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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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お礼 石川源 

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源ちゃん
訪ねてくれてどうもありがとう。事務所にはいることが少ないのと、電話も出ないので、失礼してしまいました。とても残念です。それにお菓子どうもありがとう。
ブログを見てくれているとのことでしたので、ここでお礼を言います。
本当に、たぶん、顔を見てもわからないくらいの時間がたちました。
なんとか元気ですごしています。
調子は?というと、やはり年齢、83です。相応に疲れます。あるくのも遅く痛めたふくらはぎがなかなか治りません・
でも、70歳この方、病で寝ついたことはありません。プールとか海で泳ぐことは、楽しく大丈夫です。ただ、ドライスーツのウエイトは重くなりました。重さに負けてはいけないので、この暑い夏もお台場の潜水はドライですごしています。
 お目にかかれず、本当に残念でした。本当にありがとう。

0906 学生スポーツとしてのダイビング 3

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このブラックアウトのこと、何度と無く書いている。事故、及び事故に準ずること、責任者は何度でもその事を発表、言わなければならない義務があると思う。他の人の事故は、口にしがたい。責めるような形になるし、インストラクターやガイドダイバーは、明日は我が身なのだ。人のことは言えない。 高橋の息こらえを見ていたお客は、インストラクター志望で奄美大島から出てきている子で、それなりに自信があり、その所属するクラブの責任者は、事故の知らせを聞いて、まさか、あの子がプールで亡くなるなんて、考えられないと。 不幸なことに、お客を連れて練習していた吉川は、プールの水深10mに居て、息こらえをしていたのは水深5mのところ、10mから浮上してくるときに動かないままの人を見つけ、引き上げて救急蘇生をしたが、亡くなってしまった。経営者はダイバーではなく、その事故にショックを受けてやめようと決めてしまった。ぼくは、引き継ごうと努力をしたが資金が足りなかった。
 今のスタティック、息こらえの練習方法はこのような事故の教訓から、水面で息をこらえる人の身体に手を触れながら、見守る。こんな事故は昔のことだ。ところが違うのだ。今、2018年僕は辰巳の国際水泳場でスキンダイビングのフリー練習会をしている。それは、しないでくださいと注意書きを出しているのだが、梯子につかまって、息こらえの練習をしている人がいる。そして、近くでみている人がいない。下手な人が溺れるのなど何ほどのこともない。すぐにわかる。わかれば、助ければ良いだけ。息こらえ練習は声もなく、暴れもせずそのまま意識を失ってしまう。きちんとフリーダイビングのインストラクターが付いていて、しっかりした管理の下で練習しなければいけないのだ。それなりの費用、経費がかかるけど。
 
 そして、第15代、夏休みの合宿だけ見てくれと頼まれ、小湊実習場に行く。その第一日目、それぞれのスキンダイビング能力を把握したい。とともに、からだならしのつもりもあり、まず、息こらえをする。
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           サジッタに乗っている橋本先輩 一期上
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            小湊実習場 桟橋

 小湊実習場には、自分が学生時代遊んでくれた櫓漕ぎの小舟「サジッタ」がある。サジッタとは、プランクトン「矢虫」のことで、顕微鏡でなくても見分けられる矢の形をしていて、矢のように泳ぐ。当時、大学の各臨海実験場には、たいてい、木船の櫓漕ぎの小舟があり、たいてい、サジッタと名付けられていた。現在も実習場にはサジッタがあるが、現在のサジッタは、FRP船であり、船外機付きである。船外機付きは免許がなければ動かせない。学生がだれでも乗り出して遊ぶことができる小舟としては櫓漕ぎが良い。
 普通のオール漕ぎのボートは座って漕ぐ。水面を見下ろすことができない。スクーバダイバーが出す気泡を追うことができにくいのだ。櫓漕ぎの小舟、理想は木船がいい。ダイバーにぶつかった時の感じが、木船が柔らかい感じで良い。サジッタは、スクーバダイバーのための小舟なのだ。
 1954年の東京水産大学潜水実習中の死亡事故は、サジッタが追尾していれば起こらなかった。
 久しぶりでサジッタの櫓を漕いで、みんなは泳いで、岩礁を一つ回り込んで、隣の入り江でアンカーを入れた。
 バディ、二人、一組を作って、水深2ー3mで息こらえをさせる。
 みんな、ぜんぜんだめ、1分程度しか潜れない。それで良かったのだ。笑ってすませれば、それで良いのに、2分間こらえるようにと指示してしまう。
 2分間という数字は、自分たちが3年生1957年に潜水実習に参加したときの、参加条件、2分ぐらい息を止めていられなければダイビングはできないと言われたことが、頭に残って居たものだ。
 実際は、息こらえのプロである海女の平均潜水時間は1分に満たないのだが、当時はそんなことは知らない。
 そして、一人上がってこない。バディが潜ってすぐに引き上げてくる。その間、1分以内だったが、引き上げてサジッタに乗せる。チアノーゼで顔面は蒼白、四肢は硬直して死んだように見える。脈拍を調べたり、呼吸の有無を調べたりするようなことはせず、直ちに息を吹き込む。2回息を吹き込むと大声を上げて蘇生して暴れ出した。押さえつけながら舟を岸に戻す。恐ろしいのは、肺に水を吸い込んでいる肺炎である。救急車の要請をする。亀田病院から直ちに救急車が来て、入院する。念のために集中治療室に入るが翌々日には無事退院する。みんなでミーテイングを開き、合宿の中止を決定する。
 聞けば、事故を起こしたK君の息こらえ能力は、学年では高い一人で、3分を越えていた。合宿のための費用稼ぎで、過酷な冷蔵庫アルバイトをして疲れていた。しかし、本人はそれほど疲れているとは感じていなかった。
 息をこらえていて全く苦しくなく、2分ということで時計の文字盤をみていて、そのまま意識をなくした。
 線引きは、2分以上ではなくて、1分以内とするべきだった。
 舟は直上にあり、バディシステムは整っていて、そのために命は助かった。しかし、事故であることは間違いないと判断し、責任をとって、以後、監督のようなものはせず、次に潜水部と接するのは、第40代、それからの10年でOB会をつくり発足させる。
 監督を辞めるのが正しかったかどうかわからない。また、それからの自分は、仕事の正念場であり、とうてい続けることなどできなかった。
 しかし、この事故の経験、また現役に対する接し方のノウハウも得た。最初に述べたようなコードがあり、監督という名称があり、OB会のバックアップがあれば、続けたと思う。そして、続けていれば、その後に起こるヘリ搬送の事故も起こらなかっただろう。 また、学生のダイビングにお節介をしても、何にもならない、などと考えず積極的に介入していれば、次に起こる事故を防げたかもしれない。今、こんなものを書いている所以である。
 事故を起こしたK君のお父さんは、陸上自衛隊の幹部の方で、こちらから連絡したわけでもないのに、息子が迷惑をかけたという丁重な手紙をいただいた。
 立場を明確にして、現役とは規律のあるつきあいをしていかなくてはならない。それが、できないならば責任は負いえないと考えた。
 ここでの自分の判断は、すべて、ネガティブ、退くことだった。退く、すなわち捨てるということだった。 
 もう一度取り戻す、潜水部と関わるのは、第40代、それから、25年後のことだった。
 
 なぜ、フリーダイビングとの線引きをきっちりさせるのか、上達を目指さないようにするのか、わかってもらえる為に事故例を並べた。

0915 学生スポーツとしてのダイビング4 最終

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「ダイビングの歴史」に本腰を入れることにした。完成の目算は立っていないが、これまで下書きのつもりで書いたブログがずいぶんあるはずなので、整理してみたが、期待はずれだった。部分的には良いところもあるのだが、あんまり良くない。それは、自分が進化したのか。そう思うことにしよう。で、本腰を入れたいが、これまで通りにお台場とか人工魚礁とか、日本水中科学協会の活動とかの記録、ログは、ブログにしていきたい。 そんなわけで、長々と追ってきた、ダイビングとは何なのだ、冒険?、探検、生涯を通じて生きる目標にする生涯スポーツか、安全が保証された役務型商品スポーツかという議論、そして、その実例として取り上げてきた学生スポーツとしてのダイビングは、とりあえずまとめたい。これはこれで「ダイビングの歴史」にも収録するが。  関西のインカレサークルで700人のメンバー、400人の大合宿が月刊ダイバーに載っていた。 生涯スポーツとしてのダイビングは、学生時代に始めるのが良いと思う。そして、業界としては、学生のダイビングは希望の星だとおもう。大事に育てていかなくてはならない。そのことを前提にして考えをまとめよう。  知人のダイバーの一人、女性だが、娘さんがこのような関西のクラブ(名前は聞いて居ない)に入り、母親として、責任の所在など状況が明確につかめなかったので心配していたが、二年に進むときに、自分の意志で退部したという。 僕は、アメリカンフットボールのように、父母会が充実していたら良かったのにと答え、賛同を得た。 前にも書いたが、監督、コーチが向き合うのは父母なのだ。 そして父母とのコンタクトで、アンロジカルの一つが解決するかも知れない。その子の幼少からの育ってきたキャリア、病歴などを話し合うことができる。そして、父母がダイバーである可能性も、このごろでは高くなっている。父母がダイビングとは何なのか理解していることは、現代社会の中での学生ダイビングクラブには必要なことだと思う。 形は様々だが、ポイントは、どのようにして指導者が、メンバー、個々と、向き合えるか?だろう。そしてその個々の向こう側には父母がいる。   危険な、大怪我をする心配のあるアメフトは父母会がある。  危険な、死ぬかもしれないダイビングのクラブに父母会のある大学はなく、考えられもしない。なぜだろう考えてみてほしい。


 この写真出そうか出すまいか、2003年頃から、迷っている。今も迷っているが、学生のダイビングの一段落でだすことにした。※安らかな写真で不快ではないがやはり削除した。

 今から40年前のできごとだった。そのころ、日本潜水会では、事故例を厳しく提出させていた。用紙フォームも決めていた。事故例をメンバーで共有することで、二度と事故を繰り返さない資料とする事こそが、僕たちの使命、供養だとも考えていた。もちろん、個人情報に関わる部分は出さない。これはもう、どこのだれか、調べようとしても、関係者が口にしなければ、絶対にわからない。40年昔だ。 僕の親友のやっていたダイビングクラブの事故で、ある。 場所は伊豆七島、クラブ員15名程度、つきそうスタッフは2名、彼女は体育系の大学生で、フィジカル能力も高く、ダイビングも上達して、初心者から一人前ダイバーへとなりかかりだが、安心して見ていられる状態だったという。スポットのコースを周遊して、グループでエキジットポイントに戻る途中、バディとの距離も3m以内、まだ空気は50キロ以上残っていた。水深5-3mほどのところまで戻って来て、なぜか急浮上した。すぐにバディが寄り、スタッフに知らせて、陸に引き上げた。口からは少し、血のようなものをだしていた。 空気塞栓だと推定された。呼吸を止めて浮上したらいけないとは、十分に承知していた。そして、空気も残っていて、何か、驚くような出来事もなかった。海は凪で波も流れもなかった。急浮上といっても、バディが見ている状況では、パニックで飛び上がるような浮上ではなくて、普通に見えた。 理由はわからない。不条理だ。まだ、賠償責任を訴える時代より前のことで、親友は、ご両親とは法廷で相対することもなく、ただ悲しみの共有だけだった。お父さんは娘から十分に状況を聞いており、息を止めての浮上禁止のことも知っておられた。  何が言いたいのかというと、学生ダイビングの指導、スーパバーザー(そんな役割が公にあるわけではなく自薦ボランティア)を引き受けていると、長い年月の間には、不条理な想定外のことが起こる。それを、監督、コーチは、自分の全人生を掛けて受け止めなければならない。または、逃げて自己保存しなければならない。それは、人それぞれであるが周囲の、たとえばOB会などのバックアップがなければ支えきれない。。 父母会などつくっていれば、逃げられない。そして、現在では、事故が起これば原告と被告の関係で法廷で向き合わなければならないのだから。 それでも、だからこそ、僕は父母会があった方がいいと思う。事故が起こり、息子、娘をなくした両親に必要なのは心のケアなのだ。それは容易なことではないが、クラブとして必須だと思う。そして、父母は、自分の息子、娘に何が起こったのか、それは不可避だったのか、真実を知りたい。 そして、自分にとってこの写真の意味は、不条理な想定外のことが起こって若い命が失われてしまったことを決して忘れないこと。忘れないで考え続ける。僕が大学のダイビングクラブにこだわり、SAI(関東学生潜水連盟の安全勉強会、真野先生、河合先生、山見先生にバックアップしていただいた。2003年にはじまり、2013年に関東学生潜水連盟執行部が、メーカーの機材試用会に切り替え、消滅)をつくったり、自薦のスーパバイザーバイザーをしたりするのはなぜか、この写真に象徴される。  学生のダイビングクラブについて、いくつかのパターンがある。自分のつきあい、自分のかかわったものについて考えよう。①学校が公認していて、学校が決める顧問の教員がいる。監督は、学校が決める場合と決めない場合がある(学校の規則として)。関東学生潜水連盟のほとんどのクラブはそれに相当していて、いわゆる部活にあたる。②サークル 学校が公認する、部活なのだが、形はサークル③学校当局とは関わりのない、インカレサークル  サークルと部活動の定義の違いは確立しているようで いないようだ。学校によって、ルールも違うから、確たる線引きはできないが、学校が公認し、何らかの援助を与えているものを部活、なにもルールもなく援助も無いものをサークルとしておこう。 従来は、だいたいにおいて、サークルからスタートして部活に昇格するのがパターンだった。  僕が関わってきたのは、①の部活であるが、その中で、特異なものとして、②の部活型サークルもあった。早稲田水中クラブは、1967年発足の歴史のあるクラブであり縁があった。 僕の主治医の河合先生の子息、m君に、小学校6年の時にダイビングを教えた。中学生のときには、お父さんともども慶良間ツアーに参加してくれた。高校生の時は受験勉強で忙しい。早稲田大学に入り、早稲田水中クラブに入った。お父さんともども、また慶良間にと誘った、がダメなのだ。水中クラブ部員は、部の活動以外にダイビングしてはいけない会則だという。かなり厳しいなとおもったが一つの見識ではある。 そして彼が3年生の時だ。水中クラブは蓮根にあるダイビングプールで練習をしていたのだが、ブラックアウト事故を起こした。上級生と一年生がバディになり、3mだか5mのプールの底に潜って、二人向き合ってマスククリアーを練習する。まず上級生がやってみせる。一年生がやって成功すれば二人で浮上する。上級生がブラックアウトを起こした。ブラックアウトはプールとしては事故なのだ。危ない練習をする早稲田はお断りとされた。 僕が辰巳のプールを使っているので、辰巳を紹介してということになった。当時の辰巳は、指導の有資格者が居なければ借りられなかった。僕が指導者になって借りることにした。 辰巳のプールは大きい。早稲田だけで使うのはもったいない。学連の他のクラブも一緒にやらないかと声をかけた。合同ではなくて、それぞれの練習を自由にやるのだ。僕はこのとき、各大学の練習をみることができた。2003年にSAIをつくるきっかけにもなった。  2010年に日本水中科学協会を作り、JAMSTECのプールを使うようになって、それまでの縁で早稲田水中クラブが使ってくれるようになった。辰巳では、2時間しか使えないし、タンクを運ぶ必要がある。JAMSTECは一日通して借りられるし、タンクも用意できる。 いくつかのアドバイスをしたが、水中クラブは、アドバイスは真摯にうけるがクラブの練習方法、方針はクラブが決めるということだった。 これも一つの見識だけど、顧問部長が女性だった。もしもの時の危機管理ができるのだろうかと心配になった。 なお、前に関東学生潜水連盟で、もしも、死亡事故が起こったとき、クラブとしてどうするか、というアンケートをとったことがあった。様々な答えがあった。水中クラブは、重大な事故が発生したときは、責任をとって、直ちに廃部解散、再結成を認めないという答えであった。学校側も廃部解散ならば、それで、解決だろう。なお、これまでの判例では、顧問の先生が責任を問われることはない。それはそうだと思う。同行もしない。ダイビングのことを何もわからない顧問の先生が責任のとりようがない。現在であれば、上級生の全員が被告として訴えられるだろう。父母はその事故の真実が知りたい。学生は自分の行動によって怒ったことについての賠償責任保険に入っているものが多いし、学校の校則で加入が決められている場合もあるので、それで、訴訟については、解決するかもしれない。人一人の命が失われたことについての責任は負いようがない。 誰も、大人の責任者がいないのでは、困るだろう。もう少し深入りしようかと考えてクラブの主将とあって話を聞いたのだが、早稲田水中クラブはインカレだった。迂闊にもそのことを始めて知った。インターカレッジとは、いくつかの大学が入りあって入部していている。早稲田には他に三つ、合計四つのクラブがあり、そのうちの一つは早稲田大学だけのクラブだという。 早稲田水中クラブは、その後、三浦海の学校で、プール、海、合宿すべてができると言うことで、僕とは縁が切れた。縁が無かったのだ。 水中クラブは、利潤追求をしないインカレ部活とでもいうべきだろうか。 見方によれば一番先進のクラブかもしれない。  ③学校当局とは関わりのない、インカレサークル これが冒頭にあげた、大型学生サークルである。 この形のサークルと直接コンタクトしたことがないから、その形態内情について詳しくはしらない。多分、大型のダイビングショップの形態の一つと考えて良いだろう。事故が起こったとして、通常のダイビングショップの事故処理と同じパターンを考えれば良く、事故の可能性は、大学生であり、フィジカルな条件はそろっているし、安全管理もてっていできるだろう。と希望的観測をしている。 ただ、ここまで述べてきたような、大学生のスポーツとしてのダイビングとして、形態は類似する部分はあっても異質のものだと思う。中に入って見なければわからないが。  もう一度、冒険、探検の意味、自己責任、そしてスポーツの形態、生涯スポーツ、商品スポーツの別を考えて欲しい。学校当局とはかかわりのないインカレサークルは商品スポーツなのだろうか。 ただ、商品にもならない、ものもある。そういうのが、前にあった。何にも縛られない自由である、ホームページにうたっていた。今は消滅している。何かがあれば解散して、少し名前を変えて、再出発するというパターンのクラブもある。学校が関わらなければ、何でもありなのだ。むしろ、信用のあるダイビングショップが関わった商品スポーツの方がいい。  なお、安全について言うならば、学生クラブではない、ショップクラブで学生の事故がないかと言えばそんなことはなく、同等だろう。                                 60年の自分のダイビングライフでいくつかの身近な事故を体験した。学生の事故も見聞きした。想定外、不条理のように思えるものもあったが、学生というルールの守りやすい環境では、同じ事故パターンを繰り返さなければ、事故の起こる確率は,ずいぶんと低下し、限りなくゼロに近づけることもできそうに思う。そのパターンについて、ダイビングの歴史の中で、小史として、「事故の歴史」で述べておきたい。 「ダイビングの歴史」制作の目標の一つである。  父母会にこだわって来たが、関東学生潜水連盟は、それぞれの部が発足した30ー60年昔から、学生だけで自主独立でやってきた伝統がある。そこに父母会を着陸させることはほぼ不可能か、とも思う。  僕に時間があれば、インカレで、父母会のある、父母もダイバーである親子を中心にした大学サークルをやってみたい。今、存在しているインカレサークルがその形に進んでいけば、ビジネス的なメリットも拡大するだろう。  ただ、自分の残された時間のうちで、自分の関わっているクラブで、父母への連絡会、練習の見学会などができるかもしれない。   

0917 9月16日 お台場定期潜水調査

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            トサカギンポ
 メンバー 須賀 山田+1(海会メンバー) 多留 三ツ橋 清水 5年ぶりという杉原 尾島さん 尾島ママ 9名

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 他に サイドスキャンソナー で調査ポイントの地形図を作る試みで、国方君と山本さん ゴムボートは、中川のところから借りてきた。
 こんな浅いところで、石がどんな風に撮れるのか? この図を持って来月海洋大学の学生によるライン調査をやる予定だが、どうなるか?


 ⑤天候 曇り
 ⑥風なし
 ⑦水温
 ⑧透視度 1. 5m
 ⑨潜水開始  10時21分
    ターンプレッシャー100:2回目の潜水に半分残し。
 ⑩最大水深 2m
 ⑪潜水終了   11時26分
 ⑮残圧 90
 
 カメラは、Olympus TG-4 にAKASOを重ねて着け、ライトは FX2500を25%出力で点灯する。
 お台場は周年ドライスーツと決めている。
 12キロの鉛が重い。
 陸上で身体がつらい。三ツ橋も杉原も小柄な女なのに、座ってタンクを背負って立ち上がる。80歳間では、僕もできたのに、この1年、急速な衰えで、尾島さんに背負わせてもらう。
 なお、今日から、30年近く使っているアポロのプレステージをやめにしてタバタのリベレーターにする。これも、10年ものだ。宿毛で、プレステージが身体から離れている感じがしたからだ。
 定まりのコースを行く。周年同じコースを行く。
 マハゼの姿がかなり多い。「今年はマハゼがぜんぜん見られない。東京湾全体としてはどうなのですか」と古川さんに聞こうと思っていたが、これならば、聞くまでもない。やや少ないかなと思う程度だ。トライアスロンフェンスがあった8月は全くマハゼの姿がなかった。フェンスは魚礁効果があるのかと思ったがそんなことはなかったのだ。逆に魚を追い払っているようだ。
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 10cmほどのマハゼをOlympus TG-4で撮る。設定は水中マクロにする。何枚か撮って、ふと気づく。ワイドになっていない。いつの頃からか、撮影するのにファインダーを見なくなった。その昔はファインダー命だった。フィルムの頃はフィルム代、現像代で一枚がコーラ一本に換算された。僕は一回の潜水で72枚撮るのが普通だったが、コーラ6ダース飲んでいたわけだ。デジタルになって、枚数はんほぼ無制限、そのかわりにカメラ機材がすごいことになった。どちらが良いか、それぞれだけど、僕はフィルムの方が良い。良い写真が撮れていた。 
 ファインダーを見ないので、水中のマクロが、寄りになってしまっていたことがわからなかった。
 行き止まりの杭のあたりに行くと、大きいマハゼがいる定位置に、予想通りに大型のマハゼがいた。ところで、このマハゼ、マハゼだろうか。マハゼとほぼ交代して出てくるウロハゼではないだろうか。
  
 時間、今何時かわかるために、腕時計をぶら下げている。しかし、AKASOのファインダーを見ると、何時何分何秒まで表示されているのだ。ログの時間記入は、戻ってから画像を再生して確認できる。
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AKASO
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                オリンパスTG-4
 戻り道、沈木のあたり、黒い3センチほどの稚魚がひらひらしている。なんだろう。分類の得意ではない僕はわからない。戻ってから多留さんに見せた。シマイサキの稚魚だという。そうだった。この手の稚魚は、最初は真っ黒なのだ。
 もどってから画像をせいりする。Olympus TG-4のスチル、AKASOの動画からスチルを切り出す。Olympus TG-4の方は、真っ黒で、目も黒だから、顔が?わからない。えっ、動画からの切り出しを見ると、うっすらと身体の模様がみえる。模様を見ると、コショウダイの稚魚のような感じもする。
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 泳いで進んでいるとアカオビシマハゼの小さい姿がそこここに、人なつこくて、数多く見られたアカオビシマハゼが、春先からこっち、少なかった。ということは異変があってアカオビが死滅して、再び小さいのが見えてきた。そういえば、今はチチブ(ハゼの一種)が少ない。部分的に一瞬通り過ぎるだけの目で見ただけ、それが何になるのだ。といわれるかもしれないが、それが、一番確実だと言われている目視調査なのだ。目視野中には、証拠としてのウエアラブルカメラ(AKASO)による動画撮影が含まれている。
 
 水深1mでゆっくり泳いで戻ると、残圧がぜんぜん減らない。ゲージが壊れているのではないかと心配して100残っていた。戻りかけて100岸近くで100だ。
 エキジットは、ウエイト12キロのドライスーツで立ち上がって歩けるかどうかが重要課題なのだ。何とかできて、上がったところの近くの石垣斜面にウエイトとタンクを降ろしておく。
 杭のあたりから戻るとき、今日の潜水はこれで終わりにしよう、見るべきものは全部見たもう良い。
 でも、お台場潜水は僕のトレーニングでもあるのだ。1本でやめてはトレーニングにならない。ドライスーツを脱いでしまったら、それでおわりになってしまう。下半身は脱がないで、コンビニに行き、昼食を買った。
                              
 0916 二回目      
 ⑨潜水開始  1350     
 ⑪潜水終了  1427
 ⑫インターバル 2時間20分
 
 尾島ママが、岸から目と鼻の先、公衆トイレのあたりまでの岩礁にメバルがいて、砂浜には小型のツバクロエイがいたと知らせてくれた。
 本当にEN.ポイントから20mほどの範囲の浅場磯に魚が多いのだ。
 ここを何とかしたい、という思い、計画もある。
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 メバルを探すが、なかなか見つけられない。80でエントリーして、40ぐらいまで、今度は水深1mなのに、空気の減りがはやかった。残圧40ぐらいで、湧水?のあるあたり、透視度が良くなっているあたりで、メバルを見つけたが、動きが早い。   たぶん、海会の二人組がここにかなり長い間居たので、追われて動いたのだろう。とにかく、居なくなったと思っていたメバルもいることがわかり、うまく撮れないでくろうしていると、トサカギンポを見つけた。




 エキジット 尾島さんと多留さんがアシストに来てくれる。彼らの肩につかまっても立てない。膝が崩れてしまう。午前中は立てたのになぜだ。 午前は腰ぐらいの深さで立って歩いてきた。午後は膝の深さで立とうとした。その差だろうか。
 機材の荷おろしに、清水まみが来ててつだってくれた。彼女の保育所、「海っ子、山っ子」なんとかうまくいっているらしい。とにかく継続すること、あと20年もやれば、評価がでてくるだろう。コンセプトはとても良いのだから。こっちも苦しさの継続だから声の応援だけしかできないが。   

0920 ダイビングの歴史 11

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ダイビングの歴史11 1954年 このところ、ダイビングの歴史はフェイスブックで下書きを書いていて、それはそれで良いのだけれど、この11は、蛇足を書きたい部分が多くなり、また写真も多く使いたい。そして、ちょっとブログの間が開きそうなので,ブログにした。
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「 昭和30年、1955年(出版された年)以来手元においている「世界海洋探検史 宇田道隆(東京水産大学教授)河出書房」によれば、 「1953年アメリカの海軍研究所から日本に派遣された海洋学者ディエツ博士は、潜水器アクワラングをつけて自身加洲沿岸で撮影した天然色映画と実物を持って自ら房州小湊などで潜水することによって日本に紹介した。」この文によって、ぼくらは日本にアクアラングが紹介されたのは1953年としたものだった。 そして「昭和29年(1954)8月1日、東京水産大学生 旭完爾、伊藤国彦は、本器で小湊で潜水実習中、我が国最初の尊い犠牲となった。」この事故は、僕の潜水の原点の一つであり、ダイビング事故小史のトップで書く。」  ここまでが年表の記述で以下蛇足である。  事故について、このように、出版された本の中で、実名を明記することは大事なことだと学んだ。事故は忌み嫌うものではなく、そこから何を学ぶかが重要であり、その人の実名を明記する事が礼儀であるかのように思う。賛否両論あると思う。この事故の旭君、伊藤君の遺族は、小湊実験場の磯に、名を刻んだ小さい石碑を建てたという。僕はそれをみていない。やがて、小湊実験場が千葉大に移管された時、石碑は品川の海洋大学にもってこられたというが、それもみていない。時とともに、石碑はどこかに消える。海洋探検史には残っている。
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 なお、宇田先生の海洋探検史、僕が海へと志した原動力になった本の一冊、もう一冊は、たびたび紹介しているユージニー・クラークの「銛を持つ淑女」 どちらが、といえば、今もたびたび見るのは世界海洋探検史だ。 今と1955年では、技術的な差は大きいが、簡略な名文であり名著である。「潜水と深海の宝」の項などは,全文をダイビングの歴史に収録したいと思うほどだ。 水中撮影について「アメリカのディエッ氏らは、アクワラングで海藻等海中風景を撮影した。それは水かきを着けて、かなり遠く水中をイルカかマグロのように動く」1955年当時のダイビングについての認識であり、本質をついている。
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 僕は,海洋探検史のなかのモナコ海洋博物館の写真を見て一度は行きたいとあこがれた。1993年、60歳を記念して100m潜水の番組を作ったとき、ジャック・イブ・クストーに合いにいくことになり、(ジャック・イブ・クストーの体調不良で果たせなかったが)ついでに行きたいところ、言うまでもなくモナコ海洋博物館だ。 副館長のシモーヌさん(女性みたいな名前だが男性)は、宇野先生の教室に留学していて、僕の後輩に当たり、水中写真の撮影の共著者である小池さんの親友だった。ということで歓待してくれて、館長のドモンジョさんともお話しすることができた。僕はそのころ三宅島に潜水博物館をつくろうと計画奔走していて、もしも三宅島潜水博物館ができたら、モナコ海洋博物館と提携という話もできた。三宅島の方は,むなしく潰え、その後で大噴火が起こった。 モナコ海洋博物館、ダイバーの誰にとってもあこがれの場所だろう。
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         これは僕の撮った写真 1993年

0921 ダイビングの歴史12 青い大陸

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ダイビングの歴史 11 1955 青い大陸青い大陸」 イタリア映画 東和の配給で劇場で大々的に航海された初めてのカラー水中ドキュメンタリー、1952年から53年に紅海でロケで制作された。日本公開は1955年7月、初めて、水中のカラー映画を映画館のスクリーンで見て、タテジマキンチャクダイのアップの美しさに驚き、そのシーンをもう一度見たくて二回みた。
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 そして、マンタは悪魔の魚で、最後のシーンで、スキンダイバーに殺される。 水中撮影はリブリーザが主に使用された。小さいタンクのアクアラングも写真にでているが、基本的にアクアラングはフランス、イタリーはオキシラングだ。
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 そして、この撮影で魚類捕獲班長:要するに魚突きだが、のレイモンドプーケルは、スキンダイビング39mの記録を樹立した。1931年当時これは大記録で、雑誌ライフにも掲載され、探検の資金集めにずいぶんと役に立った。今、100mに女性が潜る時代だが、まだ、ジャックマイヨールは、どこにいるのか知らない。 製作は、ブルーノ・バイラテイ 監督はフォルコ・クイリチである。なお、ブルーノ・バイラティはその後日本にもきて、大崎映晋さんをカメラマンにして、能登の海女の映画を撮った。なにしろ全員ヌードだ。男の主役は、館山のシークロップの成田さんだった。が、僕はその映画見ていない。日本で公開されれば見ていないはずはないのだが。もしかしたら、成田がもっているだろうか。彼は現在ジャックマイヨールの博物館を建設中だが,その博物館で上映すれば、良い。もし持っていればだが。  そのころ僕らの世代、アクアラングの第一世代だろう、は、青い大陸を見てダイビングの世界に魅了されたグループと沈黙の世界派に二分された。青い大陸が1955年7月の公開、沈黙の世界は1956年だ。だから、僕は青い大陸派だ。一年先輩ということ。

0923 ダイビングの歴史1-10

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ダイビングの歴史 1-10  ダイビングの歴史フェイスブックで下書きをしている。 おおきいものはブログにしているのだが、フェイスブックの分を、やはりブログでまとめておかないと、わからなくなってしまう。 そこで1-10をまとめてブログにだしておくことにした。 下書きである。 ダイビングの歴史 1 2018/09/04 16:33 「ダイビングの歴史」は最後の著作だと考えている。が、まるで進まない。危なくなってきた。資料を分析して、まとめていく力が無くなっているのだ。でも、やらなければ。 年表の骨組みは山田さんらの協力で2016年にできている。コラムもいくつかは日本水中科学協会のシンポジュウムで発表している。ブログにも、コラムの原稿を途中までだが書いている。「ダイビング事故の歴史」これは今年のうちにまとめるつもり。その次は「第二次大戦とダイビング」構想はできている。現在進行中は、「潜水士の資格の沿革」 コラムの一つ一つは、かなり重く(量が大きく)なる。コラムと言うよりは、ストーリーと呼ぶ方が良いかな? 他に山田さんにもコラムをいくつか書いてもらっている。 もう一つ、日本のスクーバダイビングが始まって以来を毎年1ページ程度でまとめる。これは、印刷されたもの、雑誌、報告書 単行本から抽出する。年代記?年次報告? そのうちに良い名称が見つかるだろう。 ①年表 ②コラム ③年次報告 になる。歴史原稿が進まない原因・理由の一つがフェイスブックである。フェイスブックに時間がとられている。 ならば、年次抽出部分をフェイスブックに載せよう。読んだ方のコメント、異論、付加なども取り入れられる。 最後に全部まとめて、編集、切り捨て作業をする。  ダイビングの歴史 2 ダイビングの歴史どこから始めようか、区切りよく1950年とした。しかし、思い直して、プレストーリーとして1920ー30スキンダイビングのはじまりから、書いて、年次抽出を1950年からはじめることにする。 出版されている本、雑誌から題材を抜き出して並べると書いたが、まずその 資料の第一弾 「ダイバー列伝 トレバー・ノートン 関口篤訳 青土社 2000年」 これは1999年に ロンドンで出版された Stars beneeath the sea の前約で著者のトレバー・ノートンの本職は、リバプール大学の海洋生物学の教授で、英国ではダイビングの権威者だたいう。 そのままダイビングの歴史を、歴史上のダイビングのスターを列伝式に並べたもので、歴史参考書としてそのまま使える。そしておもしろい。アマゾンで1100円、急がないと7000円からになってしまう。ノートをとると 「今から140年ほど前、フランスの某海軍士官は、ダイバーの要件を次のように定めている。 ・心配事があってはならない。 ・体調が良好でなければならない。 ・冷静沈着でなければならない ・アルコールの影響下にあってはならない。 この要件を厳格に守ったら、この海軍士官が潜水の特殊チームを編成しえたかはなはだ疑問である。この条件のすべては言うにおよばず、いずれかでも満たすことはかなりの困難が伴うからである。 安全志向の強い今日、ルールブックはウエイトベルトよりも重たい。しかし、潜水の先駆者たちは規則にはまったく無頓着であった。」 ダイビングの歴史 3  50年は自衛隊の前身である警察予備隊ができた年だ。(1950年8月)  スクーバ(ジャック・イブ・クストーのシステム)が何時から日本に来たか。ルートは、①科学研究者、②軍事目的③遊び であろう。漁業は①の研究者に含めた。 ②の軍事目的は、前記予備隊ができて、掃海部隊の装備として研究試用が開始されたと考える。担当の逸見さんは、親しくさせていただいていたので確認したが、52か53ということではっきりした資料はいただけなかった。 なお、米国の潜水部隊であるUDTがアクアラングを採用したのは、1949年である。※ ※は参考書  ※「人間魚 ダグラス・フェイン 佐々木忠義訳       」には、1949とある。 フェインさんは、UDTの創始者の一人で、退役後、日本に住んでいた。 アクアラングはクストー・ガニアンが1943年に作り、フランスで売り出されたのが、    年 米国が    年 である。
ダイビングの歴史 4 フィンのルーツ ヨーロッパ、地中海のフィンのルーツは、モナコの海洋博物館に飾ってあるコリリューのフィンだ。これは、こんな重いものを本当に履いて泳いだのか?という代物だが、とにかく今のゴムのフィンの原型ではある。これが、商品化で洗練されてオウエン・チャーチルのフィンになり、第二次大戦でも使われ、ジャック・イブ・クストーも履いて、日本にも入ってきて、東亞潜水機のチャンピオンになる。  が、それとは別のフィンのルーツがあったのではないかと僕は思っている。  それは、フィリピンでバジャウ 海洋民族が使っているベニヤ板に靴を張り付けた、これは、フィンというよりも履き物だ。日本の水蜘蛛で、泳ぐ発想があったらこれになっただろう。ベニヤ板のフィンで泳ぐ姿を撮ったものを見ると、これは、フロッグキックであり あおりあしだ。今風のスクーバダイバーのキックをしている。 ダイビングの歴史 5 1950 ようやく、最初に想定した出発地点にきた。 50年は自衛隊の前身である警察予備隊ができた年だ。(1950年8月)  スクーバ(ジャック・イブ・クストーのシステム)が何時から日本に来たか。ルートは、①科学研究者、②軍事目的③遊び であろう。  漁業は①の研究者に含めた。研究者のスクーバは東京水産大学、僕の母校、から始まった。水産大学、すなわち、水産であり漁業だ。  ②の軍事目的は、前記予備隊ができて、掃海部隊の装備として研究試用が開始されたと考える。担当の逸見さんは、親しくさせていただいていたので確認したが、52か53ということではっきりした資料はいただけなかったが、52と想定している。  ここで、今振り返ると日本のスクーバダイビングの黎明期に僕もダイビングを始めたわけだし、その僕にダイビングを教えた師匠たちが、スクーバを始めた。 といって、それは1952年から56年の、たった4年間の出来事なのだが。 水産大学宇野教授、僕は宇野教室の出身だ。東亞潜水機の三沢社長、アクアラングを輸入した渋谷社長、潜水研究所の菅原久一師匠、水中処分隊の逸見隆吉隊長 それぞれから,もっと詳しい話を聞いておけば良かった。しかし、そうは言っても、その時、こんなものを後に書くとは思わなかった。そして、そんな時間、機会もなかった。また、聞いても詳しく話してはいただけなかったかもしれない。 処分隊の逸見さんには、月刊ダイバーの特集で、潮美と二人でインタビューしたのだが、初めてスクーバにさわったのが1951年だったか52年だったか、確たることは聞けなかった。 だから、今できることは、それぞれの先輩が1950年から、僕との付き合いが始まる1956年頃まで、何をしておいでだったか、そのぼやけた姿をここで書いておくことしかできない。 ベニヤ板ではなくて椰子の葉の葉柄の広い部分を足に縛り付けたのがフィンのルーツだと書いたものを見たことがあり、原典を探しているが見つけられない。誰か知っている人があれば教えてほしい。 ダイビングの歴史  6せっかく1950年まで来たのだけれど、やっぱり時計の針をもどしたい。 「1943年、6月のある朝、私はフレンチリビエラのバンドル駅にでかけて、パリから急行便で届いた一つの木の箱を受け取った。この中には将来有望な新しい一つの器械が入っていた。それは数年にわたる夢と努力の結果、エミル・ガニアンと絵私が考案した自動圧縮空気潜水肺なのである。私は大急ぎで潜水仲間の,フィリップタイエとフレデリック・デューマの待つているヴィラ・パリーにかけつけた。」  ジャック・イブ・クストーが1953年に書いた、「沈黙の世界」、日本での訳書は 「海は生きている」の冒頭の一節である。  タイエとデューマは魚突きスキンダイバーでその延長線上で、足ひれを着けて泳ぐ水中呼吸器として潜水肺は計画され開発されたのだった。「足に鰭をつけて何ものにも妨げられずに深い海の中を泳いで見ようと考えた。」 「1936年ごろ私たちは,潜水めがねをつけて、息を止めながら,海中に入ったものだ。私のもっとも身近な同僚であるフレデリック・デューマは,ある朝、100キロの魚を突くことで賭をして地中海に飛び込んだ。」  そう、銛で魚を突くためにはどうしても両手が必要だ,手放しで、自動的に水深に応じた圧力で空気が出てくる呼吸器がほしかったのだ。それも、送気ホースなどに束縛されないで,鰭をつけて自由に泳ぎながらだ、  写真は「海は生きている」から それにしても「海は生きている」なんてとぼけたタイトルだ。沈黙の世界、で映画は世界的に大ヒットしたのに。 地中海には,ダイバーが突けるような魚がいなくなったと言う話。このような大きい魚はみんな突かれて,以前,フランスのダイバーが言っていた。日本は漁業調整規則があって、魚を突いてはいけないから、魚がどこにでもいる。幸せだと、ダイビングの歴史  7   コンセプト と 構成を何度も書き直しているけれど、なかなか、きまらない。進化と考えれば決まらなくて良いのだ。   はじめに コンセプト 「ダイビングの歴史は人類の海へのチャレンジの歴史である。時系列を追った冒険、探検ドキュメンタリーにしたい。しかし、嘘は排する。事実に支えられた真実を追いたい。不確かなこと、推測、想像は断りを入れる。そのような部分が、かなり多くなるだろうけれど。」  こんなふうに行きたいのだが、ダイビングで冒険などしてはいけないのだ。どこまでも、安全を追求しなくては、冒険を排除する役務なのだ。 危ないところに行って安全を追うのが、冒険なんだけど。冒険は高気圧障害防止規則で禁じられている。冒険を看板にしてしまうと、インストラクターやガイドダイバーは業務ができない。初心者4人も引き連れて潜るのなんて、血も凍る冒険なんだけど。 冒険という刃は、後ろ手にかくして、読後に冒険だったのだとわかれば良い?  でも、歴史って、ほとんど人類の冒険の記録なんだ。だから、歴史フアンが多いのだけれど。ダイビングの歴史8 1年1pの年表をフェイスブックで書いていくというコンセプトではじめたけど、1951年でストップしている。 でも、もう少し、前置きを。 2018/09/14 14:59 前回 全体の考え方、ダイビングとは、人間の海への、海の中えのチャレンジ、海の中は人間がほんのわずかな時間しか生きながらえない世界。その世界、環境に身体をさらして入っていく、その中で安全を探り、安全を目指す活動、バランス感覚がなによりも重視される。 月刊ダイバーが届いた。良い写真で海の中のすばらしさ、楽しさを追う。その姿勢がブレていない。僕も自分の姿勢がブレないようにしよう。その姿勢、違うようでいて違わない。海にはいるとき、岸から歩いてはいるか、ボートから飛び込むか、ほどの差はない。 2018 ダイビングの歴史構成①一覧年表 インデックス:これは従来の年表 山田稔さんと共著一応できているが ②ができてから、両方とも修正する。②年表:平均して年に1P 含む ④サイドストーリー(自分記)③小史 「泳ぐダイビング:スクーバのはじまり」「スクーバダイビング事故の歴史(☆空気塞栓 減圧症より重要。)」「第二次大戦とダイビング」「潜水士資格の沿革」「日本国籍指導団体盛衰記」「マスク式潜水器」「沿岸漁業とのせめぎ合い。」「沿岸漁業の近未来」「撮影機材の歴史」「海洋開発 海底居住」 「トラック島沈船 発見記」「洞窟潜水の歴史」「水中通話 水中レポート」須賀「スポーツダイビング」須賀 小史で原稿を依頼するのは ※まだ正式に依頼していない(この本ができるかどうかわからないので、ある程度のところまで行かないとお願いできない)方もいるので、流動的、それぞれ、自分の視点で我田引水で良い。書きたいことを書いてもらいたい。 「シートピア」山田&インタビュー 「人工魚礁」高木&インタビュー 「高校教育としてのダイビング」古木&インタビュー 「スノーケリング」大橋禄郎&インタビュー 「テクニカルダイビング」久保&インタビュー 「フリーダイビング」松本恵&インタビュー まだまだ書いてもらえる人をさがさなくては。  サイドストーリー(年表の一部) 潜水グラフィティとダブルが年表部分に自分の見た目で書いていく  最新ダイビング用語事典と同じ程度の字と分量で、かなりの量の原稿が入る。たくさん書いても大丈夫ダメなら削っていけば良いだけ。  ダイビングの歴史 9 1951 フェイスブックは、あちらに跳び、こちらに戻り、未整理だが、年表部分の下書きの下書きだから、仕方がない年表だから、時系列に並べやすいから何とかなるだろう。 さて、1951  新しい潜水肺 アクアラングの目標は、①スピアフィッシング②軍事目的③科学研究者のフィールドワーク、これは海底探検でもある。④探検イコール撮影である。そう、ドキュメンタリー映画が、海底の様相を人々に紹介し、センセーショナルを巻き起こしていく。ここでは、この①②③④で追っていこう。 日本に入ってくるルートもこの①②③④である。 ②まず軍事目的 国にとって軍事は最重要課題である。アメリカとの戦争、そして敗戦、日本はGHQによって支配される。 半島というのは地政学的に戦争の発生地である。 1950年6月北朝鮮は38度線を越えて南下を開始する。 戦争の帰結は陸戦、占領であるが、海に囲まれている日本は海から戦争が始まる。1950年警察予備隊が、GHQ(アメリカ)の命令でできあがるが、実際の戦闘参加は、掃海であった。 ここから先も、ペルシャ湾での活躍など日本の実質的戦闘は掃海である。また、戦争に先立って、日本沿岸に機雷が敷設されば石油の供給が止まり、機雷を処分しなければ、日本の息の根が止まる。 機雷の処分で潜水に依存するのは一部分、特別な新型であったり、技術的に貴重であったり、また、掃海、海の中を掃海具を引き回せないような場合に限られるのだが、とにかく、何かを揚収する場合には潜水が必要であり、すでに1949年には、フランスでもアメリカでもアクアラングは販売が始まっていた。   1950年 9月、仁川への逆転上陸は旧海軍の掃海部隊が参加している。 1951年には、後に自衛隊の掃海、水中処分隊の隊長になる逸見隆吉さん、初代の隊長になる飯田さんらが胎動をはじめて居たはずで、アクアラングも検討され、その輸入元として旧海軍のOBであった渋谷氏が大同物産を発足させる。  アクアラングの黎明期から 潜水科学協会の設立、そして     年に亡くなるまで、菅原久一さんは、キーパーソンである。後藤道夫の師であり、僕の間接的な師でもあった。拙著 ニッポン潜水グラフィティにもかなりの量を書いているがここでもはずせない少し視点をずらして書いてみる。 菅原さんは、仙台の生まれでバリバリの職業軍人、戦闘の専門家である落下傘部隊、今で言うレンジャー舞台の指揮官である。北支(中国)で終戦を迎えるが、捕虜等にはならず、戦闘を続行して脱出してくる。日本に戻り潜水で、たぶんヘルメット式でアワビの密漁で生計を立てる。どこで潜水のことを研究し、覚えたのか不明であるが、1951年には東亞潜水機に居て、なんと純酸素のリブリーザ P型潜水器を作ってしまう。 肺の容積よりも少し大きな呼吸袋、苛政ソーダなどの炭酸ガス吸収剤を入れた缶、酸素タンクを蛇腹管で結べば良い。原理は簡単だから、誰でも、命が惜しくなければ作れる。 1954年には、青函連絡船洞爺丸の日本海難史上最大の事故が起こり、菅原さんは東亞潜水機から、その遺体引き揚げにでている。命があって戻ってきたのだから普通のアクアラングを使ったものと思われる。 菅原さんの経営していた潜水研究所には、その時の写真が残っていて、普通のアクアラングを使っている。  菅原さんが、今、僕が書いて居るようなものを書き残してくれた居れば、どこかにあるかもしれないので、これから探すが、残っていれば、そのころの謎が解ける。  アクアラングが日本に入ってくる動きとは別にスクーバを国産する動きもある。 機雷には触発型といい、船が触れば爆発するクラシックな型と上を通過する船の気配に感応して爆発するタイプがある。その気配とは、鉄の磁性音響、圧力 があり、しかもその三つがランダムに二つが組み合わされている。  掃海は潜水で行われるものでは無いが、潜水とは切っても離せない。僕も掃海に携わったことはなく、その専門家でもないが、掃海とは縁が深い。 水産大学の一期上級、一緒に潜水部を作った竹下徹先輩は、卒業後海上自衛隊に入り、掃海畑を歩む。 ダイビングの歴史 10 ニッセン式 過酸化水素 オキシフルで酸素を発生させて呼吸しようという潜水器である。循環させて炭酸ガス吸収剤で炭酸ガスを取り除く。山下弥三左衛門の「潜水読本」によれば、「本器の特色は過酸化水素の補給だけで一回一時間近く潜ることのできる酸素発生器を利用したもので、重量3貫・約12キロ出、これを背中に負い。腰に着けた錘と浮き袋にて水深20m程度を活動範囲とし、浮きも沈みも手軽にできるといわれている。(BCを付けていた?)このニッセン式簡易潜水器は1953年6月神田のYMCAプールで実験された。旧陸軍工科学校出身の元曹長 米良勅夫氏をリーダーとして、元海軍技術大尉等のグループ5人が3年がかりでつくりあげたものである。」 ※山下弥三左衛門先輩については1960年の項で述べる。 1953年に使用テストが行われているが3ねんがかりということは、1950年から作業を行っていた。 循環式、リブリーザの酸素供給源を過酸化水素での酸素発生に置き換えたものである。腰のあたりに浮き袋があり、BCのように浮沈ができたというところがすごい。危なくもある。
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 写真はどこのプールかわからない。神田アルバムだから、館山かもしれない。 ※この写真で見たところ、腰の周りに浮き袋などない。胸のところにあるのが過酸化水素による酸素発生器か?  この潜水器、商品として売り出されていた。 それを見たのは、城ヶ島にある。神奈川県水産試験所で1962年から64年の間の何時かである。ビニールの袋のようなスクラップで使い込まれた様子はなかった。実用にしたら、無事ではすまなかっただろう。その時、宣伝のパンフレットを見たので、ニッセン式という名称で売り出されていたことを知ったものだ。  ※神奈川水産試験場で見たビニール袋のような潜水器と、写真に見る潜水器とどうしても頭の中で繋がらない。その後、神奈川水試の工藤さんにたのんで探してもらったがない。捨ててしまったらしいという。  ニッセン式は、失敗すること、今のダイバーならばすぐにわかる。化学的な手段で炭酸ガスを除去するのは冒険である。さらに過酸化水素で酸素を発生させるのも冒険であり、こんなもので本当に潜れたのか信じがたい。それに、酸素は町場でもそんなに高価なものではない。他のオキシラングのように酸素の小瓶でいい。しかい、1950年から53年にこんなものを作った。潜水を目指す者は、みんな冒険家だったのだ。

0924 ダイビングの歴史13

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ダイビングの歴史 13 1956 沈黙の世界
 日本公開は1956年8月
 アカデミー賞 ドキュメンタリー部門受賞
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ジャック・イブ・クストーがすごいところは、アクアラングをつくっただけではなく、そのアクアラングで出来ること可能性のほとんどすべてを考え、やって見せてそれを映画にして、全世界に提示した。そしてその為の道具もほとんど全部作り出した。水中撮影でいえば、ニコノスはジャック・イブ・クストーが作ったカリプソにニッコールレンズを付けただけのものだ。
 映画 沈黙の世界は後に有名になる映画監督ルイ・マル(恋人たち)を起用して、大きなハタを餌付けしてダンスを踊ったり、鯨を鮫が食い尽くすシーンも撮影した。映像、映画の持つ力、陸上も含めて、これまでで一番成功したドキュメンタリー映画ではないだろうか。


 ジャック・イブ・クストーがやらないで、ぼくができたこと、やったことは水中レポートだ。ただ、ぼくのは有線通話で厳密にはスクーバではなかった。
 
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 沈黙の世界の本「海は生きている」なんでタイトルを替えたのか不明だけど、その表紙の写真、ウエットスーツを着ている。このウエットスーツ、今の独立気泡の生地ではない。ただのスポンジだ。日本でもこれをつくった。1957年、一年先輩の竹下さんがこれを着ている。1958年このスーツが小湊実習場にあり、僕とバディの原田が内緒で着てみた。当時のぼくたちは毛糸のセーターを着て潜っていた。それよりも、格段に暖かく感動したが、風呂場で脱ぐとき、のりがはがれてバラバラになってしま
った。糊がだめだったのだ。
 黒いウエットスーツができるのはその二年後だ。


 

0924 ダイビングの歴史 15

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ダイビングの歴史 15 どるふぃん 1-2(1957) より 太平洋炭鉱におけるアクアラングの利用状況 永渕正叙 佐藤進
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「昭和28年(1953)東京の新聞に須田・ディーツ両博士がアクアラングを天皇陛下にお目にかけている写真がのっていた。8月下旬両博士同道で釧路鉱業 所(太平洋炭鉱の)を来訪し、Dietz博士が南カリホルニアで撮影 した天然色海中写真を2回も公開し、炭鉱人市民を魅了した。さらに10月にはスクリップス海洋研究所の海洋調船ベアード号が函 館に入港した際、佐藤は同船上でアクアラングを着装してみる機会に恵まれた。当時の大同物産・(渋 谷さんが社長)へフランス製アクアラング及び付属品一式を注文し、やっと11月ごろになって現品が到着した。何しろ釧路の海は波が荒く、透明度が低いから 果たしてアクアラングが役に立つかどうか疑わしかったので、さしあたり一組だけ注文したものだった。今にして思えばまことに冷や汗ものである。」   日本に初めてアクアラングが入ってきた時の状況がよくわかる。須田博士とは、須田院次博士のことであろう。海上保安部水路部局長で、潜水科学協会の理事に もなっている。ディーツ博士は海底地質学の研究者である。海底地質学の分野から、アクアラングが日本に入ってきたルートである。  太平洋炭鉱の佐藤さんたちは、昭和31年(1956)、フランス製1組、日本の川崎 航空製2組を追加し、4組で練習を開始する。7月から8月にかけて、プール6日間、海で13日間の練習をして、水深14.5mまで潜水している。 9月まで、ライン調査を26日間行って、研究調査員自らが潜る利点を十分に感じた。そしてさらに調査員ダイバを6人に増やし、「絶対無事故を目標とし、かなり厳重な基礎訓練と安全作業基準を作ってみた。今後の経験により、完全なものに作り上げたいと思っている。」  ちなみに、太平洋炭鉱講習の講師は、僕の探検の師匠である白井祥平(当時はまだ専攻科の学生だったはず)、恩師の宇野寛先生、神田献二先生だった。 我が国における民間企業がアクアラング潜水を導入し、成功を見た最初の例であろう。 ※ このドライスーツは、服内に空気を送り込むことができないので、厚着をしてスクイーズに耐えるしかなかった。ドライスーツは、いわゆる潜水服であり、古い歴史があるのに、スクーバで使われにくかったのはこのスクイーズのためであり、この解決には、様々な工夫がなされる。

0924 ダイビングの歴史14 日本ダイビング協会発足

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ダイビングの歴史 14 1957 
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 日本ダイビング協会の発足 1957年1月26日 東京都千代田区、霞ヶ関の合同庁舎で日本ダイビング協会の創立総会が開かれた。これに先立ち,記念行事として,正午から科学技術庁前のプールで水中機材の展示会および潜水の実演が行われた。「水温5.5度、手の切れるような冷水中でドライスーツに身を固めたスキューバダイバーが軽快な妙技を見せれば、一方からは軽便潜水器が活動を始め、特に我がダイビングクラブの発足を祝して特別出場した厚木基地の米海兵隊潜水クラブに面々による強力な水中銃の発射や,アクアフォーンによる水中会話が目を引き,NHKの水中マイクに向かって,水底から習い覚えた日本の歌を放送して爆笑にうちに実演を終えた。 展示の参加メーカーは,科学研究所(カメラ)旭潜水研究所(軽便マスク式)東亜精機(レギュレーター)伊藤清器(レギュレーター)川崎航空機(アルミタンク、レギュレーター)東亜潜水機(ドライスーツ、ボンベ)大同物産(フランス製ボンベ、レギュレーター)で、 役員は 会長 佐々木忠義 (東京水産大学) 副会長 永渕正叙 (太平洋炭鉱)「 猪野峻 (東海区水産研究所) 常務理事 菅原久一(潜水研究所) 曽根徹 (水産庁研究第一課) 監事 高山重嶺 (東海区水産研究所)   加藤裕也(西松建設株式会社) 理事 川名武(東海区水産研究所)   JP. ベスホード(横浜ダイビングクラブ)   須田院次 (海上保安庁水路部)   梨本一郎(東京医科歯科大学)   渋谷武乃丞(大同物産)   佐藤賢俊 (旭潜水研究所)   山本福三(日本ダイビング協会機関誌 「どるふぃん」からの引用である。なお、ここから1964年 この協会が海中開発技術協会となり、「どるふぃん」が廃刊になるまでを ドルフィンの時代と呼ぶ。 テレビ撮影関連をみると1953年 NHK東京テレビジョン開局。1954年 東京水産大学が魚介類の研究のために買い入れた900万円のIO水中カメラ かなり大きい。をプールに沈めて泳ぐ魚や子供たちを撮った。日本で初めての水中テレビカメラによる撮影、そして放映だった。 1957年 水産大学学生が行う海底地図の作製を取材。これがNHKカメラマンによる最初のテレビ番組の水中撮影だった。カメラマンは畑中伸一さん。NHK 水中カメラマン第一号である。 確か、僕の一年上の竹下さん、橋本さんが取材されている。水中テレビ出演第一号か?


 

0925 ダイビングの歴史 15 後藤道夫と自分の個人年表

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後藤道夫と自分の個人年表   1955 昭和30年
 須賀
 東京水産大学へ入学、館山の水泳実習でアクアラングをみる。
 アクアラングを目標にすると決めて、葉山の磯 名島周辺で素潜りで魚を追い回す。
 
 後藤
 5月 初めてアクアラングをみた。
 6月 菅原久一氏とあう。
 7月ー10月 江東楽天地プールでアクアラング独習
 12月 米国空軍の軍人と葉山で潜る。
 江東楽天地の屋内温水プールでは、アクアラングの講習も行われた。ダイビングの死亡事故が起こり使えなくなってしまう。その事故の詳細はわからない。江東楽天地は3月9日の大空襲で、たくさんの遺骨を埋めた。その上に建設された。水死体も多かった。その上にプールを作ったたたりだという。都市伝説なのか、本当にダイビングの事故があったのか、後藤道夫にたしかめないうちに逝ってしまった。 1956
 須賀
 夏 奄美大島、白井祥平先輩の探検に参加して、初めてタンクの空気を吸う。残圧20キロで水深5mに潜る。ハマフエフキに出会う。
 秋 葉山の磯でアクアラング独習中の後藤道夫と出会う。 後藤
 3月 菅原久一氏 潜水研究所創立 入社する。菅原さんは1954年までは東亞潜水機にいた。55年に退社 56年3月に(株)潜水研究所を作る。後藤道夫は入社というよりも、無給に近い弟子入りしたと思われる。
 
 1957
 須賀
 潜水実習を優等生?で修了
 一級上の先輩 竹下さん 橋本さん、バディの原田進とダイビングクラブを結成する。後に潜水部に格上げ。2018 60周年を迎えた。 後藤
 日本ダイビング協会が毎日ホールで「沈黙の世界」を上映して会員募集をした、その時、ドライスーツを着て、プラカードを持ち、チャンピオンフィンを履いて有楽町を歩き宣伝した。

 1958
 須賀
 卒論はサザエの棘、日周成長線がテーマ、伊豆大島波浮でライントランセクト調査、コンプレッサー・エアーステーションなどなく、ほとんどをスキンダイビングで行う。最大水深20m
 日本潜水科学協会が行った日本橋三越屋上でのダイビングショウ?に出演して水中脱着とバディブリージングを見せる。
 秋 人工魚礁調査 クストーらが開発したコンスタント・ヴォリュームドライスーツ(頭もマスクも密閉してしまって、マウスピースも服の中に出ていて、服の中に空気を入れて、スクイーズを防ぐことができる)で、服が一着しかないので一人で30mに潜水してエア切れ九死に一生するが。二人だったら二人死ぬかもしれない状況だった。密閉されているのでマウスピースの交換ができない。浮上しても外の空気が吸えない。 後藤
 菅原さんの潜水研究所は、お茶の水ニコライ堂の前の通りの狭い路地を入ったところ、普通の家の納屋みたいなところ。前の小さな空き地で、米海軍のスクラップである戦闘用高圧消火器ボンベの赤い塗装をブラシで擦ってはがしていた。訪ねた目的は、コンスタント・ヴオリュームドライスーツを借りるためで、ここで初めて親しく口をきき、生涯の親友になる。
 その秋、真鶴ダイビングセンター準備を始める。
 
 1959
 須賀
 就職口が無く、ブルトーザ修理工場に就職し機械の修理を学ぶ。
 10月 東亞潜水機に拾ってもらう。ぼくの作業机は、菅原久一さんの使っていた机で、目の前の壁には、青い大陸の映画スチルが貼ってあった。
 コンスタントヴォリュームのドライスーツは東亞潜水機で作っていたことも知る。 後藤
 神奈川県真鶴に、日本初のダイビングサービス 真鶴ダイビングセンター(後に後藤アクアティック)が稼働・オープンする。
 
 

ダイビングの歴史「17 1958

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1958
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          ペガス(天馬)海洋大学博物館

どるふぃん2ー1(1958 4月)
 
この号から 日本ダイビング協会が日本潜水科学協会に代わっている。ダイビングというと、飛び込み競技と混同するからというのが理由である。
 
 ヘリウム潜水体験記 芝直茂
 海上自衛隊 の方で、米国でヘルメット式のヘリウム潜水を体験した来られた。

 種市潜水学校 紹介
 今は立派なプールもあり、練習船もある施設、多くのプロ潜水士を輩出したそのスタートのころである。     
      
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 ダイビングと水質汚染 猪野峻

 定置漁業における潜水の活用について 鈴鹿文俊
  60mまでアクアラングで潜っている。

 水中写真に関する知見  白井祥平
  奄美大島を中心として 1956年に僕も参加したエキスペディションでの撮影の発表である。トピックス

 ペガス現る
 16mm映画カメラ:ライトを先端に着け、たフランス製先進の水中ビークルである。4月26日 東京水産大学のプール、ぼくがテストダイバーになった。(ドライスーツを着ている)まるで走らなかった。バッテリーの問題だろう。とろとろ泳ぐよりも遅いので、押して泳いだ。
 その後、使われたという報告はどこにもなく、現在、東京海洋大学の博物館に まだピカピカの姿で展示されている。購入の価格はおよそ800万とか、ぼくの初任給が1万円以下の時である。
 東京水産大学の学長になった佐々木忠義先生(潜水協会の会長でもある)は、フランスと特別な関係を作ろうとしていた。(日仏海洋学会など)その一端だったかもしれない。

 スキューバダイビング 初級講習会 (第5回) 東大室内プール)
 
 会員数は274人である。

 どるふぃん2-2(1958 11月   )
 フランスから深海潜水船バチスカーフが日本に訪れた記事特集だ。
来日したバチスカーフは、フランス海軍のもので、日本沿海で何回かの潜水を繰り返して、日本の学者何人か(水産大学の熊凝教授、新野弘教授 久保教授など)が同乗し、2800mまで潜り、その感想文を「どるふぃん」に載せている。
 
 
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 トピックス
 
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 日本橋三越屋上に深さ(高さ)3m、アクリル円筒のプールを置き、アクアラングを見せようという企画、ビッグプロジェクトだ。重さで屋上の底が抜けたら大惨事になる。計算上大丈夫だとしても、やってみなければわからない。ここにも後援がなぜかフランス大使館、フランスはダイビングを外交手段に使った。
 僕は、水中脱着が得意だったので、毎日出演し、さらに上達した。僕のダイビング技術の原点になった。 真鶴ダイビングセンター(後藤道夫)が出来、空気の充填ができ、機材の保管ができることを予告している。(梨本先生記)
 もし、講習以外のダイビングをしようとすれば、まだ、自家用車(といっていた時代)もなくタンクを背負いウエイトを腰に巻いて改札をなんとかくぐり抜け、電車に乗り、歩いて行かなければならない時代である。

0917 ダイビングの歴史 18 後藤道夫年表 1

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           後藤道夫の作ったマスク、鶴耀一郎
 後藤道夫の年表   「どるふぃん」と並べて行けば 当時の状況がよくわかると思う。  後藤道夫の年表を彼が死ぬ前、ニッポン潜水グラフィティを書くときにコピーでもらっている。僕がせめて、このくらいの表を自分で作っていれば、本当に良かったのに、作っていない。僕は時々狂ったように多量のニッキを書くが、日記を書いている時期と書いていない時期が斑になっている。後藤年表のように、一ヶ月に一こまでいいから書いておけば助かったのに。 僕は決して長生きなどしない。40代で死ぬという刹那的な考えを持って、その日その日を生きていたから、あとでこんなことを書くために、備忘を残すなんて考えもしなかった。  後藤年表は1955年から1975年まで、ただし、73。74。75は半ぺら、コピー忘れ?6ー12月分しかない。まあ、資料というのはそんなものだ。 プライベートな部分を抜かして、ここに時系列で整理して、自分にかかわる部分はエピソードとして書いておく。 ダイビングの歴史16に示した1956までの部分は抜いて、1957年昭和29年 から  1957   4月 自製スノーケル マスク完成  前にも書いたが彼はものを作ることにある種の天才だった。  このとき作ったマスクは後に商品化されて、1960年代前半、僕らの仲間はみんなこれを使った。今一個も残っていない。一眼で、ガラスは日本人でも鼻の高い人は、押しつけられてしまうほど、眼に近く視界を広くしており、二眼の真ん中に柱がないのでうっとうしくない。シングルリップだが水は入らない。入ってもすぐに出せる。 みんなでこんな競争をしたことがある。水中でマスクを外して着けてクリアする時間を競う。みんな1秒台でできた。 先日、ダイブウエイズに行ったとき話した。最近のマスクは確かにピッタリと慎重に着ければ水は一滴もはいらない。しかし、講習などでマスククリアーをやると水が一息ではでない。また、水中で外していい加減に着けると水がジャブジャブ入ってくる。水がでやすいマスクを作れと。  7月 房総方面 8月ー9月 毎週末真鶴で潜水 10月 日本ダイビング協会 海洋中級講習会 於真鶴 助手       
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 12月 第一回 水中クリスマスパーティ 琴ヶ浜   ほぼ、寒中水泳?   
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 1958  1月ベンツ300を買う 車道楽なのだ。 4月ー5月 体調バランス不良 胃腸病発生 6月 真鶴移住  7月 真鶴ダイビングセンター創立 以後、赤字採算時代 12月 第二回 水中クリスマスパーテイ 琴ヶ浜 1959 3月 (株)後藤アクアティックス誕生 4月 NHK 全国水中カメラマン合同研修会 40名   この時から、今日まで続くNHKとのつながり 6月 米軍基地よりGI多数ダイビングにくる。   基地からの横流し フライトジャケットなどの窓口になる。 7月ー9月 日本映画新社 沖エラブロケ エラブの海 9月 ウエットスーツ時代来る。 10月 須賀次郎 東亞潜水機入社 忘れずに書いておいてくれている 12月 第三回 水中クリスマスパーティ  琴ヶ浜
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ウエットスーツのはじまり? 後藤道夫は、1959年の9月にウエットスーツ時代来る。と書いている。須賀は10月に東亞潜水機に入社してウエットスーツを貼っているのを見ている。ただ、その生地は独立気泡ではあるものの、黒ではなく薄ネズミ色だった。 ウエットスーツ工業界の年表では、1960年から、スーツの試作が始まったと書いている。半年、一年のずれがある。

ダイビングの歴史19 どるふぃん 1959

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1959  館石昭 映画「海は生きている」波照間の海からど
       るふぃん 2-4 1959  7月から

1959 4月 どるふぃん 2-3
 魚のアパートを調べる 宇野寛  1958年、僕が九死に一生の潜水をおこなった調査であるが、僕の失敗などは書いていない。こんな写真を撮るのに命をかけた。
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 伊豆大島の海 倉田洋二 三村哲夫  潜水器のいろいろ  佐藤賢俊 旭潜水研究所の佐藤さんが、自ら研究された、今一歩のレギュレーターなどを発表 
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 冬の真鶴潜水雑記  後藤道夫 真鶴にダイビングセンターを作った後藤道夫が書いている。水中クリスマスなど。もうウエットスーツを着ているような表現 「ドルフィン族にはシーズンオフはない と言われていますが,10月を過ぎるとさすがに潜る人も少なくなります。 ここ真鶴では,常連の外人たちが週末に潜りに訪れる外、時たま我等同胞が姿を見せる程度です。潜りに来る人は,皆一様にドライスーツ、ウエットスーツを用意しており、、たまたま、冬でも裸で潜れるということを証明してくれる人もあります。」  僕がコンスタントヴォリューム:ドライスーツで 死にかけたのは、大学4年の1958年秋であり、1959年に卒業して浪人し、秋に東亜潜水機に入社したときには、もう独立気泡のウエットスーツをどんどん 作っていた。 このドルフィンの2-3が59年の4月号だから、58年のクリスマスには、なにかウエットスーツがあったことになる。 ウエットスーツ工業会の発表するウエットスーツの歴史とどうしても合わない。   とにかく、このあと、ウエットスーツは普及して後藤アクアティックは、まず、ウエットスーツメーカーとして仕事を拡張させていく。 後にサンコーというウエットスーツメーカーの大手となる佐藤光三さんが、後藤アクアのナンバー2になる。佐藤さんは、1955年に葉山の磯で僕が後藤道夫に出会ったときにも一緒にいた。  後藤道夫は、もの作りの天才であり、当時、彼の作ったウエットスーツの型紙が、いちばん生地のロスが少なく、なおかつ、身体にフィットした。  どるふぃん 2-4 1959  7月  水中写真 A からZ 竹村嘉夫  僕の水中撮影の師の一人 後に自然写真家協会をつくる。 僕も理事にしてもらったが、ほとんど出席しないでいたら首になった。  ドイツのアクアラングと酸素潜水器 梨本一郎 ドイツには有名なドレーガーという呼吸器のメーカーがあり、純酸素リブリーザは、各所で使われた。  
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「スキュバ・ダイビングの技術 (Ⅰ) 猪野峻 菅原久一   要を得た優れた解説で講義のテキストとして使用できた。  その一節、遊泳能力の重要性について、 「アメリカ、カリフォルニア大学のスクリップス海洋研究所では、次のような遊泳能力を持つことを、SCUBA潜水者の資格として、第一に要求している。 1 鰭なしで1000フィート遊泳 2 磯波の中での遊泳 3 75フィート鰭なしで、顔を水面に出さずに潜泳 4 18フィート水深に潜水 5 10フィート潜ってダイバーの救助 6 75フィート遊泳者を表面曳行 7 人工呼吸 」  スクリップスのルールは アメリカ研究者のための ダイビング組織AAUS に継承されている。  The American Academy of Underwater Sciences (AAUS )  Standards for Scientific Diving  AAUSでは、 泳力評価 受講者は、試験官の監視のもと、次のテストに合格する事。 a) フィン・マスク・スノーケルなどを着けずに、25ヤードを潜行できること。 b) フィン・マスク・スノーケルを着けずに400ヤードを12分以内に泳げる事 c tread (立ち泳ぎ)フィン・マスク・スノーケルを着けずに、10分間、もしくは手を使わないで2分間、立ち泳ぎできる事。 d) フィン・マスク・スノーケルを着けずに、自分と同じ大きさの人を25ヤード曳航できること。  としている。  なお随想のような記事を大崎映晋 氏が毎号のように書かれている。  トピックス  会員名簿が発表された。379人 僕は会員番号80 後藤道夫は74    どるふぃん 3ー1。2 1959 12月  水中撮影法 竹村嘉夫  水中紀行 アクアクの島の珊瑚礁 白井祥平  「スキュバ・ダイビングの技術 (Ⅱ) 猪野峻 菅原久一  機材の説明でドライスーツと独立気泡のウエットスーツの比較説明をしている。ウエットスーツは一般的なものとなっている。この1959年秋には、もう、確実に独立気泡のウエットスーツが実用化されている。 そのころ、ビニール製の黒い人形「ダッコちゃん」が流行した。黒いウエットスーツも海女さんたちにダッコちゃんと呼ばれて人気を博したが、寒くないとアワビを穫りすぎると制限も加えられた。 この 「スキュバ・ダイビングの技術  猪野峻 菅原久一  は、要をえた簡潔名表現でスキュバ・ダイビングのすべてを伝えており、テキストとしてそのまま使用できるようなものだった。 「安全潜水の原則 ある環境で人が身の安全を保つためには、特定の生理的バランスが維持されなければならない。それは正常と環境から遠ざかれば遠ざかるほど維持は難しく危険が多くなる。つまり、安全を維持するに必要な要素の数が多くなる。その要素の基本的な者はおよそ次のようなものと考えられる。 ①ダイビングという運動と釣合のとれた物理的な体力と能力 ②酸素供給 ③圧力のバランス ④身体の保全 ⑤練習以上の各項目について説明している。  中級講習会 4日間 千葉県小湊の水産大学実験場で行われている。

1982 東京無人島紀行

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 大学一年の潮美 プールは新宿のDOスポーツです。

NHKのソウフ岩みました。はっきり言って無理なつくりです。なぜ、いるわけもないシーラカンスにこだわらなければいけないのだ。ソウフ岩だけで十分に番組がつくれるのに、と。でも赤間君が出てきてなつかしかった。赤間君と,ソウフ岩をバックにツーショットを撮った写真があったと探したのですが みつからない。検索したら,古いブログが出てきたので、

 この文章は、1982年、娘の潮美が法政大学の一年生、ダイビングクラブに入った時、娘への手紙の形で、ダイビングのことを書き、やがて出版しようとして書いたものだ。その後、娘はニュースステーションの水中レポーターで有名になったから、出版できないこともなかったのだが、娘の同級生が事故で亡くなってしまったためにつつしんでしまった。
 好きな文章だったから、どこかで人目に触れさせたいと思っていた。

 富士マリアナ火山列島の八丈島と小笠原の中間点たりにある鳥島の入り江に船を止めて、うねりに身体を揺られながら書いています。私は船に酔う人です。そのことを人が聞くと、「ええっ!」と驚くのですが本当です。船に酔わない人にとって、海の仕事は船遊びですが、船に酔う人にとっては、難行苦行です。それに耐えて海に出るのですから本当に海が好きなのです。(その後、潮美がニュースステーションなど海の仕事をすることになり、船酔いは遺伝することがわかった。)今度の航海では、(広島大学の練習船、豊潮丸に乗っていた時に書いた)毎日朝起きると酔い止めの薬を一錠ずつ飲んで、過ごして来ました。薬なんてスパシーポ効果(暗示効果)があるだけだと、どこかのテレビ番組で実験をやっていましたが、私にとっては、確かに効果はあります。  
 しかし、今回の船の旅も日を重ねるうちに錠剤も飲まなくて大丈夫になり、うねりに揺られながらものを書けるところまでに慣れました。やはり、船酔いは慣れで、克服できます。神経が過敏なだけなのですね。
 鳥島はアホウドリの繁殖地として保護が行われている島です。アホウドリは英語ではアルバトロスですが、アルバトロスと言うと、雄大な翼を拡げて大洋を遠く旅する海の王者の姿が思い浮かびます。アルバトロスは、長い翼で滑空する鳥ですから、着陸してしまうと長い翼を引きずって歩かなければならないのでよちよち歩きです。飛び立つ時は長い滑走距離が必要です。海から飛び立つのならば長い滑走距離が取れるのですが、陸からの離陸は崖から飛び降りなければ飛び立てません。だから絶海の孤島で繁殖していたのですが、人に見つけられたのが最後で、飛べないでよちより逃げるだけですから、いいように撲殺されて、羽根布団の材料にされてしまいました。ほとんど逃げずに殺されたので、アホウな鳥と呼ばれたと聞きます。明治時代から撲殺が繰り返され、絶滅に瀕してしまいましたので、今は、保護に大わらわです。ここから、アホウドリの飛び立つ崖が見えます。営巣のために卵が崖から転げ落ちないように植え付けた草も見えるのですが、許可なく上陸して近づくことはできません。
 私の乗っている船は、第五稲荷丸、19.99トン、つまり20トン未満のトビウオ漁の漁船です。この船で八丈島を出発し、目指すのは絶海の孤島、孀婦岩(ソウフ岩)です。孀婦岩は、孤島というよりももっと小さくて、海の真ん中に鉛筆を立てたような岩です。八丈島の潜水漁師であり、古い仲間でもある赤間君が、この孀婦岩に大きなイソマグロを突きに行くドキュメンタリーの撮影に出かけて来ています。
 小さい船で、沖合遥かに出かけるにはこの季節、梅雨が終わりかけて、まだ本格的な夏が始まらない時期が良いとされています。「まるで盥の中のように静かだよ。」と聞かされてでてきたのですが、今年は梅雨が終わらないうちにフィリッピンで台風が発生して、孀婦岩まで行かれるかどうか、危ない状況です。
 夏かぜをひいてしまい、八丈島をでるときは、8度の熱がありました。夜8時の出港で、港をでると同時に雨がしとしとと降り始めました。一応寝る所はあるのですが、小さい船で、船員の寝るスペースは、船室の床とエンジンルームの間の空間です。その空間ではディーゼルの匂いと魚の匂いがカクテル状態になっていて、すぐに気分が悪くなります。私が最初に身を入れた寝た場所は、エンジンのすぐ上で、天井と床の距離が40センチほどです。漁船の乗組員が沈没して助からないのは、こんな隙間で眠っているからでしょう。 エンジンが廻り始めると、その振動がそのまま身体に響きます。耳の中で平衡感覚を司っている石が踊り始めるようで、耳の奥がむずかゆくなり、そのうちに気が狂ったようになります。たまらずに、甲板に出て、寝袋に入り、その上から青いビニールシートをかけてもらって眠ることにしました。そのシートの上から、雨と波の飛沫が降り注ぎます。
 「盥の中のように静かな海」といったのは誰だ!盥の中に、笹の葉で作った舟をうかべて、手を入れてかき回しているような海でした。それでも、スミス、ベヨネーズ列岩と潜水し、撮影して船をすすめ、鳥島までやってきました。この鳥島で船は先に進まなくなりました。フィリッピンにいる台風のためです。プロデューサーの大橋さん、ディレクターの山崎さんは、天候の心配で落ちつきません。台風が頭をもたげて北上するようであれば、すぐに全速力で八丈島に逃げ帰らなければなりません。台風が追いついてくると、電信柱よりも高い、20メートルほどの波が頭の上から落ちてくるのだそうです。ただただ、念仏を唱えて、泣きながら走るより他はないと船長は言います。船長は丸い身体の愉快な人で1キロ先から見ても漁師だとわかります。機関長は細長い体であごひげを生やしたファンキーなジャズフアンで船長と喧嘩ばかりしています。ついさきほども、「おまいなんか出て行け」と船長が怒鳴ると、「こんなぼろ船にいるものか出ていってやる」と機関長が怒鳴り返していました。この海の上で、何処に出て行くと言うのでしょうか。港に帰ったら出て行くための、予約の喧嘩をしているのでしょうが、この二人だけがたよりの私達としては二人の仲はとても心配です。が、赤間さんに言わせれば、いつものことで、全然心配はないそうです。
※この機関長は、僕が船に持っていったジャズピアノの山本剛のテープ聞いて感動し、
その後、山本剛を八丈島に呼ぶイベントをやった。おかしな人だ。
 昨日、この鳥島で停滞しているうちに、いろいろと撮っておこうと、赤間さんが、30メートルまで素潜りで潜ってくるシーンを撮影しました。30メートル下でカメラを構えて水面を見上げると、遠く彼方に水面があります。赤間さんは水面から潜り込んできて、私のカメラの前で、反転して、上って行きました。

何とかソウフ岩まで行ったのですが、波の中を飛び込み,赤間君が鮫の群れの中を泳ぐシーンをとり、反転して八丈に逃げ帰ってきました。鮫が好評で視聴率はよかったです。
ああ、そうだ、このとき一緒に行ったアシスタントは鶴町で、2カメで、僕が撮影しているところを鶴町が撮る設定でした。



ダイビングの歴史 20 ドルフィン1960

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         左 梨本一郎先生 右側 菅原久一さん真鶴での中級講習会

ダイビングの歴史 20 後藤道夫 年表
 1960 昭和35年
 3月から ニコンF ハッセルブラッド ローライ 改良新規開発作業開始
 4月  ボルボ 車道楽 

 6月  チリ津波 伊勢真珠イカダ救助 和歌山ロケ、
 イカダが壊れて真珠母貝が海底に落ちた。早く引き上げないといけない。鶴耀一郎などが行き素潜りで拾ったというが、まだ、鶴耀一郎は社員になっていない。アルバイト?

 7月  相模湾漁協グループ潜水訓練スタート 8月  水死体引き上げ 箱根(中学生)
 11月 水死体引き上げ 箱根(女性)
  なぜか箱根芦ノ湖だろう、遺体引き上げが専門化している。 

 1961 昭和36年
 1月  神経症再発入院 後藤は天才肌だが、危なっかしい。かなり頭がおかしくなるときが会った?僕にはその様子は見せなかったが。かなり苦しかったのだろう。
 5月  東京へ移転 このあたり、おかしい。
  東京と二重生活をしていたのだろうか。
     真鶴にも家はあった。
  とにかく タイトロープ生活だった。 6月  潜水事故 漁協組合員 8月  潜水事故 文春社員
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 たしかこの年だったと思う。東亞潜水機の社長から 買掛金の回収に行くように言われた。ウエットスーツの生地、東亞潜水機が卸す。供給していたのだ。その支払いがたまっている。後藤道夫はボルボに乗っているが僕はマツダのオート三輪で行く。まだ、東名もなく、第二京浜を下り、東海道を下り、真鶴も旧道で、朝早くでて12時昼頃に着いた。昼飯の時間で、鶴耀一郎をはじめ、五島、志村兄弟ら若い衆と一緒に食事した。
 僕の魚の食べ方が下手。はらわたの部分を残したりして、鶴耀一郎にしかられる。魚を食べる資格がない。
 結局アジの干物をみやげにもらい。お金は必ず払うということで帰ってきた。
   
 1962 昭和37年 
 4月 スキンダイビング用写真撮影 八丈島ロケ 20日間 5月 伊豆仲木写真撮影 7月 全国NHKカメラマン 潜水講習 9月 カリプソ試写
 カリプソはジャック・イブ・クストーが作った。正しくはクストーらのグループが作ったのだが、とにかく作ったプロデューサーは、ジャック・イブ・クストーだ。このパテントを日本工学が買って、ニコノスに変身するわけだが、このカメラは水中カメラ史上最初にして最高のカメラだった。一般用のカメラをハウジングに入れるのではなくて、水中カメラなのだ。今のNikonAW1300がその努力をしているが、ニコノスのように水中撮影世界を席巻してはいない。
 そのカリプソを日本光学のグループと一緒にテストした。 1962年当時、ボンベを車に積まないで、電車に乗って潜りに行かれるところは、真鶴と千葉県小湊だが、小湊は東京水産大学の施設だから、誰でも使えるわけではない。となれば、真鶴の後藤のところしかない。
伊豆海洋公園ができるのは、1964年で、海洋公園の中心である益田一も真鶴でダイビングを始めている。となると、すべてのダイバーは真鶴へとなるわけだが、それでもなかなか経営が難しかったのは、後藤道夫も僕と同じ、自分が海に潜ることを何よりも優先してしまう。それも、日本全国、世界の海を視界にいれてしまう。社長が潜りにいって居なくなってしまうのだ。しかし、海に入らないと神経症になってしまう。 ともあれ、日本光学のダイビンググループは、真鶴で後藤道夫とともに潜水して、カリプソから、ニコノスへと歩みを進めて行く。
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 11月 後藤欽一 潜水事故 後藤欽一は、冒険児でいい男だった。と思うのはこの事故のあとだ。
 お金持ちの道楽息子だったのか、それとも、辣腕のビジネスマンだったのか、たぶん、その中間だったのだろう。有楽町駅前(東京の中心で、「有楽町で会いましょう」というくらいの)の日活ビルの一階に事務所を構え、通りに面したウインドにはローライマリンを飾った。(東京ダイビングセンター)
 そして、「水中で危険な仕事何でも引き受けます」という趣旨のパンフレットを作って、ジープに乗って、挨拶して廻った。南千住の東亞潜水機にも来た。自分に輪をかけたようなバカか。
 その後藤欽一が激烈な減圧症にかかってしまう。知的な、どちらかと言えば文学的?な男だったから、無知でなったのではない。無茶でかかったのだろう。
 後藤道夫とは、苗字は同じでも親戚でもなんでもない。真鶴からダイビングを始めたのだろう。
 今のように各地に再圧タンクがあったわけではない。医科歯科大学にも人間の入る設備はない。潜函工事の潜函に入れるのだ。晴海の白石基礎の潜函にいれる。後藤道夫は、その付き添い、世話をする。
 植松直君という、大島水産高校伝説の子がいる。大島水産高校は、水産高校潜水教育の嚆矢である。その潜水教育の始まりのころ、カルデラの小噴火口である波浮の港の中心に、多分30mぐらい、石を抱えて沈んで海底の小石をつかんであがってきた高校生だ。植松君が後藤欽一の右腕になる。そして港湾工事、ケーソンの据え付けの誘導でクレーンオペレーターのミスで、ケーソンの下敷きになり亡くなってしまう。(1963年)
 後藤欽一は、挨拶に来た。「もうやめます」その後彼の姿をみていない。
 「グランブルー」という映画をたいていのダイバーが見たとおもう。このごろでは「グランブル」というマンガがあったりする。受け取り方は人それぞれだが、グランブルーは、破滅的な男たちの物語だ。


1001 ダイビングの歴史 21 どるふぃん

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写真はどるふぃん 3ー1・2 1969より、毎日新聞、谷田貝高幸 手にしているのはローライマリン ダイビングの歴史 21 どるふぃん 今、後藤道夫の年表とどるふぃん、二本レールで走っている。自分なりにおもしろい。70年ぐらいまで、これで行きたい。  こんなことに細かくこだわっても、何になるのだろうと言われるかもしれない。しかし、整理してみるとこのあたりに後の出来事の根、ルーツがあることが、見えて、そうだったのだと腑に落ちることがある。そのひとつとして、いま小史で書いている高気圧障害防止規則の歴史がある。 また、自分の記憶の間違いもある。

 どるふぃん 3ー3 1960 3月
 スペア・フィッシング 菅原久一 なんとかして魚突きをやりたい記である。
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          写真 館石さんの撮影フォーム
 私の水中撮影記  舘石昭 日本初の長編海底記録映画 「海は生きている」岩波映画の撮影記を中心にいくつかの劇映画でも水中撮影が取り入れられその撮影記である。   新製品紹介 神田献二
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 アクリルの角型のカメラケース  理研水中カメラが新型になった 水中時計けーす 水柱で水深を計る水深計が時計ケースの蓋になっている。 スキューバ傷害保険  トピックス 第一回の水中写真講習会 講師は佐々木忠義 理研の渡辺精一 読売映画の深津一郎 であるが受講生の方に 竹村嘉夫 舘石昭 木村貞三 大崎映晋 などすでに作品を作っていたり、記事を書いている人たちが並んでいて、その中に後輩の笹原捷夫がいる。潜水部の3期下になり、後に土肥のブリジストンの初代所長をつとめる。  どるふぃん 3-4 1959 時系列が逆になっている。ミスプリントと考えれば1960年 5月  太平洋潜り歩き 宇野寛 海鷹丸でガラパゴスまで行った話。
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 潜水探測機 くろしおについて 北海道大学所有 日本鋼管が作った。母船から有線で電力をもらって推進器を回す 4名が乗り,24時間潜水していられる。潜水深度最大 200m  Hさんの死 猪野峻 どるふぃん初めての事故報告 会社社長 潜水科学協会のメンバー 葉山海岸で、袋にいっぱいのイワガキを獲って身体にくくりつけていた。一人になって死亡。死因は正確にはわからないが、当時はBC.もなかったから、身体の重みで救助ができなかった。この時代らしい事故である。  1960 昭和35年 
 「どるふぃん」4ー1 (1960 9月)  紀伊水中遠征紀行  白井祥平 毎号原稿を出している。  網代定置漁場に於けるスキューバ講習とその利用  稲葉繁雄 稲葉さんは伊東の水産試験場の技師で、三浦定之介の弟子である。 静岡伊東方面の潜水は稲葉さんの縄張りになっている。 この講習は、東海区水産研究所の吉牟田さん、三次さんであった。  昭和35年度役員 役員の構成を見れば会の性格がわかる。 会長 猪野峻 (東海区水研) 副会長 海老名謙一 (東京水産大学)魚類学の教授  僕は大学一年の水泳実習で 海老名先生がラングを着けて泳ぐのを見て、これだと思った。頭のはげた、ヒョコヒョコした先生で、とても良い先生。 副会長 佐藤賢俊 (旭潜研) 常務 岡茂雄 (医師)    吉牟田長生(東海区) 監事 永淵正鼓 (太平洋炭坑) 理事 荒井英雄 (毎日新聞) 62年の僕の100m潜水でお世話になった。    日下実男 (朝日新聞)    富雄信一郎(読売新聞)    林  巌  (お茶の水女子大)    梨本一郎 (東京医科歯科大学)    乾 康子  東大の造船工学の教授の奥さんで水泳の達人    菅原久一  (潜水研究所)       「どるふぃん」 4ー2・3 1961年 1月 三宅島の海  倉田洋二 三村哲夫 三宅島のほとんどの地区を潜っている報告 坪田に潜水病治療センターがあり立派な再圧タンクがある。
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 潜水病患者160名が利用していると書かれているが、僕が三宅島に通うような時代には消失している。今もない。必要なかった? マスク式潜水でテングサを海女さんが採っている。 このあと、潜水士の制度ができるが、女性は潜水士にはなれない。 どうするのだろう。
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          マスクは金王式(きんおう)
  いくつかの寄稿文が掲載されている、

 「どるふぃん」 4ー4 (1961 3月) ダイビング座談会 スピアフィッシング 漁民との摩擦が現れ始めている。 規則で禁止されているが、入漁料をとったらどうかとかピントのはずれた議論、 真鶴で石を投げられた。 海老名先生が質問されて、法律のことはぜんぜんわかりませんとこたえていたり、 菅原さんはギブアンドテイクならばいいとか 牧歌的な時代が終わろうとしている座談会だ。  水中写真 出席者は、猪野先生、岡医師 竹村嘉夫、舘石昭 大崎映晋 木村貞三 グローブマリンというビニールの風船のようなハウジングの話題  水中写真(映画)グループの集まり  自作の8mmや16mmの作品を発表  潜水艦救難鑑 「千早」の見学 1959年建造だからまだ新鋭  「どるふぃん」5ー1 (1961 9月) あるスキューバ・ダイバーの遍歴 田辺英蔵 次の時代のどるふぃんを仕切ることになる田辺さんの登場だ。後楽園の御曹司で、熱海後楽園ホテルの社長になる。 稲村サルベージの10トンのぼろ船で大島に行く話。 稲村サルベージは、後に三国屋サルベージになる。稲村律平さんは快男児だった。  この期 講習会は初級が14回から18回 中級が7回8回を真鶴で、会員数も650名へ 協会が一つのピーク(650名でピークだから、ひとつのクラブなみの時代)に達しようとしていた。幸せな時代だったと思う。 僕は、と言えば、学生会員第一号 東京水産大学のエースだった。協会では 三越屋上にも出演して、プリンスのつもりだった。ところが、入社した東亞潜水機が菅原久一さんが人間関係で辞めたところ、社長は潜水科学協会にでるのは、あまり良い顔はしなかった。自然、足が遠のいていた。

「どるふぃん」5ー2 (1961 12月) 三浦定之介先生を偲んで 稲葉繁雄 昭和36年 1961 8月18日 74歳で没 山下弥三左衛門先輩は親しくしてもらったが、(東亞潜水機で本のスポンサーになった)三浦定之介先輩は、これも水産講習所の大先輩、山本式マスク式潜水のリーダー、場長をつとめられた伊東水産試験場が潜水講習のメッカになったが、晩年、潜水病を2回も罹患されたこともあって、出てこられることもなく、お目にかかることができなかった。 稲葉さんは一の弟子で、その思いで話を語っている。 
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 三浦定之介先輩 手に持っているのは山本式マスク、大串式の進化型と思えばいい。 このマスクで、定置網の潜水をして減圧症に罹患している。そのために晩年は引きこもっておられたので、お目にかかれなかった。  高気圧障害防止規則についてそのほぼ全文がそして別表第二(減圧表)が掲載されている。  高気圧作業安全衛生規則受講記 安東宏喬氏が書いている。 発足時の高気圧障害防止規則のことを知る重要な資料である。
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 珊瑚礁の海を追って、 白井祥平先輩が琉球八重山調査行を掲載している。アメリカ統治下の沖縄八重山の様子である。写真はビニール袋にレンズ部分をつけた オリンパスマリン 浅いところならば結構よく撮れた。  この号から川崎航空機の広告が日本アクアラングに代わった。川崎航空は日本アクアラングに出資する形でスクーバ業務から撤退した。 オレンジ色のアルミタンクが川崎である。  東亞潜水機の前社長の野平さんもなくなった。僕は野平さんの後に東亞潜水機に入社したので、ちらっとご挨拶しただけだった。

 「どるふぃん」5ー3・4 (1962 4月) 冬に潜る と言う座談会 出席者が 猪野峻先生 伊東ヒデ子(太っためがねのおばさん)カーンさん 田辺英蔵 工藤昌男 田辺さん宅で座談会をしている。どるふぃん衣替えの前哨だった。 僕は蚊帳の外にいて、着々と、デマンドナルギールのフルフェースマスク100m実験潜水の準備を進めている。

1004 ダイビングの歴史22 後藤メモ

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ダイビングの歴史 22 後藤道夫メモ 1963年 昭和38年
 6月 ニコノス発売
    
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 7月 週刊朝日取材
 8月 鶴耀一郎入社
 12月 五島正哲入社
 鶴耀一郎と後に後藤アクアの中心になる五島はこれまで、アルバイトだったのだ。
   
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アルバイトというか,若い衆時代、ギャングエージ 右が鶴 左が五島
 1964年 昭和39年
 1月~5  大型カメラ製作テスト
 7月8月 沖縄石垣島 木村禎造氏とともに
 ローライとニコノス使用

 9月鶴耀一郎 五島潜水士免許

 12月 佐藤光三 退社 
  サンコーというウエットスーツ製作会社を作って成功する。 故人

 1965年 昭和40年 
 1ー2月 パラオ島ロケ 
 4:5月 沖縄石垣島ロケ 松下電器映画「海」撮影 40日

 6月 自社製フリッパー開発
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  チャンピオンの進化型でチャンピオンと同様に誰でも足の大きさにかかわらず履ける。
  チャンピオンよりも推進力があり、仲間うちでは評判が良く,みんな使った。
  現物があったので、プールでつかってみたが,重くて、そしてまるで進まない。
 フィンの進化を痛感した。

 7月 鶴耀一郎 タヒチへ ブルーオリンピックに出場 

 10月11月 自社製スノーケル マスク開発
  僕が使っていたマスクはこの時に作られたものだった。
  前にこのマスクのことを書いたが,そのときは試作でここで本格的に製造をはじめた。
  これは、今でもほしいと思うマスクで、多く売れた。ゴムの型は高価なので、一個しか作らなかった。後に鬼怒川のアドバイザー担ったときこのマスクも移籍を考えたが,型が摩耗してしまって使えなかった。同じ型をもう一度作ろうとしたが、むしろ新しいマスクを作ろう、と、そしてマンティスが出来た。マンティスは世界を席巻したが、それはそれとして、このマスクも残しておけば良かったのではと思う。復刻を考えたのだが,がない。
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 1966年 昭和41年 
 7月8月 与論 奄美潜水旅行
  
 1967年 昭和42年
 1月 水中ストロボ発売開始 トスマリーンは、最初の量産型ストロボで、東芝が販売した。
それまで ニコノスの人工光は、フラッシュバルブを使用していた。ブルーのバルブである。バルブ一個はコカコーラ一瓶に相当した。36カット撮影すれば,コーラを36本飲んだことになる。

  この部分、ここに後3枚写真が入る。

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    ニコノス、フラッシュガン

 6月 ベンツ190 車道楽

 7月 朝日カメラ誌 表紙写真 スミツキトノサマダイ

 8月 鶴耀一郎 キューバ遠征 ブルーオリンピック この時好成績をおさめて世界的な魚突きダイバーになる。普通このようなコンンテストは、地元が圧倒的に有利だが、3位だかに入賞した。
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 10月ー11月 南極観測隊潜水訓練

 12月 日本潜水会 発足

 これが日本国籍のダイビング位指導すべての始まりだった。一週間の合宿で午前はレポート提出と討論形式の講座、午後プール実技の体験と決定。海でのダイビング、夜は,今後の日本のダイビングについての討論会
 特筆することは、その喧々がくがくの議論で「スピアフィッシングをやめる」決議をした。日本の漁業調整規則で、マスクを着けて,魚を突いてはいけないと決めているのに,ダイバーは、釣り師が魚を釣るのと同じように、魚を突いて良いのではないかなどと議論することがおかしい。魚を突こうというのならば、つりと同じように、そのことの社会的なコンセンサスを得た上で規則を改正しなければならない。「銃をカメラに持ち替えよう」伊豆海洋公園の食堂の壁には、日本潜水会メンバー全員が一枚ずつ写真を掲げよう。
 以後、ここに魚突きの写真が載ることはない。

 鶴耀一郎は、父親の故郷である奄美大島にもどり、魚突き漁師になった。漁師は潜水漁の許可を取れば、魚突きができるのだ。 後藤道夫メモは 1980年まで続くが「どるふぃん」とのバランスで、しばらく、「どるふぃん」中心になる。 

1006 ダイビングの歴史 23

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新装どるふぃん


ダイビングの歴史 23
 どるふぃん 6ー1 1962 夏号

 この号からどるふぃんが一変した。版も大きくなり表紙も毎号 写真になった。内容も多くなり、ここで紹介しきれない。自分の感覚で、時代の移り変わり、そして、特に重要な事項のみの紹介とする。
 
 役員も一変したので紹介する。前号のように役員の現職は記されていないので、全員の現職を記せない。 会長 猪野峻 (東海区水研)
 副会長 海老名謙一 (東京水産大学)魚類学の教授
     佐藤賢俊 (旭潜研)
 常務理事 山中鷹之助 (日本アクアラング東京支所長)
        ※大塚の日本アクアラングが事務局になった。
      菅原久一  (潜水研究所)    
 監事(理事)神田献二(東京水産大学) 永淵正鼓 (太平洋炭坑)
 理事 宇野寛 (東京水産大学)
    吉牟田長生(東海区水産研究所)
    安東宏喬 (日本赤十字指導員 印刷屋さん?)
    伊東ヒデ子(太ったおばさん、親切で良い人)
    伊東栽子(どこかの水泳倶楽部の指導者)
    乾 康子  東大の造船工学の教授の奥さんで水泳の達人
    田辺英蔵 (後楽園)
    池貝庄人
    工藤昌男(ライター 科学評論家)
    L・E カーン
    岡茂雄
    曽根徹
    梨本一郎 (東京医科歯科大学)    
    荒井英雄 (毎日新聞) 63年の僕の100m潜水でお世話に    なった。 読売の富雄さんは、脱落
 当時は、これら役員の人たちが日本のダイビング界を代表しているわけで重要な人事である。
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 ☆ 「アクアラング潜水お断り!」
 ついに真鶴に アクアラング潜水禁止の立て札が立つようになった。
 「漁民の人たちの怒りはどこにあるのか、私たちのあやまりはどこにあるのか、また解決のいとぐちは?」
 出席者は 漁業組合 漁民並びに海女のみなさん十数名
 官庁側  国分善一 神奈川県水産指導所長
      平井政治
 業者側  後藤道夫 佐藤光三 (真鶴ダイビングセンター)
 協会側  猪野会長 伊東ひで子理事 田辺理事 漁師の視点
 解決策としては、入漁料をもらう?
 始末におえない外人ダイバー
 意外な犯人鉄道員 鉄道員は全国鉄道が無料 鉄道の保守で土地勘がある。体が屈強 スピアフィッシングダイバーの言い分
 漁師とスピアフィッシングダイバーはイーブンだという論を田辺さんが展開している。釣りはいいのに、突きはいけないというのはなっとくできない。
 
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 ☆漁業とアクアラング 
 定置網漁場の潜水士  宮田智 小田原試験場
 障害を乗り越えて   西島実 網代漁協
 定置網へのアクアラング利用  網代漁協青年部
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 ☆われらどるふぃん族 いくらかかるか 
 田辺さんと奥さんの写真
 レギュレーター 12500(東亞) 28800(日本アクア)

 ☆島の海 と題して倉田洋二氏が連載をはじめた。
 この号は老潜水夫の潜水病の話、丹所春太郎のふかし療法発見のことなど

 ☆やさしい水中映画の撮りかた 田辺英蔵
 アクリルハウジングの紹介 
 10mm厚のアクリル板を貼り合わせて作るハウジングが主力で、中には8mmシネカメラをいれる。深く潜るとバラバラに壊れる。
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 ☆シネラマミラクル 太平洋二万マイルが公開されこの評を舘石昭がかいている。

 ☆海底牧場: アーサー・クラーク の書評
  「どるふぃん」の書評は    で、知らない人  これは、僕のの書評だが、今も愛読書の一つで、2018年現在、世は鯨問題で揺れている。このSF 鯨の放牧を、イルカを牧羊犬のように家畜化する。しかし、それも反対運動が起こり、オキアミを蛋白源にしていくと言う発想を未来に描いたクラークは、セイロンに住み、ダイバーでもあった。これは、この時代にこの本がでた。これを見て感動し、SF 作家になって、水中を書きたいと思った。

 ☆ショッピングガイド 後藤道夫の店紹介。
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 協会便り
 ☆ 協会の支部制度が発足し
 従来の講習活動が関東支部に、そして、7月14日(1962)新たに関西支部ができることになった。 

 ☆協会が潜水士講習及び試験をおこなう。 8月20、21、22の三日間 指定講習である。これに、鶴耀一郎や五島正哲がでた。

1007 ダイビングの歴史 24 どるふぃん

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ダイビングの歴史 24

「どるふぃん」 6・2 1962 秋  それにしても、この写真は何だ? どるふぃんの表紙は何だ?というのが普通 
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  ☆ そのころの安全則 バディブリージングが必須の技術、バディシステムも必至

  ☆スキューバ潜水の安全管理についての一考察 菅原久一


☆真鶴近海の事故の実例から 後藤道夫
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  ☆ショッピングガイド 太平潜水
 池田和一郎さん 講堂館の斜め前で、ウナギの寝床のような間口が狭く奥深い店、その後湯島に移る。
太平アクアラング倶楽部は千葉の金谷をホームにしていた。


  ☆マルコポーロの南方見聞記
 田辺栄蔵さん工藤昌男さんのグループ
はっきり言って、そのころ、田辺さん、工藤さん、安東さんは、別の族に所属していた感じ、彼らは、自称どるフィン族で僕疎外感をいつも持っている。
 別に仲違いはしていない。族がちがうだけ。
 式根島のことを書いていて、田辺さんの絵がとても良い。
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  ☆漁民とダイバー問題拡大す!
 神奈川県庁主催で会議が開かれ 満員になる。
 真鶴町長はアクアラング禁止を
 協会がアクアラング側の窓口になる。
 神奈川県が間にたって、規則の改定も示唆しているような発言で気をもたせている。


  ☆足鰭 そのころのフィンは、ダックフィート、パシフィック型、アクアラング型、そしてチャンピオン
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 伊藤精機 当時レギュレーターを作っているのは 僕が作っていた東亜潜水機、日本アクアラング、菅原さんの潜水研究所、そして東亜精機 広告の伊藤精機 僕が東亜に入社する前、東亜が伊藤精機のレギュレーターを売っていたらしい。らしい、というのは、見たことがないのだ。
 横浜潜水衣具は、東亜潜水機と同様、ヘルメットと,潜水服を作っていた。東亜の競争会社東亜と同じくらい歴史が古い。
潜水服については、ヘルメットダイバーたちが,東亜派と横浜派に分かれていた。後に,カービーモーガンのバンドマスク(世界で最も多用された,デマンドバルブ付きフルフェースマスク)をライセンス生産してヨコハママスクと別名をとり、世界の作業ダイバーに人気があった。現在は,なくなっている。





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