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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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2017年 第七回水中活動研究シンポジュウムについて 1

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2017年 第七回水中活動研究シンポジュウムについて 1
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 今回の水中活動研究シンポジュウムの実施の過程の発表、提案 などから、2018年の活動目標をつかむことができた。 §1 計画書を支点としたダイビング活動運用研究
 研究グループ、検討委員会をつくってワークショップで議論し、活動で実践して、フィードバックする。18年のシンポジュウムの中心テーマにしたい。 PDCA というと、40年遅れていると言われた。でもPDCA の第一歩はP なのに、プランの研究がダイビングでは欠落、もしくは不十分である。
 研究グループ、検討委員会などつくってワークショップで議論、活動で実践して18年のシンポジュウムの中心テーマにしたい。
 研究事例. ①学生の部活、②テックダイブ、③リサーチ ダイビング、④セルフダイビング⑤ガイドダイバーがリードするダイビング、⑥プランシミュレーションゲームであるロゲイニング、⑦ショップ・サービスなどが提供するローカルルール 具体例:①水中に持ち込む道具 ②ブリーフィングと計画書 ③フォーメーションの検討 
 
§2 人工魚礁調査グループの再出発
 全国に長期にわたって枕設され、遺跡になりかかっている人工魚礁をレクリエーショナルダイビングとして調査して、データベースを作る調査フォーマットの研究
 調査手段として
 ① 時間表示がでる、ウエアラブルカメラによるライン調査、
 ② 4分割映像による調査結果の分析
 ③ 全天周カメラをつり下げてのタイマー撮影
など§3 福島第一原子力発電所 地先 地点の30年継続定点観測の開始§4 「ダイビングの歴史」編集と発行
 やればやるほど、踏み込めば踏み込むほど難しくなり(時間がかかり)難航している。 これまで、テーマを決めて計画し、ワークショップで検討、実施して、シンポジュウムで発表するというパターンが固まっていなかった。 18年のシンポジュウムからは、上記4テーマの発表と、なにかトピックスを一津、そして、映像、歴史展示 を定番にしたい。 ワークショップも、上記4§ の検討と、もし適切な話題が発生したならば、講演、もしくはパネルデスカッションを行う。たとえば環境問題、お台場の報告など。 なお、この案も、すべて試行錯誤の途上であり、実施の過程で、また発表する時には、まるで変っている公算が高い。
 活動とは、活きて動いているものなのだ。
 次回の運営委員会にこの案を提案し、形を作っていきたい。 つづく

1212 2017年 第七回水中活動研究シンポジュウムについて 2

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 今回のシンポジュウム、前回も前々回もそうだけど、人の集まりが心配だった。みんなが力を合わせて、手作りでイベントを作り上げていく。幕を開けたら閑古鳥がないていたら悲しい。誰も来なくても、信念に基づいてやっているのだから、それはそれで良いのだ、と言い切る自信、テーマが今年はなかった。仕方なく、切り札とも考えていた、自分が関わった、映像を中心に映像を並べて、動画撮影機器の小史を企画した。これなら、今取り組んでいる「ダイビングの歴史」にもつなげられる。 それは、良いのだけれど、誰も来なくて良いと胸を張れない。来ないと悲しいテーマだ。 自分のやっている浦安海豚クラブ、辰巳の練習会、その他知人、もちろんダイビング関係者にも声をかけた。 もう一つの中心テーマ松村先生の学生部活事故の責任についての話だが、今、絶対に必要な話なのだが、関東学生潜水連盟の総会と重なってしまって、学生が来ない、来られない。集まりが悪かったら松村先生に恥をかかせてしまう。  午前中、山本さんの今年のワークショップ総括は、90名定員のところ40名程度50%の入りだった。目標は70名だったから、50名くれば及第だ。あと午後には僕の動員した20名はくるだろうから、目標の70名にはなる。  昼休みを挟んで、午後の松村先生の講義で、ほぼ満席になった。これはうれしい誤算で、僕の呼んだ知人やクラブは、後ろに椅子を並べることになった。  僕の映像はみなさん喜んでくれたから、良かったのだと思う。 もう一つのテーマ 「計画書を支点とした
ダイビング活動運用研究 」当初のプログラムにはなかった。このアイデアは東京海洋大学潜水部の60周年記念誌にかいたもので、この文の最初に書いたように今後の水中活動の安全についてのキーの一つだと思っているが、実施については、まだ試行錯誤の段階にある。ただ、今の時点で口に出して動き始めないと、僕に残された時間は不明である。後8年生きて、90歳まで潜るかもしれないけれど、常識的には2ー3年だろう。だから、プログラムに挟み込んででも今年にしたかった。それに、海洋大学の楽水会館でシンポジュウムをやるのだから、潜水部を動員できると思った。 日本水中科学協会の内部では、僕の関東学生潜水連盟、及び海洋大学潜水部が応援してくれる可能性については懐疑的であったが、前述の海洋大学潜水部60周年に書いたことの実現であり、ダメなところまで、途がつきるところまでは行かせてくれとたのんだ。 ちょうど関東学生潜水連盟の総会もあり、受付を前年もやってくれた海洋大学潜水部部長大沼さんと、もう一人依田君が朝から終わりまでてつだってくれた。本当に感謝している。 中央大学と、学習院大学の監督が来てくれた。具体案を示しつつ協力を要請して行く。 なぜ、ここまで学生のダイビングにこだわるかといえば、学生の原因不明の事故が日本のスクーバダイビングの幕開けだったし、娘の同級生が命を落としている。ニヤミスもいくつか見聞きしている。一つの組織で、だいたい25年毎くらいに大きな事故が起こるというのが、僕の見てきたダイビングだが、関東学生泉水連盟は50周年、このあたりで、具体的な安全策を付け加えて行き、次の50年を無事故で通したい。  報告書では、このテーマについては、僕の思考の過程を書いた。総体的に見て、僕はいらないことを書きすぎているかもしれない。しかし、このシンポジュウムは、当日においでにならなかった方も報告書で、趣旨をりかいしてもらいたい。水中科学協会には地方の会員も多い。書くことにウエイトをおいている。書きすぎでいい。 これらをまとめた提案が§1 である。 これに沿ってワークショップを行い、育てて、来年のシンポジュウムで発表できるところまで行きたい。その発表が失敗の報告であったとしても、意義があると思う。  松村先生の講演だが、僕は難聴のため、よほど集中して聞いていないと意味がとれない。松村先生のはなしは、かなりわかりやすいのだが、レジュメと参照してようやくわかる。どちらかと言えば字で理解しているのだ。まとめると、顧問の先生、監督、部長、あるいは学校当局は、事故について責任を負わない判決が多い。これは、意外であった。 となると、誰が責任を負うのか、バディになるのではないか。これについてコメンテーターの久保さんが説明していたらしいけれど、レジュメがないので、充分な理解はできない。計画書のワークショップなどで、改めて議論しよう。  難聴の高齢者が中心にいるので、みんな難儀をするけれど、僕が理解できれば、全員が理解できるだろう。などと勝手なことを言っている。 助けてくれている日本水中科学協会会員には、お礼しきれない。  続く

1213 第七回 水中活動研究シンポジウムについて  3

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2017 シンポジウム報告書について、 僕の書いた「カメラハウジングから見た映画テレビ水中撮影小史」、「ダイビング計画書を支点としたダイビング活動運用研究の提案」は、のレジメとは言い難い。シンポジウム発表の準備報告だろうか。 撮影小史もこのまま「ダイビングの歴史」に収録できるものではない。どちらの試行錯誤、考えた道筋のようなものだ。撮影小史のほうは、資料にはなる。
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日本水中科学協会の地方にいる会員に送るから、読み物になっていても良いか、と考えた。 ところで、そんな感じで、書いたのだが、プリントして、配布してみるとNHKにこだわりすぎている。また、致命的ではないのだが、ハウジングの製作年に数年のずれがある。 昨日(12月11日)ダイブウエイズに行き、報告書を見ながら手島さん(ダイブウエイズを一人で切り盛りしている)と話していると、ファイルボックスからファイルを出してきた。ダイブウエイズで作ったすべての機材の図面、資料がファイルされている。ハウジングもファイルされている。池上のHL79Eを見ると1984年7月の製造だ。それで、1985年に神の子池の環境映像を撮り、1986年からニュースステーションの水中レポートシリーズが始まっている。 その前のビクターKY2000は、1980年、10月の製作で、これで、NTVのポナペ、ナンマタールのロケ、岩手県龍泉洞の撮影をしている。このカメラで、僕の水中ビデオカメラマンとしての第一歩が踏み出されたと言っても良い。また、ダイブウエイズの水中カメラハウジング製作もここから本格的なものになって行く。
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 ダイブウエイズのハウジング、すなわち、僕の考えのハウジングは、必ず、オーリングはダブルで入れている。これで、まず水漏れは無くなる。またHL79E以外は、すべて円筒形にしている。これもオーリングのシール効果を完全にするためで、もちろんダブルである。次に、自分も、そしてダイブウエイズのハウジング設計者であった長谷川さんもエレクトロニクスに強くなかったために、操作が歯車を介したメカニカルになっている。このエレクトロニクスに弱かったことが、次の展開を難しくさせ、終わってしまうのだが、メカニカルは水に強い。たとえばコントロールレバーの軸、これもダブルオーリングにしているので洩らないが、もし何かで水が浸入しても、コップに一杯程度の水ならば、カメラ本体に届くことも無く、電子制御ではないから、撮影を継続することができる。これは、番組中継などでは絶対的なアドバンテージだった。そして、ほとんどすべての機材が、僕の乱暴な取扱いにもかかわらず、今回のシンポジウムに展示した機材のほとんどが、水没しないで、引退している。 
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 ファイルには図面もメモも資料も入っている。当時は、ダイブウエイズは、僕がアイデアを出していたので、僕のハウジングだけを作っていたような感じでいたが、ファイルケースにびっしり詰まっている記録を見ると、僕の発注以外のものも多い。。 そうだったのだ。動画の大型カメラの特注ハウジングのメーカーとして、ダイブウエイズは後藤道夫の後藤アクアと拮抗していて、後藤道夫はNHKのハウジングを作り、ダイブウエイズは僕の使う、そして売ったハウジングを作っていた。 だらしがない僕は、このようなファイルを持っていない。自分がやってきた本人も記録がなければ忘れ去っている。撮影機材の小史を書くのでも、各社のファイルをできるだけ調べて、編集しなければ正確ではない。しかし、そんなことは事実上不可能だ。他の機材についても同様だ。踏み込んでいったらとても「ダイビングの歴史」など書けない。資料の見切りが必須だ。つまり、自分中心の歴史になる。 それでも、僕が書かなければ、書いておかなければ消えてしまって後に残らない。 自分中心でも、できるだけ書いて置こう。 それにしても、忘れていることが、多い。ビクターのカメラは、チューブ、真空管ではなくて、板だと思っていたのだが、KY2000は、サチコンチューブだった。 その頃のカメラは撮像管を使っていて、プランビコンがトップで、サチコンはやや落ちる。  もうひとつ、VTRのハウジングについてだが、当初、のENG エレクトロニクス・ニュース・ギャザリング、電子カメラによるニュース撮影、は、16mmフィルムに代わって、ビデオのニュースカメラで、これを使ってドキュメンタリーも撮影したわけだが、ビデオエンジニアーがレコーダーを担いで、カメラマンとバディで行動した。水中でもVTRのハウジングを作って、バディで撮影できる。スガ・マリンメカニックでは、船の上にVTRを置きケーブルでカメラと結んで撮影していた。これによって、ニュース・ステーションでは、須賀潮美の水中レポートと、船上の立松和平の掛け合いが成立、呼び物になったのだが、VTRのハウジングを作れば、船からのケーブルに束縛されずに行動できる。VTRのハウジングを作ったのは、ソニーのBVU-50で、1985年に作っている。NHKが、この分離型を作ったのも1985年である。
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                     手前がVTR ハウジング
 これも、ダイブウエイズで見つけたのだが、僕が書いた「水中カラービデオカメラの開発」という雑誌のコピーがある。このコピーは、表紙がない抜出なので、雑誌名そして、何時かいたのかわからない。おそらくは、今のビデオα(雑誌)の前身である写真工業に書いたものだろう。これによると、水中撮影は、動画撮影にはライトが必須で、今のように小さくて光量の大きいライトは無いから、大きなバッテリーライトを持たなければならない。ライトマン、ライトダイバーが必要である。すると、カメラマン、VTR,ライトと三人が必要になる。船上にVTRを置くとともに発電機を回して、光量が大きい有線ライトを使うと、カメラマンと、もう一人のケーブルさばきが居れば済む。二人で済むと同時に、ケーブルさばきは、重いものを持っていないので、スチルマンを兼ねることもできる。だから、ゴムボートなど発電機を積めない状態の他は、有線の方が、常用だった。 それに僕はケーブルで船とバディで、一人で撮影するのが,割と好きだった。 しかし、やがてカメラはVTR一体型になる。 池上のHRV55は、1993年にハウジングを作っている。湾岸戦争の取材に持って行ってトラぶった記憶があるので、92年だと思っていたが、やはり93年だった。オイルがペルシャ湾に流出したことについての取材であった。  それにしてみNHKの50周年史葉、よくできていた。 同等以上のものを作るのは、大変である。 

1216  マリンダイビング

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マリンダイビング誌 50周年 おめでとうございます。

僕は、1956年に、初めてタンクの空気を吸ったのだが、正式の潜水講習は1957年に受けて、その足で潜水部を作った。だから水産大学の潜水部は60周年になった。とにかくマリンダイビングは50周年、50年と言えば半世紀だ。
マリンダイビング創刊号は、前には持っていたのだが、わけあって人にあげてしまった。まだ、ダイビングの歴史などに本当に入れ込んでいないころだ。今は痛恨の思いでいる。創刊号からのマリンダイビングを書写させてもらう約束を舘石社長としていて、何時でもどうぞと言われているのだが、行けばきっと50年分を見ることになるから、容易なことではなく、足踏みしている。  
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 僕はまだ今の、その50周年記念誌をみていない。まだ図書館だか新刊なので借りられない。で、ここに出してきたのは、1980年の11月号、 この1980年という年、今、C-カードとかなんとか、言っているけれど、そのC-カード元年がこの1980年あたりなのだ。C-カードの累積発行数は、1980年を原点としている。 それまで、僕たちの潜水の講習修了は、免許証だった。免許証は国の法律規則に則って発行するものだから、適切な名称ではないとかなんとか言われて、C-カードになった。別に免許証ではいけないと国から指摘されたわけでもなんでもない。自発的にC-カードになってしまった。お花だって、踊りだって免許だから、潜水が免許だって良いじゃないかと僕は反論したが、C-カードになってしまった。免許証は自己責任の時代、C-カードは管理責任の時代等と憎まれ口をきいたが、レクリエーショナルダイビングは、大略、管理責任なのだから仕方が無い。 あ、自己責任というと何か偉そうだから、自業自得ともいう。  このマリンダイビング・1980年11月号がその自業自得時代最後のころと言える。その頃の潜水がどんな風だったのか、今の人たちに見て、読んでもらいたい。この号は潜水事故大特集なのだ。 僕もわけあって、ここしばらくブログなどで遊んでいられないことになってしまったが、なんとかがんばって紹介しよう。 
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 潜水事故大特集の中身、 「フカシ治療は是か非か」という特集がある。ある意味これは、減圧症の本質、真実にせまっていると言える。まず「ふかし療法で私は死にかかった」これを書いた植木君は、全日本潜水連盟の四国のボスで、親しくしていた。減圧症になるとどうなるか、かなり壮絶な記録である。例えば、ひどい下痢をして、肛門が開いたままになってしまう。とか、ふかしで、何とか病院送りに出来るところまで回復して、病院に搬送する。
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 もう一つは、「わたしは、ふかしで減圧症を克服した」これは、直してしまった例。もう一つ、これは現全日本潜水連盟の会長で、当時、安全対策協会会長の岸部先生が、ふかし療法で、北海道での罹患を、電話で指示して治してしまう。もちろんこれは緊急時のことで、なんとか再圧室まで搬送することが必須なのだが,とにかく、軽微なところまでなおしてしまう。電話で指示してなおしてしまうというところがすごい。タイトルは「ふかし治療を医学的に解明する」岸部先生は外科のお医者さんで、潜水医学の専門ではない。外科というのは、とにかく心臓が動いていれば、なんとか命は助けるというお医者さんだ。
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 潜水事故については、かなり具体的な例が、あといくつか掲載されている。例えば、「ナイトダイビング中に心臓麻痺」とか、「合宿中にバディの目の前で溺死」、「荒波の海でバディ同士が死亡」「安易な気持ちが死を招く」、とか、現在愛読している「危機一髪からの生還」ではなくて、死んでしまっている。 といって昔の潜水は危険、今のダイビングは安全、そういう安易な気持ちが死を招くわけだ。 「アメリカから潜水事故の報告書が送られてきた」とか「潜水事故とダイビング団体との関係は?」とか他にも面白い記事がある。
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 そして、PADIの顧問になる松田弁護士が、「潜る権利?はここまである」これは、当時真鶴半島などで、潜水禁止が持ち上がり、「真鶴レポート」という記事もある。そして、「全国ダイビングスポット利用者会議設立」もある。 そして、最後に、なぜ僕がこの号を大事にしていたかというと、「特報、引き上げのヒーローたち」ナヒモフ号の金塊引き上げの特集を組んでいる。ヒーローとして、知った顔懐かしい顔が出てくる。この前、当時のマリンダイビング編集長の鷲尾君が、小説「ナヒモフ号の財宝」を書いたが、小説ではなくて、実録にした方が良かった。この問題で「実録」を書くと殺される、という都市伝説があり、それが怖かったのだろうか。多分。
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 今、水中科学協会では、「ダイビングの歴史」という本を企画製作中で、停滞しているが、その時代、時代を区切って、例えば「減圧症、ふかし、について」、「沿岸漁業との摩擦」とか「宝探しの歴史」とか、年表に沿って、コラムをか重ねて行く形を進めている。この号は参考になる。{ぜんぜん進んでいない」焦っている。  そんなことで、僕はこのマリンダイビング、1980年、11月号が、その時のダイビングを輪切りにしている。とおもってだいじにとってあった。

1217  お台場 ウエアラブルカメラテスト

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 12月17日お台場 寒かった。水中はともかくとして、陸上で風が強く、遮るものとてない浜だから、テントも持ってきたのだが、風が強く飛ばされるので使えない。天気が良かったから良いが、雨だったら、悲惨だった。悲惨だからと言ってやめるわけにはいかない。我慢だ。
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                      A(AKASOの略)
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                     S{SJの略)
SJ4000の2017年モデル、と今度買ったAKASO7000 を並べて撮影した。タイムスタンプのあるウエアラブルカメラの比較だ。どちらも8000円前後のカメラだ。二つ並べてステイにのせ、ライトは、イノンのLE700を一灯だけ着けた。フィッシュアイの、NEO3000を25%で撮るのだが、今日は、イノンを使って見た。単3なのライトだ。 
 
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上がA下がS

結果を先に言うと、SJで悪いことは無いが、ハゼ(ウロハゼ)を撮った画面で、AKASOが良かった。今後、AKASOがメイン、SJがサブということになる。AKASOは派手すぎる。SJの方が見た目に近感じだったので、AKASOを買って損害かと思ったが、ハゼで差があった。 水温は14度、海洋大学の依田君はウエットで潜っている。若さだ。若いころ、僕は水温6度でウエットで潜れた、流氷の下も特製の6.5を重ねて潜った。今日もドライで、水中はそれほど寒くない、ただ、時間が経過すると寒くなり、震えてくる。15万円のインナーを買えば暖かいかもしれないが、北海道ではないのだから、  シャツの重ね着で、我慢する。
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               上がA下がS
  水中に入ってから、マスクの曇りで、背の立つところまで戻って、やり直した。お台場だから良いけれど、オープンウォータだったら、ちょっとまずい。

 透明度は1.5mから2mで、気持ちが良く、泳いでいると音楽が聞こえる感じだった。 それは、暖かい海、珊瑚礁、奄美大島、モルジブならばより快適だが、お台場も悪くない。東京港だから、汚いなどと思う人が多いけれど、汚いと感じることは無い。楽しい、陸に上がって、暖かいシャワーがあるのならば、幸せだ。シャワーが無いから 我慢、我慢も悪いものではない。やや自虐的だが、我慢の後は、身体が回復する。
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上がA下がS

1218 お台場ウエアラブルカメラテスト 続

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 17日のカメラテスト、SJ4000とAKASO  そして、ヘッドにはGOPRO2を着けて行った。昨日ブログを書いたのだが、GOPROの撮影分が遅れてしまって不完全、それに、字がおかしくなって気に入らない。もう一度GOPRO分をくわえて、書き加えておこう。 SJもAKASOもヘッドに着けて記録撮影することが目標のカメラで、そのために画面にタイムスタンプがあることが僕の場合必須。なのでタイムスタンプのないGOPROを使わないで苦労している。 今度の撮影は、手持ちの2台のカメラが中心で、ヘッドカメラは、メイキング、どうやってテストしたかの説明撮影である。ヘッドにはことさらに注意しないで撮影した。
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 まず、手持ちの2台だが左側がSJ 右がAKASOで、ライトはイノンの700を使っている。いつもはフィッシュアイのFIX2500を使っているのだが、25%でも光量が大きいし、常時点灯で接近しての補助光なので、こちらにした。撮影している海底は牡蠣で、付着生物に覆われているので汚く茶色だが、この時期生きているものが多い。 AKASOの画面と比べた。GOPROの方が自然に近い。AKASOのタイムスタンプが左上に小さくでている。一番下がSJだが、タイムスタンプが大きい。AKASOのタイムスタンプがスマートでじゃまにならないで良い。
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 これは、チギレイソギンチャクと、ショウジョウケノリを撮ったもの、上からGOPRO、AKASO、SJである。
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 水面にカメラを出して撮っているところ。 これも、GOPRO、下がAKASO、SJの順である。PCのモニター画面で、大きな差があるのだが、GOPROが自然である。
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 杭のかげのウロハゼ、ライティングの状態がわかる。これも上からGOPRO、AKASO、SJ4000である。  どのカメラが良いとかいうことではなくて、このように写るということ、GOPRO2は2012年から使っていて5年目、4台買ったのだが、1台死んでいる。 とても良いカメラだ。  どのような使い方をするかは、それぞれであり、その参考になれば良い。 なお、ここで示したのは、すべて動画撮影であり、スチルに抜き出したものである。調査ではこの使い方しかしない。  ヘッドに着けて使うとして、GOPRO3は、まるでダメなカメラ、SJにもAKASOにも及ばない。持っているけれど使わない。4も5も良いが、目下のところ2で充分であり、2が壊れても、4も5も、そのころは6、7になっているだろうが、買わないだろう。調査とちょっとした記録に使うにはSJでもAKASOでも良い。AKASOの方がちょっといい。GOPRO2の絵が自然だが別にこだわるほどのことでもない。

1225 僕はここで何をしているのだろう。

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世の中はメリークリスマス、幸せで、北朝鮮のミサイルもオリンピックまでは飛んでこないだろう。
僕は、忘れていた法人の確定申告書類を作っている。計算はほとんど終了して、あとは書類を書くだけ、クリスマスには出すつもりだったけど、経理計算ソフトが壊れていて、停滞し、年内に修正した。年賀状を正月に、返事の形でだせば、つじつまが合うだろう。そんなことをしているけれど、どこも痛いところがなく、例年ひく風邪にもなっていない。
税務署への提出書類は、自分を客観的に見られる。

税務署提出書類
 事業形態
 事業内容の特異性 という欄須賀次郎 一人だけであり、高齢 82歳のため縮小を続けている。NPO 法人 日本水中科学協会でのボランティア活動にこれまでの経験を移植してさらなる成長をめざし、法人の方は終了させようとしている。終活状況である。

主な設備の状況
古くからの潜水機材、撮影機材を事務所兼倉庫(賃貸)においてあり、使えるものは使っている。
中古自動車(1台:マーチ)を機材運搬 に乗っている。

売上金額は、年間で50歳時代の 一日分、つまり自分の感覚で一個(@)だ。
つい最近、数年前までは年間で一週間分だった。
それでよく続いていると思うが、
見方によれば、経済活動としては、がんばって、昔の一週間分の仕事を一年かけて達成すれば良いので、なんとかなりそうだ。最近、ブルース・チャトウィンを読んでいて、「パタゴニア」そして、前に読んだ「どうして僕はこんなところに」を読み直している。ゲイで、42歳でAIDSで亡くなってしまった。文章がすごい。生き方も 旅 移動。
 What Am I Doing Here 「僕はここで何をしているのだろう」の方がタイトルとしては正解、でも、「どうして僕はこんなところに」でも悪くはない。人が、自分が自分に問いかける。
 税務 に戻らなければ、年内に終わらなくなってしまう。

1227 辰巳国際 AKASA とGoPro

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 今年ももうわずか。「この一年みなさまのおかげで潜り抜けることができました。」そんなふうに年賀状に書こうと思っている。年賀状をまだ用意していない。今日、ようやく一ヶ月遅れの法人確定申告をポストに入れた。わからないところは、自分のスタイルでやっつけた。  あと、辰巳の練習会は30日の土曜日だ。昨夜26日、満員だったから、30日は少ないと思う。とにかく、僕にとって潜り納め、泳ぎ納めになる。  昨日は、最近買った、AKASOとGOPRO2の比較をした。

 ながらく、辰巳に来てくれていて、結婚のパーティにも呼んでいただき、誕生日にはお花もいただいたような若い友人夫婦、中村佳樹、  純子夫妻が、急に東京を離れて、沖縄の那覇に移住するという。もうこれで一緒に泳げない。 ジャグジーで一緒になって訊いた。とにかく、潜るために、暖かい海に行くために沖縄に移住する。仕事は何も決まっていない。とにかく行くのだという。 そういうの大好きだ。若い、今でなければできない。 その二人の絵を集めた。
 二つ並べた。左上にタイムスタンプが見えるのがAKASOだ。

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 AKASOは、何回か明るさの設定を変えてとった。後でPCの上で見たら、全部同じようなものだったけど。 そのPCの画面で見て、AKASOは結構良いと見た。しかし、GOPROと比べると、やはりGOPROの方がナチュラルだ。このGOPROは、2で、今は6だから、もっと良くなっているのだろう。 ハイスピードなど、GOPRO6はすごくみえる。水中でハイスピードは関係ないけど。高価で新しいものの方が良いことは当たり前で、テストして進化が認められなければ、それは、それで終わりだ。そのうちに、だれかが6を買ったら、2と6の比較をやってみよう。 とりあえず今は2。 
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 AKASOより2の方が良い。 しかし、たびたび言うようにAKASOを使うのはリサーチであり、そのためのタイムスタンプの有無なのだ。 そのことは、置いておき、GOPROの絵には飽きている。AKASOの絵は、おもしろい。絵づくりが上手なのだ。 絵づくりといえばGOPRO6も作られた絵なのだ。カメラというもの、そして撮影からプリント、印刷まで、すべて人が作る絵なのだ。ブログに貼り付けるのも、つくっていることになる。シンポジュウムで撮影機材の展示をしたが、展示した池上の79E は、プランビコンという撮像管を使っていて、僕はそのプランビコンの絵が好きだったのだ。それも、水中から見る太陽の輝きが好きだった。好きだといって、長く見ていると撮像管の網膜に相当する部分が焼けてしまう。人間の目が太陽を見られないのと同じだ。ほんのちょっとだけ見る輝き、そして、射し込む光線。 もう一つ、白とびの問題がある。白いもの、明るいものを見ると、色がとんでしまうのだ。79のプランビコンは色とびが抑えられている。コンプレッションが効いている。このようなこと、すべて絵作りなのだ。 8000円のAKASOの絵が50000円のGOPRO6の絵に比べられるものではない。しかし、かなり上手な絵づくりをしている。おもしろい個性がある。 
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 海で調査に使うタイムスタンプ付きの安価なカメラとしては、AKASOがメイン、SJがサブということになる。

0102 企画

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 2018年、三が日の休みは、今年の企画書(1月末の水中科学協会運営委員会に備えての企画書の原案)と、一年間塩漬けになっている「ダイビングの歴史」原稿再開、書く予定にした。
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 しかし、相変わらず頭の動きがとろく、効率があがらない。それに、やはり、お正月なのだ。  ①「ダイビングの歴史」だが、ここまで作ってきた年表を全部エクセルに移し替える。その上で、集めてきた資料で年表に移し替えられるものをすべて、エクセルに吸収する。かなり膨らむはずで、同じ事項について記述が矛盾するものも並ぶだろう。 それを書いている、年表を作っている課程で、コラムを書く部分、項目、これまで書いてきたコラムの当てはめ部分、修正も見えてくるはず。なお、エクセルでの1年部分、ある年が2pになってしまっても良いとしよう。できるだけ膨らませてから、削ぎ落として行こう。そのスタートをする。 全部ごっちゃにして並べるとけっこうおもしろい。1867年明治3年、増田万吉ヘルメット潜水器により「ハラシイ号」の船底修理を行う。1870年 明治5年、ジュールベルヌが海底2万哩を発表している。とか、
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 ②再スタートする調査撮影研究会 水中撮影の目標は、大きく二つに分けられる。一つは一般の撮影で、コンテスト、展覧会、そして写真が売れるプロを目指す。もう一つが記録で、記念写真、自分撮り、そして調査研究、探査、探検の記録としての写真である。その境界はある部分では重なっている。記念写真と調査記録は、重なる面積が大きい。 調査、探査、探検は映像がなければ、実行したことが認められないから、目標の一つが撮影だともいえる。 水中科学協会では、調査撮影をこれまでも取り上げてきているが、明確に大系付けよう。そしている。ターゲットは人工魚礁にする。あわよくば、本になるのではないか。 方法論としてはウエアラブルカメラの徹底的な活用である。ウエア、身にまとうだけではなくて、設置記録を重視したい。安価な10000円前後のカメラにこだわるのは、カメラを消耗品と考えるからだ。 命よりもカメラを大事にするわけにはいかない。  ③運用研究ワークショップ ワークショップはこれまで通りの連続だが、その中で、特に運用研究をシリーズとしたい。 ダイビングに限らず、全ての海事の成否は運用にかかっている。運用、つまり、どんな風にどんな計画でやるかのことだ。日本水中科学協会のシンポジュウムは、ある部分潜水運用研究学会を目指している。 ダイビングで運用の失敗は事故につながる。運用の成功は安全が最優先する。すなわち、安全の研究になる。 そのキーは計画である。ログは結果であり、事故のログはとても大事だが、その事故のログに従って計画をたてる。つまり、このごろいうところのPDCAで、意識するしないにかかわらず、自分の潜水もこのサイクルを繰り返していたのではないか。 それを形にしていきたい。  PDCA、つくづく良い言葉、表現だとおもう。 PDCAのPDAは、会員(メンバー)で行う。C、チェックはなるべく広く公表してやりたい。つまりワークショップでありシンポジュウムである。 ワークショップでは、ゲスト、講演をお願いしたりすることもあるが、広義のC といえる。  ④もう一つ日本水中科学協会の目標は、環境に関わる活動で、東京港水中生物研究会、そして福島の原発前の調査がある。  どちらも、長く続けることで、自分たちがやる意味がでてくる。お役所では単年度もしくは2年、僕たちは30年継続を目指す。継続によって、活動するほうも成長する。より良い調査活動ができるようになる。
 そして、他の誰か、団体がやっていることについては、できる限り協力していきたい。できれば、労働ではなくて、知識、技能で協力したい。

0105 企画

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ここのところ、企画書、年表などを書くのに忙しく、フェイスブックは「いいね」を押すだけ、ブログは停滞している。それでもフェイスブックを通してみれば、自分の動きの推移がわかる。
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                       海の青さ、ボールペン
 最近、ボールペン道楽をしようと思っている。それも200円未満のボールペンだ。

 賀状で、教えてもらった。西暦から和暦への換算西暦の末尾二桁に12を足せば良い。多分、知らなかったのは僕だけ、かも知れないけれど、いつも、今は平成何年だっけと、手帳と見たりしているので便利だ。2018年の8に12を足せば、30になる。

 今日、5日は、仕事始め。辰巳のプールの抽選会、抽選といってもジャンケンなのだが、ジャンケンは毎度思い悩んで、負けると気落ちする。そこで、自分なりのジャンケンの法則を考え出した。あまり勝率は良くないが、この法則にしたがっていて負けたのはあきらめる。という法則だ。つまり、負けたとき、自分の法則で負けたのだから、仕方ない、とあきらめて立ち上がれる。

 この数年、志はあって、実行を発表もしているのに進行しない計画が二つある。一つは80歳80m、83になってしまった。 もう一つは、最新ダイビング用語事典のⅡ ダイビング年表だ。いろいろ思い悩み、頭の中で試行錯誤を繰り返した。「ダイビングの歴史」年表は正確、精緻にして、全てを網羅して、書き込む量も多くする。右の欄は世の中、業界、年表だけで全てがわかる。また、年表はダイバーが座右においておきたいものにする。
 コラムは歴史にする。歴史はある意味で小説だから、主観が入る。おもしろく読める歴史にしたい。字数の制限をしていたのだけど、やめた。執筆者は、書きたいだけ書く。ただ、テーマが重ならないようにしよう。  ノートをとって読まなくてはならない資料がやまになっている。雑誌を書写したものの整理をした。そろそろ、マリンダイビングも写しに行かなくては、だけど、フットワークが本当に悪くなっている

0113 ダイビングの歴史 スタート

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 「ダイビングの歴史」スターとした。途中で折れなければ、スタートしたことになる。 年表部分と記述部分に分けている。 これまで何度となく「ダイビングの歴史」の構成について書いているが、思い悩んでいるから、少しずつ変わっている。これからも執筆の途中で変わっていくかもしれない。
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  これまでにも、自分が関わった「潜水の歴史」という本がある。社会スポーツセンターの発行である。とても良い本で、望月昇さんがつくった。 望月さんは清水の人で、駿河湾ダイビングセンターを経営されていて、1967年の日本潜水会の発足のメンバーで、後に中部日本潜水連盟を代表して全日本潜水連盟に加わった。そして、CMASのカードが日本に上陸すると、そのCMASを発行するADS(国際ダイビングスクール協会)を創立した。そのADSとして社会スポーツセンターに加わった。僕とは糾える縄のような関わりで活動してきた。古い歴史的な潜水機材を集められていて、その博物館をつくられることを念願としていた。 この「潜水の歴史」を編纂されて後、亡くなられて、集められた機材は船の科学館に寄贈されて、望月コレクションとして展示され、僕たちが2016年のシンポジュウムで展示した大串式マスクは、その中の一つである。 その流れで社会スポーツセンターの「潜水の歴史」編纂の中心になった。この本について、かなりの分量を書いたが、執筆者ではなく、資料提供の協力者である。これは、望月さんのつくられたものだから、当然なのだ。望月さんの本であり僕の本ではない。 歴史というもの、執筆者、編集者の視点によって変わる。だからこそ歴史が学問になるのであり、研究がなされる。  「潜水の歴史」は、それこそ地球の創生から書き起こされていて、内容も詳しい。が、年表部分が巻末の付け足しである。今度の「ダイビングの歴史」は、年表部分にウエイトの半分以上を置く。まず、年表ありき、で、年表に沿って展開していく。事項の時系列での並びはできるだけ正確で、その記述は客観的でありたい。この部分について、日本水中科学協会会員で編纂していく。すなわち、原稿を見ていただく、資料を集めていただく、その正誤について、監修していただく。眼が多ければ、視点が客観的になる。 年表の事項は束ねて見ないとわからない。束ねることで見えてくる理解ができる。たとえばマスク式潜水機の歴史はマスク式で並べて、その進化を見ていかないと年表にならない。重要事項はもちろん括るが、括らなければなんだかわからない些末なものもある。800字程度のコラムにして、年表に挟み込んで行く。 先に、歴史はその視点によって、見え方がちがう。僕は僕の視点で見て記述したい。年表部分と記述部分を分ける。もちろんその整合性は重要だから、年表に沿うが、「潜水の歴史」も、望月さんの主観部分と分けられれば、僕が主になって書いたスポーツ部分も記名になっていたはず。「潜水の歴史」も、まあ、誰が書いたか想像はつくが、記名でないと、「それは違うよ」という反論ができない。議論にならない。  自分の書く記述部分のテーマは二つ想定している。  その1 安全 運用についての視点から、自分がコメントできる主要な事故例を並べる。減圧症関連は年表のコラムに入れる。 減圧症についての記述は医学、あるいは生理学の専門家でなければ書けない。  スクーバの事故史 死亡事故は、亡くなった方、及び家族のプライバシーを考えなくてはならないし、責任について裁判所で判決がでても、その詳細は掲載しにくい。歴史に残ってしまう。 が、どうしても、より安全なダイビングを目指すためにここに事故の具体例を掲載したかった。 死亡事故は同じパターンの繰り返しなのだ。  新聞などで公表されたもの、公刊された印刷物、本に掲載されて入るもの、あるいは公文書的に公表されたものについて集める。 ①1954年東京水産大学、日本ではじめての学生潜水実習で、日本ではじめてのオフィシャル?公表されたスクーバダイビング潜水死亡事故がおこる。 この事故の真因はわからない。実習生の中でもっとも泳力が優れた学生二名が死亡している。 直上にボートを置かなかったのが原因、ボートを置かなかったのは運用の問題で死因は別だろう。 そして、ボートを置かないと潜水できないのでは、スクーバの特色である陸からのエントリーができなくなってしまう。高気圧障害防止規則では、事実上、作業潜水では潜降索が必須で陸からのエントリーは認めていない。 ここで、運用の問題を議論することができる。  ②真鶴で学研の人、死亡、バディで潜っていたのだが、一人を岸に戻して、一応見送ったのだが、一緒にエクジットしなかったためにおこった事故。以後、このパターンの死亡事故が何回となく繰り返される。  ③指導員(インストラクター)の講習がひたすら事故例の学習だった日本潜水会 全日本潜水連盟になってからも事故例を集めることに努力した。資料は残っているが統計処理としてしか発表できなかった。  ④静岡県での事故多発で県警が特別集会をひらいた。 ⑤タンク爆発事故 ⑥中田氏のハワイでの事故 ⑦パラオでの漂流事故 ⑧バディが離れた事故 赤沢  ⑨スガ・マリン・メカニックの事故 ⑩科学研究ダイビングでの事故  では、どうしたら良いのか   ソロ チーム 自己責任と管理責任 高齢化  保険でインストラクターを守るのだが、訴えられて示談が成立したものしか保険がつかえない。訴えられることが前提条件なのだ。 何時の頃からこうなったのだろう。その以前はどうだったのか。 インストラクターとガイドダイバーの区別  例によってブログで下書きをしていきたい。ブログで書いて削る。  その2は、沿岸漁業、潜水漁業について

0115 ダイビングの沿岸漁業(潜水漁業)

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年表が客観であり、記述は主観が入っても良い。として、主観と客観と、だれが見ても納得のいく線引きなど、難しい。年表のコラムは、その境界にあって線引きができないものが多い。 繰り返すが年表を主柱にして書いて行き、年表部分はできる限り客観的で正確を心がける。客観的、要するに個人の意見、感想をあまり大きくしない。
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テーマの2 テーマ 2 沿岸漁業とダイビング  レジャーダイビング、レクリエーショナルダイビングの歴史は、沿岸漁業との摩擦、せめぎあいの歴史でもあった。第一種共同漁業権漁業(採貝、採藻の畑:漁業者から見て)の畑に、効率の良い器械を着けて乗り込み、海は国民全体のものだ、という議論を展開した。当然摩擦が起こる。潜っていて浮上したら、竹竿で叩かれたという話もある。その摩擦の中から協力関係を探り、そして共存する状況へと進んできている歴史である。 沿岸漁業を理解できなければ、日本のダイビングのことは理解できない。少なくとも、ダイビングによって何か日本の海のために貢献できる活動はできない。  沿岸漁業も高齢化のため衰退の一途をたどっている。その中でダイビング、沿岸漁業としての潜水漁業、そしてレクリエーショナルダイビングはどのようなことになってきて、またなって行くのかを交えて書いてみたい。 東京水産大学を60年前に卒業した。水産についてはそれなりの想いがある。
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①沿岸漁業とは レクリエーショナルダイビングと紛争?を繰り返してきたカウンターパートともいえる沿岸漁業とはどんなものだろう。 ※沿岸漁業とは、基本的には、無動力あるいは10トン未満の船を使って行われる漁業で、共同漁業権漁業 定置網漁業 区画漁業権漁業に大別される。 共同漁業権漁業とは、一定の海面を共同で利用して営む漁業をいう。 共同漁業権漁業は、第一種から第五種まであり、一種は採貝 採藻 定着性水産物 エビとかシャコなどを採る漁業で潜水漁業はこれにはいる。第二種は定置網漁業、第三種は、地引き網など、第四種は、現在は行われなくなっている寄魚漁業、第五種が内水面漁業である。 
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②潜水漁業の歴史 縄文時代から人は潜って食料を得ていた。本州沿岸では、アワビ・サザエが、どの貝塚からも出土する。③素眼で潜っていた海女について、④海女漁が盛んな地域について、長崎、能登 石川、東北、四国 三重 伊豆半島、房総半島、三陸 海士が多い場所もある。⑤海女漁は、徹底した資源管理型の漁業であった。水眼鏡の採用も一時制限されていたし、ウエットスーツの取り入れについても制限がある。資源管理とともに、冨 資源の公平な分配を意図している。 ⑥ヘルメット式 海産潜りの発祥⑦房総の潜水器漁業の推移 大場俊雄先輩について⑧マスク式とヘルメット式について、※このあたりまでは、分割して コラムにするかも知れない。 ⑨1950年代、そんな資源管理の磯、漁業者から見れば畑にスクーバが着陸しようとした。⑩スクーバダイビング、レクリエーショナルダイビングと密漁とのかかわり。密猟者は常にいる。暴力団も資金源にする。⑪沿岸漁業とスピアフィッシングのかかわり⑫伊豆海洋公園を例として、推移を見て行く。 ※一時レクリエーショナルダイビング禁止になった真鶴 ⑬共同漁業権漁業の衰退 都市のレクリエーションの勢いと反比例する。⑭高齢化と資源の減少⑮都市近くで、レクリエーショナルダイバーが訪れる地域では、ダイビングサービス=漁業組合になってしまおうとしている。組合とダイビングサービスとの綱引き⑯再びスピアフィッシングについて⑰組合地先の人工魚礁について⑭定置網漁業に眼を転じて見る。 ⑱調査潜水について⑲浜起こし、浜プランの中での潜水漁業⑳夢かも知れないスクーバによる潜水漁業の進展 2050年 海女がスクーバで潜る 実はこの部分が一番書きたかった。歴史とは、大きく外れる事柄なので、別に書くかも。 

0117 波佐間 トレーニング&撮影テスト

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1月17日 波佐間 久し振り。
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ブログに海のことを書いている余裕はないのだが、ブログ=ログ のつもりでもあるので、忘れないうちに書かなくては。ブログ=ログを書き始めてから、ログをつけていない。まずログを書いて、それを基にしてブログを書くのが正統だと思うのだが、いつの間にかブログだけになってしまった。僕の場合ログはエクセルで付けていたので、便利だったのだが、また、ブログからログにつけなおそうか時間が無いからもちろん無理。  同行は山本さん、増井さん 9時に到着、風は強いけれど、南だから、潜れる。それでも、沖に出ると波が高いので、35mのポイントには行けない。定番のドリームと高根になった。 後で述べるように、深くなかったからよかった。  ダイブコンピューターを見たら、時計が狂っている。このダイブコンピューター、こんなに使いにくいのは初めてだ。記録のために使うのだから、記録が使いにくいとこまる。  ドリーム 最大水深 23.7m 潜水時間25分 水温17℃ ヘッドマウントを、タイムキーパーとして見ると。1012飛び込み、1014着底、1038船に上がる。  今日の忘れ物は、カメラをステイ台に取り付ける三脚螺子が一本足りない。AKASOと、SJ4000,GoPro、NIKONAW130を比較したかったのだが、一回目の潜水は、ニコンをステイに付けて手持ち、アコソをマスクに付けた。もう一つステイにGoProを付けるかSJ4000を付けたかったのだが、  潜水の度に、ウエイトとバランスのことを心配している。特にドライスーツの場合、下に着こむ下着の枚数と質で変わってくる。この頃流行りのウィーズルにしなさいと言われているけれど、何も流氷に潜るわけでもない。古いものがまだまだ使えるのに新しいものに買い替えるのは贅沢という育てられ方をしている。 1980年代 流氷に潜る時に着ていた、ダマールのシャツ上下に、Deepのドライスーツインナー(1980年代はこれが最新だった)を重ねた。これで流氷に潜っていたのだから、水温17度では十分すぎるだろう。このところ、朝目を覚まして、起きるまでの間、布団から肩を出すと寒気がする。風邪かと葛根湯を飲む、その繰り返しをしているので、寒いのは怖い。流氷仕様ならば、80年代のものでも大丈夫だろう。 さてウエイトをどうしよう。7キロのジャケット、5キロのベルト、それにレッグが1.5キロ、がお台場のセッティングなのだが、忘れ物第二号、レッグウエイト。お台場は浅いところだけれど、波佐間は20mを超すから、潜り込んでしまえば大丈夫だろう。2キロをBCのウエイトポケットに入れた。  山本さんに手伝ってもらって、タンクを背負う。頭から飛び込んで、身体を立てようとする。身体が立たない。足が浮いてしまうのだ。何とか立てて、ドライの空気を抜き、BCの空気を抜く、それでも潜ろうとすると足が浮いてしまう。浮いた足が上手く動かない。そのまま沈むと、今度は墜落を始めた。まあいいや、20mだから、海底まで落ちよう。 海底で態勢をたてなおしたけれど、これでは困る。実はテレビロケに付き合うスケジュールがあるこれではどうにもならない。考えよう。  今年から、ドリーム周辺を毎月潜って記録をすることを考えている。四季の変化がみられる。 三段に重なって、きちんと並べられている2m角のブロックの,下段、海底を長辺、長い辺を撮影しながら通過する。戻りを二段目、真ん中の段を戻ってくる。コンクリートブロックでキチンと積まれている例は少ない。少ないというよりレアだ。
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               水面から見下ろすとしたの魚礁がうっすら見える。

 透視度は素晴らしく良くて、20m以上は見えている。増井さんが、このドリームの全景を斜め上から撮っている。僕は、浮上する時に下を向いて、へっとマウントで撮った。バランスを崩していなければ浮上しながら斜め上から、撮れただろう。
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 下段を通過する。AKOSOが動画なので、ニコンで、スチルを撮りながら、進む。10から15cmサイズの中型のメバルが群れてはいないが、点々といる。撮影結果を先に言うと、マスクマウントはカメラが上を向いてしまったが、AKOSOの絵は、意外性があって面白い。本当の色ではないが、一つの表現にはなる。二段目は、ニコンAWを動画にして、撮影した。そうそう、もう一つ忘れ物で、メインのFXライトの充電を忘れていたので、20%で撮ることになったが、これはこれで良かったかもしれない。NIKON AW130が記録としては、一番良かった。上の段は横断するパターンで撮った。周辺を見た。今度の撮影では山本さんに360度映像を撮ってもらっている。どんな映像になるだろうか。
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 なお、タイム表示が左上にあるのがAKASO 左下にあるのがSJ4000 タイム表示が無いのがNIKON AW130 である。
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 オーバウエイトなので、空気が早くなくなる。50に近くなったので、自分だけ先に浮上する。増井さんに浮上のサインを送ったが、見ていてくれるかどうか、ロープに伝わって浮上、サイドバーに掴まって5分安全停止、20になったので、船に戻る。タンクを外して先に揚げてもらって、ウエイトとフィンはそのままで梯子をあがる。この揚がり方が一番良い。タンクを外すのは悔しいけれど、秋の潜水でよろけて膝を痛めた。無理はできない。
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               二本目のSJ4000トップにNIKON AW130での撮影を載せた。
 2本目の潜水は、12時 水深が18m 潜水時間33分 水温は17度 今度はBCに着けた2個は、外してベルトに1キロを着けた。ベストが7キロ、腰が6キロ、合計で13キロだ。墜落はしなかったが、水面を離れる時、足が浮くのはどうにもならない。ロープを手繰って潜降した。 高根では、マスクマウントをSJ4000にした。AKOSOよりは、本当の色に近いが、良くない。しかし、タイムキーパーだと思えば良い。 結論としては、人工魚礁の撮影調査では、メインの記録にNIKON AW130 タイムキーパーとして、そして、面白いのでAKASOをメインのバックアップがGoPro、タイムキーパーのバックアップがSJ4000というところだろう。 今の僕のダイビングの状態では、大きな高級機のハウジングにカニの鋏のようなライトを付けては、カメラを壊してしまう可能性が高いし、カメラに集中すると危ない。  バランスは、下半身は、重ね着しないで、ダマールだけ、もしくはインナーだけ、レッグウエイトを着けて、レッグウエイトとドライフィンを履こうか。それと、ウエイトベルトのウエイトの位置を、腹部によせるようにしよう。・  28日のお台場でテストをする。

0127 お台場報告書原稿

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 10日間もブログの感覚が空いてしまった。
 別の原稿を書くのがいそがしい。手いっぱいなのだ。
 その原稿、2017年 お題が調査報告書の、自分の執筆部分を流用しよう。

お台場海浜公園の海 私たちが、このお台場の海に定期的に潜水調査を開始したのが1996年、須賀、個人としては、テレビ撮影のために潜りはじめたのが1985年である。それ以前には、マハゼの産卵孔観察のために、1970年代に数回潜水している。 
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 東京湾は、大都市を背後に控え、水を浄化する干潟や芦原は埋め立てられ、富栄養化して赤潮が発生し、埋め立てのために掘削された穴からは、無酸素の青潮がわき上がる。その一番奥にお台場は位置する。位置から考えれば最悪である。 自分にとって、東京港は地元の海、ホームグラウンドである。そして、一番近いのがお台場の海である。1980年代まで、今でも時折見かけるが、マスコミの表現は「死の海」で、死んでいる魚を見つけては喜んでいる。潜って見れば、海底はマハゼでいっぱい。イシガニもハサミを振り上げる。東京湾は、東京港は生きて、生命のドラマを繰り返している。 1950年代、60年代は、工場排水で、京葉沿岸は有毒な海で、荒川河口ではハゼが大量斃死して浮き上がることもあった。一方で、多摩川は鮎が遡上して、上流で産卵し稚魚は河を下って、お台場あたりの海で育っていく。このアユの撮影ちょうさもした。 東京湾で潜ることがライフワークになっているダイバー仲間がたくさんいる。ゴミ拾いが、アマモの植え付けが、ワカメを育てたり、海苔を育てたり、そして私たちはお台場の海で潜ることがライフワークになっている。  2020年、お台場が東京オリンピックでのトライアスロン会場になるということが大きな話題になっている。 私たちが1996年に東京ベイクリーンアップ大作戦というタイトルで海上保安庁、港区キッスポート財団とともにダイビングによる水中での清掃活動を開始した。以来不特定多数のダイバーをゴミ拾いに潜ってもらっているが、汚染によると思われるような、何の問題も起こっていない。 海水浴場には、その海水のきれいさのランクとして、大腸菌数の基準があり、大都市の下水、それも一系統の下水の流出先である東京湾奥では、雨が降ると、それが下水に加わって浄化能力を超えてしまい大腸菌数が増加してしまう。 東京オリンピックである。様々な浄化の手だてが考えられ、提案された。私たちも、オリンピックが無くても、浄化はいつも真剣に考えている。しかし、現段階では、夏の1週間 台風がくる可能性もあるのに、大腸菌数の基準維持を確実に保証するのは難しい。 私たちは、青潮でも赤潮でも潜り、その中での生き物の生きる姿を観察してきた。少しでも、水をきれいにしたい。赤潮も青潮もなくしたい。そのための研究努力は必須である。東京の下水も浄化されることを望む。 それはそれとして、大腸菌数が多いから、潜ってはいけないなどといわれたら、困る。自分たちの身体で無害を証明するしかないだろう。   お台場は、中心部にヘドロがあるドーナッツ,リングを想定するとわかりやすい。つまり、観察する部分はヘドロ域を囲む周辺部の浅場(磯)と、人工砂浜である。 観察域は水深2mぐらいまでで、正面に、僕たちが水に入り、水から出る人工砂浜があり、砂地の水深1mから2mぐらいの部分には、最近、千葉県の特産になった、外来種のホンビノスガイが、場所によっては群れるように砂に潜っている。僕たちのメンバーだった、東大の博士課程、杉原奈保子は、このビノスガイで博士になった。今年はまた、メンバーに復帰してさらに研究を進めるという。右側の磯部分、その60%ほどの面積の海底は牡蠣で覆われている。牡蠣は成長して死ぬので、牡蠣殻になり、その上に新しい生きた牡蠣が付く、そのサイクルを繰り返すうちに牡蠣礁になるのだが、お台場の牡蠣は1990年代の末ごろから多くなったもので、その以前は牡蠣ではなくて、ムラサキイガイの群生だった。
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               牡蠣の部分の海底が澄んでいる
 牡蠣礁になるのはまだまだ先である。とにかく生きた海底である。牡蠣が水を吸い込み吐き出す浄化作用については、諸説あるが、牡蠣の上の水がややきれいなので、その効果があるのだろうと考えている。お台場は、1mほどの潮差があるが、引いている時は水がきれいで、満ちてくると汚れた水が満ちてくる。透視度は、平均しては1m前後、年に一度ぐらい、30cm以下になる赤潮状態があるが、このときでも、牡蠣の真上は60cmぐらい見えて、濁りが層になっている
 一般のダイバーの感覚では、透視度が3m以下では潜水にならないが、ここでは2mも見えたらm澄み切った感じになる。撮影するとして、平均した撮影距離は30cmであるから、充分に観察、撮影できる。 自分なりに撮影の要領を言うと、ワイドで接写するマクロワイドが良い。
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                      8月のマハゼ
 お台場に魚が現れるのは、4月である。3月から見られる年もあったが、だいたい4月である。お台場の、というより、江戸の東京を代表するマハゼが多く、4月には、全長で20mmから30mmのマハゼ稚魚が海底に広がる。一面にいる。この稚魚がお台場で生まれたものかどうかは、調べていない。マハゼの産卵は、水深5から6mのヘドロに長大な穴を掘ってその中で産卵する。1970年代、そのマハゼの産卵の調査を、お台場付近でやったことがある。ちょうど、今、水上バスの航路になっているあたりの、灯籠のあたりで調査した。お台場の中心は見ていない。調べたいのだが、現在、私たちが潜れる許可範囲は外縁の水深3mあたりまでで、水深が5から6mのヘドロ部分は守備範囲にはいっていない。計画はしたことはあるが実施していない。産卵孔がある可能性はある。  4月にはメバルの稚魚もよくみられたのだが、この数年、少なくなってきていて、2017年はほとんど見られなかった。メバルは、普遍的に東京湾に多い魚だから、たとえば2012年に一年だけ試験枕設を東京都港湾部がやった人工魚礁(人工浅場)のようなものを再度試みられれば、メバルが増える可能性はある。クリーンアップで大型のごみ、ポりバケツや、ボール箱など撤去してしまったが、1990年代は、そのような大型ごみの陰に、メバルが群れていた。 人工魚礁、人工の磯場の造成は、是非やってみたいことではある。
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              ドロメの稚魚
 他に目立つ魚としては、ドロメの稚魚、3cmぐらいのものが群れている場所がある。いつも同じ場所に群れている。 トサカギンポは、かわいいことで、お台場のスターで、牡蠣殻の中で産卵するという。牡蠣殻を出入りしている。
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             牡蠣とトサカギンポ
 ハゼの類で、マハゼの他に周年よく見られるのは、チチブ、アカオビシマハゼ、アゴハゼで、細いニクハゼは、穴の中にすぐに隠れる。他のハゼよりは寒さに強いらしく、他のハゼよりは秋深くまで見られる。 夏期に水温が高くなると、水の上下の対流が無くなり、上と入れ替わらない底層がよどんで、底棲生物が酸素を消費して低酸素になる。 それでも、お台場の魚たちは、低酸素を逃げるすべを知っていて、何とかやり過ごす。2015年の低酸素の時は、ハゼたちが潜んでいる牡蠣殻や岩の隙間から表に出てきて、岸近くに来て、浮いたりしていた。夏に金魚が鼻上げをするが、それと同じだ。その時に出てきているハゼの数がものすごくて、海底はハゼの絨毯のようになった。もしも、あのハゼたちが全部死んだら、それこそ死屍累々で話題になるだろう。幸いにして泳げる魚はどこか逃げる場所があるのだろう。2012年の貧酸素の時は、魚一匹見えない、死の世界のようになったが、11月になったら、どこからともなく出てきて、元に戻った。だいたいにおいて、ハゼの類は貧酸素に強い。また貧酸素に強い種類だけがお台場で生きているのだろう
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       ホンビノス 手で簡単に掘れる。 ただ、逃げられる魚は良いけれど逃げられない二枚貝、カニの類などは困る。さきにホンビノスが千葉県の特産になったことを述べたが、ホンビノスは、外来種で、環境の悪化に強い。その上で、まずまずおいしい。漁業者の救世主になった。この強いホンビノスが、2012年の貧酸素の時、お台場の人工砂浜のホンビノス生息水深1ー2mが、大型のホンビノスの死屍累々になった。なお、ホンビノスの生息する水深は深いので、潮干狩りの対象にはならない。こんなにも居たのかと驚くほどの貝が死滅した。これで、お台場のホンビノスも全滅かと思ったが、なぜか、小さい稚貝のホンビノスは酸素が無くても死なないで、次の年には大きくなった。だから死殻の下を掘ると、新しいホンビノスが出てきた。死に殻も次第に砂に覆われて、元に戻った。自然はやわではない。 外来種と言えば、カニの類、チチュウカイミドリガニというカニが1990年代の終わりに増えた。そのころホンビノスも来たので、何か原因があったのかも知れない。 お台場でカニといえば、イシガニである。イシガニは、泳ぐ遊泳肢があり、おいしいカニであるガザミの小型版で、おいしいが小さいので漁獲の対象にはなっていない。 そのイシガニの競争相手としてチチュウカイミドリガニが来た。こう言うとき、研究者は、在来種が圧迫されて、ニッチ、縄張りを失い、外来種に取って代わられて、生態系が変化してしまうと心配する。 一時期、お台場のどこででも、チチュウカイが見られたのだが、なぜか2013年頃から、お台場では姿を消してしまって再びイシガニの天下になった。 しかし、そのイシガニも2015年をピークに減少した。今では見つけるのに苦労する。  お台場は夏には生き物でにぎわうところだが、生き物に良好な環境ではない。環境がちょっと悪化すると、その種は死に絶えるか弱体化する。するとその縄張りに別の種類がくる。競争相手が居ないために、爆発的に増える。ウミウシの類、トゲアメフラシが海底に敷き詰めたように一面にはびこった。今では少なくなった。 種の多様性とは、あの種もこの種も生き残っていることなのだろう。ある種が死滅して他の種が入れ替わるということは、環境が不安定であり、悪い。お台場は死の海ではないが、生き物が生きるのに苦労している海だ。  最近、気になるのは、カニの数がへったことだ。大型のイシガニの他に、お台場にはタカノケフサイソガニというイソガニの類が多かった。生きている牡蠣をナイフでこじ開けて、置くと、どこからともなく、このイソガニが集まってくる。90年代、には山になるほど集まった。最近やってみたら、2ー3尾しか集まらなかった。 そうだったのだ。これを毎月、同じ場所でやって数を数えれば、このカニの多少、消長がわかる。毎月やるようになったのはつい最近だ。  ヤドカリもお台場では数多い生き物だ。個人的にはヤドカリが好きだが、ヤドカリはどうも、私たちが潜る水深、水深といっても1m前後だが、少ない。もっと浅いところ、膝までの水深の石の隙間に隠れているらしい。磯遊びする子供たちが良く捕まえている。 そのヤドカリのやや大きめの個体のヤド、背中に背負う貝がアカニシだ。アカニシも消長があるが、だいたいにおいていつでも見られる。競合する種類がいないのだろう。雄雌重なって産卵している。アカニシの卵が、ナギナタホウヅキである。ホウヅキといっても今の子供たちは口に入れて鳴らすようなことはしないが、大型のものは口に入れて絞るとキュッという音がする。昔の子供たちの遊びだ。お台場のナギナタホウヅキが鳴るかどうか今の私たちは鳴らせないのでわからない。 メバルと同じような大きさで、同じところにいるのがシマイサキの稚魚だ。これも最近は少ない。 エイの類としては、ツバクロエイが大きい。アカエイも居るのだが、エイは二枚貝を食べている。エイを踏みつけたりして刺されると、病院行きになる。毎回見るというほど多くはないが、砂浜の部分には探せば見つけられる。 マハゼを置き去りにしてきてしまった。マハゼは 6月頃になるとかなり大きく、5ー6cmになる。釣りの方では、デキハゼ、今年できたハゼというらしい。これが、お台場の周辺全域に群れている。お台場には、5ー6月頃、全面に無数のイサザがいる。イサザは小さいエビの類だ。これを食べて、マハゼはぐんぐん大きくなる。7月、8月になるとずいぶん大きくなる。一方まだ小さいマハゼもいる。これは生まれた時期に差があるからなのだ。そして、9月になると成魚、親の大きさになる。10ー12cmぐらいになる。もう十分に釣りの対象になる。 そして10月ー11月、マハゼは姿を消してしまう。どこに消えるのかしらない。そのころハゼ釣りのシーズンになるので、釣られるところに出て行くのだろう。産卵の場所を求めて深場に下るのかもしれない。 マハゼの居なくなったお台場にマハゼのような顔をして、マハゼと入れ替わっているほぼ同じ大きさのハゼがいる。ずいぶん長らく、これをマハゼだと思っていた。写真を見た、分類に詳しい子がこれはウロハゼだという。ウロハゼも最近、といっても10年ぐらいだが、それまでレアだったのが普通に見られるようになった。ウロハゼは12月までいる。
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            硫黄バクテリアの膜(夏に発達する) 春の5月ごろから秋の11月ごろまで、お台場ドーナッツの中心部分、ヘドロの上に白いカビのようなものが広がる。多いときは薄い髪の毛のように伸びる。硫黄バクテリアである。硫黄バクテリアのあるところ、硫化水素がある。しかし、硫化水素を発生させるのは硫黄バクテリアではなく、その下のヘドロの中の硫酸還元菌であり、硫黄バクテリアは硫化水素を同化している。硫黄バクテリアは、年ごとに消長はあるが、常に魚の多い時期にヘドロの上に広がる。硫化水素は猛毒である。が7月ごろのマハゼは、この硫黄バクテリアの上にも、数は少ないが居る。マハゼは、貧酸素にも強く、硫化水素にも強いのだろうか。猛毒の硫化水素は海底の上、どのくらいまであるのだろうか。時に、硫黄バクテリアは、海底の上、数十センチに雲のようにたなびいていることもある。その水を飲むわけではないが、その中で泳いでいても別に何事もない。海底の硫黄バクテリアの存在の仕方を調べることは、重要だと思うのだが、よくわからない。上をスクーバダイバーがおよいでもなんともないことはわかっている。青潮がやってきて、汚染がひどかった2012年だったか、水がどぶ泥の匂いがしたとき、お台場から上がった女性が、シャワーとて、僕たちにはないので、そのまま電車に乗るのが恥ずかしい、ということはあったが、体に異常はなかった。  そんな、お台場になぜ潜るのか、東京湾の学術的研究の第一人者である東邦大学名誉教授の風呂田博士は、一緒にこの計画を始める頃、生物と同じ環境に自分の身体で入って行かなければ、研究はできないと言っていた。 

0128 お台場

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             尾島さん、多留さんに送り出してもらう。             エクジットは一人で上がれた。 1月28日お台場 水面の水温8,6度、気温が7度だから、外洋水が入って来ないお台場だから、そんなものだろう。水深3mで、10度。久しぶりに、10度以下で泳いだ。もちろん、冷たい。今日は新しいドライスーツを使った。サンファンの宮本さんが、モニターでつかわせてくれるという。これまで、2011年から、ワールドダイブのドライスーツを使っていた。これも良いドライスーツで、7年間、ろくに手入れをしない僕の酷使に耐えた。一度も浸水しなかった。サンファンは、生地がやわらかいので、着やすく動きやすい。 1月、お台場に魚の姿はない。透明度は二層で、海底から20-30cmは、2mぐらい見えるだろう。その上の濁っている部分は多分1m以下だろう。測定する道具は持ってこなかった。ドライスーツでいつも書いているのはウエイトの数、とバランスだ。この前の波佐間で、バランスが悪かったので、今日の目的の一つは、ウエイト調整とバランスだ。ジャケットが7キロ、ベルトが6キロ、それにレッグが、1.7キロ、このブログを見た久保君が、いくらなんでも重すぎる、と忠告してくれた。だから、サンファンのドライが新品で浮くと思ったがm、ウエイトは増やさず、レッグの1.7キロをやめて、マンティスドライフィンにした。これはレッグウエイト不要という重いフィンだ。やはり軽かった。ドライの空気を絞り出して、BCの空気も完全に抜いて、水深2mでバランスする。3mに沈めば、ドライにちょっと空気を入れる。今日の目標のもう一つは、AKASOと、SJ,NIKON AW130、オリンパスTG4の比較だ。これも、もう何回もやっている。SJとAKASOでは、AKASOの方が少し良いはずだ。これも、予想していたことだが、牡蠣の元気が良く、口をちょっと開いて、生き生きしている。ここの水の透視度が二層になっていて、底の方がきれいなのは、牡蠣の浄化作用だろうということ、いやいや、牡蠣は排泄物の冨栄養でかえって濁らせるのだという意見もある。でも、牡蠣の居るあたりの水底から30cmぐらいまでがきれいなのは、牡蠣のおかげとしても良いようだ。
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                     AKASO
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                            SJ 4000
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       杭           は、NIKON AW130 突きあたりの杭のあたり、冬の今頃は、ヒメホウキムシがきれいなはず、と行って見たら、ヒメホウキムシは影も無く、チギレイソギンチャクも見えず、汚らしい付着生物でおおわれている。この汚らしいのが何なのか、誰かに聞かなくてはいけない。バクテリアだろうか。今度、次の回、尾島さんの顕微鏡でのぞいてみよう。  例によって、という事は、年齢のためだと思うのだけれど、元気いっぱいという事は望めない。ようやく立ち上がり、這ってエントリーする。 一回目の潜水で、身体が冷えて、上がってドライスーツを脱いだところで、日は照っていないし、風をさえぎる壁もない。今日こそは一回で終わりか。 11時40分ごろにあがって、カップ麺を食べ、13時30分近くなると、これも例によってなのだが、こんなことではいけない。これはトレーニングなのだ。トレーニングで元気を取り戻さなければ、明日からの士気が沈んでしまう。それに、ウエイトの調整ももう少し確実にしておきたい。ドライフィンが慣れないのでパタパタしている。いつものダイブウエイズトライスターにしてレッグウエイトを着けて、バランスを見よう、それに、活きている牡蠣のアップも撮って置こう。14時過ぎ最後の尾島ママが上がってからだから、僕が入って上がれば、終了だ。気合を入れて準備をして、入る。それほど冷たくは感じない。やはりスーパートライスターの方が泳ぎやすい。ウエイトは増やしていないので、もちろん軽い。少し深い方、といっても水深3mなのだが、ドライの空気を絞り、BCの空気も絞って、息を吐き出してヘッドファーストで潜る。ドライスーツが軟らかいので、フィンキックが出来る。水深2mでバランスして水平に泳げる。1.5mに上がると、ちょっと浮き加減で、ちょっとのことで浮き始まると、止められない。2.5になると、ちょっとドライに空気を入れる。ドライの手の動きが少なくて済む。このドライスーツは、給排気バルブが軽い。 普通のダイビングならば、2mでバランスできるこのウエイトで良いだろう。1mでバランスをとるお台場は異常な場所だから、やはりあと2キロ着けよう。 牡蠣を撮影しようとして、水深2mでは、牡蠣がほとんどいないことがわかった。下記は1、5mから上で、1mあたりが多いようだ。1.5mで牡蠣を撮っていると体が浮いてしまうので、少し苦労する。
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                      牡蠣はTG4  誕生日が25日だったので、ここでも、プレゼントをもらう。「ありがとうのきもち」というハート形のせんべいを三ツ橋がくれた。尾島ママはココアを、くれた。ありがとう。こちらは、鈴木君が25日誕生日にくれた、行列が出来るドラ焼きをみんなに一つずつあげた。ちょうど数だった。

0130 カメラテスト

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               お台場 オリンパスTG 4 動画からのスチル アオサの類

ウエアラブルのテストを繰り返して来たが、大体の結論が出た。ウエアラブルはタイム測定に使うので、タイムインサートが必須となる。GoProはタイムインサートがない。AKASOもSJもタイムインサートがあり、動画から静止画にしても、フェイスブックブログ、報告書に使う小さな写真ならば、十分に対応できる。SJの方がナチュラルな発色だが、AKASOの方が面白い。透明感があり若干シャープである。まあ、どちらでも良い。マスクマウントにするかスチルと並べるかだが、これは状況に応じてという事になる。スチルに並べて動画にしておいた方が使い道は広い。
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辰巳 オリンパスTG 4 動画からのスチル  
 次に、今現在 オリンパスTG-4 とNIKON AW130 を使っているが、オリンパスTG 4は、プロテクターに入れて使うのが原則、プロテクターも売りたいのだろう。水密機構が脆弱であり、耐圧も15mまでしかない。仕方がないサードパーティのプロテクターを買うことにした。オリンパスTG 4とNIKON AW130の比較でしばらく遊べる。

0205 日本アクアラング

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日本アクアラングからカタログが送られて来た。表紙をめくると、クストーの若い時の写真、そして、左下に若者二人の写真が。
1961年に日本アクアラングが創立されたころの写真です。二人並んだ左が上島さん、僕の同級生で、後に日本アクアラングの社長になります。今、ダイビングの歴史を書いていて、スクーバ事故の話の中の第二話、1958年、人工魚礁の調査で僕が死にかけたときに同行していた同じ教室の親しい友人です。1959年に僕たちは卒業します。「大学は出たけれど」職がどこにもない時の卒業でした。僕はわけがあって。働かなくてはならなくなり、今の事務所の近く、古石場にあったブルトーザーの再生工場で働きます。上島さんは学校に残って専攻科に席をおいて教室に居ます。そこに、日本アクアラング創立で、二人欲しいという話が来ます。僕がもしも、教室に残っていたら。僕は地団駄を踏みます。そして、ブルトーザーの工場をやめて、東亜潜水機に拾ってもらいます。僕らの恩師である宇野寛先生は、僕の就職先を、東亜潜水機とそして、旭式マスクの旭潜水研究所の二か所を想定していて、東亜に断られれば、旭の佐藤社長に頼むつもりだったと後で言います。
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 日本アクアラングのカタログ、左側の上島さんの右に立っているのは浅見さんで、一級下のやはり同じ教室です。1957年にいまの海洋大学潜水部を作った時の同志です。多分今の日本アクアラングの人は浅見さんのことを知らないのだろうと思います。
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 二人の写真の右に集合写真があり、左から6人目が上島さんだと書いてありますが、浅見さんなのです。浅見さんの方が潜水は得意なのです。二人の内上島さんは、一年上級だったこともあったのでしょう、日本での創立の仕事をするために、一人で先に帰ってきます。浅見さんは残ってダイビングの技術を専門にすることになり、この集合写真はアメリカでの創立まもないNAUIの指導者、つまりインストラクターの講習です。日本で第一号のNAUIインストラクターです。日本のNAUIを作る田口君は、その少し後です。
 PADIは、二人が研修に行った、提携会社のUSダイバーズと関連して作られるのですが、二人が行った時にはまだ混とんとして形になっていなかったのでした。で、浅見さんはNAUIのインストラクターになります。
 僕が学校に残っていて、上島さんと二人が日本アクアラングに入ったとして、僕は、NAUIのインストラクターの第一号にはなったでしょうが、社長になったのは、やはり上島さんだったでしょう。上島さんは日本に戻ってきて日本アクアラング立ち上げの仕事をします。日本アクアラングはフランスのスピロテクニック、これはクストーと二人でアクアラングを作ったエミール・ガニアンの居た会社で、アクアラングはこのスピロがつくって販売します。そのスピロの同系列会社が日本の帝国酸素で、この会社もフランス人が経営者です。その帝国酸素と、日本の川崎航空が合弁で日本アクアラングを作ります。川崎航空は、レギュレーターを作っていたのですが、日本アクアラングが出来る機会にスクーバ事業から撤退します。
 創立時の日本アクアラングの社長はフランス人で、日本アクアラング専務の中村さんは帝国酸素の人で、フランス語ペラペラでした。その下が上島さんで、フランス人の経営は大変に厳しくて、毎年、必ず黒字にしないと首が飛ぶとのだそうだ。
 同じ教室の三人ですから、日本アクアラングと東亜潜水機は業務提携を結びます。日本アクアラングが日本で工場生産をするようなものがあれば、そして、工場仕事は、東亜がやり、東亜は日本アクアラングのレギュレーターなども販売します。
 で、僕は日本アクアのアクアマスターを2万8千円で売り、自分の東亜スクーバを1万8千円で売ります。
 浅見さんのほうが潜水担当ですから、僕との接触は多く、1966年に共著で、日本で初めてのスクーバ潜水指導書である「アクアラング潜水」を書きます。この「アクアラング潜水」の指導プログラムは浅見さんが書きましたから、NAUIの血を引いています。1967年に創立した日本潜水会は、僕と、浅見さんと、後藤さんの三人でつくったので、これもNAUIのプログラムに近い者でした。そんなこともあり、日本でのNAUIを作った田口君とも仲良しだったので、日本潜水会とNAUIの提携の話も進んでいたのですが、全日本潜水連盟ができる時にPADIが参画したので、NAUIは撤退します。日本潜水会のカード発行をNAUIがするという提携だったので、PADIが入れば、それは無くなって当然で、別に喧嘩別れはしていません。
 

0207 スクーバダイビング事故の歴史 1 1954

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 1957年の装備 竹下先輩 ウエットスーツは今のものとはちがう。

 東京水産大学小湊実習場にて、ここでは、事故の歴史、と言うか、僕の事故とのつきあいの流れを書く。「ダイビングの歴史」の記事にするつりだったけれど、どうなるか。ブログにのせるのも、長すぎてためらわれる。
 
 
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はじめに
1953年に日本にスクーバダイビングが導入されてからの、事故、の歴史を振り返って見よう。自分の目(視点)から見た、あるいは自分が体験した事故についてである。ここまでも再三述べてきたように、物事は、誰がどんな思いで、どこから見たのかによって大きく変わる。したがって、別の視点、別の解釈も当然ある。それはまた、それで、見て、読んで自分なりの結論が見いだせれば、良い。
 僕たちの目指しているのは、ダイビングの運用、やり方を論じて行く、ダイビング活動運用学とでも言おうか、日本水中科学協会のシンポジウムは、ダイビング活動運用学会を目指している。人間が生存し続けられない水中という環境に入っていって、目的を達して無事に戻ってくる。それには、どうしたら良いのかというやり方の研究である。
潜水医学とか、生理学の研究は、また別にある。それを基にしてどうしたら良いのか、どうすれば良いのかである。それをまとめて運用学と呼ぶ。
 運用は理論の実践である。実践の結果、実践の過程で起きた失敗、あるいは悲劇的な結果を、経験という。人はほとんどのことを経験から学ぶ。失敗は二度と繰り返さないのが理想である。すべての失敗が繰り返されないようになれば、成功だけが残る。そんなことは理想であり、実際には在り得ないが、失敗から学ぶことによって、失敗の被害を最初言う限度にとどめることは出来る。潜水、ダイビングとは、特に経験から学ぶことが多い活動である。経験とは個人が持っているものであり、そのままでは、他の人には役立たない。
それを文章に表現することによって、他と共有することができる知識になる。
 こんなことは誰でも知っていることであり、取り立てて、述べることでもないが、スクーバダイビングで起こった失敗、事故、あるいは事故にならない一歩手前の出来事を、なるべく時系列にそって述べて、知識として共有したい。
 
 事故は、個人的なことであることが、多く、プライバシーに言及することにもなる。ダイビングの事故は、賠償にも関わるので、慎重に扱わなければならない。一番いいのは具体例はのべないことである。しかし、それでは、具体例、すなわち経験を知識に変換することができない。日本という国では、事故について詳細を語ることを嫌う傾向が強い。火中の栗を拾うことになるのだが、ここでは、出来うる限り、すでに本、新聞、ネットなどで公表されていること、を出典を明らかにして、引用する、あるいは、自分自身の体験をのべることにしたい。
 
 ※ブログに書くという事は、印刷物にする前に、問題点の指摘を受ければ、修正可能である利点がある。事実関係の誤りについては、指摘を受けることはありがたい。自分の方が正しい、と直さないこともあるが。 ダイビングをはじめて、60年になる。潜り続けて来た。今も、出来るだけもぐっている。その間、大げさかもしれないが、常に生と死を考え続けて来た。ダイビングとはそういうものだから、ダイバーのだれでも同じだろう。そのことを考え続けているから、生の側に居られるのだろう。自分については、そう思っている。何にも考えない幸せな人も少なくないが。日本初のスクーバダイビング事故
何事も、世界初、日本初というのは胸を張れるものなのだが、事故については、自慢できない。自慢できないが必ず始まりというものがある。自分にとっての原点にもなっている。
日本にスクーバが正式に紹介されたのは、1953年(詳しくは年表部分のコラム参照)東京水産大学安房小湊実習場であった。その時に教えを受けた宇野寛、神田憲二が、日本での正式なスクーバダイビング技能講習を開始する。
それまで、進駐米軍関係者から手ほどきを受けた、という人が何人かいるが、それは講習と呼べるものではなかった。
その日本初の講習で、死亡事故が起こる。1954年の夏、小湊実習場で、学生に対する講習が行われた。日本初である。僕(須賀)が東京水産大学に入学したのは、1955年であるから、この事故には立ち会っていない。不遜なことを言えば、立ち会いたかった。
 事故のあった講習での指導教官は恩師である宇野寛(後に名誉教授)であるが、実習の際にこの事故について言及されることは無かった。本当に不遜な事をいえば、きちんとした報告書として、残してほしかった。そうすれば、後で起こるいくつかの事故が、防げたかもしれない。
 文章として残すことが、経験の共有になり、それを知識という。なお、知識によって回避したことは、頭の中の出来事だから、これも書き残さなければだれも知ることはできない。 報告書が無いので、後に断片的に先生に聞いたこと、また実習場の古川技官に質問して断片的に聞いたことなどを総合した類推である。正確ではないが、これはこれで、調査結果という、一つの報告ではある。
 
 まず、事故はダイビング講習が終了した後に起こった。宇野教官は現場にはおられなかった。講習中であれば、不在はありえない。死亡したのは旭さん〇〇さんの二名で、実習が行われた実習場前の入り江で、エントリー場の小さな桟橋から沖に向かった。誰がどこから見ていたか不明だが、見ていると一人が浮上して、助けを求めるように手を振った。その後沈んでしまい、見ていた者が異常を感じで小舟を出し潜ってみたところ、二人を発見し引き上げたが蘇生しなかった。
 なお、この小舟は何時も桟橋にもやってある艪漕ぎの木船で4人程度が乗れる。遊びで艪漕ぎの練習をよくしたもので、大学の実習場でこのような小舟に普通に名づけられる「サジッタ(プランクトンの名前で日本名は矢虫)」であり、実習中はダイバーの気泡を追って付いている。艪漕ぎの船は視点が高いので、気泡を追って漕ぐのに適している。
 二人が何の目的で、何をしていたのかわからない。一つは、実習に使用したロープ片付け撤収、何か探し物をしていたのかも知れない。あるいは、何か理由をつけて、遊び的な体験ダイビングをしていた。この二人は泳力抜群で、実習の成績はトップであった。ロープの撤収であれば、小舟が追従して引き上げなどを行うだろうから、片づけとは考えにくい。が、考えにくいことをやっていたかもしれない。


小湊実習場 今は千葉大学の実験場になっている。この前行って潜って来た。桟橋まわりは昔と変わらない。
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        上は昔、下は今。この沖100mほどのところで事故は起こった「
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 とにかく、二人はバディを組んでおり、そのうちの一人が浮上して救助を求めている。当時、事故原因は、息を止めての急浮上による空気塞栓だとも言われたが、実習の初めから、息を止めての浮上は固く戒められており、二人が連続して肺破裂をするとは考えられない。なお、解剖所見などは公表されていない。 この事故は学校側の刑事責任が問われる裁判になっていて、現場の責任者である、宇野講師(当時)が矢面にたっていた。この講習の翌年は講習は行われず、翌々年の1956年に講習が再開された。講習は3年次に行われるものであり、当時3年生であった、竹下、橋本両先輩らが受講している。聞けば、ロープを体に結び付けて、鵜飼の鵜のような状態で講習が行われたと言う。その翌年の1957年に僕が受講する年次になるわけだが、鵜飼の鵜にはなりたくなかった。幸い?にして僕の年次からはロープは付けられなかった。スクーバの最大の特色は、ロープなどで拘束されていないことであるから、拘束を実習で続けるのは無理である。このことは、後になって自分にとって、大きな意味がある。この事故の歴史の芯でもある。
 刑事裁判が続行中であるにもかかわらず、実習が再開された恩恵で僕は実習を受けることができたが、当事者であった宇野寛先生の心労は大きなものであったとだろう。しかし、その心労を私たちに語られたことは無かった。これも、語られた方が良かったと思う。 責任追求の具体点は、小舟のサジッタが頭上の水面に居なかったことであったと聞く。そして、僕の四年次に先生に聞いた範囲では、「疑わしきは罰せず」だったという事であった。舟が頭上に無かったことの責任を問われて有罪であったとするならば、その後、すべてのスクーバダイビングで小舟を頭上に置かなければ、刑事裁判で有罪になってしまう。即ち、スクーバダイビングはできなくなってしまう。 この事故は、その後、数えきれないほど起こる原因不明、予測不可能の第一号であった。事故の原因は当事者、本人でなければ正解はわからない。そして、事故は強者に起こることが多い。理由は簡単、強者は自分でも、他からもケアを受けていないことが多い。しかしながら、強者がケアをしないことも自然であり、自分にしても、強かった年齢、体力の時は、自分は死なないと思っていた。
 すなわち、インストラクターもダイブマスターもクラブの主将(キャプテン)作業でのチーフダイバーも不死無敵ではない。 この事故で遺族からの民事訴訟が起こされていたかどうか知らない。起こされていたならば、翌々年という早い時期での潜水実習の再開は無かったと思う。
 
 自分についていうと、バディが居たからと言って事故を防げない場合もある。頼りになるのは、頭上に置くボート、小舟である。出来うる限り、小舟、ゴムボートを置くようにしようと考えるようになった。以後、何回か、頭上に置いた小舟で事故が大事に至らなかった経験がある。陸上からエントリーできるということは、スクーバの大きな有利点であるのだが、それがために起こった事故が多い。陸上からのエントリーによる事故の大半は、ボートが頭上にあれば助かっただろう。日本初の事故と同じことだ。

0209 事故例2 人工魚礁調査

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 ブログに載せるには長すぎると思うし、このような文の集積を「ダイビングの歴史」の載せられるかどうかもわからない。しかし、とにかく、

 人工魚礁ブロックの模型を見た目のように並べて、全体像を知ろうとしたもの。
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事故例 2
 事故の詳細を知るには、彼もしくは彼女がどんなトレーニングをしていたか、どんな講習を受けたか、そのキャリア、経験 その人の性格、そしてその時の海況 場所、流れ、水温、水深 設備、もちろん器材、そして同行している人などが必須である。
ここまで記録している事故例は、その報告書を受ける側にならないと受け取れない。
 
、自分の経験、報告書、本雑誌など公刊されたもの、現在であればネットにも公開されている。ここでは、そのいくつかをなるべく時系列で紹介したい。時系列でというわけは、器材も考え方も周囲の状況も事故の原因になるからである。 その中で、一番正確なのは、その事故本人の報告である。しかし死亡事故、死んでしまえば、それは受けられない。
 まず、自分の事故例、もちろん生きているから書ける。
 1958年、東京水産大学4年生の時の出来事である。
 なお、これらのことについて、拙著 「ニッポン潜水グラフィティ:成山堂書店書店 2014」も参考になる。
 まずこの例に先立つ僕のトレーニングとキャリアだが、大学1年からダイビングを生涯の目標にしようと志を決めた。葉山の磯で、素潜りで魚を追いまわした。大学2年生の時、3期上の白井祥平先輩の手伝いで、奄美大島に行き、タンクを背負って10分ぐらいダイビングを経験した。3年次に大学のダイビング講習をうけた。当然、僕は技術的、泳力的にトップだった。東京水産大学のダイビングについてはトップエリートだった。そして、日本潜水科学協会の学生会員第一号になった。そして、一年上の竹下、橋本、両先輩、同級生で僕のバディの原田と語り合って、潜水部を創立させた。2017年、昨年だが、潜水部は創立60周年を迎えた。 4年次、潜水実習の教官だった宇野寛先生の教室に入った。当時、日本全国でダイビングができる大学、そして教室は、ここが唯一だったと思う。卒業論文のテーマには、サザエの日周成長線で、サザエの育ちかたの良否、生態を選んだ。伊豆大島の波浮の港の湾でのフィールド調査の結果と分析がテーマである。その昔だから、伊豆大島には、空気充填設備は無い。アクアラングを買うということは、充填用のコンプレッサーも購入することを意味していた。コンプレッサーが無い場合には、充填済みのタンクを現地まで運ばなければならない。
 伊豆大島へ、充填済みのタンクと、大ボンベ、7立方mのボンベを3本運び込んだ。使い終わったアクアラングボンベに親ボンベから移充填する。昇圧器などは無いから、移充填するたびに充填圧は下がってくる。最後は20キロでも移して潜水呼吸する。さすがに5とか10は無いが、背負っているタンクはゼロまで吸い尽くす。今のように、戻った時が50atm、ターンプレッシャーが100などというのは夢にさえみない。
 1958年 7月 須賀、原田のバディ、に宇野先生の3人で、波浮湾で、ライントランセクト、今でこそ、ライン調査は調査の基本だが、当時は、生物関係の潜水調査では、僕たちが日本での嚆矢だった。なにしろ潜水する研究者が数えるほどなのだから。
 およそ20日間ほどの予定だったが、タンクはたちまち吸い尽くしてしまった。後は素潜り、スキンダイビングでする他ない。 毎日スキンダイビングで、それも次第に深みへと進んでいく。忍者が萱の種を蒔いてその上を飛び越える。成長するにしたがって高く飛ぶ。同じように僕たちも、20mていどまで潜れるようになった。海士級であり、当時としては威張れた。
 そして、その8月には日本潜水科学協会が日本橋三越の屋上に円筒形、径3m深さも3mのアクリルプールでスクーバダイビングのデモストレーションをやった。見せるものはバディブリージングと水中脱着である。これに参加して、水中脱着は目をつぶってでも出来るようになった。タンクの空気はゼロまで吸える。このことは良いか悪いかわからないが、とにかく移充填で20キロならば使った。 そうなると、スキンダイビングでタンクの空気を吸っているわけだから、空気塞栓による肺破裂の可能性が限りなく高いわけだが、そんなものは水面を向いて息を吐き出しながら上がれば良いだけだからと、問題にしなかった。それに、浮上して肺の内圧が上がってくれば、気道が開放されている限り、空気は出て行く。
 そういうダイバーとして、自分は恐らく日本で有数、指折りだと自賛していた。 夏も終わり、秋も中ごろだった。人工魚礁の調査潜水が宇野教室に持ち込まれた。
 人工魚礁は1935年ごろから、本格的になったが、戦争で中断、、そして戦後になり、食料としての魚類生産拡大の切り札のひとつとして、コンクリートブロックが各地に沈設されはじめた。しかし、潜水調査はまだ本格的には始められていない。日本潜水科学協会の主要メンバーには東海区水産研究所もあり、各地の水産試験場もマスク式潜水などでの調査は行っていたが、まだアクアラングによる調査例は少なかった。アクアラングによる調査の先端を走っていた宇野教室に調査の話が持ち込まれた。 人工魚礁は、後に自分のライフワークの一つになるわけだから、当然、僕はやりたかった。しかし、僕と原田は夏に採集したサザエの日周成長線を数えるのに忙しい。365本数えれば、一年間の成長がわかるわけだが、三年物ならば、365本掛ける3、五年ならば、掛ける5を数える。とても人工魚礁はやれない。後に日本アクアラングの社長になる上島君が、宇野教室に来て、研究テーマが無くてぶらぶらしていた。しかし、上島さんは、ダイビングについては、潜水実習を終えただけのキャリアだった。目標とする人工魚礁は神奈川県浦賀の鴨井漁港の地先、水深33mだ。水深33mは、今でも昔でも深い。1958年では、33mに潜ったスクーバダイバーは数えるほどだったろう。定置網の調査を始めていた一級上の恵理さんは、僕たちとは科がちがう漁業科であり、水深80mに潜って窒素酔いの経験があると豪語していたが、そのくらいのものだ。
 もちろん、僕は30mを越える経験などない。
 しかし、宇野教室でこのテーマをやろうとすれば、僕が潜る他ない。僕は潜りたい。
 その頃、ウエットスーツというもの、今と同じ独立気泡ネオプレーンのものはない。クストー等が使ったもの、単なるスポンジのスーツはあった。水産大学でもあって、一年先輩の竹下さん、橋本さんはそれを使って小湊でサザエの調査をした。僕と原田が、ためしに使って見て、接着剤が老化していたらしく、バラバラにしてしまった。だから、宇野教室にはウエットスーツは無い。
 なお、今の独立気泡のウエットスーツができるのは1960年である。この時は1958年である。
 ウエットスーツの前にドライスーツはあった。いわゆる潜水服とはドライスーツのことだから、あっても当然だが、ヘルメット式、マスク式の潜水服は、歩く潜水服であり、泳ぐスクーバには使いにくい。
 スクーバ用のドライスーツは、これもクストーのグループで水服も作られていた。
 密閉されたドライスーツは、内圧外圧(水圧)の不均衡によって、スーツの内側が陰圧になり、身体が吸いだされる絞られるスクィーズが起こってしまう。スーツ、潜水服の中に空気を送り込んで、内圧外圧を均等にしなければならない。ヘルメット式、マスク式の場合には問題なくできているが、スクーバの場合には、なにか工夫しなければならない。クストーの工夫は、マスク式と同じように、マスクの中に空気を送り込んで、圧を均等にする。わかりやすく言うと、潜水服とマスクを密閉状態にして、その中にダイバーの呼気を吐き出して均等にする。コンスタントボリューム型と呼ばれるもので、スーツの頭の部分足の部分にも排気弁が付いていて、内側全体が外の水圧と吊りあうようになっている。(※現在のドライスーツは、レギュレーターの高圧弁を通してインフレ―ターで空気を送り込んでいるが、)
 つまりダイバーは、ドライスーツの中に密閉される。
 このドライスーツは、後に大学を卒業してから、就職した東亜潜水機で、クストーの複製(多分無断)を作っていたものであるが、こちらの(潜水科学強化)仲間内には、菅原久一さんが持っていた一着しかなかったので、それを借りに行った。
 僕がこれを使った経験は二回、一回は大学のプールで、ぺガスという水中スクーターのテストをした時、もう一回は木更津の実習場で海苔の養殖網の水中撮影をした時で、二回とも水深は1.5mほどだった。 このドライスーツを着て、生まれてはじめて30mの水深に潜る。今考えれば無謀に近い。しかし、そのころ(今でもだが)海はフロンティア、西部劇のイメージだ。
 潜ること自体が人間にとって無理なのだ。
 車は持っていない。教室でも車はない。充填された二本組のダブルタンクを背負って、電車に乗って行くことはできない。駅員さんにダメだと言われれば終わる。
 充填したタンクを木枠に荷造りして、鴨井の漁協まで送る。充填済みのタンクは爆発物だから、それなりの方法で、運送会社に依頼する。 潜って写真の撮影もしなければならない。手作りのハウジングは持っているが、これは、ようやく小湊の水深5mあたりまでが限界、30メートルでは押しつぶされてしまう。カメラは理化学研究所に借りに行った。20万とか40万とかするカメラだ。当時の大学卒の初任給は1万5千円、15万ではない一万五千円だから、20万は大変な代物だ。
、宇野教室にとって一大プロジェクトなのだ。潜るのは僕でも、論文を書くのは上島さんだ。宇野先生、上島さん、僕の三人で行く。鴨井港から漁船を出してもらう。人工魚礁の位置で、魚探で探る。記録紙の上を上下にせわしなく針が動いて、海底の影を作り出して行く。1,5m角のコンクリートブロックが二段、最高部で三段に積まれている。この時、初めて魚探が描き出す人工魚礁の凸型のパターンを見た。
 錨が人工魚礁の中に入ってしまうと引き上げることができなくなってしまう。少し外して、人工魚礁の脇に落ちるようにする。アンカーのロープは水深の2から3倍だから、80mから100mぐらいだ。このロープを手繰って潜って行く。 ドライスーツに入って、マスクのガラスを一番後でクリップのような金具で締め付けると完全に密閉される。閉所恐怖症ならば耐えられない。ドライスーツの中に突き出しているマウスピースを咥える。吐く息を鼻から出してやれば、服の外の水圧と服の中の圧が均衡する。
 恐ろしくないと言えば嘘になる。全て初めての体験なのだ。30mは浅くない。ドライスーツに閉じ込められる。動きは不自由であり、これも慣れてはいない。ウエイトも重い。斜めになっているアンカーロープを手繰って行く。その時に、このドライスーツは下の視界が悪い。前方だけ見える。眼が慣れないので暗黒の世界への潜降である。
 ようやくアンカーにたどり着いた。周囲を見回すが魚礁はない。探さなくてはならない。
 その頃のアクアラング、スクーバはもちろんBCは無い。BCが普及するのは1980年代だ。残圧計も無い。ダブルホースのレギュレーターには残圧計は付けられない。そして時計も無い。時計を水密ケースに入れて持って行くのだが、それも無い。空気が渋く、つまり呼吸抵抗が大きくなったら浮上する。それと、大体の時間経過で浮上してくる。20キロの充填圧で潜水を何回も繰り返しているから、この感覚は磨かれている。はずだ。
 捜索用のロープを持っている。一端をアンカーに結び、一端を手に持って、進んでいく。ロープの長さは20mだ。だんだん目が暗いのになれて来て、かなり遠くまで見える。透視度は10mほどだったと思う。足元から1mほどもある大きなヒラメが飛び跳ねた。このことは60年経った今でも鮮烈に覚えている。
 20m進んでも魚礁は無い。透視度は10mあるのだから、20m巾で20m進んでも魚礁は無い。サークルサーチと言って、円を描くように捜索する。ということは知識として知っている。練習はしていない。左側に円を描くように泳いでみた。しかし、そろそろ戻らなくてはいけない時間だ。ロープを手繰って戻る。
 アンカーまで戻って、アンカーロープをたどって浮上を始める。少し行くと、眼下に魚礁が固まって見える。一番高いところで三段のようだ。魚もメバル、クロソイののようなものが見える。潜って行くときに、下方視界が悪いために、腹の下の部分が見えなかったのだ。空気がそろそろ渋くなってきた。戻らなければいけない。もどるべきである。
 しかし、ようやく送ったタンク、借りてきた高価なカメラ、一枚でも撮らなければすべてが空しくなってしまう。降下して魚礁に降り立ってカメラで撮影した。その時魚礁の上に膝を突いたらしくちくっと痛かった。ドライスーツが破れて水が入って来た。すぐに浮上しようと足を蹴った。薄い袋のようなドライスーツが水が入った袋のようになり、動きが鈍い。焦ってなんとかアンカーロープをつかんだ。手繰り始めた時、空気が尽きた。
 潜水病だとか空気塞栓、肺の破裂など頭に浮かばない。とにかく空気を求めてロープをたどる。ロープは長い。肺が空気を求めて痙攣した。息を吸い込もうとする。密閉されているから、吸い込むことはできない。あとから考えればこのことが幸いして水を吸い込まなかった。肺に水を吸い込んでいれば、直ちに入院だった。死んだかもしれない。とにかく船にたどり着いたがガラスを外さなければ息ができない。ガラスを外した上島さんは、顔はチアノーゼで土気色だったという。先生はパニック状態で怒鳴っていたが、何を言われたか覚えていない。1954年に二人死んでいて、こんどは船の上で一人殺す。どうなるかわからないが大変なことだ。 その後、人工魚礁の調査はもう少し浅い横浜沖で実施されたが、もはや宇野先生は僕を潜らせようとはしなかった。上島さんが潜り、僕は上回りになった。
 ※後に上島さんは日本アクアラングの社長になる。 考察すると
 ①無理をしてでもやり遂げようとする性格、責任感が若者を殺す。
 ②海士なみのスキンダイビング能力が命を救った。
 ③アンカーロープがあったから、たどって船に戻ることができた。ロープが無かったら浮上できなかった。
 ④幸運の第一回目だった。
 
 技術的にはサークルサーチのやり方とか練習が必要うだった。しかし、この部分は当時としてどうすることもできなかった。 もし、僕が死んだ場合母親はどうしただろうか。先生を学校を訴えただろうか。訴えなかったと思う。
 フロンティアに命を賭けたのだ。死んだ自分としても後悔はしなかっただろう。
 そのころ、本当にダイビングは命がけだったのだ。
 
 その後10年ほどして、1967年、日本潜水会という指導組織を作って、教える立場になり、このアクシデントのことを話して、おなじようなエア切れを経験したことがある人は?と聞いた。およそ半数が手を挙げた。中には小便を垂れ流したとか、水を吸い込んで、救急車で運ばれたとか様々だった。
 この文でもエア切れの例をこの後いくつか述べることになる。 今は残圧計も時計もダイブコンピューターもあって、エア切れの可能性はひくくなったが、それでもなお、エア切れは、ダイバーにとって宿命的、致命的なできごとであり、70歳を過ぎてから、リブリーザーを使っていて6リットルのベイルアウトタンクに救われたことがある。また、同じようにリブリーザーを使っていて行方不明になったダイバーがベイルアウトタンクを持っていなかったことが、原因の一つで、彼が持っていなかったことが信じられないと言われたりした。 今、2017年、これを読み返してみて、僕の行動は必然だったのではないかと思い始めている。その時代のアクアラングは、この後に来る海洋開発時代の先駆だった。見ることなすこと、すべてが最初の経験だった。振り返って見るのは、その事実が自分の体験としてあって出来ること。スプートニックに乗ってガガーリンが地球を眺めるのは、5年後だが、海に潜ることは一つ一つが探検であり、未知だった。ゲージがあれば、思いとどまったと思うけれど、自分の感覚だけが頼りだったから、やはり行くと思う。そして助かったのは幸運だった。
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 潜水科学協会の機関誌 ドルフィンに宇野先生が寄稿したが、僕の死にかけた部分は伏せられているがこれが僕が命がけで撮った、写真。クロソイを撮ったつもりだが、頭がかげになってしまっている。それでも写ったのはこの一枚だけで。もしも死んでいれば、これがこの世で僕が見た、シャッターを押した最後の光景になった。
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0211 関東学生潜水連盟

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 関東学生潜水連盟 50周年記念祝賀会
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 咋2月10日、楽水会館で、関東学生潜水連盟の50周年祝賀会が行われた。
 盛会だった。立食で楽水会館がほぼ満席になった。
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 挨拶をさせていただいたのだが、まずこの会を計画し、実行した実行委員会に敬意とお礼を申し上げた。
 そして、自分のこととしては、1968年関東学生潜水連盟が創立された時、その時の委員長であった法政大学の銭元君に伊豆海洋公園の小プールで10分間の立ち泳ぎをさせた。このことが、後年の立ち泳ぎ事故につながったのではないかと気に病んだこともあるが、その話はしなかった。そして50年、半世紀たった今、現役の学生たちと、お台場で、辰巳で一緒に泳いでいる。そのことはちょっとばかり自慢しても良いだろう。話すと長くなるので、それであいさつを終えた。
 話すと長くなる、書いても長くなってしまう。高齢者の特性だろうか。50周年の記念誌に、延々と創立時から現在、そして今後、未来のことまで書いてしまって、10000字を越えてしまった。こういう寄稿の場合、字数の制限は800字くらい、長くても2000字くらいだろう。どうしようかと迷ったのだが、切ってくださいと、えいとばかりに投稿してしまった。
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 このような文の場合、編集者が非情に切らないと形にならないのだが、大先輩であるわけで、切れなかったのだろう。没にもできない。困らせてしまった。結果、記念誌にその全文を載せ、他の投稿一切を捨ててしまった。申し訳ない。 パーティについて、いつものことだが、僕の耳が遠いために、あいさつに来てくれたかたと、十分に会話することができなかった。聴こえないことは無いのだが,聴こうとする努力が、自分の頭を疲れさせてしまう。何時でも申し訳ないとおもっているが、首から、耳が聴こえませんという札を下げて置くのも何だし、そんなことをして誰も声をかけてくれなかったら、それはそれで寂しい。まあ、60%ぐらいの意思の疎通はできただろう。
 
 創立時、1967年に自分たちの日本潜水会ができ、1968年に学生連盟ができた。そんなことで、僕は弟分の組織だと思ったが、、学生連盟は社会人の団体、組織とは一線を画するということで、その時は生意気だと思ったが、それはそれで、筋が通っている。そして50年、社会人の僕たちの組織が離合集散を重ね、日本潜水会は実態として残っていない。学生連盟の選択は正解だった。記念誌の冒頭に「学生の学生による学生のための組織」として50年を刻んだと書いている。おそらく60周年に僕が出席することは難しいだろうと思うが、学生連盟の方は60周年、70周年、そして100周年を刻んでもらいたい。
 気になることは、2014年に日本水中科学協会の報告書で関東学生潜水連盟を特集的に扱った。その時の人数が216めいだったか、そして現在が130名余だという。
 インカレサークルは、200名を超えて、どんどん人数を増やしている。インカレサークルも健全に育ってほしいと思う。ダイビングクラブの希望の一つである。それはそれとして、ダブルスコア―ぐらいに距離を縮めたい。学生連盟も個々のクラブも素晴らしい内容にまで育ってきている。内容について、微力ではあるが、お手伝いしてきた。内容と人数が比例するよう、願っている。
 
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