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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0121 波佐間1月16日

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              オオモンハタ このあたりの主役になりつつある。

1月16日 今日も冬型の気圧配置、冬だから、冬型で、なにか?といわれそうだが、北海道の左上の会場に低気圧があり、不連続線が三陸沖から九十九里沖合遥まで延びている。この不連続線のそよぎが波高を決める。 日本海側は、原則として真っ赤だ。僕の見ている風波浪図は、赤が波高5m以上、濃い青が波高1m以下、空色だと波高1,5m潜れるか潜れないかの境界だ緑になると2ー3mだから、もう小舟は危険だ。 波左間の辺りは青と空色の境界で、贔屓目に見ると青だ。これは、現場に行くしかない絵なのだ。原則として午前中は波が高く、昼頃には治まりかけて、うまくすれば13時から14時には岸近くのポイントならば潜れる。 波左間の荒川社長は、無駄足をさせるといけないと心配して、日を改めたらといってくれる。が日は改まらない。とにかく行って14時には潜ろう。 荒川さんはおいしい鍋でも食べて、治まらなかった温泉にでも行きましょうといってくれる。  波左間は、白波が立っている。波高2から3m、待つしかない。ちょっといやな感じは、9時頃から風が吹き始めたという。9時頃からの風は、日雇い風といって、5時頃まで吹く。4時の凪ではもう遅い。おいしいフグなべをごちそうになりながら、海を見ても治まる様子はなく、次第に14時に凪ぐという自信が崩れて行く。13時少し前、やや治まった感じ。  萩原さんが、別のお客「いずみさん」とかと、高根に出て行った。彼が返ってきた舟で出ればドリームにいけるだろう。 本当に予定通り14時にでることが出来た。 ドライは早崎さんに締めてもらった。やってみて、わかったのだがサンファンのドライは、左手を右肩に回して楽に引っ張ることが出来た。恐ろしいことに僕は、それをこれまで、やっていない。 レッグウエイトを忘れてきた。しかし、今日は小さいタンクがなくて、12リットルだから重いので沈めるだろう。 未だ波は高く揺れてタンクをせおったまま倒れたら起きあがれない。腰掛けの板をしっかりつかんで揺れに堪える。 今日の僕のカメラは、オリンパスtgー4の上に、AKASO7000を載せて、実はこれで撮る動画が今日のメインで、この映像から記録チャートを作る。
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            オリンパスとAKASO 下に魚礁が見えている。
            すばらしい透視度
           マスクマウントのSJの映像、タイムが左下に出る。
 2月3日のシンポジウム、前から貯めていた映像を編集するのでは、とてもまとまらない。今日、撮りおろしにしようと言うわけだ。あとマスクマウントには同じくウエアラブルカメラのSJ-4000を着けて、これは、カメラを手に持っているときにはマスクマウントの絵は、手に持っているカメラを写しているだけ、という映像、になる。 透視度は、最高に良いはずだから、良いカメラをもっている増井さんに、僕の姿を1分だけ回してもらうようお願いした。早崎さんもTG-5にオリンパス純正のストロボを両脇にニ基着けて、純正のハウジングに純正のワイコンを着けて、その上に、新しいgo-proを載せている。せめて、僕もこのくらいのセットにしなければ,いけないのだろうが,もうあとがないのだから、あるもので間に合わせる。それにタイムインサートがメインなので。 オリンパスは、オオモンハタを撮って、あわよくば「豊かな海」の表紙にしようとしている。  飛び込むときに、12リットルだと、体が起こせない。体をひねって、頭の横から、飛び込んだ。流れもほとんどない。ヘッドファーストで足に空気をまわしてもがくよりは、全部の空気を抜いて、足から降りることにした。まどろっこしいが、我慢して、1mも降りれば、あとは泳いで行かれる。 予想通りにすばらしい透視どで、水深25mの舌まで見えるから、透視度25mだ。 今日は海底に着底してカメラのスイッチを入れるのではなくて、沈みながら、AKASO7000のシャッターを押し、ライトを50%で点けた。 左手の下段から、縦軸に抜ける。スズメダイ、シラコダイ、キンギョハナダイは、賑やかしで、対象には入れていない。さっそく、左手にオオモンハタが、下段にはメバルが常に群れているのに、1尾だけ、これまでの最低記録だ。しかし、ネンブツダイの稚魚の群が雲霞のようだ。未だ、小さくて、ネンブツダイの形になっていないが、ネンブツダイだろう。ネンブツダイの成魚がいない。ネンブツダイは、口に卵を入れて孵すのだが、それが終わると、死ぬのか?そんなことは聞いていない。どこか、別のところにいるのか?
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 この雲霞の群がいくつもある。僕の想定ラインの上だけで、三つ。黒い点が背中の後部にあるどこか南の海で見たような、20cmほどの魚が、近寄ろうとしたが逃げた。これを追って曲がってしまうと、ライン撮影ではなくなってしまう。あとで拡大してみて、クロホシフエダイだとわかった。図鑑では、イッテンフエダイとニセクロホシフエダイしか見なかった。フェイスブックで聞いてみて、クロホシフエダイだと教えてもらって、河野先生の東京湾の魚でも、別の大きい図鑑でも、ネットでもクロホシフエダイだとわかった。別にレアではないが、ここの魚礁で見たのははじめてだ。静止画で見たら2尾いる。海底すれすれにいるので目立たなかったのだ。  端で折り返して、中段のライン、ラインと言ってもロープを引くわけではなくて、想定のラインだが、このような魚礁ならば、想定で良い。予想通り、オオモンハタが多かった。あとでのチェックで14個体、イシダイも多く12だった。予想通り、オオモンハタ以外のハタはいない。下段、中段で予定していたラインは終えたが、上段もラインで見た方がよかったとあとで反省する事になった。
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             このイシダイ 2 尾は、屋上まで追ってきた?
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             荒川さん

 残圧80になったので浮上、3mで停止して上を見ると舟が木の葉のように見える。これで12リットルでは上がれない。荒川さんが先にあがってくれて、僕は梯子に捕まるが振り落とされそうだ。カメラをとってもらい、タンクも、そしてウエイトまで受けとってもらってしまった。自分が人の世話をしていたのが、つい昨日、75歳あたりまで(でも10年前か)できたのに情けないと思うが、無理をして体を破損させてはいけないから、堪える。今日は「サンファン」ハイブリッドスキンの動きも快調で、ウエイトを外してしまえば、何のこともなく、普通にしていられる。これで、なんとかこの冬も越せるだろう。 もどってから、AKASO7000とSJで調査票2種類の表も出来た。表にしてみると映像とは違うところが見えてくる。 シンポジウム発表に資料は撮ることができた。  ログ  date 2019 0116  ①目的:タイトル 人工魚礁研究会 ③場所 波左間 ④スポット ドリーム ⑤天候 晴れ 西高東低 沖は赤だが、波左間は青  予測したとおりに1400に潜れる波になった  ⑥風  西 ⑦水温 18 ℃ ⑧透視度 20m  ⑨潜水開始1405    潜水時間34  分 ターンプレッシャー 80 ⑩最大水深23。3   m ⑪潜水終了 1506 ⑫インターバル プラン ⑬チーム 須賀 早崎  増井 鶴町  ユニット ⑭バディ  ⑮残圧 ⑯適要  潜降はうまくできた。AKASOが水没してしまったが、映像はねらい通りに撮れていた。オオモンハタは多かった。 オリンパスはもう少しじっくり接近しないといけない。下手になっている。 メバルは、ほとんどが外にでていたようだが、魚礁の近くには付いていなかった。鎮まったとはいえ、波高は高く、12のタンクでは荒川さんに助けてもらうほか無く、仕方なかった。    そうそう、浮上の途中でなにもしないのにAKASO7000が水没してしまった。撮影結果のカードは問題なく、カメラも動いているが、もうメインのカメラとしては使えない。新しく買うことも考えたが、SJ4000でも代用できるから、我慢しよう。   AKASO7000のカメラは大丈夫そうだったので、ケース(ハウジング)だけ990円で注文した。

0127 お台場 1月

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            お台場は、トゲアメフラシが激増中

 シンポジウムは、やれることはやったし、あとは、ベストな講演ができればそれでいい。 でも、それに集中しているときに、海に潜ること、そして、そのログをこのように書くこと、かなりの負担だが、トレーニングだから。  ログ  date 2019 0127 ①目的:お台場月例調査 ③場所 お台場 ④スポット  ⑤天候 晴 ⑥風  北 冬型で寒い ⑦水温 9,8℃ ⑧透視度 50ー70cm お台場としても最悪  ⑨潜水開始 1021 潜水時間  60分 ターンプレッシャー 40  最大水深 2   m ⑪潜水終了 1125 ⑫インターバル  ⑬チーム 須賀 多留 尾島 尾島ママ 風呂田  ユニット ⑭バディ  ⑮残圧 ⑯適要 測量棒による牡蠣の定量調査の実験 AKASObraveのテスト 寒くてエキジットの時に フィンをぬごうとしてフリーズ     がっちり、冬型の気圧配置、波左間付近の波浪状況の図は真っ赤に、波高5m以上に、染まっている。お台場はいつも凪だが、インフル、所用、寒さ、などなどの理由で、今日のメンバーは、尾島夫妻、僕、多留さん、それに風呂田先制の5人だけ。  僕のやることは、新しく買ったAKASOのbrave4のテストと、そして、1mの測量棒を使って、牡蠣の定量撮影ができるか、その手法テストだ。テストの結果が良くて、写真が撮れれば、シンポジウムでの発表のお台場編の末尾に加えようか、とも思っている。 冬型だから、しっかり寒い。寒さはつらい。天気は晴れている。  高齢の辛いことは、自分で自分のことのすべてができないことだ。尾島ママに、世話係を頼んでしまっている。どうも、BC.の背負い具合が悪い。右手を通して、左手が差し込めないのだ。次は替えなくてはいけないかもしれない。 例によって這ってのエントリーだ。お台場だからできるが、もう、大瀬崎は行かれない。悲しい。 水温は10度を割って、9,8度だ。 左手にカメラを持って、右手に測量棒を持つと、手一杯だ。
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 冬だから透視度が良いだろうと決め込んで居たのだが、冬濁り、冬型のプランクトンの大量発生なのかまるで見えない。測量棒の先端に白いカードを着けていて、このカードが、見えなくなる位置が自分流の透視土なのだが。それが、50cmぐらいだ。周囲は何も見えない状態と思えば良い。新しいAKASOのファインダーが消えていて何も見えない。電池節約機能はオフにしておいたのに、見えない。青いパイロットが点いているから電源は入っている。液晶が見えなくては計測ができない。 牡蠣のあるところにこの棒を置いて、棒の脇を撮影距離20cmぐらいで舐めて行き、生きている牡蠣の数を撮影しようという考えだ。 ファインダーが見えないことを、ファインダーが点いていないのではなくて、透視度が悪くて、見えないのだと思いこんでいる。測定点の1、公衆トイレを過ぎたあたりは、とにかくそれでカメラを動かす。 次の測定点、浮き輪が付いている杭の前で、AKASOのファインダーを確認しようと、測量棒を置いて、体を立てて頭を水面に出そうとした。水深は1,5mほどだ。身体のバランスが悪くてよろめいて後ろに足を送った。棒から1ー2m離れたと思う。液晶は見えない。明るさのせいでは無いことがわかった。回って居るものと信じるしかない。ハッと気づいた。棒を見失った。長さ1mの大きなものだが、身体を沈めても見つからない。次の機会で、少し水が見えればすぐに見つかるのだが、棒が無くては、今日の潜水の意味が無くなる。パニックにならないように落ち着いて探そう。後ろに足を送ったのだから、前方にあるはず。身体の向きが変わっていなければ見つかるはず。1分も探しただろうか、左前方で見つけた。 オリンパスで動画を撮っておく。AKASOが撮れていれば後で比べられる。 終点の杭の手前が一番牡蠣が多い。しかし、牡蠣の表面に小さいヒバリガイ?の類がびっしりと付いていて団子のようになっている。生死の確認が難しい。うっすらと口を開けているのが、生きているのだが。
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 濁っていて杭が見つからない。見つけても魚はいないから、それに、寒くなってきたので、戻ることにする。戻りながら、棒を置く撮影を二カ所ほどする。AKASOは、電源ボタンを押すと、液晶が点くことがわかった。タイマーも読めるから、時間経過もわかる。 戻り着いて膝をつけてマスクを外す。手が塞がっていて、マスクの曇りを洗うことができなかった。 膝をついて、後ろ手でフィンを外そうとすると身体が動かない。寒さでフリーズしている。何とか外して立ち上がろうとしたら、腰のベルトがずり落ちた。手が塞がっていて、締め直しができなかったのだ。尾島ママが、来てくれて助けてくれる。 測量棒を杖にすると、立ち上がりやすく、歩きも楽だ。
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 東大海洋研に行っている杉原奈央子が、子供連れで、ケーキを持って、僕の誕生日を祝いに来てくれた。90歳までお台場で誕生会をやろうと風呂田先生が言うが、無理だろう。  戻って撮影結果をみる。カメラは回し続けではなく、きっちりオンオフして、撮影しなくてはだめ。当然のことなのだが。そして、牡蠣、一つずつ撮らなくてはだめ。 次の2月でなんとかできるようになるだろう。

0131 2月3日 シンポジウムについて

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                  お台場 水中クリーンアップ

 2月1日、明日からダイビング・フェスティバル復活です。ダイビング業界の発展が見られるとおもいます。
 喜ばしいことですが、2月2日の小田原セミナー、3日目の最終日、2月3日には、僕たちの「ダイビング活動研究シンポジウム」と重なります。2月3日は、前から決めていたのですが、バッティングするとわかってから、日にちをずらそうともしたのですが、業界の大きな行事と重なることは、地方からでておいでになる会員諸兄にとっては、両方にでられるので好都合、ということもあろうと、強行することにしました。事実、北海道の工藤さんが、その両方に、と出てきてくださることになり、ねらいの一つは達成されました。が、ただでさえも、人集めに困難な傾向に拍車をかけることになりました。
 日本水中科学協会は、後発ですから、自分たちでしかできないことをやろうというのが基本精神です。他が一生懸命にやっていることは、それに協力すれば良いわけです。他のやらないことというのは、人集めが困難であるということになります。それでも、発足時から応援していただいている会員のみなさまのおかげで、続けることができています。改めてお礼申し上げます。 今回は、60年の自分のダイビングでのライフワークのうちで、力を入れてきたことのうちの主たる三つについて、それぞれ、30分にまとめて、発表させていただきました。これが最後、最終講演とは、思いたくないのですが、最終のつもりで、三つ全部 合計で1時間半、すべて十分にはお話できないので、原稿にまとめて、報告書に掲載しました。報告書の分量が大きくなります。
 研究と言っても、学者、研究者の発表は、一般の方には理解不能であることが多いのです。自分は一応東京水産大学卒で、海の生物の生態学が専攻ですが、今の生物学はバリバリのサイエンスで、ほとんど理解できません。
 僕の研究のレベルは、ファーブルの昆虫記、シートンの動物記のレベルであり、研究といえるようなレベルの高いものではありません。だから、おそらく、おいでになった方の誰でもがわかっていただけるレベルだと思います。
 
 そんなことで、集客、おいでいただけるお願いですが、思いつく限りの方にお知らせをしようと努力はしました。でも、しつこくお願いをすると友達を失くしてしまう。その限度が難しく、途中で迷ってしまいました。通知の行かなかった方、そのような事情です。 ダイビングなど、それに人生を賭けるという人以外には意味のないこと、不要不急のものでしょう。
 その不要不急のダイビングのうちでも、自分たち日本水中科学協会でなければ、できないこと、というと、目一杯マニアックなことになってしまいます。自分的には、どのテーマも、それこそ、ダイビングフェスティバルよりも、重要なテーマだと考えるのですが、
 とにかく、おいでいただける方を相手、頭の中において、発表内容を検討し、発表する映像を作り、原稿を作りました。
 
 発表テーマは三つ(四つ)です。
 ① 人工魚礁について(ここには④の安全について、と学生のダイビングについてが間接的に含まれます。)
 ② 東京港お台場の潜水について
 ③ 高圧則について ①の人工魚礁は、大学4年の時(1958年)にはじめて調査の為に潜って以来ですから、あしかけ60年、人工魚礁を見て、手で触って来たことになります。それは、レジャーダイビングの最初は敵であり、やがては協力しあう仲になり、新しい漁業法で姿を変えていく、5t未満の小舟を持つ、あるいは舟をも持たない零細な沿岸漁民とのつきあいの接点でもありました。
 括弧にした安全についてなのですが、ダイビングは、危険です。その危険には二種類あって、予測不可能、運命的な死、と線引きによって(どこまでやっていいのか決めること)によって避けられる危険があります。
 学生のダイビング活動は、これも1957年、東京水産大学(現海洋大学)に潜水部を作り、1967年に関東学生潜水連盟の発足に関わって以来、僕の重要なテーマでした。その学生のダイビング活動の安全のための線引きと人工魚礁などの撮影調査と結びつけて考えました。
 ②のお台場の潜水は、海の環境、といったとき、都市の真ん中にあり、もの好きなダイバーが潜り続けられる、おそらく限界であろうお台場の海に1996年以来、23年潜り続けてきたことの意味について考えます。
 ③高圧則は、1963年にこの規則ができたときから関わってきて、その関わり方は、指定講習の講師として、やがて準備講習になってその講師、そして、その受験準備の受験本を書いた関わり、自分の会社、事業者として社員・労働者の死に際して規則と関わったことまで、30分ではその十分の一も話せませんが、とにかく、お話しします。 この1月で84歳になりました。何人もの方、各方面でお祝いしていただき、ありがたいことなのですが、もはや、未来に希望を持つことはできません。できませんが、おいでいただけた、数十人の方と未来に向けてのスタート、そのお話をしようと思っています。発表するために考えをまとめていると、やはりこれは、終わりではなくて、スタートなのだとおもうのです。

0204 ダイビングフェスティバル

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撮影禁止ということで、写真は使わない。
 ダイビングフェスティバル 2月1日、2月2日、二日連続して行った。2日は北海道から日本水中科学協会の亜寒帯研究所を作る工藤さんが来られ、1日は特に何もなかったが、自分に特別のこともないし、たぶんゆっくりお話ができるだろうと出かけて、二日連続になった。
 1日は表に座り心地の良さそうな椅子が並べてあったのだが、2日は、一般入場の日なので、多数のエントランスになることを予想したのだろう、椅子が取り払われて無い。座るところがないので、立ちっぱなし、で疲れた。
 疲れたけれど、お話ししたい人とは、前記のような事情なので、すべて立ち話なのだが、お目にかかれて、お話しできた。お話しできなかった人も居るが、仕方ない。
 
 総評をすれば、「去年までのビズショウを少し大きくして、ダイビング・フェスティバルという名前を復活させた。」につきる。ダイビング業界の景気の消長、規模、傾向に、直接左右されるわけだから、ご苦労さま、ありがとうという他は無いのだが、その視点からみて、納得する規模とレベルだ。海外のこういうショウに行ったことがないので、比較のしようが無いのだが、シンガポールとか、上海に比べて、どうなのかなあ、と思っている。
 自分の規模から考えれば、これでちょうど良い、満足なのだが、84歳に満足されても、どうなんだろう。昔のダイフェスティバルと比べて見る人も居ると思うけれど、とにかく復活したことを評価しなくては。※ ここまでは、2日に書いた感想。

 個人レベルで、お目にかかった方々の全内容は、あまりにも多いからここに書き並べるのは、不可能だが、ポイントだけ、
 入り口のすぐが、日本アクアラング、やはりダイビング機材のメーカー、販売としては、ナンバーワンなのだろうと思う。僕の担当だった石引君は、沖縄の営業所担当になり、現地で結婚もして、沖縄に永住するらしい。めでたいことだ。僕の担当と言っても、最近では、一番安いダイブコンピューターを一個買っただけ。そのダイブコンピューターについて、安くて丈夫で必要機能を満たしている。が、操作が面倒で、なれない初心者には使いにくいだろう。これで、簡略化して使いやすくなれば良いのだけれど。
 その石引君がいる、沖縄の宜野湾で、車で5分のところに、フリーダイバーの日本チャンピオン、篠宮君のアプネアワークスがあり、日本アクアのカタログに、扱っているオマールを載せて居るので、ブースがあり、昨日だがお話をすることができた。
 同じ、日アクのブースに、ロゴシーズがあり、カシオの、鈴木さんともお話しできた。ロゴシーズの優れているところは録音機能であり、この部分を磨くことで、世界有数というよりも唯一の水中通話装置になるのだろう。もう、なっているのかもしれない。各国の海軍がどのように採用しているのかな、とおもったり。鈴木さんは、機能の向上をいろいろ目指しているというが、私見では、安くすることも大事なのではないかと考える。僕の使うカメラが7000円なのだから、6000円ぐらいでこの通話機が買えるようになれば、ダイビングが一変するだろう。ダイバー全員がこれを着ける。とすると、改善点が多数あるのだが。
 高機能化と普及版、二方向を目指すと良い。 そのとなりの、サンファン(タンク)は、僕のドライスーツのスポンサーだ。ハイブリッド・スキンは、暖かさ、伸縮性については、まったく文句はなく、保温性については、特別のインナーではなくて、1700円のラパサの長袖、長パンツで、水温9,5℃で、1時間、84歳が、それほど寒く無かった。また、ファスナーの締め不全の間違いで、ジャブジャブに水没して、舟の上で寒風に吹かれても、ウエットスーツよりも暖かかった。
 ただ、僕が着た姿で、足の部分の太さが少し余るようで、写真写りが、カタログのようにはスマートではないのが気がかり。しかし、僕の場合、少し緩い方が、一人で楽に脱げる。ピッチリだと誰かに引っ張ってもらわないと脱げない。社長が言うには、最近は、少しゆるめの方が好まれるので、そうなっているとのこと。別に、泳ぐのに支障はないから、これで良いのだ。また、僕の足は細くて弱いので、少し太めに見えた方が良いかもしれない。 その向かいのブースがダイバーのブースで、潮美に会った。ブースと言ったって何にもない。椅子ぐらい置いたら、休めるのにと思うけれど、マリンダイビングフェアには、月刊ダイバーのブースはないのだから、カウンターのようなデスクぐらい置いたら? ゼロは、入り江さんから、小さいハンカチを頂いたが、五月女さんは、居なかった。
 キヌガワとはちょっと話した。キヌガワは、学習院の石井君が入社している。本当に良い子なので、がんばって、キヌガワの中心になってほしい。
 僕の担当の池田さんは腰が悪くて来ないとか。椅子が無いから、腰が痛ければ来られないだろう。
 
 向かいのタバタでは、川端潮音と話をして、シンポジウムにくるように・・・来ると言っていたけど、ダイフェスティバルの期間中だから?
 石原部長とお話ししたかったが、不在だった。  撮影用品 ハウジングメーカーについて、イノンの井上さんと話した。井上さんは、ガンで死んだスガ・マリン・メカニックの米田の大学同級生で、僕に親切にしてくれる。だのに、ライトを2セット買っただけという実績、僕のメインライトはフィッシュアイだ。
 そのフィッシュアイだが、大村社長に会いたかったのだが、会えなかった。このダイフェスの中心でもあり忙しいのだ。
 カメラハウジングでは、sea & seaが、DX-6Gを出した。広角28mm 1600万画素というけど、今更の感じだ。それにチラシの写真が悪すぎる。これで、売れるとは思えない。心配になってしまう。 ビーイズムのブースで、たまたまお見えになっていた清水社長と、土肥の大藪魚礁失敗プロジェクトの話をした。今、土肥の大藪魚礁と言って知っている人などわずかだろう。だから、失敗なのだが、そのことについては、ダイビングの歴史で書くことになるだろう。社長レベルの人とお話できたのは、清水さんだけだった。
 ビーイズムのBC.が、僕のスタイルに一番会った居るように思えるのだが、間に合っている。 その向側、パプアニューギニアのデスク、PNGジャパンで、ちょうどそこに居た、中村卓哉君と話した。ニューギニアには、謎の怪獣、「ミゴー」が居るから探すようにと,話したが、あまり乗り気ではないようだった。まあ、居ないことはテレビの番組で証明されてしまっているのではあるけれど。
 なお、このPNGのデスクにだけ、椅子が3脚おいてあった。座ろうかと思ったけど、そのまま動けなくなるといけないので、遠慮。 工藤君等と座るところを探して、!Fの自販機の前に三つほどテーブルと椅子があったので、そこで雑談。隣に渋谷潜水の渋谷さんが居たので、ご挨拶。
 
 ダイビングフェスティバル、二日目は、椅子を探す旅だった。 もう一つ、注文というか提案だが、入り口でもらうガイド・パンフレットがお粗末だった。これを充実させる、もしかしたら、有料でも売れるようなレベルのものを、ダイバー社にでも作らせたらどうだろうか。 二日間通ったが、ご挨拶したかった方、全員と挨拶できなかった。タイミングが合わなかったりする。業界商談の日をもっと意識して活用しなければいけなかったと反省。自分も業界の人なのだろう? でも、三日に自分たちのシンポジウムがあるのに、一日、二日と通った。がんばったと思う。 会場の大きさ、アクセスともに良かった。
 ダイフェスという名前だからと一般客を満員にすると言うことを目的、目標した、とするならば、成功とは言えないかもしれないが、自分的にいえば、一般ではなくて、ダイバーであると自認している人たちが、全国から集まり有意義な時間をもうすこしゆったりと過ごせて、というコンセプトを大事にしたほうが良い。それでは、従来のビズショウになってしまう。でも、それをダイフェスという名前を復活させて、一般客集めよりも、内容の充実を優先させ、本物のダイバーのハイレベルなフェスティバルを目指した方が、良いのではないかと考える。 ※ 自分たちのシンポジウムを3日に終えた後での感想。
 もう少し時間を置いたら、また感想が変わるかもしれない。 

0208 1月30日の波佐間

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1月30日 波左間 今月は二回目の波左間行きになる。 幸いにして、天気図による 波浪の状態予想は、これまでになく、良い。 参加チーム、須賀 山本徹、増井 早崎 高野 佐藤充 6人 ログから、一回目の潜水  ログ  date 2019 0130  ①目的:タイトル 人工魚礁研究会 ③場所 波左間 ④スポット FP21 ⑤天候 晴れ   ⑥風  西 ⑦水温 16 ℃ ⑧透視度 20m ⑨潜水開始 1033    潜水時間 30 分 ターンプレッシャー 80 ⑩最大水深 26,9 m ⑪潜水終了 1105 ⑬チーム 須賀 山本徹、増井 早崎 高野 佐藤  ガイド 荒川  ユニット須賀、山本徹 佐藤 ⑭バディ  ⑮残圧 50 ⑯適要 FPは、魚が少なかったが中段の隙間で伊勢エビを見つけて撮影した。  16日のダイビングも成功で、ドリームでは、2月3日のシンポジウムに発表できる映像が撮影できた。 そのドリームには、二本目で向かうことにして、一本目は少し沖側の6mFP(大型コンクリート礁)10基に潜水した。  60年もダイビングをやってきて、少し余裕ができた、というのも、おかしいのだが、ダイビングは、重ねる歳に比例して、ぐんぐん下手になっていく。下手という意味をフィジカルに限定してだけれど、その下手になっていく過程のの中で、少しだけ上昇した。潜降がうまくできるようになってきた。この状態をキープしながら、ウエットスーツの季節になれば、まだ、行けるだろう。  明らかに、FPは、ドリームに比べて魚が少ない。オオモンハタも2尾見ただけ、イサキの7cmサイズが20ほど群れていたが、接近できなかった。メバルも少ない。1段目と2段目の重なり合う隙間に5尾ほどイセエビがいて、これだけが撮影の収穫かと、カメラを向けた。 今回の撮影の目的は、新しく買ったAKASObraveの撮影で、同じAKASO7000との比較、がある。 従来の7000をメイン、スチルの上に載せ、braveをテストとしてマスクマウントにした。
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brave 黄色っぽい
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                         7000の画像

 braveは、7000よりも2000円高い9000円である。陸上でのテストでは、braveの方が高いだけに、操作性はずいぶん良くなって来ているが、色温度がおかしい。全体に黄褐色になってしまって、透明感がない。水中ではどうだろうか、青い水中にあわせるために青を減じていれば、水中では良くなる。と期待したが、水中でもだめだった。 比べてみればわかる。 この価格のカメラでは、一台一台、あるいは製作ロッドによって、良い悪いがあって、この前の7000は大当たり、braveは、大はずれなのだろう。  仕方がないから、今後も7000(安いほう)を記録のメインにして、braveをサブにしよう。メインはオリンパスの上に載せ、braveは、サブで、マスクマウントでつかう。 二本目の潜水 ログ  date 2019 0130 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会 ③場所 波左間 ④スポット ドリーム ⑤天候 晴れ ⑥風  3m ⑦水温 17℃ (1度暖かくなっている) ⑧透視度 20m  インターバル  1時間 ⑨潜水開始 1255 潜水時間 31 分 ターンプレッシャー 80 ⑩最大水深23,7   m ⑪潜水終了 1326 ⑬チーム 須賀 山本徹 佐藤  増井 早崎 高野 ガイド荒川 ⑭バディ 常に荒川さんが僕を見てくれている。  ⑯適要   メインの7000の方のカード記録容量が危ないと思ったので、braveをメインにして、SJ4000をマスクマウントで使った。バッテリーもチェックして新しく替えた。  痛恨 メインに使ったAKASObraveのカード容量がなかった。サブのSJは、なぜか廻っていない。きちんとシャッターを押してから、マスクに着けたのに。マスクマウントの場合、潜水途中で外して確認はできるのだが、面倒なので、やっていない。限られた潜水時間の中で、するべきことが増えるのは、ついついやらなくなってしまう。 メインのカメラのカードは、必ずフォーマットのチェックをしておこう。(反省)  OlympusTG4は、スチルを撮っている。 やはり、オオモンハタは、前回よりも少なくなっている。その分、イシダイが増えている感じだ。 
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 特筆するのはイサキの大群が魚礁の周りを周回して、過ぎていった。40cmクラスの良い型だった。
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 波左間は、魚礁オリンピック的に、各種の魚礁が枕設されていて、その優劣もこの研究会調査の目標のひとつだったが、明らかに2m角をきちんと積んだドリームが一番である。この魚礁は、荒川さんの創作ともいえる。
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               若手 研究者佐藤君(水産工学研究所)



 上がってから、僕の誕生月だということで、荒川さんがお祝いのケーキ、かなり豪快な奴をつくってくれ、サバフグの雑炊、も作ってくれた。
 サバフグは、これまで、あんまり、潜っては見ていない。魚礁についている魚ではなくて、群れて移動しているタイプなのだろう。すなわち、定置にはいりやすい魚ということになる。シロサバフグ、クロサバフグ、ドクサバフグがあり、食べたのはクロのようだ。
これも最近増えた魚なのかもしれない。食材魚貝大百科(平凡社)によれば、トラフグの代用にもなり、干物にも加工されるとあった。


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 荒川さんは本当に古い友人だが、彼のおかげで、今の僕が潜水できているのだと思う。その荒川さんが、東京湾口の久里浜沖に、財宝を積んで沈んだと言われる早丸に潜水した話を本にした。「早丸の財宝を揚げろ」僕も原稿を預かっても居たので、僕が本にしなければ義理が立たないところだが、僕が計画していたのは、一緒に潜って写真も撮ってと思っていた。思っていても、もはや、僕が一緒に潜れる状態ではない。そうこうしているうちに、これも古い友人の鷲尾君が本にしてくれた。彼は出版社もやっているので、小回りが利く。良かった。


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1日、2日とダイビングフェスティバルに行き、3日がシンポジウム、波佐間のログ(ブログ)が遅くなってしまったが、自分のためのログだから、出しておかないといけない。

0212 北帰行 

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図書館で、片岡義男のコーナーを見る。このコーナーは、文庫本ではなくて単行本だから、僕が昔読んだような、たとえば「頬寄せてホノルル」のようなのはなくて、比較的新しい作品が置いてある。この図書館には、文庫本の片岡義男は置いていない。この単行本コーナーの片岡義男は、全部読んでいる。
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 新しい本があった。「くわえ煙草とカレーライス」奥付を見ると2018年6月となっている。
 彼の本は、もはや、固定した、昔よく読んだ、たとえば僕のような読者以外は読まないものと思われるから、この「くわえ煙草」は、文庫にはならないだろう。なっても、買わないと思う。図書館にあったら必ず読む、そんな位置づけだろう。そういう作品を書いているのも悪くはない。この本は、文藝の2016年から18年にかけて書いた短編七つを集めている。
 忙しいのに、別の書き物、企画書を書きながらの息抜き的に、半日で読み終わった。中身は何もない。ただ一つ、巻頭の短編「ほろり、泣いたぜ」で、昔の流行歌をクラブとかで演奏して歌う、それも、本職は俳優とか別にあるグループの話の中で、歌う「北帰行」のエピソード、僕は耳が悪くなってから、いや、その前からだけど、カラオケは歌わないが、今時「北帰行」を歌う人などいるのだろうか、意外と多いかもしれない。
「窓は夜露に濡れて」「都すでに遠のく」と上手にきれいな声で歌われたら、泣くだろうなとおもった。もちろん、下手ではどうにもならないし、若い人が変に歌ったら、腹立たしいだろう。「ほろり、泣いたぜ」に出てくるような、コーラスグループならば、受けるだろう。でも、はてなと思った。そういうコーラスグループ、ダークダックスとか、そういうの、このごろ聞かない。
 片岡義男の文章は読んで心地よく、流れて行く。そして脈絡がない。夢のようなもので、何でもないのだ。今頃、くわえ煙草なんて、人まえではやれない。
 時代遅れのくわえ煙草、そういうこと、ねらって書いているのだろうか。作家だからねらっているに決まっている。
  
 片岡義男の古い作品のほとんどは、キンドルで売られている。
 それも「頬寄せてホノルル」という、僕が文庫本で持っている中編作品集が、ばらされて「冬の貿易風」という一編が300円で売られていたりする。商売人なのだ。でも、半ばだまされて、僕はキンドルにいくつかの作品を買っていれている。たとえば「ヒロ発11時58分」とか、これも「頬よせてホノルル」に入っている。僕は、この「頬よせてホノルル」が好きな作品集で、文庫で持っているのに、忘れて、キンドルで「冬の貿易風」を買ってしまった。そういう作家なのだ。
 300円とかいうと、ちょっと買ってしまう。
 
 ふっと、もう少し読みたくなって、アマゾンで49円の「夕陽に赤い帆」「五つの夏の物語」を買ってしまった。「夕陽に赤い帆」は、前に持っていて、「五つの夏の物語」は、記憶に無いけれど、読んだら記憶が戻るかもしれない。


0214 シンポジウム 1

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                                       写真は新藤さん撮影です。
ブログが停滞している。書くことについては停滞していない。せっせと書いているのだが、ラグビーで言えば、ボールをスクラムから出さないでいる。
 シンポジウムについて、その講演内容について書いているのだが、自分にとって最終講演のつもり、とも言っていて、考えることが多い。講演のあと、これを書いている時点で、もうすでにずいぶんと変化している。運営委員会で、報告書を出す時点についての議論があった。シンポジウムの前、シンポジウムの時点では、講演内容のPPだけをまとめて印刷し、その後、たとえば、今の時点でシンポジウム当日の模様も含めて報告書をつくるのがベターではないかという意見がある。それも一理、一利あると思う。そして、このブログ、シンポジウム報告後の報告を作っていて、時間がかかっている。しかし、そろそろリリースしないと次の段階に移れない。
 それに、「ダイビングの歴史」も尻に火がついている。


 2月3日 シンポジウム無事終了。ダイビングフェスティバルと重なるので、来てくれる方が少ないのではないかと苦労した。例年70名ぐらいなので、50名は来て頂きたいと考えた。
 幸か不幸か、今回は発表が自分をはじめとして、海洋大学の千足教授も含めて身内だったので、聴衆が少なくて、講師に恥をかかせることもない。無理に誘えば、友達をなくすことにもなる。といって、ある程度は来ていただかないと形にならない。複雑な思いで、できるだけの努力をするほか無かった。
 終わってみれば、81名、例年とおり。しかしずいぶん無理にお誘いした向きもないではない。自分個人として30名、来ていただくことを目標にした。25人来ていただけたので、形がついた。まずお礼もうしあげる。
 反省点としては、会員募集を含めての戦略をもう少し、考慮する必要があるが、結果としては、OKで終わることができた。
 
 もう、昨日シンポジウムが終わった今日から、企画を考え、準備の第一歩を踏み出さなければいけない。そして、来てくださった方が、これからのワークショップに、そして、次回のシンポジウムへの出席を予定してもらえるように努力をはじめよう。
 幸い、事務局長の鈴木君が、次期は、会場、楽水会館を12月1日 日曜日で予約してくれている。
※ここまでは、当日、直後に書いている。






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 今回は、自分のテーマを三つ発表した。自分としては最終講演のつもりだったので、今関わっている三つ、全部だ。そのために、メンバーにずいぶん無理を言い、無理をきいてもらった。でもこの講演が次へのバトンになればスタートになる。また、スタートにするようにしなければ、意味がない。
 自分にとって、シンポジウムで苦労することの意味、意義は、発表するために報告書をまとめ上げること。報告書と講演が有機的につながって、理解してもらえれば成功。
 研究、研究というと大げさだが、活動したことも、公表して広く知ってもらえなくては意味がない。
 報告書とは、発表の後で作るもの、という意見、考え方もある。道理であるが、学会の論文集は、発表の時点で製作されており、発表の全部を聞けなかった人は、これで内容を知ることができる。
 自分についていうと、耳が不自由なので、他の講演会に行っても講演者の話す内容の三分の一程度しか聞き取ることができない。パンフレットなどに書いてあることと並行した話、のみ理解できる。その意味でパワーポイントは、とても助けになるのだが、講演者で、パワーポイントの字が小さい。というか、印刷物をそのまま貼りつけただけの方がいる。スマホで写して、あとで読み直しができるくらいのサイズにしてほしい。
 自分の耳が遠くなり、それに伴って、人との会話も少なくなり、話されることの理解力も衰える。これは、自分の個人的な事情だから、仕方がないが、とにかく、来ていただいた方に自分たちの成果を十分につたえる努力は必須のことだと考える。
 なお、いくらがんばって聞いてくださる方を集めても、自分たちの今の力では100人に満たない。印刷物に残し、ネットにあげることによって、公開のオーダーを上げることができるとともに、自分の考えの整理ができ、リファインされ、次のテーマにつながっていく、いわゆるPDCAのサイクルをまわすことができる。このブログを書くということも、アクトである。
 発表というアクトで、内容が整理され向上するから、発表の後で報告を、論文集を作るというのもわるくはない。それが必ず実行されるという条件の下であれば、それでも良いとはおもう。ただし、講演者が、報告書に頼らずに、上手に講演ができると言うことが条件であり、僕には自信がなかった。
 そして、今、ここで書いているのが、講演の後での報告である。
 なお、日本水中科学協会の会員、地方の方が多いので、当日リリースした報告書のデジタル版をメール添付で送っている。
 ここ(ブログ)にシンポジウムについてまとめるということは、同じことの繰り返し、念押し的なことになる。
 いつも言っていること、書いていることなのだが、その繰り返し書くこと、話すことがとても大事なことなのだ。
 一番良い例が、念仏でありお経だろう。繰り返し唱えているうちに、信念になってしまう。念仏は、極端な例だが、僕が顔を出せば、ああ人工魚礁のことだな、と思ってもらえれば、それは成功なのだ。
 今回の三つのテーマ、人工魚礁、お台場、そして高気圧作業安全衛生規則 ああ、またその話か、で良い。そして、話を繰り返す度に、実は同じではない。少しずつだが違っている。進歩、進化しているはず、そのつもりであって、その違いを知ってもらえれば、さらに大成功。事実、報告書よりも、今ここに書いているブログの方が進化していると思う。ここから先、またワークショップで、同じテーマを繰り返すと思うし、その予定である。そのような考え方で進んで行こう。
 なお、ここに書くのは、シンポジウムでの自分の発表による、自分についてのサイクルであり、他の発表者は、それぞれの意見がある。だから、ここで書くのはシンポジウム全体の話ではなくて、自分の発表に限定したことである。
 さて、三つのテーマについての、講演後の報告であるが、まずその一「人工魚礁」から始める。
 人工魚礁そのものについての議論は、日本の海、特にダイバーの海にとっては、重要なテーマであるが,今回の発表は、ダイビングの運用方法研究という視点からの発表とした。人工魚礁そのものの研究は、ねらう目標ではあるが、ここでは、的に向ける弓の引き方について述べることにする。すなわち、人工魚礁という場でどのようにダイビングするか、について考え、そして、その手法が汎用のダイビングに役立つことについて述べる。
 たとえば、2m角型160個を整然と並べたドリーム魚礁とその近くにある6m角型10個との比較は、人工魚礁研究のテーマであって、ダイビング運用研究のテーマではない。どんな風に潜水するか、運用が今回の発表でのテーマである。
 その意味で、タイトルは、「人工魚礁におけるダイビング活動、ダイビングの運用方法の研究」としたほうが、適切であったかもしれない。その活動で何がわかるのか、何ができるのか、ということも重要であるから、末尾で若干述べることにするが。
 ダイビングの運用とは、どのようにダイビングを行うか、ダイビングをするか、であり、ダイビングの安全、危険は、どのようにダイビングをするか、つまり運用にかかっている。
 ついでだから、現時点、2019年2月現在のダイビング運用、つまりダイビングにおける安全確保についての私見を述べよう。
 運用とはPDCAである。海事、海の仕事では、その中でP、プラン、段取りが成否の80%を決める、といわれている。
 そして、私見であるが、成功(安全)の鍵は「要領」である。「要領」の悪い人のダイビングでは危ない。大学卒業2年目のダイバーが危ないというジンクスがある。自分の会社での事故も、その2年目だった。
 まだ「要領」を覚えず、逃げ方を知らない。危ない仕事でも、不服を唱えず、まじめに全力を尽くす。それが危ない。といって要領よくしろとは指導できない。自分で体得するほかないのだ。
「あいつは、要領のいい奴だ」というと貶し言葉のように聞こえてしまうが、良い言葉を使うと、「バランス感覚が大事」ということになろうか。
 「要領」を論理的に考えると、まずプラン、段取りが成否をきめる。
 仕事で、フリーランサーの作業ダイバーと多数つき合ってきたが、使えるダイバーは、要領が良い。無理なことをやらせようとしたらうまく逃げて、うまくこなしてくれる。こちらが無理をしようとすると、うまくとめてくれる。「要領」すなわち「バランス感覚」「経験」が安全には重要なポイントになる。
 計画、段取りには、明確な目標が必須である。目標を明確にしないと、計画が具体的なものにならない。抽象的な「安全宣言」なども意味のあることではあるが、かけ声だけではどうにもならない。
 ダイビング事故が起こり、その反省をすると、だいたい、計画が不備、計画が具体的でなかったということになる。「安全には注意していました。」では、いいわけにもならない。
 振り返って、自分は良い(上手な)ダイバーではなかった。それでも、生き残ってこられたのは、幸運と、もう一つは仕事、目的、目標が常にあって、それが、明確、わかりやすかったからだ、と思う。人工魚礁を中心とする水産関連の調査、ニュース・ステーションを中心にしたテレビ番組の撮影、それぞれ、仕様書、台本があり目標が明確であった。
 危険と思われる大深度実験潜水が安全なのは、目標が明確であるからであろう。ダイビングの上達というのも明確な目標のひとつであるが、どの部分の上達なのか、具体的になればさらに効率が良くなり安全になる。
 レジャーとか、レクリェーションとか、楽しみ、とか冒険、みんな抽象的でわかりにくい。具体的、明確にわかりやすくすることが、安全の第一歩である。
 スペシャルティコースなどというのは、レジャーにおける目標の明確化の一つである。マニュアルとは、台本であり、仕様書のようなものである。
 ダイビングは、自然相手の勝負である。外なる環境の自然と、内なる自分の身体、自分の健康状態、生きているということも自然の一つ、とすれば、すべて自然相手である。自然というものの定義の一つは、人が思うように、計画通りには運ばないということだろう。
 言っていることと矛盾するようだが、自分は細かい計画は、あんまり得意ではなかった。
 目標を明確にして、計画を単純化することも、大事だと思う。チーム全体が計画を共有することが大事で、そのためには、単純化が必須である。


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☆☆
  今回のシンポジウムの発表を通じて、考え、考えをまとめたことの一つは、ダイビング活動とは、クラブ活動であるということの再確認だった。
 範囲を広くすれば、人間の集まり、集まって行動することは、すべてクラブ活動であるが、もう少し、絞って、一般通念としてクラブ活動と呼べるようなものとして、日本水中科学協会も、今回発表の人工魚礁研究会も、お台場の東京港水中生物研究会もクラブ活動である。
 1960年代、ダイビングは、クラブという名称のあるクラブ単位で行われた。そのころ自分のかかわったクラブ名をあげると、オールニッポンアクアラングクラブ、これは東京アクアラングサービスというショップのクラブとか、セブンシーズダイビングクラブ、これは、在日グループ中心の海賊くらぶとか、レッドフィンダイビングクラブ、これは自分のクラブ。まだあるけど、タンクの充填とか、魚突きにいくことも、クラブで行われることがおおかった。やがて、クラブはショップになり、ショップがクラブを運営するようになり、インストラクターが生まれて、指導団体になっていくわけだが、この変遷は、日本のダイビングの歴史を考えるとき、とても大事なことである。これは、後で述べる高気圧作業安全衛生規則につても、その歴史を考えるときに、重要なポイントになる。
 ここでのダイビングクラブを定義すると、表向きは営利を目的としない、業務ではない(業務については後で高気圧作業安全衛生規則の説明で述べる)友人関係を基幹とする、ダイビングに関する集まり、とでもしようか。営利を目的にすると、ショップになる。その転換は、微妙であり、それぞれであったが。
 大学の部活も、サークルもこれは、全くの純正クラブでった。それが、ショップと関わったとき、その関わり方が問題であるが。


 ダイビングの安全にクラブは大きく関わってくる。
 目的、目標が明確であり、メンバーが目標を共有しているとき、事故は起こりにくくなる。
 人工魚礁研究会も、お台場で潜水する東京港水中生物研究会もクラブである。目標として人工魚礁があり、お台場潜水がある。目標別、地域別にこのようなクラブができると良い。日本水中科学協会は科学を基幹、目的としたクラブ活動の集まり、という方向に進んで行くと良いなと思っている。
 安全という視点から見ると、そのクラブがどんなローカルルールで活動するかが、事故防止の要点になる。
 
 ここで、シンポジウムのもう一つのテーマが発生している。報告書では、「ダイビングの安全な運用と調査活動(学生の部活動として)」いる。
 時間の関係があり、このテーマは、シンポジウムでは、概略の紹介にとどまった。
 このテーマにそったワークショップができれば、、次回のシンポジウムのテーマの一つになる。そのようにしたいと願っている。
 これが、僕の最終講演からの出発になると良いのだが。
 まずは、
 学生クラブのローカルルール、フォーメーションの研究をワークショップのテーマにしたい。学生クラブとしては、東大の海洋調査探検部を想定した。彼らが人工魚礁研究会に参加したとき、クラブ活動で行うのならば、3人編成で行きたい、という申し出があった。このときは台風で中止になってしまったのだが、3人編成ということは、何らかのフォーメーションがあるのだろう。自分が指導していたときには、そのようなフォーメーションはなかったから、その後の工夫だろう。詳しく知り、議論したい。探検部が人工魚礁研究会に参加してくれたことが、この部分の発想に繋がったともいえる。
 今度のシンポジウムにも来てもらう予定だったが、ちょうど期末試験と重なってしまった。
 海洋大学の潜水部も期末試験、シンポジウムの翌日は試験だったのだが、僕は、潜水部の名誉会長なので、無理矢理に5人、引き出した。感謝。
 海洋大もこのテーマに引き入れたいが、難しいだろう。大学のクラブは年間のスケジュールが固定していて、その中に組み込むのは本人たちの意志がないかぎり難しい。目下のところ見通しがたたない。
 中央のクラブも、名称が海洋研究会だし、名誉顧問にさせてもらっている。学習院も親しいが、新しいことを加えるのは難しいとおもうが、声をかけてみたい。。
 続く

0215 シンポジウム 2 人工魚礁調査

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             マスクマウントカメラから オオモンハタ
人工魚礁調査の続き 2 撮影調査について ①撮影調査について ダイバーが携わる水中調査は、目視調査と採集(生物の採集と水や泥などのサンプリング)が主体である。目視調査といっても、僕が調査を始めた60年ほど前1950年代から、目視とは撮影のことである。フィールドワークでは、撮影しなければ、証拠がのこらない。 コナンドイルの名作「失われた世界」は、ジェラシックパークの原作のようなものだが、脱出してくるときに、恐竜を撮ったカメラを失ってしまったために、写真がないので信じてもらえない。少年時代この小説(SF)を読んで以来、写真を撮ることが第一に大切と考えて行動している。フィルム時代、僕は、ニコノスⅤに20mmを着けて、2台持って調査をしていた。Ⅰダイブで72枚、必ず撮る。なんでも撮るのだ。 ②位置の特定 調査で重要なのは、位置の特定と、数量と大きさの確認、そして何時写真を撮った、つまり調査をしたのが何時なのか、である。 位置の特定は、基本的には、ライン調査(ライントランセクト)であり、数量と大きさは枠とり調査(コドラート)で数を数える。生物を調査する場合、何がいたのか、種類、どのくらいの大きさで、何尾いたのか(個体数)を記録する。 さらに具体的に言うと、ライン調査とはラインを引き、その両端の位置を決める。ラインに目盛りが付いていれば、図上に、位置を特定することができる。実際にはそれほど細かい必用はないのだが、報告書などには細かく書いておく。本当かどうかだれも確認にはこないけれど、理論的には、同じ位置に行くことができなければならない。再現性が科学ではとても大事だ。 ラインとしては、巻き尺、検縄(目盛りの付いたロープ)鉛ロープ、フィンガーリールなどがダイバー調査に使われる。一番多く使われるのは、目盛りの付いている巻き尺であろう。巻き尺は、100m、80m、50m、30mのものが、一般に使われる。100mを使う代わりに、30mを3本使うのが調査の場合には良いと思う。僕の場合、調査と同時に安全確保のためにもラインを使うが、その場合は100mで、100mよりも先に進む場合にはフィンガーリールを巻き尺の末端に着けて、リールのコードを引き出しながら進む。  小舟で長い距離、たとえば500mのラインを引くような場合は、鉛ロープをつかう。個人的には検縄はほとんど使ったことはない。 鉛ロープとは、鉛を織り込んだロープで、錘を着けなくても、自重で沈んでくれる。小舟をまっすぐに走らせ、たるまないようにロープを繰り出して、ラインを引く。これは、GPSで舟の位置だしをしながら、引くことができるので、位置だし(位置の特定)ができる。 位置の特定とは、地図、海図の上にその位置、ラインの位置を記入できるようにすることである。 ラインの端にブイを着けて、ブイを水面に浮かべて、ブイをGPS記録のできるスチルカメラで撮影するというようなことをやったことがある。
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 ③マスクマウント:ヘッドマウントカメラについて 2010年頃、go-proがでた。中尾先生に同行したインドネシア・メナドの調査で、このgo-proをベルト(はちまきのような)で頭に着けるアクセサリーを使った。その時に一緒だった石川総一郎さんが、マスクマウント(ダイビングマスクにウエアラブルカメラを取り付けるアクセサリー)を作って、これも使うようになった。 ヘッドマウントと同時に、一眼レフカメラの上にウエアラブルカメラを載せるようにもして、ヘッドマウントとカメラマウント、2台のウエアラブルカメラを使うようになった。 2012年の日本水中科学協会のシンポジウムでは、このようなウエアラブルカメラ(身体に取り付けて使う、手のひらに乗るサイズのカメラ)の使用法について発表した。 2012年当時は、3秒間隔、5秒間隔でインターバル撮影をして調査に使っていたが、インターバルのスチルよりも動画を撮影して、動画から静止画(スチル)を切り出した方が結果がよいことがわかり、以後は、ヘッドとカメラマウント2台のウエアラブルカメラを動画で廻し、スチルカメラを加えると3台で撮影するようになった。 go-proは、ウエアラブルカメラの元祖であり、画質も良いのだが、なぜか、どんなポリシーがあるのか知らないが、画面にタイムを表示するようにしていないのだ。you tube に載せることを重視しているというのだが、タイム表示は出すことも出さないこともできるのだから、着ければよいのにと思うが、かたくなに画面にタイムを表示することを拒否している。画面にタイム表示をだすことは、調査カメラの基本である。 たとえば、ヘッドマウントカメラは、動画をまわしてからヘッドに取り付けてエントリーする。水に入る。そしてそのまま撮影が続いていて、エキジットすれば、すべての水中での行動が秒単位で後からわかる。 現在(2019年2月)1万円以下の AKASO7000とSJ4000を使っているが調査のカメラとして問題なく、とても良い。ただし、1万円以下のカメラは画質については当たりはずれがある。9千円のAKASO brave よりも、7000円の方が画像の色がきれいだ。このレベルのカメラは、色温度の設定ができないので、なおすことができない。
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             マスクマウントから見た、メインカメラ
④ウエアラブルカメラ撮影技術について 自分の使っているカメラシステムは、スチルカメラはOlympusTG4とNikoで、今はOlympusがメイン、Nikonクールピクスがサブ(Olympusがバッテリーアウトとかで使えないときにNikonを使う)Olympusは、sea frog という、Olympus純正のハウジングよりも安いハウジングを使っている。   Olympusは一代前のTG3を水没させたので、浅くてもカプセルに入れるようにした。これで二重の防水になっているわけだから、相当乱暴に使っても、大丈夫だ。水中で落としたときなど、見つけやすいように黄色を選んでいる。動画がメインになるので、人工光源はストロボではなくて、フィッシュアイのFix2500を使っている。光量を50%に落として、持続時間を長くしている。 このOlympusの上に、マスクマウントのアダプターを貼りつけて、AKASO7000、ウエアラブルカメラを載せている。このAKASO7000で動画を撮っていて、これが調査のメインカメラである。AKASOは、Ⅰランク上の、brave(9000円)も買ったが、これは色調画悪くてはずれだった。この手の10000円以下のカメラは当たりずれがある。SJ4000は、マスクに取り付けて、サブカメラとして使う。これは、やたらと派手な色だが、悪くはない。 カメラは全部安いアマチュア向けのものだが、調査の記録として必要十分だ。それでもライトを入れれば約14万だ。この中でライトが一番高くて7万だ。 乱暴な使い方をするから、カメラは必ず壊れると予想している。それでも生き残っているカメラが多いが時代遅れになれば死んだも同然だ。時に水没もする。その時に精神的に再起不能になるような高価なシステムは、調査には向いていない。  カメラシステムの使い方、撮影の方法は、個々それぞれで、自分の使うカメラに合わせて工夫し考え出さなければならないが、参考のために、自分の例をのべる。まず、調査のメインはスチルの上においたウエアラブルカメラである。スチルカメラは、ねらっている生物、に近づいてスチルを撮る。僕の場合だけど、このOlympusのTG4では、被写体から距離1m以内でないと、「スチルで撮った」という写真にならない。当たり前だけど、カメラを静止させて、液晶ファインダーを見て、しっかり撮る。デジタルは枚数に制限がないので、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、的にも撮るが(撮らないよりは良い)後で見て、ねらわない撮影はやはりスチルとしてはだめだ。いい加減に撮ったスチルよりも、メインの動画から静止画を切り出した方が、仕上がり結果が良い場合が多い。 カメラの構え方だが、スチルの上に乗せているウエアラブルカメラの動画がメインだから、動画を撮るつもりで、あまり振り回さないように、ブレないように、意識して撮る。その時にカメラを顔の前に持ち上げて、ファインダーを見て撮り続けると、マスクマウントのサブのウエアラブルカメラが目の前のスチルカメラだけが写っているような映像になってしまう。スチルカメラを目の前に構えるのはスチルを撮るときだけにする。ちょっと難しいが、カメラを腹の前に静止させて構えて、あまり振り回さないようにする。ファインダーを見なくても、メインのウエアラブルカメラは、広角170度だから、振り回さなければ、ちゃんと撮れている。 マスクマウントのウエアラブルカメラだが、手持ちのカメラがメインの場合にはサブになるが、手は何かの作業をするために、カメラを持たない、あるいは構えない場合には、これがメインになるが、サブの場合でもメインの場合でも、意識して撮影しているときには、顔を振り回さないで、注視してゆっくりとしたパンをするつもりでカメラを振る(顔を振る)ようにする。 このような撮影態勢を、全潜水時間にわたって続けると疲れてしまうし、撮影第一、安全第二になってしまう。撮影ラインの上を移動するときだけ、撮影を意識する。ラインからはずれて移動したりしている場合は、撮ると意識した時だけ、撮影の態勢に入れば良い。後に映像を整理するとき、ラインを意識して動いていたか、それともランダムに動いていたかは、重要な区別になる。原則として、ラインで動いていたときの映像だけから、個体数を数えたりして、表にまとめる。ラインをはずれているときには、参考的な映像ということになる。 ⑤人工魚礁撮影について人工魚礁撮影では、ラインを引かなくても、どこにいて撮影しているかがわかる。そしてラインを想定することが容易である。先に、ラインとして巻き尺を例にしたが、人工魚礁の場合、巻き尺のラインを引かなくても、ラインを想定する、イメージのラインを引くことが容易にできるので、巻き尺とかの物理的なラインは使わないですむ。 ラインの項で述べなかったが、巻き尺とか鉛ロープとか、物理的なラインを引く他に、自分のイメージで、ラインを想定して撮影することができる。目標になるような岩などがあれば、この岩から、あの岩へとイメージでラインを引く。しかし、イメージラインは、よほど透明度が良くないと引けないから、通常は物理的な実在するラインを引く。しかし、人工魚礁では、かなり濁っていても、透視度が3mほどあれば、人工魚礁を目印にしてイメージラインを想定し引くことができる。 これは、安全のところで述べるが、人工魚礁では、人工魚礁にとどまっている限りは、迷子にならない。⑥調査のまとめについて さて、ラインに沿ってウエアラブルカメラのメインで動画が撮影できていたとして、それは、そのままでは素材にすぎない。素材から編集して、データとして残しておきたい。 実際には、たとえ、データ化しなかったとしても、素材があれば、いつでもデーターを作ることができるから、仕事でお金をもらっている場合は別として、気が向いたときに、楽しみながら整理しても良いが、そうなってしまうと、なかなか、整理できない。 それは個人の問題であり、素材だけ整理してあれば、後でなんとでもできるのだが、そんなときに、タイムが画面にでていないgo-proはもう、どうすることもできなくなってしまう。 そのまとめ方はどのようにすれば良いのか、それぞれ、手間がかからずに正確であることが理想であり、理想を目指すのだが、自分の場合は、エクセルで左の欄に時系列を書き、次の列に種類名、次の列に個体数と大きさを書いておく。なんとかそこまでは、やっておく。これは、テレビ番組の撮影をしていたときの素材整理を簡略化したもので、それほど時間はかからない。 時間はかからないが、潜水していた全時間を素材にしたら、手間がかかるから、ラインの上で撮影した部分だけ、そのラインが物理的ラインでも、イメージラインでも、とにかく、ここからここまでと区切りを想定しておき、その区切りが、3分とか5分、せいぜい長くても、10分とすれば、10分見れば、整理ができる。要するに抜き取り調査である。水中の一部分をラインで切り取ると考えればいい。 アマチュア的、レクリェーション的な調査は、なるべく手数をかけないで、アバウトだけれども、できる範囲で正確ということを目指す。
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⑦安全とウエアラブルカメラ撮影について 安全について、僕は少し偏った考え方をもっているかもしれない。 ダイバーとして、一人前ということは、死んでも生きても、自分の責任というレベルの技術と経験を持っていることだが、その上で、自己責任ではない、監督者が責任を負わなくてはならないのは業務、作業潜水、つまりプロの潜水なのだ。これは、意外に感じるかもしれない。プロだから自己責任なのだと思いがちだが、プロは事業者が責任を持つのだ。このことは、高気圧作業安全衛生規則のところで述べるが。 プロと、そして学生のクラブ活動としての潜水も自己責任ではない。責任者がいることが必須なのだ。 好きで潜っているレクリェーションダイバーは、自己責任、つまり死んでも生きても自分の責任だ。ガイドダイバーとかインストラクターが一緒に付いているとき、それも、ガイドのフィを払っている状況においてだが、責任を分担してくれる。しかし、責任を分担したところで、命を生き返らせてくれるものではない。賠償責任保険で対応してくれるだけである。 自分の命は自分で守るのが原則だ。  学生とか、そして、自分は絶対に死んではいけない立場にある人がスクーバ、糸の切れた凧状態で潜水する場合、これは、チームを作って、各自がウエアラブルカメラをヘッドマウントで着けているようなダイビングをすることがことが望ましい。何時何分、何秒にチームはどのように行動していたか、誰と、どのような位置関係にいたかを把握することができる。できていなければ、いけない。その時に、人工魚礁というのは、互いの位置関係がわかりやすく、安全度が高い。 作業潜水は、ホースで空気を送る送気式で行うことが多いから、そのホースで繋がれた状態の時は、スクーバダイビングよりも管理がしやすく、安全度が高い。ただ、これは望ましいのであって、自分の責任でどのような運用パターンのダイビングをすることも自由だ スクーバダイビングは、ホースで空気を送る送気式式の潜水よりも安全度が低い。危険性が高い。ここでは安全な運用、ローカルルールとして、このような撮影調査のフォーメーションを示している。 そして、その上に、一般のダイビングにおいて、水中撮影はさらに危険度が高い。自分の安全を確保してくれているガイドダイバーを雇って、そのガイドダイバーが常に、何らかの形で見守ってくれているのでなければ、水中撮影はほとんどの場合はソロ、二人で潜ったとしても、実質的にはソロなのだ。だから、カメラを持ったら自己責任と思わなくてはいけない。 ウエアラブルカメラを着けても、バディシステムでなければ、ウエアラブルカメラは安全とは関係ないが、バディシステムの場合には、二人が離れないという約束事なのだから、その約束が守られているかどうか、ウエアラブルカメラで確認できる。 二人とも相手の姿をとらえていないとするならば、それはバディシステムがキャンセルされた状態にあったことになる。 ダイビングの計画で、想定上のラインが決められていたならば、そのラインからだれが離れたのか、カメラで確認できる。 たいていの人が、そんな面倒なことはやっていられないというだろう。だから自己責任なのだ。 ⑧人工魚礁調査の今後の展開について 人工魚礁は1935年頃からはじまり、2000年代まで、国が巨費を投じて、全国津々浦々に設置してきた。日本沿岸で、人工魚礁のないところは、探すのが難しい。しかし、今、沿岸の岸近く組合地先、共同漁業権区域内に設置されている人工魚礁の現状は、ほとんど、どうなっているか知られていない。 もともと、人工魚礁は、その設置されたときに、設計通りに設置されているかどうか調査され、あとはそのままである。漁業者は自分の漁場を他に知られたくないという習性があるから、人工魚礁漁場で漁をする漁業者が多ければ、それは。それで良かった。役割を果たしていることになる。しかし、現在、人工魚礁周辺で漁をする漁業者は、ほぼ絶滅状態に近い。 水産は今後多角的な方向に新たな展開をして発展を目指して行くことになろうが、その中に、岸近く、組合地先の人工魚礁は視界に入れられていない。置き去りにされたままだ。置き去りではあっても、魚を集めてさえいれば、なにがしかの役割は果たしていることになるが、その状況を調査するような予算措置は今後皆無と言っても良いだろう。 レクリェーションダイバー、学生のダイビンググループなどが、ある程度、数値の移り変わりが確認できる調査を繰り広げれば、それによって、人工魚礁の状況が確認できる。人工魚礁調査を繰り返し唱えているのが日本水中科学協会だけということになったら、そしてそれが数値的な観測データも持っていることになれば、大きな価値をもつことになろうと考えている。 ここで述べたような観察撮影調査手法は、クラシックなものであり、自分たちが40年前、50年前に行ってきた調査とほとんど同じである。映像機器(ウエアラブルカメラなど)は進化したから、証拠の確認は容易になってきているが、手法はあまり変わらない。 変わらないからこそ、結果の比較ができる。たとえば、僕たちのホームグラウンドである、千葉県房総半島先端部の人工魚礁の30年分の資料があり、魚種の移り変わり、漁の変化と対比することができたとすれば、大きな効果だと考える また、この手法は人工魚礁だけでなく、天然礁の観察もできる。今年度あたりから、同一手法による天然礁との比較も視界にいれている。 以下はシンポジウム報告書からの抜粋である。まとめとして、掲載する。 ☆人工魚礁調査研究会の方法 ウエアラブルカメラによる定線動画記録 時間表示が画面にでる 安価なウエアラブルカメラが使えるようになったので、2012年以来、その使用方法を研究してきた。  定まった方法で撮影し記録すらば、それは、調査をしていることになる。  同じフォーマット まとめ方で、たとえば僕たちの現在のフィールドである波左間の人工魚礁と岬をこして西川名の天然礁で同じフォーマットで観察記録し、比較したら、何がわかるか これは、レクリェーションダイビングでなければ出来ないこと。  調査の手法 ウエアラブルカメラによる定点(定線)撮影  カメラの選択、 カメラは安価(学生でも購入できて、無くしても損害にならない。カメラを大事にするあまり、事故を起こす可能性がある。)落としたカメラを拾いに行って減圧症になった事例がある。、小型軽量 タイム表示が画面に出ること撮影手法の選択 定線は、巻き尺、検縄、鉛ロープ、リール、そして、イメージライン 人工魚礁は定点、定腺がやりやすい場である。イメージラインも容易にできる。 自然礁でもそれがやりやすい地形がある。場所の選択  動画撮影によって、定線(どこから、どこまで)撮影にする。 重要なことは、定線に魚がいなくても、いない状態を撮影しておくことである。 定腺ではことさらに、魚のいるところをねらって線から外れてははいけない。 定腺とは別、あるいはその近くで、魚のいるところを探して撮った結果は注記して別に残しておく。  撮影結果を読みとって定線の魚(場合によっては、甲殻類、貝類)の種類と数、大きさを、表に記載する。(表の例をしめした) 撮影だけしておけば、記載はあとでまとめてでも良い。 調査頻度は月例が望ましいが、春夏秋冬でよい。  要約すると ①自分の定線を持つ。(同じ場所、同じライン、) ②ウエアラブルカメラで撮影 ③撮影結果を表にまとめる。  今後の展開 この手法とダイビングの安全な運用との連結、連携になることは容易に考えつく。 安全なダイビング運用からフィードバックして、調査。撮影の手法を考えることもできる。 、調査手法例、記録手法例を研究し改善して体系を作っていく。記載表の例は上にしめしている。

0216 シンポジウム3 お台場

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 東京港水中生物研究会、1996年より調査活動を行っている.この研究会は、人工魚礁研究会と同じく、日本水中科学協会の主催するクラブ(研究グループ)である。

ここでは、まず発行した報告書そのものを、掲載する。会場では1996年から2018年までのトピックスを年代順を追ってビデオ映像で紹介した。報告書に続いて、そのビデオ映像から抜き出したスチルで、活動の推移を説明する。

東京港お台場の定点継続調査  Ⅰ  沿革  お台場は、東京湾の奥の東京港の行き止まりで、東京の中心部にあり、もう少し奥に進んで右に回ると佃島、月島から隅田川に入り、永代橋にいたる。 
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レインボーブリッジが真上に掛かり、東京の下水道の排出口に近く、下水処理場も近い、東京湾の行き詰まり、東京湾としては、劣悪、最悪の環境と考えられる。 ここに潜った最初は、マハゼの産卵調査で、まだ、海浜公園にはならない工事中で、今の水上バスの航路の外側だった。水深6mぐらいの軟泥(ヘドロともいう)深く、マハゼが産卵のために掘る、深さ2ー3mにもなる産卵穴の調査であった。そして、1985年秋、テレビ朝日のニュース・ステーションでの東京湾特集で東邦大学の風呂田、そのころは講師と一緒に潜ったが、まだ、そのころは、下水の一部と見なされていて、硫化水素の臭い(どぶの臭い)がた。ほぼ、時を同じくして、親しくしていた中村征雄も東京湾にもぐり、「全東京湾」という傑作カメラルポルタージュを書いた。 ニュース・ステーションの水中レポートシリーズで須賀潮美がデビューしたのも、1986年、同じ年であった。
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       1996の開会式は、特設ステージで行った。

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 その後、1996年、海上保安庁、特救隊の隊長時代に取材で知り合った、宮野直昭さんが東京港の警備救難課の課長に就任し、一緒に何かやりたい、東京都民と海上保安部の距離を縮めたい。うわべは人工砂浜などで、きれいにしているが、その海底は、ゴミ溜め同然になっているお台場のゴミ拾い、クリーンアップをしようと言うことになり、クリーンアップ大作戦「お台場を泳げる海にしよう」を始めた。 大作戦は、1966年にできた港区スポーツふれあい文化健康財団、通称キッスポート財団の主管行事になり、今日に至っている。 そのゴミで埋まっている海中に、多種多様な生物がたくましく生きていることを見たことから、その調査をクリーンアップ大作戦の一環としよう。ゴミを拾うだけでなく、そこの生態系も見ていこうと、ニュース・ステーションなどで親しくなった風呂田教授と語らって調査活動をはじめた。 やがて、2002年、お台場だけではなく、その隣の船の科学館の脇に水上スポーツと海洋観測実習のために設けられたポンツーンからの潜水も加えて、調査観測の場を二カ所に増やし、船の科学館に事務局を置き、東京港水中生物研究会とした。船の科学館のある青海北埠頭は、お台場とは近いが、お台場の外側のような環境で、より大型の魚、カニ、シャコなどが集まり、良い観測調査点であったが、船の科学館が東北大震災の影響で休館となり、ポンツーンも撤去され、休止状態になっている。  お台場生物潜水調査の目標と成果 ①「東京港の奥お台場を泳げる海にしよう。」僕たちは泳ぐどころではなく、潜っているのだが、潜る姿が日常に見られるようになれば、つまり、お台場でダイビングが市民権を獲得することができれば、連動してスイミングやスノーケリングができるようになるだろう。と共に、東京湾でもその湾奥の東京港のそのまた行き止まり、最悪とも考えられる水環境の中で、環境の直接的な影響を受ける生物の推移を観察記録しようとした。この湾奥の環境を見ていけば、東京湾全体の環境の推移がわかる。さらに世界の海環境の推移がわかるのではないだろうか。  ②日本水中科学協会の海洋生物観測、観察のコンセプトとは、定点選び決めて、継続して観測、観察して、生物環境の推移を追い、記録していく。  主要メンバーとそれぞれのテーマ 風呂田利夫:東邦大学理学部名誉教授:調査観察の指導・二枚貝(ホンビノス・アサリ) 多留聖典東邦大学理学部・東京湾生態系研究センター:魚類・生物全般と調査指導 尾島智仁:海洋観測と環形動物など底棲生物調査 尾島雅子:魚類 三ツ橋千沙:植物(科学未来館)  須賀次郎:ビデオ撮影と全体の調整 清水まみ:スチル撮影 ゲスト(研究者)杉原奈央子(東大)自見直人 依田浩太郎(東京海洋大) 他に、海をつくる会メンバー、など、撮影活動を中心とするメンバーが集まるが、次第に専門分野が決まっていくことを期待している。 ゲスト(カメラマン)中村征夫 京極恒太 植之原英彦  安全管理 鈴木敏久 山本徹  発表した研究報告 2006 「海と渚美化推進機構報告」 2007 「海と渚美化推進機構報告」 2016 「東京港水中生物研究会報告:日本水中科学協会」 2017 「東京港水中生物研究会報告:日本水中科学協会」  ネットでの公開 東邦大学理学部 東京湾生態系研究センター 東京港生物調査 http://marine1.bio.sci.toho-u.ac.jp/tokyobay/daiba/index.html   Ⅱ 映像発表:年代を追って  1996ー1998年 クリーンアップゾーン(潜水許可区域)の海底は一面のゴミ 
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 大きめのボール箱などが、魚礁になりメバルの稚魚の住処になっている。  
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1990年代は、 外来種全盛の感じであった。

 イッカッククモガニ、
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チチュウカイミドリガニ 雄が雌を抱えていどうしている。
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海底一面のムラサキイガイ 今、この場所は牡蛎が一面になっている。
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一面の牡蛎に変わった

外来種は在来種よりも環境の悪化に強いので、在来種の住処を奪ってしまうので、駆除しなければならないなどとしているが、ここお台場では、2014ごろには、外来種は、再び在来種に取って代わられている。海底一面を覆うようなイッカククモガニは、見つけるのも苦労するほどになり、おなじく、チチュウカイミドリガニも見えなくなり、在来種のイシガニが復活してきた。海底のムラサキイガイも、牡蠣が海底を覆うようになって、海底から後退した。 お台場は、都市排水のための富栄養で酸素が過大に消費され、夏期は、水温上昇のために対流による水の攪拌がなくなり、低層は無酸素状態になる。そのために、多数の生き物が死滅することがあり、その後、その場所に別の生物が入り込んできて、競争相手が居ないために爆発的に増える。そんな劇的な変動を繰り返している。 お台場の調査では、さきに発表した人工魚礁調査のような数量的な変化を記録していなかった。簡略な記録でも良いから、その変遷の数量的な変化を残せば良かったと反省する。  1998年には、三陸沖にいるイシイルカが迷い込んできて、一週間ほど滞在した。 
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 クリーンアップ大作戦 海底のゴミ拾い 港区、キッスポート財団 海上保安部の協力で特殊救難隊が潜水指導にあたった。
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          ラインを引いてゴミを拾う指導をした。

 
 2012年

 人工磯場 2012年、お台場には、海洋建設(日本水中科学協会会員)が製作した人工磯場と命名されている、牡蠣殻礁(人工魚礁)が三基設置された。90年代、海底の大型ゴミ、ボール箱などの魚礁効果でメバルなどが集まっていた。清掃することは、魚の住処を取り去っているという面もある。言うまでもなく、ゴミはゴミであり清掃されなければならないが、人の手による魚礁がその代わり置かれることは、望ましい。 3月に磯場が設置されると、4月にはメバルの群が集まってきた。この人工磯場は、高さ2mのものと1mのもの、それぞれ縦1.2m 幅1mと、ここに枕設するものとしては大きい。
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            9月の無酸素状態から脱して、11月に人工磯に戻って来た魚
 無酸素(青潮) 東京湾では、埋め立てのために掘削された大きな穴が各所にまだ残っており、穴の中は無酸素状態が続いている。風による表面流動などによって、この無酸素水が吹き上げられて、青潮とよばれる現象になり、その青潮が、海岸に押し寄せると、青潮の範囲の生物が死滅する。この現象がこれまで、だいたい6ー7年置きぐらいに起こっている。 2012年9月、青潮がお台場を襲って、生物が居なくなる死の海となった。人工砂浜にいた大型のホンビノス貝が全滅した。
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死んだ後を見ると、こんなに山になるほど、ビノスガイが居たのかとおどろく。 小さい個体、稚貝は、生き残っていて、2年後ぐらいには、大きい個体も昔のように見られるようになった。ビノスガイは、居る水深が1m以上であり、潮干狩りでは採られないので、そのまま多数居る状態が保持されている。風呂田先生が、資源量など研究されている。 魚の類は、どこかに逃げていたらしく、10月11月になると、水質の回復とともに戻って来て、人工浅場に群れた。シマイサキの稚魚、メバルはやや大きくなった個体がいくつか見られた。  硫化水素と硫黄バクテリア          
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 お台場海浜公園は、四角の三辺は、一辺が浅い磯場、二辺が人工海浜(砂浜)で、その中心、水深3mより深くなると、そこはヘドロであり、ヘドロ部分は夏の酸素不足で硫化水素が発生している。硫化水素はどぶ泥の悪臭のもとであり、口に入れば猛毒で、自殺用にも使われているとか。水に溶けてダイバーが飲み込むようなことは、故意にしない限りは無く、23年間、硫化水素により事故は無かった。   硫化水素のあるヘドロの上は、硫化水素を同化している硫黄細菌がカサブタのように覆っている。硫黄細菌が多ければ、硫化水素があるという指標にはなっていて、冬の間は硫化水素は少ないらしく、硫黄細菌も点々と存在するだけになる。
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 すでに述べたように夏期、水の対流がなくなると、海底は、測定値では無酸素に近くなる。江戸前の象徴ともいうべきマハゼなどは、酸素欠乏に強く、測定無酸素(無酸素では生きていられるはずがないのだが)でも普通にしているが、他のハゼの類は、隠れていた牡蠣殻などから出てきて、表層は酸素があるので、浮き上がる。 同じ無酸素でも、青潮の無酸素は、魚を完全にきえさらせる。青潮は、無酸素だけでなく、硫化水素をふくんでいるのだろう。青潮の時に潜ると、異臭がする。  2016年 生物の勢いがあり、多数のイシガニヤ、タイワンガザミが見られたが、2017、18は、イシガニも見つけるのが容易でなくなった。 
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             イシガニ
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            タイワンガザミ
 2018年 2020年に行われる東京オリンピックでは、トライアスロン競技がお台場で泳ぐ予定になっている。 困るのは、大腸菌数である。お台場は下水の放水口と近く、東京の下水道は一系統、下水の雨水が混合されて排水されるので、雨が降ると大腸菌数が増える。大腸菌が増えたとしても、硫化水素とか青潮とかとちがい、別に異臭はしないので、ダイバーとしては何ともないが、オリンピックでは国際競技基準で大腸菌数が規定されていて、お台場は雨が降れば、この基準をパスできない。        
 別に健康を阻害するレベルではないので、ダイバー的には、何の問題もないが、オリンピックではそういうわけには行かないで、大腸菌の多い水をせきとめるフェンスを造るらしく、その実験をしている。三重になっていて、フェンスの中は明らかに水がきれいに澄んでいるが、大雨が降って大量の下水が放水されれば、大腸菌水を止めるのは難しいとか。うまくいくと良いのだが、   
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             フェンスの内側は透視度がいい
牡蠣 江戸前、お台場周辺はもともとは牡蠣の産地であったという。牡蠣が水を浄化するというので、2007年、お台場で、都民のレクリェーションも兼ねて、牡蠣の垂下養殖が試みられたが一年で終わった。すでにのべたように、2000年頃から、調査海域の海底、ヘドロ地帯の外側で、人工砂浜でない位置で、ムラサキイガイと交代して一面の牡蠣になった。 牡蠣の浄化作用がお台場全域の水の浄化に役だって居るかどうかは疑問であり、牡蠣そのものが死ねば有機物にもなり、富栄養のもとになるので、それを定量的に比べれば、浄化作用としてはマイナスだとする意見もある。しかしながら、目視的に牡蠣の上、直上の水は明らかにきれいになっている。また死んだ場合にはたちまちのうちにカニやハゼに食べられてしまって、牡蠣殻の隙間はカニやハゼの住処になる。また、姿形が観賞魚になるようなトサカギンポなどは、牡蠣の死に殻の中で産卵する。
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 調査海域は、牡蠣が重要な役割をもつ生態系になっていると考えられ、測量尺を 牡蛎の上に置き、尺の片側、30cmほどの幅で撮影して、生きている牡蛎の数を調べる牡蠣の定量調査を始めることにした。牡蠣の消長、牡蠣が元気に生き、牡蠣の覆う海底が広がることは、調査水域が良化していると言えるのではないだろうか。 この水域がいつの日か牡蠣の産地として、江戸前の牡蠣が復活するかもしれない。  マハゼ マハゼは、江戸前を象徴するような魚で、他の生物の消長に関わらず、お台場の水中全域で見られる。マハゼは柔らかい軟泥(へどろ)を深く掘り進んで、その奥で冬に産卵する。3月には小さい稚魚、4月5月には、2-3cm、5月6月には5-6cm、7月8月は、デキハゼ、その年にできたハゼになり9月10月頃から、ハゼ釣りの対象になる。
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            マハゼと牡蛎
 マハゼの産卵は何回かに分けて行われている。2018年は、その早い時期の産卵が行われなかったらしく、春先の数が少なかった。その代わりだろうか、メバルの稚魚の数が多かった。お台場の底のヘドロがマハゼの産卵場になっているかどうかについては確認していない。1970年代、お台場の外周での産卵は確認している。

0217 シンポジウム4 高圧則

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  三つ目のテーマが 高気圧作業安全衛生規則についてである。  その高気圧作業安全衛生規則について三つのテーマがある。 Ⅰ 高気圧作業安全衛生規則とはなにか? Ⅱ 高気圧作業安全衛生規則の歴史 沿革 Ⅲ 潜水士テキストの研究(規則の研究)  高気圧作業安全衛生規則の歴史については、12月19日にワークショップをやって発表した。 1962年にこの規則での最初の試験が小田原であり僕はそれを受けて、見事?合格した。僕の潜水士番号は71である。100人以内ということだ。
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 それから、指定講習の講師をやり、1973年に指定講習がなくなり、国家試験になり準備講習になりその準備講習の講師を2010年まで続け、 2012年には、工藤君と共著で「一発合格シリーズ」の受験本を書き、これは版を重ねている つまり、僕は、高気圧作業安全衛生規則ができたときから今日まで、密接なつきあい、関係を持っている。 この規則を取り上げて、話題にしていくことが、スクーバダイビング業界にとって、吉となるか凶とでるかわからない。難しい問題なのだが、無視しては通り過ぎられない。ならば、この辺で、問題提起だけしておこうと発表に臨んだわけだが。  高気圧作業安全衛生規則とは何か、どんな規則なのか、レクリェーションダイビングとどのような関わりを持つのかということを取り上げた。この続きをワークショップでさらに取り上げ、「潜水士テキストの研究(規則の研究)」まで踏み込んでいくかどうか、まだ考慮中である。 何でこんなにチャレンジというと格好良いが良い年齢をして、問題になるようなことばかりするのだろう。そして今、自分は心身物金ともにピンチといえる。そのように感じるのだ。後期高齢者の僻みならば良いのだけれど。 とにかく高圧則って何だ。 高圧則は労働安全衛生法に基づいている。  労働安全衛生法とは、 職場における労働者の安全と健康を確保することを目的とする法律だ。 労働者の味方、事業者の敵なのだ。 労働安全衛生法ワールドには、労働者と事業者、二種類の人間がいる。労働者とは、事業者に雇われて仕事をして賃金をもらう人、事業者とは労働者を雇い、仕事をさせて、賃金を払う人だ。 仕事、とは業務のことだ。 業務とは「継続して行われる職業・事業・商業上の仕事」  潜水業務とは「潜水機を用いて加圧された呼吸期待を呼吸して水中で行う業務」をいう。 素潜り スキンダイビング、フリーダイビングは潜水業務にならない。 潜水業務は危険な業務であるので、安全について必要な知識を持つ潜水士でなければ、従事できない。  高気圧作業安全衛生規則は、労働安全衛生法に基づき、事業者は、労働者の危険、高気圧障害、その他健康阻害を防止するため作業方法を確立、作業環境の整備、その他必要な措置 すなわち、事業者は労働者を危険な目に遭わせてはいけないのだ。ところで潜水は危険な業務だから、その危険についての知識を労働者は身につけて、その証拠として潜水士になる。潜水士の知識は、事業者が危ないことをさせた場合にそれを拒否する。危ないか安全かを見極めるための知識ということになる。 減圧表とは、事業者が無理な潜水を命令した場合、それでは潜水病になりますからだめですと拒否するための表なのだ。  レジャーダイバーは業務ではないが、ガイドダイバー、インストラクター スタッフは、報酬 賃金をうけるので業務になる。人工魚礁のところで述べたが、レジャーダイバーは、業務ではないから、自己責任で何でもできる。業務を行うインストラクターやガイドダイバーの健康と生き死には、労働安全衛生法では事業者が責任をもたなくてはならない。だから自己責任ではない。 インストラクターやガイドダイバーが命がけでお客を守ることなど、労働安全衛生法ではあり得ない。引き留めて、言うことを聞かなければ、勝手にさせて良いのだ。 良い言葉で言えば、自分の安全=お客の安全と考える。シンポジウム報告の第一回に安全について少し述べた。経営者、事業者はスタッフ、労働者の意見を聞き、取り入れなければならない。ただし、その労働者が信頼できる人でなければだめだけれど。 この原則だけきちんと守るだけで、ずいぶん事故は減ると思う。減圧症も減ると思うのだ。一般的に作業ダイバーは一日2回以上は潜らない。三回になったら割り増し賃金をもらう。 ダイブコンピューター頼りになるべく長く潜ろうなどとは考えない。減圧表に従ってなるべく早く仕事(潜水)を切り上げて、パチンコに行こうとおもっているのだ。それが安全に繋がる。ただし、作業員が正しい知識を持っている。すなわち潜水士で泣けr場ならない。 もう一度業務の定義にもどって、 業務とは「継続して行われる職業・事業・商業上の仕事」継続してという文言が入っている。ちょっと手伝ってもらったアルバイトは継続になるのだろうか。 アルバイトは業務か?継続的であるか否かの判定にかかる。 これは、次に述べる労災保険と関係があるから、おろそかにはできない。 このように迷う場合、作業ダイバーならば、あんまり悩まないですむが、レクリェーション都下、研究者の潜水の場合には、迷うことが多いだろう。それを決めるのはこの規則を司る労働基準局である。それに不服があれば、裁判で決めてもらうほかない。  シンポジウムで取り上げた話題のひとつは、東京大学で、2006年、潜水して標本採集中の研究者が亡くなった。 事業者とは 事業を行う者で労働者を雇用する者 労働者とは、事業(業務)を行うために雇用される者で継続的に労働の「賃金」を受ける者 この定義から、研究室の研究者が労働者であり、学校が事業者であるとは、ほとんどの研究者は考えつかなかったのだと思う。 でも、この場合、亡くなった研究者は労働者であり、大学、そして教室は事業者と認定されて、研究者も教授も書類送検された。 以来、研究は労働であり、学生が研究を手伝って潜水した場合、アルバイトの労働者と認定される可能性があるので、学生も教授も全員潜水士の資格をもつようになった。 ダイブマスターとか、マスターダイバーがちょっとお客とバディで潜って面倒を見た場合、労働になるだろうか、継続的か一時的かという問題がある。一日とか二日とかいう時間軸で考えて、一時的か継続か?とともに、プロダイバーと名乗ると、、プロといえば継続と思われても仕方がない。覆すには裁判が必要だ、とするとPADIなんていうネーミングは全部職業で継続的と思われる可能性がある。インストラクターの専門学校を卒業して潜水していたら、これはもう継続登と判断される、かもしれない。  ここでは問題提起、可能性を言っているので、信頼のおける解答ではない。念のため。  労働者と事業者の間で重要な問題に労災保険がある。  労災保険 事業者は、一人でも労働者がいれば、労災加入が義務づけられる。 この場合労働者は保険金を負担する必要はない。  事業者が労災保険に加盟していない場合、事業者は保険金を受けられないが、遺族が労災の請求をしてくる可能性があり、というか、必ず請求してくると予測できる。 適用される事業者が労災に加盟していない場合。 事業者が全額賠償義務があり、 労災からの給付はない。 訴訟に関わるのでケースバイケースもあろうとおもうが、ネガティブに考えておいた方が間違いない。  作業ダイビングでは、割り切れているが。レクリェーショナルダイビングでは、微妙な点が多い。さきほどのアルバイトの問題とか、継続の問題とか。 繰り返すけれど、ここでは問題提起であり、解答ではない。 弁護士さん(松村房弘弁護士 松村格先生)に質問状をだして解答してもらってはいる。 (2016年のシンポジウムでも、この議論をした。) それでは、一人で仕事をしている、たとえばフリーランサーのカメラマンは?、一人のバディ、一人のダイバーを雇って二人だけで仕事をするリサーチダイバーなどは、労災に加盟できないのか、彼らのために 特別加入制度 事業者(経営者)の加入というのがある。これは、俗にいう一人親方の制度で 自分の労災を自分が払う。 一人親方をまとめて扱ってくれる保険組合のような会社があり、それに加入する。特別加入制度だ。
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 二人、一人のアルバイトと親方の場合、二人がこの組合を通して労災に加盟することができる。親方は自分の労災保険を自分の費用で払い、アルバイトの分は、親方が払う。 多くのフリーランサーの水中カメラマンなどは、この制度を利用している場合が多いのではないだろうか。自分もこの保険に入っている。僕のような高齢者が、もしもの場合、スムースに労災保険が下りるかどうかわからないが、少なくとも、現役の証にはなるだろう。
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 ただし、この一人親方の親方は事業者だから労働基準法に言う労働者とは認められない。 一人だけだが、事業者側である。 事業者として、どこかに雇われれば下請けになる。 一人だけで、ダイビングショップをやっている。土日だけのショップオーナーも、一人親方だろう。不規則にアルバイトを雇った場合など、僕が加入している保険組合(会社)は、アルバイトについて、年間にまとめて、事後申請で加入できる。 これで、いちおう、労働者も、事業者のような労働者も労災にめでたく加入できる仕組みにはなっている。 労災保険というのは、国が強制しているものだから、料率が良い。得な保険である。 入っていると有利、入っていないで、労働者が事故を起こした場合大変なことになる。 中途半端にダイブマスターだとか、プロダイバーコースなどを受講して、ショップの手伝いなどをしていて、潜水士など、Cカードよりもレベルが低いなど(それについては別の問題があるが)バカにしていて、資格をとらないでいると、とんでもないことになる可能性がある。テキストの内容とか、試験の難易の問題は、また別として、とにかく資格は必要なのだ。  労働者(ガイドダイバー・インストラクターなど)に事故発生した場合の取り調べについて、 海上保安部は、安全配慮義務違反について、 警察 刑事事件になるかならないか。 労働基準監督署は、規則に違反していないかで、健康診断、一般健康診断が規定通りにおこなわれているかとか、計画書に不備はないか、器財の整備状況、その他の規則違反はないか、もちろん潜水士であることも重要である。 そのような取り調べの場合、潜水士テキストの記載事項は準規則になる。労働安全衛生法ワールドには、潜水については、潜水士テキスト以外に取り調べに際しての参考文献(証拠書類)はないのだから。その視点から潜水士テキストをみた場合、その製作課程からみても納得ができない。内容の適否はともかくとして、執筆者一人の意見、一人の考えが、事故発生の場合に潜水事業者の生殺与奪の力を持つのだ。潜水士テキストでは、レクリェーションダイビングについて、内容には、全く触れていないし、スクーバダイビングについての内容も、テキストの内容は、作業潜水向けのものだから、レクリェーションには適合しない部分がある。ガイドダイバー、インストラクターは作業潜水のルールで、お客はレクリェーションで潜る。その内容の研究は、今後のテーマである。  

0222 2月20日 波佐間

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2月20日 波佐間人工魚礁

ログ  date 2019  0220  体調 : 右腕 筋肉痛 重いものをもてない。 メンバー 山本徹 増井武 早崎 高野 G 荒川 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会 ③場所 波左間 ④スポット FP23 6m大型コンクリートブロック ⑤天候  薄曇り   ⑥風  南西 微弱 ⑦水温 17 ℃ ⑧透視度 20m ⑨潜水開始 1027  潜水時間 29分 ターンプレッシャー 80  最大水深 26,3m ⑪潜水終了 1056 ⑫インターバル プラン 60分  天気図によれば、朝のうちは、南が吹いていて、沖は波が高いけれど、波左間周辺は昼からは凪になるだろうと予想したが、朝から凪ぎ。薄曇りだが晴れて、気温も暖かく、ルンペンストーブも燃えていない。 カメラの準備をする。メインのつもりのAKASO7000の日付スタンプが入らない。電池を切ってもだめ、壊れたのだ。AKASObrave(最近買ったAKASOで、やや高い、9000円クラス、2000万画素がうたい文句だが、色が黄色く、色温度の修正もできない。はずれのカメラ?このクラスのカメラは、当たりはずれがある。)をメインにして、7000をマスクマウントのサブにする。  凪が良いので、沖の鋼製魚礁のどこかに潜りたかったが、ブイが流れてしまっているだろう、一応見にいって、だめならば、6mFPということにした。やはりブイはなくて、6mFP 流れはなくて、潜降はまあまあ。墜落はしないが、自分の思うようなボデイコントロールはできない。もう僕は、昔のようなダイビングはできないのだろうか。 とにかく、うえから覗き見ると20ー30cmクラスの縞のはっきりしたイシダイが5ー6尾。 海底まで降りて、下段に入る。小さい、20cmクラスのオオモンハタが1尾、逃げなかったのでスチルを撮ったがなぜか、撮れていない。 魚は少なく。閑散としている。透視度は良いが、魚の数は年間最低、2月は、そういう季節なのだろう。
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             オオモンハタ

 上と下の段の魚礁が重なり合う中心の込み入った隙間にいるイセエビを見に行く。この隙間の入り組んだ構造がよくわからない。そんなに大きな隙間ではないのだが、イセエビが4、カサゴ、キンチャクダイが入っている。 このあたりに群れているはずのメバルも1尾ずつ離ればなれに居る。カワハギの30cmクラスが2ー3尾
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 ログ  date 2019 0220 2本目 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会 ③場所 波左間 ④スポット ドリーム ⑤天候 晴れ ⑥風  微弱 ⑦水温 17℃ ⑧透視度 20m  インターバル 1時間31分 ⑨潜水開始 1227 潜水時間 29分   ターンプレッシャー 80 ⑩最大水深 23,6   m ⑪潜水終了 1256 ⑬チーム 須賀 山本徹 高野 増井 早崎 g荒川  ドリームは、6mFPよりも魚の数は圧倒的に多い。やはり、縞のはっきりしたイシダイが目立ち、イシガキダイもいつもと同じ、オオモンハタは、少なかった。メバルも少ない。 クロホシフエダイは、このあたりで、普通に見られる魚ののだろうが、これまで、あまり記録していない。
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        クロホシフエダイ 普通に見られる魚なのにこれまで注目しなかった。
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             カンダイ

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             カサゴ メバルのように上向きしている。

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    フェイスブックで、この二つ、上と下、どっちが好き、と聞いた。女性は上ばかり、男性では、下だった。上は9000円のウエアラブル、下は、オリンパスTG4 ウエアラブルはタイムスタンプが入っている。上の大部分がタイムスタンプの入った AKASO bra ve だ。

 ウミトサカのポリプの元気がよくて、すばらしく美しい。ドリームと呼ばれる所以なのだが、桜の花の満開、のようだ。これが、すべて動物。この魚礁に海藻はない。  戻ってきてからの映像、画像整理の結果なのだが、Olympusのスチルは、距離70cmに寄らないと色がでない。やはり、この魚礁でスチルを撮るという意志でとるならば、ストロボが必要だろう。FXライトも、50%にしているので、光の量がたりないか?100%にすれば、少しは色がでるだろうが、バッテリーの持ちが、2回の潜水をカバーしなくなってしまう。 AKASObraveをメインにしたのは、正解だった。Olympusで撮ったウミトサカのスチルよりも、braveの動画から切り出しスチルと同等にみられる。色温度はともかくとして、水の色が澄んでいる。臨場感がある。2000万画素は、それなりの効果があるのだろうか。魚の種と数を撮影するのが主目的で、その上に、臨場感のある画が撮れればよいのだから、これで十分だろう。 マスクに付けた、AKASO7000は、タイムスタンプがでないだけではなく、画像もボケている。 やはり、1月、前回の水没が、利いているのだろうか。タイムがでないのでは、サブ・マスクにも使えない。残念ながらこれは、廃棄か。  カメラシステムは、Olympusがスチル、その上にメインのウエアラブルカメラ、そして、マスクマウントでサブのウエアラブルカメラに固定して来ているが、次回、24日のお台場では、古いsj4000をサブにするかだが、そのSJの調子が安定していない。マスクマウントは取り付けたら画像の確認はできないのだから、安定していないといけないのだ。  要、チェック。
 6mのコンクリートブロック 1本目の魚類チェック、ドリームは魚が多くまだ未整理。
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0223 ライト・カメラ テスト

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 明日のお台場潜水で使うべく、カメラ(ウエアラブルカメラ)とライトの組み合わせテストをした。
テストしたのは、
①イノンの 700ru-ルーメンとSJ4000の組み合わせ。
②LED 90個を並べた中国製。これは、20日に早崎さんが波佐間で使っていたのを見て、次の日に注文したら、アマゾンなので、その翌日にはもう届いた。4200円、カメラは、SJ4000
③常用の、オリンパスTG4の上にbrave をのせ、ライトはフィッシュアイ FIX2500 を出力 25%で使う。
この三つを テストした。
 ①イノン700 小さくまとめた。これは、以前にもお台場でつかっていたものを少し改良した。
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 棒状のライトをステイ(ハンドル)にしたので、最小。
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 ②LED90(と略称することにした) ①と②のカメラはSJ4000である。
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           棒カメラのハンドルなのであと2段伸びる
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  画像として①と②にほとんど差はない。

 ③常用のFIX カメラはAKASO
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         オリンパスTG4が台になっている。
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 結論 何のことは無い。常用のFIXが一番、良いみたいだ。 しかし、このライトは75000円する。 イノンは 15000円 LED90は、4000円だった。ほぼ同じに写るとすれば、コストパフォーマンスは良い。
 自分用としては、メインが常用の③ サブに持って行くのとしては①のイノン、LED90は、不要ということになった。
 お台場で使ってみて、どうなるだろう。
 LED 90が、イノンと変わらなくても、4000円だし、棒にフィット下から、予備の予備で残して置こう。

0225 お台場、牡蛎とカメラテスト

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 歩けなくなったら這ってでも潜る、なんて、本当のことになってしまった。お台場の人工海浜の砂は、ヘドロ混じりで足に吸いつくので、足をとられて、転ぶ。転んだときに、タンクを背に敷いたら、亀が裏返しになったようなもので、起きあがれない。まあ、アザラシだって、陸上では這っている。 今日のお台場のテーマは牡蠣、マガキだ。そして、そのマガキを撮影するカメラのテストをする。 マガキ、遠い遠い昔、水産大学で何か学んだ。牡蠣は、人間の食べる貝類のうちで、最重要種なのだ。庶民、つまり貧乏人にとって、アワビなど、海女さんには悪いけどどうでも良いのだ。この前、アワビを食べたのは何時だっけ、10年は食べていない。回転寿司でアワビを食べても、アワビか?と疑うから、アワビは食べない。牡蠣は?ついせんだって、階下の「ひまわり」で、魚河岸直送の牡蠣のカキフライを750円で食べた。期待を裏切らない。750円の価値はある。今日も食べたい。ローマ時代も貧乏人から皇帝まで、牡蠣をたらふく食べた。
 で、食べることは、ともかく、牡蠣とはどんな生き物か、どんな貝か、貝?なのか、水産大学で習ったはずなのに、すべて忘れている。「春先に生まれた貝は、豊かな(富栄養)のお台場のプランクトンを食べて、まるまると育って、秋には食べられる大きさになり、お台場の牡蠣は、食べられることはないから、死ねば牡蠣殻となって、小さい蟹やギンポの住処になる。」 本当か?
 牡蠣は小さい時代雄で、大きくなって雌になる、雌雄同体である。食べるマガキのほとんどは養殖で初夏に殻に付着した稚貝を秋に剥がして吊り下げ、次の年の秋に採取する1年もの、もう一年吊す2年もの、さらにもう一年吊す3年ものがある。天然の牡蠣は砂泥の海底に浮かぶように、牡蛎の殻にさらに牡蠣がついて、もしも、死ななければ4年、5年と巨大化する。
 天然の牡蠣の生死を分ける要因は?、知らない。養殖の場合は、病害、塩分濃度、わざと干出させて、強いものを残したりする。
 お台場の牡蠣は、殻にホトトギスガイ、フジツボ、付着生物を付けるが、そんなものを付けると太らないし、死ぬ要因にもなるので、養殖では取り除かれる。掃除される。やったことがないから、知らないが、養殖もけっこう手間がかかるのだろうと想像する。海の農業だから、農業なみに大変だろう。
 目下のところ、牡蠣についての知識はこんなものだ。今後、さらに充実させる予定ではいるが。 お台場の、僕たちのテリトリーの牡蠣、どんな風に、何処に、どの程度の密度、どのくらい(数)なんにも知らない。それを調べようということだ。僕の調べ方は、撮影だ。本当は採集してきて目方を量ったり、寸法を測ったりするのだが、それは、しない。できない。体力、時間、お金、根気がない。ざっと撮影し観察して、何がわかるか。 密度と、生きているか死んでいるの割合などを、測量棒で見ようとおもった。が、本日の忘れ物、「測量棒」だ。
 仕方が無いので、50mの巻き尺、これは僕のダイビングの基本だから、バッグに入っている。これを、三ツ橋君に引いてもらった。また、山本徹さんが、ライン引きのトレーニングをするという。このラインを引く位置だが、干潮線の磯場の石と砂泥斜面の境界に引いてもらうように頼んだ。このラインに沿って巻き尺を引く。ラインは100ー110mぐらいだから、50mは半ばというところだ。ログ  date 2019  0224 
 体調 右腕 筋肉痛 幾分良くなったが消えない。 重いものをもてない。 ①目的:タイトル 東京港水中生物研究会
  牡蠣の撮影調査
 ③場所 お台場
 ④スポット 
 ⑤天候  快晴  
 ⑥風  
 ⑦水温10  ℃
 ⑧透視度 50cmー2m  ⑨潜水開始1041     潜水時間42  分 ターンプレッシャー 120
 ⑩最大水深   2m
 ⑪潜水終了 1123
 ⑫インターバル プラン
 ⑬チーム 須賀 風呂田 多留 尾島 ママ 山田臼島 三ツ橋 山本徹  9名
 ⑮残圧 100
 ⑯適要  
 
 カメラは常用のOlympus TG4にウエアラブルカメラを載せたもの、LED90個のライトを棒の先に付け、その上にウエアラブルカメラを載せたもの、イノン700ルーメンにウエアラブルカメラを取り付けたもの三つのテストである。前回のブログにその机上テストについて述べている。 午前の潜水では常用のOlympus TG4とLED90をテストする。
 尾島さんに助けてもらってエントリーする。LED90には、SJ4000のブラックボディを載せている。
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 またまた忘れ物、Olympus TG4の上にウエアラブルカメラが載っていない。落としたと思い。尾島さんに捜索救助を要請するが、最初から載っていなかったと言われ、忘れ物とわかった。
 巻き尺の目盛りが写るように、巻き尺を嘗めるようにLED90で動画を撮り進み、生きている(少し口を開けている牡蠣が居るとOlympus TG4でスチルを撮る。これで、動画とスチルの比較ができる。もちろんOlympus TG4につけたFIx2500ライトの25%出力との比較もできる。
 50mのライン上は、牡蠣はまばらであり、50cm間隔に1ー2個体、生きている個体は50%ぐらいか。透視度は1m前後だが濁っている。撮影距離は40cmだから問題ない。
 戻ってからの撮影結果の評価もここで述べてしまうことにする。SJブラックも悪くないが巻き尺の目盛りはOlympus TG4の方が、やや少しシャープである。やはり、常用のOlympus TG4の上にウエアラブルカメラか、、古いSJブラックがAKASObraveと遜色なくよかったので、このどちらかを載せるのが、現時点で、僕の持っているうちで最強ということだ。 写真 を見るとl。32m地点で30cmの間に生きている牡蛎の個体が 3個見える。
 
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下の写真がオリンパス
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 50mの巻き尺ラインが尽きる、すなわち50mより先の地点で、透視度が突然のように良くなり、牡蠣も密になる。生きている個体も多い。透視度が良いところを牡蠣が好むのか、牡蠣が多いから透視度が良くなるのか?中村征男氏(来月3月は撮影に来るというので、聞いてみよう)ならば、牡蠣が水を浄化しているというだろうが、僕は、わからない。
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 先に進み、80m辺の沈木を越して、コーナーに近くなるとさらに透視度が良くなり、牡蠣も増える。
 その先の杭の列あたりは濁っていて撮影にならなかった。


 午後、二本目、といってもタンクの残圧は100だから、透視度が良い50m点あたりまで、行けばいいとした。
 カメラはLED90にAKASO braveを付けイノンにSJ4000の白ボディを付けた2台を持った。
 巻き尺は三ツ橋君が撤収してくれたので無い。撤収してくれた居なければ、二台のカメラを持って巻き尺を巻かなくてはならなかった。彼女のダイビングは上手になった。聞けば、理科大に戻って、アオサ研究をしてくれるとか。 
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 50m点あたりで、イノンを海底に置いて、自分の姿とLED90を写した。大きな3年もの?の牡蠣を手にした。お台場の牡蠣は、付着生物、ホトトギスガイなどがびっしりついている。

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 戻り途、少し深く、2m深度をとった。この深さの牡蠣はほとんど全部死んでいる。死んでいるということは、生きていた時期もあったということ。なぜ、全部死んだのか?

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トゲアメフラシ 2個体



 トゲアメフラシが砂とヘドロの境界あたりに集まっている。これもなぜ?わからない。
 意外なことにLED90の使い回しがよかった。イノンは小さすぎるのだ。
 お台場では、常用Olympus TG4かLED90、載せるウエアラブルカメラは、AKASO braveか、sjブラック、メインはOlympus TG4でサブがLED90というところだろう。
 イノンは小さいのでBC.のハーネスに吊り下げておくのも良いかと。そして、座りが良いので、ちょっと置いて自撮りとか、生物の長時間(30分とか、餌を置いて、後から回収)撮りができる。
 人工魚礁では、やはりスチルも撮りたいので常用Olympus TG4になるだろうが、棒の先カメラも悪くない。
   
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 二本目ログ
 ①目的:タイトル 東京港水中生物研究会
 ③場所 お台場
 ④スポット 
 ⑤天候  快晴  
 ⑥風  
 ⑦水温  ℃
 ⑧透視度 m ⑨潜水開始1310     潜水時間30  分 
 ⑩最大水深 2m
 ⑪潜水終了 1340
 ⑫インターバル プラン
 ⑬チーム 須賀 風呂田 多留 尾島 ママ 山田臼島 三ツ橋 山本徹  ユニット
 ⑭バディ 
 ⑮残圧 50
 摘要 カメラテスト LED90とイノン

 

ダイビングの歴史 60 マリンダイビング 1980-11

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1980年
 ぴったりと1980年、何月何日ではなくて、1980年頃、スクーバダイビングのターニングポイントだった。
 72年頃から出てきたBC.がレジャーダイビングでは定着した。(スタビは76年からだから、まだまだ少数派だったっが)自分などが、BC ダイバーになるのはもう少し後になるが。
 自分の仕事も転機だった。1980年、釜石湾口防波堤工事で、水深60mへ混合ガス、船上減圧のシステム潜水を、実際の作業潜水工事としては、日本で初に近かった。混合ガスを使うことは高圧則では特別扱いで、減圧表も現地の基準局に届出したりした。
 テレビ番組の撮影もそろそろ多くなってきた。
 自分の仕事、自分のダイビングも移り変わっていた。
 少し厳しくいうと、それまでトップをはしっていた僕のBCなしのダイビングも技術的には終着駅についた。それまでは、自称、神業に近かったが、以後、1990年頃までは、水平飛行、並みで、やがては下り坂になる。最近では急降下、やがて墜落か?


 レジャーダイビングについて、今、ダイビング人口をこれまでのCカード発行の累計で言うのだが、その原点、ゼロポイントが1980年だ。すなわち、それまでのレジャーダイビングはゼロ、カウントされない、
 1982年に今のPADIジャパンがうまれるのだが、1980年頃から、日本国籍の指導団体、僕がやっていた全日本潜水連盟から、米国籍のPADI、NAUIに大勢が移行しはじめる。
 そんな1980年、マリンダイビングの11月号、
1957年に始まった、日本潜水科学協会の「どるふぃん」、最終号の1965年まで、一冊ずつ解説して追ってきたが、それと同じスタイルで、この1980年11月号を、見てみよう。何回かの連続になるが、ダイビングの歴史 再開の助走としては、対象として見ていくもの(雑誌)があるので、書きやすい。
 そして、おもしろいと思う。スリリングでもある。当時のダイビングについての考え方、状況が凝縮している。
実はマリンダイビング誌は、僕の所属リーグではなかった。つまり、ぼくの書いたものは載せてもらえない。ぼくは、海の世界のオーシャンライフと、ダイビングワールドがホームだった。
 でも、この、1980年、11月号のマリンダイビング資料として第一級である。そして、このころのこと、懐かしがって見てくれる人も多いはず。そのころ、つまり40年前、ダイビングを始めたダイバーたちがまだ多く残っている。最近、ぼつぼつ、寂しくなってきているが。

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 まず、表紙から、「潜水事故大特集」だ。そのころの潜水事故のすべてがわかる。そして表紙のモデル は?ロックかなにかのスターかと思ったら、モルジブに遊びに来ていた普通のお客、舘石昭氏撮影、ちょっとしたフェイク。
このときの編集長は、鷲尾君だ。彼も一つの頂点にいた。発行人は舘石昭ボス。
 広告について
 ここまで、ダイビング誌をコピーするとき、記事、あるいはトピックスだけを追っていて、広告部分をあんまり熱心にはコピーしなかった。最近、広告部分こそが歴史を追うのに重要と考えるようになり、全ページをコピーしている。手間がかかるけど。
 広告を見ると、本当におもしろい?懐かしいのだが、全部解説するのも大変だから、思いつくままに、それでもかなり大変。記事の解説と平行して、※印で見ていくことにする。
 順を追わないと、なにがなんだかわからなくなるので、ページの順を追う。
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 ニコノスは、だめなⅣ型だ。
 エキサイティング マルジブ モルジブではなくてマルジブなのだ。グラビアは今のダイビング誌と同じようなものだが、
 
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 サンファンの広告がカラー1ページ 
 パプアニューギニアは、40年前からだったのか?
 
 そして、グランプリ、この10年。
 この部分は、あとで舘石さんの解説がある部分に移動して見ることにする。順が変わることになるが。




 
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「やったぜ!8000億財宝引き上げのヒーローたち」
 実はこの記事があったので、取りのけてあって、書棚に残っていたのだ。懐かしい顔が並ぶ。森さん 玉内さん。この二人が仕掛け人。
 ダイバーでは高橋さん。写真で顔を見られるのが貴重だ。

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 鷲尾君は、小説「ナヒモフ号の秘宝」を書いたが、小説などにせず、実録、ドキュメンタリーにしろ、といいたい。今となっては、命を取りにくる奴なんて居ないのだから。本当のことを書いても大丈夫、それを書けるのは君だけなのだから。
※伊豆海洋公園の広告、此の写真、印象に残っている。

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 さて、「潜水事故大特集」

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 一応、事故に至る経過を述べている。その経過の中に、事故の要因が潜んでいる、というスタンスには、昔も今も賛成。
 五つの事故を取り上げ経過、解説している。そのどれもが、初心者に近い人が、バディと離れた、あるいはバディによるレスキュー不能のために命を落としている。
 そのいずれもが、Cカードの講習制度が向上して、ガイドダイバー、あるいはインストラクターが同行して、そのガイドダイバー、インストラクターが優れていれば防げたものと考えられる。それでは、現在、Cカード講習の精度があがり、インストラクターの技量も向上して事故がなくなったかというとなくならない。どこかで、40年前とおなじようなダイビングをしている人がいるからだとも考えられる。そして、レベルがアップした分だけ、行動半径が拡大した。

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※O式ドライスーツ、今もゼロがつくっている。小川君が考えたのでO式だった。





 事故大特集の芯であり、今読んでもためになる?「ふかし治療は是か非か:潜水病を考える」
 その一「ふかし治療で、私は死にかかった:植木利勝」植木君はよく知っている。松山で何度かおせわになったが、この死にかかったふかしの後だったと思う。
 これは、本当にでたらめな「ふかし」をやって症状を悪化させ、再圧室のある病院に搬送され、治療の結果、治った。よくも助かったと思う。話は別だが、ワンマンチャンバーを持っていたのだが、自分が中に入り、操作を他に任せて、症状を悪化させた例もある。九州の川俣君で、車いすの生活になってしまった。


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 その二は、「私は減圧症を、ふかし治療で克服した。」清水宏、この人は知らないけれど、ふかし治療で清水さんを治した門多さんはよく知っている。植木君も門多さんも全日本潜水連盟の仲間であった。
 死にかけた植木君は、ふかし治療は絶対に非である。助かった清水さんは、是である。



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 このまとめ的に、そして実例の説明もしている「ふかし治療を医学的に解明する!」全日本潜水連盟 安全対策協会会長 岸部ススム 
 岸部先生は現在の全日本潜水連盟のたしか名誉会長であり、この当時は秋田の大きい病院の院長先生で外科のお医者さんである。僕自身の人生でも、岸部先生のアドバイスに従っていればよかったとおもうようなこともある。尊敬する友人だ。
 これは、岸部先生の指導(電話指導)もあって、激烈な痛みの減圧症のふかし治療に成功した例であるが、再圧タンクのある札幌までは遠い茅部であったために「ふかし」をおこなった。現時点で振り返ってみれば、北海道という地域の寒さを考えれば、遠くても札幌まで行くべきだったと思われる。危なかった。
 僕自身の体験(インドネシアとトラック)から言えば、飛行機でなければ再圧施設にたどりつけない。水温が暖かく無理無く水中にとどまれる場所であれば、ふかしは是というか、緊急避難としてありだと思う。
 とにかく、ふかしの実例について、現役の医師がかかわって成功し詳細な報告をした貴重な例だと思う。
 




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「潜水事故とダイビング団体との関係は?」北島敏勝
 北島さんは高等学校の先生で、定置網ダイバー(深海ダイバー)の経験者であり、海中開発技術協会の理事もされたことがあり、僕たちが日本潜水会・全日本潜水連盟で集めた事故資料を整理してもらった。そのときの資料、その延長線上で、この記事を書かれたと思う。
 なおここで言う、ダイビング団体とは、ダイビングクラブのことであり、日本では398のダイビングクラブがあった。(北島さん調べ)このころが、ダイビングがクラブで行われたピークだっただろう。ここに、ダイビング人口は50万と書いてあるが、どうだろう?。
 最初に述べたように、1980年はCカードの原点、ゼロ点で、これ以前はCカード人口として数えられていない。そのゼロ点で50万はちょっと無理か?(後で、この人口問題にはもう一度触れたい)
 書いている文は抽象的であり具体的なまとめがないが、団体(クラブ)数398 アンケートに答えた団体が168で、会員数が12473人 指導員数(インストラクターとは呼んでいない)474人 集めた事故の数 130例、死亡例が72である。この数字は意味がある。
 この統計に使用した資料(今残っているのは一部だが)は、僕の手元にある。

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 北大路欣也 インタビュー どうでも良い。


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 バカでもジュンでも撮れる 舘石昭
 そういえば、和田じゅん マリンダイビングのトリックスターだったけど、今はどうしているだろう。

                   つづく

0302 ダイビングの歴史62 マリンダイビング 80年11月 -2

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 フォトコン 第6回というから、1976年? 一位は谷島幸一さん

 フォトコン入賞の秘訣はこれだ! 舘石昭 カラーグラビア ページで、この10年、ということは、70年からはじまったのこのコンテストの1位をならべている。
 で、ここにそのグラビアを持ってきた。
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 写真を見て、良いと思うのはその人の感性であり、感性には、最大公約数はあるだろうが、個々のものだ。そして、僕の感性は、絵、絵画はある程度の好き嫌いがあり、好きな絵は良いとおもう。写真も、絵画的な構図で理解することはできる。一つのストーリー、物語を作ってあれば、それもわかる。一冊の本、があって、その中の一枚ならばわかる。また、たとえば益田一というひとの写真はわかる。最近で言えば鍵井君も、古見君もわかる。中村征雄も卓也君もわかる。プロと言われるような人については、だいたいみんなわかり、わかった上での、一枚の好き嫌いは言える。不特定多数の応募者の写真を見て、そこから選ぶとすれば、それは、一応の技術水準に達して居る上で、絵画的な構図と後は、感性の問題だろう。

 ここで写真論を展開するつもりはないが、10年分並べてみると、並べたことで見えてくるものがある。全体としてみると、バラエティに富んだ とても良い写真集になっている。
 なお、このグランプリは今も続いていて、何回になるのかな、50回?これはもう一つの歴史であり、文化である。マリンダイビングという雑誌が、日本の水中撮影の発展に果たした、功績は大きい。
 6回の1位に谷島幸一君が入っている。5回が、伊藤勝敏さんだ。

 
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「潜る権利?は、ここまである!」松田政行(弁護士)この年、1980年、真鶴半島が全面潜水禁止になり、それを受けて、ダイビング誌では何回か記事がくまれ、マリンダイビングでも、これがこの問題の松田さんの記事の最終号としている。
 
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 松田さんはまず、密漁もしない、漁業の妨げにならないダイバーの潜水を禁ずる権利など漁民にはない、という工藤昌夫さんの意見を紹介する。工藤さんは、このマリンダイビングにそのような意見を書いていたのだ。
 それはそうだけれど、地元の人がこぞって反対しているところに潜りになどは、だれも行かない。漁民が全面禁止と言えば、法律的にはともかくとして、全面禁止になってしまうのだ。
 漁場を公開する公園制度というのもある。そろそろ業界もまとまって一つの法人になったらどうだ、とも言っている。
 僕の立場からこれを読めば(当時)海中開発技術協会という法人があり、それに全日本潜水連盟が合同することによって、そのような形になる。そのようにしよう、と働いたことが、僕の生涯の不覚となるのだが、まだそのことはわかってはいない。
 そして、松田さんは「漁場利用調整協議会」というものをここで提案している。レジャーダイビングが漁場を利用するというネーミングはおかしいのだが、水産庁は遊漁を対象として、そのような協議会を作っていて、それにダイバーも出て行けばという提案だ。
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 次の記事」真鶴レポート」で、全国ダイビングスポット利用者会議設立! この問題に対処すべく、全日本潜水連盟、PADI、NAUIと海中開発技術協会が結束してこれらの問題に対処することになったことが述べられている。
 僕はこの会議には出ていない。全日本潜水連盟としては、PADIの椎名勝巳がでている。椎名のPADIは、全日本潜水連盟の一員なのだ。役員を見ると
理事 議長が椎名勝巳、理事、副議長が荒川保(PADI)理事 吉田一心 理事 関谷宗治(たぶん海中開発技術協会から出ていたと思うが、スクーバプロだ)監事 宮下高行(PADI)事務局長が弁護士の松田政行さんだ。
 そして、第一回真鶴町 漁協、潜水問題協議会が開かれる。そのメンバーは、漁協側が宮川組合長はじめ漁協理事8名、ダイバー側が、上記利用者会議の椎名荒川、松田、吉田、そのた地元の後藤道夫、志村健一郎が出席、立会人として県水産課の佐藤技官が加わった。
 結局のところ、この翌年の81年に、後藤道夫が中心になって話をまとめて、真鶴問題は解決する。
 地元の真鶴ダイビングセンターが解決しなければ、ダイビングセンターはやって行かれない。 僕の目からみれば、利用者会議だとか作らなくても、地元が解決する問題だと思っていた。
 この真鶴問題が、ダイバー対地元漁協の紛争の公式な、最初で最後だった。
 以後は、地元の漁協と協力、あるいは漁協自身が経営に参画する、ダイビングサービスができて、これによって、レジャーダイビングが行われることが通常となって、漁協とダイビングサービスの協調、共同が育っていく。伊豆海洋公園についてはまた別のストーリーがあるが、結果は同じである。
 そして、ダイビングのタンクは、すべてダイビングサービスでレンタル、あるいは充填管理するようになり、ダイビングサービスを何らかの形で通さなければ、レジャーダイビングはできない形になり、漁協とのトラブルはなくなる。つまり、漁協対ダイビングサービスの問題になり、漁協が、直接間接にダイビングサービスの運営に関与する例が多くなり、ダイビング指導団体の関与はなくなり、解決された。
 回り道もあったが、必要な回り道だったのだろう。

0304 ダイビングの歴史63 マリンダイビング 11月号-3

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「ちびっ子ダイバー」武田康弘さんという方がやっている屋外教育である。武田さんに僕はお目にかかった記憶が無いのだけれど。
 我孫子児童教室で、夏季キャンプ、77年は城ヶ崎、78年神津島 79年房総の根本(白浜)でキャンプと海辺での潜水遊びをやった。


 子供でも、今の浮力体を着けたスノーケリングとは全く違う。ヘッドファーストで潜って水深5mの石をひろわせる。おもしろいのは、最初の段階では危険なのでフィンを履かせないことだ。磯で転んで怪我をしやすいからだという。もちろんライフベストは着けていない。運動靴を履いてツービートで泳ぐ。スノーケルは、鬼怒川のサミーをつかう。これで、毎日お風呂でスノーケルクリアーの練習をする。
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 最終的にはフィンを着けるのだが、そのころには、たぶん、いっぱしのスキンダイバーになっているのだろう。
 今2018年、そのころの子供は50歳になっているはずだ。どこかにおいでになるだろうか。
 現在まで、続いていたとすれば、すごいことになっていたのに、


 しかし、ジャケットを着けるルールが一般になっている今は、こんなことはできない。もしもの時に訴えられたら大変なことになる。
 
 結局、広告、については、別に見ることにした。



 NAUIのダイビングスクールブルーラグーン
 講習料は40000円。1980年だったら、ずいぶんと高く感じたろう。

 タートルは、マスクレンズの度入れから始まった。後に銀座で撮影用品のショップ。オーナーの荒川さんには、仲よくしていただいた。ちょっとしたアクセサリーをつくるのも上手だった。

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NAUIのダイビングスクールMAUI
 コースの値段を見ると、
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密かに、この足だけの人 誰?


 sea & seaが、ハウジングではなくて、作ってしまったカメラ 小さいストロボも用意されている。どんなカメラだったのか、ほとんど記憶にない。35mmフィルムのカメラだったのだろうが。
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新宿の海 DO スポーツのショップ。
おそらくは、都内で一番売れたダイビングショップのはずだけど、
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けっきょく、水深の深いダイビング専用のプールというのは、水泳よりも率がわるい。たとえ機材販売を同時にしたとしても、割に合わなかった。
商売として、ダイビングはスイミングよりも難しい?のだ。
まだ、1980年には、DOスポーツは、ダイビングショップ部門も勢いがあった。
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テンノット
これも、DOスポーツがやっているツアー会社で、フィリッピンのエルニドがベース、僕はエルニドに一度も行っていないが、語ることが山ほどある。

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アクアク 決算大バーゲン 2ページ大の広告を出すところは、成功しているショップだ。
アルミシリンダー 46000円だ。
計器類のショーケースの真ん中に先日のシンポジウムでも紹介した。Sプロの画期的商品である減圧計が置かれている。ほかのダイブコンピューターは、まだ姿を表していない。
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海賊の館 この人誰だったか思い出せなくて。そして、おお!三宅島海洋開発 定宿は、豪華プール付き、(三宅島でプールがあるのだ)DOスポーツ関連のアイランド
僕の三宅島ベース 今年2019年、こそは三宅島に行かなくては、三宅島が遠い島になってしまう。

大江戸海士 NAUIとPADI両方のマークを並べている。1980年には、まだ、それは有りだったのだ。
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全日本潜水サービス 笹部さんのお店で、世田谷区代沢。今、親しい斉藤真由美さんは、ここのお客さんだった。

ついでと言っては失礼なのだが、OKアクアラングサービス・たぶんこの後の2000年の月刊ダイバーにも出てくるので、その比較。オーナーの土山さんと、小さかった娘さんの写真が、ここにも、他にも方々に出て、有名になった。
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NAUIそのものの広告 四谷の三栄町にあった。田口君がいた。社長は田中さんの時代。
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 ブルーサブが2p見開き、カラー広告と、ずいぶん広告を出している。
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 並んでいるBC.、胸掛け式が主流、ジャケットが出始めということがよくわかる。レギュレーターは、すべてシングルホースだ。
 ニコノスの15mm超ワイドが140000円、専用ファインダーが35000円、足せば175000円だ。sea & seaの、それに見合う超ワイド20mmが50000円だった。そうだったのだ。
 ここでは、ニコノスⅢ型もⅣ型に並べて、売っている。65000円 Ⅳが75000円だ。Ⅲの方が好評だったのだ。

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 PADIの広告、このときはまだ、PADI潜水指導協会で市ヶ谷の春日マンションにあった。現在のPADIは、1982年からだ。

 これも大きなお店(広告) シーラブ NAUIの講習だ。
ダコールのレギュレーターを正面に打ち出している。
今、ググってみたら、同じマークでは2016年までのスケジュールしか出てこない。
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 トウキョウアクアラングサービス
 全日本潜水連盟の講習をやっていた。内藤さんの時代だったと思う。僕との関わりは、有為変転、これだけで一つの歴史だ。いずれまた。
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 NDSのレギュレーターも今は歴史だ。

 そして サザナミ 全日本潜水連盟の関東支部長をお願いしていた。セブ島にベースを持っていた。
 そして、この翌年1981年、雲見でタンクの爆発事故を起こす。サイパンにまで、ベースをつくっていたのに、本当に悲劇だった。この事故についても、また別に詳しく書くけど、オーナーの喜多さんは、全日本潜水連盟の関東支部長だった。

、           
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 シーライフ シーラブとよく混同していた。どっちもつきあいが無かったので。
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 Buddy 菅俣さんのお店。     東亜潜水も昔も今も変わらず、お付き合いの広告を出してくれる。
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東京ダイビングスポーツ、日本潜水会が、全日本潜水連盟の支部になっても、最後まで日本潜水会の看板をあげてくれていた。大沼さんのやっていたお店。繁盛していて、カード発行数も多かった。
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 最後の裏表紙の裏 ハリサン 今は廃業されてしまったが、僕には、想いがたくさん残っている。他のメーカーよりも安い価格で、ほぼ同等のものを作って売っていた。安売りはハリサンから始まった。

 さて、こんな風に広告を並べてなんになる。何にもならない。単なるノスタルジーだろう。
 そのとおりだけど、それが時代背景なのだ。一番最初に書いたけど、1980年はターニングポイントだった。その時の時代背景、ああ、あんなお店があって、あんな値段で、あんなものを売っていた。とともに、機材販売から、次第に講習とか、ツアーに商売の、広告の軸が移りつつある。
 この広告の時代背景のうちで、真鶴潜水禁止問題があり、解決の方向に向かい、レジャーダイビングと共同漁業権漁業の、折り合いが生まれてくる。そして、一方では、ナヒモフの金塊のサルベージ
 減圧症についてみると、ふかしが是か非か、そしてダイブコンピューターはまだ普及(ショップで売られて)いない。
 ダイビングの指導では、パディ、ナウイ、特にPSDIのC カードに時代が移りつつある。
 ダイビングのスタイルも、救命具そのままの胸かけ式のBC.からスタビジャケットに移る。これは大変革なのだ。そのことについては、また別に書きたい。長くなりすぎるから。
 そんなことで、進行させようとしている「ダイビングの歴史」というジクソーパズルのピースを作ろうとしているのだが、
あんまりうまく入っていないけれど、自分として、面白いので、もう少しこの方向を追う。
 次回は2000年、1980年から20年後の月刊ダイバーをみる予定。

0110 ダイビングの歴史 54 昭和史、平成史

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ダイビングの歴史
 久しぶりに歴史書を読んだ。久しぶりと言うよりも、専門(海とか船とか漁業)以外の歴史書を読んだのは、あんまり記憶に無い。
他に歴史について読むのは、教科書の類、予備校の先生が書いたわかりやすいダイジェスト、絵や図版の多いムックの類、あとは小説である。小説は、塩野七生、司馬遼太郎の類はほとんど、そして、ギボンのローマ帝国盛衰史、そういう類とは違う「昭和史」 
 昭和史 上 1926ー1945 下 1945ー1989
 中村隆英
 初版1993 読んだ文庫は2012 東洋経済新聞社
 著者の中村隆英(たかふさ)は東大名誉教授で著書に「昭和経済史」「戦後日本経済」「現代の日本経済」など、
 経済史が専門の先生が書いた。
 
 例によって ブックオフの108円コーナーで手に取り、迷わず買って読み始めた。読了しなくても良いと思っていたのだが、しっかり読了する事が出来た。経済学史が専門の東大名誉教授の書いた本だ。だから、経済の分野がしっかり書かれている。戦後の部分は経済学が主のようだ。経済学などほとんど知らないが、それでも80%ばかりは、解することができた。僕のような経済学の素人が読む経済学史本として名著だと思う。専門外で、小説ではなくて読み終えることができた本は、たいてい名著ということにしているが。名著である。
 読みながら、自分が書こうとしている「ダイビングの歴史」のことを考えた。 なぜこの「昭和史」を読み終えることが出来たかというと、昭和は、自分が生きてきた、激動の時代だから、自分の視点があって、それに思いを重ねて読むことが出来た。自分の視点と言ったところで、幼児時代から、小学生、中学、高校、大学、そして就職、独立という時代だが、大学の時はもちろん、小学生の時であっても、自分の視点というものはあった。その視点があったからこそ、身近に感じておもしろく読めた。 自分の生きた時代の歴史は、興味深いし、考えることが多い。ダイビングでも、1956年以来、スクーバダイビングの今日ここまでのすべての時代、歴史を全部生きたのだから、それを書き残すことに大事なことだと思う。
 たとえば、僕のレジャーダイビングについては、日本国籍のダイビング指導団体を作り上げ、米国国籍の団体とのせめぎ合いであった。現在では見事に敗軍だが、その視点から書いておくことは、どちらの側からも興味があるだろう。もちろん、逆の視点からは違うという意見も多々あると思うが、その「違う」という考えを引き出すことができれば、それはそれで成功だろう。 僕たちの前の時代、ジェネレーションというと、菅原久一さんらだが、菅原さんがもう少し書いて置いてくれたなら良かったのに、と思う。
 だから、僕が書いておくことは、僕の次の次の時代の人の役に立つのだろう?
 今ここに書いていることは「昭和史」とは全く関わりのないことなのだが、その関わりのないダイビングの歴史のことを考えながら、「昭和史」を読んでいた。 さて、自分のダイビングの歴史だが、現時点での構成だが、あくまでも現時点であり、これから二転三転するだろうが、とにかく
 大きく三つにわけた。 
 一つは、索引的年表と、やや詳しく内容を記した。年代記とでも言うような部分。
 次が小史の部分、小史といってもこのままだと、小さい本一冊分ぐらいある事故の歴史、日本国籍指導団体盛衰記 共同漁業権漁業とダイビング、水中撮影小史、などが大きくて、学生のダイビング、高気圧作業安全衛生規則の歴史、ヘルメット式、マスク式、環境保全活動、パブリック潜水、テクニカルダイビング などがやや小さくて続く。
 最後の一つがコラムで、上の小史との境界が定かではないのが、年表部分にはめ込むようなコラムである。
 体裁としては年表、年代記部分と小史の二部に分かれるだろう。 ダイビングの歴史も自分の視点と主張があって良いし、それが大事だと「昭和史}を四で確信した。読者が、これは違う、と考えたとすれば、それで、その歴史書は成功している。読者に考えさせたのだから。
 自分の生きてきた、携わってきた時代、を歴史として書くことが重要であり、書くことが最後の自分の使命であると思う。そのことを、「昭和史」という自分の生きてきた時代を書いた歴史書をよんだことで確信した。
 歴史とは、客観的な最大公約数でなければいけないのでは、と思い悩んでいたところが吹っ切れた。日本にスクーバダイビングが入ってきた1953年のすぐ後の1956年からダイビングをはじめて、そのぜんぶを潜り続けているのは、自分だけなのだから。 ただ年表の年代、何時?はできる限り正確でなければならないし、客観的でなければいけない。小史は主観が入る小説のようなものだが、それでも出来るだけ正確を期したい。小説ではないということだ。
 
 「昭和史」を読み終わったので「平成史」を続けて読みたいとおもったところで、本屋で新刊「平成史」を見つけた。
 佐藤優・片山杜秀 小学館2018年4月刊
 片山杜秀は慶応大学法学部教授で思想史の研究者で、音楽評論家としても定評がある、ということ。佐藤優の方は、あまりにも多数の本を書いていて、多数書いている、多数読まされているというだけで、もう一冊買いたいとは思えないのだが、この本のように、対談形式で、おもしろくわかりやすくまとめることの職人である。「昭和史」よりも格段に読みやすいはず。僕は今、スキンダイビング・セーフティの改訂版で、4人の対談をやっている。
 そして、この本、毎年1pの割合でトピックスを並べて、その解説を対談でやっている。ダイビングの歴史も毎年1P年代記をやろうとしているので、そのまとめ方の参考になるかもと思って買った。
 買ってすぐに平成11年(1999)まで読み進んでいる。予想通り読みやすい。
 ダイビングの歴史も時代背景無しには作れないので、「昭和史」と「平成史」は参考になる。この本も書棚に並べて置くことになる。
 買って良かったということだ。 ※もう、半分は読了した。当たり前だけれど、佐藤優の本だ。よみやすく、おもしろくてどんどん進む。平成史だから、知っていることの羅列で難しくない。それで良いだろう。

0105 ダイブコンピューター今昔「

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                   i300

日本水中科学協会のシンポジウムで、「ダイブコンピューター今昔ものがたり」があり、ダイブコンピューターについて、アンケートをお願いしている。
 今使っているもの、これまで使った機種を古い順に書く;

 今使っているものについては問題ないけれど、これまで使った機種、これは結構大変で調べなくてはならない。
 大事な問題だけれど、みなさん、書いてくれるかどうか?
 無記名のアンケートなので、せっかくしらべたので自分の分をここに書いておく。ブログに載せておけば次にダイビングの歴史などに書くときに探す手間がない。

 現在使っているダイブコンピューター
日本アクアラング i300
スント ソリューション  それぞれの良いところ、弱いところ。
 良いところは  安い。
 ダメなところは、i300 はやすいだけあって、見にくい、操作がやりにくいが、必要な機能は水深と時間、ログ機能 セフティストップの時間がわかれば良いだけだから、別に問題ない。
 スントソリューションは1996年、60歳の記念100m潜水に着けてもぐったので、その記録が99.4mMAX と、でているので 大事にしてきた。
 二つ着けて潜ると同じ数字がでるので、当たり前だけど、偉い。
 次に歴代のダイブコンピューターを古い順に。
 最初に使ったのは 1987 年 アラジン
次が pro アラジンで、次が スントソリューション 1996年、60歳を記念して100m潜水をしたときに、そのころスントを売り出していた、岐阜のエアリイからいただいた。
 2007年にスントのモスキートを買って、これは腕時計式に使うと格好がよくて好きだったのだが、僕の持ったダイブコンピューターのうちで、ただひとつこれだけだが、自然死した。ある日動かなくなったのだ。バッテリーは替えたばかりだったのに。
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スント ソリューションとモスキート
 義理があったので、ずっとスントを買っていて、次がスント D4 スキンダイビングの計測が出来るので買ったが、そんなに深く長くは潜らないので、あんまり意味はなかった。TUSAの800を今村さんにいただいたので、あまった。ちょうどバッテリーも切れたので潮美にあげた。
 この800は、最高だったのに、その800をお台場で盗まれた。四角くて大きいので、腕から外すことが多くて、外して台の上に置いてなくなった。
 次には日本アクアのソーラー・カルムを買って、これも気に入っていたのに、お台場の陸上で紛失した。
お台場は水深が1mから4mでダイブコンピューターなど不要なのに持って行ってなくす。不要だからなくすのだろうけれど、あんまり、なくすので、一番やすいi300を買った。
 で、今持っているのが、I300とスントのソリューションだ。ソリューションは20年越しだ。 日本水中科学協会のアンケートで、これから売り出されるダイブコンピューターに望むこととあった。書くのを失念したので、ここで書いておく。
 ①安価②ソーラー③腕時計式でドライスーツにもつけられるように長いベルトがついている。これは無理かな。④水温計測が正確なこと、いまのi300 は、みんなのダイブコンピューターと違う数値のことが多い。これは、体温を反映しているかもしれないけれど、とにかく水温が大事、別に自記記録式の正確な水温計でやすいのがあれば買いたい。
 もう、残りわずかな寿命だから、なんでも安いことが大事なのだ。

0121 波佐間1月16日

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              オオモンハタ このあたりの主役になりつつある。

1月16日 今日も冬型の気圧配置、冬だから、冬型で、なにか?といわれそうだが、北海道の左上の会場に低気圧があり、不連続線が三陸沖から九十九里沖合遥まで延びている。この不連続線のそよぎが波高を決める。 日本海側は、原則として真っ赤だ。僕の見ている風波浪図は、赤が波高5m以上、濃い青が波高1m以下、空色だと波高1,5m潜れるか潜れないかの境界だ緑になると2ー3mだから、もう小舟は危険だ。 波左間の辺りは青と空色の境界で、贔屓目に見ると青だ。これは、現場に行くしかない絵なのだ。原則として午前中は波が高く、昼頃には治まりかけて、うまくすれば13時から14時には岸近くのポイントならば潜れる。 波左間の荒川社長は、無駄足をさせるといけないと心配して、日を改めたらといってくれる。が日は改まらない。とにかく行って14時には潜ろう。 荒川さんはおいしい鍋でも食べて、治まらなかった温泉にでも行きましょうといってくれる。  波左間は、白波が立っている。波高2から3m、待つしかない。ちょっといやな感じは、9時頃から風が吹き始めたという。9時頃からの風は、日雇い風といって、5時頃まで吹く。4時の凪ではもう遅い。おいしいフグなべをごちそうになりながら、海を見ても治まる様子はなく、次第に14時に凪ぐという自信が崩れて行く。13時少し前、やや治まった感じ。  萩原さんが、別のお客「いずみさん」とかと、高根に出て行った。彼が返ってきた舟で出ればドリームにいけるだろう。 本当に予定通り14時にでることが出来た。 ドライは早崎さんに締めてもらった。やってみて、わかったのだがサンファンのドライは、左手を右肩に回して楽に引っ張ることが出来た。恐ろしいことに僕は、それをこれまで、やっていない。 レッグウエイトを忘れてきた。しかし、今日は小さいタンクがなくて、12リットルだから重いので沈めるだろう。 未だ波は高く揺れてタンクをせおったまま倒れたら起きあがれない。腰掛けの板をしっかりつかんで揺れに堪える。 今日の僕のカメラは、オリンパスtgー4の上に、AKASO7000を載せて、実はこれで撮る動画が今日のメインで、この映像から記録チャートを作る。
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            オリンパスとAKASO 下に魚礁が見えている。
            すばらしい透視度
           マスクマウントのSJの映像、タイムが左下に出る。
 2月3日のシンポジウム、前から貯めていた映像を編集するのでは、とてもまとまらない。今日、撮りおろしにしようと言うわけだ。あとマスクマウントには同じくウエアラブルカメラのSJ-4000を着けて、これは、カメラを手に持っているときにはマスクマウントの絵は、手に持っているカメラを写しているだけ、という映像、になる。 透視度は、最高に良いはずだから、良いカメラをもっている増井さんに、僕の姿を1分だけ回してもらうようお願いした。早崎さんもTG-5にオリンパス純正のストロボを両脇にニ基着けて、純正のハウジングに純正のワイコンを着けて、その上に、新しいgo-proを載せている。せめて、僕もこのくらいのセットにしなければ,いけないのだろうが,もうあとがないのだから、あるもので間に合わせる。それにタイムインサートがメインなので。 オリンパスは、オオモンハタを撮って、あわよくば「豊かな海」の表紙にしようとしている。  飛び込むときに、12リットルだと、体が起こせない。体をひねって、頭の横から、飛び込んだ。流れもほとんどない。ヘッドファーストで足に空気をまわしてもがくよりは、全部の空気を抜いて、足から降りることにした。まどろっこしいが、我慢して、1mも降りれば、あとは泳いで行かれる。 予想通りにすばらしい透視どで、水深25mの舌まで見えるから、透視度25mだ。 今日は海底に着底してカメラのスイッチを入れるのではなくて、沈みながら、AKASO7000のシャッターを押し、ライトを50%で点けた。 左手の下段から、縦軸に抜ける。スズメダイ、シラコダイ、キンギョハナダイは、賑やかしで、対象には入れていない。さっそく、左手にオオモンハタが、下段にはメバルが常に群れているのに、1尾だけ、これまでの最低記録だ。しかし、ネンブツダイの稚魚の群が雲霞のようだ。未だ、小さくて、ネンブツダイの形になっていないが、ネンブツダイだろう。ネンブツダイの成魚がいない。ネンブツダイは、口に卵を入れて孵すのだが、それが終わると、死ぬのか?そんなことは聞いていない。どこか、別のところにいるのか?
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 この雲霞の群がいくつもある。僕の想定ラインの上だけで、三つ。黒い点が背中の後部にあるどこか南の海で見たような、20cmほどの魚が、近寄ろうとしたが逃げた。これを追って曲がってしまうと、ライン撮影ではなくなってしまう。あとで拡大してみて、クロホシフエダイだとわかった。図鑑では、イッテンフエダイとニセクロホシフエダイしか見なかった。フェイスブックで聞いてみて、クロホシフエダイだと教えてもらって、河野先生の東京湾の魚でも、別の大きい図鑑でも、ネットでもクロホシフエダイだとわかった。別にレアではないが、ここの魚礁で見たのははじめてだ。静止画で見たら2尾いる。海底すれすれにいるので目立たなかったのだ。  端で折り返して、中段のライン、ラインと言ってもロープを引くわけではなくて、想定のラインだが、このような魚礁ならば、想定で良い。予想通り、オオモンハタが多かった。あとでのチェックで14個体、イシダイも多く12だった。予想通り、オオモンハタ以外のハタはいない。下段、中段で予定していたラインは終えたが、上段もラインで見た方がよかったとあとで反省する事になった。
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             このイシダイ 2 尾は、屋上まで追ってきた?
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             荒川さん

 残圧80になったので浮上、3mで停止して上を見ると舟が木の葉のように見える。これで12リットルでは上がれない。荒川さんが先にあがってくれて、僕は梯子に捕まるが振り落とされそうだ。カメラをとってもらい、タンクも、そしてウエイトまで受けとってもらってしまった。自分が人の世話をしていたのが、つい昨日、75歳あたりまで(でも10年前か)できたのに情けないと思うが、無理をして体を破損させてはいけないから、堪える。今日は「サンファン」ハイブリッドスキンの動きも快調で、ウエイトを外してしまえば、何のこともなく、普通にしていられる。これで、なんとかこの冬も越せるだろう。 もどってから、AKASO7000とSJで調査票2種類の表も出来た。表にしてみると映像とは違うところが見えてくる。 シンポジウム発表に資料は撮ることができた。  ログ  date 2019 0116  ①目的:タイトル 人工魚礁研究会 ③場所 波左間 ④スポット ドリーム ⑤天候 晴れ 西高東低 沖は赤だが、波左間は青  予測したとおりに1400に潜れる波になった  ⑥風  西 ⑦水温 18 ℃ ⑧透視度 20m  ⑨潜水開始1405    潜水時間34  分 ターンプレッシャー 80 ⑩最大水深23。3   m ⑪潜水終了 1506 ⑫インターバル プラン ⑬チーム 須賀 早崎  増井 鶴町  ユニット ⑭バディ  ⑮残圧 ⑯適要  潜降はうまくできた。AKASOが水没してしまったが、映像はねらい通りに撮れていた。オオモンハタは多かった。 オリンパスはもう少しじっくり接近しないといけない。下手になっている。 メバルは、ほとんどが外にでていたようだが、魚礁の近くには付いていなかった。鎮まったとはいえ、波高は高く、12のタンクでは荒川さんに助けてもらうほか無く、仕方なかった。    そうそう、浮上の途中でなにもしないのにAKASO7000が水没してしまった。撮影結果のカードは問題なく、カメラも動いているが、もうメインのカメラとしては使えない。新しく買うことも考えたが、SJ4000でも代用できるから、我慢しよう。   AKASO7000のカメラは大丈夫そうだったので、ケース(ハウジング)だけ990円で注文した。

0311 ダイビングの歴史 52 ブルーゾーン 1

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ダイビングの歴史 52 ブルーゾーン 1 ダイビングの歴史50 12月 で、雑誌、印刷物について、日本潜水科学協会の「どるふぃん」が終わって、1967年の日本潜水会の誕生あたりまで来ている。
「海の世界」は、ダイビング専門誌ではないが1963年には、舘石、須賀の90m大深度実験を掲載してくれた。そして、次第にダイビングの記事も出始めたが、ダイビング専門誌ではない。ダイビング専門誌は、1968年 7月の「ブルーゾーン」が、書店に並ぶ雑誌として本邦初である。なお、「どるふぃん」は会報であり、一般に販売される雑誌ではなかった。
 
 ブルーゾーンは野尻純康が編集発行人である。
 1968年の、自分は、28歳 後藤道夫、浅見国治と日本潜水会をつくったが、まだ東亜潜水機にいる。 東亜潜水機を退社するのは、翌1969年、僕はいろいろな意味で、独立、自立する境目にあった。あとから振り返れば、最悪ではないものの、最善の路ではなく、後から後悔することばかりだったが、成り行きである。
 自分の目標とする基本コンセプトは、日本のダイビングスポーツ界を統一して、スクーバダイビングをスポーツとして、公に認めさせること、だった。それが、まちがいだったのだが、やってみなければわからない。その頃の、スポーツダイバー(商売人では無いという意味)口を開けば、統一とか協力を唱えていた。
 
 スピアフィッシングをやめたら、ダイビングに残るものは、水中撮影だが、水中銃は誰でも、ほとんど全ダイバーが持っていたが、カメラは全員が持っているわけではない。なにも持たなくてもダイビングは楽しいが、それまで銃を持っていた手はやり場がない。それを少なくとも、日本潜水会直下の指導員には、無理矢理に徹底ようとしたが、水中銃の販売はやめるわけにはいかない。一番売れる商品なのだ。だから、無理なのだ。
 なお、今のダイバーには想像を絶することだろうから、説明しておくが、僕らがやっていたスピアフィッシングは、スクーバを使ってやっていたものなのだ。
 スピアフィッシングでのバディシステムとは、エントリーは一緒、エキジットは、出来れば一緒、に上がりたいとは思っているが、水中では、出来るだけバディの気配、位置はつかんでいようと努力はしているが、獲物をねらうのは個々別々だ。場所にもよるが、浅い水深を移動しながら、魚を探し、大物がいたら急降下して狙う。大物であれば当然、上へも下へも暴れまわるから、ダイバーも上下、つまり、潜降浮上を繰り返す。そして大物であれば、そのまま浮上して、船にあげるか、水面の浮きにぶら下げて次の獲物をねらう。安全停止という発想もなければ言葉もない。もちろんダイブコンピューターなどもない。鋸の歯のような潜降浮上の繰り返しは日常だ。
 それで、なぜ減圧症にならなかったのか?神津島で大物狙いの大会をやった。八丈島でもやった。でも誰も減圧症にはならなかった。考えられる理由は、だいたいにおいて、タンクは一日に1本だった。多くても1日に2本、充填圧は150キロだった。使うタンクは充填したものを車に積んでいき、おわれば、持ち帰って充填してくれる所に持ち込む。スピアフィッシング大会では減圧症はでなかったが、クラブでは、一人二人減圧症体験者は居た。
 スピアフィッシングを無理矢理禁止した日本潜水会の英断は、安全のためにもかなったものだった。
 
 そんなスピアフィッシングに代わる活動として、水中スポーツ大会を開催した。もちろん、水中撮影も強制的に奨励したが、カメラも買えない。フイルム代ももったいないという若いダイバーが熱中できる目標として、速く泳ぐこと、重いものを持ち上げること、レスキューの練習を競技にすること、などを競う大会を、スピアフィッシング大会に代わるものとして、企画した。1968年は、その第一回を目黒の日大、プールで開催した。東亜潜水機の業務の傍らだから、その準備が難儀だった。
 そんな難儀の最中、僕と後藤道夫は、野尻君に呼び出されて、会った。
場所は、青山のどこかの喫茶店で、そのときの光景は今も思い出すことができる。日本潜水会は、原稿料なしで全面的に協力することになった。
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 表紙を開くと、VOIT 
 大沢商会のアクア スポーツ課、そしてボイトは、前年 日本潜水会を一緒につくった白井常雄が仕切っている。葉山マリーナにボイトダイビングセンターもやっている。
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 野尻純康は、それなりのカメラマンで、この雑誌の写真は彼が全部撮っている。
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 ぼくが書いた「アクアダイビング練習法」  日本潜水会指導員 須賀次郎
 そのころは、飛び込みのダイビングと区別するために、アクアダイビングという言う呼び名を提唱した。良い言葉だと思うがだれも使わなかった。
 僕は、1966年に日本で初めてのダイビング指導書「アクアラング潜水」を浅見国治と共著で書いている。そして67年に日本潜水会を後藤道夫、浅見国治とはじめた。
 一応、当時のスポーツダイビング指導のトップを走っていた。日本潜水会では、まだインストラクターと言う名称は使わない。指導員だ。
 そのころのダイビング指導はどんなことを考えてやっていたか、今振り返ると興味深い。
 健康
 自分はまだ若く、健康である。病気の人とか高齢者の気持ちはわからない。だから、健康で無ければダイビングをやってはいけないと思っている。

 仲間をつくろう        
 アクアダイビングの鉄則はバディシステムである。では、どのようにしてバディシステムを実行できるか。良いクラブをつくること。クラブが安全の鍵なのだ。この考え方は昔も今も変わっていない。
 ※実際のダイビング仕事、自分の会社では、経費的な問題もあって、これを貫けなかった。そのことが、後に大きな悲劇を生むことになるのだが。

 遊泳能力
 そして、泳ぎ方はクロールのような上下動のキック。今、主流のフロッグキックは禁止した。

 スキンダイビング
 アクアダイビングの第一歩はスキンダイビングである。スクーバを着けるためには、まずスキンダイビングから入らなければならない。

 フロート
 救命胴衣かフロート、どちらかを持つことが必須である。スキンダイビングは身体にごちゃごちゃしたものは着けたくないからフロートである。岩ノ下に潜り込んで、でられないで死ぬ思いをした経験がある。スクーバの方は、ごちゃごちゃしたタンクを着けているのであるから、ついでに救命胴衣を着けても良い。
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 座談会 「ダイビングは楽しい」
 懐かしい顔が並ぶ。ミナミスポーツの長谷川、USJの田中龍彦
 若い女の子は小沢さん、山口さん 
 小沢さんは日本スキューバの会員だった。
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 海外情報 アメリカのスキンダイビング
 この雑誌、ダイビングの指導については田口哲(日本のNAUI創始者)と僕で書いた。
 ロスアンゼルス・カウンティ(ちじめてロスカン)公認インストラクター
 田口君は、アメリカに7ヶ月留学して、ロスカンのインストラクターになった。アメリカではインストラクターと呼ぶ。
 ロスカンはNAUIの前身とも言われる。、ロスカンがそのままNAUIになったものなのかどうか、役員構成などはしらないが、ロスカンのインストラクターは、みんなNAUIに移行した。
 アメリカでは、まだスクーバダイビングはスキンダイビングに含まれていた。スキンダイビングというタイトルで、スクーバダイビングのことを書いている。 ページの順序を変えて、講習関係をここに持ってくる。
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 潜水教室のおしらせ
 日本クレッシーサブ潜水講習コース
 ロスカンの講習会が現地と同じ方式で開催される。
 講義9時間、プール9時間、海での訓練3時間 合計21時間
 アメリカのロスカンから2名が喚ばれており、日本からは、田口哲、大島洋が実施指導に当たる。大島さんは、後に日本海洋産業(潜水艇ハクヨウを持っていて、石油掘削の潜水業務を行う会社)に移られ、親しくなった。 この講習会の主催は大手のスポーツ用具問屋ホープが行った。
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 日本潜水会 技術検定試験
 4月20ー22日 海洋公園で第一回一級検定が行われ41名が参加し、25名が合格した。
 技能認定種目は
 ①10mの水底に8キロのウエイトをおいて、素潜りで引き上げてくる。
 ②水深5m以内で水平方向40mのす潜り
 ③水深15mからマウスピースをはずしてフリーアセント
 ④水深15mからバディブリージング浮上
 ⑤全装備を着けて100m沖まで、水面を行き、潜水してコンパスをたよりに出発地点に戻る
 ⑥全装備を着け、スノーケルなしで、水面を500m泳ぐ
 ⑦1組5人でグループ潜水シユミレーション
 ※振り返れば危ないことをやっていた。日本潜水会の一級は、死ぬことは許されない。とされていた。が、後に、素潜りで岩に拘束されて一人死亡。
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 ボイトダイビングセンター
 葉山マリーナにあり、スクーバ20セット、クルーザーボイトI世号をもちダイビングができる。個人講習もできる。
 葉山マリーナーにくるような、セレブ対象のダイビング これも、白井常雄がやっていた。

                      続く
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