと、ウエハーは、
「口はカマスみたいに大きく、鋭い葉がいっぱいある。頭は馬みたいに長く、毛が生えている。背中は黒い山みたいになっていて、手足はカメそっくりだ。そして尻尾はワニみたいだ。」
 体の色については、「色はいろいろだ」「黒い時もある」「濃褐色のワラビーみたいなときもある。」
 ついでウエハーは、「俺たちはこの怪物をミゴーといって恐れている」と言った。
 彼らの言うこの怪物の特徴はあまりにも、中生代末期に絶滅した恐竜や海生竜に似すぎている。彼らはほとんど教育は受けていないし、まして、化石や古生物の知識なんて、かけらも持っていないはずだ。私はかれらば全くの作り話をしているとは思えず、これだけ正確に、しかも、即答できるのは、必ず何物かを見ている証拠だろうと信じた。
「では、お前たちはどこでそのミゴーという怪物に出会うのか」と私は聞いた。
 ウエハーたちはこう答えた。
「ミゴーの住んでいる場所は決まっている。広い湖をあちこち泳ぐようなことはない。湖に二つの小島があって、その間にいつもいる。」


 ミゴーは本当に居るのか、居たのか。
 この話には後日談がある。
 それは、この海の世界の記事がでた10年後、白井さんから連絡があった。ようやく、ミゴーの探検隊を編成して出かけることになった。僕に潜水隊長を頼みたい。これはもう万難を排して行かなくてはならない。
 赤坂見附の地下鉄の駅前、東急ホテルの2階ロビーで会うことになった。そして、ちょうどその日、その朝の前夜、ホテルニュージャパンが火災をだし、30人が亡くなった。僕が行くと、まだ消防の後かたずけをやっていた。ニュージャパンの火災は、1982年 12月8日のことだった。
 ミゴー探検隊は、隊長にSF作家の小松左京がなるという。スコットランドのネッシー、イギリス人は冗談をいうが、ニューギニアのウエハーたちは、冗談は言わない。本当のことなのだと。
 丁度そのころ、僕は摩周湖の探検をやり、ゴムボートを摩周湖におろすのに苦労した。僕たちは持って行くゴムボートの相談をした。
 しかし、この探検隊はどこかで消滅してしまった。小松隊長にも会わないで終わった。さらにその後、
 たしかTBSだったか?この湖に行き、ゴムボートを下ろして撮影した。
ミゴーは現れなかった。現れなかったが番組はオンエアーされた。そのビデオは、探したが、残っていない。
 恐竜は、人類の夢なのだ。ジェラシックパークもたしかオーストラリア辺の火山島ではなかったかな。

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 この号の「海の世界」はすごい。
 「なんと3兆6千億円の海底財宝」日本の海洋開発の予算が確か54億だった。「東京湾に眠る幕末の沈船引き上げに半生を賭ける男たち」
今度本をだした荒川さんの早丸の話だ。
 この記事を波左間に持って行って、話をしようと思った。が、3月25日、の人工魚礁調査は中止になってしまった。次回は4月15日だ。
 この記事のコピーを持って行き荒川さんと話をする。それまで、この話は、ここまでとする。

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 ダイビング用品紹介の中の 水中カメラ
 この中で三つがスガ・マリン・メカニック製だ。つまり僕が売っていた。
 ブロニカマリン マーク7 20万 ニコンアクションマリン これはニコンFにアクションファインダーをつけたもの15万、マリンカプセルー8 エルモスーパーエイト を入れる、3万5千円。

0328 ダイビングの歴史 60 海の世界72年5/10

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 ダイビングの歴史 60
 海の世界 72年 5月号
 潜水艇「はくよう」
 日本海洋産業 の本格的潜水艇で水深300mまで潜れる。
 使い勝手が良くて活躍した。
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 後に宝石珊瑚採集の漁船になった。




 海の世界 72年 7月号
 第5階全日本水中スポーツ選手権大会 伊豆海洋公園で行われた。
 まだ日本潜水会主催である。
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 400mでは、年齢別が採用された。26歳から35歳 36歳以上
 35歳で区切っている。まだまだみんな若かったのだ。36歳でロートルにされてしまう。
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 海の世界72年 10月
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 シートピア 水深30mの実海域実験 2泊3日だった。30mだから当然、長い減圧時間が必要になる。30時間の減圧だった。
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 70年代は 海底居住時代、この実験をやらないと世界の先進国と認められなかった?


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横尾君は後輩です。
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※半分に切らないと拡大が出来ないので、体裁が悪いですが切っている。






 特集 潜れる海が無くなる。
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 各都道府県、おおむね、密漁者とレジャーダイバーとの区別が付かなくて苦労している。ほとんどのレジャーダイバーは、規則的には密漁、規則違反のダイビングをしている。
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 ダイバーが新しく豊かな海をつくるとき 工藤昌男
 今頃(1972)になって「潜水機を着用しての遊漁は一切、日本国の漁業権設定地域では許さない。(法律で決まっている当たり前のこと」と、当たり前のことを言っている。日本潜水会では1967年に、同じことを宣言し、潜水漁業の許可を受けた漁業者以外の水中ハンティングをやめさせる努力をしている。 


 潜水界の指導者はこう考える。


 潜水とは何か、一人一人考えて行こう。
 今言っていることとほぼ同じことを言っている。ブレていない。
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 自分のフィールドを持ち、それを大事にしていく、当然、社会に受け入れられなければいけない。

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 全日本潜水連盟が発足 1969年に発足した全日本潜水連盟は、スピアフィッシングを法的に認められるようにしようと結成された 社団法人 水中技術振興協会をつくり、そっちへ行ってしまった。その法人が空中分解したので、またまとまった。これをまとめるのに、僕が中心になって努力したのだが、振り返れば大間違いだった。まとまったためにポリシーが消滅してしまった。よく、清濁併せ呑むというが清濁ごちゃ混ぜにしてはいけなかったのだ。このまちがいの後悔が、2019年の今でも尾を引いている。

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 水中カメラのすべて、まだスガ・マリン・メカニックはがんばっていた。ゆがみの補正などを考えていて、一番先進だった。
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 ローライマリンは238000円だったが、もはや時代遅れ、ステイタスとして格好はよかった。
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 ストロボが次第に普及しつつあった。



0329 ダイビングの歴史61 海の世界1973-1

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 建設中の船の科学館

 1973年は、一年分をひとまとめにするけれど。
 クリックで画像が大きくなって、字が拡大で見られるならば引用はなくて、説明コメントだけで進めるから良いのだが、プリントしたときは拡大できない。これは、今使っている仕組みの上で仕方がないこと。
 自分もこの作業をしていきながら、考え、考え直していることが多いのだから、ここは、雑誌、書誌の部分を通り抜けるまでこのスタイルで行く他はない。

 73年に入る前に 72年の積み残しがあった。
 「72年12月号 スピアフィッシングの是非をめぐって」
 田口哲 椎名勝巳 山中毅
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 1967年に、スピアフィッシングは、日本の法規の上でできないこと、そして、レジャーとしてのスクーバダイビングを振興させる上においても、魚を殺すことを目標とするスクーバダイビングは、社会の共感を得られないことすでにわかっているはずではなかったのか。
 しかし、人間のというか動物の狩猟本能というものがある。遊び、楽しみ、というものは本能の解放でもあるわけで、僕ら日本潜水会がそれをあきらめられたのは、スクーバダイビングを単なる遊びとしてとらえていないで、仕事、あるいは海で生きる人の生き方の一つとしてとらえていたからで、遊びとして考えればあきらめきれない人もいることはよくわかる。
 椎名さんはあきらめきれない。どうしたらできるかを考える。ただ、漁業についての姿勢は、水産大学をでた僕とは大きなへだたりがある。
「漁業で生業をたてている人がまだかなりいるということで、漁業権のことを考えなければならないわけです。」これが、半ば漁師の僕との大きなへだたりで、レジャーダイバーの典型でもある。椎名さんの意見は、スピアフィッシングフィールドを作って、そこで魚を突かせるライセンスを発行するということだが、それは、漁業者の方でも考えないわけではないことであった。しかし、そのフィールドからは、魚はたちまち逃げ去って、その場所に寄りつかなくなる。となると、水中銃を持ったダイバーたちは、他の場所を開拓しようとすることになる。
 漁業者、漁業関係者の考えとしては、たとえば定置網で穫った魚を定置網の中で突かせよう、観光定置の考えだが、これは、狩猟と言うよりは単なる殺戮となるわけで、多くのダイバーには受け入れられないだろう。これらは日本潜水会のぎろんであって、この記事での議論ではないのだが。
すでに、無理ということで決着は付いている。
 回遊魚を穫るのはかまわないのではないかという議論もある。
 山中さんは、水泳選手だから、完全な素人であり、業界のひとではない。そして育ってきた環境が魚突きを受け入れてきた時代だったのであきらめきれない。この記事の結論も、魚突きとは別の楽しみかたを、見つけて行かなくてはならないという常識的なものになっている。
 魚突きをあきらめられない、あがきのようなもので、このあがきは、2019年の今日でも、未だに残っている。
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 さて、ようやく73年
 手間がかかるけど、ノートを取って読もうと決めたのだから。

 73年2月
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 建設中の船の科学館

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 ハンネス・ケラーの300m潜水。この潜水実験は1962年、ということは、僕の1963年の90m潜水の1年前で、スイス人が混合ガスを使って300mに潜水する。こちらは空気で100mを目指した。そのギャップに意気阻喪したものだったが、この潜水は4人が潜水して2人が命を落としている。この潜水について、前に僕も書いているが、これは工藤昌男さんが書いたもの、別の視点でありうまくまとまっている。
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 プロダイバーの生活と意見、松岡さん、横須賀処分隊の松尾さんの顔が懐かしかったので、なおこの写真、久保田さんと松岡さんの職名が入れ違っている、松岡さんが東京久栄の潜水部長であり、久保田さんが海上保安庁である。
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 全日本潜水連盟の第一回の理事会が記事になっている。
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 安全潜水とライフジャケット

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 スキューバプロがバランシングベストを発表している。スクーバタンクからの給気式であり、現在のBC.の元祖形である。

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クレッシイのNAUIの外人パオロの神子元島漂流記おもしろいのだが、切り取りの配列を間違えてしまった。が、おもしろいから読んでください。
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 73年3月
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 あなたの潜水実力診断法 須賀次郎
 今から見ればつまらないことを書いているが、一応自分のかいたものなので、記録として収録 ようするにPDCAのサイクルをまわせということだ。


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 海洋開発技術学校、1pの広告を手を変え品を換えて広告を継続している。どうしても校長の名前が思い出せない。面白い快男児だったし、卒業生に知人が少なくないのに。頭に浮かびかかっているので、思い出したら書き加えよう。
1回で73年 終わらせようとしたができなかった。

0402 お台場(3月31日)

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3月31日 お台場
 まだ、右腕の痛みはとれない。使わないようにすれば痛くない。もう一息で治る。しかし、右腕を使わないダイビングはちょっとつらい。朝と、午後、車への荷物の積み下ろしは、奥村君に手伝ってもらった。
 3月、そろそろ魚たちが出てくる時期だ。
 撮影の予定としては、2月に引き続いての牡蠣のライン撮影、加えて牡蠣を割って、蟹を集めたい。その牡蛎をねらって、カメラ設置 1時間の動画撮影。
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 今日から監視用のゴムボートが新しくなり、その進水。ゴムボートの購入は、キングジムにスポンサーになってもらえる予定。予定だけど。
 ゴムボートは一回り小さくなり軽くなり、運搬、取り回しがらくになった。尾島さんによれば、水面での操作性もとても良いとのことだった。
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 自分でも乗って漕いでみたが、右腕が痛いので、すぐに上がった。でも、漕ぎやすいし、乗り降りも前のボートよりも船縁が低いので楽だ。

 やはり、右手が使えないと自分でのタンク背負いが難しい、いつもと同じように尾島さんのお世話になってしまう。
 巻き尺の50mラインは三ツ橋に引いてもらった。
 すべて、仲間のお世話になっている。
 
 水温は13度、透視度は2mぐらいはある。桜は咲いたけれど春の濁りにはならない。天気、朝は降りそうだったが、持ちこたえて、昼頃からは晴れて、お花見日よりになった。
 設置用のカメラとライン撮影のカメラ、片手だけで2台のカメラを持って入るのは難儀だった。牡蠣がついている岩で、一番手前をえらんだ。
 身体が浮いてしまう。インナーを一枚余分に重ね着したからかもしれない。それに水深が70cmだ。浮いて当たり前かもしれない。
 苦労してカメラを置いた。100円で買った小さいトンカチは、無事に小さい牡蠣をこじ開けることができた。
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 水深70cmで50mのラインを引くのは、大変だったろうと思う浅さだが、透視度は良く、生きている牡蠣がほとんどだ。この水深は、この時点での牡蠣の生育には適しているのだろう。
 巻き尺ラインを画面に入れての撮影だが、これで数値的な資料をつくることは、うまく行くとは思えないが、とにかく、数字の入ったスケールを写し込んでおくことは、意味がある。
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 ラインの40mあたりまで牡蠣は多い。ラインの50mでラインの尽きたあたりから、少し深く、2mぐらい、この辺の牡蠣はほとんど死んでいる。蘇ってくるのか。それは何時?
 そして、再び、水深1.5-1.2mの牡蠣濃密ゾーンに入り、杭に到達。
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 杭で見た魚は1尾だけ、メバルの小さい稚魚。1尾だけと言うことはないだろうと探し回ったが1尾だけ。魚探しの名人 尾島ママは、1尾も見なかったとか。4月になったら増えているだろうか?
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 午後の潜水は、LCDライトを棒に付けて、棒の先カメラでラインの先まで行き、棒の先カメラのテスト、石の下などをのぞき見る時に良いのでは?そして巻き尺ラインの撤収と設置したカメラの撤収。
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             石の下にチチブが1尾
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 2回目の潜水は、幾分楽になるが、それでも、エキジット、一人で立ち上がることできない。岸でタンクを外して、這い上がった。手で捉まるところが無いと、砂地の斜面でタンクを背負っては立ち上がれない。腰の深さだ立ち上がって、後ずさりすれば、何とかなる。前回はそうした。棒の先カメラの棒を長くして杖にするか。

 戻ってからの映像処理結果。
 午前のSJ4000(黒ボディ)のライン撮影は 予測していた通りの結果が得られた。
Olympus TG4でのメバルは、写っていなかった。動きが早く、小さいので、ファインダーでとらえられなかった。動画では、写っている。こんな時、動画の同時撮影は助かる。
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 午後、設置したカメラSJ4000(白ボディ)は、廻っていなかった。まわっていることは確認したつもりだったのだが、体が浮いて、片腕での設置、確認できていなかったのだ。つまりなにも撮れていない。まだ、魚が出てきていないから、かまわないが、次回から、台座の工夫と確実な確認が必要。カメラのテストも必要。

 棒の先カメラは、岩の下の撮影にはいいが、カメラのブレが気になる。撮影の時には、置く必要がある。そして、また、AKASO braveの日時設定ができていなかった。あわただしい現場では、忘れてしまう可能性が高い。出発前にデスクですべてのカメラの時間設定を確実にする必要がある。タイムの写し込みが重要なのだから。
 
 
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0403 ダイビングの歴史 62 海の世界 1973年-2

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海の世界 1973年-2

こんなことをしていて何になるのだろうか、こんなこと、とは、ダイビングに関連した雑誌、ダイビング誌の古い記事を順に書写、カットしてブログに張り付けて、解説というか、コメントを付していく作業である。ダイビングの歴史とタイトルを付けているが、ダイビングの歴史の企画の中では、より重要と思われるいくつもの小史、事故、指導団体盛衰、沿岸漁業とダイビング、等々が、停滞している。生物学的に限りのある自分の時間を無駄にしているように思われて、どうしよう?しかし、始めたことだから続けよう。そんな状況だった。
 しかし、ここにきて、これはこれでやり遂げなくてはと強く思い始めた。1970年代のダイビングと今2010年代のダイビングは、まるで、コンセプトが違うのだ。その第一は安全についての姿勢だ。今は、まるで、安全のためにダイビングをしているような言われ方だ。そして、その実、安全とはかけ離れようと思われる感もある。その移り変わりがどこで、どのように起こったのかを追って行くことは、スクーバダイビングの歴史を追っていく上で重要。だとすれば、まわりくどくても、この道は王道、まちがってはいない。その視点から、とにかく、手元にあり、コピーしてある(かなり膨大であり、偏ってはいるが)突き詰めて行こう。
 それは、停滞している小史の根底部分に反映するに違いない。
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73年7月号 海の世界
流氷の潜水 北海道 札幌の本間さんが書いている。写真でわかるように全員ウエットスーツである。
 そのウエットスーツは、まず3。5mmのチョッキを着て、その上にズボンにチョッキのついた6。5mmのツナギを着て、さらにフード付の上着を着た。そしてフードと上着の継ぎ目には3。5mmの襟を付けて、頭部の水が身体に入らないようにして、手首足首葉、袖口が密着するように3。5mmの輪で締め付け、上着のウエストにもツナギの肩口、首、ウエストにも弁をつけて浸水をふせいだ。ほとんど水の入らない、セミドライのようなものだ。
 レギュレーターも凍らないように高圧部にシリコングリースでシールした。

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 レギュレーターについては、ちょっと違うと思うけど、ウエットスーツは、よく考えたと思う。 なお、僕が初めて流氷に潜ったのは、1981年だった。冷たいと言うよりも、露出している顔をはたかれたような感じ、しかし、30秒ぐらいで、その痛みは消えて、後は、寒くなるまで大丈夫だ。
 そのとき、ウトロのグランドホテルで本間さんに会った記憶がある。

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 第6回全日本水中スポーツ選手権大会。
 水中重量挙げは、海でやっている。後には3mのプールになった。

 ナゾと呪いに満ちた ナン・マタール遺跡  
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            白井先輩のナン・マタール、白井さん本人が書かないで、田畑信という方が構成、まとめている。
ナン・マタールと僕のかかわりも、自分なりに深いものがある。ナン・マタールの遺跡の前の海に潜ると呪いのために不幸が、最悪では死がもたらされる。
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 今、手元に「白井祥平全集 呪いの遺跡ナン・マタールを探る」がある。これは、白井先輩のほぼ自伝のようなものでもある。そして、それは、僕のナン・マタールとどの部分でも交わらない。平行線なのだ。そして、交わった方が良かったのか、悪かったのかもわからない。運命的なものを感じてしまう。
 そして、ミクロネシア連邦の首島としてのポンペイと僕のトラック島、チュークとの関わりを考えると、個人的なことではあるが、感慨が深い。
 僕のポナペとの関わりは、このブログ     である。
 
 なお、読んでくださる方も、ほぼ、居ないだろうと思われるが、貼りつけた写真を拡大して、読める、ということも、ダイビングの歴史の雑誌紹介を続けている大きな拠り所になっている。書写機のグレードが低いので、切り取りが不細工になっているが、やり直しはできないので、ご容赦。

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 1973年 8月
 海のクリーン・アップ作戦、江ノ島・鎌倉、これは海水浴場をクリーンアップしたもので、全日本潜水連盟がやり、僕と、当時全日本潜水連盟の構成メンバーだったPADIの椎名と二人でやった。
 海水浴場でやろうとしたら、土地のヤクザが着て、ショバ代をよこせといわれて、金儲けではない、あんたたちの場所をきれいに掃除するのだと説明したが、なかなかわかってもらえないで苦労した。最終的には解決して、海水浴場なのに、ゴミがずいぶん集まった。
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 フランスの潜水企業 、コメックス社の実験で、生身の人間を600mの高圧室にいれてしまう。つまり、人間は600mまで潜水可能ということだ。書いている関邦博さんは、親しい友人で、フランスのマルセーユ大学の学位をもっている。
 とにかく、コメックスという会社はすごい。   
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0407 更新講習会-1 鉄多加志

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 ログは、ダイビングの歴史とダイビングのログだけにしようときめていたのだが、古いブログを遡ってみると、バラエティがあったほうがおもしろい。
 公認スクーバダイビング指導者更新研修会について、フェイスブックでは、思うように書けないのでブログにする。
 こういう前置きは無いようにしようと決めているのだが、
なお、貼り付け写真が多いので三回に分けることにする。
 
 公認スクーバダイビング指導者更新研修会、長いし、おぼられないし、面倒なので、略して更新研修会としよう。
 公認、つまり国が正式に関わる唯一のスポーツ指導者の資格である。1988年から、2004年まで、社会スポーツセンターの常任理事であった時代、育て護ってきた資格である。なんとか、全国で1000人にしようと努力してきた。いま、何人ぐらいいるのだろうか。この資格、2年に一度の更新がある。更新料は2万円である。毎月、立派な機関誌を送ってくる、まず読むことはない。
 目下のところ、称号であるだけで、具体的なメリットは何もない資格だが、公認の称号のメリットは、苦労して獲得した人にとっては、代え難いものがある。が、僕の場合、もはや2万円の会費を払う意味がない。資格の更新は、もうこれまでにしよう。
 
 更新はしなくても、研修会には出席して講演を聴く。この手の講習、講演、研修会は、目白押しなのだが、内容としては、スポーツ指導員にとっては、一番役に立つ、一番優れている。と、僕は思っている。
 ただ、この研修会全国、たしか7ヶ所でやり、講師もそれぞれ違うので
玉石混交の可能性はあるが、聴かないものに対して石とはいえない。聴いている限りでは玉である。
 東京地区の演題テーマは、リスクマネージメントである。
 このところ、メモカメラを多用しているので、PPのスライド撮影が、携帯端末による撮影よりやりやすく、扱いやすい。それに雑誌の転写で、このブログでも、その字が読める。読んでいただける人は多くはないという前提だが、読もうとすれば読めるというのは、貼りつけ部分が資料として参考になるし、進行も楽になる。
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 まず、鉄君の「スクーバダイビング指導者としてのリスクマネジメントについて考える」君付けに呼んでいるのは、親友の鉄芳松さんの息子で、昔から気持ちの上で応援していたこともある。彼の卒業した母校の東海大学の准教授になっての講演である。彼の話、講演を聴きたいという、楽しみもあった。
 残念なことに、僕の耳では、ほとんど聞き取ることはできないのだが、
PPの字が大きくわかりやすかったので、理解できる。
 耳が聞こえないということは、講演を聴きに行く意味がないということ、たしかにその通りなので、それが、僕を講演会への足を遠くしていて、よほどのことでないと行かないのだが。
 とにかく、PPの字は、映写を撮影して、ネットに転写して読めるくらいの大きさにしてもらいたい。話す、発表するということは、できるだけ多くの人に自分の考え、研究成果を知ってもらうことが目的なのだから。
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 彼の話として、東海大学の学生に対する指導、についての話を期待していたのだが、そうではなくて、この業界としての、インストラクターの話であった。①都市型ダイビングショップ、現地型ダイビングサービス、それぞれのリスク、②リスクを軽減するための保険、③指導者の総合的なリスク についてであり、語られたリスクも、営業上、赤字についてのリスクであり、指導者としての総合的なリスクとは、その指導者の評価についてのリスクであり、僕の考えていたリスクとは安全面についてのリスクであったから、ちょっと肩すかしだったが、それは、彼の研究姿勢なのだから、なるほどと納得した。納得したが、それは、目下の僕のテーマではないので、この紹介の中では講演の全部は紹介していない。
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 保険に関して、火災保険や店舗などの物損を入れるならば、労災保険を欠かすわけには行かないだろう。最近の僕の関心事なので。終わった後、雑談的に伝えておいた。

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 そうか、これは、自分の視界に無かったと気づかされたのは、外国籍の人に対してのガイドや講習のリスクであり、韓国人、中国人がお客になってくれているのが激増しているといわれる沖縄などではどうしているのかな、と思った。
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 ダイビングショップ、ダイビングサービスに関しておこなった業務内容についてのアンケート調査の結果なども発表されているが、ここでは省く 総合的リスクについては、老いては子に教えられるようなものであり、ためになった。彼の人柄の良さが偲ばれた。

0407 更新講習会-2 順天堂大学名誉教授 河合先生

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 次は僕の主治医でもある河合先生の講演で、テーマは肺水腫と高齢ダイバーについてであった。
 肺水腫はつい数日前に僕の定期検診のさいに、今書いているスキンダイビング・セーフティのニ訂判に 浸水性肺水腫について書いていて、そのことについて教示をお願いしたばかりで、その答えも含まれていると思うので、おろそかには聴けない。そして、高齢とは残念ながら、もろに自分に帰ってくる話だ。
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 症例1 喀血するのは肺水腫の特徴だ。
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 肺水腫とはなにか 水腫とは組織間に水分(組織液)が異常にたまった場合である。肺水腫とは肺の組織間隙に組織液が異常に増加した状態である。
 肺水腫の症状は呼吸困難であり、レントゲンで見れば、白い斑紋、斑点が広がっている。
 そして、泡を吹く泡のような痰を吐く、

 症例2 スクーバダイビングの死亡事故例である。口から泡を吹いている。肺水腫が主な死因であるかどうかわからないが、関わりはあるだろう。
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 症例3 これもスクーバダイビングの例だが、死因は減圧症であろうが、肺水腫も伴っている。
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 症例4 これが典型的な肺水腫なのだろうか。
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 症例5
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 肺胞の生理学的構造
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 肺水腫の原因 ①毛細血管に主因 ②リンパ液排出不全 ③肺胞上皮に主因
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 ダイビングで問題になるのは、陰圧性肺水腫である。
 肺胞内圧が減少したため、相対的に間質の圧が増大して間質に水分が漏れ出る。
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 年間5ー6例は、肺水腫が疑われる潜水事故がある。
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 スノーケル呼吸で、肺を深く沈めた、たとえば立位でスノーケル先端を水面に出したまま、肺の位置を低くして、肺から息を吐き出したじょうたいでは、陰圧になり、陰圧性肺水腫の可能性がでてくる。
 スキンダイビングで良くやるのだが、息を吐き出して身体を沈めて潜っていくと、肺水腫の原因になる。
 たとえば、大和式といわれるような海女の潜り方などはどうだろうか。
 大和式は、手と足で水を掻いて水面に頭とできれば肺のあたりまで飛び上がる。飛び出した身体の重力で、垂直に沈み水中で、手足を水面に出さないように身体を回転させて頭から潜っていく、水面の上から見ていると、海女の頭がちょっと上に上がって、すとんと沈んで、水面にあまり波紋を起こさずに潜っていく、優雅な潜り方とされている。
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 海上保安体学校の潜水研修
 これが僕らがスキンダイビング・セーフティで問題にした、事故例である。
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 山見先生の論文から
 288名のうち23名が肺水腫、または肺胞出血をおこした。 僕たちはスキンダイビングの指導、講習歴が長いのに、そして今も継続しているのに、溺水など、事故の場合を除いては、喀血、泡吹きなど見たことがない。ただし、溺水事故の場合は、泡吹きが多い。これは肺水腫が関わっていたのではないかと疑う。

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 想定原因としてフット・ファーストをあげられているが、現在では、適正ウエイトとは、BC.の空気を抜いた状態で身体を正立させたときに、頭の上が水面にすれすれぐらいで、その位置から、海女の大和式のように、手を逆に掻き、息を吐き出して、少し沈み、ヘッドファーストに移行するか、水深が2mを越えれば、沈下を始めるので、前傾姿勢でそのまま潜っていく。
 この手順を少し考えて、息を吐き出さなくても、BC.の空気を完全に抜けば沈んでいく、水面で1ー2キロ程度オーバーウエイトにしておく、僕などは、そうしているので、5mを越してからの沈降速度が早く、時に墜落にちかくなるのだが、近年のバランスを重視する潜水では、相当に乗ずにならないと、適正浮力で、息を吐き出さないで沈むのは難しい、現代の適正浮力とは、1キロ程度オーバーで、水面での呼吸は吸い気味でも、BC.の空気を抜いたら沈むように設定しなければならないだろう。潜降索を伝わっての潜降、浮上ならば適正ウエイトで問題がないので、潜降索を使うことが必須という議論につながるかもしれない。 ダイビング事故全般と高齢について。
 
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 高齢については、あんまりコメントしたくない。
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0407 更新講習ー3 第三管区海上保安本部 警備救難課

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ダイビング事故について 第三管区海上保安本部 警備救難課 伊藤さん 中野さんのお話
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 事故原因では、「自己の過失がもっとも多い」この視点からの海保の話は初めて聞いた。
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 事故例1
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 事故例2

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 これら事故例の説明では中野さんの説明は、これまでの保安官の説明のなかでも出色のものだったと思う。
 海保の係り官の説明には、毎度感心はしている。それぞれが視点を変えて話を組み立てているように思える。 事故に遭わないためには?
 というより、自己過失が多いのだから、事故を起こさないためには?だと思うけれど、

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 このカードの終わりに、 どういう落ち度が考えられますか?(インストラクター目線で)という問いかけがある。事故例1と2で、議論を展開したいと講師の中野さんは想定したのだろう。だれも手をあげなかった。
僕は考えがあるから、発言したかったのだが、その発言に関しての講師の話が、悲しいことに聞き取れないかもしれない。議論にならないのだ。ずいぶん迷ったのだが、発言しなかった。 事故例1も2も議論になる例を選ばれている。
 事故事例1 
 この事故事例の起こった場所が問題であるから、僕が立ったとすればそれをまず聞いただろう、そして、ドライスーツ着用というのだから、その時の水温も問題になる。
 それらの条件をふまえたうえで、ダイビング歴が事故時に7本目で、ドライスーツで水深28mに潜るというのは無謀、現今の指導団体には、Cカード取得から30本目あたりまでのプログラムというか、禁止事項はないのだろうか。
 今、プロのダイバーでも空気で潜れる限度は40m、ぼくらでも、水深30mは、深い潜水だと身構える。それを28mというのだ。 事故事例2
 ボートエントリーだ。常識的に考えて、潜降索は、ボートからおろすだろう。
 パニックになって浮上する。浮上した上にボートがありボートにあげれば何の問題もないのにそうしていない。別の浮標を浮かべてボートは何をしていたのだろう。 そのシステムも納得いかないのに、さらに、インストラクターが決してやってはいけないこと、これは、古典的な事故である。古典的とは、事故例に学ばずに何度でも事故を起こし、人を殺し続ける事故という意味だ・
 不調なダイバーを一人にする。ほかのお客にダイビング中止を伝える為に一人残して潜っていった。そんなことにならないように、打ち合わせておけばすむことだ。インストラクターがだれかの不調について浮上する。その時点ですでに事故なのだから、全員事故として浮上する。商売上の視点からそのようなことができないとすれば、この人はコマーシャリズムの犠牲になって死んだということだ。
 たぶん、このような議論になるように、講師の中野さんはこの事例をえらんでいるのだろう。こんなこと、僕が発言しなくても、指導資格の更新なのだから、誰か発言する人が居てしかるべきだった。もしくは、発言者を仕込んでおく。
 そういう準備の周到さがないことが、ダイビング事故を生んでいるのだろう。 僕の言葉として河合先生がとりあげてくれたのだが、ダイバーは危険の克服を好む。言葉を換えれば、すべてが危険だと想定して、克服する手段を用意しておく。ダイビングの指導員はそのくらいの頭の回転がもとめられる。

0408 ダイビングの歴史63  海の世界73年ー3

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このブログを書いていて。
 雑誌を書画カメラ(あまり性能がよくない安価な)でコピーしたものを貼りつけている。見開きで撮影しているが、見開きのままだと拡大できない。1ページに切断して貼ると拡大できて、スマホ端末の片手操作でも読むことができる。自分の資料的にはこれで足りる。 
                 
 1973年9月  須賀次郎が「これからのダイビング」というシリーズの連載をはじめて、「素潜りにライフジャケットは必要か?」という議論を展開した。」
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 そのころ、1960年代から1970年代のダイビングで、ライフジャケット、そしてやがてのBCをどのように使うか、扱うか.は、重要なテーマだ。
 ライフジャケットについての姿勢、使い方、イコールその人のダイビングのスタイル、その指導者の考え方、ともいえる。 ライフジャケットのことを論ずる前に、まずライフジャケットのことを少し書くことにする。
 「僕とライフジャケット」だ。僕と肩ならびのダイバーは皆、多かれ少なかれ、ライフジャケットの物語を持っているはずで、僕の物語は、その一つだ。
 日本にスクーバ、アクアラングが入ってきた時、ライフジャケットは付属していなかった。もしかして、その時にライフジャケットが附いていたら、1954年、日本ではじめてのアクアラング事故は、おこらなかったかもしれない。
 潜水科学協会、「どるふぃん」にただ一つ掲載されていた事故報告は、サザエの穫りすぎで沈んでしまって、泳ぎきれなかった例だから、ライフジャケットがあれば、助かった。

 そのころのライフジャケットは、「メイ・ウエスト」と呼ばれるものだった。僕は持っていないが、舘石さんが着けていた写真がどこかにあったはず。(大変なので、今は探さないが)アメリカ軍の飛行機が海上に墜落、日本軍が撃墜したわけだろうか。洋上に墜落したときに、膨らませて浮いて救助を待つ救命胴衣だ。そのころハリウッドのグラマー女優に「メイ・ウエスト」というスターが居て、救命胴衣を着けた姿が、メイ・ウエストだったのだ。
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            1930年代アメリカのセックスシンボル
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 進駐軍の放出品だから、そんなに数はなかったので、僕はてにいれられなかった。進駐軍、特に空軍の放出品はかっこよいものに、僕らは考えていた。
 問題は、レバーを引いて、炭酸ガスカートリッジの封板をカットするのだが、使ってしまうと、カートリッジの予備がなかなか入手できない。それにカット装置が錆び付いたりすると、作動しない可能性がある。それにしてもカッコいいから、使った。
 やがて、国産でも同じようなライフジャケットができて売り出されたが、これはあんまりかっこよくなかった。
 かっこよくなかったけれど、当時のダイビング事故の大半は、今でもそうかもしれないが、溺水、溺死だった。溺死はライフジャケットがあれば助かる可能性が高い。ライフジャケットは必着、と僕は考えるようになった。

 ライフジャケットの問題点、炭酸ガスカートリッジをやめて、小さな1リットルぐらいだったろうか、空気ボンベにスクーバボンベから移充填して使う救命胴衣を開発した。これならば、いつでも好きなときに空気を入れて浮いていることができる。細い管から息を吹き込むこともできるが、これでは、緊急の場合には間に合わない。

 その、僕の、東亜潜水機製の空気式救命胴衣、袋を貼るのが面倒でないように短冊型にしてしまった。マットレスみたいだとみんなにからかわれたが、使いやすかったし、まずまず売れた。

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              陸上の商品写真は探し中
 
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フェンジイ

小型タンク、この部分は僕の作ったものとほぼ同じ

 丁度そのころに、フェンジイの、胸掛け式のBC.の元祖、最初だった。これを見て僕は「やられた」と思った。小さなボンベから空気を入れることについては同じだが、フェンジイは、マウスピースのついた蛇腹管の排気、吸気管を持っていて、エア切れの時、袋に空気を入れて、それを何回か呼吸ができる。炭酸ガスで膨らませるのではなくて、空気だから吸えるのだが、僕の空気ボンベライフジャケットは、吸気管か付いていない。
 
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            ほぼ、最初のBC.左側に中圧ホース差し込み口 その下に
            炭酸ガスカートリッジのカット装置が 紐付きである。

 その次の段階で、ライフジャケットにレギュレーターからホースをつないで、小さなボンベが無くても、空気を入れられるようになる。もっとも、これは、エア切れになると、空気を入れることもできなくなってしまうのだが。
 そして、僕の作っていたレギュレーターは、ダブルホース、シングルホースのレギュレーターでなければ、BC.に空気を入れる中圧ホースを出すことはできない。
 そのころ、レギュレーターはダブルホースが良いか、シングルホースが良いか、一長一短だったが、これで勝負がついた。ダブルでも中圧ホースを出せないことはないが、シングルのように簡単ではない。これで勝負がついた。排気が目の前から出てくるシングルホースよりも、排気は背中からでる、ダブルのほうが、撮影の時などは、良かったのだが。
 僕の作ったライフジャケットは、手元に残っていないがフェンジイとその次の段階のBC.はまだ残してある。上の写真 
 BC.については次の展開になる。

 スキンダイビングでライフジャケットを着けるかどうか
 それがここでのテーマである。 貼りつけた写真を読んでもらえると良いのだが。誰が着けるのに賛成か反対か、その理由も書いた。 僕のこの記事、「これからのダイビング」は、このように問題提起をして親しい、もしくは親しくはないけれど、答えてくれそうな指導者に答えをもらって、問題を整理展開しようという企画であった。
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 タンクを背負っていないスキンダイビングでは、ウエットスーツを着ていれば、ウエイトを落とせば、十分な浮力を得られる。ライフジャケットは何かにひっかかって、拘束の原因になる可能性がある。
 しかし、意見を聞いただいたいの人が、ライフジャケットは絶対着用という意見だ。流氷の本間さんもライフジャケット絶対だ。竜崎氏も絶対着用だ。清水の望月さんは、スクーバでは義務づけるがスキンダイビングでは、余分なもので、余分なものを身につけるのは、水の抵抗にもなるし拘束の原因にもなる。関西潜水連盟の京都のグループも着けない。
 素潜りでスピアフィッシングをやっているような人は、着用しないのだ。鶴耀一郎はスキンダイビングでもスクーバでもライフジャケットを着けていない。

 今、2019年のスキンダイビング、海豚倶楽部の遠足では、チューブなどの浮力体は必須で、バディシステムも必須だが、スキンダイビングではライフジャケットは着ない。海女さんもタンポという浮きを持って泳ぐがライフジャケットは着けない。それと同様に、潜る水面には何かを浮かせて置くが、ライフジャケットはつけない。
 スキンダイビングを、スキンダイビングだけが目的であれば、海女さんと同じ方式がベストだろうが、1970年代は、スクーバダイビングと連結したスキンダイビングだった。空気充填がどこでもできるというわけではなく、タンクを車に積んででかけていくのだから、空気量に限りがある。午前中はスキンダイビングで、午後がスクーバとか、またはその逆、午後はスキンダイビングとか、スキンとスクーバが連接していたので、タイヤチューブなどをもって入るダイバーは少数派だった。なので、ここでの議論も、浮力ベースの良否などは入ってこない。 フリーダイビングは、もちろんライフジャケットは着けない。船からラインを下ろしてもぐるのだが、浮いてくる時に浮きをくらませて浮いてきても良い、ノーリミッツ、何でもあり、という種目もある。。スノーケリングは、ライフジャケット浮力体で浮いているから、着けている。スノーケリングは、そもそも潜ってはいけない。浮いているのだ。 スクーバはBC.を着けるから、また別の議論になる。
 兼高かおるの縁者である学習院の野田充彦(日本潜水会)が「バイキングの海に潜る」 デンマークの潜水事情でおもしろい。5月にデンマークのダイバー、竹川さんがおいでになるので、73年のデンマークと今のデンマークのことを聞いてみよう。73年にすでに豪華なバーのようなお酒のみのダイビングクラブだというから、あまり変わっていないかもしれない。  
       
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     野田と鶴耀一郎 野田君はライフジャケットを着けている。鶴はつけていない。
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      1973年10月
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 これからのダイビング、「ライフジャケットは絶対必要」という考えは間違っていないか? 須賀次郎
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 先にスキンダイビングとライフジャケットの関連を書いたが、今度はスクーバでも着ない方がいい場合がある?という話題。
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 1967年の日本潜水会発足の時の写真を見ると、ライフジャケットを着けている者と、着けない者、ほぼ50・50だ。上の方、鶴と野田君も、野田だけが付けている。 現在BC.を使わないレクリェーションダイバーは、皆無だろうが、まだ、今のようなBC.は出てきていない。ライフジャケットの一つとして、スクーバプロの胸掛け式が紹介されている。
 今はBC.を着けないレクリェーションダイバーは皆無であるし、テクニカルダイビングでもこれはもう必須だから、BC.不要の議論など考えられないが、このあと、BC.が出てきても、1970年代後半には、BC.が是か非かという議論になる。その前哨戦ののようなものだ。
 BC.はBC.の問題として、ここでは、スクーバダイビングでもライフジャケットも、TPOで着けなくても良い場面もあるのではないか?という問いだ。 大橋禄郎さん、マリンダイビング誌や、海の世界に連載に近い原稿を書いておられ、たしか本職は栄養関係の学校をやられていた方で、次の項で大橋さんの原稿が出てくる。そのときにまた大橋さんのことは書くが、大橋さんはライフジャケットはTPOでも良いという意見だ。
 
 ライフジャケットを着けていた場合、当時のライフジャケットは、細い吹き込み管から息を吹き込むか、炭酸ガスボンベの封を切って、膨らませるかだが、おぼれかけたら、息を吹き込むことなどできない、炭酸ガスカートリッジが作動しなかったら、命取りになる。そのライフジャケットがじゃまになってタンク、ウエイトが捨てられなくなる場合がある。
 
 ここでもう一度、1973ー1 73年2月号のライフジャケット特集を見てみよう。
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 クレッシイのイタリア人で、NAUIの講師の一人であった、パオロ・クレオソラ、たしかイタリア人、が、神子元で流されて、ライフジャケットで助かった例を書いている。身体が動けなくなったり、流されたりしたときにはライフジャケットが命の綱になるという意見である。重ねて言うが、これはBC.が普及している現在のことではない。BC.がまだ、生まれかけのじだいである。73年2月号のライフジャケット特集では、スクーバプロのBC.が一つだけ取り上げられている。
 フェンジイのライフジャケットは日本でそれほど売られていなかったので、この海の世界の特集では取り上げられていない。 ところで、ライフジャケットで流されたとしても、当時の状況では、助けてもらえる保証はどこにもない。ライフジャケットが抵抗になって、潮をさかのぼれずに流されてしまうことも考えられる。つまり、ライフジャケットがあるために流されてしまった。これもライフジャケット不要論のひとつである。  いま、73年の1 「安全潜水とライフジャケット」のところを参照、読んでいるが、その説明部分を書いている慶松さん(今、親しくさせていただいている)は、ライフジャケット必着であり、水中で炭酸ガスカートリッジを切って膨張させるテクニックについて、解説している。炭酸ガスで気嚢を膨張させても深い水深では浮力は少ないが、水面近くなると十分な浮力になり浮くことができるという記述がある。減圧症についての考え方が、現在2000年以降と当時では全く違うが、それにしても、減圧症と溺死とどちらを選ぶかという選択枝はあるだろう。空気塞栓にさえならなければ急浮上も許容された時代だから、当時は水中作動もありだったのだ。
 水中で炭酸ガス膨張式のライフジャケットを作動させれば、深い水深ではそれほどの浮力は得られないが、浮上するにつれて、ライフジャケットは膨れ上がり、最終的には水面に飛び上がることになる。
 安全停止して、安全停止の3mから水面までは、とくに浮上速度を緩くする。3mから水面まで、1分を経過させるという現代の減圧理論では、自殺行為に見えるだろう。しかし、エア切れはスクーバの宿命で、水深30mでエアが無くなった。そのままとどまれば、確実に溺死、すなわち死である。水面に飛び上がっての減圧症は、死ではない。うまく飛び上がれば、減圧症にだってならないかもしれない。空気塞栓だけが要注意だ。
 フェンジイなどは、別の小さなボンベを持っているのだから、エア切れの対策にもなる。膨らませて気嚢の中の空気を吸える。しかし、急浮上しながら、空気を吸ったり排出したりしなければならないのだから、よほど熟練しないと危ない。その練習中の事故も十分に考えられる。 現在では、もちろんエアシエア、昔ならばバディブリージングがある。しかし、バディがそばにいなければ、そばにいたとしても、バディの空気だって、二人が呼吸して水面までは持たないかもしれない。つまり、バディを犠牲にするかもしれないのだ。
 しかし、そんなことを日常にやっていたのでは、命がいくつあってもたりないだろう。僕の書いた「アクアラング潜水」では、特別の訓練をした人でなければ、ライフジャケットを水中で作動させてはいけない、と書いた。しかし、その特別訓練の時に事故を起こすことも十分に考えられる。
 バディブリージング、フリーアセント訓練中の事故もいくつかほうこくされている。 今でもだが、作業ダイバーは高気圧作業安全衛生規則でライフジャケット着用が義務づけられている。
 このことについて、この73年の海の世界では、ライフジャケットを着けていない事故は、労災保険がもらえない、などと書いている。
 しかし、実際には、遺族は訴え出れば労災はもらえるので、その労災金額は事業者が負担しなければならない。そんなことを自分が知ったのは、1990年代のことだが。

0409 ダイビングの歴史64 ライフジャケットからバランシングベストへ

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 次に、1973年海の世界 10月号 の続きで、この時代1970年代のスキンダイビング 素潜りのことをすこしくわしく取り上げるのだが
、その前にもう少し、ライフジャケットのことを調べよう。
 たとえば、水深30mで炭酸ガス膨張式のライフジャケットを作動、膨らませて、水面に急浮上して良いか?
 講習、指導では、厳禁と教えていた。
 ところが、1973年 海の世界ー1 、「安全潜水とライフジャケット」で、その使用方法のところで、慶松氏が、水中での作動について、書いている。慶松氏は、親しくさせていただいているが、1973年当時も、まだ若かったが、NAUIの初期からのメンバーであり、ダイビングショップも、ダイビング作業もと、手広く活躍されていた。
 「安全とライフジャケット」では、まずライフジャケットの必着を唱え、そして、その使用法の説明で、水中での作動について、述べている

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。「一般に根強く信じられている誤りについて、説明しましょう。それは、水中でカット装置を作動させると、急激な浮力がつき、減圧症、エアーエンボリズムを起こすという説です。実際に水中でカット装置を使った場合本当に危険な浮力が得られるのでしょうか。たとえば市販最大クラスの17グラムの炭酸ガスボンベを使用したとして、(計算については、添付の写真参照)約2。3キロの浮力でしかありません。当然30mではオーバーウエイトなので、そんなに強烈な浮力は起こりえません。実際に強い浮力を感じるのは4m以淺ぐらいと思って良いでしょう。つまり無減圧潜水を守ってさえ居れば、減圧症になるほど早いスピードで浮上してしまう心配はありません。もちろんエアーエンボリズムも呼吸さえ停止しなければなんら問題ないのです。」
 これは、1970年時点での考え方で今の減圧症についての考え方とは違うのだが、ところで最近の人、ダイバーは、なぜ、こんなにも、減圧症にかかるのだろう。1960年ころの浮上速度のスタンダードは、米国海軍のテーブルで、毎分18mで、18mで減圧症がでたので、その後毎分10mに改訂され、さらにその後、安全停止3mで2分、さらに3mでの安全停止が3分になり、3mから水面までは1分程度かけるようにとなり、にも関わらず日本のレジャーダイビングでは、減圧症患者が激増しているように聞こえる。何故なのか、考えはあるけれど、かなりエキセントリックなのでここでは述べない。
 とにかく昔の人、ダイバーは、無減圧範囲であれば減圧症にはならなかった。僕の視点、考えでは、無減圧範囲で減圧症に罹患したとしても軽度であって、自然治癒する程度、それもなる確率は3%程度、つまり97%はならない。だから、エア切れとか、非常緊急事態では、僕自身は、自己責任で、ためらわずに、水深30mでも、バルブをカットする。
 水深30mを越えていて、しかも、無減圧範囲を超えていて、3m、3分の停止、これもためらわずにカットする。繰り返し潜水で2段減圧になっていたとしたら、減圧症の痛み、苦しみ、そして、最悪車いすの生活を想像した上でやはりカットしただろう。僕が潜れなくなり、車いすになれば、会社は繁盛して儲かっただろうと思う。

 無減圧範囲であれば、恐ろしいのは空気塞栓だが、水面に接近したらライフジャケットのガスを抜いてやればいい。ならば、これは排気弁の改良改善で解決できるはず。
 そのことを僕は気づかなかった。フェンジイの蛇腹管の排気弁を見て、そうだった、やられたと思ったのはそれだった。それをやらないで、1969年に僕は東亜潜水機を辞めてしまう。
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 ライフジャケットの水中での作動について、自分の著作「スポーツダイビング入門(1976)では、どのように言っているだろうか?
 今見ている海の世界は1973年、1976年との間に3年の月日が流れている。いま、73年と76年の間には1975年のダイビングワールドの創刊があり、このスポーツダイビング入もんんも、ダイビングワールドを1975年に創刊した、マリン企画が出した。
 1975年当時、ダイビング初心者を指導する団体、組織のマニュアルといえるようなものは、僕の全日本潜水連盟、共著者である竜崎さんのPADIには無かったので、両団体のマニュアルのようになった、そして全国のダイビングショップの広告を巻末に載せている。自分としては、単行本にこんなに広告を掲載するのは、考えられなかったのだが、これは版元のマリン企画の営業の勝利であり、よく売れたとともに、マニュアルとしてよく使われた、すなわち、1976年代のスポーツダイビングのスタンダードを言うことができる。 
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 ライフジャケットを膨らませるのに、小さなボンベの空気を使用するのは、すでに普及している。じつはこの構造、僕が東亜潜水機で特許を申請し取得している。でも、製造販売が海外だし、争っても、フェンジイとどちらが早いかだかれ、勝てないだろう。争う気も無かったけれど。
 膨らませることに空気を使うようになり、給気、排気も蛇腹管とマウスピースで容易になったことから、水面で浮いて休息するために多用されるようになり、救命具、ライフジャケットというよりも、フロートに近くなってきた。BC.も、バランシング・ベストという名称で普及するようになった。
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 潜降するにつれて、ウエットスーツと身体の浮力が減少して、ウエイトの必要量も減る。書かれているのは、水深5mで7キロのウエイトでバランスしていれば、10mでは4ー5キロ、20mでは2ー3キロ、30mでは0ー2キロになる。7キロを着けているとすれば、水深20mでは4ー5キロのオーバーになるわけだ。
 だから、当時は水深20mに潜る場合には、3ー4キロ着ける、つまり4ー5キロの浮力に打ち勝って、ヘッドファーストで強引に潜り込んでいく。浮いてくるときにはどうしても、浮上速度が速くなる。僕などは、毎分20m前後のスピードで上がっていた。今の常識で考えると、よくも減圧症にならなかったものだと思うが、それが日常だった。
 バランシングベストが普及すればそれが解消されるのだが、浮上するときにベストの膨張で浮くスピードが早くなる、浮上にあわせて、空気を抜いていく、今では当たり前のことになったが、この本ではその技術がない初心者にはバランシングベストを使うには特別の講習が必要であろうと書いている。
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 緊急浮上について、バディブリージング、フリーアセント、コントロールアセント、そして、フロートによる上昇を説明している。そしてフロートによる浮上について、吹き上げが心配されている。
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 昔も今も、潜降浮上、特に浮上の要領が重要なテクニックであったのだ。
 1976年のこの本ではまだBC.の使いこなしができていない。
 スクーバダイビング技術の進化は、BC.の使いこなし、潜降浮上の技術、トリムをとって潜水ができるようになるまでの進化、が大きく変わったところなのだ。
 炭酸ガス膨張式のライフジャケット、から空気を使うライフジャケット、そしてフロートから、水中で浮力を調整するBC、スタビジャケットから、現在のBC.へと機材も進化していく。

 ダイビングテクニックの進歩、それに対応する機材の進化は、水中でのライフジャケット使用方法の追求だったとも言える。
 

0311 ダイビングの歴史 52 ブルーゾーン 1

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ダイビングの歴史 52 ブルーゾーン 1 ダイビングの歴史50 12月 で、雑誌、印刷物について、日本潜水科学協会の「どるふぃん」が終わって、1967年の日本潜水会の誕生あたりまで来ている。
「海の世界」は、ダイビング専門誌ではないが1963年には、舘石、須賀の90m大深度実験を掲載してくれた。そして、次第にダイビングの記事も出始めたが、ダイビング専門誌ではない。ダイビング専門誌は、1968年 7月の「ブルーゾーン」が、書店に並ぶ雑誌として本邦初である。なお、「どるふぃん」は会報であり、一般に販売される雑誌ではなかった。
 
 ブルーゾーンは野尻純康が編集発行人である。
 1968年の、自分は、28歳 後藤道夫、浅見国治と日本潜水会をつくったが、まだ東亜潜水機にいる。 東亜潜水機を退社するのは、翌1969年、僕はいろいろな意味で、独立、自立する境目にあった。あとから振り返れば、最悪ではないものの、最善の路ではなく、後から後悔することばかりだったが、成り行きである。
 自分の目標とする基本コンセプトは、日本のダイビングスポーツ界を統一して、スクーバダイビングをスポーツとして、公に認めさせること、だった。それが、まちがいだったのだが、やってみなければわからない。その頃の、スポーツダイバー(商売人では無いという意味)口を開けば、統一とか協力を唱えていた。
 
 スピアフィッシングをやめたら、ダイビングに残るものは、水中撮影だが、水中銃は誰でも、ほとんど全ダイバーが持っていたが、カメラは全員が持っているわけではない。なにも持たなくてもダイビングは楽しいが、それまで銃を持っていた手はやり場がない。それを少なくとも、日本潜水会直下の指導員には、無理矢理に徹底ようとしたが、水中銃の販売はやめるわけにはいかない。一番売れる商品なのだ。だから、無理なのだ。
 なお、今のダイバーには想像を絶することだろうから、説明しておくが、僕らがやっていたスピアフィッシングは、スクーバを使ってやっていたものなのだ。
 スピアフィッシングでのバディシステムとは、エントリーは一緒、エキジットは、出来れば一緒、に上がりたいとは思っているが、水中では、出来るだけバディの気配、位置はつかんでいようと努力はしているが、獲物をねらうのは個々別々だ。場所にもよるが、浅い水深を移動しながら、魚を探し、大物がいたら急降下して狙う。大物であれば当然、上へも下へも暴れまわるから、ダイバーも上下、つまり、潜降浮上を繰り返す。そして大物であれば、そのまま浮上して、船にあげるか、水面の浮きにぶら下げて次の獲物をねらう。安全停止という発想もなければ言葉もない。もちろんダイブコンピューターなどもない。鋸の歯のような潜降浮上の繰り返しは日常だ。
 それで、なぜ減圧症にならなかったのか?神津島で大物狙いの大会をやった。八丈島でもやった。でも誰も減圧症にはならなかった。考えられる理由は、だいたいにおいて、タンクは一日に1本だった。多くても1日に2本、充填圧は150キロだった。使うタンクは充填したものを車に積んでいき、おわれば、持ち帰って充填してくれる所に持ち込む。スピアフィッシング大会では減圧症はでなかったが、クラブでは、一人二人減圧症体験者は居た。
 スピアフィッシングを無理矢理禁止した日本潜水会の英断は、安全のためにもかなったものだった。
 
 そんなスピアフィッシングに代わる活動として、水中スポーツ大会を開催した。もちろん、水中撮影も強制的に奨励したが、カメラも買えない。フイルム代ももったいないという若いダイバーが熱中できる目標として、速く泳ぐこと、重いものを持ち上げること、レスキューの練習を競技にすること、などを競う大会を、スピアフィッシング大会に代わるものとして、企画した。1968年は、その第一回を目黒の日大、プールで開催した。東亜潜水機の業務の傍らだから、その準備が難儀だった。
 そんな難儀の最中、僕と後藤道夫は、野尻君に呼び出されて、会った。
場所は、青山のどこかの喫茶店で、そのときの光景は今も思い出すことができる。日本潜水会は、原稿料なしで全面的に協力することになった。
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 表紙を開くと、VOIT 
 大沢商会のアクア スポーツ課、そしてボイトは、前年 日本潜水会を一緒につくった白井常雄が仕切っている。葉山マリーナにボイトダイビングセンターもやっている。
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 野尻純康は、それなりのカメラマンで、この雑誌の写真は彼が全部撮っている。
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 ぼくが書いた「アクアダイビング練習法」  日本潜水会指導員 須賀次郎
 そのころは、飛び込みのダイビングと区別するために、アクアダイビングという言う呼び名を提唱した。良い言葉だと思うがだれも使わなかった。
 僕は、1966年に日本で初めてのダイビング指導書「アクアラング潜水」を浅見国治と共著で書いている。そして67年に日本潜水会を後藤道夫、浅見国治とはじめた。
 一応、当時のスポーツダイビング指導のトップを走っていた。日本潜水会では、まだインストラクターと言う名称は使わない。指導員だ。
 そのころのダイビング指導はどんなことを考えてやっていたか、今振り返ると興味深い。
 健康
 自分はまだ若く、健康である。病気の人とか高齢者の気持ちはわからない。だから、健康で無ければダイビングをやってはいけないと思っている。

 仲間をつくろう        
 アクアダイビングの鉄則はバディシステムである。では、どのようにしてバディシステムを実行できるか。良いクラブをつくること。クラブが安全の鍵なのだ。この考え方は昔も今も変わっていない。
 ※実際のダイビング仕事、自分の会社では、経費的な問題もあって、これを貫けなかった。そのことが、後に大きな悲劇を生むことになるのだが。

 遊泳能力
 そして、泳ぎ方はクロールのような上下動のキック。今、主流のフロッグキックは禁止した。

 スキンダイビング
 アクアダイビングの第一歩はスキンダイビングである。スクーバを着けるためには、まずスキンダイビングから入らなければならない。

 フロート
 救命胴衣かフロート、どちらかを持つことが必須である。スキンダイビングは身体にごちゃごちゃしたものは着けたくないからフロートである。岩ノ下に潜り込んで、でられないで死ぬ思いをした経験がある。スクーバの方は、ごちゃごちゃしたタンクを着けているのであるから、ついでに救命胴衣を着けても良い。
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 座談会 「ダイビングは楽しい」
 懐かしい顔が並ぶ。ミナミスポーツの長谷川、USJの田中龍彦
 若い女の子は小沢さん、山口さん 
 小沢さんは日本スキューバの会員だった。
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 海外情報 アメリカのスキンダイビング
 この雑誌、ダイビングの指導については田口哲(日本のNAUI創始者)と僕で書いた。
 ロスアンゼルス・カウンティ(ちじめてロスカン)公認インストラクター
 田口君は、アメリカに7ヶ月留学して、ロスカンのインストラクターになった。アメリカではインストラクターと呼ぶ。
 ロスカンはNAUIの前身とも言われる。、ロスカンがそのままNAUIになったものなのかどうか、役員構成などはしらないが、ロスカンのインストラクターは、みんなNAUIに移行した。
 アメリカでは、まだスクーバダイビングはスキンダイビングに含まれていた。スキンダイビングというタイトルで、スクーバダイビングのことを書いている。 ページの順序を変えて、講習関係をここに持ってくる。
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 潜水教室のおしらせ
 日本クレッシーサブ潜水講習コース
 ロスカンの講習会が現地と同じ方式で開催される。
 講義9時間、プール9時間、海での訓練3時間 合計21時間
 アメリカのロスカンから2名が喚ばれており、日本からは、田口哲、大島洋が実施指導に当たる。大島さんは、後に日本海洋産業(潜水艇ハクヨウを持っていて、石油掘削の潜水業務を行う会社)に移られ、親しくなった。 この講習会の主催は大手のスポーツ用具問屋ホープが行った。
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 日本潜水会 技術検定試験
 4月20ー22日 海洋公園で第一回一級検定が行われ41名が参加し、25名が合格した。
 技能認定種目は
 ①10mの水底に8キロのウエイトをおいて、素潜りで引き上げてくる。
 ②水深5m以内で水平方向40mのす潜り
 ③水深15mからマウスピースをはずしてフリーアセント
 ④水深15mからバディブリージング浮上
 ⑤全装備を着けて100m沖まで、水面を行き、潜水してコンパスをたよりに出発地点に戻る
 ⑥全装備を着け、スノーケルなしで、水面を500m泳ぐ
 ⑦1組5人でグループ潜水シユミレーション
 ※振り返れば危ないことをやっていた。日本潜水会の一級は、死ぬことは許されない。とされていた。が、後に、素潜りで岩に拘束されて一人死亡。
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 ボイトダイビングセンター
 葉山マリーナにあり、スクーバ20セット、クルーザーボイトI世号をもちダイビングができる。個人講習もできる。
 葉山マリーナーにくるような、セレブ対象のダイビング これも、白井常雄がやっていた。

                      続く

0312 ダイビングの歴史53 ブルーゾーン2

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広告、ダイビング機材の広告はその時代、その時期を反映する。
 1967年に日本潜水会は、スピアフィッシングの禁止を決議して、魚突きのチャンピオンであった鶴耀一郎は、奄美大島に移住(お父さんの実家だという)プロの漁師、ウミンチューになって魚突きを続けた。しかし、機材販売の世界は、また別の世界。1968年も水中銃が主役。
 しかし、年月が経ってみれば、今はスクーバで魚突きをするレジャーダイバーはいないだろう。ダイビングショップに水中銃は並ばない。ダイビング雑誌に水中銃の記事も、広告もない。
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 左上はスプリング手巻きの16mmシネカメラ、DR70のハウジング
 東亜潜水機で僕がつくって、ボイトの大沢商会が映画関係に販売した。
 ライフジャケットとゴムボート
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  そして、西伊豆雲見を紹介している。雲見は遠かったけれど、どるふぃんでも紹介され、伊豆海洋公園と並んで、二大ダイビングスポットだった
 ※写真を貼り付けて、PCで、見ると拡大して、字を読むことが出来る。スマホは少しつらいけど。

鮫狩り 田口哲
 爆薬で、銛を打ち込む、ポップガンで鮫を撃つことを書いている。
 サメは魚の仲間に入っていない時代 
 。
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 潜水医学に就いて
 海上自衛隊横須賀地区病院 院長 松田源彦
 松田先生は、その後、海洋科学技術センターに移られ、シートピアの指揮を執られる。
 
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 マレス 運道具用品問屋の東京トップ
 
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 ミナミスポーツも1pの広告
 BZM サロンの投稿を見ると、統一とか、きちんとしようという発言がみられる。

 野尻君は 孤軍奮闘してこの雑誌を作り上げた。
 彼は、ダイビングという閉鎖社会で、ダイバーとしての知り合いではなかった。どこからきたのだろう。なにをダイビング界でやろうとしていたのだろう。よくわからなかった。ダイビングは出来たが、素人だった。なにか、スーパーな能力を持っているように思えた。

0413 ダイビングの歴史65 海の世界73-10 スノーケリング

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1973 海の世界 10月号
 「気軽なスノーケリング(素潜り)のすすめ」
 「潜水はスポーツでなく楽しいレジャー」
  東京潜泳会会長 大橋禄郎

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 東京潜泳会は素潜りのクラブである。
 大橋さんの本職は、栄養学校の校長さん。栄養学が専門だとか、聞いた。とにかく、ダイビングが専門ではないのだが、東京潜泳会は、当時は有名なクラブであり、その潜泳会のメンバーには、海洋大学潜水部の後輩、船水欣一郎君もいたし、東亜潜水機時代、勤務先が近いとかでよく遊びに来てくれていた田島君がいた。田島君は気持ちのいい若者で、(僕も若者だったけど)親しくしていた。その田島君が、1971年、八丈島で行われた、世界水中連盟の行事ブルーオリンピック、スピアフィッシングの魚うち、大会で、日本は規則で水中銃による魚突きが、禁止になっているということで、手銛で魚を突いた。このブルーオリンピックは、魚突きができるようにしようと、結成された社団法人水中技術振興協会が主催した。マリンダイビング創刊号のところで、説明したが、この進行協会に、できあがったばかりの全日本潜水連盟(これを便宜的に第一次全日本潜水連盟と呼ぼう。)その全日本潜水連盟を構成していた、関西潜水連盟、中部日本潜水連盟が加盟した。日本潜水会はスピアフィッシングをやめようと提唱していたので、これには加わらなかった。日本潜水会が加わらなかったから、日本潜水会の中心メンバーで、ブルーオリンピックに参加して好成績をおさめて、好成績をあげていた、鶴耀一郎も参加しなかった。
 ブルーオリンピックは国際的な、CMASの大会だから、外国選手も参加する。この国際的には大会も開かれているのだからということをあっピールして、水中技術振興協会の会長である、小宮山重四郎衆議院議員の力で、水中銃の大会を開き、既成事実を作ってしまおう、ということだったのだが、それは出来なかった。折衷的に手銛ならば良いということにしたのだが、手銛でも魚突きは規則違反である。手もりならば、良いという間違った考えは、現在でもあり、東京都の規則ではその部分がグレイになっている。これは、このブルーオリンピックの遺産である。


 だいう回り道をしてしまったが、そのブルーオリンピックに、潜泳会の田島君が出場して、その競技中に死亡してしまう。このような公式の行事中での事故も、日本では原因などの公表がないので、本当のことは知られていない。ここに書くのも伝聞である。鶴耀一郎が出場しない日本チームでは、田島君がエースと目されていた。そして、無理をしたのだろう。耳抜きの不調もあったと聞いている。鶴耀一郎のいうには、彼の出場したブルーオリンピックでは、国別のチームで、個人競技であると同時に団体戦もあり、各チームについて、一隻のボート、そして救急安全とルール監視審判ののために1名以上のスクーバダイバーが付くのだという。個人優勝の為に、水中で、チームのメンバーが自分の付いた魚を誰か一人に集めてしまう。そんなことについての監視だという。日本の急造大会では、そのような監視ダイバーも無く、遺体で発見された。
 僕らのやった、スクーバダイビングによる魚突き大会も、僕が審判となって巡回したが、一つのチームに一人というようなものではなく、審判の僕も魚をついて遊んだりしていたから、人のことは悪く言えないが、鶴耀一郎は、大会に殺されたといっていた。スキンダイビングによる魚突きは危ないのだ。
 詳しくは知らないが田島君のような選手を輩出させるのだから、東京潜泳会も、この事故までは、普通の魚突きクラブであったのかもしれない。この事故で、スピアフィッシングもやらなくなって、危なくなく、そんなに深くは潜らず、浅い海で楽しく潜る、というコンセプトに変わったのだろう。
 誤解のないように付け加えて置きたいが、僕は大橋さんと、立場、視点はちがったが、彼のことは尊敬していて、「これからのダイビング」では、アンケートに答えてもらっている。最近、この前に会ったのは、マリンダイビングの編集長だった鷲尾さんがナヒモフ号の金塊についての本を出版されたとき、その記念会でお目にかかった。仲良く並んで、記念写真に入った。もう少し昔話がしたかったが、握手で別れてしまった。ここに書くようなことについて、意見が聞きたかったのだが、その時点で僕の考えも具体的ではなかったし、今度会ったら聞いてみよう。
 大橋さんと僕は立ち位置がちがう視点もちがうから、意見も違う。.
「潜水はスポーツではなく楽しいレジャーだ。」
 僕は楽しいレジャーはスポーツではないのか?スポーツを楽しいレジャーにしなければいけない。これはその時代から、あと1988年に生涯スポーツの振興を志して、社会スポーツセンターに生涯スポーツの公式指導者資格を導入することに努力をそそいだ。
 その生涯スポーツ指導者も、やがて、日体協のスポーツ指導者に吸収され、僕はスクーバダイビング上級指導者になったが、それも、今度の更新で、「スポーツコーチ2」となった、上級は2ということ、普通が1だ。
せめて、上級は、一級スポーツコーチとでもすればいいのに、なるべく意欲を殺いで、滅ぼそうとしているのだろうか。公的とか、公式とかいうものの、なれの果てか?PADIのファイブスターの方が、わかりやすく価値がありそうに見える。こちら「日本潜水指導団体盛衰記に「スポーツコーチ2」では、情けない。
 そんな愚痴を大橋さんと語り合って、笑われるのも悪くはない。 
 大橋さんは日本のダイビングは特殊、だというが、そのころの僕の視点からは、大橋さんのスノーケリングが特殊だった。
 しかし、楽しみ、遊び、僕に言わせれば生涯スポーツはスクーバダイビングではなくて楽しいスキンダイビングだという、今の僕の考えは、大橋さんの考えとおなじである。
 僕自身、ここで大橋さんが唱えているような、同好クラブ、スキンダイビングの市民クラブである浦安海豚倶楽部をやっている。
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 そんなことを大橋さんと話したいなあ、と思ったりしている。
 そして、大橋さんのいうスノーケリングは、三つ道具で楽しい旅を、
三つ道具とは、フィン・マスク・スノーケルであり、今のスノーケリングの浮き具は、入っていない。今、スノーケリングとは潜ってはいけない、潜るならばスキンダイビングになる。僕は、浦安市の市民プールで、潜るスノーケリング教室をやっている。65歳の時に始めたから、かれこれ20年、始めたときには、スノーケリング教室のスノーケリング、は、大橋さんの言うような、決した無理をしない、楽しい素潜りだったのだ。そして、やがて、スノーケリングは潜ってはいけないことになり、スノーケリングジャケットを身体に縛り付けて、潜れないものにしている。
 僕はスノーケリングの定義を、耳抜きをしなくても良いような水深3mを限度にしたやさしい、楽しいスキンダイビングとして、2002年、シンポジウムを社会スポーツセンターで開催した。そのビデオテープがある。
 
 すでに、無理をしない気楽なす素潜りとしてスノーケリングとしているのに、浮き具ジャケットを付けた水面遊泳の名前として、スノーケリングにしてしまうことに納得がいっていなかった。しかし、ジャケットを付ける水面遊泳には反対はしていない。ならば、水面遊泳はなんと呼べば良いのか。水面遊泳では、ビジネス的にこまってしまう。今、キヌガワ、AQAのカタログで、スノーケリング用具、スノーケリング用品とでているが、水面遊泳用品、では売れない。
 フリーダイビングを「命がけ素潜り」スキンダイビングを「素潜り」
潜るスノーケリングを「気軽な素潜り」潜ってはいけない。これは素潜りとはいえないので「水面遊泳」にしたら、わかりやすくて良い。
 しかし、そんな提案をしてもバカにされるだけだから、大勢、成り行きにしたがって、スノーケリングを潜水禁止水面遊泳として、スキンダイビングは、潜っても良い水面遊泳と考えて、楽しく潜っていこう。
 
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0419 第20回 人工魚礁研究会 4月15日

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4月15日人工魚礁研究会、これで、第何回になるのか、ほぼ毎回ブログを書くようにしているので、ブログで調べればわかるので、調べよう。 50回ぐらいは、行っているか? 調べてみたら、2015年の9月を第一回として、意外に少なく20回だった。  海に行くときには、毎回、国際気象海洋が、ネットにだしている「航空波浪気象情報の波浪予想図と天気図を見ている。二日先まで、時系列に沿って3時間間隔で、情報を出してくれる。15日の波左間は、波高が2mだ。これではだめかもしれない。風が南風なので、大丈夫かもしれない。現地の荒川社長とのメッセージ連絡では、大丈夫でしょうという。とにかくでかける。  辰巳のスキンダイビング練習会の保険金払い込み、申請をしている。スポーツ安全保険、4月1日にはじまり、3月31日に終わる。だから、メンバー全員が書き換えになる。 この保険、須賀が日本潜水会として行う、すべてのダイビングがカバーされるだろうか? 自分が加入していないことに気づいた。虫の知らせというのもあるので、手続きしようと思ったら、日曜はできない。月曜の朝、0700から出来るというので、波左間に出かける前にした。ついでに、高野さんと、佐藤君も手続きしておいた。  朝、3時に目覚めて、すぐに二度寝できるはずが、4時になっても寝付かない。眠ったら7時に間に合わない。寝るのをやめて、山本さん運転の車の中で眠ることにしたので、眠った。。  天候、海況の判断は、海ほたるから、金田のあたりで、京葉工業地帯の煙突からでている煙、そして、風速の道路情報でみる。大丈夫そうで、また、眠ってしまう。館山道を抜けるあたりで目をさます。  波左間着 佐藤允昭君も到着していて、海も凪にみえる。早速準備にとりかかる。忘れ物、ウエアラブルカメラの取り付け具がない。カメラ関連を一つの手提げカゴに入れていて、それ一つ持ってくれば、良いようにとしているのだが、そのカゴに入れ忘れた。結局忘れ物からは逃れられないか。そのカゴに取り付け具関連の小袋がはいっていない。さあ大変だ。 マスクマウントのマスクに付いたままになっている一個を発見した。これで、手持ちのOlympus TG4の天井につける分はなんとかなった。マスクマウントはあきらめることにした。 カメラはSJ4000のブラックで動画、Olympus TG4でスチルということになる。 タイムインサートの日付確認。これは何度と無く忘れたから、手順になっている。  一本目のダイビングでの事件は、「ウエイトベルトのずり落ち、」だった。 ずり落ちないように、スプリングが付いたテクナのバックルを使っているのだが、そのスプリングが効かなくなっていると、ずり落ち用のバックルということになる。ボートの上で、飛び込む前に、すでに若干ずり落ちているのをずり上げようとするのだが、タンクを背負ってしまっているので、身体の身動きができない。飛び込んで、魚礁の上に着陸して、直せばいいだろうと、そのまま行くことにした。
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 身体をひねるようにしたバックエントリーで飛び込む。飛び込んだ瞬間の衝撃で、ベルトがずり落ちそうになった。あわてて、手で押さえる。水面で締め直すことなどできない。もう山本徹さん、荒川さんは10mほど下で、潜降索につかまってまっている。頭を下にして、ヘッドファーストでもぐる。頭が下になれば、ずり落ちが、頭の方にずれてくるから大丈夫だ。なんとか潜降して、追いつき、魚礁の頂上に着底してバックルを締め付けた。が、このバックルはもう、「捨て」だ。
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 このところ、第一回目の潜水では、6m方形の巨大FP魚礁(FPとはメーカーの付けた名称)10個枕設の魚礁を一回目に、二回目でドリームというパターンを固定させている。季節変化をみるならば、同じ場所に繰り返し入らなければ意味がない、つまり、定点にするわけだ。 比較になる二つの定点として、6mFPとドリームは、やりやすい。もう一つ、30mの鋼鉄人工魚礁も加えたいが、一日に2本の潜水なのだから出来ない。無理をして3本にすれば、減圧症のもと、原因になる。若くはないのだ。  ウエイトをなおして、二段重ね6m魚礁の下の段に行く。オオモンハタが居るはずなのだが、上から見下ろしたときに、ちらっと、黒い、らしい姿が、1尾見えたが、確認できていない。 下の段の海底、底の部分を一巡りしたが、オオモンハタは居ない。めぼしい魚はいない。 バランスが悪くて、すぐに転けそうになってしまう。ウエイトのバランスを直さなくては、と思うが、お台場でとるバランスと波左間とでは違う。でもとにかく、次のお台場でやっておこう。 陸上でもヨロヨロ歩くのだから水中でよろけても仕方ないのかと思うが、困ったものだ。少しレッグウエイトが重すぎる感じ。午後はレッグを外そう。
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 上の段に上がろうと、上を見上げると、下の段の天井、魚礁を重ねた中心部あたりに、メバルが群れている。いい感じなので、Olympus TG4のシャッターを切るのだが、上を見上げた静止がうまくできない。驚異のバランスと自讃した、自讃だけど、昔のバランスは今いずこ。メンバーがほとんど来ない、時間帯だろうと予想できる辰巳プールを借りて練習しようか?中川は感心に、時間があれば辰巳に来てくれて、バランスの練習をしている。 とにかくメバルは、ファインダーの中では美しく見える 人工魚礁の調査だから、別に良い写真は撮れなくても良いのだとは思いつつ、やはり良い写真が撮りたい。これは本能のようなものか。  魚礁の重なり合うセンターの隙間にイセエビがいる。狭い隙間だが、荒川さんの言うには、6尾だという。髭だけなので、絵にはならないのだけれど。毎度撮っておく。居ることの証明なのだ。イセエビの常で、いつか居なくなり、また戻ってくるのだろう。そのいつかを調べておきたい。 イセエビのいる重なりの外側に、大型のカサゴが、これは、目と鼻の先まで寄れた。カサゴは、何時もいるのだが、こんなにおおきいのは、始めてみる。オオモンハタの代わりにカサゴがでてきた?
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 上の段にもメバルは居るが、群にはなっていない。ウマヅラハギもいつも見るのだが、これも、いつものように思うように寄れなかった。いつか撮れるだろう。 屋上の上空には、別に群れも見られず、浮上。ボートへの上がりは、いつも荒川さんに助けてもらう。非常に不本意なのだが、転んで骨折とかすれば、容易には治らないから、無理は出来ない。 ログ 一回目の潜水 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会 ③場所 波左間 ④スポット 6m 10個 ⑤天候 晴れ 不連続線が沖合にあるが、南の風 微弱、快晴  ⑥風  南 ⑦水温 17 ℃ そんなに冷たかったか? ⑧透視度 20m ⑨潜水開始1023  潜水時間34  分 ターンプレッシャー 80 ⑩最大水深26。3   m ⑪潜水終了 1055 ⑫インターバル プラン 90分 ⑬チーム 須賀 佐藤允昭 山本徹 高野 ガイド荒川 ⑭バディ 佐藤允昭   ウエイトベルトも通常のものに変えた。1。7キロのレッグも付けなかった。内側の自分としては、危なっかしいバランスだが、外眼の見た目にはなんとか格好をつけて、潜降してドリームの左端から下段を縦に通過するコースで泳ぐ。 そう、左なんていってはいけないのだ。東端とか、南端といわなければいけない。僕の持っている磁石は何のためにあるのだろう。
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 魚礁に入るとすぐ右手に、また右などと言っている。これも北側とか言わなくてはいけない。40cmほどのオオモンハタが2尾、そして、カサゴが上を向いている。ここから先、映像を見ながら書けば、現場で書くのと同じになるのだが、ちょっと急ぐので、記憶で書いている。いつもと同じ、手のひらより大きい、まだ縞がはっきりしているイシダイが3尾が、右から左、左から右に、往復した。そこに、右手から、ライトをてらした山本さんが入ってきて右から左へスイープした。 残っているネンブツダイは、だいぶ大きくなっている。ネンブツダイは、このようにして、大きくなるのか。知らなかった。
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 ウツボが道を横切って通り抜けた。このごろなじみになったクロホシフエダイが海底近くにいないか、探したがいない。 いったん外にでて、中段にあがる。 中段、つまり二階を縦断する。縞のあるイシダイ、同じくらいの大きさのイシガキダイ、イシダイとイシガキダイは、このおおきさくらいまでしかこの魚礁には住み着かないのか?大きいイシダイは、ダイバーが入っていくと外に逃げてしまう。この大きさのイシダイは、外に逃げ出さないでいる。 今回は、カサゴが目立った。メバルは、10尾くらいの群れがいくつも、ひっそりといる。オオモンハタはやはり多い。オオモンハタには、慣れてしまった。今回目立ったのはウツボだ。やたらといる感じがする。まだ、魚類の観測表はつくっていないので、ただの印象だが。
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 外に抜けて、再度中段に入ろうとする位置に、キンギョハナダイが群れていて美しい。もとより、美しくてそして、魚礁のどこにでも、ちりばめられるようにして、居るのだが、見慣れているので撮ろうとする気持ちにならない。でも、ここは、撮る気になった。奥行きのある写真が撮れそう。撮ろうとしてOlympus TG4で撮った。5ー6枚シャッターを押したのだが、後で見たら、写り映えは感心しない。デジタルなのだから、ここだ、と思ったら、20枚は押さなくてはいけない、と反省した。 ※なお、このブログの写真は、sj4000の動画から取り出した静止画を使った。
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 上段もいつも通りだが、トサカが美しいと感じない。潮時のポリプの開き加減なのだろう。 身体のバランスはやはり悪い。ドライの中で空気が動くと、もがかないと元に戻らない。魚礁の中だから良いけれど、これでは、中層に浮いて魚群をねらうことなどちょっと怖い。 そういえば、魚礁の外で、ミギマキの数十尾の群が荒川さんが撮影している。そうか、ミギマキは魚礁の中では単体、外に群れる魚なのか。以前に、0。8m角の魚礁でミギマキの7ー8尾の群を撮ったことがある。  ターンプレッシャーの80になったので、バディの佐藤允昭くんを探す。バディといっても、並んでいるわけのものではない。このように、上がるときとか、に探せば、すぐに見つかるということで、魚礁のように限られた空間ならば、お互いに気にかけていれば、このようにすぐに目に入る。  ロープにつかまって浮上を始めたら、荒川さんが来て、そのロープではないと、別の方向を指さす。そういえばそうだ。降りたロープから、逆側から入り、縦に抜けて、縦に戻りそのままその周辺にいた。  二回目の潜水 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会 ③場所 波左間 ④スポット ドリーム ⑤天候 快晴 ⑥風   ⑦水温 17度℃ ⑧透視度 20m  インターバル 95分 ⑨潜水開始 1230 潜水時間 35 分 ターンプレッシャー 80 ⑩最大水深 23、3   m ⑪潜水終了 1305 ⑫インターバル プラン ⑬チーム 須賀 山本徹 佐藤  高野増井  ユニット ⑭バディ 佐藤允昭   二本目のダイビングを終了して、食事をごちそうになる。毎度食事をごちそうになっている。これはダイビング料金外つまり本当のごちそうになっている。長い長い、つきあいのおかげだが、ありがたいことで、ここでしかおいしい魚を食べることが僕にはない。 ブリの刺身とカマを焼いたもので、豪華だ。 食べ終わってから、ぼくは海の世界1972年 2月号のコピーを出した。最近、荒川さんは1960年代の、久里浜沖の早丸の財宝探索とシンガポールを基地にした南の海の冒険的サルベージの記録、正真正銘のノンフィクションをだした。この本になった原稿、僕もあずかっていたので、そのうちにと思っているうちに、鷲尾君が出してしまった。僕がやろうとすると、もう少し、現代、現在の取材などするだろうし、そのために停滞していたのだが、完成された原稿だったから、鷲尾君の方が手早くてよかったと思う。ストレートで、文章としてもスタイルになっていて、とても良い。
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 72年の「海の世界」この早丸財宝引き上げ関係者の対談の記事で関係者の写真が載っている。財宝の引き上げは秘密裏に行われることが常だから、こんな写真が雑誌に載るようなことは、希有のことである。荒川さんは懐かしがると思ったのだが、この人たちのことを知らないという。荒川さんの書いた本は1967年のこと、海の世界の記事は1972年5年の月日が離れているが、このようなプロジェクトで5年など、瞬きする間なのに。謎がもう一つ増えた。 ところで、3兆6千億円とは、想像を絶した金額。国家の予算規模の話である。  それから。ここに書けない、財宝探索の秘密の話をして、盛り上がった。
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