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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0428 お台場透視度

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 お台場の水中というと、汚い、富栄養化、貧酸素でヘドロの底は、街のドブのように、硫化水素が発生している。硫化水素は、発生させて自殺の道具につかえる。そんなものが底にはびこっている。そんなイメージを持つ人がいる。お台場で潜ったあと電車に乗ると周囲の人が臭がるのではないかと心配した女性がいた。そういう日もないことはない。お台場には、ウインドサーフィンで遊ぶ人のためのシャワーはあるけれど、ダイバーのためにはない。すなわち、ダイバーには市民権がないのだ。 しかし、日曜日お台場に遊びにくる都民の皆さんは、そんなイメージで遊んではいない。楽しい、きれいな水辺だと感じている。
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 もの好きにも潜っている人、僕たちもいる。「硫化水素にやられないのかしら?」と心配してくださる方もいるだろう。僕たちがなぜお台場の海に潜るかというと、その理由はたくさんあるけれど、そのうちの一つは、僕たちがここで市民権を得ること、ウインドサーフィンやSAPと同等に認めてもらうことなのだ。 実はそのことには絶望している。東京直下型の地震が来て、東京のあり方を全面的に考え直し、海辺のありかた、江戸前の海辺のありかたを江戸時代よりもよくしようと考えてもらえて、自分がそのときに元気に生きていれば、という絶望的な条件付きだ。 熱心な魚突きダイバーでもあった石原都知事にお願いしようかと思わないでもなかった。しかし、趣味的な魚突きに(職業としての漁業であれば、反対しない)反対する僕は、お願いしなかった。そこまで清濁あわせ飲めない僕という人間の限界だったかな? ※このごろブログで脱線解除にしている。 とにかく、お台場は都民にとって楽しい。楽しいと言うことは汚いということではない。楽しい海辺、海というのはちょっと気が引けるので水辺にしておこうか。硫化水素など気にしないで愛犬を泳がせている。最近では人間よりもペットが大事にされる。犬の為のシャワーはある。しかし、このごろの愛犬は、全員、員ではないか、全犬、着物を着たり、乳母車に乗せられたりして散歩している。裸の犬は珍しい。泳ぐ犬も少なくなった。別に悪い気で言っているのではない。大きい犬よりも、着物をきた小さい犬が健気にちょこちょこ走っていると「可愛いなあ」とおもう。  話は、きれい、透明度のことだ。水がきれいかきれいでないか、一つの基準として透明度がある。 セッキー円盤という直径30cmの白い板を上から見下ろすようにして水中に入れる。それを沈めて行きながら、上から見下ろす。見下ろす高さは、1.5mだったか、人がゴムボートの上に立ち上がったぐらいの高さだ。太陽は彼の背後に、真上でもなく、夕日でもなく、午後2時ぐらいの高さだろうか。円盤を沈めて行くとやがて見えなくなる。見えなくなったら少し引き揚げる。それが見えるか見えないか、白い円盤がひょうたんのようにゆがんで消えたり出たりする位置で沈めた深さを測る。もちろん水面は鏡のようになめらかでなくてはいけない。 僕は大学一年のとき陸水学の本でこれを読んだ。そして海洋実習で、まねごとのようなことをやらされた。こんなものは、バカバカしくて役に立たない。僕たち荒海のダイバーには。 でも役に立つことが陸水学の見地ではあるのだ。 その一つは、湖水の透明度世界一を争うことだ。昔北海道の摩周湖が世界一だった。1930年の測定で41.5m、バイカル湖が2位で40mだ。1.5m差である。よほど厳密に、測定者に個人差があるだろうから、同じ人で無いと意味が無いように思う。そして、これは測定したそのときだけのことなのだが、世界記録というのはそういう瞬時のことなのだ。  摩周湖にヒメマスのロケに行ったことがある。ヒメマスは居なくて、ニジマスの大きい、スチールヘッドとか言うのがいた。ヒメマス、ニジマスを放したために湖の透明度が下がったのだという。その上に摩周湖には、ヒメマスの餌にするとかで、ザリガニを放し、そのザリガニがヒメマスに食べられずに成長して、70cmにまで育ち、巨大ザリガニになったという。荒唐無稽な話だが、沖縄のゴシキエビの標本でそのくらいのやつが居たから、いるかもしれないと言うことで中川がロケに行った。髭の先までのばして計って、何センチだったかとにかく巨大だった。70cmなんてあるはずはないが。 摩周湖で、ニジマス、ヒメマスの孵化放流を始め他のは、1906年だと言う。世界記録を測定したのが1930年だから、放流などしていなかったら、もっと高かったかもしれない。 とにかく、ニジマスやらザリガニやらで透明度は下がって、僕たちが測定した時には、10mそこそこだったと思う。2015年の測定では17-2mになっている。 僕が撮影したヒメマスの話は、ヒメマスが居なければ番組は成立しない。聞けばヒメマスは支笏湖で現在産卵中だという。急遽支笏湖に移動をかけた。支笏湖を摩周湖と言いくるめるわけには、いくらテレビでも無理だ。支笏湖は支笏湖として、とにかくヒメマスの産卵を撮る。 摩周湖と支笏湖は隣ではない。移動に丸一日走った。支笏湖の透明度は17m、摩周湖よりも高かった。 バイカル湖にも行った。バイカルアザラシを撮りに行ったのだが、アザラシは去った後だった。仕方がないので、水深50mまで潜って淡水海綿を撮影した。ここも、工業の開発のため、昔の透明度はないという。測定はしなかったが20mぐらいのものだろう。 海で透明度が良いのはマリアナだ。ロタ島に行った。ここで、何とか丸(忘れた)を見下ろすと、水深30mぐらいあるのだが、沈没船に出入りする蝶々魚の種類の判別ができる。こんなところに潜ると、もう減圧症などどうでもいいや、と言う気持ちになる。素人が60m潜って驚いた、などというのはたいていマリアナである。透明度70mなどと言うけど、セッキー円盤をおろして、本当に太陽を背にして計ったというのだろうか。やった記録がある。正確には知らない。測定は個人差も大きい。マリアナとかの方に行くと、僕たちでは見えない遠くの方が見える人がたくさんいる。トラック島で、遠くの方に点のように見えるボートに、女三人、男二人乗っているなどというと、本当にその通りだったりする。この人たちが見れば、セッキー円盤など、100m下でも見えるにちがいない。 そして、僕たちの潜る本州太平洋沿岸では、海はだいたいにおいてダンダラである。表面は澄んでいても中層が濁っているとか、表面は赤潮だったが、水深3mから先は透明だったりする。船の上からセッキー板を見下ろしているのはバカだ、とダイバーは思う。 ということで、透明度を計ることに意味はない。 そこでダイバーは透視度という透明度を発明した。これは、ダイバーだけが測定できるもので、二人のダイバーの一人が、セッキー円盤を持って水平にだんだん離れていくそれが透明度のように見えたり見えなかったりする距離を測定する。これは、一度だけまじめにやったことがあるが、二度とやらない。その日その日に変わる濁り、それも場所によってかわり、水平にだってダンダラになるものを測定したって意味がない。だから適当である。 適当だけれど、大瀬崎で透視度が岸近くで5ー8m、沖に出れば10mぐらい、などと聞けばだいたいの様子は分かる。 そして、ようやく本題、お台場の透視度、透明度にたどりついた。 お台場で潜水して透視度など気にしない。よくて2m、これまでの最高で3m、だいたいが1mだと考えている。  ここまで書いてきて、突然のように透視度の測定について、ひらめいた。長さ2mの測量用の、メモリのついた棒を持っている。この棒の先にウエアラブルカメラをつけて、高い位置から撮っていたのだ。この棒の先に白色円盤、直径は10cmでいいだろうか。基準なのだから10cmでいい。30cmはダイバーが持って行くには大きすぎる。これを棒の先端につけておいて見通す。見えなくなるところの長さを目盛りでみる。同時にヘッドマウントのカメラで撮影していれば、具体的な証拠としても残る。 2mよりももっと見える時は、巻き尺を持って行けば良い。 お台場も透視度がまばらであり、同じ場所でも満潮の時と干潮のときではちがう。もちろん、場所によっても大きく違うから、毎度測定する場所を3ー4カ所決めておく。 このデータの蓄積があったらすごい。ああ、これまでの20年間を無駄にした。  濁っている場所の濁度を計るための濁度計というのがある。工場排水とか、水道の水源とかで測定する。水を汲んできて、標準濁度のサンプルと光電式に測定する。お台場の水は濁度計で測定するほどまでは、濁っては居ない。また、周囲の状況も一緒に写し込んでしまう棒の先の円盤が良い。

さて、この前に書いたように、4月23日(日曜日)、もう春なの
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で冬の透視度は期待できないと思ったが、どうして、これまでに最高の透視度だった。前回から参加している小林さんは、クリーンアップ、水中ゴミ拾いに多数参加しているダイバーだが、透視度5mはあったと言っていた。そんなにあっただろうか、いやもっとあったかもしれない。だとすると2mの棒ではとても間に合わない。とか、考えるけれど、基準が無いから、何とも言えない。簡略でダイバーが持って泳げる基準があれば、すっきりとデータになる。 使う予定の棒を使って自分の泳ぐ姿を撮っている絵を出してみた。2mの棒の先から自分の姿が撮れている。足の先のフィンも見える。白色円盤ならばもっとよく見えるので、3m以上、4mは見えるのではないか。このときは特別に透視度がよくも無く、お台場として普通。普通で3m見えるとすると、お台場は、それほど濁った海ではないのかもしれない。 とにかくやってみることにしよう。

0502 アクアマリン福島  1

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ここのところしばらく、お台場のことを書いていた。やがては、一冊の本にまとめるほど書こう。本にはならないとおもうけれど、というぐあいに書いていたのだが、二枚貝のところで停滞してしまった。 福島のことも、やがては、と思っていて、こちらの方は、ある程度書いたものがまとまっていたので、こちらを先にすることにした。
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アクアマリン福島 1997年12月16日1997年に僕は何歳だっただろう。1997ー1935=62、62歳だった。その頃のことだ。 今は、2017年、82歳の2月、僕は日本水中科学協会のチームで福島に行き、福島第1原発の前に潜水した。 チームは、久保、山本 中川 大西 国方だ。大風が吹いて海に出られない21日、中川、大西は、前夜東京に帰って、出直してくる。福島久ノ浜は、日帰り可能なのだ。2011年の調査の時は、日帰りで10回潜水した。今度は、福島のテレビュー福島の撮影だから、立派な温泉、いわき簡保の宿に泊めてもらっている。国方君は近くの富岡の出身だとか、同級生に会いに行った。残りの久保さん、山本さん、僕は、波で壊れた、カメラの取り付けステイを修理する部品を買いにいわきのドイトへ行った。ドイトは本当に何でもある。僕はサングラスと寒さ除けのフードを買った。買ったというより、久保君に買ってもらった。なぜだか、買ってくれてしまって、おカネを受け取らない。まあ、仕方が無い。サングラスをかけるたびに、これはいわきで久保君に買ってもらったと、ひそかに感謝しよう。少し面倒ではあるけれど。宿に戻ってきて、久保さんはのんびり温泉に浸かっているという。山本さんはアクアマリンに行くという。しばらく行っていないので、とか。僕は疲れ切っているので、温泉にしたかったが、なんと、僕はアクアマリンに行ったことがないのだ。これから書く、あれほどの因縁がありながら行っていない。いや、因縁があるから行かなかったのかもしれない。でも今行かないと、行かないで終わってしまうかもしれない。そういう年齢なのだ。82歳とは。  アクアマリン福島に行くことにした。もちろん見学、遊びに行くのだ。仕事ではない。僕とこの水族館のつきあいのはじまりは、1967年12月、この水族館のマリンシアターの展示映像制作のコンペに始まったのだ。このことを書こうと思ったのだが、日記記録がない。思い返して適当なことを書いた。適当にある程度書き終わったころ、別の調べ物で書架を見たら、大型映像 というクリアーファイルがあり、このときの映像コンペの書類が全部出てきた。僕の記憶と全く違っている。なにか証拠になる書類を見ないで、記憶だけでなにかを書くことは怖い。怖いけれど、ノンフィクションだからいいや、でも書類が出てくれば書き直すことになる。  僕はそのころ、大型展示映像の水中カメラマンとしてトップを走っていた。と自分では思っている。 1993年から1998年までの僕の作品を並べてみると ① 1993:レザーデスク「水」電通映画社・環境映像② 1993:網走『流氷館』ハイビジョン・マルチの映像撮影③ 1993: 函館『コンブ館』全天周イマジカ・ビジョンの映像撮影④ 1994:東京都立葛西水族館『伊豆の海』3D立体映像撮影⑤ 1997:東京都立葛西水族館『珊瑚礁の海』3D立体映像撮影⑥ 1998;東京都立葛西水族館『知床の海』3D立体映像撮影   だから、順風だったのだとおもっていた。ところが、今回、1998年周りの記録を調べて、1998年の5月~6月のノートがでてきたので、見ると。来月は三つあった会社の二つを閉めて、スガ・マリン・メカニック一つにしたい。などと弱気を書きつづっている。自分がカメラマンとして走り回っているので、経営が杜撰になったのだろう。借金が肩に重かったのだ。 とにかく、それでも売れっ子だった僕は、この1997年のアクアマリン福島のマリンシアターの大型ハイビジョン映像製作のプレゼンに、二つのグループから水中撮影監督の名前をだしている。普通、そんなことはありえないのだが、別にプレゼンの条件に水中撮影監督が掛け持ちしてはいけないと言うこともかいていないので、まあ良いかと、一つは、ビクター・ワークスというビクター系列もう一つはイマジカから名前をだした。  とにかく、コンペのプレゼンは、製作会社、プロデューサー、そしてカメラマンが企画書を持って行き、一室に次々と呼び出されて、面接のようなことをする。 ビクターの方が先に出た話で、いくつかの仕事をそれまでにやった縁があった。 もう一つの方はイマジカで、こちらは、35mmのフィルムを横に走らせる8パーフォレーションの巨大カメラのハウジングをつくらせてもらったし、そのカメラを駆使した函館昆布館の「北の炎」も撮影させてもらっている。親しさはイマジカなのだが、話がくるのが遅かった。そしてビクターの方は、すでにプレゼンの企画書もできていた。とにかく断ることはできないので、カメラマンとして二足の草鞋のような気もしたけど、一方ではどちらかが通ればと思ってもいた。  僕はカメラマンとして、そんなに優れていたとはおもわない。そもそも、優れたカメラマンとはなんなのだろう。どういうことなのだろう。カメラを被写体に向けてシャッターを切れば、誰だって写る。バイチャンスで、アマチュアの方がいい絵が撮れることもある。プロとの違いは、プロデュース能力のちがいなのだ。どこへ行って、どういう写真をとれば、どこで売れるかわかっていて、売れる能力なのだ。売れるためにはクオリティも必要になるから、機材のクオリティと、水準の技術が必要なのは前提だけど。水中の場合は、潜って生きて戻ってくる能力も必須となる。大型映像の場合はチームで撮影するから、撮影監督である。 テレビとか展示映像の場合は、別に全体のプロデューサーがいることが普通だから、そのプロデューサーの求めるもの、映像を撮らなければならない。それは、なかなか難しいことなのだ。プロデューサーとの人間の組み合わせがうまく行くこともあるし、まずいこともある。あんまり喧嘩をした記憶がない。あ、あった。一度だかあった。がこれは、僕から喧嘩したのではなくて、首を切られたのだ。僕はわがままだから、自分の思い通りにする。摩擦が起こると、割合すぐに謝る。謝ることで、打ち解ける人とは一生のともだちになる。中には決して許さない人もいる。そういう人は一生の友達はいないはずだ。 ※これまで、僕のブログは脱線が多く、脱線をやめる方向で書いてきたが、脱線こそが、ブログのようなものでは、命 かもしれないと脱線は自由にしようということにした。  脱線、ニューカレドニアのジュゴン ジュゴンと言えば、沖縄だ。そしてパラオで益田さんが撮影に成功した。だれかがフィリピン、インドネシアでも撮っている。 ニューカレドニアにもジュゴンがいる。 その撮影は別にジュゴンの撮影が目的ではなかった。大塚孝夫さんという素敵な人がレポートする。もちろんちょっと潜ってみせる。その部分はうまく撮影できた。それから、カタマランヨットでカレドニアを一周する。それも気持ちよく撮った。次にジュゴンである。ジュゴンはのんびりしているようだが、臆病で、逃げる時にはイルカのように速く泳いで逃げる。イルカよりも速いかもしれない。それにイルカはボートの走りに寄ってくるが、ジュゴンはただ逃げて、それで終わりだ。 ニューカレドニアには、ジュゴンの見える丘、ではないか、ジュゴンが見える崖がある。今もいるかどうかは知らないけど。崖から見下ろすとジュゴンが1頭泳いでいる。たいてい居るらしいけれど必ずとは言えない。ぼくたちが行って見降ろしたときは居た。ジュゴンを崖の上から撮影する場所としては悪くない。水中でも悪くないと思う。しかし、どうやって? 崖の上からジュゴンが見えたら、下の水面に浮いている僕に合図する。あっちの方にいると合図する。あっちの方に静かに泳いでいく。ジュゴンは餌を食べたりしているのだろうから、運が良ければ撮れる。僕はカヌーのような手漕ぎのボートを用意してもらった。 僕は運が悪かった。それに、一日だけのスケジュールだ。  次は、月がとってもきれいだから、水中から月を撮れという。ボートを出してやってみた。半水面で月を撮っても、月は小さくて点のようだ。波に揺られてズームインすればめちゃくちゃだ。それに、水中に射し込む月の光なんて、暗くて写らない。水中ライトを使って、月のイメージをつくれば良かったのか、と後になって思った。しかし、やらなかった。月は撮れなかった。ジュゴンも撮れない。 僕は、レポーターの大塚さんの絵は良いと思ったし水中の魚も、カタマランの走りも良かった。これでもう十分と思ってしまった。ジュゴンも月も無理だ。監督は怒ってしまった。  カメラマンとして監督を怒らせたのはこの一回だけだった。このロケでは、成立している良い部分も監督は使わなかった。その監督の上に立つHプロデューサーは親しく、何度か一緒に仕事をした。その縁でこのロケをしたのだが、「どうしたの? 悪い男ではないのだけれど」と心配してくれたが、どうにもならない。 このHプロデューサーとは、ハワイアンシャークハント というとんでもない番組をやっている。ハワイのワイキキの浜辺をジョーズが襲ってきて、サーフィンしていたお兄さんを食われた、その弟が仇を打つドキュメンタリーだ。そこまでは脱線しない。  話をアクアマリンに戻して。 今、2017年に、おそらくカメラマン人生の最後でそして、頂点だったと思われる1997年、62歳の時点でのコンペ企画書を見ると感慨にひたってしまう。 

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アクアマリン プレゼンテーション
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 話をアクアマリンに戻して。 今、2017年に、おそらくカメラマン人生の最後でそして、頂点だったと思われる1997年、62歳の時点でのコンペ企画書を見ると感慨にひたってしまう。  まず、コンペの公募の通達である。 「福島県海洋文化・学習施設(仮称)マリンシアター大型映像ソフトの企画・制作に係わる企画コンペ実施要領」平成9年11月17日 まず「海を通して「人と地球の未来」を考える」という基本理念がある。展示の基本方針は、ローカルからグローバルへ、過去現在から未来へ。 展示のメインテーマは「潮目の海 黒潮と親潮の出会い」展示のストーリーは、福島の海 潮目の海を中心に置いて、北の海、南の海 福島の川と沿岸がそれをとりまく。 マリンシアターは、204席 スクリーンサイズは300インチ 今の視点から見れば、普通のハイビジョンで、僕の得意だった3Dではない。まだまだ当時はハイビジョンといってもなかなか大変なことだったのだ。 制作期間は平成10年2月から12年の2月丸二年かける。  まず、ビクターの企画、先に誘いがあり、企画の段階から話に加わった。その内容については、ずいぶん意見の違いがあったが、それは、最終的には演出監督が決めることなので、仕方がないが、企画は、僕の企画ではない。カメラマンは、意見、アドバイスはできるが、最終的には演出に従うことになる。 可もなく不可もない総花的な内容だったが、戦略的にはこれで良いのだということだった。水中撮影とほぼ同じくらい空撮の分量がある。撮影の困難さは比較にならない。水中の方が苦労だ。 映像タイトルは「福島、命沸き立つ海 親潮と黒潮の出会い」 構成は五つに分けられている。 1 プロローグ 福島の陸から海へ 2分  福島山地から海岸、沖合までの空撮 2 黒潮の旅           4分  南西諸島沖から房総沖までの黒潮の流れをカツオの旅を追う。具体的には珊瑚礁の魚、カツオ釣り船にのっての漁の撮影 以下 全体にわたって 空撮 水中 水上 顕微鏡撮影 3 親潮の旅           3、5分  北海道オホーツクの流氷、クリオネなどから南下してくる。 4 潮境 親潮と黒潮の出会い。  4分  福島県沖 潮境で起きる生物のドラマ 5 エピローグ 親潮から地球全体へ 空撮 多分コンペに出てきたほとんどの企画がこんなものだったのだろう。  水中撮影 演出の僕としては、おもしろくもなんともない、と思った。葛西水族園のように3D 函館昆布館のような巨大全天周映像ならこれで良い。しかし300インチのスクリーンでは、普通の映画館の大型スクリーンより小さい。水中のドラマがなければいけない、まあいいや、撮影が始まれば、なんとかなるだろう。それに、あんまり大きいことを言って、驚くようなシーンが撮れなければ引っ込みが付かない。  潮境の親潮と黒潮の出会いに賭けるつもりだった   寒流と暖流が出会うのは、北茨城から福島そして三陸沖に至るのだが、福島はまずその中間に位置する。 僕は、お得意の人工魚礁と、そしてサンマ漁を撮るつもりだった。サンマは、南に下って産卵するが南の魚ではない。暖流の魚かといわれれば微妙だ。北上して豊かな北の海で成長して、北の海から南下する。その回遊の途中、福島沖、三陸沖で漁獲される。小名浜は、サンマ漁船の基地、水揚げの港として名高い。 これは、協力してくれる漁船が難しい条件になるが県の水族館なのだから何とかなるだろう。 もう一つの人工魚礁だが、これは、今度2017年の放射能調査でも取りあげた、オレンジ色のホヤと黄金のアイナメがある。アイナメは四倉の、そのころはまだだったが、ブランド魚になった。 犬も歩けば棒に当たる。たくさん、数多く潜っていれば、とんでもないシーンにぶつかることもある。 福島の人工魚礁は、たいてい40mを越える。減圧も長い。その減圧の時に、オットセイの子供がやってきたことがある。親とはぐれたのだろうか、なつっこくて、離れようとしない。やせている。餌も十分ではないのかもしれない。どうしてやることもできない。船に上がろうとしてもついてくる。 今のようにデジタルで、ウエアラブルカメラを持っていれば、撮れたのだがとれていない。  夏で、海はべったり凪いで、透明度も良い。勇んで潜ったのだが、20m潜ると濁っていて、3mも見えないことがあった。寒流が暖かい水の下に潜り込んでいるのだ。これが寒流と暖流の重なるところだ。 寒流と暖流の境目は潮目で、魚が集まる。空撮ならば、わかるので、空撮もやるのだが、水中撮影の出番はない。水撮の潮目は上下の潮の重なりだ。 何か、驚くような映像を撮りたい。水表面が透明で、中ほどが濁り、暗黒になり、底に行ったら透明でメバルが群れているとか。そして、オレンジのマボヤに金色のアイナメ、とかをワンシーンで廻したい。  ここで平成10年1998年当時の撮影機材について触れておこう。 水中撮影機材 ①一体型ハイビジョン水中カメラ  メーカー開発中の機材を完成後レンタルにて使用④に比して大型で機動性に欠ける。  ※当時のハイビジョンカメラは大きい。 ②ケーブル型ハイビジョン水中カメラ  ①が当撮影に間に合わない場合に限定的に使用。  ※太いケーブルでつながれていて、船上には大きな録画機VTRがある。VTRを冷やすために冷房が必要で、コンテナーの中で冷房つきで録画する。移動にはトラックが必要で、使う船も大きくなる。今、ウエアラブルカメラのハイビジョンなどを見ると夢のようである。  ③35ミリ8pビスタビジョンカメラ ※35ミリスタンダードのフィルムを横に走らせて巨大スクリーンの映像に対応している。僕はこのカメラのハウジングをつくっていて、これを使っていた。35ミリフィルムが1秒で28駒飛んでいく。1秒で普通のスチルフイルムの1本が消費される。 ④35ミリフルフレーム水中カメラ 35ミリスタンダードのフィルムを20%拡大してハイビジョンに対応できるようにしたもので、このカメラが一番コンパクトである。過酷な状況での信頼性も高い。 ※ハイビジョンと言っても、300インチだ。制作側はこの④を中心にしたいと考えている。しかし、僕はNGがとても多いカメラマンなのでできれば、ビデオのハイビジョンカメラを使いたかった。 NGが多い。今のビデオ撮影で1時間撮影して、その中から3分使ったとすれば、57分はNGなのだ。ビデオで番組を撮ることが多かった僕は、どうしてもNGが増える。 前に述べたように、僕は、二つの企画の撮影監督で立っている。もう一つはイマジカだ。お世話になっている比重はイマジカの方が重い。プロデューサーも仲が良い。しかし、最初に声をかけてくれたのがビクターだった。完全な板挟みだ。  イマジカの企画はドラマ仕立てだ。 タイトルは「出会いの海」 登場人物 武史少年 インターネット(当時としては先進)でミハエルとレイラという二人としりあう。インターネットのやりとりで、親潮と黒潮のことを学んでいる。 ミハエル カムチャッカ半島のとある村で動物の研究をしている青年、武史に親潮の生態をおしえる。 レイラ ミクロネシアのとあるリゾート地に住む少女 インターネットを通じて武史に黒潮の海中の華やかさ、文化を伝播させたことを教える。 これに平行するように 水中カメラマンの親娘のストーリーがある。親は「生命を育む海」をテーマに親潮を北から潮目に向かって撮影している。娘は「創造の海」をテーマに黒潮に乗って撮影している。親娘は、潮目の海で合流する。武史がそれに参加する。これもインターネットでの繋がりが契機になっている。  おわかりになると思うけれど、水中カメラマン親娘は、僕と潮美だ。当時の潮美はニュースステーションから離れて、すでに月刊ダイバーと係わっていて、フリーになっていた。 どちらの企画をやりたかったかと言えば、当然、イマジカの企画である。 通らなかったけれど、潮美がプレゼンに出たらどうなっただろうか。 この企画が、あわただしく、僕にも潮美も参画していないのだ。なぜといえば、プロデューサーが親しかったから、であろう。 今に至っても、痛恨である。しかし、ifのはなしだ。 でも、この話展示映像よりも、テレビの番組向き?
 コンペはNHK{子会社)に負けた。 カメラマンは、親しい友達の南方盈進だった。 NHKは、これにぶつけたわけではないのだろうが、サンマ漁のドキュメンタリーをオンエアーした。だからだ。とプロデューサーはいう。 さらにそして、このコンペが人の運命を大きく変える。 続く。

0505 アクアマリン福島 3 南方さん

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 僕をコンペで破ったNHK(子会社)から立てられたカメラマン南方さんは、僕たちのダイビング根であった日本潜水会のメンバーである。1967年に日本潜水会をつくったときの同志が、NHKの水中カメラマンの元祖であった河野、竹内だったので、初期のNHKカメラマンの殆どが日本潜水会だった。だから、NHKの初期の水中カメラマンはみんな親しい。僕の視点から見たNHK水中カメラマン列伝を書けるくらいのものだ。河野、竹内、森江、畑中、そして南方、今のNHKの長老、木原は、まだ若手だった。 そして、南方さんだが、報道のカメラマンで、物静かな人で、撮影は上手の上の部類と見られていた。 なお、日本潜水会発足当時、僕はNHKの大島での研修の講師をしていた。僕はまだそのころは、カメラマンとしてプロではなかった。収入を撮影においていなかったので、競争相手ではなかったのだ。 プロになったことで、NHKの潜水の講師をすることがなくなったが、まだ、仲の良い友達だった。南方さんも仲の良い一人だった。  もともと、僕は水産大学時代から水中撮影には熱心だったが、自分の会社は水中ハウジングをつくる会社だった。その意味ではNHKは重要なお得意さんだった。やがて、日本テレビの山中さんというプロデューサーに出会い、僕は彼の水中カメラマンになるわけだが、皮肉なことに、日本テレビと平行して、僕はNHKのカメラを振る(カメラマンをする)ようになる。これは、NHKの職制のおかげだ。NHKでは、撮影部はフィルムのカメラマンで、ビデオカメラは中継部の仕事だった。中継部には水中で撮影できるカメラマンが居なかった。元来ビデオカメラは、スタジオとか野球中継で発展してきたが、やがてENG、エレクトロ・ニュース・ギャザリング ビデオカメラが街に出てニュースの撮影をするようになると、水中撮影の分野にもENGカメラを持ち込んで水中撮影をするようになるのだが、NHKのおかしな職制で撮影部のフィルムカメラマンは、ビデオカメラの撮影はできないのだ。やがては、すべてのカメラがビデオになるので、こんなおかしな職制はなくなるのだが、その過度期に、僕はNHKの水中撮影をやることになる。
日本テレビでやったいくつかの作品、流氷とか摩周湖などを見たNHKの大橋プロデューサーが1981年、岩手県竜泉洞の撮影を任せてくれ、また、その後で、東京無人島紀行という番組で孀婦岩を撮る。二つとも評判の良い番組で、視聴率が良かった。 NHKのフイルム撮影部が黙ってみているわけには行かない。撮影部がビデオの撮影もするようになり、僕のNHKでの仕事も無くなった。やがて1986年、僕はテレビ朝日のニュースステーションで潮美の水中レポートをやるようになる。  僕の竜泉洞の成功に反応したのが南方さんで、かれは山口県の秋芳洞の水中を手がけて、新しい洞窟を発見する。 宮古島のトライアスロンを撮影に行き、おなじく撮影に来ていた南方さんとホテルで会い、一緒に食事をして洞窟撮影のことを話し合った。 1998年だったか、福島のコンペに負けた僕は、葛西水族館の3D 立体展示映像では勝って「知床の海、春夏秋冬」を撮っていた。そして、この知床がが、僕の大型展示映像のカメラマンとしてのピリオドだった。
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当時の3D カメラ
 葛西水族園も映像展示をやめてしまったし、新しい企画も僕の守備範囲からは出なくなる。福島の敗戦があって、その方面の雄であるイマジカの仕事もなくなった。やがて、世は、大型スクリーンの映画での3Dが普通になる。特に展示映像ではなくても、普通の映画が展示映像に近くなったのだ。  その夏、慶良間の座間味港の前、二階にある座間味食堂で、焼きそばを食べていた。ここの沖縄風のやきそばは、僕の好みだった。 そこで、ばったり南方さんに会った。僕はお客を何人か連れてツアーに来ていた。入札で勝っていればツアーなどやっている時間はなかっただろう、などと思う時期だった。 南方とは福島の水族館の勝ち負けの話になった。そのロケで慶良間に来ているという。サンゴと亜熱帯魚を撮りにきた。仲良く話をしたが、立ち話だった。そして、これが南方を見た最後になった。 その、1998だったか1999だったか、秋だったと思う。南方の訃報を聞いた。神子元島でダウンカレントに引き込まれたという。ハンマーでもねらっていたのだろうか。彼と、助手を頼んでいた伊豆大島のダイバーが亡くなった。南方はカメラを抱えて上がってきた。吹き上げられたのだろう。肺が破裂していたという。伊豆大島のガイドは、未だに発見されていない。 葬式に行った。NHKのカメラマン仲間がみんな集まっていた。「良い死に方だったよね。」と僕は言った。不謹慎だなどという顔をした奴は一人もいなかった。「まあ、カメラを手放さなかったのだから」とも誰もいわなかったが、そういうことだ。カメラマンの本懐、南方の本懐だったろう。そう思ってあげるのが供養というものだ。 僕が勝っていれば、南方は死ななかっただろうか?人の命は定まっているもの、のように僕は捉えている。福島で勝たなかったとしても、南方さんは、どこかで別の潜水で死んだかもしれない。  もう一つ、南方さんには忘れ難い思い出、ちょっとした恨みがある。1988年7月だから、福島コンペの10年前だ。浦賀水道で潜水艦「なだしお」が、見物に接近してきた釣り船、富士丸を不注意で沈めてしまった。沈んだ水深は50mほどだった。 数日中には引き揚げてしまう、その引上げ作業中の釣り船だから、それに50mはなんと言っても深いから、だれも潜って見ようとは思わなかった。南方さんが、するすると出かけていき潜って撮影し、NHKニュースで放映してしまった。となると、民放各社も水中がニュースに無いわけにはいかない。本当にバカバカしいけれど、そういうものなのだ。ニュースステーションのかかわりで、テレ朝報道部が僕に潜れという。 海保は潜水許可を出さない。南方は、こんなところに潜る奴などいないという、隙をついたのだ。 民放各社は、NHKに潜らせて、民放に潜らせないとはおかしいと抗議した。 海保は、引き揚げ作業のじゃまにならないように、と作業が行われない時間帯を指定した。つまり、流れが速くて潜水しない時間帯だ。  行くしかない。 行ってみて驚いた。僕が使うテレ朝の取材船は、大型のタグボートだ。しかも、駆動が垂直軸駆動だ。これはスクリューではなくて、船の中央部船底に縦に回る大きな風車のようなものがついている。これで前後左右、自由に動けるわけだが、作業ダイバーは、この方式の船が動いているときは半径50m以内に接近してはいけないという船だ。 浦賀水道で流れのある時間帯に潜る。流されたら海保に救助してもらうほかない。「テレ朝取材班、無謀な取材で流され救助される」ニュースの見出しが予想できる。別の船を探して雇っている余裕はない。 見ると中村征雄君も来ている。彼は朝日新聞の依頼とかで、ちゃんと漁船をチャーターしてきている。もしものことがあったら彼に救助してもらえるか? 海保の救助の方が早いだろうな。 僕が連れてきた助手は田島雅彦、スガ・マリン・メカニックで一番マッチョなダイバーだ。マッチョだから危ないと考えて、僕が潜ることにした。 流されたら、すぐにロープをつけた浮輪を投げてもらえるよう田島に言いつけた。 沈没地点の上に来た。垂直駆動を停止してくれるよう船長に頼んだ。ダメ、停止して流されたら他船に迷惑をかける。見ているから大丈夫だと言われた。 僕は飛び込んだ、泳ぐ間もなく流され、田島に浮輪を投げてもらって引き揚げてもらった。中村征雄君も流されたみたいだ。撮影のダイバーは皆流された。 スガ・マリン・メカニックの元社員、フリーダイバーの新井拓も日本テレビの水中撮影できていた。彼もタグボートから飛び込んで流された。 普通ならこれでやめる。 僕らは普通ではない。深夜、海保が寝ているときに密かに潜ろう。水深50mならばライトがなければ暗いから夜でも同じだ。 日本テレビの新井拓は、夜、密かに出て行った。日テレの報道プロデューサーは、「映像は撮れ、骨は拾ってやる」という。僕ら、テレ朝のプロデューサーは、「映像は撮れ、フライングはするな」だった。フライングしなければ、映像は撮れない状況なのだ。 僕はゴムボートを考えた。早朝、まだ海保が眠っているうちに、ゴムボートを出して、潜ってしまう。潜っているうちに海保が来ても、最悪、始末書で済むだろう。夜、走って、ゴムボートを取り寄せた。 早朝、海底の富士丸には、すでに吊り線が付けられている。大型の起重機船が、引き上げのスタンバイをしている。富士丸が引き揚げられてしまえば、水中撮影は無い。見ると、起重機船は深田サルベージだ。深サルならば、知人がいるはず。後輩の横尾君がダイバーできているはず。一か八かで、横尾君の携帯電話(当時だから大きい)に電話した。幸運にも彼が引き上げの指揮をとっている。こちらから、僕のゴムボートが行くから、よろしく、とお願いした。その頃の水産大学のOBは、一年先輩ならば神様だ。潜らせてもらえた。映像を撮って、ゴムボートは本船のタグボートに戻る。その場でお椀のようなアンテナを出して、伝送する。早朝、一番のニュースに間に合った。そして、その日一日、この水中撮影が流れた。勝った!と得意になった。ゴムボートを待つ夜、夜食に焼肉屋に行った。その代金を請求したら、夜はお弁当が出ているはずだから、ダメと言われた。何とか交渉して出してもらったが、今後、報道の仕事で、命を賭けてはいけない。適当に、切り上げて、お弁当を食べて帰ってくればいいものなのだ、と、学習した。でも、各社が競り合っているあの現場では、やはり勝とうと思ってしまうかもしれない。  アクアマリン福島はオープンした。マリンシアターで映像は公開されただろう。東京だったら行ったとおもうけれど、福島だから行かなかった。南方さんの撮った、神子元島はどんな風に扱われたのだろう。 続く

0509 GW ツアー 1

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ゴールデンウィークは終わった。恒例にしているダイビングツアーも無事に終わった。良いツアーだったと思う。6日と7日、一泊二日で東伊豆、富戸の大西のところに泊まった。疲れて、何も予定がない今日、8日、横になって過ごしてしまった。もう、夕暮れ、何をしていたかと言えば、クリス・カイル著 アメリカン・スナイパー・ハヤカワノンフィクション、上橋菜穂子「夢の守り人」これは再読、を読み、ツアーで撮った画像の整理をした。ツアーについてブログを書きたい。一方で、3回連続で書いたアクアマリン福島の話が終わっていない。2月にアクアマリンを訪れたときのことを仕上げていない。下書きは書いてある。 今度のgwツアーは書きたいことがたくさんある。アクアマリンがとぎれるのがいやだな。なにか、連載を書いているような気になっているけれど、別に連載しているわけでもないし、考えることでもないのじゃない?
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                         富戸 ヨコバマ
 とりあえずここでは、ツアーのことを書き始める。これで、このツアー何年ぐらい続けただろう。書き残しているブログを調べればわかるけれど、そんな気力がない。5ー6年、7ー8年?来年は、第何回とか書こう。来年のことは、わからないけれど、来年もあるつもりで、 今年のメンバーは、小久保教授と書くと偉そうだけど理論天文学の世界では偉いのだろうが、彼が大学一年の時に教えて、ずっと一緒に潜っている。k先生、お医者様だから先生だ。寺内羊子、羊だからマトンと呼ばれている。建築デザイナーで、僕の企画の絵を書いてもらっている。小柄だけれどアスリートで、最初に会ったころは、自動二輪にのって辰巳に来た。ダイビングについては、僕の弟子だ。このごろはサーフィンに精を出していて、あまり現れない。まあ、このツアーに来たから、良い。村上緑とお父さん、緑については、別に書くつもりだが、小学校3年生の時にスノーケリング講習に来て、今、大学4年、就活中だ。小山智君、寺内とほぼ同じくらいのつきあいだ。玉田さん、現海豚倶楽部会長(交代制度だから、別に偉くない。世話役頭)で、僕の面倒を見てくれている。お父さんと仕事仲間(人工魚礁メーカー)だった。初めて会った時は、まだ旧姓だったが、水中で近くが見え無くなったそうだ。フリッパーレースで銀メダルに輝く。海豚倶楽部では最速で100m泳ぐと僕を25m離す。3年前は僕の方が速かった。僕の衰えのバロメーターか。その玉田の誘いで参加してくれた初参加の藤本猛さん。ぜんぜん猛ではない穏やかな人で、フリーダイビングのアスリートだ。 残念なことに、いつも来てくれていた鶴町さんが、スケジュールの関係でこられなかった。僕の仕事の最後のバディの奥さんで、バディの鶴町は今はいない。 そして、別参加だが、中川撮影河童隊3名。それに、サービスのいっさいを任せていて、宿泊先でもあるアクアティックプロの大西も元社員で、中川、大西は、昔からの僕のチームだ。  5月6日、朝、3時に目覚めて、身支度、食事をして、4時に家をでる。スカイブルーのマーチになってから、初めての遠出になる。 首都高に乗ると怖くて60キロ以上は出せない。100キロで走っていた前のアベニール時代、まあ、首都高は60キロで走る道路だから、慎重に行こう。東名に入ると80キロから100キロで走ってしまう。でも、ゆっくりを心がける。追い越し車線には行かない。82歳だ。 0700には、赤沢に着いてしまった。 僕は、赤沢が大好きで、毎度ここに来ている。今回はワンビーチ、ワンボート、午後からはボートで、僕が80m潜る予定の?急なスロープを30mぐらいまで潜るつもりだった。しかし、大西予報では午後は南西が強く潜れないだろうと言うこと。午後のボートを富戸に変えた。富戸の定置の横に、ピラミッドと呼ばれる人工魚礁がある。先年、富戸の日吉専務と話したとき、この魚礁のことを聞いたが、まだ潜って見たことがない。 午後が富戸になれば、午前も富戸になる。赤沢に予約を入れていた。赤沢の平林さんは、このマーブ赤沢ができる前から、もっと前の彼が学習院の頃からの友達だ。彼に、明日7日には、来るのでと、エクスキュースしておきたい。 前もって寺内マトンが送っておいた機材もピックアップする。  伊豆急富戸駅に0944分着で集合する。大西プロの駐車が、3台限定なので、僕、先生、緑で満員だ。無事、全員がそろって、富戸に向かう。中川チームは先着している。午前中は、富戸のヨコバマに潜る。この前も、赤沢がNGで代替えにヨコバマに潜ったが、僕は、ダイビングポイントになってからのこのポイントは好きではない。その昔、3Dをここで撮ったときがあり、そのときは良かったのだけれど。 まず、タンクを背負って歩く距離が赤沢よりも3倍ぐらい長い。そして、エントリー、エクジットのスロープ付近でラッシュになるのが好きではない。要するに、よぼよぼの自分がエントリー、エクジットする姿を人に見られたくないのだ。誰も見てはいないのに。 そういえば、3D撮影の時は、船から入った。  歩いていたら、タバタTUSAの潮音が駆け寄ってきた。弾けた感じの元気なこの子を僕はひいきにしている。  水温は16度、17度だ。本当はこのGWからウエットにしたいのだが、16度ではとても無理。75歳まで、14度でウエットにしていたのに、と、これも高齢の愚痴だ。お台場仕様では、ドライで7キロのベストで、5キロのベルトだった。ドライの下着も薄くなったので、4キロのベストに減らした。フィンはこの前のお台場で快調だった、重いドライ・マンテイスにした。 一応バディを決めた。僕はいつも緑とバディになる。緑には、付属して、お父さんが付くので、三人のバディになる。 エントリースロープを降り、ガイドロープの無くなる地点で集合。ここが、他のグループとの交錯地点だ。僕も緑を見つけるのに苦労。大西は、8名を数えるのにもっと苦労している。透視度は6mぐらいか、ただ、潜水している、と言う事実を楽しむだけだ。
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 小さい赤いイソバナの壁を見て、オーバーハングをみたが、それしかないから、見る。ようなものだ。
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 昔のことだが、水がきれいなとき、ここから一直線に深みに下っていった記憶がある。  ドライフィンは、大失敗だった。お台場ならば、進まなくても良いのだが、海では進まないと、いらいらする。 エクジットするとき、スロープで藤本君が後ろにいてフィンを持ってくれた。  EN、1125 水深9。2m 潜水時間42分  水温17度 続く

0510 GW ツアー 2

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6日午後 ボートダイビング
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 人工魚礁 富戸から、いわゆるレクリエーションのボートダイビングで船に乗ったのは初めてだった。 人工魚礁に潜るのだが、その前に人工魚礁のことを少し。人工魚礁については、度々書いているけれど、僕の専門分野だ。大きく分けて二つ、1。5m角の立方体のコンクリートブロックを積み上げる形と、一個、単体で大きい構築物になっているものがある。単体の方は、まるで鉄塔のように高いものもあれば、まるで一軒の家のような形、鉄製もあればコンクリート製もある。それぞれメーカーがあり、製品には名前が付けられている。 今度のメンバーの玉田さんのお父さんは、その人工魚礁を作っていた住友セメントと言う会社の人工魚礁部門の部長さんだった。玉田さんのお父さんと組んで、実は、赤沢に多目的魚礁というのを沈めたことがある。それについては、けっこう長い話になるから、いつかまた、近いうちにということにするが、僕と赤沢の縁でもある。 そのような大型の魚礁の商品名にピラミッドというのがあるものだから、そのピラミッドがここに沈められているのだと想像していた。ガイドを頼んでいる大西のブリーフィングでは、これは、その商品名のピラミッドではなくて、1。5角ブロックが、ピラミッドのように山積みになっているものだという。  ここで、カメラのことを話す。僕が使うメインのカメラはウエアラブルカメラで、マスクの上に取り付けたマスクマウントと、ライトを着けたステイにウエアラブルカメラと、デジタルスチルを並べて取り付ける。ウエアラブルカメラはマスクも手持ちのステイも動画を撮り、スチルはスチルカメラで撮る。スチルは、ニコンのクールピクスAW130 と、オリンパスのTG-4だ。TG-4は、良いカメラだが、耐圧が15mまでしかなく、お台場では浅いから良いが、海では怖くて使えない。別売りのカプセルを買えばパーフェクトだが、裸では、水密機構が今一つ信頼できない。先日のお台場で、水没ではないものの、レンズの内側に曇りがでて、シリカゲルを入れたタッパーにいれて、養生しているところだ。 カプセルを買うべきか、耐圧30mのニコンを買うか迷ったのだが、ニコンの方がおもしろい、とニコンを買ってしまった。 一日のレンタル料が20万、30万のカメラを使っていた時代、アクアマリン福島について書いた時代は、ほんの15年前だが、今は昔だ。ニコンを買えばtgー4のハウジングは買えない。そのカメラがお金を稼がない。のだから、買えない。買わないのがプロの生き方だ。かなりのやせ我慢であることは、認める。 先日の福島原子力発電所の撮影は30mを越えた。自分の手元にあるカメラで30mを越えられるのは、そして、防水の確実なのは、10年前のsea&seaのGZだ。それを使ったら、テレビ取材のカメラが、その古いカメラをフォローしていて、少し恥ずかしかった。しかし、撮った写真はまあまあだったので、今度のGWツアーでもそれをつかった。  さて、タンクを背負って、階段を降り、船に乗り移るのが少し怖かった。転んで骨折をしたら若い人とは違うのだ。 ウエイトはさらに減らして、ベスト4キロ、ベルト4キロ、合計8キロにした。 みんなが飛び込んで、僕はラスト、僕の後が大西だ。飛び込むと少し流れがある。みんな潜降ロープを使わずにすでに下の方だ。僕もヘッドファースト、久しぶりだ。僕の潜降速度は、速すぎるほど速いのだが、大西の後を追っている。ヤクザなドライフィンのおかげでのろいのだ。 運がいいことに、透視度は、15mは越えている。 底に着いて、習慣的にメンバーの数を目で追うが、緑と河合先生、小山君を確認したあたりで、大西の指示で、ガイドロープに付いて進む。
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 本当にピラミッドのように雄大に積み重なっている。このような積み方は、おそらく1950年代か、1960年代のはじめだろう。知らなかった。富戸の漁協とは、東亞潜水機の時代に取引があり、海洋公園も近いし、シャチブリという深海魚が現れた時には、富戸の水深50mまで行ったのに、ここにこんな雄大なピラミッドがあることを知らなかった。人工魚礁の専門家でもあるのに。 これを見ただけで、今回のツアーの成果があったと言っても良いだろう。 次からは、富戸に来たら、この魚礁を必ず予定に入れよう。
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 付着生物もきれいで小魚が霞のように群れている。小魚はネンブツダイではない。細い魚だ。例によって、魚の名前を忘れた。クロホシイシモチか? キンギョハナダイもいる。 上の方に中程度のイシダイが2ー3尾見えた。 何段積みになっているのだろうか。5段としても8m弱だ。もっと高いような質感がある。調べてみたいけれど、なにか資料があるだろうか。入り組んだ中の方はどうなっているのだろう。 何よりも不思議なのは、僕がこの魚礁を知らなかったことだ。
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 そろそろ、戻り始めた、ピラミッドの裾野の端で、きれいなキジハタを見つけた。「豊かな海」という水産関係の法人の機関誌を撮っている。それに使える?と思ったが、みんなはどんどん通り過ぎて行く。留まって丁寧に撮る時間は十分にあるのに、流して4枚ぐらいシャッターを押す。潜降索に取り付くと、もう緑たち親子は、7mぐらい上に上がっている。そのままの間隔でロープをたぐって行く。見下ろせば、小久保は、まだ、離れた方向に泳いで行こうとしている。彼のパターンなのだ。ソロダイビング云々という話題が最近あったが、彼はいつもチームの中でソロをやっている。僕も、昔は一番あとに上がった。ガイドの大西は、スクーター、DPVで走り回っている中川河童隊をフォローして浮上する。この魚礁の全体像を短い時間で撮影調査するには、DPVが良い。撮っているかも知れない。中川たちは、そのオペレーションの練習に来ている。
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 フィジカルが衰えてから、ボートに上がるその時が怖い。恐怖心を大事にすると言うのが安全の基本だから、大事にして、不安を抱えて緑が上がるのを見る。緑のお父さんが僕のフィンを脱がしてくれる。割合、登りやすい梯子でよかった。河合先生と小山君のバディは、既に船の上に戻っている。続いて寺内、玉田、藤本組、その後に小久保、さらに後に河童隊、大西は船の上から重いカメラとDPVを引き揚げる。この手際の良さは、僕の撮影チームだった頃からのもので、鍛え上げられている。それぞれのチームでオペレーションの手順があり、その手順の中にいれば安心できる。 マスクマウントのウエアラブルカメラ、ここでは、SJ を使ったが、そのすべてを撮影記録している。マスクマウントは、日本水中科学協会が、2011年の福島調査で使い始め、2012年のシンポジュウムで発表したものだが、今度のツアーで2回マスクから外れた。2回とも陸上、船の上での準備中だったから良かった。ソケット部分が磨耗したのだろうか。このソケットは、水中で取り外して作動の確認、場合によっては手持ち撮影ができる優れたものだが、考えなくてはいけないかも知れない。 
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 撮影の結果、sea&seaのGZがNGだった。流し撮りでブレているのだ。緑の顔を撮った一枚だけが止まっている。カメラはきちんと構えて静止させて、シャッターを押さなくてはいけないのが基本だ。それをしていない。このハウジングは、液晶の覗き窓部分に、水中で見にくくするためとしか思えないスモークを使っている。どうせ見ても見えないとカメラを構えていない。それにしても静止いていないのがいけない。マスクマウントの方が、静止してオブザーブしている。反省しよう。で、ここでのスチルは使い物にならない。 そろそろ、まともなカメラハウジングを買わなくては、と考えないではないが、僕のフィジカルでは、大きいカメラを持って、エキジットできない。もう一度この古いカメラでどうやったら、必要な絵が撮れるか考えて、テストをやり直さなければいけない。  高齢ということ、使えるものを労って使っていくことなのだろう。自分の身体も含めて。   潜水開始 14時20分 最大水深 24.3m 潜水時間 28分 水温16度 透視度15m
 人工魚礁論を少し。 なぜ、僕がこの魚礁を知らなかったのだろう。考えてみれば、富戸からレジャー対象のボートダイビングの船に乗ったのは、これが初めて。ボートダイビングは赤沢専門だった。 そして、この人工魚礁が人の評判にはなっていなかった。僕は人工魚礁の専門家だから、この人工魚礁にとても興味を持つが、一般のレジャーダイバー―にとっては、自然の礁と同じだろう。 人工魚礁は、自然礁と比べることが一つの基準になる。 以前、富戸の日吉専務と富戸にレジャーダイビング用魚礁を入れる提案で話し合ったことがある。日吉さんは言う。千葉県の館山は(内房、波左間あたりのことだ)良い自然礁が無いから人工魚礁が必要だと思うけど、東伊豆は良い天然礁に恵まれている。だから、お金をかけてまで人工魚礁は必要ない。人工魚礁もすでにあるし。 日吉さんはそのとき、ピラミッドのことを言った。僕は富戸のピラミッドを見たことが無く、大型単体魚礁の商品名だと思った。1.5角ブロックの積み上げピラミッドは、人工魚礁としては雄大だが、それでも、天然の礁に美しさに及ばない。 定置網に魚を呼び寄せる効果についても、人工魚礁の大きな役割だと考えているけれど、それについても、砂地ばかりのところと、天然礁が多数あるところでは、別だろう。僕としては、富戸の人工魚礁は役に立っていると思うけれど。 それはそれとして、富戸のピラミッドについて、もう少し調べたい。ピラミッドの内部の状況とか。秋口になって時間があれば、人工魚礁研究会で出かけて来たい。

0513 GWツアー3

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6日の夜は当然宴会になる。ダイビングの前の晩は原則として酒を飲んではいけない。とはいえ、宴会は、ツアーの主要部分ではある。 河合先生は、お酒が大好きだ。だから宴会の翌日は潜水しない。明日、7日も潜水をしないでお帰りになるだろう。6日、一日目にどうしてもボートダイビングを入れたのは、そのためだ。他のメンバーも、宴会の翌日は、抑えたダイビングにするべきだと思う。 連日の酒盛りツアーで、事故が発生するならば、主催者の責任もあるが、本人の責任も大きい。 安全とか健康とかを論ずる以前のことだと思うのだけれど。 その宴会、去年までの富戸では、魚料理だったのだが、魚の良いものが入らなくなったとかで、廃業してしまったそうだ。定置の地元で魚が気に入らないとは、富戸の定置はそんなに不漁なのか?この前、フェイスブックで、驚くほどのブリの大漁を見たけど。周年を通すと不漁なのだろうか。大西に聞くと、赤沢の定置などは可哀相なほどだという。漁協の経済にダイビングが大きくかかわってくること、喜んで良いのか、悲しむべき事態なのか。 魚が手に入らない?ので、今年の宴は、洋食屋さんになった。富戸で、スパゲッティを食べるのは、何だかなーと思うけれど。楽しい宴会だった。 福島での潜水の30分録画を上映した。中川、大西を交えたチームでの映像である。自分の老いた姿が嫌だけれど、全体的には、良いドキュメンタリーだったと思う。放射能がドキュメンタリーになってしまうこと、複雑な気持ちになるが、7年目を迎えて、ひどい、とか未だにということよりも、福島の沿岸漁業の復活を目指して、立ち向かう姿勢を応援するタイミングになったのだと思う。こんなことになってしまった責任の追及とは、別に考えるべきだ。 状況をクールに正確に捉えて、結果に感情を重ねないようにしたい。沿岸漁業復活の資料にすると言う姿勢も感情をできるだけ排除したい。このドキュメンタリーの結論として、たどり着いた今の姿勢だ。  7日の潜水は、赤沢だ。赤沢は僕のホームグラウンドの一つだから、大西のガイドは不要?ともかんがえたが、サービスとしてつきあってくれるというので、お願いした。 僕の赤沢でのビーチは、砂地からエントリーして、堤防を回り、左手に積み上げた磯を、右手に砂地を見て、残圧が80になるまでゆったりと魚を見ながらすすみ、80でターンすると、港の入り口付近で40、その40で、砂地とか、岸近くの海藻林で遊んでもどるというパターンだ。 ここで、圧力の単位だがメガパスカルは、使いにくい。口にしにくい。困ったことだ。 大西にそのことを説明したが、彼のパターンはまったくちがう。砂地を探しながら、僕のコースの半ばあたりで引き返してくる。もちろん、それで良い。
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 砂地を手のひらで、そっとなでるように掻きながら進む。なんだか小さいイカがでてきた。マクロにして近づこうとすると、砂に素早く潜ってしまう。またかき回す。また潜る。撮れない。名前をボードに書いてくれたがすぐに忘れた。小さい、吹けば飛ぶようなカニも出てきた。これも忘れた。 なお、カメラはsea&seaをあきらめて、ニコン クールピクスを使うことにした。マスクマウントはGOPRO2を使う。後から考えれば、sea&seaで押すべきだった。どうしたら、撮れるかのテストをもう一度チャレンジするべきで、それをしないならば、カメラとストロボの墓地に埋葬するべき、まだ埋葬の決心はついていない。使い方によっては、今の自分にフィットするカメラなのかも知れない。クラシックを使うというのも、悪くない。 ホウボウの幼魚がでた。これは形があるから、マクロで撮らなければとトライしたが、根気がないから、それに、みんながカメラを向けるから、撮れなかった。じっと腹這いになって、5分もかければ、撮れるだろう。 水温16度、ドライなのに寒くなった。インナーを着ないで、夏仕様の長袖だったのだ。
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 潜水開始 10時22分 最大9、2m 潜水時間52分 水温16度 これで僕については全部の潜水を終了した。  小久保だけは、一人でもう一度出て行った。こういうのをソロダイビングと言うのだろうが、小久保のダイビングの半分はソロだ。東大教授だから、殺してはいけない。バディで、といっても仕方がない。僕との同行だけでも、20年を越える。僕と一緒の時は、僕の世話をしなければならないから、常にバディだ。僕もカメラを持ったら半ばはソロだったが、小久保と一緒のときには、常にバディのポジションをとらせていた。一人でエントリーすれば、完全に自己責任だが、二人でエントリーすれば、バディで行動するべきだ。
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 戻り道は空いていた。

0512 アクアマリン 福島 4

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GWのレポートが終わったので、下書きを終わっていたアクアマリン福島のこと。
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僕たちの福島での潜水だが、福島のテレビュー福島から、ローカルで60分番組として放送された。そのオンエアーテープを送ってもらった。見ると、アクアマリン福島の研究員も入った釣りグループで、福島第一の近く、僕たちの潜水地点よりも近い感じだが、魚を釣ったり、そしてアクアマリン福島で魚のセシウムを測定して、無いことを確認して、一般の人を対象に試食会をしている。 また、常磐ものの大きなヒラメも底引き網でとって、解禁になっている映像も使われている。 しかし、僕たちの潜水調査はこれで終わりではなくて、定点で、微量なセシウムでもつい咲き調査をしていく計画だ。 まだ、実現できるか否かはわからない。 ただ、僕たちの潜水が、福島の沿岸漁業にとって、明るい見通しに繋がれば良いのだが、 オンエアーテープをみると、もはや、完全復活のようにも見える。ここまでくると、やはり僕たちの調査で、微量のセシウムがあると、ネガティブの受け取られてしまうのではないかとちょっと心配になってくる。・  月刊ダイバーの6月号が送られてきて、これにも福島の潜水のことを書いている。この記事もどのようにまとめるか、苦労した。編集の潮美とメールのやり取りで、二転三転した。  一方フェイスブックで見たのだが、東京湾はストロンチュウムで汚染されていて、富津での潮干狩りなど自殺行為だなどというニュースもある。どうすれば良いのだ。どうすることもできない。 

 さて、ブログは、 2017年 2月21日 福島 原発沖に潜っていたが、21日は大風が吹いて時化。中川と大西は東京に帰っている。富岡町出身の国方君は、友達に会いに行った。僕、久保さん、山本君は、買い物をした。放射線測定器のウエアラブルカメラを付けていたのだが、波のショックで取れてしまった。これを糊付けで修復する。その材料を、いわきのドイトに買いに行った。ずいぶん大きいドイトで、東京でも、こんなに大きいホームセンターは、あるのかな?とおもうほどだ。何でも売っている。修理材料の他に、僕はサングラスを買った。お金を払う段になって、久保さんが全部払ってしまった。どうしても、僕に払わせてくれない。仕方がない、今後このサングラスをかける度に、久保さんに買っていただいたと感謝することにしよう。食事して、宿に戻った。修理を終えて、久保さんは温泉にゆっくり入ってくつろぐという。山本さんはアクアマリン福島に行くという。僕は、風邪で体調がすぐれないから、ゆっくり温泉にでも入って休むのが常道、しかし、因縁のアクアマリンに、僕は一度も行ったことがないのだ。山本さんに同行した。  もちろん、南方さんたちの撮った映像は上映されていない。上映されたのだろうか?もちろん、上映されたに違いない。いずれにせよ、水族館で水中世界の映像展示は、廃れてしまっている。葛西の3D,も終わっている。 南方さんのあの映像はもうどこでも見られないということになると、今となれば、見に来て居れば良かったと思う。  はじめてアクアマリンに来て、僕はうっかりして、マリンシアターの前も通り過ぎてしまった。つまり、入ってみていない。風邪で体調がいまいち、そして、疲れてもいたので、集中力がない。何も考えていない。目に入るものに反応しているだけか?アクアマリンの呼び物はシーラカンスだった。シーラカンスについては、僕もブログ、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ ぐらい書けるけれど、先年、村上商事がシーラカンスの発表をしたときに少し書いた。 アクアマリンのシーラカンス展示は、もう、シーラカンスの泳ぐ姿は、ずいぶん見たのでパス。それでマリンシアターをパスしてしまったのか。水槽の展示は、シーラカンスの代わりに?巨大魚、タマカイが狭苦しいところに閉じこめられていた。運動不足で死んでしまわないか心配だ。タマカイも絶滅危惧種になった。もう少し広いところに入れてやればいいのに、と思うけれど、シーラカンスの代理だから、シーラカンスにいるような形に押し込められないといけないのだろうか。
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               シーラカンス代理、タマカイ
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               シーラカンスの棲家
 タマカイと同じ部屋にシーラカンスがすんでいるような岩のレプリカがある。岩の下を覗いてみるような仕組みだ。模型が入っている。要するにシーラカンスは、大型のマハタ、クエのような魚だ。  水族館はとても良い水族館だと思った。知床の関君が関わっているらしく、知床の展示が多数あった。 北の魚と南からの回遊魚が水槽を並べてあった。北の魚の展示にちょっと不満だった。そう、人工魚礁にオレンジ色のマホヤの縁取りをして、黄金のアイナメを泳がせたら?もしも、僕がコンペに勝っていたら、その映像は今は残っていないとしても、展示に名残があったかもしれない。
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 ガラスに貼り付いただけのミズダコも、僕が映像を撮っていれば、ミズダコも人工魚礁に住まわせたかもしれない。人工魚礁の調査をしていた頃、アシスタントをしていた田口君にミズダコが飛びかかってきて、背中に張り付いた。彼は、そのままミズダコを背負って浮上、ミズダコは僕たちにたべられてしまった。  ちょっと大型の水槽に人工魚礁を置き、アイナメとミズダコが群れている。もちろん、ホヤもたくさん。それが僕の北の海のイメージだ。要するに福島第一の前の根を再現する水槽だ。 負け惜しみだけど、僕が勝っていて福島の海の本当の姿を見せてあげられれば良かった。 ちょっと感心した水槽は。タカアシガニが群れている水槽だった。ちょっと感動したけれど、待てよ、タカアシガニは伊豆の名産ではなかったかな。調べてみたら、岩手沖から土佐湾だという。だから、福島でも多く穫れるのでこんなにたくさん入っている。
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 図書室で一休みした。図書を一生懸命調べたけれど、僕の書いた本は無かった。潜水技術の本ばかりで、生物の本は出していないから、仕方がない。  やはり、潜水の中日で、疲れていた。 

0518 撮影と機材について 1

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撮影についてここでは、カメラを使って画像を記録することを撮影という。ただ漫然と、気楽に撮影することも悪くないのだが、凡そ、何かをするときには、目的、目標を決めておいた方が楽にできて、うまくできるし、お金もかからない。お金がかからないということは、目的、目標を上回るお金をかけなくて済むからだ。お金を使うことが目的、目標であれば、その限りではないのだが。先に述べた、気楽「どうでもいい」というのも立派な目的であるが、そして、そういうのも僕は大好きだが、ここではもう少し具体的な目的、目標を考えよう。人それぞれだが、僕は、どうでもよくなりがちなので、なるべく意識して目的、目標を設定するように努力している。それでも時々「何のためにするの?」と聞かれることがある。「ふーん、何のためだろう」と考え直す。「わからない、なんとなく」とか、「天の一角から声が聞こえた」と答えることもある。当然のことだが、目的目標はその時、その時点で変わる。これも、僕はわりと変わりやすい人ではある。
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          ミズダコを撮影しているのを、マスクマウントで撮っている。

ここで書く撮影の目的は、2017年現在の考えである。くるくる変わるといっても、毎日のように目的が変わるようでは付き合いきれない。撮影とかについては、5年ぐらいのスパンで設定するのがよい。と僕は思う。  さて、僕の撮影の目的だが、調査、記録である。調査というものは、イコール記録である。記録というものはとても大事なもので、記録、できる限り客観的な記録がない、人間活動は、ほぼ無、なんでもない、何もないのとほぼ同じである。  探検と冒険のちがい、どうちがうのか、ずいぶん考えたことがあるが、探検とは客観的な記録があるもので、記録を目指しているのが探検であり、何にもないのが冒険である。と、僕は決めている。こういうのは個人的な取り決めのようなものだから、人それぞれデいいのだが。このことについては、参考書として、コナンドイルの「失われた世界」がある。恐竜の棲むロストワールドに行ったのだが、写真機が失われてしまって、立証することができない。エベレストの登頂も、マロリーが登頂したかどうか、その写真機が見つからない小説があった。 とにかく記録がなければ冒険である。冒険とは心の在り方、その人の心の中にだけあるものなのかもしれない。 客観的な記録、とは、現代にあっては写真のことである。絵は、芸術ではあっても、客観的な記録にはならない。 僕の写真撮影の目的は、記録である。そして、できるだけ上手に記録したい。そして、人に見てもらうことも記録の目的だから、できるだけ美しく記録したい。そしてわかりやすく記録したい。さらに、僕の場合、できるだけローコストにしたい。 記録の他に撮影の目的とした第一に考えられるのは、自己表現である。記録も一つの表現だから、この二つは近接している。どちらの足に力をいれるか、ともいえる。だから、自分も少しは欲張って、記録であると同時に作品でありたいとも思う。作品を目指している人も、副次的に記録である。写真とはそういうものである。 なお、ここでは、写真という言葉を使っているが、現時点では、正確に言えば画像であり、画像には動画と静止画がある。でも、画像というと固い。何となく、写真という言葉を使ってしまう。静止画というより写真といった方が親しみやすい。動画は、活動写真とも言ったが、これは動画とした方が良いかもしれない。  さて、ここでまとめておくと、①僕がする撮影の目的は記録であり、記録としては調査記録、旅、など行動記録、記念の記録もある。そして、記録はできる限り美しく、そしてローコストでありたい。お金をかけたくない。お金をかけないようにとブレーキをかけておかないと、際限もなく、お金が流れ出していく。撮影とはそういうものだ。プロとして撮影してきたが、儲けたお金のほとんどは機材に消えた。撮影とはそういうものでもある。 ①目的は記録 ②出来うる限りクオリティは高く③ローコストである。 撮影とは機材(カメラ)が記録するもので、第一義的にカメラがある。ここではカメラ機材を中心として、述べて行きたい。自分のカメラ機材であるが、まず現在使っている現役、使える状態にあるがあまり付けう事のないOB,。歴史的に意味があると思って保存している博物館行き、そして、破損、水没など使えなくなっているが、捨てないでおいてある墓場がある。この墓場に置いておくという事は大事なことで、おそらくは最後のフィルム水中カメラであろう、sea&sea野MMⅢ が捨てないで墓場にあるかと思って探したが無かった。すべて保存しておくことなどできないので、写真になって残っていれば、それは墓地で括ることにする。現役、OB.博物館、そして墓地である。」博物館、墓地のカメラについては、別の機会に書こう。ここでは現役とOBのことであり、OBが墓地行きになってしまうかどうかが話の一つである。 まず、現役であるが、オリンパスTG4、ニコンクールピクスAW130 (以後ニコンと略称する)そしてGoPro2が3台、SJカムが2台、大体、これだけはいつも使う。それにもう一つ、今回の主役は、OBであるsea&seaのDX-1G がある。まず発端は2017年2月の福島原子力発電所の潜水である。この時対象区として、いわき四倉の人工魚礁に潜水した。魚礁の深さが30mを越える。35mを予定していた。ニコンで大丈夫とは思ったが、もしかすると、30m!なんて、液晶に表示が出てシャッターが切れないかもしれない。TG4がそうだ。テレビ番組の話の運びで、必ずスチルを撮らなければならないと想定して、OBになっているD-1G を持ち出してきた。バッテリーを入れて見ると動く、各部分正常だ。ハウジングの耐圧と防水性、それに丈夫さでは頼りになる。フィッシュアイのライトと組み合わせて、とにかくシャッターを押せば写るようにした。結果はかなり良かった。これならば、30-40m(耐圧は55mとなっている)用のカメラとして現役復活がはたせるのではないだろうか。
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ところで、この1G は、何時から使い始めたのだろうか、新しいカメラを買った時は、テスト撮り、チューニングをやって、その結果はブログに書いている。そのブログをさがそう。これが容易ではなくて、半日仕事で二日間かかった。僕がブログを始めたのはたしか2004年からだったと思う。そして、フィルムがデジタルに代わるのが2003年ごろだ。その頃の事情をもう一度ブログで確認しておきたかった。そして、僕が最初に使ったデジタルカメラは何で、何時だったのか調べたい。僕は、まず楽天でブログを始めた。やがて、楽天は載せられる写真の質が低いので、少し画質の良い、エキスブログを使いはじめて、楽天と併走させるようになる。換えてしまうと、見てくれる方が離れるのではとか心配して、文章主体が楽天で、画像主体がエキスブログと考えた。何とも面倒なことをしていたものだと今は思う。その時は、写真誌と一般総合誌を分けたようなつもりだった。エキスブログを始めたのが2006年の4月で。このエキスブログの方は、全部コピーして保存、整理してある。ところが楽天が、2005年の6月からしか残っていない。楽天の時代が1年だけとは記憶していない。ブログを始める時は、なんとなく、今から始めますというようなことを書くものだし、書いたような気もする。それが、突然、東京ベイクリーニング作戦から始まっている。1年分が消えた。消されてしまったのではないかと思っている。とにかく、今後のこともあるので、楽天をきちんとコピー整理することにした。この作業が半日分、二日かかってしまった。それにしても楽天と、エキスブログを二本立てで良くもこんなにたくさん書いたと思う。ほとんど、毎日のように書いている。エキスブログ一本に絞ったのが、2008年の9月だから、3年間だ。よくもと感心した。そして、もう一度このあたりを読んでおこうとおもっている。こんなに書けたのは、写真と文章を分けたのが良かったのかもしれない。文章の方は写真とはかかわらずに、どんどん書き進められた。今は、写真選びがブレーキになっている。今も、これを書きながら、適切な写真を集めるのにこれも半日仕事になってしまう。 さて、僕が一番初めに使ったデジタル水中は、DX3000で、その後DX5000,最後はD8000で、全部で10台ぐらいつかっていた。これは人工魚礁調査で、インターバル撮影をするためで、今ではGoProとSJに変わっている。普通の撮影もDX5000と8000で、これも良いカメラだった。sea&seaは、このあたりがピークだったのではないかと思う。そして、sea&seaはおかしな会社で、なぜか、滅びるとわかっているフィルムのカメラ、ニコノスのようなカメラ、MMⅢを2005年ごろに作っている。僕も最後のフィルムカメラとして買った。水没して頭に来て捨ててしまったが。フィルム交換という作業が水中カメラにとっては鬼門なのだ。そして、DX-1Gが出来上がる。僕がこのDX-1Gを買って、テストチューニングをしたのが2007年の11月だ。してみると、このOBカメラは10年目ということになる。    以下続く

0521 撮影と機材について、 2

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  2007年。11月にカメラのテスト調整(チューニング)をやって、その結果がエキスブログに載せてある。このようなテスト、ブログに載せる、をたびたびやっていないと、何が何だか分からなくなってしまう。
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 テストした機材は、新しく買った、DX-1G そして、これも、新しく買ったキャノンの一眼レフ、キャノンイオスデジタルXと、そのハウジング、ハウジングはフィッシュアイ製で、とにかく一眼レフのハうジングとしてはコンパクト、最小だった。カメラは、キャノンの一眼では一番安い型で、液晶は、シャッターを切ったその瞬間だけ何秒か現れる。構図そのたは、一眼レフのファインダーで見て決める。レンズは18mm-35mmのショートズームで、それほど、ワイドではない。ワイドではない代わりに、ドームを使っていない。動画のソニーのカメラは、ドームを使っているが、ドームはすぐに傷付けてしまう。磨くのが大変だった。ドームを使うようなワイドは、DX-1Gでいい。キャノンは、魚、生き物を丁寧に撮るカメラと位置付けた。この新しい2台と、それまで使っていたsea&seaのワイドカメラ、DX-8000 を加え、3台を辰巳、と海でテストした。人工光は、当時はストロボである。
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 結果としてショックだったのは、画角の広さも、画質も、DX-1Gとこれまで使っていたDX-8000とあんまり変わらない。むしろ8000の方が良いくらいだ。画質が良いとかわるいとかは、発表されたカメラのデータなどは関わりなく、撮影してPCに取り込んで、色とか、拡大した時のシャープネスを比べる。



 ※2017年、5月20日、つまり今日だが、もしかしたら、DX-1Gよりも8000の方が使いやすいのでは、ならば、現役復帰もある。1G よりも一回り小さく、液晶もスモークなど入っていないから見やすいのだ。キープしていたはずの8000のカメラがない。あるのは5000だ。なぜないかわからない。仕方がないので、5000を使って見るか、ところで、バッテリーが一個しかない。とにかく、OBカメラとしてキープしておこう。
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 このイオスキャノンはハウジングが小さく、レスポンスが良い。画角が狭いと言っても画角が広ければ良いというものでもない。広角については1G か8000を使えば良いのだ。

キャノンの困ったところは、オートフォーカスが光量が足りないと、動かないのだ。今のように光量の大きいライトがあれば良いのだが、その頃には手軽には無い。
 2007年の結論として、いろいろあるけれど、とにかく、キャノンイオスと1Gを使っていく他ない。 1Gの方は丈夫で、水没などしないのだが、キャノンの方は困ったことに2回水没させている。水密機構が脆弱なのだ。1回目の水没は羽田で撮影している時だった。カメラをハウジングから出して、長い球で飛行機をとり、船の上で、蓋をした。それで水没。幸いデジタルXは安いカメラで、ヤフーオークションで1万5千円程度で買えた。次の水没が、2014年、5月、西川名だった。エントリーの流れが早いので、まず飛び込んで、カメラを渡してもらう、という作業ができにくい。カメラを持って飛び込んでしまう。その時は、何ともないのだが、上がる時になって、見て見ると水滴がファインダーについている。水密機構がショックに弱いのだ。また、内機をオークションで買ったが、現役から退かせることにした。2012年以来GoProをつかうようになり、キャノンの上にGoProを載せて、ワイドで動画をとり、スチルはキャノンの18mmでというのは、かなり気に入っていたのだが、その後はOBにして、2014年5月 オリンパスTG2を買った。すでのTG3の時代だったが、オークションで安かったのでTG2にした。そのころの僕の撮影は、JAUSの人工魚礁研究グループの撮影で、ウエアラブルカメラだけで済んでいたので、TG2は、お台場での使用が主になり、用が足りていた。それでも、耐圧が15mでは厳しいので、オリンパス用のカプセルを買おうとしていた。その時、耐圧30mのニコンがでて、72015年3月 ニコンを買う。
そして、お台場、水深3m以下で、2015年6月、TG2が水没する。これも、電池ブタの閉め方が緩かったのだ、ダブルロックにはなっているけれど、操作性が悪く作動が固い、あわてている時などロックがかかっていないという短所がある。3月にニコンを買わないでカプセルを買っておけば、この水没は無かったのだが。
そして、2016年9月にオリンパスTG-4を買う、その時もカプセルは買っていない。
オリンパスのカプセルを買わなかったことには、若干の思いがある。カプセルに逃げるのは、カメラメーカーとして王道ではない。どこまでもカメラ単体でニコンが30mならば、オリンパスは50m、という志を持ってもらいたい。
しかし、この項を見てもらっても、水中撮影というのは、ある意味水没との戦いで、不運にも水没してしまうことが多い。水没しても、内機が水中カメラであるから大丈夫とするのが、ユーザーのためになるという思想も正しい。
この時にテスト、チューニングをして、TG4はともかく、DX-1Gの内機のsea&seaと、ニコンと比べて、ニコンの方が良い。DX-1G は、ウエアラブルカメラと良い勝負だった。

そして、2017年2月 福島第一原子力発電所の潜水調査撮影があった。

続く

0527 撮影と機材について 3

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2017年2月の時点現役のカメラ、何時も使っているカメラは、オリンパスTG4 ニコンAW130 そしてGoPro2 3台、SJ2台などのウエアラブルカメラだ。潜水する福島で予想しているポイントの水深は、最大で38m、ニコンは耐圧が30m。ある程度余裕は見ているだろうから、38mでもニコンで行けるかもしれないが、30mのアラームがでて、操作を中止させてしまうかもしれない。TG2は、15mでそうなった。TG4のカプセルを買っておけばよかったと、ここでも思う。しかし、これも38mでは危ない。撮影している番組の都合上、どうしても、僕が水深35m以上で、黄金の(黄色の婚姻色だが)アイナメをスチルで撮らなければならない。手に持って潜る小道具としてもスチルカメラが必要である。使えるであろうOBカメラは、DX-1G とキャノンイオスデジタルだ。キャノンは、高い船縁から、カメラを持って頭から飛び込まなければならない可能性がある、事実そうした、ので危ない。1Gにバッテリーを入れてテストしたら 問題なく使える。 そこで、1Gを使うことにした。ステイに乗せて、フィッシュアイのFIX2500DXライトを点けた。恰好は悪くないが、テレビのカメラマンがこのセットを見つめるように撮影するので、10年前のカメラなので、若干恥ずかしいと思った。しかし、今どきのダイバーがこのクラシックカメラは知らないだろうから、スル―することにした。  ここで、この日、2月22日の潜水について、カメラのことと並行して述べて置こう。なお、この潜水で潜る4人は全部カメラを持ち、撮影している。まず、テレビ番組のために撮影している中川は、そのための画質の良い、やや大きいカメラを持っている。僕、久保さん山本さんは、ウエアラブルカメラをマスクに着けている。ここから先の記述は、すべてウエアラブルカメラでの撮影記録に基づいている。水中でのダイバーの目線は、すべて記録されている。 2010年に発売された安価で小さい、GOPROが水中でのこのような撮影、そして調査を可能にした。 このウエアラブルカメラでの調査は、考えられるだけの手法を試みてきた。しかい、今度のこの福島沖の調査で、この撮影調査手法の芯が見えてきたような気がする。  GPSでとらえている位置で、魚探で人工魚礁を探す。高さが10mもある五角形の大型単体魚礁ペンタリーフ(人工魚礁の商品名)だから、たちまち見つかるだろうと思っていた。意外に時間がかかった。20分ぐらい探した。魚探に高さ10mの大きな影が映り、その直上にブイを入れる。ゴムボートを発進して、ブイと繋がる。直上のつもりでも、船は動いているので10mや20mは、離れていることも考えておかなくてはいけない。ブイのロープをたどっていって、その下を見て見えれば良いが、見えなければ探さなくてはならない。探しているうちに潜水時間が尽きてしまって、何もしないで浮上することになる可能線が大きい。ブイを基点にしてサークルサーチで探す。このところ久保君が仕事(販売と使い方の指導)にしているDPV(高性能の水中スクーター)を使うことにした。
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 この日、福島いわきの海としては幸運といえる透視度だった。10mは見えただろう。しかし、20m離れていれば見えない。 久保君のマスクマウントのカメラで撮った映像を後で見ると、捜索の様子がわかる。僕、中川、山本さんは、久保君が魚礁を探し出すまで、船上で待機する。 DPVを手にして、潜降して、ブイのアンカー近くまで下りて行き、手にしたガイドロープをブイの太いロープに縛り付けて、ガイドロープを延ばしながら、魚礁を探して進んでいく。この時に進んでいった方向で魚礁が見つかれば、それで良いが、見つからないことが多い。なぜか、魚礁のある反対側にロープを延ばして行くことが多い。大学4年生の時、だが、東京湾の出口浦賀沖で、このサークルサーチをやり、反対方向を探して、エア切れになり、九死に一生の思いをした。これが僕の人工魚礁調査の原点だった。後の潜水の原点だったかもしれない。GPSと魚探で確認してブイを入れているのだから、悪くても、ブイから20mぐらいの範囲にあるはずだ。30mのロープを延ばして、コンパスで円を書く様に捜索する。久保君のマスクマウントの映像を見ると、DPVで速度も速い、潜水は時間との勝負だ。円を描いたロープに魚礁が引っかかったのだろう。ロープを手繰って魚礁のたどり着き、魚礁にロープを結び付けて、ブイと直線で結び、ブイに戻る。浮上して、ブイのアンカーと魚礁の距離が15mであることを、知らせてくれる。ここから僕たち3人の出番になる。30mを越える水深は浅くは無い。減圧症の可能性が十分にある。本来ならば、ここで久保君はご用終わりになり、バトンタッチになるのだが、再び一緒に潜っている。大丈夫なのかと心配するが、これについては、久保君の判断をみんな絶対的なものとして信頼しているのだから、彼の決定に従う。
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いよいよ、僕が潜る番だ。まず、中川、山本さんが飛び込む。本船とゴムボートの間は出来るだけ近い方がいい。泳ぐ距離も少なくなるし、流れがあると、困る。僕が一番最後に飛び込んだ。もちろん頭からこの1G カメラを持ったまま飛び込む。それが出来るカメラ、乱暴な扱いでも大丈夫という事で、このカメラを持ち出している。何の支障も無かった。水深34,3mロープを伝わって降りる。このところ、こういうスタイルの潜水をしていない。その意味ではブランクダイバーのようなものだ。流れもなかったので、ロープを手から離して潜降した方が、テレビ映りの恰好が良いが、ロープを手繰って行く。
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着底したら、久保さんのDPVに掴まって連れて行ってもらう段取りになっている。泳ぐトレーニングは積んでいるから、たかが15mを泳げないわけのものでもないが、中川カメラマンの演出で、そういうことになっている。15mだから方向さえ見定めれば、うすぼんやりと見える。山本さんはさっさとラインをたどって行ってしまった。僕もその後を付いて行けば、問題ないのだが、打ち合わせたとおりに動かないと、事前打ち合わせの意味がない。久保さんを待って、二人でDPVに掴まっていく、10秒もかからないで、魚礁に到着してしまう。僕のセフティカバーのために久保さんが、いわゆる、一回目の潜降浮上のあとすぐにまた潜っている。いわゆるヨーヨー潜水という減圧症に一番かかりやすい潜水のパターンだ。久保さんが決めている潜水だから、それで、良いのだ。
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 僕たちが接近すると魚礁の外にいたミズダコが、魚礁の中に逃げ込んで行く。これを僕は見ていない。僕は見ていないのだが、僕のマスクマウントのカメラがとらえている。ミズダコは魚礁の柱の陰に隠れるようにうずくまって動かなくなる。それでも、僕はミズダコに気づいていない。中川が指差して、カメラのライトを点けると、足元に居る。スチルの撮影だから、2-3枚シャッターを切ればそれだけで十分なのに、かなり長く、ミズダコを見ている。そのわきにカレイが居たのだが、これもカメラが見ている。 山本さんがγ線分析器を持っているので、呼び寄せて、分析器を見ている動作をして、中川のカメラがそれを撮る。 ミズダコと、分析器のシーンで、テレビ番組的には、成立スしている。周辺の雑感をみんなで撮る。 魚礁の中を横断して行く。魚礁の外に、もう一つ小さい、ブロックが見える。このポイントは、1969年に、潜ったことがあり、その時には、この大型単体魚礁は無くて、1.5m角のブロック魚礁だった。そのはずれのあたりに、この大型を入れたのだろう。とその時、僕は思ったが、後で久保さんのサークルサーチの映像を見ると、周辺にはブロックが無くて、砂地だ。魚礁域全体を見るサーチをしたわけではないので、わからないが、孤立して大型があるのかもしれないし、もう一つ、山本さんのカメラを少し上から、魚礁を俯瞰しながら移動している。見下ろした映像を見ると、大きいカレイ、ヒラメかもしれない。おそらくヒラメだろうが3尾ほどカメラがとらえている。僕のカメラの向こうに黄色いアイナメが見えた。この婚姻色、黄色のアイナメを、1969年に撮影して、橙色のホヤの縁取りがある魚礁の中に、黄色いアイナメ、黄金色ではないのだが、黄金のアイナメという事にして、一つのショートストーリーを考えていた。
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                 1969年のアイナメ
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               追い写してしまったアイナメ
ここで、じっくり落ち着いてアイナメに寄って行けば良いのに、昔の、余裕のある自分だったら、落ち着いて、いいアングルで動かさないようにして撮るのだが、焦って追ってしまった。追い写しになってしまったが、それでもきれいに止まって、テレビ番組で使うことができた。あとで見て、1Gも、これならば30mを越す水深での現役カメラにできるかも知れない。と思った。久保君が浮上を聞いてきたので、戻りはDPVに掴まらないで、斜めに浮上して、ブイロープにつかまった。僕の常日頃の浮上速度は、速く、ダイブコンピューターに警告マークがでる。今日はゆっくり浮上するつもりだが、久保さんは僕の上を浮いて行く、この時も彼の減圧症を心配したのだが、その点に関しては、彼の計画はパーフェクトであるはずである。彼の方が先に水面に出たので、僕も後を追うように水面に出た。 潜水開始10時53分 最大水深34.3m 水温12度 潜水時間17分 しっかり М値の警告マークがでていた。しかし、30%mのナイトロックスを使っているので、問題が無いのだろう。

0528 撮影と機材について4 ウエアラブルカメラ

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 人に会って、いろいろ、お話をするとき、僕の書いたブログを見てくれている方が多く、大まかに僕がどんなことを考えている人なのか、何を今しているのか、大まかにわかってくれていることが多い。だから、ブログは、一つの仕事だと考える。耳が遠いということ、どうしてもコミニュケーションがとりにくい。ブログは、コミニュケーションにもなっている。 書くという事は考えることでもある。考えは、くるくると変わる。連想から連想で、ジャンプもする。転がって行くから,話が滅裂になる。整理には時間がかかり、その時間がないのだから、ブログの時点では、滅裂でも良しとしている。 福島での潜水を中心にして、撮影機材と、その機材でする撮影、潜水のことを書いている。ブログから、ワークショップでの議論、そして、シンポジウムでの発表、さらに検討を加えて、最新ダイビング用語事典Ⅱに掲載する、という流れを考えている。したがって、ブログは、自分の発表の素材とも位置付けている。素材だから加工が必要だけれど。 ここで書くテーマとしては、「ウエアラブルカメラによるリサーチの可能性」  2月19-22日の撮影、22日には、福島県いわきの人工魚礁を撮影した。その時は、自分、久保さん、そして山本さん、3人がマスクマウント、もしくはヘッドマウントのウエアラブルカメラを着けて撮影していた。      
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 マスクマウントとは、マスクの上部に取り付けた、ソケットに、カメラの下に着けた板状の舌のようなものを差し込んでカメラをとりつけている。ヘッドマウントとは、カメラに付属しているアクセサリーで、ベルトで鉢巻のようにしてカメラを頭、額の辺りに取り付ける。 マスクマウントは、ソケットが貼り付けてあるマスクでなければ、使えない。そして、ソケットが緩いと、抜け落ちてしまう恐れがある。長所は、水中で、ソケットからとりはずして、手持ちの撮影ができ、再びマスクに付けてと、二通りの撮影が出来る。また、カメラが順調に回っているかどうか、水中で取り外して、目視で確認することもできる。 ヘッドのベルトマウントは、2011年にはじめて使った時に、波で飛ばされて、カメラを失くしてしまった。頭にベルトを取り付けたあとにフードをかぶって、飛ばないようにしなければならない。そうしてしまえば、この方式は額の部分にカメラが固定されて、不安定になることがない。  2月22日の福島県いわき市、江名の魚礁撮影では、自分、久保さん、山本さんの3名がマスク、およびヘッドのマウントで、GOPROを使って撮影した。これにより、後で再現すれば、3人の視線で対象の魚礁を見ることができた。 このことは、考えはしていたが、実際には、これが初めての体験であり、これは、感動するほどすごいことで、もしかしたら、以後は、このような調査潜水は、この方式だけで出来るのではないかと思われた。  なお、テクニカルダイビングの洞窟、沈船の潜水は、ヘルメットにカメラをとりつけた方式で、行われることが多い。これも、もしもの場合の原因究明に役立つ。  話を自分たちの潜水にもどして、3人が取り着けていた、各々の映像を見ることができ、それぞれの潜水、位置関係、そして調査対象である人工魚礁、そして、使用したγ線分析装置の使用状況などを確認することができた。  使用したカメラは、須賀がGoPro2、山本、久保は、GOPRO4であった。  この撮影調査の要領は、被写体に目線を向けて、注視する(オブザーブ)することが要求される。 その時、自分の意識して見ていない対象もカメラは見ている。あとで再生した時に、そのことがわかるし、自分の場合、意識して目視していないヒラメがカメラに写っている。潜っていなかった人も合わせて多くの目で見れば、さらに拡大することができる。 今回の調査では、事前にウエアラブルカメラの撮影について、どうやろうとか打ち合わせなどは行われなかったが、今後は、どのようにして撮影し、どのように後でまとめるのか、予め、約束ごとがあり、行動マニュアルとでもいうべきものを整備して持っていれば、より良い。より充実した調査が出来ると思う。
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              タイムスタンプが入っている。
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 今回痛感したことは、この撮影調査では、画面上に日時、分秒までの表示がスタンプされることが必須であることだった。今回の福島の撮影は、ウエアラブルカメラであっても、テレビ局のオンエアーに使われる可能性があることから、タイムスタンプのある映像を撮影することをしなかったが、よほど、驚異的な映像でない限り、ウエアラブルカメラからの映像をそのまま放映することは無い。もしそのような場合でも、タイム表示があることが、必ずしもわるいとは言えない。多分、それは特別の映像であろうから、かえって日時がわかった方が良い場合も考えられる。 今回使用したGoProにはこのスタンプ機能がない。より安い、SJCOMにはこの機能がある。画質云々よりも、時間、分秒までの時間表示が画面にでることが、大事である。この種の調査記録撮影には今後、GoProを使うことを控えようと思っている。なぜ、元祖ウエアラブルカメラである、GOPROにスタンプ機能が無いのだろうか。サーファーがつくったカメラだから、という説もあった。 調査のカメラは、後での分析処理などで重くなる4Kであるとか、WIFIが使えるとか、」そういう必要はない。  なお、プロユースの場合には、編集時にタイムコードを入れることができるので、秒数の管理などには、タイム表示が無くても問題ないが、調査記録の場合、ウエアラブルカメラのマスクマウント、ヘッドマウントの場合、日時を明確に画面に表示することは、編集のためのタイムコードとは違った意味がある。 現在。画面上でタイム表示ができないGoPro2を三台、タイム表示ができるSJ4000を三台使っている。SJ4000は、安価であるが、かなり不安定なので、買い足すとすれば、SJの新型にしようと思っている。

0529 危険と安全

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 このところ、ダイビングの危険とか安全について書いていません。 水中科学協会では、最新ダイビング用語事典Ⅱの編纂に取り掛かっていて、素材を集めつつあります。自分の書くものも素材の一つなので、その視点です。つまるところ、最新ダイビング用語事典Ⅱも危険と安全についての論議が基調になります。その意味で、最新ダイビング用語事典Ⅱというタイトルは適切ではないかもしれない。今後の議論で決めて行きます。とりあえずのタイトルです。
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                     カット写真は、水産大学潜水部が製作した水中橇です。

 海洋大学潜水部60周年記念誌への寄稿の一部です。  ①まず、水中では、驚くほど簡単に人が死ぬ。 ②そして、その理由、真因は状況だけしかわからないことが多い。※状況とは、曰く一人にした。頭上に舟をおかなかった。この事故では、肺の破裂と言われたが、二人連続して肺が破裂するとは思えない。 ③事故は、チームの中、メンバーの内で、もっとも優れたダイバー、あるいは泳者に起こることを予想しておかなくてはならない。このことは、重要である。 ④事故は、後かたずけ、あるいは準備、予想外の時におこる。  ②の※は、1954年、おそらく日本のスクーバでの最初の事故であった 学生の実習中に2名の命が失われた事故の状況のことです。この事故は、本当に想定外、実習に参加した学生で最優秀(技量的に、もちろん健康で体力も優れ、水泳も達者)な学生二名が、海況も穏やかな入り江で、後片付けをしている時連続して二名死亡した事故です。ただ、なぜか、頭上に居るべき小舟が居なかった。  ダイバーとして物心がつく、ということは、自分の生命がダイビングによって失われる可能性を、自覚 認識することです。可能性とは何パーセントとかの確率なのかです。可能性は、目前の状況で変化します。なお、①②③④は、人それぞれで、それはそれぞれの体験、もしくは知識から獲得するものです。知識とは、体験、経験を、他の人が認識できるような形にしたものです。  海洋大学への寄稿では、60周年以後、その①②③④を踏まえて、どのようにしたら事故が起きないか、事故が起こったとして、どうすればスマートに解決できるのか、を書いています。どのようにしても、失われた命は戻らないのですから、真の解決はないのですが、人の死は本人以外責任の負えるものではないので、本人以外への責任追及のスマートな解決を意味します。スマートとは、社会的に許容されるということです。学生について言えば、お父さんお母さん、特にお母さんは許してくれることは想定できないので、許容されない。スマートという言葉は不適切かもしれません。  その解決に普遍的なものはないので、海洋大学潜水部についての方策を述べました。 ここではその部分は述べません。もう少し研究を進め、今企画している最新ダイビング用語事典Ⅱ{タイトルは変更する可能性が大きい}で、整理したものを掲載する予定です。  海洋大学潜水部については、60周年の、部がまだできる前に起こった1954年の事故が、以後の事故を防止するための遺産になればと願って、小文(でもないか)を60周年記念誌に寄稿しました。 もしかしたら、その寄稿の意味を理解してもらえないで、事故が起こり(事故は必ず起こると想定していなければいけない。想定外という言い訳は、原子力発電所の事故以来、通用しなくなっています。)その処理が、僕の遺言に背いていたら部が本当に終わる時でしょう。60周年記念誌に書くということは、そういうことなのです。

0530 撮影と機材について、5 お台場、5月14日

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 撮影と機材について、5 お台場、5月14日  毎月最終日曜日が定期的なお台場潜水の日だが、この5月は14日、他の行事のスケジュールによって、追い出されてしまった。仕方が無い。
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 晴れではないが、何とか一日、降らないで済みそう、という天気だ。 そろそろ、マハゼも出て来よう。例年ならば4月に出てくるメバルの稚魚が今年は見えない。 午前中の第一回潜水は、現在テスト中のOBカメラ、1Gを持って入った。ライトは、フィッシュアイの2500 である。 毎度恒例の僕の忘れ物は、ダイブコンピューターだ。でもダイブコンピューターは、水深1.5m以上に潜水しないと働かないし、ここお台場は、1mぐらいのところにいることが多いので、ダイブコンピューターの意味がないのだ。その意味がないお台場で、僕は高価なダイブコンピューターを2台も失くしている。持ってこない方が良い。
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 捜しているメバルは、突き当りの杭の列の端、立方体の石の陰に居るはずだ。居るならばだが、ユウレイボヤが、杭にびっしり生えている。いつもメバルの居る立方体の石の近く、マハゼが出て来ていた。どちらも、1Gできれいに撮れた。使えないことは無い。 牡蠣は、あいかわらずきれいで、生きている。その隙間でトサカギンポを撮影した。 残念ながら、メバルは見えない。
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 久し振りで来た、清水まみは、イシガニを見たという。基点から80mほどの、岸に榎の木がある、あたりの浅瀬で、イシガニも小さいメバルの稚魚もいるという。 午後は、マスクマウントにGoPro2を ライトステイにはオリンパスTG4 を、ワイドアダプターを着けないで取り付けた。ワイドアダプターを使わなくても、必要とする画角は得られるし、ストロボを光らせることもできる。
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 それと、透視度の目安になる、白いセル板を測量のバーの、先に着けた、自分なりの濁度測定器をテストしてみようと持ち込んだ。規格基準になる透視度ではないが、自分なりの目安である。マスクマウントの視線で白い板を見て、四隅にある黒点がはっきり見えれば、写真が何とか写る距離としてみよう。1mのバーの中ほどまでは、黒い点が見える。1mの先は、白い板も見え隠れ状態になる。この透視度測定器で、1m前後、が透視度で、撮影可能は、その三分の一として、30cmぐらいまでがシャープに写り、50cmでは写真にならない。これは予想していた通りで、これがお台場の標準だろう。これより良く見えれば透視度が良い日だし、これより悪い日は、透視度が悪い時、と考えて良いだろう。  まみの教えてくれたのと同じだろう、イシガニがいた。岩の下に隠れたが、逃げないので、TG4とマスクマウントで撮影できた。まみが言うには、イシガニではなくてタイワンガザミだろうと、そういえば横幅が大きいから、タイワンガザミかもしれない。 
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杭の辺りで、弱って死にそうな,まだ死んでいないクロダイが居た。杭の下に小さいイシガニもいたが、メバルを見つけることができかった。メバルが居るだろうと探したところには、ドロメの稚魚が群れていた。
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 ここ、お台場では、今回はGoPro2だったが、次回からはやはりタイムスタンプが表示される、SJ4000にしよう。お台場に関しては、SJも相性が良いのだ。

0603 撮影と機材(カメラ)について、 6

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2004 年 MMⅢ 潜水機はソリューション

 自分の 2017年2月ー5月にかけて、撮影機材、カメラについて、どんな機材を使って、どんなことを考えていたのか、まとめておくことは、後々、同じこと、つまり撮影機材について考えたり、書いたりするときに参考になることは、このシリーズの当初に書いた。このブログも2007年にカメラについてかいたものを底に敷いて書いている。 もういちど、確認、まとめのために現在使用中のカメラ、ラインアップとそれにつけてのまとめ、を記しておこう。① 10年前のカメラで、OB(使わないけれど、使えるような状態で残しておく)カメラ sea&sea DX-1G
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 先日使って見て、使えることは使えたが、オートフォーカスが遅い。液晶画面にスモークをかけているという信じがたいことをしているので、水中で画面がよく見えない。手持ちの全部のカメラの中で、画像が一番美しくない。ウエアラブルカメラのSJシリーズよりも見劣りする。しかしながら、何時壊れてもいい、どうでもいい。そして、耐圧が40m以上あって、丈夫である。とりあえず、なんとか写る。写したものは、SNS 報告書などの印刷物にも何とか使える。考えてみるとこの条件が、水中で調査記録に使うカメラとしては、必須条件なのだ。せいぜい乱暴に使って、壊れるまで、半現役で使って行こう。② オリンパスTG4使っているカメラの中で、最も脆弱、これまで、同じ機種を水没させている。ワイコンが外れると、海底に落ちてしまう。つなぎとめておく丈夫な線があるといいのだがない。DX-1Gにはある。落として失くしてしまうのが嫌なので、ワイコンは使わないようにする。 どうも論理的ではない。おとして構わないならば落とすまで使えば良いのではないか?しかし、近距離、マクロの使い方については、意外なことにワイコンなしのほうが使い勝手もいいし、ストロボを光らせることもできるし、お台場のように透視度のない海では、ワイドに広げても意味がない。これまで、水が濁っているから接近して広範囲を切り取れる、ワイドが水中での必須のように書いたり、思ったりしてきたが、透視度が1mより低く、シャープに写る範囲が30cm未満になってくると、広げる意味は小さい。170度の広角は、ウエアラブルカメラを併用しているから、必要ない。 そういえば、この前、ワイコンを失くしたりした後の清水まみ がワイコンなしで、撮影していた。キャノンの大きなハウジングも背負って来なくなった。ワイコンなしのTG4で作品的な写真も撮れる、と開眼したか?
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③ ニコン AW-130 水深30までの汎用、TG4のカプセルをあきらめて これにした。同じライトステイに、ウエアラブルカメラ と並べて取り付けられる。TG4カプセルでは、難しい。 TG4と比べて、いろいろ遜色があるが、使えない訳ではない。我慢できることである。この前、メガマウスシャークで動画もとったが、まあまあ良かった。④ ウエアラブルカメラさて、現在使っているカメラの主力とも言えるウエアラブルカメラである。現在企画中の福島原子力発電所直近の人工漁礁調査は、ウエアラブルカメラの動画だけでやったら、などと考えている。スチルカメラとして、DXー1Gをとも考えるが無用のことのようにもおもう。 ウエアラブルカメラは、GOPRO2が3台、SJ4000が4台(新しく買った1台を加えて)、AEEが2台ある。GoPro2が、一番画質が良いように見えるが、タイムスタンプがない。辰巳国際水泳場での撮影は、GOPROが良いので、GOPROを使う。撮影調査にもGoProを使ってきたが、これから後は、SJ4000だけで、割り切ってしまった方が良いと思う。そのためにSJ4000の2017タイプというのを新しく買った。数日前に届いたので、浦安屋内プールでのスノーケリング講習につかった。きれいに撮れたが、これまでのSJとの比較はしていない。SJ4000は、今度買ったものが7000円、すべて千円台のカメラだ。当たり外れがあるというが、まあ、大丈夫で使っている。今後、その当たり外れの比較テストもできる。 それにしても、GOPROが4でも5でもタイムスタンプが無いらしい。タイムスタンプを付けるアプリもあったが、時間がかかり過ぎてだめだ。 東京湾では、お台場をはじめとして、SJで良い。 ニコンが新しく出した KeyMissoion170. そして全天周の360も良さそうだが、5万円以上である。 5万円、6万円は、今の僕にはオーバースペックで、使いきれない。現在9台のカメラがあるので、足りている。しかし、360度のカメラはほしい。欲しいけど、だからなに?と考えると何でもないのだ。役所などで、カメラを買う場合、1万円以上になると、消耗品扱いにできないという。調査記録のカメラは消耗品であることが、一つの要点でもある。 おなじタイムスタンプである SI4000を複数、同時に使う。同じ時刻に複数のカメラがみているものを並べてみる。 それにしても、なぜGoProにタイムスタンプが無いのだろう。
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 安い消耗品ウエアラブルカメラ、そして、デジカメのことばかり書いてきたが、一眼レフとかミラーレスに関心がないわけではない。その方面のことを少し書こう。 最後のフィルム水中カメラ、MMⅢをsea&seaがつくったのは、2004年だったと思う。僕がリブリーザーを止めたその前の年の2004年にリブリーザーを背負って、MMⅢを構えて撮影している写真がある。残念ながらタイムスタンプがない。水没させて、捨ててしまった。歴史的なカメラである。捨てなければ良かったか? なぜsea&seaがこんなカメラを作ったのだろう。わからないが、その頃は、まだ、デジタルがオールマイティではなかった。 シャッターを押した瞬間にはまだ写真が写らない。瞬間ではあるが、一瞬後に写る。シャッターラグとい(タイムラグ)う現象だ。フィルムカメラでは、そんなことはない。 2006年ころの1G も2000も、キヤノンの一眼、イオスキッスX も今のカメラに比べて、えっと思うようなタイムラグを感じるときがある。  しかしそれも、一時のことで、ジェット戦闘機が急上昇するように、デジタルカメラは進化して行く。進化の方向は、もちろんシャッタータイムラグ、それは、とっくに解決して、オートフォーカスの速さ、シャッターぶれ防止、高画質化、人の目が見えないような暗いところで撮影できる高感度、動画は、HD からフルHD,そして4Kと階段を登っていく。もちろん価格も同時進行で上昇する。 プロのカメラマン、もしくはハイアマチュアは、フィルムの時代が終わった2003年頃より以後、羽が生えて飛んでいくお金を見送ることになる。フイルムの時代、画質はフィルムメーカー一任だったから、スチルはニコノスだけで、写真集もできた。  お金が飛んでいくデジタル、それは、僕の専門であった、放送規格のENGカメラでは1970年代から始まっていたことで、稼いだお金のほとんどはカメラに消えて行った。それも、100万なら安いと思う。たいていのカメラはハウジングもいれれば、600万から1000万だった。しかし、反面、1000万のカメラは魔法の絨毯のようなもので、それを手にして、呪文(企画書)を唱えれば、世界のどこにでも飛んで行かれた。その稼ぎはまた機材へつぎ込まれるが、やったことはのこるのだから、幸せな時代ではあった。 それが、デジタルの世界なのだ。 スチルとムービーの壁が取り払われるのは、2011年頃からで、そのころ、以前に原稿を書いていた縁で、「ビデオα」と言う雑誌が送られて来ていた。その特集で残しておいたものを見ると「大判センサー搭載カメラの運用と検証」とか「デジタル一眼の検証と運用」などなど。 その「ビデオα」も送られて来なくなり、キヤノン、ニコン などのフラッグシップカメラは、縁の遠いものになった。価格も50万、70万、ハウジングの価格は、カメラ本体とほぼ同じだから、それにライトを着ければ、100万近くになる。 では、そんなカメラは縁がない、欲しくないか?と言えば、欲しいに決まっている。たとえ調査記録の撮影であっても、美しく事物が再現された方が良いに決まっていて、撮影が美の追求であるとすれば、その仕事の8割はカメラがするのだ。キヤノンのイオスー1Dxは、欲しい。 僕は、腕の悪さは機材でカバーして、トップを走り抜けてきた、機材ではNHKと張り合ったと自負している。自分の限界までやった。だから、お金はどこにも残っていない。  自分の生きられる世界、自分が頭を出せる世界で生きるというのもプロの条件の一つだろうと思っている。画質、美しさで勝負できなければ、自分のもう一つの世界、リサーチ、撮影記録で、できる努力をしよう。 そして、数日前ウエアラブルカメラのSV4000の2017年版を買いたした。6990円だった。

0603 お台場クリーンアップ2017 撮影

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お台場、クリーンアップ大作戦 撮影 このところ、カメラ、撮影を軸にして、話をすすめている。これも、そのようにしよう。 新しく買った、4台目のSJ4000 を使って撮影する。 注文したアマゾンで見ると「SJCAM正規品2017年改良版 6999円」、とある。見るからに信頼のおけそうにないコピーだ。 事実、SJ4000は、価格もばらつきがあるが、品物にもばらつきがある。が、そのばらつきは素人目にはわからない。実は僕もわからない。まあ、良いかですませてきた。今度買ったSJも浦安のスノーケリング講習で使ってみて、まあ良いか、となっている。
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                     拡大してみるとシャープで無くなってしまうが、まあきれいにみえる。マスクマウントで、水面の上に首を出した位置
                                  

さて、6月3日土曜日 お台場、体調はあまり良くなかった。車を出して、事務所で道具を積み込む。潜水道具だけのつもりだったが、ゴムボートも使うことを思い出した。危ないところだった。  ゴムボートも積んで、8時10分頃に到着、車を公園内に入れさせてもらう。 のどが渇いて、水を飲みながら、来ている人たちと話し合う。 これまで、例年、参加者数を気にしていて、人集めに多少の努力などしたが、今年はなにもしなかった。例年くるメンバーだけでも良い。いつもくる常連の年中行事になっていれば、良いだろう。それに、駐車料金、お弁当、そのほか、人数が多ければ、それだけかかる。この行事、ダイビングから始まったが、いまでは、浜辺全体のゴミ拾い、こちらの方がメイン行事になってきて、開会式も別に行うが、人数も多い。そのほか、港区がお台場でやる行事の総称になっている。ただ、これを始めたのは、僕と、海上保安部の宮野さんで、当初は海上保安部の皆さんが設営からなにからなにまでやった。その変遷も時に応じて書いている。 水中清掃はスクーバ31名、スキンが15名だ。スクーバは、個人参加が4名、以前はチームでないと参加できなかったが、今では、一人だけでも参加できる、潜るのはどこかのチームに合流する。セントラルスポーツが5名、海をつくる会が、4名、関東学生潜水連盟が16名 僕たち、東京港水中生物研究会が5名、筑波マリンダイビングクラブが14名、こういうことも書いておかないと忘れる。 このメンバー表も忘れてしまうといけないので、SJのスチルでメモ撮影した。このカメラは、超ワイドのほか、ズームもできるので、こんなこともできる。 
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 皮膚アレルギーが、治りつつあるのだが、まだ海水にウエットスーツで浸かるのは、どうだろうと、ドライスーツにした。ドライスーツの方が着替えの必要が無いので、着替えの場所も無いお台場では、べんりではある。天気が良いので、多少暑いかとおもったが、それほどでもなかった。
 集合、体操、開会式のセレモニー、SJのスチルで撮る。スチルカメラとして、小さいのでそして、液晶が2インチと大きいので、使い勝手が良い。ただ、このカメラは、防水ケースのレンズ面が弱くて、すぐ傷が付いてしまう。傷が付くと、撮った写真も傷ものだから、あまりタフな使い方はできない。
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 体調は今一つなのか、高齢のため、これでふつうなのかよくわからない。身体を休めてしまえば、死ぬまで休んでしまうような気がするから、突っ張って生きる他無い。清水まみ、とバディで潜ることにして、準備を進める。ウエイトを着け、タンクを背負ってしまえば、後は水に入るまで我慢すれば良いだけで、その我慢をフィジカルなエキササイズのようなものだから、辛いけれど、嫌ではない。 ゆっくり行こうと言いながら、狭い区域に30人が入って、濁してしまう前に、右側の転石部分の魚も少し見たいので、トップから三番目ぐらいに水に入る。 ウエアラブルカメラのSJは、マスクマウントにして、回し始める。エントリーからエキジット間で、全部を動画を撮る。ここに載せる水中部分は動画から切り出した静止画である。  まみの肩を借りて、フィンを履かせてもらう。一人でできないことはないが、お願いしてしまう。 フィンを横にずらすようにして水に入るのだが、船の科学館の小堀さんが、僕を撮影している。 砂浜の砂が、フィンに吸ついてしまって、重いタンクを背負った身体だけが、先に傾くので転んでしまったり、肉離れを起こす。だから、脹ら脛ぐらいまで水に浸かると後は這ってしまう。撮影されているが、転ぶよりは、這う方が良いだろう。
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 ゴミを拾いながら、進むと、3cmほどの出来ハゼがツンツンと散る。6月と考えると、少し小さめだが、5cmほどの個体もいる。右側の岩場で、マスクマウントのカメラを外して、マハゼを追ってみる。 バディはうまく行っていて、ところどころで右側を見て確認していく、もはや、濁ってしまって、手探りでゴミを探すのだが、ついでにビノスガイを探る。いくらでも穫れるのだが、2個だけBCのポケットにいれる。
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 他のチームと交錯して、バディがはなれてしまったので、浮上して、水面の周囲を見る。マスクマウントの周囲の撮影ができる。見失ったらすぐ浮上、とブリーフィング、していなかったので、ワンテンポ遅れたがまみも浮上して、もう一度潜る。あまりゴミもないので戻ることにする。昨年まではゴミを拾う量を、尾島さんと競ったりしていたが、今年は競っていない。 エクジットも、まみにフィンを脱がせてもらう。このときに一人だけでフィンを逃がしてしまうと、濁っているので、見つけるのに努力が必要になってしまう。  タンクとウエイトは肩に重いが、歩いて、タンク屋の上島さんのところまで行き、タンクを肩から下ろしてもらう。自分で外して、持って行っても良いのだが、これは省エネする。お礼に、ビノスガイ2個をBCのポケットから出して差し上げた。味噌汁にするように言ったが、食べてくれただろうか。 閉会の挨拶は、短く、僕がすることになっている。天気が良くて気持ちが良かった。マハゼの子供が沢山いたけれど、見ましたか?で挨拶終了。短すぎて、司会者がちょっと戸惑っていた。  お弁当を食べて終了。

0609 メガマウスシャーク 1

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5月22日の出来事であった、メガマウスについて、ブログをまだ出せない。とっくに書いて、それも3回ぐらい書き直している。
博物学としての自然、生物との間柄と、最近になっての大型野性動物と人間とのかかわりについて、考えてしまったからだ。これはとても大きな問題で、おいそれと、感情にまかせて、ブログに書けるものではない。後ろには、沿岸漁業とレクリエーションダイビングとのかかわり、もある。
 ただ、いくつもの立場のすべてに満足できるような説明は不可能である。自分の立場と考えを明確にすれば良いのではないか。

そのことを後段で考えることにして、まず22日のことから
長くなるし、まだ論旨もぐらついているが、
 GWのツアーに鶴町さんを誘ったのだが、スケジュールが合わなかったので、同行してもらえなかった。その替わりに波左間に行こうと逆にさそわれた。僕はこのところ、波佐間に行っていない。波佐間に行こう。
行こう。ということになった。どうせならば、のんびりしたい。荒川さんともゆっくり話したい。お忙しい土日、祝日をさけて、5月22日、月曜日を予定した。
 僕はこのところ、テストをしているカメラ1Gのテスト、そして、このところ、どうにもならないほどスクーバが下手になっているから、トレーニングが必要だ。
 2月の福島、GWの赤沢、そしてお台場と潜ってはいる。その間、辰巳と浦安でスキンダイビングのトレーニングもしている。しかし、思うに、スキンダイビングは、スクーバの基礎トレーニングにはなるけれど、スクーバのスキルトレーニングにはならない。だから、波佐間に行こう。
 鶴町さんは、なんだか最近波佐間の常連になっている。それに、この人今や、どこにでも出現している。鶴町さんの仕切りで行くことにした。と、なんだか、彼女のいつもの同行者を誘ったらしい。僕の旧友でもある山入端女史、僕の常のダイビング仲間でもある増井さん、それに、顔は見知っているけれど、知らない澤田美枝子さんが同行するそうだ。 車は鶴町さんが出す。鶴町さんは、僕の元社員であり、70歳からあと、仕事のダイビングのパートナーとして助けてもらっていた鶴町の奥さんだ。不幸にして鶴町は亡くなってしまった。彼が生きていればと思うことしきりだが、仕方がない。でも鶴町が生きていたころ、彼女はダイビングなどほとんどしなかった。このところは、彼に成り代わっているように潜っている。
 この日も、彼になり代わって、僕の面倒を見てくれようとしているのだろう。 増井さん、澤田さんを地下鉄駅でピックアップするので、5時45分、僕の事務所に来てくれて、道具を積んで出発、ということになった。 11時に寝たので、4時間の睡眠で3時に目が覚める。二度寝はしないで、そのまま、フェイスブックを見たり、4時に床から起きて、いくつか準備、5時30分に事務所着、運転はしないので、車中寝ていけば良い。
 波佐間着 8時前か、行ってみると、荒川さん、その親友で、僕の旧友でもある尾崎君が緊張の面持ちで待ち構えている。何だ?
 念のため書いておくが、僕は耳が遠い。だから、すべてのことに、十分に情報がききとれていない。その不自由な耳で聞けば、今朝、洲崎の定置網にメガマウスシャークが入った。僕と鶴町の車に、荒川、尾崎が乗って、洲崎の定置に向かう。僕は、メガマウスは、まだ定置網に入っていて、それを見に行くのかと思った。そうではなくて、洲崎からは、車を二台波佐間に持ち帰ってきた。何だかわからないけど、どうでもいいことでもある。 尾崎君は言う。メガマウスは、ダイバーを100年やっていても見られるか見られないかという超珍しいサメだという。メガマウスと言えば、頭が大きく、その大きい頭の全部を口、マウスが占めているような絵を見たことがある。たしかハワイで上がったとか。 100年に一度、僕はダイビング生活60年だから、見られればラッキーだ。
 なんとなく、あわただしくダイビングの支度をする。皮膚アレルギーのため、ウエットスーツは着られない。ウエットスーツの季節になり、皮膚を海水に漬け、太陽であぶったら、アレルギーが消えるだろうと思っていたが、その季節になるとやはり、そんな逆療法は怖い。僕も歳だ。ドライスーツで潜る。
 メガマウスを見に行くのかとボートに乗ったが、到着したのは高根だった。1Gのテストは魚礁でしようと思っていたので、ドリーム魚礁ポイントをリクエストするつもりだったのだが、メガマウスで混乱したから、よくわからない。7キロのベストに3キロのベルト、足に1・5キロ着けた。 高根に着くと、みんなは、エアードームの方に行った。僕は高根に先回りして、1Gのテスト撮影をしていよう、と思って、反対方向へ、行ってしまった。コンパスが頭に入っていない。ガイドラインに沿って行ったのだが、反対方向だった。仕方がないから、反対方向の根で、ヤギの類など、を1Gで撮影した。テストのつもりだ。
 結構泳いだので、残圧が70になったので、浮上して船に上がった 岸に戻ると、ちょっと休んで、直ぐに二本目の支度、これも、耳が遠いので、状況を把握していない。 メガマウスが収容されているらしい、マンボウランドに向かう。僕たちのメンバーみんなは、スキンダイビングで見物する。荒川さん、尾崎さん、萩原君のタンクはある。僕のタンクも船の上に用意されているものがある。特別らしい。僕のカメラは、高根で1Gを使ったので、ニコンAWを持った。
 マンボウランドとは、波佐間の水深5-6mのところに、丸く網で囲った差し渡しで50mぐらいだろうか、大きな生簀である。ここに、定置に入ったマンボウや、ジンベイザメを連れてくる。餌付けして、秋深くなるころまで飼っていて、やがては放流する。目的は、ダイバーが水中で一緒に泳ぎ、餌をやったりして、観察、遊べる。今年は、ジンベイザメがまだ入らないが、特大のマンボウが居る。
 メガマウスが餌付けできたならば、たいへんなことになる。その経済効果は?とか考える。しかし、僕はまだメガマウスについての十分な知識があるわけではない。
 マンボウランドで、みんなあれよあれよといううちに水に入ってしまって、僕と荒川さんが残った。荒川さんは僕を援けてタンクを背負わせてくれるつもりだったらしいが、彼だって、早く水に入りたいだろう。自分でやりますからと、先に行ってもらった。やっとの思いで背負ったら、バルブが開いていない。ボートの上は僕一人だ。背中に手を回すが届かない。前は楽に届いたのに、と昔を偲んで泣いていてもはじまらない。もう一度やり直す。
 やっとの思いで飛び込んだ。様子はまったくわからない。
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 特大のマンボウが餌をくれるのかと寄ってくるが、今日は相手にしない。ダイバーを探す。尾崎君がカメラを構えて泳いでいた。彼を追うと、カメラの先には、メガマウスが居た。何も考えない。驚きもしない。このときの気持ちを説明することは、難しい。目の前にいるものに吸引されていく。大きい、尾をゆっくりと振って泳いでいる。泳いでも追いつかない。網で囲われているから、網に沿って泳ぐのだろう。自分がコンパスの中心にいれば、先回りできる。ロングで全身を撮るのは難しい透明度だ。近づいて行って、とにかくスチルのシャッターを切る。スチルでは全身がシャープには写らない。動画を撮ることにした。
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 メガマウスの頭の方から、白いフィンが機敏に接近して行く。荒川さんだ。頭の方向を押さえられたメガマウスは速度が緩む。尾の方から体に沿って撮って行き、頭の方から、大きな口を撮影している荒川さんをツーショットの感じで撮る。これで一応、メガマウスのカットは、抑えた。
 昼食はお弁当を食べた。1時間ほど休憩で雑談する。みんなにとっては2本目、僕は三回目の潜水になる。いつもならば、2本目はドリーム魚礁か、その沖の魚礁に行く。
 ニコンがバッテリーアウトになっている。仕方が無いので、もう一度、OB の1Gを使う。マスクマウントのウエアラブルカメラは全道程を撮影している。
 2回潜水したので、身体が少し動くようになっている。手伝ってもらってタンクを背負い、歩いてボートに向かい、乗り込んで腰かける。みんなは、このようにやるが、これまで、僕は潜る寸前にタンクを背負う。しかし、前もって背負って、歩いて船に乗り、腰かけて待っている方が身体は楽だとわかった。
 到着したのはマンボウランドで、マンボウランドで、久しぶりに、中性浮力で中層に浮いてメガマウスを追った。被写体が大きくて動くものだと、こちらも対応して体が動く。
 夢中で撮影していて、ふと気づくと一人だけになっている。メガマウスも消えた。網に沿ったどこかにいるはずだ。見つけたので、ゆったりと尾の方から撮影して、前にまわって頭を押さえるような位置で、撮影する。サメがカメラに向かって泳いでくると、おとなしいサメだが、圧迫感がある。
 荒川さんが来て、上がるようにと合図をくれる。ボートに上がると、僕が最後だった。
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 戻ると、報道陣の車が何台か、待ち受けていた。タンクを背負ったまま上がって歩いて戻ったので、振りほどくようにしてタンクを降ろして、ウエイトを外す。周囲では、それぞれ、海から上がってきた何人かがインタビューを受けている。鶴町さんが僕を押し出そうとしたので、ダメだといって、逃げた。山入端さんがインタビューされていた。適役だ。
 報道陣の一人、後から名刺をもらったが千葉放送局のアナウンサー、田中さんだという。何か、潮美と一緒に仕事をしたことがあるらしく、僕のことを知っていた。インタビューではないので、話をする。お台場のことも良く知っていたので、お台場の話をする。ここでお台場の話をしている分には大丈夫だ。
 僕たちが降りたボートに乗って撮影に出るのは、先着のNHKで、田中さんも会釈して、離れてくれた。カメラマンが女性で、ちょっといい感じだった。ウエットスーツを着ている。タンクに手をかけて、膝を曲げて、肩をBCの袖に入れて、すっと立ち上がり、肩にタンクを掛けたまま、ボートの方に歩いて行った。潮美にもあんな時代があったな、とか思う。
 機材に水を掛けたり、ドライスーツを洗うために、着たまま水槽に入ったりしていると、朝日新聞の記者だという、恵原さん(名刺をくれたので)が、話しかけてきた。こちらは僕が誰とは知らないみたい。なんとなく、何かありそうだと近寄ってきたのだろう。こちらも名刺を出してちょっとお話しした。 サカナちゃんが来るとかで、鶴町さんは見て帰りたいという。見たって何にもならないと思うから、あいまいにしていた。
 帰り支度が終わったころNHKのボートが帰ってきて、大きなキャノンの1D? だか、7Dだかをデスクの上において、タオルで拭って、女性カメラマンと、田中アナウンサーがファインダーを覗きこんで、ちょっとだけのプレビューをして頷いていた。この場から電送できるから、7時のニュースには間に合うのだろう。
 僕と鶴町さん、増井さんが載った車が、出る時、サカナちゃんの車とすれ違った。
 車で戻る途中、NHKが、今撮った映像を19時15分からやるとか、その時間、山の陰になって、ワンセグが写らなかった。スマートフォンを見ていたら、その放送が出て来たので、シェアしてみた。
波佐間のセンターの大きいモニタ―で、撮った映像を映し、それを見たサカナちゃんがぴょんとはねたような動作で、元気で、早く海に帰して、といようなことを口にしていた。続く


0610 メガマウスシャーク 2

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では、メガマウスとは?親しい畏友である山田海人さん(昨年のシンポジウムでJAMSTECのシートピア計画、潜水について、講演していただいた)が、22日のすぐあとに、コラムをフェイスブックに載せられた。改めて、全文を送っていただき、、ここに使わせていただくことにした。 以下、山田さん提供

 未知の深海には我々人間には計り知れない不思議な生態をしている深海魚がいます。 今回の紹介する深海魚は深海でプランクトンを食べている大型サメのメガマウスです。最初に発見されたのが1976年、そして31年を経た今でもまだ40個体も見つかっていない貴重なメガマウスです。皆さんの豊かな想像力を駆使して、謎に満ちた「メガマウス」の棲む深海の世界をイメージしてください。1.メガマウスとは  メガマウスは深海の大型サメで Megamouth Shark と呼ばれています。
  深海を大きな身体で、ゆっくり泳ぎ、オキアミなどの甲殻類を食べているやさしい性格のプランクトンフィダーです。
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  大きなサメでも臆病な性格で、これまで自然界で撮影されたこともないメガマウスです。
  学名は Megachasma pelagios で1983年に登録されました。

体長:メス 5.15m、オス 4m
分布:西インド洋を除くすべての熱帯海域。日本近海でも多くの個体が発見されています。
生息水深:150m~1000m
メガマウスの特徴:メガマウスは大型のサメのサイズであって、軟らかい頭と大きな口が特徴です。体形は、頭から広く、尾にかけて細く、どちらかといえば球根状です。頭には広く丸い鼻と適度なエラ孔、その顎には小さなフック状の歯が数多く並んでいます。そして口の中は銀色です。尾ビレの根元(尾柄)には遊泳力のあるサメに多いキールはありません。非対称の尾ビレです。

  他の深海ザメとの大きな違いは、海中での比重が軽いことです。
  メガマウスの肝臓はとても大きく、比重を軽くしている大きな役割をしています。他にも軟骨、筋肉、皮膚なども他の深海ザメのものとは異なって比重が軽くできています。こうしてメガマウスの中・深層での生活に有利な、浮きもせず、沈みもせずの身体が得られているのです。

2.メガマウスの発見  深海の大型サメ「メガマウス」の第一発見者は何と米海軍です。1976年11月15日、ハワイ・オアフ島 Kahuku ポイント沖で水上飛行艇のシーアンカーのテストを行っていたところ、米海軍のアンダーシーセンターの海洋調査船「AFB-14」は水深165mのシーアンカーにからんだ4.46mのオスのメガマウスを捕獲したのです。こうしてたまたまシーアンカーにからんだ大型サメが特異な形をしていたことでサメの研究者へ知らせが届き、新種の発見となりました。
  2匹目が見つかったのはそれから8年後の1984年11月29日、カリフォルニア・サンタカタリーナ島の沖合の深海ネット(水深38m)によって捕らえられました。この標本(Los Angeles County博物館蔵)は、オスで体長4.5mでした。
  これまでは太平洋でのみ発見されていましたが、3匹目は1988年8月18日にオーストラリアのパースの南Mandurah河口の近くで漂着した5.15mのオスの個体です(オーストラリア博物館蔵)。これによってメガマウスの分布はインド洋まで拡がったことになります。この時、最初はクジラと思われてサーファーが前日沖へ戻したにもかかわらず漂着してしまったものです。
  しかしこの12年間にわずか3個体という極めて希な標本で,しかもオスばかりの標本だったのです。ですがこの後、急激に各地からメガマウスの発見が相次ぎました。どうしてこれまで見つからなかったものが急に各地で発見されるようになったのか、まだ誰も説明できていません。
  最初のメガマウスのメスが発見されたのは、1994年11月29日に博多湾で漂着しているところを、野鳥観察者によって発見されました。この個体は貴重なメスで体長4.71m、体重790㎏でした。とても貴重な世界最初のメスでしたので、日本人さらに外国人研究者らも加わって科学的な解剖調査が行われました(海の中道マリンワールド蔵)。
  1989年6月12日に、500cmほどの大きなメガマウスが定置網にかかっていましたが、ウバザメと間違えられて海へ戻されたこともあります。性的に成熟したオス(180cm)は、ダカール、セネガルの沖合のマグロ漁で1995年5月4日に捕らえられました。
  次のメガマウスはさらに大西洋の若いオスでした。この標本は、ブラジル南部(A. Amorim)の沖合の延縄で、1995年9月18日に偶然につかまりました。
  2006年5月1日、相模湾で初めてのメガマウスが発見されました。湯河原沖の定置網に掛かっているのが見つかり、当初は活きていましたが衰弱していてやがて死亡が確認されました。体長5.6m、体重1.2トンの世界最大級のメス(京急油壺マリンパーク蔵)であることが判りました。

3.メガマウスの生態  発見された個体の少ないメガマウスの生態はこれまで謎だらけでした。しかし、5匹目の標本は生きていて、駿河湾で定置網に捕獲されていましたがウバザメと間違えられて海へ戻されました。これを機会に、発見された中には捕獲時に活きているものもいるだろうと、科学者はデータロガー取り付けの機会を伺っていました。そして6匹目にチャンスが巡ってきました。
  6匹目の個体は1990年10月21日にカリフォルニアのデイナポイントの沖合で流し網の中で捕らえられましたが、ほぼ元気であったので水深、時刻など記録できるデータロガーが取り付けられて495cmのオスは放流されました。その結果、50時間以上の貴重なデータが得られました。そのデータから日没から日の出までは水深17mの浅い水深でオキアミなどの甲殻類やクラゲなどを捕食し、日中は約170mの深い深海にいること(夜行性)が判明しました。つまり、中・深層で休憩し、夜間は浅い水深へ上昇して餌を取っているのです。これは餌のオキアミの垂直行動パターンと同じであることも判って、浅い水深で餌を取っているだけでなく、日中もオキアミと同じ水深にいるということは日中もオキアミを食べることもあるのかもしれません。

4.メガマウスの話題
(1)マッコウクジラに襲われる 1998年10月、インドネシアのManadoの沖合いでクジラの資源調査を行っていたイタリアのチームが貴重な生態を観察しました。それは三頭のマッコウクジラが一匹のメガマウスを攻撃しているのが観察されています。小型ボートで接近すると背びれとエラ部分にマッコウクジラから攻撃された傷が確認され、5mを超えるサメはもてあそばれているようでした。食べられるわけでもなく、単に攻撃を楽しんでいるようでした。この時の画像から13匹目のメガマウスと確認されました。

おわりに  日本にも多く発見例があるメガマウスですが、まだ、深海での行動が撮影されていません。そして生態や繁殖などまだまだ多くのミステリーに包まれています。メガマウスはとても魅力ある深海の大型サメです。今後の発見例や深海での撮影で謎が少しずつでも明らかになることを期待しています。

※もしも、波佐間のメガマウスが、餌付けに成功していれば?
波佐間は同じくオキアミを食べているジンベイの餌付飼育には、荒川さんにノウハウがあり、そして海に帰すことにも成功していることから、可能性が大きかった。もしもできていたならば、多くのダイバーが、生きているメガマウスとおよぐこともできたはずで、観察によるいくつかの新しい知見を得ることができ、上記にもあるデータロガーの準備、装着などの可能性もあり、その時には、ダイバーも一緒に潜水して、追いきれない深度は、ROVで、など、そのドキュメンタリーは、尾崎君が撮るだろうし。いずれにしても、博物学的に大きな成果を収めることができたはず。死んでしまったことは、とても残念だった。なお、この個体は、鴨川シーワールドに運ばれ、おそらくは、標本として残されると思う。

0614  海の世界 1 書写

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今日こそはブログを書きださなくてはと思いつつ。他のデスクワークと、何もしないでいること、に追われている。

海の世界 1
 ダイビングを知るため、ダイビングのこれまでの経緯を見ながら、ダイビングを分析して行こうというのは、最新ダイビング用語事典のⅡのコンセプトである。その一つとして、書誌、これまでダイビングについて書かれたもの書籍として発行されたものを見ていくという作業がある。
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 単行本として発行されたもの。次に雑誌がある。雑誌としてリストアップしているのは、「海の世界」「オーシャンライフ」「マリンダイビング」「ダイビングワールド」「月刊 ダイバー」その他、とうていこれ全部を調べることは、無理、出きる範囲、ということになる。マリンダイビングについては、先頃舘石社長に会ったとき、最初からの全部を閲覧させてもらいたいと、申し入れ、とりあえず、承諾をいただいている。が、まずその前に、自分が持っている、これまで捨てないで残しておいたものも、事務所のガラス書庫の四分の一を占めている。まずそれから見ていこう。自分の持っている部分をまず整理して、その欠けた部分を他に求める。としても、どのようにやったらいいだろう。
 ノートをとって読むといっても余りにも多すぎる。とりあえず、ぱらぱらと見て、必要部分に付箋をつけてみよう。まだ、付箋の段階まで行かないで、ぱらぱらだけでたいへんだ。もう一度見返す分だけ抜き出した。まず見ているのは、1972、73、74、これは沖縄返還、そして、沖縄海洋博が行われた当時にあたる。僕が一番、これらの雑誌に書いていたときになる。今から四十有余前だ。先日、Cカードのこれまでの発行数の統計について、少し調べた。これも重要なテーマなのだが。その現在までの発行累計数が120万余りとして、そのグラフの原点が1980年あたりなのだ。だから、僕の活動していたのは、Cカード元年以前、つまり、有史以前?そうか、考えてみると、沖縄海洋博は、今のダイビングの歴史が始まる前のできごとだったのか。海洋博は1975年、EXPO75だ。72、73、74は、その準備段階のころだ。現在お付き合いのある方で、そのころの雑誌でよく見かけるのは慶松さんだ。そのころは、当たり前だが若者だった。40年前だから、30歳前後か。僕は40代半ばか。
 そして、工藤昌夫さんが、本当によく書いておいでになる。僕は、ずいぶんと、自分では書いているつもりで、僕が海の世界を書き支えていたぐらいに思っていたが、とんでもなかった。工藤さんだ。ぼくは、田口哲さんと同じぐらいだ。そんな時代のことだ。まだ、どんな風にまとめて行くか、考え中なのだが、選び出したものについて、タイトルだけか、タイトルにちょっとだけノートをつけるかで、その部分はできるだけ写真で複写しておこう。複写しておけば、複数の人で見られるし、原本は捨てるつもりはないが、失っても良い。これを書いたのが、6月12日だ。そして、次が6月13日のメモ
雑誌で残しておきたい部分に付箋を入れ、書写機で取り込む。とりあえずこの作業をやってみた。
そして、これはたいへんなことだと、今の自分にとってだが、たいへん重要なことだと気づいた。まずは1970年代の海の世界が、身の回りの書棚の中に5冊ばかりあったので、それを書写した。書写するために少し丁寧に見る。そしてちょっと、読んでも見る。
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 40年前に書いたこと、書かれたこと、ダイビング界が考えていたこと、目指していたことを、ほぼその結果の中に自分たちが生きている。それを今の自分が見ている。それは新しい発見に満ちていて、10年先、50年先が見えるような気がする。もちろん、未来の話は各人各様だろうし、日本の国がどうなっているかわからない。しかし、すぎた40年は確定していることなのだ。もう、どうにも変えようがない。解釈はそれぞれだが、事実は変えられないのだ。
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 そうか、歴史とはそういうものだったのだ。といまさらのように痛切に感じた。もしかしたら、最新ダイビング用語事典Ⅱは、1950年代から、今まで、1960年代、70年代、80年代、90年代、2000年代、今の2010年代、これからの2020年代、さらにその先の未来を10年セグメントで見ていくことが中心になり、それ以前、アクアラング以前は、若干詳しい、正確な年表で良いのではないか。
 とすると、雑誌の書写、そして分析研究が最重要になるのではないか。と気づいた。 今は書きなぐっている、キーボードを叩きまくっているただそれだけなのだが、さらにこの着想を展開して行けば! 1950年代 日本にアクアラングが入ってきて、それが何らかの形で潜水機として定着していく時代、つまり黎明期だろう。そして1960年代、それがなにかの形をとろうとした年代、米国ではロスカンのブルーカードが生まれ、それがNAUIのカードの繋がっていく、PADIがUSダイバーという潜水機メーカーの中で誕生する。日本では、1967年日本潜水会、関西潜水連盟が生まれる。そしてEXPO75 海洋博が行われ、世界は海洋開発、海底居住実験が盛んに行われ、人類はその夢を海にゆだねる。それが、どのような結末を迎えたか、今の自分たちは知っている。その知っている目で1970年代を見る。そして1980年代、先日Cカード発行の累計を見て、この累計の折れ線グラフの原点が1980年なのだ。今の潜水世界から見れば、1970年代は有史以前なのだ。 今の2010年代の現実は決して否定できない。これが事実なのだ。2020年代については各人各様であり、なるがまま、そのなるがままを予測するほかない。歴史のねじを巻き戻すことはできないのだが、予測することは可能である。
 それぞれのダイバーが予測する、その資料に最新ダイビング用語事典Ⅱがなるとすれば、

 ※書写したものをブログの写真では、見出しだけしか読み取れないが、以後はその見出しで、取り上げて、ブログで内容の概略を書いて、見て行こう。







0617 海の世界 2

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 雑誌「海の世界」を軸にして、1970年代のダイビングについて書こうとしているのだが、そもそも、「海の世界」とは、今、ネットで調べても何も出てこない。 運輸省、今では国土交通省の外郭の公益法人である海事広報協会が出していた雑誌だ。今、海事広報協会のホームページを見ても、海の世界は、出てこない。今、この協会が出している雑誌は、一般向けの「ラ・メール」と船員向けの「海上の友」だ。もちろん、ダイビングは出てこない。そのくせ、海事広報協会のホームページにはダイビング講習のことが出ていたりする。「海の世界」は、そのうちにネットで調べると、僕のブログに当たるのだろう。
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 「海の世界」は、昭和30年、1955年の創刊である。1955というと、僕が東京水産大学に入学した時だった。水産大学は久里浜にあり、東京の僕は、横須賀線で通っても良かったのだが、鎌倉に下宿した。その年の秋、僕は鎌倉の雪ノ下にいた。同級生の城君と、木村君、三人の共同、今で言えばルームシェアだ。その通学の駅から雪ノ下までの途中の本屋で「海の世界」の多分、創刊号を買った。鎌倉駅前には大きな本屋があるのだが、なぜか、雪ノ下に歩いて行く途中の小さい本屋で買ったと覚えている。 その「海の世界」は残念なことに今持っていない。 持っているのは、1963年の11月号、僕と舘石さんの90m潜水が載っている。 だからここまで持っていたのだ。
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 記事をみると、「人体実験の新しい試み」とある。そのころ、実験的なダイビングは「人体実験」だったのだ。しかし、考えてみると、2017年の今でも、通常の範囲を超えたダイビングは「人体実験」以外の何物でもないのかもしれない。 海上自衛隊の、潜水医学実験隊、そして70年代の海底居住も人体実験だったのだ。 テクニカルダイビングなどというものも、そして、僕が80歳、80m潜水などと言っているのも、「人体実験」に他ならないだろう。 「人体実験」としてのダイビングの意味、考えてみた、今も昔も「人体実験」の意味は、できるかどうか、人体で試してみる。人体実験と冒険とのかかわり、意義、また考えることが増えてしまった。
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 1963年の「海の世界」は、潜水の記事は、僕たちの潜水以外は掲載されていない。もしかすると「海の世界」のダイビングの記事は、これが嚆矢だったのかもしれない。 そして、何時のころから、ダイビングについての記事が次第に増えてきて、これから扱おうとする「海の世界」になる、その推移も見たいのだが、今、手にしているのは1972年以降のものだ。他にもあるか探してみよう。 なお、「マリンダイビング」の創刊は1969年で、僕はそれを持っていたのだが、潜水部の後輩の田村君がマリンダイビングに就職するとかで、そのお祝いにあげてしまった。田村君は、マリンダイビングをすぐにやめてしまって、今は千葉県の水産センターにいる。 その時には、こんなことを書くとは思っていなかったのだ。 ともあれ、1970年代のことをまず書きたいので、1972年の1月号からスタートする。 平成13年度2001年、レジャー・スポーツダイビング産業協会の発表した「ダイビングの実態に関する動向調査」によれば、2001年のエントリーレベルCカード認定数(累計)は、1126845、およそ112万枚である。そのCカードの数が、折れ線グラフの原点である1984年には13000、である。70年代、Cカードというものは存在していなかった。 C-カードが生まれる、その推移については、別に論じていかなくてはならないが、1980年あたりを境にして、1970年代はダイビングの別の文化があった。 このブログの前回、1980年以前は今のCカード文化の前、有史前のようなものと書いたが、このスキャン作業をはじめて見ると1980年以前は、別のダイビング文化があったのだと思う。 1980年代以降、C-カード文化とそれは別のものなのだ。とすれば、別の文化を調べ、知ることで、現在のダイビング、そして近未来のダイビングを論じて行くことができるのではないか。 その別文化の頂点であった1970年代のことを知るには、その資料を整理すること、つまり、その時期に発行されたダイビングに関連する文献として、雑誌がある。  とはいえ、その全部をスキャン、ファイリングをすることは、(本当はやるべきだろうが)現時点での僕の時間では無理。今の自分の立ち位置から選択してスキャンし、そのポイントを述べて行く。つまり、僕の主観というフィルターを通したものにならざるをえない。 スキャン、ファイリングの後で、オリジナルは保管しておく、ということにして、ここでは自分の位置からの解説を述べ、1950年にはじまり、1960年から1970年代に頂点に達して、1980年代に現在の文化に移って行く、ダイビング、を雑誌を軸にしてみて行きたい。それにしても、たいへんな作業だな。 1970年代のダイビング文化とは。  ブログは試行錯誤の記録。読者が僕といっしょに試行錯誤してもらえれば、それでいい。というのが僕の基本姿勢だ。
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