最近、中田誠さんが、消費者に関連する公的機関の専門委員になったとかで、業界に厳しい影響が予想されるとか、話題になっている。座間味スキンダイビングツアーの間、彼の書いた本を読んでは、ブログに乗せていた。
戻りの飛行機の中で、再び中田さんの「ダイビングの事故・法的責任と問題」を開いた。すぐに納得できない部分にぶつかった。
念のために書いておくが、この本は2001年3月の出版であり、使用されているデータなどは1990年代のものを使っている。それから13年は、十分に長い年月だ。中田さんの考えも変わっているかもしれない。ここで取り上げられているP型事業モデルは、大きく変化している。事業モデルという以上は、生きて変化しているものであり、固まってしまえば、時代に即応できなくなる。それでもとにかく、この前提のもとに、この本に書かれている文を取り上げて論じる。
二章まで読み進んできていて、ここで取り上げるのは、
2。致死性スポーツにおける資格商法展開の問題
致死性スポーツという言葉が一般につかわれているかどうか知らないが、まず、この言葉を看板に載せたり、広告につかったりなしないだろう。自分としては、ダイビングはたちまち死に至る活動だということをよく言い表していて、わかりやすい。
まず、第一前提として、ダイビングは危険、致死性だ。
中田さんは、まず前置きとして、
「ダイビング事故の主要な原因の一つを誘引している「資格商法」の弊害の是正を考えることが、必要であり、しっかりとした法的規制も不可欠である。それがなされない限り消費者の安全をより高めた健全な商業レジャースポーツの発展は望めないものである。」
致死性スポーツの法的規制があるとすれば、それは原則的に禁止し、ある条件のもとで許可するということだと思う。
法的規制が望ましいものであるかどうかは、その人の生きている価値観と大きくかかわる。自分について言えば、指導者の資質を維持する為の資格と主務官庁が必要であると考えた時代があり、文科省の社会体育指導者という制度を導入したが、外務省の北米課、アメリカ大使館からクレームがついて、普遍的な制度にはできなかった体験を持っている。今ではこの制度は、日体協の公認スポーツ指導員という形で実施されているが、スクーバダイビングについては必須ではない。ただ、他のスポーツの指導者と同等のスポーツについての常識、短大のスポーツ専攻程度のスポーツについての知識は、持っているべきであり、それを証する資格はあった方が良いと思っている。
そして、たとえば、僕のやっている浦安海豚倶楽部のような市民倶楽部としての水中スポーツは国として、振興させるべきであり、そのための資格だと思う。我田引水だが、この倶楽部をやっているということが、僕が社会体育指導者としての教育を受けた成果であるともいえる。
この制度は、自由であるべきスポーツに法的規制をかけることとは違う。PADIのインストラクターにしても、資格であることはまちがいない。資格の規制はあってよいけれど、行動の規制は嫌だ。
ダイバーの多くは、いかなる形であれ、自分の自由を束縛される法的規制には断固として反対であり、司法権力で弾圧されない限り受け入れないと思う。一方、司法権力で個人の自由を束縛しなければならないような規制は、行われる時代ではなくなっている。
もしも法的規制をいうならば、そしてそれが安全のためならば、まず、60歳以上のレクリエーションダイビングは禁止だろう。それとも、60歳以上は、何が起こっても自己責任とするという規制?ならば賛成だが、そんな規制ができると思うほど、僕もおめでたくない。2030年日本人口の40%が65歳を越え、地獄の日本になる。個人的ではあるが、僕はダイビングを通して、高齢化社会と戦っている。決して勝利することのない戦いだが。
60歳以上のダイビングを制限するとすれば、めでたく、日本のダイビング業界は壊滅する。しかし、そんな法的規制ができたならば、60歳以上のダイバーは、命を賭けて戦うだろうから、業界壊滅の心配はない。
彼の言う法的規制がどのようなものなのか、読み進んで行かなくてはわからないが、法的権力で自由を押さえつけようとするものであることはまちがいない。法的規制とはそういうものだ。
「スクーバダイビングは、かつては一部の人々の間で生命の喪失をも視野に入れたリスクの高い一種の冒険としての要素を強く持って行われていた。その当時は実行者による危険の引き受けはごく自然なことであり、そこに異論が入り込む余地はないであろう。また、その当時には、たとえば「泳げなくてもダイビングはできます」というような認識はなかったにちがいない。そういった先人たちの努力を経て、今やスクーバダイビングはレクリエーション商品となり、スクーバダイビング業界がサービス産業として確立するに至った。」
この一部の人々とは、僕の世代だ。しかし、僕に限って言えば、スクーバダイビングをレクリエーション商品とするような努力はした覚えはない。自由に夢と冒険を追った僕たちの世代のダイビングは、1980年ごろに終わり、レクリエーション商品としてのスクーバダイビングが輸入された。
僕たちは北米大陸のインデアンのように抵抗したが、今は、インデアンのように共存している。
そして、中田さんは続けている。
「 しかし、サービス産業の一般向け商品を販売する以上、そこに真の意味での「冒険」は存在しえないのであり、またかつての「冒険」の時と同じような「危険の引き受け」の論理を持ち込み、かつ存在せしめてはならないのである。これはすべてのサービス産業の中で一般向けに商品化されたアウトドア・レクリエーションスポーツに共通すべきことである。」
存在せしめてはならない。つまり、夢と冒険を追うダイビングは絶滅させなければならない。
しかし、人がダイビングに求めるものは、夢と冒険であり、自由であり、非日常の水中世界で自分の安全確保に集中することから得られる解放感である、と僕は思う。これは「一般向けに商品化されたアウトドア・レクリエーションスポーツ」とは対極にあるものだと僕は思っている。
僕は中田さんの考えを否定しない。そういう世界もある、そういう価値観もあるが、それを押しつけないでほしいというだけだ。
戻りの飛行機の中で、再び中田さんの「ダイビングの事故・法的責任と問題」を開いた。すぐに納得できない部分にぶつかった。
念のために書いておくが、この本は2001年3月の出版であり、使用されているデータなどは1990年代のものを使っている。それから13年は、十分に長い年月だ。中田さんの考えも変わっているかもしれない。ここで取り上げられているP型事業モデルは、大きく変化している。事業モデルという以上は、生きて変化しているものであり、固まってしまえば、時代に即応できなくなる。それでもとにかく、この前提のもとに、この本に書かれている文を取り上げて論じる。
二章まで読み進んできていて、ここで取り上げるのは、
2。致死性スポーツにおける資格商法展開の問題
致死性スポーツという言葉が一般につかわれているかどうか知らないが、まず、この言葉を看板に載せたり、広告につかったりなしないだろう。自分としては、ダイビングはたちまち死に至る活動だということをよく言い表していて、わかりやすい。
まず、第一前提として、ダイビングは危険、致死性だ。
中田さんは、まず前置きとして、
「ダイビング事故の主要な原因の一つを誘引している「資格商法」の弊害の是正を考えることが、必要であり、しっかりとした法的規制も不可欠である。それがなされない限り消費者の安全をより高めた健全な商業レジャースポーツの発展は望めないものである。」
致死性スポーツの法的規制があるとすれば、それは原則的に禁止し、ある条件のもとで許可するということだと思う。
法的規制が望ましいものであるかどうかは、その人の生きている価値観と大きくかかわる。自分について言えば、指導者の資質を維持する為の資格と主務官庁が必要であると考えた時代があり、文科省の社会体育指導者という制度を導入したが、外務省の北米課、アメリカ大使館からクレームがついて、普遍的な制度にはできなかった体験を持っている。今ではこの制度は、日体協の公認スポーツ指導員という形で実施されているが、スクーバダイビングについては必須ではない。ただ、他のスポーツの指導者と同等のスポーツについての常識、短大のスポーツ専攻程度のスポーツについての知識は、持っているべきであり、それを証する資格はあった方が良いと思っている。
そして、たとえば、僕のやっている浦安海豚倶楽部のような市民倶楽部としての水中スポーツは国として、振興させるべきであり、そのための資格だと思う。我田引水だが、この倶楽部をやっているということが、僕が社会体育指導者としての教育を受けた成果であるともいえる。
この制度は、自由であるべきスポーツに法的規制をかけることとは違う。PADIのインストラクターにしても、資格であることはまちがいない。資格の規制はあってよいけれど、行動の規制は嫌だ。
ダイバーの多くは、いかなる形であれ、自分の自由を束縛される法的規制には断固として反対であり、司法権力で弾圧されない限り受け入れないと思う。一方、司法権力で個人の自由を束縛しなければならないような規制は、行われる時代ではなくなっている。
もしも法的規制をいうならば、そしてそれが安全のためならば、まず、60歳以上のレクリエーションダイビングは禁止だろう。それとも、60歳以上は、何が起こっても自己責任とするという規制?ならば賛成だが、そんな規制ができると思うほど、僕もおめでたくない。2030年日本人口の40%が65歳を越え、地獄の日本になる。個人的ではあるが、僕はダイビングを通して、高齢化社会と戦っている。決して勝利することのない戦いだが。
60歳以上のダイビングを制限するとすれば、めでたく、日本のダイビング業界は壊滅する。しかし、そんな法的規制ができたならば、60歳以上のダイバーは、命を賭けて戦うだろうから、業界壊滅の心配はない。
彼の言う法的規制がどのようなものなのか、読み進んで行かなくてはわからないが、法的権力で自由を押さえつけようとするものであることはまちがいない。法的規制とはそういうものだ。
「スクーバダイビングは、かつては一部の人々の間で生命の喪失をも視野に入れたリスクの高い一種の冒険としての要素を強く持って行われていた。その当時は実行者による危険の引き受けはごく自然なことであり、そこに異論が入り込む余地はないであろう。また、その当時には、たとえば「泳げなくてもダイビングはできます」というような認識はなかったにちがいない。そういった先人たちの努力を経て、今やスクーバダイビングはレクリエーション商品となり、スクーバダイビング業界がサービス産業として確立するに至った。」
この一部の人々とは、僕の世代だ。しかし、僕に限って言えば、スクーバダイビングをレクリエーション商品とするような努力はした覚えはない。自由に夢と冒険を追った僕たちの世代のダイビングは、1980年ごろに終わり、レクリエーション商品としてのスクーバダイビングが輸入された。
僕たちは北米大陸のインデアンのように抵抗したが、今は、インデアンのように共存している。
そして、中田さんは続けている。
「 しかし、サービス産業の一般向け商品を販売する以上、そこに真の意味での「冒険」は存在しえないのであり、またかつての「冒険」の時と同じような「危険の引き受け」の論理を持ち込み、かつ存在せしめてはならないのである。これはすべてのサービス産業の中で一般向けに商品化されたアウトドア・レクリエーションスポーツに共通すべきことである。」
存在せしめてはならない。つまり、夢と冒険を追うダイビングは絶滅させなければならない。
しかし、人がダイビングに求めるものは、夢と冒険であり、自由であり、非日常の水中世界で自分の安全確保に集中することから得られる解放感である、と僕は思う。これは「一般向けに商品化されたアウトドア・レクリエーションスポーツ」とは対極にあるものだと僕は思っている。
僕は中田さんの考えを否定しない。そういう世界もある、そういう価値観もあるが、それを押しつけないでほしいというだけだ。