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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0213 スクーバダイビング事故の歴史 3

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スクーバダイビング 事故の歴史 3 1968 事故報告書
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ここまで2回 日本で最初の事故、そして学生最後の年の人工魚礁調査でのエア切れ危機一髪を並べた。 事故を歴史のように並べることによって、そのころのダイビングが見える。ダイビングの歴史が見えると考えている。 ここから先の筋道の予定を一応説明しておくと ここで、1968年の事故を二つ紹介する。これらの事故は、事故を自分たちの手で解決して報告書を出している。本当の事故報告書なのだ。しかし、50年半世紀経過した今でも、紹介をためらった。いわゆるプライバシーの問題がある。しかし、これがないと1968年のダイビングを理解できない。自己責任の意味が理解できないだろう。このあと、1993年、後に「商品スポーツ事故の法的責任」というような本を書く中田誠さんがハワイで遭遇した事故、そして、その後の中田さんの書いた本をとりあげる。1968年と1993年では、全く違うダイビング、違うスポーツになっていることがわかる。 これは、ダイビングというスポーツの根幹の問題だと思う。。 その中田さんの本。それと併行して幾冊かの事故に関連する本を見て行く、予定しているのは「海で死なないための安全マニュアル100」中田さんの本のタイトルと大同小異だが、鷲尾さんの著作である。 そして、これまでに何度となく書いた、自分の会社での脇水輝之の事故、そして、水中科学協会を作るきっかけとなった東大の事故、これは、発表されている事故報告書について論じて行く。だいたいこんなストーリーを考えている。

、昭和43年、1968年の事故報告で、3月29日の報告である。  事故はオールニッポンアクララングクラブ、東京で二番目に古い、新宿御苑前の東京アクアラングサービス(当時と今ではオーナーが代わっている)のお客を中心にしたクラブである。お店とは一応別になっていて、店のオーナーである青木さんとは別の会長(松澤亮二氏)を立てて運営している。※松澤亮二氏は、日本潜水会の初代事務局長でもあった。 当時のダイビングクラブの典型ともいえるクラブである。  以下事故報告書、ほとんど全文そのままである。

 事故直前までの記録 計画は当初、外房の白浜根本にあったサービスを使って、沈没船を探検する予定であった。 朝5時にクラブ事務局に集合、参加者は計11名、しかし、海況などを現地に聞くと、波もあり感心しないという事で、行き先を勝山の浮島に変更、5時30分、3台の車に分乗して出発する。 ・8時ごろ勝山着、かねて知り合いの船頭さんの舟で8時40分ごろ全員乗島 ・小休憩のあと、全員スクーバ着装、以下のバディ組み合わせで潜水開始 ・松澤 仙田 、内藤 小田切、高岡 斎藤 、青木、山田。 水野 伊藤 5組 ・山田 青木組は、オオボケ島外側の水深10-20m付近を約1時間潜水して、三組目にベースに帰投 ・11時頃、全員ベースに帰着、昼食(おにぎり三個宛 味噌汁)山田君大変元気で、味噌汁美味だったため5杯を平らげる。  当日の海況 曇天、時々小雨 北東の風わずか、波ほとんどなく、潜水海域付近はベタナギの状態。水温、約13度、潮流ほとんどなく、透明度10-13m  事故当時のもよう 昼食後1時間半くらい火にあたって雑談、13時頃、15時には乗船できるようにと申し合わせ、各自スキンダイビングに本島ベースを離れる。 山田君は小田切、水野両君とともに「小ボケ島」西側付近を約30分くらい、三点セットの他、5キロのベルト、グラスロッドの手銛、キャリングバッグの他、軍手、スーツは5mm、フード、ベスト付きの装備でスキンダイビングするも、「魚が全然いない」との理由で一旦帰投、小憩の後、今度は一人で、「浮島」と「オオボケ)島の間の海峡を北西側に泳ぎ出る。14時ころ、高岡、伊藤組は、ボンベの残留空気があったため、スクーバを着装して、海図A点付近を水面移動中、山田君スキンダイビング中であることを視認して、その付近でスクーバ潜水、30分後(14時半ごろ)浮上、再びA点付近を通過して本島ベースに帰投するも、同君は見なかった。しかし、移動は当たり前なので、不思議には思わなかった。14時40分ごろ、本島ベースで、仙田、青木両会員、離島時間も20分後に迫り、未帰投は山田君のみとなったので、「そろそろ呼んでこなければ、」ということで、船頭さんの舟に乗り14時45分ごろ岸壁を離れ、15分かかって、小ボケ、大ボケ、浮島の三島を一周するも同君の姿を認めない。  捜索 当日 仙田、青木、両人、同君を遭難と判断、直ちに平服に着替えた者も再度スーツに着替え、「小ボケ」周辺二人、「大ボケ」周辺二人、浮島北西部4人の編成でスキンダイビングによる捜索を開始した。時に、15時15分であった。 ①山田君がスキンダイビングであり、この部門は彼の苦手であり、5mぐらいしか潜降能力が無いことを知っていたので、遭難現場は浅いと判断、全員スキンダイビングに依った。 この時、予備ボンベ、9リットルダブル1組、他、50-70キロ残圧のダブルボンベ5組があった。 ②仙田会員は、平服で船上より捜索に当たり、30分間このまま経過した場合勝山港に帰り、警察、会長、クラブ事務局に現状を電話連絡する手順で、予定時刻に彼はこれを実行した。 ③島の裏側から陸路ベースに帰投もあり得るとし、同行の潜水しない非会員1名は浮島の頂上付近を捜索した。  16時まで、この状態の捜索を行うも、なお手がかりなきため、潜水者全員を一時ベースに集め、ミーティングを行う。その結果、高岡、伊藤組が最後に山田君を認めた浮島西北部のA点付近を重点的に調べることとし、青木、小田切は、念のため、浮島をスキンダイビングで一周することになった。17時頃、数隻の漁船が応援に到着、見突きの「のぞき樽」で捜索に協力する。 17時30分ごろ、会長より、「二重遭難の危険を避けるため、日没とともに捜索を一旦、打ち切れ」との指令が入り、18時ごろ全員浮島ベースに上がる。 翌日 3月25日 前夜から、勝山町のベースキャンプ沼平旅館に続々到着したANACの会員と日本スキューバダイビングクラブ、海底ダイビング((株)、OKアクアラングクラブ、エンジェルアクアラングクラブのメンバーとチャーターした4はいの漁船は、北東の風若干の雨天の中を、7時―8時の間に浮島ベースに集結した。その人員はANAC会員49名、応援の他クラブ会員14名、ボンベの集結量は、ダブル53組、シングル26本であった。 総指揮の松澤ANAC会長より、状況説明有、第一陣の第一回捜索は快苦を指定して以下の手順ではじっめられた。 1班 大野 小野副会長以下5名 2班 海底ダイビングクラブ他3名 3版 日本スキューバグループ 他3名 4班 スキンダイビングによる捜査班 石井、出川ほか3名 船上余地の捜索 小島副会長他2名 遊軍 八木野監事ほか数名 1班3班までは、各班ごとに視界の限界間隔で1本の長いロープにつかまり、見残し店の無いようにした。第一回は発見されず、第二回は,構成は第一回と同じで、各班第一回に捜索した地区の沖側を調べた。 各班が第二回目の潜水を開始した時間は10時30分ごろであった。 結果は、予定コースを若干沖側に外れた1班が、11時28分 水深20m、A 点北西、約300mの海底に足先を組み合わせ、指は握って手は半開き、仰向けの状態で接地の遺体を発見、マスクは正常に掛け、スノーケルは外れており、顔の露出部分は白色であった。網にて引き上げの途中、、口から若干の泡らしきものを吐く。  事故原因と今後へのいましめ 山田  23歳 身長約170cm 体重60キロ 快活でファイトあり。 検死医の公的な死因の表示は「溺死」であり、付帯の但し書きには、 1.水を飲んでいない。2.外傷を認めない。3、口から少量の泡を吐き出している。 の三項目であった。 潜水経験はまる一年なるも、伊豆大島方面にも出かけ、潮の流れや相当の波も経験し、技術は初心者の域を脱していた。 安全度が高いと考えられているスキンダイビングで彼が遭難するとは、通常、考えられない。 ①体に特別な欠陥は無かった。(両親談、および過去の履歴から) ②当日の健康状態 (朝は早かったにしろ大変元気だった) ③当日の水温(もちろん暖かくはなかたが、同行者全員、雨天にも関わらず特に寒がった者もいない) 等から、同君だけが特別の状態の下にあったとは考えられず、スクーバを使用しても相当な技術を有する同君が、ウエイトベルトも落とすことが出来なかったことは、彼の正常な精神、および肉体活動を奪う要素が、瞬間のうちに彼を襲ったと考えなければならない。 一般の溺れの前に来るパニックはこの場合、当てはまるヨウ素は非常に薄い。 一瞬に精神と肉体の活動を奪う要素は数多いが、この場合は外傷もないところから、いわゆる心臓麻痺も考えられるが、水中で長い時間頑張った結果自己の能力の限界を超えた呼吸停止によって起こる、無酸素症状から失神し、顔が水面下にあったため呼吸の継続ができず、ついに窒息死に至ったとの見方が有力である。 あるいは耳がぬけないのに、より深く潜行したため、鼓膜が破れ、このために平衡感覚をうしなって溺死に至ったこともかんがえられる。もちろんこの原因については、今後クラブで指揮者の意見も各方面から集め、この追求を徹底して行うものである。 今後はスキンダイビングの安全性を過信せず 1.自己の能力を越えるような、深度と潜水時間を避ける。 2.スキンダイビングも二人一組で行い、お互いの安全に責任を持つ。 3.この部門にもライフジャケットの必着を習慣づける。  以上を厳守しなければならない。   要した費用 (この他遺族より直接支払われた費用もあった。) 1.車両実費(延べ27台のガソリン、フェリーボート、道路料)  ¥ 62960 2.エアー代金(延べW 47セット s 20本)        ¥22000                  3.沼平旅館支払 (ベースキャンプ設定 宿泊料ほか)      ¥45375 4.傭船料およびチップ                     ¥34000 5.浜のお浄め料(地元漁協)                  ¥ 5000 6.薪代 (含む入島料)                    ¥ 3000 7.ご仏前                           ¥10000 8.食事代(24日夕―25日早朝 スナックバブル)       ¥10000 9.通信費(ちほう電話料 礼状)                ¥1000010.都内交通費 (タクシー)                  ¥ 150011.諸雑費                           ¥16790                           合計 225625 上記金額の 7.を除き その金額を遺族は負担された他 ANACに対して多額の金一封をいただく。  捜査協力者名(順不同) 鋸南町警察署 殿 勝山町漁業協同組合殿 勝山町漁協婦人部殿 勝山町水難救助会殿  海底ダイビング(株)殿 日本スキューバダイビングクラブ殿 日本スキンダイビングクラブ殿 エンジェルアクアラングクラブ殿 オーケーアクアラングクラブ どの ANAC 関係 中川政幸 橋本洋治 松澤亮二 小島幾太郎 上田薫  大野由明 小野悠哉 オールニッポンアクアラングクラブ(クラブ員?) 赤井真吾 米山敏夫 高橋敏夫 笹木陽一 小野喬  佐藤勇  山田勲  誉田正博 中山晴一 安田照  唐沢嘉昭 佐藤春輔 高岡宏二 松沢保夫 小田切敏英 南雲文男 原 仁  前川政幸 伊藤隆一 加藤繁男 桜井義雄 内藤民男 堀保彦  出川良治 石川香司 川俣清志 倉持忠夫 佐藤泰義 川尻喜久雄 古島義昭 大須賀輝明 小宮守保 仙田貞文 矢木野勲夫 市倉文夫 大島忠 福地利夫 佐々木信夫  ※懐かしい名前もあり、現在も付き合いのある唐沢さんが居たりして全員の名前を写した。 さて、これで、当時のクラブ活動、クラブの在り方、事故の対処の仕方 などよくわかると思う。 まだ、シャロ―ウォーターブラックアウトという言葉は使われていないが、「酸素分圧が高くなる海底で酸素を消費してしまい。呼吸停止の限界で浮上するとゼロに近い酸素はますます薄くなり無酸素の症状が急激に襲ってくる 」昭和48年 1973年 鶴耀一郎著 スポーツ潜水 から、報告書も同じような表現で原因を推定している。多分、これで良いのだろう。 当時はスキンダイビングは、スクーバダイビングの基礎であり、スクーバの前段階と考えられていて、スキンのほうが安全度が高いと思われていた。又エアーステーション、ダイビングサービスなど無いから、海に行けば、半日はスキンダイビング、半日はスクーバダイビングをするというような形が通常だった。    事故が起こった場合、とにかく自分たちで解決する。社会的に自己責任での解決を目指している。付き合いのあるダイバー、ダイビングクラブが無報酬で捜索に参加した。 要した実費は遺族が負担することが、通常であり、この負担を軽くするため、この後、全日本潜水連盟では、安全対策費として、別会計で積み立てを行うようになる。  

0216 波佐間0215 

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 NHK 番組撮影 人工魚礁についての話で、協力する。
 水中撮影なので、念のためテストを2月8日に行った。NHKのカメラマンは、井田さんで、最近のNHKのエースらしい。だいぶ前のことだが面識がある。なので、あんまりみっともない姿も見せたくないのだが、残念なことにフィジカルの衰えは精神力ではカバーできない。
 山本勤さんにカバーに来てもらった。
 バランスが悪くて、どうにもならないダイビングだった。理由は、ドライスーツでオーバーウエイトにせずに潜りたい。舟にあがるとき、出来るだけ介護を受けないで、上がりたい。ドライスーツはサンファンの新品を借りた。下半身のサイズが少し大きめだったが、ドライスーツだから許容範囲だと思った。お台場でテストして、水深1.5mでは浮いてしまったが、2mまで潜れば水平姿勢で泳げた。海で2m以下になることは無いので、大丈夫と思った。30mの鋼製魚礁に潜水して、バランスが悪くて、自分の身体が思うように動かない。二回目の潜水は、水面で浮くことは覚悟の上、ロープで潜り込もうと2キロ減らした。
2キロ減らしても、ベストが7キロ、ベルトが4キロ、レッグが1.7キロだ。
 見事に失敗して水深20mの下でも、スーツに空気を入れると、それがちょっと多いだけでバランスが悪くなる。
 ウエイト調整のことばかり、書いていて久保君に笑われているのだが、それが高齢のダイビングのポイントなのだろう。
 筋力が衰えていること、平衡感覚も衰えている。
 普通の装備でもコントロールが大変なのに、加えて、フルフェイスマスクを使うことになってしまった。ロゴシーズでフルフェイスマスクで普通に会話ができるだろうか。すでに竹内君のところでは、ダイブウエイズのマスクを使っていて、今度もそれを使うらしい。番組では主役のさかな君が水中でフルフェイスマスクでしゃべる。マンティスを試したらしいが、やはり顔が見えた方が良いということでダイブウエイズになった。僕のところにこのマスクは4個あった。テレ朝番組の名残だ。
 うち二個は、山本さんと杉山さんにあげたので、2個残っている。これを使うことにして、整備した。
 
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360度カメラで撮影する山本さん
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        神社に手を合わせる荒川さん
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           群れて定着しているクロダイ
 フルフェイスマスクは、慣れないとかなり難儀になる。幸い、山本さんが自分のフルフェイスマスクをチューニングしてつかいこなしている。僕が被るのを適切に助けてくれる。しかし、練習しなければできないことは、間違いない。26日からあ二日間のロケで、ぶっつけ本番で失敗する余裕は、スケジュール的に無い。もともと、月に一度は波佐間方面に鶴町の車で連れて行ってもらうことを通常の月例トレーニングにしようとしていた。それが15日だったので、タイミングが合った。
 ブログとして説明がくどいのは、これをログにしているつもりなので、前置きがながくなるが、
 そんな事情で波佐間に向かう。メンバーは、自分、山本さん、鶴町、彼女は僕の最後の調査仕事までつき合ってくれた、残念ながら故になってしまった鶴町の奥さんで、いまは鶴町の代わりをほぼ、つとめてくれている。鶴町が亡くなってしまってから潜水を本格的に始めたのだから、日は浅いが、自分のことは自分の責任でできる。同行は加えて増井さん、早崎さんで、二人もほぼ常連だ。
 
 あいにくの荒天、時化で、一番近い高根に潜る。僕としてはテストだから、近くて浅い高根が好都合だ。
 ウエイトはベスト7キロ、ベルト6キロ、レッグ1.7キロの、これがスタンダードになりそうなウエイトと、フルフェイスマスクにロゴシーズを付ける。フルフェイスマスクがやはり不安で、呼吸抵抗が少しばかり多いような気がする。フルフェイスマスクだからデッドスペースがマウスピースより大きいのは当然で、息が弾んだばあいには、どうなるか心配である。
 カメラは、NIKON AW130 とGoProを並べて、ライトはフィッシュアイFIX NEO 2500のステイに付ける。
 飛び込んで、とにかくそのまま潜降してしまう。透視度は20m近くあるので、先行した荒川さん、と3人の気泡がはっきり見える。沈んでしまって海底を泳いだ方が楽だ。僕の潜降速度は普通より速い。今度はウエイトは軽くなかったので、思い通りに潜降できた。ただ、フルフェイスマスクなので、水面で山本さんを待って、一緒に潜降するなど、出来ない。自分勝手に降りてしまう。降りて、みんなと合流するが、山本さんが降りて来ない。上を見上げても姿がない。何かフルフェイスマスクにトラブルがあったのかもしれない。そのまま、魚、荒川さんと写真の撮りあいなどする。しかし、山本さんが来ないのが不安である。
山本さんに呼びかけたり、来ないのはなぜか、などと口に出しておく、ロゴシーズは録音機能があるので、しゃべっておけば、後で何かに使えると、本番のセリフもちょっとしゃべって見たりする。ピーという大きな音が入っている。それを山本さんからの合図なのかと思う。フルフェイスマスクはきっちりと着用できていて、呼吸も思ったほど苦しくはないが、一人になっているのが不安である。他のメンバー、早崎さんに、山本さんが来ないことを話してみる。水中でもフルフェイスマスクで少し大声でしゃべれば通じるかもしれない。声は聞こえているらしいが、別に心配している様子はない。
 一番危ないのは僕で、一番確かな山本さんが居ない。別に心配はないと思うけれど、最近書いている事故の歴史で、一番大丈夫な人をケアしなければいけないと書いてきた。残圧は100だが、荒川さんに合図して浮上する。一人ではとてもボートに上がれない。今日は、船頭さんは来ていない。上に山本さんが居れば、揚げてくれるだろう。マスクの不調ならば、居るはずである。
 揚がるのはやはり大変で、先に船に上がった荒川さんに6キロのウエイトは取ってもらうが、フィンは脱げないので、12リットルのタンクと7キロのベストで上がれない。仕方がないから、不様ではあるが這い上がった。荒川さんはそのまま、もう一度水中に降りて行く。NIKON AW130がない。ボートに上がる時にステイから外れたのだ。減圧停止していた時には、シャッターを押している。もともと、底螺子が弱くて摩耗している。仕方が無いが船の真下だからみつかるだろう。それよりも、山本さんだ。
 みんな上がってきたので、山本さんが不在を話す。増井さんが、離れたところに流されている山本さんをすぐに発見した。
 別に何事も無くボートを回して引き揚げたが、飛び込んで僕を探したが、見つからなくて、かなり探して見つからなかったので浮上して流されたという。僕の潜降が速すぎたかとも思うが、のんびりしていたら、僕が流された。スキンダイビングの形ならば、遡れるが、フルフェイスマスクで重装備では遡れない。やはり、最強の人が、視界から外れるのは、あることだった。そして、このような状況では山本さんが先に入って、僕を待ち受けなければいけなかった。
 1017潜降開始 最大水深17.4m 潜水時間 24分 水温14度
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          フルフェイスマスク ダイブウエイズ
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        早崎さん テクニカルダイビングの装備で、いつも潜っている。

 なんとか、ウエイトとフルフェイスマスクには、自信を持つことができた。
 カメラはNIKON AW130が無くなったので、TG4のフロッグハウジングを使う。これは底螺子はしっかりしている。大きいし黄色で目立つから、失くした時にはわかりやすい。NIKON AW130はおバカなことに、迷彩色を選んでいる。まあ、ボートの真下だから、見つかるだろう。今日見つからなくても、数日中には見つかるに違いない。盗まれたとすれば、それはそこまでの話だ。 二回目の潜水、今度は、山本さんに先に飛び込んでもらって、NIKON AW130回収の目的もあって同じ場所に潜水する。
 今度は何も問題なく、僕も落ち着いて、フルフェイスマスクで泳ぎ、適当にロゴシーズでしゃべり、ライトをオンオフさせて、発振のピーというノイズを確認した。若干、オーバーウエイトだが、そうしないと、速攻で沈むことができない。
 山本さんも、最近試している360度のカメラで撮影した。NIKON AW130は、やはり荒川さんが見つけてくれた。
 少し早め、残圧80ぐらいで、山本さんにサインを送って、一緒に浮上する。減圧停止中、「山本さんが先に浮上して、舟に上がって引き上げてくれないと僕が上がれない。」と話す。後で聞いたら、明確に伝わったということだ。ロゴシーズでしゃべることはできるが、僕の耳では、相手のしゃべることを明確に聴き分けることができない。もしかして、本番で聞き分けられるかどうかだが、お互いにセリフをしゃべっていれば、番組での会話は成立する。
 揚がるのは、やはり、難儀だったが、荒川さんも先に浮上して待っていてくれたので、二人の手助けを受けて、別に苦労ではなく、船に上がれた。実際の撮影では、船の上に人手があるから、水面で山本さんにウエイトを渡して、フィンを脱がせてもらえば楽に上がれるだろう。
 一応、心配部分は全部クリアーしたから、テストは成功。それほどプレッシャーを受けずに楽しんで本番の撮影をすることができるだろう。 1227 潜水開始 最大水深 17,8m 潜水時間 31分 水温14度
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 潜水が二回終了して、荒川さんに昼食をごちそうになった。食べたことのない魚の刺身で、おいしいと思って平らげた後、聞いてみれば、ニシンの刺身で、北に行っていた尾崎君のお土産だとか。尾崎君は流氷の撮影でもしているのだろうか。
 鶴町さんは、6.5mmのワンピースにフードジャケットで潜った。二回は無理、ということ。僕も、ドライがだめだったら、6.5も考えたが、2回はむりだろう。 カメラだが、NIKON AW130は、底の螺子がバカになっている。再び落ちる可能性があるから、水中カメラと道具になりそうだから、今後はこれを道具にする。ウエアラブルカメラと一緒に乗せるステイを考えなくてはならないが、手持ちの材料でなんとかなるだろう。
 

0219 おクジラさま

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事故の歴史 と言うタイトルで事故を並べている。たしかにこれで、日本のダイビングの側面がみえてくる。しかし、余り愉快なことではないので、[終わり]、と思えるところまで書き続けられるか心配になっている。
海に出かけた時には、ブログイコールログで、そのログを書いているが、息抜きに読書の話、
、図書館に行き、本を返して、新しい本を借りた。マリンダイビング2月号、僕は、マリンダイビングは全部図書館で借りている。ダイバーは、自分でも書いていたりするので送ってもらえている。マリンダイビングは、図書館だ。ダイバーが図書館にないのは、ちょっと悔しいが、歴史のちがいだろう。どちらの雑誌も書写して保存している。全部を書写しても仕方がないので、ざっと目を通して、必要部分を書写する。書写したものは、タブレットに入れているので、このタブレットで全部見られる。積ん読の新しい方式だとおもっている。
 書写するページが多い方が、良い点数と言うことになる。ダイバーの2月号は、自分の記事が載っていたこともあり、それにグラビアがよくて、ほとんど全部書写した。マリンダイビングも2月号はかなり写した。どちらの雑誌も、ダイビングの旅の情報誌の色が濃いのだが、ダイバーはグラフィックで、マリンダイビングは情報誌として要領がいい。
 内容としては、親類筋のダイバーを応援している。自分の記事がでている2月号は勝っていたが、3月号は? まだマリンダイビングは見ていないのだが。ダイバーは、NHKの南極は良かった、と言ってもこれは潮美の記事なので、 それにしても、と思う。外国のダイビングクルーズの記事を見ていたりすると、自分が外国に数多く行っていた頃と比べて、遥かな国遠い昔だ。ノスタルジーと言うものがあるので、昔の方が良いと思ったりするけれど、今の旅も安楽で悪くなさそうだ。

 「おクジラさま:佐々木芽生」を借りた。捕鯨についての太地のことを書いている。先日、同じ太地について書いた「イルカを食べてはいけませんか」を読んだ。今の僕は、イルカを捕鯨する事には好感を持っていない。イルカでも、突きん棒で、主に三陸で採られているイシイルカについては、何とも思っていない。御倉島などで親しいハンドウイルカが引っかかる。ホエールウオッチングが盛んになっていて、その対象のザトウクジラなども、太地の沖を通れば殺されてしまう。そもそも、人間が食べて良い、食べて悪いは、どこで決めているのだろう。肉を食べなくては生きていけない人間なのだが、どこで、食べる食べないを区分けしているのだろう。捕鯨といって、頭にすぐに浮かべるのは、アーサークラークの海底牧場だが、イルカは人間の側で牧羊犬の役割を果たしていた。この「おクジラさま」で、何か答えが見つかるだろうか。
 
 ※2018/02/19 08:32 現在三分の一ぐらいまで読み進んだ。ドキュメンタリー映画を作るドキュメンタリーとしては、おもしろいが、自分のターゲットとしては期待はずれだ。日本人はすべて、イルカ捕殺、捕鯨に賛成、その日本人対捕鯨に反対するアメリカ、オーストラリア、シーシエパードという図式で書いている。確かにしシェパードは、悪役としてはまる。どくろのマークの帽子などかぶって現れる。馬鹿か、馬鹿に違いない。が、そのために議論の本質から外れてしまう。僕の知りたいターゲットは、人と野生動物との付き合い、共生、の問題であり、人と近しいコミニュケーションを築きつつあると、少なくともダイバーの大多数がそう思い、感じているイルカの捕殺の是非なのだ。
 歴史とか伝統と言っても、それは、3000人の太地の歴史であり伝統にしかすぎない。まあ、それだから文化財的に貴重ともいえるのだろうが、今、そんな時代なのかなあ、
 終わりまで読んだらしっかり書こう。
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「海は誰のものか:小松正之」これは沿岸漁業とレクリエーショナルダイビングの変遷の歴史を書く上で、よくまとまった資料になる。パラパラと見て、すぐにアマゾンに発注した。1900円、潮美にもらったギフト券の残高がまだだいぶある。
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「あの空の下で、:吉田修一」 ブックオフで、同じような「空の冒険」を買って、翼の王国に書いているこの人の短編と旅行エッセイ、寝る前にちょっと読むのに良いなと思っている。108円で買えるのだから、借りてこなくても良いかと思ったが、借りて損をするわけではなくて、108円の方も、あったら買えば良い。
 ※ 残念なことにこの吉田修一の作の中で、気に入る、好きになるのは、この「翼の王国」連載の一群だけのようだ。代表作の「パレード」など、パラパラとブックオフで見たが、108円でも買う気持ちにならない。今の自分、重いのはいやなのだ。

 あと、猫の本も借りることにしているので、「猫語会話帳:今泉忠明監修」を借りた。今泉さんは、大学のちょっと後輩で、その息子の今泉君は潜水部で、ずいぶん親しくしていた。50周年で顔を見られなかった。ちょっと気になっている。
 これも、寝るときにパラパラと見る。
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 あとチャンバラ本を借りたが、これはぜんぜんおもしろくないので、読まずに返しそうだ。

0223 房総のカジメとアワビで成った新財閥

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4期上の先輩から送っていただいた本の紹介です。大場先輩は、アワビ種苗生産の先駆者であり、定年退官してからは、ヘルメット式潜水漁業史の本を3冊書いておられます。
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大場 先輩  「房総のカジメとアワビで成った財閥 (森家と安西家):崙書房」送りいただきありがとうございました。 おもしろくて、一気に読んでしまいました。 半地元で、自分の知っていることと、混ざり合って、そこに、ああそうだったのかという新しい知見も重なります。 海藻を焼いてヨードをとると言うことは知っていましたが、詳細は知りませんでした。そこに、葉山の海から海藻を焼いて誕生する鈴木家から、味の素が生まれる。田辺製薬も、シオノギも海藻を焼いて誕生する。 海藻を焼いてヨードをとることから、アルミニウムへ飛んでいく。  しばらく、乙浜の調査もしていましたので、乙浜は、今でもカジメが豊かに見えますが、昔も乙浜はカジメが豊かだったのですね。刈っても刈っても、無尽蔵に生えてくるのだろうか、そして、アワビについては、漁業権の売買、最後に器械根に稚貝放流に行ったのは、もう20年の昔になりますが、まだ、資源はもどらないのでしょうか。  自分としては、最新ダイビング用語事典に続いて、「ダイビングの歴史」を書き始めています。年表を確立して、その年表にコラムをはめ込む。それとは別にまとまった小史をいくつか添える。今、小史 スクーバ事故小史を進めていますが、次には、沿岸漁業とスクーバダイビングのかかわり合いの歴史、これは、「海はだれのもの」という摩擦からはじまり、小さな舟での漁の減衰に反比例してレジャーが頭をもたげてくる。水産の中にいやでもレジャーを取り込まなければならなくなっているのに、身動きができない官の縄張り問題。そして、なるようになっていく。それで良いのですが。房総のアワビ潜水漁業も腕の良い海女がみんな80歳を越したとき、ITQでスクーバでとるようになり、資源管理、種苗放流もその流れで新しい漁師が、自分の区画に、自分たちでやる。それが、1970年代に僕たちが夢見た海の畑の図式になるのではないかと思ったり、でも、決して日本ではそうならないでしょう?、オーストラリアでは、もう昔からそのスタイルで、スクーターに乗ったフーカーダイバーが、決められた量を自分の好きな時に獲って、一人、数千万の水揚げをしているのに、と思ったりします。でも、安西家の管理は、そのITQに近かったのでは。だから財を成すことができたのでしょう。  ヘルメット式の漁業は、コラムの部分の参考は、全部、先輩の著作からの引用になりますので、何時のことになるのかまだ見えないのですが、監修をお願いするか、書いていただいた方が手間はかからないと思ったりします。何時になるかわからないと言いつつも、自分に残された時間はわずかです。  日本水中科学協会のシンポジュウムで2017年は撮影ハウジングの小史を、2016年にはマスク式潜水式の小史をやりましたので送らせていただきます。下書きのつもりですが、マスク式潜水はおもしろいので、膨らんでしまいそうです。  館山の波左間にはよく行きますが、ガチガチの余裕のない日常で、お目にかかる時間はありそうもないので、DM便になります。 ご自愛くださいなどと、自分を振り返ると言えないので、死ぬまで走り続けることを願います。                             須賀次郎

0227 スクーバダイビング事故の歴史 4

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 事故の歴史 4 1968年学生のスキンダイビング事故
 1968年 今とは全然違う 事故例報告について、ANACと学生の事故をあげるつもりで、原稿を用意していたが、ブログにできずにいるうちに、海に潜るスケジュールに突入してしまった。お台場、そして波佐間での人工魚礁 テレビ番組撮影である。
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 関東学生潜水連盟は50周年、みんな、この式典の準備をした学生の祖父の若い頃の話だ。東京商船大学潜水同好会の事故の記録である。ほぼ全文を原文のまま載せる。※は、解説である。
 事故報告書 昭和43年 11月23日 名和、山崎 青木の先発が、静岡県南伊豆町入間へ電車、バスを乗り継いで向かう。 0900に出て、15時00分に到着、漁業組合長を訪ねて、ダイビング許可をもらう。 1530 下見でスキンダイビング、赤石付近 海はベタナギである。
 翌11月24日残り6名が0030 自動車で寮を出発、0520民宿着、S君は車中2時間ほど睡眠をとる。民宿着、ただちに用意してあった布団に入り、0930まで睡眠をとる。起床して朝食、S君もみんなと同じように食べる。 1030 準備して、歩いて2ー3分の浜にでる。組合長も来てくれて海の状況など教えてくれる。 それにより、潜水ポイントを赤石と定める。 西の風が少し吹いてきて、波は少々あったが、特に注意するほどの事もなかった。 1100 全員、スキンで水慣れを行い、赤石付近まで行く。このときは全員スキンであった。 1300 全員 帰浜 このころから、風もやや強く波も出てきたが危険な状態ではない。 1330 2名ずつのペアでボンベ使用の練習を行う。残りの者は休息している。 s君はこのとき10分ほどのボンベ練習をしている。 ※ 持参した機材、ボンベの数などの記載はないが、入間には充填する場はなく、充填したと言う記述も無い。6名が自動車で行く車に積んだのだろう。全員で9名10本以上のタンクはなかっただろう。主にスキンダイビングでの魚突きで、ボンベは交代で10分くらいずつ練習したのだろう。
 1430 ボンベ練習も終わり、時間もあったので、元気な人間だけという事で希望者を募った。4名が赤石に行くと言うことで、S君、三尾はスキンで、福地、犬飼はアクアで赤石に向かう。名和、青木、伊藤は、次回の調査もかねてカワラ舟付近に向かう。※赤石とカワラ舟は入り江を挟んで対岸である。 残り2名は体調が良くないと言うことで浜に残った。全員16時には浜に集合と言うことに決めた。 1600  赤石、カワラ舟に向かっていた者も順次引き上げてきた。がS君のいないのに気づき、いつもなら我々より早く引き上げているはずなのにと思いながらも、時間も迫っていたので、名和がボンベを背負って、1600に浜を出発、しばらくして、海岸に居た者がS君らしき姿を認めたので、三輪が泳いで名和のところに連絡に向かい、名和はそのまま潜って浜へ引き上げた。一方、三輪は、認めた人は佐藤君ではないとの知らせを浜より受け、すぐに赤石付近に向かった。多少波があったため、水面より見にくく思い、岩の上に上がって、しばらく海面を探したが、S君らしき姿を認めることができず、事故のあったことを認識し、急いで浜に向かう。途中で向かいの波止場で、連絡を待つ福地をみつけ、S君の居なくなった旨連絡する。 この間に名和、福地の両名は、舟をだしてくれるよう漁師に交渉し、手配してもらっていた。 1630 沖から帰ってくる釣り舟があったので、すぐにその船で現場に向かってもらう。しかし、姿は見当たらないとのことで、改めて、もう一隻の舟に、三尾、福地、および地元の消防団員2名とが乗り赤石付近から立島の周囲を大声を出したり、笛をならしたりして応答を待ったが、何の応答も無し。 太陽が落ちきったため、辺りは急速に暗くなり、舟も危険となったため、やむなく波止場へ帰る。1800 捜索に向かった舟が波止場に帰ってきた。 すでにこの頃には地元消防団員の方々も全員集まってくれており、さっそく陸から、海岸線の捜索に向かってくれる。赤石付近の岩場は、夜は地元の人でも危ないとのことで、我々は、民宿にもどり待機することにした。(1700) この間に連絡係りとして、頼んでいた山崎によって、民宿より、警察。大学に電話連絡が行われた。1930 地元消防団員の方による陸からの捜索も打ち切られ、さっそく、明日の捜索について検討を行う。1900から30分おきに、本学会員が、ベースのあった浜を探して回る。2200 すべて捜索が打ち切られ、本学会員は明日の水中捜索のため寝床にはいってもらう。

11月25日 0030 本学先生、および下田より知り合いのダイバー2名が民宿に到着、ダイバーには早速床についてもらう。 0230 父親ほか遺族の方々が到着 深夜、明日の捜索のために、ダイバー、ボンベなどの手配を行う。11月25日24時ころには、現地には、本学会員8名と、ボンベがダブル1本、シングル5本、レギュレーター四つが確保され、又、日本スキューバダイビングクラブにも連絡がなされ、そちらから法政大学および水産大学のダイビングクラブにも連絡がつき、明朝には、出発してもらえるとの連絡が入る。 また、雲見の高橋さんにも連絡がつき、朝には舟で現場へ到着してくれることになった。 0600 夜明けと共に、本学会員6名と地元の人々を乗せた舟が3隻赤石付近に向かい、捜索が開始された。本学会員5名が 第1班、犬飼、青木、伊藤 第二班 福地 内山 の二班にわかれ1班は陸伝いにゆっくりと岸付近に、寄せられたものではないかという想定で、立島付近まで捜索、何の手がかりも得られなかった。二班は昨日S君が潜っているのを確認した水域を重点的に捜索、三隻の舟からは、三尾の指令のもとに、のぞき眼鏡で捜索をおこなった。 0715 スキンで捜索していた福地が、水深約6mの岩が重なっているトンネル状のところに、トンネル内、に身体を全部入れ、足をのばし、指は握って、手半開きであおむけになったS君を発見した。遺体は、マスクは正常の位置につけ、スノーケルは口から外して、その他、ヒレ、ウエイトも正常の位置であった。1班にも連絡を取り、5名全員が確認をする。その後5名にて事故地点にブイを打つ。 この捜索は素潜りであったため、遺体引上げは、安全を期するためボンベにて行うことになっていたので、一度全員、波止場に帰る。 0800 ボンベを着けた(大方、玉沢、三尾 福地)の4名が事故現場に付き、現場を確認した後。一旦浮上し、引き上げは、舟よりロープをおろしロープで遺体をしばり、ゆっくり引き揚げた。水深2mの時、遺体のマスク内に半分位の鼻血た出る。 ※、ボンベでの引き上げに向かった大方、玉沢とは、当時日本スキューバ潜水クラブ員であったので応援に来ていた。そして大方は、現在水中撮影の重鎮となった大方洋二である。 事故原因の考察 S君 21才、身長1m70cm 体格良 平素から、スポーツになじんでいて、潜水歴も2年になっていた。会の合宿、冬季の潜水行にも数多く参加しており、素潜りの技術面では会員内でも上級であり、特に水平潜水では本学最高であった。又、当日も特に体調が悪いとは聞いておらず、たいへん張り切っており、また、睡眠時間も車中、および宿についてからと、かなりとっていたので、朝食時には何の変化も見えなかった。午後からの潜水前にも、一度本人に確認がなされたが元気で、まだ潜るとのことだった。 海はW の風が吹いていたが、波は少しあるていどで、水温はこの頃にしたら暖かすぎるくらいで、天候は快晴であった。我々の状況にかんしては、それほど大変だとはだれも思っていなかった。 遺体の発見された場所、および状況から判断して(S君は銃体が木製の銃を持って行ったが、現場付近では発見されなかった。彼が大きな魚を追い、銃を撃ち、それが命中して、魚が急激に逃げ回り、銃をとられ、これを追いかけて、岩の下に入り込んでしまい、息が切れてしまったのではないかと思われる。しかし、穴は、身体が全部入るほどなので、後戻りして抜け出すことのできるもので、彼の体の機能を鈍らす、何らかの要素が働いたとも考えられる。 それは、耳がぬけないまま潜水し、鼓膜が破れ、このために平衡感覚を失い、脱出できなくなったか、水中であおむけになり岩を出ようとして、めまいを生じ、穴から抜け切れなかったことも考えられる。 しかし、その深度まで潜るには、たいてい、耳抜きはなし得たものと考えるので、余力、瞬時判断の力があれば、後退は出来るだろうと思われる。そうなると、瞬時判断において、前からでようか、後ろへの退こうか迷い、穴の中で思いがけない時間の経過が立ち、それが窒息をまねいてものではないかとも思われる。 いずれにしろ、今回の経験により、次の点に十分に注意したいものであり、またいろいろ参考意見等もお聞きしたいと思っております。 1.スキンダイビングにおいても、互いにバディシステムという原則を守り合う。 2.自己の能力範囲外の潜水を行わない。 3.海に対し、もっともっと経験をつみ、冷静な状況判断をなし得るよう訓練する 4.指導者、および、見張りの任についてものの徹底した人数確認   潜水海域の指定とその厳守   人数確認のチャンスを多くもてる計画   時間の厳守 5.各自の自覚 今回の事故に協力および助言をいただいた方々の氏名は以下の通りです。  南伊豆町漁業組合入間支部長 渋谷氏 他組合員  区長  南伊豆町役場  南伊豆消防団長  以下、中略  日本スキューバダイビングクラブ会長 鈴木博   会員 玉沢 大方、蓬莱 本田  雲見のダイバー 高橋氏 他3名
  法政大学 東京水産大学 ダイビングクラブ  以下に述べますのは捜索に要した費用で、記入漏れもありますが、その概略であります。  費用すべてが遺族の方より出される。    下田消防団御礼   30000円    日本スキューバダイビングクラブお礼 10000円    民宿お礼  10000円    民宿経費  10100円    神主 お浄め代 1000円    生花一対  10000円    往復ガソリン代 3000円    医者証明書 6500円    その他雑費 4500円    合計 85150円  この報告書の終わりをもって、考えますに、各方面の方々の手早い、ご援助、ご厚情に感謝するとともに、我々一同、深く反省し、再度このようなことの無きよう万全の注意をすることを約し、また、これをお読みくだされた方々に置かれましては、少しでも参考になればと願って事故報告を終わります。
  東京商船大学ダイビング同好会 名和 正彦
 ※ この報告書は、43年12月3日になっており、迅速な対応、と言える。 1968年、今から50年前である。当時の学生ダイビングの様相がわかる、 あたかも、関東学生潜水連盟の創立も1968年であり、創立50周年の祝賀会が行われる。 50周年、半世紀である。これを書いた名和氏は、どうしておられるだろうか。この文からお人柄は良くわかる。 そして、この東京商船大学ダイビング同好会も関東学生潜水連盟に加入が予定されていたと聞く、法政大学、水産大学に連絡して捜索に出発しようとしていた。親交があったのだろう。 関東学生連盟に商船大学ダイビング同好会は加わっていない。この事故のために加わらなかったとも聞いているが、定かではない。この報告書からは、これが終わりという印象は無く前向きに結んでいる。 ※ 2月10日関東学生潜水連盟 50周年祝賀会が行われた。初代の委員長であった銭元さんに商船大学のことを聞いたら、まったく知らないという。捜索に行く準備をしたことも知らないという。銭元君は、法政大学の一期ではない。学生連盟ができる前の事情については知らなかったのだろう。法政の創立時の主要人物であった加藤君(日本潜水会学生会員)に聞けば、より詳しくわかったのだろうが、祝典に来ていなかった。  この事故は水中銃で魚を撃って居た時代の素潜り事故として典型的なもので、その後いくつか同様の事故が報ぜられており、そのいずれもが海底での拘束である。ために、スキンダイビングによるスピアフィッシングは、危険と言われていた。スピアフィッシングの危険は岩の下などに入る拘束事故こであり、この事故に疑問点は全くない。クラブで上級と言われるダイバーがなぜ抜け出せなかったのか、これも学生ダイビングの定石ともいえる、その年度でトップグループのダイバーが事故を起こしている。上手なのになぜ、ではなく、上手だったからの事故である。岩の下で息が尽きるという事故は海女さんにも同じような事故がよくおこっている。岩の下でアワビ二枚まではとっても良いが三枚目が命取りになるなどとも言われている。獲物を追っていれば、限度を越してしまう。そして、その場が上に水面の無い岩の下である。後戻りしたら出られるとかいう問題ではない。 いうまでもなくレクリエーションでは、スキンダイビングでもバディシステムは必須であり、この事故もバディであったならば、助かっていたかどうかはわからないが、助かっていた可能性はある。 当時、多くの場所で、そして南伊豆町でも、スキンダイビングによる魚突きが認められていた。 なお、関東学生泉水連盟は、日本潜水会と同様に、魚突きを止める声明をだしていた。 日本潜水会は、魚突きグループが多い関西潜水連盟と合同して全日本潜水連盟をつくったために、魚突き禁止の徹底は全日本潜水連盟ではできなかった。 前回のANACの事故は、スキンダイビングによるシャロ―ウオーターブラックアウト、商船大学は拘束スキンダイビング事故の典型の二種類である。当時、スキンダイビングはスクーバダイビングの基本であり、スキンダイビングの方がより安全であると考えられていた。現在2018年では、どうだろうか。やはり、スキンダイビングは安全と思われている。岡本美鈴、千足耕一先生、藤本浩一先生、そして須賀が書いた「スキンダイビング・セーフティ」の改訂版で、スキンダイビング・レスキューを書き加えているが、水面でのレスキュー用具である、レスキューチューブ、もしくはそれと同等のものを持ち込んで、複数で潜ることを薦めている。
 ここに挙げた二つの事故は、そのような態勢であれば、起こらなかった。しかし、報告書の反省では、この態勢は持ち出されなかった。以後、おなじようなスキンダイビングの事故は、毎年1例ぐらいずつ報告されていた。
 事故例が運用、どのように活動するかに反映されない。このことは、現在も同じである。言葉だけの反省ではなく、何か物理的に頼りになる、器材が必要で、その機材の使い方(運用)についての、知識と実行が必要である。
 日本水中科学協会、は水中活動の運用研究を目指しており、水中活動運用学会が別名でありたい。この事故の歴史報告もその方向、コンセプトで重ねていきたい。

0301 お台場0225

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口を開いている元気な牡蠣

25日のお台場から、28日の館山波佐間の「さかなクン」ロケまで、27日の辰巳も入れて、連日水に入った。ブログを載せているいとまも無かった。ここから連続でブログに出そう。

2月25日 お台場。
 お台場の報告書が出来上がり、この数日思い当たる関係筋にDM便で送っている。メンバーみんなにそれぞれ書いてもらったのは今度が始めてで、好評である。自分でも良いと思っている。このところ、風呂田先生が欠席がちだったので、報告書のまとめは、多留さんにお世話になった。
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 多留さんと尾島ママ、の協同で魚類について書いてもらった。そして、多留さんには無脊椎動物、尾島さんには海洋観測のデータ、湧水を調べるシーページメーターの観測結果、三ツ橋さんには植物、海藻について、僕は総合的に研究会の沿革とお台場の四季の移り変わりの説明、海洋大学学生の依田君は、枕木、小林さんは、レクリエーショナルダイバーの視点から、共同通信の京極さんには、新聞に載せた記事をかいてもらった。
 風呂田先生は、良くできました、と誉めてくれた。 集まることがわかっていたメンバーには、送らずに、今日(25日)手渡した。 風呂田先生が、珍しく急遽参加してくれて、そして、次の波左間の潜水のアシストをしてくれる山本さんも来てくれた。
 数日前、テレビの製作会社IVSテレビが飛び込みで電話をくれたので、よかったら、見に来てくださいと誘ったら、ディレクターの多田さんと言う方が来てくれた。感じの良い人で、朝から、終わりまで付き合ってくれた。 潜水は、波左間でバランスが悪くて困ったのでその練習。ウエイトを換えてみた。4キロのベストに8キロのベルト、レッグが1。7キロ。これで水深1、5mで潜れれば、オーバーウエイトながら、波左間ではすばやく潜降できるだろう。
 今の僕のフィジカルでは、潜った水深で適正ウエイトにしたドライスーツでは、うまく潜り込めない。オーバーでBCとドライで調整するしかない。なんでこんなに下手になったのだと嘆いても仕方がない。そういうことなのだ。
 それにしても、ついこの秋までは、自分でフィンを履いて、四つん這いにはなるが、砂浜からエントリーできたのに、今は尾島ママ、もしくは尾島さんの肩を借りて、フィンに足を入れて、ストラップを引っ張ってもらって履く。とにかく、エントリーエキジットが地獄なのだ。 
 水温は10度、このウエイトで、水深1.5mで浮かなかった。これで波左間も行こう。
 ダイビングについて書くと、ウエイトが重いこととか、水中ではオーバーウエイトになってバランスが悪い。そんなことばかり書いている。これが高齢化のダイビングなのだ。その最先端を行っているわけだから、良いとしよう。
 2月のお台場、魚もカニも影も形も無いが、トレーニングだから、良い。水が冷たいからかか、牡蠣が元気で口を半開きにしている。50cm平方に5個は、口を開いている。そして、夏に牡蠣に付いている茶色の汚らしい付着生物も無く、きれいな貝殻を見せている。
 水はきれいなところと濁っているところが層うになっている。それがくっきりと見える。牡蠣の浄化作用なのかも知れないし、湧水があるのかもしれない。湧水については尾島さんがシーページメーターで調べているのだが、明白なデーターは出てきていない。
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 牡蠣も確かに浄化作用はあるのだが、死んだのが富栄養のもとになるから、トータルで浄化作用はないのだと多留さんなどは言うのだが、死んだ部分はカニやハゼの類などの餌になるから、良いと思うのだが、そのカニやハゼも死んが富栄養につながるといえば、それもそうだが、それでは生き物すべてが富栄養につながってしまう。
 中尾先生は撮った写真を見て、これは湧水だから、その専門家である新井さんに見てもらえると良いというのだが、新井さんは瀬戸内海に本拠があるから、なかなかチャンスがない。 赤い猩々の毛のようなショウジョウケノリがそこここに目立つ。アオノリの類も緑がきれいだ。
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 牡蠣を割って小さいカニでも集めようとすると、残圧計のホースにつけてあった小さいナイフが無い。なくしてしまった。けっこう高いナイフだった。別に水中ナイフでなくても、100円ショップのナイフでも良いし、大きなドライバーでも良い。残圧系のホースにくくりつける方法を考えよう。
 明日、26日 早朝に波左間に出発するので、潜水一回で切り上げた。
 風呂田先生は、人工砂浜で、ホンビノスを穫り、砂をとって小さいアサリの稚貝をとって測定している。これをずいぶん長い間続けておられるのだが、なにか論文発表されたのだろうか。尾島さんが言うには、mmの単位のアサリの稚貝が増えているので、アサリが増えるかもしれないという。以前、アサリが増えたときには、セミプロまで、穫りに来ていたのだが、穫り尽くしてしまったのだろう。今は潮干狩りはできていないが。今年の夏はできるかも知れない。
 次の報告書では、風呂田先生に、ホンビノスについて必ず、書いてもらおう。

0302 さかなクン東京湾に潜る 1

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 さかなクン東京湾に潜る

 2月26日、早朝6時、こんどのロケのアシスタントを勤めてくれる、山本さんの車で、館山、波左間に向かう。
 北東の風が吹いていて、海ほたるから金田に向かう途中、吹き流しが横になって、8から10mと強い。東よりならば、沖の島の陰になるから、なんとか潜れるのではないかと思う。
 7時半、ぴったり1時間半で波左間に着いた。
 NHKの「潜れ!さかなクン」東京湾にさかなクンがもぐる番組の撮影だ。この番組にでることを依頼された。何時も、ブログで、人工魚礁のこと、波佐間のことを書いていたのが効いたのだろう。とにかく、僕は人工魚礁と共に生きてきた。
 番組の前半が東京内湾の海ほたるの近く風の塔を作る工事についての話題で、工事ダイバーの渋谷さんが付き合って、その部分は撮り終えて、東京外湾、出口の波左間に移る。
 この番組のために、2月8日、そして15日、トレーニングをしている。フルフェースマスクを着けて、ロゴシーズという水中超音波通信機を耳に付ける。耳が遠い、陸上でも会話が成立しない僕が、水中で会話が出きるだろうか。会話のようにかってにしゃべればそれが録音されて、あとで編集で会話になる。フルフェースマスクでなくても、ドライスーツでの潜水、ウエイトを13キロも着ける潜水は、エキジット舟に上がるのが辛いのだが、フルフェースマスクはなおさらである。ダイブウエイズのフルフェースマスクを使う。これが一番顔がよく見えるフルフェースマスクだ。潮美のニュースステーションから生まれたマスクだから、僕も開発関係者の一人なのだ。
 昔、さんざん練習して使い慣れて居たはずなのだが、昔は昔であり、僕のフィジカル能力は昔とは、はるかな国遠い昔になっている。まあ、最近も練習しているから大丈夫だけど、と思った。
 
 さかなクンは、板田の海洋大学センターに良く来ているのだから、ずいぶん前から仲良くしていても良いはずなのに、すれ違いをしていて、一緒に潜るのは初めてだ。僕の大学である東京海洋大学の客員準教授になっている。「ギョざいます。」で売れっ子になっている。「初対面でギョざいます。」最初の彼の挨拶が最敬礼で。それよりも低く頭を下げようとすれば、土下座しかない。頭の良い子で、絵も上手で手早い。あっという間にギョざいます言葉を書いた名刺をくれた。 とにかく一緒に潜る。
 海況は波があって、比較的近いドリーム魚礁にどうやら行ける程度だ。
 さかなクンは出発するときからフルフェースマスクを着けている。彼は空気の消費が少ないから、良いけれど、僕は息が弾むから、空気が早くなくなる。ましてデッドスペースがあるフルフェースマスクである。12リットルの重いタンクをつける。
 タンクは出港の時に背負わせてもらい、フルフェースマスクは水に飛び込む直前に着ける。
 NikonAW1300とGOPRO2を並べて、イノンの700ルーメンのライトをつける。光量の大きい、いつも使うフィッシュアイのライトは、超音波と干渉しあって、ピーという雑音を発生してしまう。これは15日のテストでわかった。
 重くて立ち上がれないので這って、頭から飛び込む。なんとか潜降していくが、息が弾んでいる。身体をなるべく動かさないようにしてドリームのサイドの海底に着地する。もちろんオーバーウエイトだし、ドライスーツも締め付けられる。BCに空気を入れ、ドライスーツにも少し空気を入れて、浮くようにするが、水平姿勢で泳ぐことは、無理だ。カメラマンの井田さんとは、魚礁のサイドの海底でさかなクンとであって魚礁に入っていくようなシーンを打ち合わせていたが、さかなクンが来ないので、こちらから行く。
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 このシーンは撮り直しだな。
 魚礁を通り抜けるのだが、縦、長い辺は無理なので、横に一番下の段をくぐり抜ける。井田カメラマンは、外で待ち受けて撮る。次は中段を抜ける。ウミトサカは、上の段の方がきれいだ。最後に三段積の上の段を抜けて上にでる。井田カメラはきれいに水平姿勢で安定して魚礁の中を潜り抜けて動いている。かれはNHKでもエースで、この前には、南極の撮影をして月刊ダイバーで潮美のインタビューを受けている。僕も、本当は今からでも練習して、あんな風に泳げるようにしなければ、と思うけれど、もはや無理、昔の僕は、と愚痴を言っても始まらない。
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 魚礁の外側で、少し稚魚の群を追って、僕の空気が70になったので、浮上する。ウエイトオーバーで服に空気を入れているので、安定が悪く、ロープにつかまらないと危ない。減圧点のバーにつかまって、水面を見ると、小さいボートが波に翻弄されていて、あれにあがるのかと思うと恐ろしい。
 エキジットはいつも地獄だ。この夏、あがったところで波に煽られて、左膝を痛めた。つぎは先日ふくらはぎを痛めて、今も片足を引きずっている。
 フィンをはずしてもらい、立ち上がろうとしたら、波に揺られて丸い、滑りやすに梯子から落ちそうになった。フルフェースマスクだから外の空気は吸えない。なんとか膝であがって倒れ込むように這い上がった。みっともないが、かっこよく怪我をしてはいけない。と、自分を戒める。
 一回目の潜水で疲労困憊した。いつものことで、二回目は拒否したい気持ちになるが、二回目の方が良い潜水ができて、すべて終了したときに元気になる。
 二回目が終わって元気にならないで、もうだめと思うようになったら、引退かな、いや、でも、やっぱり頑張るだろう。
 薪ストーブで暖まる。荒川さんがカタクチイワシを焼いてくれた。しばらくぶりで魚をおいしいと思った。どんどん食べながら、さかなクンのインタビューに答えた。後で考えて、ちょっと態度が悪かったかと心配になる。撮りなおそう。 二回目の潜水、今度はさかなクンとの出会いシーンは決めて、魚礁の中に入らずに外側を回った。稚魚がライトに照らされて、良いシーンが撮れたと思う。カメラが魚礁の中にいて、撮影中、荒川さんがさかなクンを拉致して行った。「ピカチュウ」を見つけたらしい。大きなカメラがついていかなければ意味がないんだけどと思っているうちに、自分の残圧が50になった。フルフェースマスクだと外の空気が吸えないから、波がある時のエキジットは怖い。安全停止などそこそこに切り上げて上がった。今度は船の上の方が要領を覚えてくれて、梯子を上がりきるあたりで、手を貸してくれた。さかなクンがすぐ後ろにあがってきたので、這って場所を空けた。
 
 波静かなところにきて、インタビューのやり直しをしたが、頭がうまく働かない。支離滅裂だろう。それに、難しい質問、魚礁を通して見えてくる漁師の気持ち、これは、魚礁をとおしてみる、小規模沿岸漁業の盛衰というような意味なのだが、それを説明するには、状況が厳しすぎる。
 潜水は二回で終了して、次は一日おいて28日になる。
 さかなクンは、人形をくれた。とにかく、仲良くなれた。
 帰り道、館山名物?くるまやのラーメン、ネギ味噌を食べた。一時、流行った「どさん子ラーメン」など見えなくなったのに、なぜかこの、くるまやラーメンチェーンがつぶれないで、昼時なのだが満席になっている。僕もなんとなく食べたいと思うような味なのだ。
 帰途、海ホタルのあたりまでくると、空は晴れて青空になった。

0303 潜れさかなクン 2 人工魚礁

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2月28日、: 27日に辰巳のプールがあったので、一日おいて、28日、これで潜ることができれば、さかなクンの番組の撮影はめでたく終わる。 ということで、27日、これさえなければ一泊二日ですむのに、二往復三日にしたのに、来てくれた人は5人、あとから飛び入りがあったので7人だけ、寒かったし疲れていたのでちょっと泳いでジャグジーに入って終わりにしようかと思ったのだが、それでも、一応の練習をしてしまった。 で、朝起きて調子がよかったのだが、山本さんの車に乗ったとたんに眠くなり、あっというまに館山に着いてしっまった。  今日は、人工魚礁の潜水のまえに、荒川さんが神主の衣装を着て、高根神社に参るというシーンがあったために、遅い到着でもよかったのだが、早くついてしまった。その上に、千葉大学のグループを間にいれてしまっているとのことで、潜るのは11時30分ごろになるということ。でも、のんびりするのは嫌ではない。 海はべた凪の予定だったが、そうでもなく、少し波がある。しかし問題になるほどのことでもなかった。  潜水の前に、僕のインタビューの撮影がある。一昨日もインタビューを撮ったのだが、頭の中の準備がなく、それも潜ったあと、まだ頭が正常にもどっていないうちでのインタビューだったので、どうしようもない出来で、撮り直しを、僕のほうからも求めたものだった。 そこで、考えたのだが、考えたコメントは、これは長すぎる。長すぎるけど、切ってもらったかまわない。 ここに書くのも長すぎて疲れるのだが、人工魚礁とは、いったい何?ということを知ってもらいたいので、概略を書くことにする。  魚、いや、魚だけでなく生き物は、理由もなくどこにでも居るものではない。これが基本である。隠れ場所、これは人間で言えば家、住処である。餌、食べ物のあるところ。餌も動物であれば、何かに隠れ付いていることが多いから、これは、住処と一致する。 原始時代から、魚を採って食べていた人は、魚の居るところを知って漁をした。石の陰、石のあるところに魚がいる。石を置けば魚が集まる。採るのに都合の良いところに石を置く。一個だけのこともあるだろうし、山と積み上げることもある。これを投石と呼んだ。江戸時代になると、これを組織的にやる例が出てきた。 以後、投石が魚や、エビをあつめる主要な手段となったが、昭和になり、投石の代わりに、土管を入れれば、隙間ができ、容積が大きくなり複雑になる。複雑であった方が、魚の居場所が増える。部屋数が多い方が良いのだ。やがて、土管の横腹に穴をあけたり、立方体をコンクリートで作って、沈めたりすることも始めた。これが人工魚礁である。  そして第二次世界大戦、戦後、食糧難、食料である魚を増やすことが急務である。魚を増やすための手段のその一は、卵から稚魚を孵して放流して保護する。しかし、これができるのはほんの一部の魚である。他の、大多数の魚について、人間ができることは、人工魚礁と投石より他にない。 投石が良いのか人工魚礁が良いのか、費用対比効果が論じられた。人工魚礁の効果を調べる。潜水して調べる。見てくる。確認してくる。1958年頃それはスクーバの役割になった。僕が大学を卒業する頃であり、僕が潜水してする仕事、ライフワークの一つになった。 1970年代、沿岸漁業整備開発法という法ができて、人工魚礁の設置が加速された。全国津々浦々、日本列島の海で、天然の礁、磯がないところは人工魚礁で埋め尽くそう。海の万里の長城的プロジェクトである。  ここから、波左間を例にとって話を進めよう。内房、館山周辺は良い漁場だが、元来岩礁地帯が少ないい。波左間にも高根と呼ばれる良い自然礁があるが、その規模は小さい。1981年、水深10ー15m地帯に80cm角の人工魚礁ブロック192個が投石のように入れられた。乱積みである。これは、僕の好きな魚礁で、魚もイセエビも多く、水深が浅いので、のんびりできる。今度、3月23日にはここに行こうと思っている。 続いて、1983年、80センチ角のやや沖に車の廃タイヤを束ねたタイヤ礁が入れられた。車の時代である。タイヤは腐らない。錆びない。半恒久的である。魚礁として処分できれば一興両得である。幸いにして、と僕は思う。タイヤの何か成分がほんのわずかだが海を汚染する。ということで、日本全国の海がタイヤで埋め尽くされることがなくなった。良かった。 タイヤ礁が続いたならば、1998年に設置された今回の番組のターゲットであるドリーム魚礁も産まれなかった。 ドリームは2m角のコンクリートブロック165個を熟達した作業ダイバーでもある波左間海中公園の主である荒川さんが、枕設作業の誘導をして6列3段にきっちり積み上げたものである。 適当に水面から落下させた乱積みと、ダイバーが誘導してきっちり積み上げたものとどちらが良いなどと考える。魚にとってどちらが良いか?、魚がどちらでも良いというならば、手間のかからない乱積みの方が良いに決まっている。だから、立方体のコンクリートブロックのほとんどが乱積みであり、整然と3段に積まれているのは、ここで見るだけと言って良い。 人間、ダイバーにとっては、整然と積まれている方が断然良い。奥まで入って行かれる。奥には美しいソフトコーラル(うみとさかなど)が生えていて、竜宮城である。だから、ドリーム。  岸から沖に向かうに従って、コンクリート立方体の形が大きくなっていく、まず。0、8、そして、ここではドリームの2m角だが、他所では、1。5m角というのが角型魚礁の主流であった。整然と積み上げるのが面倒ならば、一個を大きくしてしまえば良い。3m角、6m角、やがて8m角というのが出てくる。大きくなると壊れやすくなるので、芯に支柱がX字型に入っている。これは、ある魚礁メーカーの特許になっていて、FP魚礁と呼ばれている。 波左間では、2011年に3m角20個がドリームの隣、6m角10個がその少し沖に、これは2009年に入っている。FP魚礁である。 これらのコンクリートブロックは岸から沖へだんだん大きさを成長させていったのだが、これとは別に、2008年、やや沖に離れた水深45mのところに高さ15mの鋼製のタワーのような魚礁、同時に水深35mのところに高さ12mの同じく鋼製のタワー、が入れられた。2009年に高さ9mの鋼製の大きな魚礁が水深35mに入った。これがC魚礁と呼ばれていて、今回、28日に潜る目標の魚礁である。その翌年2010年に高さ6mがやや岸に寄った水深30mに入っている。
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 これら一連の鋼製魚礁は、コンクリートが岸から沖へと進んで行ったのとは逆に、沖から岸へと年を追って枕設されている。これは、沖を通り過ぎようとする回遊魚、ブリ、カンパチ、ヒラマサなどを定置網に誘導しようとするランドマーク、ステーションの役割を果たさせようとしたものである。この効果は確かにあると漁協では、言っている。 深さが深くなると魚礁も高くならないと魚を集める効果が少ないという考えがあるのだが、高くするとコンクリートを積み上げるのでは、費用の点で無理である。そこで鋼製になったものだ。 これら誘導を目的とする魚礁は、定置網の延長線上で半ば漁具として位置づけられている。 魚礁の役割は大別して、魚を増やそうとする増殖型と、この漁具型に分かれる。ここ波左間ではコンクリートは増殖型、鋼製は漁具型と考えて良い。そんなにはっきりと効果が区別できるものでもないが、コンセプトとして分けて考えてられている。  波左間はこのようにすべての型の魚礁が見られる。人工魚礁の展示場といってもいい。人工魚礁の研究は人工魚礁の歴史でもあり、今の研究の関心は、遙か沖合に設置される超大型の魚礁に移ってしまっているが、魚礁の研究をするには絶好の場所である。  これを全部このようにコメントしたわけではないが、だいたい、こんなようなことをしゃべった。  さて、だいぶ道草をしたが、☆★☆ 潜るところは、大きな鋼製の魚礁、高さ9mの魚礁Cだが、潜ってみると9mどころではない、もっと巨大に見える。  フルフェースマスクで、オーバーウエイトだが、オーバーは覚悟の上だ。潜り込めなかったら、収拾がつかない。オーバーは何とかなる。 潜る寸前、フルフェースマスクをつけるとき、顎のバックルが壊れてしまった。バックルの予備を持っていない。一度、岸まで船をもどしてバックルを変えた。これを経験を積むという。 潜るとき、いつでも恐怖心がある。怖いのだ。怖くても躊躇することはない。常に突撃なのだが、怖い。遠い昔の若い頃、恐怖心とは、どんなものなのか知らなかった。つまり、なにも考えていないということになる。幸せだったが、そんな状態の時に人は死ぬ。幾つかの危機一髪を助かって生き残ったことを幸運という。恐怖心を感じ、それを大事に思うようになったのは、50代からだろうか、以来、常に怖い。  頭から飛び込んで、すぐに潜降ロープを掴む。荒川さんが、ロープを近くしてくれたので助かる。ロープがあるから墜落はしないが、ロープを掴んでも、体が安定していない感覚がある。筋肉と平衡感覚が衰えているのだ。加齢のためだ。下手なのではない。と負け惜しみを言う。 深さ30m、高さ、見た目で12m以上あると思うのだが、9mの鋼製の魚礁だ。魚礁の上で、しゃべるコメントを考えていたので、それをしゃべったつもりだが、どうだろう。はっきりとした記憶がない。
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 魚礁の一番下まで行って、井田さんのカメラに写る。さかなクンは、NHKの決まりで、出演するタレントは、水深20mまでとか、上の方にいる。ツーショットを撮らなければいけない。体の自由がきかないオーバーウエイトの身で、さかなクンを追う。魚礁の中をくぐり抜けて、井田カメラが良いポジションに来たのだが、さかなクンはカメラに気づいていない。足を引っ張って止めた。止めると直ちに写されるポーズになる。これはたいしたものだ。
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 もう一回、魚礁の上面で、彼が何かをGOPROで撮っていたので、このまま引き留めてカメラを待ち、これも絵としては決まったと思う。そんなこんなで、自分のコメントがない。さかなクンへの呼びかけだけだ。まあ、仕方がないだろう。残圧が80になった。深いので減圧停止は必須と考えて、浮上にかかる。 浮上も恐ろしいのだ。波がさほどにないので何とか自力で立ち姿勢で船に上がれると良い。 フィンをはずしてもらって上がろうとすると、膝が伸びない。重くて立てないのだ。8キロのウエイトベルトをはずしてもらって、梯子を登り、支えてもらって舟に乗った。  昼食には、イカ刺しとカツ丼という、ミスマッチだが、おいしく食べた。さかなクンは撮影が終わったら、プロダクションだから、付け人、担当プロデューサー、自社の車でさっと帰る。また、いつかどこかで、(好きな言葉)
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3014  スクーバ 事故の歴史5 講習の歴史

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 ここまであげてきた事故の例では、捜索などにかかった費用は遺族が負担しており、遺族がクラブを訴えたり、してはいない。水中銃で魚を追い回していて行方不明になって、その責任をクラブに向けるというのは、できにくいが、とにかく、訴えたという例を聞いたことがなかった。
 魚突きでなくても、ダイビングの事故で、主催者、たとえば倶楽部、連盟、あるいは指導員、などの責任を追及して訴えるという文化は、揺籃期の日本のダイビング社会にはなかった。僕たちが日本潜水会を作り、潜水科学協会が支部制度を作った名残の関西潜水連盟らと合同して全日本潜水連盟を作ったのが1970年、その全日本潜水連盟で、安全対策協会という組織を別に作って、安全対策費を積み立てた。それは、事故が起こった場合の捜索費用などにあて、その対策費を引き出すためには、詳細な事故報告が必要であった。そのときの事故報告が残っていることはすでに述べたが、そして、もしも、事故が起こり捜索などが必要でなかったばあいには、報告書の提出で、お香典に相当するような見舞金が100万だか200万だかが送られた。
  
 そのころのそのような考え方を僕はまだ引きずっていて、陸上よりも危険であることが認識され受け入れられて、ダイビングを始めたものであり、その危険な環境の中で事故が発生したとして、その責任を自分以外の誰かに転嫁するということはおかしいと思っている。
 ただし、誤解のないように言って置くが、これは遊びの世界、レジャーダイビングの世界のことであり、労働、事業者が労働者を雇ってする潜水作業はまた別である。これは労災保険でカバーされるが、高気圧障害防止規則などの規制を受ける。なお、労災保険は雇用者、事業者が加入して保険料を支払って居なければならない。労働者の事故については、また別に論じるとして、レジャーダイビングについて、これは雇用関係などによって強いられるものではなく、あくまでも自分の自由意志で危険があることは承知してやっていることだから、自分の責任であろう。と思う。
 これから、高齢化社会を迎えて、高齢者がダイビングを行っての死亡事故が増えていくであろう。後期高齢者、これは自分も含めてだが、それほど遠くない先に死ぬ。ダイビングを続けているならば、水中で死ぬこともかなりの確率である。自分が心配しているのは、そのとき、一緒に潜っている仲間、あるいは組織に迷惑をかけることが心苦しく、さりとてダイビングをやめたら生きていく力を失ってしまう。人間の身体とはうまくできているもので、死ぬより先に歩けなくなる。立ち上がれなくなるだろうから、タンクを背負って、重いウエイトを付けて立ち上がれているうちは大丈夫だ。そして、自分の動物的な、死についての予知感覚をしんじている。これが信じられなくなったら、だれも潜れないだろう。とにかく、若い時から、死のことばかり考えている。だから、ここまで生きたと思っている。突然死についていうならば、若い人も突然死するからイーブンだ。とか思っている。若い人の突然死にどれほど悩まされたものか。
 とにかく、その心配であって、誰かの責任を追及しようとかは、爪の先ほども思っていない。これは、65歳を越して、ダイビングを続けるすべてのダイバーに言えることなのではないだろうか。今、65歳と書いたのは、保険の世界で、65歳で線が引かれているからで、ダイビングの自己責任もそのあたりに線を引いたらと思う。
 それは高齢者のことであり、一般のダイバーではどうだ、というとやはり、死は自分の責任だと思う。
 今、60歳以上の人が多い、スキンダイビング倶楽部をやっているが、もし何かがあって主催者の僕を訴えたところで、どうにもならない。高齢になり、高齢になったが故の事故の責任を誰にも転嫁できない。
 「海で逢いたい」という写真展があるが、「海で死にたい」ダイバーがこれからどんどん出てくる。もしも、その責任を若い人に負わせるならば、海に入れてもらえない。
 それは、ともかくとして、若い人の場合でも、たとえば神子元島に行く、パラオのペリリュウーコーナーに行く、といってこれも自分の意志で行くのだから、流されてもすべて自分の責任だろう。
 
 それでは、講習はどうだろうか、講習の場合だけは、インストラクターの責任だと考えている人が多いと思う。しかし、その講習中の事故も当初は自己責任だった。
 事故の歴史は、講習の歴史、講習を受ける人と、講習主催者とのかかわり合いの歴史、と言う一面がある。講習を抑えてしまえば、あとは自ずとわかってくる。
 
 まず、ダイビングの講習は、東京水産大学小湊実習場で始まった。学生だけではなく、学生と同じようなプログラムで、学生以外の希望者を対象にした講習会もあった。日本潜水科学協会が発足したのが、1957年の夏だが、この講習が潜水科学協会の主催だったか、どうかわからない。しかし、その当時、東京水産大学と潜水科学協会とは一心同体のようなものだった。水産大学の学長だった佐々木忠義先生が、潜水科学協会の会長でもあったのだ。一つの理想型であった。
 この1957年から1996年あたりまでの40年あまり、日本のスクーバダイビングは、日本潜水科学協会、そして、それが変身した海中開発技術協会を軸として展開する。まあ、視点によってそれは変わるが、とにかく、軸があった方がわかりやすい。
 この軸に沿って、見ていくことにする。   1957年、日本潜水科学協会が発足した年、僕が東京水産大学三年生の時に潜水実習を受けた。これは水産大学の単位にはまだならなかったが大学の実習だった。その前後にこの潜水科学協会の講習があった。NHKのカメラマン竹内庸がまだ学生でこれに参加している。これ以前に日本でスクーバダイビングの一般人むけの講習はない。1953年が正式に日本にアクアラングが入ってきた年で、54年に水産大学の学生の講習が小湊であり、さっそく死亡事故が起こったことは、すでに述べた。ダイビング講習は、事故を乗り越えて行くのだ。 その小湊での講習の他に、江東楽天地の屋内プールでほぼ同じ講師陣で講習が行われている。これは水産大学は関係していなかったようだ。そして、その講習で死亡事故が起こっている。もしかしたら、その第二回かもしれない。後藤道夫は、この江東楽天地の講習でアクアラングを始めている。もしかしたら、後藤道夫の方が、僕よりも何ヶ月か早いかもしれない。1957年の7月のことだ。もしも、今、後藤道夫が生きていれば、江東楽天地のことが聞けるのだが、残念なことに今はもういない。
 そして、この事故の記録が一切ない。講師陣は、僕の師匠ばかりだ。ダイビングを教えられるのはこの人たちより他にいない。菅原さんを筆頭にした日本潜水科学協会のグループだ。
 そして、この楽天地の確か二階だったかにあったプールでの講習は、以後行われていない。
 江東楽天地の建物の下には、3月9日の下町大空襲での焼死者が埋まっているそのたたりだなどという噂もあった。
 水深1。2mぐらいの競泳プールで、しかも第一回だから、マスククリアーぐらいしかやっていないだろう。空気塞栓にもなりようがない。事故の原因などわからない。ただ、死んでしまったのだ。やはり、祟りだろう。そして、この事故のこと、本当に噂だけの都市伝説なのかもしれない。
 
☆★☆
 日本潜水科学協会の講習も次第に回数が増えて行く。これらの詳細は、機関誌の「どるふぃん」を見れば、今でも克明にわかる。
 初期の講習で1958年7月 どるふぃん 2ー1
 以下原文
 第五回初級講習会
 ※1957年に発足、から数えて5回ということ。 昭和33年6月21日22日
 場所、東大室内プール
 講師 菅原久一 宇野寛(僕の恩師)神田献二(水産大学漁業科の先生)吉牟田長生(東海区水産研究所)梨本一郎(医科歯科大学 で潜水医学の嚆矢)
助手 原田進(僕はなぜか助手に居なくて、僕のバディ:僕よりランクは下)上島章生(後の日本アクアラング社長)松原陽二郎(後にカナダで定置網をやり成功する)他に伊東ひで子、伊東栽子 乾康子(東大教授夫人)伊東淳子(アイドル後に、マリンダイビングができる前の水中造形センターの多分、第一号社員)
 受講者は、22名名簿省略
 受講に先立ち、6月19日、東宝診療所にて健康診断
 講習内容
 第一日に遊泳力、素潜り能力検定、スキューバ野間少なし潜水まで行った。同時に菅原講師よりスキューバの構造機能などの座学があった。
 第二日は、日曜日なので午前、午後にわたり、みっちりスキューバの基礎訓練を行い、昼休みを利用して、梨本講師より、潜水生理ならびに救急法の話があり、その後、伊東、乾氏などにより、溺者救助、人工呼吸などの実演がなされ(このおばさんたちは日赤の救助員だった)潜水の安全教育が強調された。
 ただ、水温が低かったので、時々休まなければならないのは残念だった。
 ※まだウエットスーツはない。
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           神田 献二先生
 中級講習 第4回
 ※中級:海での講習の4回目だ。原則としてプールでの講習修了者を対象にしているので中級だ。 1959年 12月号 どるふぃん より
 ※僕は59年の3月水産大学を卒業して、東亞潜水機に入社して、日本潜水科学協会とは縁が遠くなっている。
 
 7月29日
 講師 海老名謙一 神田献二 菅原久一
 助手 増田辰良(水産大学、実習場長)伊東秀子
古川(実習場 技官)永持(後に舘石さんの助手)笹原(潜水部後輩、後に、ブリジストンで土肥の101、初代場長)
 ※海老名先生は、魚類学教授、すでに定年間近であったが、スポーツマンであり卓球が強く、僕が大学入学時の水泳実習で、アクアラングのデモストレーションをされ、僕はこれを見て、自分の将来を決めた。
 が、別にダイビングの専門家ではない。小湊実習場での講習なので、名誉講師で参加されていたのだろう。 7月30日快晴 (第一日)静穏
 受講生18名 事故無く揃い、元気に作業開始
 午前岸壁水深1。5m付近にて呼吸停止2分以上の記録もでる。
 ※息こらえのテストをしたらしい。
 200m遊泳
 A班B班に分かれて機材試用に移る。
 マスククリアー ホースクリアー マスクなし潜水
 潜水テスト中 小川君は48mにて(おそらく水平潜水)意識不明となり直ちに救助、舟に収容し(
1分20秒後)人工呼吸、直ぐに呼吸回復し、岸壁到着3分後には意識回復し、大なる事故にならなかったのは幸いであった。天津小湊村上病院の医師到着治療を受けたが、肺に若干の浸水があり、肺炎を警戒して安静の要ありとのことだった。本人は至極元気であったが、夕刻入院して大事をとった。
 小川君は前夜一睡もできず体力衰弱の上に無理をしたため意識朦朧の陥り酸素欠乏直前の経過をたどったものとおもわれる。
 午後 午前の科目復習、及びマウスピースの交換(※バディブリージング)一部の人は着脱を終わる。
 夜 19時ー21時 学科 潜水の生理と注意事項 7月31日 快晴 静穏
 午前 全員着脱終了
 午後 潜水台(コンクリートのベース)にて総合動作及び6ー7mの三角コースを泳ぎ、耳抜き、計算問題など、水深6mにてマスククリアー
 小川君 1500退院し、本人は直ちに講習に復帰の希望であったが、東京より見舞いにこられた実兄の助言もあり、講習を断念して帰京。
 ※ これとほぼ同じ事故?をこのあと10年後、潜水部13回を同じ小湊でコーチしていて、起こす。このときも呼吸停止後2分で回復、入院したが、同じ事故の情報を頭に入れていたならば、潜水しての息こらえテストなどは行わなかっただろう。これが遠因で僕は水産大学潜水部のコーチを辞める。 夜1900ー2100 小湊周辺の海中生物についての講話 8月1日 快晴
 午前 潜水台より三角コースで総合潜水 水深8m
 昼食後 機材整備 
 1400退場 1650小湊発 1930 東京着   
 これが、1959年当時の日本潜水科学協会の講習である。二日間のプール講習、三日間の海洋実習で水深8mまで潜る。

0317 スクーバ事故の歴史6 ドルフィン

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 1957年に日本潜水科学協会が出来、1966年に海中開発技術協会となり、1996年、海中開発技術協会が消えるまで、40年間、日本のスクーバダイビングは、この団体を軸にして動いていた。
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 事故の歴史、とは言い難いが、もう少し、「どるふぃん」を追って行こう。人の記憶は、正確ではない。自分についても同様で、ここから先、少し綾が出てくるので、活字になったもの、活字になったことだけを積み重ねて見て行きたい。1962年 春号 第五巻2・3合併号までが、小さい判A5サイズであったが、1962年夏号 第6巻1号から少し大きいA6サイズに変わる。ここで台頭してくるのが 田辺栄蔵さんと工藤昌夫さんである。田辺さんは後楽園の御曹司でお金持ちであり、ヨット乗りである。僕は、その後田辺さんの書かれた、海のヨット中心、少しダイビングの随筆集「キャビン夜話」が好きで、全巻(5冊)、今の自分の書棚に入っている。そんなことで、後には親しく話をするようになるが、1962年当時は別に親しくはなかった。工藤さんは科学評論家でありラジオ作家、筆で身を立てていた。そういう関係の仲良しグループだった。だから、この62年夏号からは、工藤さん、田辺さんの色彩が強くなってくる。
 僕は、と言えば、日本水中科学協会の学生会員第一号、会員番号80 東京水産大学では、トップのダイバー(この自負で危うく命を失うことになるのは事故例で書いたが)自意識ではダイビングのトップのつもりである。工藤さんの会員番号は295、田辺さんはもっと後ろだ。
 しかし、僕の就職した東亞潜水機は、日本潜水科学協会の中心でり、大学地代にお世話になった菅原さんと折り合いがわるい。、菅原参は東亞潜水機でクーデターを起こして退社している。日本潜水科学協会に繁区出入りすることはできない。その鬱屈が、1963年、舘石さんと組んでやる100m潜水の動機の一つだったのだろう。
 1962年夏号は、真鶴での「アクアラング潜水お断り!」がメインの記事になっている。
 「協会だより」協会のニュースを集めている後記のだが、これが、ここからの協会、つまりアクアラング界の動きのランドマークである。この62年の7月、関西支部が発足している。ほぼ同じ時期に関東支部も発足して、関東支部の会長は森清衆議院議員、牛耳っているのは安東さん、日赤の救急関係で、協会に入り込んできていて、僕はあまり協会には行けないので、口をきいたことがない。話せば、気が合ったかもしれない。支部制が引かれるとともに、初級講習も中級講習も関東支部が行うようになり、中級修了者には、修了証が出されることになった。日本潜水科学協会も関東支部も事務所は、大塚に事務所を構えた日本アクアラングの社内にあり、日本アクアラングの東京支社長であった山中鷹之助氏が常務理事になっている。つまり、日本潜水科学協会と日本アクアラングは、一つのものと見ても良かった。
 日本のアクアラング界の軸が日本潜水科学協会にあると言う所以でもある。
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       ええっ、なぜこの写真が表紙になるの?そのころの僕でさえそう思った。
 62年 秋号
 関東支部が正式に発足した。
 
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 6・4 63年春号
 「どるふぃん」は季刊の予定だったが、なかなか年に4回は難しかったのだろう。並べて見ると不規則だ。
 関東支部は、講習会の他に練習会も何回か開催している。講師陣は菅原、大道、浅見、南里、竹内、遠藤、土橋、荒井 もちろん、僕の姿はない。浅見、南里、竹内、遠藤、水産大学の同級及び後輩である。
 どるふぃんで東亞潜水機が紹介され、三沢社長と並んで僕の写真がでた。どるふぃんから見て、内輪ではなくよその人である。 関西支部は、京都地区、大阪地区、神戸地区、姫路地区、中京地区、四国地区、地区割りにして各地区に幹事を置いた。
 
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 7・1 63年夏
 初級講習会を7回、中級を4回開催し、練習会を二回、旅行(ツアー)を一回、フーカー潜水講習会、などを行っている。
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 7・2 63年秋
 素潜り大会を行ったが参加人数は7人であった。
 関東支部の支部報の名前が「碧泡」と決定した。
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 7・3 63年冬
 63年夏、舘石さんと一緒に挑んだ大深度潜水の記事が掲載されている。
 初級講習は第30回を迎え、中級は14回になっている。
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 7・4 64年春
 クストーのコンシェルフ計画、海底居住の報告が載る。
 田辺さんのダイビングヨット 蒼竜が紹介される。
 僕たちの大深度潜水の二回目が掲載される。 新宿のトウキョウアクアラングサービスの広告が掲載される。
 セコニックマリン 露出計が発表される。
 関東支部は千駄ヶ谷プールで練習会を5回
 日本クレッシュウサブの紹介 そのころのダイビングショップは、いわゆるアクアラング屋さんで、トウキョウアクアラングサービス、池田和一郎さんの太平潜水 クレッシュウサブ、真鶴の後藤道夫のダイビングセンターなどが、日本潜水科学協会と同じような講習を、数人を対象に行っていて、倶楽部を作ってツアーなどもしていた。柔道や剣道の町道場のようなものと思えば良い。収益は機材の販売であり、ツアーは実費のようなものだが、機材をそこで買うことが常識だった。なお、機材はボンベも買はなくてはならない。ボンベが全部レンタルになるのは、まだ先のことである。車も持たないのに、ボンベを買うのだ。車を持つ人が倶楽部のリーダーになる。
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8・1 64年夏
 表紙は八丈島の底土三又 モデルは岡田真さんの若い日、撮影は舘石さんだった。 この号で工藤昌夫さんの下田から伊豆大島まで潜水し行こうという、長距離潜水の報告が掲載されている。下田から大島までおよそ40キロ、その間を黒潮が流れているので、20キロ幅の黒潮を横切れば大島に到着する。8リットルのボンベを背負い、空気が無くなったら浮上して交換する。12チャンネルの放送企画で、田辺さんの蒼竜が母船になって、カメラマンも田辺さんだった。
 朝の5時から泳いで午後の3時まで、道半ばで予想通りギブアップしたが、有線の通話機を浮かべて通話しながら流れていく、ユニークな、工藤さんならではの冒険だった。 この号で、日本潜水科学協会は、写真部、水中スポーツ部、研究部、訓練部の部制度でやることが発表された。水中スポーツ部とはスピアフィッシングであった。スピアフィッシングが違反であることはわかっているが、ラング普及の芽をつぶしたくないという発想だった。スポーツ部のヘッドは工藤さんである。

8・2 64年秋
 竜宮城が表紙だった。
 この号で僕は、研究部のページで「開放式スクーバの型式と特色」と言う記事を書いている。その当時、レギュレーター設計の第一人者だったのだ。
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8・3・4 65年春
科学討論会が主な記事である。
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9・1・2 65年秋
潜水入門講習(名称が変わっている) 4回を予定する。30回まで連続してきた初級講習、中級講習の予定が発表されていない。
 そして、協会だよりより、関東支部が消えている。協会だより、のページもない。
 延々と実績を積み上げてきた関東支部が忽然と消える。
 このことを書くために、僕も延々と書いてきた。 

0322 スクーバ事故の歴史 7 水中科学協会の消滅

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 関東支部が消滅した。一般会員には特別の予告も無く、消滅した。自分は関係者でもなく、日本潜水科学協会の理事でもなかったから、その詳しい状況を正確には知らない。会員ではあったが、納得出来る公式の予告、通知を受け取った記憶がない。情報はすべて伝聞である。活字になり公表された情報から、確認したい、と機関誌であるドルフィンの中を探した。どるふぃんの「協会だより」にもない。どるふぃん に公表されている理事会議事録にもない。  こんないきさつは出版するダイビングの歴史には、掲載しない。しかし、僕ももうそろそろだ。自分が書いて置かなくては、という気持ちがある。
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 関東支部消滅後 どるふぃん 最後の号は65年(昭和40年) 水中写真特集号であった。水中写真を並べてお茶を濁しておけば、うるさい追求に煩わされることがない。これは僕の勝手な推察であって、そんなことはドコにも書いていない。水中写真部の人たちは、一区切りとして納得するだろう。個人プレーの世界なのだ。 編集後記は、水中写真部長木村貞造さんが当たり障りのないことを書いている。これだけを読めば、次号66年があるようにおもえる。 なお、木村さんは銀座のみゆき通りにあった「ジュリアン・ソレル」というファッションブティック&喫茶点のオーナーである。古き良き時代の銀座、最先端のお店であった。 そう、真珠とダイヤモンドの「みわ」の斜向かいだった。  組織の連続、人脈の流れをみるには、役員を見る。 この号、どるふぃん では、会長 猪野峻 副会長 菅原久一、木村貞造、監事 神田献二、常務理事 山田尚文 吉牟田長生 会計 佐藤賢竣(旭潜水研究所:旭式マスク)理事 広中千鶴子、伊東ヒデ子、浅見国治、梨本一郎(医科歯科大学)大道弘昭(東京都教職員)池田和一郎(太平潜水)遠藤徹(浅見さんと同級、僕の一年下、当時旭潜水、後に福岡潜水)宇野寛(僕の恩師)田辺栄蔵 舘石昭 伊藤則美(舘石さんと当時肩を並べていた写真家)L・E カーン(歯医者さん)工藤昌男 昭和40年 1965年の役員である。  ここから先の経過は、社団法人海中開発技術協会創立30周年記念誌を見ていくことになる。 海中開発技術協会は昭和41年度(1966)創立で、それから30年後この協会が事実上消滅するときの記念誌である。

 この誌の巻頭に旭潜研の佐藤賢竣さんが「安全潜水の啓蒙でスタートした」と題して、日本潜水科学協会から海中開発技術協会になるまでのことを書いている。引用する。 日本潜水科学協会は、「事業の内容としては、主として潜水講習会など多岐にわたり、あげれば枚挙にいとまもないので省かせていただきますが、長きにわたって役員はじめ皆さんが献身的に目的達成に向かって奉仕され、種々の問題を克服されて参りました足跡は高く評価に値すると思われます。 また昭和39年には安東宏喬理事同伴で、私は副会長の立場で正式に自民党の衆議院議員、森清先生に関東支部長をお願いに行きましたところ快諾いただき翌年には会長に就任していただきました。ちょうどこの頃より時代背景は様々な動きがにわかに浮上してきました。主な者をあげれば、先進国に遅ればせながら大陸棚の資源開発の重要なるにかんがみ、当時の佐藤栄作首相とニクソン会談のなかでも海洋開発協力体制のお話し合いがなされ、また河野一郎建設大臣の海洋鉱物資源に併せて海洋蛋白資源の開発を力説された。 また、一方では大衆を魅了する「海底二万哩」や「沈黙の世界」など上映され、多くの人々の視線は海洋に向けられた。 こうして当協会は41年(1966)11月8日をもって科学技術庁を所管とする「社団法人 海中開発技術協会」として総理府の認可となった。 続いて官・学・民合同のシートピア(海底居住基地)計画が着々と進められました。 昭和45年(1970)「海洋科学技術センター」が法令化され、現在の神奈川県夏島を基地とする現在のものが建設される運びと相成ったわけであります。 その時点で母体である当協会の不要論も一部に出され、存続の是非を問われましたが、当時にしてみれば、自然増の潜水人口を野放しに出来ず、存続希望者が圧倒的に多かったので、センター分設後もそのまま存続する事になり今日にいたっておるわけです。 昭和32年(1957)「日本ダイビング協会」が発足し以来満39年、当協会が法人化して以来、30周年を迎え、これまで築かれた基礎の上に立って今後一層の発展を祈ります。」 これが、関東支部消滅 日本潜水科学協会も事実上消滅してから30年後の挨拶であった。 関東支部消滅の理由は何一つわからないまま、「沈黙の世界など上映され、多くの人々の視線は海洋に向けられた。こうして当協会は科学技術庁を所管とする法人になった。」

 沈黙の世界は、1956年だったと思う。そこから、日本潜水科学協会の10年は飛び越して、こうして海中開発技術協会になったと説明されても「はああ?」であるが、とにかく、日本潜水科学協会がまずあって、海中開発技術協会がそれに変わった、つながりは書いてある。 文書としてはこれだけなので、あとは、類推するほかない。 このページには、海中開発技術協会のスタートの写真とともに、1968年の日本深海プロジェクト設立の写真が載っている。 佐藤さんはじめ、日本潜水科学協会の主要メンバーは、深海、海洋開発の今後に着目してその実験を始めようとしていた。そのあたりの細かい経緯はしらないが、今後の日本の海洋開発の母体を日本潜水科学協会が引き受けないか、と打診があり、折しも深海プロジェクトも発足しようとしている。それに乗った。 一般の講習や、レジャーダイビングの安全な進展を目指す、関東支部、関西支部は不要になった。ならば、切り離して独立させれば、良いのでは、と誰でも思う。どうして、そうしなかったのか、当事者ではなかったのでわからない。  これを書いて、いや、違うのだ、と当時の事情に詳しい、当時の理事の誰かとかが、語ってくれれば、喜ばしい。 

0324 0323 波左間 人工魚礁

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323 波左間 人工魚礁
 
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 この頃は、2時間ピッチの眠り 11時ー1時 1時ー3時
3時から4時 4時半 起床
 6時半福チャンの車で出発、福田、鶴町 同行、
 8時前に波左間着、のんびり雑談  サンファンのアマルフィ オールハイブリッドスキン着心地は最高だ。脱ぎ着がプレッシャーにならない。 0。8角の魚礁群 ここではニューパラダイス、ニューパラと呼んでいる魚礁に潜る。
 80cm角の美しい魚礁だ。
 ウエイトは4キロのベスト、8キロのベルト、
 80歳になってからは、ウエイトとの戦いの様相を呈している。 潜水開始 1020 最大水深 23.2m 潜水時間 25分
 ミギマキが5尾で、一緒に食事中? そしてミギマキのが、群れ泳いでいる。10-15尾ぐらいか。
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 腰の8キロのウエイトがずり落ちて、気持ちよく泳げない。端の鉛玉とバックルの間が狭いので、締め付けられない。よくやる失敗。鶴町と荒川さんがなおしてくれる。
 ニューパラのヤギのきれいなところにきた。今日は気に入ったところがあれば、そこで腰を落ち着けた撮ると言っておいたので、腰を落ち着ける。魚礁の窓、入り口がきれいなヤギと、海綿で塞がれている。そこから、メバルでも顔を出してくれれば、と思うが、思うようには行かない。ゲージを見ると40、この頃は、50が戻る圧力だ。すぐに浮上しよう。
 バディの福田君に上がるとサインする。ロープをたどって、沈んでいるブイのところまで来るが、このロープは、水面まで行かない。福田君が別のロープを指差すので、そちらに向かう。
 人工魚礁潜水は安全度が高い。何時でも浮上すれば、頭の上にはボートが居る。
 今のぼくでは、遠くまで泳いで行き、戻ってくるのはど、ドライでは無理だ。 途中の3mで停止するのだが、ダイブコンピューターを見ると、99 浮上可のサインがでている。それでも2分は止まるのが安全停止だが、上がってしまった。さて、梯子に取りつくが、この重さでは到底上がれない。ボートの上にだれもいない。
 梯子に掴まって波に揺られて待つ他ない。かなりの揺れだ。この秋まで、ウエットスーツならば一人で上がることができたのだが、ドライでは無理だ。そのうちに荒川さんが浮いてきてくれて、手助けで、ウエイトとタンクを上げてもらって、舟の上に上がった。鶴町が上がってくるころ、吐いてしまった。船酔いか?船酔いならば、40年ぶりか。
 吐くと、消耗する。2回目の潜水はどうしよう。いつも一回目が終わると2回目を止めようと、思う。でも、それではトレーニングにならない。
 
 ドライスーツのハイブリッドスキンは、軟らかくて、いつもは上がるとすぐにドライを脱いで、待つのだが、脱がなくても、そのままで快適だ。水中でもスムースに潜降できた。
 鶴町のシェルドライは、浸水した。いつみても、浸水しているようだ。シェルの方が動きやすいというのだが、厚着をすれば、ウエイトが増える。ウエイトを少なくするために薄着をすれば、寒い。その辺のバランスが難しいのだろう。
 僕はネオプレンジャージで通す。ハイブリッドスキンは、苦にならない。

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 二回目の潜水は、お宮参りにした。僕としては、とにかく潜ろう。 今度は、ウエイトベルトを2キロ減らして、6キロにする。
 8キロではオーバーウエイトにすぎる。ベストが4キロベルトが6キロ、レッグが1.7キロだ。
 まだ、少しオーバーだが、とにかく、これでスムースに潜降できて、形は良くないが中性浮力で泳ぐことができた。もはや、平衡感覚がダメになっているので、水平姿勢は難しい。数年前、プライマリーコースでJAMSTECのプールで練習し、それなりにできたのだが、身体が忘れてしまっている。
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 洲崎神社は、ステンレス製のお宮で、ピカピカに磨き上げられていてきれいだ。
 岩の下の隙間が ヤリイカの産卵場になっていて、覗き込んで撮影した。暗い影にはマツカサウオが居る。小さいのが1尾だけだった。
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  12時35分 潜水開始 最大水深 16.9m 潜水時間30分 水温は17度 
 今度は、荒川さんと一緒に浮上したので、援けてもらったが、スムースに上がれた。
 もはや、僕はドライで船に梯子で上がるのは独力ではできない。悔しいので、タンクを背負ってスクアットなどやってみるが、毎日はできない。意志が弱くなったか。 マスクは、一回目は新しい、TUSA のパラゴン 二回目は愛用のダイブウエイズの新しいマスク アイアイ(この名前嫌い)にした。パラゴンは良いマスクで、浸水もしないし、視界も広い。しかし、浸水しない、視界が広いということは、アイアイでも同じだから、使い慣れて自分の顔を一体になっているマスクのほうが楽だ。アイアイは顔に合わせてサイズを選ばなくてはならないので、ワンサイズではパラゴンがベストマスクの一つだろう。
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 一日置いて、明日25日はお台場の潜水

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 お台場
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ヒメホウキムシ
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               カミクラゲ
 体調が悪いとき、泳ぐと治る。潜れば元気になる。そんなわけで、23日の波左間では、何とか潜水したけれど、思うように身体が動かなかった。0、8m角の人工魚礁に久しぶりで訪れる一応の目的は達成したが、満足できる状態では無かった。次の24日、辰巳プール、ラッシュガードを忘れて裸で泳いだ。元気は戻ってこなかった。他にも気にかかることがあったので、落ち込んだ。 そして、25日、お台場。つまり三連戦で元気を取り戻す。(取り戻した。)

 6時起床、7時30分、機材をマーチに積み込む。タンク4本、ウエイト多数、ゴムボート、ダイビング道具。カメラ機材。ドライスーツ、ドライスーツは新しい。これだけが、楽しみ。サンファン提供のハイブリッドジャージ。柔らかく、よく延びる。古いドライは海洋大学の依田君が着る。 これだけの荷物を一人で積み込むと、かなり消耗する。 幸いなことに、お台場はいい天気。 80歳過ぎてからのダイビングは、ウエイトとの格闘だ。波左間では8キロのベルトが腰からずり落ちそうになった。今日は、7キロのベスト。5キロのベルト、1、7のレッグで行ってみる。 ベルトを4キロにしたいのだが、お台場の水深は最大で3m、1、5m以下の岸辺で撮影観察する。5キロにしておいた。 BCは、もう30年近く前のアポロのプレステージにした。今使っている新しいBCがどうもバランスが悪い。実は、アポロはインフレーターバルブが不調だが、グリースを塗りつけたら、何とか大丈夫。 今日のメンバーは、常連、中心の多留さん、尾島夫妻、三ツ橋、小林、依田、それに共同通信の京極さんと、大西の弟子だという西沢さん。みんなが進発してしまってから、支度をのんびりやる。古いドライは、着るときに息切れしたのだが、ハイブリッドジャージは、楽だ。 カメラはOlympus TG-4のハウジングの上にウエアラブルカメラを載せる。お台場はGOPROではなくて、akoso かsj4000 を使う。まず、akoso を付けた。 ライトはフィシュアイのFX2500 だ。 ウエイトを着け、タンクを背負って、歩いて砂浜に降り、尾島さんに手助けしてもらって、フィンを履き、膝まで入ったら、座り込んでマスクを着け、ウエアラブルカメラ動画を回し、這ってエントリーする。 ウエイトは、ちょうどいい感じで、スーツの空気を抜き、BCの空気を抜くと、水深1mでバランスして水平で泳げる。水深1。5mー2mになるとBCにチョンと空気を入れる。まだ、バランスに慣れないので、ちょっと引きずるが、大丈夫だ。
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 とにかく、調査区域の端まで、水深1. 5から2mのコースを行く。この深さにはもう石、岩はなく、牡蛎が一面だ。牡蛎は少し大きくなり、口を開けて、生きていることをアッピールしている。ハゼの類は、まだ牡蛎の隙間の奥に潜んでいるらしく、姿を見せたのは、小さな1尾だけ、種類を確認する間もなく、潜りこんでしまった。 杭の列も同じことだが、いつもメバルを見る端の立方体の石の部分を見ると、10mm以下の、今年生まれたメバルの稚魚が1尾、あわてるようにしてOlympus TG-4のシャッターを押すが、ピントを合わす間もなく隠れてしまう。
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 戻りは、1mより浅い、水のきれいな層を泳いで行く。三ツ橋とすれ違い追い越す。  天気が良いので昼休み時間がのんびりとして、とても良い。お台場のダイビングが良いのは、こののんびりできるところなのだが、雨が降ると屋内はないので悲惨になる。  いつも、一回目の潜水を終えると、今日はもうこれで辞めよう。いや、一回で止めては、トレーニングにならないと自分に言い聞かせて準備をするのだが、今日は自然のようにやる気になっている。 尾島ママが浅い水深の石の間で、モクズガニとイシガニの大きい個体を見たという。この人は、ガイドになれる。僕が1尾だけ見たメバルの稚魚を、たくさん出てきたという。僕の見方がいけないのだろう。 僕も見て撮影しなければと、支度を始める。 エントリーえきじっとが一人では難しい。ウエイトを着け、タンクを背負って、歩いて、波打ち際まで行くのだが、一人ではフィンが履けない。 海洋大学の依田君がつきあってくれる。 さて、僕のタンクだが、残圧が80しかない。イシガニを探したいので、スノーケルでその地点まで行く。 探したが、やはり見つけれれない。残圧が40になったので、戻りながら、見ることにする。 ふと、自分がバランスよく、水平で、水深1mを滑るように(と感じている)泳いでいるのに気が付く。柔らかいハイブリッドスキンのおかげだろう。6. 5のウエットの8掛け程度の自由度がある。 戻り掛け、ナイフで牡蛎を開いて、カニが集まるのをみようと、少し待ったが、残圧が20を切ったのであきらめる。 波打ち際まで、あと8mぐらい。立ち上がる位置の岩の透き間で、メバルの稚魚、3尾を、見つけた。撮影しようとするが、Olympus TG-4のハウジングが大きいのでうまく出来ない。上に載せている、午後はSJ4000で撮ろうとする。
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 空気がこなくなったので、立ち上がり、エクジットしようとすると尾島ママが助けに来てくれる。フィンとカメラを持ってもらう。  戻ってから撮影したものを見る。Olympus TG-4はぜんぜんダメだ。メバルの稚魚まるでボケている。ピントを合わせる間とカメラをいれるスペースがないのだから当然だが。 ボケてはいるが、アコソがメバルの姿が確認できる。SJよりもアコソのほうが少しばかり良い。  お台場で使うカメラは、Olympus TG-4の上にウエアラブルカメラを載せるシステムではダメだ。 棒の先にウエアラブルカメラと、イノンライトをつけた、初期の棒カメラがお台場としては良いだろう。波左間の0. 8角のニューパラでも棒が良いと思う。 波左間の方はOlympus TG-4でも撮るので、どうしよう。ミックスする方策を考えよう。 

0327 ダイビング事故の歴史 8 日本潜水会

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      「ダイビングの歴史」2016年から、とりかかっている。2017年には出すはずが、2018年になっても目鼻がつかない。執筆をお願いしている山田さんはじめ、みなさんに迷惑をかけている。なのに、事故の歴史から日本潜水科学協会、そして海中開発技術協会 に踏み迷っている。ダイビングの歴史では、2000字、長くて4000字のコラムの下書きのつもりである。書きすぎでどうにもならない。ワークショップの企画書も頭の中にあるだけで、字になっていない。切り上げようと思うのだが、誰かが書いて置かなくてはいけないことだと思うし、ここでプッツンしてしまうわけには行かない。 事故とその背景の流れ、それとともに、自分の周辺の(あくまでも、自分の周囲を自分の視線で見たものだが)ダイビング業界の推移をしばらく書いて行こう。  前回からの続き  こうして、日本の海洋開発を担う、というふれこみで、海中開発技術協会が誕生した。例によって、その時点での役員をみてみよう。  まず、日本潜水科学協会終了時の役員をもう一度確認する。 会長 猪野峻 副会長 菅原久一、木村貞造、監事 神田献二、常務理事 山田尚文 吉牟田長生 会計 佐藤賢竣(旭潜水研究所:旭式マスク)理事 広中千鶴子、伊東ヒデ子、浅見国治、梨本一郎(医科歯科大学)大道弘昭(東京都教職員)池田和一郎(太平潜水)遠藤徹(浅見さんと同級、僕の一年下、当時旭潜水、後に福岡潜水)宇野寛(僕の恩師)田辺栄蔵 舘石昭 伊藤則美(舘石さんと当時肩を並べていた写真家)L・E カーン(歯医者さん)工藤昌男 ※(今の自分たちの日本水中科学協会と紛らわしい。潜水と水中が違うだけである。しかし日本潜水科学協会は存在していない。コンセプトとして、後を継いでいきたいこともあって、紛らわしくしている。)  次いで昭和41年(1966) 海中開発技術協会発足時の役員 会長 森清 衆議院議員 (アラメとアワビで興した房総の新財閥一族の代表的な人だ。 副会長 石井千明 田川誠一 沼田貞三 顧問  園田直 川崎秀二 田村剛 理事  猪野峻 宇野寛 太田保人(後に工藤さんと並んで専務理事)小田達太郎 神田献二 工藤昌男佐藤賢竣 田辺栄蔵 谷岡恭也 梨本一郎 横山信立  工藤さん 田辺さんを除いて、スポーツダイビング関係者 関東支部関係者 は消えた。そして、政治的社会的にそうそうたる陣容だ。  そして一方で、切り捨てられたスポーツレジャーダイビングについて、1967年 12月 須賀次郎、後藤道夫、浅見国治が中心になり、当時のスポーツ、レジャーダイビング関係で、親しくしている全国の友人、を集めて伊豆海洋公園で一週間の合宿をする。全員ダイビング指導者になる。その時まで指導員と言う制度名称はなく、講習プログラムも無いから、自分たちで勝手に指導者になったのだ。何の権威もないと外野から声があったが、「権威は努力によって後からついてくる。」とうそぶいた。何にも初と言うのがある。日本初のダイビング指導組織なのだ。それに、権威は全部海中開発技術協会が持って行ってしまった。上に誰もいない。すっきりとして気分は良い。 その時集まったメンバーを紹介しよう。後藤道夫、真鶴で日本初のダイビングサービスを作る。日本潜水科学協会の発足時の若手である。 そして、ものつくりの天才でもある。ウエットスーツのパターン、マスク、フィン、僕たちの使う道具すべて彼がデザインした。そして、その後はカメラを作り、ハウジングメーカーになり、今、彼が亡き後の後藤アクアティックスでも、NHKとJAMSTECのハウジングのほとんどを作っている。 浅見国治 日本アクアラング創立時の社員で、アメリカで、これも創立時に近いNAUIのインストラクターになった。関東支部の講習プログラムは、彼が作り、日本潜水会のプログラムも当然彼だ。関東支部の講習を受け継いだとも言える。 全員この調子で紹介することは難しいが、出来るだけ、順不同、頭に思い浮かんだ順だ。 河野祐一、竹内庸 NHK撮影部の創始者、大崎映晋、海女の撮影記録を最近写真集を出した。出版記念会で昔話をしたが、まもなく亡くなった。96歳?そのころすでに長老であった。日本潜水会合宿はみんな本当に泳いだ。しごきがここから始まったという人もいる。海洋公園の50mプールをウエイト5キロをネックレスにして泳いだ。大崎さんも沈みそうだったが、持ちこたえた。 益田一さん、海洋公園の事実上のオーナー、東拓が出資者だったので、当時はトータクと呼んだ。戦争で足をやられて、ちょっと引きずっていた。泳げないので特別会員になってもらった。泳げない人から紹介しているようだが、新宿の元祖ダイビングショップ、オールニッポンアクアラングクラブの青木大二さんも泳げなかった。そのクラブの会長も松沢さん、初代の日本潜水会事務局長 も泳げなかった。しかし、みんな、途中でおぼれながらも泳ぎ切った。 白井常雄 現在の日本水中科学協会は彼のおかげで息をついでいる。このときの出会いが始まりだった。 友竹進一、海洋公園の主、長谷川剛、神田ミナミスポーツの後に重役、スポーツ洋品店でダイビング洋品を扱った草分けだ。本当に順不同、学生ながら参加した加藤芳雅君、法政アクア、関東学生潜水連盟の創始者の一人だ。彼から学生のダイビングが始まった。野田充彦、学習院大学潜水クラブのこれも彼の仲間たちから始まった。鶴耀一郎、不世出のスキンダイバー、世界的な魚突き大会で名を馳せていた。川俣実隆、鹿児島から参加した。薩摩っぽを売り物にしていた奇人の類、後に潜水病で車いす乗りになるが、口だけは達者だったので、車いすになってからも活躍を続けた。大津善彦、カメラマン、後に一時的だったが、フリーの水中動画カメラマンの第一人者になる、テレビでは僕と競り合ったが、惜しいことに亡くなってしまった。日本潜水会は東京中心だが、時をほとんど同じく、日本水中科学協会の中部日本潜水支部もできかかっていたので、合同で練習した。その中心が望月昇さん。他に中部からは、浜松から清水さん、名古屋からは森さんが出席した。
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        全員集合 やったことと言えば、プールで泳ぎ、海で潜水して、後にしごき練習になる種目を自分たちで体験し、このくらいならば大丈夫という目安をたてた。
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        1966年「アクアラング潜水」須賀次郎 浅見国治 共著 座学は、須賀と浅見共著で1966年に出した「アクアラング潜水」が骨子になったが、他にレポートで自分がこれまで見聞きした死亡事故、あるいは自分が体験した危機一髪について書いてもらった。これが死亡事故については必ずレポートをかくということのはじまりとなって、今でもそのレポートがあり、この事故の歴史で紹介している。 ディスカッションでは、今後魚突きスピアフィッシングは止め、水中銃をカメラに持ち替えて映像ハンティングにしようと決議した。実は、この日本潜水会の集まりの原点は日本水中射撃連盟というのを作っていて、神津島でスピアフィッシングの全国大会をひらいている。それが禁止だから大変な議論になった。それでも日本潜水会は、止める決議をしたが、関西潜水連盟は今、2017年に至るも、スピアフィッシングをどこかでやっている。
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      浅見国治 友竹進一 二人ともとうにこの世にいない。 ※ニッポン潜水グラフィティでも書いたけれど、もう一度、詳しく日本潜水会のことを 書いておきたい。  この一週間の合宿で、僕にとっては生涯の親友が何人もできて、それに頼ってJAUSを作った。後藤道夫は亡くなってしまったが、白井さんが助けてくれている。 これが1967年、その後紆余曲折があったが、日本潜水会、関西潜水連盟、中部日本潜水連盟が中核となって、沖縄から北海道までをまとめた全日本潜水連盟ができ、73年、沖縄復帰記念の海洋博で水中スポーツ(魚突きではない)の全国大会を開催する。 自分たちのことになると、どうしても筆が延びてしまう。☆★☆ 海中開発技術協会創立30周年記念誌にかなり長い時期日本潜水科学協会の副会長をやっておられた、旭潜水研究所の佐藤賢竣さんが書いている。流れを書いている。これしか活字になっているものはないので、再度引用しよう。  海中開発技術協会は、「41年(1966)11月8日をもって科学技術庁を所管とする「社団法人 海中開発技術協会」として総理府の認可となった。 続いて官・学・民合同のシートピア(海底居住基地)計画が着々と進められました。 昭和45年(1970)「海洋科学技術センター」が法令化され、現在の神奈川県夏島を基地とする現在のものが建設される運びと相成ったわけであります。 その時点で母体である当協会の不要論も一部に出され、存続の是非を問われましたが、当時にしてみれば、自然増の潜水人口を野放しに出来ず、存続希望者が圧倒的に多かったので、センター分設後もそのまま存続する事になり今日にいたっておるわけです。」  つまり、シートピア計画を実行する「海洋科学技術センター(今のJAMSTEC)を作る母体となったが、子供である海洋科学技術センターには、海中開発技術協会は不要、母体は卵の殻のようなものだ。海中開発技術協会の理事は、センターにはポジションがない。  海中開発技術協会は、民間のスポーツ、レクリエーショナルを分担することになった、しかし、関東支部は消滅させてしまっているし、日本潜水会が生まれ、関西支部は全日本潜水連盟の中核になる。いまさらよりを戻せといっても簡単なはなしではない。 それでも、科技庁は、面倒を見てくれる。小さな団体ならば、助成金の1本か2本あれば、生き延びられる。小型自動車振興協会オートレースの上がりからの助成金を付けてくれる。 助成金事業がすなわち海中開発技術協会の業績である。一覧表にしめした。なかなかのものである。いま、この報告書が一冊にまとまってあれば、かなりの価値があるだろう。 それでも、本来海中開発技術協会がやると縄張りを決められているスポーツ・レジャーへの足がかりがない。  

0402 人工魚礁研究 1

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人工魚礁研究会 1
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 3月30日、NHK総合19時30分 「潜れ、さかなクン」波左間の人工魚礁をやった。映像は美しく、見た多くの人に、これが東京湾なのか、と、眼を見張らせることができたと思う。そして、人工魚礁とはどんなものなのか、そして何のために作られたのか、その一端をわかってもらえたのではないだろうか。 3月16日の漁場研究会(沿岸漁業の漁場研究シンポジウム)で、巨費と時間を費やして日本全沿岸に営々と作り上げて来た人工魚礁とは、何なのか国民に知ってもらうことが大事なことなのだと発表した。その一環にもなれば  その番組の人工魚礁の部の中心であり、僕たちの魚礁研究会の第一のホームでもある、波左間の人工魚礁群を説明しよう。  東京外湾は、黒潮の影響を強く受ける。 世界一の巨大海流、黒潮は四国沖を洗い紀伊半島沖から、伊豆七島の八丈と三宅の間あたりをうねるように通り過ぎて本州沖を三陸に向かうが、その反流が房総半島を東京湾に向けて逆流してくる。流れは波左間沖を通り、東京内湾のやや手前、保田、金谷あたりまでくる。
 その潮に乗って、東京湾に入ってくる魚を沖で足止めして、定置網に誘導しようとする魚礁群が館山市の沖合、水深70ー80mに点々と並ぶ。その沖から、魚礁をたどって岸方向に魚が向きを変えるように、水深40m、30mに魚礁が並ぶ。魚礁配置図の1 4 9 13 14 がそれである。

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 沖合の水深70ー80の魚礁を深場、水深30ー40mの魚礁をこれは、ダイバーの感覚では十分に深いのだが浅場と呼ぶ。これら浅場、深場の定置網誘導魚礁は、比較的新しく、平成20:2008年から2011年に設置されすべて鉄鋼であり高さは 12mから9mと高い。魚礁は、水深が深くなるほど高くして、水面と魚礁の最上部の間、最上部の水深をそろえるようにしている。
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 これら鋼鉄製より浅く、水深20ー30mにはコンクリートの大型魚礁群が二つ配置されている。21と22がそれである。 コンクリートでも、これらは大型で6mの立方体が 10基乱積みされている。21,22がそれ。

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 残念なことに、せっかく魚礁を設置したのに、最も大型の定置5号、波左間の右隣、浜田漁港の前にあるので浜田の定置は、現在撤去されている。やがれ復旧するだろうが、この定置には、在りし日に何回か潜水したことがある。おおば鰯、大型の鰯群が入ったのを撮影したが壮観だった。 波左間の定置6号は健在である。 この海域の定置網は、大型の5号、6号の他に小型定置が、板田、州崎にあり、稼働している。 先日、メガマウスシャークが入ったのは州崎の定置であり、州崎から、波左間に連れてきた。  これら定置網に誘導する魚礁とは別に、沿岸には、魚を集める魚礁が多数設置されている。  魚もエビもイカも、いわゆる魚介類は、海の中に平均的に普遍的に存在して居るわけではない。すべて礁に付いている。たとえば、ダイバーが集まる大瀬崎、湾内は、岸近くに積み重ねられた大きな石の斜面を魚礁として、魚が集まっている。先端部は、大きな転石が魚礁になっている。ダイビングポイントと言われるような場所は、ポイントになる何かが磯としてあるはずだ。いわゆる磯は、すべて魚礁なのだ。魚はすべて魚礁に付くが、その付き方が種類によって様々にちがう。常にぴったりと身体を付けていなければ安心できない種類、ある距離、間隔をあけていて、何か用事があると魚礁に行く、夜、寝るときに潜り込む場としている魚、回遊魚とは、魚礁と魚礁の間を回っている回遊している魚なのだ。 クジラは魚ではないが、小笠原という礁から、久米島という礁へ、奄美大島という礁を経由して旅をしている。島ほど大きくはないが礁よりは大きい大和碓(タイと読む)などという碓もある。魚が集まる地点を大きい順に並べれば、島、碓、礁 になる。 自然にある礁、磯ねを天然礁、その礁を人為的に作ったものが人工魚礁だ。 砂地に石を一つ置くと魚が集まる。石を山と積めばたくさんの魚が集まる。たくさん積むのを投石という。投石をどんどん大きくして碓にちかくしてしまおうという人工礁もある。 魚類生態学とは、礁と魚との関わり方を調べることに他なら無い。 魚を増やす方法としては、卵を集めて孵化させ、稚魚を放流する方法がまずある。が、すべての魚種の孵化放流ができるわけのものではない。ごく一部だけにとどまる。大多数の魚種について、人間が何か積極的に増やそうとする手段は、間接的ではあるが魚礁を増やす他ない。 第二次大戦が終わって、まず日本が直面したのは、食糧難だった。海に囲まれている日本は古来より海に蛋白源を求めてきた。四つ足は食べなかったのだ。 問題になっているクジラもたくさんとって、シロナガスなどは、絶滅危惧種になった。遠洋漁業、よその国まで出かけて行ってでも魚を穫りまくった。やがて、他国からは閉め出される。手近の沿岸で、魚を増やしたい。1950年代の後半から、(沿岸漁業構造改善事業)今のような形の魚礁をいれはじめ、1974年沿岸漁場整備開発法ができた。これは端的に言うと沿岸の魚を増やす法律であるが、魚を増やす具体的な手段は、人工魚礁である。なお、人工魚礁という名称定義は1954年に確立した。 そして、全国津々浦々に人工魚礁が入れられることになった。 このようにして投入されたのが昭和56年 1981年 0。8m角、立方体のコンクリートブロック  192個が水深20mに投入された。良い魚礁群である。 続いて、昭和58年 1983年 廃タイヤを束ねた礁が入れられた。このまま行くと日本の沿岸は、廃タイやで埋め尽くされるところだったが、タイヤの化学物質我聞代になり、幸いなことにタイヤはこれだけで終わった。 そしてやはり、コンクリートブロックということで、2m角のブロック 165個が平成10年1998年に枕設された。全国ほとんどのコンクリートブロックが、投入、投げ込まれたのに、これだけは、ダイバー誘導で(波左間海中公園の荒川社長が誘導)きちんと積み上げられた。これが、今度3月30日の番組のポイントであるドリーム礁である。きちんと積まれた、枕設された事によって。中に入って行かれる、竜宮、ドリームになった。  波左間の魚礁群は、岸、0、8ブロックのこれもきれいなのでニューパラダイスと呼んでいる。から、ドリームへ、岸から沖へ向かった群と、定置への誘導、沖から岸へ向かう群と、二つの魚礁群がドリームで交錯する。人工魚礁の調査観察に最適なポイントとなった。人工魚礁の歴史も鳥瞰でき、すべてのタイプの魚礁が見られる。魚礁と魚の調査研究には最適の場である。  ダイバーの視点から見て、伊豆半島は、天然礁が集まってできたようなものだ。富士火山帯の溶岩が押し出して自然の魚礁になっている。房総半島も外房は良い礁が連続している。ダイビングサービスで言えば、西川名は、すばらしい天然礁、V字谷などがあるが、最近鮫で売り出しの伊戸は、良い天然礁もあるが、ダイビングポイントになっている部分は、平砂浦という砂地に続いた海に、人工魚礁が設置されている。 内房は、外房に比べて、礁が薄い。波左間にも、高根と呼ぶ良い自然礁があるが、それだけでは寂しい。 人工魚礁あってのダイビングポイントである。 ダイバーも魚と同じというか、魚に付くものなので、魚の付くところにダイバーも付く。  ワークショップ、人工魚礁研究会再出発でリリースした。 今度は本気になってやるつもり。前に本気でなかったわけではないのだが、前を振り返って、反省して再出発するときの常套句である。

0402 ダイビング事故の歴史 9 海中開発技術協会

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ダイビング事故の歴史 9 海中開発技術協会 ダイビング事故の歴史とタイトルを付けながら、日本潜水会のこと、日本潜水科学協会のこと、その後身である海中開発技術協会のことを書いている。 その訳は、たった一つの死亡事故で、その流れ、歴史が大きく変わってしまう。まあ、それにしても、今2018年までくれば、ダイビング社会全般を見通せば、現状、大勢は大差ないかもしれない。しかし、団体の様相などは、ずいぶんと違っていただろう。自分について言えば、今の日本水中科学協会は、存在していなかっただろう。 人一人の命、当事者にとっては、すべてが無担ってしまうわけだから、大事ではすまないのだが、周囲の情勢にも大きな影響を及ぼす。  ダイビングの歴史 足踏みをしたまま、事故のことから海中開発技術協会に脱線してそのまま走っている。切り上げて、歴史年表に取りかかろうとも思うが、年表、歴史コラムは、僕でなくても書ける。自分の見た目、体験したことは、自分でなければ書けない。もう、時間もあんまり無いのだから、自分でしか書けないことを書くことの方が大事だろう。  ここで、JUDF DIVE MANUAL を取り上げる。昭和58年 1983年に発行された、おそらく、日本人が日本のダイビングのために書いた、プロパーのマニュアルとして最も優れたものだったと今でも確信しているのだが、それについても追々説明するが、まず、その巻頭言、オリエンテーションから全日本潜水連盟と海中開発技術協会の沿革について述べている部分を引用しよう。長くなるので、中略を入れずに抜粋していく部分もあるが、活字になっているもの、公知のものである。「 昭和32年 1957年 日本における潜水科学と潜水スポーツの団体として、日本潜水科学協会が創立されました。 初心者似たいする潜水指導は、この潜水科学協会が行っていましたが、まだ潜水教師(インストラクター)の養成は行われず、協会の中心メンバーによるボランティア活動的な初心者指導にとどまっていました。 やがて協会は社団法人海中開発技術協会へと発展し、日本の海洋開発の一翼を担うことになるのですが、残念なことに、この時点でスポーツレジャー潜水の指導を発展させようという努力は打ち切られてしまいました。 昭和42年 1967年12月、スポーツ潜水クラブのリーダー、ダイビングプロショップのオーナー、水中写真家など、潜水指導の確立を重大な急務だと考えている有志23にんが、伊豆海洋公園に集まり、日本潜水会を結成し、日本で初めて潜水教師(潜水指導員)の研修を行いました。 これとほとんど時を同じくして、関西では関西潜水連盟が発足し、中部には「中部日本潜水連盟」が誕生しました。この三者が話し合い、認定証は同じデザインのものを使用し、認定のランクも同等にするように連合しました。ただし、地域差もあり、発足に至ったいきさつも違いますので、お互いに束縛しないように、教育法方の細部、運営の方法については、それぞれの連盟独自に行うことにしました。 ※これが全日本潜水連盟になり、1975年には沖縄の海洋博覧会でダイバーズフェスティバルを行う。 中略 昭和55年(1980)全日本潜水連盟は、社団法人海中開発技術協会と認定書発行に関する提携を行いました。 さらに昭和57年(1982)全日本潜水連盟の発足母体となった日本潜水会を親睦団体とし、新たに関東潜水連盟を発足させました。同時に全国各地の支部を連盟という名称に変更し、全国的な団体としての大勢を強化し今日に至っています。(1983年現在)」  あれほど疎外された海中開発技術協会に自分の全財産ともいうべき日本潜水会、海中開発技術協会を供え物にして、もどって行ったのだ。水産大学の恩師が中心になっている、そして自分は学生会員第一号だったという思いが強かったのと日本を一つの統一された団体にしよう、バカな考えにとりつかれていて、とにかくそれを成し遂げた。 日本潜水会を一緒に立ち上げた、後藤道夫からは、「おまえはバカだ」と決めつけられ、自分でもバカだと思った。後から受けた仕打ち、結果で、人生で一番、鋭く、働く事ができた時期を無駄に過ごしてしまったとも思うが、とにかく、自分のダイビングの原点であった協会に立ち戻り、その傘下で日本のダイビングを一つにすることができた。短い期間、でしかなかったが。
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 認定証カードの表記には、JUDFとともに、「Japan Association of Underwater Exploitation 」と記されている。これが海中開発技術協会の英語表示なのだ。JAUE 読みにくいのでだれも読まなかった。 カードは☆でランクを示している。フォースターの上はアシスタントインストラクター、そしてインストラクターになる。 ☆☆☆☆ ダイバーはインストラクターになるときに指導実技の他は、実技は免除された。☆☆☆☆ダイバーは最強、死ぬことは許されないとした。  そして、資金的には 「全日本潜水連盟は利益を追求する団体ではありません。認定料6000円は、次のように配分されます。(マニュアルに公開されている) まず、2000は安全対策協会費として使用されます。安全対策協会は全日本潜水連盟事務局内に置かれ、潜水事故防止のための活動を行っております。のこりの4000円は4等分され、指導員、支部連盟、全日本潜水連盟、海中開発技術協会に1000円ずつ分配されます。」  海中開発技術協会は自分の手を汚すことなく、ダイバー、1名について1000円ずつ入ってくるのだ。 さらに全日本潜水連盟のメンバーは、可能な限り海中開発技術協会の会員になるよう義務づけた。このことが、あとで大きな問題になるのだが。  この赤い表紙のマニュアルは、これまで、日本で日本人が作ったダイビングマニュアルとして最高のものだったと振り返る。 そして、変則的なマニュアルだ、一冊の中に二冊の本が入っている。なぜそんなことになったかというと、全日本潜水連盟、海中開発技術協会の両方が講習のテキストを作っていた。 しかし、全日本潜水連盟が海中開発技術協会に入ってしまった以上、どちらかを捨てなくてはならない。海中開発技術協会のテキストは、ダイバーの認定にはいっさい触れていない。指導認定のテキストとしては使えないのだ。しかし、原稿は完成してしまっている。ご丁寧に僕はその両方に原稿を書いている。原稿作成中に合併が決まったのだ。 えい、や、と二冊を一冊にして表紙を付けてしまった。 奥付を見ると昭和58年1983年7月の発行である。後に最大の指導組織になるバディジャパンは1982年の発足である。それ以前のPADIは、PADI潜水指導協会の名称で全日本潜水連盟の一角を占めていた。一角どころではない、1975年の海洋博のダイビングフェスティバルは、PADI潜水指導協会の椎名勝巳と僕、須賀の共同プロデュースのようなものだった。
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                     全日本潜水連盟部分
 テキストに戻って、テキストの前半部分全日本潜水連盟部分の目次を見てみよう。 1. オリエンテーション 2. プール実技講習の予備知識 3. プール実技 4. 海洋実技講習前の講義 5. 実技講習 海洋 Ⅰ 6, 実技の海洋が Ⅱ Ⅲ Ⅳ  と続く 執筆者は 須賀次郎 伊庭一男 笠原健男 田村和子 寺島英一郎 壇野清司 で 笠原は後に CMAS JEF を作る。 伊庭は、大川でダイビングサービスを 田村和子はダイビングから足を洗い、書道と合気道の師範だ。寺島は後に全日本潜水連盟理事長、壇野は、現在もJCUEなどで活躍している。  一方で 海中開発技術協会のテキストは 1. ダイバーを取り巻く水中環境 工藤昌男 2. 潜水の医学 梨本一郎 3. スクーバ潜水に使用する機材 尾花英明 4. スクーバ潜水における基礎実技 潜水講習部会 5 減圧表 大道弘昭. 6, 海での潜水 須賀次郎 7. 海の生物と自然保護 内田紘臣 8. スポーツ潜水と漁業 猪野峻
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 常識で考えれば、3 機材 4 基礎実技 6海での潜水を切りとばし、まとめれば、良いのだが、できなかった。できなかった理由はまだ、海中開発技術協会では、講習部会などを新たに作って全日本潜水連盟のカードとは別の認定をしようとしていたからだった。 この中の スポーツ潜水と漁業、猪野峻先生の部分はすばらしく、今でも復刻したい。猪野先生は僕の半ば恩師で、世界的に著名な学者で、なおかつ、良いダイバー、素潜り能力は軽く水深20mを越える。半ばというのは、猪野先生はアワビの大家であり、僕はサザエを研究して卒業した。大変にほめていただいたが、その論文をなくしてしまった。そんな姿勢では研究者になれるわけがない。 

0407 魚礁研究 2 

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        投石にイセエビが集まっている。三重県 安乗

 ダイビングでの海との付き合い方というか、向き合い方、さまざまだ。お金を稼ぐ場、ただひたすら遊ぶ場、何もしないで、身を海にゆだねる場、研究、調べる場、撮影、さまざま、個人差もある。
 そのうちのどれか、なにかを道筋たてて説明できれば良いと思っている。そんな一つの例、として人工魚礁を取り上げている。
 ねらいは、僕たちのスポーツ・レクリエーションダイビングとしてサイエンティフィックダイビングをどのように展開すれば良いのかのスタンダードを作りたい。それには人工魚礁を対象にするのが良い。幸い、自分も長いこと、人工魚礁とつきあってきた。 また、本職の研究者がフィールド調査をするときのダイビングをどのようにすれば良いのかの参考になれば、とも思う。撮影の手法、安全管理の方法などについては、参考になるはずだ。
 ところで、魚を見て、なぜその魚がそこに、その場所にいるのか考えたことがあるだろうか。
 前回は、まとめようとした。ここからは、まとめようとしたことをまたバラして、一つずつみていって、またまとめる、そんなふうにやりたい。
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 いくつかの参考資料、テキストを取り上げるが、まずその一つとして、山下弥三左衛門の「定置漁業と人工魚礁」1966年」がある。山下さんは東京水産大学、の大先輩だ。水産講習所時代に卒業した。日本の調査潜水の先駆者の一人だ。明治27年に生まれた。もう一人の大先輩は三浦定之介先輩で、やはり水産講習所の先輩だ。二人とも本をたくさん書いているので、何度か紹介している。山下先輩には、潜水読本、三浦定之介先輩には「潜水の友」という本があり、どちらも、今、手の届くところにおいてある。
 「潜水の友」は、マスク式潜水の本である。 山下先輩も基本的にはマスク式潜水のダイバーであるが、潜水読本は潜水全般で、僕が東亞潜水機に入社した当時、東亞潜水機がこの本を販促に使ったので、宛名書きなどやった。何度かお目にかかり、眼をかけていただいた。鹿児島の方で、何のついでか鹿児島で食事をともにしたことがある。
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 当然、今はもう、世にいない。  さて、「定置漁場・人工魚礁 昭和41年 東京書房」だが、思いつきをくせのある文で書いている。ただ、その思いつきがおもしろい。 これら思いつきを先輩は、「潜水人、はこう考える」と表現する。マスク式時代は、一般人で潜ってみる人などほとんどないから、潜水人は、見たままを書きたい放題に書いて大丈夫だ。 潜水人 良い言葉だ。これまで、僕は自分が何かと問われるとダイバーだと答えていた。ダイバーは英語だ、日本語だと、潜水夫、潜水士だ。どちらも僕の感性に合わない。潜水人 良いかもしれない。  よく、報告書を書くと、「::::だと思われます」などと逃げるが、山下先輩、潜水人は、自分はこう考えると断定する。潜水人は正しいのだ。 前回のまとめ、で、魚は島に付くと書いたが山下先輩も同じようなことを書いている。。
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 魚は、島に付く。大きな島から小さな島、島といえないような、岩礁、東京都にはこんなのがたくさんある。いつか、テレビ番組「東京無人島紀行」をやった。孀婦岩、ベヨネーズ列岩、スミス島、南へ行くと、奄美にも、徳之島にも、久米島にもトンバラが、トンバラは方々にある。
 山下先輩の「定置漁場・人工魚礁」では、このような、魚礁の著名なものを表にまとめたものを出している。表の出所は新野弘先生、海底地質学の大家だ。新野先生のところまで脱線すると終わらない。でも書きたいな、魅力的な先生だ。先覚列島周辺の油田は新野先生が存在を予言した。 この表をみて、有名な大和碓は、一番浅いところで水深285m、その頂上部の面積は100キロ×25キロ、これが日本海の真ん中へんにある。 同じく有名な武蔵碓は、北海道の日本海側、やや小さく、頂上は水深31mだ。 水面に頭を出しているのは青森の久六島、越前の玄達瀬、太平洋側では銭州、これらは、有名なダイビングポイントであり、僕は、幸せなことに、その三つとも行った事がある。
 回遊魚というのは、このような碓、瀬を巡って、回遊、旅をしているのだ。 この表にでていない礁はたくさんある。神子元島もそうだ、海から頭を出さない碓で、少しスケールダウンすると曽根、慶良間の隣の慶良間曽根、渡名喜曽根。ここは、イトマンのウミンチューが、鮫を釣る場所で、僕は、イッチョー(イタチザメ、タイガーシャーク)を撮りに行った。頂上で水深50mとか70m、こういう礁の例は挙げきれない。
 すべて、魚礁なのだが、魚礁というと、僕たちは、漁礁ではなくて、魚礁だと字を決めていたが、山下先輩は、漁があるのが漁礁、魚は居ても漁にならないのが魚礁だとしている。 しかし、日本の水産業界で、人工魚礁を魚礁とした。その理由は、漁にはならなくても、魚の育成場になれば良いわけで、この方がむしろ大事、という考え方によるものだった。魚礁という字のこのフィロソフィーは、おぼえておいてほしい。
 魚礁もどんどん小さくしていくと、最後は石ころ一つ。空き缶一つに、ミジンベニハゼが棲んでいたり。これも魚礁だ。 魚は、巨大な大和碓から、空き缶一つまで、とにかく魚礁に集まる、魚礁に居るのだ。回遊している魚は、礁から礁へ旅行中なのだ。   石ころの話だが、石も小さな石よりも大きい石の方が集まる魚は多い。一つよりは二つ、二つよりは三つ。三つよりはたくさん。たくさん大きい石を魚を集めるために入れるのを投石と呼び、投石事業で、魚の集まる磯を作る。これを築磯ともいう。 築磯は、地方地方によって、様々な形態をとる。
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       北海道余市の投石、ホッケが産卵行動をしている。
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          北海道函館、昆布の投石 築磯

 ダイバーが投石、投石礁を簡単に見られるところ、それは、土肥の101である。ブリジストンから、最近ではセントラルになった。このごろ全然行っていないのだが、一時、2000年頃、魚礁の写真集を撮影している頃には通った。
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         土肥、八木沢沖 投石礁 真鯛がついている。
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           隣の魚礁に連なっている。

 土肥も、波左間と並んで、人工魚礁を見る、研究するフィールドとしては、最適だ。しかし、波左間までは、2時間、土肥は5時間、勝負にならないが、とにかく土肥は人工魚礁のポイントなのだ。土肥の人工魚礁の話は、機会を改める。書くことがありすぎる。
 その土肥に、このごろ行かないので違っているかもしれないが、ボートに乗って、一番近いのが投石で、投石は1、5m角のブロックが点在している灘の魚礁に連続している。 投石、築磯というと、魚よりも、海藻が生える事をねらうのだが、土肥の投石は海藻は無く、魚を集めている。
 言葉の定義としては、魚を集めるために一応の規格にあてはまる構造物を人工魚礁というと、1954年に定められた。国がお金を出す事業となったので、定義規格が必要となったのだ。
 護岸のテトラにも魚は集まる。魚礁効果はあるが、人工魚礁とは呼ばない。 碓、曽根、磯は魚礁効果があり、魚礁であるが、人工魚礁ではない。
 ところで、僕たちは、魚の集まりすべてを観察調査することにしたい。 だから、人工魚礁研究会ではなくて、魚礁研究会なのではないか、と考えはじめている。

0408 リスクマネージメント 社会スポーツセンター

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 4月7日 日本体育協会のスクーバダイビング指導者資格更新講習(海洋大学 白鷹館)にでた。池袋で、マリンダイビングフェアが行われていたので、こちらの方は、必要のある方だけがきたのだろう。空いていた。自分としては、そして日本水中科学協会としては、重要な会員の何人かにお目にかかれて、挨拶ができた。

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 演題は三つで、統一的なテーマとしては、リスクマネージメントであったらしい。
 ①は、亀田病院の鈴木先生の再圧治療についての話で、「潜水のリスクマネージメント」良く整理されたPPのレジュメも配布されていて、減圧症にならないための結論、もしなった場合の処置、すなわちマネージメントについてのテキストとして、使える講演だった。

 ②吉田章先生の話と③海保の救難課の話は、レジュメの配布が無く、主催者の怠慢であったが、予想していた事でもあり、スクリーンを撮影しやすいところに座をとって、スマホで記録した。後になってみると、印刷されたレジュメは書写しなくてはならないので、何もないのも、まあいいか、なのだが。
 ②③は、別に知識として加えられるものは何もないが、それだけに、自分の問題として、考え込んだ。それは、自分にとって、そして、潜水業界にとっても、社会にとっても最も深刻な高齢化の問題である。
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 高齢者がダイバー人口に占める割合は2ー3割であるが、事故者の割合は7割を占める。
 だれでも考える解決策は健康診断である。しかし、これは高齢者個人、自分の行動の為の情報であり、判断は自分で下さなくてはならない。高齢は、それだけですでに病気であるから、健康診断の結果は、その病状である。
 社会にとっても、高齢者自身にとっても、わかりやすく完全な事故回避手段は、やめること、ダイビングは人間にとって必須なことではないので、65歳になったら、やめることだろう。しかし、個人にとって、その人がダイバーであれば、そのことは事実上の死を意味する。寝たきり老人、しか残された道はない。
 多くの人にとって、生きるということは、前を向いてチャレンジすることである。ダイバー、潜水人にとって潜水は止めるわけにはいかない。もちろん、人さまざまであり、これは単に僕の生き方であって、潜水業であっても、親方はダイバーではないので、やめられるが。
 やめるわかにはいかない。そういう人たちの最先端に自分はいる。では、どうすればいい。日夜考える。
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 吉田章先生の挙げた箇条のなかに自己責任があった。自己責任といっても多様である。自分の生死に自分が責任を持たなくてはいけないのは、ダイバーとして当然の常識であり、それを他にもとめる、自分の生死を商品として求めるところに、あるいは商品として売ろうとするところにダイビングの危険があるのだが。
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 高齢者、自分としてかんがえて、もしも死んでしまった場合、家族は、なによりもまず、迷惑をかけたダイビング場所、人に謝罪して回らなければならない。死亡保険が下りるならば、その中からなるべく多くの金額を、何というのだろう、お世話になったお礼として、差し上げなくてはいけない。
 これは、高齢者に限らず、自己責任で生きるダイバーとして、潜水が遊びだった場合の常識だ。(仕事だった場合は別)事故の歴史について別に書いているが、1960年代は、そうだった。高齢化時代を迎えて、もう一度その昔の責任のあり方を考えなくてはいけない。「良き昔」であるならば、呼び戻すことを考えなくては、
 
 自分のダイビングがそういう道を切り開くものでありたいと考える。後7年がんばれば90になる。
 先日、主治医の先生に「80歳80m潜水はあきらめましたか」と聞かれた。「あきらめては居ません」と答えた。「90歳90m」と誰かが、言っていたので、そう言おうかと思ったが、「無理だろうな」と思う自分がいる。「無理」つまり、その間に死んでしまうということなのだが、
 タンクを背負って立ち上がることができなくなったらスクーバはあきらめる?スキンダイビングだけにする。
 80m潜水のハイブリッドは、タンクは背負わずに、ホースで潜るシステムなのだが。
 

0413 オリンピック

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オリンピックと人工魚礁  たまには雑多なことをかきたくなる。
 その雑多、雑文、エッセイというのだろうか、では村上春樹が好きだ。彼の小説の方は、ノルウエーの森、以来しんどくなって読まない。小説、といって読むのは、チャンバラかファンタジーで、これはもう上村菜穂子のフアンだ。なお、好きとか、フアンだとか言うのは、2回以上同じものを読むということを意味する。
 村上春樹にもどって、ああ、この人のこと前にも書いたな、と気づいて、まあいいか、いいだろう。
 「やがて哀しき外国語」たぶん二度目、を読み終えたタイミングで、本屋で「ラオスになにがあるのですか」たぶん、そんな題、を見て、買いたいとレジに歩きかけた、のだけど、108円になるのを待とうと止めた。やっぱり今、買うだろうなと思いながら戻ってきて、本棚を探して、「シドニー」を取り出した。2000年のシドニーオリンピックの話だ。読みはじめた。スポーツについて、オリンピックについて、書かれたものの中で、好きな一冊だ。400mを走るキャシー・フリーマンのところまで読んだ。これが、この本のクライマックス。そして、いいなと、本を閉じた。いつでも、どこでも、本を閉じられる。夢中になって読まなくても良い。
 僕はキャシーフリーマンのこと、テレビで見た覚えがない。そのことは残念だ。キャシー・フリーマンは、アポリジニで、女子400mを走る。民族の誇りを懸けて、金メダルをとると決意して走る。終盤の爆発的なダッシュ、トップでゴールインして、そのまま靴を脱ぎ、うずくまってしまう。やがて我をとりもどして、オーストラリア国旗とアポリジニの旗を持って、グラウンドを走る。表彰台で彼女がオーストラリア国家を泣きながら歌ったとき、オーストラリア人もみな泣いた。そのことを、村上春樹は書いていて、彼の感動が伝わってくる。 今の僕にとって、いつでも閉じて、また開いて、適当なところでまたやめられるという本がいい。また、自分の仕事の企画書書きに戻っていかれる。
 魚礁調査について、企画書を書いている。
 企画書に行き詰まったら、また、戻ってこよう。
 
 それにしても、「シドニー」は、鮫にサーファーが食われる話が度々出てくる。オーストラリアは、鮫と毒蛇の国なのだ。それは、僕についても同じで、鮫を追って南オーストラリアのポートリンカンに行った。鮫の事になると僕もいろいろある。だから、鮫の話はやめよう。
 そして、この本はオリンピックの巨大化に疑問をなげかかている。オリンピックは、すべてギリシャでやれば良い。日本の高校野球だって甲子園だけでやっている。甲子園が決まり、聖地なのだ。 さて、東京オリンピックだけど、僕としては、近くに大きなプールが増えることは良い事なのだが、どうだろう。 昔のオリンピックの時、東亞潜水機に勤めていて、南千住にあったプロ野球スタジアム、スタジアムの名前も、ホームにしていた球団も忘れたけど、そのスタジアムで、なんだかこれも忘れた球技をやった。村上春樹の「シドニー」でも書いていたが、オリンピックでなければ人々が見ない競技というのがある。それだった。そんな競技でも、並んでチケットを買った。そして、それを見なかった。だから忘れたのだけど、舘石さんに強引にさそわれて、南伊豆の入間に潜りに行ってしまった。やっぱり、南千住のオリンピックに行けば良かった。かな。 今度のオリンピック、85歳になる。生きているだろうか。ぎりぎりだろうな。
 さて、オリンピックを離れて。

 人工魚礁の企画を書いている。
 営々と日本の海全体に人工魚礁を沈めて、皮肉なことに人工魚礁の数に反比例して、漁が減って行った。人工魚礁で漁をする漁師が減ってしまったためなのか、それとも本当に魚が減ったのか、わからない。もし、1990年代に僕たちがこれからやろうとするようなフォーマットの調査が出来てあれば、そのことがわかる。一か所、例えば波佐間付近で魚の量の増減と、種類数の増減がきっちりわかれば、それは、東京湾での魚の増減、全国数か所で、増減を記録できれば、日本の魚の増減、と相関があると思っている。20年後のことを目指して、今からその調査を始める企画だ。 東京の次のオリンピックに、僕は生きていないだろうけれど。
 そういうことどもを、いい文章で書けたら良いな、と今僕は思っている。
 最後は立松和平風の言い回しになってしまった。立松和平のこと知らない人が殆どだろう。1980年代、ニュースステーションで日本の海をぐるっと、一緒に旅をした作家で、今はもう居ない。
 こんな文を書いたとき、いつも立松さんの言葉で締めくくる。
 「途があるならば、途の尽きるところまで行くのが旅の心だ。」
 実は立松さんがこのように書いたのか、どこに書いたのか記憶にない。ニュースステーションのナレーションだったのかもしれない。だから、途なのか道なのか定かでない。途と道、ずいぶん違うと思うんだけれど。これは、村上春樹風かな。

0420 スクーバ事故の歴史 10

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あまりにも、間が開いてしまったので、梗概を書くことにする。ダイビングの歴史を出版する計画を進めている。 その一つとして、事故の歴史、死亡事故、あるいは危機一髪を年代順、時系列で並べて行こうとはじめた。 ① 1954年 日本で初めてのスクーバダイビング事故、小湊での潜水実習中の事故、原因不明 2名の学生が死亡 ②1958年 人工魚礁調査中、自分の危機一髪 ③3回目に 1968年のオールニッポンアクアラングクラブの保田、浮島の事故を書いた。 ④学生、商船大学の入間の事故 ⑤4回目までは、良かったのだが、事故の扱いが変化していくのは、講習、指導をする組織団体の変化に対応していると気が付き、講習の始まり、日本水中科学協会のことを書いた。そこから、脱線してしまった。 ⑥日本潜水科学協会の推移 ⑦日本水中科学協会の消滅 1966ー7年 ⑧海中開発技術協会になるいきさつ、そして、そこで置き去りにされた講習が、日本潜水会を生み、関西潜水連盟、そして全日本潜水連盟ができた。 ⑨全日本潜水連盟が海中開発技術協会と合同して、全国統一のカードを発行するところまで来た。1980  ずいぶん事故から離れてしまったが、実は、事故が状況を一変させ、それが、現在の自分に関わってくるそのことを書いているのだが。 こんな事を書いている時間なんてない。早く、歴史にもどらなければ、と思う。一方で、歴史は誰か他の人でも書ける。この日本のダイビング指導の本流とも言うべき、日本潜水科学協会から海中開発技術協会に至り、そして消えていってしまう流れのことを流れのなかでもがいていた、自分が書いておくことの方が大事なのでは、と思う。  ともあれ、スクーバ死亡事故は、指導をする団体のあり方に大きな関わりがある。そして、それが周り回って事故、危険性とかかわってくる。 いましばらく、海中開発技術協会を追って見ていこう。  海中開発技術協会から閉め出され、それでもカード枚について1000円を拠出して、助けたのだが、僕が海中開発技術協会の理事になり、経営に加わったのは1982年であった。先の合冊したマニュアルは1983年の発行である。  1982年 昭和57年の海中開発技術協会の役員を見ると 何で役員にこだわるかと言えば、参考にしている冊子 海中開発技術協会創立30周年記念誌、平成8年1996年 に役員の年毎の名簿が全部載っていることと、役員の名簿を見ていくと、勢力地図というか、そのときの人間関係が見えてきて、そのころの状況がよくわかる。  昭和57年、1982年、僕が理事になったときの役員 会長 園田直(衆議院議員) 副会長 森川吉郎  会長はお飾りの有力者、つまり道具だから、副会長が事実上の会長といえるだろう。森川さんは仲良くしていただいたが、ダイビングとは縁もゆかりもない方で、確か、商社関係だとか聞いたことがある。最後まで謎の人だった。 専務理事 大道弘明(明治大学講師) 大道さんは日本潜水科学協会時代から、熱心に協会に出入りしていた方でたしか数学の先生、後に僕と共著のような形で、全日本潜水連盟の減圧症のテキストを書いた。 専務理事 太田保人
 太田さんも謎の人、つまりダイビング関係者ではないのでどこからこられたかわからない。ただ、穏やかで鋭い人、僕には親切にしてくれた。森川さんも太田さんも、大会社を定年退職して、いわゆる能吏として、だれかが、お願いして来てもらったのがはじめでは無いだろうか。もちろんすでに功成りとげているひとたちだった。 理事 名簿では理事はアイウエオ順に並んでいたが、ここでは立場で分ける。 森美秀 衆議院議員 房総の森財閥の有力者である。藤波孝生 衆議院議員 園田矩之 衆議院議員 大臣クラスでないと協会の会長にはなれなかったのだ。 宇野寛 僕の恩師だ。 猪野峻 世界的な水産学者でありダイバーでもあった。 神田献二 水産大学漁業科の教授で良いダイバーだった。 黒田竹弥 水産庁の課長から、いくつかの水産関連の経歴のある先輩 梨本一郎 医科歯科大学、潜水医学の泰斗 斉藤茂 深田サルベージ(新日本海事)の社長 工藤昌夫  上島章生 日本アクアラング 僕の同級生 後に日本アクアラング社長 須賀次郎 このとき、初めて理事になる。僕が理事になることについては、どこの馬の骨かわからない、そんなことはなくて、協会創立からの由緒ある会員番号80なのなのだが、その日本潜水科学協会が消えてしまっている。肩書き資格としてはなにもないので、問題にされたと、後で大道さんに聞いた。  玉置敏夫 全日本潜水連盟理事長 山中鷹之助 日本アクアラングの東京支社  今泉英行 中村万助 下村喜平衛:間組 小池信太郎 渋谷勝治 それぞれ、古くからの有力者だが、僕との付き合いはない。  監事  安藤宏喬 関東支部の有力者だった。なぜかここから監事になる。水面下でつながりがあったのだ。 佐藤賢竣 旭潜研 日本潜水科学協会以来の中心人物  逸見隆吉 海上自衛隊から海洋科学技術センター、  よく人はいう、日本の潜水業界、潜水社会はまとまらなければいけない、などと。いろいろ、あるけれど、とにかく、この1982年、海中開発技術協会で、日本の潜水はまとまっていた。会長には大臣クラスの衆議院議員、管轄は科学技術庁、指導団体は全日本潜水連盟、PADIもその中に加わっていた。ちょうど1982年にJPとの移り変わりとトラブルがあったが。 とにかく。政治家も、役所も、潜水団体も建設業界も、水産の学者も、潜水医学も、メーカーも加わっている。 しかし、満ちれば欠けるのが世の常、団結は分裂の始まり、ここからは、分裂の物語になる。  昭和55年まで副会長だった菅原久一さんが56年1981年 から消えている。 僕が理事になってから後で菅原さんが亡くなっていると記憶していた。もちろん葬儀にも参加したのだが、30年前の事になると、記憶の遠近がずれてくる。 まず、細かい年表をすべての資料をまとめておかなくてはいけないだろう。 ところでそんな時間が無い。  僕の頭の中、昨日のようにしっかり記憶に残っているランドマークが、第一回潜水技術シンポジウム、第一回 潜水用機器展で、これが海中開発技術協会のやった一番良いイベントだった。これが行われたのが1976年だった。これが1986年頃のように思っている。何故か記憶が新しいのだ。僕の会社スガ・マリン・メカニックもダイブウエイズと一緒のブースで出展した。僕でも出展できたくらい、お金がかからなかった。 惜しいことに何故か、一回だけで終わり、二回が無かった。これが続いていけば、ダイビングフェスティバルも違った形だったろうし、ダイブビズショウも、マリンダイビングフェアも別の形だろう。これが続いていたとすれば、日本で一番歴史が古い、権威のある展示会ということになり、海中開発技術協会が消滅する事もなかった。 その潜水用機器展で菅原さんとしみじみ話したので、僕がすでに全日本潜水連盟を海中開発技術協会と組み合わせ、自分も理事になった後だと思っていたものだった。  そのころ、海中開発技術協会の事務所は、お茶の水の順天堂と東京医科歯科大学の間あたりにあった菅原さんのお店?事務所?潜水研究所の4階と言うか、屋根裏のペントハウスのようなところにあった。菅原さんは1階で、2階、3階はどこかの事務所、の4階だ。急な薄暗い階段と梯子のあいのこのような階段を上ったところに、海中開発技術協会はあった。その4階に何度も行き、菅原さんとも話したので、菅原さんがずっと、1982年、83年にも生きていたような錯覚をしたものだった。  
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