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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0304 福島 1

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2017年2月20日、福島第一原子力発電所沖、発電所から6キロの距離にある「剣だし」と言う天然礁に、そして、2月22日に四倉・江名沖の人工魚礁に潜水することが出来た。 2011年の大震災直後発電所が津波で壊れたときに思い立った調査潜水だから、7年かかっている。どこから話しを始めようか、2011年からか?
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 今度の計画、テレビュー福島と言う局から、今度の3月11日にTBSの番組として撮影結果を放送する、テレビ番組の撮影計画である。その話がスタートした1月18日からか。それとも、福島に出発した2月19日の時点からにしようか。 気持ちとしては2011年から書き始めたい。しかし、それでは、3月11日の放送の時までに、放送の分を書き終わることができない。自分のドッキュメントとしては、やはり1月18日からスタートして、大急ぎで2月19日にたどり着き、2月20日と22日の潜水を2011年から17年までを振り返りながら、いやもっともっと前、今度潜った四倉江名沖の人工魚礁にはじめて潜った1969年、も振り返りながら書くことにしたい。  1月16日、福島テレビューのプロデューサーからMailをもらった。福島の海に潜る番組制作についてで、事故から6年になるが、まだ、福島の原発に近い海では漁業は試験操業にとどまっている。常磐沖では、漁業が再開されているが、原発近くの海で、その海底はどうなっているか知らせたい。ひどい状態になっているのではと思う人が多いはず、3月11日の特番の中で、福島の水中を取り上げたい。 桶田プロデューサーは、僕のブログも読まれていて、またニッポン潜水グラフィティも読まれていて、僕の福島の海への想いを知っておられる。 返事を出した。 「体調が良ければ行ってみたいとは思いますが、福島の久ノ浜に放射能調査で潜ったのは、5年前で、現在自分の年齢は82歳、トレーニングは欠かしていませんし、毎月一回は館山の海で潜っていますが、福島の海は海況の厳しい海です。よほど天候の良い凪でないと今の自分では潜れないとおもいます。」 とにかく、次の日1月17日にお目にかかることになった。 福島の若い漁業者は、漁の再開のために、人工魚礁などがどうなっているか知りたいと言っている。彼らのために、と言われるまでもなく、もう潜るつもりになっていた。 しかし、福島の冬の海は、骨の髄まで身に沁みてわかっている。が、それはそれ、潜る決意を固めた。  3月11日の放映となると、2月末には撮影は終了していなければならない。2月20日ごろから一週間のスケジュールとした。2月後半、言うまでもなく厳寒の時期である。 地図で見るとわかるが福島の沿岸線は何も遮るものなく、太平洋に面している。ただ、冬の北西の季節風は、山から吹き下ろすので、岸に押し寄せる波にはならない。しかし、今回潜る予定の位置は岸から5ー6キロ、陸風でも波は高くなる。北の風と波だ。  2011年晩秋11月から12年2月にかけて、理化学研究所の守谷さんの微生物の放射性物質吸収の研究のお世話をして、第一原発から20キロ南に下りた久ノ浜というところで、主に港の中で潜水した。港の外にでられない日が多かったのだ。合計10回潜水したが、港の外にでられたのは2回だけだった。 ブログ参照 2012年の調査では、放射線量、量だけを測定するシンチレーションカウンターを持って潜水した。もちろん防水のハウジングに入れ手だが、これでは、放射線の総量は測定できるが、その内容、セシウム34とか37とかの存在と量を測定記録することはできない。その測定ができるγ線スペクトル分析装置を水深60mまで持ち込めるようにした。折りよく、日本水中科学協会の会員である高野氏が、分析機製作の専門家であった。そしてハウジングは、親友以上である後藤道夫が作ってくれた。2012年夏だ。後藤道夫は2013年 12月に世を去ったので、これは遺作となった。親友価格の実費以下製作で600万かかった。
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               製作中の分析器と後藤道夫

 経産省の独立行政法人産業総合研究所の地下水研究グループの室長である丸井さんの研究テーマとしてお金を出してもらった。だから、この装置は、放射性物質に汚染された地下水が海の中に湧き出すことがあれば、それを測定しようという目的で作られた。 丸井さんは、海底から湧出する地下水の研究で、一緒に潜水した縁で、日本水中科学協会の正会員である。  2013年夏、できあがったγ線分析機で、福島第一原子力発電所直近の港堤防の根元で潜水調査する計画が持ち上がった。当然、汚染されている。水は放射線の遮蔽体だから、中層に浮いていれば大丈夫だろう。しかし海底に身体を着けたら汚染される。それに底うねりで巻き上がっている泥は危ない。 ドライスーツは、おそらく一回の潜水で破棄しなければならないだろう。ワールドダイブが作ってくれることになった。 決行の三日前、この計画は中止になった。理由はいくつか想定できる。僕が汚染されたとして、もはや80歳、余命はいくばくだから、かまわないとは言っても、問題が持ち上がらないと言う保証はない。本当の理由はわからないが、とにかく中止になった。 その後何度か同じような話し、企画は持ち上がった。その都度、企画は消滅した。もはや、この企画は無い、しかし、この分析機を世にださなければ、後藤道夫にもあい済まない。 そして、今度の企画である。 実現できる企画は、ポンポンとリズムよく進展する。停滞する企画はたいていだめだ。しかし、2013年の企画は、ポンポンと進んだのだが、つぶれた。  2月5日に船を出してくれる船頭と打ち合わせがてら船を見に行く予定をたてた。  ところが、である。漁船は漁業組合に所属している。組合の許可が必要で、組合にお伺いを立てたところ、所属の船はメディアの取材に協力することまかりならないということになった。 僕も基本的には水産の人だ。漁業の為にならないことなどしたくない。スペクトル分析も、魚の汚染との因果関係を知ることができれば、漁業の再開に役立てることが、出来ようと期待するからなのだ。いずれにせよ正しい詳細な測定がまず必要なのだ。もしも、2013年に測定が出来ていれば、今度の測定と比べることが出来ただろう。 組合は、とにかく、測定の是非ではなくてメディアを信用出来ないのだという。 2012年の久ノ浜調査の時は、福島県水産試験場が頼りだった。水産試験場から紹介してもらって久ノ浜の調査ができた。水産試験場には、僕の会社スガ・マリン・メカニックで調査した報告書がある。同じような調査をやりたいのだと話してみれば、またバックアップしてくれるかもしれない。 桶田プロデューサーも試験場をあたってくれている。また、漁協の漁船以外の船のチャーターも探してもらえるようにと、2012年に知り合った船も紹介した。  一緒に調査作業に協力していて、γ線分析機の製作も半々でやった、これも日本水中科学協会の理事の一人である宮内君がやっている沿岸生態系リサーチセンターは、福島県北部の相馬沿岸のサイドスキャンソナーによる人工魚礁の位置関係調査をやっていて、今回もサイドスキャンソナーで位置を正確に調べる必要があるし、そのための協力もしてくれる。 宮内は、放射性物質汚染調査を旗印にしたのでは、漁協の協力は得られない、人工魚礁調査の各項目をやり、その一端としてスペクトル分析をするようにすれば、とアドバイスしてくれている。  この潜水調査を受ける主体を日本日本水中科学協会とすることとして、水中撮影は河童隊の中川に、またアシスタントには富戸の大西を頼むことにした。この二人は須賀スクール(会社)で、長らくチームで仕事をしていた。加えて、日本水中科学協会が主体と言うことで、久保さん、山本さんもアシスタントに入ってくれることになった。ガードとして鉄壁に近くなった。  船は依然として決まらない。 5日に船を見に行くことはできなかったが、最近全然海で潜っていない。トレーニングしなければ、2月4日、伊豆の八幡野に大西君が主催するロゲイニングという競技の水中からの見物、見に行った。なかなかおもしろい競技だと思った。競技という方向にレジャーダイビングが向いてくれれば、良いと思う。 自分の潜水は不満足だった。ビーチエントリーでタンクを背負ってのエキジットが辛い。水中でのバランスも良くない。  福島については、僕は半ばあきらめの気持ちになっていたが、プロデューサーは、福島の局だから、様々動いてくれている。そして、僕がプールでのトレーニングに励む姿を取材したいということで、2月6日の辰巳プールでの練習会を撮影された。撮影の中川も来て、水中撮影もした。水中で僕は元気だった。

0305 福島 2

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桶田さんの努力で、出てくれる船が決まった。久ノ浜の船だという。2月内に撮影を終了、3月11日に放送と最初の段階で予定していたのだが、ほぼ予定どおり、2月19日に出発することに決まった。25日までに何日間潜水ができるだろうか。。  2月10日、いわきへ行く。 水産試験場と、久ノ浜の船を見に行く。 試験場では、僕の調査の趣意を説明し、スガ・マリン・メカニックがやった調査の報告書のコピーをもらう。魚礁のGPS値を教えてもらう。 福島の魚礁はほとんどが水深40m線にある。最初に考えていた双葉の魚礁も大熊の魚礁も40ー50mにある。40m以上は混合ガス潜水になるし、福島の海の状況、そして、自分の年齢を考えると、自分が潜るのでは35mが精一杯だ。福島第一の前の天然礁、剣だしは、水深25m線にある。そして、四倉沖、江名の魚礁は、水深32mだ。 水深ということで絞るとこの二カ所が候補になる。 漁場環境部長の談では、今はもうほとんどの魚種がセシウムは検出されていないし、線量も基準値以下で、出荷制限も解除されている。2012年に来た時には、タコが食べられるぐらいで、漁はしても、測定しては廃棄だった。「アイナメはどうでしょうか?」ホームページでも確認できるのだが、インタビューの形で撮影されていたので、僕は訊ねた。「アイナメはもちろん大丈夫です。」福島県四倉のアイナメは、特に美味で、震災前は、ブランド魚だった。そして僕はこのアイナメに特に思い入れがある。 
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                 大和田さんと福島の人工魚礁
 平成26年:2014年に書いた「ニッポン潜水グラフィティ」のおわりに囲み記事で書いた福島沖人工魚礁「福島県で人工魚礁調査を行った海域は、放射能汚染海域になってしまっている。松川浦、相馬、双葉、大熊、四倉、江名、すべて沖に人工魚礁があり、潜っている。1970年代のホームグラウンドだ。そして、その1970年代は福島県水産試験場の大和田技師と潜っている。大和田さんは、人格が丸く、顔も丸く、身体も筋肉質で丸い。ダイバーとして、僕より上だった。なぜかと言えば寒さに強い。良いダイバーかどうかは寒さに対する強さで決まる。冬、水が澄む頃、相馬の沖から岸を見ると、空気も澄んで、蔵王あたりの山並みが見え、まっすぐに北西の季節風が吹き下ろしてくる。潜水を終了して船に上がると、大和田さんはウエットスーツをがばっと脱いで真水をかぶる。蔵王おろしが当たって身体から湯気がでる。僕もまねしてみた。たちまち身体が硬直して、もう少しで低体温症で凍死するところだった。 震災、大津波のことで何かの役に立ちたいと思ったが、瓦礫の引き揚げは、僕の年齢では足手まといになる。僕でなければできないこと、海に流れた放射性物質の調査を企画した。理化学研究所の守屋さんとともに、彼の微細生物の研究をたすけて、久ノ浜で調査が出来、10日間、うねりの中、濁水の中で潜った。その経験を生かして水深40mまで持ち込める放射線スペクトル分析装置のハウジングを後藤道夫に作ってもらった。彼の最後の仕事だったろう。昔潜った双葉沖(福島第一原発の前だ)の人工魚礁に潜って調べたい。大和田さんの力を借りたかったが、試験場で消息を訊ねると、「残念なことでした」という答えが返ってきた。大和田さんも津波には勝てず、流された。そして僕は福島第一原発の前の海には、いまだ潜れていない。」 これが、今度の企画の原点、僕の書いた企画書ともいえる。大和田さんはすでに定年退職されていたが、彼が生きていれば、僕の潜水は、実現していただろう。少なくても今度の潜水で船の上で助けてくれただろう。 大和田さん、福島魚礁との付き合いの最初のころ潜ったのが、四倉沖、江名だった。その時に書いた魚礁調査報告書のコピーがPCに残っていた。昭和44年:1969年報告書とファイルにタイトルが付いている。その中で、これがベストショットだった。オレンジの縁取りになっている。黄金のアイナメだ。 黄色いアイナメは、アイナメの婚姻色でそれほど珍しいものではな
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いと知ったのは、後に調べたことであり、水中での出会いは驚きだった。オレンジと黄金に近いイエローとの対比、それを、生きていられる極限のような水深32mの冷たい福島の海底で見る。シャッタアーを押す。 大和田さんは、腕いっぱいに抱えるようにして、オレンジのホヤをもぎ取ってきた。「拓水」という調査船の甲板の上で、ナイフでホヤを開いてたべた。これまで口にしたことが無い味だった。
☆★☆  船を出してくれるという久ノ浜は2011年10回の潜水をしたところだ。  船は及川造船の及川丸、及川造船は漁港の中心部を大きく占めている。港の最有力者なのだろう。2011年には造船場も大きく破壊されて、壁もなく屋根と半ば破損した作り掛けの船があったが、今は、どんどん新しい船を造りだして居る様子である。作り掛けの漁船が何隻も並べられている。
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 及川丸は、25人乗りの釣り船で、船室もあり、風を避けられる。心配なのは船へのエキジットで、僕たちはゴムボートを使うつもりであり、またゴムボートがなければ、潜水できない。 人工魚礁調査では、アンカーを入れて、アンカーロープに沿って潜水していくのが常道であるが、魚礁の位置に、潜降索をかねた目印ブイを入れ、それにゴムボートをつなぎ、本船は近くで見守り流しているのが良いということになった。  海を背にして、インタビュー、感慨として、僕の潜水人生のほぼすべてに関わってきた人工魚礁調査が、本格的なものとしては、これが最後、その時僕は本格的調査をするつもりになっていた。最後だと思うと感慨がある。そして、福島の海を一緒に潜った大和田さんに思いを馳せた。いま、ここに居たら、この場にいたら、そんなことを話した。 2012年の調査でお世話になった八百板さんはその時で80を越えていて今の僕よりもはるかに元気だった。今もお元気だろう。及川さんに訊ねると、お元気ということだった。戻り道で、船だまりを見ると、小さい、下から二番目に小さい八百板さんの正栄丸がいて、漁の支度がしてあった。多分刺し網漁をされているのだろう。本当にお元気らしい。多分87歳か。
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                       正栄丸、真中の小さい船。

 東京に戻って、夜、1人になると考えた。僕の放射性物質の調査が何になるのだろう。もはや、魚からはセシウムは検出されていない。つぎつぎと生産制限も解除されている。その時にセシュウムのグラフ表示の調査映像が放送される。グラフと言うものは、レンジの取り方で、如何様にも見えてしまう。 人工魚礁調査で黄金のアイナメを追うことをメインテーマにして、第一原子力発電所はサブテーマにしたら?と提案した。  それでは、第一の前に行かないでお茶を濁したという言い訳になってしまう。が、黄金のアイナメは、テーマの一つとしておもしろい。  そして、なぜセシウムを測ろうとするのか。考え抜き、なぜ?が見えてきた。そのことは、もう一度、後に書こう。  ☆☆ 2月13日、風邪を引いてしまった。インフルエンザが流行している。インフルエンザになったら、福島の企画、福島に潜ることは出来なくなる。一日、外にでないで横になっていることにした。  2月14日、 起きあがらなくてはいけないと、起き上がるが全くの無気力とはこういうものかと思うような状態、予定を四つ入れていた。①ダイブウエイズにレギュレーターを持って行き整備してもらうこと②お台場の潜水の申請書をつくり出しに行くこと。お台場の申請は、この後、もしものこともあるのだから、尾島さんの奥さんにバトンタッチするその予行を一緒にやろうと話していたのだが、とてもそんな余裕はない。自分一人でやるのが一番楽なのだ。③ワークショップ、久保さんがDPVの話題を、④ワークショップの後、福島行きの最終打ち合わせをする。 ①②はキャンセル可能、③④は不可。 困ったことが一つ付け加わった。ヒャックリ、横隔膜の痙攣が止まらなくなった。 ワークショップと打ち合わせは何とか、それほど具合の悪さは表に出さずに終えた。潜水すればすべては治る。と言うだけ。幸い、締めの飲み会は機嫌良く、横隔膜の痙攣もおさまって、過ごすことができた。  2月15日 横隔膜痙攣はまたはじまった。胃の調子が少し悪いことと、心理的なプレッシャーのためだろう。 お台場の申請、ダイブウエイズのレギュレーター整備を終えた。レギュレーターのセカンドが30年前の型だと言われた。30年整備をしなかったわけのものではない。度々、見てもらっては来ているが、セカンドはこれが一番気に入っているので、残っている。手島さんは、あんまりだ、ということで、10年ぐらい前?の新型に換えてくれた。新しい型を次々出すメーカーとしては、ギャランティ出来ないというのだろうが、ゴム製の部分だけ換えればレギュレーターは何時までも生きている。東亞潜水機時代、僕はレギュレーターのデザイナーだった。ダイブウエイズの武田さんは、僕の弟子筋なのだ。手島さんは孫弟子になる、と脅迫して、サービスさせている。サービスだから必要最小限度にしている。 2月16日 横隔膜痙攣はどうやら治めたが、喉の痛みがでてきた。これもかなりやばい。古い売薬が残っていたので飲んだ。よく効く薬だ。日本水中科学協会の運営委員会がある。資料作りは最小限度させてもらった。お弁当は食欲がなくて残してしまった。最新ダイビング用語事典Ⅱについて、中川が、このようなものは売れないだろうと今頃になって異論を唱えるが、論争する気力はない。 2月17日 事務所で福島の機材準備をする。今度のテレビ取材の長島カメラマンが事務所の倉庫化した状況でのインタビューを撮りにくる。僕の状態をカメラマンの目で見れば、心配だろう。 2月18日 故大岩先生を偲ぶ会があり、大岩先生には僕の60歳100m潜水の後ろ盾になっていただいたり、お世話になっている。出席の通知を早くから出していたのだが、自重して欠席する事にした。池田知純先生とお目にかかって、高気圧障害防止規則改正についてのお話をしようとも思っていた。池田先生のアドレスがあったので、世話役の望月さんに断りをお願いした。 大岩先生の会は、たいへん盛況だったという。  2月19日 そして、出発の朝がきた。

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2月19日、2時に目覚めてしまった。6時に事務所で待ち合わせだから。僕の睡眠のピッチは4時間だから、次は6時に目覚めることになる。それでは、間に合わなくなるので、眠れない。 5時30分に事務所に行った。山本徹さんが車に乗せていってくれる。5時45分に出発した。 車の中で眠る。 10時に福島県四倉の久ノ浜に到着した。およそ4時間である。2011年には自分が運転して、アシスタントをしてくれる鈴木君を拾い、12時少し前に久ノ浜到着。15時頃に潜水を終了して、16時ごろ東京に向かって走る。往復自分で運転する。6年前はまだまだタフだった。  11時には、全員集合して、潜水準備を始める。河童隊の中川はゴムボート2隻を車から降ろして組み立てを始める。大西がゴムボート運用の中心である。 久保君は、僕と山本さん三人の使うタンクを持って来ている。31%酸
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素のナイトロックスを使う。全体の世話を総合的に見る、上回りを日本水中科学協会運営委員の国方君が引き受けてくれる。彼は、第一原発に近い富岡町の出身だとかで、来てくれた。ダイビングの関連者は、自分も入れて、総勢5人である。この編成も、機材の用意もこれから始める潜水の段取り、僕が一番大事なこととしている段取りもすべて中川が中心になって仕切っている。これまで、すべてのオペレーションで、僕が中心だったが、今回は中川である。僕は一切主張はしない。こんなことは、初めての体験になるが、船頭多くして、船、山に登るというたとえもある。 自分は、自分の道具の心配をしていれば良い。レギュレーターは、整備してきたDWだが、セカンドを換えてくれたので、マウスピースは、特に小さいものを使っていたのだが、普通に小さいものに変わってしまった。別に問題はない。BCは、これも30年ものの、旧アポロのプレステージである。着脱が目をつぶっていても手早く出来なければならない。ドライスーツはワールドダイブが、2013年に作ってくれたもので、その後使いこなれている。5mmのドライである。問題はインナーである。中川も久保さんも、山本さんも、大西も国方君も、みな今時の綿入れのようなインナーを着ている。僕は1980年代に流氷の潜水を重ねた時に着ていたインナーだ。裏が起毛で、表は水を跳ね返す黒い生地だ。DEEP というタッグが張ってあるから多分シンギーのものだろう。お台場では、   キルティングの作業員つなぎを着ているが、昔のDEEPを引っ張り出して来た。一番下にダマールの上下を、これも80年代、流氷時代のものだ、その上に「日だまり」これは柴田君に最近もらって気に入って着ている。普段の生活では、ダマールと日だまりを交互に着ている。それを重ねた。2012年の冬、ここ久ノ浜で、水温は5ー6度だった。その時何を下着に着ていたか覚えていない。特別のものを用意していれば覚えているはずだ。覚えていないから、多分お台場で着ているキルティングだったろう。
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 船に機材をすべて積み、昼食のお弁当を食べ、港も真ん中に船を置き、ゴムボートに分析装置を積み、アンカーを降ろしてブイを打ち、潜水を開始したのは14時59分、僕はタンクを背負い、サイドロールのようにして、飛び込んだ。船縁は高いけれど、そのことは問題ない。やはり冷たく感じたがダイブコンピューターの測定では11度もあった。山本さんのダイブコンピューターが10度だったから、間違いではない。 飛び込んで二呼吸ほど深呼吸すると、収まって泳げる態勢になる。泳いでゴムボートに向かった。ウエイトが軽くて沈めない。 7キロのウエイトベストに4キロのベルト、レッグが1。5キロ、タンクが12リットルだから、下着は増えたが、お台場と同じで良いと思った。久保さんから3キロもらって、BCのポケットに入れて、沈んだ。海底の水深5。9mでは、オーバーウエイトになってBCに空気を入れた。下では普通に泳げたが、水面で足が浮くのは困った。立ち姿勢になり空気をぬいても、足が浮く感じになる。身体のバランス感覚が悪い。9分間潜水した。この場所は2012年に潜水したところなので、よくわかっている。柔らかい砂で、巻き上がるけれど、ヘドロではない。2012年には線量が二桁上がる。ホットスポットがあったが、そのスポットに
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繰り返して行くことが出来なかったのだから、今度当たるはずはない。 ゴムボートに上がる時、5mmのスポンジ手袋では、手早くバックル類を外すことが出来ず、付き添ってくれている山本さんとボートの上の久保さんが引きはがすように手早く脱がしてくれてしまう。自分で手早く脱げなかったことが、少し悔しい。手袋に慣れていないのだ。  とにかく予行演習は終わった。これをやらなければ、危ない。内側から感じる体調は悪かったが、外側から見たら、わからない程度だろう。  宿は、「いわき簡保の宿」という温泉だった。冷たい水に浸かったあとの温泉だからごちそうだ。

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 2月20日  剣だしは、福島第一原子力発電所の沖、およそ6キロにある天然礁である。かつて、スガ・マリン・メカニックで福島県水産試験場の依頼で調査したことがある。残念なことに実際に潜水したのは自分ではなかった。チーフダイバーだった河合が調査した。その報告書を垣間見たことがある。岩が入り組んでいて隙間がある。魚が隠れる、集まりやすい良い磯なのだ。そして、河合が言っていた、福島らしからぬきれいな磯だと。その場所の平面図だけが、なぜか残っている。僕が行きたいと思って残しておいたのだろうか。  桶田プロデューサーと最初に会った時に見せたのもこの剣出しの図だった。なお、この磯根の名称は、各組合によってちがうらしい。剣だしとは、あくまでも僕の持っていた図に書かれた名称である。手にしている図にも、イシキネとも書いてある。 2011年に福島県水産試験場におじゃましたとき、スガ・マリン・メカニックで調査した報告書が書庫にあり見せてもらった。写真が入った報告書で、その中に、この磯ねの報告書もあって、見たような記憶がある。今回訪ねた時は見せてもらえなかった。テレビ局の取材も兼ねていて、カメラが入っていたからだろうと思う。 終わりに、結論として剣だしのことはもう一度のべるが、僕の調査手法の基本は定点連続観測である。この根は定点になる。  20日朝、早朝の出発だった。聞いていなかった。すでに述べたように今回の自分は、潜水計画、段取りの中枢ではない。出演者という役割だ。 午前中だけがかろうじて潜れる海況だろうとは、僕も予想していた。たたき起こされる形になった。一緒の部屋の久保さんは、規律正しく、朝もきちっとしている。もう出発できる状態になっている。僕は朝が弱い。10時頃にならなければ、人として機能しない。 車に乗せられて、久ノ浜に向かう。10分ぐらいで到着してしまう。せめて1時間かかれば、眠れるのに。潜水機材はすでに船に積んである。撮影調査機材を用意して、潜水機材は確認すれば良い。 僕の撮影機材は大げさなものではない。昔使っていたsea&seaのシンプルなハウジングにフィッシュアイのライトをつけた。深さ40mでも大丈夫だし、いざというときに手放して捨てても良い。 中川はお道具といえるプロの撮影機材を持つ。軽量のカメラを用意してきているがそれでも大きい。山本君は、ガンマ線分析機を持つ。久保さんは大きいDPVを持っている。僕が流されたとき、ゴムボートに到着出来なかった時に曳航してくれるという。そんなことは無いが、スーパバイザ―である。  久ノ浜から第一の前までは、40分ぐらいだろうか。剣出しのGPS位置は、漁師に正確な数字をきいている。
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 沖合、6キロ沖といっても、第一はかなり近くに見える。第一をバックにチームの記念写真を撮る。  潜水準備をする。いつも何か重要なものを忘れる。マスクを取り違えている。ウエアラブルカメラが取り付けられないマスクを持ってきてしまっている。これは、痛恨と言っていい。僕の見た目の映像が撮れないのだ。このため、このポイントの水中写真がない。
 泣いているわけには行かない。 凪とはいえないまでも、ゴムボートが出せる。 及川丸は、停止して、その周辺を小回りする。GPSの位置なのだ。小高く盛り上がっている上に来ている。位置決め、潜降の錘、ブイを入れる。船から飛び込んで、ブイまで泳ぐのがいつも不安である。泳ぐトレーニングは欠かしていないが、不安である。恐怖心、不安を大事にする。安全は恐怖というカードの裏側だ。などと書いているが、本当に不安だ。 上回り、潜らない世話役の国方君がタンクを背負わせてくれる。みんなが入り、スタンバイした状態で、船を近づけて貰って、サイドロールで飛び込む。
         
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 泳ぐと、少し流れがある。流れというほどの流れではないのだが、下半身が浮いているような感じがする。インナーの浮力に慣れていないだけだと言い聞かせて泳ぐ。潜降索につかまってたぐるとすこし緩い。余分があるということだ。山本さんと一緒である。僕は、水底でγ線分析器を操作する。それを中川が撮影する。このカットを押さえれば、あとは、その場の生物を撮れば、この撮影は成立する。 潜降索をたぐるが、下を向いているので暗い。人間の目はカメラの目に比べて暗い。  海底に着く。泥岩という感じ、所々にオレンジのホヤが着いている。γ線分析器を手に取る。驚いた。 分析器は上面のCRT表示、テレビモニター画面を上からウエアラブルカメラで撮影記録するようになっている。そのウエアラブルカメラが飛ばされてしまってない。取り付け部が衝撃を予想した強度がなかった。これがこの日二回目の痛恨、もう一つ痛恨が続くのだが、それは後からわかること。 分析器を持って少し泳ぐ。岩ノ下に隙間がある2mほどの高さの磯に接近する。魚、多分メバルの類が、右手下に見えた。それをゆっくり見る余裕がない。視界が狭窄している。岩ノ下に分析器のヘッドを差し込んでみる。 自分の潜水時間は無減圧で、8から9分時計画していた。後ろでカバーしてくれている久保さんに浮上の合図をする。潜降索の位置までは10mも離れていない。 ロープをたぐるのは長くかかるという感覚がある。むかし、福島の魚礁に潜水したころとは、浮上の速度が2倍以上遅くなっている。 波が出てきているのでセフティストップは5mでする。新しいダイブコンピューターi300 は、セフティストップの表示がわかりにくい。 頭を抑えるように上に見ていてくれる久保さんが上がったので、僕も上がる。波がかなり高くなって来ている。BCとウエイトを脱ぐのに手助けを受けてしまう。本船にもどり、船縁から手を降ろしてもらって、よじ登る。それほど息は切れていない。 潜水開始 9時42分 最大水深27.2m、潜水時間14分 水温11度 波が高くなってきて、山本さん、中川が機材をあげてよじ登り、ゴムボートの引き揚げを見ると、このくらいがゴムボートを使う潜水の限界かと思う。 中川の撮影プレビューを見ると、カレイ、そして黄色いアイナメもいる。カレイは手乗りのように接近出来たという。海底はオレンジのホヤで美しい。 とにかく想像していたよりもきれいだ。これが、福島第一の目前なのか、福島の海は生きている。  明日21日は風が強くなる予想で、潜水は中止、中川と大西は、東京に戻った。 僕は、気圧配置は冬型だから、明日も早朝は潜れるのではと未練を残しているが、とにかく、福島第一の前に潜水でき、撮影もできた。自分については痛恨がいくつかあるが仕方ない。 温泉に入って身体をやすめよう。  2月21日 宿の夕食は相当に豪華であり、朝食のバイキングもとても良いのだが、あまり食欲がない。と言って食べないわけではない。 分析器のカメラはゴムボートの上で外れて飛んでしまった。外れないように取り付ける工夫、工作をしなければならない。みんなでドイトに行った。取り付けはうまく出来たのだが、いわきのドイトは大きい、何でもある。東京人のくせに田舎にきて感心している逆おのぼりさんだ。僕はサングラスを買ってしまったが、一括して久保さんが払ってくれてしまった、テレビ局に請求すると言って、僕が出そうとするのだが、聞いてくれない。ありがたくいただいて、久保さんに買って貰ったサングラスということで、大事に使おう。  宿に戻り、国方君は富岡町の同級生にと会いに行く。久保さんは温泉でゆっくりする。山本さんはアクアマリン福島に行くという。 僕は疲労が大きいので、常識的には温泉を選択するべきだ。僕は迷ったが、「えい!」っとばかりに、アクアマリンを選択した。アクアマリンとは因縁があり、書くことがたくさんあるが、それは別の話だ。 このブログの撮影のオンエアーは、3月11日 午後二時 TBS テレビです。

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2月23日予想通りに天候は晴れ、風もなさそうだ。バイキングを食べてから出られた。 今日潜水できたら、これでロケは終了し撤収するので、チェックアウトをして出るという。僕は何の相談も受けていない。出演者なのだ。自分的には、ようやく身体も慣れてきた。調査ならば、これから、という感じなのだ。まだ何も調べていない。機材のテスト程度しかしていない。しかし、これはテレビロケなのだ。このごろ、テレビから足が遠くなっている僕の感覚がちがう。桶田プロデューサーが、これで十分と言えば充分なのだ。 潜水は四倉沖の江名に潜る。江名はS44年に福島の魚礁似始めて潜ったときの場所で、大和田さんと潜った。途中、気分的に折れたときには、ここで黄金のアイナメを追うことにしようなどと言ったこともある。潜る予定のポイントは高さが10mあるペンタリーフという大型魚礁だ。 久ノ浜を出て、福島第一とは逆方向、遠ざかる方向におよそ40分。GPS位置もしっかりとれているし、魚探にも大きく写るはずだ。少しばかり捜索して、魚礁を見つけ、今度は大きいダンフォース型錨を潜降索のアンカーに着けた。今度はマスクマウントもGOPROを着けた。分析器も完璧だ。潜水の手順、段取りも各自よくわかってチームになっている。中川が撮影、須賀が出演、山本が分析、久保はDPVでアンカー周辺を回って、魚礁とアンカーの間にラインを張る。ラインが長い場合には、須賀を曳航する。これは、オーバースペックだと思うけれど、態勢として完璧だ。大西がゴムボートオペレーター、国方が及川丸での機材降ろしと引き揚げ、須賀の引き揚げ、など上回り全般。 水温が11度と暖かいので、ドライスーツは、インナーの下着をダマールとDeepだけにした。これで足の浮きが若干改善されるだろう。 水深は32mを予定して、僕の潜水時間は8分とした。31%のナイトロックスを使う。  久保さんが先に潜って捜索してラインを張る。かなり時間がかかっている。アンカーから15mの位置に大型魚礁がある。
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 中川、山本が飛び込み、ゴムボートに着いてから、須賀が入る。やはり足、下半身が浮くけれど、それは自分が斜め45度の姿勢に慣れてしまっているからだろう。中川が僕を撮影しながら潜降していく。 以下の説明は自分のマスクマウント ウエアラブルカメラの撮影結果を見ながら書くことができる。このマウントの撮影、自分ながら上達している。そのまま見られるし、相当迫力がある。編集してスマートフォンに入れておこう。
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 32mの降下は長く感じるが、安全策としては、速すぎるだろう。下を見ながら潜っていくので、かなり濁っている感じだが、ヘッドマウントの撮影結果から、やや上向きになった映像をみると、福島沿岸としては、透明度が高く、ペンタリーフの向こう側、7mほど離れたところに、1.5角の魚礁一個が見える。1.5角魚礁群の上に、大型を枕設したのだろう。カメラは1.5を見て、写しているが自分の目は確認していない。 アンカーまで下りて、魚礁に引いたラインにすぐに乗る。下りながら大型が見えるかと思っていたのだが見ていないのでラインがあってよかった。 
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久保さんのDPVにつかまった。 山本さんの分析器を見る。これも演出的だ。上方にキツネメバルが見える。あまり大きくないがスチルを撮ろうかとカメラを構えると、誰かが僕の身体の方向を力を入れて動かした。その方向、足下に大きなミズダコがうずくまっていた。ライトを点けて、スチルを何枚か撮る。1枚か2枚で、他を見た方がよかったが、視界が狭い。タコから目を離すと、黄色いアイナメがいた。黄金とまでは言えないが、黄色い。そのアイナメに接近したが、追い写しをしてしまう。カメラマンとしては落第だ。最近スチルを撮っていないので下手になっている。追って、魚礁から少し離れた。久保さんが、戻るか?と聞くので、浮上のサインを返す。 ロープをたぐって浮上する。久保さんは僕の上に居て抑える形だから、これで良いと思って上がる。 DPVは完全な中性浮力で彼の横に漂っている。手は触れていない。このDPVの優れたところは、ここなのだと思う。これまでのスクーターならば、手に持っていなければいけないだろう。手が塞がってしまう。
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捨てても惜しくないカメラとして、乱暴に使っているが壊れない。

 久保さんとの浮上サインを確認して水面にでる。新しいダイブコンピューターの安全停止の表示は、やはりよくわからない。安全停止は確認できていない。ダイブコンピューターの画面をみると、目一杯速度違反のマークがでている。M値の表示のところには、DECOのマークが点滅している。31%のナイトロックスだから、良いのか?ナイトロックスへのダイブコンピューターの切り替えは、面倒すぎる。空気のままナイトロックスを使えばそれで良いと考えていた。 10時53分潜水開始、最大  34。3m 潜水時間17分 水温12度 速度表示は最大、右はDECOのマーク点滅。
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 全面的な信頼を置いているのだが、久保さんの潜水時間は長い。僕たちの潜る前にライン張で潜っている。僕よりも先、上に上がっている。別に停止はしていない。多分、僕たちの潜水を、水深20m辺で見下ろしていたのだろう。僕は彼に右へ倣えで浮上している。31%ナイトロックスならば、これで良いのか。良いのならば、調査の潜水はすべてナイトロックスが良い。 帰途、四倉の道の駅で食事をして速攻で東京に帰ってきた。  さて、これで終了だ。番組の放映は予定どうり3月11日午後2時、長さは多分10分程度だろう。その後、日を改めて30分の番組を作る予定とか。 僕自身が老いた姿でテレビに出ることは、恥ずかしいのだが、そのことでこのような番組を作ることができ、γ線スペクトル分析器も世にでたとすれば、厭ってはいけない。
 それに、人が潜る理由は、人の頭脳が水中に入り、水中で考える。水中の体験を基にして考える。潜らなければ、議論は常に机上の空論になる。だから、頭脳が生きている限り潜る。その結果、人間の身体が死んだとして、それはそれだけのこと、いつも思う。ダイバーの身体は自分という頭脳を載せて潜る潜水艇だと。耐用年数がとっくに切れている潜水艇だけど。まだ、廃棄処分にはしない。

0311 福島オンエアー

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 今日、3月11日、14時からTBSのオンエアー、どんな形になるか知っていないが、それはもう制作するプロデューサーの側に任せるのが僕のスタイルだ。撮影ロケが終わった後も編集の段階で、自分の意見を言いなおさせる人も少なくないが、それでは、、すっきりしたものにはならない。自分の意見と制作者の意見は大きく異なるのが常であり、その調整など出来ないし、時間の無駄である。 どうなるか、楽しみに見た方がいい。  今度の潜水、82歳としては、いっぱいいっぱいだった。僕が1969年に大和田さんと江名の魚礁二潜ったとき、二人ともウエットスーツだった。その時、34歳の自分と、いま一緒に潜ったらどうだろうな、想像する。 そのころ、ダイバーの現場定年は45歳頃だとおもっていた。45歳になったら陸に上がって社長業に専念して、会社を発展させようと考えていた。それがちょっとした弾み、日本テレビの山中さんというプロデューサーに出会い。そのご1986年51歳のときに娘の潮美とニュースステーションを始めたことで、人生の計画がくずれ、この年齢82歳までダイビング人生を送ることになってしまった。 今、カメラマンの中川はたしか62歳だ。その運動能力、すごいなーとおもう。 ダイバーの現場年齢が70歳ぐらいまで、いや75歳ぐらいまで上がったのだろうか?。
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82歳というと、すごく頑健なひとのように僕を見てくださっている人が多いと思うけれど、自分でも(主観的にも)よその目(客観的に見ても)で見ても、自分は病弱だとおもう。もっと鍛えておけば良かったと反省もする。ただ、タバコを30歳でやめたこと、お酒は53歳、ニュースステーションの途中でやめたことは、良かった。それと、自分は病弱だと思っていることが今でも潜水を続けていられる理由なのかもしれないともおもう。  年齢のことは忘れなさいというが、忘れられるものではない。各方面から、今まで出来ていたことをやめるようにプレッシャーがかかる。高齢ということ、半分は周囲にたいする戦いである。 今回の番組も、僕が高齢であるということがそのテーマの一つになっている。それは自分にとって好きではないけれど、それを認めなければ、福島に自分の身で潜ることは出来なかった。 さて、まだ福島はやめないつもり、今度の潜水で、連続した定期的な定点潜水調査が必要だと改めておもった。

0314 辰巳

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 3月14日の辰巳は3時間だった。テクニカルの練習に本田君、長山君が来てくれた。サイドマウントの準備に1時間かかるから、3時間でないと、練習時間が少ない。一旦、セッテイングしてしまえば、繰り返しは容易のようだけれど、タンクにレギュレーターを付けるだけでも慎重にやって、水の中に浸けて見て、空気漏れが無いことを確認する。深く、例えば80mに潜ったとして、空気漏れは大変なロスになる。
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僕は、すべて簡略化を旨としている。長山君と話した。もっと簡単に出来ないのかと。やはり練習での習熟で早く、完璧にできるようになる他に方法はないのだろう。 中川も 時間が合えば、辰巳でサイドマウントの練習をしている。  僕が、テクニカルをやらない理由は忘れ物が多いことで、テクニカルは忘れ物をゆるしてくれない。昨夜も、マスクを車の中に忘れて、とりにもどった。そういう人は、向いていない。 リブリーザについても同じようなことがいえる。21世紀の潜水機はリブリーザだと思った僕は、70歳の時にインスピレーションを買った。時期は、中川より早くて、彼に声をかけて、一緒にやろうと相談した。リブリーザで80ー100mを通常に潜ろうと思っていたのだ。 74歳までがんばってみたが、僕の能力では危ないと、涙をのんでやめることにした。理由の一つは、アラームを何度も鳴らしてしまったこと、アラームがニヤミスだとすれば、ハインリッヒの法則で、そのうちには事故になる。もう一つは、デリューエントガスがゼロになって、吸気が停止した。ベイルアウトタンクで、脱出できたが、6リットルタンクでは、減圧停止の分は無かった。僕は減圧症になりにくい体質らしく、減圧症にはならなかったが、なっても不思議はない状況だった。 また、30キロを越える重量で、ビーチエントリーは、無理と思ってしまった。 振り返って見れば、何れも練習量を増やすことで解決可能であったから、やめたのは、はやまったかとも思うが、僕が生きながらえているのは、このあたりがポイントかもしれない。 3月14日 辰巳はじめておいでになった人と、いろいろ雑談する。一日3回の潜水で減圧症にかかり、復帰のためトレーニング中だという。減圧症の原因は、与那国のハンマーヘッドシャーク(シュモクザメ)だという。ぼくも、与那国のハンマーで、腰が痛くなり、減圧症をうたがって、江原病院の杉山先生(当時)に相談したことがある。先生の診断では、単なる腰痛で、腰の減圧症は希だということで、放置して治った。与那国のハンマーは、水深10mぐらいのところで、ハンマーが巡っているあたりを巡回していて、下にハンマーが見えたら、急降下する。深さは30から40、場合によっては50で、ハンマーに追いつけなければ、また10mにもどって巡回を続ける。減圧症になってくださいと言うようなスタイルだ。それでも、意外に減圧症にはかからないもので、与那国ハンマーでは、で、このスタイルが続いている。卵円形開存とか、かかりやすい人は、与那国ハンマーはやらないことだ。このスタイルでは、ダイブコンピューターの無減圧限界指示は通用しない。 おいでになった減圧症既往の人は、女性だったが、近頃珍しい突撃タイプだったので、がんばるように励ましておいた。ただし、レクリエーショナルダイビングで、一日に3回潜水はやめた方が良い。やりすぎだ。 暖かい条件の良い海でのボートダイビングは、どうしても、潜水回数が多くなる。3回は普通のことなのだろう。

0319 ロゲイニング

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 2月4日、伊豆、八幡野で大西君がやっているロゲイニングを見に行った。 昔、1970年代に流行った、UWN競技、ナビゲーション競技、流行らせようとして鐘と太鼓で囃子たてて、かなり成功したのだが、今はほぼ、消えてしまっている。関西の山本進さんに聞いたところでは、関西ではまだ、一年に一度、大会をやっているとのことだが未確認. そのUWN と同じようなものか、と聞いたが、よくわからない。とにかく、実際を見に行くしかない。  実際の海に潜るトレーニングが不足している。2月中旬には福島に行く計画がある。そのトレーニングも兼ねてと、考えていたら、山本さんも行こうと言ってくれた。  前述のUWNとは? 僕が何かを説明しようとすると、昔の話からはじまってしまう。言いたいことに到着するのに手間がかかる。でも、今度のロゲイニングを考えるとき、このアンダーウオーターナビゲーションを説明しておくことが大事で、それは僕だけしかできない。ならば、手数はかかってもここから説明をはじめよう。
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 参考にしていくのは、「海の世界」1975年10月号、この号では、海洋博ダイバーズフェスティバルの特集もやっている。この海の世界と、今の月刊ダイバーを比べて見たとき、過ぎていった40年の時を眺めてしまう。なお、海洋博ダイバーズフェスティバルでもUWナビゲーションは主要な競技種目になっていた。 ナビゲーションは、二人一組のバディが、コンパスを頼りに、設定されているポストを周回して、ポストに置いてあるタグを全部とってこなければならない。そして、その速さを競うのだ。コンパスワークと、速度が要求される。技術的に難しい競技と言える。

 コースの設定は、ポストの位置から垂直にブイを浮かべて、水面上で三
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角測量で位置を出さなければならない。測量技師の技術が必要になる。そのための講習会も開いたが、測量技術士が各支部には1人ぐらいはいるもので、また友人関係もあたって、測量をおこなった。
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 コンパスも、最初は普通の水中コンパスをつかっていたが、やがて、専用のコンパスを作るようになった。ダイブウエイズ社長の武田さんは、この競技の初期に、チャンピオンであったので、その経験を生かして、ダイブウエイズのコンパスを作って売り出した。
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 海の世界の記事をみると、現在、国土交通省関連の法人、日本潜水協会の理事長である鉄さんが、息子と潜りたいなどと書いている。彼もこの競技のチャンピオンの1人であった。その息子が今の鉄多加志さんである。しかし、この親子が競技にでるところまで、競技が持続しなかった。


  ADSの望月さん(故人)の主催で、モトスコなどで定期的に大会が開かれ、1980年代の中頃までは続いた。また最初に述べたように、まだ行事が持続している地域もあるが、全国レベルで盛んな状態を作り出すことができず、事実上このゲームが終焉したのは、1980年代、PADI、NAUIを中心とする米国系の指導団体が業界の主流になり、全日本潜水連盟、ADS など、熱心だった団体の力がなくなり、バトンとして次の時代に受け継がせることができなかった。勝ち負けにこだわるハードなスポーツとなったことも、時代に合わなかった。ちなみに僕はこの競技はぜんぜんだめだった。もう少し練習しておけば、無意識にでも、まっすぐ泳げて、水中での位置感覚が良くなったかもしれないのだが。  ロゲイニングとは、どんなものだ、失速したナビゲーション競技の再来、復活か? そんな思いを持って、2月4日、八幡野で行われた第二回、水中ロゲイニング大会を一緒に泳いで見ることにした。  2月4日のロゲイニングについては、2月5日のブログに書いている。よみなおしてみたら、良く書けているので見てください。 http://jsuga.exblog.jp/26609640/  さて、UW ナビゲーションは、陸上のオリエンテーリングに触発、倣って行われた。水中ロゲイニングも陸上のロゲイニングに倣って、考えられた。  伊豆半島はジオパークである。ジオパークとは大地の公園を意味していて、大地のすべてを学ぶ自然の公園でユネスコも世界ジオパークを認定している。日本のジオパークは43地域ある。 大西君はなにかそのジオパークのガイドの講習をうけて、そのガイドの資格をもっている。 伊豆半島ジオパークロゲイニング大会が毎年開催される。らしい。 ロゲイニングとは、一言で言えば、目的を持って歩き回ることだ。肝心なことだから、もう少し詳しく、パンフレットから引用しよう。 「ロゲイニング(rogainin)とは地図に記載されたポイントを探し出すオリエンテーリングと宝探しゲームを組み合わせたようなアウトドアスポーツです。どのポイントをどういう順番で回るかは各チームで決め、制限時間内でできるだけ高得点を取るのが目標です。走力だけではなく、チームワーク読図力そして作戦もロゲイニングの大事な要素です。」 伊豆半島のロゲイニングはでは6時間コースと3時間コースが設定されている。各ポイントでは、定められたアングル構図、参加者のポーズで写真が撮影されるこれが証拠となる。 さて、水中ロゲイニングであるが、渡された地図(水中地図)の位置に黄色い番号タイルが置かれていて、これを撮影する。二人以上のチームで必ず一緒に行動する。二手に分かれるなどしたら失格。
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 競技エリアは、そのダイビングサービスの通常のビーチエリアとする。※この競技は各地ダイビングサービスの区域内でおこなわれるものとしている。 エア切れのメンバーがでたら失格、ロストも失格、水面移動を長距離行っても失格、残圧50以下のメンバーがいたら100減点、制限時間は70分で、1分オーバーごとに30点減点。 競技時間は8;30ー13;00で好きな時間に勝手にスタートする。UWNのように、時間を決めてのスタートではない。

0320  ロゲイニングー2

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 さて、UW ナビゲーションは、陸上のオリエンテーリングに触発、倣って行われた。水中ロゲイニングも陸上のロゲイニングに倣って、考えられた。  伊豆半島はジオパークである。ジオパークとは大地の公園を意味していて、大地のすべてを学ぶ自然の公園でユネスコも世界ジオパークを認定している。日本のジオパークは43地域ある。 大西君はなにかそのジオパークのガイドの講習をうけて、そのガイドの資格をもっている。 伊豆半島ジオパークロゲイニング大会が毎年開催される。らしい。 ロゲイニングとは、一言で言えば、目的を持って歩き回ることだが、肝心なことだから、もう少し詳しく、パンフレットから引用しよう。 「ロゲイニング(rogainin) とは地図に記載されたポイントを探し出すオリエンテーリングと宝探しゲームを組み合わせたようなアウトドアスポーツです。どのポイントをどういう順番で回るかは各チームで決め、制限時間内でできるだけ高得点を取るのが目標です。走力だけではなく、チームワーク読図力そして作戦もロゲイニングの大事な要素です。」 伊豆半島のロゲイニングはでは6時間コースと3時間コースが設定されている。各ポイントでは、定められたアングル構図、参加者のポーズで写真が撮影されるこれが証拠となる。 さて、水中ロゲイニングであるが、渡された地図(水中地図)の位置に黄色い番号タイルが置かれていて、これを撮影する。二人以上のチームで必ず一緒に行動する。二手に分かれるなどしたら失格。 競技エリアは、そのダイビングサービスの通常のビーチエリアとする。  エア切れのメンバーがでたら失格、ロストも失格、水面移動を長距離行っても失格、残圧50以下のメンバーがいたら100減点、制限時間は70分で、1分オーバーごとに30点減点。 競技時間は8;30ー13;00で好きな時間に勝手にスタートする。UWNのように、時間を決めてのスタートではない。


 
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、日本水中科学協会では、第14回ワークショップのテーマとして、ロゲイニングを取り上げ、大西君に講演してもらった。すなわち、ブログは、大西君講演の要約に僕の考えを付け足したものである。
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優勝ルート


 なお、競技結果の全部は、http://www.azarasi.jp/dive-rogaining-yawatano-root.html から見ることができる。  ワークショップには優勝チームのANE 48 も来てくれて、楽しく競技を振り返り説明歓談することができた。ワークショップとして大成功した盛り上がりであった。
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ANE 48 、佐野健太郎さん 望月栄美香さん、鈴木ようこさん
 ワークショップを終了して、また、このブログを書きながら考えて、ロゲイニングは、良い点を上げると
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 ①まず、ワークショップでスライドで掲げていたような利点がある。安全性の向上に大いに役に立つ。のんびりと楽しむクラスと、競技にこだわるクラスが混在して良いとおもう。マラソン競技がそうであるように、 そして、ロゲイニング技術の向上は、安全性向上の為の技術の向上である。 ②現地ダイビングサービスの為にもなる。業界の応援が得られる可能性が大きい。 ③学生チームにも適合するので、学生の多数参画も推奨したいし期待できる。 ④UWN の、ややこしいコース設定の手間が無く、そのダイビングポイント、フィールドの良いところ、見所のポイントを宝探し的に巡回すれば、良い。 ⑤告知に成功すれば、この秋、11月に行われるという第三回は数百人の規模になるだろう。 ⑥ ⑤の成功により、全国的に拡大する可能性もあるが、拡大しなくても、伊豆地域ローカルでも、毎年定例で持続した行事になれば良い。 ロゲイニングは、競技性のある楽しい遊びであり、チーム、グループで行動するシミュレーションになり安全性向上に大いに役立つ。

0326 - お台場

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 寒かった。おそらく、体感の寒さでは今年度最高。寒のもどりだから、注意するようにとスキーヤーの奈良間さんが、忠告コメントしてくれた。お台場の潜水は屋根がない。尾島さんがテントを一張り、それだけだ。荷物を濡れないようにする程度の吹きさらしだ。桜のつぼみがもう一息で開くというのに、氷雨。水温は午前中11度だった。福島と同じ程度だから、船室に入れる福島よりも寒い。その上に、僕は薄着で来てしまった。ダマールの上下長袖、の上に厚手のトレーナーを重ね、その上に1985年型のインナー上下を着て、そしてドライを着る。1980年代の流氷(50歳代)も、福島もこれでOK、1985年型も捨てたものではないと見直していた。それに、薄いユニクロのジャンバーで出てきてしまった。オーバーコートを着てこなかった。 車からでると寒い。ドライを着てしまおう。
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まだ鴨が残っているがだいぶ少なくなった。


 今日は、研究会のメンバーをフオローして撮影しようと予定した。ところが、僕の忘れ物癖を上回るウルトラ忘れ物、尾島さん夫妻、ドライスーツを忘れた。そこが都内の良いところで、取りに戻って、往復1時間強、僕は待つことにした。 たまたま、僕は忘れ物がない。他のメンバーを送り出して、ぶらぶらしていれば1時間は過ぎ
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これでは絵にならない。



 11時12分潜水開始、お台場の水深は3m以下、主に1.5mだからダイブコンピューターが働かない。濁りは透視度の平均が1mで尾島さんの撮影にはならなかった。そして、いつものコースを泳ぐけれど本当に何も、生き物の姿がない。孵化したばかりのような仔魚が薄く点々と見えるだけだ。何もいない。いないと言うことを記録しておかなくてはいけない、とここで学んでいる。マスクマウントの動画を廻し、TG4のシャッターを時々押す。本当に居ないとき、カニやハゼの類はどこに居るのか。教えてくれる参考書はないのか。今、読んでいる「東京湾の魚類」にも書いてない。 ベストウエイトが7キロ腰ベルトが6キロ、レッグが1。5キロで決まりなのに、陸で少しでも軽くしたいのでベルトを4キロにしている。水深1mでは、バランスが悪い。 一応一周して、寒くなったので戻る。エキジットはいつも重労働だ。上がっての視野が狭い。水中でも狭かったのか?なぜだ。マスクをラクーンに換えている。このマスクには慣れているはずなのに、体調が悪いのか、良いわけもないが、寒い。 波打ち際にタンクを残す。残圧は100あるのでもう一度行かれる。 ゲストで小林さんが見えていて、もう一度行くのかと訊ねられ、それぞれだと答える。 ドライスーツのまま、上だけ脱いで、長靴のような顔をして道路を横切りコンビニに行く。 カップのフォーと、ネギトロ巻き、アップルパイのデニッシュを買う。尾島さんのテントに体を入れて食べる。少しは人心地がついた。 海洋大で常連のように来てくれている依田君と雑談する。これからの研究テーマは、深海6500に乗るようなテーマを選びたいという。悪くはない。 小林さんが準備しているので、砂地のビノスガイならば居るので見に行くことをすすめる。撮影も出来る。 僕はどうしよう。もう、何もいない撮影は終わっている。
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 僕が、お台場で潜る。もう一つの目的はトレーニングだ。このトレーニングを毎月欠かしていないから、福島にも潜れる。行くことにした。 波打ち際でタンクが背負えないので、もがいていたら、三ツ橋さんが通りがかった。助けてもらって、どうやら背負って、這って行く。一呼吸すると空気が来ない残圧を見ると50になっていて、ゲージの針が動く。半閉じになっている。自分が閉じた覚えがない。こういうのが危ないと何回注意していることだろう。寒さの極限状態になっていると忘れるのだ。小林さんがエキジットしてきたので、バルブを開いて貰う。残圧が少ないので砂地を一回りする。小林さんには気の毒な時に来て貰っていまった。快晴だった2月の方が良かった。3月も末になれば、生き物の姿も見られるはずとおもったのだが。  自分は、この午後の一回で消耗してしまった。寒さが効いたのだ。止めればよかったか? 家に戻り、映像の整理。約20分。風呂に入って、長く入っていたら、湯あたりして、ふらふらになった。着替えてベッドに入り込んだら、目覚めたら22時。ベッドの中で、このブログを書いて、いま0時。
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                    景色になりそうなので買った。14万キロ走っている。

0329 風邪をひいた

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 また風邪をひいた。日曜日の二回目の潜水がいけなかった。それにしても、このところよく風邪をひく。この前の風邪は、2月13日だった。今度は、2月の時ほどひどくはないが、咳がでて何も集中できない。書かなければ、いけない原稿の締め切りがひたひたと迫ってくる。海洋大学、60周年の寄稿文、なんだかんだ言って、この原稿に2か月かかっている。それと、最新ダイビング用語事典Ⅱの一次案
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村上春樹「雨天 炎天」読了、ずっと昔に読んだような気がしているが、定かではない。いうまでもなく、上手な文章だ。上手な文を読めば、その流れで、自分も書けるのではないかも知れない効果をねらったのだが、書く気持ちにならない。もう一冊、徳大寺有恒「僕の日本自動車史」これもすらすら読める。自分が最初に買ったポンコツが、オースチン、ケンブリッジだったなあとか。この人、2014年に亡くなっている。74歳。

原稿ノート  1  めくさ

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原稿ノート 用語事典Ⅱ
用語事典Ⅱの原稿とブログ二つはとうてい同時進行では進められない。用語事典Ⅱの原稿ノートもブログ煮出していくことにした。
ノートなので用語事典Ⅱ採用するかどうか未定だし、ブログに上げておくと検索に便利だし、共著者のメンバーに見て貰うこともよういになる。素眼 水中眼鏡
水中眼鏡が始まった、作り始まったのは、諸説ある。
水中眼鏡の前に、眼鏡がない時はどうしていたのだろう。
海女の起源は、古いし、海女でなくても縄文時代からいやもっと前の狩猟生活の時代から、人は潜って
魚介類を採集していた。いや、もっと前までさかのぼると「人は海辺で進化した」という学説もあるくらいだ。もちろん縄文の貝塚から水中眼鏡が出土したことはない。
どうしていたのだろう。もちろん眼鏡を付けないで、素眼でもぐっていた。ここで、眼鏡を付けないで潜ることを素眼と書いたが、国語事典には素眼ということばはない。と思ってネットで調べたら、「潜水眼鏡をかけないで、水中に潜り魚や貝をとること」とでていた。とにかく、その素眼で眼は大丈夫だったのだろうか。眼科の先生に聞いてみなくては、とおもっているが、眼科の先生の意見も様々だろうとおもう。
水中眼鏡の起源を調べていてこんなのを見つけた。 海士・海女の起源は古い。延喜式にもある貢納物のなかの海産物の多くは彼らの働きによるものである。彼らの働き場所はすべて海中のことであり、潜水技術を駆使しての活躍だが、すべての作業は「素目」といわれる海中で眼をあけて獲物を見つけるという方法で、この「素目」の作業は潜水の季節である夏の間中続けられるのである。したがって、海士・海女は、メクサと言われる眼病にかかり、眼を開けることさえできなかったと言われ、労働衛生上からも大変なことだった。
 明治13年(1880)4月21日付けの「東京絵入り新聞」に、海士・海女たちが見たら、メクサの眼が飛び出るような記事がのった。その様子を伝えよう。「深川富岡門前町の高橋元義が発明したる水眼鏡というは、河海の水底を清明に見る拵えにて、沈みたる品の所在を見極め、暗礁の模様を知るなど、船舶にもっとも有用な道具云々」とあり、これまでは曇りガラスで海中を覗いたものが、潜水眼鏡をかけると透明ガラスを通すようにすべてが明瞭に見えた。それから数年後、大日本水産会は、水産物見分器機として本格的に製造に着手し、普及を始める。房総の海士・海女がこの潜水眼鏡を使い始めたのは明治25、6年のころで、当時の安房郡長尾町(現在の白浜町)に二つ目の潜水眼鏡がもたらされた。これによってアワビやサザエの獲物は飛躍的に増大したとある。
 参考文献ー「房総の漁労習俗調査報告書」「明治事物起源」 佐藤魚水
 この記事は「江戸東京湾辞典」新人物往来社1991年で佐藤魚水さんは僕の水産大学での先輩にあたる、彼がこの辞典を編集した。
 これによれば、深川富岡が、海女の眼鏡の起源のようだが、もしかしたら、船の上から覗くタコ眼鏡だったかもしれない。大日本水産会が工夫して明治25年頃に白浜で使われ始めたのだろう。明治25年というと1892年である。これによれば、海女はメクサになった。
 
 もう一つ、海士・海女漁業について、もっとも詳しいと思われる「潜水漁業と資源管理」大喜多甫文 古今書院 1989 によれば、         「明治中期以前、アマは素眼で潜水していた。しかし、海中で眼を開けると痛いので、多くは口の中に米糠などを含み、これを水面に吹き散らすか、または魚鯨油を海面に点滴して、水中を透明にし、海底にあるアワビを見定めておいて飛び込み、手探りで採った。
 明治10年代には、四角な箱の底にガラスを張った箱眼鏡が製作され、船中よりアワビを見定めておいて海中に飛び込み採った。この段階では覗き眼鏡であり、アマはまだ眼鏡はかけていなかった。(上記、深川の眼鏡は箱眼鏡だった)
 我が国における潜水用眼鏡の製作使用は、1885年(明治18年)、熊本県天草郡二江村の出島久八、出島辰五郎両名製作の両眼鏡(二つ眼鏡)が最初である。その後、1886年、沖縄糸満の漁夫、1887年壱岐郷ノ浦の海士がそれぞれ二つ目がねを使用した。このようにして、明治10年末に九州で使用去れ始めた両眼潜水用眼鏡は、その後各地に伝播した。志摩では、1890年神島の海女が使用許可申請をし、翌年から使用した。房州では、1892年頃安房郡長尾村(白浜町)で初めて使用され、それから少し遅れて伊豆半島に伝播し、伊豆ではこれを房州眼鏡と称した。このようにして明治20年代には、主要潜水漁業地に広まった。しかし、潜水眼鏡の使用が資源の乱獲を招来すると考えた志摩地方北部の組合では、1897年(明治30年)この眼鏡の使用を禁止した。                        
 最初は眼鏡の枠は真鍮製で深く潜ると食い込んで眼が痛いので、1890年天草では、両端に空気調節用の皮袋を付け、下端からゴムホースを口にくわえて空気を送り込んだり、その後、鼻入り式一眼潜水眼鏡が改良普及し、外枠もゴム製に改良されていく。
 使用禁止がいつ解除になったかは、書かれていない。しかし、眼が病んでしまうほどの辛いことであっても、眼鏡を禁止してしまうほど資源管理には厳し駆してきている。現在の海女もフィンの使用が認められているところと、認められないところがあり、ウエットスーツにしても、パンツだけが認められるとか、全く認められないとか、組合、部落単位で定めがある。 
  沖縄の糸満のウミンチューとか、最初に作った眼鏡は木製で手彫で作ったのではないかと思う。それに小さい眼鏡のガラスをはめこんで、膠かなにかで糊付けしたのだろうと、思う。上にある1885年の出島さんなどは、自分の手作りから、なんとか商品化したもので、記録にのこっているのではないだろうか。

0407 原稿ノート 2 素目 裸眼

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素眼と水中眼鏡について書いている。※素眼のほかに、裸眼という言葉も使われる。水中眼鏡については、沖縄のミーカガンが先だと思っていたと山本徹さんが言う。ミーカガンをネットでみると、 「1884年の夏に、糸満(現糸満市の中心市街地であり、旧糸満町に当る地域。古くから漁業が盛んな集落であった[2]。)に住んでいた、玉城保太郎によってミーカガンは開発された[3]。なおミーカガンの開発には約4年の歳月がかかったとされる[4]。彼は特に漁具の改良を行ったことによって、琉球の水産業に影響を与えた[5]。海で潜水を主体とする漁法を行っていると、水中メガネがない場合、眼がただれたり、年齢を重ねると目がかすんだりしたため、ミーカガンが開発されるまでは獲物を捕るのにも手探りといった状態だった[6]。しかしこのミーカガンが登場したことで、貝類の採集などの潜水を主体とする漁法が発達するなど、糸満の漁業にとっては大きな影響を与えた発明であった[7]。 ミーカガンは、1884年である。すでに述べた熊本の出島辰五郎さんは1885年である。志摩では1890年、房州では1892年である。やはり、沖縄が最初で次第に北上して行ったものだろうか。熊本と糸満は、ほぼ同時期と見て、それが志摩、そして房総につたわっていったのだろう。参考にした{潜水漁業と資源管理}によれば、沖縄糸満は1986年になっている。そのあたりは民俗学的には面白いと思うけれど、潜水の歴史としては、「潜水漁業と資源管理」はかなり専門書だし、どうしよう。沖縄の顔を立てて、1884年のミーカガンとしようか。 それはそれとして気になるのは、眼鏡なしで潜ってメクサになってしまうことだ。にもかかわらず、志摩では、資源保護のために水眼鏡禁止にしたりしている。健康よりも資源を、資源=お金とすれば、金蔵をなによりだいじにしたのだろう。それでも、今はさすがに水眼鏡禁止の部落はない。 メクサの被害といえば、以前見た本で、ペルシャ湾の海綿取りの裸潜りのアラビア人が、みんな盲目に近くなってしまったいる写真を見た。 1962年によみうりランドの水中バレーシアターがオープンした。僕はその初代水中舞台監督、つまりダイビングインストラクターになったのだが、水中バレーは素眼で演技しろという。たしかに、竜宮城の人魚が水中眼鏡をかけていたのでは、ショウにならない。インストラクターとしても、素眼をやってみなければならない。少し目を細めると、いくらか楽になるし、レンズの絞りが絞られる原理で、すこし像がシャープに見える。演技をするわけではないインストラクターだから、指導だけで良いので、普通にはマスクを付けていたが、素眼の出演者は本番ではマスクを着けられない。メクサになった人は居なかった。  素眼がいけないのではなくて、汚い水がいけないのだろう。日本の海水は良くて、アラビア湾の海水はいけないのだろうか。? 考えて見れば、自分の子供たちのころは、水泳はすべて素眼だった。つい20年前ぐらいまで、都内の小学校のプールは水中眼鏡禁止だった。眼鏡が割れて危ないというのが理由だった。眼よりも、ガラスで足を切る方が危ないという判断、それにガラスが割れたら、プールの水を抜いて掃除しなければならない。 今では強化ガラスになってその心配はなくなったのだが。 自分の経験では、素眼で泳ぐと確かに目は赤くなるが、そのまま病んでしまうことはなかった。 それとは別に水中眼鏡が水圧で圧せられて、目のスクイーズが起きる。スクイーズについては、常識のようなものだから、ここで説明しない。そのスクイーズを防ぐために、二眼の水中眼鏡では、風船のようなものを着ける。これを風耳(ふうじ)と呼んだりする。鼻も眼鏡の中に入れてしまう。一眼の眼鼻マスクならば、鼻から息を出せるから、スクイーズの心配はない。 鼻から息を出すなんてとんでもない。涙腺から空気が漏れるだけでも、潜れる深さに影響するフリーダイビングでは、スクイーズを防ぐために、ゴーグルの中を液体で満たして、その状態でも光学的に、像が正常にみえるレンズをつけたリキッドゴーグルがあり、使う選手が多い。つまり、目を水にさらしていることについては、素眼と同じようなものである。素眼で潜る選手もいる。いずれにせよ、フリーダイビングで深く潜るためには、目のスクイーズを防ぐためのゴム風船(風耳)ぐらいではまにあわないので、目とガラスの間に空間はつくれない。水に眼をさらして潜る。とすれば、きれいな水ならば、目を病むことはあんまりないのかもしれない。 水眼鏡が無い時代の海女は、普通に素眼で、目を細めて潜っていたのだろう。フリーダイビングの選手には、多分、それぞれに眼の痛みについての対策ノウハウをもっているのだろう。眼薬には何が良いとか。最新ダイビング用語事典Ⅱでは、岡本美鈴に書いてもらおう。

0408 深夜番組 オンエアー

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 自分がテレビにでること、あんまり好きではない。 なぜかと言えば、テレビ番組は作ったディレクターの作品であり、自分ではどうにもならない部分がある。 マスコミ、メディアは、最初にタイトルがあり、ねらいがあり、そのねらいに沿って出演者、インタビューを受けた者のコメントが編集される。 先日、お台場の環境について週刊誌からインタビューを受けた。僕の言いたいことは、東京湾の奥で、環境的には劣悪な状況で、夏の無酸素をたくましく耐えて、生きる生き物たち、すこしでも、生きやすくなり、増えるように、見守り手助けができるものならば、例えば、小型人工漁礁のようなものを作りたい、水の浄化ができるものならばしたい。そんなことで、コメントをした。内容はコメントに近いものだったけれど、タイトルはやはり、汚染された死の海というようにうけとられてしまうものだった。それは、自分の考え、言いたいことではない、とエクスキュースのメールをだすことに忙殺されることになった。
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                     γ線分析装置 
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                    第一前、剣だし根での測定 オンエアー
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                    四倉 江名での測定値

 今度は、放射能汚染の死の海、福島第一原子力発電所の目の前の海に潜り、測定をしようとする番組だ。測定機器、γ線分析器は、テレビ撮影のために作ったものではない。できるだけ細密に、測定がしたい。それが、できるならば、水産のためになってほしい。 そして、「まだまだこんなに汚染されています」というコメントにせよ、「もう汚染は去りました。」というにせよ、微妙である。だから、数値を言いたい。それも、データの発表ではなくて、テレビ画面に数値が映し出される、改変、データ改竄のできようがない姿で映しだしたかった。 番組のディレクター桶田さんも同じ考えであることが、わかり、協力することになった。これで、とにかく、自分の意見、自分が映し出そうとしたものは、そのまま出してもらえるとして、撮影に入った。 それでも、このような題材であるデータが独り歩きすることが、怖かった。いいじゃないか、独り歩きするならば独り歩きさせて、こちらは、その独り歩きしたデータを検証したいと計測をさせてもらえば良い。  それでも、間近になると怖かった。たとえば、線量計を持って走り回り、あらさがしをするように放射線量の高いところを見つけ出し、囃し立てるようなことになるのは嫌だ。その逆も困る。 行くしかない。行って自分の感じたことをコメントすればいい。  桶田ディレクターは、ほぼ自分の見た目、自分の感じたことを伝えてくれた。観測値については、観測値だけを映し出す。言うまでもないことだが、これだけの測定で、何かを言おうとは思っていない。これで、この観測を定点で、定期的にすれば、また、移動してもっと第一に接近し、海底の地質の違うところを測定できればとねがっている。 福島の海は、今も昔と変わらない。中川隆の撮った映像も、自分がカメラを持って撮影したものと、ほぼ同等と思える絵を撮ってくれた。

0410 マリンダイビングフェアも終わった。

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マリンダイビングフェアも終わった。 7日に速攻で素通りにように見て、そして9日は、東大の小久保と待ち合わせた。  8日には、JCUEが、安全についての興味深い講演イベントがあり、自分がこれから今年展開しようとしている活動とも関連が深いので、行こうか迷ったが、パスした。
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 入り口からエントランスの写真展、昔は舘石旦那のスペースだったが、今は、一般の人の応募展だ。たくさんの人が高価なカメラを買って、一生懸命写真を撮って応募している。みんな僕より上手なことはまちがいないだろうと見る。僕より下手な人もいる。ビーチ写真の部という展示の終わりあたりまでくると、人もまばらになるので、じっくり見られる。きれいな写真が多い。僕がこんな写真を撮れば、一生大事にしているだろうなあというような写真だから、それぞれの人には大事で、撮った時のストーリーがあるのだろう。 
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 カメラメーカーのコーナー、オリンパスのコーナーでは、講演をしている。昨年は あやの だったろうか?ことしは、むらいさち君で、熱演している。 フィッシュアイのコーナーは、大村さんの姿は見えないし、池田さんはお客の相手でいそがしそうだったので、通り過ぎて、イノンの井上さんが居たので、挨拶、お話を聞く。たぶん、次のライトはイノンの小さくて3200ルーメンのものを買うつもりでいる。しかし、現在、イノンが2台とフィッシュアイのFIXが1台で間に合っている。イノンは、ソニーのウエアラブルカメラの光学的なアクセサリーが先進的だ。世はウエアラブルカメラの時代。これもほしい。
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 お向かいのsea&seaには、知っている人がいない。なんだ、機材を見ているのではなくて、人をみているのか? 機材は同じようなものだ。 となりにアクアパッツァの山本さんが居て、昔から無駄話をしているが、ぐんぐん成長している。応援しているのだが、今まで、1台も買ったことがない。シグマのAPSGというカメラ、良いと思っている。30万だという。もし今度カメラを買うようなことがあれば、と思うが、残念だけれど、僕の残り少ない余生では、買うチャンスもないだろう。タオルの入った袋をおみやげにくれた。
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 携帯を水中に入れるビニール袋、韓国製、とても良いと思った。そのうちに買うかもしれない。辰巳で使える。 その向かいで、sea&seaにいた頃、僕の担当をしてくれていた岩間君が、今はBCを扱っている。とても魅力的なBCだけど、BCを買う予定がない。  PADIヴィレッジ、ダイビングショップの呼び込みコーナーだ。ビジネス的にはこれで良いのだろうが、考えさせられる。PADIは、ダイビングギヤープレゼンコーナーで、フルフェースマスクのプレゼンをしていた。これも考えさせられた。 ダイビングギヤーゾーンでは、TUSAとキヌガワだけ、なるほど。 TUSAのコーナーで新しいフィンを展示している。これだけを重点的に展示している。潮音がいるかと思ったら、居なかったけど、せっかくだから履いてみた。ここで履いても何もわからない。全部バラバラになるから持ち運びには便利だ。これで、同じように泳げるならば、持ち運びの良い方がいい。スピードレースをやるのでなければ、多少のバタつきがあってもなれるだろう。良いと思う。  出展の居ない隙間で、日本の歴史的な潜水機を飾ったショーケースがあり、だれも見ていない。見てみたら、一番古いところに東亞潜水機製ダブルホースのレギュレーターがかざってあった。「伝説のダイバー須賀次郎氏設計、製作」とは書いてなかった。もう一度、レプリカにして呼吸できるようにして、体験大会をやろうかな、と、少し本気に考えた。
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  ダイビングリゾートの部分、沖縄ゾーン、いまはもう知った人がいない。小笠原の海神丸の倅がいたので、お父さんによろしく、そんなものだ。  マリンダイビングのお休みどころ、山の端清ちゃんのところで、東大探検部監督、東大教授の小久保と待ち合わせたので、顔を出し、写真を撮られた。ゴッド姉ちゃんともお話しした。東大探検部に昔、石飛という変わった女の子がいて、マリンダイビングに就職した、僕は、二ヶ月しか持たないかと思っていたのだが、2年持ったそうだ。おもしろい子だったので、今もいればと思う。今は著述業をしているらしい。まだ名前は聞かない。そんな話を、小久保と山の端さん、三人でした。 3階の海外の部分でももうだれも知らない。インドネシアのキン肉マンさんだけだ。ヤップ島の安田姉さんに毎年あえるので、今年もと思ったが、ヤップはでていなかった。元気だと良いけれど。  小久保と昼食してから、また戻った。小久保と僕の共通の親しい友人であるフィッシュアイの大村さんに会って3人で話したかったのだが不在。  古見君にであった。以前、小久保は古見君の撮影でパラオに行き、JALの機内誌の原稿をかいたのだという。最近、古見君はトラックの沈船を撮っているので、その話。65mの追風に潜る話をした。古見君は、空気で潜ってナイトロックスで減圧しているという。それが正解だと思う。三人でチュークで潜れるようなことがあれば、良いね、と話した。どこかの機内誌の話、ないかな。 僕のトラックのライブラリーなどを見てもらって、今の古見君の活動と、昔の吉村(今はもういないのだが)の沈船探索、探検の時代を結ぶことが出来たらいいな、と頭をかすめた。
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 ステージ・セミナープログラムも多数、プロデューサーはがんばっている。 高齢者ダイバー「何歳になってもダイビングを楽しめる秘訣」、幸せな人たちだ。「ダイビングを安全に楽しむ秘訣」JCUEだと思ったら、提供はCカード協議会だった。行かなくて正解か? 岡本美鈴の講演は、スキンダイビングのある生活、「SSIが世界中で急増している秘訣」先年、SSIは、PADIヴィレッジに隣接して、講習の安売りをやっていた。  プログラムを見れば、業界のトレンドが見え、それと自分との距離が見える。価値のあるプログラムだ。 

0415 ワークショップ発表 福島第一原発沖合に潜る

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13日のワークショップ、福島での潜水をテーマにした。満席だったし、河田真智子さんからお花をいただいたし、内容は、自分の思うとおりに話せたし、山本さんとのコンビネーションも良かった。
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写真は2013年江戸川で測定しているところです。

 ダイブコンピューターの専門家である今村さんが、見においでになって、フェイスブックにまとめを書いてくれた。よくまとまっている。今村さんは、ダイブコンピューターと減圧症の関わりを講演して全国で好評である。わかりにくいことをわかりやすく説明する才能がある。 僕も昔はそういう才能があると思われていたが、今はわかりやすいことを複雑にわかりにくくしている嫌いがある。特に、字数に制限のないブログでは書きすぎてしまう。 ここでは、さぼってしまって、今村さんのまとめを借りてしまおう。他者の目の方が客観性がある。(今村さん 使わせてもらいます。)裏切られたという表現は適切ではないですが、
昨日は良い意味で想像を大きく裏切られた日でした。

何故ならこの記事に書くであろうと思っていた内容と
違った内容を書くことになったからです。

昨夜は江東区文化センターで開催されたJAUS日本水中科学協会の
第15回ワークショップ「福島潜水調査報告」に参加して来ました。

この報告会は今年の2月にテレビ番組の取材を兼ねて
福島第一原発沖合い6kmあたりの海域で
須賀先生率いるJAUSメンバーが
放射線量を実際に潜って調査した結果を発表したものです。

この調査に関してはここに書くと非常に長くなってしまうので
下記須賀次郎先生のブログの「福島」関連記事を是非ご覧ください。

スガジロウのダイビング「どこまでも潜る」
http://jsuga.exblog.jp/26694784/

簡単に言うと、
今まで発表されて来た福島原発事故による海洋放射線汚染状況は
考えられる最大汚染値をコンピューターによるシミュレーションで
推測したものであり、実際にはどのような状況なのかを確認するべく
海中に計測器を持ち込んで測定したということです。

またこの調査にあたっては正確な値を測るための
オンリーワンの計測器が製作されています。
※今は亡き須賀先生の盟友後藤道夫さんがハウジングを製作

ズバリ結果はどうだったかと言うと
予想に反して福島第一原発沖合い6kmの海域では
放射線量は全然高くなかったと言うことでした。

「この結果が出ても、僕は原発には反対の立場を取り続けるけど、
少なくとも福島というだけで市場で敬遠される海産物風評被害だけは
改善されなければならない」と須賀先生は語られました。

実際に福島沖の漁場で採取された魚類139種の放射線量調査では
震災後3年間は高い値であったものの、
今ではゼロを示しているということです。

昨夜の報告の要点は以下の通り

●事前の調査で砂や泥の海底の方が放射線量は高い傾向があるが、
福島第一原発沖合い6kmの海底は岩盤が多かった。

●調査地点の漁礁で放射線量を計測した結果は
値の低いテトラポットの脇で毎時0.02マイクロシーベルト、
値の高い砂地で毎時0.33マイクロシーベルトであった。

●くぼみ部分は平らな部分より線量が高いと推定していたが、
実際には大きな差はなかった。

ちなみに、解説しますと、
マイクロシーベルトという単位はミリシーベルトの1000分の1です。

自然界には元々宇宙線や、大地から、そして植物などからの
放射線があり、世界平均では年間で2.4ミリシーベルトの被爆があります。
日本ではやや少なく年間で1.4ミリシーベルトの平均被爆とされています。

1.4ミリシーベルトは1400マイクロシーベルトです。

実際に福島原発沖合い6km地点で計測された
(最も高い値を示した)砂地の放射線量
毎時0.33マイクロシーベルトの年間被爆量は
0.33×24×365=2891マイクロシーベルトです。

1000で割って2.89ミリシーベルトが最高値なので、
元々の自然界の数値からして
周辺海域はそんなに高い放射線量ではないと言えるのです。

ちなみに、私は東日本大震災後に原発の北にある南相馬市を
30回程訪れ、その内23回ボランティア活動に従事し、
昨年末までに50日以上現地で作業しました。

作業する前には毎回現場の放射線量を必ず確認するのですが、
大体毎時0.3~2マイクロシーベルトの範囲でした。
※参考写真0.39マイクロシーベルトの数値あり

つまり、海の中の方が総じて陸上より放射線量は低いと言えます。

また、健康診断ではX線撮影を何カットかしますが、
こちらの被爆量は7~20ミリシーベルトとされています。

以上、昨夜のJAUSワークショップの内容に
少し解説を加えてみました。

いずれにせよ、須賀先生と同じで、
この結果が出ても原発に反対する気持は全く変わりませんが、
事実は事実として伝えることは大切だと思います。

そうそう、須賀先生のお名前は昔から存じ上げていましたが、
初めてお会いしたのは2011年4月の震災間もない時期で、
先生が執筆中のダイビング用語辞典のダイブコンピュータと
M値の部分に関してのご相談があるという事で、
前職場までわざわざ来ていただいた時です。

それが縁で、JAUS日本水中科学協会の総会、
マンスリーセミナー、ワークショップで計4回、
ダイブコンピュータのメカニズムと減圧症予防法、
そしてBCの話などをさせていただいています。  今村さんだけど、自分の夢のダイブコンピューターをつくるそうだ。数日前、ペギー葉山が亡くなって、「あなたでなくては、出来はしない、素敵な夢をもつことよ」について、フェイスブックに書いた。今村さんの夢も実現すると良い。そして被災地災害地へ出向いてのボランティア活動を熱心に続けられていて、文中にもあるように、各被災地に数十回は往復しておられます。  さて、フェイスブックのことがいろいろ出てくる。このブログとも連係している。友達申請に「ブログをいつも見ています」って、嘘でも良いから書いていただければ、即、承認してしまいます。  さて、今村さんのまとめを感心してはいられない。僕も、月刊ダイバーに報告をまとめている。6月号なので、御覧いただければ、うれしい。  結論だが、たった一回ちょっとだけ分析測定器を当てただけで何かをいうことはできない。ただ、現場で測った測定値をCRT画面と、周囲の状況を同時進行の動画で見せただけだ。しかし、分析器は、物差しだから、物差しを信じなければ、はじまらない。それにしても、もう一つのカウンターを同時に置いて、両方を撮るようなことをなぜ考えつかなかったのだろうと後悔している。しかし、これは始まり、スタートだと考えている。水中に放出されたセシウムがいま、どこに、どんな状況で、どのくらいの量があるのか追う調査の始まりだととらえている。出来るかどうかわからないが、出来るところまで、あと数回の調査がしたい。それが終わったら、少しまとまった形でどこかに書きたい。 そのときに、結論みたいなものにまとめるために。次の調査の前に、もう一度、2011年にもどろう。それに、テレビ番組のタイトルが「7年目の真実」だったので、7年前2011年のことをもう一度振り返って見ようと思う。そのころ読んだ資料をもう一度見直してノートをとりたい。残してある資料を出してみた。 東京新聞 2012「原発報道 東京新聞はこう伝えた」 AERA 11年5月4日  原発と日本人 AERA 11年7月18日 魚と濃縮放射能 朝日ジャーナル 12年3月20日 臨時増刊   「わたしたちと原発」 ニュートン 11年6月「福島原発 すでにチェルノブイリ級 レベル7」 ニュートン 11年7月「きちんと知りたい原発と放射能」 ニュートン 14年4月「災厄 福島原発1000日ドキュメント」 11年6月 緊急出版 福島第1原発事故と放射線 NHK出版  次に書くのは何時になるか?だけど ここで自分の心覚えと参考に現場で日記的に書いたブログをリストアップしておこう。 2011年 11月からの福島県久ノ浜調査 そして、2011年 11月には、福島県久ノ浜での調査ができるのであるが、この調査については、http://jsuga.exblog.jp/16407128/   2011年10月8日http://jsuga.exblog.jp/16490814/   2011年 10月24日http://jsuga.exblog.jp/16817775/   2011年 11月11日http://jsuga.exblog.jp/17002301/   2011年11月20日http://jsuga.exblog.jp/17272202/   2011年12月10日http://jsuga.exblog.jp/17493254/   2011年12月31日http://jsuga.exblog.jp/17618090/   2012年 1月15日http://jsuga.exblog.jp/17625846/   2012年 1月16日http://jsuga.exblog.jp/17635174/   2012年 1月18日  NHK「知られざる放射能汚染~海からの緊急報告」 東京湾全体が汚染されてしまうように感じる番組だった。これについては後で別に述べる。http://jsuga.exblog.jp/17652693/   2012年1月20日http://jsuga.exblog.jp/17663262/   2012年1月22日http://jsuga.exblog.jp/17670193/   2012年 1月23日http://jsuga.exblog.jp/17713445/   2012年 1月30日http://jsuga.exblog.jp/17746757/   2012年 2月4日 久ノ浜サンプリング終了http://jsuga.exblog.jp/17787903/   2012年 2月12日 測定器材についてhttp://jsuga.exblog.jp/17796674/   2012年 2月13日 久ノ浜の謝辞 http://jsuga.exblog.jp/17874111/   2012年 2月27日 お台場放射能測定   2017年についてhttp://jsuga.exblog.jp/26694784/   2017年 3月4日http://jsuga.exblog.jp/26697295/   2017年 3月5日http://jsuga.exblog.jp/26700935/   2017年 3月6日http://jsuga.exblog.jp/26703333/ 2017年 3月7日http://jsuga.exblog.jp/26705547/ 2017年 3月8日http://jsuga.exblog.jp/26710982/ 2017年 3月11日 オンエアー 7年目の真実http://jsuga.exblog.jp/26774965/ 2017年 4月7日 深夜番組 30分 オンエアー

0417 ブログテーマ

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 いつでも、「ブログが書けない」という前振りで、僕のブログが始まる。「いい加減にしろ」と我が身を叱り飛ばす。アイデアが無いわけではないのだ。時間が無いのが原因だが、これは言い訳にならない。
 言い訳の達人といわれたこともあったな。そういえば。
 予告編と、自分の覚えのために、今抱え込んでいるブログテーマ 思いつきをリストアップしておこう。 自分への言い訳のため?
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①福島第1に潜る :現時点については 終了
 次の段階には何時行けるだろう。途中経過も書くつもり。一回の撮影で何が言えるのだ。何も言えない。これはスタートであり、今度はもう少し学術的に考えて、出航して行きたい。そして、「水中の放射能」というタイトルイメージでまとめたい。無理だろう。無理だとおもう。②風のなりゆき 村上春樹について
 風のなりゆき という写真集が消えている。出てきたら書こう。村上春樹の奥さんの写真集。
 風のことを考えよう:雑文集より、
 こんな形での読書論
②ー2 上橋奈緒子と阿部千里の比較、いや、そのワールドの比較かな。
②ー3 旅行記が好きだ。もう一度「ベルリン日記」を読もうかな。これは旅行記とは言えない、かな?
②ー4 立松和平についても書かなくちゃ。
 ありすぎる。しばらくは、無理無理③外来生物について
 役に立つ、食べておいしいとか、人間に都合のいい外来生物は歓迎する。あるいは許容する。それも許さず排除すべきという人もいる。その基準は生態系の維持だけれど、人間中心、人の目からの生態学ではないだろうか。人間が一番駆除されるべき生き物なのかもしれない。でも、何のために人間を駆除するのだろう。
 ダメだな、こういう方向は。
 もう少し現実を論じる。ホンビノスガイについて。④生き物の種類について
 分類学者になればよかった。図鑑が作れたのに。単なる負け惜しみ。⑤高齢化について、死に方について
 書こうかどうか迷っている。⑥ダイビングの安全度は高い。
 ダイビング事故の三大要因
 昔は、病気、へたくそ、思い上がり
 このごろは 人の寿命、人殺しショップ 愚かな人
 加えて六つにするか?
⑥ー2
 学生のダイビングについて。空気論⑦病弱について
 病弱な自分、病弱とは?⑧日々の雑感
 幸田先生について
 主治医の先生について⑨車について、
 オースチンケンブリッジからマーチまで
 ケンブリッジは、東亞潜水機時代、僕が生涯最初に買った車。マーチは最後になるだろうか。⑩ナヒモフ号 ノンフィクション
 鷲尾君が、ナヒモフのことを書いた。まだ読んでいない。フィクションだという。僕は僕の視点からのノンフィクション。真実を書いたら殺される、というのは都市伝説か?⑪大先輩 山下弥三左衛門 三浦定之介
 最新ダイビング用語事典Ⅱは、コラムを重ねていく方式を考えていて、そのコラムは字数に制限がある。二人の大先輩はコラムに収まらない。
 
⑫昔の潜水病について 山下弥三左衛門 三浦定之介
 潜水病を恐れていてはダイバーにはなれない時代。
 潜水病の歴史⑬バディダイビングという言葉がわからない
 どうも、インストラクターとか、ガイドダイバーに頼らないダイビングをバディダイビングと呼ぶらしい。これまでのダイビングはバディではなかったのか?
 この業界、言葉の定義を明確にしないといけない。その定義を巡っての論争をしたほうが良い。
 ソロについても同様だ。
 でも、無駄だろうな。⑭アクアマリン福島
 アクアマリン福島誕生期の秘話。書き始めている。
 僕はアクアマリン福島は、福島にあると思っていました。⑮日本潜水学会 1978
 たしか、二回だか、学会を開き、学会誌が一回だされた。もしも、この学会が消えていなければ。歴史にifはないのだけれど。ここが核心かもしれない。いや、やはり、自分については今と同じだろう。それはそれとして、日本潜水学会とは何だったのだろう。この1冊でただけの学会誌もかなりおもしろい。貴重な文献だ。
 潜水の世界に文献など無いか? その他、旅に出れば書くし、定期的なお台場のこともある。
 定期に行っているお台場通信
 このごろ、波左間に行っていない。館山湾通信
 最新ダイビング用語事典Ⅱに掲載予定のコラム 結局のところ、テーマがありすぎて書けない?
 こんな風にテーマを並べて、太らせて行けば?

0421 お台場

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これからお台場のことを書こうとしているのだけれど、これまでは、水の中のこと、水の濁りだとか、水中の光の様子とか、生きている生き物のこと魚とかカニだとか、エビだとか、なんだかわからない生き物だとか、生えている海藻などのことを書いている部分が少なくて、ダイビングのこと、自分という潜水艇のことを書いている比率が大きいのではないかと思う。 ダイビングって、自分という潜水艇の操縦だから、そして、僕はダイビングをそんな風に考えることが好きだから、潜水艇の機関のこと、機関の調子、つまり、苦しいとか、寒いとか、潜水艇の釣り合いだとか、バランス、浮沈、だとか、その他、もろもろの潜水艇運転に気を取られていて、水の中の出来事には、気持ちの50%ぐらいしか向けていないのかもしれない。つまり身体の内側のことや、潜水の技術に気を取られて、外側のこと、外のできごとは、少しだけしか書いていないような気がしている。自分の内側に注意の大部分を向けていないと危ないので、まあ、そのバランス感覚で生きてきたのだけれど、生き物のことを少し真面目に書こうと考え始めている。☆★☆僕の言うお台場はお台場海浜公園のことだ。ここの呼び名はお台場、と。おをつける場合とおをぬいてただの台場と呼ぶ場合がある。良くしならいのだけれど、地名としては台場らしい。お台場は、ニックネーム、きっと江戸の市民たちが、お台場と呼んだのだろう。それがそのまま残っていて、僕はお台場の方が好きだ。 ☆★☆ 日本は、四季がある。海の中にも四季がある。お台場は特に、著しく四季がある。1月から2月は、本当に生き物の影をさがすのも容易ではない。親指の爪ほどのイソガニ、鉛筆の尻についた消しゴムほどのヤドカリを見ただけで、その日一日が終わる時もある。ただ、原則的に冬は水がきれいで、1.5mか場合によっては2mほど先まで見える。透視度 1。5mとしたり、2mとしたりする。しかし、お台場の透視度はまばらなのだ。斑になっている。表層と底層と大きく透視度がちがうし、まるで、霧の中に入ったり出たりするように、濁りの中に入ったりでたりする。だから、記録を着ける時に、今日の透視度は1.5mとか書いてもいい加減なものである。お台場はその濁りの斑が著しいけれど、どこの海の中も同じようなものだろう。だから、例えば、大瀬崎の今日の透視度は、2mから10mと書いたりする。
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 お台場海浜公園の海底を区分けすると、中心部はヘドロである。潮位差は1.5mほどで、中心部の水深は平均して4mぐらいである。このヘドロ部分をドーナッツ状に取り巻いて人口砂浜、石垣の崩れたような岩がごろごろしている磯場がある。磯場の岩地帯は干出してしまう部分の幅が10mぐらいだろうか。満潮になれば、この部分は隠れてしまう。最干潮の線から、さらに10mぐらいの幅には、岩があり、この岩の下が、カニやギンポが隠れている地帯になる。岩と言えば良いのか、石垣の崩れたような石と言えば良いのか、定かに決められないが、ここでは岩としよう。その岩がまばらになり、尽きたあたりから、斜面になっていて、斜面の底は水深2mぐらい。その斜面の底はだいたいが平らで、緩やかにヘドロ地帯に降りる。斜面からヘドロに至る、はばにして10-15mほどの平らな海底はマガキが、今は優先して海底を覆っている。今は、という意味は1990年代はマガキは珍しく、ムラサキイガイが覆っていた。 マガキとムラサキイガイは陣取り合戦をしていて、今はマガキが勝っている。この勝負を分ける要因とか調べたらおもしろいと思うのだが、僕は研究者ではないので、おもしろいと思うだけに終わっている。
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冬の間、水のきれいなとき、水温が低いとき、牡蠣は元気で、まあ元気に見えるだけなのかもしれないけれど元気に見えて、生きている。全部が生きているわけではない。牡蠣はだいたい1年-2年で終わる寿命だ。死んだ牡蠣はそのまま、そこにある。死に殻だ。死に殻がどんどん積み重なって、上にまた新しい牡蠣がのる。水面まで積み重なることもある。牡蠣礁である。行徳の三番瀬などには広大な牡蠣礁がある。ここではまだそんな具合にはすすんでいない。今後どうなるかはわからない。死に殻は、小さなカニやギンポ、主にとさかギンポの隠れ場になっている。 生きている牡蠣と死殻がどのくらいの割合なのか。これは枠を置いて、枠の中で、生きている牡蠣の数をしらべたりすればわかるのだが、まだやったことがない。とても大事なことだと思うのだが。 冬の牡蠣は、すっきりとしていて、きれいなのだが夏になると茶色い付着生物が付いたりして汚らしくなる。汚らしくなることと、牡蠣の元気度とは関係があるのだろうか。  二枚貝は水の浄化をすると言われている。牡蠣も浄化をする。濁りの要因の一つである微生物を食べている。この浄化作用はめざましいもので、水槽の中に牡蠣を入れるとたちまち水がきれいになる。お台場でも牡蠣の上は水がきれいにみえる。みんなが集まる砂浜の方で、水の浄化のために牡蠣の垂下式養殖を三陸のほうから呼んできて砂浜の方で2年ほど続けてやっていたことがある。主催は、下水道局がやったのだろうか、港湾局だろうか。しかし、一方で、牡蠣は排泄物もあるし、死ねばタンパク質になる。死ねばたちまちカニなどに食べられてしまうから、死んだ牡蠣殻の中はきれいなものだが、牡蠣を食べたカニも排泄物を出すし、だから、あんまり浄化作用はなくて、差し引き計算すれば、マイナス効果だと東大の鯉淵先生はいっていた。
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                     牡蠣の上の水はきれい?
 僕はやはり、きれいになっていると思いたい。こころなしか、僕たちのフィールドでも牡蠣の上の水はきれいなようだ。願望だから、科学的に証明しようとはおもわない。  このあたり江戸前は、昔は牡蠣の産地で、僕が子供のころ、1950年代には、数寄屋橋の下あたりに広島であるような牡蠣船がでていた。なお、今広島に牡蠣船があるかどうかしらない。船の上で牡蠣をたべさせる。屋形船よりも大きいダルマ船が当てられていた。 ダルマ船とは、ダルマのような形の幅広の船で、河での運搬船に使われていた。その船の上に家を建てれば、ハウスボートだ。 でも1950年代の東京湾は汚染のまっただ中だから、牡蠣船で食べさせる牡蠣が江戸前の牡蠣だったかどうかしらない。江戸前ではなかったのではとおもうが、このあたりが牡蠣の産地であったことは間違いなさそうだ。☆★☆ 3月26日、先月だが、3月も末になれば、小さいメバルの幼魚がでてくるのではないかと思ったが、魚は本当に影も形もみえなかった。4月になれば、どうだろう。 4月23日が、定例のお台場潜水調査会だ。3月26日には雨が降り、あまりの寒さに風邪を引き、まだ治らない。ちょうど一ヶ月風邪に呻吟していたことになる

0426 福島動画整理で思ったこと

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これで、3日、福島で撮影した動画の整理をしている。テレビ局が編集の都合なんだろう大容量に重くしてしまっているので、それを元に戻す作業なのだが、わからないので試行錯誤を繰り返したこともあり、ようやくあとすこしにこぎつけた。その作業で、久保さん、山本さん、須賀、がヘッドマウントのウエアラブルカメラ、中川のメインかめら、全部の映像を通して見ることになった。 このような経験ははじめてのことだ。なにか特別の目的のある潜水でないと、このような撮影はしないし、また、映像の書き直しが無ければ、編集した要部だけを見て、全部を見通すようなことは無い。それぞれの頭に着いたカメラのすべてを見るなどということは、かなり大きなモーションをかけないと見通せない。
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 1本の潜降索によって、水深35mまで潜り作業するお互いの潜水が確認できた。自分について言えば体調も悪く、年齢も年齢だから、情けなくなる姿だが、それは別として、ダイビングはチームプレーであり、計画通り動くフォーメーションが重要であることが良くわかる。 一般レクリエーショナルダイビングでは、安全管理が要になる。各チームということは各ショップであり、各ダイビングサービスだが、年に一度ぐらいは、このような試みをやって、その場、そのチームのフォーメーションを確認しておくと良い。 一般のダイビングでは、おそらく無理だろう、だから危ないのだが、ダイビングは安全だから、多少のことでは事故にはならない。でも、もしもは常にある。学生のダイビングクラブなどは、やればできるし、面白さをそこに求めることもできる。ぜひやるように薦めよう。

0427 お台場 0423

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 3月のお台場は、雨で、お台場の場合、尾島さんのテントがあるだけで、基本的に吹きさらし、寒かった。家で風呂に入ってでてからしばらくして悪寒がした。風邪で、以後一ヶ月 風邪が続いている。 4月23日は快晴で、スカイブルーの空だ。透視度も、もしかしたらこれまでの最高ではないだろうか。 もうそろそろ、冬眠?から醒めた魚たちが動き出す時期だ。期待は大きかった。  風邪はともかくとして、天気がよければ、機嫌がよくなり、気合いも入る。気合いが入っても、7キロのベストを着けて6キロのベルトを巻き、10キロのタンクを背負うとずっしりと重い。 前回までは1。4キロのレッグウエイト(足首に巻くウエイト)を着けていたのだが、今回からマンティスドライフィンを使うことにした。これはドライスーツ専用のフィンで、前に愛用していたのだが、フロッグキックで蹴る時にフィンが重いとバランスが悪いのではと使わなくなっていた。 エントリー、エクジットの時に、手伝ってもらわないで一人でフィンの着脱がけっこう苦行なのだが、それもやりやすい。 とにかく、タンクを背負って歩き、フィンを履き、水に入るまでが苦行で、水に全身を浸けるとほっと一息つぐ。しかし、これはお台場という波も流れもなく、背の立つ水深に体を横にしているという独特の場だからで、一般の海では、飛び込んだとたんに波で体がひっくり返されたり、流れで流されたりするところでは、10mぐらいまで潜らないと安定しない。潜水が危険だとか、危ない、同じことか、といわれるのはこういう部分のことで、これは個人のフィジカルと密接に関連する。死亡事故はこのような状況の時に、本人の苦しさだけに関連して起こってしまう。すると、他人のガイドダイバーとかインストラクターから見れば原因不明になる。それぞれの苦しさについては、Cカード講習でも、指導者講習でもどうすることもできない。 よく、病人になるとはっきり見えてくる部分があり、思いやりが深くなると言うが、年取って、フィジカルに不満足にならないと見えてこないダイビングの危険なのだと思う。  ああ、またダイビングそのもののこと、内なる自分のことについて書いている。 これからは外のこと、お台場の水中のこと、生き物のことを中心に書いて行こうと思ったのに。
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頂上に海藻が生えている


 エントリーして腹這いになり体を落ち着けると、驚いたことに、人工砂浜を背にして右手にある転石がはっきりと見える。お台場にしては、すごい透明度だ。 転石を右手に見て、まばらな牡蠣殻の広がり、生きている牡蠣が多くても牡蠣殻と呼ぼう。その上を泳いで行く。 魚もカニも目に入らない。隠れているのだろう。そのまま25mぐらい泳いでいく。終点が90mだからゆっくり泳ぐ。次第に牡蠣殻が密になってくる。生きている牡蠣が多い。 
  
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70mぐらい進んだ右手の転石の景色がすばらしい。転石が転がっていて、水が澄んでいて、水深が40センチくらい、別に何もいない。それだけですばらしい景色だと思ってしまうのだ。景色というのは周囲の状況と併せて景色になっている。透視度の低い景色の中で、部分的に透明感があれば、良い景色になる。今日は全体に透明だが、やはり透明は良い。 頭を上げて水面に顔を出すと、大きな榎木の木が見える。このごろ腹筋が弱くなって、腹這い姿勢で頭を出すのが難儀になってきている。 水深2mぐらいに降りて、そのまままっすぐ行くと、前方に杭の列が見えてくる。杭の列の右端はさいころのようなコンクリで、一辺がが50cmぐらいの立方体が斜めに置かれている。別に置いたわけではないのだが、そこにある。この立方体になにか布のようなゴミが引っかかっていて、その布の陰、立方体の下の陰、立方体の周囲の石の陰に、4月になれば、つまり、今頃になるとメバルの稚魚が出てくるのだが、見えない。 仔魚:孵化してから、すべての鰭の鰭条が定数に達していないもの、つまり生まれたての魚だ。稚魚;鰭条も定数に達していて鱗も出始めているが、模様が成魚と異なるもの未成魚;模様も完成し、体型も成魚に近いが性的に成熟していないもの成魚:性的に成熟しているもの幼魚:稚魚以上、未成魚未満
 ※「東京湾の魚類」よりこれは定義なのだが、僕は稚魚と言う言葉をよく使う。定義の上では、稚魚よりも幼魚にちかいのだが、つい稚魚と書いてしまう。稚と言う言葉、字が好きなのだと思う。  メバルは表層を引く稚魚ネットで12月から4月に仔魚が出現する。 体長1.5から5cmほどの稚魚は、人工護岸、近くや岩礁域、アマモ場などの中層に群をなしているが、成長するにつれて移出する。  東京湾の魚類 河野博監修は、とても良い本で東京水産大学の魚類学教室出身の人たちが中心になってまとめていて、お台場グループの尾島さん、多留さんなどもちょっと書いている。僕が魚類学教室とかかわっていたのは、遙か遠い昔なので河野さんと直接知己ではないが、魚類図鑑でもあるし、東京湾全体の魚環境をコラムを並べたように書いていて、すべてがわかる。読むことをおすすめする。こういう本を作りたいな、とおもう。  話をもとにもどして 杭の列には、ハゼの類も、メバルも何も見えない。はて、透視度は良いし、水温も17度ー18度と暖かくなったのに、魚もカニも居ない。生き物がすくなくなったのかな。 撮るものがないので、杭の列にカメラを寄せかけて、バック泳ぎで、自分の姿を自撮りする。ドライフィンはなかなか調子が良い。
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 杭の列を詳細に見て、何も居ないことを確認して、来た道を引き返す。 途中、ハゼ、(チチブ)が居たので、その一尾を撮影する。 
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 右手、戻り道だから左手になるのだが、榎木の木の下 あたり、ここは、いつもハゼが見られる。生きている牡蠣を割って開いてみる。これをするために小さいナイフをゲージのホースに取り付けてある。 魚やカニの観察に、牡蠣を割る。牡蠣殻の隙間から小さなカニがでてくる。ここにいるイソガニは、タカノケフサイソガニだから、おそらくそれだろうか。しばらくすると、もう少し大きい、足の親指の爪ほどのカニが姿を現したが、開いてある牡蠣に突進するようなことはない。様子をみている。 突然、横からハゼが現れた。5ー6cmほど、チチブかアゴハゼだ。そいつが、牡蠣の身をちぎって横に飛んだ。あっという間に3尾になり、牡蠣の身は無くなった。 牡蠣を割る。あるいはところによっては別に用意した餌をやるというやり方、あんまり好きではない。それが人為的なものであるからだ。しかし、これはやる価値のある方法手段なのかと思い直した。仔魚を採るためにプランクトンネットのようなネットを曳く方法でしらべる。魚を集めて、何が集まるか、何匹とか見るのは悪くない。このまま通り過ぎたら、ここには魚は居ないということになる。 今後は定点を決めて、来るたびにやろうか。  水深1.5mに潜らないと作動を始めないダイブコンピューターは、記録という意味で正確な役には立たないが水温をみることができる。水温は18度だった。18度ならばウエットにしても良いのだが、シャワーも脱衣施設もないので、最近では年間を通じてほとんどドライスーツだ。  戻り道は少し深く、水深3mあたりを泳いで行こう。水深3mになると、気持ちよく水平で泳げる。ヘドロ域と牡蠣殻域の間ぐらいから浅いヘドロ域にかけて、ユウレイボヤ、もしくはカタユウレイボヤ、この区別が僕にはつかないが、多分カタユウレイボヤがまばらな群生のような状態になっている。
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 この時期、昨年ぐらいまでか、トゲアメフラシが点々と一面に居て、交尾をしてだいだい色のそうめんのような卵を生んでいた。今年はトゲアメフラシの影も姿もない。お台場の一つの特徴は、生物の種類がドラスティックに変化するということだ。ある時には一面に居て、全く居なくなったりする。 それに水温が寒くないので、残圧50までもぐっていた。僕のタンクは、軽い8リットルだが、冬の時期は200充填で100残っていた。50では午後の潜水に足りない。  科学未来館の、といってまだ科学未来館の展示にお台場が加わることもなさそうだが、三ツ橋さんがほとんど毎回来てくれている。「なにかやらなくちゃ」と言うことで、海藻の研究を始めた。彼女は稲の研究が専門とか、とにかく植物が専門だ。海藻の研究と言っても、お台場には、海藻らしい海藻はない。アナアオサとか幅の狭い緑のスジアオノリ?とか、アオサ目 アオサ科が主だ。そのうち、教えてくれるだろう。  
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              採集中
   彼女は一回だけの潜水で、植物を採集して終了だという。彼女の使った10リットルタンクを使うことにした。残圧は100ある。十分だ。  昼食、近くのコンビニで冷やし中華を買ったが、まずかったので半分でやめた。昼食後、のんびり過ごして、14時から潜水することにした。15時に、僕があがって、終了となる予定。  まず、これは左手に広がる人工砂浜の砂の上を波打ち際の砂浜を左手に進む。カレイの稚魚がいないかとさがす。薬指の爪ほどの稚魚がいる?いなかった?わからないほど小さい何かが微小な砂煙をあげた。もちろん撮影はできない。  外来種のことについて調べている。調べていると言って、本を読むだけなのだが。 最近の外来種の右総代のようなものに、ホンビノス貝がある。
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 砂地で、この貝がざくざくと、左手で砂を掻くと手触りがあって一回に3個ぐらいとれる。この貝のことについて別に書こうと思っているのでそのための撮影をしようと考えたのだ。が、思ったようにざくざくとはとれない。とれることはとれるのだが、少なくなったのではないかと疑った。風呂田先生が調べているが、今回はおやすみ。 ターンして、波打ち際に近い転石地帯の、そう、ちょうど公衆便所の前あたりだ。公衆便所、ランドマークとしてはおもしろくないけれど、仕方がない。公衆便所と波打ち際の中間あたりで、適当な大きさの転石の前で、牡蠣を割った。ここは、たちまち、数分もかからないでハゼが出現した。最初の奴がくわえてしまうと後のハゼはあぶれてしまう。それでも、一旦でてくるとうろうろしている。もっと大きい牡蠣を割ればよかったかと思うが、5ー6尾は集まって来た。アゴハゼとチチブ、そしてアカオビシマハゼがお台場のハゼの常連、定番だ。5ー10cmのハゼの類だ。
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 トサカギンポが出たので、熱心にカメラで追う。なんと言うこと無いが、ギンポはアイドルなのだ。
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 気持ちの良いダイビングができた。



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