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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0618 海の世界 3 1972年 1月

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 しばらく、1970年代にタイムスリップしたい。2017年とは全く違うダイビングがそこでは行われていた。まず、まとめて概略を述べようかと書いていたが、やめにする。いろんなことを雑然と、雑誌の時系列に沿って、書いていく。雑誌のスキャンコピーの自分のためのメモ、のようなものでもある。
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 海の世界 72年1月は、海のレジャー大作戦特集である。
 ☆わたしの沖縄海洋博 1975年、3年後に開かれるEXPO75の計画を各方面から論じている。
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 基本構想が発表されている。 魚類学の泰斗である末広博士が、水中につくる施設である海底遊歩道に反対している。海を知らない人の発想だと、しごくもっともで、ぼくもそんなバカなものをつくるよりも水族館を充実させた方がいい。たとえば見たことがないほど大きな水槽とか。幸い遊歩道は造られずに、巨大水槽ができた。この段階の絵ではまだ、水族館も海の中に張りだして、遊歩道と繋がっている。
まだ、計画段階であり、具体的にはほとんど未定状態である。海岸につくるのだから造礁珊瑚を破壊することが心配されている。その心配を菅原久一さんが書いていた。菅原さんは、僕たちの師匠で、1950年代に日本のスクーバダイビング業界をつくった人の一人である。しかし、1970年代の海の世界には、ほとんど書いていない。
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 この時代は、海洋開発というと海の中に施設をつくろうという思想が主流である。すなわち、造礁サンゴの破壊である。
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 ☆この前の年、1971年にPADIの日本での活動組織、PADI潜水指導協会ができ、椎名克己、本郷淳(俳優)が中心だった。椎名さんも俳優(悪役)であり、俳優さんが集まってまずつくったというイメージだった。椎名さんが、ダイビングとスキーのスポーツマンギャラリーという、店だか事務所だかわからないハイブリッドをつくり、その中に、PADI潜水指導協会ができた。1971年のことだった。 本郷さんが文中で紹介されている。世田谷の下馬にマンボウというダイビングクラブをつくっていた。 僕は本郷さんとも椎名さんとも親友といえる間柄に、その後になる。

 ☆工藤昌男さんは、当時の本職がライターで、海の世界にはたくさん書いている。本当にたくさん書いている。「施設を全島に散らしてサンゴ礁を守れ」という論を展開している。僕ならばサンゴのないところ一カ所にまとめて、破壊は一カ所にとどめよう、と、今ならば思う。でもそれは今の考えであるけれど。工藤さんは海底遊歩道に反対していないようだ。  ☆広告を見ると当時の業界の情勢がわかる。 業界の情勢については、たぶん、次かその次かで少し詳しくのべる。 ☆潜水指導については、僕たちの日本潜水会と日本潜水教育協会 NAUIが、雑誌「海の世界」を二分していて、NAUIの訓練コース、そしてNAUIの教師氏名の一覧が掲載されている。
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   講師は田口哲さんが筆頭で、 潜水医学は、医科歯科大学の一条先生がNAUIの理事になっている。一条先生は、日本の潜水医学の泰斗の一人であるが、僕とは遠かった。 早稲田工学部の山根先生、液体空気のスクーバ、クライオラングをつくった先生だ。海洋公園の益田一さんが名前を連ねている。 教師、インストラクターの方は、亡くなってしまった親しかった松岡君、そして慶松さんがでている。
 そのうち、人間関係相関図を書きたいが、これが、1972年のNAUIの図である。

 ※ スキャンしたコピーは、PCの上では拡大してもクリアーだが、ブログに載せて拡大すると、ぼけてしまうものもある。改善、の余地がある。以後からは、ボケたものは使わないようにしよう。

0619 海の世界 4 TAC

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1972年1月 「海の世界」広告
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TAC は1970年にできた。今では、かなり大きなアスレチックのチェーンであり、全国展開している。その中野店が始まりのはずだ。 場所は中野駅から2分、1ページの広告に見られるように、三つのプールを持っていて、空気充填も即できるとある。1972年であれば、画期的な施設で、5日間の講習でTAC ドルフィンカードを取得できる。全米潜水教師協会のライセンスといえば、NAUIのことだろう。
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 競泳プールと、水深5mのダイビングプール、そして水深15mのダークプールも持っている。ダークプール、すごいネーミングだと思う。このプールには水中の照明が無かった。当時のことだから、室内で水深15mならば、いやでもダークになる。  僕はこのプールで教えたことはなかった。後で確か新沼君か誰かが、ここでスクールをやっていた。僕はこのプールにたしか二度行っている。 なんでか、理由を忘れてしまっているのだが、一回は、ジャック・マイヨールに会っている。会いに行ったのか、たまたまいたのか、覚えていないが、インタビューとかをした覚えがないので、たまたま居たのか、ミーハー気分で見に行ったのかもしれない。 マイヨールは女の人と一緒だった。マネージャーのような顔をしていたが、これはマイヨール、いつものことだ。マイヨールとは何回か会っているし撮影もしたが、これが最初だったとおもう。海洋公園で記録潜水をするのだが、その前だったか、その後だったか、このプールで練習をしていた。僕はこのとき、一緒に泳いだ記憶はない。ずいぶん長い時間、ヨーガのようなことをやっていて、それからプールに入った。ダークプールではなくて、競泳プールにフィンを着けないで、ゴーグルで、往復何回か潜っていた。  水深15mのプールというと、人が死ぬ。15という数字がいけないのか、それとも、一応のトレーニングを積まないと、10mあたりに壁があるのか。 僕は13mに壁がある説を唱えていた。13という数字、そして僕は13mで鼓膜を破いた経験がある。  フリーダイビングのトレーニングをしたことがない僕の最高記録は29mだ。なぜ30mでないかと言えば、残り1mが危ない、と勝手に決めたのだった。  TACも人が死んだからか、15mプールは潜水禁止になり、今あるかどうか知らない。そして、大きなチェーンになった今、ネットで見る限り、ダイビングには関わっていない。誰かが、関わっているかも知れないが、視界に入っていない。  72年にドルフィンカード、国際ライセンス、水深15mのダークプール、そして、ジャックマイヨールと繋げて、そのままフリーダイビングにと続けば、今ではどうなっているのか?「世界でもフリーダイビングといえば、TAC」 という答えの可能性もあった。   「事故でダイビングから遠ざかったから、現在の繁栄がある。」 という答えもある。 

0623 射しこむ陽の光、 カメラワークについて

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浦安海豚クラブのホームプール(そんなものを持てる今が、うれしいことなのだが)の天井がバブリイに高く、開放感がある。バブリイと言ってはいけないかな。天気の良い日には、天窓から日差しがプールに差し込む。 僕たちの練習は朝一だから、プールの水は浄化して、一番先、一番風呂、輝くように透明だ。
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 そんな日にプールサイドから水中を見下ろすと、水を通して差し込んだ日の光が、天窓の巾を映して、プールの底に光の帯をつくる。帯は水面のリップルに合わせて光の漣をつくる。これだけを見ていても良い。 いつも昔話になってしまうのが、ちょっとばかり気に入らないのだが、今も生きているのだから、まあ我慢して、1980年代の始め、電通映画社で「アイ・エクスピアリアンス」と名付けた環境映像のシリーズに参加した。環境映像、今では普通のことになりすぎて、おもしろくもおかしくもないのだが、部屋の中に大型、といってもまだ20インチがせいぜいだが、大きなモニターに、三脚をたててビデオテープを回しっぱなし、できれば1時間以上撮影したものを流す。見るともなしに見ることで、心がやすらぐ。そんなものだ。
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 それを撮るために北海道知床の原生林の中の、神の瞳ともいうべき湧水の、神の子池に一年通った。この瞳は、キタキツネの親子を一年追った時に見つけた。林業署以外は誰もしらない。林道の奥深くにあった。今では、僕たちの撮影が有名になったことが、災い?して公園になってしまい、泉の周囲の原生林は伐られて、芝生になり、ベンチが置かれている。熊がでた林道も広げられて、熊もでにくくなった。泉の中だけは、おかげさまで、昔通りだが、掘り広げられて大きくなった。良いことか悪いことか、このごろは考えないようにしている。やがて、人類が死滅するようなことがあれば、元に戻るだろうが、死滅を望んでいるわけではない。
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泉の中に大きなカメラを持ち込んで、撮影した。む。これも自然破壊といえば言える。 数日前、海底に三脚を立てることの是非をフェイスブックで、やりとりしたが、泉の中に三脚を立てて、カメラを回す。原生林からの木漏れ日が、泉の中を日時計のように回って行く。オショロコマが、水の表に飛ぶ羽虫を追って、水面から跳ね上がる。 この撮影が僕のカメラマンとしての、第二の、いや、第三の原点だったか。原点がいくつもあるが、とにかく、その原点の一つだった。水中に差し込む太陽の光、原生林の木漏れ日、浦安運動公園、屋内プールの天窓から漏れてくる、天窓の巾の光の帯。比べるべくもないが、透明な水に差し込む光に替わりはない  ちょっと三脚の是非に話をもどして、カメラを固定して、自然を動かす、生き物を動かすことが、動画撮影の基本の一つなのだ。僕の原点の一つでもある。 映画、動画を撮り始めたころ、カメラと脚とは切り離せないもの、二つが一つでカメラなのだとする考えが主流であった。水中撮影でも同様という人が多かった。海底に足を踏ん張ってしっかり立つことが基本である。 しかし、僕は、クレーンショットが、クレーンを使わずにできることが、水中撮影の真骨頂と思っていた。クレーンショットとは、クレーンの上に三脚を載せて、立体的にカメラを動かすショットで、クレーンは、チューリップの花弁のように上下に開くので、チューリップクレーンとも呼んだ。そのクレーンをレールを敷いたトロッコに載せて移動させる。 水中では、トロッコもクレーンも無くて、同じような撮影ができる。但し、練習が必要だ。カメラと身体が一体になって、カメラブレを起こさずに立体的に動かなくてはならない。自分で言うのもおこがましいが、驚異のバランスと言われた。 そして2010年日本水中科学協会をつくって、久保君がプライマリーコースをつくった。水平のトリム姿勢が基本である。今でこそこの姿勢とフロッグキックが普及して、スクーバはこれでないと格好が悪くなった。こんなものすぐにできると思った。しかし、できないのだ。半日も練習すれば、形はできる。しかし、カメラを持ち、ファインダーを覗くと自分のバランスに戻ってしまう。およそ2年やってあきらめた。この歳で、自分の撮影スタイルを崩して、新しいバランスは無理だ。もう仕事で難しい撮影をすることもない。そうこうしているうちに、老いはバランス感覚を蝕む。自分のスタイルも含めて、すべてのバランスを失ってしまった。まあ、失っても浮いては居るし、素人目にはわからないかも知れないが、自分の身体が覚えているバランスがとれないのだ。 若い人には、最初から、トリムのバランスに習熟するように薦めている。 ただし、トリム姿勢のカメラワークは、前進後退はできる。旋回はできるが、チューリップの花が開くような三次元のカメラワークはできにくい。上下動しないような泳ぎ方なのだ。つまり、クレーンショットはできにくい。  慶良間、アカ島の西浜に飛び離れた小さい、径が5mほどのロック、パッチリーフがある。絆創膏を砂地に貼ったパッチのようなリーフだ。有名だから誰でも知っているだろう。環境映像時代、20分のカットを連続して、根の周辺をめぐるクレーンショットで撮る映像を撮った。数年後に行ってみたら、岩の上を覆っていた薄紫、薄い青、薄いピンクのソフトコーラルが、姿を消していた。沢山のダイバーが押し寄せて、多分砂を巻き上げたのだろう。ソフトコーラルは、砂に強いともいうのだが、あまりの大勢では、ダメだったのだろう。直接に蹴飛ばす人も居たのかも知れない。だから、着底するなということも、よくわかる。 カメラワークについて、足を踏ん張る。膝を着いて身体を安定するスタイルは許されなくなったが、生半可泳いで墜落するよりも良いから着底スタイルもありかとも思うけれど。 
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 三脚を立てるなといわれたら、困る。また、カメラを固定して生き物を動かす撮影ができなくなってしまう。三脚は、砂地を選んで、うまく立てれば、インパクトは最小にすることができる。どこにどんな風に脚を立てるか、わからなかったら、ガイドをアシスタントとして、使えばいい。このごろ、ガイド会とか、ガイドが写真に励んでいる。それは、とてもよいことだけど、ガイドの本業はお客に良い写真を撮らせることにある。知床、羅臼の関君も、西表の矢野君も写真家として一家を成しているが、僕をアシストするときはカメラを持たなかった。僕には、先輩としての礼をとってくれて、アドバイスしてくれないけれどアドバイスしてくれた方が良かったと思うこともあった。彼らとの潜水は、また別の機会にのべるが、ガイドが良いカメラマンであれば、アシストも的確になる。ガイドがガイドするときにカメラを持つことの是非、これも三脚と同じ程度の問題なのだが、それは置いておこう。  映画のカメラマンが撮影することを、よく「カメラを振る」という。カメラを振り回すことではない。カメラを動かす時に細心の注意を払うということなのだ。カメラを動かすとき、三脚を軸にして旋回させることをパンという。良いパンができることにカメラマンは職人的プライドを持つ。三脚をトロッコに乗せて移動することをドリーというがこれもカメラを動かすことだ。ズームイン、ズームアウトもカメラを動かすことだ。 カメラを動かすとき、そのカメラは静止していなくてはならない。これが基本なのだ。カメラを振り回してもカメラが静止しているスタビライズの道具も最近では売り出されている。これによってドリーの時など、三脚を省略する事ができる。 水中撮影について言うと、昔はカメラが大きかったから、ハウジングのバランスをとって、中性浮力で浮かせておけば、水という緩衝材、油圧機構に載せているようなものだった。カメラマンダイバーは、カメラにつかまって浮いていれば良かった。カメラが小さくなると、そうは行かない。高価なカメラは、その内部に防止機構がついている。 それでも、カメラを固定することも撮影には必須である。そのために水中で使う三脚についても、カメラマンは、それぞれ、自然に与えるインパクトが最小になるよう工夫する。カメラが小さくなったことは、一方で、多様な工夫ができるようになったことでもある。今だったら、神の子池にあんな三脚を立てずに、10台のウエアラブルカメラを置くだろう。 要は、その場に応じて自然にインパクトを与えない最善の方法が選択できれば良いので、それもカメラマンのテクニックの内である。カメラマンが自然の中に入っていくという行為だけで、自然にはインパクトを与えているのだと知らなければならない。  中尾先生たちの仲間で、良く一緒に潜水したオランダの海綿分類研究者のリサは、美人で、絶対に着底しない。美人と着底は関係ないが、ノートを取っているときも、もちろん採集しているときも着底しない。日本の若い研究者も彼女たち、諸外国の研究者と一緒に潜水するときには、同じようにできなければいけない。早稲田の町田君は、プライマリーコースでダイビングを習った優等生だから、リサなみだ。中尾教授は、僕より若いから、僕より上手だけれど、採集するときは膝を着く。いうまでもなく、古いダイバーは、経験という武器があるから、それを駆使して補う。 フィジカルなテクニックについては、努力目標であれば良いと思っている。セフティの方が大事で、絶対命令だ。 研究者の採集も、広義の自然破壊だろう。同じようにカメラマンの撮影もそうだ。そのことを自覚して、できる限り自然にインパクトを与えないように努力する事が基本である。  だいぶ、長い寄り道をしてしまった。日の光が射し込む浦安運動公園プールのことを書きたかったのだが。

0625 お台場

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他に書き掛けているブログがあるのだが、今日はお台場のことを書かなくては。ブログはログ 記録でもあるのだ。忘れない内に書かなくては。
 朝はいつでも寝起きが悪いのだが、今日は特にわるい。何とかがんばる。 梅雨で、予報は大雨、でも午後は止むらしい。 尾島さんがテントを二張り持ってきてくれた。梅雨に備えて、一つ増やしてくれた。ありがたい。
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 僕は、ドライスーツ、他の全員がウエットになっている。水温は20度を上回るはずだ。 お台場は、オールシーズンドライにすることにした。ウエットからドライに変わる時のウエイトの負担がきついから。  今日のメンバーは、東邦大学の多留さん、お台場中心の尾島さん夫妻、本職は歯科医師、生き甲斐がダイビングによる生物(主にゴカイの類)研究。奥さんの方も歯医者さんとダイビングと生物全般だ。 清水まみ、本職は保育で、こんど保育山小屋を設立した。お台場の写真撮影は、かなり作品がたまっているはず。三ツ橋知沙 科学未来館で、もうかなり偉くなっているはずで、お台場では水生植物の定性から研究を始めている。元来が植物の遺伝子の研究者だ。 海洋大学潜水部の現役後輩、4年生の江原君、3年の依田君、同じく3年の大塚君、潜水部は、60年前に創立した。僕は創立者の一人である。60年後のクラブの現役と一緒に潜れるのは、幸せなことだと思っている。 最近、お台場に次第に取り込まれつつある小林さん。クリーンアップには諸処にでかけている。みなさん、お台場というとクリーンアップだと思う方が多いのだが、クリーンアップもするけれど、お台場は潜る海としても魅力的なポイントなのだ。  そして、スタッフの鈴木君と僕、合計10名が今日のメンバーだ。
 僕の身体はまだ目覚めていないが、水に入れば目覚めるだろう。ドライスーツにウエイトは腰に3キロ、ジャケットが7キロ、8リットルのタンクだ。 マスクは、このところダイブウエイズの新しい型、アイアイのシングルレンズを使っている。フィンは、スーパートライスター。 スノーケルを忘れてきた。水面移動があるのに。
 持って行くカメラは、TG4とSJ4000をステイの上に並べ、フィッシュアイの2500をアームに載せている。SJは、エントリー直後から回し続け、TGは、スチル、時々ムービーのつもりだ。
 腹這いでエントリーすると、透視度は50cm以下だ。2m潜って、ヘドロの上に来るとよく見えて、1mは見える。ヘドロの上はまだ硫黄細菌の膜は薄くて、マハゼが一面に、まばらではあるけれどヘドロ海底に散って、ピンピンと左右に動いている。 ヘドロから 上って岸よりに進路をとって、牡蠣の上に来ると、マハゼの数はもっと増える。そのまま、泳ぐと空気が減るので水面を泳いで、目標の杭の列まで行きたいがスノーケルがない。上向きになって泳いで行く。陸上の大きな榎木が潜降ポイントの目印で、このあたりからさらに魚が多くなり、透視度も良い場所になる。 予想通り、底は一面のマハゼだ。大きさは5cmぐらいが多く、10cmクラスも混ざる。例年よりもマハゼが多い。数えるわけではないので感じだが、とにかく多い。
 目標の杭の列だが、濁っているので見つけるのに少し苦労する。 濁ってはいても、60cmぐらいの透視度で、撮影距離20cmぐらい、TGのマクロモードならば、十分に撮れる。杭の間もマハゼが詰まっている。
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 まみが、腹這いになって動かないでいる。僕が目指していたカニの入り込んでいる横向きの杭のあたりだ。別にカニをどうしても撮らなければならないわけでもない。健闘をいのる。後で、「こんなに大きいカニ」と手をひろげた。釣り師か君は?僕は、移動しているときにカニの上を通過したのだが、ストップが効かないで逃げられてしまった。
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 いつもメバルの子供がいるブロックのかげにメバルがいない。ブロックの上にドロメの若魚の群がいた。このドロメも、この点にいつもいる。メバルはどうしたのだろう。まみは見たと言っている。僕がいつもみるブロックの陰にはいない。 帰り道、ヘドロの上を泳いでいくと、巨大なトゲアメフラシがいくつか。通過するだけで、特に撮らなかった。廻し続けのSJには写っているが。あとで撮らなかったこと後悔している。別に珍しくもなく、好きでもないのでスル―したのだが、
 一回潜水したらだいぶ調子が出てきた。雨もほとんど止んだ。 二回目はどうしよう。もう、マハゼは撮ったし、と思ったが、いつも書くように僕の目的の一つは、数少ないタンクを背負ってのトレーニングでもある。三ツ橋が一回の潜水で目的の採集は終わったというので、そのタンクを使って潜ることにした。僕は一回目、かなり粘ったので残圧が50しかない。三ツ橋は90余している。 波打ち際で尾島奥さんにフィン履かせてもらう。「久しぶりのコーヒー色の水ですね」といわれる。彼女は上がってきたばかりで僕とすれ違いだ。これで僕が最後のエントリーで、僕が上がると全潜水の終了になる。ゴムボートの見張りなどあるので、余り長くはいられない。
 本当にコーヒー色で、沈んでいっても30cmぐらいしか見えない。
 水面を泳いで杭の列まで行く。 驚いたことに、杭の間に群れていたマハゼが姿を消して、一尾か二尾しかいない。潮時とはよくも言ったものだ。お台場では、干潮時で透視度が良く、満潮で濁る。すなわち、岸近くの水がきれいということだ。なぜだろう。先日、尾島さんに湧水の調査をしてもらって、湧水はないと言うことなのだが、湧水がやはりあるのではないか。
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 赤く濁った水の撮影は嫌いではない。赤い色の濁りをきれいに撮りたい。夕日を撮る気持ちだ。小さなエビとか、ヤドカリがいれば良いのだが、居なかった。戻りを急ぐので、濁りをうまく撮れなかった。
 戻り途だが、水中を飛んで(泳いで)くれば早い。ところが目の前にかざしたコンパスカードが見にくいほど濁っている。水面を泳いで戻った。 雨は、予報通り、ほぼあがった。片づけの時に降っているとつらいが、よかった。 体調もまずまず復活した。
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                  尾島さんと学生たち 
                                       END


0630 波佐間

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29日 波左間に行く。ブログ=ログ だから書かなくては。
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 目的は、 ①トレーニング  ②撮影 全国豊かな海づくり推進協会の機関誌の表紙 種切れになりつつあるので補充 ③ ②に伴うカメラテスト  カメラテストという遊びでもある。 ④ 一大プロジェクト(そうでもないか)が頭の中で進行中 考え中 ⑤ 尾崎君 荒川さんに現在進行中の日本のダイビングの歴史についてのインタビューというか雑談  6時、僕の事務所に鶴町がピックアップにくる。このところ彼女に気合いを入れられて館山方面へのダイビングが進行している。4時に起きて5時まで暖機運転、5時半、事務所で機材確認準備 ほぼ、定刻に出発、押上駅付近で、山入端さん、沢田さんをピックアップ、沢田さんは、良く知らなかったけど、1980年代のツースター ☆☆ ダイバーであった事が判明、☆☆については、次の機会に説明。 8時、波左間着、車の中で眠らせてもらう予定だったけれど眠らなかった。車の中では、耳が聞こえないから、話をしているわけでもない。メールを1通書いた。 残りのメンバー、館野さん細田さん宮野さん等とは現地で集合、マネージメントは鶴町さんである。  波左間では、割と早くドライを着る。そう、僕はまだドライなのだ。皮膚のアレルギーがかなり良くなったと言え、完治していない。7月の海豚倶楽部海洋実習にはウエットになろう。その後もスクーバはドライで通してしまおう。3mmのドライが浸水なので、修理しなければ。  のんびり、コーヒーを飲んだり、雑談したり、カメラの準備をしたりする。 カメラシステムについては後述するが、
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 フィッシュアイのライト、FX2500を載せたステイ(枠)グリップにニコンのAWとSJ4000を並べる。GOPROにしない訳は、タイムスタンプが無いからなのだ。やすいSJがどのくらい使い物になるのかのテストでもある。 SJは、動画を廻し放し、スチルはニコンで撮る。残り少ない人生、カメラにお金をかけられない。そして、一般のダイバーが使えるカメラもこのレベルだろうから、そのテストレポートを続けることは意味があるだろう。 エントリーは、船べりに乗り出すようにして、頭から入る。この方法は僕以外やらない。講習で教えないからだ。立ち上がる必要がないので、楽だし水面から目をはなすことがないので、安全だし、カメラにもショックがない。 気持ちよく潜降できたので、中層に浮いて、海底のみんな、ダイバーを俯瞰撮影する。目標のトレーニングの一つだ。と、突然バランスが崩れた。ドライの脚に空気がまわる。浮上が止らない。水深5mぐらいで態勢を立て直したが、焦った。僕は昔上手だったのが、高齢でバランス感覚が悪くなったのだから、何とかなるが、初心者だったら、パニックになる。ドライで、中性浮力静止は初心者には危ない。  この回の目標は、アオリイカの産卵で、アオリイカは、高根神社周辺に集まって、ヤギの類、紫色がかった濃紺 の(種類を調べたい)ヤギに産みつけている。 しばらくぶりなので、撮影の感覚、接近の呼吸を忘れている。うまくできずに、大きなカニ腕のカメラを構えている谷島さんの前にでてしまって、バックする。5mほど離れた別のヤギをねらう。 すでに産みつけられている位置に、2尾のペアーで進入接近してくる。いやがられないで、近寄れるポジションへ、目立つ動きをしないように、関心など無いような振りをして、にじりよる。ようやくポジションをとった。
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 しばらく、苦闘する。中世浮力で撮る。そんなことができるわけがない。長時間の待ちは、腹這い着底だ。 辺りを一周してきたみんなが戻ってくる。イカにとっては警戒する人数が増えたわけだ。しかし、彼女、彼にとっては、どうにもならない衝動に駆られている。数回のシャッターチャンスがあり、ふと気がつくと一人になっている。さらにもう1回、イカが廻ってくるのを待って撮った。まだ、空気は80ある。あと何回かねばるべきだ。カメラマンならば、そうしている。しかし、今の僕の意識はセフテイに傾いている。一人だけになると心配をかける。谷島さんもいない。みんなは、荒川さんを囲んで、多分、イタヤガイを見ている。この貝は、良くはねるのだ。僕は、一人、一番先に浮上してしまう。やはり、もう少し、せっかくのポジションだったのだから、粘るべきだった。  午後からの潜水、もうひとつのグループが戻ってきたので、入れ替わりに出る。もう一つのグループの女の子に一緒にと記念写真を頼まれた。もちろん、気持ちよく、応じる。 目標はドリーム魚礁。魚礁だから、「豊かな海」表紙のストックになる。  僕は、失敗する。ドライにインフレーターホースを繋がないで飛び込んでしまう。BCの空気では足りなくなり墜落してしまう。耳が痛んだので鼻をつまむ。これで抜けたから良かったが。水深18mの魚礁の上に落下着底する。こういうことが無いように、バディチェックをするのだろうが、全員ベテランだし、そういう文化がない。この中に入り込んだ初心者は危険?そういうこともない。宮野さんは初心者だが、荻原、スーパーガイドがバディで見ている。  インフレータを繋いでバランスをとり動き始める。3段にきれいに積み重ねられた魚礁ブロックの隣に接してより大きなブロックの2段積みがある。まず、そちらにまわってみるが、ネンブツダイとカワハギだけで、撮影にならない。この時期、この魚礁では、メバルの群が撮りたい。三段重ねの一番下の段に入って行く。1尾だけみたメバルを目で追っていくと、群がいた。メバルの群ははっきりと下の段だけに集まっていた。そういう潮時なのだ。もう良いというだけ撮ったのだが、後で見るとやはり不足していた。
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 2段目、中段に上がる。キンチャクダイのペアーを撮影する。撮影するということは、撮影する意識をもって向き合って撮影することで、その瞬間は被写体の他は、意識の外にでる。 上段に上がって、下を見ると、オオモンハタが中段に見えたので、戻って撮影する。メバル、キンチャクダイ、オオモンハタを撮ったことになる。その他、チョウチョウウオ、イラ、カワハギにカメラを向けてシャッターは押しているが、意識して撮ってはいない。なお、僕のシステムでは、撮影はしていなくても、SJに写ってはいるのだ。 少し早い。まだ100残っているが30分過ぎたので、浮上する。  少し遅い昼食は、荒川さんのごちそうで、イカそうめんを一生の半分 分くらい食べた。もちろん、おいしかったからそんなに食べたのだ。  食事の後で、尾崎と話した。彼は、今日は板田に行っていた。現在撮影中のNHKの番組で、タコとウツボの絡みを追って板田の根に行ったという。そんな話を聞くと、うらやましいけれど自分も通ってきた路だ。その尾崎とは、ドライスーツの話をする。今僕が着ているようなドライスーツの元祖は、僕の知る限り、調べた限りは彼が元祖なのだ。 これはまた、別の現在進行形で、そのために雑誌をスキャンして調べたりしている事の端で、その確認の話をした。50年昔の話だ。振り返ってみればずいぶん長い路筋を着かず離れず共に歩んできた旧友が沢山いる。彼らの事を書くことが、日本のスクーバダイビングの歴史でもあり、そしてそれは今に、密接に繋がっている。いま、あることは、良かれ悪しかれ、過去のことの結果なのだ。  さて、結果といえば、撮影の結果だが。  僕のシステムの条件 ①予算 15万以内  ②年寄りが水中で楽に使える。手に持って飛び込んでも大丈夫。 ③調査報告の印刷物 雑誌のグラビア、表紙につかえること。 ④同時進行の動画(日付スタンプ入り)とスチルが並べてライトステイに載せられること。 ⑤同時進行動画の画質はスチルの7掛け程度欲しい。 ⑥色と鮮鋭度が我慢できる。上を見れば際限もない。 現在のシステムはライトの修理ができてきた2017年の3月頃からで、ほぼ良いと思っている。お台場では、スチルがTG 4にとりかわっている。絵は、ニコンAW よりオリンパスTG の方が好きなのだが、プロテクターに入れたら、この台に乗らなくなる。  撮影結果はほぼこの条件で満足できた。
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 失敗は ニコンのタイムスタンプを消して置かなかったこと。このシステムで使うときは、タイム記録は同時撮影のSJがやっている。雑誌の表紙では、タイムスタンプは削らなくてはならない。削ってトリミングすると小さくなってしまう。

0702 ジャンケンの法則

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ウィークディに潜水したので、土日はデスクワークこのところ、頭が散漫になって、おかしくなっている。そんな日には、どうでもいいことを雑誌のスキャンをしていると、えーっつと思うものを見つける。
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益田 安規子に娘がいるなんて 聞いていなかった。
 2016年のマリンダイビングから11
月号から

     ★ 下は、1977年のダイビングワールドから
 
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            三宅島の高田さん、ごぶさたしています。
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         台湾の謝さん。1977から日本に顔を出していたのだ。
             でも、若いね。



関係ないけれどジャンケンについて、
 毎月 1日は辰巳の練習会のための場所どり、ジャンケンをする。思えばこれもずいぶん長い間やっている。このプールのルーツから考えると、僕は特待にされてもばちは当たらないとおもったりする。一番初期には資格審査とかたくさん条件があった。今は、なんだかわけのわからない子とジャンケンしなければならない。公共施設なのだ。 そこで、勝つために。ジャンケンの法則Ⅰというのを編み出して、無敵だった。それは、全員でジャンケンする時の法則だった。それが、僕が勝ちすぎるのを不満に思ったらしいある人が、進言したらしいのだが、全部単なる勘繰り。人数が多くなり全員でジャンケンができにくくなり、担当の中村さん対全員のジャンケンになった。勝った人だけ残る。それには,法則Ⅰが通用しないので、勝ったり負けたりになった。そして、しばらくは必ず負けの日も続いた。そして、ようやく法則Ⅱを編み出して、勝率が良くなった。法則Ⅱは、全勝ではないが、勝率はよくなった。なのに、先月勝ったあとで、フッと、この法則に疑問を持った。そして、別の考えを持った。しかし、法則Ⅱは正しくて、昨日も法則Ⅱであれば、勝てたのに。惨敗した。と言っても、5日しか貸切が無い中で、何とか必要な分は確保しているけれど、負けは負けだ。しかし、この惨敗で見えてきたものがある。法則は正しいのだ。
 ジャンケンの法則の基本は、信念なのだ。来月から基本にもどろう。
ジャンケンで本気になったりして、82歳にもなって、何をやっているのだろう、言っているのだろうと思うけれど、まあまあ、
 娘に言われる。昔はもっとハードボイルドだったのに、ほんとにそう思うこともある。近年では、右に気を遣い、左にエクスキューすする。ジャンケンで負けたのと同じ傾きの内だ。でも、それを言ったら生きているのが嫌になる。もう少し辛抱しよう。人間辛抱だ。
海は広く大きく豊かだ。
あ、それは昔のことか、汚染され、ごみプラスチックの海になった。

0703  フリーダイビング

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 自分はしない、できないのだけれど、フリーダイビング、岡本美鈴が真鶴、岩での大会の実行をがんばって居ること、リスペクトして、心配しつつ応援している。何よりも、一緒に本を書いた身内なのだ。

 一方、男性の日本チャンピオン篠宮君は、まえに沖縄で国際大会をやり、その向こうに探検・撮影の道を造り、進んでいる。ダイビングの目的「それで何をやるのだ。それが何なのだ」が原点だとすれば、正しい悔いのない選択だろう。実は彼の写真、とても好きなのだ。

 素足の世界チャンピオンになった木下サユリちゃんは、本をだした。読まなければ。二度会っているのだけれど予備知識がないので、いい子だなというイメージを持っているだけだ。 広瀬花子君は、短い時間だったが世界チャンピオンになった。抜き返されたが、やがて、本当のチャンピオンになるだろうけれど、こういう競り合いは命がかかってしまう。プールですれ違うと、素敵な笑顔で手を振ってくれる。

 そのルーツになっている松本恵さんとは、3月に会う約束をしながら、福島に引っ張られてしまって果たしていない。話すことがたくさんあるのだけれど全部、思いで話だ。時間を置いたことで、先の話もできそうだ。時は流れて行き、みんなそれぞれ途上にある。僕も多分恵さんも、生きているうちに急いでもう一度会いたいという途上だ。今年中には会おう。

0706 ナヒモフ号の財宝

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 7月5日、元マリンダイビング編集長、鷲尾さんの書いた「小説」「ナヒモフ号の財宝」の出版記念パーティがあり出席した。
 ナヒモフ号の財宝引き揚げは、日本最大の宝引き揚げである。そして、日本のおそらく最初で最大の飽和潜水作業だろう。潜水実験は、JAMSTECが、やったが、実務としては海上自衛隊の潜水医学実験隊が行っている潜水艦の救難作業が残るのみである。
 僕も、二つのポイントからの思いがある。
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 まず、「ナヒモフ号の財宝」は、とてもおもしろい小説だ。なぜ「小説」とことさらに「 」をつけたか、それは、この引き揚げ作業に従事したダイバー他関係者について、この作業の実態について、口外した者は死に相当するという厳重な縛りがかけられているからである。スガ・マリン・メカニックでは、田島雅彦が、このサチュレーションダイバーとして参加していたが、最後まで、この話をしなかた。最後、というのは、残念なことに若くして、癌で亡くなってしまったからである。
 鷲尾さんの本は、だから、小説、架空の話しという前提で発表されている。小説はおもしろければ良い。「小説」として、おもしろかった。
 伊達という主人公の設定については小説であるが、宝探しという詐欺についての解明は、どこまでが小説なのか、真実なのか、わからない。かなり、真実が含まれていると思わせる。なにしろ「死」の縛りがあるのだ。
 
 パーティでは、スピーチを頼まれた。僕がどこかで、ナヒモフにかかわっていたと聴いたのだろうか。 なお、パーティには、ナヒモフ号の実作業に加わっていた人の出席は皆無だった。もしも田島が生きていたとして、一緒に行こうと誘って、来ただろうか。おそらくは、来なかっただろう。
 
 僕とナヒモフのもう一つの関わりは、遠く1964年に遡る。
 僕と舘石さんは、1963年にフーカーとフルフェースマスクが僕、5本組のタンクのスクーバが舘石さん、二つのタイプの潜水機で100mの潜水実験を目指し、90mまで行く。
 たしか、その翌年、それまでナヒモフ号財宝引き揚げをライフワークとしていた鈴木章之さんに呼ばれる。東亞潜水機の三沢社長を通じてだが、僕たちの潜水の詳しいことを知りたいと言うことだった。
 僕は出かけていく。池袋だった。「神力海事」という大きな表札は出ていたが、普通の家だった。普通の座敷、畳の部屋で、話をした。鈴木さんは、立派な人だと感じた。何枚かの写真を見せていただいた。タブボートの写真だった。サルベージといえば、タグボートが一つの象徴だった時代である。そして、イギリスの某組織がスポンサーになってくれて計画が進行中で、これはトップシークレットなのだが、この計画に参加しないかということだ。もちろん即答などできるわけがない。お昼にお寿司をとってくれて、鈴木さんと一緒に食べた。
 この話をパーティでもさせてもらったが、結論から言うと、お断りした。東亞潜水機の仕事もスクーバの販売が、忙しくなりかけていたし、1963年の潜水で深い潜水の恐怖をしっていた。実験潜水だから、引き返すことができる。ナヒモフの現場では引き返せない。
 一方で、ナヒモフの潜水によって、自分のフーカー、フルフェースマスクを完成させられるという魅力もあった。月給3万5千円の僕は、財宝のことはほとんど考えなかった。考えなかったような性格が、自分の後の資金難につながって行くのだが、純粋に潜水技術のことしか考えなかった。その部分に大きな心残りがあり、今でも、今の東亞潜水機の社長である佐野弘幸さんに、僕が東亞潜水機に残って、フーカー、フルフェースマスクを完成させていたら、どうだったでしょう、などと話をすることがある。
 加わっていたら、死か、フーカーの完成(実績)になっただろう。そして、次の、ナヒモフにも加わっていただろうか。どうなったかわからないが、人生の岐路の一つだった。
 パーティではその話をさせてもらった。
 
 1984年頃からナヒモフと関わりを持ったが、現場のダイバーは、多分、もはや、ナヒモフに財宝はないと思っていたことだろう。鷲尾さんの本にもあるのだが、財宝を積んで日本海海戦に出てくるとは思えない。長い航海で使い果たしていただろうとは、誰でも想像できる。それが、なぜ、といえば、笹川さんの目的目標は、日本の海事振興、サチュレーションダイビングの実績を作ること、そして、又聞きではあるが、第二次大戦のオプテンノールという舞鶴沖のシンガポールから財宝を積んで終戦の日本に戻ってきて、後世の帝国海軍復活の財源にすると言って自沈した船。誘蛾灯のように海師、山師を引きつける。それをすべてはっきりさせておく、と笹川さんが言っておられた。これは、テンオーのエンジニアリングの一環を担った親友の石黒さん(僕の60歳100mも彼がやった)の言葉である。その石黒さんも病に倒れていて、今回のパーティには関わっていない。このナヒモフを事実上仕掛けた宇野沢も死んでいる。
 所詮、財宝探しとは、わずかな可能性に賭ける博打のようなものである。
 ダイバーの中心だった高橋君も、優秀な人である。でなければ、このサチュレーションを仕切ることなどできない。
 僕は、このプロジェクトの末期にROVを作らせてもらったが、外国から購入すれば、もっと良いものがある。にもかかわらず、僕に作らせた。日本の技術振興のためである。僕はその期待に応えることはできなかったが、このロブのテスト映像を見て、時のJAMSTECの松本源彦さんに、チャレンジャブルであるとほめられた。
 鷲尾さんの本、面白かったし、一面の真実を衝いている小説だと思う。しかし、このプロジェクトに加わったダイバーの誰かが、たとえば高橋君でも、僕の100mのトップ(船上指揮)をとってくれた河野君でも、技術的なノンフィクションを書いてくれると、良い。それは、笹川さんのもう一つの遺志を継ぐことになる。
 僕は、もしも1964年の鈴木さんの誘いを受けていれば、それを書く人になれただろう。
 サチュレーションダイビングは苛酷である。
 どこが苛酷化というと、一回の潜水はおよそ一ヶ月、3日で潜降、作業を10日、浮上に7日ならば、およそ一ヶ月で、もしも重大な病気、怪我をすれば、交代要員は送り込まれるが、その本人は終わりまで出てくることはできないのだ。
 そんな深海ダイバーを支えている一つは矜持である。ナヒモフの現場のダイバーは、おそらく、そんな思いで、命を賭けた苛酷な潜水をしていたはずだ。
 とにかく、小説としては面白く、また、いくつかの事を考えさせられた。
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 このところ、古い雑誌資料のスキャン整理をしている。1980年11月号、鷲尾編集長の時代のナヒモフ記事の一部である。
 中心人物の写真がある。森さん、玉内さん、ダイバーの高橋君等である。

0707 日記

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 昨夜の辰巳、19時から22時で、21時から22時までは、サービスだったのだが、PRが行き届かなかった。つまり、20時から来て22時というのもありにしたのだが。今度の8月17日は、しっかりPRしよう。会員のみなさまは、適当に19時から20時30分ぐらいに入って、22時までが、ちょうどいいかも。
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22時まで残っていたのは、クレイジー、疲れをしらない何人か。責任者として、僕も泳いだ。朝起きた時には、疲れが快くて、良い一日になるかと期待。 いつもの通りのメール処理、スポーツ安保険の申請 このごろの日課のようになっている果てしない作業、ダイビング雑誌のスキャンファイル。この作業、結局のところ終わりのないものだとわかった。本来、昔からやっていなければならなかったこと。今、講演などで話されていることの、ほとんどは、ここまでのスキャンの中に要約されてある。また、そのルーツもわかる。
ああ、この本は、昨日お茶の水丸善で、買ってしまった新しい本。動物行動学の本だが、なるほどと面白い。
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スキャニングで、自分の書いたものについては、別にカメラで複写した方が良いのではないかと、テストしたが書写器とほとんど変わらないことがわかった。ならば、このまま書写器で行こう。 図書館に「マリンダイビング」を返却した、新しいものを借りるかと、行ったら、図書館が休み。毎週の定期的休みの他に、毎月の定期的休みがあるらしい。 セレクトしてスキャンするから、セレクト、すなわち斜め読みをすることになる。考えることが多い。ブログの書き掛け、応完成していて読み直しをしているものを出そうかと思ったが、雑誌のスキャン、斜め読みをすると、書き終わっている原稿に頭の中で枝葉が付く。

 ナヒモフ号のパーティについて、まだまだ書きたいことがあった。久しぶりで会った潜水部後輩の船水くん、そして高橋実、二人に挟まれて気分よく過ごした。船水君は、潜水部60周年に出席しなかった。それは僕の責任だ、と高橋は言う。では、70周年に、とても生きられない。もう疲れた。おとくいの、「また、いつか、どこかで、」で、別れた。もう、いつかもどこかもないだろう。その船水くんの写真がない。写真が無いと、あせったりする。それは、どういうことなのだ。フェイスブック中毒だ。それと、大橋緑郎さんとこれも久しぶりで会った。彼が活躍、たくさん書いていた、1970年代の海の世界、その頃は、対抗的に原稿を書いていた。今、振り返れば、同じ路線だったのだ。そんなことを話したかったが、まあいいか、書けばいい。これも、並んで撮った写真がない。良いことなのだと思う。写真が無いのは。

 そして、鷲尾さんの出した、雑誌「スキンダイバー」についても書くことがあって、書いていない。これもまあいいか。だ。
結局、今日はまとまりのないダメな一日、つまり普通の日常だった。

0708 日記

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朝起きて、メールを見て、整理する。最近、メールの一つが迷惑メールに犯されていて、修復ができないので、雑草を刈り取るように駆除しなくてはならない。 それから、フェイスブックをみる。これがくせ者なのだ。頭の中が占領されてしまって、その時点でなにか有用なちょっとした思いつきが頭にあると、それがかなり重要なことでないと、フェイスブックという消しゴムで消されてしまう。残念なことなのだがもはや複数のチャンネルで同時進行で考えることが難しくなっている。  出かける約束がないと、その後、頭の中が、空白になってしまう。これは、かなり快いものでもあるので、たとえば、今日のように土曜日、日曜日であったりすると、その空白に身を、いや、頭をまかせてしまう。そして、趣味的な読書に入り込んで行ったりする。これがとらわれてしまうような小説であったりすると、つかまってしまうので、なるべく避けるが、なかなか難しい。避けがたい。
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 いまのところ、ダイビング誌、ダイバーとかマリンダイビングの整理、スキャンコピーとカードつくりを日課の一つにしているので、積んである未決?を手にとって、目を通して付箋つけをする。これは、読書と仕事の両方にまたがるので、かなり両得の気分がして良い。 フェイスブックもそうなのだが、付箋付けでも学んでいることがある。それは、人それぞれであり、それぞれが真剣になって取り組んでいるものであれば、それはそれなりの評価をしなくてはいけないということだ。批評であれば間違いを探すのだが、批評家になってしまうと、クールな視点が失われてしまう。 過ごしてきた人生を振り返ると、もう少しクールな視点で見ることができていればと反省するとどうじに、熱血も悪くはなかった。敗北はしたが。 2013年以降の「ダイバー」自分の書いたグラフィティだけを見て、他の記事を注意深く読むことが無かった。それとも、あまり大したことではないと、投げていた。しっかり目を通して見ると、知らなかったことがたくさんある。業界というか、人の流れも、ずいぶんと知らなかった。  最近になってだが、「ダイバー」と「マリンダイビング」の違いに思いを致している。「マリンダイビング」が近くの古石場図書館にあるので、端から借り出してきて、ファイルしている。「ダイバー」は、後発なので、図書館にはない。 まだ、総合的な考えはまとめていないが、二つの雑誌の軌跡を追うことは興味深いとともに、ダイビング社会について、得るところが大きい。 いずれにせよ、1970年代の「海の世界」そして「マリンダイビング」に見られるダイビング社会が追い求めていたその結果が、今の「ダイバー」「マリンダイビング」の世界なのだ。僕の持っている資料、は、1980年代の初めで終わっていて、2012年に再開する。この30年間の溝をなんとか埋めなければならない。今の整理が終わってから真剣に考えよう。

0712 式根島海洋実習 海豚倶楽部

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7月10日  8時何分かに発のジェット船、11時何分か前に式根島着、使う民宿は源兵衛。食堂でお弁当をたべて、宿の送迎で中の浦海水浴場へ向かう。スキンダイビングができる海水浴場で、学生の合宿でもよく使われる。僕は以前、緑ちゃんと来たときには、ナイトダイビングをここでやった。イセエビが歩き回っていた。イセエビ、甲殻類は夜行性なのだ。  今年の4月から全身アレルギーで、全身が痒く、全身に薬を塗っている。そのため、ダイビングはすべてドライスーツ、ウエットスーツになるのは、今日が初めてだ。海水でひどくならないか、3mmのワンピースにフードジャケットを着て、ウエイトは、何キロだろうか、4キロあるが、足りそうにない。3mmのスーツは脱いで、フードジャケットだけ、ほぼ裸で、2キロウエイトを付けて、泳ぐことにした。
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全員の泳ぐ姿を撮って載せたかったけど、
  
 冷たいけれど、プールだって冷たい。それに日射は猛暑に近い。透明度は5mほどだろうか。海水浴場としては、きれいだ。少し足下に苦労して泳ぎでる。 ニシキベラは縦横に群れている。ここは海水浴場なのだ。まずは、ニシキベラで我慢しよう。 前に来たときには、縁の壁の辺りがきれいだったので、壁に向かう。小さなオヤビッチャの群が居たので、写す。真ん中あたりの水深5m辺にロックがいくつかあって、何か撮れるものがあったはず。潜ったが、なにもなかった。縁の辺りの岩の根っこにイシガキフグがいて、みんなで交代で潜ってみている。
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 寒さを感じると、どんどん寒くなる。小山君に戻ることを伝える。 戻り際、砂浜近くのロックに造礁珊瑚、ミドリイシが小さなテーブル状に一つだけあった。壊れていないようだ。海水浴場の砂浜から20mも離れないで、テーブル珊瑚がある。式根島は亜熱帯なのだ。
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 1500円で借りたパラソルの下にビニールシートを広げてベースにしている。少し暖まり、今度は3mmのスーツの上にフードジャケット、ウエイトは5kで行く。これなら、寒くならない。
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 今度は、右側の壁づたいに海水浴場の境界ロープの手前まで行く。5kで、少し軽い。 壁の隙間にイセエビが居て、ライトの光は当たるのだが、カメラが見る位置まで差し込めない。ステイからカメラとライトを外してさつえいするほどのことではない。ただのイセエビだ。しかし、これも海水浴場にいるイセエビだ。 
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 小山君から合図があって戻る、3mmではぜんぜん寒くなかった。スキンダイビングの時はダイブコンピューターは持って行かない。使わないで持っていると失くすのだ。お台場で2台失くした。体感で、水面で25度、海底で22度ぐらいか、戻ってネットで調べたら、ビンゴだった。  夕食は、品数は多くそろえているが、タカベの煮付けの他は、口に合わなかった。タカベも焼いた方が好みだ。刺身の舟盛りを特注している。その刺身を持って、別室で宴会。新しくクラブに入ってくれた4人が来てくれているので、一人ずつ自己紹介と挨拶。僕は残念ながらほとんど聞き取れない。難聴が重度になっている。耳鼻科に行って見ようか。 僕も最後にご挨拶した。月日の移り変わり、メンバーも移り変わって行く。65歳の胃ガン手術と前後して始めたのだから17年か。何時までできるのだろう。このクラブのポリシーとして、別に上手になることは目指さない。下手の身の丈にあった場所で、楽しく安全にスキンダイビングをする。真のレクリエーションダイビングだ。  何人か残って親しい話をした。話が近くなれば、僕も通じる。 僕が死ぬ前にチュークに行く話で盛り上がった。難しいと思うが、方法を講じれば行けるかもしれない。 7月11日 午前中、泳ぐグループと島内観光グループに分かれた。当然、泳ぐグループで一緒に泳ぐ。 宿から歩いて5分の石白川海水浴場へ向かう。 この日のために折りたたみのボックスが付いたキャリーを買った。東京から式根島往復、現地、式根島での海水浴場への往復、ウエイトも積めるので便利なはず。 3000円ぐらい。なにか華奢でガタガタ緩い。すぐに壊れそうだが、物はすべて、壊れるまでの命、壊れるまで何回使えるだろう。 折りたたみのボックスを開いて、フイン、マスク、ウエイト、ウエットスーツ、カメラを入れて、曳いて行く。まあ、快調だ。
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 さてと、準備をはじめて、とんでもない忘れ物、スノーケルを忘れた。僕は、マスクにスノーケルを付けたり付けなかったり、付けたりする。今回は付けないで持ってきた。マスクだけキャリーに入れて、スノーケルを忘れたのだ。仕方が無い、宿に取りに行こうと思ったら、小山君が走って取りに行ってしまった。彼と、寺内羊子君が、数年前までは,海豚倶楽部メンバーの世話役として来てくれていたのだが、今では全く、僕のための世話役だ。小山君は水中でもベストのバディで、スキンダイビングでも視界の中に常にいてくれる。 今後は、スノーケルをマスクに付ける付けないの如何にかかわらず、スノーケルはマスクに付けておこう。外して使いたければ、その時に外せば良いのだ。手帳に今後の注意として控えておこう。
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                     小山君 お世話になりました。
  マスクは、なぜか、一眼(楕円)のダブルリップをバックに入れてきた。この頃、マスクについて、考えているので、使って見ようと思ったわけだ。キヌガワのマスクである。 名前を調べたら、「アビス」。以前は何回か使ったが、このごろご無沙汰している。  石白川海水浴場、前に来たときには、天気も悪く、あまりよくなかったが、今日はいい感じだ。エントリーもスムーズにできる。透視度は昨日の中の浦よりも良い。 緑の草原のように広がる海藻は何?毎度のことながら、海藻の名前を知らないことが情けない。図鑑を見れば、「イソスギナ」が近い。スギナに似た形をしている。しかし、図鑑をそのまま信じてはいけない、と疑う程度の知識があって、困ってしまうのだ。
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 カゴカキダイの稚魚が群れて往来する。そのカゴカキやソラスズメの群をスキンダイビングとカメラで追っていると原点に戻ってきた気持ちになる。原点の素潜り時代から60年の年月が流れている。  それだけで、この実習ツアーは良かったな、と思い、うれしくなる。
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 左手の浅い岩棚の上で、もう一人のアシスタントをやってくれている寺内羊子 マトンが遊んでいる。アシスタントが安全管理の心配が無く遊んでいる。一つの理想だと思ったりする。式根島のスキンダイビングポイントは、全部、海水浴場の中だ。バディシステムをとっていれば、安全だ。ところで、みんなのバディを何時も確認しているわけではないが、大体見たところ、一人になっているようなことはなさそうだ。  ウエイトは、3mmのワンピースに6キロで、ちょうどで、潜りやすく、ちょっと浮きにくい。そのくらいが良いのだ。 一眼のマスク、アビスは水はほとんど入って来ない。ラクーンと同じくらい水は入って来ない。真ん中に二眼の仕切りがないので、眼が開けたような感じがする。また、しばらく使って見ようか?  全身のアレルギー湿疹は、悪くはならなかった。 このまま、ウエットスーツでひと夏すごしたら、秋にはよくなるだろう。そして、冬に向かうと,寒冷アレルギーで、また出てくる。つまり、持病だ。 スキンダイビングでも、プールでのトレーニングだけでは、真のトレーニングにならない。本当はもっと海に出なければいけないのだが、難しい。しかし、今度は天候にも恵まれて、本当に楽しいツアー、海洋実習だった。
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 帰りのジェット船の中で考える。日本という国、島国だし、海に囲まれているから、当然とも言えるがダイバー天国だ。伊豆七島がある、そして、東京湾館山もある。伊豆七島については、一つずつ長い物語がある。 とりあえず、式根島物語を書こうとも思ったが、ちょいと半日では書ききれない物語だ。

0715 お台場、赤潮と忍者出現

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  お台場に忍者が出た。
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 東京湾に赤潮が発生、お台場から泡が出ていたとか、匂いがひどいとか言われた。僕たちの今度の潜水調査は30日日曜日、赤潮の下、6月に海底一面に居たマハゼはどうなっているだろうか。たくましく生き抜いているだろうか、どこかに隠れているのだろうか。海底の硫黄バクテリアのバイオフィルムは広がっているだろうか、観察テーマが多い。 それはそれとして、今日視察に行った。
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 お台場の外側、レインボウブリッジの下は、濁りがひどい。 お台場の中は、外側よりも少しは良いかもしれないが、透視度は20cmか30cm、マクロの観察になるだろう。 泡が岸に打ち寄せているが、メタンガスの泡ではない。
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 お台場の水遊びは、僕たちの前の週の日曜だから、23日になる。この時も見に行くつもりだが、赤潮というよりも大腸菌数を小さくする目的で、フェンスで囲っている。このフェンスが赤潮にどの程度効果があるのか、実験としては、良かったかもしれない。うまく行けば、このフェンスをひろげることでトライアロン競技のフィールドができるだろう。
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そのフェンスの前の砂浜、お台場の正面玄関に、海水浴場的、店が並んでいる。廣島焼とか、串焼きとか、そして、砂浜は明日から、16-17とライトアップされる。余りにも、海水浴そのものになってはいけないらしく、日本の分化、なんとかというタイトルの催しだ。正式名称は忘れたが、とにかく、日本の伝統文化で、手裏剣体験、というのが組まれている。金網の中の的に手裏剣を投げる。その指導者の忍者?が、この暑い昼間から、居る。大丈夫かと心配するが、なにしろ忍者なのだから、忍ばなければならない。宣伝効果は大きい。忍者グッズも売っているともらったパンフに書いてあったが、僕は暑いので速攻で退去した。
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明日の1830からライトアップされて、スタートする。雨よりも、暑くても晴天がいい。忍者が我慢すれば良いだけなのだから。

0720 西川名 0718

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7月18日 館山 西川名 オーシャンパーク6時事務所出発久保さんの車8時半頃 着
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 今度の短い旅の目的であるが、日本水中科学協会の中心理事(代表)である白井さん、久保さん、できれば中尾先生もおいでいただければ、と望むけれど超多忙でむり、そこで、三人で、語り合ったことを白井さんの「アオバ」の季刊誌に掲載する。と、そういうことらしい、らしいというのは、僕がそのように思いこんでいるという意味で、三人で潜水できるチャンスなどなかなかない。ので、喜んで出かけてきた。  11時に白井さんが来てから乗船だったのに、すぐに支度をしてしまう。 白井さん到着 ガイドのAさんから、水温が表層で21℃、底で19℃、透視度は3から5mと知らされる。水中で撮影して季刊誌に載せるのも目標の一つなのだけれど、それは、ほぼ絶望だろう。 3mmのワンピースにフードジャケットを持ってきている。21℃だったら、ドライでないといけなかったのか?
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 11時まで、猫をかまったりして過ごす。最近、魚にあきて、猫の研究をしているらしい、とは、久保君の言であるが、魚に飽きることはないのだが、猫という生き物は、面白いとともに、現代社会の重要テーマでもある。 水中撮影であるが、カメラはフィッシュアイのライトをつけたステイ(枠)に、GOPROとニコンクールピクスを並べているが、最近の組み合わせである。もっとライトを付けたいが、水中での運動性能(取り回し)を重視すると、こうなる。久保君のDPV を使う可能性もあるので、ハンヅフリーにしておきたい。マスクマウントを使うので、マスクをダイブウエイズの最新マスク、アイアイに換えた。このマスク、ようやく調子が出てきて顔に合うようになってきた。もしかしたら、これが究極かもしれない。  そこで、またもミステークであるが、ステイにも、マスクにもカメラを付ければ良いのに、カメラステイの方を外してしまう。カメラの台数は十分にあるのだから、両方に着けておけばいいのに、ステイの方を外してしまうのだ。そのミステークの根底には、水中に持ち込む機材はできるだけシンプルにしようとするコンセプトがある。久保君は常に許される限り、必要が予測される機材はすべて持って行くというコンセプトである。 この透明度では、クールピクスの画角よりもGOPROの画角がつかえる。同格にステイに付けておくべきであった。  ウエイトは式根島スキンダイビングで5キロだったので、5キロ付けた。スチールタンクだから4キロ、3キロでも良かったのだが、西川名のように流れが予測されるところでは、重くして、潜降を早くして、流されないうちに、海底に降りてしまいたい。これは、僕のスタイルであり、ここでは正しくは無いのだが、  ここのエントリールールは潜降索につかまって降下して海底集合だ。 流れは無いということだったので、飛び込んで少し沈んで、潜降索を目指して泳ぎ、つかまって潜降すれば良いと僕は思ってしまっている。これが最近のホームである波左間でのパターンだ。西川名は、最近の僕にとっては、アウェイなのだ。  ボートの上で、ガイドの A さんとあいさつ、彼はビギナーに近い女性を連れている。僕たち三人は放っておいても大丈夫。この5人のグループで潜る。潜る寸前に、久保さんから「DPVを使いますか?」と聞かれる。透視度5mでカメラを片手に持って、しかも、海でのDPV初体験だ。流れもありそうだ。「遠慮します。」と答えておいた。 飛び込んで態勢を立て直して、BCの空気を抜こうとした。潜降索とは、5mぐらいの距離だ。少しくらい流れがあっても問題ない、と思った。と、ガイドのAさんが、僕にDPVを取り付けてくれようとしている。DPV用のハーネスは着けている。エントリーの寸前に、久保君と話して、僕はDPVを使わないとしていた。Aさんには、これが伝わっていない。そんなこんなしているうちに、少しボートから離れてしまった。Aさんは強く僕をつかまえて、僕を引っ張ろうとしてくれる。しかし、僕は強く捕まれて、身体の自由が利かなくなる。放してくれともがくのだが放してくれない。ここでのルールは、ゲストは潜降索に至るガイドロープを手放すことなく、手繰って行って、潜降索に掴まって降りて行く、自分でBCの空気を抜いて潜降してはいけないのだ。後になって思い出したのだが、ゲストを連れて、ここに来ていた時、そのうちの一人が、ガイドロープを手放して、少し流された。これを追って、元に戻るのが大変だった。 だから、僕はしっかりつかまれている。 僕は自分のスタイルで、目の前に見える潜降索まで、BCの空気を抜いて、泳いで行こうとしている。そのほうが速いのだ。しかし、左手を捕まえられていて、右手にカメラを持っているから、何もできない。上から見ていると、僕が溺れて、救助されているように見えるだろう。放してもらおうとするが放してもらえない。ガイドとしては放すわけにはいかない。もう任せて曳航してもらうほか無い。 今日は流れていないと聞いたけれど、西川名としては、流れていない方だが、やはり流れがあり、ボートからかなり離れてしまった。泳いで戻るのはつらい距離だ。DPVは力があるので、進む。 潜って進んだ方がいいと合図する。それが通じたからかどうかわからないが、潜降して走り、ブイの根本にもどった。白井さんが待っていて、ガイドのA さんは水面に浮上していった。なんだかわからないけれど、彼が戻ってくるまで待たなくてはならない。彼はゲストを置き去りにして、僕の世話をしていた。それにしても、白井さんはよくここで、一人で待っていてくれたものだ。白井さんと一緒に潜ったのは、1967年のはずだから、50年祭だ。動画で見ると、なかなかのものだ。現時点の僕よりも良いかもしれない。 ガイドが残して行ったDPVを持って、試してみている。僕はそれを撮影する。そうなのだ。最初から、とにかくDPVは持って潜って、海底で使って見れば良かっただけの話なのだ。その持って入るとき、ハーネスに連結しておけば、中性浮力のDPVだから、手にしている必要はない。手放してさばけば、潜降索に掴まって潜ってこられる。外す必要などなかった。それが、このDPVの優れた点なのだ。あとで聞いてみると、Aさんは、僕がDPVを使えると思って、取り付けてくれたのだ。僕は、これを走らせて潜降しなければいけないと思いこんでいて、自信がなかった。以前に使っていた水中スクーターとこのDPVの違いは、そこなのだ。と、僕は福島でDPVを着けた久保さんと一緒に潜っているのだから、知っていなければならないことだった。
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 白井さんのDPVの走りをニコンで撮影したのだがあまりよくない。マスクマウントのGOPROの方が見られるのに、マスクマウントでは、手で構えたカメラがその中心に写ってしまう。今も思えばニコンは構えずにマスクにつけたGOPROだけで追った方が良かったかもしれない。マスクとステイ両方にウエアラブルカメラ付けておけば良いのに外してしまった。 しかし、こういう馬鹿を重ねることが、ダイビングを続けることの意味だと思っている。試行錯誤の連続積み重ねのない人の言うことは、なるほどなるほど、と聞くだけだ。 ここに書かなかった他、たくさんの反省、つまり経験をする事ができている。  年老いると経験を積むのに比例するように、フィジカルが削られる。フィジカルが削られる分だけ経験を積まないとダイビングを続けることができない。若いころは、失敗は無かった?そんなことはない。ダイビングの失敗に重ねて、仕事の失敗もある。結局のところ、ダイビングとは、失敗の連続だが、その失敗が致命的なものにならない範囲に留めて、続けて行くものなのだ。それにしても、失敗が少し多すぎるか?  ガイドが初心者らしい女性ゲストの手を引いて潜ってきた。DPVはそこに置いて、ガイドについていく。僕はV字谷に行くのかと思って後をついていく。なかなか谷の前面の大きな根が見えてこない。あとから聞いたら反対側のサメ穴の方に向かったのだ。V字谷なら、20m余りだが、 サメ  穴ならば50m余りだ。空気は80でターンの約束だ。往路で、もう110ほどしかない。僕ならばリターンだが、初心者のゲストをつれている。潜ってきたばかりだ、何も見せないで、戻るわけには行かないだろう。そのまま進む。サメ穴に到着してガイドが大きなヒラメがいるのを教えてくれる。これを真剣に撮ろう。撮るのだがニコンのタイムラグが大きく、連写できない。とにかく10枚ぐらいシャッターを押した。ガイドが戻ってきてゲージを見せたのでこちらも見せて戻ろうとシグナルを出した。70ぐらいだ。
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濁っていて周囲の景色は見えない。戻りも長く感じたが、潜降索根本で残圧は50ぐらいだった。ゆっくり上がるのだが、どうも僕の平行感覚が浮上の圧の変化に追従していないようだ。ちょっと停止してさらにゆっくり上がる。  水面ではかなりの流れになっている。カメラを受け取ってもらって、梯子にとりついて、右足を水面にあげてフィンを外してもらう。次に左足も同様に外してもらって、梯子を登る。タンクが重い。上げに来てくれた石川君の肩を借りて、上がる。 11時31分潜降開始 最大水深21。7m 潜水時間30分 水温20℃ 盛大に浮上速度違反のマークが点滅している。 僕の浮上速度は、60年間のダイビングライフ全般で速度違反だったのか。水深1。5m辺りの速度が速かったのか?そんなこと言ったって、この流れでは不可能というべき。 今日の場合は、後から浮上してきたグループで潜降索が混雑して押し上げられた感がある。8ー10人が一本の索につかまって減圧する事も不可能である。減圧停止ではなくて、セフテイストップだから別にかまわない?が。机上の空論が形になったものがダイブコンピューターだ。  ウエイトは海底で2キロオーバーだった。 3mmとフードベストでは、浮上の寸前では寒く感じた。震えるほどではない。ドライスーツだったら、エントリー直後の混乱を切り抜けるのが難儀だったろう。

0721 西川名 2 0719

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719 西川名  昨夜(7月18日)のトークは、まあまあだったと思う。 自分亡き後の日本水中科学協会のことなど語り合った。死ぬ話になると、がぜん元気になるけれど、本当に周囲、四面訃報ばかり、
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              減圧停止 

 本当は、今日、こんなブログに優先して、新しいワークショップについて書いて、会員のみなさまに送らなければ、いけないのだけれど。忘れないうちにログ(ブログ)もつけておかないと。  昨日、18日の潜水は目標があったのだが、次の日、19日は、別に、潜ることに、目的、目標も無いのだが、それに、元気いっぱいというわけでもない。透明度は悪いし、魚の姿も期待できない。そんなとき、いつでも頭に浮かぶ言葉は「トレーニング」、潜れるチャンスがあれば、潜って置かなくてはいけない。久保君とバディで潜るトレーニングも僕にとっては、重要。  「今日は流れがあります。」というガイドに昨日かけた迷惑をお詫びして、今日のポイントを聞いておく。「V字谷のそばのブイから入ります。」ということだ。V字谷は、大きなモロコ(くえ)列に並んだヒゲダイ、イサキの大群、西川名を象徴するポピュラーなポイントで、僕も数知れず潜っている。 昨日の反省の一つ、カメラについて、ステイにSJ4000を付け、マスクにGOPROを付ける。マスクは、昨日も今日もダイブウエイズのアイアイだ。僕は、どうしても、このアイアイという名前が嫌いだ。口にしたり、書いたりする度に、感性がチラッと逆なでされる。僕がネーミングするとすれば、ヘルキャット、とか、ワイルドキャットとか、シーホークとか、勇ましい名前にする。「さあ、行くぞ」という語感が好きなのだ。アイアイマスクの外見は、どうひいき目に見ても、可愛くなんかない。
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 まあいい。そんなことは。 古いGOPRO、なかなか壊れない、水没しないHERO2 の色が好きなのだが、タイムインサートがない。SJ4000には、タイムインサートがあるので、記録として、どうしても一台は、必要なのだ。それに画質も、ブログとかネット関係で使っている限りでは、どれがSJでどれがGoProなのか区別はつかない。  僕は、一番最後に水に入り、一番最初に上がってくる。それを「安全潜水」と仮に呼ぶ。今日の潜水では、潜降索へのガイドラインをつかんだまま飛び込み、手放さず、そのまま索をたぐっていく。流れがきつくて、手放したくても手放せない。水深 は、20mにすぎない。垂直に降下すれば瞬間的に着底する。手放したら身体が飛ばされるような感じの流れを、斜めになった潜降索をたぐって潜降すると、「まだか、まだか」という感じで、なかなか着かない。ガイドは、水面は流れが速いけれど底では流れていないと言うけれど、そんなことはない上から下まで流れていて、これは、ちょいと久方ぶりだ。魚も流されるから、根付きの魚は根の陰に隠れている。そうか、根付きとはそういうことなのか、と感心したりする。海底では、チェーンをたぐって進む。まだ新しいチェーンで、昔は、というか、この前来たときには、古いチェーンで、とても手繰れる代物では無かった。それに、このC 点ブイから、V 字谷へ一直線のチェーンは、これまで無かったような気もする。
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今の状況は、チェーンを手繰らないで、フィンキックだけでは進まない。古いトライスター(フィン)で弾力が失せているのか。ガイドとか、久保さんは、ジェットフィンでフィンキックだけで進んでいく。トレーニングのために僕もフィンキックだけで行かなくては、と、ちょっとやってみたが、空気の消費が多くなるのでやめた。 チェーンは、V 字谷の峰の上を横切って、谷に降りていて、谷の底に降りて、谷の底を這っている。谷の峰の上では、もちろん強い流れ、谷の底も谷川のように流れている。ヒゲダイの陰も形もみえない。クエもいない。どこかの岩の下にかくれているのだろう。イサキだけが、岩の壁に沿うようにして何尾か泳いでいるが、岩の陰、流れの陰にいる。それも、大群ではない。その陰のイサキにカメラを近づけて、撮影するが、こういう風に流れの陰にいたという説明写真でしかない。チェーンを手放して、イサキに近づいてみた。さすがにイサキは逃げ散った。逃げ散ったあとには、キンギョハナダイがちらちら群れている。チェーンにもどって、残圧は110だが、先に進むこともない。後ろでフォローしてくれている久保さんに帰るシグナルを送る。
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帰りは下りだから、チェーンを眼でたどれば良いだけ。潜降索の根本に来て、互いに記念撮影をする。浮上も先頭で、まだだれも戻ってきていないので空いている。梯子の上がり方も、少し慣れた。東南アジアの人が二人、身体引き揚げをしてくれる。楽とは言えないが、波が無ければ、容易ではある。
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 ところで、魚も少ない。透明度も低い。激流だ。何が面白くて、こんなところで潜るのだ。もちろん、流れも無く、透明度も20m以上あり、イサキが壁を作るように群れ、ヒゲダイも列を作り、クエも手が触れる近さまで接近できる。そんな幸せな日もある。 しかし、こんな激流、濁りの日も、なんだか達成感があって、元気になる。ハイテンションになる。「僕は激流のダイバーだ。」 そして、ここの潮流は、パニックにさえならなければ、どうって事はない。神子元島とか与那国のようなダウンカレントはない。急峻な地形では無いのだ。流されたとしても、マーカーブイだけ揚げておけば、浮上するときには、ボートが来てくれる。流れの行き先も岸に平行して東京湾に向かう。逆の流れだとしても、白浜だ。  一生懸命に泳いだせいか、3mmにフードベストでぜんぜん寒くなかった。今年の夏はこれで行こう。 お台場の潜水だけはドライで終始すれば、秋、11月のドライへの移行もスムースにできるだろう。 後で、ダイブコンピューターを確認したら23℃」だった。昨日は20℃ちょっと寒かったが我慢できた。 
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0726 リサーチダイビングについて

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 サイエンス ダイビングについて、 (ダイビングの安全について)  ぽつんぽつんと書いたことを並べているので論理的な矛盾があるかもしれない。つながりが唐突であったりする。こういう言い訳を書かなくてはいけないことは書くなと言うルールある。(自分なりの)でもそのルールに従って、ブログが書けない。取り払うことにした。 
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 リサーチダイビングの企画を書いていて、 今度の規則で水深40m以上は、混合ガスでなければ潜れなくなった。まあ、もぐりで潜る場合には良いのだが、報告書を出すような潜水などで、位置が特定されていた場合にはできない。 ほとんどの調査会社が何らかのROV,無人カメラを持っているから、見てくるだけのリサーチでは。あえて潜水させる必要もない。禁止されているのだから、よほどの必要がなければ、要求されることもない。  ならば、なぜ、そんなにしてまで、混合ガスをつかってまで潜るのだろう。 理由はいくつかある。まず一つは潜りたいから潜るのだ。人の意志、遊びだから潜る。行けるところまで行かなくては気が済まない人がいる。主にそういう人のおかげで、人類は進歩してきた。 昔、深く潜ろうと、計画すると、仕事でもないのに、なぜ、深く潜るのか?今は、遊びでもないのになぜ深く潜るのだ。ということになる。 
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 規則で定めた40m以上の混合ガス潜水とは、船上に減圧用の再圧タンクを置き、ステージで潜降浮上するような潜水をイメージしている。 そのくせ、船上減圧が許されるのかどうか微妙であったりするのだが、これはもう遊びの世界ではない。サイエンスダイビングの世界でもない。作業ダイビングの世界なのだ。  そして、労働でなければ、遊びならば高気圧障害防止規則は適用されないはずである。 この辺の議論を突き詰めることが、大事なのか、全部ネグッてしまって、なあなあで行くのか?  ところで、そんなにしてまで、研究者が、学生が潜らなければいけないのだろうか。やめてしまえばいっさいが解決する。賢い人、賢い研究者はやめてしまう。大勢は、日本ではやめる方向である。 規則もやめる方向に規制する。一人でも多くの研究者が危ないことをやめるように規制する。規制、規則とは、常にやめさせる、制限する方向に働く。そういうものだ。そのバランスの中で、生きる。つまり潜水することを考えなくてはいけない。  つきつめれば、これも、遊びと言えないこともない。ここで「遊び」と言う言葉を使うと、それは、どうでも良いことと思われてしまうかもしれないけれど、ロジェ・カイヨアの研究を引用するまでもなく、人間の生きる目標の重要部分を占めている。  人間が、人間の頭脳、心(感性)を海の中に送り込む必要性を無視できない。たとえば自走式のカメラを水中に送り込んでの撮影は受動的で、なるほどなるほど、そうだったのかと、理解するだけだ。  自分の例で言うと、2017年2月撮影3月放映の福島第一原子力発電所の放射能調査でも、海底に分析装置を吊りおろして、曳航しても測定はできる。しかし、それだけでは、何ともない。数値が出現するだけだ。それを、僕と言うダイバーが潜っていき、周囲を見回して、ここと言うところに測定器を当てて、数値を読みとる。測定器の奥に見えるメバルも目で見て、目で見た記録のマスクマウントで撮影して、僕が感じたことを言葉にする。僕というヒューマンインターフェースを差し挟むことによって、僕が周囲を見回すことで、周囲も測定したように感じる。そして、自分、僕が感じたこともとても重要で、次の調査の計画が、僕の心に芽生えて、先に進む意欲が出てくる。それは、僕だけでなく、このダイビングに参加したメンバーみんなの心にも意欲がめばえる。  僕は残念ながら、プロの研究者の世界からドロップアウトしてしまっているが、 もうひとつ、遊びごころのダイバーが研究者になるという形もある。それが、科学にとって、大事でもある。 昔、水中撮影が仕事として始まったころ、カメラマンに潜水を習わせるのか、ダイバーに撮影を習わせるのか、という議論があった。僕はダイバーだったから、写真の素養が無いままに、ダイバーとして、カメラマンになった。おなじようなことが、海の研究でも言える。  それはそれとして、プロの研究者が、自分の目で見て、自分の感性で感じ取ったことがあるのと無いのとは、研究の展開がまるで異なる。  しかし、安全は、研究者にとって、学生にとって何よりも優先する。どうしたら、良いのだろうか。続く

0728 ダイビングの安全について

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ダイビングの安全について、
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 何百回このテーマで書いたことだろう。   ダイビングは、安全か危険か?一例でも死亡事故があれば危険である。問いたいことは、どれほど危険なのかということだろう。毎年10ー20例の死亡事故があるのだから危険である。  昔、ダイビングをロシアンルーレットにたとえた。拳銃を頭に当てて、引き金を引く。 およそ、2万発に一回弾がでる。僕のわかりやすいデタラメな統計処理によれば、すなわち、現実のダイビング人口を40万人として、毎年20人が事故死するとすれば、20000人に一人ということになる。20000回に一回のルーレットというと、19999回は大丈夫だから、人間が生きているという事、もっと危ないことがある。行け!無視しても良いように感じるが、確率とは、最初の一回がで弾丸がでる可能性でもあるのだから、重大である。  しかし、ダイビングの事故はルーレットのように偶発的なものではない。全部理由がある。 まず、愚かな事故はわかりやすい。最近、ダイビング雑誌のスキャン、整理をしているが、ダイバー誌の「危機からの脱出」は、それにあたり、原因は、わかりやすい。わかりやすいことをわかって、繰り返さないようにすることは、大事なことで、これで大半の事故が防げる。なのに、繰り返すというところが愚かである。世にダイビングがある限り、危機の数は尽きない。 ※危機からの脱出は、我妻さんが解説している。
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 プロのレベルの事故は、わかるようではプロの恥?原因不明のように見えることがある。よそ目でわからなくても、本人はわかっている。なぜ本人にはわかるかと言えば、事故に至るまでの分かれ道を事故の方向に選択していた記憶があるからだ。 その分岐点のどこかで、別の選択をすれば事故にならなかった。これは、すべての事故で、言えることだ。  そして、運、不運がある。これについても別に論じなくてはならないのだが、僕は、自分が生きているのは幸運としか思えなかったことが、かなりあるから、やはり、運、不運があるのだ。 先に述べた「危機」愚かな行動からの生還もその多くは運がよくて生還した。  何百回もダイビングの危険と安全について書いてきて、ということは、このテーマが念頭を離れないですごしてきたのだが、待てよ、このことが、自分が生き残っている所以なのではないだろうか。ダイバーは自分の頭でこのことを考え続ける。考えたダイバーが生き残るのではないか。と思った。 だから、危険についての考えは、生き残っているダイバーの数だけある。もちろん、ここで述べている、この見方、考え方も幸いにして生き残っていたダイバーの一人である僕の考え方の一つであるのだが。  危険、今そこにある危険、安全、危険に対処して生き残る方法、について、自分の考え方で考え続けることが大事で、何も考えない人は危ない。ダイビングがメンタルなスポーツであると呼ばれる理由である。  その、ダイビングの危険についての自分の考えも時々刻々変化しているように思える。10代のころ、20代、30代、10年区切り程度の間隔で、大きく変わって来ている。  80代現在、どう考えているかをまとめると。 まとめるときは、三つにくくる。 ① フィジカル: 健康と身体能力 ② メンタル : ダイビングで最重要  ③ 運、 ダイバーという潜水艇に乗って、操縦のパネルを見ると、この①②③の計器がみえる。 三つの計器を見て、あらかじめ立てたコース、計画に沿って操縦している。なおその計画、についてはまた別にのべる。 バディシステムとか、フォーメーションは計画の内である。崩れた時にどうするかは、計画の重要なポイントである。  飛行機が好きで、飛行機の本をよく見る。飛行機とダイビング、潜水と対比して考えることが好きだ。 今の自分は、DC-3 の心境である。 DC-3については、ダグラスDC-3 でネットを見てもらうと出てくる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9_DC-3 DC-3 ダコタは、1937年に初飛行、僕はその2年前、1935年に生まれた。今でもどこかの空で飛んでいる。この前、息子が見たと言っていた。 こんな飛行機と自分を重ねるのは、思い上がりだと言われるかもしれない。思い上がらないと飛べない。潜れない。  計器を見るという事、この三つに何時も心を配る。眼を離さないという意味だ。 自分についてゲージをみる。 ①フィジカル 健康についてのゲージ 余裕、は残りわずかだ。でも、飛び続ける。  最後までダイビングを続けようと願っている。できれば現役で。僕の場合、現役とは、リサーチ ダイビングを続けること、と自分で定義した。以前は、自分で自分のことがすべてできなくなったら、現役ではないと思っていたが、80になるとそれは無理だ。バディの助けが必須になる。およそ、どんなことでも、続けることは闘いである。ダイビングの記録、ログとしてブログを書いているが、その記録である。 やがて、倒れるだろうが、倒れても、カウントナインで立ち上がりファイティングポーズをとるつもりだ。 ファイティングポーズをとっているのにカウントアウトするのは、やめてほしい。 順序は逆になったが ③ 運 昔、ダイビング事故の三要素を①病気②へたくそ③思い上がり にわけて考えた。三つに分けるのが僕のフォーマットなのだ。そのうちで、③の思い上がりが始末におえない。漁師でも潜水会社でも、船や事務所に祀ってあるところが多い。これは、思い上がりを戒めるためのものだ。僕は不幸にして信心ができにくいのだが、自分の力、能力の及ばない部分を認めるということは、大事なことで、僕が生き残っていること、昔ならば神仏の加護のおかげと言っただろう。言うまでもなく、運任せというわけではない。これについての考えは稿をあらためるつもりだ。  ②一番重要なメンタルについて 安全について述べる時、最重要なのはメンタルだ。①のフィジカルの不足はメンタルでカバーする他ない。特に書き出さなくても、ここに書くことのほとんどが、メンタルにかかわることである。だいたい、書くという行為がメンタルなのだ。  最近起こった沖縄の大学院大学OISTの事故のネット上の報告では、計画の不十分、いや不十分どころか無計画であったと述べられている。https://www.oist.jp/ja/news-center/news/2017/7/11/31238何時でもどこでも、事故があった場合の反省は、無計画である。無計画が事故に至るルートの王道だ。 では、計画とは?  ようやく、書こうとしていることの玄関口までたどり着いた。  最初に書いたことだが、思いついたことを並べている。まだ、点の羅列である。点を線で結ぶのはできない。というよりまだしたくない。 書いてきたように、大事なことは、自分の考え、自分の絵を持つことだ。そして、その絵は常時変転している。  こんな形でこのテーマを続けて行こう。

0618 海の世界 3 1972年 1月

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 しばらく、1970年代にタイムスリップしたい。2017年とは全く違うダイビングがそこでは行われていた。まず、まとめて概略を述べようかと書いていたが、やめにする。いろんなことを雑然と、雑誌の時系列に沿って、書いていく。雑誌のスキャンコピーの自分のためのメモ、のようなものでもある。
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 海の世界 72年1月は、海のレジャー大作戦特集である。
 ☆わたしの沖縄海洋博 1975年、3年後に開かれるEXPO75の計画を各方面から論じている。
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 基本構想が発表されている。 魚類学の泰斗である末広博士が、水中につくる施設である海底遊歩道に反対している。海を知らない人の発想だと、しごくもっともで、ぼくもそんなバカなものをつくるよりも水族館を充実させた方がいい。たとえば見たことがないほど大きな水槽とか。幸い遊歩道は造られずに、巨大水槽ができた。この段階の絵ではまだ、水族館も海の中に張りだして、遊歩道と繋がっている。
まだ、計画段階であり、具体的にはほとんど未定状態である。海岸につくるのだから造礁珊瑚を破壊することが心配されている。その心配を菅原久一さんが書いていた。菅原さんは、僕たちの師匠で、1950年代に日本のスクーバダイビング業界をつくった人の一人である。しかし、1970年代の海の世界には、ほとんど書いていない。
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 この時代は、海洋開発というと海の中に施設をつくろうという思想が主流である。すなわち、造礁サンゴの破壊である。
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 ☆この前の年、1971年にPADIの日本での活動組織、PADI潜水指導協会ができ、椎名克己、本郷淳(俳優)が中心だった。椎名さんも俳優(悪役)であり、俳優さんが集まってまずつくったというイメージだった。椎名さんが、ダイビングとスキーのスポーツマンギャラリーという、店だか事務所だかわからないハイブリッドをつくり、その中に、PADI潜水指導協会ができた。1971年のことだった。 本郷さんが文中で紹介されている。世田谷の下馬にマンボウというダイビングクラブをつくっていた。 僕は本郷さんとも椎名さんとも親友といえる間柄に、その後になる。

 ☆工藤昌男さんは、当時の本職がライターで、海の世界にはたくさん書いている。本当にたくさん書いている。「施設を全島に散らしてサンゴ礁を守れ」という論を展開している。僕ならばサンゴのないところ一カ所にまとめて、破壊は一カ所にとどめよう、と、今ならば思う。でもそれは今の考えであるけれど。工藤さんは海底遊歩道に反対していないようだ。 
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 ☆広告を見ると当時の業界の情勢がわかる。 業界の情勢については、たぶん、次かその次かで少し詳しくのべる。 ☆潜水指導については、僕たちの日本潜水会と日本潜水教育協会 NAUIが、雑誌「海の世界」を二分していて、NAUIの訓練コース、そしてNAUIの教師氏名の一覧が掲載されている。
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   講師は田口哲さんが筆頭で、 潜水医学は、医科歯科大学の一条先生がNAUIの理事になっている。一条先生は、日本の潜水医学の泰斗の一人であるが、僕とは遠かった。 早稲田工学部の山根先生、液体空気のスクーバ、クライオラングをつくった先生だ。海洋公園の益田一さんが名前を連ねている。 教師、インストラクターの方は、亡くなってしまった親しかった松岡君、そして慶松さんがでている。
 そのうち、人間関係相関図を書きたいが、これが、1972年のNAUIの図である。

 ※ スキャンしたコピーは、PCの上では拡大してもクリアーだが、ブログに載せて拡大すると、ぼけてしまうものもある。改善、の余地がある。以後からは、ボケたものは使わないようにしよう。

7月30日 お台場

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 お台場 昨夜(29日)の辰巳練習会では、調子が良かった。そして、朝も特に問題も無く、順調にお台場に来て、準備を開始。朝の挨拶をするころから、あまり調子が良くなくなった。どこということも無いけど、積極的なきもちにならないのだ。天候は少し雨が降っている。お台場は周年、ドライスーツで過ごすことにしている。ウエットスーツになってしまうと、秋が深まってドライスーツになるときに、抵抗が大きい。しかし、この暑さでドライは少しばかり辛い。尾島さんが海洋調査、測定して戻ってきて、報告してくれる。溶存酸素量が0から 1.5貧酸素水塊 青潮状態だ。これで、尾島さんの専門の環形動物(ゴカイの類)は死滅するという。毎年のことなのだけれど。はたしてマハゼの状態はどうだろう。
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            エントリーしてすぐの砂浜のマハゼ

マハゼをモチベーションにして、ドライスーツを着る。カーゴパンツ、上着は長袖T シャツだ。ドライの下に何も着ないから、ウエイトベストを4キロのものにする(いつもは7キロ)ベルトは4キロだから、計8キロだ。棒の先にGoProを付け、マスクには、記録の意味でSJ4000を 、Fxライトグリップには、オリンパスTG4を付ける。GOPROを付けた棒は、杖代わりだ。タンクのセットを尾島奥さんにてつだってもらう。タンクを背負うと、BCのインフレ―ターが故障だ。空気が漏れて、ブラッタダーが膨らんでくる。今さら、どうしようもない、BCなし、ドライの空気で調整しよう。タンクを背負いなおして、尾島奥さんにそのまま手伝ってもらって、フィンを履かせてもらって、いつものように、ひざ下まで、あとずさり、ひざ下で横になり、腹這いで、エントリーする、慣れてしまえばこれが一番だ。ドライの空気を全部抜く、身体を立てて、足のつま先まで抜く、それでも沈まない。だめだ。もう一度もどる。尾島奥さんがエントリーしようと、タンクを着けた状態で、波打ち際に来ている。ウエイト2キロ追加をしたいので、持ってきてとお願いする。彼女は12リットルタンクを背負ったまま、すたすたとテントにもどり、ウエイトを探して、持ってきてくれる。驚嘆するほど強い人、普通の女性ダイバーでもこのくらい強いだろうか。要するに12リッターのタンクを背負って、普通の日常のように動けるかということだ。僕も時々、事務所で、10リットルを背負って、しばらく、過ごしたりしてトレーニングはしているけれど、ウエイトがプラスされ、エントリーエキジットだとつらい。出来るだけ独力でやるようにしているが、手助けがあると、甘えてしまう。持ってきてもらった2キロをBCの右ポケットに入れて、チャックを閉める。GOPROを着けた杖は、置いて行くことにした。二つ持って、一つ落としたら、みつけられないほどの透視度なのだ。50cmもみえない。 沈んで見ると砂地で、マハゼが多数往来している。動きが速い。オリンパスの動画にして、撮影する。なかなか良い絵になった。撮影距離は20cmぐらいだ。貧酸素は、マハゼに効いていないのだろうか。 先まで、スノーケルで泳いで行こうとして、ドライに空気を入れるのだが、一杯に入れても沈んでしまう。排気弁が自動になっていて、オーバーには膨らまない。手探りで自動解除しようとするのだが、どうすれば良いのかよくわからない。ダイブウエイズの排気弁ならば回せば良いだけなのだが、付いているのがダイブウエイズではない。スノーケル移動はあきらめて、潜って行くことにする。ウエイトを2キロ右側のポケットに入れたので、身体が右に傾く、膝を突いていれば何ともないが、泳ぐとき右傾きをなおせない。これが、けっこう辛い。
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途中、牡蠣の上でも、マハゼは多いので、これもニコンで動画にする。スチルのシャッターも押すけれど、動画の方がよさそうだ。スチルは動画から取り出せば良い。先端の杭まで行って、予想通り、ここもマハゼは多い。期待していたイシガニは、穴にいない。ここも、一応、動画で撮って置こうとすると、フルチャージしたはずの、FIXが,50%光量で、残り、20分になっている。とりあえず、もどろう。右傾して泳ぐのがつらい。水面移動もできない。それでも途中で、トサカギンポを見つけて、撮る。
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じっくり見て戻っていないので、潜る区域全体を見られていない。戻ったら、残圧70キロだ。尾島奥さんに援けてもらって、エクジットする。フィンがドライスーツにはまり込んで脱げない。ようやく脱いで、波打ち際において置いた、杖を突いて立ち上がる。何か、杖とGoProのシステムを工夫する必要がある。事務所に戻って、BCと、イノンのライトを持ってこようか。考える。1回でやめたのは、このところない。右傾泳ぎで疲れている。
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お台場の反対側で、仕切りを作って子供たち向けの海水浴を行事としてやっている。この28日、29日、土日の二日だけの行事なのだが、こういうことを続けることには意味がある。ここに、僕の撮った動画映像も上映している。鶴町姉さん、中村も手伝っている。あいさつに行くことにした。かなり歩く。現場では、この行事を仕切っている、海作り研究会の森田さんに会って挨拶した。この行事に映像を貸すときに、あいさつに来られる予定だったのだが、僕のスケジュールと合わなかったので初対面だ。僕たちの企画にも協力をお願いした。お台場の海水浴で一番の問題は、大腸菌数が海水浴場の規定を満たさないことである。普通の状況であれば、問題ないのだが、雨が降ったりすると、雨水が下水に混ざって排出されてしまうために、大腸菌数が高くなる。大腸菌数が高くなった水が来ないように、フェンスを張っているのだが、神経質な父兄もいることから、絶対に顔を水に浸けないようにと、注意をしている。そんな姑息なことをして、浄化の不充分なことをごまかそうとしている、という声もあるが。こういう活動を続けることには意味があると思っている。もちろん、浄化もさらに進めて、本当のスノーケリングができるようになることを目指したい。 終了後に田町の芝浦工大で行われるワークショップ、眼とダイビングの話に行かなくてはならない。一回のダイビング、と海水浴訪問で終わりにすることにした。

8月2日 伊戸

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 後のお台場が先にでてしまったが、伊戸 行ったのは、7月 27日  館山は、いろいろな意味で、僕のダイビングのホームグラウンドである。27歳の時、館山湾で90m実験潜水をやったし、最近では毎月、一回ぐらいの割合で、通っている。波左間はその中での更にホームであり、僕のこの数年のダイビングの70%は、波左間で過ごさせてもらっている。僕のダイビングは、月例の東京港お台場と、ほぼ月例の波左間であった。 波左間は、僕たちの人工魚礁調査グループの本拠であり、2年にわたって調査をして、そのまとめを発表した。しかしながら、研究としての成果をと、問われると、やや恥ずかしい。もう一度仕切り直しをして、計画を立て直そう。ワークショップでその立て直しを組み立てるつもりだ。  それは置いて、館山には、波左間の他に、西川名、板田、伊戸、四つのダイビングサービスがある。他にも、沖の島、見物もあるが、これは目下のところ、僕の守備範囲から外れる。守備範囲外、親切にしてもらえる知己がないということだ。なんといっても、82歳、わがままだし、親切に面倒を見てもらいたい。  守備範囲と言ったが、伊戸にぜんぜん行ったことがない。ダイビングサービス ボミーができる前、伊戸は僕の魚礁調査の縄張りの内だった。磯の撮影にも行った。定置網の親方の海老原 保さんが、よく僕の面倒を見てくれた。この人は、大変な紳士で、たしかライオンズクラブの会員、そしてゴルフプレーヤーでもある。そんな縁で、定置レストラン・ダイポができたときには、僕が伊戸で撮った魚礁の写真を何枚か、寄贈して飾ってもらった。もう、今はないけれど。
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             ダイポに飾ってもらった写真。伊戸、平砂浦の魚礁
 そんな縁があるのに行っていない。ボミーのオーナーの塩田さんとは、じっくり話はしたことがなかったが、読売ランドとか、千葉のビッグドッグとか、共通の話題があるし、彼が西川名の手伝いをしていたとき、少しだけ話をしたことがあり、好感をもっている。 なのに、なぜか、開業して7年にもなるのに、僕はあいさつにも行っていない。それは失礼ではないだろうか。と、この前に波左間に行った時に、同行していた鶴町姐に話したら、行こう、行きましょうと言うことになった。状況がわからないので小人数で、と言うことにしたら、福田君が来てくれて、3人ということになった。福田君は、人工魚礁調査グループの中心でもあり、絶対的に信頼できる。  いつものように、福田君が僕の事務所に6時迎えにきてくれる。福田君の車、いつもの戦車のような大型ハイエースで来るのかと思ったら、ベンツのバンできた。ベンツだ。 聞けば、買ったばかりで、7万キロ走っている。良い買い物だろう。ただ、壊れると修理代に一〇〇万かかるので、壊れるまでの命だとか。ベンツならば30万キロはのれるのでは?そんなことはないそうだ。日本の車よりも弱いのか?  8時に現地着、塩田さんは大変歓待してくれて、気分が良い。定置の海老原親方ともあいさつした。元気で今日の漁の始末をしていた。腰が痛くてゴルフの調子が悪いそうだ。僕もとりあえず生きて、潜水している。  塩田さんから、ブリーフィングを受ける。沖前根というところで、潜降索に掴まって降りると、20mほどのところに東の山がありその周辺だ。よくわからないけど、とにかくついて行くしかない。 10時出航、ゲストは10人ぐらいで、僕たち三人は塩田さんが見てくれる。他の7人?は、二人のガイドが見る。
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 潜る前は何時でも怖いが、特に初めての場所はひときわ怖い。 塩田さんが飛び込み、続いて僕、鶴町、福田、その後が他のゲストだ。最後に飛び込んで、最初に上がるのが僕の基本だけど、僕らが先頭だ。ガイドロープを掴み、放さないように手繰って潜降ロープに乗り移り、掴まり、手繰って潜る。西川名の一回目の潜水でガイドロープを手放したが、ここで手放したらそのまま、流されてしまう。とにかく手繰る。激流である。このごろ、激流の連続で、激流の人になっている。もう少しフィジカルに強ければ、爽快だろう。ガイドロープを手繰る時、身体が安定しないでひっくり返ってしまいそうだ。背中のタンクが重いから水面では、引っ張られれば、仰向けになりそうだ。とにかく、その間数十秒だが、だましだまし手繰って、潜降索に到達する。そのまま斜めになった潜降索を手繰って沈んでいく。片手にカメラを持っている。カメラを持った片手も使って手繰る。僕は小さいセットだから良いけれど、福ちゃんは戦艦大和級のキヤノンの一眼だ。僕ことを写しながら泳いで潜ってくる。驚異の泳力。 もしかしたらその昔、僕もニュースステーションの時代、もっと大きい79Eの50キロ級のカメラで、激流をさかのぼって撮影した。たしか、長崎での撮影だった。潮美はロープにつかまって鯉のぼりのようになっていた。 とにかく、今は今だ。身体がころころするようで、姿勢制御に意識を取られる。でも、福ちゃんが撮ったテープを後で見ると、僕の姿勢はちゃんとしている。 10mほど下に行くと、流れは緩くなり、中層を泳いでも進める。
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塩田さんは、着底して僕を待っているが、僕は少し上から、海底の全体像を撮っている。このごろ、いつも着底して、這っているので、中層を泳ぎたいのだ。福ちゃんの撮った僕の姿を見ると、水平になって格好は悪くない。エントリーからエキジットまで、僕の姿をフォローしてくれているので、後で見ると、自分の姿を客観的に見ることができる。心理的に不安定なので、それが形にでてはいるが、鶴町姉さんの見た目では、かっこ良かったそうだ。フィンキックはあおり足ができない。あおり足をすると、構えているカメラが上下動するし、進み方が息をしているようになる。だから、カメラを構えると、50年この方泳いでいる普通のフィンキックになる。まあ、フロッグキックが下手なのだが、この年になって、今更スキルだとかへったくれだとか言っても始まらない。中性浮力でフィックス撮影ができていて、ドリーもパンも安定していればそれで良い。  海底は砂地にコンクリートブロックの魚礁が点在していて、一面にアカエイがいる。次第に根の方に接近すると魚が多くなり、ドチザメが増える。僕は撮影しているので、なかなか塩田さんのところまで進まないが見えている範囲にいる。透視度は、20mはあると思った。 3mmのワンピースにフードジャケットで4キロのウエイト、12リッターのスチールで良いバランスになっている。久しぶりのバランスだ。緩い流れがあるので、中層を泳げば、いつも逆らって泳ぐことになる。着底してしまえば楽なのだろうか。泳ぎ続けているので、すこし疲れる。  フェイスブックやブログでかなり見ているが、シャークスクランブルは、見応えがある。これを考えた塩田さんはすごい。
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 水温は底で20度で、3mmでは、かなり寒くなってきた。残圧も80を切った。塩田さんは僕のゲージを見て浮上のサインをくれる。潜降索までは下り潮だから、直ちに到着、浮上も激流に流されないようにロープに掴まる。およそ、5mあたりで僕は停止する。3mの停止なのだが、僕は5mぐらいがやりやすい。そのうち、どんどん、みんな上がってきた。別の組のガイドがやってきて、スレートに、もっと詰めてくださいと書いた。僕が一番上で5mだったら、一番下は7mぐらいになって、停止の深さから外れてしまう。気がつかなかった。3mに上がる。 スントのソリューションと、日本アクアラングで一番やすい  ものと二つ並べて着けている。一つで良いのだが、アクアラングの表示がわかりにくいのだ。 ソリューションの安全停止は3分だ。新しいアクアラングは5分の安全停止を要求している。そのほかの指示は、最大水深も時間も全部同じだ。同じでなければどちらかが故障だけど。 考えてみるとおかしな話だ。ソリューションは60歳の100mから20年使っている。20年間3分の安全停止で何もなかったのに、ダイブコンピューターを変えたら5分になった。ソリューションの前には、アラジン、そのもっと前はダイブコンピューターなしで、水深が20mより浅い場合にはほとんど安全停止などしなかった。減圧表には安全停止など指示されていない。ときどき、やばいかなと思ったとき、自主的に安全停止をしたくらいだ。
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 人間の身体、僕の身体は同じなのに、ダイブコンピューターが変わると安全停止も変わるのは、納得できないけれど、年齢が高くなって減圧症になりやすくなったのだと解釈して5分の安全停止をしている。  安全停止が終わってボートへのエキジット、これが大変だった。僕はなるべく自力で上がりたい。これはささやかなプライドみたいなものだ。付き添ってくれている塩田さんは、ウエイトもタンクも全部脱がすつもりでいる。だから争いのようになり、手際よくできないで、身体だけ押し上げられた。見ている人はボートオペレーターだけだから、良かった。  ログ 一回目の潜水    潜水開始  10時28分    最大水深  20。6m    潜水時間  33分    水温    20。6℃    浮上速度違反は 二目盛りでて点滅  港に着く。僕の次のタンクも持ってきてくれる。僕は一回の潜水でやめようかともおもっていた。もう伊戸のシャークスクランブルも見たし、激流も体験した。つまり、伊戸は極めた。それに3mmのスーツで、寒くて上がった。 まあ、どうするか保留にして、タンクにBCを取り付けて準備した。1時間の休み、塩田さんを交えて歓談した。寒さが残っている。この状態では、水中で保たないだろう。温水シャワーに行って、スーツの中に温水を入れた。風呂に入っている気分だ。  2本目を行くか行かないか、いつも迷う。そして、いつも行くことにする。トレーニングだ。海に潜るチャンスはそんなにない。     ☆★☆  二本目の計画は、潮上からエントリーして、水面で集合、そのまま自由潜降する。海底に着いたら潮に乗ってドリフトする。  3人と塩田さんで、まず飛び込む あとから他のグループが来る。 水面で、塩田さんは僕のBCの肩のあたりを直そうとする。よじれていたのだろうか。僕は、なにか、そういう世話をされると嫌なのだ。インストラクターの意識の名残だろう。 とにかく、よじれをなおしてもらって潜降、ドリフトしていった方が、1本目のガイドロープを手繰って潜降索まで必死にたどり着く労働がないだけらくだ。 なぜ、2本ともそうしないのだろう。わからないけど、何か理由があるのだろう。潮時とか。 もしかしたら、別の場所なのかもしれない。
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 とにかく気持ちよく泳いでゆるやかに流れた。目当ての根の少し前から、次第にドチザメ、アカエイが増えてくる。僕は、廻っている大型のマダイをスチルでねらった。ニコンも良いカメラなのだが、レスポンスが良くない。この前、福ちゃんに見せてもらったTG5は、まるで連写のように速写できる。もちろん画質も良い。替えるべきかな。でも、このシステムもまだ使えるし。 とにかく、マダイを追っているうちに、根の中心に来て、僕たちが泳ぐのをやめて停止するとサメとエイがどっと寄り集まってきた。 塩田さんが餌の篭を持って、浮き上がるとサメのタワーが出来る。 
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 水温19、2℃なのに、さほど寒くなかった。それほど、一生懸命泳いだわけでも無かったのにわからない。  残圧を見て、潜降索をたどって浮上。潜降索に掴まっての流れは二本目のほうがきつく感じたが、慣れたのか、直下に減圧している鶴町姐さんを撮ったりしていた。みんなが上がってきたので、浮き上がったが、水面近くの流れがさらに速かったので、3mから上の速度コントロールが全く出来なかった。速度違反マークがでるだろうなと思った。  2本目の潜水 ログ    潜水開始  12時 24分    最大水深  19。2m    潜水時間  28分    水温    19。2℃    浮上速度違反は三目盛りで点滅  今度は、カメラを上げ、ウエイトを抜き取られ、フィンを取ってもらって、タンクは背負ったまま、船に上がれた。まあ、普通なみのことができた。  僕のフィジカルでは、やはりこの流れでは、3mmの寒いウエットスーツだったから、動けたが、ドライスーツだったら無理なのでは。 流れが速いのは夏で、冬は、流れの無い日が多くて、流れても、泳げる程度だということ。夏に流れが速いのは黒潮の接近?そうではなくて暑さによる対流が原因だろうという。 ならば、次回は冬にしよう。冬は海鵜が泳ぐシーンもある。水中バードウオッチングも出来て、売り物になっている。
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 館山の三つのダイビングポイント、それぞれ特色がある。波左間は海中公園の名前にふさわしく、神社があり、マンボウランドがあり、僕にとっては最高の人工魚礁パークである。これから秋に向かって、人工魚礁のフィッシュウオッチング調査の手法とシステムの研究、というテーマで潜る。僕の研究のホームグラウンドである。オーナーの荒川さんは、20代からの友達で共有している思い出多数だ。  西川名は、豪壮な天然礁 V字谷、など美しい根と大型の魚、モロコ、ヒゲダイ、イサキの大群などが見られる。天然礁のポイントである。そして、美しくて速いボートがある。 そして、オーナーの石川君は親戚(水産大学潜水部の後輩、僕は先輩)である。  そして、伊戸である。塩田さんはすごいと思う。ドチザメとエイのスクランブルを作り上げた。水中で鳥、海鵜の餌付けもはじめた。まだ見ていない。  それぞれユニークなダイビングサービスが並んでいる。このところ板田の成田君のところに顔を出していない。彼ともたくさんの思い出を共有している。行かなければ!、忙しい。

8月4日 ワークショップについて

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シンポジュウムとワークショップについて              2017/08/0310:12 日本水中科学協会が、一般社会、及び会員に直接に関わり、知ってもらう活動としてシンポジュウムとワークショップがある。  まず、次回のワークショップについて、 8月28日 東京江東区古石場文化会館       PM19時ー21時 JAUS 第17回 ワークショップ 第一回 海洋研究調査ワークショップ 「海洋研究調査における放射能調査」
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理化学研究所 守屋繁春 氏
発表概要 日本水中科学協会は、守屋氏の研究を支援して、2011年当時、第一原発直近で潜水が許された久ノ浜に潜水し、守屋氏はバイオフィルムなどを中心とする採集とその研究を行い、日本水中科学協会は、海底の放射能調査を行った。調査の組み立て、実施 調査の成果、今後の調査への反映について発表する。☆ 放射線測定機器製作メーカー アズテック代表高野道夫氏 (水中科学協会会員)2011年、上記久の浜調査の結果をふまえて、高野氏を中心として、水深60mまで、ダイバーが持って入れるスペクトル分析装置の開発を行ってきた。 発表概要 スペクトル分析器とは何か、何ができるのかを中心として、放射能と放射性物質の海底での、今後の調査の方法について  今回、第17回のワークショップは、一般レクリエーショナルダイバーにとっては縁の遠い話のように受け取られるかも知れない。しかし、スクーバダイビングは、知的活動であり、ダイビングを通じての社会への貢献も目的であるとすれば、このようなワークショップへの参加は、意義のあることと考える。是非参加してください。 申し込みは、jaus.jp より。   ☆★☆  スクーバは、1943年、フランスのジャック・イブ・クストーのプロデュースで出来上がったアクアラング(商品名になった)を源にしている。日本に輸入されて来たのは、1950ー1953年であり、一つは軍用、海上自衛隊(当時は保安隊)の機雷処分のため、一つは、1953年、東京水産大学の小湊実習場でアメリカの海洋学者      によって、その使い方の講習が行われた。もう一つは米軍関係者が余暇の遊びで、近辺の日本の青年に紹介した。すなわち、軍用、科学研究用(水産を含む)、遊び、の三つである。更にもう一つ、ジャック・イブ・クストーが制作した「沈黙の世界」という映画も紹介された。すなわち、撮影のための潜水機である。  科学研究は、二つある。一つは専門の研究者による研究であり、もう一つは一般の人が、楽しみのために研究をすることである。科学の種類によっては、とうてい研究者以外は理解できない先進のものもあれば、楽しみになる科学もある。自然観察、特に海の自然観察は、専門の研究者ではないダイバーになじみやすいものである。 日本水中科学協会では、これまで、人工魚礁調査研究会、東京港水中生物研究会 二つの研究会を主催して、成果を発表している。科学研究として、専門レベルとして、必ずしも満足していない。その理由は、調査の方法について、研究者が直接関わって、研究を進めて来ていないことが一つの反省点である。 それが、今回のワークショップ企画の原点である。 現在進行中、もしくは、進行させることができるものについてワークショップを行い、計画を充実したものにするととともに、検討を重ねて行きたい。  計画を進めるとき、PDCA と言う言葉をよく耳にする。Plan Do Check Action  計画、実施、検討 改善のサイクルである。 PDCA をどこでやるか、その方法論も含めてワークショップで行う。また、日本水中科学協会ワークショップのこのサイクルは、他の海の研究にも、通用、流用できる可能性も大きいことから、公開して進めることにした。 ☆★☆ ダイビングでは、常に危険と安全の問題がつきまとう。日本水中科学協会の使命、目指すところの一つは、科学研究のためのダイビングについて、オペレーションマニュアルを作ることである。  オペレーションマニュアル、運用マニュアルとは、計画の詳細の文書化、知識化である。 計画の不在が事故に至る王道である。計画の無いところ、不適切なところに事故が起こる。科学調査における、この危険と安全確保分野が日本水中科学協会が担当するべきものであり、ワークショップでも常に留意、取り上げて行く。  なお、このスタイルのワークショップは、その方法論を確立できれば、あらゆるダイビング分野に拡大することが可能である。  ☆★☆ これに先だって 7月30日 JAUS第16回ワークショップが、開催された。担当は杉山英雄理事で、テーマは「眼とダイビングについて」講演は近藤美紀子先生。とても良い講演で、参加者全員(19名)が満足し質問も多かった。全貌をここで説明はできないが、僕の質問は、ダイバーが眼の保護のために常用する目薬として、おすすめは?「ケースバイケースだが、ドライアイでなくても、ドライアイ用の目薬が良い」その他、コンタクトレンズの問題についての質問も多かった。 そして、講演者と出席者の親睦をはかることができた。 海洋研究調査ワークショップの他に良いテーマがあれば、このスタイルも続行したい。  今度の海洋研究調査ワークショップは、20名を目安に募集している。成果の拡大、拡散については、シンポジュウムとその報告書で行いたい。
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