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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1122 ワークショップ  三保仁先生の「セノーテの魅力」

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 セノーテ、メキシコ語である。日本語にして、泉、池、洞窟、強いて言えば洞窟だが、洞窟とも言いきれない。ただの池でも泉でもない。地形になっている地下水脈とでも言おうか、世界ではこの前のタイの少年救出の舞台とか、日本の龍泉洞などもこれに類するのだろうが、それらの中で一番美しいもの、とでも、言えば良いのだろうが、そのセノーテのすべてを、1時間20分、大スクリーンで見せてもらった。 古石場、文化会館などという、不便なところ、門前仲町に事務所がある僕には便利だが、皆様には不便なところを会場に選んだのは、映写効果が良いからだ。
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  僕にとって、三保先生は耳鼻咽喉科の先生として、成功された方で最新ダイビング用語辞典は耳の専門医としての執筆をお願いしている。それなのに、なぜ、メキシコに移住してしまうのか。これまででも、年に何度もメキシコに行かれて、半端ではない、セノーテのすべてを撮影するほど通われているのに、その上に、なぜ移住までするのだと言う疑問があった。  これは、自分の勝手な解釈かとも思うが多分当たっているだろう。 三保先生は、医者がダイビングをやっているのではなくて、ダイバーであって、ダイバーが医者をやっていたのだ。ダイバーならば、僕の方が先輩だから、三保君がメキシコに移住してセノーテを潜る。自然にかんじられる。 ダイバーが医者をやっているという医者も、日本では他に何人かだろう。その医者がいなくなってしまうことは、痛手だが、それは仕方がない。 
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            懇親会にて、三保先生と、日本洞窟の後藤聡さん
 自分と水中の洞窟のかかわりは、1982年にNHKの番組撮影で岩手県の龍泉洞に潜ったが、飛び込んで、自分の持つライトで、周囲を見回したとたんに人生観が変わったと思うほどの衝撃をうけた。が、僕の場合、それ以後、いろいろ努力はしたが、龍泉洞に入ることはできなかった。心残りである。鍾乳洞というのは、それほどの魅力がある。その龍泉洞が、いっぱい、方々にあるのが三保先生の移住するメキシコのカンクンだ。  いま、辰巳のプールに、月に三回ていど潜っているが、これが僕の生き甲斐の一つである。その辰巳プールのようにセノーテに潜れてしまう。僕がダイビングをやめないのは、ダイバーがダイビングをやっているからであり、他の職業をしていて、人生の終わりに余裕ができれば、ダイビングだけをやることにするだろう。そのダイビングが、セノーテであり、セノーテはメキシコにある。 高齢になり、人をうらやむと辛くなるので、なるべくうらやまず、自分のできること、羽左間と、お台場に月例でもぐることで、83歳としてはよし、としているが、三保先生の引退、移住はうらやましいと思う。 その伏線として、C型肝炎で余命が60歳までと言われていて、それが新薬で治療できて、命を拾ったとすれば、そして、ダイバーであれば、納得できる。 僕が余命のうちにメキシコを訪ねることなどできそうにないが、だからこし、ワークショップでこのセノーテをやり、三保先生の生き方を、なぜ、とか「どうして」ではなくうらやましく思うことができて、よかったと思う。

1122 ダイビングの歴史 42 海底ハウス

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ダイビングの歴史 42 海底ハウス  日本人に海中居住のことを話題にすると、「海底ハウスですね」という答えが返ってくる。海底ハウスを誰が作ったかと言えば、ダイバーでももう忘れている人が多いかも知れないが。 1968年、四国のみかん園をやっていた、田中和栄さん、当時28歳が、一人で海底ハウスを作り、宇和島の海底10mに沈めて、その中で一週間滞在してしまう。 いま2018年、海中居住の歴史を調べて並べてみると、1968年の日本中の大きな話題になって当然と言える。海中世界は海中居住の渦のなかにあり、日本のシートピアも国家予算でスタートしようとしていた。
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 和栄さんは、1971年この海底ハウス「歩号一世」を沼津、三津浜の水族館に近接して沈めて、海底村として観光施設にする。 世界の海中居住が、その行く末に観光施設を考えるのだから、これも、先取りしていたと言うべきか。 この海底ハウスに笹川財団の笹川良一会長が興味を持ち、水中に入ってハウスを訪れる。笹川会長の一生に一度のダイビングである。そして、スポンサーの一人になり、今、このハウス、「歩号一世」は、船の科学館の前庭に置かれている。 「歩号一世」は観光施設としては、何とも小さい。もっと大きいものにしよう。四国の来島ドックの坪内社長を説得してスポンサーになってもらう。
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 二号は60平方mあり、ドライルームとウエットルームに分かれていて、大きな窓もあり、快適な応接室のようだ。  ※使用したテキストは、①「海底ハウス 田中和栄物語」登坂将司 新日本文芸協会 ②雑誌ダイビングワールド 1975 創刊号 ③雑誌 海の世界 1976 8月  二号もダイビングの施設として、成功を収めていたが、一般向けの、観光施設としては、その往復が問題である。水深3m、と6mにエアーステーションがあり、段階的に潜っていくのであるが、スキンダイビングができる人には問題ない。それでも、耳の抜けない日には行かれない。一般の人には、無理だし危険もある。
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 モノレールのようなものがほしい。三号の準備、金策をしなければならない。成功したと言っても三号がつくれるほどのことはない。 そして、恐れていた事故が起こる。 1976年 ハウスを訪れた、ダイビングのできない女性が浮上するときに空気塞栓で死亡してしまう。 直ちに施設は閉鎖する。  和栄氏はあきらめない。3号の金策に奔走し、1982年その目処が立ったとき、自動車のもらい事故で頸椎を損傷し、全身不随になってしまう。  僕は、残念なことに海底ハウスを訪れたことはない。歩み1号は、大崎映晋氏、工藤昌夫氏らが、お世話をしている。僕とは所属リーグが違った、接点がない。 和栄氏とお目にかかったのは一回だけ、彼は、ダイビング作業もしていて、その関連で会った。是非遊びに来てくださいと誘われ、行こうと思っているうちに悲劇になってしまった。  3号が一般向け観光施設として成功するかは、疑問がある。世界の海中居住が終わったように、一般向けとしては、終わっただろう。しかし、ダイビング施設としては、悪くない。お元気であれば、その行動力、実行力で、その一角を占めていたことは間違いない。すでに、占めていたのだから。施設と海を持っていることは強い。その上に、船の科学館との連携も作っていた。 僕とも、何か一緒の仕事ができたとおもう。言うまでもなく、紆余曲折はあっただろうが。 

1127 ダイビングの歴史 43

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ダイビングの歴史 43 後藤道夫メモ  シートピアなど、国家予算でのダイビングの話題が続いた。調べていくと当時見えなかったことが50年の歳月を間において見ると、俯瞰するように見えて、見えてくる。でも、ここで停滞していると、目的地に到着しないし、悩んでいる。 そう、後藤道夫メモが、1967年、日本潜水会を作ったあたりで置き去りになっている。このラインも捨てられない。終わらせなければ、尻切れトンボだ。 この項の話は、個人的なことなので、ダイビングの歴史には載せられないが、そのころの僕らの軌跡である。  ※後藤メモは、ゴシック、須賀「 」は、須賀の状況   1968年 昭和43年 6月 中部日本潜水連盟講習 マリンビレッジ 日本潜水会と同じプログラムで名古屋中心の潜水連盟ができて、その第一会の指導員講習会で写真をおしえた。 9月~ 日本一周海底キャラバン計画 出発 撮影用具開発実行  後藤は何か始める時に、まず自分で機材を作るところからスタートする。機材から入る人なのだ。それも自作で。  計画の出発であり、実際の出発ではない。  人気グループ V6 のビデオクリップ 「それぞれの空」がこのキャラバンをテーマにしている。金丸監督が製作した。この時代のダイビングへのオマージュである。  1969年 昭和44年 5月 キヤノン試作開始 テスト テスト テスト 9月16日 第一回遠征 奄美加計呂麻島へ出発 12月21日 帰社 3ヶ月のロケだ。    1970年 昭和45年 7ー8ー9ー10ー11 文無し生活続く 9月 麻雀狂 スタート  「麻雀狂の元凶は、日本アクアラングを退社する浅見国治で、後藤、須賀浅見、この三人で日本潜水会を作ったのだから、僕もこれに巻き込まれ、麻雀とダイビングを往復連続、徹夜の後ダイビング、もどってまた徹夜して、心臓の発作を起こした。」  須賀「一方で僕は東亜潜水を退社して、自分の会社、スガ・マリン・メカニックを作って、カメラハウジングを作ったり潜水専門プールの新設に関わったり、ほぼ文無し、綱渡り生活をしている。」 ※これらの私記部分は「ダイビングの歴史」には掲載しない。「ニッポン潜水グラフィティ」番外記のようなものである。 12月 体調不良    「後藤道夫も当然倒れる。」  1971年 昭和46年 6月 奄美加計呂麻島準備ロケ  加計呂麻の阿多地湾が後藤のホームベースになる。日本一周は、ここで一時停止、ここから先に行かなくなる。ここで、写真集「珊瑚礁の海」の撮影もするし、テレビ番組「マチャアキ海を行く」の撮影も始める。マチャアキのここでの作品を見ると、本当にいい雰囲気だ。  7月 鬼怒川顧問に なる。  須賀「僕も一緒にキヌガワの顧問になる。杉田泰造社長、杉田会長とともに麻雀に明け暮れしながら マンティスの基本コンセプトを考え出す。後藤の作ったマスクをキヌガワで作ろうとしたのだがゴム型が磨耗してしまって使えず。なら新しく画期的なマスクを作ろうとして始めたものである。 外見のスタイルファッション重視がコンセプトで、サングラスのイメージ、カマキリを意味するマンティスである。」 「なお、日本の、いや世界のダイビングマスク史上最高の傑作と自負できるマンティスは、基本コンセプトは、杉田社長を中心にして、後藤道夫、そして須賀で、デザイン、外見の絵を描いたのは、匹田進(グラフィックデザイナー)で、設計は現ダイブウエイズ社長の武田寿吉である。つまり、匹田さんの書いたデザインを見て、あれこれ議論して、杉田社長が決定した。」」  8月 鬼怒川のカタログ写真撮影でグアムに行く。
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 須賀「僕は行っていない。忙しくて一緒にいけなかったのだが、行かれなかったことを密かにひがんだ。」  奄美加計呂麻ロケ 夜間撮影 10月 講談社 「スキンダイビング」執筆開始  1972年 昭和47年 6月「スキンダイビング」 刊行 8月 水中写真集 珊瑚礁の海企画出発  12月 社員・林元吉 潜水病になる。   林君は日大水泳部出身である。当然、フィジカルは強い。定置網の調査で、後にダイビングサービス部門を独立させる志村喜徳 と一緒に潜水した。水深、潜水時間などの記録は手元にないが、定置網だから、40ー50mと推察できる。二人で一緒に潜水して、志村は何ともなく、林君はその場で倒れるような激烈な症状だった。腰から下、下半身不随になったが、根性のリハビリで、歩く不自由はなくなり、ダイビングには復帰しなかったが、ウエットスーツ屋さんになった。  須賀 「1972年 須賀は、水産大学後輩の小池康之講師(当時)と共著で、「水中写真の撮影」を厚生閣から出版する。この本は、1970年代の水中撮影のすべてを書いたつもりである。良い仕事だったと思う。」 自分の活動も織り込んで見ていくと、その時代の模様が見えてくる。  1973年 昭和48年  10月 大型水中カメラ完成(海洋博映像用) 12月 ミクロネシア パラオ島ロケ 90日間  1974年 昭和49年 7月 カリブ海 ボネール島 海洋博に使う大型写真撮影30日  8ー9月 奄美加計呂麻島 海洋博;松下電器映画ロケ 60日  10月 DOスポーツポスター 林堂シンコ 撮影 
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 1975年 昭和50年 6月 海洋博 全日本潜水連盟写真展準備 7月 沖縄海洋博  1976年 昭和51年  1977年 昭和52年  9ー12月 マチャアキ奄美ロケ  マチャアキ海を行くの、最初は後藤の企画で後藤がが撮った。  海洋博の大型映像、写真集、テレビ番組と、カメラマンとしての後藤は、その頂点に立つ。しかし、そこからは、次第にもの作り、ハウジング作りがメインになっていく  1978年 昭和53年 8月 キヤノンF8号完成試写  須賀「潜水と水中撮影入門 後藤道夫 須賀次郎共著 共立出版、この本はSSP 自然写真家協会を創立する竹村嘉夫氏のコーディネートで作られた。後藤道夫と僕の、形に残っついる唯一の仕事である。」 ※この本に、当時僕が使っていた潜水記録カードを載せている。これは、良いカードだったのだが、続けていない。今まで続けていればよかったと反省している。 このカードに大磯での魚礁調査の例を使っている。これは魚礁メーカー各社の大型魚礁の優劣を見ようとした通称「魚礁オリンピック」などといわれた。後にこの記録が必要になり、せめて、この調査のカードだけでもと探したが、ここに収録したものだけがのこっている。昭和53年、1978年4月で、アシスタントは、シートピア海中居住にも参加していた新井拓であり、魚礁は住友セメントのもの、担当していたのは久木さん、今、浦安海豚倶楽部で去年の会長をやっていた玉田規子のお父さんである。  1979 昭和54年  1980年 昭和55年 9月キヤノンマリンカプセル 初納入 このキヤノンは後藤道夫畢生の自信作で円筒形であり、水漏れはほとんどない。ない。
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 「僕も1台押し売りされた。こちらもハウジングを作るメーカーをやっているのに、である。 このキヤノンハウジングは、今も手元にある。 超ワイドとマクロ、レンズ交換ができる。」  後藤メモは、このあたり、1980年で一応終わりにするが、このような付き合い、というか、つかず離れずの二人三脚は2014年に後藤が亡くなるまで続く。後藤道夫と僕の最後の仕事は福島の水中、放射能精査装置の製作であった。 
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1129 ダイビングの歴史 整理

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 そのころ作っていたハウジングと、ローライマリン 「水中写真の撮影」の挿絵から

 ダイビングの歴史44  整理  今、何をしているかというと、自分の一人だけの会社になってしまっている AAC5TVの決算、そして税金申告の書類作りをしている。32期で、30年間の赤字が堆積しているから、残務処理のような物だけど、最後まで続けたい。生涯現役というのは、そんなことなのだろうと思っている。 で、 このあたりで、ちょっと整理してみる。ダイビングの歴史の構成は、①索引年表 ②詳細年表 ③小史(アイテム個別の歴史)④コラム の4本立てだが、その ②詳細年表をつくるための資料調べと下書きをしていて、そのまた思いつき、覚え書きをブログに載せている。ブログに載せる理由は、ものを書くことの時間のほとんどをダイビングの歴史に当てているので、ほかにブログを書く時間がないこと、そして、ブログにしておくと、後での呼び出しが楽にできる。
※ ダイビングの歴史 本にするときには、今書いているブログの部分はほとんどカットする予定だけど。
 問題点は、ブログで まちがいを書いてしまうと、それが公表されてしまっていることになる。これは、かなり深刻な問題点なのだが。  そして、現在進行中は、 ①後藤メモ(自分の仕事)は、一気に1980年まで進み、後藤メモは、ここまでしかない、のだが、関連して、そのころの自分の仕事、水中撮影のこと、そのころ作ったハウジングのことなども書いておきたい。 ②海中居住は、1968年からのシートピアを書き直そうとしている。そして、その海中居住のために、③日本潜水科学協会が海中開発技術協会に、良い言葉で言えば脱皮するところで止まっている、これが1965年だ。 ④レジャーダイビングについては1967年の日本潜水会発足まで来ている。これは、⑤ダイビング関連雑誌の変遷とともに書いて行きたいのだが、「どるふぃん」から、マリンダイビングへ舞台を移すそのマリンダイビングの準備ができていない。竹川さんに送っていただいた創刊号(1968)があるだけだ。  そこに持ってきて、ワークショップで高圧則小史を取り上げることになった。高圧則小史は、一応下書きは作ってあり、腹案のもあるのだが、問題点がいくつもあり、公表してから動かなければならない、その心の準備、レディネスができていない。 そしたこれは、ワークショップで議論して、その結果をシンポジウムで発表しようということになったので、タイムスケジュール的に、12月19日がワークショップと決められた。  さて、どうしたものだろう。 ながれとしては、①の自分の仕事の部分をちょっとやって、④のレジャーダイビングに手を着けよう。 

1201 ダイビングの歴史 45 水中撮影

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1972年 昭和47年、 水産大学後輩の小池康之講師(当時)と共著で、「水中写真の撮影」を厚生閣から出版する。この本は、1970年代の水中撮影のすべてを書いたつもりである。良い仕事だったと思う。」  1978年 昭和53年 潜水と水中撮影入門 後藤道夫 須賀次郎共著 共立出版、この本はSSP 自然写真家協会を創立する竹村嘉夫氏のコーディネートで作られた。後藤道夫と僕の、形に残っついる唯一の仕事である。  この二つの本を、その挿し絵、写真などを見ながら、少し詳しく紹介したい。1970年代の日本の水中撮影技術、撮影機材の曲がり角だったと思う。
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「水中写真の撮影」 共著者の小池さんが研究者であったことから、どちらかと言えば研究者むけ、調査ダイバー向けを意識していた。まだ、調査ダイバーという仕事は明確なものではなかったのだが。 調査、研究というものは、同じ場所、同じ位置に行かれないと継続、完結できない。同じ場所に行くのは、陸上ではたやすいが水中では難しい技である。六分儀による位置だし、三間分度器による記録なども述べているし、ライン調査の連続撮影などにも触れている。   カメラについてだが、  ニコノス 水中カメラといえば、ニコノスに尽きていた。ニコノスでスチル写真は撮れる。まずは、ニコノスによる写真術から見ていこう。  しかし、ニコノスに用意されているレンズは、UWニッコール28mmとニッコールワイド35mm、それと80mmであった。ニコノスの前身はクストーらのグループが作ったカリプソで、これは、ほんとうにすばらしいメカニズムであった。ニコノスがカリプソから格段に進化したのはUWニッコール28mmで、これは、陸上のレンズをそのまま水中に持って入った時の収差による周辺部の歪みを補正してある。 28mmは陸上では、広角レンズであるが、水中ではレンズ面での光の屈折の望遠効果で、水中では37mm相当、画角は60度になる。今時の水中90度以上のレンズとは、比べものにならないほど狭い。透視度で制限される水中では、できるだけ接近して広い範囲を切り取りたい。 昔の写真が下手に見えるのはこの画角の狭さのためだ。やがて、ニコノスも15mm、20mmの超広角ができてくるが、まだ、少し先の話だ。
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 そして、そのころのカメラはAE.オートフオーカスではない。二十像合致でピントを合わせるか、目測、目分量で合わせる。距離を測るための棒をもって撮影したりもした。しかしこれが、ややこしい。人間の目がマスク越しに水中をみた場合、4分の3の近さに見えるのだ。カメラは人間の目と同じ距離感なのだが、実測すると補正した距離にしないといけない。 要するに、人間の目で見て、距離が1mであれば1mに距離を合わせれば良いだけのことなのだが、考えると混乱する。だから、ニコノスのカメラマンは、自分の距離を持っていなくてはならない。たとえば海洋公園の益田さんは、28mmレンズで1、5mが自分の距離で被写体の魚が、大きくても小さくても、レンズから1、5mに来た時だけ、シャッターを押す。
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             スガマリンのブロニカ 初期のもの
 ブロニカ それにしても、一眼レフでピントを合わせられればどの距離でも、ぼけていない写真が撮れる。そしてもう一つ、フィルムサイズの問題がある。大きいフィルムサイズでないと大きく伸ばせない。撮った写真を売って商売をするカメラマンは、大判サイズでないと高く売れないのだ。35mmサイズよりも。ブローニーフィルムで6×6とか、6×9のサイズで撮りたい。ローライは、6×6の高級機でピントも合わせられるが、そのローライマリンは、ワイドではないのだ。6×6版の一眼レフで、50mmというまあまあワイドなレンズを持つブロニカのハウジングをそれぞれ、競って製作した。僕のスガ・マリン・メカニックもブロニカでスタートしたし、sea & seaも、オレンジボックスも、菅原さんの潜水研究所も、タテイシブロニカマリンもだ。もちろん、僕は、自分のブロニカマリンR116は、球面レンズを前面ガラスにしているので、ベストだと思っていたが。
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 ペンタックス 17mm アサヒペンタックス、一眼35mmに対角線魚眼という超ワイドレンズがあった。魚眼とは、画面が丸くなるのだが、その円に内接するフィルム画面を入れると対角線魚眼になる。水中撮影は、ワイドにできれば、できるだけワイドが良い。朝日新聞のカメラマン、工藤五六から、これをハウジングに入れられないか、と相談が来た。ワイドだから、ドームに入れなければだめだと思って、いろいろやってみたが、うまく行かない。五六氏と相談して、どうせ超ワイド魚眼なのだから、周辺部はどうでも良い、と平板のポートにした。これがうまく行った。なぜ、うまく行ったのか光学的な説明は、ペンタックスの本社に聞いてもわからない。結果オーライだ。このカメラを持ったら、何でも撮れる。ほぼ、無敵というきもちになった。僕らの撮影フィールドは、東京湾、および、本州太平洋岸だ。透視度は、おおむね3mと思っていなければならない。ピント合わせの必要もなく、モノクロ高感度フィルムで何でも撮れる。調査とか報道には、ベストで、かなり、といっても数十台売れた。このハウジングの初期のものは、正方形に作った。オーリングの使用には、円筒が基本で、四角はタブーなのだが、これもうまく行って、荒い使い方をする僕だが、そして、五六も、新聞社のカメラマンだから、タフな使い方をしたが、水没しなかった。「これは、四角だから、気をつけないと水没するぞ」というケアーが良かったのかも知れない。 1970年代、傑作のカメラだったと思う。
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 水中照明 フラッシュバルブ 水中の人工光は、昔も今も、水中撮影の要である。今のカメラ派ダイバー(あんまり好きな呼称ではないが)は、ほぼタカアシガニだ。 まずは、フラッシュバルブを光らせた。一回シャッターを押す度にコカコーラ一本分の閃光球が飛んでいく。最初は使用済みの球を海中に捨てて、海洋汚染に貢献していたが、すぐに、これはいけないと気づき、様々なホルダーを考えた。僕の愛用していたのは、後藤道夫製の10mmのスポンジ生地に穴を開けたもので、これにバルブを差し込んで置き、上腕に取り付ける。接触不良にならないように、ワイヤブラシで球の接触部分をワイヤーブラシで擦るのにもべんりだった。
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 ストロボ 陸上の撮影では、ストロボが人工光の主役になりつつあった。水中では、もちろんストロボが良い。バルブ(球)の処理を考えなくても、良い。大光量、積層電池を使う大型ストロボを、円筒のケースに入れた。それを伊豆の海洋公園でテストしていた。最初のうちは快調に光ったが、何回目かに、電撃が身体を走った。漏電したのだ。まるで稲妻に撃たれたようだ。中層に浮いていて、電気がアースしなかったので助かった。足が海底に着いていれば、危なかった。死んだかどうかはわからないが、無事にはすまなかっただろう。この電撃を避けるために、ストロボは弱電流のトリガー回路がついているのだが、このテストにはついていなかった。早速改善して、商品として売り出したが、名前を「シーレビン」海の稲妻と名付けた。
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 水中ライト 8mmフィルムのシネ(映画)も、よく使うようになった。レジャーダイバーもシネ撮影フアンが増えてきた。エルモの8mmシネカメラのハウジングもよくできていたと思う。フィルムで撮影すると、当たり前の話だが、フィルムだから現像にださなくてはならない。現像があがってきたら、これを映写機で映写してみるか、プロジェクターで見なければ、見られない。このフィルムを切ったり貼ったりして編集しなければならない。フィルムも悪くはないけれど、これだけは、今のビデオが良い。 その映画を撮るためには、ストロボやバルブでは、ダメで、連続的な光、ライトが必要である。アマチュアとプロの違いは、持っているライトの光量の差だった。今では全員が強力なバッテリーライトを持っているが。これは、2000年以後だと思う。2012年のシンポジウムでは、今後はスチルもライトの時代がくると唱えたものだった。 プロは大光量のライトを持たなくてはならない。バッテリーライトではすぐにバッテリーアウトになる。船の上で発電器を回して、有線ライトで1キロのライトを使った。カメラマンの他に、このライトを持つライトマンが必要になる。そして、動ける範囲はケーブルの長さだけ、半径100mの範囲である。そのころの僕の撮影のアシスタント、ライトマンは現在スリーアイの高橋実だった。 茨城の海で、人工魚礁の調査撮影をしたときにことだ。県の試験船、「ときわ」に乗っていた。「ときわ」の鳥羽船長は、操船の名人で、大きな船なのに、僕らのケーブルに追従して、危ない浅瀬にまで来てくれる。ケーブルを追って船を操れば、撮影範囲が拡大する。船とのチームワークが重要なのだ。 ところが、ある時、急流(ダウンカレント)に巻きこまれた。高橋と二人、ライトケーブルにしがみついて助かった。このときをはじめとして、80年代のニュース・ステーションでも有線ライト、ケーブルに助けられたこと数しれない。僕が生きているのはケーブルのおかげだ。  でも、1969年に独立してスガ・マリン・メカニックをつくり、1972年にこの「水中写真の撮影」を書くまでの3年間に、これだけのことを書く経験、実績を積むことができた。現在の20年分ぐらいの人生だった。若い人たちの3年は、高齢の20年分に相当する。  

1204 全日本スポーツダイビング室内選手権大会

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全日本スポーツダイビング室内選手権大会 25回になった。辰巳国際水泳場ができた翌年に第一回をやった。その前身の全日本水中スポーツ選手権大会 手元にある資料、1976年のダイビングワールドで見ると、第9回だから、1968を第一回と数えている。
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 ともあれ、自分としては、1968年より、この行事の企画製作に関わり続けて来ている。 この25年来、毎回、開会式で実行委員長として、ご挨拶をさせてもらっている。このご挨拶がなくなったら、僕の存在は現時点ではゼロになると、そんなことを思い図っていただいているのだとおもう。何時の頃からか、このようなご挨拶、スピーチが不得意になってしまっている自分だが、できる範囲で努力している。スピーチの注文は「短く」である。これが一番難しいことでもあるのだが。 お話する事を三つに絞った。一つ目、この大会の目的は、「泳ぐスポーツであるダイビングの安全のために、日々泳ぐトレーニングを続けていなければならないのだが、その成果を競う。」すなわち、目的は「安全」である。次が、芯、趣意だが、それは、生涯スポーツ。そして、その三が「継続」。継続は力である。そして、なによりも、スポーツは楽しくなくてはいけない。選手のみなさま、及び、応援に来てくださっている方がどれだけ楽しめるかが行事の成否である。どうか楽しんでください。というような挨拶をした。 ご挨拶の段に登り、降りるとき、転げて怪我をするのではないかと心配であったが、スリッパが脱げただけで、なんとか無事に切り抜けた。  行事を主催している社会スポーツセンターと自分が関わった、その始まりと、テーマは「生涯スポーツ」であった。1988年であったが、以後、やがて日本の国は高齢化が進む。高齢化社会をどうやって、国民が幸せに時を過ごして、乗り切ることができるか。できなければ、高齢化社会は高齢者にとっての地獄になってしまう。そして、その医療費は国の財政を圧迫する。 そして、現在2018年は、そのような社会になりつつある。 その高齢化社会で国民が生きる価値を見いだして行く、その一つとして、そしてもっとも大きなテーマとして生涯スポーツが取り上げられた。文科省の中でも、競技スポーツとほぼ同じウエイトで生涯スポーツが取り上げられ、振興策が種々取り上げられたが、ことさらに生涯スポーツとして成功したようなものは無く、競技スポーツの中に包含されるようになっていく。それはそれで、良いと思う。すべてのスポーツが生涯スポーツなのだ、競技のエリートスポーツは、そのスポーツマンの生涯の一時期、それはもっとも輝く瞬間であろうが、それは瞬間なのだ。オリンピックで表彰台に登り日の丸を見上げても、それはその時だけのこと、残りの長い時間、長い季節は、生涯スポーツの指導者、あるいは実践者として過ごすことになる。とすれば、スポーツとは、生涯スポーツが中心であるべきだろう。中心ではないまでも、大事にしなければならない。 僕は、ダイビングのスポーツ的側面は生涯スポーツであると思い定めて、社会スポーツセンターに加わり、当初は常務理事として、現在は顧問として、ダイビングライフの後半、ほぼ30年を過ごした。  前身の全日本水中スポーツ選手権大会と今の全日本スポーツダイビング室内選手権大会(紛らわしいが)との決定的な違いは、昔の水中スポーツの方は、競技スポーツを目指していて、全国各支部が予選を行って選手団、チームを送ってきて、それぞれの支部チームが、国体のように優勝を争うものであり、子供たちから、高齢者までが競技を楽しむ生涯スポーツの要素は小さい。現在の全日本スポーツダイビング室内選手権大会は、チームが争うという側面もあるが、生涯スポーツの要素がむしろ大きい。趣意、芯は生涯スポーツなのだ。その同じ昔、1976年に生涯スポーツの大会に位置するものは、「クラブ対抗水中競技会」があったが、やはり、対抗であり、親睦会的な要素は大きくあるものの、生涯スポーツという概念は明確ではなかった。
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 全日本スポーツダイビング室内選手権大会 の競技、そしてそのルールは世界に類のないものである。ダイビングの先進国であるアメリカにもフランスにもこのような競技会はない。競技に出場参加するのは、6歳(今回は8歳になっていたが)から81歳まで(今回、僕が出場すれば83歳になったが)人間がスポーツをできる、ほぼ全年齢域をカバーしている。そして、主要競技については、10年間隔の年齢別にチャンピオンをきめている。  僕がこの大会に選手として出場したのは、1996年、第12回、61歳、400m、フリッパー競泳(フィンで、フィンだけを使って泳ぐ競技)であり、60歳以上の出場は僕一人であり、泳ぐ前から金メダルが確定していた。つまり、60歳以上の出場の先鞭を切ったわけだ。次年度からは、60歳以上の出場が増えて、競争に打ち勝って金メダルをとった。1998年、63歳で、6分29秒で泳いだときには、50歳代の人を何人か抜いての記録だった。今では、60歳代の出場者は、全種目で多くなり、真の意味での生涯スポーツになっている。その先駆として、該当年齢枠一人での金メダルもそれなりに価値があるものだと思っている。
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 この競技会は、水面を泳ぐ 競技だけではなく水中を泳ぐ、浮いたら失格になる潜水競泳とバディブリージング競技がある。これら、潜水競技は水中撮影で見てもらわなくては、その迫力は伝わらない。現在は、バディブリージングを実際の潜水で行うことは殆どなく、予備のセカンドステージで呼吸するオクトパスであり、数年前は、出場選手も少なくなってきていた。時代遅れのバディブリージングはやめて、オクトパスブリージングの競技にしたらという意見もでた。とんでもない、と反対した。海での緊急時にはオクトパスを使うとしても、そのトレーニングには、バディブリージングは有効であるし、何よりも、その競技の根元になっている部分を変えたら、これまでの記録が意味をなくしてしまう。 幸いにも今年度は出場選手も多くなり、2レース行うことが出来、記録ものびた。そして、大スクリーンで見る水中映像も大迫力で、すごいスピード感があり、今年度、はじめて陸上カメラ撮影を受け持ったカメラマンは、上から見下ろして、マグロが直進するイメージだったと言っている。
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 その水中撮影だが、毎年、僕の母校の東京海洋大学潜水部の二年、一年に担当してもらっている。(今年は二年の人数が足りず、3年がキャプテンになったが)動画撮影の練習にもなる。こ年の撮影チームは、撮影も上手だったし、良いチームだった。 しかし、東京海洋大学潜水部は、チームとしての参加は無く、海洋大学は別のクラブ、マリンレスキューチームの出場があっただけだった。創立者として少し寂しい。 一方で、長年お世話をしてきた、東京大学海洋調査探検部が、初参加してくれた。  さて、楽しんでもらえただろうか、ということ。フェイスブックなどで見る反応は上々である。来場されたかたは、たぶん、これまでの大会でも、屈指に喜んでもらえて居たのではないかと、肌で感じることができた。  心残りは、僕が出場しなかったことだった。 

1205 ダイビングの歴史46 潜水と水中撮影入門

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 1978年 昭和53年 潜水と水中撮影入門 後藤道夫 須賀次郎共著 共立出版、この本はSSP 自然写真家協会を創立する竹村嘉夫氏のコーディネートで作られた。後藤道夫と僕の、形に残っている唯一の仕事である。  「水中写真の撮影」1973年から、5年後の1978年の本である。  この本をコーディネートしてくれた竹村さんは、1957年、日本潜水科学協会ができたとき、東海区水産研究所におられた水産大学、水産講習所の先輩で、白井祥平先輩の師匠格であり、「どるふぃん」に水中撮影について何回か、理論的なことを書かれていた。後にSSP 自然写真家協会を設立されて、僕も理事に推薦してくれて、理事になった。ちょうど間が悪く、自分のスガ・マリン・メカニックが戦闘状態になっていて、出席できず辞めてしまった。勿体ないことをしてしまった。その竹村先輩のお世話になってこの本はできた。 
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 今度は、研究者とか、リサーチの撮影ではなくて、レジャーダイビングも視界に入れたもので、「ニッポン潜水グラフィティ」にこの本の紹介をしているので、引用する。 「すばらしい挿し絵を加藤たかし氏に描いてもらって、絵の力を借りて、水中撮影の状況をわかりやすく説明している。 152pのうちで、30pを撮影のための潜水入門に使っている。安全のための潜水システムとして、二人一組のチーム、バディを二つ、4人を最低単位とするのが理想であるとかいた。これは、今の考え方と同じでありダイビングをチームプレーとして、考えている。」 ここまでが、この本の考え方であり、楽しみで撮影する人対象である。 
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 しかしながら、現実には、ダイバーはカメラを持ったら、ソロであり、プロのカメラマンはほとんど、一人で潜る。僕もご多分に漏れないが、それだけに、カメラを持ったら、ダイバーは原則とした自己責任である。ただし、自分の安全のために、プロのガイドダイバーを雇うならば、安全は彼と責任を分け合うことになる。 ※これは、今の考えである。この時代、こんなことは、この本には書いていない。まだ、自己責任が当然の時代だった。  僕は、ハウジングの販売もしていたけれど、同じようにスクーバでの調査仕事もしていたし、レジャーダイビングのクラブ・ショップもやっていた。いろいろやらないと食べられなかったし、また、いろいろやったことで、八百屋になってしまった部分もある。カメラハウジング一本に絞れば、良かったのかも知れないが、後藤道夫のように自分が工作機械を駆使して物を作ると言うことができなかった。自分で行動するとなると、ダイビングだった。だから、次第に調査の方にウエイトが乗り、自分の作ったカメラ機材で調査をするという方向に向かうことになり、一般向けのハウジングからは次第に遠ざかっていく。後藤道夫は自分がカメラマンである比重を次第に少なくしていき、特注の大型機材専門になっていく。 僕が海へ出て行き、後藤が海から陸へ、その交差したのがちょうど、この本のころから、1980年だった。
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 この本で、もうひとつ、自分としてのポイントは、記録カード、撮影記録カードである。 そのころ、自分の調査潜水としての目標の中心は人工魚礁だった。その人工魚礁もそのころ丁度、節目だった。それまでの人工魚礁は、1mとか1.5m角のコンクリートブロック多数を積み重ねて、山にしていく方向だったが、それだと、ブロックがつぶれてしまったり、予定の形に積めなかったりする。それよりも、大きな、一個の魚礁で、1m角の数十個分の大きさにする大型魚礁に変わってくる。その大型魚礁は、各社様々な形を作ってきた。そのどれが良いのか、一カ所に入れてみよう。大磯がその場所になった。 人工魚礁オリンピックなどと言われた。そのオリンピックが何時の頃だったのだろうか、その記録は?とさがしたが無い。その潜水記録カードがここにあった。昭和53年、1978年、この本を書いていた時のことだったのだ。これがなかなか優れたカードだったのだが、このころ限りでやめてしまった。今まで続けていたら良かったと悔やんでいる。 この記録を見ると、タイマーカメラ(一定時間ごとにシャッターが切られる)をセットしていることがわかる。この頃から、スガ・マリン・メカニックは、タイマーカメラ(間歇撮影)を売り物にしていく。
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 なお、この円筒形の人工魚礁は、住友セメントの作ったもので、今、浦安海豚倶楽部(スキンダイビングクラブ)の昨年度の会長さんをお願いしていた玉田さんのお父さん(久木さん)だった。縁は繋がって行くものだ。
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 この本の時代になると各社のストロボが出そろっている。スガ・マリン・メカニックのシーレビン、sea & seaのイエローサブ、後藤道夫が作って東芝が売り出したトスマリーン、サンパックマリーンである。
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 ニコノスはⅢ型になり、超ワイドの15mmレンズも発売された。

1210 人工漁礁研究会 波佐間 12月

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            今回のターゲット オオモンハタ

12月8日 羽左間


 ようやく、穏やかな海で、天気もまずまずの晴れで潜ることができた。メンバーは、須賀、山本徹、早崎、小俣、高野、東大海洋調査探検部、石原、田村
 一回目の潜水は、田村君が遅刻。


 ポイントは、定番のドリームと、その対照区としての大型FP10個二段積(魚礁 NO21)とした。この二つは水深もほぼ同じ。距離の離れ具合も適切で、効果の比較になる。
 一回目がFP、二回目をドリームとした。












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 ログ
2018
 1208
 ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット :] FP  魚礁NO21 公称6m角ブロック10個、二段乱積み  
 ⑤天候 晴れ 薄曇り
 ⑥風  微風
 ⑦水温 22℃
 ⑧透視度 20m
 ⑨潜水開始 11:05 潜水時間33分 ターンプレッシャー 80
  人工魚礁の場合ターンプレッシャー即、直上へ浮上だから、余裕はある。
 ⑩最大水深26,5m  
 ⑪潜水終了 11:38
 ⑬ユニット 須賀 山本徹 早崎  高野 小俣 ガイド荒川 
  東大探検部 石原 
 ⑭バディ 山本徹


 ターゲット魚種を、オオモンハタとした、
 その回のターゲットを決める。
 オオモンハタは、中型のハタで、60ー70cmぐらいが最大であろう。ハタ科の魚であるから高級魚である。釣りの魚としても人気がある。
 この魚、10年前頃には、このあたり(千葉県内房)で、レア、稀とまでは言えないが、少なかった。
今は、この水域の人工魚礁に集まるハタの類としては、これが一番多くみられ、前に多かったマハタ、キジハタなどが、見られなくなってきている。なお、オオモンハタのことをキジハタと呼ぶ地域もあるが、標準和名では、別の種である。キジハタは、キジハタであり、これも人気のあるハタの類であるから、ややこしい。
 マハタは、超大型になるクエとの区別がこれもややこしいが、昔はその小型時代(成長過程)のものが、ここらあたりの魚礁でよく見られたが、今では、レアになってしまっている。見つけたら報告してほしい。
 オオモンハタの特徴は、尾鰭の最後部が白いフチドリになっていること。メンバーは、オオモンハタの尾数大きさを数える。


 安全についてのブリーフィングは、高齢である(仕方ない)自分の安全策をいう。僕をフォローしていれば、全員、安全、間違いない。(仕方ない)僕は、ショートのタンクで、ターンプレッシャーは、80。
 公称6m角、本当は3m角?の大型コンクリートブロック(商品名FPブロック)10個の2段重ね。
 ダイビングプランとして、僕は、まず25mの海底に降りて、下の段(一階)の魚礁内部に入り込んでいく、良いところを見つけたら、座り込んでしばらく撮影観察をしている。それから、二段重ねの中段、2階にあがる。多分2階にはウマヅラハギがいる。メバルも2階に群れている。注意は、2階にあがったら、1階には降りないこと。これは、減圧症予防のためである。最後に屋上にあがり、ボートと結んでいるロープに伝わって浮上。これも、屋上に上がったら、2階には、原則として降りない。浮上速度はゆっくり、減圧停止 バーでの3分停止。


 自分については、舟に上がるとき、タンクを脱いで、タンクを引き上げてもらってから、上がる。格好をつけて、タンクを背負ったまま上がろう。などとは考えないこと、これで、何度も足を傷めているので、怒られた。(仕方ない)
 この魚礁は、ブロックは大型だが、全体の容積は小さい、誰がどこにいるかは感覚として、つかめる。バディ編成は、須賀は、いつも通り山本さんに確保をお願いする。東大探検部は、早崎さん。今日が初参加の高野さんは古いダイバーでトライアスロンにもでているが、スクーバについては、ブランクではないが、ケアが必要で、小俣社長にバディをお願いする。キャリアの長さも大事だが、今、今年現在の潜水日数、時間数が重要、そして、この場(今日は波佐間)に慣れていること。メンバーの間では、自然とローカルルールが生まれていて、これが安全のために大事。


 僕の装備だが、サンファンのドライスーツ、ウエイトは7キロのベスト、4キロのベルト、1、7キロのレッグ、合計12、7キロ、下着はラパサの普段着で、ダイビング用ではない。15mを越えたらオーバーになるだろうが、BC.でバランスはとれるはず。
 タンクは背負ってから、ボートに乗る。乗り込むときに転んだら終わりだから、先に乗り込んでいた高野さんの肩を借りる。
 
 エントリーは、いつも通り、ボートの上を這っていき、身体を乗り出すようにして、頭から突っ込む。身体が前転して、足が浮く。ドライの空気を抜いて身体を立てる。水面から見たらもがいているように見えるだろうが、仕方ない。幸い流れはない。先行した早崎さんバディが潜降索で降りている途中が見下ろせる。
 僕は索に掴まらないで、自由降下、この前、これで失敗して流されたが、今日は流れもなく、下に魚礁が見える。15mをすぎるとオーバーウエイトになり、落下するがそのまま落ちて膝を突いてドライスーツに少し空気を入れ、BC.で調整して泳ぎ始める。
 長らくダイビングをやっていると、身体の中の感覚センサーが、スタビライザーになっているのだが、今は、そのスタビライザーと身体の動きが同調しない。そのためか、いつも違和感があり、意識していないと身体の平衡が保てない。


 魚礁の一階に入り込んでいく。
 持っているカメラシステムは、オリンパスTG4を黄色の中国製カプセルsea frogに入れ、カプセルの上に、ウエアラブルカメラを乗せている。ウエアラブルカメラは、動画でダイビングの全時間をタイム表示入りで撮影し、オリンパスの方はスチルで、今度は「豊かな海」の表紙にできるようなオオモンハタを撮りたいと思っている。
 しかし、オオモンハタが居ない。前回10月には5尾の群れがいたのに、そして、コンクリートブロックの下の海底との隙間に前回はイセエビが並んでいたのに、それも居ない。
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 イシダイの20ー30cmクラスの群が魚礁の中から外にでて、通り過ぎていく。魚礁の外側を、オオモンハタが1尾通り過ぎて行くので、カメラで追ったが、遠すぎる。オオモンハタは、この1尾だけだ。
きれいなゲンロクダイが居た。好きな魚なので、ねらって撮ったが、後で見ると、やはりちょこちょこと動きが早く、被写体ブレになっていた。
ストロボでないと止まらないのか。


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 二階に上がって、メバルが、をみたが、8尾ほど群れていたが、あとは、点々。いつもよりも少ない。スズメダイ、キンチャクダイ、ハコフグ、カワハギ、遠くにウマヅラハギ、80cmぐらいの大型カンダイ(コブダイ)が魚礁に入って来て通りすぎていった。
 魚類の調査表は、後で、ウエアラブルカメラの動画を見てリストアップする。その方が確実で、間違いがない。
 屋上に上がると、荒川さんが、さっきのカンダイと遊んでいた。このあたりのコブダイ、カンダイはみんな荒川さんに餌付けされている。
 しばらく、荒川さんとコブダイをみてから、残圧は、90ぐらいだったが、浮上した。
 先にボートに上がった荒川さんに背中のタンクを引き上げてもらって、フィンは山本さんに外してもらって、ハシゴを登った。だらしないと思ってはいけないのだ。ドライスーツを着ている時期は我慢だ。
 
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 岸で小俣さんが、オオモンハタは11尾居たという。エーッ、僕は1尾だけ、それも外に居たのだけだ。僕が魚礁の中に入ったので、外に逃げたのかも知れない。といいながら、「そうか」と思い当たった。
 戻ってから、動画を再生して、静止画にして、拡大した。最初に魚礁の一階に入り込んで行ったとき、真ん中のあたりに5ー6尾の魚が群れていた。メジナかと思った。メジナも居たが、メジナよりも細い魚も居た。何だろうと思って、近寄ろうとしているうちに逃げて消えた。拡大して見ると、オオモンハタだ。オオモンハタは、ハタだから、静止しているか、縁の下に逃げ込むかだと、先入観を持っていた。メジナも混じった11尾の群だったのだ。


 二本目の潜水 
 ④スポット ドリーム 
 ⑦水温 21℃
 ⑧透視度 15ー20m
 ⑫インターバル 1:32
 ⑨潜水開始 1312 潜水時間32 分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深22.9   m
 ⑪潜水終了 13:44 
⑬ユニット 須賀 山本徹 早崎  高野 小俣 ガイド荒川 
  東大探検部 石原 東大探検部 田村
 ⑭バディ 山本徹
 
 ウエアラブルカメラ akasoのバッテリーは、入れ替えたのだが、バッテリーを節約しようとして、底に着いてからカメラをオンにする事にした。
そのウエアラブルカメラが、海底でオンにならない。オリンパスで動画も撮ろう。
 ドリームでは、いつものコース、1階を左手から右へ縦断、2階を右から左へ、そして3階を左から右へ、最後に屋上にでて浮上。深くから、浅く、後戻りはしない。
 1階を動画撮影で縦断した。メバルが群れているはずなのに少ない。

 2階に入るとき、考えた。必ずオオモンハタがいる。そのスチルを撮りたい。動画を切って、スチルにして、それからでは、逃げられてしまうだろう。スチルの枚数を多くすれば動画でなくても、大丈夫だろう。スチルだけにすることにした。
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            柱に張り付いているのはカサゴ



 2階には予想通りに、オオモンハタが、ハタらしく静止していた。何枚かスチルのシャッターを押した。数尾が群れている形も撮ったが、これは動きが早く、撮っただけ。2階を終わりまで行って、三階に上がった。オオモンハタは2階に居ることが多いのだが、今日は三階にも多い。昔の人工魚礁調査では、目視して、大きさと数をプレートに鉛筆で書いて居たのだが、今はウエアラブルカメラで記録する。
 そうだ、ウエアラブルカメラがこの回は不調で、回っていない。小さいカメラなのだから、これからは予備のウエアラブルカメラを持っていなければいけないと思う。


 戻ってから、見たのだが、残念ながらオオモンハタの良いショットは無かった。ただ、おさまって写っているだけ。これでは、豊かな海の表紙にはならない。
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 一階にはイシガキダイの20cmサイズが、必ずと言って良いほどいる。イシダイはダイバーを見ると、逃げるというほど素早くは無いが、スーッと通りすぎていく。イシガキダイは脅かさない限りそこにいる。魚種による、魚礁の内外でのダイバーに対する反応、振る舞いの差もおもしろい。
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 ツノダシとムレハタタテダイが舞っていてきれいだった。



 屋上では相変わらず荒川さんがコブダイと遊んでいる。僕たちのことをウオッチ、見張りながら、コブダイを慣らしている。そして、浮上に際しては、僕を追い抜いて舟にあがり、僕のタンクを引き上げなくてはならないのだから、なるべく浅い水深にとどまらなくてはならない。


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 ターンプレッシャーは、ぎりぎりの80。少し上がって、山本徹さんを待って、浮上サイン。
 安全停止もして、荒川さんにタンクを引き上げてもらう。実はそのこと、自分で自分のすべてができなくなっていることに、大きな心理的な抵抗がある。ウエットになったら、全部自分でできる。サンファンのドライは動き安さではウエットと全く変わらない感じなのだが、浮力だけはどうにもならない。浮力に対応するウエイトが必須なのだ。
 
 今回のダイビングで、FPとドリームの違い、容積(魚礁の大きさを、空リューべで表現することが多い)だけではない内部形状の差による魚種と魚の振るまいのちがい。一階、二階、三階の差、ウエアラブルカメラによる記録方法の研究、とチームの役割分担など、考えるテーマが増え、見えてきた。
 また、今回は常連の増井さんが欠席で、初島のダイワハウスにいったが、ここで研究した調査手法を他の地域の魚礁で応用してみるということ、これこそが目指していることであって、やがては議論ができるようになる。それを全国に広げる、となると、もはや、僕の限られた時間では、残念ながら不可能だが、糸口は作ることができるかも知れない。
 
 ようやく、この研究会でなにをするのか、なにを報告して行くかの輪郭が浮かんできた。
 そろそろ、これまでの成果とともにまとめる準備をして行きたい。

1213 ダイビングの歴史47

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日本最初のスクーバダイビング事故(1954)  水中撮影を追って、1978年まで来た。ここからまた時間を遡って、1967年、日本水中科学協会が消えるところに戻ろうとしていた。 しかし、ある事情で、はっきり言えば間違いを指摘していただいて、1954年、日本で最初のスクーバダイビング事故、千葉県小湊での東京水産大学学生の潜水実習での事故まで戻ろうかと迷っている。こうして書いているのだから、戻ったわけだ。  この1954年の事故は、僕の「ダイビングの歴史」の芯であるスクーバダイビング事故小史の、そのまた芯だと考えている。そして、「スクーバダイビング事故小史」の発端と予定しているので、そこに戻れば、事故小史を始めないと繋がらなくなる。でも、今はまだ事故小史には行かない。でも、僕に残された時間はそんなに無い。  とにかく、1954年の事故、間違いを訂正しつつ、もう一度まとめておこう。  まず、1954年の事故・間違い編、これは、2018年2月7日のブログ、「スクーバダイビング事故の歴史 1」である。 この部分は間違えたとはいえ、自分にとっては、非常に重要、自分のダイビングの原点ともおもって抱き抱えてきた。そして、そのおかげで、現在も生きながらえているとも考えているので、書き直しスタートにあたって、手直しをしつつ、間違ったままここに収録する。 以下は 2018年2月7日のブログに若干の改訂を加えたもの。  「スクーバダイビング事故の歴史 1 」 スクーバダイビングは安全か?阿呆な議論をしたこともあったけど、その議論を含めて、ダイビングを始めた時から、生きる、死ぬと付き合ってきた。その視点から、ここでは、事故の歴史、と言うか、僕の事故とのつきあいの流れを書く。  1953年に日本にスクーバダイビングが導入されてからの、事故、の歴史を振り返って見よう。自分の目(視点)から見た、あるいは自分が体験した事故についてである。ここまでも再三述べてきたように、物事は、誰がどんな思いで、どこから見たのかによって大きく変わる。したがって、別の視点、別の解釈も当然ある。それはまた、それで、見て、読んで自分なりの結論が見いだせれば、良い。 ここで目指しているのは、ダイビングの運用、やり方を論じて行く、ダイビング活動運用学とでも言おうか、人間が生存し続けられない水中という環境に入っていって、目的を達して無事に戻ってくる。それには、どうしたら良いのかというやり方の研究である。 潜水医学とか、生理学の研究は、また別にある。それを基にしてどうしたら良いのか、どうすれば良いのかである。それをまとめて運用学と呼ぶことにする。医学とか生理学は、間接的なことであり、運用は直接的なことである。 運用は理論の実践である。実践の過程で起きた失敗、あるいは悲劇的な結果を、経験という。人はほとんどのことを経験から学ぶ。失敗は二度と繰り返さないのが理想である。すべての失敗が繰り返されないようになれば、成功だけが残る。そんなことは理想であり、実際には在り得ないが、失敗から学ぶことによって、失敗の被害を最小限度にとどめることは出来る。潜水、ダイビングとは、特に経験から学ぶことが多い活動である。しかし、経験とは個人が持っているものであり、そのままでは、他の人には役立たない。 それを文章に表現することによって、他と共有することができる知識になる。こんなことは誰でも知っていることであり、取り立てて、述べることでもないが、スクーバダイビングの失敗の結果、経過を日本では、できる限り隠そうとする。つまり、知識とする事を否定するのだ。 いろいろあるけれど、ダイビングの事故は、殆どの場合、本人が悪い。本人の責任なのだ。それを暴き立てることは、死者への冒涜であり、そしてそれは、やがては、我が身の出来事なのだ。こんなことを書いている自分は、やがて、ダイビング事故で死ぬかもしれない。 そして、事故は、個人的なことであることが多く、事故原因を追究すると、プライバシーに言及することにもなる。現況では、ダイビングの事故は、賠償にも関わるので、慎重に扱わなければならない。すなわち、あまりしつこく追求すれば、それは我が身に返ってくるブーメランだ。 一番いいのは具体例はのべないことである。しかし、それでは、具体例、すなわち経験を知識に変換することができない。   「日本初のスクーバダイビング事故」 日本にスクーバが正式に紹介されたのは、1953年、東京水産大学安房小湊実習場であった。その時に教えを受けた宇野寛、神田憲二らが、日本での正式なスクーバダイビング技能講習を開始する。 それまで、進駐米軍関係者から手ほどきを受けた、という人が何人かいるが、それは講習と呼べるものではなかった。 その日本初の講習で、死亡事故が起こる。1954年の夏、小湊実習場で、学生に対する講習が行われた。日本初である。僕(須賀)が東京水産大学に入学したのは、1955年であるから、この事故には立ち会っていない。 事故のあった講習での指導教官は恩師である宇野寛(後に名誉教授)で僕はやがて、宇野教室で卒業論文を書くのだが、この事故について言及されることは無かった。不遜な事をいえば、きちんとした報告書として、残してほしかった。  報告書が無いので、時にふれて、断片的に先生に聞いたこと、また実習場の古川技官に質問して断片的に聞いたことなどを総合して状況を類推した。あくまでも類推であるが、これはこれで、調査結果という、一つの報告ではある。  宇野教官は現場にはおられなかった。講習中であれば、不在はありえない。だから、事故は講習終了後だと考えた。死亡したのは旭さん伊藤さんの二名で、実習が行われた実習場前の入り江で、エントリー場の小さな桟橋から沖に向かった。誰がどこから見ていたか不明だが、見ていると一人が浮上して、助けを求めるように手を振った。その後沈んでしまい、見ていた者が異常を感じで小舟を出し潜ってみたところ、二人を発見し引き上げたが蘇生しなかった。 なお、この小舟は何時も桟橋にもやってある艪漕ぎの木船で4人程度が乗れる。遊びで艪漕ぎの練習をよくしたもので、大学の実習場でこのような小舟に普通に名づけられる「サジッタ(プランクトンの名前で日本名は矢虫)」であり、実習中はダイバーの気泡を追って付いている。艪漕ぎの船は視点が高いので、気泡を追って漕ぐのに適している。 二人が何の目的で、何をしていたのかわからない。一つは、実習に使用したロープ片付け撤収、何か探し物をしていたのかも知れない。あるいは、何か理由をつけて、遊び的な体験ダイビングをしていた。この二人は泳力抜群で、実習の成績はトップであった。ロープの撤収であれば、小舟が追従して引き上げなどを行うだろうから、片づけとは考えにくい。が、考えにくいことをやっていたかもしれない。 とにかく、二人はバディを組んでおり、そのうちの一人が浮上して救助を求めている。当時、事故原因は、息を止めての急浮上による空気塞栓だとも言われたが、実習の初めから、息を止めての浮上は固く戒められており、二人が連続して肺破裂をするとは考えられない。なお、解剖所見などは公表されていない。 ※後述するが、ここに書いた推測はすべて間違いだった。  この事故は学校側の刑事責任が問われる裁判になっていて、現場の責任者である、宇野講師(当時)が矢面にたっていた。この講習の翌年は講習は行われず、翌々年の1956年に講習が再開された。講習は3年次に行われるものであり、当時3年生であった、竹下、橋本両先輩らが受講している。聞けば、ロープを体に結び付けて、鵜飼の鵜のような状態で講習が行われたと言う。その翌年の1957年に僕が受講する年次になるわけだが、鵜飼の鵜にはなりたくなかった。幸い?にして僕の年次からはロープは付けられなかった。スクーバの最大の特色は、ロープなどで拘束されていないことであるから、拘束を実習で続けるのは無理である。 刑事裁判が続行中であるにもかかわらず、実習が再開された恩恵で僕は実習を受けることができたが、当事者であった宇野寛先生の心労は大きなものであったとだろう。しかし、その心労を私たちに語られたことは無かった。これも、語られた方が良かったと思う。 責任追求の具体点は、小舟のサジッタが頭上の水面に居なかったことであったと聞く。そして、僕の四年次に先生に聞いた範囲では、「疑わしきは罰せず」だったという事であった。舟が頭上に無かったことの責任を問われて有罪であったとするならば、その後、すべてのスクーバダイビングで小舟を頭上に置かなければ、刑事裁判で有罪になってしまう。即ち、スクーバダイビングはできなくなってしまう。 ※書類送検を受けたという話も聞いている。  この事故は、その後、数えきれないほど起こる原因不明、予測不可能の第一号であった。事故の原因は当事者、本人でなければ正解はわからない。そして、事故は強者に起こることが多い。理由は簡単、強者は自分でも、他からもケアを受けていないことが多い。しかしながら、強者がケアをしないことも自然であり、自分にしても、強かった年齢、体力の時は、自分は死なないと思っていた。  この事故で遺族からの民事訴訟が起こされていたかどうか知らない。  自分についていうと、バディが居たからと言って事故を防げない場合もある。頼りになるのは、頭上に置くボート、小舟である。出来うる限り、小舟、ゴムボートを置くようにしようと考えるようになった。以後、何回か、頭上に置いた小舟で事故が大事に至らなかった経験がある。陸上からエントリーできるということは、スクーバの大きな有利点であるのだが、それがために起こる事故も多い。  この事故のことについて、1957年、自分が水産大学3年生、ダイビングの講習を受けた時から調べ続けている。ダイビングの恩師であり、先生が亡くなるまで、師事していた宇野寛先生が、この事故の責任者の一人である。晩年になってから、もういちど聴き直せば、もしかしたら語ってくれたかも知れないが、チャンスが無かったし、やはり遠慮があった。  もう一人、1956年、奄美大島に連れて行ってくれて、生まれて初めてのスクーバダイビング体験をさせてくれて、その後、今日に至るまで探検、博物学について兄事している白井祥平先輩が、この事故の時に、同じ講習に参加している。一緒に泳いでいるはずだ。本当のことを教えてくださいと頼んだが、なぜか、言を左右して詳しく教えてもらえない。  今年、2018年になり、ダイビングの歴史を書き始めたこともあり、互いに高齢である。このところ、お目にかかっていないこともあって、訪問したときに、もう一度詳細をしらせていただけるようお願いした。 今度は教えてくれて、その事故、死の直前に撮った記念写真ももらってきた。 そしてなんと言うことだ、先輩はこの事故のことを本に詳しく書いていたのだ。先輩の書いた本、多数だが、その殆どを僕は持っているのに、この本だけ持っていなかった。その理由は、この本が青少年、子供向けに書かれたものだったからだと思う。  以下続く

1214 ダイビングの歴史 48 1954年の事故2

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 以下は、1975年発行の 現代こどもノンフィクション「サンゴ礁探検」白井祥平著からの書き抜きである。
 アクアラングと言う名称でこの潜水期がはじめて日本にお目見えしたのは1953年のことでした。アメリカの地質学者、ロバート・ディーツ博士が持ち込んできたのですが、千葉県の小湊の海で初めて実験潜水が行われたときには大騒ぎになりました。 小湊は鯛の浦があり水面から鯛が観られるので有名なところですが、潜水実験をしたために、鯛が浮かんでこなくなったからです。 わたしはそのとき、たまたま大学の実習で小湊に滞在していました。 仲間たちと小舟に乗って見学にでかけましたが、この時の印象は忘れることができぬほど強烈なものでした。 見るからにスポーティで軽そうなゴム製のマスクやフィンを着け、ボンベを背負って海に飛び込む博士の姿は、わたしには英雄のように見えました。  小湊でのスキューバ潜水を見学した翌年、二台の小さなスキューバが水産大学に輸入されたのです。そして、私たちが丁度潜水実習を受ける年に当たっていたので、日本で初めてこの機会を使っての潜水を体験することになりました。

 ※水産大学に来たアクアラングは2台だけだった。空気を充填するコンプレッサーは、空冷のインガーソルで、1本を充填するのに1時間あまりかかった。120キロならば40分あまりだったから、たいていの場合、120キロで止めた。また、そのころの国産のボンベ、マンガンスチールは重点圧120キロだった。今でも、広島大学の豊潮丸は、120キロまでの充填ですませる。120キロがコンプレッサーのパフォーマンスが良いのだ。
今、レジャーダイビングでは、ナイトロックスなど普通に使うようになったが、学術研究の世界でのスクーバダイビングは、充填圧120キロの空気なのだ。

 潜水を習う学生は13名、機械は2台しかないので、A班とB班の二班に分かれて交代で練習することになり、わたしは班の班長として7名の仲間たちと、はやる心を押さえて実習の日をまちました。 わたしはこれまで水中マスクをつけて何十回、いや何百回となく海に潜ってきましたが、しかし、いずれも一回に30秒という短い時間しかもぐることはできませんでした。 でも、今日の実習はちょっと違います。 実習はマスク式潜水を使う潜水と、スキューバをつかう二通りを行うことになっていました。 が、マスク式潜水による潜水を早く終えてスキューバでの潜水をと、だれもがスキューバを背負うのを待ちかねていました。

 ※マスク式は、空気嚢をつけている旭式で、張り出した磯根の上にコンクリートで8畳敷ほどの平坦な台地(潜水台と呼んだ)をつくり、その上に空気ポンプを置いて、ホースでマスクに空気を送る。アクアラングがくる前、1953年まで、水産大学の潜水実習は、このマスク式だけだった。空気に制限がないこと、ホースにつながれていて安全で、耳抜きとか、潜水の初歩的なことを実習できる。

 いよいよ、スキューバによる潜水実習が始まりました。 わたしたちは機械に使い方を教わったあと、最初の練習はロープを伝わって海底までもぐり、また帰ってくるというたいへん簡単なものでした。 わたしの番がきました。重いボンベを背負い、大きなフィンを履きました。そして腰になまりの錘をつけて潜水台にたったときには、なんだかこの世もこれでお別れのような不安を感じました。ところがいざ海中にはいってみるとそんな不安は一ぺんにどこかに吹っ飛んで、もう、あたりの景色を見るのに夢中になっていました。 4m、5m、深くなるにつれて耳が痛くなります。水深計を見ると、8mをさしています、(あ、ここで耳抜きをするのだな。) すばやく唾をのみこむと、ぷすんと音がして、急に耳が軽くなり、痛みが感じられなくなりました。(きれいだな。なんというすばらしさなんだろう。) ゆっくりと海中をみたこの最初の体験は、「すばらしい」という一語につきました。この時の感動は、その後何年も、ずうっと海に潜り続けているわたしの心に消えずにのこっているのです。 いったい何分間海中にいたのか、潜水台にあがったときにはわかりませんでした。 午前中の初潜水を終えた私たちは、ただ興奮して、思い思いに感想をはなしあいました。そして昼休みも早々に切り上げ、再び潜水台にもどるのでした。 「今度は、ロープをもっと深いところまでおろしてみよう。」 午後からは20mの深さまでロープを沈めて潜水することになり、その作業を元気者の旭君と伊東君が受け持つことになりました。(今度は、できるだけ長い時間、潜っていよう) 海面から消えていくふたりを見送りながらわたしはそう思いました。 ふたりがロープを持って潜水している間、二回目の潜水に思いを馳せていたせいか、作業の時間がすこしかかりすぎているのに誰もきがつきませんでした。 (ちょっとおそいな) 何気なく時計を見たわたしは、もう10分もすぎていることに気づきました。しかし、だれもふしぎに思わぬようなので、(きっと作業を終えて、あたりを散歩でもしているのだろう。なあに、大丈夫)と私はむりに気持ちをおちつかせるようにあたりをみまわしました。 すると、今まで笑い声を出していた仲間たちも、顔を見合わせ、何か不吉な予感にでもおそわれたように、海面をながめてているではありませんか。 「あっ、あれは!」 ちょうどそんなとき、100mほど沖合に一人が浮上しました。手を振っていますが、マスクをつけているので、どちらかを見分けることはできません。ただ、異常事態が起きたようにもみえなかったので、私たちはほっとして合図を送りました。するとまた彼はもぐってしまいました。 「あれは、旭と伊藤のどっちだろう。」 「ずいぶん遠いところで遊んでいるな」 などと話し合いながら、私たちは二人の帰りをまちわびました。 ところが再び姿をあらわしたのは、さきほどよりもずっと遠い、はるか沖合いだったのです、おまけに今度は、事態が切迫しているのか手のふりかたがおかしいのです。 「これはいかん!すぐ救援だ!」 宇野教官は、真っ先にロープを持って飛び込みました。 はじかれたように立ち上がった私たちは、一斉に行動を起こしました。あるものは連絡船の現場への急行を頼みに行きます。
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 ※ 2018年、白井先輩を訪ねて、事故当日、事故直前に取った記念写真をいただいてきた。潜水台の上である。左端と右端が亡くなった旭さん、伊藤さん、右から4人目、前列が白井先輩、左から3人目キャップをかぶっているのが猪野峻先生であり宇野先生の姿はない。 宇野先生は現場にはいないはず、なのになぜ、ロープを持って飛び込んだのが、宇野先生なのだろう。宇野先生は、記念写真を撮ったときはまだ、現場に来られていなくて、所用で遅れたのだろう?  ※そのころ、小湊実習場は、小さい水族館になっていて、当時としては立派な観光施設です。湾の対岸は日連上人が生まれたと言われる誕生寺があり、誕生寺の沖では、上人の誕生を祝って、めでたい、と鯛が水面で跳ねたといわれる鯛の浦があり、観光船がその上に行って船縁をたたくと鯛が出てきます。そのご観光客が餌をやるのですが、これはいわゆる音響馴致と呼ばれる餌付けなのですが、誕生寺と対岸の水族館を結ぶ観光の通船があり、その舟が水族館側、こちら側に来ていたらしい。

 あたりの岩場に散らばっている非常用のロープを集めて次々と仲間に渡しました。一本のロープでは短くて、次々とロープをつながなければとても遠くて届かないからです。 「がんばれ、たのむぞ」仲間たちは飛び込んでいきます。 「あっ、浮いたぞ、もっと沖の方だ。」 はるかかなたに見え隠れするように浮上したのは、旭君か伊東君かまたくわかりません。一回目の浮上から、すでに5分も経っています。はらはら見守るうちに、ようやく連絡船が到着し、先頭の泳者がしっかりとダイバーのからだを抱き抱えるのが見えてほっとしました。 しかし、まだもう一人の友人が発見されていないのです。万が一を考えて頼んだ本職の潜水夫や医師も到着しました。 私たちは潜水夫に海中の探す場所を教え、その方は本職に任せて、たった今陸上に担ぎ上げられた旭君の救助に全力をあげるようにしました。 旭君は呼吸もとまり、仮死の状態でした。私たちは交代で必死になって人工呼吸を続けました。 しかし、そのかいもなく、午後九時旭君は帰らぬ人となってしまいました。そして、伊藤君も後から死体となって発見されたのでした。 この事件以来、私たちは多くのことを学びました。ダイビングはたとえ現在のように器械が改良され、潜水技術が普及したとしても、いつも「死」に直接つながっていると考えなければいけないということです。陸上と条件がちがう海中では、あらゆることに注意し、いつも初心者の心構えを忘れては行けないと言うことを私は肝に命じました。」
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 これが1964年の事故の事実である。 私見だが事実と真実を区別して考えている。事実とは、起こった事のそのままを言う。真実とは、その事実がなぜ起こったのか、そのなぜを追求する。現在、ダイビング事故が起これば、ほぼ必ず訴訟が起こる。訴訟は、事実がなぜ起こったのか、真実の追求とされている。 白井先輩からいただいた写真の裏には、几帳面な先輩らしく、きちんとタイプした付箋が張り付けてある。 「東京水産大学増殖学科3年夏期実習の折、千葉県小湊実習畳において潜水実習を受ける。佐々木忠義教授がフランス「スピロテクニック社」から導入したジャック・イブ・クストー開発の新型潜水機「アクアラング」及び「アサリ式(旭式)簡易潜水機使用。実習責任者海老名謙一教授、潜水実習担当 「水産庁東海区水産研究所魚介課長猪野峻助教授、実習場主任宇野寛助手による。※職名はいずれも、当時 全員水産講習所養殖科出身の直径の先輩である。 「スキューバ」体験実習初日、同級の旭莞爾、伊藤国彦君事故で水死。猪野峻助教授と宇野寛助手は、海老名謙一教授とともに、「木更津検察庁に送検され、裁判で過失致死の判決を受ける。この課程においてわれわれは、重要参考人として検事の取り調べを受け証言までさせられる。      写真は1954(昭和29年)8月2日 通称潜水台にて  この項、最初のブログ記述で、宇野先生が、僕たちに1958年、「疑わしきは罰せずで無罪になった」と喜んでおられた、と書いた。これは、おそらく、有罪判決を不服として上告されていたのだと思う。  ここで自分なりの、現時点での真実、なぜ、どうして事故が起こったのか、自分の視点で考えてみよう。 宇野寛助手、僕が師事していたときは、講師、やがて教授、退官して名誉教授になられた。日仏海洋学会での功績によりフランスより叙勲されている。 海老名教授は、1955年僕が水産大学入学の一年次の海洋実習で、館山の実習場でアクアラングを背負って泳いで見せてくれて、それを見て、僕はアクアラングをやろうと決意したものだった。魚類学の先生で、小湊の実習場で一緒に卓球をして遊んだ。ペンホルダーで、どんな球を打ち込んでコツコツと返される。僕よりも強かった。 猪野峻先生は、のちに日本潜水科学協会、海中開発技術協会の会長をされ、これも直接に教えを受けた師である。 足を向けて寝てもいけない。生きておられたら、とうていこんなことは書けなかったろう。良かれ悪しかれ僕らはそういう文化の中で生きている。 しかし、この事故は日本でのアクアラング潜水、スクーバダイビング最初の事故である。そして、さらに後述するように、僕の以後の潜水に大きな影響をあたえている。事故小史の第一ページでもある。  まず、二人は、ロープを持って入っている。1本のロープに二人である。完全にバディシステムで行動するだろう事が予測される。そして、午前中の潜水で、何の問題も無かった。そして、旭さんも伊藤さんも水泳が得意だった。得意だったから、最初のライン引きを任された。ラインを伸ばして潜っていき、それをたどって戻ってくれば良いだけ。危険な要素など何もない。 気になるとすれば、ロープを引いてのサイン、を決めていなかったらしいことだが、それも、後述するように、僕らがラインを多用し、それを引くときに、その都度、そんな打ち合わせをしたかと言えば、していない。 その後、僕らが行った無数の初心者講習で、ラインを持たせたのが何回あっただろうか、日本潜水会の教範(マニュアル)には、ラインはでていない。後で述べるが、僕だけは全日本潜水連盟の指導員講習でラインにこだわっているが、それは、この事故の影響もあってのことであり、一般の講習では、ラインは使われていない。 ※最近、ラインが使われるようだが、それは一般には最近のことである。 指導の先生方の責任を問うのは、現在の時点でも難しいだろう。2台のアクアラングで、7人を(写真を見ると12人これを二つにわけたのだろうが)潜らせるのは無謀?しかし、2台しかないのだ。僕が1956年、奄美大島でスクーバの体験を白井先輩の下でやったとき、タンクの圧、20キロで潜った。7人が2台で、無くなりかけている空気で潜らせるならともかく、この事故は、まだ、空気が十分ある、第一回の二人で起こっている。  猪野先生、宇野先生等がここでラインを使わせているのは水産の出自だからで、安全のための物理的手段として、ラインがもっとも確実である。 ラインを持ってラインを引きに行った二人がこんな事になるとは本当に想定外である。 事故は想定外で起こることが多いが、その時点で、想定外であったことを罰することは難しいだろう。  最近、学生を指導するとき、注意する事項として「空気」をいう。安全だ、決して何も起こらないと全員が考える「空気」である。 猪野先生は、素潜りの達人であった。先生の目から見て、この練習に不安を感じなかったからと言って、責められるものではない。全員が事故など想像もできなかった。「安全」の空気である。しかし、現在、どのダイビングサービスに行っても、「安全」の空気の下で楽しいダイビングが行われている。 「安全」の空気を作ること、パニックの要素を消して、楽しく潜らせる事が、インストラクターのガイドダイバーの任務である。 先生がその存在で安全の空気を作らせたからと行って、1954年のこの時点で責められるものではない。 強いて言うならば、ロープを持つ二人の上に、何人かが水面に浮いて見張る必要があったのかも知れない。しかし、このころ1954年、スノーケルはまだ使われていない。 言えることが一つだけある。一人が浮いてきたとき、水面に小舟があれば、そして小舟は使おうとすれば、使えた状況にあった。だから、検察はそれを問題にしたのだろう。しかし、ダイビングは、必ず水面に小舟を浮かべてしなければならない、などというルールはない。  ところで、この二人に何がおこったのだろう

1218 ダイビングの歴史 49 1957年のスクーバ講習

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           原田進 僕のバディ


 そうだったのだ。僕が受けた1957年の潜水実習は1954年の事故を底に敷いて改善、組み立てられていたということが、今わかる。 1954年に事故があり、1955年は潜水実習は行われなかった。 1956年、僕らの一級上、竹下さん、橋本さんの代に潜水実習は復活する。そのときの実習がどんなものだったか、僕は見ていないからわからないが、ロープの一端が身体に結びつけられ、櫓漕ぎの小さな和舟サジッタに先生が乗って、宇野先生がロープの端を持っている。長良川の鵜飼い状態で実習が行われた。これも伝聞だから、事実は、はどうだったかわからない。 が、とにかく、そういう話だった。 そして、僕は、鵜飼いはいやだと思った。自由に魚のように水中を泳ぎたい。それこそがジャック・イブ・クストーのコンセプトではなかったのか。一方で管理者は、事故が起これば紐をつけたくなる。この自由と管理はこの事故史の根底を流れる考え方であり、重要なことなのだ。覚えておいてほしい。 そして1957年、僕たちの潜水実習では、紐は使われなかった。僕たちの宇野先生は、かなり大胆な人だったのだと思う。
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    中央が水族館、左が実習宿舎水族館の二階が実験室


 ここで、小湊の実習場エリアの説明をすると、安房小湊は内浦湾という小さな湾を囲むような町で、湾の奥が、安房小湊駅、駅から沖を見て左手に日連上人が誕生したと言われる所以の誕生寺があり、寺の門前町を作っている。右手に水産大学実習場がある。現在は千葉大学に移管されて、千葉大学バイオシステム研究センターになっている。 水産大学実習場は、湾の右手に広がる磯の小さな入り江の奥に位置する。実習場は小さな、それでも瀟洒な円形建物の水族館になっていて、一階が水族館、二階が僕たちの実験場だった。水族館という観光施設を作る代償として、この両側が磯根の小さな入り江が禁猟区になっていて、僕たちの実験エリアである。この入り江が潜水実習プールでもある。
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舟着き場、サジッタでは無いが、同じような和舟が着けている。
これは漁師さんの舟、艪漕ぎで漁をした。エンジンは付いていない。


 1954の事故から3年後の実習は、小高い実習場から磯に降りていく階段の下の小さな桟橋から沖へ、沖へと言っても、入り江の入り口あたりまで、80mぐらいのラインを海底に伸ばして、そのラインに沿って、ラインの両側3mほどの幅の、つまり、幅が6m、長さが80mの短冊型の区域、の内、プールのようなものの内側で行われる。ラインを引くのはダイバーではなくて、サジッタからロープを繰り出す形で引いた。1954年には、ロープを曳いていて死んじゃったのだ。僕は、実習が終了して、ロープを回収しているときに起こった事故だと思っていたのだが。

 この桟橋から右手に15mほど、行くとサジッタを引き上げるスロープがある。ウインチを巻いて引き上げる。そこから左折するようにコンクリートの、巾1メートルほどの路が磯根の上を通っている。この路を30mほど行くと、マダイを飼っていた生け簀がある。観光客がこの生け簀で餌をやって、タイが餌を食べるのを喜んで見るわけだ。もっとも、タイと言っても、タイは、1ー2尾で、主にはメジナだけど。これは、対岸の鯛の浦でも、同じで、鯛よりもメジナの方が多い。その鯛生け簀の左手に張り出した磯の先に潜水台がある。 
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     現在はの千葉大学に移管されている。小舟を引き上げるスロープは残っている。
              小舟は無い。
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          現在、生け簀に魚はいない。昔あった手すりも無く、荒涼
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             磯根 左手が潜水台


 潜水台の上に手押しポンプをおいて、軽便マスク式の体験から潜水実習が始まる。軽便マスク式ライトウエイトのマスクは、水産に多く使われている。伊豆七島の追い込み網、テングサとり、北海道サケマスの流し刺し網で、網がスクリューに絡まったときの除去作業など、ホースで空気を送る式だから、面マスクを付けて、水に入っていけば良いだけだ。鼻をつまむことができないので、唾を飲み込む耳抜きになる。これは、深く潜らなければ、水深2mほどで這い回っているうちに自然と抜ける。本当に簡単、この簡単の延長線上で、タンクを背負って簡単に潜った。危険なの爪の先ほども考えなかった。1954年の事故の大本だろう。 
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 マスク式が終わると、手前の舟着き場から潜水台に向かってロープを引く。今度はサジッタで引く。ロープが浮かないように、所々に鉛を付けて降ろし、伸ばしていく。 このロープに沿って、潜水台と舟着き場の間をフィンとマスクで泳ぐ。そのころはまだ、スノーケルで水面を泳ぐと言うことをやっていない。呼吸は水面に顔を上げて呼吸する。そして、水中に潜って泳ぐ。僕はそれまで、葉山の磯でさんざんす潜りをやり、1956年、一年前には奄美大島でもぐっているから、もちろん、一番上手で、そして、潜水実習参加の同級生はみんな兄弟のようなものだ。 そのころの水産大学は、養殖学科(ぼくたち)が50名、製造学科(食品加工)が50名、漁業科(漁船にのって漁をする)が100名、併せて200名が一学年、それが4年として、800名、大学院に相当する専攻科が100名あまり、あわせても1000人にも満たない。 増殖学科は、養殖と資源に分かれるから、25名ずつ。これで、4年間、船に乗ったり実習の多い学校だから、本当に仲の良い友達ばかりだった。1954年には、その兄弟の2名を亡くしたのだから、白井先輩たちは大きな悲嘆とショックだったろう。 マスク式とスキンダイビングで二日間、三日目からスクーバ、アクアラングになる。潜水実習に参加した人数を数えてみると、9名だ。僕の終生のバディであった原田、後に日本アクアラングの社長になった上島さん中央水産研究所の所長になった原、南米に渡って成功し、お金持ちになった清水、カナダでマグロの蓄養で成功した松原、岐阜で水産試験場の上長になった立川、大島の水産高校の先生になった鈴木、残念なことに早く逝ってしまった。大阪で商売人として成功した伊藤 であった。今でも、この時代、この時、この実習の底抜けの楽しさ、いま思い出すと涙が出てしまう。なかの良い友達と、好きな、そして待ちこがれていた潜水、アクアラングの実習ができたのだ。
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 この実習に東京から、医科歯科大学の梨本先生が来てくれて、潜水医学の講義をしてくれた。絶対に息を止めて浮上してはいけない。浮上するときは声を出す。減圧症の予防、1942年版の米国海軍の表、このとおりに時間をとって停止して浮上すれば、減圧症には97%の確率でならない。なったとしても、腕が痛くなる程度で、病院で完治する。などを話してくれた。
 タンクの数は何本だったか覚えていないが、4本か、5本だった。午前中の実習で、減った分を、昼休みに充填する。120ぐらいになったものを持ってきて、循環式に使う。ほぼゼロになるまで吸うが、水深は2m前後だから、空気の無くなる感覚をつかむことができる。レギュレーターは、次第に苦しくなり、吸うのに苦労する段階で終わりにして、充填の小屋にそのまま背負っていく。 まずは、ラインにそって潜水台への往復、もちろんバディは並んで泳ぐ。次に、マスクなしで、往復、その前のスキンダイビング練習の時にマスククリアーは、イヤと言うほどやった。タイムを計って競争した。5秒くらいでできなければいけない。 ラインに沿っての往復は、必ず別のバディが水面を泳いで監視する。 そばにはサジッタを浮かべて気泡を追う。櫓漕ぎの練習は楽しかったので、僕は得意だった。潜るのが二人、水面監視が二人、櫓漕ぎが二人、助手のなぜか、魚類学の、服部仁講師、(すぐに海老名教授のあとの教授になる)が来てくれて監視に回ってくれた。それに宇野先生が総指揮で、回していく。 次に、舟着き場の前、水深1mで水中脱着の練習、そこここにウニがいるので、ウニに苦労した。 次にバディブリージングで潜水台を往復。ここまでを二日間、スキンダイビングの二日をあわせて4日になる。最後に、潜水台から、ロープを引かないで、1954年の事故が起こった深みへ、水深10mぐらいまで行く、もちろん、サジッタで気泡を追う。 この一週間の講習が、そのあとも、長い間、1967年に日本潜水会ができ、浅見さんのNAUIスタイルの講習になるまで、僕のスタイルになった。その後で作った潜水部の講習もこのパターンだった。 この講習の終わり近く、一番上手だったバディがラインを回収して、サジッタに上げた。僕と原田のバディがこれをやった。 この形は、後の日本潜水科学協会の中級講習でも踏襲されている。
               続く

1220 ダイビングの歴史 50 1954年の事故

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 ダイビングの歴史 50  追悼記念像 「波」「1954年8月2日 千葉県小湊実験場でアクアラングによる潜水実習中に遭難死した増殖学科3年 旭莞爾、伊藤国彦 両君を追悼し、事故再発防止を祈願して製作した。1955年小湊実験場に設置したが、1985年千葉大学への移管により、同実験場より移設した。

 さて、この項の終わりに、間違いの訂正を一つ。  「水中写真の撮影 1973 」の共著者、小池先生からのメールである。

「ご無沙汰しております。最近須賀さんのブログを拝見し、少し気づいたことがありましたのでご連絡させていただきます。*0920(9月20日)ダイビングの歴史 で、小湊の潜水事故の部分に関する記述です。「ご遺族が名を刻んだ小さい石碑を建てた」「その碑を海洋大に運んだ」とお書きになっておられますが、小湊の主任教官を務めた私ですが、ご遺族が立てたという海岸の石碑は聞いたことも見たこともないのですが、どなたかの記載記述があるのでしょうか?私が携わった限りでは、水族館の二階に上る螺旋階段の途中に裸婦のブロンズ彫刻が箱のような台座に乗って壁に取り付けられており、これが潜水事故の慰霊碑と聞いておりました。私は実験場主任を拝命していたので、職責上、千葉大に移管されるときにこれを外していったん坂田の実験場に移動して保管しました。その折、木製台座が箱になっておりその中にこれの来歴を書いた書面があったのを記憶しております。その後、折を見て水産大学の水産資料館に移動して保管を依頼しました。東京に移動した後は、水産資料館で立派な台座と追悼記念像「波」の銘板と由来(台座の箱の中に入っていた書面?)を付け、一階の入り口奥に展示されておりました。その後、商船大との合併があり、資料館も建て替えられてマリン・サイエンス・ミュージアムとして更新されましたが、その折に収蔵庫に移動され、現在はそのままの状態で保管されております。先日、海洋大に会議で行った折にミュージアムによって、収蔵庫に入れてもらって確認してきました(写真)。銘板の記載では犠牲者の同級生が製造したと記されております。添付写真があまり鮮明ではありませんが、銘板が読めると存じます。」

像は皮肉なことに、そこにあれば、二人が死ななくて済んだ、櫓漕ぎの小舟を漕いでいる姿のようにも見える。 不思議なことは、この像、小湊でも、東京の品川ででも、何度も見ているはずなのに、誰一人この碑の由来を僕に説明してくれる人が居なかったことだ。1955年に小湊に置かれたのであれば、1957年の潜水実習の前にでも、この像の前に立ち、安全を祈念して実習を開始しても良かったのではないか。  そういう物があったという風聞を聞いて、ブログに書いたことが、小池先生の間違いの訂正で教えられた。 大学にとっても、誰にとっても、この事故は忘れ去ろうとしていたことだったのだろうか。決して忘れてはいけないことなのに。忘れないために作られた像なのに。

 前回に書いた、僕が1957年に受けた実習を、1957年型と呼ぶことにしよう。 1954年の実習も、この僕らのやった1957年型の実習と同じような方法で行っていた、と想像した。自分としては、それ以外の方法は、想像できなかった。だから、サジッタが直上に居なかったことが事故原因だとかんがえたのだ。そして、宇野先生の、ほんのちょっと、この事故について、漏らした言葉も、使える小舟があるのに、それを水面に待機させておかなかったことが裁判で問題にされたということだった。本当に、舟が上にいれば、少なくとも一人は無事だったろうし、もう一人も助けられたはずだった。その、1954年の事故と、1957年型の綾で、以後の僕の潜水は、出来れば小舟を使う、さらに出来れば、ラインを使う潜水を考えるようになった。そして、このおかげで、いくつかの事故を防ぐことができた。  もう一度、1954年の事故の議論だが、さて、この二人に何が起こったのだろうか。二人、バディシステムは遵守されており、ラインも持たせている。ラインを海底に引く、つまり実習の準備行動であるが、そのラインをたぐれば、戻れるわけだし、水深20mと言っても、ラインの長さは多分、50m程度、場所も潜水台、マスク式潜水、そして午前のスクーバ体験で慣れた場所で、流れも波もない。危険は想定できなかったのだ。死んだ旭さん、伊藤さんは水泳は得意だったと聞く。 真実は、亡くなった二人が話してくれる他は無いのだから、類推である。二人のうちどちらかに、陸上での生活ならば、その場に倒れるような事態が起こった。多分、それは循環器障害、腎臓の障害、過労、突然死の原因と同じようなものだろう。それ以後の、自分の潜水、ここから先の事故小史で書くのだが、自分の会社、スガマリンメカニックで、一人は、原因不明で亡くなり、その事故がこの事故小史のラストにするつもりだが、その後、こんなことがあった。潜水の直前に激烈な腹痛が起こってその潜水には参加せず、その腹痛を医者が調べたところ、小腸からの出血で、大変なことになった。それは、リンパ癌から来た、障害で、潜水士の六ヶ月検診では、何の障害もなく、急性のものだった。これが、潜水してからの腹痛だったら、原因不明の急死の可能性があった。一例は潜水の寸前に痛みが起こったから助かり、一例は原因不明でなくなった。僕の60年のダイビングライフで2例である。このような事例を助けるにはバディ、そして、ロープ、直上の舟が必要である。1954の事故では、バディは組んでいた。だから、一人が浮上して助けを呼んだ。水泳が得意、元気者であるとは言っても、実習の第一日目である。ラフジャケットも、もちろんBC.など無い時代である。引き上げて、曳いて戻るだけの能力はなかった。ロープは使い方、打ち合わせの訓練がなかったから役に立たなかった。

 1957年型で行うべきだった、とは、後の祭りである。1954年の反省の下で1957年型が生まれたのだから。そして、以後は、水産大学系列の実習は1957年型であり、僕も以後この型で、講習を行うし、リサーチダイビングを続ける。  たとえば、2008年から今日まで続けてきた早稲田大学の生物化学の標本採集のための潜水、これは、広島大学の練習船豊潮丸での航海だが、知らない、土地勘のない場所での潜水は、ゴムボートを浮かべ、ゴムボートから降ろしたアンカーから。50mの巻き尺ラインを引く、このラインをランドマークにして潜る。
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 たとえば50mのラインの基点がゴムボートの下、水深5mであったとして、基点から海底の斜面に沿って、水深20mまでラインを引く、ラインの右側から左に潮が流れていれば、潮に向かうように右手にむかって採集調査をする。残圧、決めておいたターンプレッシャーがたとえば70になったら潮に乗ってラインに戻る。ラインを回収しながら、ゴムボートに戻る。ゴムボートの下で、残圧を使って、安全停止を兼ねた採集をする。これは、浅い水深からの出発だが、深い水深では、やや大型のボートで、アンカーロープを考えに入れる。 海底地形や、流れ、状況は千変万化だから、その都度約束事は変わるけれど、ラインを芯にしての約束をする。なお、あまり複雑な約束は事故のもとになるので注意する。 流れが強くて苦労したこともあるが、遭難一歩手前になった、というようなことも亡く、安全に10年続けている。少し、油断が出てきたのではないかと思うほど、安全に過ごしてきて。 ラインを張ったら安全だ、などと考えることは、油断であり、危ない。
 ボートまで戻れない突然死に近い場合もあるだろう。それはもう、寿命だとあきらめる他ないが、泳力、スキンダイビング能力、レスキュー能力は常に鍛えておかなくてはいけない。バディ二人が死ぬことは絶対に防がなくてはならないが、それは、泳力、レスキュー能力なのだ。自分の泳力、レスキュー能力と海の状態を照らし合わせて、チームを編成し、潜水方法を決める。

 このことは、事故小史の最後にまた違った形で書くことになる。

1221 1957年のウエットスーツ

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1954年の事故、1957年の潜水実習のブログで出すつもりだったのだが、余ってしまった写真。せっかくだから説明しておこう。
 写っているのは、一級上の橋本先輩、1956年には一緒に奄美大島に行き、ずいぶん世話になった。1958年には一緒に潜水部を作った。
撮ったのh、おそらく1957年の春か秋、僕たちが潜水実習をした夏ではない。ウエットスーツを着ているから、多分秋だろう。
 写っている舟は、櫓漕ぎの和舟 サジッタ(ニックネーム)でずいぶんとお世話になった舟だ。
 さて、着ているウエットスーツだが、1960年にできた、独立気泡の、今のネオプレーンスーツではない。普通のスポンジだ。だから、潜ればつぶれてしまう。色は灰色というかグレイだ。
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 デザインはジャック・イブ・クストーの映画沈黙の世界に出てきたものだ。なので、僕はフランスからの輸入品だと思っていたが、1960年に東亜潜水機に入社して、その東亜潜水機で作ったものだったとわかった。作りかけがあったのでわかった。
 レギュレーターは、フランス、スピロテクニックの言わば純製だ。タンクもスピロのアルミタンク、純製だ。
 場所は小湊の磯、橋本先輩、と同じ年度の先輩竹下さんは小湊で卒業論文の為の調査をしていて、そのとき、この写真は竹下先輩が撮影したものだろう。
 この写真の次の年、僕とバディの原田は小湊に遊びの潜水で行き。子のウエットスーツが実験室にあった。幸い?場長の増田先生は東京に行っていない。無断借用して着て潜った。初めてのウエットスーツだ。それまでは、長袖のセーターの古いの、などを着ていた。独立気泡のスポンジではなかったが、初めてのウエットスーツは、驚異的に暖かかった。寒くないのだ。
 上がってきて、風呂場でスーツを脱いだ。ん、腕がとれてしまった。抜いていくと全部バラバラにはがれてしまった。二人で青くなった。どうしよう。逃げようか。逃げきれるものではない。増田先生に謝った。増田先生は豪快な人で、カラカラと笑って、「いいよいいよ、どうせ誰が着てもはがれるだろうから」残念なことに増田先生は、早くに亡くなってしまった。身体の大きい頑丈なスポーツマンだったのに。
 僕たちが1958年にばらばらにしてしまったのだから、先の写真は1957年だ。
 そして、1959年、独立気泡のウエットスーツ、黒い生地ができ。1960年、海女さんの間で普及し始める。ちょうどその頃、黒いビニール製の人形「だっこちゃん」が流行し、黒のウエットスーツも「だっこちゃん」と呼ばれた。

1222 ダイビングの歴史51 整理

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ダイビングの歴史のブログも50回を越えた。 1954年の小湊、日本初のスクーバダイビング事故、から1957年の水産大学潜水実習、そこから、自分が学んだ事で、その後の自分のダイビングを考え、組み立てたこと、まで書いた。このまま事故小史を書いた方がまとまりが良いのかと思っている。
 一方で年表の細部 年代記は1965で止まっている。海底居住で少し突出したが1967年の日本最初のダイビング雑誌「ブルーゾーン」その展開からのロレックス杯水中スポーツ全国大会 日本潜水会、全日本潜水連盟の結成、マリンダイビング創刊を書こうとするところで止まっている。どうしよう。両方を立てて、じりじり進むか。
 いや、やはり事故小史を行ってしまおう。 ここから先、事故小史は、すでに書いてブログに載せているいくつか。
 まず、2018年 0209 2月9日の 「事故の歴史2 人工魚礁調査」
https://jsuga.exblog.jp/28089440/ 2月13日 1968年の事故報告書 
https://jsuga.exblog.jp/28121107/
 これは勝山の浮島周りで、東京アクアラングサービスの事故である。当時の事故と、捜索、その後処理などが克明に報告されている。 2月27日 1968年、
https://jsuga.exblog.jp/28162595/
 これは商船大学ダイビングクラブのスキンダイビング事故、
 ここまでは、すでにブログに載せている。 念のために1954の事故に関してのブログ 挙げておこう。
 12月13日 1954年の事故
https://jsuga.exblog.jp/28969608/
 
 12月14日 1954年の事故
https://jsuga.exblog.jp/28972614/ 112月18日 1957年の潜水実習
https://jsuga.exblog.jp/28983967/ 12月20日 1954年の事故
 https://jsuga.exblog.jp/29029314/
 ☆八丈島での,おそらくは空気塞栓と思われる、女子大生の死亡事故、これは、クラブツアーの事故であり、亡くなった子のお父さんの質問状とそれに対するクラブ責任者の答え。これは、ブログに載せようか、プライバシーの問題があるから載せられない。名前がわからなければ、良いのではないか、一度載せて消したりしているが、もう50年、半世紀前のことだから、良いのではないかなどとなやんだ。今ここで載せても、本には収録できないだろうから、やめようか。あらすじだけ載せても良いけれど、それでは、意味がない。などなど、まだ、なやんでいる。しかし、これは貴重な例であり、載せたい。 ここまでは、指導員(インストラクター)の講習がひたすら事故例の学習だった、日本潜水会の時代 
 事故が発生すると報告書が、何らかの形で出た時代である。 ここから先は 新聞記事 裁判記録、報告書が発表されているもの、などから代表的なものを拾っていく。
  
 ①静岡県での事故多発で県警がダイビング関係者を集めて、特別集会をひらいたこと、
 大瀬崎での事故
 ②雲見でのタンク爆発事故
 ③中田氏のハワイでの事故
 ④パラオでの漂流事故 同じような事故がインドネシアで2例ある。
 ⑤ニュース・ステーションで、自分たちが経験した危機一髪例、
 ⑥学生クラブでのいくつかの事故 スキンダイビング・セーフティに書いた。
 ⑦神津島での落水事故
 ⑧西川名の漂流事故
 ⑨バディが離れた事故 赤沢
 以下の☆印が重要な部分。
 ☆スガ・マリン・メカニックでの事故
 ☆そしてケーブル・ダイビング・システムとその失敗
 ☆科学研究ダイビングでの事故  
上げた例からの総括 まとめ
 
 これはもう、本一冊級になる。それを書いている間年表部分に進展がないと、ダイビングの歴史、生きているうちの完成が困難になってしまう。
 
 愚痴を言っていないで、とにかく進まなくては。 前に「本の書き方」のような本を読んだことがある。それには、ここに書いているような整理、まとめ的なこと、また愚痴、エクスキュースなど書いてはならない、とあった。そんなことは、個人的なことであり、他の人に見てもらうべきことでもなく、そして、退屈だから、人は読むのをやめてしまう。
 でも、一気にまとめられない、ブログで下書きとメモ、覚え書きのようなものをつないで行く手法では、これがないと、自分でも針路を見失ってしまう。 ☆☆☆
 人は生きている、生き物だから、その終わり、死は最大の関心事だ。死と向き合う、向き合い方は、人、個人それぞれだ。ダイバーの死、ダイビング事故に向き合うその向き合い方も個人それぞれだ。
 「ダイビングとは危険か?」と言う向き合い方もある。「致死性の商品スポーツ」というのもある。思いつくままに並べてみると、「安全潜水を考える(追求する)」「ダイビング事故ゼロを目指す」という絶望的なのもある。僕は、なんだろう。良いキャッチコピーが思い浮かばない。「死と向き合って生きてきた。冒険」だろうか。自分で振り返って、コロコロ変わるから、次に同じテーマを書くときは、また変わっているかもしれないが。
 「死と向き合う」その一が、先に書いた1954の事故と、その反省の上に立った1957年ダイビング講習すたいる。それをモデファイしていった以後の自分のスタイル。このスタイルは僕のダイビングの底流でもある。
 その二が、1958年 の初めての人工魚礁調査 だ。
 僕の「ニッポン潜水グラフィティ」にもこのことは、書いている。ここでは、そのグラフィティをもう一度見直し、加筆して、載せよう。僕にとって、僕のダイビングの本当の原点でもあるのだから。
 以下続く

1227 アルピニズムと死

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「アルピニズムと死:山野井泰史:ヤマケイ新書 2014」 
 「白夜の大岩壁に挑む クライマー山野井夫妻 NHK取材班 新潮文庫 2013」
 二冊とも、一度読了して、書棚に置いてあったものだ。書棚に置くということは、僕にとって機会があれば、もう一度、もう二度でも読む可能性があるという本である。今、ダイビングの事故史を書いていて、もう一度読む気持ちになった。
 これは、アルピニズム 岩壁登り、で世界的レベルに到達した登山家の話だ。
 岩を登ることに何の意味もない。ほとんどのスポーツには何の意味もないから、(健康とか、身体を鍛えるという意味はあるが)岩登りが何の意味もなくて別にかまわないが、山野井夫妻のやる岩登りは、生と死の間に自分を置いて、自分の力で、それを切り抜けなければ、満足できない。そして、その生と死の間にいて、安全のための道具を使ったりすると、それは一つの敗北なのだ。もちろん、命は大事にするから、敗北を躊躇く選択することもある。しかし、安全を選択することは敗北なのだ。専門ではないからよくわからないが、オールフリーでなくなってしまった、などと言って残念がったりする。
 たとえて言えば、フリーダイビングで、安全のためのラニヤードを使ったら、フリーではなくなると、そんな意味だろうか。岡本美鈴をつかまえて、おまえは安全に潜ろうとするから、卑怯だ、というようなものだ。

 山野井妙子、奥さんの方だが手足の指を18本、凍傷で切り取っている。泰史さんの方は、10本失っている。
 「アルピニズムと死」の方は、山野井泰史さんが自分はなぜ死ななかったについてを書こうとした本だ。僕も、自分が何で死ななかったかを事故史で書こうとしているので、これも再読したのだが、危険と言うことでは次元がちがう。、危険のグレードが段違いだ。ダイビングは死ぬかも知れな
いが安全だ。「アルピニズムと死」のあとがきで、書いている。 「生命体として、いつかはどこかで僕らも消滅する運命です。たまたま山で命を終えたことが悪いとは思えません。でも、夢半ばであったことが残念に思えるのです。いままで多くの友人を山で亡くしましたが、僕は幸いに現在も続けさせてもらっています。
 結局、なぜ僕は死ななかったのでしょうか。
 それは、若い頃から恐怖心が強く、常に注意深く、危険への感覚がマヒしてしまうことが一度もなかったことが理由の一つかもしれません。」 僕がこの本を読んだ感想としては、奥さんと二人で雪崩に埋まったときに、奥さんの方が埋まりかたが浅かったので、すぐに這い出せた。そして、ロープで結んでいたために場所がすぐにわかって、掘り出してもらうことができて、これは、奇跡だったなどと書いている。だから、運も良かったのだ。
 そして、「白夜の大岩壁」の解説を読んで、ああそうだった。これも書棚に残している沢木耕太郎の「凍」が、この山野井夫妻の話だった。この服部文祥の解説もよくわかる解説だった。
 「白夜の」も、テレビドキュメンタリーの取材記として優れている。これは、どちらかと言えば夫婦、夫妻の物語である。 ところで、この岩登りの世界では、すべて自己責任、ダイビングの方は、致死的な商品スポーツから。「死んではいけない」「事故ゼロ」まで、そして、人、ダイバーの死が、生きている人の責任になる可能性が高い。ならば、絶対に安全である方法を追求すれば良いのだけれど、それでは、やはり、おもしろくない。意味がない。その曖昧さが僕にとっての落とし穴だった。そんなことを事故史のラストで書こうとしていたので、この本を再読したのだった。 山登りは、ハイキングから、ヒマラヤトレッキング、アルパインスタイル、そして、岩登り、区別が明確にでき、原則として自己責任である。ダイビングは自己責任が、明確化されない。プロのダイビングが、徹底的安全管理の業務になり、原則として管理者が責任を負う。レジャーダイバーでも、場合によっては、上位者、先輩の責任が追求される。費用を支払って雇ったインストラクターやガイドダイバーが居れば、それは、彼らの責任になる。まあ、人の命には責任の持ちようがないから、お金(保険)で解決されるのだが。 事故の責任について、「アルピニズムと死」で、触れている部分がある。
 「夢を追いかけ死んでなにが悪いのかと考えていた若い頃。
 もしも遭難したら家族がとても悲しむよ・・・
 でも、事故や重い病気で亡くなることと、家族の心の痛め方に違いがあるのか。
 もしも遭難したら他の人に迷惑かけるよ・・
でも、世の中の人と人の繋がりというのはそんなもんだよ。」 もちろん、ずいぶん違うけど、おなじようなことを、ずっと僕も考えてきた。
 「陸の上に、船の上に這い上がって死ななくてはいけない・」とか
 それは、それで別の問題があるのだけど、それはまた別に書く。
 
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 やはり、沢木耕太郎、「凍」もう一度読みそうだ。もう読み始めている。 2018/12/27 08:43

1230 波佐間1228

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              岩棚の天井に張り付いたカサゴ

今年は、ダイビング、自分が潜ることについて、本当についていなかった。
例年乗せてもらっている広島大学の練習船、豊潮丸は、エンジントラブルで航海が中止になるし、台風は次々と、ちょうど自分がダイビングを予定している時をねらうようにして来襲、台風シーズンが去っても、人工魚礁研究会のスケジュールにあわせて、不連続線が発達したり、もう僕のダイビング人生も残り少ないのに、その残り少ない時間が貴重なその年、その時なのに。 人工魚礁研究会11月はどうやら潜ることができ、12月もできた。年末に海が良さそうなので、28日を今年最後、月例だから12月はもうできたので、これはエキストラ、自分一人だけでも行くつもりで、皆に声をかけたら、山本さん、増井さん、早崎さんが参加してくれることになった。
 ところが、またしても、僕が行こうとする28日は大時化だと、荒川さんが伝えてきた。
 いつも、自分は国際気象海洋の「航空波浪気象情報」で、週間天気図、48時間波浪予想をみている。むかし、この国際気象海洋が調査業務も行っている時、何回が仕事をさせてもらったよしみで、このアプリを使っている。これで見ると、西高東低ではあるが、低気圧は北にあり、等圧線はそれほど混んでいないように見える。確かに沖合は大時化だが、岸近くの、内房側の羽左間ならば、何とかいけるのではないか。 でも、僕の行く時をピンポイントでねらうように、風が吹き、波が立つ。
 考えてみれば、例年、元日は穏やかで、元日穏やかとして、逆算すると、28日頃が時化の周期になる。
 国際気象海洋の予報では、28日、朝は8mほどの西が吹いているが11時から12時には3mぐらいになり、午後はおさまりそうだ。とにかく、行くことにした。羽左間で現場待機で、朝はだめだったが、昼過ぎに凪いだことが2回ばかりある。今度は、3時までは待とうと覚悟を決めて出て行った。
 毎度のことだが、僕は海に行く前は、体調が悪くなっている。海に潜って体調を良くするのだ。これで、海にでて、体調が悪くなり、倒れたりすれば、それは病気だ。海に行く前の体調の悪さは、ストレスからくるものだろうと、自分で決めている。だから、体調が悪いときは潜水をやめる、などと常識的なことを言っていたら、潜れる日は無くなり、どんどん体調は悪くなって、やがて死ぬことになる。
 朝、冬型の気圧配置はばっちり決まって、北西の冷たい風が木の枝を揺らしている。
 やはり体調が悪くて、山本さんの車で、眠った。目を覚ましたら、館山だった。9時30分着
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 羽左間海中公園には、海中の神社がある。日本で、おそらく、ここだけの海中神社だ。海中にある神社というと、なにやら遺跡のようなイメージを持つ人がいると思うが、そうではないのだ。高根と呼ぶ、小高い根、小さい山の頂上に、ピカピカに磨き上げた神社がある。羽左間海中公園の荒川さんが磨き上げているのだ。月に何度か、日を決めて神事をしている。榊を換えたりして神社の手入れをする。その神事への出港が11時。一緒に行く、人工漁礁は二回目のダイビングになる。
 準備をする。タンクにBC.、レギュレーターを付け、ドライスーツを着て、タンクを舟に運ぶ。心臓の動悸がわかる。身体の調子はもちろん良くないが、それほど悪くはない。
 ウエイトを着けて、舟に乗り、フィンを履きタンクを背負う。背負えないので、荒川さんが手を貸してくれる。
 カメラ、TG4の上に、akasoをのせて、フィッシュアイのFX2500を着けている。
 早崎さんが飛び込み、僕はakasoの動画シャッターを押して、バックエントリーで飛び込む。身体を起こして、潜降索へ行こうとする。右腕にチクリと浸水を感じる。このまま続ければ、服の中は、水没状態になる。やはり、ピンホールではなかった。多分、ファスナーだろう。ファスナーの故障か?
 舟にもどれば、もう今日のダイビングは僕はできない。舟に上がることが僕にとっては、大変なのだ。このまま潜降して、水浸しになる覚悟をきめる。もしかしたら、浸水は少しで済むかもしれない。 この潜水のログは、下記
 
 西高東低の気圧配置 朝は8mぐらいの風 12時頃にはおさまると判断して08時に出発
 メンバー 須賀 山本徹、増井 早崎 波佐間では、荒川、萩原 尾崎
 海底神社の神事があるとかで、11時に出港 高根に向かう。
 波は1。5mぐらいあったが、高根なら問題ない。 天候は薄曇り ①目的:タイトル 人工魚礁研究会
 ③場所 波左間
 ④スポット 高根
 ⑤天候 薄曇り
 ⑥風  北西 6ー8m
 ⑦水温 14℃
 ⑧透視度 20m
 ⑨潜水開始 1124 潜水時間31分 ターンプレッシャー 80
 ⑩最大水深 17。9   m
 ⑪潜水終了 1155

 一気に下まで沈み、少し耳に圧力をかんじたので、バルサルバで抜く。
 もう、右腕全部が浸水した。
 着底地点は、小型エアードームの横、今の僕は、ドライスーツでの潜降では、どうしても、一旦着底してしまう。ベルトを締め直し、ライトを点灯して、akasoのファインダーで動画が動いていることを確認、オリンパスの電源を入れる。
 荒川さんが、魚の餌箱をドームの脇のゲートに吊す。メジナが群がる。メジナが90%で、クロダイ、オオモンハタが10尾ぐらいづ混ざる。総数で200尾ほどか?
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 ここのところ、オオモンハタに着目しているので、何枚かシャッターを押す。しかし、ただ泳いでいるだけだから、なんにも絵にならない。オオモンハタが、クロダイと同じ様子で、メジナに混じるようになった。ほかにハタの類は見あたらない。
 この水域で、従来、オオモンハタは、珍しくはないが、数は少なく、マハタや、キジハタのほうが多かったはず。意識して調べていなかったが、羽左間の隣の西崎に試験枕設した丸一(メーカー名)魚礁を毎月、2年間調査した記録がある。その報告の表を見ると、キジハタが2尾、マハタが2尾、オオモンハタが2尾になっていた。今の羽左間ならばオオモンハタ6、他のハタはゼロだろ。つまり、キジハタ、ホウセキハタ、カンモンハタ、マハタは、オオモンハタに取って代わられた。
 オオモンハタは、他の種類のハタに勝るとも劣らない美味な魚で、確か、養殖も企てられている。
 
 ドームから高根を通り過ぎて、庇型で奥の深い岩棚の方に向かう。この岩棚の隙間に、いつもイシダイ、ハタの類が入り込んでいる。このような岩根が、二列になって100mほど続いている。高根を中心にしたこの根の連続が、人工魚礁がまだ無い時代、羽左間の売り物だった。もちろん今でも良い根で、珍しいウミウシの類、カエルアンコウ、カミソリウオなど、見るべき魚は多い。僕はその手の珍しいタイプの魚にはあまり興味がない。もちろん、目の前に現れれば、撮影するが、それをねらっていくということはない。
 斜め下に向かって深い溝になっているこの根の中をのぞき込む頃、ドライスーツの中の水は腰から足まで廻った。全身、ドライスーツの中で水浸しになっている、別に寒くはない。ウエットスーツと同じだ。体熱で、スーツの中の水は温められ、外の水とは循環しない。
 岩棚にオオモンハタは居なかった。アカハタが居たので撮影する、アカハタは逃げ出たが、その右手、棚の天井に逆さになってカサゴが張り付いている。良い構図になる。オリンパスTG-4のスチルを何枚もシャッターを切る。余り先には進まないようにして、高根神社の方に戻る。この神社の根も、きれいなヤギの類が生えていて、そのヤギに付くようにして、キンギョハナダイが群れている。ありふれているのだけれど、このごろ、このありふれた写真を撮影していないので、少しまじめに撮影する。まじめに、ということは、カメラを構えて、ファインダーをのぞいてシャッターを押すということだ。人工魚礁でラインを想定して撮っているときは、どうしても流し撮り、不真面目な撮影になり、一枚一枚の絵としては成立しないことがほとんどだ。
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 ※オリンパスTG4の上に、ウエアラブルカメラ、9000円のAKASO7000を付けているのだが、この安いカメラの動画から切り出した静止画がなかなか良くて、ブログに乗せる程度の使い方ならば、調査カメラとしてはこれで十分である。
 この写真もその動画からの静止画だが、左のアカハタの色もいいし、右上にオコゼがいる。左上に時間表示が出ている。これが、調査カメラとしては重要。ゴープロはなぜか、この表示がないので、調査カメラとしては使えない。


 そろそろ、両足に水が溜まって、ドライスーツが水で膨れてきた。戻らないと、溜まった水で泳げなくなる。荒川さんに浮上のサインをして、エアードームに戻る。エアードームから、上に潜降索をたどれば、減圧バーがあり、その上に舟がある。
 高根から、エアードームまでは、20mも無いのだが、水で脚が膨れていて進まない。進まないと言っても進み方が脚の努力量に相当しないということだから、経験だと思えば良い。
 浮上も、ロープを掴まないと、なかなか浮けない。バーに捕まって減圧しているとバディの山本さんが上がってきてくれた。しかし、僕はこれを早崎さんだと思っている。早崎さんならまだ、下にいるはずだけれどどうしてかな。山本さんならば、一緒に上がるのだけれど、早崎さんだとすると、彼は僕を助ける約束ではないから上がれない。二人とも同じようなドライスーツで、体形がおなじなので、わからないのだ。
 脚に溜まった水が気になって居て、この脚で、舟に上がれるだろうかと心配している。水面で流れにあたったらやばい。それに、まだ朝の波は完全には収まってはいないので舟は大きく揺れている。今は水の中だから、寒くないが、水没状態で、舟に上がって風に吹かれたら寒いだろうな。皆が上がってくるのを待つか、と下を見るが、誰も上がってくる様子がない。
 ダイブコンピューターを見ると、とうに99になっている。残圧も50になった。
 梯子にとりつくと、山本さんがフィンを脱がしてくれる。しかし、その時点で僕は、彼を山本さんと認識していない。早崎さんだと思っている。タンクを脱いで、ウエイトだけで梯子を登ろうと、ドライのインフレーターホースを抜く。バックルもはずしかけて、早崎さんだったら僕の上がる手順を知らないだろう。自力でこのまま上がるつもりになった。両手で、体を引き上げるようにして、脚を梯子に懸けて踏ん張った。ここで膝から下の力が入らないでくじけてしまうのだが、なんとか上がり切れた。これは良かった。
 僕が早く上がったので、舟の上で寒い風に吹かれて待つことになる。ドライスーツの中は水である。しかし、寒くはなかった。たとえ沈没しても、体の熱で水は温められていて、そととの出入りは完全にシャットされているから、ウエットで、風に吹かれているよりも暖かい。
 皆が上がってきて、水没の話をする。早崎さんが、ファスナーの締め付け部分にほんのわずかな隙間を見つけた。
 このドライ、サンファンのもっともグレードの高いドライを提供してもらっている。春先から、夏も、お台場ではドライで過ごして慣らしている。ここまで何の問題もなく、動きやすかった。ファスナーも軽くて、軽く締めるときちんと閉まる。軽く、2回引いただけで、止まった。本当は引くだけでなく、ジワーッと力を入れて、引き込み、ぴったりはまりこんでいることを確認しなければいけなかった。はまりこんでしまえば、体の動きなどで、ファスナーがゆるむことはないから、完璧だ。
 僕も山本さんも良い経験をした。 上がってきて、次の潜水は、ウエットを借りて潜ろう。と思った。
 シャワーで借りたウエットを着たが、脚は入ったが上は着られない。見たらMサイズだ。Lに換えてもらって Mを脱ごうとしたが脱げない。苦闘しているうちに首筋が痛くなってきてしまった。ウエットスーツを脱ぐときは、心拍数が上がるのだ。考えた。これでL サイズを着ても、体に合うとは決まらない。水温は18℃だという。僕のダイブコンピューターでは14℃になっている。僕がウエットで耐えられるのは21℃が限界だと思い出した。一回目のダイビングで気分がハイになっていて、それにドライで寒くなかったので、寒さのことを考えに入れていない。1今日はこれであきらめることにした。もしも最初にLが用意されて、着られて、海に入ったらどうだっただろう。水中は何とか耐えただろうが、舟に上がってから凍えて、今、ちょうど読んでいた山野井泰史の「凍」状態になっただろう。Mで、着られなくて良かったのだ。
 
 Mのウエットスーツを脱ぐときに、変な力の入れ方をして、首筋が痛くて、首を立てられない。お昼は、荒川さんがすばらしいブリの刺身を用意してくれた。とてもおいしいのだが、首筋の痛さに気が行ってしまう。なんとか首筋を立てて、もみながら食べる。ようやく、痛みが収まって、ブリの味がわかってきた。
 午後からのダイビングはパスして、休むことにした。
 
 明後30日はお台場の月例調査潜水で、これが2018年のもぐりおさめになる。 本年中に30日のお台場もブログに載せたかったが、あまり長くなるので、来年にまわすことにした。
 

0103 1230 お台場

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12月30日 お台場
 天気は快晴だが、その快晴は冬型の快晴で、寒波が日本上空を覆っている。寒い。
 道具の積み込みが、辛いが、身体を動かすことで、体調を維持するのだと、自分に言い聞かせる。

 ログ  date 2018
 ①目的:お台場月例調査
 ③場所 お台場
 ④スポット 
 ⑤天候 晴
 ⑥風  北西5m? シートがあおられる程度
 ⑦水温 13℃
 ⑧透視度 3m お台場として最高 ただし、杭のあたりは濁っていて1mほど ⑨潜水開始 1029 潜水時間  分 ターンプレッシャー 80
  ※残圧よりもターンプレッシャー重視 残圧はどーでも良い。
  人工魚礁の場合ターンプレッシャー即浮上だから、余裕はある。
 ⑩最大水深 2   m
 ⑪潜水終了 1125
 ⑫インターバル 
 ⑬チーム 須賀 山本徹 多留 三ツ橋 尾島 尾島ママ 小林、奥村 山田 臼井
  ユニット
 ⑭バディ 
 ⑮残圧
 ⑯適要 ドライスーツの沈没テスト、ファスナーの締めが悪かったことが判明。ま牡蠣の生きている個体確認、次回は枠取りをしたい。
 50%は、生きていて健全、 手前が死に殻が多い。 
    
 ドライスーツの水没(別に書く)がファスナーの締めがエンドまではまりこんでいないためと見当をつけていたので、締めを確認してもらってから、タンクを背負う前に波打ち際に寝ころんでテストする。全く完全にOK
 ドライスーツのファスナー締めの確認だが、自分で確認できればいいのだが、僕の左手で、右肩に手は回らないし、手が回って引っ張ってみたところで、やはり目視しなければわからない。締めた人に念を入れて、目視で確認してもらうほかないだろう。ファスナーのエンドが隙間無く密着していることを目視で確認してもらうほかない。 冷たいのが予想されたので、久しぶりで、たぶん流氷を潜っていた1990年代以来か、グローブを着ける。グローブを探した。5本指の右手がある。左手を探したが無い。三本指があったので、左三本、右5本で行く。右手の5本は、気に入っていたグローブで、具合がいい。手も、するりと入る。左手の3本指が少し小さめで、手が入りにくい。入らないので、やめにして右手だけで行こうかとおもったが、なんとか押し込んだ。 牡蠣の生きている個体の確認をする予定。本来ならば枠を置いて、生きている個体を数えなくては調査にならないのだが、枠が見つからなかった。次回からということにしてしまった。こんなことではダメだ。
 次回は必ず。と決意する。 千足先生のライン調査の結果を見て、これも決めるのだが、波打ち際から、行き止まりの石垣までを、牡蠣について四つの区域(ゾーン)に分けて見ることにする。次回は4つの枠(コドラート)で数えるつもりである。
 まず、一番手前は、砂地から、少し、①ぼつぼつ牡蠣が見えてくる、ゾーン。②次に牡蠣が一面になる、ちょうど公衆トイレの前あたり。
 この辺の牡蠣が生きている個体が少なかった。
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 次が③枕木がある周辺、このあたりから生きている牡蠣が多くなる感じ。最後が④杭の列のやや手前、このあたりが生きている牡蠣がおおかった。杭の手前は砂地のようで、牡蠣がまばらになる。
 だいたい、こんな感じだ。
 
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 杭の列には赤い海藻、ショウジョウケノリが杭についている。ここまで、オリンパスTG4で牡蠣を撮りながら来たのだが、ショウジョウケノリをきっちり接写で撮ろうと思ったところで、オリンパスが動かなくなった。バッテリーは、いっぱいに充電したはずなのに、画面が消えてしまった。後でハウジングから出してオンオフスイッチを押したら、画面がでた。何だろう。こんなことだと困る。次回はNikonをポケットに入れて別に持って行くか、オリンパスをやめて、Nikonにするか。ウエアラブルカメラのAKASOは、順調に廻っているから、調査としてはこれで良いのだが。
 水温は17℃だから、ドライならば寒くならないはずなのだが、少し寒くなってきた。水没が今日だったら持たないだろう。なぜか、このごろ、潜水時間が終わりの方になると、マスクの中の視界が狭窄するように感じる。マスクの二眼の真ん中のバーが気になるのだ。ついに加齢が目にきたか。次回から、一眼のマスクにしようか、水漏れが少し心配だ。辰巳のプールが使えていればテストができるのだが。 ターンして戻る。逆位置から牡蠣を見ていくが、だいたいおなじ感じだ。岸近くで生きている個体が少なくなっている。
 今日は二回潜る気持ちになれないので、右に回ってヘドロの上も見て行く。トゲアメフラシのまだ大きくなっていない個体がいくつも目に入る。
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                    トゲアメフラシ
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                    ホンビノスガイ
 砂地に三本指の手を差し込んで、ホンビノスを探る。場所によってはびっしり詰まっている感じ、居ないところには居ない。ホンビノスはあまり大きくなかった。場所を移動すれば大きいのも居るのだろうが、上がることにした。
 尾島さんに助けてもらって、カメラとフィンを持ってもらって、タンク、ウエイトは降ろさずに水道まで歩いた。心臓は動悸が聞こえたが、息は切れなかった。
 そんなに寒くはなかったが、一本で終了、山本さんも、小林さんも三ツ橋も1本 海会から始めてきた、奥村さんはなぜが、繰り返し、潜っている。それも、何にも居ない砂地のあたりだ。後で聞いてみたら、ユウレイボヤを観察していたとか。生き物が何でも好きなのだとか。ユウレイボヤを寒さの中を30分見つめているとは、すごい人だ。  

0107 第8回 シンポジウムプログラム

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 2月3日のシンポジウムの準備、原稿に追われて、ダイビングの歴史とかが、書けなくなっている。いくつか、途中までかいているのだが、このごろ、あまり雑に書くのはいやだと思っているので、推敲ができていない。 写真はイメージで、ウエアラブルカメラで撮ったものです。右手上のカサゴが保護色で、下のアカハタが、めいっぱい目立っています。

本来のプログラムをやや詳しく書き足したもので、シンポジウムまでに、あと2回ぐらい書き直す予定です。

2018年 第8回 日本水中科学協会 ダイビング運用研究シンポジウム スクーバで何をするのか,スキンダイビングで何をするのか,何ができるのか,どのようにするのか、目標と計画を追ってきました。そして、安全のキーは、目標と計画です。 東京海洋大学品川キャンパス 楽水会館 平成31年 2019 2月3日 日曜 10時30分 受け付け開始 会費 一般2000円 会員1000円 学生無料 プログラム 11:00-11:10 開会挨拶、総合司会 早稲田大学教授 中尾洋一11:10-11:20 JAUSジャーナルの発行について   久保彰良11:20-12:00 ワークショップ 総括   山本徹この一年間に行われた計6回のワークショップのダイジェストを紹介します。12:00-13:00 昼食休憩 (JAUSが実施したフィールドワーク)13:00-13:30 人工魚礁 (フィッシュウオッチング=定性、定量調査)  須賀次郎波左間海中公園での人工魚礁研究会の調査について映像を中心に発表  ☆人工魚礁は1935年頃より、日本の海の津々浦々に沿岸漁業のために枕設されてきました。レクリェーションダイビングのフィールドの内にも多数存在しています。ダイビングフィールドの継続定点観測の意義、方法について、人工魚礁を例にとって説明提案します。 映像映写を中心にしてビジュアルな展開をします。  観察記録の継続  ウエアラブルカメラの画像からの記録  継続 自分の定点  レクリェーションダイビングにとっての人工魚礁  高齢者の潜水 研究者の潜水 13:30-14:00  1996年から現在まで続いている お台場の潜水調査について 須賀次郎   ☆ 定点継続観察の事例として、東京港お台場の海に1996年より継続している事例を映像によって発表 説明します。  都市 東京港内奥の海 環境  お台場は、東京湾から世界の海につながるリトマス試験紙    継続記録の意味                                   14:00-14:30 サイドスキャンソナー(海底面状況探査)について   國方 多真紀お台場や波左間の海底地形をサイドスキャンソナーによって測定しました。☆ サイドスキャンソナーは、高価な海洋調査の道具ですが、近年、釣り用に手の届く価格で売り出されるようになってきました。釣り用につかえるものが、ダイビングに使えないことはない。ダイビングのフィールドでどんなことが出来るのか。次の展開として水中ドローン、スキンダイビングと組み合わせて、何かできないだろうか。波左間の人工魚礁群、お台を調査フィールドにして実験しています。サイドスキャンソナーでみた波左間は?お台場は? ※気づかれたと思いますが、発表するテーマ、波左間人工魚礁、お台場、ライン調査、サイドスキャンは連動しています。 その性能や効果等を検証します。14;30-15;00 スキンダイビングによるラインリサーチ 東京海洋大学教授 千足耕一お台場海浜公園で行ったスキンダイビングによるラインリサーチについて発表します。 ☆スキンダイビングで何が出来るのだ。浅い海でのラインサーチの例を提示します。  研究者の潜水、大学学生クラブの潜水、を考えます。 15;00-15;30 ダイグコンピューター今昔物語           久保彰良コンピュータ以前のダイブコンピュータ?から現在のダイブコンピュータまで、使われ方の違い等語って頂きます。 ☆このシンポジウムでは、これまで、潜水器財の歴史を追ってきました。2016年には、休館船の科学館から展示品を借用、提供していただいて、スクーバ、送気式式の軽便マスク式 最近のフルフェースなどの展示、2017年には、テレビ撮影用のフィルムカメラからビデオかめらまでのカメラとハウジングを展示しました。 今回は、スクーバダイビングを始めると、まず第一番目に購入するといわれるダイブコンピューターを取り上げ、その揺籃期から今日の最新型まで展示し、その使い方、使われ方も解説します。 展示とともに、どのように使われているかアンケート調査も行っています。これもご協力ください。 15;30-15;50 休憩15;50-16;20   高気圧作業安全衛生規則の歴史と今後についての提言                           須賀次郎 ☆ 高圧則は労働安全衛生法に基づく規則で、日本のダイビングに関するただ一つの公的な規則です。この規則について、これまでスクーバダイバーの側からの研究がこれまで一切行われて来ませんでした。 国家試験だということで、試験の受験対策、講習会は数多く行われていますが、この規則についての研究は皆無です。 16;20-16;30 閉会挨拶 17;00-19;00 ワンコイン懇親会  大学会館1階食堂ホール (地図上の26)

0110 ダイビングの歴史 54 昭和史、平成史

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ダイビングの歴史
 久しぶりに歴史書を読んだ。久しぶりと言うよりも、専門(海とか船とか漁業)以外の歴史書を読んだのは、あんまり記憶に無い。
他に歴史について読むのは、教科書の類、予備校の先生が書いたわかりやすいダイジェスト、絵や図版の多いムックの類、あとは小説である。小説は、塩野七生、司馬遼太郎の類はほとんど、そして、ギボンのローマ帝国盛衰史、そういう類とは違う「昭和史」 
 昭和史 上 1926ー1945 下 1945ー1989
 中村隆英
 初版1993 読んだ文庫は2012 東洋経済新聞社
 著者の中村隆英(たかふさ)は東大名誉教授で著書に「昭和経済史」「戦後日本経済」「現代の日本経済」など、
 経済史が専門の先生が書いた。
 
 例によって ブックオフの108円コーナーで手に取り、迷わず買って読み始めた。読了しなくても良いと思っていたのだが、しっかり読了する事が出来た。経済学史が専門の東大名誉教授の書いた本だ。だから、経済の分野がしっかり書かれている。戦後の部分は経済学が主のようだ。経済学などほとんど知らないが、それでも80%ばかりは、解することができた。僕のような経済学の素人が読む経済学史本として名著だと思う。専門外で、小説ではなくて読み終えることができた本は、たいてい名著ということにしているが。名著である。
 読みながら、自分が書こうとしている「ダイビングの歴史」のことを考えた。 なぜこの「昭和史」を読み終えることが出来たかというと、昭和は、自分が生きてきた、激動の時代だから、自分の視点があって、それに思いを重ねて読むことが出来た。自分の視点と言ったところで、幼児時代から、小学生、中学、高校、大学、そして就職、独立という時代だが、大学の時はもちろん、小学生の時であっても、自分の視点というものはあった。その視点があったからこそ、身近に感じておもしろく読めた。 自分の生きた時代の歴史は、興味深いし、考えることが多い。ダイビングでも、1956年以来、スクーバダイビングの今日ここまでのすべての時代、歴史を全部生きたのだから、それを書き残すことに大事なことだと思う。
 たとえば、僕のレジャーダイビングについては、日本国籍のダイビング指導団体を作り上げ、米国国籍の団体とのせめぎ合いであった。現在では見事に敗軍だが、その視点から書いておくことは、どちらの側からも興味があるだろう。もちろん、逆の視点からは違うという意見も多々あると思うが、その「違う」という考えを引き出すことができれば、それはそれで成功だろう。 僕たちの前の時代、ジェネレーションというと、菅原久一さんらだが、菅原さんがもう少し書いて置いてくれたなら良かったのに、と思う。
 だから、僕が書いておくことは、僕の次の次の時代の人の役に立つのだろう?
 今ここに書いていることは「昭和史」とは全く関わりのないことなのだが、その関わりのないダイビングの歴史のことを考えながら、「昭和史」を読んでいた。 さて、自分のダイビングの歴史だが、現時点での構成だが、あくまでも現時点であり、これから二転三転するだろうが、とにかく
 大きく三つにわけた。 
 一つは、索引的年表と、やや詳しく内容を記した。年代記とでも言うような部分。
 次が小史の部分、小史といってもこのままだと、小さい本一冊分ぐらいある事故の歴史、日本国籍指導団体盛衰記 共同漁業権漁業とダイビング、水中撮影小史、などが大きくて、学生のダイビング、高気圧作業安全衛生規則の歴史、ヘルメット式、マスク式、環境保全活動、パブリック潜水、テクニカルダイビング などがやや小さくて続く。
 最後の一つがコラムで、上の小史との境界が定かではないのが、年表部分にはめ込むようなコラムである。
 体裁としては年表、年代記部分と小史の二部に分かれるだろう。 ダイビングの歴史も自分の視点と主張があって良いし、それが大事だと「昭和史}を四で確信した。読者が、これは違う、と考えたとすれば、それで、その歴史書は成功している。読者に考えさせたのだから。
 自分の生きてきた、携わってきた時代、を歴史として書くことが重要であり、書くことが最後の自分の使命であると思う。そのことを、「昭和史」という自分の生きてきた時代を書いた歴史書をよんだことで確信した。
 歴史とは、客観的な最大公約数でなければいけないのでは、と思い悩んでいたところが吹っ切れた。日本にスクーバダイビングが入ってきた1953年のすぐ後の1956年からダイビングをはじめて、そのぜんぶを潜り続けているのは、自分だけなのだから。 ただ年表の年代、何時?はできる限り正確でなければならないし、客観的でなければいけない。小史は主観が入る小説のようなものだが、それでも出来るだけ正確を期したい。小説ではないということだ。
 
 「昭和史」を読み終わったので「平成史」を続けて読みたいとおもったところで、本屋で新刊「平成史」を見つけた。
 佐藤優・片山杜秀 小学館2018年4月刊
 片山杜秀は慶応大学法学部教授で思想史の研究者で、音楽評論家としても定評がある、ということ。佐藤優の方は、あまりにも多数の本を書いていて、多数書いている、多数読まされているというだけで、もう一冊買いたいとは思えないのだが、この本のように、対談形式で、おもしろくわかりやすくまとめることの職人である。「昭和史」よりも格段に読みやすいはず。僕は今、スキンダイビング・セーフティの改訂版で、4人の対談をやっている。
 そして、この本、毎年1pの割合でトピックスを並べて、その解説を対談でやっている。ダイビングの歴史も毎年1P年代記をやろうとしているので、そのまとめ方の参考になるかもと思って買った。
 買ってすぐに平成11年(1999)まで読み進んでいる。予想通り読みやすい。
 ダイビングの歴史も時代背景無しには作れないので、「昭和史」と「平成史」は参考になる。この本も書棚に並べて置くことになる。
 買って良かったということだ。 ※もう、半分は読了した。当たり前だけれど、佐藤優の本だ。よみやすく、おもしろくてどんどん進む。平成史だから、知っていることの羅列で難しくない。それで良いだろう。

0105 ダイブコンピューター今昔「

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                   i300

日本水中科学協会のシンポジウムで、「ダイブコンピューター今昔ものがたり」があり、ダイブコンピューターについて、アンケートをお願いしている。
 今使っているもの、これまで使った機種を古い順に書く;

 今使っているものについては問題ないけれど、これまで使った機種、これは結構大変で調べなくてはならない。
 大事な問題だけれど、みなさん、書いてくれるかどうか?
 無記名のアンケートなので、せっかくしらべたので自分の分をここに書いておく。ブログに載せておけば次にダイビングの歴史などに書くときに探す手間がない。

 現在使っているダイブコンピューター
日本アクアラング i300
スント ソリューション  それぞれの良いところ、弱いところ。
 良いところは  安い。
 ダメなところは、i300 はやすいだけあって、見にくい、操作がやりにくいが、必要な機能は水深と時間、ログ機能 セフティストップの時間がわかれば良いだけだから、別に問題ない。
 スントソリューションは1996年、60歳の記念100m潜水に着けてもぐったので、その記録が99.4mMAX と、でているので 大事にしてきた。
 二つ着けて潜ると同じ数字がでるので、当たり前だけど、偉い。
 次に歴代のダイブコンピューターを古い順に。
 最初に使ったのは 1987 年 アラジン
次が pro アラジンで、次が スントソリューション 1996年、60歳を記念して100m潜水をしたときに、そのころスントを売り出していた、岐阜のエアリイからいただいた。
 2007年にスントのモスキートを買って、これは腕時計式に使うと格好がよくて好きだったのだが、僕の持ったダイブコンピューターのうちで、ただひとつこれだけだが、自然死した。ある日動かなくなったのだ。バッテリーは替えたばかりだったのに。
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スント ソリューションとモスキート
 義理があったので、ずっとスントを買っていて、次がスント D4 スキンダイビングの計測が出来るので買ったが、そんなに深く長くは潜らないので、あんまり意味はなかった。TUSAの800を今村さんにいただいたので、あまった。ちょうどバッテリーも切れたので潮美にあげた。
 この800は、最高だったのに、その800をお台場で盗まれた。四角くて大きいので、腕から外すことが多くて、外して台の上に置いてなくなった。
 次には日本アクアのソーラー・カルムを買って、これも気に入っていたのに、お台場の陸上で紛失した。
お台場は水深が1mから4mでダイブコンピューターなど不要なのに持って行ってなくす。不要だからなくすのだろうけれど、あんまり、なくすので、一番やすいi300を買った。
 で、今持っているのが、I300とスントのソリューションだ。ソリューションは20年越しだ。 日本水中科学協会のアンケートで、これから売り出されるダイブコンピューターに望むこととあった。書くのを失念したので、ここで書いておく。
 ①安価②ソーラー③腕時計式でドライスーツにもつけられるように長いベルトがついている。これは無理かな。④水温計測が正確なこと、いまのi300 は、みんなのダイブコンピューターと違う数値のことが多い。これは、体温を反映しているかもしれないけれど、とにかく水温が大事、別に自記記録式の正確な水温計でやすいのがあれば買いたい。
 もう、残りわずかな寿命だから、なんでも安いことが大事なのだ。
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