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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0629 6月24日 海豚倶楽部 沖縄 1

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6月24日、
 23日の波左間に引き続いての沖縄:海豚倶楽部海洋実習。引率というよりも、連れて行ってもらう感じになってしまっていて、くやしいけど、みんなが安全で楽しければそれで良い。
 6時55分羽田集合だから、5時にでれば余裕だろう。3時50分に目覚めた。ゆっくり準備して、それでも、食事はできずに出た。
 ゴムボートが大荷物なので、送っておけば何事もないのに、まあいいやといつものスリップしてしまって、古いキャリートランクに入れて曳いて行くことにした。これでまず、大幅に疲れてしまった。
 羽田には、0610ぐらいに着いた。そのまま待ち合わせの場所に揚がれば良いのに、50分に行けば良いだろうと、下の階の早朝レストランで、カレーとソバの定食を食べたが、ソバは不味くて食べられなかった。
 50分に上がって、2番の時計の前に行ったら、会長の佐古さんなどは心配していた。メッセを入れれば良かったのに。そうそう、僕は起きてメッセを見ていない。心配してメッセージが入っていたのに見なかった。 那覇空港、レンタカーの行列がたいへん。オリックスを借りたのだが、大型バスに満員で、借りるステーションに向かう。
 レンタカー屋も多い。
 自分が観光客の目で、観光客になって見たことが無いからなのか、変貌におどろいている。
 
 恩納村のナビービーチという海水浴場の隣で、明日のゴジラチョップでのダイビングに備える練習、本部のホテルと、空港を結ぶ中間地点での練習だ。引きずってきた2000円のゴムボートのテストでもある。昨日の寒さに続いての今日は梅雨明けの沖縄の強い日差しに焼かれる。暑いよりも寒い方が良いか、とか。
 海水浴場の隣で久しぶりの海水浴だ。
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 広部君がアレンジしてくれているので、彼のバディシステム重視の指示がある。浦安スノーケリング講習と同じように「バディ!」の号令をかけて、バディ確認をするように、と、僕も話しをする。が、スノーケリング講習の助手をお願いしている女性陣はいう事を聞いてくれるが、おじさん諸氏は?危ないのはオジサン組なのだ。
 海水浴場の横で、若干の流れもあり、それに浅い。水深は3mほどだ。
 ゴムボートは、スキンダイビング用では無いので、身体を乗せかけることができず、すぐに風にあおられるように転覆する。とても使える代物ではないと、直ちに判明。レッコ(捨てるという意味)だ。空の青さにオレンジのボート、良いんだけどなあ。
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 しかし、この程度の大きさの扱いやすいボート型の浮きがあれば、オープンな場所での多人数のスキンダイビングには有効ではある。
 やはり、広部が持ってきた伝統的な浮き輪型のブイが良いだろうか。僕が持ってきた、スキンダイビング用の魚雷型の浮きは使える。明日はこの浮きを使う方法を研究しよう。 100mほど沖にはジェットスキーも走っているし、さらに沖だが海底遊覧船も走っている。メンバーは、まとまってブイを使っているし、目印としては、役立たずのゴムボートも効果的なので心配なさそうだが、もしも流されて沖にでたら、ジェットスキーは恐ろしい。引き上げを指示した。ちょうど良い運動だったし、海洋実習としての成果は十分だった。  僕は、砂地の波打ち際での歩行が著しく下手になっている。 ホテルへ向かう道筋で許田の道の駅、こんなところにも、お客がいっぱい。沖縄は、観光ブームなのか。そんな沖縄なのだから、海水浴での事故はマイナスが大きい。監視員の眼の届きにくい、水にもぐってしまうスキンダイビングと呼ぶ海水浴は禁止してしまいたい気持ちはよくわかる。
 ホテルもは本部のはずれにある、MANAINA 、美ら海水族館に近い。気楽に過ごせて悪くない。
 
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 食事は、僕の好きなバイキングで、おいしいものも、おいしくないものもあったが、食べ過ぎた。 持ってきた本、角幡唯介「新・冒険論」読了する。このところ考え続けている海洋大学 潜水部のこと、そしてこのスキンダイビング・沖縄、と重ねて考え続けてきた。
 考えが消えないうちに書きたいけれど。

0630 6月25日 海豚倶楽部沖縄 2

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 この10年、僕が沖縄本島でビーチエントリーで潜った場所は、糸満の先のジョンマンビーチぐらいで、後は30年前か?広部君と恩納村の二カ所潜った。そして、潮美が女子大生のころ、マエダ岬。
 この10年は、ほとんどボートだったから、ビーチについて、全く事情はしらない。たしか、沖縄でのスキンダイビングのロケーション、参考書を買ってあったはずだが、必要になって探すと見あたらない。
 聞けば沖縄本島では、ビーチからのスキンダイビングはやらせない、とか。噂だけにしても信じられなかった。スキンダイビングは、ダイビングの基礎、大本ではないのか。
 スノーケリング、スキンダイビング、フリーダイビングの区別、線引きも、スキンダイビング・セーフティの改訂版で提案したばかりだし。どういうことなのだと知りたかった。
 ライフジャケットを着けたスノーケリングは、安心だ。フリーダイビングは、自己責任が明確だし、それにいろいろ安全策を講じているようにみえる。
 スキンダイビングがよくわからないものになりかけているのだろう。
 スキンダイビングもスクーバもほぼ同じ程度危ないとすれば、スクーバダイビングはダイビングショップが管理できるから、責任はダイビングショップにある。スキンダイビングだってダイビングショップが管理すれば良いのだが、ショップに行かなくてもスキンダイビングはできる。ダイビングショップがスキンダイビングに熱心ではない。スノーケリングツアーのほうが商売になるし安全だ。スキンダイビングは監視の眼がとどかないおそれもある。
 沖縄では、スキンダイビングは、わけのわからない谷間におちている。ということだろう。 この日、本部にあるゴジラチョップというポイントに行く。略してゴリチョ、有名なポイントらしいが、僕は行ったことがない。スクーバでもビーチエントリーの良いポイントらしい。
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 広部君はサーフボードを6枚持ってきてくれた、ワンバディが1枚、それに魚雷ブイ(トルピードブイ)が僕と小山君、オマールのボードのようなブイを山本さん、そして、サッチャン(本間祥子:Smile Blue)をガイドについてくれた。この子はなかなか親切で感じが良い。広部君も別のスクーバのお客さんのかたわら、一緒に潜ってくれた。
 海は凪で、流れもないようだ。滑るので危ないが、タンクを着けていないから大丈夫?、という階段になっているスロープからエントリーする。別にスキンダイビングが禁止されているようには見えない。ただ、泳ぐ人はマスクとスノーケルを着けていれば、ライフベストか、腕に取り付ける浮き輪を使っている。つまりスキンダイビングはしていない。スノーケリングだ。一人だけ、地元の人らしいスキンダイバーが泳ぎ出して行った。観光的にはスノーケリングが定着している。
 沖縄本島あげて、溺死者を皆無にしようと努力しているのだ。それに反対することはできないが、こちらはとにかく潜らなければいけない。
 溺死を無くすには、物理的な手段が絶対的である。僕がスクーバで死ななかったのも、危機一髪の時にロープが、あるいはケーブルがあった。
 物理的な手段としてはライフベストが一番確実だが、着けていたのでは潜れないから、浮子は、手でつかまる。潜るときに手放せば良い。これは海女の浮樽と同じようなもので、伝統的とも言える。
 ゴリチョは、水深5ー6mで、サンゴも美しくないし、魚もクマノミ程度だが、練習には、良いところだ。
 浮子の操作体験という海洋実習らしい海洋実習ができた。これまでの海洋実習としてベストである。
 次回、来年の実習には、二人に一個ずつ魚雷型のブイを持たせることになるだろう。
 ブイがあることによって、一人はブイにつかまって、バディの潜るのを監視できる。
 
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ボードにつかまる。
 
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トルピードブイ
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オマールのブイ
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 沖縄本島のスキンダイビング事情だが、ダイビングショップが責任もってアレンジする場合には問題なさそうだ。伊豆のヒリゾ浜に対応するのは、真栄田岬だろう。延泊して行ってみるべきだったと、今頃悔やんでいる。 全体的に見て、スキンダイビングとは何なのだ。その範囲と実施する場合の安全策を決めて置かなくてはいけない。改訂版スキンダイビングセーフティにのべたが、水深は10m以内、息こらえ時間は1分程度、それに加えて、二人(バディ)に一個の浮きを持っている、曳いていることとしたい。あとはその変形だ。
 心配なのは、フリーダイビングのトレーニングを受けた、つまりフリーダイバーが、ここに述べたスキンダイビングルールを越えて潜る場合だ。不世出のモルチャノバもこれで死んだ。いけないとは言わない。死に方の一つの理想のようにもおもえる。ただ、これをスキンダイビング事故、ましてやスノーケリング事故だと呼ばない、呼ばせないようにしたい。フリーダイビングのトレーニングを受けたダイバーが、スキンダイビングの範囲を超えて潜り、事故を起こした場合には、それはフリーダイビング事故だ。と説明する義務が、フリーダイビングの組織にはある。
 こんなことを言うと叱られるだろうが、チャレンジはフリーである。フリーということは別の表現で言えば、幸せということだ。幸せに死んだら、それを他の責任にしてはいけない。行動の責任を商品化すること。責任者を探すことで制限がかかる。 またここで僕は撮影の失敗をしてしまう。波左間の失敗の後遺症とも言えるのだが、マスクマウントの動画、GOPROもAKASOも持ってきていない。スキンダイビングで使いやすいマスクマウントのマスクが、紛失中だったのだ。車の中に忘れていた。なんとかOlympus TG-4とNikonAW1300で間に合うだろうと判断した。しかし、ゴムボートだとかブイのテストは、ダイバーの目線、マスクマウントの動画が最適なのだが。
 廉価のカメラで撮影する日常の画なのだが、撮影しないで過ぎ去らせてしまえば、チャンスはもう巡ってこないのだ。動画を撮っておけば、ワークショップで使えたのに。
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0714 中央大学海洋研究部50周年

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 大学生クラブの周年行事が続いている。学習院が50年、海洋大学が60周年、関東学生潜水連盟が50年、そして中央が50周年 少し前には法政が50年、芝浦が45周年だった。 光栄なことに、これらの全てに招待されて、ご挨拶する事ができた。60年前の最初から関わっているということと、2003年から2013年まで、SAI というプログラムを作って関東学生潜水連盟を支援したこと。JAUSでも、前記の歴史のある学生クラブの監督をシンポジュウムに招いての発表をお願いした努力が買われたのだと思う。残念なことは、獨協大学などいくつかの歴史のある大学の発表ができないままになっていることだが。SAIが打ち切られたこともあって、バトンを「監督・コーチの集い」に渡して、2014年度のシンポジュウム報告書で、その時点の学連の全てを特集して収拾したのだが。
 とにかく、自分の立ち位置でできることを一生懸命にやった。SAIのような活動は、行われた時点では成果になっても、継続した活動の内では過ぎ消えて行くものであり、結果にはならないが、強いて言えばその成果として、このような集まりにご挨拶、あるいは記念誌に書かせていただくことになった。  これら関東学生潜水連盟・大学のクラブが50年続いているということは、一つの文化になっていると思う。大事にしなければならない。大事にすることが、後述する安全管理、危機管理につながる。  あと、自分が生きて居られる月日がどのくらいあるのか知ることはできないが、最後まで、できる努力は続けたい。
 さて、中央大学50周年だが、40周年の時にも呼んでいただき、お話をした。その時には、自分の50年間のダイビングライフ・冒険の日々をお話ししたが、今度はどうしよう。 ちょうど、自分の母校、東京海洋大学のことで、これでよいのかと思い悩んでいたこともあり、安全管理と危機管理のことを中心テーマとして、それ以前の昔話、そして、これからのことを並べてお話することにした。                       講演はパワーポイントを使う。自分の耳が遠いこともあって、字を伴わない講演はほとんど理解できない。字も大きくする。他の人の講演を聞くとき、自分は、映写されたスライドを携帯で写して、後で見る。その時に字が大きい方が良い。 そして字のPPだと、最後の最後まで直しができる。 ここでもPPを図として出して説明する。講演は時間の限りがあるので、簡潔にまとめたが、ブログの説明の方が長いと思う。 なお、ご挨拶の部分は省略する。   
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中央のOB(第8代)である鶴町君が僕の会社に就職した、1977年のことだ。 鶴町が入社の時、ダイビングは何時死ぬかわからないロシアンルーレットみたいなものだが、良いか?と話した。その言葉が気に入って入社したと後で聞いたが、その最初の仕事で、発電所の排水トンネルで一緒に潜っていたオジサンが死んでしまう。 今振り返れば、ロシアングーレットになってはいけない、というべきだった。 ※ロシアンルーレットの話は、次に書こうと思っている冒険論、スポーツ論にも関わってくるので、あえて出した。
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 写真の左端が鶴町。 そのころ僕は、アリステ・マクリーンの冒険小説が好きだった。今でも好きだが、一番好きなのは「女王陛下のユリシーズ」巡洋戦艦ユリシーズの話だが、北海の荒波が船に凍り付いてしまう世界だ。なんかそんな雰囲気の写真だ。※こんな脱線は講演では,話さなかったが。
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 会社としては、これは一部分だが、鶴町と一緒に行った、撮影ロケのリストだ。 赤字で示したのは、ロケではなくて事故だが、この事故が、僕のダイビング人生の転換地点だった。この事故は、常識的には自分に何の責任もない。父兄の一人として責任を追及する側かもしれない。しかし、この練習の指導をした子、学生は僕のダイビング指導の間接的な弟子だ。事故が起こった練習のコンセプトは僕たちが作ったものだ。責任があると考えて、遺族、お父さん、お母さんに何通か手紙を書いた。その過程の中で、学生の活動全体を俯瞰してアドバイスする者が必要だと感じた。 しかし、その後すぐにニュースステーションの制作がはじまり、従来の調査業務と同時にテレビの撮影業務も行うために、学生のことなど省みる暇もなかった。そして、同じような流れの中で、青山学院の事故が起こる。母校の水産大学でもヘリコプター搬送の事故が起こる。これらのことを全く知らないで僕は時を過ごす。
 1994年になって、海洋大学第40代のころから、ようやく少し時間ができてきたのか、水産大学(現 海洋大学)に関わるようになった。 そして、2000年ごろから、学生の練習を直接、間接にみるようになり、幾つかの事故、もしくはニヤミスを知る。そして、学生の合宿が飲み会の場になっていることも知る。そこから、学識経験者(東京医科歯科大学の真野先生、順天堂大学の河合先生ら)が関わる学生の安全対策行事、SAIを始める。関東学生潜水連盟には、安全対策主将会議というおなじような行事があるだが、学生潜水連盟は伝統的に独立独歩、社会人の干渉をうけないというポリシーがあり、この主将会議をSAIと重ねることができなかった。※学生だけですべてを行うというのは決して悪いことではないが、重大事故の危機管理となると、手におえなくなってしまう。学生連盟の危機管理、は、事故を起こした部の「除名」であった。除名から自分の力で立ち上がらなければ続けられない。法政は見事に立ち上がった。
 ※、法政は娘の潮美の部であり、僕にとって、親子の関係だ。だから、例に出せる。
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ダイビングのロシアンルーレットは、だいたい、16000発に一発弾がでる?(ダイバー16000人に一人ぐらい死亡事故が起こっていた。今はもっとすくないだろう)。そのピストルを頭に当てている、など父母が同意できるものではない。学生の場合には、パーフェクトですと言える安全管理が必要である。それでも、ダイビングに、パーフェクトということはない。しかし、社会が認めてくれるような危機管理ができなければならない。冒険小説の世界は認められない。
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 最近、アメフトについて、日大というマンモス大学を揺るがすスキャンダルがあった。日大アメフトは伝説の監督 篠竹さんと親交があったことから、眼をはなさずウオッチ、といってもネットを通じてのウオッチだが、眼をはなさず見た。そのことも、ここに書いていることに大きく影響している。 まず、空気だが、関学のQBを反則で壊してもどってきたプレイヤーを迎えたベンチの空気、倒れた相手の安否を、爪の先ほども案じている空気はなかった。 アメフトは危険なスポーツだから、壊れて還ってくる子供を迎える父母と監督・コーチとのやりとりが多くなる。父母会を作ってコミニュケーションを強く保っていないと、子供はやめさせられてしまう。そして、その父母会の結束はとてもつよく、子供たちが卒業した後までそのつきあいは続く。日大ももちろん良い父母会があった(篠竹さんの時代)し、今でもあるに違いない。そして、相手の関西大学にも、あるに違いない。「殺せ!」「壊してこい!」と言ってもそれはルールの中でのこと、反則して殺してこいといったらそれはもはや、大学スポーツではなくなってしまう。その行為、危険な反則を全員が是認しているようなベンチの空気だった。この空気が連続的に報道されて、ほぼ日本人全員が、おそらく日大のOBも、これはない、と思ったはずだ。そして、その後の危機管理がこれ以上ないと思われる拙劣さだった。


 大学ダイビングクラブも。危機管理の処理を誤ると、現在の社会の中で、どのようなことになるのか、考えて置かなくてはいけない。
 アメフトは父母会を作れる。事故の多くが負傷であるから。ダイビングの事故は、その多くが生死である。父母会は作れない。だからこそ、きっちりと向き合わなければいけない。向き合う態勢を作っておかなくてはならない。それは1982年の事故で痛感したことだった。対応する時間は無かったが、反省だけは十分にしたし、後になって、その反省に基づいた行動もした。いわゆるレジャーのダイビングクラブと大学のクラブを分けるのはその部分である。


 1982年の事故は突然死の部類にはいると思う。誰もその場で予測しえなかった。例えば、柔道で締め落としたら死んでいたような状況であったと思う。ダイビングでもブラックアウトは珍しくなく起こり得る。ブラックアウトで引き揚げたら、蘇生しなかった。


突然死を確実に防ぐ方策は事実上ない。でも、自分の身体のこと、身体中で起こる変化を注意深くサーチしていればわかる。予知できる。と僕は思っている。その微妙な変化を自分で察知したとして、それは、コーチ、上級生には察知できない。だから、自分が察知した時点で直ちに活動を停止して退避するルールを徹底させておかなくてはならない。それが、1982年当時には無かった。繰り返してはいけない。


 ダイビングでなくても、多くのスポーツで、トレーニングでここまで神経質になったら、スポーツにならないかもしれない。だから、突然死は少なくない。およそ、保険というのは、統計的に事故の起こる確率をよく研究して金額が設定されている。日体協がやっているスポ安保険は、すべてのスポーツで使われていて、おそらく、大学のダイビングクラブでもほとんど全部加入しているはずである。そのスポ安保険での加入は、一人当たり、ダイビングは1800円、アメフトは11000円だ。アメフトの方が高いのは、けがが多いからであろう。(60歳以上は保険料は安くなるが補償金額も安くなる)


 死んだ場合には2000万円が支給される。ところが、それが突然死だった場合には、180万円、葬祭費用しかでないのだ。これで、一概には言えないが、少なくとも突然死は希なことではないと想定しているのだろう。


 その突然死について、起こらないように、上記したように、自己責任で対処するように徹底するとともに、(自分の内側のサインに敏感になること)起こった場合の危機管理、ガードを固めて置かなくてはならない。


 2014年、SAI をやめることになった。2013年、学生たちの行事として定着しつつあったと思っていたのだが、学生はあるショップの機材モニター会を優先した。大学生のダイビング、行事だから、学生に命令強要するようなことはしなかった。学生の場合、学生がやる気をなくしてしまえば終わりなのだ。そして、真野先生の健康もすぐれなくなり、お亡くなりになって、終結した。


 その代わりではないが、SAIの終わりを記念して、2014年のJAUS報告書を関東学生潜水連盟特集的に作り、その時点での学生のアンケート、各大学の安全基準、マニュアルなどを載せた。印刷代を20万かけて、大量に作った。


 ここから先中央大学の講演から少し外れる。
 2014年のJAUS報告書の中で、青山学院大学のマニュアルは、とてもしっかりしたものだった。
 今でも、青山学院海洋研のホームページを見ると、このマニュアルだけが、ポツンと載っている。
 非常に残念なことに、青山学院は部員が集まらずに休部状態になってしまっている。ハウジングメーカー・フィッシュアイの大村さんは、夫妻で、このクラブ出身である。なんとかならないものか、と少しばかり考えたが、切れた絆はつながらないのだ。
 学生のクラブは、新入生が居なくなると、終わってしまう。


 海洋大学の場合、僕がかかわってからだが、部員が一人だけになったこともある。それをなんとかしのいだのが、僕のバックアップの効果だと思っているが、なんとか繋げて、50周年で、OB会を作った。それまでOB会は無かったのだ。
 大学のダイビング活動は、いわゆる部活、中央も、学習院も芝浦も、法政もそして海洋大学も、獨協大学も、50年近い歴史を持つクラブは、部活の形である。大学では、サークルという緩やかな組織もある。前述した2002年にSAIができた時に、作った動機になった事故はサークルの事故であった。
 サークルの方は、だいたい街場のショップが絡んでいるから、担当したインストラクターの賠償責任保険で解決できるだろう。場合によっては、そのサークルは解散し、名前を少し変えたサークルとしてリスタートすれば良い。
 一方で50年の伝統は、たとえ事故が起こっても守り通す危機管理を想定していなければならない。そのことが、安全管理と相乗効果をもたらして事故を防ぐことになると信じているが、事故の起こる確率に優劣はつけにくい。
 各大学のサークル事情を述べるとなると、これは別の話になってしまうが、大学雑居、ネットで会員を募集するインカレサークルというのがある。
 この数年、部活の関東学生潜水連盟も勢いをとりもどしていて、それぞれ、10人-15人の新入部員を確保できているが、大学雑居のインカレサークルは、数十人、いや100人ちかい入部者を集める。インカレサークルの主催者細谷さんとも親しくしているが、たいへん優れた、頭のいい人であり、その安全性について、むしろインカレサークルの方が高いと思われる部分もある。街場のダイビングショップのクラブより年齢層がそろっているから、安全管理がやりやすいとも思う。


 ダイビング業界にとって、学生は大きなマーケットだろう。グランブルとかいうマンガもあった。



 これは既に述べたのだが、目指す目標 自覚

 自分の命を自分で握っている:人間的な成長
 バランス感覚 恐怖心と思い上がり(自信)のコントロール。 
 ダイビングはメンタルなスポーツ:考え抜いて行動する。
 母校の海洋大学でも、つきあいを続けていて、一年生と三年生では、別人になる。ならなければいけない。一年生をまもる責任を持たされる。
 いうまでもなく、サークル活動であっても、目的、目標を人格の形成とすることに、何の差支えもないが、そんな堅苦しい目標を設定しないところが魅力で有り、人を集めるのだろうから、難しいだろう。「安全にダイビングを楽しむ」それだけで、立派な目標なのだが、ダイビングは安全ではない。自動的に、上に記したような効果が得られてしまう。そこを外すと、サークル活動は危険なものになるだろう。父母にかかわる賠償責任、危機管理は、それだけで、命を守るものではないのだから、ガイドダイバーが居ても、インストラクターが居ても、自分の命は常に自分が握っている。

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 50年、一つの文化と言える歴史を持つ部活動とサークル活動の差は、目的、目標の設定であろう。それぞれの、部がそれぞれの目標を設定しているはずである。中央は「海洋研」というタイトルに集約される。つまり、ダイビングで何をするか、その目標設定が大事だと思う。
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学生連盟が業界の動向に左右されなかった、自主独立は正しかった。だから50年継続した。しかし、自主独立は、唯我独尊ではない。良い形の協力は大事である。もしもの時、味方が多いほどいい。

書きすぎて、特に後半部分、ピントがずれてしまった。講演は時間制限があるので、もう少し、締まったものだった。にちがいない。


0717 新・冒険論 角幡唯介

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                コルシカのマーク 冒険の旗っぽくて好きだ。

 冒険という言葉、くつかの意味があると思う。日常生活のうちにも冒険がある。「それは冒険だったね」と言うような事態は頻繁にあるし、人間が生きているということ自体がすでに冒険とも言える。病気になるのも冒険だし、高齢で生き続けているのも、かなりの冒険だ。このごろあんまり流行らないみたいだけど、人が冒険小説にはげまされるのは、日常のつらい、いやな思いもはさまる冒険を、造られた爽快な冒険小説、あるいは映画などに置き換えて、堪え忍ぶ。
 もう一つの冒険が、これは真正の冒険とでも言おうか、非日常の冒険である。角幡唯介の「新冒険論」は、その真正の冒険について、冒険とは何かを論じている。 角幡唯介のことは、前にも書いている。
 2011年、彼が朝日新聞、埼玉支局の記者の時、ダイビングをお台場で教えた。ダイビングの目標が荒川の環境を探ることだったから、お台場での講習でぴったりだった。
 
 角幡唯介は、なかなか魅力のある人で、ダイビングによる冒険でも一緒にと考えないでもなかったが、彼の冒険論を読めば、それは無理とわかる。彼のスタイルの冒険をダイビングでやれば、よほどうまくやらないと、すぐに死ぬ。どんな形の冒険も、死んでしまえば終わりなのだ。 角幡唯介は、彼の考える冒険の具体例として早稲田大学探検部の三原山の火口を覗き見る計画、地理学的な探検としてナンセンのフラム号による北極探検、服部文祥のサバイバル登山、探検・冒険と言えば日本人の頭にまず浮かぶ植村直巳、そして彼自身のチベット、ツアンボー渓谷の踏破(これは読んだ)などなどをあげて解説している。これらの部分は、おもしろかったけれど、なるほどと言う例の話である。
 彼が唱える冒険の定義、冒険とは 脱システム パイオニアワーク 無謀性 である。また参考までに挙げている、本田勝一の唱える冒険の定義は、生命の危険、主体性である。
 もう一つ、冒険のパターンとしてジョーゼフ・キャンベル 「千の顔を持つ英雄」を挙げたりしているが、これはおもしろかったが、なるほど、という視点だ。 およそ、冒険と探検について考える人が100人いれば、100通りの考えが出てくるだろう。ダイビンたテーマでもある。なお、角幡は、探検は冒険の中にくくることができる、としている。僕の考えでは、違うが、それは置いておく。
 角幡のいう冒険の定義は、「脱システム パイオニアワーク 無謀性」であり、特に脱システムは、考えさせられた。
 脱システム、といわれても、ピンと来ない人がいるかと思う。
 僕自身の60年のダイビングライフを振り返ると、当初、1950年代、アメリカのテキストはあったが、それだけで、あとは試行錯誤の持ち寄りだった。その中から知識を拾い上げ、安全管理のシステム化を目指して努力を続けてきた。
 なお、過ちによる危機一髪の体験は、個人の経験でありそれを文書化することで知識になる。その知識を集め組み立てて行動システムにする。
 今は、パーフェクトでなくても、安全管理のシステムがある。バディシステムも、チーム・ユニットシステム、フォーメーション、そういうシステムいっさいを脱ぎ捨てることが冒険なのだ。と角幡はいう。
 
 僕の27歳の時の90m(100mを目指した)潜水は、ホースで送気して、フルフェースマスクとデマンドバルブで受ける。今では主流になっているプロのダイビングスタイルのパイオニアワークだった。そして、空気で100m潜るという無謀性がある。角幡唯介のいう冒険に当てはまる。そして、60歳の時の100m潜水は「システム潜水」だから、冒険でも何でもない。システムだ。今、プロのダイビングで深く潜るのはシステム潜水でなければいけない。
 なお、この定義で考えれば、ダイビングは冒険です。などと言うことは在り得ない。これは、別定義の日常的な冒険である。なお、テクニカルダイビングも冒険の要素を排除しようとするから冒険ではない?。ただ、システムを構築するために試行錯誤を繰り返し、時に命を落としたりするのは冒険といえるだろう。
 
 角幡の新・冒険論では、安全を追求しつつ行う登山は、スポーツ登山であり、冒険ではないとする。時に命を事故で落としたりしても、それは冒険ではなくて失敗である。
 ロシアン・ルーレットの話をしたが、これは、人間の努力が入り込む隙がないから、冒険ではない。ばくちは冒険ではないのだ。
 角幡のいう冒険とは、脱システム、パイオニアワーク、無謀性がある活動で、努力、意志の力で克服し帰還する行動である。 また、スポーツは安全を確保するシステムを持たなければならないから、冒険ではない。
 自分のダイビングについて言うならば、試行錯誤を経て、システムを作り上げていく道程が冒険だったのだろうかと思う。そして、システムが作り上げられた後でも、システムが意に反して自然の力でキャンセルされてしまう事態は冒険である。
 それでも、角幡は、そこにシステムがあるならば、自然の力でシステムがキャンセルされた場合、真正の冒険ではないと考える。計画にシステムが組み込まれていては、冒険にならないのだ。冒険で生涯を組み立てて行かなくてはならない冒険家としては、そうなるだろう。 冒険は、人それぞれであるが。
 角幡唯介の「新・冒険論」 おすすめである。おもしろかったし、冒険について、考えることができた。
 もちろん、僕とは違う読み方もあるかもしれないが。
 2018/07/15 21:55 冒険に引き続いて、スポーツについて考える。中央海洋研50周年からの引き続き、というか、引きずりである。
 角幡冒険者は、スポーツになってしまったら冒険ではなくなる。とか書いているが、逆にスポーツは冒険が排除するところの安全確保のシステムを持たなければならない。持たなければ、それは無謀な冒険になりスポーツではなくなってしまう。
 そのあたりのこと、考えないで、自分はスポーツとしてる。好きな言葉の一つなのだ。ハイブリッド、これですべて片づけることができる。
 続く 

0724 商品スポーツ

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商品スポーツ
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、冒険に続いて「スポーツ」のことを書こうとしている.
スポーツこそは、自分の生涯をかけたテーマ。失敗の連続、読み違いの連続、言い訳的な表現をすれば、試行錯誤の連続をしていた。成功を伴わない試行錯誤は、言い訳にもならないか。ただ、継続は、失敗を失敗で無くしてくれる。継続にこだわる理由です。やめなければ良い。


ところで、ダイビングはスポーツだろうか。スポーツかレジャーか、などと戯けた議論をしていたときもあるけれど、スポーツに決まっている。
 書こうとしていることが多様なので、この時点でうまくまとまるかどうかわからないけど。


 やはり、安全から入っていく他ない。ダイビングは、どの角を曲がっても、安全にぶち当たる。
 冒険についてのところで、書いたけど、スポーツは、安全のためのシステムを持っている。持っていなくてはならない。冒険はそのシステムを脱ぎ捨てる。いや、脱ぎ捨てても、そのシステムを持っているだけで冒険と呼ぶ資格はないという、角幡唯介の論は、面白かった。
 となると、現代の世の中、冒険など、よほど馬鹿馬鹿しいこと、以外には見つけにくいから、思いつくようなことは、すべてスポーツか?
 とりあえず、スポーツは、安全のためのシステムを持っている。もっていなければならない。
 そして、ダイビングとは、どんなスポーツか?
 個別に議論、考えていこう。
 商品スポーツ、生涯スポーツ、学生スポーツ、競技スポーツ、そして、スポーツ感覚でする活動、 そんなくくりで見ていこう。もちろん、オーバラップする。そのオーバラップの部分が危険である場合が多いのだが。


 まず、商品スポーツ。
 「商品スポーツ」ってなんだ。辞書にもでていない。ググっても何にもない。
 「商品スポーツ事故の法的責任 中田誠著 2008年」 事故でインストラクター、ガイドダイバーが訴えられたような事故例についてよく調べている。
 しかし、至る所に、ダイビング業界に携わる者の感性を逆なでするようなフレーズが見られる。
 中田さんと、ダイビング業界の対立の発端は、彼の最初の本、「ダイビング(安全)マニュアル ・太田出版 1995 副題:誰も教えてくれなかった:スクーバダイビで死なないために」 で見られる。よく売れた本で、版を重ね、僕の書いた本の百倍は売れた?
 この本 の最初の部分で、私が遭遇した事故 というタイトルで、1993年にハワイにフアンダイビングに行った時、中田さんがほぼ死にかけた経験を書いている。
 日本人インストラクターのブリーフィング
「タンクの残圧が1500ポンド(約半分)になったときで潜水活動を停止し、浮上の行動に移ります。水中で私が残圧のチェックをしますから、ゲージをはっきり見せてください。」
 このとおりにしていれば、何の問題もなかった。
 水深が20mを越す沈船で、インストラクターがゲージチェックをしたときに、中田さんの残圧は半分を切っていたが、浮上の様子もなく、次第に空気が減っていく。中田さんが初心者だったので、ダイブマスターの資格がある人をバディに付けてくれていた。ゲージがレッドゾーンに入ったので、それを見せたが何もしてくれないで去っていってしまった。いよいよ空気が無くなって、近くのダイバーの空気をもらおうとしたが、オクトパスが見えなかった。命を懸けて浮上し、臨死体験をする。そして、水面の彼を助けたのも、別のボート、水を肺に吸い込んでいたために、危篤状態になり、苦しい思いもする。
 補償を含めて、ケアが十分でなかったことが、その後に書かれていて、そこから、彼の活動が始まる。
 そして、その後、大学の研究員の事故死が起こり、中田さんがその処理を担当する。彼の言動に基づけば、事情はともあれ、遺族のケアを優先しなければならないはずなのに、その逆で、僕がフォローしたようなことになった。遺族の心の傷は中田さん以上のものがある。中田さんは生きている。いずれにせよダイビング事故における、事後のケアは、重要で、責任者はそれを生涯背負っていかなくてはならない。


 ちょっと脇道にそれるが、奄美大島でいつもお世話になるサービス コホロの太田さんは、ブリーフィングで、「何かがあったら、とにかく水面に浮上してください。必ず救助します。」ダイブコンピューターがどうだとか、安全停止がどうだとか、そんなことは一切無視して、とにかく浮上する。水面の空気を吸って待つ。減圧症とか、なんかは、後で医者に任せれば良い話。もちろん、ブリーフィングは人を見ての話だから、シーカード取りたて、浮上も潜降もおぼつかない初心者ダイバーは、手をつないで潜るほかない。勝手に浮上されたりしたら、たいへんだ。


 中田さんの言う商品スポーツの、商品とはなんなのだろう。
「商品スポーツ事故の法的責任 」から商品スポーツの定義
「一般人に対して、その指導や案内{がいど}または、相手などをすることで経済的利益を売ることを目的として販売されるスポーツプログラムと役務を商品スポーツと呼ぶ。
 商品スポーツは、消費者がその実行後に、支障なく日常に復帰できることを前提とした一般向けの役務商品である。つまり商品スポーツは、その対象市場を不特定多数の一般消費者としており、その購入者は、主としてそれを日常生活におけるレジャーとして楽しむことを主たる目的としている。したがって商品スポーツの製造・流通・販売者には、商品の安全性を明示及び黙示的に保証する義務があり、危険を正しく開示する義務がある。」


 実は、この商品スポーツについて、何度か書き直し、稿を改めても不快感があり、ブログとして出すのが嫌だった。その理由が、この定義を見てわかった。お客がこの定義のような要求をする振る舞いがあったならば、やめてもらう。
 ダイビングとは、初心者であろうと経験者であろうと、互いに信頼し合う絆、チームワークで安全が維持されている。お金を払っているのだから、安全を保証しろなどと言われたら、もはや成立しない。常日頃言っている。ダイビングはチームワークで安全が確保されている。チームとはバディであり、共に行動するユニットである。たとえ、水中でソロ、一人で潜るような場合でも、戻る場所のベース、例えば船上とは、意識が繋がっていなければならない。それが、身に沁みこんでいて、自分たちのダイビングをしている。その生活が長かったから、それを、たかだか数万円、いや一回数千円(ガイド料は3000円?)の役務の商品と決めつけられたならば、生理的に受け付けられない。
 彼が強調するように、ダイビングが基本的に危険なものである以上、全てをギャランティすることは、経済行為として不可能である。危険を正しく開示する。すなわち、「ベストを尽くしますが、救助出来かねない場合が少なくなく、その場合は、賠償責任保険で対処させていただきます。」という他ない。
 そして、人の行為は、役務商品ですべてが決まるものではなく、その時、その場だけのことでなく、その人が生まれてから、今日に至るまでの人生のすべての流れの中で事故は起きる。さらに、仲間との組み合わせ、その組み合わせで取り掛かる事象、事象の変化に対する対応にかかわる。これらすべてを商品として安全を保証することは、できない。
 ある限定された行為内での安全を保証するものであれば、現在のCカードもそのように謳っている。限定された個々の状況について適不適を論じるべきだが、その基本姿勢が上記定義であるならば、保証できる状況はほとんどない。


 事故が起こる原因の一つは、その行動が何を目的として、どこまでの範囲をやろうとしていたのか、その線引きが明確でないことである。
 商品としても、それには、人の生命に関することの全ては含まれていない。ガイド料の数千円でそれが含まれていると考えるのは非常識だ。お互いに、その場の状況、海況にあわせて必要十分な安全策を講じなければならないのは常識であって、その常識、安全確保の義務のなかで、自分が負担しなければならない部分は自分の責任で果たさなければならない。


 元来スクーバとは、?self‐contained 自分だけで充足する、自分ですべてを処理することが原則の潜水機である。事業者が、雇用関係で命令して行う職業潜水は命令した事業者の責任部分が大きい。だから、スクーバは、この範疇に入れてはいけない潜水なのだろうが、日本の高圧則は、スクーバダイビング関係者もかかわってスタートしたためにスクーバを含めて推移している。これを治そうとすると、大混乱が起きる。高圧則の定める資格である潜水士の数は、スクーバダイバーの方が圧倒的に多く、そして、規則はスクーバダイバーも資格を持っていなければ違反と定められ、実施されている。「まあ、仕方がない」という空気で行くしかない。
 自分ではない、管理者に大部分の責任がある職業的な潜水は、ホースによる送気、少なくとも有線通話による連絡が取れていなければならない。
 学生時代、1955年だが、安全のために、スクーバを習う学生には、鵜飼の鵜のように索を付けられた。「いやです。安全でなくてもいいから、索を外してください。自分で責任を持ちますから、自由になりたい。」と、僕たちは主張した。それが原点、スクーバの原理原則なのだ。 安全と引き換えに、自分の命を自分で守る自由を得たのだ。
 スクーバダイバーは、商品スポーツの定義で言う一般人ではない。
 商品スポーツとして、一般人に対する商品としての安全を目指すならば、全員、何らかの形で索を付けるべきだろう。僕はこの形のビジネス、有線通話器を軸としたダイビングを売ろうと「テル」という会社を全財産を投げ出して作って、見事に失敗した。せめて、科学的な潜水だけは、とねばったが、それでもだめだった。自分が学生時代に命よりも自由を選択していたのに、そんなことになったのは、後述する、自分の体験した事故のためだった。僕は、自分の責任範囲で人の命をうしなった。だから、非常識になった。そのことについて、後悔していない。僕の商品スポーツの顛末は、また別に書くつもりだ。(前にも書いているが)


原点に立ち戻って、ダイビングは安全なのだろうか。まさか、自分はダイビングは安全だなどと言ってはいないだろう。心配になった。1966年に書いた「アクアラング潜水」日本で初めての、スポーツダイビング入門書だ。その中で、「アクアラング潜水の事故は、その原因をよく知り、注意さえしていれば、完全に避けることができます。アクアラングダイバー―は、どうして事故が起きるか、どうすれば事故を避けられるか、事故が起きてしまったら、どうして被害を最小限にとどめるか、良く知っていなければなりません。無知はダイバーにとって、最大の危険です。
 潜水事故はダイバー自身が十分な知識と技術を備えて、潜水のルールを守っていれば、絶対に起こりません。」その潜水のルールの先頭に、バディシステムを挙げている。
 生涯を通しての注意の継続など、絶対にできないことなのだと知らなかった。そして、その一瞬の隙に事故は起こる。1989年8月、暑い年だった。自分の会社スガ・マリンメカニックの若い社員、脇水輝之が北海道函館の現場で死んだ。水深3mで減圧停止をしていた時、何事かが起こり、ウエイトを落として、意識を失くした状態で浮上した。不運にも浮上した直上に船体があり、水面に出られなかった。健康診断も規定通りだったし、無理もしていなかった。意識を失った理由は、本人だけしかわからない。
 舟の直下での減圧停止だったので、全員が彼をとりもどしたものだと錯覚していた。先に挙げた潜水のルールその一を守っていない。隣りに誰かいれば、彼は死なないで済んだ。そして、現場には、有線通話のケーブルを用意させていた。ニュース・ステーションで、幾つかの危険を有線通話ケーブルで乗り越えて来た経験から、そのシステムを調査業務にも使おうと、考え出していた矢先であり、使って見るように指示していた。しかし、現場担当者がそれを使わなかった。使い方のローカルルールまで定めては置かなかったのだ。
 僕はその現場にはいなかったが、自分の会社であり事業者だ。責任はすべて自分にある。
 なお、次に書いた「スポーツダイビング入門」1976年、では、今と全く同じ、危険を前提として議論を展開している。


 スクーバダイビング(有線通話ケーブルによる連係はスクーバではなくなっている)は、ある限定された状況においでなければ、一般人を対象とした役務商品として販売することはできない。よく、スクーバダイバーとしてデビューしたなどと、書いてあるのを見るが、それは一般人では無くなった宣言であり、役務としての対価を払うにせよ、払わないにせよ、ダイビングをするにあたっては、一つのチームとしての連帯をもち、安全に対する責任を共有しなければならない。

「商品スポーツの法的責任」のような本の影響の恐ろしさは、事故が起こり訴訟が起こった時の法廷で、参考資料として使われることであり、そのことを考えて書かれている。それに対する反論、も用意しておかなくてはならない。指導団体にはそれぞれ、弁護士が付いていて、訴訟は弁護士同士の話し合いで解決されるが、こちら側も自分たちの原理原則を、明確に提示しておく必要がある。単なる、自己責任という言葉では、責任逃れとして一蹴されてしまう。僕などがとやかく言うことではないが、それは、事故が起こったからの裁判だけの問題ではなく、本当に事故を防ぐ安全にかかかわることでもあるので、それぞれが考えて明確にしておく必要のあることだろう。



0727 生涯スポーツ

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生涯スポーツ 1


※商品スポーツの定義
 中田さんの商品スポーツの定義では、一般人に売る役務商品である。と、ただそれだけ。一般人に売る商品もあれば、ベテランダイバーに売る商品もある。ダイバーのランクそれぞれに合わせるのが理想だが、せめて、一般人とダイバーに区分けするぐらいのことは、必須だろう。そんな単純、常識的なことを中田さんのように分析能力に優れた人が気づかないわけはない。意図的なのかと疑ってしまう。
「一般人に対して、その指導や案内{がいど}または、相手などをすることで経済的利益を得ることを目的として販売されるスポーツプログラムと役務を商品スポーツと呼ぶ。」そして、商品スポーツは、消費者がその実行後に、支障なく日常に復帰できることを前提とした一般向けの役務商品である。としている。
 安全のための線引きは重要だから、業界の方は、たとえばダイビングポイントに、中級者以上、とか、上級者だけ、とか分けている。が、それにしても、消費者がその実行後に、支障なく日常に復帰できることを約束できるものではない。ダイビングも、スカイスポーツも、登山も、安全を当然のものとして期待する一般人には、売ってはいけない類のものなのだと思う。危険について、相応の理解と知識をもっているダイバーに対して売る商品である。
 一般人をダイバーに育てるプログラムは、一般人を対象とするわけだから、安全が保障されなくてはいけない、と考えていた時代もあったが、それも無理だ。プログラムの良否にかかわらず、自分の事情(病気など)で死んでしまう人もいるからだ。
 商品として売ってはいけない類のものを売ってはいけない相手に商品として売っている業は間違いだから消滅するべきだとするならば、それは正しい。僕とすれば、消滅させるわけにはいかない、とすれば、この業についての定義の方を変えなくてはならない。
 ダイビングについて売っている役務は、発生する危険を解消する手段、器財、手助けであり、使う人の安全を保障して販売しているわけではない。もちろんそれが粗悪であれば被害があり、それについての責任は負わなければならないが、
 商品スポーツという言葉のニュアンスには、何か、安全そのものが売られているようなイメージがある。
 冒頭にもどって、ダイビングというスポーツは、商品スポーツは保留して、①生涯スポーツ、②競技スポーツ、③学生スポーツ ④スポーツ感覚で行う事業 僕としてはそんな分け方を提議し、話を進めていく。 
 誤解されるといけないのだが、これはまだ、議論の途上であり、この議論、結論の出ない類のものであるかもしれない。


  生涯スポーツ
 1980年代のはじめごろから、やがて訪れる高齢化社会が地獄のようなものにならないように、日本人が最後までスポーツを楽しんいられるようにと、文部省のスポーツ局に、オリンピックなどをやる競技スポーツ課と並んで、生涯スポーツ課を設け、生涯スポーツの振興を目指した。(1972年に審議が始まり、1987年に実施が決定した。)
 生涯スポーツの定義は、何やらいろいろ書かれていたが、要は高齢になってもやめるな、やめなくても良いようなスポーツが生涯スポーツだ。
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 スポーツを振興させるためには、まず、場所、施設が必要、次に指導者が、必要、もちろん、何をするのか、そのスポーツがまず必要だが。
 新しいスポーツも考え出され、ゲートボールなどがそれで、かなり成功した。しかし、高齢者向けのスポーツは、若い人はやろうとはしない。生涯を通じてできる生涯スポーツではない。高齢者スポーツである。若い頃からはじめて、死ぬまでできるスポーツが生涯スポーツである。必要があれば、アレンジしても良いが。
 施設のことは、置いておき、指導者として国、文科省生涯スポーツ課は、生涯スポーツ指導者の制度をつくった。社会体育指導者と名付けた。
 競技スポーツの方には、巨大な日体協がある。日体協としては、生涯スポーツは、盛んに行われているスポーツの延長線上のことなのだから、ことさらに生涯スポーツの指導者など作る要はないと、考えていて、生涯スポーツ指導者は宙にういてしまった。
 一方でダイビング業界は統一資格を求めていた。
 全日本潜水連盟は1973年全国を統一した形を作り上げ、1975年には、海洋博会場で、ロレックスをスポンサーにして、全国の支部から集まった代表が地域別で優勝を争うスポーツ大会を開催した。アメリカの団体であるPADIは、当時のPADI潜水指導協会として、関東からのチームとして出場し、優勝を勝ち取った。(現在のPADIジャパンとは、違っているが、それはPADIの事情であり、1975年―1980年へと、PADIは、全日本潜水連盟の強力な一角を占めていた。)残念なことに、それまで近しかったNAUIは、PADIが加入するとともに、抜けることになってしまったが、全日本潜水連盟としては、どうすることもできなかった。とにかく統一した資格で、海中開発技術協会もカードの名義人に加わって、全国が同じデザイン、同じ資格ランクの認定証を出していた。
 ところが、世界水流連盟、CMASへの加入の問題で、幾つかの団体が全日本潜水連盟からスピンアウトして、統一は崩れてしまった。所詮は利益を追求するダイビング指導なのだから、しかも、国際資格の影響があるとすれば、統一は一時的なものでしか在り得なかったのだ。
 しかし、これが国家資格、文科省が認可する資格であれば、話は別、全日本潜水連盟は様々なルートをたどって、日体協にアプローチしていた。日体協加盟の条件としては、その団体が、そのスポーツについて日本全国ただ一つの組織で有り、各都道府県に支部があること、であった。努力して、それに近づいたのに、CMASのためにバラバラになった。
 そこに、日体協とは別の、国家資格、生涯スポーツ指導者資格ができたのだ。
 資格取得の窓口になった社会スポーツセンターは、そのころ新興の住宅地として脚光を浴びていた多摩地域に、不動産会社である地産がつくった財団法人であり、現在も多磨スポーツセンターは、セントラルスポーツの傘下に入ったが、着実な営業をしている。その社会スポーツセンターに生涯スポーツ課と繋ぐ動きがあり、小島明将 事務局長が全日本潜水連盟を訪ねて来た。それが発端となり、全日本潜水連盟の副理事長であった須賀が、CMASのために散り散りになっていた仲間を糾合して生涯スポーツの指導者としての統合を提議した。そして、社会体育指導者(地域スポーツ指導者)の資格認可を社会スポーツセンターが行うことが、文科省から認められた。日本で初、ただ一つの国家資格であるスポーツダイビング指導の資格である。1988年、その最初の指導者講習が300人の指導者を集めて、湘南、茅ヶ崎の地産センターで行われた。しかし、このことについて、米国のPADI本部から、米国の日本大使館、日本外務省、経由で日本の文科省にこの資格を差し止めるようにとクレームが入った。
 理由は三つあって、一つは営々と営業努力をして築いてきた、PADIの営業基盤が国の資格によって揺らがされること、一つは、元来、ダイビングの指導は自由な市場であるべきだ。PADIがその国に入って行くときに、すでに存在していた法規にはしたがうが(たとえば潜水士資格)、参入後に起こった資格法規については原則として反対する。もう一つは、日本人は海外でC-カード資格を取ることが多いがそのC-カードが日本の規則のために資格として認められないならば、貿易協定に違反する貿易摩擦になる。
 結局、落としどころは、日本の社会体育指導者資格はあくまでも社会体育の指導者であり、民間で流通しているC-カード発行の資格ではない。すなわち、文科省の認可はC-カードには及ばない。つまり、社会体育指導者がその資格でC-カードを発行することはできない。ということにった。
 僕たちが強固に主張したのは、これらの講習によって日本国民であるダイビング指導資格者の向上を図ることは、日本の権利であり、米国に内政干渉されることはないというものであった。
 年月が経ってみれば、これで良かったのかもしれないと思うことが多い。確かに、ダイビング界の行為を役所に管理、監視されることは気分が良くない。そして、日本の統一を資格ビジネスをからめて行うことは、到底無理であり、別の形の統合を考えるべきだった。まあ、当時もいろいろ努力はしたけど、この形になった。 

ただ、1988、- 1990年代の社会体育指導者の講習プログラムは、誇っても良いものだったと思う。社会体育指導者の資格は、スポーツ専門課程の短大卒業ていどの教養を保持することで認められる。専門科目、技術については、各指導団体に任せるが、プールにおける簡単な実技検定は行う。現在手元に残っている、1989年の関西での講習の教科書、時間割、ノートを見ると、1週間の合宿で、教授陣は筑波大学教授が多く、自分にとっては、ダイビングはともかく、スポーツには門外漢であったものが、この講習でスポーツ指導者としての基本教養を身に着けることができた。ダイビングインストラクターの教養などを考えると、現況のショップで生産されるインストラクターにプラスして、このような講習があるのは良いのではないかと思ったりする。短大に行けと言われたら困るが、一週間の合宿ならば良い。
 
 肝心の生涯スポーツであるが、競技スポーツの継続が生涯スポーツであってよく、同じものだ。資格も日体協のスポーツ指導員の資格に吸収されて、通信教育で資格の取得が出来るようになり、社会スポーツセンターとしての独自の講習は行われなくなった。僕が社会スポーツセンターの常任理事を辞するタイミングで、生涯スポーツも転機を迎えた(競技スポーツに吸収された。一体化した?)と思ったりしている。


 ことさらに言わなくても、スクーバダイビング、スキンダイビングは、高齢でもできる。生涯スポーツである。
 生涯スポーツの項 続く

0730 お台場0729

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 まず、12号台風について、猛暑の根である高気圧に頭を抑えられるから、どこへ行くかわからない。たぶん西に曲がるだろうと想像したので、28日の波左間行き、最後まで粘った。27日に荒川さんに電話して、海況がどんどん悪くなるというので、中止にした。まあ、26日の時点で、半ば中止を心に決めてはいたのだが。
 次が29日のお台場の定期観察だ。
 これは、その日その時に台風が東京に上陸しない限り決行と決めていたが、東京上陸も予想されていた。僕は静岡に上がると思っていたので、28日に決行を決めた。
 三重に上陸したのだが、小田原から熱海の沿岸、初島のダイビングサービスなどがやられた。僕がほとんど行かないポイントだが、仲間意識はある。
 自然と触れる形で自然と対峙するとき自然が人間の生きることに加えるストレスを免れることはできない。受け入れ対処する他ない。ぼくたちダイバーは、ナイーブに自然の力を受け入れつつ自然の中で、目的、目標を達成するべく、そのための努力を惜しまず、自然の中で生きようとしている。
 2020年、東京でオリンピックが開催される。その競技のうちのいくつかを東京の海で開催しようとしている。そのうちのトライアスロンをお台場で開催しようとしている。それが決まった経緯を知らない。何も考えない人が自然条件を考えないで、東京都内にこだわってエイッ! とばかりに決めた?。後はテクノロジーで何とかなるだろう。その考え方、姿勢を否定するものではない。これを機会に東京の海を浄化してしまおう。僕ら、JAUSも委員会を作ったりしてその道を探った。
 できない。東京湾、東京港という自然の中でやろうとするならば、その自然を受け入れるべきだろう。生物化学的な方向も考えたが、恐ろしい。東京港、江戸前はそれなりに漁業を継続している。マハゼ、アナゴ、二枚貝の類、薬品の散布、バイオ的な改造は、そのバランスを崩してしまう可能性がある。
 
 僕たちが、自分の意志、自分の責任で泳いだり潜ったりするのは、どうということはない。制約があれば、お願いして制約を解除してもらう。そのパターンでなんと22年も潜り続けている。ダイビングが大丈夫なのだからトライアスロンも大丈夫、と考えるならば、即解決。しかし、トライアスロンには、そしてオリンピックには、クリアーしなければならない水質基準がある。これは、スポーツのルールの範疇だから、変えられない。特例も認められない?。
 薬品、生化学的な対処が危険とするならば、物理的な対処しかない。すなわち、人工的なプールを作る、使う。または、フェンスで海を仕切り大雨のあとの下水の氾濫による汚染をシャットする。
 プールとしては、船の科学館に大きな流れるプールがある。これを拡大してやったら、その後の都民のレク施設としても大いに役立つ。日本財団だから、できないこともないだろう。このプールでスノーケリング講習会もやった経験のある僕としては、これが一番と思ったが、それは、考えられもしなかったのだろうか?その理由など、知る由もない。
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 残るのはフェンスであり、そのテストがお台場で行われている。オリンピックは何とか成功してほしいが、お台場といえども世界の海につながる自然なのだ。台風もくる。予想外の大雨、洪水、高潮もある。
 そんな災害が、オリンピック期間中に来れば、お台場トライアスロンは残念だが延期、中止しかないだろう。その時、海辺では、ダイバーの陸上施設、ボートなどが、壊滅的な被害を受けることもあるのだ。被害があれば再建して、リニューアル、損害を挽回する。できなければ消滅、廃業、命を落とす人も多いのだから、生きてさえいれば何とかなる。期限を切られているオリンピックでは、時間的な挽回はできない。
 ダイビングもそうだが、トライアスロンも自然の中でやるのであれば、バランス感覚が必要、ルール(水質基準)の拡大解釈はできないものだろうか?。
 そんな、フェンスの状況を自分の眼で見たいというのも、29日のダイビングの目標の一つだった。 お台場は、周年ドライで潜ると決めていた。くそ重いウエイトになれておきたいからだ。僕の一番の問題はタンクを背負いウエイトを着けて立ち上がり歩くことだ。岸からのエントリー、エキジットは、一人では事実上、残念ながらドライでは難しくなっている。だからこそ、ドライにこだわっているのだが、それにしても、今年の猛暑だ。7月、8月くらいはウエットになっても良いではないか。そうしよう。
 一回目の潜水、しばらくぶりの海での潜水だ。ウエットでの、肌に触れる水の感触が楽しみだ。
 バッグを開けたら、ウエットが入っていない。忘れたのだ。バッグから出して確認して、バッグに入れることを確認していない。ドライのバッグは車に積んである。
 熱射病を覚悟してドライで行こう。裸で、もちろん水泳パンツで、ドライに入った。思ったよりも暑くはない。尾島さんのアシストでエントリーする。
 カメラは、Olympus TG-4とSJの組み合わせを選択した。
 水面をスノーケルで泳いでフェンスに向かった。泳げない。進まないのだ。そんな馬鹿な、泳ぎはスキンで練習は続けているのに。まあ、進まないと言っても自分の気持ちとのギャップだが。
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 フェンスは、この前の6月のお台場調査のあとに入れた。一ヶ月強だが、付着生物がびっしり付いている。深さは3mで、下部はスカートのように海底から浮いていて下の水は流通している。大腸菌の多い水は水面なのか、トライアスロンは水面を泳ぐから、海底近くは無関係?水が変わらないと海底の硫化水素がたまる?腐る。今度聞いてみよう。
 海底はヘドロだが、硫黄細菌は例年よりは少ない。
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 フェンスの魚礁効果で、メバルとかシマイサキが付いているかと思ったが、魚は全く見られなかった。
 海底を這うようにして岸へ向かう。中性浮力がとれない。体が忘れているのか。思い出さなくては。
 牡蠣も全部、茶色い付着生物に覆われている。透視度は50cmくらい。その50cmの距離もどんよりしている。マハゼも少なく、それも、シャープに写せない。濁っても、寄ればくっきりするのにクッキリしない。
 岸沿いに進路を変えて、杭の列に向かう。
 杭の下のマハゼも少ない。これまでの最低か?メバルも居ないし、トサカギンポもいない。
 アナゴらしい頭を見つけた。写した魚はこれだけ、それも、Olympus TG-4の距離では濁ってシャープではない。撮影可能透視度は10cm以下か。
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 曳航しているブイが足に絡まって動きにくい。BCに結ぶ位置が悪かった。カメラに結んだ。なーんだ。これで正解。カメラを落とす心配もない。
 エキジット、尾島ママの肩を借りても立ち上がれない。歩けない。仕方ない。タンクを脱いで、運んでもらった。
 
 どんなにつらくても、二回潜水する。そのつもりでタンクに100残している。なお、お台場は、水深1m未満の場所で、大部分の移動をする。
 午後1350二回目のエントリー、多留さんにアシストしてもらった。
 今度のカメラはOlympus TG-4にAKASO、AKASOがお台場でのエースカメラだ。
 二回目になると身体が動くようになる。本当は一回目の前に体操とかするといいのかも。ドライスーツを着て、ウエイトを着けて歩くのが体操の代わりになると思うのでやらないけれど、なお、ドライはサウナスーツとなり、かなり水を飲んだのだがトイレには行かないで済み、熱射病にもならなかった。
 
二回目の潜水は、エントリー砂浜から離れずに、湧水の在りそうなところを探った。6月9日のクリーンアップの時、数日前に赤潮が入り、水が臭いような状況、透視度としても悪かったのに、この一角だけ透視度がやや良く、水温も冷たいところがあった。同じところを見つけたいと動き回った。6月の時よりも状況が悪く、はっきりとは探せなかったが、感覚的に、ここかなと思える場所があり、それは6月の時とほぼ同じ、公衆トイレの前あたりだった。まさか、トイレの排水がしみ込んで湧出しているわけでもないだろうが、ポイントとしてこのあたりである。
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 なお、砂浜で、エントリーした直後の岸に近く、ホンビノスが多い場所に当たった。多い場所とは、無作為に砂の中に手を入れると、数個のホンビノスが掘り出せる。そんな場所である。風呂田先生は枠で獲って数を数えている。 自分なりに今回のダイビングをまとめると、毎年、7月が、溶存酸素も少なくなり、生物的には最悪の状況になるが、今回は、マハゼの数が少なく、群れている場所を見つけることが出来なかった。青潮で、生き物が死滅した2012年を除いて、悪い7月だった。生物的には、年々、種類数も数もへっている。カニの類は全く見ることが出来なかった。
 これまで見たことが無かった、やや大型のアナゴが、杭の場所で見つけられたが、それだけだった。
 
 

0802 生涯スポーツ 2

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生涯スポーツ(2)
 もう一つは、自分が続けるスポーツとしての生涯スポーツである。
 ダイビングは、フリッパ―競泳など、泳ぐ速さを競う競技も行っていたが、それは、水泳競技ではなくて、安全のために泳力を強化するための競技と考えた。今では、シニアの競泳なども立派な生涯スポーツだと思っているが、1990年代は、水泳競技は、体協の領分、生涯スポーツではないと考えていた。後で述べるが水連との対立もあったのだが。 生涯泳ぎつづけ、潜り続けるために、僕は1987年、完全に禁酒した。なお、禁煙は33歳のころからである。
 60歳の100m潜水をやったころから、高血圧であり、他にも次々と障害は出てくる。決して健康体ではない。しかし、すべての運動をやめたところで、寿命が延びるわけのものでもないだろうし、80歳を越えると、とにかく死ぬまで頑張るというのが、生涯スポーツだろう。今、もし、すべての運動を禁じられたら、寝たきり老人になる。
 出来るだけ、人の助けを受けないでダイビングを続けたいが、重いタンクとウエイトを背負ってのエントリーエキジットは辛い。一年一年とこれまで出来たことが出来なくなってくる。別に記録を作るわけではない。出来ることを出来る限り続けたいのだが。 さて 次は施設だが、
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 辰巳国際水泳場 1993年8月オープン
 東京オリンピックで作られた代々木に代わる競技水泳の聖地、殿堂だが、意外なことにこのプール、スクーバダイビングもする事を目指して作られている。そのいきさつについて残念だが詳しいことを知らない。
 文科省に生涯スポーツとしてのダイビングを働きかけたのは、正にそういうことになるのを目指したのだが、それと関連があったかどうかわからない。
 建設の途上で、都庁にヒヤリングに呼ばれた。深さ5mの飛び込みプールでスクーバダイビングをやらせる場合の何かアイデアを聞かれた。タンクを背負って上がりやすい階段を提案したが、もう設計変更できないと言うことでそれはそれまでだった。
 1993年8月にプールができ、社会スポーツセンターは、1994年、この辰巳プールで第一回の水中スポーツ室内選手権大会を開催した。成功して、この大会は、後に習志野に移るが今年で24回になる。
 この競技会は1975年に沖縄海洋博で行われたロレックスがスポンサーで行った水中スポーツ大会の延長線上にあるもので、僕はその最初の企画の段階から関わっているが、自分が選手となって泳ぐ発想は無かった。しかし、辰巳に会場を定めて、室内選手権になった機会に、生涯スポーツという視点から、年齢別の表彰をする事になり、僕は400mフリッパーレースに出場して60代の部で優勝した。
 一回目は一人だけで泳いで金メダルをもらった。
 2個め、3個め、4個めの金メダルは誇れる記録で、一緒にコースを並べて泳ぐ、50代の選手の何人かを抜いている。
 1996 7分06秒 61歳
 1997 6分40秒 62歳
 1998 6分29秒 63歳 自己新
 1999 6分48秒 64歳
 2000 癌の手術
 2001 7分17秒 66歳
 2002 7分26秒 67歳
 7分が切れなくなり、金メダルもとれなくなったので2003年からやめてしまった。
 今振り返れば、タイムとか勝負にかかわらず続けて記録を取っていれば良かったと思う。それが生涯スポーツだ。 辰巳の管理は、まず都の財団が行っていて、その時代は、プールの主催事業としてのスキンダイビング講習会、スクーバダイビング講習会も僕が講師として行うことができた。
 やがて、管理が民間に移管され、コナミグループから、セントラル・オーエンスなどが行うようになり、5mのダイビングプールは、貸し切りで練習を行うスキンダイビング、フリーダイビンググループの場となった。当初はほとんど競争無く借りられていたのが、今は抽選が激烈である。自分も「日本潜水会」というタイトルで参加し、何とか月間で2~3回を確保している。
 さて、辰巳に続く、僕のスキンダイビングのホームグラウンドである浦安運動公園は、まさしく、日本有数の生涯スポーツのための施設である。水泳、スキンダイビングなどの多目的水泳、車いすのための設備、リハビリのための歩くプール、子供たちのための浅いプール そして体育館としてのほとんどの球技、トレーニング施設、武道館、屋外のグランド、こういう施設が全国に作られることが、国としての生涯スポーツの目標だったのだと思う。浦安の場合、千葉県としては、近くに習志野に観覧席付の大きな競技用プールがあり、習志野が競技用の施設だから、浦安が生涯スポーツの施設になったと聞いた。1996年の竣工である。 2002年、僕は、辰巳の主催事業であったスキンダイビング講習から、派生して浦安運動公園の屋内多目的プール、水深3mの20mプールでスノーケリング講習を行った。そのころは、スノーケリングとはスキンダイビングのことだったので、タイトルはスノーケリング講習だった。後にスノーケリングは、潜ってはいけないことになり、悩むことになる。その講習は大好評で、そのときの講習生を中心にして、浦安海豚倶楽部ができた。この倶楽部が僕の生涯スポーツとしてのおおきな成果になっている。続く

0805 生涯スポーツ3商品スポーツ、競技スポーツ、そして冒険

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 国、文科省の定めた社会体育指導者資格は、地域スポーツ指導者と商業スポーツ指導者という二つのランクがあった。商業の方はお金を稼ぐプロ資格である。それぞれのうちで、C 級、B級、A級のランクがあった。僕は日本で数少ない地域スポーツのA級になったが、別に国が給与をくれるものでもない。ボランティアの資格なのだ。
 とにかく、その地域スポーツ指導者の果たすべき役割は、浦安海豚倶楽部のような地域市民クラブをつくる指導者を想定したものだったのだろう。ダイビングショップのオーナーは、商業か?微妙だ。
 しかし、この浦安市民クラブの土台、仕組みをつくったのは僕ではない。最初の会長さんになった成田さんという女性がプロのプロデューサーであり、彼女のおかげで、このクラブができた。ダイビング業界的感覚では僕をクラブの会長にとか考えるところだろう。僕もそんな風に思っていた。しかし、彼女は、一時たりともそんなことは考えなかったと思う。
 社会体育指導者は、そのスポーツ、たとえばダイビングのプロであるよりも、このようなオーガナイザーのプロであるべきなのだと勉強した。
 市民クラブなので、会長さん、役員は一年で交代する。会長、副会長、会計が三役であり、本当にご苦労様な経営を続けてくれていて、僕は何もしないで、みんなと一緒に生涯スポーツをやらせてもらっている。
 このクラブのこれまでの春秋、移り変わり、あり方を書けば、生涯スポーツの一つのテキストになる。
 このクラブはスキンダイビングのクラブである。このクラブでスキンダイビングを習い覚えて、スクーバダイビングに進んだ人もいるし、すでにスクーバダイバーであった人がスキンダイビングをやろうとしてクラブに入った人もいる。まったくスクーバをやらない人もいる。スキンダイビングとスクーバダイビングのオーバラップするバランスというものは、かなり微妙である。それは、その人それぞれのスタイルである。


 スクーバダイビングの進化形ともいうべきテクニカルダイビングになると、一概に言えないが、スキンダイビングとのオーバラップはほとんど無くなってくる。スキンダイビング、スクーバダイビング、テクニカルダイビング、この三つのバランスがどのようになっていくのか、この業界のキーかもしれない。
 僕としては、自分のスキンダイビングとスクーバダイビングのバランスが好きだが、もはや過去のスタイルだろう。
 
 今年、海豚倶楽部で、沖縄本島に年に一度のツアーを行った。とても楽しかったが、高齢者のスキンダイビングが異端のように受け止められている空気だった。ライフジャケット型の浮きを着けて、沈まない、潜らないスノーケリングが推奨されている。
 ここに至って理解した。スノーケリングは、中田さんの定義の商品スポーツとして、ジャストに成立する。ジャケットを着けて、潜らせないということで、一般向けの役務商品としての条件を満たすことができる。スキンダイビングは、生涯スポーツ、スノーケリングは商品スポーツなのだ。
 たとえば、僕たちの泊まったホテルを朝に出発する水納島スノーケリングツアーという商品がある。バーベキューも付いて、1000円と割安だ。しかし、スキンダイビングは、認められない。このあたりのメカニズムが理解できていなかった僕は腹を立てたが、今や沖縄のビーチは、商品スポーツの場なのだ。海豚倶楽部が毎年のように通っていた慶良間の座間味も同じようなことになっているという。
 スキンダイビングのできる場所は次第に狭められていく。狭められれば混雑するから、ビジネスになる。西伊豆のヒリゾ浜などは、駐車場に車を止めるのが早朝でないと困難と言う状態である。 また、中田さんの本からの引用だが、ダイビングは致死性スポーツ、すごい言葉を繰り出すものだ。しかし、当たっている。文科省のスポーツ事故の会議に出たことがある。ダイビングでは、事故というと死亡事故、他のスポーツの事故は、突然死をのぞけば、
※突然死の可能性はすべてのスポーツにある。建設労働者でも、冒険者でもそれはあるから、別に考える。
 突然死をのぞけば、一般のスポーツは、最悪で脊椎損傷、あとは、アキレス腱とか骨折、格闘技でも殺してしまうことはない。それにつけても脊椎損傷の可能性があるアメフトで、あの空気は許されない。空気は監督の責任だ。日大は秋のシーズン出場停止が解けなかった。その理由の一つが、他のチームの安全の為、だった。殺人集団だと決めつけられたのだ。
 危機管理を誤ったため、日大全体が危ない。 話を元に戻して、ダイビング事故と口にすると、それは、死亡事故を指すことが多いのだ。つまり、致死性だ。 たいていのスポーツに適性というものがある。
 ダイビングについて適性のない、危ないなと見える人が、100人に一人ぐらいはいる。適性の無い人はやろうとしないことが多いのだが、それでもやる人が居て、その多くは体験の段階でやめていく、やめなくても、昔のような小人数のクラブ組織であったならば、みんなのケアで、なんとか克服してダイバーの形になる。生涯スポーツならば対応可能と言うことなのだが、商品で3日間で卒業、19800円とかいう講習は、体験して自分に適性があるのかどうか、適性判定のための商品であろう。
 適性の無い人が、やめもせず、商品だから、適性の無い人への個別のケアもなく、続けた場合悲劇がおこる。
今の海豚倶楽部は、倶楽部としてスクーバは、やらない。今年の沖縄では、スクーバをやる人は別に残って、スクーバを楽しんでいた。
 始めた当初は、スキンダイビング、そしてスクーバダイビングへと段階を踏んで行こうと考えていた。しかし、どうしてもスクーバへの適性の無いメンバーがいる。スキンダイビングならば、何の問題も無く安全にできる。
 また、スクーバダイビングは、60歳以上から始められることは勧めない。60歳以上ではじめてインストラクターになった方もいるから、熱意と適性があれば、可能だが。 息こらえ素潜りのスポーツとしては、バリバリの競技スポーツになったフリーダイビングがある。競技スポーツと生涯スポーツのクロスオーバーは、悪いことではなく当然なのだが、水に潜るダイビングの場合、その境界部分での安全管理が難しい。スキンダイビング・セーフティでは、改訂版でその境界を明らかにしようとした。スキンダイビングは、最大水深が8ー10m、潜水時間1分未満を限界とすることにした。
 競技としての、あるいは競技練習の安全管理設備とガードがない息こらえ潜水は、スキンダイビングの範囲を超えるべきではないと思うが、成人が自分の考える安全策の範囲で行うならば、フリー、自由であるべきだろう。限界が定められていても、自分のプライドでそれを越えることは、嫌いではない。それを、角幡唯介の言う、脱システムの冒険と呼べるかどうか、僕は、立派な冒険だと思う。
 僕が考える冒険とは、商品スポーツ、学生スポーツでは禁忌であるが、定められた線、限界を自分の考え、責任で、自分の意志で越えることはある。そこにシステムがあっても、それを越えれば、脱ぎ捨てれば冒険である。冒険を推奨しないが、禁止とは言いたくない。

 
 一般的な基準としては、危険に類することは、スポーツとして可能な限り安全ネット(システム)を張って行うとして、これは、脱システムの冒険ではない。なんとかシステムを作り上げて挑もうという行動である。
 具体的に言えば、大深度潜水、沈船ダイビング、洞窟潜水、僕の時代には、これらは自由に自分の責任で危険を冒して冒険できた。死ぬのは自由だ。今はテクニカルダイビングと呼んで、システム潜水ではない形でこれを行おうとしている。システム潜水とは、船上、からホースで送気し、通話機からのトップ(船上)の指揮で潜水する方法で、安全管理の責任は船上のトップにある。高気圧障害防止規則では、40m以上の潜水はこの方式で行うことになっている。
 テクニカルダイビングとは、混合ガスの使用が必須になるほどの深度に、混合ガスでスクーバで行う潜水である。システム潜水が安全第一であるとするならば、テクニカルダイビングは、システムの枠から出たと言う意味で冒険的な潜水である。
 真正な、すなわち無謀性を重視する冒険ではない。また、安全を追求するので、冒険と言う言葉をかぶせられることを嫌って、テクニカルと呼んでいるのかもしれないから、冒険と呼ぶと怒られるかもしれないスポーツである。
 ここで、テクニカルをスポーツと呼んだわけは、スポーツでないならば、システムダイビングで行わなくてはならないからである。そのことにはまた別の問題はあるが。テクニカルで業務をしては、いけないのかとか、
 
 ダイビングをスポーツとしての視点で考えている。僕の場合、ブログは考える道具であり、書きながら考えているから、結論ではないし、矛盾も出てくる。結論に向けての議論なのだ。

0808 競技スポーツ 自然を相手にするスポーツ

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競技スポーツ
 競技を生涯スポーツとしてやることも多い。しかし、スポーツの中で、競い合わない。自然とともに過ごす、自然と同化するスポーツ(身体活動)もあり、それは、純正な生涯スポーツとも言える。ダイビングはまさしくそれだ、と1987年当時、主張した。そして、競技スポーツよりも生涯スポーツの方が上位にある概念で、生涯スポーツの中で、勝負が最上位にくる。すなわち勝たなければ意味がない。常に勝利を目指すものが、競技スポーツだ、とも考えた。
 2020年、東京オリンピックが行われる。東京は、「そこのけ、そこのけ、オリンピックさまが通る。」それに反対しているわけではない。お台場で行われるトライアスロン、できる範囲の協力を申し出ている。しかし、自分にとってのスポーツは生涯スポーツであり、日本国民全体のためには、生涯スポーツを大事にするべきだと考え続けている。
 そして、ダイビング、水に潜るスポーツは、オリンピックスポーツにはなれない。競技スポーツの人別から外されている。登山、ダイビング、スカイスポーツ、と人別外のスポーツを並べてみるとわかる。これらは、中田さんのいう商品スポーツで、安全至上、安全が義務である致死性スポーツであり、その致死性ゆえにオリンピックから外されているのだ。生涯スポーツこそが、スポーツであるから、これらすべてを包括している。
 第一回、アテネで開かれた近代オリンピックの始まりには、潜水距離を競う、今アプネアでいうダイナミックがあった。しかし、この競技は、最後は生死を競うことになるということで、オリンピックから
外された。
 水泳競技からも、潜るという行動は否定される。オリンピックで、水泳、平泳ぎの古川選手が潜水泳法で驚異的な記録で優勝した。平泳ぎ競技を見るとわかるが、造波抵抗の固まりだ。潜った方が速いに決まっている。
スポーツ庁長官になった鈴木大地は、潜る背泳、バサラで金メダルをとったはず。もちろんバサラも制限された。とにかく、オリンピックは日本人選手が潜水して勝つと禁止される歴史を辿っている。
 フィンを着けて泳ぐフィンスイミングもオリンピック競技にはならない。中国が強いので、北京で正式ではないが参加した。すべてのオリンピック種目より速い。そして、推進に道具を使っている。だからだめだ。これには、僕も少しばかり関わった。僕たちの水中スポーツと、フィンで泳ぐ共通項があるので、一緒にできる部分もあるかと打診されていた。
 スポーツには、ある制限ルールのもとで競うという本質がある。制限を道具、あるいは文化の違いで突き破ると否定される。そうでないと競技スポーツの歴史(記録)が成立しなくなる。
 フィンスイミングも、生涯スポーツとして、盛んに行われるようになった。辰巳国際水泳場に行くと、フィンスイミングの練習が目立って見られる。大きなものフィンを背負ってくる女性スイマーが目立つ。フィンスイミングは、スピード感があり、泳ぐ姿も格好いいのだ。やがては、オリンピック種目にもなるかもしれない。
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 自然を相手にするスポーツ
 ダイビングは、自然を相手にするスポーツである。そのことが、生涯スポーツとしての価値を高めている。自然を相手にする。自然の中に溶け込む。大きな自然の中で、自分の意志と感覚で、自分の生命、そしてチーム、バディとそれを共有する。バランス感覚とメンタルが、結果を、場合によっては生死を決める厳しいスポーツである。そのことによる緊張と喜びが自分の生きる力になる。人それぞれだからそれぞれの考え、解釈があると思うが、ぼくは、そんなふうに考える。
 そして、もう一つダイビングで何をするかという問題がある。ダイビングは、それ自体、それだけでも、今述べたような価値があるスポーツだが、僕らの世代は、ダイビングは、水中で人間が何かを成し遂げるための道具だというフィロソフィーを吹き込まれてそだった。海洋開発の時代である。人は地球上最後のフロンティアである海へと向かう。そのことを生き甲斐にして、自分の人生を送ってきた。
 その何かとは、それも人それぞれだが、僕の場合は撮影記録であった。大多数のダイバーがそれぞれ目標は異なっても撮影が目的、目標になる。ダイビングと撮影は不可分になっている。この撮影が、無理をするモチベーションにもなるのだが。
 僕の場合、それらの行動が、年齢が進むとともに、生涯スポーツと不可分のものになっていった。60歳が普通の職業で定年だが、その定年後はことさら、その区別がつかなくなった。生きていることそのものがスポーツになる。
 人それぞれが口癖になってしまうが、多くのプロダイバーは、ダイビングショップでも、作業ダイバーでも、研究者でも、スポーツ感覚で仕事をしてきた人が多いだろう。自分の場合、そのことが、自分の仕事を経済的な成功に結びつけられなかった原因になった。決して後悔していないことが厄介だが、つまり、自分の仕事、事業もスポーツだったのだ。
 特筆しなければならないのは、研究者にスポーツマンが多いことだ。科学研究は、イコール探検である。
僕の座右の銘は「探検は、知的情熱の肉体的ひょうげんである。」スコット南極探検隊のチェリー・がラードのことばだ。表現を少し変えると、「探検はスポーツである。研究は未踏の地を探る知的な冒険である。」 これは、今別に書いている高気圧障害防止規則のこととからまりあう。ダイビングの場合、スポーツと労働法規にいう業務の区分けができにくい領域が発生してしまう。この規則は、人、スポーツを未知の領域をさぐる研究者を労働法規で縛る。また、縛られないことを至上と思っているスポーツダイバーを不幸にするものかもしれない。しかし、コンプライアンス、規則は守らなければ、社会は継続していかない。そして、やはり、安全管理、危機管理は、ルールなのだ。
 

0809 学生のスポーツダイビング

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中央大学の50周年記念から書き始めた、この一連のブログ、周り巡ってまた学生のダイビングに戻ってきた。
 学生だからと取り立てて変わったことをするのではないが、学生の部活動でのトレーニングは、商品ではない。日本の現行の体制があるので、Cカードを購入する場面はあるが、それとは別のパーフェクトな安全を追求できる。しなくてはいけない。
 コスト、原価と言う制限がかかる業界の商品としてはできない安全管理でも、学生の倶楽部ではできる。学生が一般人として、お客としてショップを訪れるシーンでは、一般と変わらないが、学生が学生クラブによって行うダイビングならば、違った形の完全を目指すことができる。
 学生が学生クラブとして行うダイビングは、自分たちが定めたルールのもとで、チームとして安全第一を貫いて行動(潜水)する。チームだから、そのことを強制される。強制と言う言葉を使うと、しごき、パワハラを感じさせるが、強制的にパワハラは禁じられる。冒険的な要素も排除される。冒険は部活の外で個人で行うべきことである。同じような意味で、競技スポーツとしてのフリーダイビングもここでは排除される。フリーダイビングをやりたいならば、個人でフリーダイビングの門を叩けば良い、もしくは自分の全責任でフリーダイビングの部を作れば良い。理由は簡単で、一つのクラブの中で、二つのスポーツの両立は、危険性が大きくなる。学生のクラブは、原則として、スキンダイビングからスクーバへと進む。フリーダイビングは、フリーダイビングだけを追求する。フリーダイビングをするならば、個人として、教えてくれるところの門をたたくか、自分の責任で別の部を設立するべきである。スキンダイビング・セーフティの共著者の千足先生、藤本先生の教室で、そんなクラブができている様子。今度、10月27日にお台場で一緒に潜るので、訊いてみよう。しかし、クラブというもの、学生が主体となってつくるものであり、先生が号令すれば、授業になってしまう。 スキンダイビングの練習は重要だが、限界、境界を越えないようにする。休憩時間中、終了してからのスキンダイビングは、監督、コーチが同行しない限り、禁止する。昔、この例の事故が多かった。対、昼休みにひと泳ぎしたくなる。それが危ない。 潜水に関わる大学の部活は、何よりも安全を優先して、できれば監督、コーチの統率のもとに、上級生、下級生が、そのクラブが定めるルールのもとで、チーム(バディシステム、ユニット、フォーメーション)を形成して安全を図り水中で活動する。できるならば水中での活動の目標が明確であった方が良い。
 これらの一連の活動は、もちろん楽しさの追求も必要であるが、チームを作り、それぞれの活動にそれぞれが責任をもって、危険(ダイビング)に挑むことにより、自分の成長が図られる。
 監督、コーチが果たすべき責任の相手は、父兄であり、学校当局(具体的には顧問の教員)である。顧問が監督を兼ねる場合もあるが、顧問は、学校当局を代表してスーパバイズする役割と目されるから別であった方がいい。
 監督、コーチを役割として置く理由は学生は卒業していってしまう。連続して見ることができない。継続する責任を負うこともできないからである。
 OB会はこれをバックアップする。監督、コーチが未経験で荷が重いような場合には、全体を俯瞰するスーパバイザーを置く場合もある。OB会の会長がこの任を果たす場合もあり、外部に委嘱することも考えられるだろう。
 なお、危機管理については、中央大学50周年の項でも書いている。 学生クラブをダイビングショップが運営するような、インターカレッジサークルもあり、ダイビング業界としては、大きな期待がかけられる。これは、運営するショップの考え方、営業方針によって大きく変わるから、個別に見ていく他ない。 筆者の知る限りで見ると、早稲田水中クラブは、ショップが運営するのではない、伝統がある部活動でありながら、インターカレッジサークルの形態をとっている。興味深く、また縁もあったので、もう少し関わって研究したかったのだが縁が切れてしまった。 学生クラブ、サークルの形を見ると多様であり変動している。それぞれの形態における安全管理、危機管理を追求しなければならないが、基本としては、管理体制が明確でわかりやすいこと、安全管理ルールの明確化と徹底であろう。
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  左側法政アクア創立加藤芳雅君。右側、学習院大学クラブ創立 野田充彦君

 筆者が関わった、あるいは親しくさせてもらった大学のクラブ、部活動は、母校の海洋大学が60周年、中央大学が50周年、学習院大学が50周年、法政大学が50周年余 東京大学海洋調査探検部が49年で50周年を迎えようとしている。100年の無事故を目指す手伝いができればと思う。現在のところ、ここに述べた程度を基として、アドバイスしながら観て行くことができればと願っている。




0813 空へ 営業スポーツ事故

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「空へ ジョン・クラカワー 海津正彦訳 文春文庫 2000」 前に一度読んでいる。エベレスト営業遠征隊1996年の大量遭難を書いた、著者も一緒に行動している本格的なノンフィクションである。登山とダイビングは、全然別だが、致死性ということで共通項がある。自分が考えをめぐらす上で、このノートを書いたことがポイントの一つだった。

 角幡唯介の新冒険論では、営業登山は冒険ではないと書いているが、これはこれ、エベレストを売るという、とんでもない冒険である。中田さんの言うところの商品スポーツであるが、安全が保証された役務商品どころのものではない。こんな登山に比べれば、ダイビングの危険などかわいいものだ。それでも参加者、顧客は、800万円とか、巨額な参加費を払っても死の危険へ突き進んで行く。死の危険がモチベーションになって進んでいく。もちろん、必死になって生き延びようとする。「わけもなく死の危険に突き進み、必死に生き延びようとする」これが冒険の定義、確か本多勝一 の定義もそんなものだったかな。{この後、本多勝一の「冒険と日本人」について書きます。) そのエベレストの有様が克明に書かれている。 商品スポーツの危険度は、段階があり、顧客はその危険度、危険の内容を熟知した上で購入しなければいけない。 ダイビングの危険度などは、低く、安全を確保できる。安全だと言い切れるほどの危険度であることが、危ない。このエベレストの事故も、隊長のロブ・ホールの過信が招いたものといえる。隊長も遭難死してしまうのだが、生き残っていたら、どのような責任の取りかたをしたのだろうか。  ところで、ダイビングの危険を分析すると  ※ 僕の場合、分析とは四つにわけること ①空気がなくなる:時間との戦い ②流れとか波 海の物理的力に捕まる ③突然死 海の中にAEDがない。 ④減圧症:窒素酔いなど生理的障害  つけたりで⑤メンタル  ⑤のメンタルが、①②③④の原因になるという相関がある。 エベレストでも、酸素がなくなることが重大だった。そして、時間計画の不備、時間切れが、最大の事故原因だった。そして、物理的な強風と寒さ。 8000mから上はダイビングと同じ。時間との戦いだった。エベレストの方が10倍も危険だろうが、思い上がりが事故を産むということでは同等

0815 本多勝一 冒険と日本人

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本多勝一 冒険と日本人 集英社文庫 s58  1983  角幡唯介の新冒険論から始まって、中央大学海洋研究会の50周年記念、そして、東京海洋大学潜水部の現況にからむ不安と提言、そして東京大学海洋調査探検部の復活を考えつつ、冒険と探検、そしてスポーツ、大学生のダイビング活動の様子、あり方などを考え、かつ書いてきて、その流れの中で、もう一度、本田勝一「冒険と日本人」をノートをとりながら、読んでいる。この本がでたとき1983年にもかなり熱を入れて読んだのだが、その時なにを考えていたのか記録がない。その記録をしていくという意味で、ブログというものも、大事な貴重なものだ。 多分、1983年の考えと今、2018年83歳ではずいぶんと開きがあるだろう。 そんなことで書いているものだから、このテーマ、エンドレス状態になっている。ブログだから、そのまま生に近い状態で出している。 多分、何人かの人が読んでくれているだろう。  以下は、「冒険と日本人」現在のノートである。本が1983年だから、かなり古いが。  でも1983年とはどんな年だったのだろう。今、「ダイビングの歴史」をライフワークの一つとしてかいているが、その年表で1983年を見ると。 31983 昭和58年 「おしん」 日本潜水会、親睦団体として再出発、以後、2009年まで、年に一度集まるクラブとして存続 日本水中科学協会の設立を応援した。 1983 世界初のダイビングコンピューター Orca Edge が販売された。 1983 業界 大瀬館 ダイビング施設導入 1983 スポーツ 海洋フリッパーレース始まる。東海汽船主催のマりンピックが行われる。 1983 マイアミ大学で科学的ダイビングプログラムに基づく潜水が始ま る。 個人の年表で見ると1983年は何ほどのことも無かったが、1982年がにぎやかだ。 1982 s57 47歳 沼沢沼で400mの取水口トンネルの調査工事をする。水深33mだ。 1982 日本潜水会 関東潜水連盟とする。 1982 s57 法政の事故 潮美大学1年生 1982 山中さん日本テレビの番組で 流氷に潜る
1982 知床で神の子池 を発見する。
 
自分が探検と冒険の最中にあった。とても、ノートを取って本を読むどころではなかったろかもしれない。読んだ記憶はあるし、形跡もある。  本多勝一に戻って、  冒険の定義として冒頭で「ゆきづまった時の突破口」としているが、これは、日常の常識的な冒険であり、非日常の冒険とはいいがたい。  本多は人間には「人間界には、冒険族。非冒険族という二つの門がある。」動物学の門を持ち出している。すなわち、人種とは違うもっと大きな区別である。僕は、冒険族に属しているから、非冒険族の考え方、価値観など理解できないのではないか、もちろんその逆もある。この間に相互理解などないのだ。正否もない。このことは、今、83歳になって、そうだったのだ。と、思い当たる。そして、これは僕の感慨だが、意外?なことに、人類は冒険族が多い。僕の周辺部、ダイバーという人種は、冒険族だから、その中で僕は自分の価値観が否定されないで生きてこられている。 まず、堀江謙一の「太平洋ひとりぼっち」これが日本人に与えた衝撃は、おおきなものだった。 堀江はパスポートなし、出国許可なしで、吉田松陰のように小さなヨット「マーメード」で、海保の目をくぐり抜けて密出国してしまう。日本のマスコミの論調は不定的で、アメリカに到着したら、逮捕され、強制送還されるだろうというものだった。 ところが、彼はアメリカで歓迎され名誉市民にもなってしまう。この日本とアメリカの落差、日本のマスコミも当然アメリカに追従する。 堀江さんは、日本でも英雄になった。 朝日新聞の賛辞「人類の将来に大きな寄与をする点では、宇宙開発計画などの意義は絶大だが、他方、個人の冒険心が人類活動のささえになっていることは何時の時代にも通じていよう。南極のスコットを今もなお敬愛し続ける英国人の間には、つねに純粋な形でのアドヴェンチャが尊ばれているように思われる。」朝日新聞1962 8月15日  一方、堀江謙一の3か月前、ドラム缶を束ねた筏で太平洋を渡ろうとした、金子健太郎は海保に逮捕されて拘留される。 本多は、金子にもインタビューしている。その後、1974年 金子さんは再度チャレンジして、今度は規則通りに出国したが、日本近海を出ないうちに、時化にやられて、帆を一枚失ってしまい、漂流状態になる。漂流は予期していたことなのだが、腎臓結石にやられてしまう。痛みに耐えかねて、SOSを発信し、外洋航路の貨物船が接近してくるが、コストがかかるのを嫌ってか助けてもらえない。漁船に助けてもらうのだが、本多さんとのインタビューで助けてくれなかった商船を恨みに思うようなことを言っている。恨みを言うならば、止めた海保が正しいが、腎臓結石は僕も経験がある。いっそ、殺してもらいたい痛みだ。今、金子さんはどうしているだろう。ググってみたが出て来たのは、彼のことを書いたブログぐらい。  日本では、冒険は無謀でないときだけ支持されている。だが「無謀でない冒険」とは形容矛盾であった。冒険は本来無謀なものである。100%安全な冒険は冒険とは言えない。大なり小なり失敗の可能性があって、なお実行してみること、試行錯誤の原則にたつこと、賭の要素が入ることが冒険である。日本では実行にあたって、ただの1%も失敗の可能性があってはならない。」  バルサの筏で、南米のペルーから、南太平洋へと渡った、コンティキ号のヘイエルダール へのインタビューでヘイエルダールは、 「私たちにとって、探検という言葉は、普通、冒険的というよりも科学的なものなんでえうがね。人が未知のものを探し求める時、それを探検という事が出来ると思うんです。私たちは冒険だけの意味には使いませんね、私たちの言葉では、冒険だけを意味する探検はごく例外です。探検は何時も科学とか発見を伴っています、また、いつも目的があるはずです。ただ単に冒険のためなどということは無いわけなんです。」  言葉としての探検について、英国と米国の大学生が日本沿岸をカヌー旅行を企て、海保にストップされ太その対応についても書いている。 海保は、日本沿岸というのは、世界でも難所だから、せめて難所の部分だけでも陸行するようにという事で、事実大学生らは、いやいやであっただろうが陸行して無事にコースを完走している。 日本が南極探検を探検と言わずに観測という言葉を当てていることについて、 探検 exploration   expedition  explore 西堀栄三郎 品質管理の専門家 初代南極探検隊長 何か新しいことをやる場合、たいていは、まず調査して準備してから、それを本当にやるかどうかを決めます。しかし、西堀流によれば、それは全く逆だというのです。なにがなんでもその新しい計画をやることに決めて、しまうのです。 調査や準備は次の問題であります。従って、調査・準備を先にする場合には、その結果によっては計画を中止することがよくあるのに対し、まずやることを決めてから出発する場合は調査の結果如何によって中止はしません。調査は「よりよく」成功させるためにものであって、やるかやらぬかを判断するものではないのです。なぜか、それは計画が新しいものであるからです。新しいことは、これまでに全く無かったことです。従って、成功までの課程でなにが起こるか見当がつきません。予測しないことが必ず起こる。なにが起こるかすべて予測できるようなものは、新しいことではあり得ないでしょう。となれば、そんな計測不可能なことのために「準備」するなど、馬鹿げています。そして、予測しなかったことが起きた場合に発揮されるものこそ、創意工夫なのであります。 ※学生のダイビングで、若い人の命が失われると、こんなことをやっていて良いのだろうか、禁止するべき、あるいは、自分のやっていたケーブルダイビングシステムでやらせようとか思う。しかし、今の形で大学のダイビングは、やることが既成事実なのだ。やる香やらないかではなくて、「やる」なのだ。ただし、学生のダイビングは新しいことではなくて、50年の歴史があることなのだ。その歴史から、調査・準備をしなければ、逆に、忘れてはいけないことは歴史!! ※現代2018における探検は、宇宙、深海の他にはないのか。角幡のチベットの奥地、ツアンボー渓谷などの探検は、自己満足、ノンフィクションが売れる、という以外に何もない。むしろ、エベレスト営業遠征記録、「空へ」の方が、読み物として僕は面白かった。角幡のツアンボーも悪くなかったけれど 誰も知らないようなチベットの山奥に入って行って、自分が死にかけただけだかから、読み物としてインパクトがない。読み物としての冒険ノンフィクションは、確かには人が死ぬような無謀さがなければならず、だから、ノンフィクションを書く冒険家にとって、無謀さが冒険成立のカギになる。 ※自分としてまとめるのは次として、今、考えていること。言葉の捉え方は人それぞれだが、「無謀」を売り物にするのはわかりにくい。困難、もしかしたら命を落とすかもしれない困難であっても、まず、やると決めたら、行けるところまで行くというのは良い。やると決めたらやる。死んでしまえばそれはそれでいい。しかし、「死ぬのを計算に入れた無謀」には賛成できない。脇から、他所から見て、あれは危ない、死ぬな、という状況でも本人は死なないと思って突き進んでいる。これならば理解できる。「死ぬなよ」と応援できる。そして、目標を達成できずにその直前でたおれたとしても、それは本懐だ。生きるために常に最大の努力をはらう。「空へ」というエべレスト営業遠征の遭難を書いた本を読んだ。それぞれ、生きる努力をして、計算もしつくしたつもりで、間違いがあって死んでいく。  さて、ダイビングだが、失敗すれば死ぬ可能性はある。だから、冒険だろう。決して失敗はできないので、もしか失敗しても生き残れるように二重三重に安全策を張り巡らす。無謀は許されない。必ず生きて戻る。そういう冒険だと思う。無謀だとは思えない死亡率であることから、社会で存在が許されている。ダイビングの上手下手だが、死んだ奴は下手で、生きているから上手なのだと嘯いていたが、プロの冒険者も死んでは敗者だ。植村さんは好きだったのだが、残念なことに敗者だ。「冒険と日本人」には、植村さんとの対談もでていたが、彼は、南極探検に科学的な意味を付加しようと一生懸命努力している。冒険だけでは、冒険も成立しないのだ。 スポーツは冒険ではないと断じていて、スポーツの側も、冒険の要素、すなわち無謀な生命の危険を禁忌している。堀江さんの冒険も、太平洋シングルハンドレース、スポーツになったら、海保も大協力だった。太平洋をシングルハンドのヨットが往来するようになり、ドラム缶で太平洋を横断するような冒険はアホか、となった。ヨットにスポーツの要素があったからだ。一方、、フリーダイビングのバーチカルブルーなどは競技スポーツーとして認められることは無い。オリンピックスポーツになることは無い。生涯スポーツの衣を着ることによって、スポーツとして社会に認知されている。生涯スポーツというと、なにか老人スポーツのイメージがある。ゲートボールのおかげというか、国のアッピールの仕方が間違ったのだろう。冒険スポーツというジャンルを作れば、その中に入るのだが、冒険がスポーツを禁忌し、スポーツが冒険を禁忌する。 無謀でなければ冒険ではない。日本では無謀でない冒険しかみとめられない。 無謀がキーワードのようだ。次に無謀について書こう。

0821 8月19日お台場潜水調査

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8月19日お台場潜水調査
 お台場水面に浮子が大きな輪になって二重に円を描いている。これは、ここでオリンピックのトライアスロン競技をやるため、区画を区切って、巨大なプール状の水面をつくるためのもので、現在そのテストを行っている。
 お台場は、東京湾奥、東京港も隅田川に隣接していて、都市排水の流出で大腸菌数が多く、海水浴には適していない。僕らはその海で23年間、潜水を継続していて、身体には何の異常もない。下痢をしたこともない。しかし、オリンピックにはオリンピックの水質基準があり、それをクリアーしなければならない。
 
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 東京は巨大都市で、その下水、水洗トイレ、調理の排水など、巨大な量になる。雨が降ると、それに雨量が加わって、下水処理能力を超えて、未処理の水が放出される。都市の下水と雨の下水を別々に流すような2系統の下水処理ができれば、問題は解決する。オリンピックを機会にとも考えられるが莫大な予算と、建設の時間がかかる。東京のような巨大都市では無理だ。オリンピックに備えて、下水処理能力の増加も行われているが、まだ大腸菌数をクリアーできていないい。
 そこで、海の中を仕切る壁、フェンスを作って汚水を遮ろうとするわけだ。このフェンスは三重に張られていて、内堀、外堀があり、真ん中のプールになる。
一番外側のフェンスは下の部分が海底から空いていてスカートの様になっている。その内側は、海底②接していて、上は空いている。もう一度最後のフェンスはやはり、下が空いている。
 雨で流れ出した汚水は淡水に近いから比重が軽く、水面にある。これが押し寄せてもスカートのしたはくぐらないだろう。くぐったとしたら、下層になる。その下層の水は二番目のフェンスで遮り、最後にもう一度、スカートの壁で上に浮いた汚水を遮る。とこういう考えだ。
 潜ってどうなっているのか見て(撮影)してみた。


 暑い夏だけど、お台場はサンファンのドライスーツと決めている。でもウエットスーツにしようか毎度まよう。でもドライと決意した。迷っていれば、ウエットとドライを持ってきたのに。ドライだけ持ってきた。早稲田大学の町田君が来てくれて、一緒に潜ることにした。その町田がウエットスーツを持ってきていない。連絡ミスだ。僕はドライだけしか持っていない。仕方がない。事務所まで、片道30分、往復1時間で取りに戻った。毎度のわすれもの今日はウエットだ。
 で、僕は、重い7キロのベスト、6キロのベルト1。5キロのレッグ、14. 5キロをつけて、8リットルのタンクだからレギュレーターを着けたりして、10キロ合計25キロだ。今の僕には堪える。
 潜ってみて3キロはオーバーウエイトになっている。冬の厚着の時に水深1. 5mのウエイトだ。夏にドライの下は薄着、それにフェンスの水深は3mだ。それがつらい。今の僕の筋肉だ。
 僕たちはお台場でブイを曳航して潜っている。最初のフェンスで、スカートの下をくぐるのにブイを手繰って、沈めてくぐらなければならない。町田が手繰ってくれた。


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              写真、上は外堀部分、中は内側のフェンス、下は中心ンおプール部分 

外堀は透明度が大分よくて、町田の全身が見えて、しかも水が青い。二番目のフェンスは上を行けば良いので何ともない。そして三番目のフェンスも下をくぐり抜けて、中心のプールに入った。案に相違して、ここの水は青くない。外側とほとんど同じだ。プールの中心まで行って、設置してある水質測定の機器を撮ってみた。これは、外側、の透視度とほぼ同じだ。
 表にでるときは、曳航している浮子を手繰って胸に抱えて、オーバーウエイトだったので、これでちょうど良くなって難なく外にでた。


 今年はマハゼが少ない。いつもの杭のところに行ったが。マハゼはチョロりと逃げる姿、撮影もできなかった。戻ってきて岸近くの、これも、いつもマハゼをみる岩の下でも、素早く逃げる2尾をみただけ。今年のマハゼは例年の十分の一ぐらい、異常に少ない。
 いつもは二回潜水するのだが、フェンスの中心まで行き、潜水時間も1時間を越え残圧は60、100あれば、もう一度行くのだがやめた。
 
 さて、フェンスの効果だが、先日都庁のオリンピック準備委員会にお話に行ったとき同席された佐藤さんが調査にこられていたので、ご挨拶して、状況を聞いてみた。やはり雨が降ると大腸菌数は増えると言う。基準を満たしているかどうかは聞かなかった。大雨だったら難しいと思う。
 僕は先日都庁に行ったとき、こんな提案をした。
 お台場というのは、周辺が浅い磯場ご人工砂浜中心がヘドロの、ドーナツのようだ。そして、湧き水があると踏んでいるのだが、岸近くは水がきれい。引き潮の時に透視度が良く、満ち潮になればドーナツの真ん中から透視度が悪い水が押し寄せてきて濁る。
 岸のドーナッツ部分を泳ぐようにして、フェンスをはる。一重で良いと思う、もちろん二重でも良いが。
 雨が降ってもお台場に降る雨が染み出してくるのは下水ではない。来年もこのテストをすると言うから、一部だけ、僕の言うような浅い場所を囲うようにしたらどうですか、と提案した。
 しかしダメなのだ。オリンピックの場合、最初にまずコースありき、でそのコースを除染しなければならない。直線をドーナツにすることはできない。
 決まりならば仕方がない。健闘と、そして大雨が降らない幸運を祈るだけだ。
 それともう一つ、仲間の尾島さんが言うには、赤潮が中心に入り、それが出なくて、真ん中が濁ったと。
そういうこともあるかも知れない。赤潮、青潮も問題だ。でも赤潮は大腸菌数には関係がないのかな。
 マハゼが少ない理由は、僕の推測では、マハゼの産卵及び孵化は年に何回もある。三回として、その第一回ができなかったのではないか。お台場のマハゼの産卵から育つサイクルも調べたいができないでいる。
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               魚は撮影しなかった。


0822  冒険時代

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              1953年 ディーツ博士、16mmカメラ(ハウジング)を持っている
 無謀と冒険について
 1950年代から1970年代のはじめごろまで、日本のダイビングの冒険時代のこと、「ニッポン潜水グラフィティ 」を書いた。(アマゾンで買えますから、ぜひ読んでください。)それを、現時点から振り返り、現在の器材、技術の視点から見ると、まさに、命を失いかねない冒険のシーンが何度もあったし、そして、その冒険シーンは、まさしく無謀だった。
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 そして、その無謀な冒険時代、自分としては冒険をしてはいけない。無謀ではいけないと常に自分を戒めつつ行動、潜水していたつもりだった。無謀、とは、冷静な、時を置いた俯瞰、また、冷静な第三者の目に写ることであり、本人にはわからない。わかっていたら、やらない。行動の開始時点で、さあ、これ
命を落とすかもしれない無謀をやるぞ、とかけ声をかけて、やるものではない。それは特攻隊であり、そんなことを繰り返していれば、生き残っていない。
 ダイビングの上手下手は、生きる死ぬだと思っていた時代がある。それこそまさしく冒険であったわけだが、あとから反省して、「ああ、冒険になってしまったか」ぼくにとって冒険とはそういうものだった。
 一方、中学時代、先生に将来なにをしたい、なりたいかを聞かれると、半ば冗談で、「冒険児になりたい」などとうそぶいていた。亡くなった益田一さんが、よく「須賀さんや僕(益田さんのこと)は野垂れ死にだね」と言い、それを賛辞と受け止めていた。
 
 さて、日本にアクアラングが入ってきたのは何時だろう。ジャック・イブ・クストーがアクアラングをつくったのは、1943年、いま「ダイビングの歴史」という本に取りかかり、座礁しているが、なんとか離礁したい。その1943年日本では伏竜特攻の潜水器が作られていた。「第二次大戦の日本とヨーロッパ、そしてアメリカとの潜水器材の差」そんなテーマで、終戦特集のテレビ番組を企画したい。けど先を急ごう。1947年には、市販されている。アメリカの水中破壊部隊が使いだすのが1949年である。
 そして、1950年、日本では再軍備、と書くと問題にされるかも知れないが、自衛隊の前身である警察予備隊が生まれる。日本海軍の掃海技術は世界レベルであり、朝鮮戦争では、特別に参加している。日本近海にもまだ未処理の爆発物が多数残っていて、その処理は急務であった。警察予備隊が掃海を手がけるのは当然、その掃海のための潜水器として、アクアラングに注目するのは当然、その係りとなったのが逸見隆吉さん、飯田さん、お二人とも、後の水中処分隊の隊長になっている。逸見さんは親交があったので、そのあたりのことを聞いたのだが、何時、輸入したアクアラングが到着したのかは、おぼえていないが、予備隊がはじまってまもなく、任命されて準備に入ったということだった。常識的に考えて1951年もしくは52年、52年だろうと想像している。
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                  ディーツ博士
 そして1953年、これは確実な証拠、写真も手許にあるから間違いない。東京水産大学の小湊実習場で、当時東大に来ていた海底地質学者のロバート・ディーツ博士が水産大学の若手、当時は助手だった研究者、宇野寛、神田献二らに手ほどきした。講習というほどのことではなく、一緒に潜って、要領をつたえたのだろう。このディーツ博士のダイビングはなかなかのものだったのだろう。16ミリシネのカメラ、ハウジングを持ってきている。この時小湊実習場に、タンクもコンプレッサーもあったのだから、器材の輸入、準備は1952年には始められていたと考えるべきだろう。
 そして、その翌年1954年にアクアラングを取り入れた学生のダイビング講習で、二人の事故死者がでてしまう。二人とも学生である。原因は不明である。ここから、原因不明の歴史が始まるわけだが、本人は原因を知っている。本人だけが知っているが、話すことはできない。周囲の状況から、責任者は類推する。友人たち、もしくは家族は、悲劇に至るまでの経緯を知っている。これらを総合して記録に残すことはできるはずだが、ほとんどの場合、それが行われることはない。
 この事故で、水面上に小舟を配置することができる状況だったのにしていない。
 責任を追及する裁判が行われ、水面に艫漕ぎの小舟サジッタを出していなかった責任が論点になるが、それが直接の事故の原因とは言えない。疑わしきものは罰せずで無罪になった。その時に小舟がいないことが責任となったならば、すべてのスクーバダイビングで小舟を直上に置かなければならないことになり、それは、スクーバの特色、アドバンテージを否定する事になるので、その後のスクーバの歴史が変わるところだった。このことは、後の自分のダイビングの歴史を大きく左右することになる。
 とにかくこれで、スクーバダイビングでは、状況によっては、いとも簡単に命が失われることがわかった。冒険の条件が満たされる。
 すべてのダイビングは、好むと好まざるを問わず冒険である。それでもなお、自分たちは、冒険であることを否定しようとしている。冒険であってはならないと。まだ、そのころは、冒険と危険の区別がついていないで冒険イコール危険だった。 翌1955年、東京水産大学増殖学科の潜水実習は行われなかった。その次の年1956年潜水実習は再開される。学校としては、海洋の開発にスクーバダイビングは不可欠と冒険に踏み切ったのだ。しかし安全のために学生の一人一人に命綱が着けられた。送気式潜水器なみになったのだ。なお、水産大学ではスクーバ以前にマスク式潜水の実習が行われていた。1954年の事故は、マスク式潜水だったら起こらなかった。
 しかし、それに続く自分たちは、この命綱が取り去られる、自由になることを願った。安全の為の手段があるのに拒否する。すなわち無謀である。
 エベレストに無酸素で登るのと同等、見方によれば、無酸素以上に無謀かもしれない。 1957年、大学三年次の正式な潜水講習。それまで、葉山で夏休みはすべて、スキンダイビングで過ごしていたので、すべて、難なくできる。優等生。優等生が危ない。1954年死亡の二人も優等生だった。しかし、その時点では優等生は危ないことを自覚していない。
 1958年、卒業論文のためのフィールドリサーチ、大島で、一ヶ月弱、ライン調査を行う。最初はスクーバで行ったが、すぐに空気が無くなり、スキンダイビングで水深20mまで行う。
 東京にもどって、日本潜水協会が行った、三越屋上でのスクーバダイビング展示に出演、水中脱着を毎日2回やってみせる。脱着の達人になり、スキン能力と併せて無敵と思うようになる。
 そして、その1958年の秋、東京湾口浦賀、鴨居の水深30mの人工魚礁に潜る。僕たち、宇野教室への研究依頼だった。水深20mまで、素潜りで潜ることはできたが、30mへスクーバで潜るのは初めてのことだ。そして、潜るのは僕一人、ドライスーツは一着しかない。当時、まだ圧力ゲージはない。時計も高価でない。空気が無くなるのは、レギュレーターを吸った感じと、時間経過の感覚で判断する。
 人工魚礁がなかなか見つからず、浮上しかけたときにに見つけて、空気が渋いのに、写真を一枚でも良いから撮ろうと突入する。そしてドライスーツが破れて浸水しオーバーウエイトでエアが切れる。無謀を絵に描いたような状況で死にかける。僕を救ったのは、手繰って浮上したアンカーロープと、やはり20m潜れる素潜り能力だった。
 もし、僕が死んでたら、恩師の宇野先生は、どうなっただろう。1954年の事故はまだ裁判が続行中である。その上塗りで1957年に死亡事故だ。
 宇野先生が一番の冒険者だった。
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               こんな写真を撮るのに命をかけた。
 そして、1963年僕は、勤務先の東亞潜水機に無理を言って、100mへの空気潜水を計画する。その前年には、ハンネスケラーが混合ガス潜水で300m潜水を達成しているから、僕の100mは、記録でも何でもない。ただ、無謀な冒険であるだけだ。
 それでも、冒険には理由、実施する価値が必要なのだ。学術的には、水深70mにある館山湾の人工魚礁を調査する。そのついでに100mに足を延ばす。潜水技術的には、そのころは未だ無かったデマンドバルブが付いた全面マスク式潜水ホース送気で潜る。
 巻き込んだ舘石昭氏は、日本初の100mでのテレビ番組撮影だった。
 100mに空気で潜ったら窒素酔いで失神するだろう。しかし、全面マスク式潜水で送気式だから、引き上げれば意識を取り戻すだろう。そして、事実舘石さんは失神するが、本人が失神を気づかないほどの一瞬で意識を取り戻す。
 思わぬところに落とし穴があった。
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 舘石氏は使い慣れないものは危ないといって、普通のスクーバ、タンクを5本組にして使った。僕の目的は新しい潜水器の開発である。全面マスクは手作りであった。そして、ホースを従来のものは太くて重いので、樹脂製の軽量だが、耐圧は十分なものを使った。本来ならば、これも実績のある従来のものを使うべきだったが、何でも新しいものにしたかった。そこにこの潜水の意義がある。テレビ番組にするためには、水深100mから、実況を水面に上げることを考えた。今でこそ、そんなことは、普通のことだが、それまではだれもやったことはない。ジャック・イブ・クストーもやっていない。これこそ僕のオリジナルだった。そして、その成果は、今のダイブウエイズのフルフェースマスクに受け継がれ、水中レポートは1986年からの須賀潮美のニュースステーション、立松和平さんと、水中と上とが会話する番組に結実した。これは、一世を風靡した。だから、この実験潜水は十分な効果があった。
 さて、ホースに話を戻す。このホースが熱に弱かったのだ。潜水が8月、夏の暑い日、コンプレッサーの加熱で溶けて、接合部が抜け外れそうになった。抜けていれば終わりだった。ホースの場合、別にタンクを背負って、二系統の送気システムを持つようにするのは、その反省からだった。今から振り返れば、そんなことは常識だが、1963年、まだデマンドレギュレーターが付いたフルフェースマスクはどこにも無かったのだ。
 実験潜水は成功だったが、自分はその成果を東亞潜水機に生かすことなく辞めてしまう。今だったら、子会社を作って、と考えるが、そんなシンプルな知恵がなかった。
 成功はしたけれど無謀な冒険だった。無謀というのは、自ら無謀を目指すものではない。目指す人もいるけれど、自分では周到な準備をしたつもりが、客観的にみれば無謀、そういうものだろう。それでも、何かの理由を見つけて挑んでいく。人間、人類とはそういうもので、それがあるので、生き続けることができる。人は多かれ少なかれ、冒険から活力をもらって、生きている。
 自分は独立して、スガ・マリン・メカニックという会社を作り、調査の会社として、それなりの成功を納め、1986年からは、水中レポートの番組をニュースステーションでやって、これも成功して、これはアアク・ファイブ・テレビという会社にした。
 これも、うまくいって、自分たちは無敵、不死身、水中でできないことはないと思い上がった。
 読んでいる人は、わかると思う。無敵、不死身と思ったその一歩先に危機が待ち受けている。
 続く

0821 お台場

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親しい友人の 榎本茂さん(港区区会議員)が お台場の対岸で大雨のあと、下水が垂れ流しになるショッキングな映像(2017)を投稿し、雨水と下水の分離を訴えた。もちろんそれが理想であり、少しでも早く、そうなってほしい。

さて、お台場トライアスロンですが、東京という、巨大都市、下水を二系統、分離にするのは、現時点では、到底無理、僕たちがもぐらせてもらうのも大変なのですが、23回の実績があります。それが今度はトライアスロン、オリンピックです。僕たちが23年ももぐっているのに、大腸菌ごときに負けて根性がない。甲子園を見ろ!といいたいのですが、オリンピックには水質基準があり、なにがなんでもそれをクリアーしなければならない。いまは三重のフェンスを実験しています。見に行ってブログに書きましたが、※榎本さんは親しい友人で、この方向でがんばってもらいたいです。
 フェンスに重ねて、薬品をまくというのもあります。できればそれはやめてほしい。生き物が死ぬ、とお話していますが、それをやったところで、青潮と同じ効果、生き物は全部死ぬけど、これも6年に一度は青潮がくる。もしかしたらオリンピックのときかな?自然はそんなにやわではない。青潮がきても3ヶ月もすれば、復活します。でも、漁業は一時期壊滅しますが、
 青潮の硫化水素の匂いのなかで泳ぐくらいなら、大腸菌の方がいい、大腸菌の中でも、魚は元気に泳いでいる。ぼくらは人間魚のつもりで生きています。
 そして、浄化がかならずしも自然の生物のためにはいいというものでもない。江戸時代、下水がなく、江戸100万の?民が垂れ流しましたが、江戸前は豊かでした。トライアスロンをやろうという人もいませんでしたが。あ、隅田川で古式泳法をやっていたか。
 現在、浄化が進むとともに、生物の種類数が減っています。東京という大都市、これが廃墟になるということ、想像はできますが、そんなことになってほしくはない。
 オリンピック、オリンピックで起こる、もろもろのゆがみに もろ手を挙げて賛成しているわけではありません。これも下水のようなもので、できるだけ被害を少なくして、その中でたくましく生きるほかない。出場する選手はスポーツマンとして同志です。成功してほしい。

0824 冒険と探検 まとめ

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昔々、アラスカで、

 写っているダイバーはサツキマスを追い続けたカメラマン 田口茂です。どうしているだろう。亡くなった倉沢君の同期生で仲良しでした。倉沢・田口と最初に会ったのは、彼らが、知床グランドホテルの横で、雪の中でキャンプをしていたときのことでした。宿代がなかったのでしょう。みんな冒険児でした。歳を重ね、涙もろくなっています。
 
ここで一応、無謀と冒険、そして探検について、まとめておきたい。
 冒険と言う言葉と危険が同義に使われることがある。
 僕なりのまとめを整理すると、危険というのは状態、状況であって、冒険というのは行動である。探検は目的、目標である。危険な状況を切り抜けるのが冒険だ。そして探検をやりとげる。カテゴリーの違うことばなのだ。
 そして、意図して冒険する場合と、意図しないで危険に追い込まれるな場合もある。
 冒険とは、人間の行動、行為の一つの類型であり、探検とは行為によって追い求めている目標である。探検は冒険によって行わなければならないとする人もいるが、それは、冒険族である人類が冒険を行いたいがための理由づけであり、おなじように、学術も探検の理由付けにされる。そして、人類の成し遂げてきた成果のかなり多くは、冒険族の冒険の欲求でなされたものであろう。
 先に書いた僕の潜水で、最大の冒険者は、僕たちに、特に僕のように危ない冒険族にダイビングをやらせた宇野寛教授かもしれない。、(退官して、残念なことに故人、)自分ならば、とてもできなかっただろう。
 もちろん、人類の成果の大部分は、身体的冒険によらずに達成されているが、自然科学の領域では身体的冒険の成果が多い。フィジカルな冒険、メンタルの冒険、合わせた冒険で人類は進化し、もしかしたら滅亡する。
 冒険は無謀性があり、死の危険があるが故に、現代社会においては、できる限りの努力をその危険を排除することに費やさなければならない。
 フィジカルな活動として、その典型の一つにダイビングがある。登山もそのうちの一つである。
 メンタルとフィジカルについて、2010年に書いたものが、今日のフェイスブックに浮かび上がってきた。タイミングがいいので以下に、収録する、
 2010年に書いたブログの読書ノートから引っ張り出した。
 最近読んだ本で書き写したのは、[2010年当時)
 湯浅健二著 「サッカー監督という仕事、」 新潮文庫 
平成16年だから、かなり古い本だ。
 書き写したフレーズは、
「サッカー選手にとって重要な要素は、フィジカル(身体)、テクニカル(技術)、タクティカル(戦術)、サイコロジカル(心理・精神)、アンロジカル(つき)。その中で最も重要なのは、自分の持てる力、身体的、技術的、戦術的な能力を十二分に発揮するための土台となる、心理、精神的な部分である。」
 「監督に要求されるものは、パーソナリティ(人格、人柄的な魅力)、インテリジェンス(知性、)である。」
 「チームを強くするために必要なことは、規制と解放のバランス」 そのままスクーバダイビングに使うと、
 「スクーバダイバーにとって重要な要素は、フィジカル(身体)、テクニカル(技術)、海況の判断とチームの技能を考え合わせた運用(タクティカル(戦術)、)サイコロジカル(心理・精神)、アンロジカル(つき)。その中で最も重要なのは、自分の持てる力、身体的、技術的、戦術的な能力を十二分に発揮するための土台となる、心理、精神的な部分である。恐れてはなにもできない。恐れなければ危ない。」そのまんまでもいい。
  ツキ、幸運のことをアンロジカル 論理ではせつめいできないこととしているのは、おもしろい。
  僕が生きているのはツキ、幸運以外の何ものでもないと書いてきたけど、本当にそうだろうか。
  先に書いた宇野先生が僕に言ったことがある。「須賀君、人は、自分だけが特殊だと思っている。だから、特殊だと思うことが普通なんだよ。」ツキ、幸運だと思っていることは別に特殊でもなくて、ダイビングという冒険を繰り返している、ダイバーのほとんど全員がついているのかもしれない。
 このあたりのこと、もう少し研究したいけれど、アンロジカルなのだから、   さて、死ぬ一歩手前で必ず立ち止まれるのは、アンロジカル(つき)だろうか。

0827 アンロジカル

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アンロジカル 最近,頭の中に常駐していて、何回か使っている。アンロジカルという言葉。
  2010年に読んで書き写した部分をどこからか発掘してきた。で書き写したのは、
 湯浅健二著 「サッカー監督という仕事、」 新潮文庫 2004
 書き写したフレーズは、
「サッカー選手にとって重要な要素は、フィジカル(身体)、テクニカル(技術)、タクティカル(戦術)、サイコロジカル(心理・精神)、アンロジカル(つき)。その中で最も重要なのは、自分の持てる力、身体的、技術的、戦術的な能力を十二分に発揮するための土台となる、心理、精神的な部分である。」
 スクーバダイビングに使うと、
 「スクーバダイバーにとって重要な要素は、フィジカル(身体)、テクニカル(技術)、タクティカル(戦術)海況の判断とチームの技能を考え合わせた運用、サイコロジカル(心理・精神:パニック)、アンロジカル(つき)。その中で最も重要なのは、自分の持てる力、身体的、技術的、戦術的な能力を十二分に発揮するための土台となる、サイコロジカル、心理、精神的な部分である。恐れてはなにもできない。恐れなければ危ない。」とか、いうことになるのか。
  これまでは、「スクーバダイビングの要素は フィジカルとメンタルで、どちらかといえばメンタルが重要である」とか、書いてきた。そのメンタル部分を「海況の判断とチームの技能を考え合わせた運用(タクティカル(戦術)、)サイコロジカル(心理・精神)」とわけて表現した。わかりやすくなったと思う。
 面白いのは、アンロジカル(つき)で、僕が今生きていてダイビングを続けているのは、つき、以外の何物でもないとおもっていた。さて、死ぬ一歩手前で必ず立ち止まれるのは、アンロジカル(つき)なのだろうか?その辺になにか鍵がある。
 アンロジカルをツキ、幸運としているが、不条理、「なんでこんなことになるの」という不運、事故、と考えることもできる。
むしろ、語感としては、不条理、不運のほうが合っているしわかりやすい。
 不条理、アンロジカル、論理的でない事故を防ぐには、論理的でない部分、アンロジカルをできるだけ排除する。論理的な、ロジカルな行動の追及、すべての活動、不運を想定して危機管理をする。という順序になる。今、僕の頭の中にあるロジックだ。

0831 学生スポーツとしてのダイビング 1

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     2010年日本水中科学協会の発足シンポジウムにきてくれた関東学生潜水連盟

もう一度学生のダイビングにもどって、スポーツ、冒険 探検の話題を締めよう。  書いてもどうしようもないことを書いているな、と思う、しかし、60年間ダイビングを続けてきて、頭の中にあること、経験は、書き残しておかないと消えてしまう。書くことで知識になる。知識になれば、誰かが使うこともできる。誰も使わなかったとして、それはそれで、ラスト・メッセージとして。  スポーツには、生涯スポーツと競技スポーツがあり、生涯スポーツでも、駆けっこをしたり、ヨーイドンでフリッパーレースもしたりする。だから競技スポーツというよりも、アスリートスポーツ、オリンピックスポーツとでも、言おうか、そういうスポーツと、誰でもできる生涯スポーツ、とわけようか。いやいや、生涯スポーツだってアスリートだ。とするとその区別は、心構えの違いだと思う。決してやめないのが生涯スポーツだ。その特だけの金メダルにこだわるのが競技スポーツだ。生涯スポーツでも金メダルにはこだわるが、なによりも、やめないために努力をする。 高齢化時代を迎えて、生涯スポーツには風当たりが厳しい時代になってきた。このことは、自分が高齢になって、それでもやめないことの風当たりで、予想外だった。 高齢化時代を迎えて、高齢になる僕は、自分の時代になると予想したものだった。たしかに、80歳で80m潜る計画をぶち上げたとき、少し追風が吹いた。でも、実現できなかった。押し切るパワーが自分に無くなっていた。 高齢を阻む壁、死んではいけない。事故になるという壁が高くなる。やめさせようとする力が強くなる。高齢になって死なないのは大変なのだ。自分の能力的には、フィジカルに辛くなるし、メンタルも弱くなる。意地がなくなるのだ。  でも、ダイビングは、とりわけスキンダイビングは、高齢には向いている。  学生のスポーツのことを言うはずでは? そう、生涯スポーツは、学生の時代にスタートするべきなのだ。  この前、学生のダイビングクラブは、フリーダイビングとは、一線を画すべきだと書いた。フリーダイビングをやるならば、フリーダイビングの倶楽部を作って、良い指導者に、良い設備で指導を受けてやるべきだ。 なぜか?これは、一般にも言えることなのだが、スキンダイビングの延長線上にそのままフリーダイビングがあるものではない。 この混同の為に、危うく事故を起こしかけているし、直接ではないけれど、自分の関連施設で一人死んで、施設が倒産した。 スキンダイビングを生涯スポーツとして楽しもうとする人が、スキンダイビングを上達しよう、深く、長く潜りたいと努力する事は危険だ。もちろん自己責任でやるのは何でもありだ。危機管理責任が、管理責任者にかかる学生クラブでは、NGだ。重ねていうけれど、フリーダイビングをフリーダイビングのクラブとしてやることはいっこうにかまわない。そのノウハウは、フリーダイビングの指導者が考え出すことだ。  スキンダイビングとフリーダイビングの違い? 息をとめて潜っていると苦しくなる。それが、時に苦しくないことがある。深く潜りすぎて酸素分圧が高くなっていることもある。連日の練習で息こらえが、長くなっているかも知れない。苦しくなくなってきたところから先が危ない。 一応、自分で目標、枠を作っておく。水深は10mまで、息こらえ時間は1分30秒、余裕を見て1分以内、その枠を越えて苦しくならなかったら、とにかくあわてて、すぐに水面に戻れと言い聞かせている。シャローウォーターブラックアウト、あるいは、そのまま意識を失う。その理由は、スキンダイバーもフリーダイバーも誰でも知っている。 フリーダイバーは、その苦しくなくなってから、その苦しくない状態が続いて、意識を失うまでに、どこまで行けるかを競うスポーツなのだ。 だから、浮上したときにアイムオーケー、正常であることを証明しなければならない。 生死の境界で自分をコントロールすることが、ダイビングの心髄だから、僕だって若かったら、のめり込むだろう。  学生のスキンダイビングは、その向こう側にスクーバダイビングを想定して、そのトレーニングとして行う。だから、苦しい状態のリミット内で行う。リミット内でも、苦しくならなかったら危ない。絶対にバディで交代で監視する。スキンダイビングでは、ブラックアウトは事故なのだ。絶対にブラックアウトしない心がけでする。 一方で、フリーダイビングの向こう側は、フリーダイビングしかない。 フリーダイビングでその安全ネットを外して自由に遊んだら?不世出の女性チャンピオン モルチャノフは、スキンダイビングで遊んでいて亡くなった。 フリーダイビングで撮影をする。科学的な調査をする。ボンベ不要で便利である。これは、完全に自己責任で自分なりの安全策を講じて行っていなければならないが、大学などの研究者が行うダイビングとして、とても魅力的だ。真剣に考える必要があるだろう。しかし、それは学生のクラブ活動ではない。  もしも、学生のクラブで誰か一人が飛び離れてスキンダイビング能力が高かったら、できるだけ、力をセーブするように命じるとともに、決して彼から目を離してはいけない。深く潜らせてはいけない。なぜなら彼がブラックアウトしたとき数秒以内に助けに入れるダイバーが居ないからだ。 また、誰か突出して上手なスキンダイバーがいる場合も注意だ。 海洋大学、当時は水産大学で水平に75m潜れる人がいた。大学で50mは、人並みだが、40mあたりで意識を失うことが普通にある。苦しければ大丈夫だが、少し練習すれば苦しくなくなる。危ない。僕の考える学生のリミットは、水平40m 水深10m、潜水時間1分だ。それでも目を離したらいけない。 水産大学では、75mのダイバーがいたために、練習方法が向上した。水平に25m潜ってターンして、戻る途中でマスクを外してクリヤーして50m潜る。ブラックアウトが続出したと聞く。ブラックアウトの体験ができるとても良い練習エキササイズだと思う。 僕が監督だったらすぐに止めさせるが、そのころ、僕は、自分の仕事が忙しく潜水部に接近していなかった。そして、事故が起こり、ヘリコプターで搬送された。この事故について何も報告が残っていない。事故の内容、結果よりも、その結果が残されていない、発表されていないことが、海洋大学潜水部最大の汚点だと僕は思っている。報告がないと言うことは、本当かどうかわからない。都市伝説かもしれない。だったとして、大学のクラブが事故を都市伝説などにして、良いわけがない。 僕の信念だが、事故、あるいはニヤミスは、大事な経験で、それを記録、文書に残しtげ、知識として誰もが共有できるようにしなければならない。  海洋大学には、同じような都市伝説がもう一つあった。他大学の事故報告を自分たちの事故のように後輩に伝えていて、後にかかわった僕が真に受けて大学当局に調査をお願いしたりした 他大学での事故も知識として共有することは悪くないが、それが都市伝説になると困る。  大学のダイビングクラブの事故の多くはスキンダイビングに関わって起きている。そして大学のダイビングの練習はスキンダイビングを中心として行われている。これは、やめたくない。スキンダイビングは継続的に行うダイビングのトレーニングの基本であり、生涯スポーツであり、レスキューの基本であり、自らの命も救った例が少なくない。 それでも、たとえば今後、フリーダイビング関係者、フリーダイビングができるインストラクターなどが大学のダイビングクラブの指導をすることがあるとして、そのとき、学生を決して必要以上に上達させてはいけない。スキンダイビングの限界以上に上達させてはいけない。だから、手綱を引き締める方向で指導してもらいたい。  さて、東京海洋大学潜水部で、OB会名誉会長として僕は、OBの誰かを監督、コーチを正式に任命するようにと、ボールを投げた。 大学の潜水クラブで安全管理、危機管理が必須であることは言うまでもないだろう。管理に管理責任者がいなくてはならないことも当然だろう。何かがあったとき、死亡事故でなくて、溺水入院であっても、管理責任は問われる。 死亡事故が起こり、危機管理に失敗すれば学長の首が危ない。 アメフトでは、アンスポーツマンライクコンタクトで危機管理に失敗し、大学の評判を地に落とすことになった。スポーツマンにあるまじき行為を監督、コーチが指示して、その結果の危機管理が、スポーツ王国である日大ができなかった。 なお、言わずもがなだが、危機管理とは最悪の事態を想像、想定してその対策を講じておくことだ。60周年を迎えた海洋大学の場合。60年大丈夫だったから、これから先も大丈夫ということはなく、むしろ、確率的には、これまでで幸運部分を使い果たしているから、今後が危ないとみる方が論理的だ。  顧問の教員というのは決まってるが、先生は学校を代表して見張っている立場だ。顧問の先生は、危機管理責任者ではなく、危機管理態勢がないことが先生の責任となる。教員が監督を、危機管理責任者を兼ねる場合もあるだろうが、それは、その人がまず監督であって、そして職業が教員であるということだ。教員の顧問は別のはずだ。 誰も監督を引き受けなければ、僕が、死ぬまでの間引き受けてあげる。と言えば、何とかするだろう。言わないけれど。   僕の考えるダイビング部の監督の理想は熊本の故坂田監督だった。 僕が作った2014年版のJAUSの学生ダイビングについての報告書を高く評価してくれた。亡くなる寸前に、12月の室内選手権にきてくれて、少し話をすることができたが、今ここに書いているようなことをじっくり話して、考えを聞きたかった。 惜しい人を亡くしてしまったが、彼の蒔いた種子は着実に育っているようだ。 監督とは何をするかと言えば、まず危機管理の責任者だ。責任者として具体的に何をするか、その部分は人それぞれだが、自分の考えと実例を書く 続く

0902 学生スポーツとしてのダイビング 2

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「探検と冒険」全集を読み、角幡唯介の言う冒険0901とは無謀なもので、命の危険が無くてはならない。そして、命を確保するシステムから脱することなど、ダイビングは、その冒険なのだ。そして、その冒険の危機管理をする。安全管理をする。爽快感は失せて、具合が悪くなってくる。 そして、その管理責任を監督にゆだねる。そんなこと引き受ける人がいるのか?どうしてもいなければ、現役、あるいは上級生、学内OBにお願いする他ない。2003年にはそのためのルールをつくろうとした。SAIである。 が、たぶん、監督をやってくれる人はいると思う。僕は深く考えないで監督のようなものをやったが、監督はどこまでやるのか、その責任の範囲をまずきめておかなくてはいけないだろう。 具体策は、詰めて言ってしまえば、「自分の監督下では、絶対に一人にしないこと、一人にするときには、ロープ、ホース、通信ケーブルなど、物理的な連携手段を切らないこと。そして、そのバディは自分の管理の傘の下に置くこと。」それをどのようにやるかは、創意工夫の余地があるし、場所、状況によっても、異なるので、これをローカルルールという。 ローカルルールを作り、それを公知させて、それを守っていれば、守らせていれば、責任を果たしたことになるだろう。もう少し具体的にすると、以下のようになる。これは、自分が経験から言っているのであり、プラスそれぞれの創意工夫があるだろうが、だいじなことは、文書化しておくことだ。  ①メンバーの能力、性格、これまでの育ってきた環境、などをできるだけ知る。できれば父母会のようなものを作って、父母と連携する。 ②コーチ(現役、もしくはOB あるいは別にインストラクターを依嘱する場合もある。)が作る計画を検討し承認する。自分がコーチ役を兼任する場合もあるだろうが、できれば別の方が良い。コーチの人数に制限はないが、その能力、性格など熟知している必要がある。 ③事情が許す限り、試合(海での潜水)に同行する。ダイビングでは、監督は無給、ボランティアであることが、普通であるから、常勤ではない。だから事情が許す限りで良い。まるで行けなくてもそれでも監督は必要。最低でも、一年に一回は合宿の時などに行く。でなければ、①を果たすことができない。 ④ローカルルールを確立し、それが守られることを確認する。 ⑤ローカルルールの中に、計画書を必ず作ること、を入れる。エクセルでログと併用した書式を作っておいて、必ず残しておく。 ⑥安全のための環境、状況を作り出し確保する。状況に応じてボート、浮力体を用意する。命綱、潜降索の利用も考慮する。 ⑥チームワーク 現場の空気が良好であることに留意する。  先に述べたが、これは僕の現在考えているコードであり、僕が自分の経験、失敗から考え出したものである。要は、監督それぞれが、自分のコードを持てば、良い。ただ、それが、周囲の人たち、現役、コーチ、顧問の先生、父母 に文書で明示され理解されていることが必要である。  そして、その監督という名称は公称として認められていなくては、いけない。以下に述べるような、監督らしきもの、ではだめなのだ。監督を監督として認めるのは、OB会で良いだろう。そして、監督には、OB会のバックアップが必須である。 僕がおつきあいしている、中央大学、学習院はそのシステムが機能している。安心してみていられる。  僕が母校、海洋大学の監督らしきものを引き受けていたのは、第13代 14代 15代だ。 監督らしきもの、というのは、監督という制度名前がなく、自分で勝手に監督だと思っただけだからだ。   第13代、僕が自称監督をしていたとき、おそらく潜水部60年の歴史の中で、ダイビングの実績として、もっとも成功した代だったと思う。  まず、潜水部は、ただ潜水をする。潜水を習い覚える、だけでなく、何かを成し遂げなければいけないと考えた。これは、ダイビングは手段であり、何かをしなければならないという、僕のダイビング生涯のコンセプトに沿ってのことである。 そして、なにか具体的な目標があることによって安全策、ローカル・ルールを優先できる。バディシステムも保たれやすい。チームワークも作れる。  何をするか? そのころ僕はアメリカの雑誌、ポピュラー・サイエンス、ポピュラー・メカニック という雑誌を購読していた。そのメカニックの方だったと思う。水中ソリが載っていた。ソリと言っても梯子のような枠組に、翼が着けられ、風防があり、翼を動かして潜降と浮上ができる。 これだと思った。水産大学潜水部の研究目標は、水中ビークルと決めた。  僕は直接には教えなかったが12期に大塚君という、実家が鉄工場をやっている学生がいて、ポピュラーメカニックを参考にして、一人乗りの、ニックネームをトンボと名付けたものと、二人乗りの本格的なビークルができてきた。これを漁船で曳航するわけだ。
 ここで、その頃の潜水部の学生少しさかのぼって紹介してみよう。 全員ではない、僕のこのプロジェクトの関係者、および、今ここに書いて、読む人が、「あああの人が」とわかる、つまり、ダイビング関係者だ。 第9代、1963年入学、(すべて入学年度で表示) 黒川治雄:後にマリン企画を創立して雑誌 ダイビングワールドを作る 本山雄策:テイサンに入社、最近まで、ダイビングのヘリウムガスは彼が供給していた。 第10代 1964年 石川文明:現在 西川名オーシャンパーク オーナー 第11代 1965年 大塚優 そりを作ってくれた 島義信:後に旭潜研 第12代 1966年 佐藤英明 日本潜水会の中堅になった、 船水欽一 第13代 1967年 僕の監督時のメンバーだ。なので、少し詳しく。なお申し訳ないが、女性メンバーとは、親交がないのでその後がわからない。 梅沢一民  大掛俊二:JAMSTECに入り、海底居住のアクアノートに選ばれるが、その潜水を前にして交通事故で亡くなってしまう。奥川均:やはりJAMSTECに入り、石油掘削リグのダイバーの草分けになり、独立して、撮影と潜水の会社を興し、僕のライバルとなったが、病気で亡くなってしまった。少し向こうが勝っていたから、今も生きていれば、日本水中科学協会の後援者になってくれていただろう。後藤一朗:作業ダイバーの会社 潜海を起こし、成功して、悠々自適、抽象的な造形を趣味でやり、総理大臣賞を取った。つい最近、亡くなってしまった。佐倉彰 津川三郎 高橋実:僕と一緒にスガ・マリンメカニックを始めるが、7年後に独立して、海洋リサーチを作り、潜水団体 スリーアイを創立する。津川三郎、吉川忠 鬼怒川パシフィックに入ったが辞めている。和久井敏夫:関東学生潜水連盟二代目の委員長 芙蓉海洋開発  第14代 1968年  佐々木良:東北海区水産研究所での磯根資源の専門家、大津波の石巻でお世話になった。 第15代 1969年 栗原正明 :練習中、ブラックアウトを起こし自分が、潜水部の指導から離れるきっかけになってしまった。 松野均:富山県の漁協組合長連合の会長になった。  話を元に戻して、大塚鉄工所で作ってもらった2機のビークルで、本格的なエキスペディションを企画した。 奄美大島の大島海峡は、1956年に自分が初めてスクーバで潜った場所だった。大島海峡水中探検をでやりたい。 でも、お金がない。 企画書を書いて、テレビ局、新聞社などに送りつけた。この方法は、1962年に自分が舘石さんとやった100m実験潜水で成功している。 大阪朝日放送から連絡があった。興味があるが予算がないので、エキスペディションの費用はだせない。水中撮影に必要な費用とカメラマンのギャラだけだという。奄美大島では、自費でいくお金が学生にはない。八丈島でどうだろうかと再度提案して決定した。 宿泊は、漁協の網置き場倉庫を借りて、倉庫の中で寝袋で寝て、自炊。エキスペディションなのだ。その状況も撮影する。
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 水中ソリは、大成功だった。二人乗りは、操縦桿で左右の翼を別に動かすのだが、横転はできないまでも、飛行機のように飛ばすことができた。トンボの方は戦闘機で、速力も早く、横転もできる。考えてみれば、ポピュラーメカニックの図面はこのトンボの方ですでに実用がテスト済みで、二人乗りの方は、僕たちの遊びだった、 テレビ番組も放映されたが、その頃はビデオはないので、フィルムからビデオにおこしたものが残っていて、50周年、に映写した。  14代は、13代の高橋実 吉川忠 をスガ・マリンメカニックの社員に入れ、仕事に精を出さなければならなくなり、潜水部には力を入れることができなくなった。仕事との両立ができにくいところに、常に問題がある。いいコーチ、協力者にめぐまれないとむづかしい。後年、SAI(スチューデント・アシスタント・インストラクター)の制度を考えたのは、その問題だった。
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        ジョテックのプール フーカーで練習できる。

 その頃、川崎の下丸子に、深さ10m、と5mに区分けされ、10m×15mの日本でおそらく初のダイビング訓練用プールが作られた。ジョテックという会社で、スガ・マリンメカニックは、その会社とダイビング指導の請負契約を結んだ。高橋、吉川を雇い入れたのはその仕事を目指してのものだった。 13代のメンバーは、もともと身体能力が高かった。後藤一朗は、5キロの鉛を持って立ち泳ぎをさせて、20分、30分と泳がせても沈まない。5キロを7キロに増やしてしまう。重量挙げのウエイトを増やして、鍛えていくのとおなじだ。そして、増やした数がスタンダードになってしまう。指導者が自分でやってみる。僕は5キロが限度だったから、5キロ以上にはしなかった。指導者の身体能力がたかいと、それを全員にやらせてしまう。水中という環境では、常に弱者、一番弱い者をスタンダードにしなければいけない。 高橋実は、3分の息こらえが普通にできた。今でこそ、フリーダイビングのスタティック競技で、5分、6分、7分と息を止める選手が出てきて、3分は普通だろうか、1970年当時は、3分でも驚くほど長い息こらえだった。 その高橋が、下丸子のプールで息こらえの練習をする。水深5mで腹ばいになって息をこらえる。3分は、ずいぶんと長い。そばでみていればいやになる長さだ。それを、自主練習にきているお客がまねをした。
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