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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0923 進行中企画 

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 いつものことだけど、ブログが滞っている。下書きは書くのだが、出せる状態ではない。困ったときには考える、考える時には、書く、書きながら考える。その考えの断片のようなもので、こんなものは、出せるものではない。そんな状態が続いている。これは、どこまでも続きそうな状態である。 ここに書きぬいて少しでもまとめよう。
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  撮影機材展示 12月10日シンポジウム35mmシネカメラ  三つの企画書が頭の中で進行している。一つは、スキンダイビング・セーフティの改訂。その二は、12月10日のシンポジウムで、もう一つはそのシンポジウムがらみではあるが、人工魚礁についてだ。  企画の一つ、スキンダイビング・セーフティの改訂版だが、、岡本美鈴が10月のウイークディの昼間は時間がとれるというから、打ち合わせをしようと思っている。 スキンダイビング・セーフティは版を重ねたので、改訂したら、と成山堂書店が言ってくれている。改訂しようとして読み直すと、実に良くできた本で、売れたのももっともだと思う。それはそれとして、改訂する。改訂するとすれば、 もう少し、これぞマニュアルという感じの部分を付け足し、それにあうように全体を改訂する。もちろん情報も新しくする。そのマニュアル部分はレスキューに関わるものにしたい。 これまで、レスキューマニュアルというと、助ける側のマニュアルあるだけ。視点を換えて、助けられる側のマニュアルとしたい。そんなことできるのか? 考えなくては、そして、フリーダイビングの岡本美鈴、生理学者の藤本先生、スポーツトレーニングの千足先生、レスキューされる須賀で、できると思う。  次は、28日のワークショップの構成だ。だいたい考えているが 二つの方向性があって、それがうまくまとめられれば良い。 一つは方法論であり、一つは成果である。調査手法の検討は、その手法で得られた成果、その手法の転用、効果とともに論じられなくてはならない。ワークショップは方法論を中心にして、シンポジウムは成果を中心にしよう。  そう、今度のシンポジウムは、ワークショップで、話し合い検討したことを、発表する。そのサイクルを作り出して行きたい。 潜水指導団体もあるし、同じような団体としてはJCUEがあり、メンバーは交錯しダブっているのだが、だからこそ、やることは出来るだけ、別のスタイルで別のテーマをやりたい。ダイビングで何か活動をするその方法論と成果の発表をしていきたい。何時も人集めには苦労する。これまでは、毎年、なんとか楽水会館を満員にして来たが、今度はそうはいかない。という危機感がある。 今度のワークショップ、そして多分次ぎもだが、来てくれる人は少ないだろう。ただ、来てくれる人は、ディスカッションに積極的に参加してくれる人だと思う。全員で討論して作り出す。それがワークショップなのだ。 そして、このワークショップの成果、結果をシンポジュウムで発表する。 テーマの検討がワークショップ、発表がシンポジュウムこのサイクルを確立できれば良い。 と言いながら、悔しいけど僕は耳が聞こえない。  来月、10月のワークショップ、僕たちの仲間になってくれた松本弁護士を囲んで、ダイビング事故でこれまで盲点になっていた部分をディスカッションしたい。これもシンポジウムで発表する。 このサイクルを繰り返して、取り上げたテーマについては、完成型に持って行きたい。 テーマその一が人工魚礁、その二がこの「ボランティア&リサーチダイビングの事故についての考察」だ。 ダイビングで何が嫌だと言えば、もしもの時に責任を追及されることだ。そして、追求された側は、もしも、保険でカバーされていなければ悲惨な結果になる。このことが、ダイビングを陰惨なものにしている。 このところ、片岡義男のサーフィンの本、1970年代に読んで、かなりはまった、「波乗りの島」を再読している。この本のことも書くつもりでいる。僕はサーフィンはできないしやるつもりもないが、ビッグウエィブに乗って、岩に叩き付けられた死んだとして、だれも訴えない。その昔、遠いグラフィティの時代、ダイビングもそうだった。 しかし、現実は違う。事故に備えていなければならない。  もう一つのテーマは撮影についてだ。ダイビングは撮影のために行われていると言っても過言ではない。僕たちの追うのは、やはり調査研究のための撮影、活動記録としての撮影で、動画が中心になる。最近では動画と静止画の境界が薄れてきて、やがては無くなるだろうが、これまで動画中心で活動してきた。
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   トラック島での 池上DR70 カメラ  シンポジュウムでは、撮影機材について、まず、僕が使っていた大きなドンガラ、昔の大きな撮影機材を展示しようという案があった。 クラシック、歴史についての展示もシンポジュウムのテーマの一つで、前回、2016年のシンポジュウムでは、マスク式潜水について展示した。これも、もう少し追求したいけれど、それはまた次にして、今回は撮影機材の展示をする。 展示は古いもの、現役の機材、そして今後の展開について、並べたい。 それぞれの機材による撮影の映像も映写し、見てもらって、比べてみていく。 16mmの時代については、マチャアキ海を行く 撮像管・プランビコンチューブの時代は、トラック島水深60mの駆逐艦追風 そして今は、つい先だっての坂田の人工魚礁撮影、360度撮影するカメラは調査のフィールドで、成果が期待できる。特に人工魚礁調査では、人工魚礁の中心にカメラを置くことで、これまでにない効果が期待できる。 視点を換えると、全天周カメラは、玩具として面白がる他、実用としては、その場にあったもの、全部を同時にとらえることができる。例えば魚群の全貌をとらえることができたりする事なのだ。それをどのように成果に反映させて行くかなのだ。
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      今、現在の最上級カメラ  多分、この全天周カメラを買った人、パーティグッズとして以外に使い道に困るのでは無いだろうか、ダイビングについても同じことで、使うという視点が欠落している。  テーマのその一は人工魚礁だ。バカの一つ覚えのように人工魚礁のことを繰り返しいる。 それで良いと思っている。繰り返して人工魚礁を扱っていれば、人工魚礁と言えばJAUSというイメージが定着してくる。沿岸漁業のことをいろいろ考えているが、人工魚礁を通して沿岸漁業のことを考えている。  人工と言うだけで、自然と対極にあるものがイメージされて嫌う人、嫌うダイバーも少なくないのだが、僕のホームグラウンドである千葉県館山地域では、ダイバーが潜れば、犬が棒に当たるくらいの確率で人工魚礁に当たる。 一方、伊豆半島では、努力して、かなり苦労して探さないと人工魚礁に当たらない。海底地形のほとんどが魚礁(自然礁)なのだ。魚礁の上に人工魚礁を重ねるというのは、かなり愚かなことのように、僕でも思うが、そういうことを平気でやっている例をそこここで眺めることができる。愚かな例外を除いて、伊豆半島では人工魚礁はあまり見られない。 もちろん、良い人工魚礁もたくさんあるのだが、レクリエーションとしては人気がない。 人工魚礁を通してみる伊豆半島もおもしろいのだが、人工魚礁のことを研究するとすれば、館山がまず第一に挙げられる。 その館山で潜っても人工魚礁のことを深く考えないのがダイバーという生き物なのだ。 館山地域の人工魚礁が、シンポジウム初頭の発表である。  

0929 岡本美鈴

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 岡本美鈴から、彼女の自伝「平常心のレッスン」が、届いた。11月1日が、発売日だというから、今、取り上げて良いものなのだろうか、タイミングは、何時なのかと迷った。しかし、早く書かないと忘れてしまう。 
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 まず、ダイバーであったならば、スクーバダイバーであっても、読みなさい。   構成は、プロローグと part1 技を極める part 2 自分を磨く、part3 伝える エピローグ となっている。 プロローグは「心が身体を動かしている」 「宇宙へと落ちていく」 「心の力 メンタルが左右する。」 ※見出しを「」でくくっている。 僕も常日頃ダイビングはメンタルなスポーツだと唱えているが、僕が言うメンタルとは、行動の因果関係を考えて最善の方法最善の判断を見つけると言うパターンである。フリーダイビングの彼女の視点のメンタルは、心のあり方が中心であり、心が身体を動かす。その心で自分の極限状態を乗り越えていく。 スクーバダイバーであっても、ダイバーの判断は、行くか戻るかであり、その判断が生死を決めるのだから、共通点はある。 part 1 「技を極める」 なるほど、彼女はメンタルも技としてとらえているのか。このことは、僕にとって新鮮な視点だった。 「心の猿を受け入れる。」 メンタルをコントロールする。 「リラックスの呼吸」 息のとめかた。 「怖さが私を成長させる。」 恐怖心のコントロールである。 僕が言うメンタルも、怖さとの折り合いであるから、これは、すべてに通じる。すべてのダイバーの参考になる。ただ、僕の場合は、怖さを大事にする。引き返すタイミング、ちょっとちがうけれど、同じかな。 「うまくいかないほうがいい」 失敗をポジティブに受け入れる。 「見えないからだのつくり方」 インナーマッスルが重要であること。 「自分を解放してみよう」 これはヨーガとのつきあい方  part 2 自分を磨く これはこれまでの自分のキャリアで、なるほどなるほど、と思う。 PART 3 伝える 競技会の様子、人とのつきあい、など、そうだったのだと言う興味、美鈴と対極にあるような、チャンピオン、ナタリアがおもしろかった。 篠宮君の話も、松本めぐみの話も、なるほど、そういうことだったのかとうなずきながら読んだ。  彼女のフィロソフィー(生き方、ウェイオブライフ)がこの本から読みとれる。生き方は、各個人のものだが、フリーダイバーの一つの頂点を極めた彼女のそれは、よい子がまねをしても良い。 よい子がまねをしても良い生き方は、とらえようによっては、嫌みになってしまうのだが、そんなこともない。 自伝というもの、ピリオドにもなるが、この本は、カンマであり、まだまだ彼女のフリーダイビング生活は続く、ここから先part3エピローグは「指導者をめざして」になっている。  いずれにせよ「人生は常に登り続ける途上であり、その途上で死を迎える。」これは、80歳を越えた僕のフィロソフィーであるが、まだまだ、彼女の目指す峰は高く、時間は充分にある。  最後に、ダイバーでなくても読みなさい。

1001  小湊

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  千葉県安房小湊の千葉大学の実験実習場にカーナビをセットする。カーナビの言うとおりに走らせたら、とんでもないところに来ている。地図を拡大したら勝浦の先40キロまで行き過ぎている。 7時にでて、4時間越え、11時20分に到着した。 常日頃カーナビは信じないのだけれど、疲れているのだ。
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 小湊に来たのは何年ぶりだろう。たしか、潜水部15期までコーチをしていて、スキンダイビングでブラックアウトを起こさせたのが、最後、今潜水部は60周年だから、45年ぶりか。 水産大学から千葉大学に移管され、建物はすべて建て替えられている。 建物は替わったが、磯に降りる急な階段は昔のままだ。小さな船着き場、コンクリの桟橋も昔のままだ。磯の先端に向かうまっすぐなコンクリ路もそのまま。
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 プールのような生け簀もそのままだ。
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 この生け簀プールに1953年、海底地質学者ロバート・シンクレア・ディーツ博士がアクアラングを背負って、日本の若い研究者たちにダイビングを見せたのが、日本のスクーバダイビングの事始めだったと、そのときの写真がある。
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 そのころ、この生け簀には、マダイが泳いでいて、観光客が餌(有料で餌箱が、置かれていた)をやると池の鯉のようにマダイが浮いてきた。 今、生け簀はあるが、水族館がなくなってしまっているので、一般の人は通行が許されず、ゴミが浮いているだけだ。  集まったメンバーは、現役が3名、OBが4名、+ 僕と山川先生 昼食、コンビニで買ってきた弁当、のあと、みんなはスキンダイビングでフィールドの全貌を観察する。1時間ほど、僕が現役時代、そして、コーチの時代は、艫漕ぎの小さな和舟随伴でなければ行かなかったようなところ、といっても、今のダイバーにとってはそれほどの遠くではないところなのだが回ってくる。 1954年、学生の潜水実習で、今の子たちがでている遙か手前で、学生二人が事故死した。原因は不明であるが、裁判の結果、小舟があるのに随伴させていなかったことが原因とされた。以来、僕は小舟を頭上に置くトラウマになっていて、そのトラウマのおかげで難を逃れたこともある。 45年前、15期のコーチをしていた時、1分半の息こらえ素潜りで、一人がブラックアウトして、頭上の舟に揚げて助けられた。岸に曳航して引き上げなどしていたら、無事ではすまなかっただろう。 今のメンバーの能力では、全く危なげはないが。  水温は25℃だったので、ウエットでも良かったのだが、ドライにした。 ウエイトは、7キロのベスト、BCのポケットに4キロ、レッグに1。7キロ、水深が2m以下と浅いので、どうかと思ったが、もしも軽ければ、少し泳ぎでて、3mから潜ればいいだろう。 みんなが戻ってきたので、一緒にでる。僕のガードに、OBの責任者である衣川と他現役1名が付いてくれた。 桟橋から飛び込むのに少し浅い。タンクを背負って立ち跳びでは、足が着いたら危ない。背中のタンクから落ちる、何というのか背中落ちEN.で飛び込む。カメラは衣川君に持ってきてもらった。 カメラは何時も通り、オリンパスのTG4とGOPROを並べ、GOPROの動画は回し放し。ライトはフィッシュアイの2500を50%で点ける。 僕のコースは、昔と同じだが、短めのコース。桟橋からまっすぐ沖に向かい。入り江の出口、禁猟区の境目から少し先にでたあたりまでで引き返す。 泳ぎ始めると、水深が2mあたりから、ガラモ場(ホンダワラ類)が広がっていて、海藻をかき分けて海底を這う。 ドライスーツで身体が重い。気持ちよく泳げない。

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 このごろ、こんなガラモ場は久しぶり、佐渡に行ったのも、既に5年昔か。 外房の白浜は、カジメ場だ。板田は、ガラモ場はここまで豊かではない。藻の切れ目(底は石)に腰を落ち着けて、周りの魚が出てくるのを待つが、はかばかしくない。少し沖にでた切れ目でチャガラに群に出会う。もう一つ先の切れ目、海藻をかき分けて、2畳ほどの切れ目を見つけて行くのだが、ソラスズメがいたが、小さな群だ。その先で、イセエビの髭が見えた。奥までは見えない。稚エビの穴が見えないかと探したが、見えない。その代わりに這い出ているイセエビに出会った。逃げないのでゆっくり撮影した。頭を水面に出してみると、入り江の境界線からやや沖、到達予定点に来ている。 そろそろ戻ることにした。水深は3m、残圧は100ある。ドライだから寒くはない。戻る理由は何もないのだが、戻ることにしてしまった。せっかく良い場所に来ているのに、粘り、根がなくなっている。 良い写真を撮りたいという気持ちがなくなっている。どうなっているか記録すれば良いだけの気持ちになっている。 ムツの小魚の群が海藻のうえに停滞している。撮影には、ちょっと遠い。 コンパスでぴったり戻ってきて、コンクリ桟橋は上がりやすい。ウエイトとタンクを上回りの山川先生にお願いして、楽にあがった。衣川くんと現役の二人は、沖に引き返した。スノーケル、水面移動で、僕が上がったあたりまで行って潜る。  みんなが上がってくるまでに、身支度をして、挨拶だけして、速攻で戻る。 帰りはアクアラインが渋滞8キロというので、習志野周り、2時間半で東京に着いた。 こういう形での潜水部OB会、とても良い。現役とも一緒に潜れるし、僕ももう少し長い時間居た方が良いのかなとも思うけれど、あまりにも離れすぎていて、気苦労をかけるから、これで良いのだろうと思う・

1005 波乗りの島

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今、ちょっとだけど、片岡義男ブームになっている。
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以前、いつでもあったブックオフで、コーナーが成立していない。アマゾンの古書で1円の出品がない。その代わりと言うわけではないのでしょうが、キンドルで、短編集の短編が分割されて売られているものがある。 僕は、かつて、ずいぶん沢山、文庫本をもっていたのだが、断捨離、売り払ってしまった。 ただ、2冊残してあった。片岡義男はワンパターンだから、2冊も残しておけば充分なのでは、と思ったのだった。 残したのは「頬寄せてホノルル」「8フィートの週末」 彼の昔の本はハワイを舞台にしたものが多かった。そして、もうひとつ、出てくる女性が画一的である。いい女でない女性は出てこない。強くて、優しく、自立している。もちろん美人。これは、1970年代このかた、現在も男性が思い描く女性の平均的な理想像だと思われ、そういう女性が出てくる。 「頬寄せてホノルル」は、①ラハイナの赤い薔薇 ②冬の貿易風③アロハシャツは嘆いた④双眼鏡の彼方に⑤ヒロ発11時58分 五つの短編集である。タイトルを見ると、明日ハワイに行きたくなる。  ある時、ふと片岡義男が読みたくなってキンドルを見た。「冬の貿易風」270円だった。買って読んで、大変満足した。片岡義男の文体でかくとこうなる。実はこの文体は好きでも嫌いでもない。 もう少し読みたくなって、書架で「頬よせてホノルルを出したら、「冬の貿易風」が入っていた。これで、彼の短編集がキンドルでばら売りされていることがわかった。アロハシャツもヒロ発もキンドルでバラうりされていた。 ヒロ発もなかなかいい。と僕がここで書くと、だれもが270円でキンドルで見られる。いいビジネススタイルだなと思う。  「波乗りの島」最近108円で買った。波乗りの島は1974年角川の「野生時代」の創刊号に掲載された。僕が片岡義男を読んだ始めであった。以後、同じような作品のほとんどを読むようになる。 波乗りの島は、「白い波の荒野」「アロハオエ」「アイランドスタイル」「シュガートレイ」「ベイルアウト」五つの短編集で、「白い波の荒野」は、しっかりキンドルになっていた。なお、僕の買った108円は、アマゾンでは1600円になっていた。 ここで、サーフィンのことを少し。 僕はサーフィンは全くやらない。スノーボードもやらない。スキーは大学の授業であきらめた。つまり、バランスをとるようなスポーツはダメなのだ。  波乗りの島 は、サーフィンの映画撮影をしている若者、チャンピオンクラスのサーファーのグループ、プロダクションの話だ。僕はまだ、1974年には撮影のチームは作っていなかったけれど、ハウジングを作るビジネスはしていた。なのにどうして「白い波の荒野」の撮影に疑問を持たなかったのだろう。疑問にも思わなかったのか。小説だからと何も考えなかったのか。それともすべて、忘れてしまっていたのか。  そして今、この小説のような撮影が充分可能になった今、この小説を読み直して驚いたのだ。なぜ疑問に思わなかったのだ?と。  「白い波の荒野」、その始まりは、大きな波を乗りこなすシーンの撮影である。本当に奇跡とさえいえるシーンである。そのシーンをヘルメットに付けたカメラで撮っている。しかも、前向きが一台、後ろ向きが一台、二台のカメラで撮っている。 カメラは16mmのフィルムである。しかも長い時間撮れる長尺のカメラである。 そんなものが頭に2台付けられるわけのものではない。 この撮影はGOPROができて可能になった。そしてGOPROはサーファーが開発した。2000年代のサーファーが1974年の片岡義男の小説を読んで、開発したか、そんなことはあり得ない。だから、1974年の「白い波の荒野」は、こんなシーンを撮影をしたいというサーファーの夢?それとも近未来小説か。 チューブの中を撮影したいのがサーファーの夢ならば、GOPRO開発も小説になるだろう。「波乗りの島」の主人公たちのプロダクション程度のスケールが、GOPROのスタートだったのであろう。 
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              16ミリフィルム短尺カメラ(3分間廻る)
 ここで一つ、サーフィンのチューブの話をしよう。スガ・マリン・メカニックが、まだ牡丹に来たばかりで、7階に居た時だから、1970年代か。ソニーの子会社だったかの若いプロデューサーが訪ねてきた。ハワイでサーフチューブの中の音を録音したいという。デンスケ、小さい録音機を抱いてチューブの中を滑りそのときの音を採りたい。録音機のハウジングを作りたいが重いのはダメだ、という。僕は即座に解決したがもったいを付けて、録音機の寸法を聞き、見積もりをした。いくらだったか忘れたが、そのころ、僕の頭の中の単価は、10万だったから、20万ぐらいだったかと思う。そのころ僕が売っていたブロニカマリンと同じだ。 ダイバーだったら、誰でも思いつくアイデアだろう。録音機をネオプレーンでつくった箱に入れる。袋でも良い。入り口をドライスーツの水返しのように1mmの薄い生地で作り、ドライスーツのようにゴムひもでくくる。要するに録音機にドライスーツを着せれば良いだけなのだ。 コードの部分も筒を作って凧糸で締め付けるだけ。 チューブの録音は成功して、ディスクが発売された。チューブの中の音、聞いてみたけど大した音ではなくて、爽やかといえば、爽やかだったけれど、言葉で言い表せないほど、どうでも良い。忘れてしまった。サーファーには、感動的な音なのかもしれない。  「8フィートの週末」 佐藤秀明の写真集もかねている。 なかなか良くて、どちらかと言えばこの写真で、僕はこの本を残した。小説の方はワンパターンだ。  今、キンドルで「時差のない二つの島」を読んでいる。270円の短いものだけど、読み終えていない。読み終える必要がないので、止まってしまう。結末もどうでも良い。 でも、「頬寄せてホノルル」は、キンドルに入れておいても良いかな。  僕のハワイのこと、前に書いたけどもう一度書こうかな。「ハワイアンダイバー」「ホノルルシャークハント」時間があればだけど、ない。☆★☆

1012 学生連盟

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 ブログが滞っている。今日あたりはなんとかしなくては。 滞っている理由は、別に書くものがオーバーフローしているからだ。
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 まず関東学生潜水連盟50周年の寄稿をたのまれた。僕が書くと長くなりすぎて、おさまらない。しかし、大先輩だから切るわけにもいかないだろう。困らせることになるからどうしよう。ためらった。 とにかく書いてみようと下書きを書いた。50年を振り返る、そして現状を俯瞰して、未来、明日、これからの50年について提言する。やはり一万字を超えてしまった。切って、8000字ぐらいにしてだしたけれど、やはり困らせただろうと少し後悔している。 これが書き出しの部分だ  1968年発足の関東学生潜水連盟の結成大学は、法政大学、東京水産大学 中央大学 獨協大学だった。 僕たちは1967年、当時のスクーバダイビングのエキスパートを集めて日本で初めての潜水指導団体である日本潜水会を創った。27人のメンバーだが、その中の一人に、法政大学の学生である加藤君がいた。彼のお兄さんと親しかった縁で、加藤芳雅君が来た。日本で潜水指導者と言う資格もその時僕たちが創ったのだから、学生指導員、学生インストラクターの第一号であった。但し、その頃はまだインストラクターという言葉は使われていない。 その日本潜水会の技能資格は、一級、二級、三級とあり、一級が一番上だ。次は一級の講習会が行われ、そのとき、法政アクアから最上級生の銭元君はじめ何人かが参加した。 当時の一級の実技科目は、海洋公園の3mプールで鉛5キロを持っての立ち泳ぎ、50mプールで、スクーバ全装備を着けて、マスク、スノーケルなしで、タイムを計って周回させる。BCの無い時代である。溺水を防ぐには泳力しか手段が無かった。 一方、水産大学の方は、当時、第13期だった。 その13期は、僕がコーチをしていた。僕は、今も昔も、潜水で何かをすることを目標にしている。その時の目標は船で曳行する水中グライダーだった。水中グライダーは成功して、テレビ番組になった。1960年代のテレビである。 もしも、そのまま僕がコーチを続けていたら、やがては、水産大学潜水部は、水中を走るビークルのパイオニアになっていたかもしれない。 その期のほぼ全員が潜水関係に職を持った。高橋実は、僕と一緒にスガ・マリン・メカニックをつくり、現在は海洋リサーチ代表そして潜水団体スリーアイの代表、後藤一郎はダイビング会社を起こして成功し、奥川と大掛は、海洋科学技術センター(今のJAMSTEC)に入り、和久井は、芙蓉海洋開発に入った。 その和久井君が関東学生潜水連盟初代の副委員長、委員長が法政の銭元君だった。 そして、二代目の委員長が和久井になる。僕がコーチの時代に育った後輩が委員長である。僕の感覚では、当然、関東学生潜水連盟は、日本潜水会と密接な親子組織にはなるものと考えていたが、ならなかった。  時代背景を見ると、1968年は学生運動が盛んな年で、大学闘争で、水産大学も学生の集会で教授がつるし上げられ、授業は行われなかった。闘争の一つのテーマは、産学共働に反対するという、今の時代から考えたら信じられない。つまり、学は産業に支配、左右されてはいけないとう、学の独立であった。  関東学生泉水連盟では、学生は学生のダイビングの途を選ぶ。社会人の団体の意向に左右されることはない。生意気だと思ったが、筋は通っている。そして正しくもあった。 日本潜水会は全日本潜水連盟に移行して、1973年には海洋博記念のロレックスがスポンサーの競技会を開き、それは現在の全日本室内選手権大会に繋がっていくのだが、ロレックスがスポンサーの競技会、一位にはロレックスが副賞としてでた。1位はロレックス、二位はダイビングバック、差がありすぎると苦情が出たが仕方が無い。そのロレックスのほとんどを法政アクアを中心とする学生が持って行った。  これが書き出しだからたいへんだ。 どうなることやら。

今後の活動の方向性ビジョン  日本財団申請書より

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ブログはこの前が12日だから、今日書けば、中二日になる。まあまあ、だ。フェイスブックの方は、ちょっとかったるい。
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なぜだというと、日本財団の助成金申請書を書いている。いくら書いても、まず通らない。モーターボートの収益が基金になっているので、海とか船のテーマもウエイトを置いてくれるような気がするが、まず無理だ、通らない。2010年に助成金をもらって、第一回の水中科学協会シンポジウムを開き、プライマリーコースも始めた。震災がなければ、そのままのコースで行けたと思うのだが、震災で、その救助関連の方に、力が廻ってしまった。と言って、僕たちのやっている発電所の放射性物質関連には、来なかった。 しかし、ダメだとわかっても、この季節、ほぼ一カ月はこれにとらわれている。今年も通らないと思う。なぜ、通らない申請を続けているかと言えば、この申請を書くことで、頭の中が整理される。整理する方向に思考が向く。何か外力が働かないとこんな形のまとめはやらない。それに、今やっていることを割と客観的にみることができる。 申請は、団体の概況とか、ピジョンを書く,汎論と、それから申請する事業のことを書く。 まず、水中科学協会という団体の説明だが、①水中科学協会の概要2400字、活動実績 1400字、②団体の目的 定款 800字、 ③団体の活動 業務2000字  ④現在特に力をいれていること 1400字 ⑤今後の活動の方向性ビジョン1400字の、5項目を書く。  今後の活動の方向性ビジョン を転載しよう。  ダイビングでまず要求されるのは、安全である。水中ではごく簡単な間違いで人が死ぬ。訓練、トレーニング、と現場の対策でそれに立ち向かうことになる。新しい潜水機のリブリーザーは、電子制御の潜水器である、その複雑化は、事故の可能性を大きくしている。潜水器で最も安全なのは、フルフェイスマスクを使用したホース送気の潜水器で之は作業潜水に常用される。ついで、一般のオープンサーキットのスクーバは、同時に二つの間違いが冒されなければ大丈夫、あたらしいリブリーザーは一つの間違いで命に係わる。このリブリーザーの安全な使用の研究も視界にいれなければならない。  現在行われているスクーバダイビングのほとんどすべては、レクリエーションダイビング、趣味、遊びのダイビングである。近年になり、パブリックダイビングというタイトルで、消防、警察などのダイビング講習が行われるようになってきているが、それは特殊な潜水である。水中科学協会が目標として発足した科学研究者の潜水は、事故発生などもあって、衰微し、数えるほどである。 ダイビングについての統計の完備したものがなく、推定にすぎないが、現在活動しているレクリエーションダイバーの数は30万人から40万人の間とされている。現在、プロの作業ダイバーのほとんどは水面からホースで空気を送る送気式ダイバー(スクーバではない)であり、これも正式な統計はないが、数万人の単位であり、しかも減少の傾向にあるから、4万人程度と推定される。 30万ー40万のレクリエーションダイバーは、その80%以上は、PADI、NAUI、SSIなど米国に本拠を置くビジネスとしての指導組織が作ったプログラムによる講習を受けてダイビングを習得する。僕のかかわっていた全日本潜水連盟などは、5%もあれば、大成功だろう。これらの教育プログラムは、充実しているが、継続学習のプログラムであり、初心者のいわゆるオープンウォーターのプログラムでは、入門を果たしただけのものであり、自己責任で安全を確保するのに十分とは言えない。しかるに、研究者のダイビングは、このオープンウォーターを必要十分な基準としており、研究者は、基本的にセルフダイビングだから、技術が十分でない心配があり、事故発生の要因ともなった。 研究者の潜水参加条件はこのオープンウォーターをもっていること+潜水士の資格であるが、その潜水士の資格は実技検定は行われない。すなわち、潜水の出来ないペーパーダイバーも存在する。 上記、C-カード、その教育プログラムは、講習であり、講習修了者がダイビング現場でどのような手順、形で潜水するかの運用プログラムは、現場に任される。 その実施は、各地ダイビングサービスのガイド、ダイビングショップのインストラクターに任される。 実際に、ダイビングの現場は多様であり、場所によっても全くちがう。北海道と沖縄が同じであるはずもない。ビーチからの潜水であれば、地形に大きく左右されるし、ボートダイビングであれば、ボートの形、大きさ、性能で様相が違てくる。ダイビングの運用は個々様々であり、それぞれのマニュアルが必要になり、しかも、マニュアルに縛られ過ぎててもいけない。講習のように画一にはできないの。 水中科学協会が重視するのは、他の業種と変わらず PDCA サイクルである。そして、ダイビングは段取り(準備)80%、いや90%ともいう。PLAN が重要である。 これらPDCAの実行の検討Cが、ワークショップであり、シンポジウムでの発表である。 そして、水中科学協会では、そのダイビングで何が出来るか、その「何」が重要と考えている。ダイビングは道具であり、その道具で何をするかが問題である。その何、は単に楽しい遊びでも良いし、リサーチでも良い。そして、ダイビングはそのものがすでに冒険なのであるから、ことさらに冒険は重ね無いようにしなければならない。  水中科学協会の概要、冒頭でのべたように、日本水中科学協会という名称は、1957年に大学、研究機関、一般の科学に関心のあるダイバーを集めて発足した日本潜水科学協会の後を継ごうとする趣意であった。日本水中科学協会は、スクーバダイバーの活動を有意義なものにし、盛んにすることを目指している。 潜水科学協会でのポリシーは、「潜水は科学である」潜水の対象も科学であり、潜水という行動も科学である。水中科学協会はこれを受け継ぐ。 今の目標は海の研究でをレクリエーションに広げる、レクリエーションを海の研究に導いていくことである。そして、言うまでもなく、重要なのは安全であり、安全は、段取り、十分な準備とチームワークで達成される。 そのことを、広く普及して行きたい。  ダイビングの世界は、①機材の販売:メーカー・ショップ、②技術の指導と認定:国(潜水士国家試験)・指導会社 ③サービス:現地ダイビングサービス、旅行サービス会社 ダイビング雑誌、ネットサービス で成立している。日本水中科学協会はダイビング活動団体であり、そのいずれにも属さず横断するような組織でありたいとしているが、わかりにくい。強いて言えば全国的なダイビング活動支援のクラブ組織であり、ダイビングが社会に貢献する文化として育ち定着することを目指している。  

1017 波佐間10月16日

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 10月16日
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 波左間に行く日。雨だ。やむ予報はない。事務所を0630出発、福田君が迎えに来てくれて、鶴町と僕を乗せて行ってくれる。山本さん、早崎さんは自分の車で現地集合。 館山湾を過ぎて、海は波がある。その上寒い。ドライスーツで潜るつもり。
 現地到着、0820頃か。 波左間海中公園社長の荒川さんと、話をしようとして、補聴器を忘れて来たことに気が付く。本日の忘れ物。せっかく、きてくださった方ともお話できなかった。僕は補聴器があっても、正面に向かい合って、1mいないの距離でお話ししないとだめ。それとも、マイクをもってお話しされると通じる。 やはり寒い。波が高いので、一本目ジンベイザメのいる、マンボウランド と二本目、高根に行くこととして、まず近いほうのジンベイ、すぐ近く、一番近いのだが、かなりの波で大きく揺れる。このくらいが限界かな、それとも、自分のフィジカルが衰えたから限界が低くなったのか。 みんな飛び込んで、僕はラス前で、背中から飛び込んだ。ドライスーツになれて居るために、周年、お台場はドライで通しているのだが、お台場と、ボートから飛び込むのとでは違う。バックエントリーで飛び込んだ。バランスを崩して一回転したら、目の前が餌をもらっている巨大なジンベイだった。 もしジンベイの上に落ちたら、だから、バックエントリーはあんまりやらなくて、頭を下げたサイドロールで入るのだが、バックだと、ボートに座ったまま飛び込めるので、横着してしまった。 それでもカメラを構えて、超接近したジンベイを撮った。
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 横で撮ってくれている福田君の映像を見たら。僕がジンベイの上に落ちたのではなくて、僕が落ちたところにジンベイが突進して来ている。ニヤミスでは無かった。しかし、次からは横着しないで、サイドロールにしよう。  一旦海底に落ち着いて体制を立て直して、やり直し。水深は6mだ。何となく浮いてしまった。ヘッドファーストで沈もうとすると足が浮いてしまう。無理矢理潜って海底に膝をついていると、荒川さんが落とし物のウエイトをもって、これ誰の?とひらひら振っている。あ、僕のBCの前ポケットに差し込んだウエイトだ。もと通りに取り付けてもらって、さあこれで良い。でもバランスは相変わらず悪い。 何とか、浮力を維持して、小魚を撮影したりする。まてよ、さっき、2キロ落としても沈むことができた。水深が5mより深ければ2キロ減らしても良いな。 朝夕、ジンベイに撒き餌をしているので、小魚、そして、黒鯛が多い。手のひら大のイシダイも群れている。そんなものを撮りながら、ジンベイに気を配っている。だいたい、2ー3分ぐらいの間隔で回ってくる。透視度は8mぐらいだろうか、よくて10m、ジンベイは泳ぐと言うよりは、すべる感じで来るのだが、それでも追いつけない。ドライスーツが重いから、こちらは、這うようにしか進まない。だから、ジンベイは、来て、行きすぎるだけ。中層に浮いて、斜め上を見ていると、空間失調になる。自分のポジションがわからなくなる。 それでも3回ぐらい出会って、撮影して、1カットぐらいは撮れたかな。 まだ空気は100以上残っていたが、みんな上がり始めたので、僕も浮上し、最後の方でボートに上がる。水面にでたらすごい波で、これくらいが限界かなと言う感じ。梯子につかまって、フィンだけは脱がしてもらって自力で梯子を上る。10リッターのタンク11キロのウエイトなので、ちょっとつらいのです。上がって、立ったら大波でグラッと来て、倒れなように踏ん張った。そのとき足がよじれた。ギクッという感じ、やったかな、と思ったが、それほど痛くない。 もどっても、もう一本予定があるのだろうとドライは脱がなかった。しかし、さすがにNGで、一本で戻った。 やはり、膝をやってしまったらしく、足を引きずることになってしまった。もう一本潜っていたら、どうだったろう。 膝はともかくとして、潜って、体調は良くなった。  そして、17日 午前中、浦安海豚倶楽部の練習、そして、夕方からディズニーシーで海底二万マイルを見に行く。 膝は痛いけれど歩ける。前にも痛めてサポーターを持っているので着ける。何とか一週間ぐらいで治したい。29日のお台場がある。でも、この前膝を痛めたのはお台場で、子供が砂遊びした穴に足をとられた時だ。同じ左膝だ。 ディズニーシーは車いすを借りて、押してもらうとアトラクションに優先的に乗れるそうで、それはそれで魅力的ではあるが、雨も降っていたので、日延べした。 プールでは足の負担を考えてバラクーダはやめて、マンテイスMにした。予定通りの練習メニューは滞りなくこなして、水中では問題ないけれど、歩くのは不自由だ。11月のロゲイニングまでには治そう。 といって、サポーターをつけて、足に負担をかけないように、足を引きずる以外どうすることもできないのだけれど。

1021 東京湾大感謝祭

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東京湾大感謝祭
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昨年までは、赤レンガ館の中だったのに、今年は全部屋外のテント。予算が無くなったのか。スケジュール予定が抑えられなかったのか、レンガ館が側の事情が変わったのか。
 それでも天気が良ければ、良かったのだろうが、雨、そして巨大台風の接近で、日曜を前にして中止。
 まあ、参加する側の熱意は強く感じられた。とりわけ、雨の中、ステージで踊るパフォーマンスは、身内の鶴町ママが頑張っている。昨年までは、なにやってるんだか?と見ていたのだが、今年からは、良くやると、幾分尊敬に変わった。
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 僕の参加は、去年はビデオをモニターで流して、その前で座っているだけ、今年も同じ。その前の年はお金をかけて、清水まみ の写真展をやった。その前が、ステージでビデオを見せて、トーク、だから、参加、四年目になる。
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 お台場、と言うイメージとは違う、美しい生物の生態を紹介する。がコンセプトで、一応の成功は収めている。去年と今年は、東京都環境局の風間真理さんの後押しで参加させてもらっている。女性だけれど、東京湾に出てのフィールドワークは、本格的で、環境局では他に現場に出て働いている役人は居ない。少なくとも僕の視界の中には居ない。たしか、東京湾の放射能汚染が問題になった頃が定年だったはずで、そのころ、江戸川河口でホットスポットを見つけて話題になった東大の鯉淵準教授に彼女がつないでくれた。
 僕にとっては、お台場を東京都環境局、港湾局につないでくれている糸だ。
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 今年は、「東京湾再生官民連携フォーラム」の狭いテントの中で、机一つ椅子一つを確保してくれて、東京都環境局のスペースの隣りだ。
 今の風間さんのテーマは、海に流れ出たプラスチック類が、マイクロプラスチックになり生き物に与える影響の告知、そして、できるだけ、プラスチック類が海に流れ出ないようにする運動である。
「海ゴミの大半はプラスチックです。プラスチックは自然にはほとんど分解されず、環境中に長い時間残留します。最近特に心配されているのが、プラステックが紫外線や波の力により細かく砕けた欠けら、マイクロプラスチック、5mm以下になった、プランクトンより小さい欠けらが、食物連鎖に入り込み、海の生態系全体に大きな悪影響を与えることが懸念されています。」
 もう一旦流れ出してしまったものは、何とか回収しようと世界で努力はされているが決め手はなくて、排出を止める以外にない。東京都からプラステック類を海に流さないようにする活動が風間さんの出展テーマである。 隣りなので、お台場の映像について、と、僕の紹介を、めぼしい人にしてくれる。モニターとPCのアレンジもやってくれて、僕はUSB一本を持って行くだけの参加だ。
 僕のできる協力はお台場の水中でビニール袋を拾うことぐらいか、それもあまり熱心にはやっていない。毎年一回のクリーンアップに残しておいてやろう。などと不埒な考えでさぼっている。こちらで、ゴミ拾いを毎度やってくれているのは、尾島ママで、この人もお台場調査の中核であり頼りだ。こう並べて見ると、東京湾で僕が頼っているのは全部ママだ。 感謝祭のイベントに参加する度に思い出すのは、80年代末、電通映画社のプロデューサーだった神領さんが作った東京湾海洋研究会のことを思い出す。神領さんは僕のプロデューサーの一人だった。彼が言う、21世紀に備えて東京湾を研究するグループを作ろうと。僕は反対した。どうせ仲間割れするから無駄だと、でも、ということで集めた。ニュースステーションに何度も出演を頼んでいた風呂田さん、三番瀬で埋め立て反対の旗を振っている小埜尾さん、横須賀で、「誰も知らない東京湾」を書いた一柳君、これは、東京湾のことを知るにはとても良い本だった。
 そうだ、海洋研究会を作ったのは、彼が横須賀市の市会議員に立候補した年だから1991年だ。当選して6期連続して市議を勤めたが2015年に引退した。
 そして、横浜で「海を作る会」をやっていた横浜下水道局の塩井さん、このメンバーだった。三番瀬から横須賀まで、東京湾を網羅した。今、大感謝祭を仕切っている木村さん、海をつくる会で、会長として活躍している坂本さんは、塩井さんのところで、初めてであった。海洋研究会は予定通り?消滅した。理由は仲間割れではなくて、電通が出してくれると予想していた資金が無くなったからだ。
 このころから根強く東京湾研究の中心として残って居るのは風呂田さんで、官民連携フォーラムでも中心になっている。今度の感謝祭では、同じテントの背中合わせに展示をしていた。「東京湾の環境を良くするために行動する会」として出展している。
 坂本さんは釣り振興協会をバックにして出展したいる。釣りがテグスや鉛を水底に置き去りにして海洋汚染の旗頭の一つになっているのを引き受けてクリーンアップしている。日本水中科学協会のメンバーの一人でもある。
 三番瀬の小埜尾さんも、日本水中科学協会を助け続けてくれているが、年単位のご無沙汰になっている。行かなくては。
 東京湾についても、時は流れ、人は変わる。大したことはできないが、目標は、船の科学館の前のポンド、青海北埠頭公園にダイビングの施設を復活させること、タイトルは「東京港ダイビングリサーチステーション」だ。僕が生きているうちにできるかどうかわからないけれど、とにかく、方々で口に出して、企画書を配っている。中核ときっかけが掴めれば、話は進むのだけれど、
 台風中止にならなければ、今日(日曜)もう少し表敬訪問ができたのだが。
  
  

1028 ダイビング事故の法的考察

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10月25日のワークショップ、僕たちが福嶋第一原子力発電所地先沖、水深20mに潜水して、放射性物資の調査をするにあたって、そのプラン、計画に先立って、考えなくてはならないこと準備しなくてはならないことをワークショップで議論している。その一回目は、放射性物質調査の手段についての話だった。2回目は、ウエアラブルカメラを調査ダイバー全員が着けて撮影している。その方法論について論じた。 その3回目として、もしも事故が発生した場合、ダイビングでは事故と言えば死亡事故であり、訴訟が起こり、賠償が追及される。そのことを研究しようというものであった。 水中科学協会の会員になっていただいて、一緒に考えてくれる弁護士、松村房弘さん(先生と呼ぶなと言われている)と出会うことができて、そのことをいろいろお話しした。その話をワークショップでとお願いした。快く引き受けていただき、そして、昨日だ。 正直言って心配だった。扱う範囲が広すぎる。僕の要求するような、個々のこれから起こり得る事例について、話せと言われてもダイビングのエキスパートではない、とても無理、と言われた。 一般論でも良いから、とにかく第一歩をと、たいへん無理なお願いをしてしまった。 とにかく、ボールは投げてしまった。弁護士さんだから、適切な返球をしてくれるだろうと、甘えてしまった。それでも、心配になって、いろいろ、筋書、構成を書いて送った。それが、僕の例で整理がされていないで、あれもこれも書いたために、かえって足を引っ張った、混乱されたと思う。その質問については、文書で答えが送られて来た。それはそれとして、 僕は、ふと思った。このテーマは、パワーポイントで説明するようなものではないな、と。お聞きしたら、やはりレジュメ、そして、板書でお話をされる、ということだった。  最近、テレビ朝日の友人、上野氏が、フェイスブックで、彼がどこかの大学で講座を持ち、PPは、馬鹿が使う者とかで、板書で講義をすると書かれていた。僕は、パワーポイント頼りだが、法律の話題は板書の方が良いのだろう。 そして、お話は板書だった。そして、驚いたことに、耳が不自由で聞き取れない僕が理解できた。僕は既に、頭の働きが若いころの、贔屓目でも十分の一だから、板書は無理、パワーポイントに磨きをかけなくては話ができないのだが、その参考になった。でも、シンポジウムでは、PPを使わないといけないので、どのようにするか、ちょっと工夫が必要。 ☆★☆ さて、話の内容なのだが、最初の30分は、概論的なことを話され、それから質問を受けることになり、僕が錯綜した労災についての、質問をして、答えてもらったが、その部分はここには書かない。 結局、およそ1時間20分を質疑につかった。ワークショップは、そのようにありたいと思っていたパターンで、進行することが、できた。シンポジウムも同じ、松村氏、そしてコメンテータに訴訟方面に詳しい、久保さんにお願いしている。ワークショップはその予行演習でもあった。久保さんは西川名の台風被害の助けに行っていて、帰りに交通渋滞に巻き込まれて、30分ほど遅刻されたが、このスタイルはうまく廻った。シンポジウムでの話について、半ば安心。  一般論なのだが、 とにかくボランティアだあろうが、何であろうが、責任者の立場、リーダーの立場にある者は、責任を免れられない。過失の責任を追及される。その過失の多寡、責任は一方的にリーダーのみにあるのではなくて、ダイビングの死亡事故であった場合、その死者にも責任がる。その責任の割合について検討して定めるのが裁判であり、弁護士が介在して、保険に加入していれば保険会社が支払う。レジュメには、「損害賠償請求関係条文}があり、この条文から訴訟がスタートする。そうなんだ、すべて、条文から見て行かなくてはいけない。 講演内容で強く意識したことは、「過失がないならば、損害賠償は請求できない。まず過失の有無、その量を裁判で決める」当たり前のことなのだが、賠償責任保険に護られている、もしくは護られていると信じている、僕たちは、過失とは何なのだということをあまり強く考えていないのではないか。 過失とは何なのだ、そして過失の価格は?それについては、何千、何万と起こる交通事故については、レッドブックと呼ばれている、冊子があり、これを裁判官も携わる弁護士も、保険会社も持っている。そして、これに沿って、示談が成立して行くと、松村氏の説明があった。このレッドブックに相当するものは、ダイビング関係にはない。PADIの弁護士さんの松田さんあたりは、持っておられるのだろうが、職業的なノウハウであり、細部、数字は、出版、公開はされていない。その簡略化されたものでもあれば、事故防止にも、そして事故の際にもずいぶん役立つと思われる。 そういえば、松田氏が、PADIのために書いたものが、僕たちの事故対策の古典だった。書棚を見たが、どこかに沈んでいる。探しておかなくては。  とにかく、僕にとって、松村氏の話で、強く印象づけられたのは、訴えられても、過失がなければ損害賠償は請求されない。ということだった。 いつの間にか、僕たちは、保険に護られているという意識を強く持つようになった。保険があれば安心、保管が無ければ身の破滅。それはそれとして、何が過失になるのか、もう一度考える必要があるのではないか。 僕のダイビング活動は、例えば、お台場の潜水でも、福島第一の潜水でも、賠償責任保険でカバーされているのかいないのか、不透明なものばかりだ。そして、そもそも、過失とは何なのだ。 初心者のC-カード講習、C-カードを持ったダイバーが、引率者にフィーを払って引率されている状態では、事故が起これば、引率者の責任がゼロという事は難しいだろう。それにしても、大体のダイビング事故は、過失の明細は明確ではない。  12月10日のシンポジウムでは、僕たちの実施するリサーチダイビング、ボランティア活動と、学生のダイビングについて、考えようとしている。例えば、クラブに入っている学生がダイビング事故で亡くなった。そしたら、過失がどこにあろうとも、父母は損害賠償を訴えることができるのだろうか。明確に文書化されたマニュアルがあり、そのマニュアルを指導者が確認していて、そのマニュアルから外れた行動をして学生が事故を起こした場合、監督、コーチ、責任を負うべき位置のものは責任を追及されるのだろうか。そのコーチが一緒に泳いでいた場合、岸で見張りをしていた場合、現場に居ないで文書による報告を受けているだけの場合、一緒に泳いでいた場合だけが、確実に過失請求ができような感じがする。そばにいたのだから。マニュアルを作り、検討すればそれで、あと一切の責任は事故者にあると考えられないだろうか。 コーチは、事故が発生するような空気を察知して、僑正する義務があるとはおもう。 学生の場合、責任者が居るのかいないのか、居た場合の責任の範囲と量、責任者が居なければだれも責任をとらないで良いのか。ならば居ない方が良い?しかし、父母は、クラブとかサークルとか、部とか言った場合、責任者が居ると思って、許可した。とすれば、責任体制の杜撰にたいして、学校に対して訴えを起こすことができるのだろうか。インカレサークルというのがあり、学校に関係なく誰でも入れる。そのサークルの責任者を訴えるのか、それとも、付き添っていた上級生を訴えるのか。その上級生が賠償責任保険に入っていたとすれば、その子が訴えられる。保険に入っていなければ、訴えられない?友達どうしが、一緒に遊んでいて、事故が起こったら一緒に居た友達がうったえらるのか? 僕の場合、ブログは思考を整理して書いていないので、何時も混乱している。  この講演を聞いて、思いついたことが事故について、事故防止について、過失について、多数ある。書き並べると際限もない。整理しなくては。

1030 お台場1029 雨

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 10月28日 お台場潜水調査の日 1996年から始めているから、今年で21年目になる。最初の年は年に3回だったが、   年からは月例になった。外的な条件があるので、たとえば東京オリンピックなどというものがあるから、中止させられるかもしれないが、水中の同じ区切られた区域を毎月潜水して調べる。それが30年続いたとすれば、何かになるだろう。最初はそんな目標がないから、ただ楽しくダイビングができれば良かった。だから、あんまり資料が残っていない。研究は研究者個人のものと考えていたので、一緒にやっていた風呂田教授の実にはなったと思うが、研究会としての資料になっていない。そのことを考えたのは、なんと20年経過した、今年あたりからだ。 ずいぶん無駄な年月を消費してしまったと、仲間のリサーチ会社沿岸生態系リサーチセンターでグチをいったら、なんにも考えないで、ただ楽しさを追求したから、長続きしたのでしょうと。その長続きの中で、個人としての研究者がそれぞれ、それなりの成果をあげることができた。だからそれで良かったのだ、と、なぐさめられた? しかし、ここからは、違う展開にしよう。毎年、それぞれの成果をまとめて報告書を作ろう。前にも4回ほど報告書を作っていて、それが成果ともいえるのだが、ここからは、できれば毎年、報告書を作りたい。自分にやることが多すぎるので、どこまでできるかわからないが、とにかくやろう、と公言した。 まず、自分のやることだが、あんまり難しいことはすでにできない年齢だ。それに、ワークショップ、シンポジュウム、福島第一の調査、最新ダイビング用語事典②のダイビングの歴史の製作もある。自分の寿命をあと2年と想定して、できるだろうか? できない。でもやらなくては。
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           上の二つは共同通信のカメラマン、のカメラ、オリンパスとSJの僕のシステム

 ということは、あんまり大変なことはできない。 そこで、とにかく、ダイビングのエントリーからエキジットまでの全行程をウエアラブルカメラで回しておく。それを保存する。とりあえず、それだけにした。これまでは、回していても、編集して、良いところだけを保存していた。これからは、全部、全行程を保存する。  カメラはタイムインサートが映像上に記録されるSJ4000を使う。GOPROが伝統的にタイムインサートができない。その意味はわかるのだが、ここでは使えない。幸い、GOPROよりはSJの方が安く。お台場②限定しては、SJの映像は悪くない。 スチルと同じ台にのせて、良いなと思うところがあったら、スチルも押しておく。が、メインは連続したラインを想定した動画の全保存だ。 もしもこれが、1996年からやれていたとすれば、すごいことだった。今更だけど、ならば、今からは、絶対にやり遂げなくては!! ☆★☆
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 ところで、29日、台風22号の接近で雨、雨の決行は、当然だけど、つらい。尾島さんのテントが頼り。そのテントを使うために占用許可をとらなくてはいけないと、先々月、公園管理事務所に叱られた。では、と占用許可を申請した。都合4回、港湾局に出向いて、占用許可をもらった。毎月500円の地代がかかる。でも、占用という気分は悪くない。 しかし、テントがあっても雨は雨、少し助かる。程度だ。 10月16日に、波左間でエキジットで膝を傷めた。これで4回目だから、ガラスの膝だ。3回のうち、2回は、お台場でエントリーするときに傷めた。ウエイトを12キロ、15キロのタンクを背負って、計、27キロを背負って、砂浜の穴に足をとられた。 だいぶ良くなったが完治ではない。少し痛い。タンクを持ってきてもらって、水中、膝立ちで背負わせてもらおうかと思った。が、いつものように背負って、歩いて波打ち際まで行った。いつもは誰かに、フィンのストラップを引っ張ってもらうのだが、尾島ママは、エントリーして泳ぎ始めようとしている。今回は学生が来ていない。仕方ない、右足は、なんとかストラップを引けた。左はできない。ひねるのが怖い。足をポケットにつっかけた状態で、膝下まで後ずさり、そこで、ひざを突いて、後ろ手でストラップを引っ張った。うまくできた。今後もこれで行こう。 SJのシャッターを押し動画の記録開始、潜水開始だ。スノーケルで少し泳ぎ、スクーバに切り替えて、体を沈めて、石の点在を覗いていく。
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             潜水開始 エントリー 10時40分
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            上下に黒帯はSJ4000 撮影 牡蠣は、付着生物に覆われている。
 9月10日にあんなに群れていたマハゼが姿を消した。小さいのも大きいのも全員そろってどこかに行ってしまった。どこに行ったのだろう。もしかしたら、お台場の深みの、水深5m域のヘドロか?許可を取っている調査区域外なので、行かれない。行ってしまおうか?でも今日は、自分の想定したラインの連続撮影がテーマだ。  透視度は1mほど、お台場としては、悪くはない。 マハゼが居なくなって、交代で出てくるのは、ウロハゼだ。終点の杭の下にいたので、スチルも撮影した。大型のマハゼと同じように見えるが、体の斑点がちがう。マハゼの方がスマートだ。
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                     杭に到着 10時59分

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                   杭の下のウロハゼ SJ4000での撮影

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                      ウロハゼ TG4



 他のハゼ、チチブもアカオビシマハゼも、少ない。
 マガキを割って魚を集めよう。
 ところが、牡蠣に付着生物が付いていて、生きているマガキが見分けられない。


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           アカオビシマハゼ、白く見えるのだ割った牡蠣 痩せている。




 できれば同じ場所、戻ってきた岸近くでやりたい。
痩せた牡蠣を割ったが、魚が集まってこない。そうだ、来月からはソーセージを持ってこよう。牡蠣の消長に関わらず魚を集められる?
 少し、寒くなりかけるまで待って、ようやく、アカオビシマハゼが出てきた。しかし、がつがつと牡蠣につっこんで行かない。なんで出てきたのだ。
 
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              アカオビシマハゼ TG4



 問題はエキジットだ。
 膝立まで行って、フィンを後ろ手で外す。問題は立ち上がりだ。膝に負担をかけたくない。思っていたよりも容易に立ち上がれた。エキジット    足をひねったら終わりだ。本当にcm刻みで足を前に出して歩く。足が水からでて、足下が見えれば、歩ける。水道のあるところまで歩いて、タンク脱ぎ、ウエイトを外す。
 
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            エキジット11時44分22秒 潜水時間は1時間と4分




 雨もあり、一応目的の撮影も終わったので、膝をかばって潜水は一回だけにした。

1108 風のなりゆき

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風のなりゆき  
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 村上 春樹&龍  村上という苗字が作家には良いのかもしれない。 水中カメラマンの苗字は中村だろうか、征雄さんと宏治君、僕の頭の中では、そんな呼びかけになっている。 中村さん二人、あ、もう一人庸夫さんという人が居たな。中村さんたちは次の機会に置いて置き、二人の村上さん春樹さんと龍さんだ。 まず、春樹さんだが、最近、彼の小説にはついていけない。決して、嫌いでは無いのだけど、面倒くさくなってしまう。ずいぶん昔になってしまったが、ノルウエイの森も、途中で挫折した。 いつでも、自分に残された有限の時間のことを考えてしまう。限られた時間の中では、ノルウエイにはつきあいきれない。と言いながら、娯楽に徹した小説はずいぶん読む。悦楽の一つ、お金がかからない悦楽なのだ。  その悦楽の枠のなかに春樹さんの小説は入らない。  長いものがだめと言うことではない。上村菜穂子のシリーズは読み通せば延々と長いが愛読している。ついでに言うけれど「宇宙士官学校」鷹見一幸 も愛読、「一二国記」小野冬美も好きだ。その手のものが息抜きに良い。 村上春樹の小説は、ノルウエイの森、あたりからしんどくなった。 今度ノーベル賞をもらったカズオ イシグロの小説などは読む意欲が湧かない。このこと、カズオイシグロのことは、ずっと前に書いたことがある。良い、悪いではなくて、疲れそうだ。  村上春樹は、紀行文とか、紀行に近いのだろう、滞在記とかは、好きで、処分しないで書棚に残っている。「やがて哀しき外国語」は、前に読んだ記憶があるのに、二度買いしている。108円だけど。  ずいぶん昔だけど。「風のなりゆき」 村上陽子の写真集で、で、僕はこの小さな写真集を村上春樹の奥さんだと知らないで、手にとって、気に入って新本で買った。僕にとってこれは珍しいことなのだ。なんと言うこともない写真なのだが、良いとおもった。村上春樹の奥さんだと知って、何となく生々しくて、少し点数が下がった。 その後、村上春樹の「遠い太鼓」というギリシャエーゲ海の滞在記を読んで、この滞在記も好きなのだが、このとき奥さんの村上陽子が撮った写真なのだとわかった。 ことさらに何でもない写真で、街の猫を撮った写真が多めだが、なんか、こういう写真集を水中写真で撮りたいなとも思う。もうそんなチャンスは無いだろうが、100万円越えの重いカメラセットを振り回して撮ることがあれば、この方向を目指すだろう。という写真集だった。もっとも、陽子さんは、カメラが重いのでもう写真は嫌だと言っていると村上春樹が書いているけど。 僕も、もう重くて高価な水中ハウジングはフィジカルに無理だ。転ぶ時に高価なカメラをかばって大怪我をしそう。  ああ、「風のなりゆき」だけど、僕の友人諸君で、希望があれば、今度見せてあげます。なんだ、こんな写真というかもしれない。 ああ、ああが重なるけれど益田一の写真論もそのうちにやりたいけど、写真論は写真を見ながらしなくてはいけないので、ブログでは書けないのです。  脱線したので、村上春樹にもどって、滞在紀行記が好きだけれど、軽いエッセイの類も好きで、これも残している。「村上ラジオ2」の中から「エッセイは難しい。」を書き抜く。ちょっと引っかかったので、 実はこの部分を書き掛けたのが、このブログのはじまりだったのだけれど、前にさかのぼる脱線をしてしまって、今、ようやくたどり着いた。「エッセイはむずかしい」から、「とはいえ、僕にもエッセイを書くに際しての原則、方針みたいなのはいちおうはある。まず一つは人の悪口を具体的に書かないこと(これ以上面倒の種を増やしたくない)第二に言い訳や自慢をなるべく書かないようにすること(何が自慢に当たるかという定義はけっこう複雑だけど)第三に時事的な話題は避けること(もちろん僕にも個人的な意見はあるけれど、それを書きだすと長くなる。)しかしこの三つの条件をクリアして連載エッセイを書こうとすると、結果的に話題はかなり限定されてくる。要するに(どうでも良いような話)に限りなくちかづいていくわけだ。僕は個人的には、「どうでも良い話」がわりに好きなので、それはそれでかまわないんだけど、」  僕もブログを書いたり、フェイスブックのコメントを書くとき、人の悪口は書かないようにすること、これは、つまり我慢だから、結構つらいけれど、これは必ず自分に返ってくることだし、なんとか我慢している。書いたら楽しいだろうな。 次に、言い訳や自慢を書かない。これはほぼ不可能だ。書いていることはほぼ全部言い訳のようだし、自慢はなるべくしたくないけれど、自己主張と自慢の境界はぼやけている。自慢できるようなことはほとんどないので、自慢していないつもりだけど、 とにかく、自慢と言い訳を書かないと決めると、書けなくなってしまう。今の世の中、生きているだけでかなり難しく、高齢になって、生きていることを書くと、「さあどうだ。生きている。偉いだろう」みたいな自慢になってしまう。 もう一つの時事的な話題だけど、これも書かずにはいられないような時代だ。 日本については、高齢化の地獄が明ければ、そのころには自分はいないということなのだけど、良い時代になるかも知れない。などと思っていたら、人類の滅亡的な戦争を自分の眼で見られるかもしれない。 そのことは、書かないと、つまり意見を言わないと、いけないかもしれない。これはもう、政治の話ではなくて、人間という生き物の、生態の話になってしまうのだから、生態学者の端くれとして、書いても良いかもしれない。 そのうちに、もしも時間があれば。  もう一人の村上さん、村上龍さんだけど、 続く ☆★☆ 続くと書いたけど、書ける時間、余裕があるかどうか疑問? ☆★☆ ちなみに☆★☆の、マークは書きかけで書きかけ地点にもどるマークだ。  この人も僕はあんまり好きではない。前には好きだったが、年とともに好きでなくなったと言うべきか。なのに、書棚を整理していたら、捨てない本の中に、村上龍全エッセイ、1982-1986、1987ー1992 が残っていた。なぜだ?とページを繰ってみたら、「水に遊ぶ、水に学ぶ」というタイトルで、ダイビングを話題にして書いている。これがあったので残したのだ、ともう一度目をとおした。サイパン、パラオのこと、そして、トラックの潜水艦に潜って死にそうになったことなどを書いている。断片的に拾ってみる。「ダイビングをはじめて7年になる。私にとって、その魅力は二つある。一つは、言うまでもなく「おさかなさんになっる」ことである。 二つ目の魅力は、生命が一番大事、という当然のことを強く確認できることだ。中略 ダイビングは子供も女も年寄りもすぐにできる、やさしいいスポーツなのだが、あっという間に死んでしまう怖いスポーツでもある。 そして、「生きがい」よりも「空気」の方が大切だという真理に到達できる、崇高なスポーツなのだ。」 「ダイバーのなかには、潜水中毒ともいうべき、本当のフリークが居る。とにかく潜りたい。ハコフグしかいない中伊豆でも良い。透明度ゼロの千葉の泥海でも良い。ヘドロの東京湾でも良い、北極海でもいい、プールでも良い、とにかく水に潜りたいという人々だ。そういう人のことは大好きだが、ちょっとわたしはついていけない。」 うん、確かに、ダイビングは僕のような、僕の周りの友人のようなフリークと南の海にだけしか行かないレジャーダイバーもいる。村上さんは生涯の一時期ダイバーだった普通のダイバーだったのだ。彼ほどの作家が、フリークになって海の中のことを今でも書いていてくれたらおもしろいのにと思ったりする。 「パニックというにはもともとダイビング用語である。」村上龍 彼はトラックで、潜水艦に潜ってパニックになり、空気が来ないと思い込んでマウスピースを口から離してしまう。そして、ガイドに無理やりに口にマウスピースを押し込まれて、「ものすごい勢いで空気が入って来た。水を飲むのをやめた途端苦しくなった。すべての細胞に針を刺されたようだ」 なるほどマウスピースを放してしまう人は、そういう事情だったのだ。溺れたとき、水を飲む、吸い込みはじめると、それはもう苦痛ではなくなり、空気に呼吸を戻すのが苦痛になるのだ、と。やったことは無いけれど、そういうことなのだろう。 それはそれとして、引っ張り出した「村上龍全エッセイ 1982ー1986、1987ー1991」二冊。 これが読み直してみたらおもしろい。彼の意見には同調できない。たとえばダイビングについても、ダイビング論としては、素人論だが、良いところを突いている。だからおもしろい、みたいなものだ。 と、読みかけたら、途中で嫌になった。  まあ、両村上さんとも、エッセイは面白いと思うし、何かがある。小説は疲れる。両者とも僕が我慢、根がなくなったのだろう。 でも、どうでも良いことだね。結局。「風のなりゆき」

1115 奄美大島 11月12日

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11日12時発 JAL 奄美大島直行便 満席だった。奄美大島に行く人、増えている。1430名瀬着、レンタカーで古仁屋まで、小さい、わりと小ぎれいなホテルにまず一泊。ホテルの斜め前でこれも、古仁屋らしくない肉料理屋で夕食、まあまあの味で、フィッシュ&チップはおいしかった。
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12日、朝8時にホテル出発、久根津の太田さんのところ、「コホロ」へ、久根津は僕が大学2年生の時、一夏を過ごした。僕が過ごした、マベ真珠養殖場、油井小島は、造成した石垣が崩れて、廃墟。そうだろう、60年前なのだ。60年前って軽く言うけれど、その時生まれた赤ん坊が、還暦なのだ。  コホロの太田さんのボートは、なかなか、良い。 10年以上続けている中尾先生の海綿採集の手伝いで、目標にしている種類があるのだが、これまで、2回ほど空振りしている。  中尾先生がブランクで、花粉症で咳がでている。3mまでにすると言っているがまあ8mぐらいまでか?。  自分は、3mmのウエットスーツでは寒いので、そしてボロはみっともないので5mmのウエットスーツを買った。 そのいきさつは、以下。 「「昔、レンタルに使っていたスーツが、山のようにあり、かなり捨てたが捨てきれない。その一着を着ていたら、少し、いや、だいぶみすぼらしい。新しいのを買うとして、 フリーダイビングの人たちが愛用しているUGO 後藤勇毅 君の略だ。君と言って、僕より10歳下で、彼が10代のころからの友達だ。10歳下、73か?もしかしたら、5歳下、もちろん息子さんの代になっている。須賀さん、スーツ作ってあげるよと言われてから、30年以上経過している。死ぬまでに一度つくってもらおう。 でも、採寸に行く時間、余裕がない。11月中旬に奄美大島に行く。3mm、にフードジャケットで行かれるか? 水温23度までなら、大丈夫だ。でも、雨だったら、厳しいかも。 悩んでいる話を鈴木君にしたら、今の出来合いは、9800円でも、使える、買ったらどうですか? アマゾンで見たら、9800円、自分の採寸表(10年前)をみて、Mサイズをポチしてしまった。 次の日には届き、辰巳で試着した。太股、腰回りが少し緩い。僕の肉が落ちているのだ。まあ、フィットしている。作りはなかなか良い。生地も良く延びて丈夫そうだ。手足の長さは合っている。これで、9800円だから、ウエットスーツ屋さんも大変だな。」  5mmの上にフードジャケットを着る。ウエットスーツが新しいので、ウエイトは6キロ着けた。多分重いだろうが、最初だから軽くて沈まないよりは良い。  さて、恒例の忘れ物、今回は忘れ物がないように念入りに準備した。それでもダメだ。GOPROをステイに取り付けるアタッチメントがない。バッグの底にいつでも何個か入っている。そのバッグを交換して持ってきた。仕方がない。GOPROで撮るときには、別に手で持って構えよう。  太田さんが事前のブリーフィング、僕でも聞き取ることができた。それだけ、大きな声で明瞭に話して居る、ということだ。何を話しているのか僕の耳では聞き取れないガイドも居る。今、計画書のプロジェクトをやっている。計画書に記載してあれば耳が遠い僕でもわかる。言葉は、通じていない心配がある。言葉と書類の両方が必要だ。 話していることの骨子は、水中ではぐれたら、探そうとしないで、浮上して浮いて待てということだ。流されても泳がずに浮いて流されれば必ずピックアップするから、パニックにならないで、ただ浮いて居るように。  この前、学生の指導者の集いで、高野君がレクチャーしたとき、同じ事を話した。それではセフテイストップはどうなるのだ。ダイブコンピューターには早すぎるという表示がでるが、どうだ、と質問して困らせた。セフテイストップだとか、ダイブコンピューターの表示などはどうでも良いのだ。優先順位はボートに収容することなのだ。そのコンセプトをガイドとお客が共有していることが一番大事なのだ。学生であればリーダーとフオロアーの共有の確認だ。  一緒に潜るチームは、中尾先生、町田君、須賀、アシストしてくれる鈴木、ガイドにはオーナーの太田さんがついてくれる。気心がわかっているいつものチームだ。  中尾先生のダイブコンピューターの電池が切れてしまった。僕の日アク ダイブコンピューターを貸して、僕はソリューションを使った。60歳の時から使っているから、22年使っている。これは名機だ。 
    一回目の潜水 11時28分潜水開始。 9.8m 47分 25度  哀しいけれど、歳をかさねると言うことは、フィジカルが少しずつ退化していく事なのだ。ここが、昨年より良くなったということはないのだ。ボートの後尾にある梯子に腰を下ろして、その姿勢で身体を持ち上げることが出来なくなっている。そのことを誰かに気づかれると手助けしてくれてしまう。何とか苦労して立ち上がり、水面に落ちる。飛び込むと言うよりも、落ちるのだ。 スノーケルで呼吸しようとすると沈んでしまう。BCに少し空気を入れる。6キロでは、やはり少し重いのだ。
  レジャーダイビング的には何もないポイントだ。サンゴも少しだし、魚も、どこにでも見られる種類がどこでも見られる数だ。僕たちの他に、二人だけの女性組がいて、彼女らには、別のガイドが付いている。二つのグループがだいたい同じ方向で進む。
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 ここの見るべきものは洞窟であり、向こう側の水面にぬけているちょうど良いサイズのホールだ。中尾先生の目指しているのは、だいだい色のような海綿だという。洞窟の中では、黄色い海綿を採集した。先生も熱心に採っていたから、この種類で良いのかと思ったが、残念ながら目指すものではなかったそうだ。奄美大島は空振りがつづいている。気がかりだ。  5mmの9800円スーツは、45分 24度で、終わりの方になりちょっと寒くなり、ボートにあがってから、我慢できないほどではなく、ふるえもしなかったが寒かった。  2回目の潜水は場所を移して、1時間後に開始。瀬戸内海峡を、久根津港に戻る方向で移動して、カケロマ側だ。1時22分潜水開始 水深9.1m  潜水時間49分 23℃  やや、流れがある。上るのに少し力が入る。 ウエイトは5キロで良い。急速に潜降するばあいには、ヘッドファースト、通常の潜降はBCの空気を抜ききれば、降下できる。 ウエットスーツは、水に入ったら暖かかった。 何もない水中で、海綿もめぼしいものはなさそうだ。 
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 鈴木が中尾先生についていって、町田がひとりで離れたので、町田に付くことにする。 流れがある澪のような地形で、何も見るべきものはない。海綿の採集だから、この場所でもいい。 橙色の薄い皮のような海綿を見つけたので、町田を呼んで、採集する。岩に貼り付いた薄い皮をていねいに剥がすような採集だ。  宿泊は、前回泊まった久根津の「よーりよーり」ではなく、古仁屋に戻り、通り過ぎて、喜鉄という部落の「ネプス」というペンションだ。「よーりよーり」が満員だったのだろう。  移動に意味なく時間がかかるが悪い宿ではない。 喜鉄を越えて、東の先端に向かうと、ホノホシ海岸とかヤドリ浜とか、良い砂浜がある。恒例の遠足を行ったが、それほど歩いたわけではなく、浜に降りた程度で止まった。美しい砂浜だ。という他特筆することはない。 食事もまあ良いのだが、このごろこういう料理を食べておいしいと感じることが少なくなっている。  食事のあと民宿のご主人の案内で、みんなぞろぞろ出かけていく。説明があったのだろうが、耳が聞こえないからわからない。懐中電灯を一人一個ずつ持って表にでて、道路を渡って向こう側の林、その向こうは浜で、海だ。懐中電灯で照らしてみると、オカヤドカリが出てきている。皆それぞれ、スマホのカメラで撮っている。僕は説明が聞けなかったので、カメラを持ってきていない。しばらく、皆の写しているのを見ていたが、僕もカメラマンだ。スマホを持ってきて、皆に加わった。そのころは皆の撮影は終わっていて。町田君だけが残っていた。撮影してもうまく撮れない。懐中電灯の光では強すぎるのだ。どうもうまく行かない。スマホのライトを使うことを考えた。やってみるとうまく行く。しかし、スマホのカメラの調子が悪い。設定がうまくできていないのだ。そんなことで、うろうろ戸惑っているうちに、ヤドカリがみんな居なくなってしまった。ライトの光を浴びせると、貝殻の中に引っ込んでしまうか、林の奥に戻っていってしまうのだ。一応何枚か撮ったので、宿に戻ってみると眼が撮れていない。ヤドカリがおもしろいのは眼なのに。
続く

1116 奄美大島 2

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11月13日。 久根津(油井)を出航して、東に向かう。 奄美大島は本島と加計呂麻島に分かれていて、その分かれている海峡が瀬戸内だ。相当風が吹いても、瀬戸内内は静かだ。ただ、その両端はうねりが入ってきている時があり、そのポイントは潜れない。反対側に場所を移す。海峡の両端がダイビングポイントとして良いところがあり、咋12日は西側の出口の両側を潜った。 今日は海峡東側出口の、加計呂麻側の安脚場、本島側の喜鉄にもぐる。
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 まず一回目のダイビングが安脚場西、ここは潜ったことがあって、たしか中尾先生が目当ての海綿を採集したところだ。期待が大きい。 うねりは入っていないが流れがある。館山ほどのことはないが、今回、一緒になっているもう一つのグループ女性二人組と男性一人、彼らが先にエントリーしたので、上から見下ろす。女性の一人、せっせと泳いだがあまり進まないので、ヘッドファーストで潜り込んで行った。このグループはかなり上手だ。  僕もヘッドファーストかなと思ったが、ボートを止めているブイロープ、潜降索が艫の梯子の前にあり、ロープで繋がっている。これにつかまり、手繰って降りようと考えた。 飛び込んで、索を手繰って,8mほどのところでロープにつかまって待っていたが誰も降りてこない。町田は、途中まで降りてヘッドファーストで流される方向に降りてしまった。流れに乗って追いかけるとすぐに巨大な岩があり、流れを遮っている。だから、流されてもここで止れる。
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 昨日に比べて大きな岩が入り組んでいて海綿は多い。 大きな岩のトンネルを向こう側に抜けると、大きなハマサンゴの群落がある。大きな岩とほぼ同じくらいの大きさだ。そのサンゴまで行かないで、手前の大きな岩で採集する。 昨日に比べて採集点数が多い。少し期待が持てる。 
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 マスクマウントのアタッチメントを忘れてきてしまったために撮影が出来ない。要所で手持ちで撮れば、とやっているけれど、要所では手を使うから撮れない。撮影が目的の潜水ではないのだから、問題ない、とは思うものの、マスクマウントでの撮影が身についてしまっているので、ちょっとつらい。撮影の結果は惨憺たるものだった。カメラを構えないで撮影するから、ほとんどのスチルは流れてしまう。  浮上の頃には流れがゆるやかになっていた。 潜水開始 11時16分 最大水深13.4m 潜水時間53分 水温25度  二本目のダイビング、安脚場の対岸、本島側の喜鉄、黒崎に潜る。ここは始めて潜る場所かも知れない。後でログを調べよう。 砂浜の沖にポイントブイがあるが、潜れば良い岩礁がある。海底から、複雑な形状の大きな岩が立ち上がっていて、海綿の着く陰が多い。 町田が採集した海綿を種類毎にパックに詰めて僕が手に持つ、大きな採集バッグを持てば良いのだが、僕はこのチームの中で、カメラを持ち、バッグを持たない形になってしまっている。町田が採集したパックが次々と増える、カメラのステイを肘にひっかけて、両手でパックに採集した海綿を詰めつつ、いくつものパックを持つ、という手が4本状態だが、パックが4袋が限界だ。鈴木の大袋に入れたいが離れてしまっている。町田を促して、中尾組の方に行く。大きいバッグが一つというのも、グループが離れないためには、良いかも知れない。 空気が80を切ったので、そろそろ戻る方向だ。太田さんが、こちらの動きをだいたい読んでくれている。 ふと、水面を見るとボートの影がうっすらと見える。良い位置に戻ってきてくれている。ここならば30まで大丈夫だ。 町田と僕の空気消費の差は、終了に近くなって30だ。僕が30ならば町田は60だ。中尾先生との差は20だ。悲しいかな僕の消費が一番多い。
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 太田さんが深く切れ込んだ岩の下で良い海綿を見つけた。町田が採集する。その向こうを見ると、岩の形が良くて、チョウチョウウオが数種類、これも悲しいかな種類を忘れつつある。スミツキトノサマダイとなんだっけ、ミスジチョウチョウウオか、コショウダイの類の名は忘れている。岩の重なりが写真的に良いので行こうか、やめて岩陰から外にでる。ボートを探して上を見上げるが見あたらない。  太田さんに合図を送ると戻るリードをしてくれる。意外に離れていた。戻る途中で記念撮影をしてくれる。彼は町田の方向へ戻り、僕は浮上する。セフテイストップは、しないでそのまま上がる、最大水深15mで潜水時間50分、二本目の潜水だ。もちろんDECOマークはでていない。自分の感覚ではOK。潜水時間の大部分、採集は、水深10m以下でやっている。僕の60年のダイビング生活で、その50年ぐらいの期間、水深10m以下ならが減圧停止はしなくても良い時代だった。減圧症の歴史は面白い。  全員無事に上がって、戻る。この場所は今回の4回の潜水では一番良かった。目的のものが採れたか、中尾先生に訊く、首を横に振る。新しい種類はいくつか採れたらしい。一緒に潜水しだして、もちろん、それ以前もあるだろうが、だいたい3000種類以上だという。
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 僕たちのダイビングは、これで終わり、別の3人組は、別のガイドでもう一本やる。まだ時間は早いし中尾先生は少し未練があるかも知れない。しかし、さっきのような浮上でも大丈夫なのは、2本までかも知れない。僕は原則としてこのチームでは2本だ。このあたりは判断が難しいところだ。水深が浅くて3回以上の潜水と、深くて1-2本の潜水と、どちらが減圧症になりやすいかと言えば、浅い方だ、というのが常識になりつつある。  潜水開始1時12分 最大15.8m 潜水時間50分 水温25度  太田さんのハウスで、採集した標本の整理。僕はオフだ。キジトラの猫が、興味を持ったらしく遊びに来た。ここの猫だ。猫の研究?をしている僕としては、友達になりたい。 外で飼っている。外飼いの猫だ。外飼いの方が、飼い主以外の人、たとえば僕に対して、なつく。ダイビングサービスの猫は、だいたいこのスタイルで、お客と遊んでくれ、人気がある。猫としてもこれが幸せなのだろうと思う。あ、猫を飼うと言ってはいけないのかな、猫と暮らす、のだ。どっちでも良いけど。 しかし、奄美の猫は全部外飼いかというと、そんなことは無いらしく、ここでも、捨て猫、そして野良になって捕殺の問題がある。奄美では野猫が、稀少生物で人気のあるアマミノクロウサギを襲ったりしてしまうから、より深刻かもしれない。家の周辺に限定して、なるべくならば室内飼いが奨励されてはいる。 必ず登録して、首輪を着けなければいけない。 太田さんが記念撮影をしてくれた。僕はこの写真がとても気に入っている。
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 喜鉄の宿で、もう少し良いオカヤドカリの撮影がしたい。眼をはっきりと撮りたい。ヤドカリのチャームポイントは眼なのだ。食事の後で撮影にでたが、すぐに雨が降ってきてしまって戻ってきた。不満足だが眼は撮れた。このヤドカリはムラサキオカヤドカリ、これも希少種だ。
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 11月14日 さて、奄美に来たら、鶏飯を食べないわけには行かない。港屋だ。それほどにこだわっているのに、僕が道をまちがえてしまった。 が、とにかくたどり着いて港屋で食べた。中尾先生のフェイスブックで、奇しくも3年前の同じ日に、港屋で食べていることがわかった。おいしかった。

1119 日本ハウジング史 1.

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ここから先シンポジウムの報告書の原稿を書かなくてはならない。ので、
 その下書きをブログにしていく。
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 2016年、昨年のシンポジュウムで、最新ダイビング用語事典Ⅱの編集を決め、それは、ダイビングの歴史中心にしようということで、制作の準備を始め、元JAMSTECの山田稔さんに協力を依頼して、年表の制作、監修を行っていただいた。
 そして、年表については、2016年のシンポジュウムの報告書としてまとめ、おいでになった聴講者に配布した。
 そして、年表に沿った1000字程度のコラムを必要ポイントに並べて、ダイビングの歴史が理解できるとダイビングの安全確保のテキストにもなるというねらいで作業を進めることとして、タイトルも「ダイビングの歴史」とし、山田さんにはこれまでに書きためた原稿を多数提供していただいた。
 しかし、自分の作業が進まないまま時を過ごしてきた。2017年のシンポジュウム、すなわち今、今年は映像機器の歴史を取り上げ、展示をするとともに、映像機器の歴史を書く。2016年が年表とマスク式潜水機の記事がある。すべてにわたってコラムを書くことなどできない。予定しているコラムを順不同で並べると、すでにあるものから、①マスク式、②今回書く映像 ③人工魚礁調査を中心とした、水産、リサーチについて、④ヘルメット式、房総のアワビ採り潜水の歴史、⑤山田さんにはシートピアのこと海底居住について、⑥レジャーダイビングについては、事故の歴史を⑦学生のダイビングとしては、今年50周年を迎えた関東学生潜水連盟について、⑧サンゴの保護について ⑨高気圧障害防止規則(減圧症 減圧表についても含めて)⑩海保について特殊救難隊の歴史、⑪スチルについては、益田一さんとその一門について、そ
の他水中カメラマンの系譜 ⑫環境保全については、海中公園の歴史⑬テクニカルダイビングとリブリーザについて⑬日本独特とも言う海洋高校の潜水(種市高校を含めて)⑭宝探しについてナヒモフについて、⑮書誌 ダイビング雑誌とダイビング関係出版物について あとは、走っている内に浮かび上がってくるだろう。
 作業について滞った理由の一つは、なるべく多くのひとから原稿を集めようとしたことにある。ここからは、自分に資料があり、自分が書き進めるもの、親しく依頼できるものを中心にして、自分でやれるところまでやる。歴史とはそういうものだろう。 本題にもどって、映像(映画、テレビなど動画について)
 ここでは、自分の視点から自分中心に書く。出版には、このブログをカットしていく。
 中心になるテキスト 参考としては、「NHK 潜水撮影の半世紀」 編集は小口順吾 親しい友人で、寄贈していただいたものだ。
 まず、NHKの潜水撮影と自分との関わりを述べよう。この年表に出てくるNHK水中撮影班のルーツである竹内、畑中、河野 (それぞれ親友で日本潜水会の会員であるので敬称略)ら、そして、その次世代のカメラマン諸氏は、親友とまでは行かないが親しい友人である。その次の世代になると、ただの友達だ。その友達世代が、先頃亡くなってしまった木原さんで、彼がこのごろでの、NHK水中撮影班の長老だ。思えば長くいきてしまった。なお、上に名をあげた河野祐一は、すごい人で、未だにカメラを持って潜り仕事をしている。息子の河野君は、高校生の時に日本潜水会の忘年会に来たが、彼が現在のNHK水中撮影班の現役のトップ、重鎮だ。
 そんな親しい間柄だが、自分的にはNHKをライバル視して併走した。もちろん勝てるわけもない。日本放送協会だ。それでも、そこそこがんばって、鼻の差ぐらいまで追い込んだこともあった、と思っている。
総合的には比較にならないから、あくまでも個人としての勝負だけど。 ここでは、僕とNHKの併走、勝負の視点で見ていこう。
 ところで、この小口君(彼も上記御三家に次ぐカメラマンだが)が編集した「NHK 潜水撮影の半世紀」は、すごい本(資料)だ。僕がこれからつくろうとしている「ダイビングの歴史」は、とても、これには及ばないかもしれない。
 まずNHk潜水撮影班(以後NHKと略称)が行った全撮影が年を追って番組名撮影の概略、撮影したカメラマン、スタッフとともに記されている。
 NHKは、世のたいていの出来事には対応して取材、放送しているので、この年表を見れば、日本の水中関連の出来事が何時だったのか時系列でわかる。しかもそれは、別ページにそのときの写真がまとめられている。この写真を見るだけで、この年表が始まった1953年から半世紀50年の間のダイビングと撮影の様相の変化が見られる。 次はNHK潜水撮影班が行った全研修の講習内容、講師、参加講習生の名簿が示されている。本来組織が行う講習会はそうあるべきだが、日本水中科学協会のプライマリーコースはここまで完璧ではない。
 ただし、僕も講師として参加したことがあったのだが、探したが僕の名前は見あたらなかった。たぶん、僕は、ライバルと認められてカットされたのだろう。
 次に使われた全撮影機材が写真で示されている。これも僕がスガ・マリン・メカニックとして納入したものがあるのだが、製作した島野製作所の名前でのせられている。つまり僕の関わった名前はすべてカットされている。今でも、ほんとうに親しい間柄なのだが、それとこれは別ということと割り切れている。そうなっている理由は後述する。 とにかくこのテキストは、このスタイルとしては完璧に近い。
 そしてNHKの水中撮影が、水中撮影のみならず、日本のスクーバダイビングに貢献したことは大きく評価できる。撮影の歴史であるとともにダイビングの歴史でもある。 この「NHK 潜水撮影の半世紀」の中でも、畑中さん河野さん、竹内さんは別格の扱いで、それぞれ紹介に1Pをとっている。三人は、僕にとっても特別な友人なので、紹介しよう。
 畑中伸一氏は、NHK入局が1955年であり、NHK歴は最古参である。早稲田大学のアメフト部の出身である。学部名は知らない。
 1957年に水産大学館山で潜水の実習を受け、スプリング巻きのベルハウエル70DR スプリング巻きの16mmカメラのブリンプをつくって、その1957年にNHKで最初の水中撮影をする。
 鎌倉で奥さんが喫茶店を経営していて、僕も2回ほどおじゃましたことがある。最初は硬派体育会系で、後輩のカメラマンたちはびくびくしていたが、後にベトナム戦場にカメラマンとして行き、帰ってきたら穏やかな人になっていた。1967年、日本潜水会指導員
 河野祐一は、1958年にNHKに入る。日大芸術学部卒 1962年に潜水士の資格を個人でとる。湘南ボーイで、後藤道夫のところでダイビングをしていた。これが後藤、須賀 河野ラインの始まりである。1966年2月、全日空の727が、羽田沖に落ちる。その時、河野、竹内が水中撮影に成功して、NHK水中撮影班の大スクープとなった。他の民放には水中撮影班はなかったのだ。
 僕は舘石昭と一緒に航空局の依頼で事故現場写真(スチル)を撮った。舘石さんはこのとき撮った写真を雑誌に売り込んで、名を挙げた。僕はウエットスーツが破れ、水温6度の海で体が凍傷状態になった。
 次の年 1967年、後藤道夫、須賀、浅見国治で、日本初の潜水指導団体日本潜水会を結成した。河野、竹内は中心メンバーだ。一週間の合宿生活の中で、午前中は今後の日本のダイビングをどうする?ディスカッションを行い。河野がスピアフィッシングをやめようと緊急動議を出した。これが日本のスピアフィッシングをやめる最初の動きとなった。
 
 竹内庸氏は、1957年、日本ダイビング協会が行った最初のダイビング講習を受講している。僕が水産大学の潜水実習を受けたのも1957年だから、同じ小湊での実習、入れ替わりだったかもしれない。竹内さんは当時大学生、1961年にNHKに入っている。1967年には日本潜水会の指導員になり、河野さんと羽田沖の全日空を撮っている。
 やがて、日本潜水会は全日本潜水連盟に指導を移行し、親睦団体となり、2008年まで、毎年恒例の忘年会をやっていた。日本潜水会がダイビング界で唯一の大人の集まりだと言ってくれたのが印象に残る。
 後藤道夫が亡くなり、日本潜水会でお別れの会をやったが、竹内さんは体調が悪いとかで、こられなかった。どうしているか気がかりである。機材について
 1953年 NHK東京テレビジョン開局。
 1954年 東京水産大学が魚介類の研究のために買い入れた900万円のIO水中カメラ かなり大きい。をプールに沈めて泳ぐ魚や子供たちを撮った。日本で初めての水中テレビカメラによる撮影、そして放映だった。
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 1957年 水産大学学生が行う海底地図の作製を取材。これがNHKカメラマンによる最初のテレビ番組の水中撮影だった。カメラマンはすでに紹介した畑中さん。
 確か、僕の一年上の竹下さん、橋本さんが取材されている。僕はまだひよこで、その年に潜水部ができた。今年60周年を迎えた。
 1963年には、ボレックスの16mm、これもスプリング巻きを輸入 これで奄美の海を撮っている。撮影は河野、竹内だ。
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                       ボレックス
 さて、自分の方だけど、川崎に島野徳明という人が居て、潜水協会の会員として知り合った。東芝に勤務していたのだが、器用な人で何でも出来る。本当に何でも作れるのだ。何でもできる、何でも作れるというのは才能で、僕の周りで、その一人が後藤道夫で、もう一人が島野さんだ。島野さんには東亞潜水機で僕が作っていたレギュレーターの部品の加工をしてもらうことになった。 1965年 加山雄三の「海の若大将」シリーズが始まり、その水中撮影のカメラハウジングの問い合わせが東亞潜水機に来た。島野さんのことを思い出して、出来るかと訊いてみた。出来ると言うことになり、製作をたのんだ。35mmフィルムのシネカメラで、大きい。無理かと思ったが、巨大なハウジングだが何とか出来た。
 1966年前述の全日空機羽田墜落がある。
 1967年 ベルハウエルDR70 スプリング巻きの16mmカメラのハウジングを作ることになった。このフィルモは、先のNHKの畑中さんが1957年作ったものと同じカメラだ。
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                     このハウジング カメラ展示する
 このカメラは鋳物で10台単位で作った。この種のハウジング、しかも水中用としては大量生産だった。
 このDR70というカメラは、第二次大戦、朝鮮戦争そしてベトナム戦争で活躍する。すごいタフなカメラなのだ。スプリング巻きだから、電池の充電の心配がない。野戦で使える。そして、カメラマンが地雷を踏んで飛散しても、カメラ直撃でなければ、カメラは生き残る。
 使用するフィルムは短尺で、撮影時間はおよそ3分である。スプリングをいっぱいに巻くと、およそ26秒シュートすることができる。26秒とは、そのころ流行した「お富さん」を歌い終わる時間数だ。このカットを6回撮影すればフィルムチェンジをしなければならない。水中ならば浮上しなくてはチェンジできない。 1969年 このカメラを使って、僕は日本テレビの番組で日本初、摩周湖に潜って撮影した。 日本潜水会とか、撮影のための潜水とか、次第に東亞潜水機の仕事が留守になり、わがままいっぱいさせてくれた、東亞潜水機を退社した。1970年、自分の会社スガ・マリン・メカニックを作る。 退社の条件で、僕は潜水機そのものは作らない約束をした。1963年100m実験潜水で送気式のデマンドバルブ着きフルフェースマスクを開発していたので、それを商品化するのは、義理にはずれる。
 僕は島野さんと組んでカメラハウジングを売ることにした。
 NHKには、島野製作所という名称で「ボユー16mmシネカメラのハウジングを2台納品した。この16mmカメラはモーター駆動なので、3分連続して回すことが出来る。
 以後島野製作所は、1981年まで、フィルムカメラ4台、ビデオカメラ2台をNHKに納入する。
 
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これが誰だかわかる人居るだろうか。
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 1977年 マチャアキ海を行く、これは、日本で初めての水中撮影の連続番組であり、後には僕と組むことになる田島プロデューサーの作品で、カメラマンは後藤道夫、益田一、田口哲、中村宏治、中野修三らで、僕はここには入っていないまだカメラマンではない。
この番組で主に使用したのは、NHKも導入したスプリングモーターのボレックスで、ドイツからの輸入品であった。
上から蓋をする形であり、大きく重いが、水密、沈没しにくいということでは、僕の作った70DRよりも確実だった。
※この番組をフイルム時代のテレビ代表として、シンポジュウムで映写する。


 1978年 潜水と水中撮影入門 という本を須賀と後藤道夫、共著で書くが、まだその時点では、須賀はカメラを作る人、後藤はカメラマン写す人という縄張りである。
 1979年 日本テレビ 大型 NEC テレビカメラを作り、それを運用して水中番組をつくるプロデューサーとして、山中康夫氏が就任し日本一周の水中撮影があり、水中撮影はスガ・マリン・メカニックが受けるがまだ僕は水中カメラマンはやらない。撮影は好きだし経験もあるが、じっと我慢して社長さんをやろうと心にきめていた。

1120 日本ハウジング史 2

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1120 日本ハウジング史 2ハウジングから見た日本テレビ映像史 かな良いタイトルが見つからない。
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 1980年 ポンペイ 日本テレビ 山中プロデューサーの作品、ナンマタール(ナンマドール)遺跡に潜った。ムウ大陸の遺跡?ナンマタールに潜ると死んだりする。タブー、呪いがあるのだ。その呪いで僕はカメラマンに復活してしまった。 詳しくはここでは書かない。月刊ダイバーのグラフィティに書いている。 このロケで、DR70 ベルハウエルが水没した。水没させたのは、鶴町君、そのベルハウエル、今回陳列する。すでにフィルムカメラはサブになっていて、水没しても実質上製作に支障はなかった。この水没で、以後、フィルムカメラは、ハイビジョンのためのスーパー16になる時代まで手にすることは無くなった。  
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 日本テレビの撮影で使っているビデオカメラ、あまりにも大きく重すぎる。水中では重くないが。とりまわしにたいへんだった。 自前のカメラを作る。ビクターのKY2000,KY1900 
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 このKYシリーズは、撮像管(真空管)ではなくて撮像板を使っている。板の方が廉価、当然、色も劣るが水中ならば、これで我慢できると考えた。 ビデオカメラは、民生用、業務用、放送規格と分化していて、ビクターKYは、放送規格に近い業務用に位置づけられていた。  ENG  エレクトロニック・ニュース・ギャザリング街に進出して撮影する、ニュース取材用のテレビカメラの意味である。 今でこそカメラと言えば、すべて電子的記録で、小さなカードに記録、録画されるが、初期のテレビカメラは、幅1インチのテープに録画される。大型のテープレコーダーで、放送スタジオに、どんと鎮座している。そのレコーダーとカメラは太いケーブルで繋がれていて、大きなカメラは車付きの三脚に乗せられていてスタジオの床を走り回り、ケーブルも床をのたうち回る。 街中、野外はフィルムで撮影する。だからニュースはすべてフィルムである。フイルムは現像して、編集しなければ放送できない。今、編集と言えばすべてPCの中での出来事である。フイルムの時代は現像してからの「切った貼った」である。一度、NHKのニューススタジオに見学に行ったことがある。編集済みのフィルムを放送するのが原則だが、ニュースは時間との競争でもある。カメラマンが撮影してきたフィルムを、秒を争って、現像して、切って繋ぐ、アナウンサーがしゃべっているスタジオのかた隅で、編集マンがフィルムを切って繋いでいる。秒を争って秒を繋ぐ、神業である。もしもカメラマンが、余計なものを撮ってきたとすれば繋げない。間に合わないのだ。ベルハウエルのカメラが3分で30秒のカットが六つ、それで良いのだ。 ニュースのカメラマンも、頭の中で編集しながら撮影する独特の感覚が必要であって、それは編集マンとの闘いとも言えた。編集マンに気に入られるカメラマンが良いカメラマンだ。 一方、スタジオのカメラマン、あるいは野球中継のカメラマンはまた別の感覚である。  ENGは、スタジオのビデオカメラが屋外にでて、走り廻ることだ。そんなに大きいものを担いで走ることはできない。テープレコーダーもできるだけ小さく、カメラもできるだけ小さくしようとするが、それでも大きい。ENGは、ビデオ・テープ・レコーダー(VTR)を肩に掛けて走るビデオエンジニア、いわゆるVEと、カメラを担いで走るカメラマン、二人が一組で、その間はケーブルで繋いでいる、二人三脚となる。   水中撮影の場合は、ビデオ・テープ・レコーダーは船の上に置き、カメラは水中で、これもケーブルで繋がっている。ケーブルは100mぐらいが限界である。やってみればわかるがこのケーブルと言うものが水中で如何にも始末に負えないものであるか、ケーブルの芯線は原則として銅線であるだから重い。沈む。やがては中性浮力のケーブルを作るが、当初は浮きを着けて中性浮力にする。だからかさばる。水中ではこのケーブルを捌くダイバーが必要である。ヘルメットダイバーはホース捌きが技術だが、水中カメラマンはケーブル捌きが技術である。 これは、面倒ではあるが、ダイバーにとって、一つの安全管理になっている。つまりケーブルでボートとつながり、ケーブルを捌くバディがいて、しかも役割分担が明確である。 このシステムのおかげで、どれほど救われたかわからない。僕が生きているのはこのケーブルシステムのおかげ、といっても良い。  カメラとビデオが次第に小さくなり、一体化するのは90年代である。
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KY2000 龍泉洞
1981年 竜泉洞 NHK特集「地底の湖・謎の大洞窟」 NHK仙台制作、NHKなのに、僕がカメラマンしている。フィルムとエレクトロニクス録画の端境期だった。 この竜泉洞がヒットで、未曾有の視聴率をとってしまった。当然、NHK潜水班としてはおもしろくなかったかとも思うが、「潜水撮影の半世紀」には須賀次郎氏が潜る と記載されている。撮影とは書いていない。
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NHKでも、その1981年 水中ビデオシステムが開発され、これは島野製作所が作っている。サチコン3管型のカメラだ。3管とは、色の3現色RGBを三つの撮像管で撮るもので、放送規格のカメラである。一般アマチュアが使う民生は単管で、業務用はその中間型である。 なお、撮像管は、ビジコン、プランビコン、サチコンがあり、プランビコンが最高位であるが、サチコンはNHK放送技術研究所と日立が開発したものであり、プランビコンよりも安価であり、性能の差はわずかである。撮像管は真空管だから、衝撃には弱い。やがてCCD 固体撮像素子に代わって行く。
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同81年 ハンディな3管型ソニーBVP300のハウジングシステムを後藤アクアティックが作っている。これまで、フィルムのカメラ時代は島野製作所が、ハウジングを作っていたが、この1981年のBVP300以来、後藤アクアティックに移り、以後、島野製作所が作ることは無くなった。島野製作所の島野さんはスガ・マリン・メカニックの取締役であり、後藤アクアの後藤道夫は、日本潜水会の盟友、無二の親友である。葛藤がないこともなかったが、島野製作所とNHKは、河野を通して、つまり須賀のルートで仕事が始まったのだが、以後、製作はスガ・マリン・メカニックではなくて、島野製作所になっている。 争うようなことは全くなかったが、僕は、ダイブウエイズでハウジングを作るようになり、80年代初期は、後藤アクア、島野、ダイブウエイズが特注タイプのハウジングメーカとなり、NHKは、後藤アクアが一手に引き受けるようになった。 1982年 孀婦岩「東京無人島群」これもNHKの番組で僕が撮影し、夏休み特集として良い視聴率だったが、これを最後に僕がNHKの撮影をやることは無くなった。 1984年 NHKは、VTR一体型のソニーBVW-3のハウジングを作っている。前述したようにENGは、VTRとカメラが別であり、二人がチームで動く。一体型になれば、一人で撮影できる。当然、機材として目指すのは一体型であるが、一体型はそれなりに大きい。一人で担いでバッテリーその他の付属品を持って動くのは容易ではない。助手としてのVEは、なかなか便利な助手である。それに、水中はケーブルで繋がっていた方が安全という考え方もある。一方、VTRを別のハウジングに入れる分離型も考えられ、NHKは、1985年に分離型のハウジングを作っている。スガ・マリン・メカニックでもソニーBVW50の分離型を作っている。 続く

1122 「展示するハウジングから見た日本のテレビ・潜水撮影小史」3

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「展示するハウジングから見た日本のテレビ・潜水撮影小史」 これがタイトルとして、良い。
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                                ミズダコと格闘?する。ニュース・ステーション
  1984 7月 日本列島夜の海  日本初の水中中継 目加田頼子アナウンサー  DWのフルフェースマスク使用
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 これには因縁がある。1963年の90m潜水でデマンドバルブ付きのフルフェースマスクの実験をおこなった須賀は、さらに使いやすいフルフェースマスクをと考えていた。ダイブウエイズは、窒素環境に入る陽圧マスク(マスクの中の方が圧力がわずかに高く、絶対にそとから気体が入ってこない)を開発していて、これを水中有線通話に使えないだろうかと相談していた。同じ時期NHKの河野も同じ考えを持ち、ダイブウエイズでそのマスクを見て、使う企画をたてた。ダイブウエイズの武田社長も日本潜水会、河野、須賀も日本潜水会である。日本潜水会はなにがあっても争わない協力すると言う不文律がある。 須賀は日本テレビ山中プロデューサーに企画を出していたが河野の方が企画が早く通った。 なお、目加田アナウンサーも彼女が上智大学学生だった時に一緒に仕事をしたことがあった。すでにかなりのダイバーだった。 この撮影は全国多元中継でNHK潜水班総出のようなイベントであり、夜の海からの中継は話題を呼んだ。  この年、NHKの水中撮影は最盛期で、南極の海に南方、河野が潜り、パラオでジュゴンを追い、トラック島の遺骨収集で水深60mに潜った。  7月にNHKにやられてしまったので、こちらがすぐに追従するわけにはいかない。半年間隔を置いて、
1985年 2月 慶良間から 民放初の水中レポート中継をレポーターは、女子大生が売り物の須賀潮美 と田所恵美チャンで、二人が水中で会話して、スタジオの徳光アナウンサーと、さらに札幌の雪まつりと結んだ。
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                     左 潮美
 なお、この時から使うようになったカメラは、池上通信のHL-79E でプランビコン3管のカメラで、一世を風靡したカメラだ。さすがにここまでくるとKYの板では、自分で納得ができない。
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                               HL-79E
 放送規格のカメラは、ソニーがトップだが、池上も老舗で、フアンが多い。ソニーの色はどちらかと言えば派手で、池上は落ち着いた泰西名画風である。 池上が好きだった。  
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                     北海道神の子池  79E
NHKは、1985年 5月 秋吉台 洞窟発見 カメラマンは 南方 木原 で、南方さんも日本潜水会の指導員で、ニュースのカメラマンとしての腕利きだった。 南方さんは、1981年の僕たちの竜泉洞を見て、負けるわけには行かないと秋吉台に潜った。のだそうだ。 木原も典型的なニュースのカメラマンだった。(親友、および自分より年少は、すべて敬称省略している)南方さんは、同年輩で,敬称略まで親しくなかった。後述するように好きな友達だったけど。 1986年 1月 知床の流氷の下に須賀潮美が潜る、ニュースステーションの水中リポートが爆発的(僕にとって)な成功を収める。船の上でモニターを見て水中の潮美と会話する立松和平さんとのやりとりが新鮮だった。この方法を考え出した小早川さんとの旅がはじまる。
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 これは、カメラとVTR がケーブルで繋がっている古いシステムだからこそ成立した。そして潮美を育てたのも半ばは日本テレビで、特にスタッフにはかわいがってもらっていた。それが、テレビ朝日で全国区になる。考え込んでしまったが、これが潮美の運、成り行きだった。 潮美のニュースステーションでの水中レポートは、10年以上続く、驚異の番組になった。機材については、フルフェースマスクの改善があり、ダイブウエイズのフルフェースマスクは、水中で誰かが話す、会話、通話をする事について、現在世界最高の評価を得ている。以上述べてきた経緯から、僕はその功績の30%ぐらいを背負って居るだろう。  「NHK 潜水撮影の半世紀」を見るとほんとうにおもしろい。何時どこの海で何を誰が撮影したかの表を見ると、海の出来事のすべてがわかる。 しかし、自分のことも含めて、ここでは、海の出来事ではなくて、機材の進歩変遷を見て行くテーマである。  ビデオ撮影はハイビジョンの時代に入っていく。ここまで、力も金もない個人の零細業がとにかくNHK潜水撮影班と併走してきた。親密な友人関係にあり、特に機材の製作では親類同然の島野製作所、後藤アクア、ダイブウエイズが絡み、情報を共有してきた部分がある。しかし、ここから先は?

1124 ロゲイニング 

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撮影小史を連続したいのだが、ロゲイニングもどうしてもここで書いておきたい。

 11月24日 伊豆赤沢でおこなわれたロゲイニングというゲームに参加。このゲームをゴクゴク簡単に説明するとダイビングフィールドに、番号を記した黄色のブロックが100個ほど設置されている。3人以上一組のチームがスクーバで潜水して、このブロックを探す。捜し当てたら、デジタルカメラで記録する。この記録が証拠になり、ブロックに書き記された数字が点数になる。定まった時間内に戻ってきて点数を競う。大事なルールとして、戻ってきたときのタンク残圧が50以上ないと、100点減点される。チームの二人のダイバーが50を切っていたら、200点の減点である。
 もと、僕のところで働いていた大西君が考えたゲームなのだろう。たしか、今回で3回目になる。2回目の時にワークショップで紹介して、このときに次回の参加を約束した。
 JAUSで参加するつもりで、申し込んだ。JAUSチームのつもりだったのだが、打ち合わせ不十分で、別の申し込みが、出されていて、僕は僕のチームを作らなければならなくなった。何時も一緒に潜りに行くメンバーに声をかけた。一番で参加を決めてくれたのが寺内羊子、ヨウコと読むはずだが、羊なのでマトン、小柄だけれどアスリートで、最初に会った時はライダー、以後水泳とスキンダイビング、スクーバに打ち込み、今はサフィンに活動関心を向けているが僕のダイビングには参加してくれる。
 小久保教授、東大の理論天文学の教授だが、彼が大学一年の時、東大の海洋調査探検部に入ったときからの弟子だ。
 高山さん、某大企業の相当のポジションの人で、最近の友人だが、僕が声をかけるダイビングに気持ちよく参加してくれている。数日前にはディズニーシーツアーにさんかしてくれた。
 良いチームができた。
 朝起きて、動くのがいやだった。
 ウエットスーツのつもりで車に積み込んでいたのだが、雨で寒いので、ドライも積んだ。小久保との渋谷での待ち合わせ失敗。 赤沢着1015 大西からブリーフィングをうける。このようなだんどりはすべてマトンがやってくれた。そのマトンの主導で、作戦会議、現在ダイビングのプランニングの提案を進めているのに、ぼくは、このような段取り、プランは得意ではないのだ。得意ではない反省が、プラン提案に向けて活動している。とは都合の良い、屁理屈。
 赤沢、食堂での作戦会議、僕の空気消費最大のネックになる。若かった頃は、良い消費量だったのだが、82歳の今は、半身障者で、空気消費量も大きい。
 水温22度だという。ウエットでは寒いだろうが、ドライでは、動きが悪いし、動けばさらに空気消費が大きくなることだろう。思い切ってウエットにする。 奄美大島で使い始めた、9880円の5ミリに、フードジャケットだ。なんと別チームの倉田も同じ9880円で、同じMサイズ。彼は手足の長さが合っていない。僕はジャストサイズだ。

 作戦 計画
 僕が弱者なのだから、弱者に計画を合わせる。EN.は砂浜からにする。そのまま岸壁に沿ってスノーケルで行き、岸壁を廻ったあたりで潜降。左手に磯を見ながらブロックを撮して行く。末端のブロックで右折して砂地をガイドラインに沿って進み曲がり角のブロックあたりで、僕の残圧は100、ターンプレッシャーだ。50残して岸に戻るのはかなり厳しい。そのあたりが勝負になるだろう。
 高齢を言い訳ににしては、いけないのだが、勝てる勝負ではない。勝てないのがわかっていても、できるだけ真摯に取り組むのがスポーツマンシップだ。 僕は全行程をタイム記録が画面にでるSJ4000系のウエアラブルカメラをヘッドにつけて記録する。これも12月10日のシンポジュウムでのテーマのシミュレーションになる。
 僕は、スクーバは一人、生きるも死ぬも一人、単独潜水、自己責任のソロか、バディ、あるいは4人のユニットのチームプレーだと思っている。チームプレーでソロをやる人が居るが絶対の禁忌だ。ソロの結果をチームが負うことになる。このゲームはチームプレーであり、チームでダイビングをする為のシミュレーションゲームとして、効果が高い。 ここからは、SJ の動画撮影を切り出したスチルで説明して行く。
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 11時 44分29秒 エントリー
 写真の左端の砂浜からエントリーして、右端の堤防先端までスノーケルで行き、堤防を回り込んで岩礁を左手に見て進む。 砂浜を選んで失敗だった。なだらかな砂浜だったのが、この前の台風の大波で砂が洗われて石が露出した。前にこの石の一つにつまづいて、膝を痛めたことがある。
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 マトンの肩につかまるようにして足をづらしていたら、小久保が肩を出してきた。僕はバルブを開くサインかと誤解した。小久保のようなダイバーがバルブの開き忘れなど考えられないのだが、開いてみた。
 肩はいらないというサインと受け取って、彼は一人でエントリーしてしまった。
 僕は膝を着き、這ってエントリーした。 うねりがすこしある。
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 46分28秒 潜降開始
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 48分 56秒 角でうねりが巻いていて透明度がわるい。
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 小久保の白いフィンがよく見える。
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 僕が方向を指示する。弱者に従う原則。

 
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 並んで進む高山さんとマトン
 53分24 秒
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 最初のブロック発見
 53分 45秒
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 撮影の役割 マトンが撮影する。
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 54分 14秒 地図を見て確認する。
 僕はみんなが見てくれるから、自分で見なくても良いと言ったのだが、小久保に持って行けと言われた。
 現在計画、議論を進めようとしている計画の計画。
個々全員が計画表を持っていることが重要だと思う。
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54分 26秒
 次のブロック発見
 54分55秒
 23番
 55分15秒
 
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 55分24秒 次のブロック
 55分58秒
 95点
 56分03秒

 30点 発見 マトン撮影
 59分 52秒
 12時 01分 02秒
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 次のブロック
 01分23秒 撮影

 81点発見 撮影
 03分13秒 132点発見 
 04分48秒
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 方向を右に振って砂地を行く
 05分 54秒 散開して探す
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 07分05秒 発見 
 07分 30秒
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発見
 10分 02秒
 115点
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 残圧の確認
 110 ターンプレッシャーだ。50残してエキジットは、かなり厳しい。60しか使えない。
 10分26秒
 11時 44分29秒 エントリーだから
 26分経過している
 
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 戻る方向に進路を変える。
 10分39秒
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 発見
 11分27秒 発見
 13分24秒
 戻りながら発見していく、予定通りのコースだ。
 撮影
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 コース確認
 13分58秒
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 帰りのライン
 14分 24秒 発見
 14分 42秒 小久保が離れている。左手にブロックがあるのはわかっているのだが、発見して、ラインをはなれるのは厳しい。
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 16分 08秒 隣に高山さん、その向こうが小久保、幅広く散開しているが、僕のエアがない。もどるように手招きする。
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 16分 30秒 ラインの末端でブロック発見
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 16分49秒 ゲージを確認する
 18分17秒
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 コーナーに接近はしているが残圧は80
 あと20で戻れるか。
 18分38秒 あと70
 21分47秒 小久保は正しく戻る方向に先導している。
 23分21秒 戻る方向指示
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 24分01秒
 
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 24分08秒
 しかし、心配なので自分の目で方向を確認する。 24分39秒
 ブロック ここで全員がそろって顔を撮らなければならない。撮影は全員の顔が写っていることが必須のルールである。ここで顔をだすのはかなりつらい。
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 24分54秒 残圧は あと20か
 かなりセーブして戻ってきている。
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 24分57秒 エキジット
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 ガラスの膝をかばって這い上がらなければならない。マウスピースは口から放す。
 12時27分13秒 ようやくエキジット
 残圧は60だった。 マトンの残圧は110ぐらいある。
 エントリーが11時44分だったから、潜水時間は46分、ちなみに制限時間は70分。
 ヘッドマウントの記録も今度12月10日シンポジウムのテーマの一つ。なので、ここでもマウント記録を載せた。
 チームプレイの解析参考になる。
 
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 僕たちは7位 もう一つの山本、倉田、鈴木組は
 5位
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 出場9チーム中の7位 なーんだと言うかもしれないがベストを尽くした。そして、前回のチャンピオンだったイエローフィンは僕たちの後ろ 8位、ブービーだった。前回優勝時は3人のチーム、今回は4人、このゲーム弱者がすべてを決めるゲームなのだ。その結果だと思う。 優勝した北里大学は女子のチーム、空気の消費量が勝負であるとすれば、女子有利なゲームだ。
 弱者がすべてを決める、女子有利 とすれば、安全性が非常に高いゲームだ。
 安全性が最重要な、ダイビング界であるとすれば、このゲームはもっとクローズアップされ、盛んになるべきゲームだ。
 そして、わかるように、チームワークが重要なゲームでもある。ソロでない限り、チームワークがセフティの鍵だとすれば、その視点からも盛んにしたい。 特に学生クラブは学生連盟主催の大会があってもいい。
 
 ダイビングは自業自得 自己責任の行動でもある。僕のダイビングライフの30%は、ソロだった。
 ソロは否定しない。中途半端を否定する。
 学生のダイビングは、クラブを作っているならば、チームプレーであるべき、そのためのシミュレーションゲームとして、ロゲイニングを推薦する。☆★☆

「展示するハウジングから見た日本のテレビ・潜水撮影小史」 4

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「展示するハウジングから見た日本のテレビ・潜水撮影小史」 4 
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35mm フィルム横走りカメラ
 映像は高画質化。映像は常に高画質化をめざして進化していくのだが、区切り、段差がある。階段のひとつが、ハイビジョン化である。わかりやすく区切ると1990年がハイビジョンの現場実用化第一歩と考えられる。ハイビジョンを略してHVとして行こう。現場では、HV化でビデオは振り出しにもどってしまった。ビデオの初期には、幅1インチのテープレコーダーの超大型版を回して録画した。そこに戻ったのだ。 僕はビデオエンジニアではないので、詳しい技術的なことは、よくわからないのだが。 とにかく、HVは現場ではテープに戻った。やがて、テープが録画メモリに変わることでさらなる革命が起こってしまうのだが、とにかくテープレコーダーにもどったそれも、もっと大きく、器機の発熱とか、湿気とか、やっかいな問題を抱えるレコーダーだ。1991年5月 NHK潜水班は、伊豆大島での研修で、ハイビジョンカメラの習熟訓練をおこなう。その時の写真を見ると、船の上に、ベニヤ板の小屋をつくり、波しぶき、湿気を防ぐとともに、クーラーも着けて、テープレコーダーの発熱を防いでいる。後述するように、後にこのシステムを借りて撮影したこともあるのだが、たいへんな代物である。
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 一方でHVでない、一般のビデオも画質を保ちつつ小型化していく。テープ幅8mmのハイエイトカセットが普及する。ここで撮影機材をカメラ部分と録画部分に分けて見てみよう。これは、とても大事なことなのだが、ビデオ録画部分は、まず1インチテープ、リールに巻き取るテープレコーダーから、カセットになり、1インチテープカセット、少しテープ幅がせまくなって 4分の3インチ、しぶさん、などと呼ぶ幅になり、ベータカムカセットが一般になる。そして8mmになり、デジタルテープになり、やがてはテープでさえなくなってしまう。そして、すべてがHVになってしまい、HVもまた進化して行く。  そして、機材の制御もメカニカルから電子に変わって行く。カメラマンは、その流れに押し流されていく。  僕は、ニュースステーションの撮影は中川隆(後に独立して河童隊)に譲り、ハイエイトによる映像記者的な小回りと、大型展示映像撮影に向かった。小回りの映像記者としては、衛星チャンネルという誰も見ていないような局で24本撮り、キャスターの真似事もした。神領プロデューサーの仕事である。  機材の進化にともなっ、現場でのVEも進化する。電子技術者としてのVEの役割はより重要になるが、従来のレコーダーを担いで走るエンジニアは、不要になった。カメラマンは一人で良い。一人で良いならばカメラマンで無くても、監督自らがカメラを回せば良いのではないか、ドキュメンタリーとは元来そういうものだった。フィルムの時代、ベルハウエルのDR70を手に戦場に赴く報道カメラマン、その戦場がジャングルであっても極地でも同じだ。カメラマンであって監督であり、製作者であった。一人で撮って、一人で編集して、一人でスタジオでしゃべる。スタジオでは司会、まとめ役のアナウンサーと話すことが多いのだが、基本は一人だ。小さくて、どうやら放送で使える映像、ハイエイトは、それができたのだ。 高画質化と廉価機動能力向上、映像は二つの道にわかれた。やがて、それは一つに、高画質と同時に廉価、機動能力を備える方向に収れんしていくのだが、とりあえずは二つの道。 高画質化に話をもどして、映像の大型化、見せ物化、博覧会は映像展示と同時に実物をみせる。そして、それは、3D、立体化、アイマックスになるのだが、その両方について行かなくては取り残される。その中道とも言うべきテレビ番組の撮影もある。三つの道が目の前にあった。  ハイビジョンの道は船の上に小屋をたて、コンテナー一杯の機材をつかうのだが、映像の高画質化は、電子的な方向ともう一つ、フィルムの進歩向上がある。曰く、ハイビジョンは、フィルムに限りなく近づいて行く。ならば、フィルムのカメラに戻れば、小屋を建てなくても良いのではないか。 もう今では、一般のダイバー、一般のカメラマンがフィルムをいじることもなくなったのだが、画質はフィルムの面積に比例する。だからスチルも35mmより6×6判が良く、6×9がさらに良く、一枚ずつフィルムをカットしていくフィルムが最高になる。カメラの値段、カメラの大きさもフィルムの面積に比例する。もちろんフィルムの値段も面積に比例する。 フィルムの時代、一般に使う35mmは妥協であり妥協の中でフィルムの進化で画質を向上させてきた。 電子カメラ、デジタルはフィルムの画質を追って進化してきた。HVはフィルムに追いつく。しかし、1990年代のHVは、まだ35ミリには追いついていなかった。 映画のフィルムには、70ミリ、35ミリと16ミリ、8ミリがある。映像の初期、アマチュアカメラマンは8ミリフィルムで撮影した。8ミリと言っても、前述のハイエイトとは違う。アマチュアは8ミリ、ドキュメンタリーは16mm、劇場映画は35mmだった。そのプロのドキュメンタリー、16ミリは、音声を記録するトラック部分がある。しかし、機材の進歩で、音声トラックがなくても、音声が記録できるようになり、音声トラックは不要になった。このトラック部分まで画像記録部分を広げると画質が向上して、さらに、フィルムの進歩で、HVに匹敵する。このフィルムをスーパー16という。 すなわち、大型展示映像ではなくて、一般のHV ならば、スーパー16で対応できる。これならば、世界中HVを担いでいける。水中撮影も普通のハウジングで間に合う。 紆余曲折あって、スーパー16のカメラ、フランス製のアトンを買うことにした。ハウジング込みで約1000万円だ。  このカメラで、1993年、網走流氷館のハイビジョンマルチの映像を撮影した。 これで流氷の下のクリオネを撮影紹介して、流氷館の呼び物になった。 ここまでは良かったのだ。 この方面は、環境映像を撮らせてもらっていた神領プロデューサーに仕事を依存していた。愛知万博で、日本の24節季を巨大展示映像で見せる企画も立てたが、これが実現しなかった。 劇映画としては、オキノエラブ島の水中撮影これは、ドキュメンタリー風の劇映画だった。そして、東京タワーという劇映画で、プール撮影をした。これは習志野水泳場飛び込みプールで、10mの飛び込み台の上で、争って突き落とされる岡田准一を撮った。もちろん10mからは吹き替えで、岡田君は3mから飛び込んだ。 スーパー16は、現像代が高く、ストックフィルムを残しておくことができなかった。そうこうしているうちに、電子カメラのHVがどんどん小さく、安価になり、アトーンは、世界を飛ぶ、魔法の絨毯にはならなかった。  イマジカという、映画フィルム現像の日本でトップの会社がある。日本の映画が続く限り、存続して行くであろう会社である。 そのイマジカから35mmフィルムを横走りさせるカメラのハウジングについて相談を受けた。 画質はフィルム面積に比例する。35ミリスチルカメラはフィルムを横に走らせる。映画は縦に走らせていた。横走りの方が面積が大きい。フィルムの画質は面積に比例する。  一方で、映画館のスクリーンも、大きくなる方向で進化する。シネラマは三つのスクリーンを三つのカメラで撮った三つの映像を無理矢理合成映写することで巨大スクリーンを実現した。 フィルムの画質進歩とフィルム面積を大きくすることの相乗効果で巨大スクリーンに対応した。70ミリフィルムである。これで、シネラマは終わった。 35ミリの横走りは、70ミリまで行かずとも、35ミリで巨大スクリーンの映写に対応したものであった。
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                     ボンベを付けて空気を送り込む。
 横走りカメラは横に寝ているカメラで、ハウジングに入れたらタライの様に横面積が大きくなった。横面積は水圧を受ける。水圧で押され歪んだらオーリングの溝が歪み水没する。レギュレーターと小さなボンベでハウジングの中に空気を入れて、内圧と外圧を等しくすれば解決する。それで解決した。 そして、35mm横走りカメラハウジングは完成し、僕はこのカメラで、1993年、函館昆布館の全天周イマジカビジョン展示映像を撮った。全天周とは、プラネタリュウムだ。 今、遊びのカメラで180度、360度のカメラが売り出されていて、1万円弱で、180度(360度と言っている)がある。これで撮ってもプラネタリウムがなければ映写できない。映写はできないが、スマホでスクリーンの方を動かしてしまうことで全天周にする。あるいはPCの上で、指で引っ張って、動かす。  
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                       知床流氷撮影
  1993年は網走流氷館と函館昆布館、二つの展示映像の仕事ができた。 函館昆布館では、全天周映像と、他に、ハイビジョンマルチで、昆布の林で泳ぐヌードの撮影があった。昆布の林、昆布は天然では横に這っている。横に這って水流を波型の葉で受けて、長いからだを浮かしているのだが、一般イメージでは昆布は縦に葉を伸ばしている。その林を縫うように泳ぐ、ヌードの水中撮影である。昆布の生えている北海道でヌードを撮ったのでは、モデルが凍死する。横を縦にするどっちにしてもうその話なのだ。与論島に行き、ビニール製の昆布を立てて、ヌード撮影をした。
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1129 展示するハウジングから見た日本のテレビ・潜水撮影小史  5

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展示するハウジングから見た日本のテレビ・潜水撮影小史  5
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                           立体フィルムカメラによる撮影 知床流氷
 もう一つ、展示映像として、3D 立体映画がある。立体映像は二つのカメラを並べて撮影し、それを電子的に画像処理して、立体映像にする。見る方は偏光レンズのめがねをかけて見る。僕の撮影した頃は青と赤だった。 二つの小さなビデオカメラを連結したものを作り、これを使ってトラック島のシャークアイランドと呼ばれている鮫の集まるところに行き、鮫の映像を撮った。これは、仙台にある「ササカマ館」笹かまぼこを作って売っている展示館の小さい部屋、シアターで上映した。これは、部屋が小さい効果か、かなりの迫力映像だった。 3D映像は像が飛び出してくる。鮫が飛び出してきて頭の上を泳ぐ、またかみつくように突進してくる。飛び出し立体効果があるが、これを長時間見ると身体に良くないし、見続けられない。せいぜい15分程度が限界である。立体映画は、ずいぶん昔からあって、僕が初めて見たのは、高校時代だったろうか、ジョン・ウエインの西部劇「ホンドー」だった。これはインディアンの斧が飛んできたり、槍が飛んできたりの映画だったが、途中で疲れてめがねをはずしてしまった。 ディズニーランドの展示映像も飛び出すこの方式であり、上映時間は10分程度である。劇映画の立体は、やや穏やかで、長時間見ていられるよう工夫されている。「アバター」などは傑作であり、見ていてもつかれなかった。 家庭で見る立体テレビ放送は、その意味で無理であり、続かなかった。 なお、飛び出させるには、二つのカメラの写軸を交差させるところに被写体を置く。これが前後にずれると、魚が飛び出さずに二尾になってしまう。飛び出し効果を強調しないならば、写軸は平行でいい。交差を合わせることを、コンパージェンスを合わせるなどという。  葛西水族館(正式名 葛西臨海水族園)と、東海大学(正式名 東海大学海洋科学博物館)に立体映像シアターがあった。 葛西水族園 では、製作コンペ(企画製作を募集して、実績のあるプロダクションが応募する)があり、「伊豆の海」というタイトルで、幸い勝ち取ることができ、1994年は、は、この伊豆の海の撮影ロケをおこなった。伊東の富戸から、下田まで、そして、大瀬崎では、タカアシガニを撮影した。 このコンペは、さすがに、トラック島で使った民生カメラ連結の3Dでは、できず。フィルム立体カメラを使った。これは35ミリカメラ、二つの並べたレンズで撮った映像をプリズムで、35mmフィルムカメラの一つの画面に上下二分割して、撮影する。二つの画像が一つの画面に上下に並んでいる。この立体の現像処理ができるのは、イマジカ(函館昆布館熨斗後とをさせてもらった)だけであった。
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 1996年、の葛西水族園のコンペ、今度はハイビジョン立体が要求された。これは、放送仕様のソニーのカメラを並べ、上から蓋をする。これも小さなボンベで内外の圧を等しくしないと水没する。イマジカの35ミリ横走りと同じ方式である。このカメラハウジングを作ったのは、上谷成樹という友達で、特許を申請していた。僕のイマジカのカメラの方が早い。僕が特許を出しておけば、このHVのカメラも作れたのだが、それ以前に深海用のカメラで同じ方式があることを知っていたのでださなかった。割と親しい友人だったので、そのままにした。少し残念だった。 コンペには勝つことができ、慶良間の海で撮影する。これは、ベニヤ板のハウスを、親しい宮平秀保のボートに建て込んで、NHK同然、たいへんな撮影になった。 続く1997年にも葛西水族園のコンペがあり、「知床の海」の企画を出して、これも勝ってしまう。 常勝である。
 これは、大仰なハイビジョンではとても無理、再び35mmフィルムの立体を使った。
 
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 1997年12月、まだ知床の海の撮影中、アクアマリン福島、小名浜にできる水族館のコンペがあった。普通のHVマルチ300インチスクリーンであるから、技術的には楽勝である。福島はホームグラウンドである。絶対に撮りたかった。しかし、NHKに負けてしまう。これが、事実上僕の展示映像カメラマン生活のピリオドだった。2005年の愛知万博の撮影は、取れなかった。話は前後するがその後にスーパー16の東京タワーなどもあるが、一日仕事でしかない。。  そして、そのアクアマリン福島で勝ったNHKエンタープライズは、南方カメラマン(親友)で、その南方が、この福島の映像撮影中に、神子元島でダウンカレントに引き込まれて死んでしまう。  ダウンカレントでは僕も危機一髪が2回ある。一度は伊豆海洋公園で、もう一度は与那国で、潮美と一緒にハンマーヘッドを追っていた。そのときは、ケーブルでつながっている撮影だった。なんだかわからないままに引き込まれ、ケーブルがボートを支点に振り子になって、水面に浮き上がった。ケーブルが切れたら終わりだった。それでも急浮上でから肺破裂の心配はあった。ハンマーのいる流れの端にはダウンカレントがあるのかもしれない。 南方もケーブルのハイビジョンだったら死ななかった。ダイバーの生死は、運なのかと思っている。

1206 ダイブプランノート

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 1206 ダイブプランノート 腰に取り付けている。
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 「海、生きる、学ぶ、探る」1987年に出版された、自分とか、後藤道夫、が書いている。自分の書いた部分でこんなことを書いていた。
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 以下に引用する。 1963年舘石さんと100mの潜水チャレンジをして、「水深90mまでたどり着き、人生観が変わった。死ぬことが怖くなったのだ。人間が変わった。それまで思い切りの良い性格だったのが、優柔不断になった。 一緒に仕事をしているテレビ番組の監督は、「仕事をしないうちに反省会をしている」と私を評した。当たっている。 今(1987)の私は水に入る前に、水の中で起きるすべての出来事を予測しつくそうとする。失敗は生命を失う事故になるかもしれないから失敗は許されないと思う。本当に安全を願うのであれば、潜水しないのが一番良い。しかし、仕事で潜水する以上、どこかで見切らなくてはならない。優柔不断と決断の間を揺れて、なにがなんだかわからなくなり、最後には覚悟を決めて、水に入る。」 このフレーズの中に、今考えていることが、ほとんど全部はいっているので、驚いた。  ほとんど毎日、ダイビングの安全、つまり、自分も、バディも死なないようにする事をいつも考えている。プロのダイバーのほとんど全員がそうなのではないかと思う。死なないよう、死なせないように、考えている。そうでない人、考えないダイバーはプロではないと思う。外見からはわからないだろうが、そんな風にいつも考えている。僕もプロなので「死ぬ、生きる」を隙間無くかんがえている。  「水に入る前に水の中で起こるすべてを予測しつくそうとする。」イメージを考える。イメトレは大事だが、形(文章)になっていないので、結論がでない。文章にする努力が必要で、それが計画書だ。 「仕事(潜水)する前に反省会をしている」今の時点で考えると、それはPDCA のA、アクトだったのだ。PDCA で論理的に整理して字にしておけば 「優柔不断と決断の間を揺れて、なにがなんだかわからなくなり、最後には覚悟を決めて、水に入る。」ことはなかったかもしれない。  チームで動くならば、言葉が通じない水中では、簡潔な文章にして配らなくてはならない。 その文章が定型化するとローカルルールになる。 寺山君の「オーシャナ」を見たら、パラオのドリフトダイビングのガイドダイバーが書いた、言った?安全ブリーフィングの要綱がでていた。これが、ローカルルールなのだ。そのローカル、パラオで、ガイドとゲストがする約束事、ローカルルールは文書化して、事前に配布して読み上げる形でブリーフィングを行うと徹底できる。言葉は人によっては通じない。事故が起こったときの証拠にもならない。「だから、言ったじゃないですか?」ではダメなのだ。パラオで文書化しているかいないかは、知らないけれど、きっと何かあるのだろう。 ローカルルール+これからエントリーするダイビングの要点を書いて渡す。これがダイブプラン、今回のシンポジュウムでの提案の骨子だ。
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 ダイブプランは防水して、それぞれに渡す。 これに類するもの、昔は、スレートだった。スレートは自分でかくので、よりよいかもしれない。 このところ、今村さんが減圧症対策で頑張っているけれど、予測する、計画するダイブプロフィールの図を持っていて、自分がどのあたりにいるのか、認識していると、わかりやすい。これは立体的な地図、プランノートだ。  こんな面倒なことは絵に描いた餅だ。だれがやれるのだ。自分も自信がない。 どうやって具体化するか、そのためのワークショップを開き、研究する。その提案をしている。
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