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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1008 ダイビングの歴史25 どるふぃん

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ダイビングの歴史 25 「どるふぃん」 6・3 1962 冬 ☆ 大西博見さんのイラストとマンガがなかなか良いと、好きだった。
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 1ー2 ページの随想記事を7話載せている。 ☆1 東シナ海深夜の大エビとり 山田尚文 沖縄で大きなゴシキエビをとる話

 ☆2 怪談錦が浦 鈴木善太 後藤道夫のところでウエットスーツをつくっていた善チャンが書いた。自殺の名所、錦が浦に潜った話。カメラマンの伊藤則美さんと遺体の引き上げをする。 善チャンはおもしろい人で、山本富士子の写真と同棲していた。 山本富士子の写真を壁に貼り,ご飯を食べるとき、写真に向かって「いただきます」という。会って話せば普通の人で,ウエットスーツ作りの職人である。

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 ☆3 雲見 有情 田辺栄蔵 田辺さんは、その後随筆家としても有名になり、ヨットのことを書いた「キャビンン夜話」は大好きで、1ー5まで全部書棚にある。 雲見の地図が良い。

 ☆4 式根の島の魚たち 片岡照男 鳥羽水族館 ☆5 南極洋 サウスジョージャ島 海老名謙一 ☆6 大アワビと天上の恋 キャプテンクック ☆7 島の海 テングダイ 倉田洋二

 ☆博多湾の宝探し 写真と文 伊藤則美
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 則美さん(男子)は舘石さんとならぶ写真家で、どるふぃん の表紙も撮影している。元冠の碇らしいものを進駐軍が引き上げる話だが、今の海底考古学者がみたら「やめてください」と懇願するような話だろうが、もしかすると、これが、日本の海底考古学の事始めかもしれない。


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 引き上げた元寇の役の碇



 
 「どるふぃん」 6・4 1963 春 

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 ☆ 水中写真あれこれ 伊藤則美さんにきく
 則美さんは姿の良い人だった。


 本格ケース


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 アクリルケース グローブマリン


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 ☆ ニコノスについて 小秋元隆輝





 ☆ 島の海 渡りタコ 倉田洋二
   島の海には冬、マダコの群が渡ってくる。ワタリダコは、海底表面にいるので穫りやすい。

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 ☆協会だより
 関東支部 関西支部の活動




 ☆ショッピングガイドで
 東亞潜水機が紹介され三沢社長とともに須賀が移っている。考えてみると、わがままいっぱいさせてくれた大恩人である三沢社長の写真はこれしかない。

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 「どるふぃん」 7・1 1963 夏

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 ☆ハワイで潜れば 田辺栄蔵


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 ☆足ひれ考 宮沢徹二

 ひれについて当時としてよく調べている。
 その中の ひれの誕生は、でたらめとはいえないが間違っている。ダイビングの歴史で訂正する。
「マイクネルソンで有名なテレビ映画 「シーハント」の主演男優 ロイド。ブリッジェスは、海底文芸作品「マスク・アンド・フリッパー」の著者として有名でもある。彼によれば,世界で初めて足ひれを使ったのは,南洋諸島の住民であり,彼らは椰子の葉柄を足に縛り付けて海に入ったという。1930年、彼の地を旅行したオーエン。チャーチル氏は,彼らと泳いでこれを学び,その効果に驚き、早速カリフォルニアに持って帰った。その後、苦心して今日の足ひれの形に作り上げ、パテントもとれたが、誰一人として,これに製造を引き受けようとしなかった。オウエンはイカサマ発明狂といわれながらもこれに屈せず、ついに自分で工場を作り上げたが、しばらくは泳ぎを楽しむ連中は見向きもしなかったのである。たまたま、ガイ・ギルパトリックによって代表されるスキンダイバーが近代スポーツとして台頭し、たちまち彼らの間に広まった。つまり、ひれこそは水中スポーツの誕生と共に日の目をみたのである。」
 文献の引用というランクに達していない伝聞だから、仕方がないが、南洋諸島の住民とは、どこの地域なのだろうか,椰子の葉柄を足に縛り付けて,どうやって泳いだのだろう、バタ足なのか、あおり足なのか、それがどう進化して,足ヒレになったのだろうかずいぶん悩んで考えた。カエルなどの水かきから連想して作られた、とした方が自然である。
 ダイビングの歴史 小史「泳ぐダイビング,スクーバの始まり」で論じたい。

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 ☆ 私の体験、私のたたかい 私の過ち
 潜水病罹患回顧 稲葉繁雄 
 昭和27年の罹患 記録として貴重である。
 ダイビングの歴史でも採用予定。
 このころ潜水病といえば、慶応大学の上田先生で、ここにも出てくる。
 また晴海不当の土木工事をやっていた新清土木の再圧タンクが使われている。
 「軽い潜水病ならば一度体験した方が今後のためになると信じています。」などとまじめに書かれている。僕は潜水病など体験したくないし,体験せずにダイビングライフを終えることができそうである。
稲葉さんは県の役人で、しっかりした知的な人で、僕も伊東でスクーバの講習をやらせてもらって、お世話になっている。だから、この1963年時点ででたらめな意見ではない。





 ☆島の海 噴火の海底を行く 倉田洋二
 三宅島噴火の後の潜水記録で貴重である。

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 ☆63 新製品紹介
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 マスク フィン、
 東亞SCUBA 「ホースが太く短くなり,マウスピースの角度が手で簡単に変えられる,ドライバー一本で簡単に分解できるなど、使う人の立場にたった改良が行われている。
※ 筆者須賀が作っていたレギュレーターである。




 ☆協会だより
 関東支部、関西支部の報告 協会法人化 安東宏喬理事が説明している。




 ☆ ショッピングガイド
 日本水中開発工業株式会社
 マスクを作っている。東亞潜水機は、僕がマスクを作ろうとすると、スイチューの高橋さんに悪いからとやらせてくれない。変な義理堅い会社だった。

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 ※ 63年夏、僕は舘石さんと二人、100m実験潜水をやる。

1009 ダイビングの歴史 26 どるふぃん

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  ダイビングの歴史  26
 「どるふぃん」 7・2  1963 秋
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 ☆ クローズドサイクル潜水機について 梨本一郎 梨本先生による、リブリーザの解説である。まだ、リブリーザという用語はしようされていない。また、電子的に酸素濃度を測定して供給するところまでは進化していない。浅い7m程度までの潜水が可能な、原始的な回路の商品名でオキシラングと呼ばれた類の潜水機の説明と使用ちゅういである。 梨本先生は自身で使われた結果のマニュアルではなく、米国海軍などのいくつかのマニュアルを要約したものであるが、窒素の洗い流しなどに少し気になる部分があった。ここでは、装置、呼吸袋に純酸素を満たして起き、ダイバーは使用直前まで外部呼吸をしていて、使用直前に息をできるだけ吐き出してから、装置の純酸素を呼吸するとあるが、それだけでは、残気量の窒素が残って無酸素症になる危険があるのではないか。この動作を二度、三度くりかえして、完璧に窒素を追い出さなければいけないのではないか。 その後、オキシラングが日本に輸入され、複数の無酸素症事故がおこって死亡した。たぶん、この洗い流しが不十分、また、浮上してきて顔を水面に出し、マウスピースを外して、外の人と会話して、そのままマウスピースをくわえて、洗い流しを不十分で潜っていった結果の事故であった。
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 ☆ 浅利熊記 さんの思い出 佐藤賢俊 浅利氏は、佐藤さんが経営されている旭潜研で製作販売されている旭式軽便マスク式潜水機の生みの親であり、佐藤さんは、協力者であり盟友であった。1963年6月57歳、肺ガンでの死であった。 旭式 アサリ式は、日本を代表するマスク式潜水機である。ここに、その誕生の話を当事者である佐藤さんが書いておいてくれたので、自分の体験もくわえて小史に書くことができる。 浅利さんは、もの作りの天才とでも言おうか、もの作りについては後藤道夫のような人だった。 昭和7年ごろ、1932年ごろ、なにか、潜水する必要があり、バランスタンク式といわれるものを作る。背中に2。5リットルのタンクを背負い。自転車のポンプよりも心持ち大きい送気ポンプに20mのホースをつなぎ、口にはマウスピースをくわえ、空気は口から吸って鼻から出す。鼻から吸い込まないように、逆止弁のような鼻栓を鼻に押し込んで、二眼の水中眼鏡をかける。要は素潜りダイバーに自転車の空気入れで空気を送るようなもので、背中のタンクは、ダイバーが息を吐いている時にも空気を送って貯めておく貯気タンクである。潜水機は、どれだけ空気消費量を少なくできるかが目標であり、この貯気タンク方式が浅利さんの肝である。 すさまじい潜水機であるが、一応うまく行き、商品名をポピュラー潜水機として、企業化することになり、この時点で佐藤さんが加わる。量産するのだが見事に失敗する。失敗の理由の一つは、磯根資源の採集は、制限があり、すでにヘルメット式潜水で制限いっぱいであり、新しい潜水機我はいる余地が無かったこと、そして、もう一つはやはりこれでは苦しくてダメ、使う人がいなかった。失敗で周囲に見放されたとき、残ったのが佐藤さんで、二人で協力して改善をめざす。 苦労の末、背中のタンクを気嚢 袋に換え、これを全面マスクに付けることで、うまく行き出す。 そして、昭和12年(1937)海軍横須賀工作所で軍用に使えると検討され、若干の改良で採用され、各艦船に搭載されることになる。これを機会に昭和13年、旭潜水興業を創立し、アサリ式マスクとして売り出す。海軍からも注文を受ける。 海軍の潜水工作兵が、何をするかというと、戦闘で弾丸、魚雷で開けられた穴を外側、内側から当てものをして、応急の修理をする。もちろん完全には塞げないから、ポンプでのくみ出しと釣り合う程度まで、そして防水区画でも止めるのだが、とにかく潜水作業が要求される。これまでは鈍重なヘルメット式でやっていたのだが、軽便マスク式は、身軽であり練習もほとんど必要ない。なにしろ、東京水産大学の潜水実習で、スクーバの前に、このマスク式潜水でまず潜らせて水に慣れさせるのに使っているくらいだ。 軍需産業になったので、終戦でそれが一気になくなり苦労されるが、水産業に活路を見いだす。その一つは養殖業であり、生みを耕す養殖では、浅い海での人の手が必要だった。潜水による海産物の採取は、たとえば海女漁によるアワビ、イセエビなどは、資源管理には使えるものの、採取は乱獲に繋がるので使えない。テングサ採取漁には使える。もう一つ、これがもっとも重要であるのだが、漁船のペラに網やロープが絡んだ場合の除去である。北洋で行われる鮭鱒漁は、独航船による流し刺し網漁であった。小さい独航船を大きい母船が引き連れての漁であるが、流している刺し網にペラが絡むと厳しい北の海では、裸で潜って切りほどくことはできない。潜水服を着用し、潜水具を着けた潜水が必須になる。この分野では旭式は、小さいポンプで使えるのでもっとも優れていた。 とにかく、アサリ式、旭式は、浅い水深での水産の潜水機として生き残って行く。その転変はまた小史で書くとして、旭式マスクは佐藤さんが受け継ぎ、浅利さんはイカ釣りの道具の開発に転じ、この分野でも成功をおさめる。
☆ 奄美の海 竹内庸 NHKのカメラマン竹内さん(親友)が奄美の海という番組を撮影した報告である。

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☆ 戦艦陸奥 工藤昌男 この時代、1963年に 戦艦陸奥に潜水してテレビ番組を撮影したのだ。20日間のロケで、状況は、水深は36ー40m、底質はほとんど泥、艦体の最浅部は約10m素潜りで爆発口に行くことも可能。潮流早く約2ノット、透視度はよければ10m、悪ければ1m、艦の中でフリッパーを動かせば視界ゼロになる。 放映はTBS系列だった大阪朝日放送で「カメラルポルタージュ」この番組は、僕たちの100m潜水と同じ番組、 僕たちと族が違って、インディアンの部族みたいなものだが、カメラ伊藤則美、そして工藤さんを筆頭に、加藤桂二、岡弘文 林賀信勝 栗原醸造 族は違うといっても、加藤君、岡君、林賀君とは仲良しで、加藤桂二君は、法政アクアの創立者になる加藤芳雅君のお兄さんで、加藤兄弟、お父さんと、茅ヶ崎の烏帽子岩に潜りに言ったりした。岡君は後に映画の撮影を一緒にする。林賀君は山形水産試験場で人工魚礁調査をやり、潜水病になり、愚痴をこぼしていた。みんなどうしているだろう。現在消息がわかっているのは工藤さんだけだ。  番組の出来映えは、僕たちの100mよりも良かったかもしれない。方向性が全く違うので、何とも云えないが。  
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 ☆島の海 倉田洋二 海ガメ 島の海、伊豆七島 小笠原では、喜んで食べられた話 倉田さんの連載はまとめて本になる。


 ☆協会だより、 関東支部は 初級は25回から29回の4回、いずれも40名近い、中級は江の浦港で11回と12回 講師は安東宏喬さんが多く、助手の常連は日本アクアラングに入った後輩の南里寛治 であった。僕は蚊帳の外で関わったことがない。安東宏喬さんは僕が煙たかったかもしれない。僕も東亞潜水機勤務で、アプローチすることはなかった。 会員番号は 1300ぐらいまで行っている。
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マスク式の研修会、ヘルメット式の研修会、素潜り大会なども行っている。

1010 ダイビングの歴史27 広告

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☆ 広告 東京アクアラングサービス

 1964年には東京オリンピックがあった。

 東京アクアラングサービスは、僕が数えて、東京で三番目にできたダイビングショップ、そのころはアクアラング屋さんと呼んでいた。  一番が、1955年 菅原久一さんつくった潜水研究所、2番が池田さんの太平潜水、これはすでにショッピングガイドで紹介された。太平潜水の太平は、太平洋の太平かと思ったが、錦糸町近くの太平町に古くから太平鍍金というメッキ屋さんをやっていて、それがアクアラング屋さんもやるようになり、太平アクアラングになった。 東京アクアラングサービスは、ドルフィンに広告を何度も載せているのに、ショッピングガイドに出てこない。 オーナーは、青木大二さん、広告を見ると、東亞潜水機代理店とある。代理店の看板をかけてくれたのは、後にも先にも青木さんただ一軒だ。 初めて青木さんに会った時、青木さんは東亞潜水機を訪ね、三沢社長に代理店の交渉をした。東亞潜水機のポリシーは、ヘルメットダイバーのお客様直結、間に代理店などを入れることを廃して、その分、お客にやすくヘルメットの潜水服などを供給する。 ヘルメット時代とアクアラング時代はちがう。青木さんは代理店になってしまった。 青木さんは、下北沢でバーをやって儲けた。僕はダイビング商売は、お金儲けの仕事ではないと思っていた。では、何だ?実はこのことが根源的なことなのだが、まだその答えがでていない。 青木さんは、まん丸い魅力的な人なのだが鋭い。1963年のあれから、50年以上の年月が流れたが青木さんの言葉は、青木語録として、僕の頭の端に残っている。お金儲けにはなりにくいということについて、「須賀さん、あなたはダイビングのプロです。でも、わたしはお金儲けのプロなのです。ご心配いりません。」 最初に書いておくが、青木さんはアクアラングやさんで、成功し、後に「青木ボート」というボートやさんになり、環八沿いの小さな店で、ヤマハ中古艇売り上げ日本一を誇った。さらに後に、パラオに移住して、陶芸家になった。そのころ一回だけ手紙をいただいたが、風の便りで亡くなったとか、ある種の冒険家だった。  青木さんは、鉄砲撃ち、ハンティングが趣味だった。その仲間内に配るパンフには、「もう陸上は終わりました。陸上に獲物は居ません。これからは、水中です。」このフレーズにつられてか、何人ものろくに泳げないハンターが鉄砲かついで水中を目指した。それぞれ、危機一髪の目にあったものの、生き残った。アクアラングでのハンティングは、基本的に急潜降、急浮上の連続だが、不思議と重篤な減圧症にはかからなかった。なぜなのだろう。その理由は医学的に解明されていないが、僕の考えでは、水深20m以浅では、減圧症はタンクから呼吸する空気量に比例する。他に考えられない。 その青木さんが、僕の100m潜水の計画を聞いて「須賀さん、心からの忠告です。おやめなさい。そんなことをしても、何にもなりません。」何かになったのだろうか?  レギュレーターのセールストークで、まずアクアマスターを手に取り、「これは、28800円ですが、アクアラングの元祖、日本アクアラングが売り出している世界最高級品です。命の惜しい方はこれをお求めください。」続いてTOAスキューバを手に持ち「これは、須賀さんという、この世界で最高の技術者が手作りしているTOAスキューバで、使いやすいお徳用品で、12800円です。」  この広告について、「須賀さん、こんど、ふるいつきたくなるような美人の写真で広告を出します。」なにか、亀戸あたりのキャバレーのナンバー1がビキニを着て、普通の家らしいバックで、軍用消火器改造のダブルタンクにTOAスキューバをつけたアクアラングと並んでいる。ふるいつきたくなるかどうかは、感性の問題だが、気安くふるいついても良いような気もする。 広告にあるアクアラングサービスの場所 新宿の甲州街道沿いにある、錦果園ビル、まで、充填したタンクの出前をしなければならない。基本は充填は持ち込んでもらって、するのだが、時には出前する。いつもは、助手の安森君がしてくれるのだが、その日は僕が引き受けた。南千住から、新宿まで、乗っていくのはバーハンドルの軽三輪「ダイハツミゼット」だ。これは、世界の傑作車で、幅1。5mの路地を直角に曲がれて、タンクを10セット積める。キックスタートのエンジンで、もしかしたら、世界のどこかで、50年後の今でも走っているかもしれない。 錦果園ビルは、エレベータの無い4階建てで、4階にはコールガールの基地があった。青木さんの店はその3階にある。急な階段をダブルタンクを背負って上がる。上から降りてくるコールガールとすれちがうこともあるが、そんなものを見上げる余力もない。究極のダイビング用ボディビルだ。ようやく運び終わって、青木さんから冷たいものでもと出されたアイスコーヒーを飲みながら、窓から外を見ると、神宮の競技場の上空を、ブルーインパルズが五色の煙の輪を描いた。オリンピックの開会式だったのだ。 ようやくオリンピックにたどり着いた。  しばらくして青木さんのお店は、新宿御苑の前の道路沿い、一階にひっこした。僕らは、涙を流して喜んだ。 それから数えて三代目になる島田君は、2007年の東大の事故、大学側のコメンテーターとして講演をしたりした。僕は著書「ニッポン潜水グラフィティ」に青木さんのことなど書いたので、それをもって挨拶にいった。そのときに、青木さんの現在の消息を聞いた。その後、島田君から店のオーナーが変わるという連絡を受けた。お店の名前も変わるらしい。別に僕のところに挨拶状も来ないし、月刊ダイバーに広告も載らないから、僕の中では消滅している。 

1011 ダイビングの歴史 28  1964 冬

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              伊豆大島岡田港の小判
ダイビングの歴史 28   どるふぃん 7ー3 1964 冬  ☆島の海 倉田洋二 遭難船 記事にはないのだが、写真、岡田港から発見された元禄小判、たしか1959年だったか、ぼくが東亞潜水機に入った頃だ、岡田港を工事していたヘルメットダイバーが小判を発見した。すわ宝船とダイバーは岡田港をめざした。と思う。発見されたのは此の写真だけ?これだけだった。何なのだろう。そして、海底から小判が発見されダイバーが手にしたのは、後にも先にもこれだけ?発見しても黙っているからわからないのかもしれない。
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 ☆表紙 伊藤則美さんの写真 則美さんが何をねらって撮ったものか、ついに理解する事ができなかった。しかし、何なのだろうこれは、と考えさせられたことは事実。月刊ダイバーの写真とか見ると、わかりすぎてしまうのだけど。
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 ☆ 大深度潜水に挑む 舘石昭 須賀次郎 これについては、また別に書くが、自分にとってのプラスは、デマンドレギュレーター付きのフルフェースマスク と水中有線通話方式で、此の20年後、1982年以来、この二つの組み合わせで、仕事を20年続けられることになる。 写真左端は,伏竜特攻隊の潜水機を設計製作した清水登大尉,この潜水の総指揮をお願いしていた。   ☆ 広告 東京アクアラングサービス 1964年には東京オリンピックがあった。 別記 ダイビングの歴史 27  ☆1964年の日本と海外のダイビングとの関係 ユージン・カーン CMASの科学部門に加盟申し込みレターを送っている。その結末がどうなったか不明 協会は結局CMASには加盟しなかった?  ☆人物メモリー そのころ親しかった人、その後関わりを持った人が紹介されていた場合メモリーで残しておきたい。ここに来てそんなことを考え出したので、かなりさかのぼって、もう一度チェックしなくては。 

 加藤桂二君 前にも書いたが、法政の加藤芳雅君のお兄さんだ。芳雅君とは、今も付き合いがあるが、桂二君はどこの大学に行ったかも知らない。
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 神尾尋司君、潜水部の最優秀ダイバーで、宇野教室の後輩、僕のスガ・マリン・メカニックに入る話もあったが、すでに僕の下ナンバー2が決まってしまっていたので、断らざるをえなかったが、その後すぐに病を得て亡くなってしまう。
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 ウエットスーツ、ジャージ付き生地の宣伝になぜか日本アクアラングの中村専務がでている。中村専務は帝国酸素からの出向で、フランス語がペラペラだった。なぜ、広告のモデルをしているのだろう。不明。
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 ☆第一回潜水科学討論会を終えて 菅原久一さん中心で、各方面の人たちを集め、安全潜水を唱えて討論している。安全潜水という、ぼくに言わせれば念仏のような言葉だがこのときが嚆矢か。「潜水の安全」とか「安全な潜水」というべきだと思っている。まあ、交通安全もそうだけど、交通安全というと、動きが感じられるけど、安全潜水というと、落ち着いてしまう。  深い潜水は慎むべき、40、50mは大深度で、備えなくて潜ってはいけない。これは当たり前だが、菅原久一さんは、大深度潜水の研究をもっとするべきだと述べている。ぼくの100m潜水の成果については、別に述べる。  労働省労働基準局衛生課の山崎氏が潜水の監督官庁としての挨拶をしている。そうか、労働省が潜水の監督官庁で、それと密接にコンタクトしているのが、日本潜水科学協会だったのだ。 これが、後に海中開発技術協会になり、レジャー・スポーツダイビング産業協会に変わることによって、潜水全般から、レジャーダイビングへとどんどん間口を狭めて行く。僕はそれに最大限反対するが力が足りず辞職してしまう。
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☆兜式潜水機について、稲葉繁雄 ヘルメット式の説明 そして、☆カブト式潜水講習会に参加して 田中正六 こんな講習会もやっていたのだ。

1012 ダイビングの歴史 29 1964

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    ダイビングの歴史 29  どるふぃん 7ー4 1964 春 この前の 7ー3 が1964年の冬で、7ー4 1964年の春だ。まあいいや、細かいこと?にはこだわらない。 伊藤則美さんの意味不明の写真。2回続けられると、なんとなく、わかる。何がわかったかわからないけど。
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 ☆クストーの水中部落 映画沈黙の世界 の舞台について、これに参加したリード氏を囲んでの座談会だ。 僕はこのナショジェオ持っている。映画のVTRももっている。クストーのおかげで、世界中が海底居住に振り回される。今も思えば、ちょっとしたことで、減圧症になったりする人間が海底に居住できるわけなんてないのだが、人類みんなが夢を抱き、夢を追ったのだから、悪くはない。
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 ☆ダイバース ドリームボート 田辺さんが作った、帆走汽船、帆走が主?のボート 蒼竜 の話。 コンプレッサー(東亞潜水機の小型PHC)も積んでいる。 そうか、向こうの族は新しい、夢の武器を作った。 つくづく、お金持ちは良いな、とうらやましく思った。
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                  減圧停止中
 ☆大深度潜水にいどむ 二回にわけて掲載してくれた。
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 ☆ラング潜水と漁民とのトラブルについて  菅原久一 「全くのところ、こんなに人から嫌われるスポーツの種類が他にあるだろうか。他のスポーツでは、いずれも自分の練習場、競技場を持ち、持たない場合は金を出して借りるという形をとり、他人の生業をじゃますることはない。世の中はすべてギブアンドテークで丸く収まっているが、ギブなしのテイクだけの無感覚なスポーツダイバーが多いのではないか。」 当時の指導者の考え方だ。
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 ☆ セコニックマリンについて  大野秀郎 その後長らく使うことになる露出計の登場。ニコノスもまた他のカメラもEEではない。露出の測定もカメラではできないのだ。
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 ☆ ショッピングガイド 日本クレッシイサブ、
  ロスアンジェルスカウンテイ ロスカンと呼んだところの米国製ブルーカードから、それを引き継いだNAUIのカードへ、まだCカードはないが、日本のカードは、ここから始まったのだ。田口君が写っている。 なお、「この店の呼び物は普通のアクアラングと違った酸素ラングを扱っていることで、絶対安全を目標に我が国への普及につとめている。 確か、その後すぐに、事故死がでている。
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 ☆この前の号にでていて 積み忘れたショッピングガイド 千尋商事 渡辺さんが写っている。親しくさせてもらった。青木大二③とは別のスタイルでの商売の達人、別のスタイルとは、小売りだけでなく、卸売りのことだ。 その後、東亞潜水機で売るようになる水中銃「シャーク」は東亞潜水機で組み立てて渡辺さんが売っていた。その後、渡辺さんはウエットスーツに商売の重点をおくとかで、東亞潜水機に販売権を売った。年間3000丁も売れて、忙しい思いをさせてもらった。 メタリックブルーにメッキ、塗装した銃らしい形をした銃で、ダイバーの狩猟本能を満足させるとともに、魚の保護にもなる。つまりあんまり性能のよくない銃で、僕はよせばいいのに、パワーアップした特製をつくったりした。

ダイビングの歴史 30  どるふぃん 1964夏

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ダイビングの歴史 30  「どるふぃん」 8ー1 1964 夏 表紙の写真、則美さんから舘石昭になって、やっとまともな写真になった。けど、これはぜんぜんおもしろくない。僕でも撮れそうだ。則美さんのような写真は、とても思いつかない。 実は、水中造形センターは、舘石さんと則美さんが一緒に作り、則美さんが抜けていったものだったのだ。 それはともかくとして、この写真、八丈島、底土の沖の三又だ。ここにそのとき、巨大なモロコがいたという。僕は見ていないが、だれかに退治されてしまったらしい。 この写真のモデルというか、写っているのは、名古屋の岡田真さんだと思う。  ☆アクアラングで活躍するソ連の水産科学者
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 ☆ニコン、ダイビングクラブ、 ニコノスを作った日本光学の面々がダイビングクラブを作った。 伊藤さん、津久井さん知った顔だが、特に津久井さんは後藤のところで会って親しく話したことがある。

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 ☆下田大島間長距離潜水の報告 工藤昌夫 12チャンネルの番組をつくるために、工藤さん、自身が潜った。 「大きな船の甲板から水面をみおろしていたのでは、本当の海の姿はわからない我々の筏は水面と同じ高さにあるから、たくさんの海の生物を見ることができたのだ。コンティキ号で太平洋を渡ったハイ得るだーるはそういっている。それならば、本当に海のことを知りたい人は水面の下にハイって外洋をいくべきではないだろうか。」 族はちがう、同じチーム宇ではないけれど、こういうことを考えて、とりあえずやってしまうところは、工藤さんすごいと思う。 テレビ番組的には、田辺さんのドリームボートも活躍した。  もちろん、船に上がって休憩をとってまた潜ってだけど、それでも、一度上休んだら、再び飛び込むのは辛くなるだろう。下田から大島へなど、潜って行かれるものではない。 鮫に食われるといけないのでサメよけ棒を作ったり、サメ除けの檻を引っ張ったり、サメの檻など何の役にもたたないが、テレビ番組としては、時間が稼げる。そういうことを、ラジオ作家という肩書きも持つ、工藤さんはよく知っていたのだろう。 伴走するボートと通話する有線通話機を作ったり、 今読んでみると、おもしろい。次号に続く  ☆協会は 活動のための部、部制をとることになった。  写真部、木村貞造 舘石昭 木村さんは銀座でジュリアンソレルというファッション+カフェをやっていた、銀座のど真ん中だ。木村さんのお店に行き、二回にある社長室に行くと、床がガラス張りで、下の店がみえる。社員は四六時中社長の監視の基にあるわけだ。  水中スポーツ部 工藤昌夫さん スピアフィッシングは、将来性のあるスポーツだから、なんとかうまくやれるようにしようとスピアフィッシング大会などもやった。  研究部 神田献二先生、  訓練部 菅原久一さん  もちろん僕の席はどこにもない。後で神田先生に頼まれて原稿とかかいたけど、 訓練部の担当理事に安東宏喬さんの名前がない。この年の講習会にも安藤さんの名前がない。なにかあったのだろうか。  役員名簿会長 猪野峻 副会長 菅原久一 木村貞蔵 監事 佐藤賢俊 神田献二 常務理事 山田尚文 吉牟田長生 会計 山中鷹之助 伊東ヒデ子  理事 浅見国治 梨本一郎 大道弘昭 池田和一郎 遠藤徹 宇野寛 田辺栄蔵 館石昭 伊東則美 LE カーン 工藤昌男  浅見国治は日本アクアラング 遠藤徹は、佐藤賢俊さんの旭潜研に入って,後に独立して福岡潜水を作る。
 二人とも大学の一期下で,宇野研究室出身である。

※なぜ人事にこだわるかというと、その後 協会は消滅してしまって、海中開発技術協会になる。それが日本のダイビングのターニングポイントであり、 今日のダイビング業界に続いていく。それは人事の歴史でもある。
※さらに、このブログは、本にまとめるための,自分のメモでもあるので、

 そのころだろうか、もっと後だろうか、僕は部外者だったので、よくわからないが、講習の修了者に免許証のようなカードを出そうという案があり、どるふぃんをデザインしたカードデザインまでできていた。デザインだけだから、何と言うこともないが、そのようなものを作っても、責任の負いようが無いからと言って否決されたという話を聞いた。  ☆島の海 黒潮 倉田洋二
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 ☆ショッピングガイド 東京水中用品 神田の大きなスポーツ洋品店 金沢スポーツの参加の店だ。

1018 ログ 波佐間

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                        10 月15日 ログ  人工魚礁研究会   こうなった理由は、むろん台風の襲来だが、日程の組み方にもある。ほかのお客の迷惑になるといけないので、原則として、ウイークデイにする。ウィークディでメンバーが来られる日は、限定されたものになる。そして、今日だめならば明日ということがない。また、波佐間がだめなら、大瀬崎に行くとかいうこともない。期日場所が絶対なので、その日がだめなら、また来月、という次第になる。9月などは無理をして、翌週も予定をとったのだが、それでも、だめ、これは不運だった。  ようやく 波左間に潜ることができた。7月、8月、そして9月は21と27 2回が潜れなかった。 ウエットスーツ、ドライスーツ両方を持って行く。 カメラはOlympus TG-4 NikonAW1300 AKASO Sj4000 ライトはFX 2500   ターゲットをオオモンハタ、イサキ、メバルとした。 ユニット 須賀 山本徹 佐藤 久保 小俣 ガイド:荒川さん ※ユニットとは、チームよりも緊密な連携 バディ 須賀 佐藤  迷ったあげく、水温が24℃ と いうことなので、今年最後のウエットスーツにする(お台場は周年ドライスーツだが)水中は全く寒くなかったが、あがって寒かった。  ログ ①目的人工魚礁研究会 ③場所 波左間 ④スポット FP  魚礁NO21 ⑤天候 曇り ⑥風  なし ⑦水温 23. 4℃ ⑧透視度 15m ⑨潜水開始 1022 潜水時間 30分 ターンプレッシャー 95  ※残圧よりもターンプレッシャー重視 残圧はどーでも良い。  人工魚礁の場合ターンプレッシャー即浮上だから、余裕はある。 ⑩最大水深 27. 1m ⑪潜水終了 1052 ⑫インターバル ⑬ユニット 須賀 山本徹 佐藤 久保 小俣 ⑭バディ 須賀 佐藤 ⑮残圧  ⑯適要  下段 に オオモンハタが 15以上     イサキの群 30cm級 15cm級 5cm級それぞれの群 100~500 ※このログのパターンは、ブログを書き始める前、エクセルで書いていたログで、ブログを書けば、このログは不要とやめてしまって、失敗、ログはきちんとつけて、それをブログに転用すれば良い。  ウエットだから素早くヘッドファーストで潜れるかと思ったが、昔のようには潜れない。山本さんは、遙か下に行ってしまって気泡だけが上がってくる。佐藤君は、と見回す余裕がない。次回は潜降の連携をかんがえよう。潜降ロープで潜ればいいのにフリー潜降する。それでも一般ダイバーに比べれば早い。何も早さの競争をしているわけではないのだが。  
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高さ6m(実際はそんなにない?)の大型コンクリートブロックが10基 2段に重なっている。大型(30cm)のイサキの群が着ついているが、じっくりと撮ってはいない。  カンパチも三々五々というかたちで回っている。下の段の魚礁の中に、10cmサイズの小さいイサキが底に貼り付くように群れている。もっと小さい3ー5cmサイズのイサキも魚礁の中層に群れている。イサキについては、大中小のサイズの群がいる。 良い写真を撮りたいと思っているのだが、このごろの悪い癖で、カメラがフィックスしない。これは、後になって、画像を整理して見たときの反省で、毎度反省している。
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 オオモンハタ5尾がまとまって、こっちを眺めている。ここはじっくり座り込んで1分ぐらい静止して撮るべきところなのだが、下手になってしまっている中性浮力にとらわれている。サンゴ礁に膝をついてしまうのは、禁止だが、人工魚礁ならば、良いのだ。次回からは、ここと思ったら着底しよう。 加齢のため平衡感覚が失われているから中性浮力静止が、意識しないとできないのだ。それに気を取られると、カメラの静止がお留守になる。 魚礁の下にイセエビがいたので撮影する。オオモンハタは、20尾はいるだろう。 ここのところ5ー6年前、10年かな、オオモンハタはこれほど多くなく、マハタや、ほかの類のハタの20ー30cmクラスと場所を分け合っていた。今、マハタはレアになってしまって、今回も見ていない。探せばいるだろうが、調査では意図的に探してはいけないのだ。そこが難しいのだが。
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 中段に上がる、ウマヅラハギがいくつか、あとキンギョハナダイの群、 メバルは中段に群れている。50ぐらいの群がいくつか。  海底から中段に上がったら、もう、下に何が見えても降りてはいけない。このごろ今村ダイコンオジサンの影響を受けて、減圧症に注意したりしている。浮上もゆっくり、速すぎマークがでないようにしている。昔、長年使っていたRNPLの減圧表は、毎分15mの速度が許容で、これは必ず「Sllow」マークがでる。 FP21は、ドリームほどの華やかさはないが、魚が多かった。                                二回目の潜水  ③場所 波左間  ④スポット ドリーム ⑤天候 曇り ⑥風 ⑦水温   23℃ ⑧透視度  15m ⑫インターバル  98分 ⑨潜水開始 12時23分 潜水時間 30分    ターンプレッシャー 80 ⑩最大水深  23. 4m ⑪潜水終了 12時53分 ⑬チーム 一回目に同じ ⑭バディ  佐藤 ⑯適要 オオモンハタ 10-20 中段にもっといると思ったのだが メバルも群れていない。   佐藤君と打ち合わせる、というよりも一方的に僕が指示しているのだが、左手の下段から入って、長辺の方向にくぐり抜けて行く。ここではメバルをみるつもり。抜け出たら、今度は中段をやはり長手の方向にくぐり抜けもどる。ここでオオモンハタを見るつもり。最後は上段の中を適当にふらふらして、ターンプレッシャー80で浮上しよう。 人工魚礁潜水で良いところは、こういう打ち合わせができるところで、あんまり迷うことがない。
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 その通りに動いた。下段にメバルは群れていなかった。通り抜ける道筋を変えて探せばいるかもしれないが、調査は意識してさがしてはいけない。決めたルートで、居たかいないか、その数、大きさをみる。(撮影する) なお、愛用しているAKASOの蓋の留め具が割れていた。危ないと思ったが、ビニテープで補強したら、大丈夫だった。
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 オオモンハタは、上段で、大きい50cmサイズが居て、うまく全身を撮影できたと思ったのだが、鼻先がぼけている。動きをライトで追う撮影では、こんなものなのか。
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 上の段には、イシガキダイ、イシダイの30cmサイズがいる。イシガキダイは上段の天井部分が定位置、イシダイは泳ぎ回っているので、遠目には、見るが追って撮影はしない。 シラコダイ、キンチャクダイ、ツノダシ、ニザダイ、タカノハなどは種の多様性に貢献している。撮影して記録しておく、スズメダイは、包装の詰め物にようなもので、居たという記録だけで、大きさや種類、居た場所などは無視することにした。  エキジットで失敗した。12リットルのタンクを水際で脱いで、船上に引き上げてもらうのだが、ウエットスーツになってウエイトが軽いから、自力で上がろうと思った。そのためにスクアッタなどやっているのだが、そして、この前は上がれたのだ。段を上がるとき、右太股の外側がギクッとした。やってしまった。左のふくらはぎはまだ治っていない。それに右側の太股だ。 まあ、ぎっくり腰よりは良いだろう。荒川さんという超人をみると悔しいが、筋肉の出来が先天的に違うのだと思う。それとも、鍛え方か。  なお、荒川さんには昼食でローストチキンをごちそうになってしまった。すごい。  尾崎君とは、今後の人工魚礁について、彼の考え、提案、を話してもらった。うまく行くと良い。人工魚礁ルネッサンス?   みんなは、もう一本 高根に行った。僕も行きたかったシ、クロダイの写真を撮りたかったのだけれど、一日に2本までと決めているし、足も痛めたし、降りた。                                                      

1019 ダイビングの歴史 31   1964 秋

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ダイビングの歴史 31  「どるふぃん」 8ー1 1964 秋 読売ランド竜宮城が オープンした。 竜宮城は、近藤玲子(バレー団主宰)岩村信夫(ブロードウエイでミュージカル修行をして、日本最高のミュージカルダンサーといわれた。長身で、とにかく、むちゃくちゃにかっこいい人)二人は夫妻でプロダクションを作っていた。 岩村さんが在米中、フロリダのウィキィワッチ・スプリングという大きな泉
 ☆田辺さんの記事 でやっている水中バレーショウを見て、日本でこれをやれないかと考えた。
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 バレーは、ジャンプとかリフトとか、無重力でやると夢の実現ができる。日本にはこんな大きな泉はない。作るしかない。 正力松太郎氏に相談したら、多摩丘陵に作る読売ランドに呼び物がない。山の上に乙姫様が舞う竜宮城を作ってしまえ、ということになった。1960年代は、そんな夢のようなことが実現する時代だったのだ。そう、夢であるからこそ実現させようちする時代。  岩村さんに会った最初は、日本アクアラング浅見の紹介だった。手動のフーカーを作ってくれということだった、ウィキワッチのショウで、ダンサーは空気の吹き出すホースを手に持って、その空気を吸っている。それが、どうもかっこよくない。吸うときだけ空気がでる装置がほしい。自動は大変だが、手動は簡単だ。握ると弁が開く構造にして、それをホースの先に着ける。その先にノズルを着けた。我ながらよくできた。岩村さんとプリンスホテルのプールにテストに行った。ノズルを口に当てて、レバーを握りしめると空気が噴出して、吸うどころではない。これはだめか?口につけないで、少し離れた位置から空気を出すとうまく行く。岩村さんが優雅な手振りで口の前で空気を出して吸う。
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 これは素晴らしい。踊りながら空気が吸える。 そんなこんなをしているうちに、僕も高校で演劇をしていたり、鎌倉でバレースクールの公演の照明を手伝ったり、バレー映画「赤い靴」のモイラ・シアラーが、無重力で踊っていたことなどを話したりして、意気があって、生涯の友人になれると、そして、僕も100m潜水をしたりして、レコードを持っていた。トレーナーをしてくれないか、ということになった。   社長にお願いをたてた。100m潜水とか、わがままを続けている。ダメだといわれたら会社を辞めても行くつもりだった。東亞潜水機の業務に差し障りのない程度ならば、ということになった。  建設中の竜宮城を見にいった。建設中の方が大きく見える巨大なものだった。わけても、水の浄化、保温は、世界でも類のない最高度の技術、前面のガラスは、まだ一枚ものにはできないが、(現在は美ら海とかできているが)大成建設の技術の粋を集めた。 問題は、トレーニング、僕の担当だ。僕は東亞潜水機と二股だ。毎日のように出勤することなど出来はしない。 若い友人の藤井祥男君、高校の時から、一緒にダイビングに行っている田中次郎に手伝ってもらうことにした。藤井君はその後、竜宮城のスターの一人であった醍醐都さんと結婚する。
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 ☆ここからは、波瀾万丈の冒険ストーリーになる。今だったら水中もののドキュメンタリーが作れるストーリーだが、年表なのでここまでにする。つい数年前近藤玲子さんが亡くなるまでの話になってしまう。  ☆八重山紀行 木村貞蔵  ☆下田大島間長距離潜水の報告 Ⅱ   工藤昌男
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 半分ほどの道程で終了したが、工藤さんはこのようなドリフト潜水の海洋調査手段としての意義、効果について言及している。黒潮に乗ってのドリフトなどであるが、やがて、このような科学調査がNOAAⅠなどで行われ、レジャーとしては、ブルーウォーターダイビングなども行われるようになる。その先駆とも云えよう。残念なことにそのアイデアについて、言及したのみで、実際の研究実験は行われなかった。 工藤さんのこの横断、僕たちの90m潜水、僕のデマンドレギュレーター付きの送気式フルフェースマスク、則美さんの戦艦陸奥 三つをまとめて本にできたら、今の僕ならばできただろうが、残念なことに当時その着想はなかった。潜水協会がそれをやるとすれば、それは工藤さんの責務だっただろう。声をかけてくれたら、僕は喜んだと思う。 「どるふぃん」でそれぞれ書いたのだから、海洋潜水探検として、まとめれば。。。 しかし、協会はそういう方向ではなく、別の方向に逸れつつあった。 ☆ 開放式SCUBAの型式と特色  須賀次郎 ダブルホースとシングルホースの特色、呼吸努力についてのべたのだが、決定的なことは、ダブルホースでは、圧力計 BC、そしてオクトパスホースが着けられない。そのことは論じていない。つまり気づいていなかったのか。バカな恥ずかしい話である。 ☆ スピアフィッシングにおける得点法の一試案 水中スポーツ部  まだ協会はスピアフィッシング振興を目指している。  ハタが1キロあたり50点タカノハは10点などと提案している。  そして、7月30日伊東市富戸 東拓海洋公園においてスピアフィッシング大会を開いている。 僕たちも負けずに、1965年 日本水中射撃連盟を結成して伊豆神津島で大会を開いており、その翌年1966年には、日本水中スポーツ連盟というのを作って八丈島で大会を、さらにその翌67年には伊豆大島でたいかいをやっている。その結果などについては、後藤年表のところで述べる。 ☆島の海 倉田洋二 「ササヨ」 ササヨとは、食植魚 イスズミのことである。
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 ☆広告で水のスポーツ専門誌 旬刊 レジャースポーツがでている。 残念ながら今手元にない。
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 ☆協会だより 水中スポーツ部の規約とかが乗っている。 あれほど盛んに行っていた訓練部の講習が初級も中級もおこなわれていない。何があったのだ。  会員は1550番まで紹介されている。

1021 ダイビングの歴史32 どるふぃん  1965秋

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 ダイビングの歴史 32  「どるふぃん」 9ー1・2  1965 秋 表紙 ユージニー・クラークさんの写真  ☆フランスの潜水事情とプレコンチナン計画・その他  ジャック・イブ・クストー クストーが日仏海洋学会・佐々木忠義会長 の招きで来日した。 クストーは、日本で3回の講演を行い、その記録である。今読み直すと大陸棚開発、海洋開発、海底居住の原点がわかる。 講演 その1は、上記原点の説明である。テクノロジーの進歩で、人間が海に入っていくということの困難はほとんど克服された。克服できない困難の一つは、海が荒れることで仕事ができる日数が制限される。一つは圧力であり、水面との往復に時間がとられる。海の中に住んでしまえばこの二つの困難は解消する。 これもテクノロジーの進歩で、陸上でできることのほとんどが水中でもできるようになった。ダイバーはヘリウムの混合ガスを使うことで、180m、大陸棚のほとんどすべてが行かれるところになった。ただ、問題はコストである。クストーの試算によれば、水中は陸上の4倍のコストがかかる。それに見合う仕事でなければならない。 今考えれば、なんと楽観的な、と思うが、50年前のことである。各国莫大な予算を組んでいる。アメリカは15億ドルであり、フランスはⅠ億ドルである。 講演その2は、テクノロジーの説明である。人は空気を呼吸して40m間で潜れる。ヘリウムの混合ガスで180mまで潜れる。潜水艇で4000mまで潜れる。4000m以上はバチスカーフで行かれる。海は、この四つのゾーンに分けられる。四つのゾーンでのテクノロジーの説明。 講演その3は、この年に公開される映画「太陽の届かぬ世界」プレコンチナン計画の説明とヘリウム潜水の説明である。  ☆はじめに 猪野峻 政府の上層部で海底資源開発だの、潜水技術の開発だのが議論され始めた。クストーも来た。アメリカで、130mの海底にテントのようなハウスで,二人のダイバーを二日間滞在させたエドウイン・リンクも来日した。 今後は科学の記事が多くなるので、「どるふぃん」も左開き横組みになる。   ☆海女の生理学シンポジュウム 第23回国際生理科学会議が日本で開かれ、その一日に海女が取り上げられ 各国の学者が発表したことに驚かされる。  ☆ユージニー・クラークさんの講演  ☆沖永良部の海 山田尚文  ☆潜水艇よみうり号見学 西村潜水艇の進化型 そんなことも書いていないし、何メートルまで潜れるのか書いてない。 
 8名で行って 親切に説明してもらったとだけ。
  写真はこんな写真だけ。タグボートの脇にとまっているゴムボートみたいなのがそれ。
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☆関西支部の潜水並びに訓練規定 今現在見ても、欠落のない規定である。
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☆潜水士講習修了試験  昭和40年であるから、指定講習であり、免許の申請ができる講習である。  協会だより 昭和40年度事業計画 基礎講習 入門講習をそれぞれ6月から9月まで、毎月、その上にトレーナー講習というのも加わった。このあたりに僕の進言が加味されていたかもしれない。こんな計画を計画の通りやるならば、猫の手、ではなくて須賀の手も借りなければならないだろう。
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 しかし、この講習が行われたかどうか知る由もない。この号を持って日本潜水科学協会は発展的消滅をしてしまうのだ。この年度に加入した会員も入れて、1623番 この名簿をみていて1622番に東村二平 21歳 大島観光荘の二平さんだ。彼は、消滅寸前の協会の会員になった。  1600人の会員、8年の歴史(それを築いてきた人たちの努力)を一片の挨拶もなく、それは、口頭、噂話、あるいは電話の苦情にたいする言い訳などはあったかもしれない。「どるふぃん」による公示ができるにも関わらず。なにも告示しなかった。関西支部、とそして出来かかっていた中部支部などは3階くらいまで上げて階段をはずされた。 小史で書こうとしている、日本国籍潜水指導団体盛衰の歴史が、先人たちのこのようなでたらめにはじまってスタートする。  大陸棚開発、海洋開発の足音は背後に迫っていた。その当時、潜水技術の受け皿になるような団体は協会以外にはなかった。莫大な国家予算も背景にはあっただろう。後に役員になる顔ぶれ、を見れば、政治的な圧力もあったかもしれない。僕らのような雑魚は切り捨てるのも結構だが、たとえば支部は分離するとか、切り離すとか、そして、この後、協会は社団法人海中開発技術協会に脱皮するのだから、日本潜水科学協会は僕ら若手に残しておいてくれれば、よかった。 そして、「どるふぃん」だけは残さなければいけなかった。機関誌が終わることは、その組織がなくなることなのだ。海中開発技術協会になっても「どるふぃん」があってかまわないのではないか。工藤さんなどはものを書くことが商売だったのだから。

1022 ダイビングの歴史33 1965

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後藤道夫 撮影
ダイビングの歴史 33 1964~
 水中撮影特集
 これが「どるふぃん」の最終号になる。
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 裏表紙は館石昭撮影

 ニコノスの日本光学がフルスポンサーになったから出した。また、燃しそうでなければださなかっただろう。水中写真部が編集してだしたものだと記憶している。
 そして、ここに載せられている写真が、当時の日本の最高峰だ。と思って、今日の月刊ダイバー、マリンダイビング、そして各所で開かれる写真展と比べ見ると、当時と今では水中写真についての考え方がまるでちがうのだ、と考えるか、まるで下手くそなのだそのどちらなのだろうか。

 写真作品集のほかに☆水中撮影の第一歩 舘石昭 ☆水中カメラについて、後藤道夫 ☆水中撮影地ところどころ 木村貞蔵 ほか、 三つの記事が載っている。子の三つを見れば、水中撮影ができる。そういうコンセプトだ。 もう一つ、個人的に特筆することは、僕の写真が一枚も載っていないことだ。カメラマンとしてもダイバーとしても、ダイビングでは僕の弟子クラスの人が載せている。僕は大学時代、写真を撮って過ごした。卒業論文も写真を多数使ったし、新東宝、岩波映画などの助手もアルバイトでやった。なぜ、といえば写真を撮らなかったのだ。舘石さんと一緒に潜っていると、僕は写真を撮らない役割になる。バディで潜れば彼の助手、カメラ持ち、または魚を突くモデルとして水中銃を持っている。舘石さんから独立して、カメラを持つようになった。「海の世界」のコンテストに応募してたちまち一位になった。残念ながら、その「海の世界」は、大事にしまっておいて、どこかになくしてしまったが一枚だけ、残っている。これも、今見れば何だというようなものだが、皮肉なもので、海の世界 写真コンテストの審査員は舘石さんだった。
 
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 これは舘石さんの記事の中にあった僕が写されている写真

 ちょっとおもしろいレギュレーターを使っている。蛇腹のシングルホースである。胸の位置にセカンドステージのダイヤフラムをおいて、位置の差で呼吸抵抗をゼロにしている。フリーフローをマウスピース部分での弁構造で止めている。これは、そのレギュレーターのテストをしているときの写真。そんなテストの時も魚を突いている。予定通り呼吸抵抗は、ゼロに近くなったが、商品化はしなかった。
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 左が大崎映晋さん、右のヌードは、僕の中学、高校の同級生だった伊藤二良 なんだこれは、確かにヌードだが。
どるふぃん誌上最初で最後のヌード、日本の水中撮影史上でもこれが発表されたヌードの最初?
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 これは田辺英蔵さんの二枚、伊藤則美さん的な写真。

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 伊藤潤子がミノカサゴを突き刺している。なぜ、そんなことをするの?という写真?舘石昭撮影だ。まあ潤子は美人だけど。
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 木村貞蔵さん クマノミはどこにいる。
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 木村貞蔵さん 黒いサンゴ 1965年当時は、まあ、こういう写真を撮っていたわけだ。歴史的な意味は大きい。


   そして「どるふぃん」は終わった。

1026 ダイビングの歴史 34 スピアフィッシング

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ダイビングの歴史 34  ☆伊豆海洋公園 伊豆海洋公園ができたのは1964年、ビッグニュースだが、「どるふぃん」でとりあげていない。ただ、7月30日に東拓海洋公園で、スポーツ部がスピアフィッシング大会をやったとだけ紹介された。  1964年から、1967年12月までトータクはスピアフィッシングのメッカの一つだった。  ☆スピアフィッシングとは、  さて、後藤メモだがダイビングの歴史22で1963年から、1967年まで走ってしまっている。 ここで、「どるふぃん」に合わせて、時計の針を1965まで戻そう。  そのころ僕はなにをやっていたか。
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                      下が、シャーク銃

 東亞潜水機では、63年に100m潜水などやり、そのご恩返しをしなければいけない。何かに結実させたい。 かたわら、本業商売は、「アクアラング屋さんは、真夏には眠ってはいけない。冬は寝て暮らす」と言って、気合いを入れていた。 シャーク水中銃、そしてスポーツ用品問屋へのスキンダイビング用品の運搬、手配。タンクのエアーチャージ。そのころタンクは、それぞれ自分が、マイタンクを持たなければいけない。たとえば、神田のミナミスポーツのクラブ会員だったとする。自分のタンクをミナミのクラブに預けている。ミナミスポーツは、時には東亞潜水機に持ってきてくれることもあるが、だいたいが、こちらで引き取りに行き、空気を詰めて、次のツアー出発にあわせて出前する。こんなことをしていたら、寝るひまもなくなる。 そして竜宮城へも週に2回は行かなければならない。 そんな合間をぬって、大学の一期後輩である浅見国治(協会の講習の講師をやってもいた)と二人で、日本で初めてのアクアラング潜水の指導書を書いていた。題も「アクアラング潜水」アクアラングは、日本アクアラングの登録商標だ。浅見は日本アクアラングの社員だから、特別許可をとった。僕としては、その商標を宣伝してやっているというくらいの気持ちだったのだが。そして、 次へ進むにはヘリウム・酸素の混合気体を使わなければならない。その文献あさり、これは、冬の仕事だが。機材の図面を引いたり、さすがに予算が無く、作るところまでいかなかったけれど、2012年、40年後にその絵を80歳80m潜水のコンセプトシートに、つかったりしている。 その上にもう一つ、日本水中射撃連盟を結成する。これは夏のことだ。人間とはバカなもので、何かを始めると、誰が一番か競いたくなる。その最たるものがオリンピックであるが、ダイビングの世界では、スピアフィッシングで上手、下手を決める。世界では、CMASが主宰するブルーオリンピックというのがある。大崎映晋旦那が団長になって、鶴耀一郎、そして意外にも松岡俊輔 彼は、後にセミクローズのフィーノをやるのだ。そして、どうしても名前が思い出せない。ごめん。女の子が一人、開会式に振り袖とか着て、世界の注目を集めた。いつの時代にもこういう人がいて、また、居ないとさびしい。  少し筆がすべっているけれど、理不尽な「どるふぃん」の消滅で頭に来ている。行くところまで滑らそう。  夏は忙しい東亞潜水機に、神津島の生まれ、大島の水産高校を卒業した鈴木郁男が入社した。その鈴木の叔父さんが、神津島の組合長だという。そのつてで、神津島でスピアフィッシング大会をやることになった。主宰は日本水中射撃連盟、連盟と言ったってなにもない、僕とあと、有志(魚を突きたい人)が5人ほど集まって、いろいろ手配するだけだ。  そして、日本中のスピアフィッシングの名手と思っているダイバーが集まった。協会がやるスポーツ部の細々とした大会とは一桁違う。 なにしろ、ダイバーがこれまで入ったことがない。これからも入れないであろう、恩馳せ(おんばせ)という漁場には入れるのだ。 念のために言うが、この魚突き大会は、スクーバでやる。鶴耀一郎、沼津の黒柳英男らは、スクーバはいけないと、素潜りで参加する。得点点数は低いけれどニザダイなどを100尾単位で穫るから、スクーバと対等な勝負になるのだ。  関東太平洋岸では、大型のマハタのことをモロコ、千葉県ではモッソウなどと呼ぶ。千葉県方面でモッソウを突くことができるのは、外房、白浜の根本だった。このあたりは、海女漁が盛んなところで、鉄砲を持って潜ったりすると、追い出されるところなのだが、ダイビングサービスをやっているのが、この地域のボス(やくざではない)なのだ。自分だけで、水中銃ありの漁業組合をつくってしまった。 ここのモッソウは、ダイバーに追われて生き残った猛者だから、なかなか、突けない。利口な魚で、決して行き止まりの穴には入らない。イシダイなどはバカだから、行き止まりの穴に入る。穴に入れば、穫られてしまう。仲間うちでは、これを「穴撃ち」と呼んでバカにした。モロコは、とおりぬけられる穴に入る。するりと向こう側にぬけて、ダイバーの後ろに来て、ダイバーを観察していたりする。しかし、人間はもっと賢くて、一人が穴の向こう側で待っていて、一人が追い込んで出てくるところを撃たれたりして、しまう。すると、魚のとる手段は、ダイバーのこないところに引っ越してしまう。居なくなるのだ。☆ 神津島のオンバセのモロコは、ダイバーなど見たことがないから、なんだ、なんだ、と観察に出てくる。それを百戦錬磨のダイバーが突くのだから、たまらない。 このような大会の場合穫った魚は組合に水揚げして、自分の穫った魚を持ち帰るには、原価で?買い取るのだ。しかし、水揚げされた魚をみて、組合員は仰天した。穫りすぎたのだ。これで神津島では、魚突きは禁止となった。  翌1966年は、日本水中スポーツ連盟を作って八丈島で大会を行った。連盟の会長は舘石さんにした。八丈島では、今は廃墟になったロイヤルホテルが全面的に協力してくれた。漁業組合も協力で、開会式には菊池組合長が挨拶した。神津でモロコを穫りすぎたので、今度は磯魚はダメ、回遊魚のみとなった。 カンパチはダイバーが出す気泡を餌の小魚と思って、一度だけは接近してくる。このときも穫りすぎた。そのためかどうかわからないが、その年回遊魚が不漁になった。挨拶をした組合長は罷免された。  その翌年1967年はスポーツ連盟で、伊豆大島で、この時は、選手ででたが魚に巡りあえなかった。  ☆ 1966年 「アクアラング潜水」 須賀次郎 浅見国治共著 発売 浅見国治は、日本アクアラングから、アメリカのUSダイバーに研修に行き、発足したばかりの米国NAUIのインストラクター講習を受けてインストラクターになっている。日本人はじめてのダイビングインストラクターだろう。ダイビング・インストラクターという言葉は、まだ日本にはない。指導員だ。「アクアラング潜水」に掲載した講習プログラムは、そのときのNAUIのものに近い。

1028 お台場1027

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お台場 10月27日 東京海洋大学 千足先生にお願いしてライン調査  尾島ママ、小林さんが参加。 千足メンバーは、大学院学生1名 助手の女性、今度名前聞いておこう。ごめんなさい、忘れている。3名のチーム。50mの巻き尺3本 150mならば、終点の杭までいくだろう。 僕だけがドライスーツで、ほか5名はウエットスーツ、水温は22度 かなり寒いはず。僕の体調は、毎度の通り、調子がわるい。朝、荷物の積み込みがつらかった。 水に入って泳ぎだせば、調子がよくなるだろう。  千足チームと一緒にエントリー。 レッグウエイトを着け忘れたので、足が浮くけれど、まあまあのバランス。  ゆっくり泳いで 全コースの動画を後で見れば、ライン調査と参照できる結果が得られるはず、とゆっくり進む。 カメラはAKASOがメインのつもりだが、Olympus TG-4のスチルもしっかり撮る考え。 AKASOをメインにする理由は、このカメラが、一番シャープな感じで撮れる。タイムインサートの位置(左上、表示の大きさが小さい。このカメラだけで、棒の先も良いのだが、画素数など、真の画質も記録としては必要なので、重ね餅カメラを使っている。 透視は良い。濁った水が上層で、二層になっている。  マハゼはほとんど姿を消している。先月、このまえの9月16日にはまだ小さい形も多数居たので、大きい個体が産卵の為に深場に降りた、というのでも無さそうだ。大小すべて消えた。産卵する大型個体だけが消えるわけではないのだ。大感謝祭で、マハゼの専門家の古川さんとお話しできて、今年のマハゼは、9月から忽然と大きい個体が姿を現したという。お台場もその通りだったので、お台場、僕のリサーチ海域は、マハゼのバロメーターになっているなあ、との感触を強くしている。その大型のマハゼも、小さかったマハゼも姿を消して、マハゼは、ほぼゼロ。秋の東京の風物詩ともいえるマハゼ釣りは、悲惨だろう。 マハゼと、おそらくは、住み場を分け合っている 雑ハゼ?チチブ、アカオビシマハゼ、アゴハゼの姿は、濃くなっていて、中間点70ー80m点、終点が150m?(これが今日の千足チームのライン調査でわかるが)その中間点、倒木の少し手前の、「奥の深い重なった石」で、腰を落ちつけて見ると、ちょろちょろと 雑ハゼが数尾往来し、隠れん坊をして遊んでくれた。後でAKASOのテープを見たのだが、このような感じは撮れていない。超広角でも、人間の眼の見る範囲の方が広いのだ。  最終定点の杭に行き着く。このあたり、濁っている。  杭が横になっていて、隙間を作っている。必ず何かが入っているミニ魚礁だ。マハゼが去っていれば、マハゼよりもやや大きいウロハゼが入っているはず。しかし、ウロハゼもいない。雑ハゼもいない。何もいない。こんなことは、初めてだ。
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 戻って、角石ブロックのところ、これが杭の列の基点、終点なのだが、この季節には、シマイサキの稚魚がいる場所だが、見えない。何も居ないと思ったら、ちらりと動く姿、トサカギンポの小さい個体。動かなければ見つけられないのにチョロチョロ動く、Olympus TG-4で追う。焦点が合ったという緑の合焦マークを見てシャッターを押しているのだが。
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 そして、追っていくと、その先に、穴の奥に青黒い頭が見えた。マアナゴだ。7月22日に会った奴と同じのようだ。多分、いくつかの穴を持っていて、このあたりに住んでいるのだ。腰を落ち着けて撮ろうとした瞬間、足が浮いた。ここまで、バランスよく水平で泳いできて、このごろ珍しいバランスだと思っていたのに、浮き始めると、微調整では止まれない。1mは浮いて身体を立てて空気を抜かなくては、バランスは取り戻せない。高齢で下手になっているのだが仕方がない。体勢を立て直して、戻るが、もうアナゴは穴の奥に引っ込んでしまっているのだろう見えない。 戻ることにする。後で画像を見たが、Olympus TG-4は、やはり、ボケている。AKASOは少し良い。やはりお台場は棒の先カメラにした方が良いのか。 
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 帰りは千足先生の曳いたラインに乗ってラインを撮影しながら戻る。50mの巻き尺3本、その端に、レッグウエイトを巻いて留めている。戻りだから、三本目、二本目一本目と逆順になる。三本目の中程で、千足先生たちに出会った。カメラを向けたが、動きが早くてうまく撮れなかった。うちあわせてポーズをとってもらえばよかった。 
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 いま、スキンダイビング・セーフティの改訂の話がでている。その中の一つのテーマとして、研究者のフィールドワークはスキンダイビングで、を考えている。そのサンプルとして、ライン調査を取り上げたい。  ラインを追って撮影しながら戻る。このようにラインを3本に割ると、100m1本の鉛ロープ(これまでの自分たちの手法)よりも、ゾーンが三つに分けられるので良いかもしれない。今回、牡蠣の分布密度を調べてくださいとお願いしたのだが、明らかに3本目ゾーンが密度が高く、1本目が少なく、2本目が中間だった。 
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             3本目、牡蠣が多い、ラインの上にチチブ(ハゼが)
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             2本目 だいぶ牡蠣は少なくなっている。
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              1本目 牡蠣は少ない。
 AKASOのバッテリーは、40ー50分で終わる。残りの1本目ゾーンは撮れなかった。近場のゾーンの岩も観察しないで、エキジットする。出るときは自力で上がりたい。腰の深さでフィンを外し、立って、後ずさりででる。風が強くなり、お台場でもさざ波がでていて、足をとられそうによろけたが何とか自力で歩いて戻れた。  千足先生方は、僕たちの使った残りのハーフタンクでラインを回収した。 午前でお台場を終えて、午後は、安全潜水の会、DANと社会体育指導者の研修、講習会にでた。これも、学生のダイビングの話があり、内容があるので、 次回に書く。 

1029 ダイビングの歴史35

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故 浅見国治
 ☆ 日本潜水会 誕生 1967年12月 知らぬ間にこのスタイルにはまりこんでしまった。「どるふぃん」を読み直したのは、これまで、見えなかったことが見えて、良かったのだけれど、終わり方が気に入らず、ついスピアフィッシングを書いてしまった。これが、ニッポン潜水グラフィティのスタイルになってしまっている。ダイビングの歴史ではカットするから問題はない。カットするので、「ニッポン潜水グラフィティ」是非読んでください。  そして、この後のダイビングの歴史を見ていくとき、日本潜水会がスピアフィッシング禁止に踏み切ったことは、どうしても、書いておかないといけない。その禁止を書くためには、そのころのスクーバダイビングがスピアフィッシングをめぐって展開していたことも、書いておかないとわからないので、スピアフィッシングの頂点、行き着く先を書いた。。  ☆  1600人の会員 関東支部 関西支部 誕生しようとしていた中部日本支部 を事実上おきざりにして潜水科学協会は消滅した。海中開発技術協会に生まれ変わるのだが、海中開発技術協会に一般スポーツダイバーの席はなかった。  旧知のアクアラング屋さん、親しい友人を中心にして、その他呼びかけに応じて来てくれたダイバーを集めて、ダイビング指導組織 日本潜水会を結成してトータク海洋公園で一週間の合宿訓練を行った。
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 集まってくれたメンバーは24人、その時来られなかった人の為に、すぐに第二回をやって、そのメンバーも含めて、日本潜水会が始まる。 これが、日本のダイビング指導の自分たちのグループの原点だった。 原点とは、言わずもがなだがx軸とy軸の交点である。y軸集まってくれたメンバー、そのメンバーの働き、人生の交錯、これからx軸、50年の時間が経過していく始まりだった。  自分、後藤道夫、浅見国治、結成の中心はこの3人で、この3人の知人、友人を集めた。浅見がまず亡くなり、2014年後藤道夫も世を去って、残ったのは自分一人になった。 そして今、日本水中科学協会は、このときのメンバー白井常雄に支えられている。
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                    白井常雄と森良雄(名古屋)

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               倒れている、ミナミスポーツの長谷川、と加藤芳雅 法政アクアを創立する。
  友情も大事だが、それよりも、集まって何をしたか?が重要だ。 まずどのよう初心者指導、講習をするか決める。 1966年に出版した「アクアラング潜水」がある。この本の講習基準 プログラムを説明する。このプログラムの考え方のルーツはNAUIにあったことは、すでに説明した。PADIがうまれたのは、 1966-7 年である。 午前中のレクチャーで、講習の方法、線引き、何ができたら、どこまでやって良いかを議論した。集まったメンバーは、すでに店をもち、商売として成功している人もいるのだから、教えると言うよりも議論である。  ☆ 事故例重視 次にどのようにして安全を確保するか、事故防止である。残念なことに、これは、あれから50年を経過した2018年現在でも基本的に変わらない。事故は防げていない。これは、糸の切れた凧、自由に飛んでいくことの代償なのだ。しかし、1967年の時点では、基本的なルールを守り、研鑽を積めば事故は防げると思っている。まあ、あながち、まちがいではないけれど。 事故防止には、何よりも、起こった事故について、個々の具体例を研究し、同じことをやらないようにする。これも、今でも基本的にはかわっていない。それについて、まず自分たちが直に体験した、見聞きした事故例について、レポートを書かせてそれについて、議論した。  ☆泳力重視 次に実技だが、トータク海洋公園には、塩水だが50m、長水路の競技用の認定を受けたプールがある。海洋公園も、最初は世界中どこにでも海辺のホテルにある変形プールであった設計を競技用のプールにしたこと。これは、海洋公園の企画者である益田一の慧眼であり、僕たちは、そしてダイビング業界は、このことに、どれほど感謝してもしたりない。それまで、1967年の時点まで、スクーバダイビングの基本は泳ぐことだという発想はあったものの、泳ぐ練習をする場所がなかった。プールは水泳連盟のもの、僕たちはオフリミットだ。その後、BCなどの普及によって、必ずしも、そんなに泳げなくても良いという考え方もでてきて、また、深く潜るテクニカルダイビングなども、深浅移動であり水平距離をそれほど長く泳がなくても良くなった。しかし、レスキュー、命を救うということになれば、これは、一にも二にも泳力勝負の事態になる可能性が大きい。たいていのレスキュー講習は、溺者を陸上、船上に引き上げてからの処置だが、その前に泳いで助ける、引き上げなくてはいけない。せっかく、引き上げたのを殺してしまっては、身も蓋もないから、その後の訓練も重要だが、
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            立っているのが友竹進一 座っているのが須賀
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           沈没寸前の 青木大二さん左、大崎映晋さん 右上松沢さん

 海洋公園は決して潜りやすい安全な海ではない。泳力がないと戻ってこられない事態(ダウンカレント)も発生する。岸へのエキジットも易しくははない。そんな海に鉄砲もって魚を撃ちに行くのだ。年に一人や二人死んで不思議はない。どうしたら良いか、それはもう泳ぐしかない。泳力重視は、日本潜水会から始まった。ウエイトを持った立ち泳ぎ、地獄鍋とか、タンクを背負いウエイトを着け、スノーケルもマスクも着けず、タンクの空気も吸わずにプールを周回するレース 地獄旅とか、5キロのベルトを首に巻いて、これもスノーケルを使わないネックレス、すべてこの時の午後の練習から始まった。泳ぎの得意ではない青木大二さん大崎映晋さん、青木さんのクラブの会長で潜水会の事務局長に就任する松沢さんなどとっては、しごき状態になった。後におこる大学クラブでの練習中の事故もここにルーツがあったのかと反省することにもなる。 有力なダイビングショップのオーナー、クラブのリーダーなどから、あそこはダイビングの「虎の穴」という評価を受けて得意になっていた。若かったのだ。 そして僕は、この空気を作ってしまったことの責任をあとから痛切に反省することになる。  ☆スピアフィッシング禁止
 夕食の後は、ダイビングの今後のあり方、などについて議論した。その席上で、NHKの河野から、スピアフィッシングをやめることにしようという動議がだされた。
 なにしろ、魚突きの大会で集まったようなメンバーだ。たいへんな騒ぎになった。騒ぎになったということは、この動議を一顧もせずに却下したのではないということだ。実はこの議論の伏線として、魚突き大会について述べてきた。大会をやったところでは、ダイビングは禁止となり、組合長は罷免された。魚突きフィールドであったここ、海洋公園では、めぼしい魚は、みんな引っ越していなくなった。このあたりが潮どきという意見もあった。ブルーオリンピックにでている鶴耀一郎も中心メンバである。ラングによるスピアフィッシングだけを禁止にするべきだと、強硬に主張した。
 アクアラング屋さんは、魚突きを目的にして、ラングを売っている。それでは、ラング禁止と言うのと同じだ。でも、素潜りだって規則では魚突きは禁止になっているのだ。
 そんな規則はラングによる魚突きが始まる前に、カジキやイルカを突く漁で発射装置を禁止したもので、素潜り漁を対象にした規則ではない。いや、素潜りだって許可をうけた漁師でなければ禁止のはずだ。 コンプライアンスなんて言葉は、誰も知らなかったが。規則で禁止されていることをやろうと決めることは、まともな団体のやることではない。では、まともな団体であった潜水協会のスポーツ部がスピアフィッシング大会をやったりしているのは何だ。でもあのころ、こちらは射撃連盟をやっていた。協会が今も続いていれば、禁止に賛成するはずだ。
 結局、禁止を決議した。銃をカメラに持ち替えよう。カメラを買えない若者たちの為には泳ぐ競技会をやろう。となった。 しかし、この問題は根が深く、50年を経過した今でも、魚突きは絶えず、続いている。 だが、これはパラドックスだが、今、2018年、魚突きダイバーが罪悪感を背負わされていながら、組合と交渉して、あるいはだれも見ていない離島で魚突きが出来るのは、この時、魚突きダイバーが集まって、禁止を決めたからなのだ。いま、レクリエーショナルダイバーが、そろってカメラを銃に持ち替えたら、どうなる?この業界の繁栄は、スピアフィッシング禁止のおかげなのだ。にもかかわらず、このあとも、スピアフィッシングやりたい蠢動が続くのだが。
 とにかく日本潜水会はスピアフィッシングをやめることになり、鶴耀一郎は、父親の生地である奄美大島に帰り、魚突き漁師への道を歩むことになった。 そして、僕は東亞潜水機でシャーク銃を作ることができなくなる。
 まとめ、 1967年、24人の当時の指導的なダイバーが集まって日本潜水会を結成した。1週間の合宿で指導プログラムを検討し、安全確保のローカルルールを議論し、事故報告の重要性を認識し、免許証の発行を決めた。 特筆することは、スピアフィッシングの中止を申し合わせたことで、ある。このことは、今後のダイビング界に大きな影響をあたえた。 集まったメンバーは、以下のとおり
 省略
 1967年の年代記部分は、こんなまとめのように書くだろう。




1107 ダイビングの歴史 番外 デンマーク

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ダイビングの歴史  番外01  潜水の歴史を研究する集まり、歴史協会は、僕がネット検索での知っている範囲では、アメリカの ダイビング歴史協会。ダイビングの歴史を研究し、展示している博物館はフランスのエスパリオンが潜水専門、専門ではないが力を入れた歴史展示があるのは、有名なモナコの海洋博物館。日本では船の科学館、東海大学、館山の道の駅、道の駅は、もとは安房博物館で、房総の漁業についての博物館で、海女や、ヘルメット潜水の展示があった。現在でも、2階の展示は博物館のまま、階下が道の駅になっている。真鶴の琴ヶ浜にもあったが、オーナーの福島君が亡くなったのでどうなっているか心配。福島君とは知り合いなのに、一度も行っていない。不勉強だった。いつでも行かれると多寡をくくっていたのだ。 世界には、潜水の歴史研究会が多数あるのだとおもうが、そのリスト(資料)が手元にはない。 デンマークに潜水の歴史協会があり、そのメンバーで、デンマーク在住50年という日本人、竹川さんと言う方からメールをいただいた。デンマークで行われた国際的な潜水の歴史研究の集まりで、日本の大串式について、日本人だから知っているだろうと質問され、答えられなかった、ネットで探したら、僕のブログに当たり、今度日本に行くのでその機会に、大串式を見ることが出来ないだろうか?ということだった。 僕がブログに歴史を書き続けることも、無意味ではない。世界で見てくれている方がいるということだ。 大串式については、東京湾大感謝祭で船の科学館の小堀さんとであったので、お願いして快諾を得た。  竹川さんとは、11月1日に、資料整理混乱中の事務所でお目にかかれることになり、楽しみにしていたのだが、膝の半月板損傷とかでおいでになれなくなった。 がっかりしていると、デンマークから本が送られてきた。デンマークからなので、日本においでになる前に送ってくださったのだろう。
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 2018年のデンマークの潜水の歴史会報と、昔のヘルメットダイバーによるサルベージ作業の写真集、これは、立派な本だ。それに、なんとマリンダイビングの創刊号も。 マリンダイビングの創刊号は、当然、持っていたのだが、まだ、歴史の本を書くなど予想もしていなかった時に、潜水部の後輩の田村君がマリンダイビングに就職するとかで、そのお祝いに差し上げてしまって手元にない。12月2日の全日本水中スポーツ室内選手権大会で、マリンダイビング・舘石社長(赤ん坊の時からの知り合いだ)にお目にかかるので、こんどこそコピーに伺う日にちを決めようと考えていた。今度こそ、というのはこれで2年越しに、マリンダイビングのコピーに伺うとお願いして、「いつでも、連絡しておいでください。」と言っていただいているのだが、なかなか機会がなくて、行かれなかった。 そんなときに、デンマークから創刊号が送られてきた。予想外のことが起こるものだ。  2018年のデンマークの潜水の歴史会報を見ると、当然、僕には読むことは出来ないのだが、2018年に、ヨーロッパの潜水歴史研究者の集まり、イベントがデンマークで行われたことが記されている。 これこそ自動調整器の元祖とも言うべきルキヨールの潜水器の作動原理などもあり、それほど大がかりではないイベントだが、これぞヨーロッパという雰囲気が伝わってくる。 表紙は、西ドイツの海底居住ヘルゴランド(1968-1976)のハビタットになっている。竹川さんは1968年に日本の雑誌にこのヘルゴランドの記事を寄稿したことがあるとかで、メール添付でおくっていただいた。
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 日本は海に囲まれている海洋国家である。潜水の歴史も多彩豊富である。 しかし、潜水の歴史研究も中心になる学会がない。海洋文化の後進国である。僕が調べて書いている「ダイビングの歴史」は、1953年から2000年までの自分の視線の及ぶ範囲を中心にして、後は資料集めだが、それは努力をするとして、別に、潜水の歴史研究を目指すシンポジュウムを開催したいと日本財団に助成金申請をした。このことなども竹川さんに話したかったのだが、この申請には、10月の半月が費やされた。何とか申請だけはした。受かる見通しはない。  やろうとしているのは、 まずリサーチ ①歴史的に貴重な潜水器の実物、ヘルメット式は十分にあると思うけれど、それでも、回転式のポンプなどは、もう、程度の良いものはないだろう。マスク式潜水は、大串式の改良型ともいうべき山本式が、真鶴の岩の組合にあったという報があり、頻繁に通っている岡本美鈴に頼んだが、もう無いという。まさか、捨てはしないだろうから、どこか好事家のところに収まっているのだろうか。それはそれで良い。自分のところに持って来ても保存の場所がない。船の科学館にでも大串式と並んで置ければ、とおもうが、そうならなくても、どこの誰がなにを持っているかが記載でき写真があれば、それで良い。 ②現在あるものを無くさないようにしたい。ダイビングショップとかサービス、そして、メーカーが今持っているものを捨てないように、そして出来ればそのリストを作っておきたい。 ③自分が作っていたダブルホースレギュレーターの再生をして、これで潜れるようにしたい。 ④送気式マスク式潜水のもう少し詳細な研究と発表をしたい。そのためにも山本式は見たい。僕は、1962年に東亞潜水機で、最後に一つだけ残っていた山本式を見ている。(東亞潜水機でも売っていた) ⑤大学の先輩の大場さんが、房総の潜水機漁業の研究をされており、本も多数出版されているので、これも紹介したい。 ⑤伏竜潜水器の詳細を調べたい。靖国神社にあるのだが、詳しく調べるには、こちら側に大義名分が必要だろう。なんとかしなくては、大岩先生が、図面を持っていて、それで、レプリカをと話をしたこともあるのだが大岩先生が亡くなられて、その図面がどこに行ったとか、コンタクトしていない。  今の僕は、自分の知っていることのすべてを書き残す「ダイビングの歴史」で精一杯だが、とにかく歴史シンポジュウムの助成金が通れば動ける。①②③④⑤ぐらいまで出来るだろうか。  なお、僕は、1989ー1997年、三宅島に潜水博物館を作ろうと奮闘、今一歩のところまで行ったことがある。これは、コンセプトが違っていて、ダイビングが出来るプールを作って、古い潜水機のレプリカを作って、体験潜水ができることをめざした。しかし、2000年に三宅島大噴火が起きてしまう。

1110 ダイビングの歴史 36

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                        海の若大将 撮影につかった。
 ダイビングの歴史 36
 1964
 少し遡ろう。1964年トータク海洋公園誕生、東京アクアラングサービスの錦華園ビルにタンクを背負って梯子を昇った東京オリンピックの年だ。法政大学アクアクラブ、獨協大学にもダイビング部が出来る。法政大学は親戚だが獨協の方は、残念ながら、道であったら挨拶する程度のつきあいだ。
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             夏の海洋公園プールは、海水浴場のない、別荘地のための
             海水浴場だった。
 1965
 加山雄三の「海の若大将」が公開される。この映画撮影の為の35mmフィルモ・シネカメラのハウジングを作った。手を使って作ったのは島野徳明、川崎で、東芝で働いていた。潜水協会で知り合い、レギュレーターの部品を作ってもらった。彼はいわゆる下町のもの作りの達人で、何でも作ることができた。そのころ、そういう達人が、今のダイブウエイズのある立石周辺から向島、東亞潜水機のある南千住かいわい一帯、下町、もう一つは、蒲田、川崎あたり、これは、大体その辺に集まっていたと言うだけで、日本全国にそんな町工場が散財していた。そのいくつかが、高度成長の波に乗って、成長して、品川にあったソニー、浜松にあった鈴木担っていく。僕は、軽三輪に乗って走り回り、あそこではレギュレーターケースのへら絞り、ここでは高圧弁の切削加工、などなど、部品をつくらせて、とりまとめ、ものをつくっていた。今のダイブウエイズも、そんなものだ。
 その一人に島野がいて、それに、特大、径が1mにもなろうというハウジングを作らせ、数百万円のカメラを入れて水に沈めて水中撮影をさせてしまおうと言うのだから大変、でも僕は、やってみて、出来ないことは何もないと思っていた。日本人みんながそう思って、戦後の日本が出来た。
 1965年の公開だから撮影は1964、カメラを作ったのも、1964年だ。
 このハウジングの代金がもらえなくて、たらい回しになって、大沢商会に廻る。その大沢商会に白井常雄氏が居て世話になり、ベルハウエル16mmのハウジングを大沢商会から売り出すことになる。人の関わり合いは蜘蛛の糸のように広がり絡み合う。
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 その白井さんが大沢商会を辞めて、独立して、リックというダイビングショップをつくり、そこへ、水産大学の潜水部後輩の石川文明が就職する。今の館山、西川名の石川さんだ。
 
 水中射撃連盟が神津島でスピアフィッシングのコンテストをやったのも1965年だ。

 1966
 2月、全日空の北海道便 ボーイング727が羽田沖で墜落する。東亞潜水機に深田サルベージから、依頼があった。深田サルベージは日本最大のクレーンをもつサルベージ会社で、それから以降も長いことお世話になる。その深サルのクレーンで水中に落ちた機体
を引き揚げるのだが、水中に沈んでいる機体の現場写真を撮らなくては、航空局が引き上げのゴーサインを出してくれない。深サルのチーフダイバー宮本さんは名人と言われるヘルメットのサルベージダイバーであり、ニコノスで撮るのだが、ヘルメットではしゃがみ込んで接近した写真が撮れない。何とかしてくれ、もちろん行く。
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 しかし盟友の舘石さんにも声をかけない訳には行かない。舘石さんと一緒だと、舘石さんがカメラマン、僕が助手というパターンが定着している。このパターンから脱却したかった。それに、舘石さんはプロだから、必ずギャラの話が持ち上がる。しかし、声をかけなかったら喧嘩別れになってしまう。一時の躊躇の後で電話した。すぐに、「行こう」と言うことになった。そのころ浪人していた柳井、宇野沢組(このあとアジア海洋を設立する)もアシスタントとしてくるという。彼等は親友だ。
 僕は、そのころ、ミランダと言う、一眼レフの35mmカメラのハウジングを作ってテスト中だった。ペンタプリズムを外すことが出来るので、上から見て画像とピントが確認できる。これを持って行けば絶対だ。
 航空局の依頼は水中で翼のフラップが上がっているか下がっているか、その角度を撮ることだった。
 現場の直上に留めている台船に泊まるベッドがある。泊まり込んで、朝の5時から7時が僕たちの潜水時間だ。それ以降はサルベージのヘルメットダイバーが仕事をするので水が濁ってしまうし、そのように決められた。ただし、僕たちが終了するまで、ヘルメットは待ってくれる。同じ深田サルベージのダイバーで、宮本さんの手下だ。遺体のほとんどは揚げたが、まだどのくらい下に入っているかわからない。僕たちが撮影を終えて、機体を揚げてみなければ、その下の様子はわからない。
 冬、2月の羽田沖だ。水温は6℃。冷たいだろうが、ウエットスーツという強い味方がある。そのころは、ウエットスーツを着ればまず寒いとは、言わなかった。冷たいだけだ。
 潜水準備、ウエットスーツを被り、引き下ろした時、ウエットスーツが破れた。ゴム糊は持ってきているが、貼り付けている時間はない。テープで押さえつけて、行くしかない。
今ならば、ショップのインストラクターは、新しい、一番いいものを着るのだろうが、そのころは、お客よりも良いものを持ってはいけない。そして東亜は質実剛健の会社だ。
 冷たいけれど我慢。5時すぎ、まだ水中は、暗黒だ。宇野沢君がライトで照らして場所を探してくれる。ライトに照らし出されたジュラルミンの機体は白く光り、潰れた内装と外皮の間は細い線が一杯に詰まっている。飛行機とは、線の固まりのようだ。その線に絡まるようにして、乗客の持ち物だった財布、鞄、着衣の切れ端などが無数に見える。遺体があれば、もちろん揚げる。探しながら進み、翼のところ2018/11/09 22:59に着き、ミランだの画面でピントを確認して、シャッターを切る。
 一応撮るべきものは抑えた。さすがに身体がふるえだしたので浮上する。
 ウエットスーツのや破れの部分は、赤く腫れていた。 宮本さんは、通船ですぐに埠頭に戻り、現像。のんびりしていると、戻ってきて、全部だめだという。嘘だろう。多少の露出ミスならモノクロだから、焼きで調整できるはず。見ると、フィルムの巻き上げが流れている。カメラのミス、故障だ。脱力して、泣きたくなったが、すぐに、ミランダに事情を話して代替えを頼む。
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 通船を呼んでもらって埠頭に戻る。埠頭では、まだ遺体の揚がらない遺族の方たちが、待ちかまえていて、通船が着くと駆け寄ってくる。遺体を運んできたと思うのだ。ミランダの営業所は六本木にあり、ハウジングも持って行きカメラに合わせる。ハウジングなど、当時は見たこともない時代だから、写真を撮らせてくれと言われる。
 次の朝、今度の撮影はうまく撮れた。しかしもう一度、今度は、尾翼のフラップの状況を撮るように指示された。
 三日目の朝、潜水の準備をしていると、大きな船が僕たちが潜ろうとしている位置に止まった。これでは潜れない。NHKの取材船だという。こちらに優先権がある。排除、退いてもらおうかと見ると、甲板に緊張の面もちでタンクを背負っているのは、友達の河野と竹内だ。彼らが上がってからでも何とかなる。見送ることにした。潜水時間は20分とかからない。彼らが上がると、すぐにヘリが飛んできてフイルムをピックアップしていった。朝のニュースに間に合わせるためだ。この撮影でNHKの水中撮影班は名を売り、二人は何か賞をもらったはずだ。
 こちらも無事に撮影を終わり、目的は達成できた。僕の撮ったフィルムはすべて、航空局へ提出したが、舘石さんは、新聞社にフィルムを売ることは出来ないがアサヒカメラに売り、記事も書いている。その時の切り抜きがあったはずだ、と探したが見つけられない。
 僕は、深田サルベージの玉尾専務に顔を売り、深サルが深海潜水研究班を作るときにそのコーチになり、潜水部後輩の清水信雄が班長で、やはり後輩の横尾と、東海大学海洋探検部の創立メンバーの岩城、もう一人名前が思い浮かばないの4人がメンバーだった。
 清水は後にJAMSTECのシートピアに深サルから出向して、何かの班長をやっていた。横尾は深サルの仕事を続け、ずっと後になって、釣り船の富士丸が潜水艦にぶつかって沈没したとき、ぼくは、ニュース・ステーションの取材で潜ろうとしたが、僕らの指定された時間には潮が速くて潜れない。早朝、撮影の本船は離れたところに置き、ゴムボートで密かに後ろを回って撮影しようとした。既に台船が吊り線を取っており揚げるだけになっている。その線を伝って潜ろうとしたのだ。しかし、発見されてしまった。双眼鏡で見ると台船の上で指揮をとっているのが横尾だった。すぐに携帯で連絡して、見逃してもらって撮影した。もう、そのころはフイルム、ヘリの時代ではなく、お椀のようなアンテナで電送して、朝のニュースに間に合わせた。この話はまだ続きがあるのだが、ここで終わりにする。
 僕たちの人生って、そんなものだ。
 1966
海中開発技術協会発足
 話を1年前に遡る。あせって、1967 日本潜水会の話を先にしてしまった。
 1966年には、海中開発技術協会が発足する。潜水科学協会が名実ともに消滅したのだ。1600名の会員には何のフォローも無かった。
 僕はその動きの蚊帳の外にいたから、知らせを受けない会員諸氏と同列だが、すでに、水中射撃連盟、そして、この年1966年には、日本水中スポーツ連盟と言うタイトルで、八丈島でスピアフィッシングの大会をやっていた。

 1966
 東京医科歯科大学に我が国で初めて、高圧タンクと、潜水実験槽を組み合わせた、飽和潜水実験装置が作られた。梨本一郎先生指導の下に、1968年9月 水深12m相当、2昼夜のシミュレーションダイビングが行われる。テストダイバーは、真野喜洋(後に、医科歯科大学名誉教授)富田伸(後に、国保旭中央病院脳神経外科部長)らであった。
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          今の医科歯科タワーのあったあたり、にあった。

 ☆日本深海プロジェクト
 「梨本一郎先生、大岩先生らの呼びかけで、旭潜研の佐藤賢俊氏。
潜水研究所の菅原久一氏、中村鉄工所の中村満助氏、横浜潜水衣具の田中久光氏、が中心になって、「株・日本深海プロジェクト」が発足し、1968年、日本で初めての三人乗りSDC「たいりくだな号」が作られ、訓練用プールでテストが繰り返されていた。」
 ※ ダイビング・テクノロジー 石黒信雄著 より
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 東亞潜水機は、このプロジェクトには入っていない。だから、僕はこれも知らなかった。梨本先生、佐藤さん、菅原さんは、協会の中心である。海中開発技術協会として、日本の海底居住プロジェクトを行うことが必須だったのだ。
 この続きは海中居住の話につながる。
  

1111 ダイビングの歴史37 

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ダイビングの歴史 37 海中居住 1 人間は陸棲の動物である。水中には限られた時間だけしかとどまれない。とどまれる時間を左右するのは、まず呼吸する気体である。呼吸気体が絶たれれば、あっという間に窒息死する。これは、潜水器で送気する。
次に生命維持の環境の問題がある。寒さ、食事、排泄 幾つかの潜水方式の中では、ヘルメット式がもっとも安楽である。そのことが、この古い潜水方式を200年も生き延びさせているしかし、熟練したダイバーであれば、数百分の労働が可能であろう、それとても、労働時間の計測は分である。私たちのスクーバは、数十分、そして呼吸気体の喪失、エア切れは、確実な死をいみする。
 吊り鐘を伏せたようなダイビングベルは、潜水器の原型でもあった。ダイビングベルをどんどん大きくして、家のような空間を作れば問題は解決する。海底ハウス(ハビタット)である。しかし、ダイバーであれば、説明を省略出来る減圧症の問題がある。ダイバーが陸上に戻るためには長い長い減圧時間が必要である。深く潜れば潜るほど減圧時間は長くなる。
 私たちスクーバダイバーが水深60mに潜り5分間、撮影などして、そこに留まったとする。合計して、60分以上の減圧停止時間が要求される。
 今私たちは結論を知っている。100m潜ったとして、その100mで不活性ガスで身体を飽和させてしまえば、減圧時間も飽和してしまう。それは、長い時間、何日という単位になるが、それは、それ以上には延びない。飽和潜水、サチュレーションダイビングである。
 日本人ダイバーの多くが知っている、また、社会の注目を集めた飽和潜水は、日本海、対馬沖で行われたロシア軍艦ナヒモフ号が積んでいたとされる金塊の捜索である。僕の会社、スガ・マリン・メカニックからも、田島雅彦が出向してダイバーとして参加した。
 船上に置いた大型の再圧室を居住空間として、ダイバーは二人が入ることが出来る加圧カプセルに入って、作業現場の水深80mまで降下する。そこで数時間の作業を行って、再びカプセル(PTC)に乗って吊り上げられ船上の再圧室(SDC)に帰還する。二つの圧力室はドッキングして、ダイバーは、狭いけれど居住空間に戻る。1回のサチュレーション、1サットは、およそ20日間ダイバーは、飽和状態からでることは出来ないが、数十時間の作業が出来る。
 今、現実の海中作業で、居住ハウスを作ることはない。
 
 しかし、1960年代、人類は海底に家を造って大陸棚に進出しようとした。海こそが地球上に残された、フロンティア、人間の足が踏み入れたことがない空白地帯だ。人類は夢と探検、冒険を追ったのだ。それは、作業ではない。探検、冒険だったのだ。国家予算を使って、なんと馬鹿馬鹿しいと思わないではないが、1960年代、日本人もその夢に参加した。 人類は、あえてダイバーとは、言わない。人類は海の中へより深く、より長く潜ろうとした。その為には、生理学的問題、医学的な問題を解決しなければならない。これも、歴史をたどれば、1800年代までさかのぼってしまうが、ここでは、1957ー1963のジェネシス実験からスタートする。  ジェネシス実験は、米国海軍の潜水実験隊が行ったもので、ジョージF ボンド大佐が中心であり、チャンバーの中で、ヘリウム90%の混合ガスでの飽和潜水に成功した。人間 ダイバーは、60mの圧力下で12日間無事に過ごせた。これにより、ヘリウムを主体とした混合ガスでの飽和潜水の可能性が開けた。 マン・イン・ザ・シー 計画
 エドウィン・A.・リンクは、飛行機の操縦訓練装置 リンク。トレーナーの開発で有名であったが、水中考古学の分野で水中活動にも関わっていた。ボンドのジェネシス計画を検討し、潜水カプセル、径0,9m、長さ3mのアルミ製の円筒で、人間が入って、水深122mまで潜降出来るリンク式シリンダーを発表した。呼吸気体はアンビリカルで送られる。アンビリカルとは、へその緒のことで、胎児が母胎から生命を維持するすべてを送られる管である。潜水では、呼吸気体、電源、通信線等を束ねたものをたとえてアンビリカルと呼ぶようになった。ダイバーは、水中で、水圧と等圧になった円筒のハッチを開けてハッチアウト(生まれ出るように)エクスカーション(おでかけ)することができる。
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 マン・イン・ザ・シー Ⅰ 1962
 1962年8月、地中海のリビエラで、58歳のリンク自身が18、3mに8時間を過ごし、水中に90分間でて作業した。呼吸気体は、酸素10%、ヘリウム87%、窒素3% であった。
 このテストのあと、ダイバー、ロバート・ステニュイトが、水深61mで48時間過ごす計画を実施する。呼吸気体は、酸素3%、ヘリウム97%を使用した。
 ヘリウム漏れ、海象の悪化などのため潜水は24時間15分で打ち切られたが、ステニュイトは、半径15mの範囲、57m、74mの垂直エクスカーションを行った。 コンシェルフ Ⅰ 1962
 フランスもジェネシス実験に注目し、ジャック・イブ・クストーが主導してコンシェルフ計画を進めていた。
 リンクの実験終了後わずか4日後、それも、わずか161キロのマルセーユでコンシェルフⅠがスタートする。
 ハビタットはディオゲネスと名付けられ、径2,4m、長さ、5,2mの円筒で10mの深さに設置され、二人のアクアノート(海中居住ダイバー、海底人)アルベール・ファルコ クロード・ウェスリーは、9月14日から21日まで一週間、その間のエクスカーションは、一回が5時間、水深55mまで行った。水温は16度から21度 呼吸気体は空気を使用した。
 コンシェルフ Ⅱ 1963
 1963年6月 場所は紅海、ポートスーダン沖のローマン礁、水深は11mで4週間 5人のアクアノート展開を予定した。
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  ハビタットは、中心区画から4本のアームがでている星形である。
 星形ハウスは、寝室部分、居間、食堂えりあ、潜水準備室 衛生区間で構成されている。
 海中基地の所長は、モナコ海洋博物館のレイモン・ペシェール教授38歳、チーフダイバーは30歳のクロード・ウェスリー、33歳のアンドレ・ファルコ、ピエール・バノニ、コック長のピエール・ギルベール43歳であった。さらにマスコットのオウムのクロードが加わった。
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 27m水深に、もう一つのディープキャビンが設置された。ディープキャビンは二層、2階立てて、上が居住区、下が潜水具、道具、ハッチ、ここで、二人はヘリウム50%空気50%の混合気体を呼吸した。星形ハウスでは、普通の空気を呼吸する。ディープキャビンには、レイモン・キーンツィ、33歳とアンドレ・ボルトラティーヌ46歳が、一週間滞在し、水深50mへの日常的エクスカーションと水深110mへの3回のエクスカーションを行った。テキストには、110mへのエクスカーションも通常の空気を使用したとあるが、本当だろうか。
 コンシェルフⅡでは、305mまで潜降できる2人乗りのハイドロジェット式潜水円盤(円盤型の潜水艇)を用意しており、この潜水艇は、水中のガレージから発進し、戻ってくる。これにより、どんな荒天でも潜水艇は発進し戻ってくることができる。
 4週間のコンシェルフⅡは、食事を調理し、ある程度快適に海底で居住することができた。クストー夫人は4週間の最後の4日間、星形ハウスを訪問し、そこで過ごした。
 星形ハウスがハビタットであり、ディープキャビンは生存シェルターと位置づけられる。
 このコンシェルフⅡの主要な仕事の一つは映画の撮影であり、ドキュメンタリー映画「太陽の届かぬ世界」として、公開され大きな反響を呼んだ。
 
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 マン・イン・ザ・シーⅡ 1964
 マン・イン・ザ・シーⅠに引き続いて、居住や作業を122mの水深にのばすべくⅡが計画された。Ⅰのシリンダーに加えて、ハビタットとして、奥行き(径)1,2m、長さ2,4mのゴム製の円筒形の袋、スピッドが用意された。
 122mに置かれたスピッドに、マン・イン・ザ・シーⅠのシリンダーが昇降用に使用される。さらに、この計画ではイグルーと呼ぶ、お椀のような構造物で、海底にドライ環境をつくり、そこで作業を行う計画である。
 母船のシーダイバー号には、減圧用のタンクが置かれていて、ダイバーは、足を延ばして、減圧時間を過ごすことができる。現在の飽和潜水の原型ともいうべきシステムである。
 ジャック・イブ・クストーのコンシェルフが、快適性を追求する居住であるのに比べてマン・イン・ザ・シーは、より深く、生存・作業範囲を拡大することを目指した、よりハードなものといえる。 潜水場所はバハマのベリー諸島が選ばれた。ダイバーは、ロバート・ステニュイトとジョン・リンドバークであり、呼吸気体は酸素3。6%、窒素5,6%、ヘリウム90,8%の混合ガスが使用され、アンビリカルで送られた。
 飽和深度の水温は22,2度、ヘリウム潜水に伴う、寒さがダイバーを悩まし、海底で49時間作業をした後、シリンダーにもどり、水面に引き上げられた。92時間の減圧後、ダイバーは外にでることができた。 海中居住については、小史のの一つであり、継続する。 なお、参考テキストとして、「海中居住学」Living and Working inn the Sea James.W.Miller Ian G Koblik 関邦博 横山庚大 真野喜洋 海老原芳治 訳 丸善1992 を参照した。図版もここから引用した。
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1112 ダイビングの歴史

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               コンシェルフ Ⅲ
ダイビングの歴史  38 海底居住2  シーラブ Ⅰ 1964 米国海軍の、ジェネシス実験の延長線上の海底居住計画である。 ハビタートは、直径3m長さ12,2mの葉巻型である。 バーミューダ沖、水深58、8mに設置された。 呼吸ガスは酸素4s%、窒素17%、ヘリウム79%であった。 シーラブとリンクおよびクストーの計画の違いは、ダイバーの医学的なモニターだった。
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 シーラブ Ⅱ 1965 シーラブⅡは Ⅰのバーミューダ沖の澄んだ温かい水に代わって、カリフォルニアのスクリップス海洋研究所の地先、水深62,5mに設置され、過酷な環境における居住と作業への適応の研究が行われた。 ハビタットは、直径3,6m、長さ17,5m Ⅰより一回り大きく、小さな司令塔を持っていた。 シーラブⅡのチームリーダーは、宇宙飛行士であったスコット・カーペンターであった。 アクアノートは28名で、三つのチームに分かれ、交代で潜水した。チーム1の10人は、16日目に9人が水面にあがったが、リーダーのスコット、カーペンターは、さらに2週間海底にとどまった。 注目すべきことの一つは、イルカのタッフィーがメンバーに加わったことで、通信分を運んだり、ブザーとか舌打ち音に答えて道具を受け渡したりの職務を行った。 また予定外のことであったが、入り口トランク(ハビタットの底面に開いた出入り口)に凶暴なトドが現れた。まもなく仲良しになり、彼らははビタートの中の加圧された空気を吸ってそのまま水面に浮上したが、何の問題も無いようだった。 低い水温と視界の悪さのため、シーラブⅡのアクアノートはこれまでの取り組みよりも厳しい挑戦になった。 最大の医学的な問題は、フード下の発汗の蓄積から生ずる細菌性耳感染であったが、耳をへヤードライヤーで乾かし、アルコール酢酸混合物を使うことにより、感染者数を第一チームの9人から第三チームの1名に減らすことができた。 28人のアクアノートたちは、海底で450人/日、を過ごし、400人/時余りの実用的な作業を行った。また加温潜水服の使用によって何時間が冷水に耐えることができ、少々難しいサルベージ作業も達成できることを証明した。
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 シーラブⅢ 1969年 シーラブⅡの支援船よりも大きい、この計画のために改造されたエルクリバー号が用意され、65トンのガントリークレーン、2台のDDG(船上に置かれる減圧用タンク)2台のPTC(潜降浮上用の圧力タンク)も用意され、182mを越える深度での運用が予定された。海軍、及び民間のダイバーで構成される、8人のチームが5~6、182mの深度で12日間を過ごすことに計画された。作業の力点は、生理学的試験、心理学的試験、軍事サルベージ、水中建設、海洋地質学、生物学も対象になった。  そして、ハビタートが最終的な点検を受けているときに事故が起こった。民間のアクアノート、バリー・キヤノンが、リブリーザの炭酸ガス吸収剤を入れ忘れて死んだ。このことも信じられないばかばかしいミスだが、もっと信じられないことは、このことが、海軍にマン・イン・ザ・シー計画を放棄させ、海中居住計画に全く興味をうしなわせることになった。 そんなことがあるのだろうか、海での仕事、海事に危険はつきもので、海軍はそのころも十分に計算に入れているはずだ。それが、巨額の費用を投じて、準備を進めてきた、それも、Ⅰ、Ⅱと積み重ねてきた計画を放棄させてしまうなど、とうてい考えられない。 とにかく、シーラブ計画は、これで終止符がうたれた。
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 コンシェルフ Ⅲ 1965年 コンシェルフ Ⅱ 1963に引き続く、フランスの計画である。ハビタートは、直径5,5mの球形2階である。この球形ハビタートが、14,6m×8,5mのバージに乗っている。バージには、2個の救急用の減圧室も載せられている。 場所はモナコの近くで、水温は10度から13度と冷たかった。呼吸ガスは酸素2.5%、ヘリウム97.5%で送気ホースは2本、一本は送気、一本は排気の回収に使われた。戻したガスは、炭酸ガスが除去されて再び送気に使われた。この潜水機、生命維持装置は長足の進歩を遂げたものであった。 ハビタートは、100mの海底に、潜降、着底し、送気式ホースの他に背中にもタンクを背負った、アクアノートのエクスカーションは、垂直方向には上下10mに制限されていた。 寒さを防ぐために、潜水服は、水圧でつぶされない気泡、エボナイト製の小さい球を織り込んだチョッキを着たが、エクスカーション作業は寒さによって制限された。 4日目激しい嵐が現場を襲い、大きなうねりが発生し、ハビタートも損傷を受けたが、修理が嵐の中の海底で行われ、アクアノートを浮上させることなく乗り切った。 エクスカーションの作業は、石油掘削に用いられる、クリスマスツリーと呼ばれるバルブ装置の海底での組立であった。 計画では2週間の予定だったが、嵐のために8日間延長され22日間となった。 球形のハビタートは、バラストを放出し、内側にいるアクアノートに制御されて、水面に浮上し、支援船、カリプソがモナコ湾に曳航する間に減圧が行われた。  1965ー66年 コマーシャルダイビングでの飽和潜水 シーラブⅡとコンシェルフⅢの実験が行われることによって、作業潜水分野でも飽和潜水に対する関心が高まった。 1965年 ニューヨーク州トナワンダでユニオンカーバイト社は、トナワンダ調査研究所の海洋調査用潜水調査施設で、198mの深度で二人が小型チャンバーで二日間居住した。これは、リンクのマン・イン・ザ・シー計画の延長線上の継続だった。この潜水の研究に、後にテクニカルダイビングの提唱者になるハミルトンが、関わっていて、文献を出している。  最初の飽和潜水による工事作業は、1965年秋、コンシェルフⅢが完了するのと同じ頃、バージニア州、スミスマウンテン・ダムで行われた。目的は発電所機関の修理である。マリーン・コントラクト社が、飽和潜水装置を開発して、これを行った。4人のチーム、二つがこれにあたり、一週間の飽和、で作業することになった。 水深58mで、居住中の4人の飽和ダイバーたちが1日について二回、2時間交代で作業するのは、32人のダイバーが水面から作業するのと同等と見積もられた。 ウエスティングハウス・エレクトリック社が装置を開発し、これはカチャロットと名付けられたが、水面に置かれたDDCにダイバーは居住し、水中エレベーターPTCで水中に運ばれる。これは、すでに、現在使われている装置であり、海中居住ではない。 この潜水では、温水を服内に送る方式が採用され、送気式、セミクローズの潜水機が用いられた。 スミスマウンテン・ダムでは、平均深度41mで16週間で800人/時の作業を行った。 ここで使用された飽和潜水装置カチャロットは、その後もルイジアナ州では、石油掘削リグの修繕、などに使われる。 図版は「海中居住学」から引用した。

1113 ダイビングの歴史 39

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 さて、ようやく我が日本のシートピアについて書けるところまでたどり着いたのだが、書きたいことが山のようにあるし、書こうとしている本「ダイビングの歴史」では、山田さんに書いてもらうお願いをしているので、ここでは、テキストの「海中居住学」を要約して、世界の海中居住のなかでのシートピアの位置づけと、日本での流れを、見てみよう。


 1960年代前半のフランス、アメリカの海中居住についてのアプローチをここまで見てきたが、日本もこれに追いつかなければならない。日本は海に囲まれていて、その未来を海に賭けている(と1960年代には国民の多くは考えていた。)。日本も海中居住による大陸棚開発に乗り出さなければいけない。アメリカ、フランスに勝てなくても、負けるわけには行かない。今でもそんな風に考える時もあるけれど、海は一つ、つながっている、日本もアメリカもないのだ。というと、負け惜しみに聞こえるかもしれないが。
 とにかく、1965年当時は、日本も海中居住、海洋開発に踏み出さなければいけない、と日本政府は考えた。その時点で、飽和潜水に関して日本のトップを走っていたのは、1966年に飽和潜水実験装置を作った東京医科歯科大学の梨本先生たちのグループであり、「日本深海プロジェクト」という会社を作って、大陸棚号というチャンバーも作って、実海域での実験にも踏みだそうとしていた。そのグループが、日本潜水科学協会の中核だった。
 政府は補助金の受け皿として、このグループを考えた。そして、日本潜水科学協会は海中開発技術協会となり、スポーツ、水産の分野は捨てられた。捨てなくてもよかった、いや、捨てるべきではなかった。しかし、それは、後出しジャンケンの類だろう。
 雑誌マリンダイビングの創刊号がでるのは、1969年の一月号からであるが、その創刊号に「あすを拓く=日本の海洋開発のすべて」と題して、通産省関係、運輸省関係、農林省関係、建設省関係、厚生省関係、防衛庁関係、科学技術庁関係への、予算請求額が載っている。総計は。
5、439、894、000円、大蔵省の裁定でその半額にとどまった、とはいえ、5億だ。今の5億ではない、1970年だから、0が一つちがう。この文をかいているのが、山中鷹之助 肩書きは、海中開発技術協会理事、広報事業部長、日本アクアラング株 海洋開発事業部長だ。
 会員1600人、初級講習だ、中級だ、などやっていられないという気持ちはよくわかる。僕だって、東亜が日本潜水科学協会の中核にあって、海中開発技術協会がこれだけの予算請求ができるとしたら、そしてたぶん、僕が海中開発技術協会に出向しているだろうから、舞い上がると思う。
 そして、「海中居住学」によれば、1968年科学技術庁は(社)海中開発技術協会と、技術的研究を行うとともに、海中居住装置を建造する契約を交わした。装置はハビタート、減圧室を備えた支援船、PTCからなることになっていた。装置の三つの主要構成部分の建造は1969年に完了された。ハビタートは、4人のアクアノートを収容するように設計され、重さ65トン、2,3mの径、長さ10、5mのシリンダーであった。PTCは、1,7×2,8、支援船はこの計画のために建造された。
 1970年、計画は行政改革のために休止状態になり、結局、1971年、経団連と科学技術庁が新設した海洋科学技術センター、(JAMSTEC)が実験を引き継ぎ、計画を実施する事になった。計画がシートピアと命名されたのはこの時であった。
 海中開発技術協会は切り捨てられたのだ。
 この時、なにがどうなり、どうしてこうなったのか、僕は蚊帳の外だったし、1967年には日本潜水会を結成して、それに専念していたのだからわからないが、この時、海中開発技術協会をつぶさないために、海中開発技術協会は、スポーツ部分、水産研究者の潜水、などを司り、海洋開発関連はJAMSTECが、という線引きをしたという。何のことはない、元に戻されたのだ。そして、この腸捻転が、この後僕らを悩ませることになる。
 そして、本筋のシートピアだが、4人のアクアノートを100mの深度で一ヶ月居住する事を最終目標としていた。
 1973年、8月ハビタートは、田子港の水深30mに設置され、9月22日、4人のアクアノートが飽和し9月26日、66時間の減圧後、外にでた。以後日本の飽和潜水関連の深海潜水は、ニューシートピア計画に移るが、それは、もうPTC と船上のDDC による潜水であり、海中居住ではない。詳しくは、それにアクアノートとして参加していた山田稔さんに実施運用関連の記事をお願いしている。
 ハビタートは、現在も横須賀のJAMSTECに置かれている、さわることはできるが、中に入ることはできない。
 整備して中に入ることができるようにすると良いと思う。
 なにはともあれ、日本で行われた海中居住のモニュメントなのだ。
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1115 ダイビングの歴史 40 

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 1962年 300mへのハンネス・ケラーの潜水と、その実験で事故死した若者の物語  海中居住も、飽和潜水も、まだその準備段階であり、ジェネシス実験も、まだネズミや猿にヘリウムを吸わせていた段階の1962年、混合ガス潜水で一気に1000フィート300mを目指したのが、スイス人のハンネス・ケラーである。  畏友 石黒信雄の資料 「ダイビング・テクノロジー」2006 : 全日本潜水連盟刊 によれば、 「1962年 スイスのハンス・ケラー Hannes Keller とピーター・スモールは、スイスのマジョーレ湖で、潜水ベルを使った非飽和、ヘリウム・酸素・その他のガス数種を呼吸して1000フィート(300m)潜水に成功した。」  これはまちがいで、たしかにケラーはマジョーレ湖で深度潜水をおこない成功するが それは300m、ではなくて220mであった。そして、彼は、さらに、1000フィート300mの潜水を企て、実行する。
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  ここで、僕の使った資料は「OneClear Call」1967年英国で出版された、このハンネスの潜水実験で命を落とした19歳の若者、クリストファー・ウィッタカーのメモリーとして、クリスのお姉さん Rosemary Whittaker の書いた本である。 この本は、たぶん1968年だっただろうか、日本橋丸善の3階洋書売場、今はもう、そんな場所に行くこともないのだが、ばったり出会ったように感じて買った。 心をうたれた本で、訳して出版しようかとも思ったが、当時はそんなことができる状況ではなかった。雑誌ダイビングワールドに連載した「蒼い大きな海へのちっぽけな挑戦」の一回分として、書いた。 (この連載は1976年の3月から10回続けた) 1968年から50年の歳月が過ぎ去った今でも、チャンスがあれば、仲間の玉田の訳で出せるかなと思ったりしている。英詩が散りばめられた、追悼の書でありダイビングの専門書ではない。ダイビングによる死に直面した家族の気持ち、ダイビングの生と死、人間の生と死を考えさせられた。  前記石黒さんの記述「1962年 スイスのハンス・ケラー Hannes Keller とピーター・スモールは、潜水ベルを使った非飽和、ヘリウム・酸素・その他のガス数種を呼吸して1000フィート(300m)まで潜降した。」これはまちがいではない。ただ、300m潜水の場所はスイスのマジョーレ湖ではなく、カリフォルニア、ロングビーチ沖のカタリナアイランドであり、ピーター・スモールは、チャンバーの中で死亡し、二人の支援ダイバーのうちの、ひとり、クリス・ウィッタカー も死亡する。
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 クリスは、英国の上流階級の息子であり、家族の愛に育まれてて育つ。若者の死に家族は悲嘆にくれるが、その死が友人を助けるためであったこと、まかせられた任務をやり遂げる為であったことには、誇りをもち、このような追悼の本を出す。ハンネス・ケラーに賠償を請求するとか、一緒に潜った支援ダイバーのディック・アンダーソンを訴えるというようなことは書かれていない。ケラーのことを悪く言ってもいない。 家族が海とは特別な関わりはなかったのだが、クリスは海へ、ダイバーになり、英国でのダイバー資格としては最高のマスター・ダイバーの資格を得ていて、海峡横断潜水のアシストなどの経験も積んでいる。 アメリカの大学に行っていて、ピーター・スモールと親しくなり、この実験の支援ダイバーに選ばれる。もう一人の支援ダイバー、ディック・アンダーソンは、経験の深いプロのダイバーである。その資格は記されていない。 なにしろ、1962年、アメリカでもNAUIの前身ともいえる、ロスカン(ロスアンゼルス・カウンティ)の指導者資格ができたかできなかったかであり、クリスの英国のマスターダイバーの資格というのは、どこでも通用する立派な資格であったはずである。ハンネスも19歳の若者をやみくもに引き入れたものではない。英国のジェントルマンとして、チームの一員として遇している。 
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     実験当日の朝食、左端がクリス、右隣がハンネス・ケラー手前の二人がピーター夫妻

 以下は、ダイビングワールドの連載を引用する。「One Clear Call」からの訳である。(ダイビングワールド誌 1976年4月号)  水深300mへの挑戦 1962年12月3日の朝、人間が自分の身体を水圧にさらして潜水する方式では、これまで誰も到達したことのない深さ、1000フィート、306m への潜水を、海で実行しようと企てたハンネス・ケラーは、彼とともに潜降するピーター・スモールと、潜水の母船であるユーレカ号の甲板上で、その日結構する潜水の準備を進めていた。 10時30分、ユーレカ号は、測深器が1000フィートを示す潜水地点に到達した。11時54分、潜水服を着て準備を整えたケラーとスモールは、ダイビングチャンバー(潜水ベル)アトランティス号に乗り込んだ。 ケラーとジャーナリストであるピーターがこのチャンバーにはいり、ユーレカ号のクレーンで1000フィートの海底に降ろす。室内の圧力を上げて、1000フィートの海底の圧力と等しくしてから、チャンバーの底のハッチを開いて、(水圧と内圧が等しければ、水は入ってこない)ケラーは、外に泳ぎでて、彼の国スイスの国旗と、米国の国旗を海底に建て込んで来る予定だった。ケラーがチャンバーに戻ったならば、ハッチは再び完全に閉められ、直ちに船上に引き上げられる。チャンバーの内圧は、そとの気圧より高くなっているが、密閉が完全であれば、室内の圧力はたもたれ、時間をかけて減圧する。 12時6分過ぎ、ユーレカ号のクレーンはアトランティス号を静かにつり上げ、海の中に降ろした。ケラーとピーターは、器具のすべてに対して最後のチェックを行った。12時12分、すべてが順調であるとの信号が交わされ、アトランティス号は降下を開始する。 10分後アトランティスごうは500フィートに達した。圧力が増すとともに、室内の温度はかなり高くなったが、これは予期されていたことだった。アトランティス号内部に取り付けられた、監視用のテレビカメラでユーレカ号の甲板の人々は、アトランティス号の内部で起こることのすべてを見守ることができる。 下降は続けられ、やがて圧力計は1000フィートの水深に達したことを示した。ケラーはハッチを開き、外に泳ぎでる準備をした。 ケラーはハッチに続く梯子を降り、外の暗闇に滑り出て行った。暗い海底は数個のライトで照らされ、静まりかえっていた。ケラーが2mほど下の海底に降り立った時、突然、事態が悪化した。 スイスと米国の国旗を手にしていたその旗が、海底のわずかな流れでたなびいて、ケラーに巻き付いて、マスクを覆い、なにも見えなくしてしまった。このような大深度では、常には何気なくできる動作が全くできなくなる。この旗をふりほどくことができなかった。チャンバーをでてから何分経過したかわからない。彼は急いでチャンバーに戻らなければならないことに気がついた。彼の持っている潜水器は、ほんの数分だけ海底にとどまれるものだった。なにしろ300m、31気圧である。(彼の使っている潜水器はリブリーザではなくて、オープンサーキットであった。220m潜ったときは、USダイバーのカリプソを使っていて、それでカリプソの評価があがったという。:ダイビングテクノロジー:石黒)  ケラーは意識を失いながら、チャンバーの梯子を登った。ピーターは彼を助けようとした。 意識を失いかけている状態での記憶は定かではないが、ケラーはこの瞬間をできるだけ思い起こして後に書いている。 「全く突然、私は自分の身体の異常を知った。多分私は私の着けていった潜水器の使用時間をはるかに越えて行動していたのだと思う。タンクの中の呼吸気体を呼吸し尽くしてしまって、酸素欠乏のために意識を失うのは秒の問題であった。チャンバーの中のハッチの水位が高くなっていたのでハッチを閉めるために、空気の弁を開いて、チャンバーの中に空気を放出して、チャンバーの内圧を上げた。ハッチを閉じたあと、私はマスクをかなぐり捨てた。300mの深度で、私は普通の圧縮空気を呼吸して、意識を失っていった。」  ユーレカ号上では、有線テレビカメラで、下でおこっていることのすべてを見て取ることができ、しかも直ちに救助する手段をなにも持っていないのだ。彼らはケラーが倒れるのを見た。ピーターがケラーを助けようとして、身を屈めるのを見た。それからほんの少し経って、ピーターも意識を失って動かなくなってしまった。 危急事態にそなえて訓練してあったので、ユーレカ号の人々は、まずなにをなすべきかを知っていた。アトランティス号をとにかく引き上げなくてはならないが、それには内圧が高く保たれていなければならない。しかし、引き上げるに伴って内圧はぐんぐん下がっていく。どこかから空気が漏れているのだ。このままチャンバーを引き上げれば、圧力は急に下がって、中の二人は死んでしまう。 救急ダイバーのディックとクリスが潜水する。 チャンバーは水深64mまで引き上げられたところで、二人は潜水していき、漏れの原因を探さなくてはならない。 気体の漏れの原因として、まず、どこかのバルブの閉め忘れが考えられた。クリスとディックは、チャンバーの周囲を泳ぎ回って調べたが異常はなく、すべてのバルブ類はしっかりと閉じられていた。二人は、すでに漏れは止まっているかもしれないと願いながら浮上した。しかし、漏れはとまらず、チャンバーは内圧を失い続けた。 ディックは再び潜っていこうとし、クリスもそれに続こうとした。 クリスのライフジャケットは膨らんだ状態になっていた。浮上を容易にするために水中で膨らませたものだった。65mの水深では、どうしても重量過剰になってしまう。浮き上がるのに努力が必要である。  ※BC.のない時代である。 クリスはライフジャケットの浮力で少しでも浮上の労力を少なくしようとしたのだ。  それにしても、65mの水深から、ライフジャケットを膨らませて、浮上してくることなど、あり得ないと思い、原文をもう一度確認してみた。 he had beenwearing a safety jacket ,and when he had come up for the first time he hadinflated it to case his ascent たしかに、ライフジャケットを膨らませて、急浮上している。しかも水面まで。このようにライフジャケットをつかうことをクリスは、ダートマスで習得したとも書いてある。プロダイバーのディックはライフジャケットを着けていない。   ディックはすでに潜っていってしまっている。クリスは秒を争って行かなくてはならない。膨らんだライフジャケットの空気をゆっくり抜いている余裕はないと判断して、クリスはダイバーナイフでジャケットを切り裂いて潜水して行った。 クリスはチャンバアーのそばで、ディックに出会った。足ヒレの端がハッチにはさまっていて、そのためにハッチが閉じていないのを発見した。ハッチの中にそれを押し込むのには、クリスのナイフが役立った。ディックはどういうわけかナイフを持っていなかった。クリスはディック担い府を渡し、ディックは、そのナイフで足ヒレの先をチャンバーの中に押し込み、ハッチはしっかりと閉じられた。クリスはライフジャケットを切り裂いてしまっているので、浮上に際してもうライフジャケットを利用することはできない。彼は、ウエイトベルトを身体からはずして、チャンバーにきっちりとかけてから浮上した。その後にクリスになにが起こったかは推測する他はないが、この時点まで、クリスの思考は正常でしっかりしていたに違いない。ウエイトベルトはしっかりと固定されていた。  ディックがクリスを最後に見たのは、クリスの浮上する姿であった。彼は何の異常もなく、浮上していくように見えた。ディックは何事もなく船に戻った。クリスは浮上してこなかった永久に。  ※想像するにクリスの死因は激烈な減圧症だったのではないだろうか。「One clear call」は潜水の専門書ではないので、そのあたりのことには詳しくない。クリスの遺体があがったのかどうかも報じられていないが、300mの水深に沈んだとすれば、捜索のてだてもない。  水上ではさらに不安と混乱が続いた。チャンバーの中の圧力は安定したが、クリスとピーターを外に出すには,なお数時間の減圧が必要だった。医者のベイルマン博士の指揮のもとにチャンバー内の圧力を減らしていくのだ。ケラーとピーターの減圧には6時間以上が必要であった。(医者はベイルマン博士、この潜水の減圧停止などの決定、潜水ガスの決定などは、いま日本の潜水士の減圧の計算の元になっているアルゴリズムを考え出したビールマン博士であったはずだる。) やがて、ケラーは意識を取り戻し、ドクターとインターフォンで話ができるようになったが、ピーターは意識を失い続けた。 ケラーの見たところでは、ピーターは外見上全く異常が無く、肌の色もよかった。また何の痛手も感じていないようであった。減圧が終了するまでに、ユーレカ号はロングビーチの港に着き、チャンバーは、二人を中に入れたまま船から降ろされたベイルマン博士はケラーにピーターの様子を見るように命じた。ケラーがピーターに触れると、ピーターは全く呼吸していなかった。驚いたけらーは直ちに人工呼吸をはじめた。チャンバーを開き病院に急行したが、ピーターの命を取り戻すことはできなかった。 なお、亡くなったピーターの妻、マリーもクリスの友人だったが、夫を亡くした心痛からか、残務の整理と、周囲への挨拶を終了してから、亡くなってしまう。 ※行方不明のクリスはそのままだが、この事態では仕方がないだろう。  ケラーの潜水は決して成功とは言えないとおもう。4人が潜水して、二人が死んでしまったのだから。計画も、その経過も、現時点から見れば粗雑である。このような実験潜水でスタンバイダイバーが二人だけというのも信じられない。しかし、とにかく、ハンネス・ケラーは300mまで、潜ってそして、生きてかえって来たのだ。 そして、このような実験潜水を個人の努力と力で行うのは、これが限界と言うより限界を越えていて、それが事故の、この実験を事故と考えたとしてだが、この事故の原因である。 僕は、1962年に舘石昭氏と100m(到達は90m)潜水実験を行い。次の段階として混合ガス潜水を計画していた。それを行うことが無かったのは、このハンネス・ケラーの潜水の実施と破綻をこんな形で知ってしまったからだ。このような実験潜水をパーフェクトな状態でやれるとは思えなかったし、すでに国の事業としてのシートピア計画がスタートしてうた。 自分の潜水は、自分の考えた通りに実行され、テレビ番組もなり成功したし、フルフェースを使った、有線通話にも成功している。それが、後の仕事展開に大きく寄与している。それで満足すべきだろう。  山田稔さんのまとめでは「ハンネス・ケラーは、海のない国、スイス人でありながら、有名な深海潜水の開拓者である。チューリッヒ大学で数学・物理学を学び、混合ガス潜水の減圧表をアルバート・ボールマンの指導を受けて作成し、自ら湖で120m、220mの潜水記録を作った。さらに1962年には300m潜水を行った。後にケラーはIT企業で成功した。2009年には、米国の、Historical Diving Society のメンバーになった。 ※成功して、2009年には生きて活動していたということだ。 ※ベイルマン、ビールマン ボールマン、同じ人の日本語読み違いだが、原文通りとし手、統一しなかった。 .

1121 ダイビングの歴史 41 海中居住

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ダイビングの歴史 41 海中居住  1973年 シートピアの30m、三日間の滞在で、大深度を目指す飽和潜水の基地としての海中居住は、日本では終了した。 この後、日本はシードラゴン計画、ニューシートピアと進むか,ニューシートピアは、海中居住計画ではない。船上居住である。   僕は、この歴史を書く前は、1970年代が、海洋開発、海底居住の時代だと考えていたが、それは、少しずれていた。1960年代が大深度をめざす飽和潜水、1970年代は比較的浅い水深での長期海中居住による、海洋観察調査の時代で、1980年で終了する。 それは、海中居住の終了のみならず、有人、人間が直接潜水して海中作業、調査などをする活動の限界をも意味した。出来るならば、無人で、海中での仕事をさせたい。  シーラブⅢが、1969年に一人の事故でピリオドを打ったときに、そして、シーラブⅢがスクラップにされたときに、大深度を目指す海中居住は、終わった。なお、海中居住とは、いわゆるハビタート、海中の家、海中に人間が数日、数週、数ヶ月滞在することとする。 船の甲板上のDDC デッキデコンプレッション・チャンバーでその居住をして、SDCサブマーシブル・デコンプレッション・チャンバーで降りていく、船上居住(飽和)方式に代わった、というか、本来の方式にもどったわけだ。 海中居住は、比較的浅海の長期間継続調査研究へと進路を曲げて、1980年ごろまで続いていく。  ハイドロラブ(1966)米国
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 ペリー潜水艦建造会社で作られた後、フロリダ・アトランティック大学に所属を移し、水深12ー15mに置かれ潜水艇との連結などの実験をおこなった。 大体が水深15mで活動し、3人のアクアノートが50時間滞在、とかの実験をくりかえした。1972年からは、NOAAの支援を受け、1977年にはNOAAに買い取られるが、その間4人のアクアノートが4日間、滞在し、61m、91mへのエクスカーションも行っている。呼吸気体は空気であった。 なお、アクアノートの定義は、少なくとも24時間以上、海底の留まったダイバーとていぎされている。 行った研究は魚類調査、標識放流、サンゴマップの作成、底棲生物の分布調査、地質学の調査など、潜水調査の定番であった、 1966年から1984年までの間に述べ500人に余るアクアノートを収容して、世界でもっともよく利用されたハビタートであった。  テクタイトⅠ 1969 (米国)
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 NASAは、宇宙空間における人が活動する状態での心理状態とか、作業の状態が、回遊居住と、狭い居住空間での作業、そして陸上にもどるために過ごさなければならない時間などについて、共通項があるとして、海軍とNASAは、海中宇宙基地を計画しジェネラルエレクトリック社のハビタート計画が採用された。 テクタイトとは、宇宙空間から地球に落下して海底に落ち着いた隕石の呼称である。米国領バージン諸島で行われ、1969年2月15日から4月15日まで、海底居住計画の期間は60日で、宇宙実験期間に相当し海中居住としては最長の計画だった。 ハビタートは二つの円筒で、径は3、8m、一つは居住区画で四つのベッドを持ち、もう一つは泳ぎ出る海底作業に関わる区画となっていた。潜水器具、標本の処理などである。 ウエットとドライ、二つの区画としたわけだ。 ハビタート内では、窒素92%、酸素8%の混合気体を呼吸し、エクスカーションは、通常の空気を呼吸して、フーカー、もしくはスクーバを使用した。ハビタートの内圧は13,1m、エクスカーションの下方へお制限は25m、上方は6、7m、横方向へは549mに及んだ。水温は21度から24度、終わり頃のエクスカーション時間は5時間に及んだが、通常は2時間程度、エクスカーションを阻んだのは耳の感染であった。また、他の実験と同様、装備の故障は無数にあり、アクアノートはその対応に時間を費やした。 研究テーマは、海洋科学、心理学、生理学で、海洋科学については多岐にわたったが、イセエビについての研究項目が三つあり、目に付いた。  テクタイトⅡ 1970 テクタイトⅠの概ねの成功、を受けて、テクタイトⅠは改装され、同じ場所で、同じ呼吸気体を呼吸して行われた。1970年3月から11月6日に終了するまでの間に、11回の実験を行い、53人の海洋科学者が、2ー4週間の居住を行い、その中には、女性だけのチームが組み込まれていた。また、360人あまりの学生の海洋実習もおこなわれた。 日本からは、JAMSTECから東京海洋大学に移られた、岡本峰雄教授が参加し、東京医科歯科大学の真野喜洋名誉教授も関わっていたはずである。  チェルノモール 1968ー1974 (ソ連) ソ連では10個のハビタートが作られたが、チェルノモールはそのうちで、もっとも進んだものであった。28人のアクアノートが5チームに分かれて、12、5mで4から6日間を海中居住した。その間のエクスカーションは、4ー9時間、最大水深は、90mであり、空気で潜水した。空気で潜水して酸素中毒にならなかったか、など疑問点があるが、それについては、報告されていない。  ヘルゴランド 1968ー1976 ドイツ
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 暖かい海での実験ではなく北海で行われた。水深は23mで9人のアクアノートが、2人、3人、4人のチームに分かれて飽和居住した。そのうちの2人は、テクタイトⅡにも参加した。水温は5度と冷たかった。 ヘルゴランドは1971年に改造され、1973年の実験には、NOAA、ウヅホール海洋研究所からの参加があった。その後での米国での使用を検討するためであった。 ヘルゴランドは1974年にはバルチック海で、ドイツ、フランス、英国、米国、の参加で、102日間の実験で、24人のアクアノートが飽和した。 さらに、1975年には、9月21日から、ドイツ、ポーランド、ソ連、米国の60人あまりが参加して実験が行われた。その後、ハビタートは米国に運ばれ、マサチューセッツ州で 31、4mの飽和実験が行われた。4人チーム五つが2週間飽和する予定だった。 実験の開始まもなく、9月25日ドイツ人の一人が浮上中空気塞栓で死亡したが、装置の欠陥ではないと判断されて、実験は続行された。 この計画は五つの科学実験が計画されたが、悪天候、死亡事故に加えて目標のニシンが、ハビタートの近くで産卵しなかったなどで、二つの実験だけしかできなかった。 全体で科学関係の水中時間は215時間で、エクスカーションはハビタートから最大183m、深度は45。7m、水中スクーターが使用された。非圧縮生のウエットスーツは、アクアノートたちを2時間までの間、保温した。一人一日平均1時間20分水中にいた。 米国での実験後、再びドイツに戻されて、1976年6月、再び国際色豊かな、4人づつ、4チームがそれぞれ7日間の飽和潜水をおこなった。ハビタートは1979年正式に引退してハンブルグ近くの海岸に保管されている。 先日のブログで、このハビタートがデンマークの歴史研究会のイベントで展示されたことを書いた。成功したハビタートと言えよう。  世界各国の海中居住のすべてをここに述べるスペースはないが、上記以外の主だったものと、特に興味を引いた実験をのべる。.  イージア 1969ー1971 米国
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 ハワイ、オアフ島で行われた大がかりな実験である。 海軍との契約で、158mまでエクスカーションしている。  ラ・チャルバ 1972ー1975 プエルトリコと海洋資源開発財団 参考にしたテキスト、「海中居住学」の著者の一人、コルビックのエンジニヤリングで行われた。かなり巨大な施設である。5人の科学者チームが、総計で50人あまり、珊瑚礁の研究などを行っている。エクスカーションは10回で水深80mに到達している。ハミルトンの名前が引用論文にでている。ハミルトンは、僕の1996年の100m潜水の減圧表をアレンジしてくれた。  このあたりまでが、代表的なものであり、以下は、プロジェクト名を挙げ、特に興味深いものについて、少し詳しく述べる。 ポータラブ 1972 米国レークラブ 1972 米国スピッド 1964ー1974 米国スーニラブⅠ 1976米国は、すでに述べた大がかりな四つの実験を行っている。 バラヌス 1968 ソ連ベントスー300 1966 ソ連ダルハブ 1968ー1972 ソ連イクティアンドル 1966ー1968 ソ連キティエシユ  1965 ソ連サドコⅠ 1966 ソ連サドコⅡ 1967 ソ連サドコⅢ 1969 ソ連セレナⅠ 1972 ソ連スプルート 1966ー1970 ソ連 ソ連は他にもチェルノモールを行っており。海中居住の実験に熱心だった。 バブル  1966 英国グローカス 1965 英国 カリブⅠ 1966 チエコスロバキア&キューバカルノラ 1968 チエコスロバキア エレボス 1967ー1968 チエコスロバキアクロボーク 1965 チェコスロバキアベルモン 1966ー1967 チエコクセニーⅠ チェコ チェコも海中居住に熱心であった。 マルタ 1968 ドイツ バーⅠ 1968ー1969  ドイツ ジェオヌール 1975ー1980 ポーランド メデューサ Ⅰ ポーランド アステリア 1971 イタリアアトランティック 1969 イタリアロビンスプ 1968 イタリア ヒューナック 1972 南アフリカ  L Sー1 1967 ルーマニア ネリティカ 1977 イスラエル  ヘプロス  1967ー1968 ブルガリアシェルフⅠ 1970 ブルガリア サブイグルー 1972ー1975 カナダ 
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 もっとも北で行われた海中居住である。北極の磁極から201キロ、カナダのレゾリュートワンであった。時期は11月ー12月で北極の冬、太陽のない、暗闇で行われた。水温は-1。9度、北極の氷の下での海底観察、緊急用基地を目的とした小型の浅海ハビタートである。透明な半球状で直径2.5m、ダイバーたちは、半球の底に設けられた99cmの入り口から入り、側面に設けられたベンチに座り氷の下の景色を眺めることができる。200回余りの潜水が一回目の実験では行われた。1974年には2回目の実験が、エドウィン・リンクが行った結氷下飽和潜水の飽和潜水実験の緊急用海底基地としても使われ、1975年にはカリブ海でも使われた。無傷で保管されている。 サブリムノス 1969 カナダ ローラ 1972ー1975 カナダ アデレード 1967ー1968 オーストラリアツ スーニラブⅠ 1976 米国 
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 ハーバート・ハーマン教授の指導の下にニューヨーク州立大学の工学部学生によって、4年がかりで開発製作された。上部に観察用の半球型の窓横には小型の窓がある。水深12mに置かれ、呼吸気体は空気で、船上からホースで送られる。1976年の最初の運転以来広範囲に使われた。1978年には人工魚礁の観察に使われた。1983年(この本が書かれた)現在、海底にある。 東京海洋大学(当時は東京水産大学)でこのようなハビタートを作ったらおもしろかった。 僕が予定通り、ハワイ大学に留学して、イージアなどに参加していれば、日本でコンなことが出来ただろうか、「あこがれのハワイ航路」時代の夢である。  水中テント生活  1966 京大探検部 1.2m×2.2m、高さ1.5mのテントで、水深10mで一人が24時間滞在した。なお、このテントはチェーンブロックで浮き上がらせ、水深3mでの3時間の減圧もこのテントで行った。 第一回の潜水は1966年 伊豆大島水深10mで行われたが、炭酸ガス濃度があがった為に3時間で中止した。 第二回は、和歌山県白浜、京大瀬戸臨海実験所で、1967年7月9日から始まり、7月24日終了で一人が24時間滞在できた。二人がテントにはいり、2時間、4時間、6時間 12時間と時間を区切って4人を送り込んだ。 読んだ資料「探検と冒険」朝日講座1972 には残念なことに実施した潜水の詳細な記録が掲載されていない。  もう一つ、日本では1968からの田中和栄さんの海底ハウスがあるが、これは別項で詳述したい。  1965年から1977年まで、建造が続けられた海中居住とは、いったい何だったのだろうか。 人間が生身の身体で大陸棚の範囲を海中居住で潜ろうとしたのが、マン・イン・ザ・シー計画から、シーラブ コンシェルフⅢ までの計画だった。やがて100mを越える潜水は、SDC ダイビングベルにとって代わられた。ダイビングベル、チャンバーは、ハンネスケラーの実験のように、海中居住の前の段階だった。ケラーの実験は飽和潜水ではなく、非飽和である。海中居住の後は、DDC甲板での居住、飽和潜水である。 一方で、海中居住は、ハイドロラブ テクタイト ヘルゴランドのように、飽和による週単位で研究者が海底にとどまることによって、継続した調査観察ができる方向へと道を転じた。潜水エクスカーションは、80m前後までおこなった。これは、一応の成功を見た。しかし、それも、長時間の観察はロボット、ドローンで行うことができる。採集、サンプリングだけならば、SDC、非飽和の方式でもできる。結局、海中居住は、莫大な国家予算で行わなくてはならず、しかも生身の身体だから危険が伴う。コストパフォーマンスで割に合わない。  しかし、1960年から1980年までの人間の潜水による海へのチャレンジは、潜水の歴史において最大のエポックであり、潜水の頂点であった。そして、もう一度、人類が海中居住の方向で海洋研究に向かうことは無い。海洋研究としての海中居住は、歴史になった。 日本のシートピアの場合、シートピアは早々と引退し、SDCによるより深い潜水に目が向けられ、走って行く。ハイドロラブ、テクタイトのパターンがない。それはアメリカのNOAAのような、ダイビングに熱心でダイビングの運用を研究し、マニュアルを作っていくような、言ってみれば公的な学術潜水組織が日本に無かったのだ。日本潜水協会、後の海中開発技術協会がそれになる可能性があった。 それについて、僕は本当に微弱であったが、努力をしている。海中開発技術協会が、レジャースポーツの団体になることに反対した。そのことについては、別項で述べる。  ※「海中居住学」JamesM. Miller Ian G.Koblick 訳 関邦博 真野喜洋 他 丸善」
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