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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0423 ダイビング事故の歴史 11

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何時起こった事故だったのか、そして細かい記録、後になって後処理に関わったので、裁判の記録とか、持っていたのだけれど、どこかに、保管紛失した。 それで、詳しいことは書けない、方がいいのかもしれない。 海中開発技術協会では、専務理事の工藤さんが中心になって科学者のためのダイビング講習、並びに資格検定を計画していた。 講師陣は、海中開発技術協会の理事を中心としてもと日本潜水科学協会、そしてその周辺の人を集めれば、そうそうたるメンバー、日本で望めるすべてにちかいものになる。僕は海中開発技術協会の理事だったけど、詳細は知らなかった。そして、僕もそのメンバーには加えてもらっていなかった。
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 前の前の回、二冊を一冊にしたマニュアルを紹介した。僕はその編集制作者だが、声はかからなかった。いや、自分から何かさせてくださいと言えば、させてくれたかもしれないが、言わなかった。  その科学研究者のための講習、だったと思う。その講習の最初の実技で、一人死んでしまった。こういう時、普通は事故と言うが、僕は、事故と言うよりも、死んでしまったと言うのが正しいと思っている。強いて言えば、その死んだ人が、来たことが事故だったのだ。思えば海中開発技術協会の第一回目の実技講習、江東楽天地のプール講習で死んでしまったが、それと同じで、海だとはいえ、別に流れも波もない、いわゆる限定水域での第一回目の講習だ。何をするための潜水かわからないが、きっと潜ってみるだけのチェックダイビングのようなものだったのだろう。とにかく潜水して、死んでしまった。 1957年の江東楽天地の時は、責任を追及されることはなかったが、1984年だ。遺族が海中開発技術協会を訴えて来た。専務理事がその筆頭で訴えられた。なぜか会長、副会長は被告にはなっていない。 死んだのは、科学者でも学生でもなく、タクシーのドライバーだったと思う。サイエンスダイバーの講習になぜタクシードライバーが入って居たのかわからない。多分、資格を問わない、誰でもOKだったのだろう。訴えた遺族は、その人の妹だった。多分、奥さんは居なかったのだろう。  どう考えても、講習を企画した側、海中開発技術協会の責任があるとは思えない。事故の殆どは、運営者側が悪いとは思えないのだが、このときに受講資格は、たしか潜水士の資格を持っている事だったと思う。Cカードを持っていることと言う条件は無かった。まだ、1984年は、Cカードというものが、資格に相当するものかどうか、そこまでの市民権はえていなかった。JUDFの資格は認定証であり、Cカードではない。今では同じものだが、自分たちJUDFとしては、同じとは思っていなかった。 もちろん、JUDFの資格も持っていない。ダイビングが出来る人か出来ない人だったかもわからない。主催者に落ち度があるとすれば、その一点で、しかし、それはかなり致命的な落ち度だったと思う。  それから4年後 1988年だった。※記録が見えなくなっているので、時系列が違うかもしれないが1989年より前である。 昭和63年 1988年の役員を見ると、会長代行が佐藤賢竣さん   昭和59年 1984年の役員を見ると、大臣格の会長、園田直衆議院議員は消えている。この年の4月に没している。副会長の森川さん、専務理事が工藤さん、太田さんだ。 事故の関係で昭和60年 1985年には役員の改選はなく、その翌年の昭和61年、1986年には、有力議員の森美秀氏が会長を引き受けてくれているが、専務理事は、太田さん、工藤さんは消えて、今泉さん(ガス屋さん)北島さん(高校の先生)保坂さん(全日本潜水連盟の関係から理事になった)になっている。 その森美秀先生も1988年に没、会長代行が佐藤賢竣(旭式マスク式潜水)そして次の平成元年に河野洋平先生が会長になっている。 その河野さんが会長を引き受ける状況として、訴訟継続中では、引き受けてもらえないということになった。 僕に言わせれば、そんな会長などどうでも良いと思うのだが、それがダイバー根性でいけない。何かをするには、看板が必要なのだ。 河野洋平氏に会長を引き受けてもらうためには、事故、訴訟を解決しなければならない。 訴えられている専務理事の工藤さんは、責任など全くないとがんばっている。僕たちの時代のダイバーとしては、当然で、寝不足で深夜走ってきたタクシードライバーが死んで、なぜ主催者が責任をとらなければならないのか、である。もう一人の専務理事太田さんは、保険にも入っていない、ノーガードだったことは、管理者である専務理事の責任である、たしか、そんなお考えで、自分なりの責任はとると言っていた、はず。 僕と、全日本潜水連盟の専務理事であった渡辺信宏、それとマーブ赤沢の平林の三人が、この事故処理に当たった。なぜ、平林なのかというと、マーブ赤沢の当時の金主、上島健司氏に事故処理のお金を出してもらおうという計画だった。このあたりの空中戦 策謀はおもしろいけれど、ここには書かない。とにかく、須賀、渡辺、平林の3人で解決にあたることになり、裁判所にも何回か行った。 結局、工藤さんが折れて、示談金を工藤さん、太田さん、上島さんで出していただいて、解決する。 このことでわかった、自分として肝に銘じたのは、ただやってきて死んだだけ、その人を跳ねなかった、水に入れた責任だけで1000万近い示談金を取られるということだ。 プロデュースと座学の講習だけを工藤専務理事がやって、実技は全日本潜水連盟に丸投げすれば、良かった。しかし、それは工藤さんのダイバーとしての矜持が許さなかったのだろう。工藤さんはこのような、死にさえすれば、縁者が訴えて、かなり満足できる賠償金を保険会社から受け取れる、非論理的なダイビング指導から足を洗って、アクリルハウジングのDIVを作って成功された。賢明だったと思う。 

0427 人工魚礁研究会

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人工魚礁研究会  4月26日 潜水の目的 今年度人工魚礁研究会の予備調査 今年度の計画書を昨日(25日)作ったので、それを持って荒川さんに協力のお願いをするとともに、メンバーで打ち合わせをしようと予定したが、ワークショップ・プロデューサーの山本さんが、都合が悪くこられなかったので、打ち合わせはまだ出来ていない。  天候は風が強かったが、予報では、朝のうちだけで風は落ちるということだった。天候は曇り時々晴れ。 予定通り波はおさまった。
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 1回目の潜水は、今年の予定定点の一つ、6m角、大型のコンクリートブロック (FP礁)10個乱積みを目指した。 今年度予定している定点は、これより沖、水深30mにある鋼鉄製(神戸製鋼)NO9の魚礁、そして、定番のドリーム、一番岸よりの0. 8コンクリートブロックこれはニューパラダイスと呼ばれている。  以後略称で、①9番鋼製 ②FP6m ③ドリーム ④0. 8角と呼ぶことにする。の4点にしたい。  FP6m は、一般ダイバーはあまり潜ることがない魚礁なので、探さなければならない。今後のために自分のガーミンGPSを持って行った。荒川さんは山立てとスクーターで回ればすぐにわかると言うことだったが、古いブイが付いていて、このブイは、ぼくのGPSでも記録されていて、GPSの地点ナンバーは17番だった。僕は、そのことをすっかり忘れていた。  自分の今日の撮影機材は、この調査では、タイム表示がでるウエアラブルカメラということで、SJ4000とAKOSO 7000 をメイン調査撮影カメラとして、TG4のハウジングの上に載せて、動画で、潜水開始してから、ボートにあがるまでを撮影する。 この画像から、魚の種類と数、大きさなどを数えようということだ。  僕の潜水装備は、10リットルのタンク、BCは、身体に合った、古いアポロのプレステージ、ドライスーツは、サンファンのハイブリッドジャージ、ウエイトは、7キロのベストに4キロをベルト、レッグが1. 6キロ。ウエイトは重いけれど、ハイブリッドジャージのドライは、身体が動かしやすく、苦にならない。 体調は、午前中は身体が目覚めないので、シャキッとしない。
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 FP6mを調査点として選んだ理由は、鋼製の9番との比較、コンクリートか鋼製か、そして、この6m角 10個乱積みは、大きさとしてまとまりが良い。9番鋼製とほぼ同じくらいの大きさだ。  このところテストしている360度カメラ、XDV360を動画録画状態、まわしたまま手に持って飛び込んだ。TG4+アコソは、鶴町さんに持ってもらった。 いつもそうなんだけれど、その日、最初の潜水、最初の降下はバランスが悪い。自分の知覚と自分の身体の姿勢がアンバランスなのだ。仕方が無いので、ロープをたぐりながら潜降する。 ドライスーツなのだから当たり前のことなのだが、水面を離れるときは浮き気味で、10mを越えると墜落状態になるので、ドライとBCに空気を入れる。 魚礁の上に着底して、2段目の魚礁の上に、1キロの鉛の上に360カメラを固定したカメラを置く。これは、この状態で撮影し続ける。 コンクリート面は大きな付着生物は付いていないが、触れると皮膚に火がついたようになる、シロガヤ、クロガヤが、どこにもここにも付いている。手袋をするのが嫌い。冬は仕方がないが、春から夏は手袋をなるべくしないので、触れたら痛いことになる。 メバルの群、大きさは全長15cm前後が20くらい。感覚で20(後で、写った画像から数えなおすのだが)TG4のスチルを何枚か取る。乱積みと言っても2段に重なっているので、下の段、海底と接している部分に降りる。ここでも、メバル20個体。20個体の群れが三つか。プラスαで、全長15cmクラスのメバル80というところか。

 メバルと、10ー15cmの小さいイシダイが4個体。  この前、に来たときは、この魚礁の上空をイサキの群が覆っていた。まだ、イサキの季節ではない。
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 360度カメラは、面白いが、それだけで何ということはない。しかし、群れが上方を覆うようなとき使えば威力を見せるだろう。  1回目潜水 FP 6m角 10基  ※ GPS記録No.17 潜水開始 11時11分 前回潜水からのインターバル なし 最大水深  25. 9m 潜水時間  24分 水温  17℃  2回目の潜水はドリームに行く。ドリームを中心にして、他の、今日はFP6mとの比較と言う感じで見ていきたい。 整然と積まれた2m角のコンクリブロック、165個は、大きい。何故、ドリームに魚が多いかと言えば、大きいから、という答えもあると思う。メバルも、そこにも、ここにも、向こうの方にもいるので、FP6mのように、何個体が、どこに群れていたという撮影が出来にくい。どのような表現にすれば良いのか、考えなくては。魚種数も格段に多い。
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 2回目の潜水、少しなれたのか、バランスを知覚できるようになっている。 ボートに上がる時も、タンクを脱がないで、なんとか、タンクを支えてはもらったが、自力で梯子を上ることができた。  2回目潜水 ドリーム魚礁 潜水開始 1326 前回潜水とのインターバル 1時間 50分 最大水深 22. 9m  潜水時間 25分 水温 16℃  今回の撮影、福田君は、キヤノンの1D 増井さんは、パナソニックの最新鋭機、僕は、1万円クラスのウエアラブルカメラとTG4だ。 撮影したものをそれぞれ、何で撮ったかと表示せずに並べて使った。どれがどれだかわかるだろうか。ウエアラブルカメラ、TG4 そしてキャノンとパナソニックの高級1眼、パナソニックはミラーレスだったか。
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 キヤノンとパナソニックの違いは、ここではわからない。 sjとアコソの差も、わかりにくい。どちらも、作った画像がきれいならば、それで十分というコンセプトでカメラを作っている。 このような使い方では、TG4は、悪くは無かったが、SJやアコソとの差がない。ウエアラブルカメラの動画から、の静止画と並べて、一枚ずつシャッターを押したTG4との区別が付かない。魚の数を数えたり種類を決めたりするのならば、ウエアラブルカメラで、もう良い。とは言うものの悔しいので、次回は、もう少し考えて、もう一度NIKON AW130も並べて、結果を出そう。これは、趣味のようなものだが、良い写真も撮れれば撮りたい。  ☆★☆

0430 お台場 メバルとカメラテスト

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              TG-4
 子供のころ、多分小学校高学年、ミクロコスモスと言う言葉を本で読んだ。水たまりを顕微鏡でのぞいたら小さな宇宙がある。自分の身体の一部分も小さな宇宙の集まり。
 お台場と言う広大な宇宙。 去年メバルの稚魚が殆ど見られないで探した。今年3月、毎年メバルが見られる石の上で、1尾だけ見た。岸近くの石と石の隙間で何尾か見えて、カメラをその隙間に入れることが出来ないのでうまく撮影出来なかった。
 ウエアラブルカメラ用の棒の先にカメラと、イノンのライトを付けて石の間に入れるようにした。
 ウエアラブルカメラの初期、2012年頃、長い棒(測量用)短い棒にカメラを付けて喜んでいたが、やがて、飽きてしまった。それから少し後に、伸び縮みするポールを買ったのだが、放り出してあった。それに取り出した。
 そのカメラを使って見ることが、今回のお台場のメインテーマだった。
 付けるのはSJ4000とAKASO、お台場ではAKASOとsjが相性が良い。
 最初のエントリーでは、SJを取り付けた。他にNikonAW1300にストロボを付けたテストもしたかったが二兎は追わない。
 透視度は、1m弱、濁っているところでは何も見えず、見えるところでは澄んでいる。この季節は、そういうところなのだ。
 見えないので見ないで、3月にメバルを見た四角い石の地点に直行した。3cmほどの稚魚が2尾、目に入った。喜んで、棒を向ける。その横を見ると、10尾ぐらい群れている。それも撮って、杭の列を撮っていくと、どこにでもメバルがいる。これも、いつもの杭の下では、メバルは動かない。
 満足して戻ると、戻る道筋にも、そこここにメバルが群れている。マハゼがこの季節出てくるように、お台場がメバルで詰まっているのだ。マハゼは?とさがすと去年のメバル状態、探さないと居ないのだ。実は僕は、探すのが得意ではない。海士では食べていけないだろう。
 お台場は、ドラスチックに生物の種が交代する。種の多様性が見られない。環境として良くない行き止まりの海だ。
 もしかすると、今年のマハゼは釣り人にとって不幸な年?
 エキジットすると、中村征雄さんが来ていた。この前の月刊ダイバー取材の時にメンバー登録している。連絡なしだけど、予備のタンクはある。でも、カメラは持ってきていないカニかなにかのロケハンということで、スキンダイビングしていた。
 そう、首都大学の黒川先生もトゲアメフラシの採集に来ていた。潜水はしないいので、探して採ってあげる。このように、僕たちの活動が役に立ってくれるとうれしい。今年の報告書には何か書いてもらおう。
 僕も帰りのコースで、トゲアメフラシを探したが見つけられなかった。多留さんが何匹か探したので、良かったけれど。
  
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            SJ4000
 撮ったSJをプレイバックしてみると、失敗だ。よくとれていてライティングも良いのだが、誰かの上を通過した時に、微細な気泡がレンズ面に付いてしまった。ファインダーが見られないので気が付かない。時々拭わないといけない。
 午後は、NikonAW1300で行ってみよう。ところがNikonAW1300とウエアラブルカメラを並べる配列を逆にしてしまってダメ。TG-4の上にウエアラブルカメラをのせ、AKASOを使う。
 ダメだ。潮が変わってしまった。毎度、午後の方が悪い。それに春の大潮だ。
 水の濁りは増し、メバルも群れていない。それでも居ることは居るから撮影したが、圧倒的に棒カメラの方が狙いやすい。よほど透視度が良くないとファインダーは覗けないから今後のお台場は棒で決まり、かな。
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              AKASO
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      TG-4 メバルとアゴハゼ?

 図らずも、SJ,AKASO TG4の比較になった。
 また、膝を少し痛めた。びっこを引くほどではない。尾島ママが、横浜のクリーンアップで岩を踏んで筋をのばしたとかで、足を引きずっている。手伝ってもらえないので、僕は苦労して自力でエキジットして、逆にママのエキジットを手伝った。

0577 GW 2018

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 GW は恒例といってもこれで、6年目?の赤沢、富戸 ツアー。6年!
昨日からのようだが、あと6年やったら90になってしまう。無理だと思うけれど、死ぬことも出来ないので、来年も来られるといい。
 小久保教授との待ち合わせは例年、渋谷だったのだが、高速で高井戸で降りて、環状8号への途中なのだから、彼の家の近くで待ち合わせた方がいい。
 6時、セブン-イレブンで.住所をカーナビに入れて、余裕を見ていったが、やはり迷って、というか、カーナビで最初の場所に行く必要時間がかかった。 あまり混まない予定だったが、やはりGWで、待ち合わせの伊豆高原へは、15分遅れの0915。電車で来たマトンと竹内さん、緑ちゃん親子、玉田夫妻、計8人で赤沢へ行く。 強風注意報で、潜れるか、という水面の波だが、ここは、エントリーが波がない小さな港の砂浜から出られるから潜れるだろう。ただ、波の動きで底が動いて、濁るのが心配、イヤだが。
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 朝早くでて、身体が目覚めていないのにロングドライブを運転したから、体調は良いわけがない。
 ドライスーツを着るのもつらい。だらだらと準備して11時エントリーの予定
 イノンのストロボを工夫して付けたNikonAW1300をもって入る。苦難のエントリー
 なんとか乗り越えて、波の下に潜る。小久保、玉田夫妻、竹内はウエット、僕、寺内マトン、緑 親子はドライだ。水温は17℃、ウエットでは冷たいはず。
 いつも潜っている人工魚礁とは違って、サカナが驚くほど居ない。岩の下などでの何かをさがさなくてはいけないので、何かを見たいならば、ガイドが必須になる。
 身体ならしのつもりだから、サカナは居なくてもいい。赤沢のコースは単純、テトラ混じりの磯を左手、砂地を右手に見て進み、良い磯になり、サカナが見えてきたあたりで、残圧が100程度でターンする。残り40ぐらいで戻りつく予定。
 ストロボのテストで、何か写さなければ。
 戻る少し手前の場所で、イラがいたので撮影、ストロボは光っている。
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 ブランクダイバーだと思う、竹内さんを気遣って、視界に入れている。きちんとブリーフィングして潜れば良いのに、身内のダイビングで以心伝心をやってしまう。これが一番いけないことなのだ。とは、わかっているのだが。でも、わかっていてやらないのが、一番いけない。 もどると、緑が手前のスロープに機敏にヨジ上がって、タンクを降ろし、走って来て、砂浜から上がる僕を助けてくれる。別に、そのように打ち合わせたわけではないのだが、そのようにしてくれる。その緑、小学校3年生の時から、親子で僕のところに来てくれている。今年、社会人になり就職した。だから、もう、会えないのかと思っていたら、大学時代と変わらず、来てくれた。
 最近の言葉で言えば「超うれしい」
 何時まで続くのか、83歳になると、常に、何時までという枕言葉が付く。
 エキジットして見ると、ストロボが水没している。ねじ込み式の蓋のねじ込みが甘かったのだろう。長持ちして、眠っていたストロボを出してきたのだが、ご臨終。強いライトがあれば、ストロボなど要らない、ストロボはゴミを光らせにくいだけ、ライトの方が良いなどと考えていたが、ライトでは、サカナのぶれの歩留まりがわるいなどと考えて、ストロボを持ち出したのだが、付けたとなると、失われたことが残念になる。
 もしかしたら、イノンのこのストロボは水没しても電池室だけでとどまっているかもしれない、など気休めを考えるが、ダメだろう。
 
 潜水開始 1106
 インターバル 0
 最大水深 10. 9m
 潜水時間 48分
 水温   17℃
 昼食は、カレーライスにした。二階の食堂で食べる。二階のベランダから見下ろすと、風はますます強くなってきた、ように感じる。
 
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 ストロボが死んだので、FXライトとOlympus TG-4で行く。緑は寒いから行かないといっていたのだが、「ドライなのに寒い?」と言ったら出てきた。かわいそうなことをした?玉田もウエットで寒いからやめると言ったが、出てきた。玉田の旦那さまは、初めて海で一緒に潜る。心配していたけれど、大丈夫。これからも一緒できる。僕は、景色も変わらないし、サカナも居ないのだからとネガティブになるが、必ず二回目も出ることにしている。 潜水開始 1418
 インターバル 2時間21分
 最大水深 10. 2m
 潜水時間 38分
 水温   17℃
 
 やはり、2回のダイビングを終えたら、僕の体調は良くなった。 宿泊の大西のところにもどり、みんなはビールを飲みくつろぐ。僕は、大西、小久保と機材のことなど語り合う。ここが僕の機材の終着の場になっている。撮影機材博物館の様相を呈している。
 先日は、ここに取材にきたテレビ局のカメラマンが伝説の名機79Eを見て、一度さわってみたかったのだと感動していたとか。 夕食は、近くのイタリアン「紙風船」港町に来てサカナ料理でないのは?だが、一昨年までのサカナ料理屋が、富戸の地魚が手には入らなくなったと終業してしまった。
 沿岸漁業の衰退?
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 大西に戻ってからも、みんなで飲んで、それほど飲んではいないようだが、楽しく飲んでいて、僕は、機材、ニコノスの話をして、ニコノスが話題になる、good old days  12時に寝た。 ノンストップで5時20分まで眠れた。
 朝、しばらくぶりで調子が良い。 残念ながら、玉田夫妻は朝帰る。渋滞が怖いのだ。大丈夫、渋滞は最終日はない、と引き留めるが、無理強いは絶対にいけないのが海だ。何があるかわからない。ダイビングライフ、一寸先は闇なのだ。 富戸の港、10時出港で魚礁ブロックをピラミッドのように積み上げた「乱積み魚礁」を目指す。大西に、全部で何個積んであるのか、何年の枕設なのか、訊いてもらっているのだが。組合で、誰も知らないそうだ。きちんと記録を調べればわかるのだろうが、そんな面倒なことだれもやらない。
 水深は25m、深いのでレッグのウエイトを残した。僕は35%のナイトロックスを使った。レッグを残したのは失敗で、潜降のバランスが悪い。
 たぶん頂上は5段ぐらいに重なっているのだろう、迫力があるし、ヤギの類が、すばらしくきれい。ネンブツダイの群もきれいだ。FXのライトに照らして、TG-4の液晶で見ると本当に美しい。
しかし、めぼしい魚は全く見えない。
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 昔、やっていた調査での記録ならば。「5cmサイズのネンブツダイの群がいくつも見られ、魚礁の中には、5ー7cmのキンギョハナダイの群、ミギマキ、タカノハダイが見られた。」となる。産業的、漁業としては??だ。


 潜水開始 1018
 インターバル19時間21分
 最大水深 25. 1m
 潜水時間 21分
 水温17℃
 緑、親子は、これで帰り。緑の明日の勤めがあるから、とか。緑は地頭がよくて、気が利いて、身体がよく動く、可愛い。僕が会社をやっていたら絶対に欲しい。
 つとめ、うまく行くと良い。
 二本目の、富戸、ヨコバマ、行こうか
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どうしようか迷った。エキジットが辛いポイントだ。
 もし転んで骨折などしたら、治りが遅い。足の筋をのばしただけでも、一ヶ月は足を引きずる。情けないけれど僕はヨボヨボなのだ。パスする事にした。小久保、寺内が大西のガイドで行く。
 行っても、めぼしいものはないことはわかっているが、トレーニングなのだ。二本目をパスしたこと、潜ることがフィジカルで辛くなって来て以来初めてのことだ。辛いから行くのだ。その気持ちをなくしてはいけないけれど、思いとどまることも大事だ。


 とにかく、これでGWツアーは、終了した。撮影機材について、書くことが、山のようにある。別項にしよう。
 気分的には、「海は、潜れたから良かった。」
 大西を含めて、夜は楽しかった。
 帰路は、小久保と話しながら車を転がす。この話にも、ずいぶんと、今後の人工魚礁研究会についてのヒントがあった。「なぜ、あんなピラミッドが、富戸のあそこにあるの?」
 道は、予想通りに空いていて、楽に帰れた。また来年のツアーはGWの最終日2日間に決めよう。
☆★☆

0509  GWツアー 撮影と探検

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「秘境ニューギニアの旅」白井祥平著1977 カメラマン(お金をもらって撮影する人)から離れて,どのくらいたつだろう。最後の人工魚礁写真集 「豊かな海」が、たしか67歳だったか、2003年 とすると、15年前か? 最初から振り返ると、いろんなカメラマンをやった。スチル、映画:シネフイルム(展示巨大映像)、環境ビデオ、テレビ番組撮影、それとは別に、調査の撮影は、カメラマンに数えるか微妙だが、これは、75歳あたりまでやった。先の「豊かな海」は、調査の撮影と、きれいな写真を撮ろうとしたカメラマン的な努力のハイブリッドで、僕が写真集といえるようなものを出した最初で最後だ。残念ながら非売品なのでアマゾンで見てもでていない。今なら何とかして、成山堂書店で出しただろうか。今からの分はやはり、研究報告書になってしまうから、写真集にはならない。しかし、報告書でも、できるだけきれいな写真を載せたい。
 今の僕の撮影コンセプトは、報告書の、できるだけわかりやすい説明的な写真で、それでもなお、美しいと思えるような写真を撮りたい。

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 GW ツアーで、大西宅で、その僕の人工魚礁写真集「豊かな海」を出して、飾っておいてくれたり、ニコノスが飾ってあったりしたので、この写真集を撮った1997年ごろ、フィルム最後の時代の話で盛り上がった。そのころ、大西はうちの社員でいたし、GWツアーの中心の小久保(東大教授)は、僕のカメラ持ち(アシスタント)で沖縄などに連れて行った。僕の当時のダイビングは、かなり命がけに近かった。そのころ「危ないからやめよう」とは、「危ないから生きるのやめよう」と同じことだと思っていた。今でもそう思っているけれど、よく、東大の天文学者を連れて行ったものだと振り返るけど、今、はやりの言葉で言えば、絆だ。そんなことで、撮った写真の一枚、一枚を見て、潮に流されかけたこと、お金がなくて、タコスとハンバーグをちょっとしたごちそう、次郎長ずし、とか ステーキは大ごちそうであったことなど話しあった。
 そのころの僕のカメラは、ニコノスⅤ型、レンズはUWニッコールの20mmワイド、これだけ、これですべてだ。水中での僕の目は20mmになっている。20mmの眼で見て、とにかく、少しでも被写体(主に魚)に接近する。水中撮影は、接近できるか、できないかが成否なのだ。あとは、フィルムでどんな色がでるか、青のグラディーションと、その中での魚(被写体)の色。
 フィルムはフジのベルビアが中心で、現像はクリエイト東京 だった。ストロボはsea&seaのDUO シリーズ、(イノンはその後で愛用した)そのニコノスを2台持って行く。1台は自分で持ち、一台はアシスタントが持つ。
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          小久保博士と撮影した浮魚礁 知念沖
 僕は「下手な鉄砲も、数打ちゃあたる」スタイルのカメラマンだったから、36枚二台、72枚は必ず撮る。
 それで、小久保がそのアシスタントをした。一緒に来たのだ。ギャラは払っていないからアルバイトではない。沖縄、オーストラリアでのグレートホワイトなど、自費参加のアシスタントだ。今も昔も、自慢するわけではないが、お金はない。お金は一過性のものであり、江戸っ子は宵越しの金を持ってはいけない。お金ができれば、道具(カメラなど)を買ってしまう。今は宵越しの金もないから、カメラも買えない。自慢できることではないが。
   
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         「豊かな海」から、土肥 大藪魚礁
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         「豊かな海」から、鮫が集まって有名な伊戸の近く平砂浦
         今、伊戸にも大きなハタが出ているけど
 そこで、
「撮影」、と言ったとき、どんな撮影をなんのために、どんな風に(予算、態勢など)やるか、まず考えて、そして決めなければ、エンドレスにお金が出て行ってしまう。
 それはそれとして、物欲、買い物欲は、楽しいもの、人によっては生き甲斐になるのだから、否定しない。僕だって、まだ、未来があったときには、先に書いたように、稼いだ金のほとんどは機材につぎ込んだ。
 今は、元を取るまで生きられない。買った端から、大西博物館へ直行させるわけには行かない。
 最後に作ったカメラ、ペンタックス6x4. 5ブローニーのレフ、大西行きにしようかと思っていたが、フィルムが復活しそう?ならば、もう一度夢を?


 何でもそうなのだが、特にダイビング関係については、自分が何をしようとしているのか、明確に把握していて、その準備を整えることが、成功と、命を長らえる、つまり安全のために必須である。
 
 探検と冒険との差、ちがいについて考えたことがある。探検には、必ず記録が伴う。記録の為の冒険が探検だろうか。その記録とは、撮影を意味する。1912年にか書かれたコナン・ドイルの「ロスト・ワールド」は、写真が失われてしまったために「失われた世界」になり、その存在が証明できなかった。今は「ジェラシック・パーク」になっているけど。今度、新作がでるので、見に行こう。
 撮影が無くて、紀行文だけをかいているのは、文学であり、小説家として名が売れている人の紀行文は、僕の好きなジャンルだ。特に村上春樹の紀行文、滞在記は好きだ。その村上春樹でも、雑誌などに載せる記事としては、写真が必須なので、奥さんがスナップするか、カメラマンが別について行くということになる。実は僕はこの奥さんの写真が好きで、「風のなりゆき」という写真集を持っている。カメラは重くていやだけど、夫のために撮ってやろう、だから、どーでも良いけど、自分の感性だけで撮っているという姿勢が好きだ。その感性(なりゆき)が写真にでている。
 探検には写真撮影が必須である、本物の失われた世界的生物は、ネッシーが有名だが、僕は、ニューギニアの怪獣「ミゴー」の探検を兄貴分の白井祥平が計画したので、乗ったが、その計画とは、どうやってその撮影をするかであった。
 ※結局これは某テレビ局がやって、当然、何にも居なかった。撮れなかった。居るかもしれないけど。
 とにかく、探検も調査も撮影であるが、撮影調査の中で、非日常であり、冒険の要素が強いものが探検なのだ、と僕は考えている。逆に、調査とは日常的な撮影探検であるが、できることならば、危険は最小限度にとどめたいので、探検とは言い難いかもしれない。
 僕のやっている撮影はこのようなものであり、それを科学的な要素、価値があるものにしていきたい。その対象として人工魚礁を選んだものが人工魚礁研究会である。
 今、自分の目指しているプロジェクトは、人工魚礁とそしてお台場の撮影調査である。お台場は、どう頑張っても探検にはならないけど。
 
 今回のGWツアーで、富戸の人工魚礁をボートダイビングに選んだのは、人工魚礁研究会の一端である。
 実は、ここに、こんなに大きな、大がかりな人工魚礁があるということ、昨年まで知らなかった。知ったので、今年も行くし、来年も目標にしたい。
 
 プロの撮影については先に述べたが、アマチュアの水中カメラマンの場合(好きな言葉ではないけどカメラ派ダイバー)、その目指すところ、目標だが、大きく分けて三つになる。
 ①コンテスト、展覧会などに出展する。
 ②家族、友人たちに見せられるような、記念撮影をする。SNSもその中にはいる。
 ③何か、科学、産業、の役に立てたい。
 この③の延長線上で、僕たちの人工魚礁研究会がある。
 さて、次にそのための機材、そして機材にかける費用だが、①については上限はない。②③については、支出は少なければ少ないほど良い。
 ここで書いているカメラ、及びそれによる撮影手法の研究は、②③である。もちろん、①の人が②③に参加することは、望ましいことである。
 使うカメラはコンデジ、Olympus TG-4、5、かNikonAW1300、そしてウエアラブルカメラである。
 ②③であっても、撮った写真は、人に見せるため、使うために撮る。フェイスブックなど、そして研究報告書、場合によっては書籍、印刷物に使う。ハイブリッド写真集もありだ。
 まぐれ当たりで、展示会、コンテストなどに出品して、高位の評価をうけることもあるだろうが、基本的に、これは目指さない。このあたりは紙一重だとおもうのだが、アマチュアグループの展示会、あるいはコンテストであっても、高位を目指すならば、それを目指して、考え計画し、準備して撮るのでなければまぐれ当たりである。まぐれ当たりは、目指すものではない。
 さて、そこで、今僕の目標は③であり、②との共通項があるから、一番広い範囲とも言える。
 今の自分の機材ラインアップだが、Olympus TG-4、NikonAW1300 各一台(昔使ったキヤノンとか、リコーsea&seaは使える状態だがここでは除外)ライトはフィッシュアイのFX2500 イノンの750 2台、そして今回これから問題にするストロボ類
 ウエアラブルカメラは、GOPRO2が2台、これは4台使っていたのだが、1台は流失、1台は死んでいる。SJ4000の新しい型が2台、古い(これは使わない)が2台、AKASO7000が1台。ウエアラブルカメラがやたらに多いのは調査のために設置して、失う可能性が高いからである。その割には失っていない。
  
 ※「秘境ニューギニアの旅」白井祥平著1977 三修社 
 アマゾンでありました。怪獣 ミゴーについて書かれた、唯一の文献です。

0511 撮影調査機材 GWツアー

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               ウエアラブルカメラでのプランクトン
調査撮影機材ラインアップだが、
 Olympus TG-4 
 NikonAW1300
(昔使ったキヤノンとかsea&seaは使える状態だがここでは除外)
 ライトはフィッシュアイのFX2500 
 イノンの750 2台
 そして今回これから問題にするストロボ類
 ウエアラブルカメラは、
 GOPRO hero2が2台、これは4台使っていたのだが、2台 死んでいる。
SJ4000の新しい型が2台、古い(これは予備)が2台、古いと言っても液晶ファインダーが小さいだけで、画質に差はない。
AKASO7000が1台
他にAEEが2台あるが、今は使っていない。
 ウエアラブルカメラが多いのは調査のために設置して、失う可能性が高いからで、消耗品である。
 今は、設置の作業がないのでAKASO とSJ4000新 2台がリサーチカメラの中心である。
 GOPRO2は、タイムスタンプ機能がないので、リサーチ記録用には使えない。 Olympus TG-4とNikonAW1300が引退、あるいはご臨終になれば、代わりにGOPRO6、もしくはソニーのRXOを買いたい。調査撮影用として限られた予算とすれば、カメラを大きくしていく方向は考えないようにしよう。 大型カメラは、一緒に潜水しているメンバーが持っているので、それで良い。
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              オリンパスとSJ4000 カメラは入れていない。

 
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                  お台場用 カメラ

 さて、それで、ようやく今回のGW ツアーにたどり着いた。
 一つの目標は、イノンのストロボの再試用である。
 かつて、フィルム時代、そしてその後も、強力な小型ライトが出るまでは、人工光源の主力はストロボであった。今後はライトが主流と書いたりしたのは、2010年ごろだ。使わなくなった、あるいは使えなくなったストロボが箱いっぱい、ストロボの墓場状態になっている。
 ここにきて、なぜ、ストロボかというと、
 最近での撮影は、カメラを2台、たとえばOlympus TG-4と SJ4000、と並べて、SJ4000は、動画を回しっぱなしにしていて、すべてを記録する。Olympus TG-4は、ここぞと言うときにシャッターを押す、二刀流で撮っているのだが、動画の癖がついているのか、スチルで、シャッターぶれが多い。ストロボを使えば、気分的にもカメラを固定するし、絵が止まる、ブレがないのではないかと思ったのだ。
 記録するだけならば、ブレても良い。そんなことを言えば、Olympus TG-4もNikonAW1300も不要なのだが、やはり、カメラマンのノスタルジーがあるのだろう。シャッターを押してスチルを留めたい。
 そして、今のOlympus TG-4、NikonAW1300で撮った写真は、昔のフィルム時代なら、こんな寝ぼけた写真は撮らない。そんなものだ。カメラをグレードアップしないで、ニコノス20mm、「豊かな海 2003年」程度の写真は撮りたい。 それで、墓場の中から、最後まで使っていたイノンを呼び出して、光らせて見たら、よく光る。
 
 5月5日 第一回の潜水 赤沢
 NikonAW1300にイノン;ストロボを付けたものと、動画はAKASOの組み合わせ。ウエアラブルカメラの中ではAKASOが一番新しく、9000円のカメラとは思えないきれいな絵が撮れる。きれいであっても、画素数は足りないから、PCの上で拡大すると荒くなってしまうけど。
 4Kとかも撮れるのだが、PCの方に受け入れる余裕がないので、使っていない。宝の持ち腐れ?。
 ここしばらく、PCをグレードアップする予定、余裕はない。 潜水の状況はすでに述べたのでここでは書かない。苦労である。
 撮りたい魚もいない。アイゴとニザダイ、ミギマキ、カワハギ程度だ。ストロボの光り具合が見たかったので、カイメンを撮った。ストロボは、光っている。
 イシダイが3ー4尾いたが、射程内まで接近できない。ニコノス時代、僕の射程、撮影範囲は70cmから1m、1m20では辛い。その射程に入るまで接近できない。いつもの人工魚礁であれば、50cmまででも接近できる。人工魚礁は、ダイバーの姿を見て、魚が逃げ込む場所だから、驚かさなければ、魚に接近できる。
 潜水はやはり下手になっている。下手というより、身体が思うように動かないのだ。ほとんど逃げないイラが射程に入ったので、何枚か撮影する。
 後で見たが光量がたりないのか、色がでていない。
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 そして戻ってみると、イノンのストロボに浸水していた。ねじ込み式の蓋の締めがしっかり、最後までねじ込んでいなかったのだ。こんなことは、基本の基本なのだが、ながらくこのストロボを使っていなかった。そして、このストロボへの絶対的な信頼感が招いた浸水だ。ねじ込みだからと信頼してはいけないのだ。
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 このストロボ、電池室だけへの浸水で生きるかとおもったが、通電はするが光らない。やはりだめだった。 戻ってきてからのPCでのプレイバックで、ウエアラブルカメラの動画を見ると、眼では確認していない、意識してみていないハゼ、たぶんアゴハゼだろう。フィンで巻き上げられてピョンピョンはねているのがわかった。それと、プランクトンがはっきり写っている。
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 リサーチ、調査ならば、このウエアラブルカメラだけで、良いだろう。お台場での東京港水中生物研究会での撮影では、ウエアラブルカメラを棒の先に付けたものを主力として使う。
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 赤沢での二回目の潜水そして、翌日、富戸のピラミッド魚礁の撮影では、ストロボが死んだNikonAW1300ではなくてOlympus TG-4を使った。Olympus TG-4は、水中モードで使った。水中モードだと、このカメラにつけたFIX2500DXの光が、やたらに赤っぽい。サイドのウエアラブルカメラ、SJ4000の方は、そんなに赤くない。Olympus TG-4は、水中モードでは青がおかしく強調されてしまうのだが、ライトの光まで、赤っぽくなるのか。水中モードがきらいなので、で、いつもはP、プログラムで使っているのだが、数日前にチェックしたら、プログラムモードにすると、四隅が黒くぼけているので、水中モードで使った。
 この四隅の黒ぼけは、戻ってから、修理に出そうと思ったが、いろいろやってみて、リセットをかけたら、なおったようだ。次回のお台場潜水で確認してみよう。 全体として、ウエアラブルカメラのSJ4000は期待以上でAKASOとほぼ同等に撮れた。ストロボは浸水、NikonAW1300もOlympus TG-4も期待を下回った。何とかして、フィルム時代のニコノス20mmと同等のところまでにしたいのだが、及んでいない。
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 考えてみて、一つには自分のダイビングの衰えがある。被写体の魚への接近が今一つなのかもしれない。
 人工魚礁では、射程内に容易に近づけるが、広い磯では、接近に技術が居るのか?射程に入っていないのだろうか。
 そして、伊豆は、30cm以上の魚が群れているようなことが無かった。イサキの群れも、接近できなかった。
 
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 ピラミッドのように積み上げた魚礁にも、めぼしい魚が居なかった。千葉であれば、メバルは群れているだろうし、はたの類も見られたはず、今回の伊豆では、タカノハダイとミギマキだけだった。
 総じて、すべての写真がシャープじゃない。ライトの光は、赤く写ってしまう。カメラ講座の失敗例のようだ。
 
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 ストロボは、戻ってから、また墓場を探して、sea&seaの小さいストロボ、YS-15が生きていたので使うことにした。これも光量は小さいが、かなり使い込んだストロボだ。次回の波左間でテストする。
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0513 お台場

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        棒カメラ AKASO
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          TG-4
 お台場 今年のお台場、スケジュールが不規則で、毎月、最終日曜日というわけにいかない。前回が4月29日だったのだが、今日は13日、半月も経っていない。 幸いなことに多留さんは、月末だったら来られなかったのだが、この日ならば、来られた。その多留さん、三ツ橋、尾島さん夫妻、そして僕の5人だ。 午後からは大雨なので、午前中に済まそう。一回で良いかな。 今日の僕のテーマは、マハゼを探すこと。4月29日には、メバルが多く、小さい群を作っていた。そのかわりマハゼが見えなかった。昨年はマハゼが多く、メバルが見られなかった。メバルとマハゼ、逆の相関があるのだろうか。お台場は、狭いニッチで、例えば岩ノ下にメバルがいたら、マハゼは来ないとか。 とにかく、マハゼとメバルを見よう。  もう一つのテーマは、お台場専用カメラとも言うべき、棒の先にウエアラブルカメラとイノンのライトを束ねた棒カメラ。これだと、カメラと弱いライトを魚から5ー10cmに楽に接近させることができる。
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 ウエアラブルカメラは、今、一番使用頻度が高いAKASO 7000を付ける。もう一つ、リセットで調子を取り戻したと思われるOlympus TG-4にフィッシュアイの2500を付け、ハウジングの天井にSJ4000 を載せたセットをテストする。 ドライスーツがサンファンのハイブリッドスキンになってから、ドライを着ることに何の苦もない。ウエイトは、おなじだが、7+4+1、7=13キロで安定している。 第一回目、棒カメラを持った。 水はいつもと同じ濁り。見える部分で1m。 毎回同じコースを撮影しながら、滑っていく。バランスが良いので滑るイメージで泳いで行かれる。マスクはパラゴンを使ってみた。辰巳のプールで良かったので海でも安定しているのではないかと思って使う。 マガキは生きている。マハゼは、メダカと同じくらいの大きさが、まばらにだが見える。
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 天然礁?杭の残りだから人工か、端の四角いブロック、ここには、4月29日には5ー10尾の群が見えたのだが、3尾しか見えなかった。マハゼがいつも溜まる凹みでは、3cmほどがm1尾と少し小さいのが5尾ぐらい、逃げ散る。棒カメラで追うが、撮れたかどうか。動画を回し続けているのだから、後で静止画にしたときに、止まっているかどうか。

 杭の列の終わり近く、必ず魚が入っている横杭の下には、もちろんメバルが2尾これは落ち着いて撮れる。 これでターンする。 少し波があるので、ゴムボートの監視が、苦労だろう。  少し休んで、Olympus TG-4とSJ4000のセットででる。三ツ橋と尾島ママに送り出してもらう。 カメラのテストだけだから、手前の石ですませようかと思っていたが、エアーが100残っているので、少し速度を上げて、杭まで行った。 棒カメラのようには接近できないが、横杭の下で、逃げないメバルを、Olympus TG-4の液晶ファインダーを見ながら、シャッターを押すことができた。 帰り途、左側の浅瀬で、二つの岩の間で、ムール貝を割って、魚を集めてみた。しばらく見ていても何も出てこない。左側の石に付いていた牡蠣を割って追加した。 アゴハゼとチチブだろうか、5ー7cmが4尾出てきた。岩の下にイソガニが逃げ込むのを見たのだが、出てこなかった。  エキジットは、後ずさりして、うまく上がることができた。  マスクは、一回目がパラゴン、二回目がDWのアイアイの1眼タイプ、アイアイは一滴も水が入らなかった。パラゴンはほんの少しだけ、おでこを押して鼻から一息ほどの水だ。 どちらも良いマスクだ。 先日、DWで、武田さんに会ったので、パラゴンは良いとほめたら。アイアイ1眼を手直ししているので、それを使うようにと言われた。まあ、今のアイアイ一眼でも、ベストなのだが、付け方が悪いと眼がひきつる感じがする。 今日、パラゴンで、水深3mまで沈んだら、水圧で眼がひきつった。すぐに手で動かしてなおしたけれど。あまりにも顔に密着するのでひきつるのだろう。  13時には撤収、雨が降らないうちに戻ることができた。  さて、撮影結果だが。 二回目の潜水、Olympus TG-4の上に載せたSJ4000のシャッターが押されていなかった。回っているのを確認しているのにおかしい。で、AKASOとSJ の比較ができなかった。ファインダーを見てシャッターを押したOlympus TG-4は、AKASOの棒カメラより、当然画質は良い。マハゼを撮って拡大した。マハゼだとわかる  リセットしたOlympus TG-4のプログラム(P)は、悪くなかった。
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 NikonAW1300のストロボは、テストできなかったが、このシステムはお台場では使えないと思う。

0519 人工魚礁研究会 2018-1

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 5月17日、JAUS人工魚礁研究会
 人工魚礁研究グループとか、人工魚礁調査撮影グループとか似たような名前で、発表してきた。本当は何だったのか忘れてしまうのだ。こういうのを耄碌というのだろう。
 わかりやすく人工魚礁研究会としておく。
 2016年まで、インターバル吊り降ろし撮影の研究をしていた。それはそれとして、成果はあったと思う。2017年には、シンポジュウムに発表できるような研究調査をしなかった。2018年は想を新たにして、これが第一回ということになる。
 毎月波左間には行っているので、ことさらに第一回とは奇妙なのだが、報告書を作る、そのための正式は発足ということにしよう。
 その第一回、メンバーは須賀、山本、増井、久保、長口 それに、サイドスキャンソナーを持って、そのオペレート実験に国方が参加した。
 天気は風が強く、周辺の西川名、伊戸はクローズだった。波左間も危ぶまれたが、研究会について荒川さんと相談して、協力をお願いする話し合いができれば良いと出発した。朝700の門仲スタート。 幸いにも、波左間は風向きがよくて、なんとか午前いっぱいは潜れそうだ。
 サイドスキャンの操作も心配だったが、完全防水仕様だから波をかぶっても大丈夫ということ。昔のサイドスキャンのイメージとは、ずいぶん違う。 目標は、No.21の大型コンクリートFP魚礁、そして午後はNo.22のこれも大型コンクリートFP魚礁に
決めた。この21番についてえ、6m角のブロック10個と発表されているのだが、僕の見た感じでは、10個以上あるようだ。そして、一辺が6mというが、そんなに大きくはない。実測しよう。
 個数の方は、荒川さんがまちがいなく10個だという。だから10個だろう。
 
 タンクは12リットルと10リットル、いつもは10リットルを使うのだが、本格的に調査したいので、12リットルを背負った。12リットルだと、自力で梯子を上がれない。水面ではずしてタンクを引き上げてもらうことになる。 No.21
 ログ:
 開始 1100
 水深 21. 9m
 時間 28
 水温 19
 カメラ Olympus TG-4
     sj4000 カメラマウント
     sj4000 マスクマウント
 ライトはFIX2500、1灯 光量25%で使う。 何時も午前の第一回潜水は、調子がでない。
 が、問題なく潜水して、水深25mの海底を魚礁の下に入り、くぐり抜ける。FP は、斜めに筋交いが入っているのでくぐり抜けにくいが、くぐり抜けた。
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 イシガキダイ、オオモンハタ、キンチャクダイ、カサゴは、後で図鑑で調べる。ササノハベラ、
 くぐり抜けて、上の階、二段積に上がると、メバルが多い。これは、この前の潜水と同じだ。メバルの数も大きさも変わらない。年間通しておなじなのだろうか。調べる価値あり。
 二階に、ウマヅラハギの40cm級が1尾、イシガキダイ、イシダイの15cm級がイシガキ2、イシダイ1、ハコフグが4尾 エントリーからエキジットまで回し続けているカメラマウントの動画を見て、魚が見えたら静止画を作り、そこに映っている魚を数えて、表記するのが調査の目標だ。
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 潜降して魚礁に接近するとき、大型のイシダイが1尾逃げ出すのを見た。撮影はできていない。
 残念だが数に入れないようにしよう。
 もどってからの画像チェックの結果だが、
 マスクマウントはカメラミス、回っていない。マスクに付けてしまうと確認できていない。
 Olympus TG-4は、思ったようには撮れていない、。メバルなど前回の方が良い。水が前回よりも少し濁って、透視度は10m前後、撮影距離2mでは、シャープに撮れない。距離50cmの絵はきれいに撮れている。
 SJ4000は、期待通り、いや期待以上かもしれない。やはり調査はこのクラスのウエアラブルカメラが主力で充分だ。ここに示したのは、ほとんどがこのSJからの静止画だ。
 FPは、一辺がやはり6mまでなくて、4mだった。数は10個でまちがいない。10個で20個に見えるのならば、10個単位が良いかも。
 1時間半休んで12時50分出港 No.22
 開始 1323
 水深 25. 8
 時間 23
 水温 19
 カメラ NikonAW1300 
     AKASO カメラマウント
     sj マスクマウント
 二回目の潜水は、朝よりも元気を取り戻している。そして、1回目で12リットルでは空気があまる感じだったので、小さい10リットルにした。
 
 エントリーして、潜降ロープまで行ってロープをたぐれば良いのに、ロープまで行かずに直に降下しようと思ってしまった。ロープをたぐるのは僕だけなので、格好が悪い。
 その潜降の途中、首筋が冷たかった。ドライの浸水、チャックが緩かった。実は浸水では無かった。フードがまくれただけだったのだが、注意をちょっと離したうちに、透視度が悪かったので、ロープを見失ってしまった。さらに具合が悪いことに、BCの腰ベルトがきちっとしまっていなかった。BCが浮いてしまう。とにかく、海底まで降りて直そうと海底に膝をつく。浮いてしまったBCがなかなかもとにもどせない。
 困っていると山本さんが来てくれて、なおして、彼の出てきた方に向かう。山本さんは魚礁に到着してから、迎えに来てくれたものと思った。
 しかし、山本さんについて行っても魚礁がない。どうも違うらしいというサイン。後戻りして、廃ロープのようなロープをたどる。もとの自分の降りたところを横目で見ながら、進むが、魚礁はない。巨大魚礁なのに見つからない。山本さんは少し浮いて進むが見つからない。
 一旦、水面にでようというサイン。出てみると、ぼーとから100m近く離れている。ボートの下に魚礁があるはず。水面を泳いでボートに行けば良かったのだが、水中の方が速度がでるので、水中を進む。
 僕は、このところ、スクーバで、このような泳ぎをしたことが無かったので、まあ、良い練習になると思ってついて行くが、それでも無い。もう一度水面にでてみると、ボートとは別の角度で離れてしまっている。
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仕方がない。スノーケルに切り替えて水面を泳ぐ。
これもかなりな練習になる。
 泳ぐのは嫌いではないのだが、海では流されるのが恐怖であまり泳がない。
 ボートに近づくと、下から気泡が出てきている。みんな潜っている。自由潜降で降りて、久保君と一緒になる。残圧が80だ。12リットルにしておけば、100はあったのだろうが、80をターンプレッシャーにしている。少しだけ魚礁の上の面を撮影して浮上する。
 水面では荒川さんが居てロープ作業をしている。
 梯子をタンクを背負ったまま上ることにする。一段上がって、足を水面にだし、国方君にフィンをはずしてもらう。片方だけはずせば、自力で上がれると思った。そして上がれた。
 午後は快調なのだが、魚礁の撮影ができなかった。
まあ、みんなの撮影もあるから、問題ない。


 反省としては、やはり、潜降索まで、水面を泳ぐのは面倒でも、そして、みっともなくても潜降索を手繰ろう。もはや、昔の僕ではないのだ。
 
 ということで、NikonAW1300のストロボのテストができなかった。
 
 企画書をVAR3まで、3回書き直したのだが、第一回を潜ってみたら、また書き直す要があるようだ。
 書き直そう。
 
 

0520 スポーツの空気

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 日大アメフトの反則が、巷の、全国的な話題になっている。日大のアメフトといえば、1960年代、日大の伝説的な監督、篠竹さんと、毎夏何日かをともに過ごした。まだ、指導団体などというものが、無い時代だから、僕は個人教授で篠竹さんに魚突きを教えていた。だからダイビングの師ということになる。 篠竹さんについては、前にも書いたが、際限もなく書くこと、逸話がある。虎の頭付きの毛皮をベッドに敷き詰めてあったり、一言で言えば侍、武士道を体現しようとしていた。だから、切腹も斬首もあり? 著書も多数ある。フットボールのパス戦術であるショットガン・フォーメーションの考案者であり、日大フェニックスは、日本最強だった。このショットガンはアメリカのNFLもカーボーイズが真似をして普遍的なフォーメーションになり、後には、関西学院も使うようになった。ショットガンとは、鉄壁のディフェンスで、QBを守り、ランニングバックが散弾銃のように飛び出し、そのどれかにパスをする。一緒に遊んでいたころ、ディフェンスは鉄腕湯村、不世出のランニングバック、吉岡さんも一緒に潜った。僕が書くと、なんでもGOD、古き良き日になってしまうのだが、本当に楽しかった。  今度の反則、QBへのレイトヒットは、プレイがはっきりと終わって、QBが天を仰いで居るときに後ろから襲いかかって倒し怪我をさせた。ビデオ録画で見て、卑怯な暴力行為に見える。反則として拙劣、下手くそであり、みっともない。「殺せ!倒せ!」はフットボールの常套句だから、監督はそんなことを言っただろうが、みっともない、卑怯に見えるということで、篠竹時代だったら、切腹だろう。 篠竹さんは、選手を選ぶ基準として、喧嘩が強いことだと言っていた。たしかにコンタクトスポーツは喧嘩であるが、ルールがない喧嘩はスポーツにはならない。卑怯に見える暴力行為は許されない。真正面から当たって、ルールの範囲で倒すトレーニングをする。 ルールの範囲でも、アメフトは、もっとも危険なスポーツである。スポーツ安全保険もダイビングよりもゼロが一つ多い。かたわら、父母会も熱心である。篠竹さん時代、父母会は、篠竹さんの後援会の様相だった。父母会をまとめるのも、監督の役割であろう。怪我した場合、お母さんを納得させなければ、ならない。怪我は日常で、専属の整形外科のドクターが、ベンチに入っている。今、どのようになっているか知らないが、昔より危険についてルーズになっているとは思えない。母親を納得させなければ、危険なスポーツは成立しないのだ。 これでは、ほとんどのチームが、今後、日大をボイコットするだろう。  日大の監督は、監督の指示と選手の受け止め方の乖離だと言っていると報道されているが、その乖離を無くすことこそが監督の役割なのだ。内田監督は、僕が篠竹さんとおつきあいがあった時代のコーチの中に居た記憶がない。50年前だ。なにぶんにも時間が経ちすぎているけれど。しかし、日大の役員になっている。立派な人なのだろう。どうしたのだろう。不運?勘違い?私見では勘違い、やっていいことの瀬戸際の勘違いだろう。なんでもあり、と錯覚しやすいスポーツではある。  ビデオで見ると、反則で戻ってきた選手をコーチ陣がとがめていない。下手くそな、見え見えの反則をとがめていない。認めている。そんな空気だった。為に、この選手は、反則を繰り返す。  そう、僕は、空気のことを言いたかったのだ。チームの空気、空気こそが監督の責任なのだ。  コンタクトスポーツで、もう一つ大事なのは、相手をリスペクトすること。武士道だ。篠竹さん時代の関西学院の監督は武田健という人、学生時代は名QBで、心理学の専攻、留学してコーチ学を修め、いくつかの良い本を書いている。一冊は僕の愛読書で、ダイビングのコーチングの参考にした。探せばあるかも。※探したらあった。「リーダーシップの条件 武田健 大和書房 1981」もう一度読んでもいい。書いていることは、篠竹さんのコーチングとは正反対に見える。僕はどちらかと言えば、武田型のコーチだった。凡人は武田型がいい。篠竹さんは天才だった。 武田さんと篠竹さんとは、外見的にも気質も正反対に見えた。その関西に敵なしの武田監督が、どうやっても篠竹さんのショットガンを破れなかったのだ。篠竹さんと武田監督は、お互いに尊敬しあっていることは、はっきりわかるように行動していた。「あの人のまねはできない」と。しかし、今、こうなってみると、篠竹対武田のコーチングの違いがやはり、尾を引いているように見える。日大は篠竹型でないと、関西学院には勝てなかった。勝つために無理が生じた。そして、内田監督と島内監督、互いのリスペクトはなかったのだろうか。結果的には無かった。あるとは見えない。※、事件の13日後の今日謝罪したが、関西学院のことをカンサイガクインと言ったとか、また問題にされていた。  結果論だが、チームの空気を作ることができなかったこと、長い間好敵手として定期戦を戦ってきた相手をリスペクトできなかったこと。日大のアメフトは、残念ながらこれで、一区切りだろう。再建に20年はかかるだろう。再建しても、関西学院に勝てるようになるかどうか?  この出来事から、我が身を振り返る、自分のダイビングを見る、事故は空気から起こる。  自分の会社の死亡事故、脇水君の事故、自分は現場には居なかった。原因は不明、しかし、事故が起こる空気はあった。自分たちはサーカスだ、という思い上がり、その空気の中で事故は起こった。その空気は、監督である社長である僕の責任である。 この事故を生涯背負わなければいけないと考えた。内田監督も背負わなければならないだろう。僕は背負って、歳を重ねた。 僕が「ニッポン潜水グラフィテイ」をだした記念会で脇水のお父さんがあいさつしてくれた。先頃、サカナくんとの番組、別に知らせなかったのに、脇水のお父さんが見ていてくれて、便りをくれた。僕の応援を続けてくれている。  学生のダイビング、アメフトよりはスポーツ安全保険の保険金額は少ないものの、危険なスポーツと認識しなければならない。 2003年頃、東京水産大学潜水部の何人かを全日本潜水連盟のインストラクターにするべく直接にコンタクトした。僕が全日本潜水連盟の理事長の時代だ。彼等には、問題は無く、良かったのだが、彼等を通して見た学連のダイビングの空気に心配を感じた。そして学連には加入していないサークルだったが、大瀬崎で事故を起こした。その事故に関わった「はごろも」のオーナーが、空気が悪いという。 合宿とか活動が、飲み会に見えた。そして、大人、監督やコーチがしっかりしているところと、皆無のところがあった。ちなみに、学連には大人は加わっていない。大人、監督、コーチの居ないところは空気のコントロールができない。大人とは、何かトラブルがあったとき、ダイビングの場合は死亡だが、あの人がバックアップしていたのだから、避けがたい事故だったのだろう、と思われる人のことだ。単に成人しているということではない。 空気のコントロールがなく、大人の指導者がない。それが、2003年の関東学生潜水連盟だった。 2003年、僕は東京医科歯科大学の真野先生、順天堂大学の河合先生にお願いし、関東学生潜水連盟の学生を集めてSAIという計画を始めた。SAI、スチューデント・アシスタント・インストラクターという意味だ。最上級性を教育して指導ができるようにしようと考えたものだった。 これは、まだまだ、資格にこだわっていた、僕のミステーク、アシスタントインストラクターという資格をどうするかが問題で、結局資格は作らずに講演会だけを連続した。真野先生、河合先生がバックアップしてくれる大人であったのだ。 その学生とのつきあいの中で、学連の17大学の中で、監督、コーチが明確に決まっている倶楽部と決まっていない倶楽部があることを知った。そして、その両者に付き合い、交流がないことも知った。 2010年にJAUSをつくり、そのシンポジウムの中で、学生連盟の各大学の監督・コーチに講演してもらうことを始めた。そして、学生連盟の監督コーチのいる大学といない大学をセフティについては、同じテーブルに付かせたい。そう思っているうちに2013年、SAIが消滅した。学生の自主的な開催にまかせていたのだが、その年度の学生がSAIをやめて、あるショップの機材のデモ会に換えてしまい。真野先生の話のかわりに、ベテランインストラクターの講演に換えてしまったのだ。つまり、大人のかかわりを否定して、業界を採ったのだ。学識経験者、大人のバックアップの意味がわからなかったのだ。学連には、安全対策主将会議というのがあり、これで十分だと思ったのだろう。危機管理の発想はわからなかった。それは、無理からぬことで、学生との付き合いの常である、2003年から、2013年まで、10年やったから良いだろう、と諦めてしまうことが、僕の悪いところだ。 2014年のJAUSのシンポジュウム報告書で、SAIで残してきたことの要約、どんな練習をしているのか、そのプログラムなどを各大学の主将クラスに書いてもらい、その時点でのアンケートデーターも集めた。常々、ローカルルールの重要性を説いているが、これが、学生倶楽部の現状報告、ローカルルール集になるだろうと。これが僕にできる最後のメッセージのつもりだった。 残念なことに、この報告書2014年版は、関東学生潜水連盟の各大学には、活用してもらえていない。無視はされないまでも、学生には継続はない。これを書いてくれた年度が卒業してしまえば、それで消える。各自、自分の大学のスタイルとテキストがあり、それを横並びの他大学のそれと比べて考えようと言う気持ちはなかったのだろう。 それは、それで、仕方がないとあきらめ、2016年のシンポジウムで、これまでJAUSのシンポジュウムで講演をしていただいた各、コーチ、監督に集まってもらってフォーラム形式の意見交換を行い、この続きで監督コーチの集いという形ができたが、監督、コーチのいない大学、あるいは、監督が居ても監督どうしの個人的つきあいのない大学のコーチは出てこなかった。 そして、関東学生潜水連盟は50周年を迎える。僕は、これまでの努力と功績?を買われて、その報告書に大きなスペースで書かせてもらうことができた。せっかくだから、部数が余ったらいただきたいと申し入れたが、それはそのままになっている。 監督、コーチの集いは、何回か続き、よい形のワークショップになったと思っていたが、今は、砂漠に水が吸い込まれるように消えている。  自分としては、関東学生潜水連盟をまとめることはできなかったが、いくつかの大学とより親しいおつきあいができるようになり、それぞれ、個々との対応で良い空気ができるようにお手伝いしてゆくが、これを一つの形にまとめようとすることは、無理、である。  さて、空気とは、具体的に考えると、反則(安全)に対するそのチームの基本的な考え方であり、ダイビングについては、やはりどこかで、大人でダイビングの恐ろしさがわかっている人が、見守ってくれていないと危ない。 今、母校の水産大学、今の海洋大学の空気が心配である。指導を任せている全日本潜水連盟の空気が悪くなっている。それが影響しないかと心配している。杞憂に終わればいい。 こう書いておけば、ブレーキになるかもしれない。

0522 スポーツの空気

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 日大のきたないプレイが、大きな話題になった。僕も、想い出の中で、日大アメフト伝説である篠竹監督とダイビングを通じて親交があったことから、この問題が頭から離れなかった。まあ、他の世界のことなので、野次馬的発言ができるということもあるのだが。
 篠竹さんは、よく、アメフトはファイナルスポーツだと口にしていた。そのファイナルスポーツでなぜこんなことが起こったか、ということと、「人の振り見て,我が振り直せ」我が振り、学生スポーツとしてのダイビングを。僕は学生のスポーツとしてのダイビングに首まで浸かっていると自認している。関東学生潜水連盟の50周年記念誌にも「ローカルルールの大事さ」を書かせてもらったから、他認もしてくれているのだろう。
 アメフトとダイビングの共通項は「危険」である。その危険は全く性質の異なる、正反対とも言えるのだが、その「危険」に付いての共通点、というか、これはすべての危険に言えることなのだが、危険はその場の空気(雰囲気、それぞれの考えの方向、ETC.)から起こる。その空気の制御が、下から上に遡っていくと、学生のスポーツダイビングでは、上級生、コーチ、監督、大人、OB会、上部組織、文科省、国、国民 となる。この原則(順序は思いつきなので、もっと考えなくてはいけないが)がとても大事で、自分がそのどこに位置するのかを認識していなければならない。そのことをしみじみ考えさせられた。
 昨日、社会スポーツセンターの理事会があり、僕はその創立者の一人であり顧問にさせてもらっている。発言権があり、必要があれば、発言しなければならない義務があるわけだ。昨日は何も言わなかったが、今後機会があるので、考えをまとめておかなくては、。 昨夜、辰巳の練習会に学習院のダイビングクラブ(正式名は複雑)が、来てくれた。何時も来てくれている。学習院大学も50周年を迎えていて、挨拶をさせていただいた。挨拶をするということは、責任が発生するのだという自覚がなく挨拶させてもらったが、ここに来て、空気に責任があるとわかってきた。
 昔から、学習院の辰巳での練習を見ている。とても良いとブログに書いた記憶がある。探して見よう。関西学院、武田健コーチの著作は、褒めることが、褒め方がコーチングの基本だと書いてある。彼等の練習の足下に近く、360度カメラを置いた。今度の機会には、彼等に言って、真下に置かせてもらおう。そして彼等に見せる。(ファイルを送ってあげよう)空気を写すことができる。練習の参考にもなる。と、360度カメラの使用方法の一つが発見された。
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 そうだった。あの日大の反則、撮られたビデオ、繰り返し流された映像がとらえた空気が、なんとも嫌な空気だった。悪意、卑怯、(プレイが終わり、一つ間があいて、何も攻撃的動作をしていないプレィヤーに後ろから腰を襲うのだ)そして無反省、それがこの問題を大きくした。 学習院の練習に、少しばかり大人(年寄り:そうそう、相撲に年寄り制度があった、相撲には脱線しない)年寄りとしての自覚を覚えて、練習の終わりに挨拶させてもらった。プールサイドのジャグジーに入った後なので裸、ではまずいとラッシュを着たら裏返しだった。が、まあ良い。
 練習の終わりに挨拶を(といっても、お疲れさまだけだが)するということ、学習院の彼等に教えてもらった。
 人数が多くなっている。新入生が何人?と訊くと、15人、「ええつ!ずいぶん多いね、よかった。がんばって!」これが僕の挨拶。

0522 ダイビング事故の歴史 12

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  海中開発技術協会がJUDFと連名で出していたカード。海中開発技術協会は JAUE となる。
 
書きたいこと、例えば、学生のダイビングのこと、書かねばならないと決めていること、例えば、自分のダイビングの記録とか、を書いていると「ダイビング事故の歴史は置き去りになってしまう。
 たぶん、誰も読んではいないだろう、という期待? あと、適切な写真がない、ということにも、輪をかけられて、気が付けば、前回、「ダイビング事故の歴史11」が4月25日だ。 続けるならば、続けなくては。 
 ここからが、前回の続き とにかく、1984年の事故は、平成4年、1992年に示談で解決し、1993年 河野洋平氏が会長に就任した。そのとき以来、河野洋平先生と潜水業界の縁がつながった。僕は、何度かお目にかかり、親しくしていただいた。現在もマリンダイビングフェアの会長をしてくださったり、先日、全日本潜水連盟の名誉会長の玉置氏の88歳のお祝いの席にも出席された。
 事故の歴史と言いながら、事故の直接のことから離れて、業界の昔話をしていると言われるかもしれない。確かにその通りだが、これは僕でなければ書けないことだから、これを書くことも仕事の一つだと思っている。
 事故というのは、その場、溺れ死ぬその場のことだけではなく、その溺れ死ぬ現場にたどり着く、その人のすべて、性格、生まれ、育ち、現在の状況、生き方に密接に関わっている。そして、周囲の状況、ダイビング社会の状況、ダイビングに対しての姿勢、アプローチのすべてが関わってくる。最近書いていることで言えば「空気」がある。 そのうちのどれか一つの歯車が違っていても、事故は起こらない。言い換えれば、悪い選択肢、悪い歯車に替わっていたために事故がおこるとも言える。 例えば、今は減圧症、減圧表のことが話題の中心になっている。1970年代、減圧症になれるほどの空気を背中に背負うことなど出来なかった。しかし、急速潜降、急速浮上は常であって、魚突きをタンクを背負ってやるダイバーなど、素潜りをタンクを付けてやるような急速浮上だった。恐ろしいのは肺破裂で、今は、AGE と言うような名前で呼んでいるが、肺がポンと破裂するから、「エアポン」と呼ばれた。「エアポン」の方がわかりやすい。今、これを書くのに、横文字が思い出せずに調べたりしてAGEと書いた。 それでも大部分の魚突きダイバーはAGEにもならず、死ぬようなこともなく、無抵抗の魚を殺し続けたが、中には簡単に死んでしまう人もいて、遺族から、「人間って、こんなに簡単に死んでしまうものなのでしょうか」と言われ、返事に困ったこともあった。すなわち、ある一部の人は簡単に死んでしまうのだ。その一部が誰か、わからないところが問題なのだ。
 少し脱線したが、時代背景、その時のダイビングの様相に、重大事故は大きく左右されている。 さて、海中開発技術協会の事故は解決したが、そのとき、訴えていた遺族はハイエナのようなものだ、と僕は感じた。もちろん、ケースバイケースであり、これは、殺人に近いと憤慨して、訴える遺族の側、原告側の証人として、法廷に立ったこともあるし、意見書も何通も書いたが、人殺しのようなインストラクターだと言う事故もあれば、ハイエナ遺族もいて、法廷、保険屋は、公平に?これを処理して、賠償金を支払う。賠償責任保険に加入していなければ、争いは死ぬまで続く、わけには行かないから、泣き寝入りして賠償を払う。これが、1990年代の、スクーバダイビング事故についての、今現在の感慨だ。
 さて、少し話題を変える。 この話が先に進まないのは、資料がないこと、資料を探して、見ると、自分の記憶と時系列が違ってしまうので、そこで停滞してしまうのだ。 時系列が定かではなく、明確に言えないが、それまで海中開発技術協会は科学技術庁・資源エネルギー庁の所管だった。それが、科学ではなく、通産省のレクリエーション、レジャー部門の所管になるという話が持ち上がった。 話は、前後するのか、同時発生か定かではないが、海洋科学技術センター、今のJAMSTECが、海中開発技術協会を引き取ると言う話もあった。 専務理事を一名、海洋科学技術センターからだす。事務局は、新橋にある、一緒の場所にする。 あとは、レクリエーション部分などについてはこれまで通り全日本潜水連盟で良い。 別に文書を見て書いているわけではないので、正確ではないかもしれないが、とにかくそういう話があった。 僕は、それに賛成だった。日本潜水科学協会からのスタートなのだから、科学を捨てるわけには行かない。そして、海中開発技術協会の業績、及び収入の多くは科学関連の助成金に頼っていた。レクリエーションになったら助成金はなくなる。科学関連の仕事をすることも出来なくなる。 しかし、先輩理事のほとんどすべてが、レクリエーション行きの意向だった。 これは勘ぐりだが、シートピア海底居住で、はじき出されて、全日本潜水連盟と合同し、また元の鞘、軍門に下るというのは意地でも出来なかったのだろう。 所管を変えるのは定款を変更しなければならない。定款変更は会員の三分の二の賛同が必要である。 全日本潜水連盟は協力する証として、指導員の殆どを海中開発技術協会の会員にしている。全日本潜水連盟の賛成が得られなければ、定款は変更できない。どうにもならないのだ。
 社団法人だから、個人の投票で決まるのはおかしい法人会員のみにするべきだ。という意見もでた。しかし、そのためにも定款変更が必要なのだ。 僕の恩師である宇野寛教授から、僕はお願いされてしまった。僕らは大学を通じた体育会系世界に生きてきている。目上には逆らえない。 全日本潜水連盟から専務理事をだすと言う条件で僕は折れた。  このあたり、話の前後関係があやふやだ。時系列に沿って、組立直さなければいけない。 いくつかの年表を取り出して、出来事を時系列で並べてみる。 自分にとって1980年代は、40代後半から50代へと、夏の盛りである。ダイビング界も大きく変動する。時系列で並べて考えないと、思い違いが多く、支離滅裂になってしまう。
 1982年、竜崎君、田中龍彦が主催していたPADI潜水指導協会が、アメリカのPADIと再契約ができず、宮下君、荒川君が契約して、PADIジャパンと変わった。 そして海中開発技術協会の事故は起こったのが、1984年 昭和59年だった。 1986年 昭和61年に、海中開発技術協会は世界水中連盟 CMASに加盟する。そのころまで、世界水中連盟の日本ブランチは大崎映晋さんの日本水中連盟だった。しかし、この日本水中連盟は魚突きのブルーオリンピックだけにしか出て行かない。魚突きは、日本では、正式には御法度である。世界水中連盟には、科学技術の部局がある。その部局に海中開発技術協会は加盟した。 この時点で、CMASもそしてBSACもCカード発行団体ではない。会員証、あるいは認定証を出していた。でも、Cカードは、利益がでる。CMASは、Cカードビジネスを始めようとしていた。 世界水中連盟はブランドである。国際的、世界で通用する。残念ながら全日本潜水連盟 (JUDF)は、国内ライセンスである。英語で書いてあれば、世界で通用する。通用しなければ、隣の店(サービス)に行けば良いのではないかなどとうそぶいてはいた。当時、僕は世界中に出かけるようになっていて、例えばガラパゴスに行ったとき、JUDFの指導員にしてくれないか?とガイドが頼んできたりする。彼らにしてみれば、日本の資格を持っていれば、日本のお客が優先的にくると考える。 しかし、国内では、日本の資格は海外では通用しない、といわれれば、一般のお客は、そうかな、と思ってしまう。 国際ライセンスという言葉は商品価値があるのだ。
 1982年がCカード元年だとおもう。でもまだ、Cカードとは何だ、このことは後で述べるが、ライセンスという呼び名でも良いではないかとという議論が続いていた。 海中開発技術協会と全日本潜水連盟は、CMASのカードを出そうとしていた。海中開発技術協会イコールCMAS、世界水中連盟というのが僕の描いた図面だった。
 次回は世界水中連盟CMASのことを書こう。
                                                        
                                                        

0523 久保誠君写真展

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以前に千葉県乙浜の磯根調査を手伝ってもらったり、鴨川シーワールドのどるふぃんダイビングなどを手伝ってもらっていた久保誠君が、水中撮影の個展を新宿三井ビルで開いた。24日までだから、あと1日ということだ。なので、速攻でブログに載せる。  写真展というと、バラエティ豊かな写真を並べるのだが、この写真展は、1枚の群像写真をいくつかに分けて飾った。あるいは写真展全部まとめて1枚の写真で、その写真の世界の中に観る僕は取り込まれている。そんな写真展で、ユニークだ。 会場の大きさもこのコンセプトにしっかりと合う大きさ(小ささ)で、モノトーンのカラーの海底に自分も座っている感覚になる。 フリーダイバー―が水深12mの海底に息をこらえた状態で潜って行き、椅子に腰を下ろして、何枚かは別の構図になっていたが、大部分は椅子に腰をおろしている。肖像画だ。
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      久保誠君のフェイスブックからとった
 知っているダイバーも何人かいるのだろうが、よくわからない。ただ、入り口に掲げられた大きな三枚の写真のモデルは、すぐにわかった、辰巳プールの練習会の常連で、僕の誕生日の度に花束を贈ってくれる中村純子、佳樹の若い夫婦の、純子ちゃんだ。 今は、たくさん潜りたい、ただそれだけの理由で沖縄に移住した。職も何も決まっていなくて、とにかく二人で行く、そんな生き方素敵だ。 久保君に話をもどして、いろいろな苦労、いろいろな出来事、ある程度僕もかかわりがあって時を過ごしてきた、これがスタート台に立ったという事だと思う。カラーのモノトーンで海底を表現する。これで、自分も海底にいて、潜ってきているダイバーと向き合っている感覚になれる。 さて、次はどんな写真を見せてくれるのだろうか。  僕はこのごろ少しばかり、こっている360度カメラで写真展の雰囲気を撮影しようとした。成功しているだろうか。

0527 読書

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僕の読書だが、
 ① いわゆる純娯楽的楽しみなものと、②少し固いというか考えさせられるもの、③そしてダイビング、海についての勉強。三つのカテゴリーだ。
 ①の純娯楽が読む量が一番多い。こんなことをしていて良いのだろうか、残り少ない時間なのに、と思うことしばしばだが、テレビというものを必要以外見ないので、まあ、良いだろう。ということにしている。
 ③の勉強的な読書は、現在ペンディング、読みかけは「藻場とさかな:小路敦」メバルについて詳しい。藻場など周りにないお台場になぜメバルが今年は多いのか。どこかに藻場があるのか、それとも藻何相当するなにかが?もちろんそんなことの答えは、この本にはないだろうが、とにかく、メバル稚魚に詳しい。図書館で借りたが、必要図書だと思ってアマゾンに発注した。これは、まだ読みはじめだ。
 ②として、内山樹「街場の文体論」文春文庫を真ん中あたりまで読んでいる。
 この本は、ノートをとって読みたいがそんな時間はない。「人は、書きながら考えている。」「エクリチュール」「メタ・メッセージ」など。 ①②だが、特に①は同じ作家のものは全部読む。
 須賀しのぶ という作家、同じ須賀という苗字だから、気になっていた。もちろん親類ではない。須賀敦子さんという作家もいて、もう亡くなって20年になる。「さん」付けにしたいような作家だが、全部読むようなおつきあいは目下のところできかねている。でもそのうちにとは望んではいる。
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 しのぶさんの方は、野球について書いた「夏の祈りは」を読んで、別の本も読みたいと思った。
 図書館で借りてきた。「神の棘」ⅠとⅡ、二巻にわかれている大部だ。第二次世界大戦前夜のドイツ、ヒットラーが台頭して、弾圧がはじまるころ、その弾圧をする側のナチス親衛隊の若者と、その友人のカトリック修道士を主人公にしたかなり辛い話だ。話は1936年、コミュニストの摘発から始まりユダヤ人の弾圧、カトリックの弾圧、抵抗に続いていく。人種、思想、宗教による弾圧、抵抗を真に体験したことのない日本人の若い女性作家が書く、どんな人なのだろうと、このごろではネットでみると顔写真がバラバラでてくる。別にちゃらくはないが、今風の若い顔が出てきた。それはそれとして、Ⅰ、前巻の方は、特に引き込まれはしないが、苦労なく読み進む感じ。Ⅱ、後の巻での中頃、ヨーロッパ戦線での虐殺とそしてイタリーでの戦闘については引き込まれた。読みながらだけど、トルストイの戦争と平和の戦争シーンに匹敵するのではないかとまで思った。
 民族同士が戦い殺し合って、そして国境を接しているヨーロッパという地域のことを考えた。そして、日本と隣の国との関係がどのように転回していくのかわからないが、隣の国の人の感覚では、弾圧者日本だったのだろうな、と今更のように思ったり。
 終わりの完結の仕方、終わり方は、親衛隊主人公がクールに絞首刑になり、修道士は司祭になっていて、最後の日に面会する。そして、親衛隊主人公の妻が、彼女は実はユダヤ人だったというどんでん返しは、とってつけたような不自然さがあり、そんなことはしなくても、充分に読めるのに、もっと別の終わり方の方がいいかと感じたが、それはまあ、感想だ。 もう少し、この人の本を読んでも良いと、「革命前夜」文春文庫を買った。東ドイツ、バッハの国に留学するピアニストの若者の話だ。これから読む。あまり、一気には読まないでぽつりぽつり、最後まで読めそうだ。そういう読み方ができる本が良い。 と思ったのだが、引き込まれて一気に読んでしまった。音楽の描写、若い音楽家の描写は良いのだが、これも、ラスト、もっと自然に終わらせた方が良いのに、謎解き、意外性を持ち出してしまう。
 でも、小説を読んだ、という気持ちになれて、満足はしている。もう一度読み返すか?といえば、たぶん、しばらく後になれば。
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 もう一冊読みかけ、たぶん今日明日に読み終わってしまうだろう。「明日はいずこの空の下」上橋菜穂子、守り人シリーズ、鹿の王、獣の奏者 など愛読している著者が文化人類学者としてアポリジニのフィールドリサーチをしている若い頃のことを書いている。このサーチで書いた論文を読んで見たい。
 この人の本はファンタジーだから、無理はあっても良いので、ほとんど読み返している。所々だけど。  上村菜穂子「明日はいずこの空の下」読了、良いと思うような、物足りないような、でも、もう一度読むだろう。
 続けて、「物語ること、生きること」読んでいる。 こんな風に読書ノート、だらだら続けるのも悪くないな、と思った。 「物語ること、生きること」読了、これはおもしろかった。代筆というか、インタビューをまとめたものなのだが、そのように思わせない。
 この人の文化人類学者としてのフィールドサーチやら、なぜ、文化人類学者になったのか、など書いている。
 文化人類学という学問に僕は興味を持って行いた。海女、海士の研究をするとすれば、それは文化人類学なのだ。この人のファンタジーを読んだきっかけは、書いているのが文化人類学者、それも片手間ではなくて、二足の草鞋といえる学者だったからだった。 ここまで書いたのが、5月12日だった。
 
 ②内田樹(うちだ たつる)街場の文体論 ノートをとって読んでも良いと思っているくらいなので、少しずつ読んでいる。今、70%あたり。
 ②内橋菜穂子「隣のアポリジニ」70%
 5月27日現在。

0602 ダイビング事故の歴史13 日本国籍潜水指導団体の推移(1) 

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日本国籍潜水指導団体の推移(1) 
 
 ここから、あまりにもダイビング事故から離れる。日本国籍潜水指導団体の推移とでも、タイトルにしておこう。また事故の話に戻ったときにタイトルももどそう。
 事故が起こらなければ、海中開発技術協会は日本の科学研究者のダイビングを司る組織に変革して行く可能性があっただろうし、海中開発技術協会は日本の科学潜水の中心になったであろう。そうなれば、僕は、日本水中科学協会などつくらなかっただろう。
 そして、海中開発技術協会も通産省のレジャーセクションへの移籍の話もでなかっただろう。 今現在自分は、ダイビングの世界の片隅で生きている。ダイビングをやめない、死んでいないだけだが、1980年代には、日本のスクーバダイビング業界の真ん中にいて、自分の周囲で、いくつかの状況が同時進行的にめまぐるしく動いていた。間の悪いことにちょうどその時期、テレビロケ、ニュースステーションが、僕の主たる業務で、そのことについては、かなり書き残しているが、これら業界のことごとについて書いていない。そしてまたこの時期、日記も完全ではない。
 手元にある資料を見ると。まず、CMASの動きの一つの到達点である、名古屋で豪華客船、富士丸を係留したままとはいえ、チャーターして行ったCMASの世界大会についての報告書がある。これが1989年である。自分のニッポン潜水グラフィティの年表では、社会スポーツセンターの常務理事になり、生涯スポーツのためのダイビング指導者を作ったのが1988年になっている。自分の記憶の時系列ではこれが逆なのだ。CMASが先、社会スポーツセンターが後なのに。
 
 とにかく、一つずつ追って見よう。そして、その結果をあとで並べて見ることにしよう。書きながら考える。そして後から整理しよう。 まず、CMASから。 関邦博博士 海洋科学技術センターに所属していた生理学の研究者 フランス マルセイユ大学で学位をとる。ジャック・イブ・クストーのグループで仕事をしたキャリアがあるという。
 フランス語は達人
 神奈川大学の看板教授になるが、失速して、現在は南米のどこかで、長生きの研究をされていて、その資料をメール配信している。自分も受け取っているが、あまりにも多すぎて、目を通しきれない。タイトルは「生活習慣病や老化を克服して二百寿者になろう。」彼は、200歳まで生きる気だ。読んでみると本当におもしろいが、分量が多すぎて読み切れない。それが、ほぼ毎週配信される。半端なことではない。もしかしたらメール配信の数は万に達しているのかもしれない。
 本にまとまれば、とも思うが、 その関博士が、CMASを海中開発技術協会に持ってきた。 CMASはフランスで生まれた。ジャック・イブ・クストーが初代の会長だったはずである。
 当初、Cカードを発行する指導団体ではなかった。まだCカードなど無かったのだが。
 スポーツのブランチと学術のブランチがあり、スポーツのブランチでは、スピアフィッシングのオリンピックである、ニックネームではブルーオリンピックがあり、フィンスイミングもCMASのスポーツブランチから始まった。
 学術にいくつかのブランチがあり、考えられる学術を網羅していた。 伝聞だが、関さんは、バックパッカーのようなスタイルで、フランスに行く。そのとき 留学に海中開発技術協会が資金援助をしていたという話を海中開発技術協会事務局の栗山美和子さんから聞いた。海中開発技術協会にお金などない。多分、少し多い目の餞別程度だったのだろう。「どるふぃん」とかには載っていないから、確たることはわからない。
 関さんは、マルセイユ大学の学位を持っていた。マルセイユはジャック・イブ・クストーの本拠地だ。そこで、ジャック・イブ・クストーのチームでダイビングを修得した。 まず最初に書いておこう、彼は毀誉褒貶の多い人だ。教授だった神奈川大学に消息を訊ねると、そんな人は居なかったと言われる。が、僕とは終始親しい友人であり、僕のフランスエージェントと言ってもよく、ずいぶんと世話になった。僕も、自分の力が及ぶ限り、彼を立てた。いい加減な人だと思ったことはあるが、不愉快な思いはしたことがない。
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 今、書棚を見て、関さんが書いた、あるいは訳した本がたくさんある。
 その第一が「イルカと海に還る日」ジャック・マイヨール著、関邦博訳・編 となっているが、事実上、関さんが書いた本だ。そう、日本にマイヨールを紹介したのは、関さんだ。マイヨールは日本語はしゃべらない。「イルカと海に還る」映画グランブルーの原案でもある。今、フリーダイビングをやる人、必読の古典だと思う。
 その他、書棚にあるのは、「潜水学」これは、フランスのダイビングマニュアルの訳だ。そして、ぼくらのバイブルであった米国海軍のダイビングマニュアルも日本語訳の訳者は関さん、誤訳云々を言う人もいるが、意見の相違だろう。そして、「海底居住学」1970年代世界的にフィーバー状態になった海底居住のすべてがわかる、これも訳書だ。木村京子の「ジュニア スキンダイビングマニュアルにも名をつらねている。
 そして、関さんが仕掛けたもう一つがコーラル・ルネッサンス 宝石としての珊瑚の復活プロジェクトで、このことは、僕の60歳の100m潜水と大きな関わりがあり、これは、別に書いている。
 
 とにかく、その関さんが、日本におけるCMASの総代理を海中開発技術協会がやらないか、と持ちかけてきた。
 それまで、CMASの日本ブランチは大崎映晋さんだったが、スピアフィッシング部分だけにしか加盟していなかった。
 海中開発技術協会はCMASの科学委員会に加盟したら、というのが関さんの持ちかけだった。
 CMASには国際的なカードビジネスという考えは当時は無かった。ただ、技術を教えて、その修得証を発行するというのは、すべての習い事の基本だ。踊りでも、剣道でも柔道でも段位があり免許がある。ダイビングの資格免状は、日本でも僕たちは作った。海中開発技術協会は作りかけで折れた。そして、作った僕たちと合流した。イギリスではBSACが、免許証書を出していた。ダイビング発生の地であるフランスでももちろん出していた。しかし、それはまだ国際的なビジネスになってはいなかった。ヨーロッパのライセンスが、遠い極東のライセンスとして通用するとは考えては居なかったのだろう。
 しかし、そのようなカードはあった。僕にとっては、学術とともに、いや、学術よりもそのカードに魅力があった。それを持てば、国勢的に通用する事はまちがいないだろう。当時、僕たちのカードは日本ローカルだと言って叩かれている。CMASは少なくともその名称は世界であり、たしかに世界各国が加盟している。
 僕の書いた絵は、海中開発技術協会がCMAS、世界水中連盟の日本支部になり、CMASのカードを、すでに全日本潜水連盟のカードを持っているメンバーに国際版オプションとして発行する。CMASは別に、日本の教育プログラムに四の五の言わない。要するに技術ランクも表示する会員証である。
 別にCMASを義務づける必要はない。自分たちのプログラムをいじる必要はない。理想的な話に思えた。
 これが、このリーズナブルな提案が通っていれば、ここから書くような、自分でも時系列が混乱し、わけがわからなくなうような混乱は起こらなかった。
 しかし否決された。

0607 日記6月6日

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 6月6日
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 朝、
 海豚倶楽部 沖縄では、スキンダイビングができないということで、頭に血がのぼってしまった。
そんな沖縄なら行かなくても良いと口にしてしまい、沖縄でがんばって交渉、下見をしてきた黒沢さん、佐古さん 樋口さんたちにショックを与えてしまった。
 彼女たちの努力でツアーはできるのであり、その苦労話の前振りだったのに。
 
 ここから先、人間関係をもとに戻さなくては。
 自分にとっては、良い薬だ、というプラス思考でしのがないと立ち直れない。
 
 夜の部、浦安市主催スノーケリングコース最後の日だが、僕は最後までいられない。佐古さん、玉田、副島さんに後を託して、辰巳に回る。 この日3回目のプール、
 2回目の浦安、スノーケリング講習は、移動のために水には入らなかったがとにかく3回目、21時からの辰巳。
 このごろ体調劣悪の内での3回目プールだ。
 でも、3回目になるとやけくそ的な元気パワーがでてくる。これが出なくなったら、「終わり」と思っているパワーだ。
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 辰巳は35人、さすがに満員だったが、学習院の練習から、常連の練習、久しぶりの人、人魚の練習、中川のリブリーザまで、バラエティショウの様相だ。
 僕はこのところハマっている360度カメラで撮影。中川に聞くと、最近9万円のGOPRO360度が出たとか、山本さんのはたしか5万円。僕のは1万円、画質劣悪だが、どうせそのうちに飽きてしまうだろう。もしも、それまでに何かがつかめれば、9万円の投資も考えるか?
 僕は、一番単純な、猫、いや、猿だったか、僕でもできる、このカメラ位置、この切り取り方で決めている。動画を動かすのは面倒だ。カメラを自由落下させるその動画を静止画できりとる。もしかしたら9万円の価値があるかもしれない。
 少し迷う。いや、そんなことに捕まってしまう時間は残されていない。 プールとプールの間にサンファンの宮本社長が見えられた。ドライスーツの着心地について。
 着心地はこれまでのドライの最高。先日、波左間で泳がされたが、全く身体的には苦がなかった。しかし、僕のシルエットが、カタログには及ばない。かっこいい外国人よりも、日本、高齢者の方が良いのでは、と、言いにくい。これは、寸法の取り方の問題で、尻囲が太いと、それが脚全体のシルエットに絡むとか。7月にでも、寸法を取り直してもらって手直しすれば、とんでもないカタログが?いや、そんなことをして海で死んでしまってはいけない責任が発生するのはプレッシャーだ。やめておく。
 そこから先、かなり過激な、ここに書けない「生と死とダイビング」についての話題、かなり哲学的な話だし、社会にとって、ダイビング業界にとっても、一番根源的な問題でもある。
 沖縄でのスキンダイビングの問題も、ここに収斂していく。

0607 日本史 世界史

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 ダメとわかっていることでも、ベストを尽くしたい。しかし、その結果がやはりダメだと、そのために使った時間、決して無駄ではない時間ではあったと思うのだが、結果としては無為、心が折れてしまう。
 落ち込んでしまう。読書で立ち直りを図る。
 なお、この読書は、この2週間ばかりの推移、流れのうちで少しずつ書いていて、戻ってきてまとめています。 読書
 ☆世界一おもしろい日本史
 伊藤賀一 中経の文庫 2011
 ブックオフ 108
 本当に日本史、歴史の本なのに一気に終わりまで読んでしまった。1973年生まれの著者
 ①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩⑪⑫⑬⑭ の箇条書きで、起こった出来事、意義などをまとめて、間をジョークのような今風の文体でまとめていく。予備校の人気講師の運びである。
 このごろの僕の書くもの、考えも①②③④⑤になっている。
 潜水の歴史もこのスタイルでできないだろうか。このスタイルでないとまとまらない、とも言える。
 そのことを考えただけでも読んだ意味があった。 
 そして、おもしろかった。
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 ☆「街場の文体論」 内田樹(タツル)と読む。
 新本を文春文庫で買った。仏文学者で、神戸女学院の教授、その神戸女学院での講義を収録して本にまとめた。
 けっこうたくさんラインを引いて読んだが、専門外だから、ノートをとることはない。ノートをとらなければやがて忘れてしまうだろう。一カ所だけ、書き抜いて引用した。ノートをとったところがあった。
 「僕たちは別に「すでに知っていること」を書いているわけではありません。書きながら、自分が何を言いたいのか、自分は何を知っているのか、を発見するのです。書いてみないと自分が何が書けるのか、何をしっているのかを発見するのです。」内田樹 街場の文体論 より。 これは、日大のアメフト問題について、次々と新しい展開になり、書きながら考えが変わっていったところで引用したのだが、アメフトにそんなにまともに取り組む必要もないので、発表はしていない。 考えながら書く、書きながら考え、書いたものを見直しながら書いている。人工魚礁研究の企画書は、VAR 6、書き直し6回で、明後日のプレゼンの為にまたもう一つ計画書を書いた。 しかし、神戸女学院の生徒は、この内田先生の講義を聞いて、ノートをとり、正確に理解したのだろうか、おもしろいけれど、あっちへ飛びこっちへ飛ぶ。一冊にまとまった本だから理解できた。いやいや、とびとびでも、生の講義を聞いて自分なりに理解したほうが良いのか。
 耳が聞こえなくなった僕などは本を読むほかないが。 メタ・メッセージの話もおもしろかった。
  
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 ☆世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄
 中経の文庫 ブックオフ 2014
 おもしろいけれど、日本史ほどはじけていない。
 史観の筋を通している。人間の歴史は闘争の歴史に他ならない。その闘争の基は、経済活動であり、その差、すなわち貧富である。
 たとえば、ジュリアス・シーザーは、富んでいる元老院をバックに、貧しい民衆を軍団に組織して勝利を重ねる。しかし、富んでいる元老院を圧して、貧しい軍団を立てすぎたためにブルータスに殺される。シーザーを継いだオクタビアヌスは、元老院をうまく操って軍団とのバランスを保ち成功する。塩野七生は、そんな風には書いていなかった?いや、その目で、もう一度読み直して見ようとか。
 塩野七生の、最近のアレキサンダー大王を書いた本を文庫になるまで待とうか、3000円で買おうかまよっているけれど、アレキサンダーの遠征、男はすべて殺し、女はすべて強姦する。で、人種の血が混じり合う。そんなものかと納得して、でも、それで一時的に興味を失ったりもする。
 これまで、史書は数え切れないほど読んでいるのに、この筋で全世界史を通し本を読んでいない、ような気がしている。なぜなのだ。
 著者の宇山卓栄は、1975年生まれ、日本史の伊藤賀一の二つ下、やはり予備校の先生である。
 伊藤賀一の文体で言えば、世界史はメチャ、ハードボイルドだ。
 世界史、まだ読了していない。今、近世の中頃だ。
このごろの言葉で言うと、僕は歴史で癒される。
 
 失意の内から、なぜ歴史で癒されるのかというと、物事を感情的にならずに、論理的に引いて眺めることで、失意をプラスに転じることができるから。 17世紀英国でピューリタン革命が起こり、中産階級が底上げされ、海軍力でオランダを屈服させてしまうのですが、名誉革命で、そのオランダから国王を迎えてしまう、そして、世界に君臨する。すごいなあと思うのです。 この読書論、3週間ぐらいの時間経過のうちで書いています。
 ここから先、現実としては、状況の整理、修復をこの数日の目標にします。 2018/06/06 22:26 

0609 お台場 クリーンアップ大作戦

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 2018 お台場、トウキョウベイ・クリーンアップ大作戦
 港区が主催する、ダイビングの水中だけでなく、浜辺のゴミ拾いに1000人単位、ほか、水産センターの地引網とか複合した大イベントで、そのルーツが1996年に始まった僕たちの水中ゴミ拾い クリーンアップだった。
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 月曜日、(6月4日)
お台場を見下ろすマンションに住んでいるダイバー仲間:美人 から、赤潮が発生して赤くなり、波打ち際が白く泡立ち、そして、臭うという知らせを受けた。火曜日は行かれなかったので、水曜日にみにいった。波打ち際が泡立っていて、水は赤茶色、白い点のようなプランクトンが見えたような感じだった。東京港のレインボー側は、赤茶色にはなっていない。とするとこの赤潮はお台場で発生したものか?
 
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 木曜日、中村雅人に連絡、「どうしよう?」相談する。考えてみれば、赤潮でどうしようと相談する、思ったことなどなかった。軟弱になった?複雑な思いをしたけれど、とにかくゴー。みんなが潜る前に、自分が潜ってみよう、その結果を開会式あとで話すことができれば、たとえ水が臭っても、納得していれば、良いのだ。
 東京湾もどん詰まり、隅田川との境目に人工的に作られた水たまり、その水たまりのコーナー、ゴミも、赤潮も行き着くところ。世界の水環境のリトマス試験紙のようなところだ。
 そんなところだから、集まってくれるダイバーも、有志、つまり自己責任だ。以前は鐘と太鼓で人を集めようとした。今は、同志のパーティのようなもの、だから、たとえ赤潮で海が泡だってもゴーなのだ。ただし、自分も先頭に立たなければ、いけない。
 集まったダイバーは、およそ40人、70名がこのところ数年の定数だったから少ない。少ないけれど、これで良いと思っている。元来、クリーンアップは有志がやるものだ。
 集まったグループ、まず「海をつくる会」。クリーンアップの代表、元締めのような会で、リーダーの坂本さんは、だから、日本のクリーンアップの代表であり、彼の努力で、ここまで、日本のクリーンアップダイビングは育った。僕のことは先輩と呼んでたててくれる。お互い、クリンアップの歴史を分け合って知っている。
 僕たちの東京港水中生物研究会と共通のメンバーが多い。それが、このような活動の良い姿の一つの形だと思っている。
 忘れるといけないので、書いておくがグランドサービスは全日本潜水連盟、僕が理事長をやっていた時代にはじめたこと、続けてくれている。人間関係は複雑だが、それでも続けてくれること、感謝するほかない。
 セントラルダイビングスポーツ、これもこの行事の最初から(24年前から)サポートしてくれている。
 関東学生潜水連盟これも最初からのグループだ。
 物忘れが激しく、全部を記憶していない。記憶力抜群だった時代のくせでメモをとっていない。
 そう、「小谷潜水」というながあった。おそらく、このお台場で工事をする作業会社、僕が東亞潜水機時代(50年前)付き合いがあった。挨拶に行くべきだったが、フットワークが重い。
 レスキューを担当してくれたチームが、東京海洋大学のチームだった。これこそ、挨拶に、と思いつつパスしてしまった。心残り。これもフットワークが重いためだ。
 毎年来てくれていた筑波大学のチームが見えなかった。どうしたのだろう。心配。
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 僕の装備
 ドライスーツ:サンフアン ハイブリッドスキン
 フィン:DW スーパートライスター
 マスク:DW アイアイ
 レギュレーター:DW
  
 梅雨入りして、雨だったら嫌だと思っていたら、晴れ、日差しが強く、熱射病のおそれ。お台場は周年ドライで通すことに決めている。暑い。でも、ドライを着てしまったら、暑さが苦痛にはならなかった。
 もう一つ、予定しているミッションは、2000円のゴムボートテスト。空気をパンパンに入れるのが、ちょっとした作業。ともかく、ソファベッドになる。 さて、事前に潜って見ようとドライスーツに脚を入れていると、隣に、山っこ保育園の経営がようやく軌道に乗りかけた、お台場ではカメラマンの清水まみが支度をしていた。一昨年だかは、彼女とバディでゴミ拾いをして、好成績を収めた。
 一人で潜るのは、原則、いけないから、一緒に潜ろうと声をかけた。バディシステムというと相互扶助、助け合いだが、僕の場合助けられるだけだから、「ガード」と呼ぶ。この言葉も、もうちょっと考えて、普及させなければいけないな。
 とにかく二人で潜る。
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 カメラはAKASOを使う。10000円以下のウエアラブルカメラであるが、ちょっと作られたようなわざとらしいシャープネスが好きである。
 お台場用に、イノンと束ねたシステムで使う。
 
 なるべく人の世話にはなりたくないという気持ちが根底にある。がそのためにころんで怪我をしたりしては困る。ここお台場でも、ガキ、子供が砂浜を掘った穴でこけて、ふくらはぎを傷めている。山本さんとまみに助けてもらってエントリーする。
 透視度は1m以下であるが赤潮の感じはない。
 透視度はダイバーの感覚域を規定する。透視度1mあれば、三分の一の30cmがクリヤーに見える世界である。 
 前に、2012年だったろうか、水は真っ赤だが、底では横に澄んでいて、1m以上見えた。今度もそのようだろうか、そうであることを期待して潜ったものだが、そんな透明な層はない。
 前には、ヘドロまで降りたら、下が澄んでいたが、ヘドロ域は、透視度ゼロに近い。全く見えない。
 
 しまった。またやってしまった。BCのインフレーターホースがつながっていない。このごろ多発しているミスだ。ここでは、どうにもならないから、ドライに注気して身体を浮かす。
 マハゼがちらちら見える。動きを止めて、カメラで
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見据えると2ー3cm、例年よりは小さいが、底に群れているマハゼは健在である。
 まみは、左サイド、20cmにいる。ガードとしてside by side である。口に出して指示しなくてもわかってくれている。こういうのをバディシステムというのだろう。
  水が透明、と言っても、距離20cmの透明感であるが、撮影結果も透明であり、マハゼもいる。水もひんやりしているパッチがある。湧水があるのだ。上がってからだが、尾島さんとその話をした。どういう表現で発表したら良いのだろうか。
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 一度、頭を水面に出し、水深は1、5mもないから、浮上ではなくて、頭を出しになる。BCのホースを繋いで、潜りなおし。
 岩の間にメバルがいないか、見るが、いつも見る岩を見つけることができなかった。次回のお台場は、16日だから、まあいいや、と上がることにした。
 右足のフィンは自分ではずしたが、左足は、左サイドのまみにはずしてもらった。こういうの、自分でやる、と、突っ張っているべきだろうか、少し考え込む。 開会式、のあと、中村雅人の安全についての、話の前に、簡略に水中の様子を説明し、できるだけ海底を掻きまわさないように、マハゼの姿でも見るつもりで、見て動くように、ゴミを拾うように、と話した。
 その話のため、と思いたいが、心なし例年のダイバーの動きより細密慎重であるように見えた。 もう一つのミッション、ゴムボートだが、這うようにして乗り込み、押し出してもらって、オールで漕いでみた。もしも、波や流れがあったならば、漂流間違いなしだ。これは、乗って遊ぶボートとしては使えない。フィン・マスク・スノーケルを着けたスキンダイビングの浮きベースとしては良い。
 沖縄では、これを中心ベースとして、2個の浮きでどういう体型、フォーメーションで遊ぶか、そういう遊び方にしよう。 他にもいくつか、お弁当は僕の嫌いな鶏のから揚げだったとか、あるが、天気も良く、気持ちよく成功した。
 

0620 お台場 0617

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                    尾島ママ
 6月16日 お台場 ゴムボートを膨らますために、電動ポンプを買った。車のソケットから電源を供給するので、電源コードが1. 1mでは短いだろうと3000円強のタイヤコンプレッサーを買ってしまった。考えてみればホースがあるのだから、ボート、浮き具ようでも良かったのに。それでも、空気が入ることは入った。 6月9日に引き続いての16日だから、間隔が小さい。水中も変化が無いはず。本来ならば最終日曜日が定期なのだが、16日になったのは、公園を管理している埠頭株式会社の指導アレンジによるものだった。
 それなのにカヌー型ヨットの体験会と場所がだぶっている。カヌーの方は、船の科学館の小堀さんが来ていて、円滑に仲良くやることは問題ない。聞けば、船の科学館の大きい流れるプールでやっていた行事なのが、プールが使えなくなったので、お台場に来たということだった。
 埠頭株式会社の出先である公園管理事務所が、丁寧に謝っていた。こちらとしては、ヨットの出入りがあるので、ホンビノスがいる砂地に行けなくなった。別に行かなくても良いのだが。 カメラは、今のお台場メインのAKASO7000にイノンのライトを束ねたもの、一回目の潜水は、これだけを持って行く。
 空気を節約しようと、浅瀬はスノーケルで行く。サンファンのハイブリッドスキンは、泳ぎやすいから、スノーケリングでも楽だ。スノーケルで泳ぎながら、カメラを持つ右手を伸ばして、海底に水平に、海底から上10ー20cmを空撮の気持ちで移動する。少し大きくなった、4ー5cmのマハゼが散るように逃げていく。アゴハゼ、チチブも点々と顔を出している。アカオビシマハゼが見えないが。
 榎木の前あたりで、スクーバに切り替えて潜る。杭の列の取り付きのサイコロ岩(立方体のブロックなので、今後はサイコロと呼ぶことにする)の陰、5月にはメバルが群れていたのに1尾も見えない。みんな、水上バス発着所前の岩礁地帯に移動したのだろう。とにかくいない。数年前までは6月ならばまだ姿が見られたのに。
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 7月にはトライアスロンのコースをつくる仕切りネットの実験が始まっている予定。ネットの魚礁効果でメバルももどってくるだろうか?。
 去年までは、杭の列あたりにマハゼが群れていたのに、今年は群れていない。2ー3尾が見えるだけだ。やはり、今年はマハゼが少ない。思うに、1月から3月にかけて数回行われるマハゼの産卵の1回、一番最初の回が何かの理由で省略されてしまったのではないだろうか。これは、お台場だけなのか、それとも東京湾全体のことなのか、聞いてみよう。
 それにしてもカニの類がまるで見えない。捜し物上手な尾島ママによれば、見えないことは無いけれど、少ない。お台場のアイドルとも言えるトサカギンポを見ないというと尾島ママは、いるけれど少ないという。僕の目は群れていて多くないと見えないのか。もしかすると僕はカメラを持っているので、どうしてもカメラの視線の先を見ていて、水平の視界がせまいのか?カメラを持たない尾島ママは、視線を移動して広く見ている。それに眼も良いのだろう。
 マスクマウントにすると、顔を左右に動かすことができないので、やはり視界が狭くなるだろう。考えなくてはいけない問題だろう。マスクマウントはカメラの先しか見ない。
 昼食をしてから、13時30分のエントリー。午後からは、岩の間で牡蠣を割ってカニを集めてみよう。カメラはNikonAW1300にストロボをつけ、サイドは sj 4000 にした。午前にスノーケリングで空気を節約したので130は残っている。
 午後、水が濁るのはいつものことなのだが、カニが出てきそうな岩がみんな干上がってしまって良い場所がない。岩を探しながら、杭の列まで行ってしまった。空気が多いから良いのだが。
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 その杭の列の場所で、緑色の爪の先ほどのウミウシを見つけた。お台場では初めて見る。接写にして、ストロボを光らせた。4枚ぐらい撮った。スチルで対象生物をとり、サイドの動画でその生き物の生息する場を写す。ねらい通りの展開になった。
 カニは撮れなかったがそれは7月にまわして、初めてのウミウシが撮れたことを満足としよう。
 ウミウシの種を多留さんに聞こうとしたら、NikonAW1300のバッテリーアウト。
 とにかくこれで切り上げて終了


 戻ってからPCでNikonAW1300を見ると、ストロボは全部アンダーだ。フィッシュアイのライトも20%では、スチルには効いていない。20%にしたのに、ライトは途中でダウンしてしまった。80%程度にして、こまめに点灯しなおさなければいけないのか。
 それでも、かなり寄っていたウミウシは適正に撮れていた。
 僕はウミウシはまるで暗い。フェイスブックにだして、誰か教えてくださいと、頼んだら鳥羽の佐藤さんがたちまちのうちに、コノハミドリガイだろうといってきた。あるいはクロミドリガイ、緑色だから、コノハミドリガイがぴったりだ。
 多留さんにメールで写真を貼付して聞いたら。角が白いので、イズミミドリガイだろうという。お台場では初めてだ。
 ネットで調べてみると、ミドリガイは種類が多い。でも、ミドリガイというウミウシは、僕の頭の中には存在していない。書棚にある図鑑「海の生き物」には数十種類のウミウシがいるがその中にはいない。そこにいないのだから、レアだろうと思うとそんなことはなくて、ネットで見た図鑑では、ミドリガイの仲間だけで一つの科になっている。
 お台場では1990年代、シロミノウミウシが大発生したことがある。ミドリガイも?トゲアメフラシも大発生した。トゲアメフラシはまだ見られるが数は少なくなった。
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 ドライスーツ :SUNFAN ハイブリッドスキン
 マスク:DW アイアイ
 レギュレーター:DW 

0621 積ん読状況

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 放っておくと、きりもなくなってしまうので、100均で買ってきたズックの箱(袋)に一杯まで積むことにした。その箱が満杯状態。
 世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄
 世界一おもしろい日本史の授業 伊藤賀一
これは、読み終わっていて、袋から書架に移しておそらく保存になると思う。
 これまで、この手の予備校の先生が書いたようなダイジェストをバカにしていた。読んでみると、僕的にだが、この世界一の世界史と日本史は、名著と言える。目からウロコの感がして、同じ系列の
 「目からウロコの世界史」を買い、ついでに「読むだけですっきりわかる世界史・日本史」を買った。全て、ブックオフ108円であり、積ん読になっている。
 さらについでに、「読むだけですっきりわかる政治と経済」も積んだ。
 他に積んでいるのは、「食がわかれば世界経済がわかる:榊原英資」 「続 山で死なないために」
内田樹の「街場の文体論」がおもしろかったので、同じ内田さんの「映画の構造分析」「街場のアメリカ論」
 上記の積ん読はどうでもいい積み重ねなのだが、読まなければ、とプレッシャーになっている積ん読は、「新・冒険論 角幡唯介」「藻場とさかな:小路淳:広島大学の先生」
 どうでも良いのは「スーパーキャットの育て方・マイケルフォックス 猫の心理学」猫と人間の付き合いの変遷を研究?している。
 読んだものから箱からだし、出した分だけ、補給しても良いことにしよう、と自分なりのルールを作ったのだが、 忘れていた。大判の本なので箱から出ていた「アクアリストの楽園」荒俣宏、
 
 こんなことを書いたり、積ん読を読んだりする時間は僕には残されていないはず。なのだけど。

0627 6月23日波左間

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時間が経ってしまうと、そのままでは、ブログに載せにくい。でも、ログ記録なのでそのまま載せるようにしている。
 6月23日の波左間 人工魚礁研究会の記録
 これは、6月24日に沖縄に出発する前に書いた。 6月23日
 このところ、体調が悪い。今日から、今日は波左間で人工魚礁研究会、明日から沖縄へ、海豚倶楽部の海洋実習、好きな言葉「必殺のスケジュール」
 必殺のスケジュールの後、体調は良くなっているはず。 起きたとき、ふと、頭の中で声がした。「ウエットスーツにしろ」今のサンファンのハイブリッドスキンは、泳ぐストレスはないが、ウエイトだけはどうにもならない。もう、6月も後半だ。ウエットでも良いのでは。
 行きの車の中で、肌寒い。曇り空だ。ドライにしておけば良かった。あれは悪魔の声、ささやきだったのだ。もう遅い。行くしかない。
 波左間に到着して、挨拶とかしているうちに、雨が本降りになってきた。
 今日は、水工研の佐藤君が来てくれている。彼を引き入れることが今日のねらいの一つだ。
 聞けば、採水して分析すると魚の種類が推察できる研究だとか。実際に見た魚の種類とリフェレンスする。ならば、僕たちのグループと一緒でジャストフィットだ。
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                 サイドスキャンの画像を説明する国方くん
 メンバーは、増井、小俣、鶴町、佐藤、中川、それにサイドスキャンソナーの国方の7名。土曜なので波左間は満員 潜水地点は、まず5月にミスした21番 大型FP10個積み。
 ウエットはアマゾンで最安、5mmワンピースのセミドライ、これが、意外に身体にフィットしている。それに3ミリのフードジャケット、これで22℃ならば、30分は持ちこたえる。予測は21℃。
 バディの編成は僕、鶴町、佐藤が固まって、あとの3人は、この一団をケアしつつ自由。増井さんは、良いカメラを持っているので、出来るだけ外周囲から撮影してもらう。小俣さんは僕たち3人のアシスト、中川カメラマンは良い撮影をする。
 視度は10mそこそこか。ダイブコンピューターの記録
1回目潜水
11:18 潜水開始
  25. 6m 最大水深
  24分 潜水時間
  19℃ 水温 僕のカメラは Olympus TG-4にAKASOを上に載せて、動画、AKASOがメインのつもりで撮っている。
 19℃は冷たい。凍える。丁寧に見ることはできない。適当にして。上の段に上がると20℃ー21℃になり、我慢できる。ぎりぎりの線では、1度の違いが大きい。僕のウエットスーツシステムは21℃が限界ということだと体感する。ウエイトは5キロ。事実上は6キロだろう。1個が2キロと3キロの中間の大きさだ。ウエイトベルトがずれて若干みっともない。腰骨で止めている。外見は悪いが、これで良い。
 メバルの群は、上段の下方で、50尾ぐらいの群。
 期待していたイサキの群は、小さい群が魚礁角をかすめて行った程度。透視度が20mもあれば、きっと群れの大きさがわかっただろう。
 
インターバル昼休み 2h
 ポイント:ドリーム
 ドリームと目標魚礁の比較で見ていきたい。
2回目潜水
 1344 潜水開始
  23. 2m
  23分
  22℃
 22℃になると少し楽になる。
 
 下の段を縦に通り抜け、中断を縦に戻り、上段は、適宜に見た。
 佐藤君と一緒に上がる。
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 下の段、にメバルが2ー3しか見えなかった。オオモンハタは、いつもどおりに、中段と上段。 調査のデータ取りとしては、なんとか形は付けられたが、撮影機材がボロボロだった。十分に準備したつもりだったのに。
 1回目の21番のFPでは、マスクマウントは、SJ4000で これは予備のつもり。3台とも順調に撮影できた。ただ、Olympus TG-4がどうしようもないだめな結果だった。凍えて、適当にカメラを向け、シャッターを押しているだけなのだから、だめで当然なのだが、そして、メインのAKASOが、戻って再生してみたら、時間設定が狂っている。前回の撮影で合わせて、以後特別にいじっていないから、大丈夫と思った。それでも、確認しようかなと思ったが、確認しなかった。次回からは直前のmastだ。
 一回目のAKASOは、区切って撮影し、バッテリーも余裕を残したので、2回目もメインをAKASOにすることにした。
 ところがそのAKASOがボートの上で、Olympus TG-4の上面に糊付けしてある部分が矧げて落ちた。ボートの上だったから、カメラを失わないで済んだ。仕方がないOlympusTG-4で動画も撮ることにした。ボートの上での作業ダったから、タイムインサートはしなかった。これも億劫がらないでやるべきだった。
マスクマウントのSLで時間計測はできると思ったのだ。
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               このシステム、載せtカメラはもげ落ち、黄色のオリンパスTG 4もライトステイから離れてしまった。

 そして、浮上して水面まで来たときに、Olympus TG-4がステイからもげ取れた。底のボルトを二本しめているのに、ネジがバカになっていたらしい。幸いなことに、ハウジングが浮く。カメラは落とさずに済んだが、カメラにひっかけるように取り付けていた、時計、新しい、水深計、温度計のつもりで買った4000円の時計が短い命を終えた。
 そして、マスクマウントで予備のSJ4000を使ったが、これが回っていなかった。
 ボロボロだったが幸運でカメラをなくさないで済んだ。
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