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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0609 致死性スポーツについて

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 最近、中田誠さんが、消費者に関連する公的機関の専門委員になったとかで、業界に厳しい影響が予想されるとか、話題になっている。座間味スキンダイビングツアーの間、彼の書いた本を読んでは、ブログに乗せていた。

 戻りの飛行機の中で、再び中田さんの「ダイビングの事故・法的責任と問題」を開いた。すぐに納得できない部分にぶつかった。
 念のために書いておくが、この本は2001年3月の出版であり、使用されているデータなどは1990年代のものを使っている。それから13年は、十分に長い年月だ。中田さんの考えも変わっているかもしれない。ここで取り上げられているP型事業モデルは、大きく変化している。事業モデルという以上は、生きて変化しているものであり、固まってしまえば、時代に即応できなくなる。それでもとにかく、この前提のもとに、この本に書かれている文を取り上げて論じる。
 二章まで読み進んできていて、ここで取り上げるのは、

       
 2。致死性スポーツにおける資格商法展開の問題
 致死性スポーツという言葉が一般につかわれているかどうか知らないが、まず、この言葉を看板に載せたり、広告につかったりなしないだろう。自分としては、ダイビングはたちまち死に至る活動だということをよく言い表していて、わかりやすい。
 まず、第一前提として、ダイビングは危険、致死性だ。

 中田さんは、まず前置きとして、
「ダイビング事故の主要な原因の一つを誘引している「資格商法」の弊害の是正を考えることが、必要であり、しっかりとした法的規制も不可欠である。それがなされない限り消費者の安全をより高めた健全な商業レジャースポーツの発展は望めないものである。」
 致死性スポーツの法的規制があるとすれば、それは原則的に禁止し、ある条件のもとで許可するということだと思う。
 
 法的規制が望ましいものであるかどうかは、その人の生きている価値観と大きくかかわる。自分について言えば、指導者の資質を維持する為の資格と主務官庁が必要であると考えた時代があり、文科省の社会体育指導者という制度を導入したが、外務省の北米課、アメリカ大使館からクレームがついて、普遍的な制度にはできなかった体験を持っている。今ではこの制度は、日体協の公認スポーツ指導員という形で実施されているが、スクーバダイビングについては必須ではない。ただ、他のスポーツの指導者と同等のスポーツについての常識、短大のスポーツ専攻程度のスポーツについての知識は、持っているべきであり、それを証する資格はあった方が良いと思っている。
 そして、たとえば、僕のやっている浦安海豚倶楽部のような市民倶楽部としての水中スポーツは国として、振興させるべきであり、そのための資格だと思う。我田引水だが、この倶楽部をやっているということが、僕が社会体育指導者としての教育を受けた成果であるともいえる。
 この制度は、自由であるべきスポーツに法的規制をかけることとは違う。PADIのインストラクターにしても、資格であることはまちがいない。資格の規制はあってよいけれど、行動の規制は嫌だ。
 
 ダイバーの多くは、いかなる形であれ、自分の自由を束縛される法的規制には断固として反対であり、司法権力で弾圧されない限り受け入れないと思う。一方、司法権力で個人の自由を束縛しなければならないような規制は、行われる時代ではなくなっている。
もしも法的規制をいうならば、そしてそれが安全のためならば、まず、60歳以上のレクリエーションダイビングは禁止だろう。それとも、60歳以上は、何が起こっても自己責任とするという規制?ならば賛成だが、そんな規制ができると思うほど、僕もおめでたくない。2030年日本人口の40%が65歳を越え、地獄の日本になる。個人的ではあるが、僕はダイビングを通して、高齢化社会と戦っている。決して勝利することのない戦いだが。
 60歳以上のダイビングを制限するとすれば、めでたく、日本のダイビング業界は壊滅する。しかし、そんな法的規制ができたならば、60歳以上のダイバーは、命を賭けて戦うだろうから、業界壊滅の心配はない。
 彼の言う法的規制がどのようなものなのか、読み進んで行かなくてはわからないが、法的権力で自由を押さえつけようとするものであることはまちがいない。法的規制とはそういうものだ。

 「スクーバダイビングは、かつては一部の人々の間で生命の喪失をも視野に入れたリスクの高い一種の冒険としての要素を強く持って行われていた。その当時は実行者による危険の引き受けはごく自然なことであり、そこに異論が入り込む余地はないであろう。また、その当時には、たとえば「泳げなくてもダイビングはできます」というような認識はなかったにちがいない。そういった先人たちの努力を経て、今やスクーバダイビングはレクリエーション商品となり、スクーバダイビング業界がサービス産業として確立するに至った。」
 この一部の人々とは、僕の世代だ。しかし、僕に限って言えば、スクーバダイビングをレクリエーション商品とするような努力はした覚えはない。自由に夢と冒険を追った僕たちの世代のダイビングは、1980年ごろに終わり、レクリエーション商品としてのスクーバダイビングが輸入された。
 僕たちは北米大陸のインデアンのように抵抗したが、今は、インデアンのように共存している。
 そして、中田さんは続けている。
「 しかし、サービス産業の一般向け商品を販売する以上、そこに真の意味での「冒険」は存在しえないのであり、またかつての「冒険」の時と同じような「危険の引き受け」の論理を持ち込み、かつ存在せしめてはならないのである。これはすべてのサービス産業の中で一般向けに商品化されたアウトドア・レクリエーションスポーツに共通すべきことである。」
 存在せしめてはならない。つまり、夢と冒険を追うダイビングは絶滅させなければならない。
 しかし、人がダイビングに求めるものは、夢と冒険であり、自由であり、非日常の水中世界で自分の安全確保に集中することから得られる解放感である、と僕は思う。これは「一般向けに商品化されたアウトドア・レクリエーションスポーツ」とは対極にあるものだと僕は思っている。
 僕は中田さんの考えを否定しない。そういう世界もある、そういう価値観もあるが、それを押しつけないでほしいというだけだ。

0612 法的規制と消費者

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 今日はウエアラブルカメラサークルのキックオフなので、そのことを書きたいが、中田さんの本のことが引っかかっている。始めてしまったのだから、行き着くところに行き着かないと落ち着かない。

 しつこいようだけれど、僕の論じているのはこの本、「ダイビングの事故と法的責任と問題」の字面だけで、そして、この本を書いた中田さんがおそらくこの本の影響下に消費者庁の、たぶん消費者の安全にかかわることの委員になったということから、始まっている。
 ここまで、何回か書いてきたけれど、ダイビングで、自分を消費者と位置付けて、消費者安全ということで命を守ってもらおうと考えている人と、僕は一緒に潜りたくはないし、関わり合いになりたくない。本人は納得していても家族が納得しない。これについても、家族の心のケアは全力をあげなければいけないけれど、それ以上のことはできない。そして、家族の訴えにたいして、敢然と受けて立てるようなダイビングをしなければいけない。  
僕と中田さんとでは、生きている国が違うのだと思う。中田さんの国では、レクリエーショナルダイバーは消費者であり、消費者として安全が守られている。消費者として、ガイドダイバーやインストラクターに生命の保証をしてもらっている。
ちょっと、ダイビングをやった人ならば、自分の命はだれも守ってくれていないことに気付くだろう。お互いに守りあうのであり、一方的に守られる消費者対事業者の関係ではない。それが僕たちの国だ。
別の国では、僕が誰かのガイドでもぐっていて、自殺して、家族が訴えれば、賠償金がもらえるのだ。ほぼこれに近い裁判に僕は付き合ったことがある。この時だけは被告側で戦った。半病人が潜水してバディから離れて死に、独り身の人で、そのお姉さんが訴えてきた。
 これは例外で、あとのいくつかの訴訟は、常に原告側、事業者を訴える側の味方をした。だから、とんでもないガイドダイバーが居るし、インストラクターが居ることを承知してもいる。
 だから規制が必要という考えもわかる。ダイビングのような危険な行動は基準・規制が必須である。しかし、その規制、基準は、国が定める法的基準では、役に立たない。基準は、それぞれのガイドダイバーが、インストラクターが自分に、その時、その場所に適合した形で、自分に課しているはずだ。少し前に書いたが、ダイビングはメンタルな行動で、知性と判断力が無ければできない。それぞれ、立派なガイドダイバー、立派なインストラクターは、厳しい倫理基準と知性をもっていると思う。それがなければ生き残って来られなかったし、お客も満足しないはずだ。
僕は、自分の何でもアリの性格が間接的に自分の会社の空気を作り、その空気のために、若いダイバーが一人で減圧停止をしていて死んだ。減圧停止でロープにつかまっているときは、もう安心して良い、と思う空気が彼を殺した。ダイビングについて、ストイックな厳しい環境であったならば、彼は死なないで済んだと僕は自分を責めた。以後、ダイビングについてだけは、自分の信念を貫く。酒は飲まない。ふざけた態度をとらない。
 しかし、これらはすべて自己規制であり、自己基準である。ダイビングの基準、コードは、自分が決めて自分が守らなければ守れない。法的規制とは、外から自由を束縛されるものであり、そんなものが役に立つとは思えない。厳しい規制はかけられないし、緩やかな規制ならば無い方が良い。
 規制として、わかりやすいのは、スタッフ比率だろう。今、一人のガイドダイバーが8人までは引率して良いということになっているらしい。これは確かに大きい比率だが、それは、背の立つような海での遊びで、1:8で、スタッフもつけないで、外の海に出るようなガイドダイバーがいれば、そんな人は誰も頼らない。
 そして、1:2だったらどうなのだろう。1:2の比率で死亡事故を起こした例を、直ちにいくつかあげられる。1:2であっても、一人にしたら危ない。1:2が一番一人になりやすいとも思う。一人にしたらいけない、なったらいけないという法的規制をかけたとすれば、ガイドダイバー側としては、ゲストが、一人になった場合には、ガイドダイバーを訴えないとでもいうような法的規制がほしい。一人にしたのか、一人になったのか、判定は困難だから、最終的にはガイドダイバーの責任であるとしても、ダイビングの世界では、消費者と事業者は五分だ。その自覚を徹底させない限り、事故は減らない。自分的に言えば、事故はいくら起こっても構わない。自分のゲストだけは絶対に事故を起こさせない。守る。だから、事故を起こしそうな人は、特に注意し、なるべく早く他所に行ってもらう。これは、DNAなのだ。雑草を抜くように自分のグループから、排除しなければならない。これが僕の基準、規制であり、こんな考えを法的規制にできるわけがない。どうように、中田さんの国の基準を法的規制として、適用されることにも、反対しなければいけない。良い、悪いではない。国が違うのだ。

 さて、ウエアラブルについて、
サークルの目的は、映像作りに上達することである。
 9月のフォーラム、1月のシンポジウムで発表する。
 今、素人の映像を見ると見ていられない。フォーマットが必要である。
  ①まずウエアラブルで撮ったものであること。
  ②作品の長さは3分以内で、原則として、30秒前後のカット、3カット以上、6カット以内で成立させる。もちろん創作は自由であるべきだが、見せられる方の苦労も考えなければ、いけない。
  ③編集して3分になることを考えて撮影しなければいけない。垂れ流しで撮っていても、自分の感覚としては、掴めるはず。
  
  内部的な審査を楽しくやって、5作品程度をフォーラムで発表する。
  それで、オーバーフローすれば、別に発表会をやっても良いが、映像関連だけの発表会ではない場で、見てもらうことが良いと思っている。

0628 僕とダイビング事故 ー1

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 ダイビングを続けておよそ60年、ダイビング事故が念頭から消えることが無い。また、消してしまうと、事故が後ろに忍び寄る。決して念頭から消してはいけない。そのことが、自分を生きながらえさせているのだと思う。。
 月刊ダイバーに日本潜水グラフィティという連載をしている。ダイビングに夢と冒険をかけていた時代の話、ということになっている。別に意識して夢と冒険を追ったわけではないが、ダイビングをするということ、それだけで夢と冒険を追うことになった時代の話だ。もちろん、今も、昔と同じようにダイビングは楽しい。もはや、夢を追う年頃ではないが、その代わりに生きていることそのものが冒険だと考えている。よく、冒険イコール危険、避けなければという人がいるが、僕は60年近く、危険を追っていたわけではない。事故が念頭から離れないということ、それが冒険ということだ。日本潜水グラフィティにも、ずいぶん事故のことを書いた。須賀潮美が構成をしてくれているが、事故のことが重なると「潜水エレジーになってしまうね。冒険小説のつもりで書いてください。」と言われる。僕が書きたいのも冒険小説であり、事故の話ではない。しかし、冒険小説的に生きると、事故がやってくる。自分の危険ではなくて、周囲の人、一緒にツアーに行く友達、自分の経営する(経営していた)潜水会社の社員に危険が訪れる。スガ・マリンメカニックは、かつて、自分の気分、社員のムードとしてスガ・マリンサーカスだと自他ともに認めていた時期があった。楽しかった。冒険会社だ。そうしたら、事故がやってきて、どうしてだかわからない理由で若い社員をうしなった。気分は180度転換してしまった。決して死なない。事故が起こってはいけないダイビングを追求するようになり、ケーブルダイビシステムという有線通話器を命索とする潜水を広めようと、有り金をはたいて、会社を作った。作業の潜水は送気式で、有線通話器の潜水だが、リサーチダイビングとレクリエーショナルダイビングでは、有線通話の安全潜水は通用しない。命綱に拘束されるのが嫌なのだ。無残にも失敗し、信用とお金を失った。
 リサーチダイビングとレクリエーショナルダイビングの本質は、危険潜水ではないけれど、冒険潜水なのだ。決して安全潜水ではありえないと悟った。綱につながれた安全よりも自由な危険が欲しいのだ。

 月刊ダイバーの日本潜水グラフィティもまだもう少し続けさせてもらえそうだが、そこでは楽しい冒険的な視点からのダイビングを、ここでは、事故を中心として、話を展開させよう。しばらく、「僕とダイビング事故」というくくりで、ブログにかきつづけるつもりだ。

 7月4日から、毎年恒例にさせてもらっている広島大学の練習船、豊潮丸の航海もはじまる。この航海記も何年も続けているので、書きたい。その他撮影のこともダイビング運用のことも書きたいので、入り組むけれど、「僕とダイビング事故」ということで検索すれば連続して見られるようにして書いて行こう。

 「僕とダイビング事故」というタイトルにしたわけは、ダイビング事故は、やはり微妙な問題であり、口にしたり書いたりすると、その結果、友達を失う。失ってもかまわない友達なのだ、と思うことにしているが、友達を無くして得することは何もない。
 そして、つい人の行動を批判してしまう。しかし、直接ダイビングに関わっている身としては、明日は我が身だ。人のやっていることを批判、批評は出来るだけしたくない。二律背反則になる。しかし、一番大事なこと、念頭から離すと忍び寄ってくる事故のことは、書いておかなくてはいけない。「僕の」つまり僕についての私見というつもりだ。


   ドライスーツ(左端、僕)が一着しかないのに、フランスで最新鋭の撮影ビークル ペガスを買った水産大学、プールでテストしたけれど、走らなかった。


 1953年に東京水産大学にアクアラングが紹介され、すぐ次の年、1954年に二人の学生が事故死する。その翌年、1955年には、潜水実習は、控えられたが、僕は、1955年に東京水産大学に入学する。潜水実習は、身体に命綱をつけてのスクーバダイバーとして1956年からは復活する。命綱をつけては、自由に魚のように泳ぐスクーバではない。大学一年生の時から、スキンダイビング、素潜りに熱中していた僕は、索付きはいやだ。そして1957年には、幸いにも索がとれた潜水実習で僕はスクーバダイビングをはじめる。
 僕の師である宇野寛先生は、1954年の実習の責任者として裁判中だった。刑事訴訟である。有罪であれば、先生は前科一犯であり学校もやめなくてはいけないだろう。僕が受ける潜水実習もどうなるかわからなかったが、裁判続行のまま潜水実習は行われた。
 1954年の事故の理由、原因はよくわからないが、訴えられていた骨子は、実習にあたって、小舟がその水面上にいなければならない取り決めになっていたらしいが、小舟が別の用事?でどこかに行ってしまって真上にいなかった。そのときに、責任者である宇野先生は現場にいなかったのだが、責任者である。それが過失致死罪になるか否かの刑事訴訟だった。
 そして、1958年、潜水実習の翌年だが、僕は4年生になり、先生の教室で論文をかいていたのだが、ある日、先生がにこにこして「須賀君、無罪だったよ。疑わしきは罰せずだということだ。」小舟が上にいれば、事故は防げたかもしれない。しかし、舟がいても事故は起こったかもしれない。舟の不在について先生は責任があるが、それが、死亡の原因であるかどうか疑わしいということだった。
 刑事訴訟はそれで終わったが、民事訴訟はある。後に聞いたところでは、学校対遺族の訴訟はあったらしい。しかし、その帰結について、当時は、学生である僕と先生の間で話題になったことはなかった。

 4年生の秋、そのころから盛んになった人工魚礁設置の調査で九死に一生の場面があった。浦賀沖、水深30m、僕は、ゴム合羽のような当時のドライスーツを着て、一人で潜った。ドライスーツが1着しかなかったのだ。海底で無理をしてエアー切れになった。折悪しく、人工魚礁に膝を突き、ピンホールが空いて、ドライスーツに浸水した。浮力を失って浮上できない。潜降索にたどりつき、索をたぐって浮上した。舟の上に引き上げられた時は呼吸停止寸前で意識が無かった。すぐに気がついたが、一年生の時から鍛えた、20m以上潜水できた素潜り能力がなければ死んでいたと僕は思い、自分も、そしてのちにダイビング部のコーチになった時も、スキンダイビング能力至上主義になった。
 ところで、その時は考えもしなかったが、もしも、僕が死んでいたなら母は先生を訴えただろうか。当時でも、いや、当時の方がバディシステムについては厳守とされていた。事情はあったにせよ、僕は一人で潜っている。二人で潜ったら、二人のうちのどちらかは死んだと僕は思っていたが、とにかく一人で潜っている。そして、水深30mは、深い。僕は今でも、母は訴えなかったにちがいないと信じているが、わからない。
 

0629 読書ノート

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 久しぶりの読書ノート

「世界とはいやなものである。:関川夏央・集英社文庫 東南アジア現代史の旅」
「戦争の世界史 燃え続けた20世紀 A L サッチャー 祥伝社黄金文庫」
「オリバーストーンが語るもう一つのアメリカ史 1 二つの世界大戦と原爆投下 早川書房」
「ルリボシカミキリの青 福岡伸一 文春文庫」
「あるようなないような: 川上弘美 中公文庫」
「不諸の鳥 十二国記 小野不由美・新潮文庫」
「海底牧場 アーサー・C・クラーク ハヤカワ文庫」
「法学と憲法学への誘い 松村格 八千代出版」
同時進行で読んでいる。
★「世界とはいやなものである。:関川夏央・集英社文庫 東南アジア現代史の旅」
情報としては少し古いが、絶対的に面白いので、着々と読み進んでいて、終わるのが少しもったいない気もしている。
★「戦争の世界史 燃え続けた20世紀 A L サッチャー 祥伝社黄金文庫」
人物についての視点がおもしろいし、なるほどとおもうけれど、だからなんだ。
★「オリバーストーンが語るもう一つのアメリカ史 1 二つの世界大戦と原爆投下 早川書房」
期待して高い本を買ったのだが、オリバー・ストーンの視点だから、
それに、まだ面白いところ・第二次大戦にさしかかっていない。「戦争の世界史 燃え続けた20世紀」と読み比べて、ウイルソンという大統領に興味を持った。
★「ルリボシカミキリの青 福岡伸一 文春文庫」
なんとか終わりまで読めそう。
★「あるようなないような: 川上弘美 中公文庫」
この人の文体、好きなんだけれど、影響されると困る。
★「不諸の鳥 十二国記 小野不由美・新潮文庫」
十二国記 全部読んでいる。12年ぶりの新作だというので、待ち構えるようにして買った。期待が大きかったので、前と全然コンセプトがかわってしまったので、面白くないと思った。自由、でたらめな世界は相変わらずだが、でたらめな世界でシリアスなことをやられると戸惑う。しかし、フアンなので、もう少し手にしていよう。なにか見つかるかもしれない。
★「海底牧場 アーサー・C・クラーク ハヤカワ文庫」
1950年代だったか60年代に読んで感動した。イルカを牧羊犬にして、牧鯨をするという筋たて、本物の21世紀は鯨に対するアプローチがまるで違う。もう一度読み直そうと思った。肉牛があって、肉鯨があっていけないのか。いまだったら、このSFどんな反響があるだろう。アーサークラークも未来が読めなかった。
☆「法学と憲法学への誘い 松村格 八千代出版」
日本水中科学協会がお世話になっている駒沢大学法学部の松村教授の書いた本で、拾い読みしている。今度の豊潮丸航海で読破できるか?けっこう潜水回数が多いので難しいかもしれない。この頃、法律的なことが話題になるので、とにかく読破する。

0701 僕とダイビング事故-2

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 僕とダイビング事故ー2
 卒業してスクーバダイビングを仕事とするようになり、潜水器製造会社、東亜潜水機でスクーバ機材を売るようになった。そのころは、潜水科学協会が現在のCカード講習と同じ程度の講習をやっていたが、スクーバダイバーの増加にこの講習が間に合わないようになってきた。都内にダイビングショップがいくつか生まれ、そのショップが講習も行い、修了者を集めてクラブを作るようになった。

  ダイビングショップ、ダイビングクラブがやるダイビングの目的はスピアフィッシング、それと、やってはいけないことだと知ってはいたが、アワビ、サザエ、伊勢エビなどを穫る、つまり漁師の側からみれば泥棒である。
 敗戦国の国民であった僕たちは、食糧難の時代に育った。高価なスクーバ機材を買えば、その元をとらなければならない。
 記憶に残っているのは、潜水科学協会の会員で、かなりのお金持ちであった人が、江ノ島の海でサザエを穫りすぎて、沈没して亡くなった。つまり、誰でもやっていたのだ。もちろん、そんな時代が長く続くわけもなく、まず、親友、後藤道夫がエアーサービスをはじめていた、真鶴でダイビング禁止となった。後藤さんはウエットスーツの販売で活路を開いたが、遊びに行っていたダイバーは困った。
 それでもしぶとく、物取りは漁師の目を盗んで、スピアフィッシングは、漁業者の了解を得れば、船をつかうことで、なにがしかのお金を落とすこともあり、やっても良いのだと考えていた。実は今でもこの考え方は四国、九州方面では通用しているようだ。

 東亜の代理店第一号だったダイビングショップ、東京アクアラングサービスは、スピアフィッシング専門店だった。
 スピアフィッシングも磯物泥棒もバディシステムは成立しない。物取りの方はチームプレーで組織的にやる海賊もいたが、スピアフィッシングは、一部の例外を除いて、単独行動である。エントリーと、場合によっては水中で巡り会って一緒にエキジットすることもあるが、原則として水中では一人である。人よりも先に魚を見つけて撃たなければ魚は逃げる。
 東京アクアラングサービスのクラブでも事故死が起こった。クラブ員がそろって、悲しみ、在りし日の彼を偲ぶ文集をだしたりしたが、訴えたりすることはなかった。
 もし、残圧が、20で、大きな回遊魚が回ってきたら、撃つだろう。そして深みに引き込まれて、空気が無くなりそうになったとして、水中銃を手放すダイバーはハンターじゃない。
 そんなことを言ってはいたが、ダイビングの事故はドラスチックである。朝、おみやげの魚を待っていろと元気に出かけたお父さんが、夜には冷たくなって戻ってくる。まだ、ダイビングの指導組織はなく、ダイバーの集まりはクラブ単位であった。同じクラブでつきあっていれば、家族とも知り合う。訴えられることは無くても、精神的には耐えられない。耐えられないことの裏返しの強がりもあった。
 僕は、堀切菖蒲園のスクラップ屋さんの息子で東亜潜水機の同僚である石崎とセブンシーアクアラングクラブという魚突きクラブをはじめた。そのクラブ員が、千葉県金谷でアワビをとりすぎて沈没して亡くなった。腰のベルトにスカリをくくりつけていて沈んだものだ。もちろん、だれを訴えることもない。
 石崎は、「須賀さん、俺もこれで一人前になったよ。」と強がりを言っていたが、まもなくクラブもダイビングもやめた。賠償の追求はないが、友人を自分がダイビングクラブを始めたために殺したという思いにはた耐えられなかったのだろう。

1967年、それまで、正式なダイビング講習をやっていた日本潜水科学協会がスポーツダイビングから手を引いて、海底居住計画を目指す海中開発技術協会になった。講習をやる組織がない。僕たちは自分たちの指導団体である日本潜水会を作った。講習の受け皿を作るとともに事故の対策をみんなでやろうとする目的もあった。むしろその方が強かったかもしれない。ダイバーは一匹狼だが、死亡事故を一人で背負うほどは強くない。群れなければ耐えられなかったのだ。

 日本潜水会誕生のことは、月刊ダイバーのグラフィティにも書いたが、一つの成果として、スピアフィッシングをやめたが、これは派生的なことであって、集いあった重要な理由は、安全の確立、さらに、事故が起こったときに組織でかばいあうことだった。ほぼ時を同じくして、関西潜水連盟、中部日本潜水連盟が誕生した。この三つの団体は、紆余曲折があったが、やがて全日本潜水連盟という一つの連盟をつくることになる。
 日本潜水会として、安全の確立のためには、とにかくなにがあっても溺れない、また溺れる仲間を助けることができるダイバーになることが一番大事だと考えた。泳ぐこと、そして素潜りで潜ることが基本だ。まだBC.はない。ライフジャケットはあったが、泳ぐ抵抗になる。タンクを脱ぎ捨て、ウエイトを捨てれば、ウエットスーツを着たダイバーは沈まない。
僕たちの考え出した泳ぐトレーニング種目には、参加していたNHKのカメラマングループによって、「地獄の特訓」を意味する地獄の・・・・というニックネームがつけられた。
 「地獄のネックレス」とは、5キロのウエイトをネックレスにすること、「地獄鍋」とはは、5キロのウエイトを持ってたち泳ぎをすること、「座頭市地獄旅」とは、伊豆海洋公園の50mプールで、マスクスノーケルなし、普通装備のタンク、ウエイトをつけて、プールを周回して泳ぐ。マスクがないから座頭市だ。5m間隔でスタートして3周する。追い抜くときだけ内側を通れる。一人に追い抜かれると1周プラスになる。5人ずつでやるから、5人に抜かれると8周になる。スピードと耐久力の練習だった。もちろん、レスキュートレーニングもこれに準じた。今でもその名残は、水中スポーツ大会のレスキューレースに残っている。意識を失っているダイバー、あるいは意識を取り戻しても、溺水したら、一秒を争って陸地にあげなければ死んでしまう。
 ただし、このハードな練習はクラブのリーダーであるべき1級ダイバー(今のダイブマスターだろうか)とインストラクターで、一般ダイバーは今のCカードと大差はない2級だった。ただ、その2級は、指導員が見て、もう一人前だから、海に行っても良いよという印だったから、一人前と判断できるまで、認定証はださない。スクーバダイビングは、見込みがなくて止めるか、一人前になるかしかない。一人前にならないで、止めないで続ければ危ない。だから、誰に教えられたダイバーか?ということは、資格条件として重要だった。たとえば須賀が認定者である二級ダイバーが溺れれば、あいつはなにを教えているのだということになる。

0702 JAUS総会

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 昨日 7月2日 JAUSの総会が終了した。昨年、3期はおよそ100万の赤字、
現在JAUSは正会員数 79名活動会員数 21 名である。賛同し協力して活動に参加支援してくださるメンバー、が残るスクリーニングが行われている状態だと思う。今年度は20名程度が増え、同じくらいの会員が減って行くと予想している。現時点では、100名程度の本当に理解し合える仲間で連携協力した活動が続けられればよいと考えている。
 財政的には赤字が続いて行くと思われる。利益追求を第一義とはしていないので、活動が続けて行かれれば問題ないが、今年度ぐらいから、赤字を出さないような事業計画を策定した。水中科学協会の活動に興味をお持ちの方、プライマリーコースでスキルトレーニングをなさりたい方、どうか、会員になってください。
 申し込みは http://join.jaus.jp/ からお願いいたします。

さて、今日出発、明日から広島大学の練習船豊潮丸での瀬戸内海縦断の航海だ。瀬戸内海だから、ネットがつながると思う。航海記がリアルタイムで送れるかもしれない。疲れてダメかもしれない。とにかく、78歳夏の航海です。
 昔なら、としよりの冷や水と牽制されるでしょうが、日本人口の40%強が冷や水の時代に入ります。思えば良い時代に生まれたものだ、と思うことにします。


さて、このごろ、ユーチューブに動画をよく載せています。お時間があれば見てください。須賀次郎、もしくは次郎須賀 で検索すれば出てきます。
昨日の浦安海豚倶楽部での練習を載せました。朝の光の中で です。

  http://youtu.be/0gbZ2k8tMTo

0703 僕とダイビング事故

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僕とダイビング事故 というタイトルで書き始めているけれど、難しいテーマだし、なかなか書けない。
 ふと、昔書いて本にしようと持っていた原稿を見た。多分2000年ごろに書いた原稿だ。結局本にはしなかった。その理由も危ないテーマだったからだが、今見直してみると結構悪くない。書けなくなったらこれを引っ張り出して、出せば良いか。そして、今書いているものとミックスすれば、
 とにかく、このブログを下書きにして、ダイビング事故をなるべく少なくするための本を作ろうとしている。

※ご存知のとおり、今の潮美は、月刊ダイバーの僕の原稿の構成をしている。

7-2.娘・潮美への手紙

7-2-1 娘がダイビングを始めた

昭和57年(1982年)娘の潮美が法政大学に入学した。
90m潜水実験の前の年に生まれた娘である。
後年、彼女がニュースステーションの水中レポーターをして活躍をするようになり、幼少の時から英才教育的に潜水を教えていたのだろうと、よく人に言われることになった。 
自然の中で育ってもらいたい、自然と親しくする人になってもらいたいと、夏休みには山村の自然スクールに三年連続して行かせた。身体が弱かったから強い身体になってもらいたいと、スイミングスクールにも通わせた。しかし、スクーバダイビングをやらせようとは思わなかった。高等学校では剣道に熱中していたから、大学では合気道をやらせたかった。それが大学のダイビングクラブに入りたいと言う。
ダイビングをする事には反対だった。潮美はよく会社に訪ねて来ていたから、私の会社のダイバーたちも顔を見知っている。「止めさせた方がいいですよ」と言うのが彼等の意見だった。チーフダイバーの河合君は「引き上げた遺体の写真でも見せれば、きっと思いとどまりますよ」とまでいう。

 しかし、潜水は私の家業である。うれしくないこともなかった。父親の夢の一つは娘と一緒に仕事をすることだ。
潮美が大学に入るこの年、1982年で、私は潜水をはじめてから二十八年になっていた。もう少しで危なかったと胸をなで下ろすようなニヤミスは、三年に一度ぐらいの割合で起こっていたが、それらの危険のほとんどは、自分の知識不足、経験不足で起こっている。  
二十八年のキャリアで経験不足とは、ずいぶん頭が悪いと思われるかも知れないが、潜水とはそういうものだ。海は千変万化するし、潜水の形態、活動の範囲は年毎に広がって行く。第一、人が生きていると言うことは、いつでも新しい経験をすることになるわけで、すべての事柄に対して予測ができれば、それはもはや神に近い。
 とにかく二十八年、毎日潜水のことだけを考えてすごして来たわけだから、娘がやろうとしているくらいの潜水ならば、ほぼ完全な経験と知識を持っていると思っていた。実はそうではなく、大きな穴があったことを後に思い知らされることになるのだが。
安全とは、知識と経験の積み重ねで得られる。とにかく、自分の経験と知識を娘に伝えたい。口で話したのでは、右から左へ聞き流されてしまうかも知れない。手紙を書いて、見てもらったらどうだろう、自分の娘だけではなく、他人の息子や娘にも役立つように、機会があれば、どこかで発表しようとも思った。出来れば、娘と私の往復書簡にしたいとも思った。


 明日、豊潮丸に乗る予定で、今広島まで来て、広島のホテルから発信する。

豊潮丸航海ー1

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広島大学の練習船、豊潮丸の航海で瀬戸内海の海の上です。
 今日は5日ですが、やっと、上甲板でつながりました。
 一日遅れで、昨日のできごとです。

7月4日
 呉市へ移動。大雨が降って広島から呉市へ向かうJRが不確実らしい。学生の上級生で引率の町田君の意見で、高速バスで行くことになった。バスターミナルは、JR広島駅の近くではなくて、紙屋町という広島の中心にある。そこまでは路面電車で行かなくてはならない。路面電車にも乗りたかったから良いけれど、不便だ。
 東京の都電の思い出があるが、広島の路面電車は、市内交通の主役のようで、立派で、大きい。新型もあるが、それには乗れなかった代わりに3両連結にのれた。
 

 時間通り、13時に出港、音戸の瀬戸を抜ける。さすがに疲れていて昼寝をしている間に来島海峡を過ぎてしまいそう。中尾先生が起こしてくれて、かろうじて見ることができた。瀬戸内海の海の色は思っていたよりもよく。この分ならば東京湾よりも良いかもしれない。


夕食の後、雨の中をゴムボートの組み立て。
明日朝0830より、潜水

「法学と憲法学への誘い 松村格 八千代出版」
航海中に読み終わりたいと持ってきた。大学の教養課程の法学テキストとして編集されたもののようで、わかりやすいが、面白いわけがない。努力が必要。すぐに眠くなれる。
それでも、判例法、判例が法になってしまうことについて読んだ。
 ダイビングの事故、自己責任などと言っているが、訴訟が起こってしまえばこれまでの判例で判決されてしまう。自己責任などは裁判でとりあげられることは、ありえない。
 交通事故がそうであるように、いずれはダイビング事故もオートマチックに賠償責任の割合が、保険会社と原告の弁護人の間でスムースに決まるようになるのだろう。すでになっているのかもしれない。こういう事故の起こり方をすれば、その価格はいくらと決まってくる。その情報がインストラクター、ガイドダイバーに伝われば、予測ができるとともに、同じようなまちがいをしないという、戒めにもなる。不可能なことかもしれないが、そういう資料が公開されると良い。
 僕が原告側のアドバイスにかかわっていたころは、およそ3000万から5000万、過失致死すれすれで8000万ぐらいだったろうか。上限は1事故1億だったころのことだ。
 だからと言って自己責任を唱えることは無意味ではない。保険はお金の話であり、ある意味で見切れる。賠償責任の額は遺族と保険会社の争いである。しかし、命はもどらない。
 そして、遺族の心の問題が残る。さらに、インストラクターの倫理観の問題もある。

 ブログで、僕とダイビング事故というテーマで書いていて、どうにも筆が先に進まなかった。僕の書こうとしていることは、心と倫理

豊潮丸航海ー2

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 神戸港に入港し、ネットがつながる。
 少し後戻りして、7月5日の日記

7月5日
半日走っただけで、愛媛県の上島町、瓢箪島付近に到着し、錨泊した。石川さんと学生たちでゴムボートを組み立てれば、もはややることも無く、少しばかり原稿を書き、本を読んだ。
朝、5時に起きて、甲板に出る。さすが瀬戸内海で、天気は悪いけれど、海は穏やかで、鏡のようだ。早く寝たために3時に目が覚めてしまって本を読んでいたために、頭がぼやけている。ワイファイはノーサービスでネットにはつながらない。
瓢箪島で潜ることになっているが、どんな海底なのかまるでわからない。中尾先生がダイビング地点を選んでいるのだが、先生だってわかっていない。何もわからない。


瓢箪島は、ほんとうにひょっこり瓢箪島の形をしていた。
チームを二つに分けて、須賀、中尾、町田の早稲田大学チームと、石川、酒井先生、そして北大の学生それぞれ、3人ずつにして、3人は必ずまとまっていること、そして、ゴムボートのアンカーからは、巻き尺を伸ばしてその方向で、ラインからあまり離れないで行動することを決め、ブリーフィングした。北大の学生のキャリアを聞いたら、タンク3本とのこと、大学の研究者のダイビングは、こんなものだ。そして事故が起こる。それを防ごうと水中科学協会をやっているのだが、こちらだけが空回りをしているようで、効果はない。酒井先生は会員になってくれているが、どうにもならない。せめて、こういう時に事故を起こさないようにするぐらいしかできない。
瓢箪島は岩の絶壁の立ち上がったような地形で、急峻、急深で、底は40mとなっている。水深20mぐらいまで、行こうときめた。急なドロップオフには、無脊椎動物が付着しているものと予想した。
僕は5mmのウエットスーツ、上着と肩掛けつなぎのロングジョンでウエイトは腰に2キロ、4キロのブレストウエイトである。重めだが、重めの方が楽だろう。
ダイブコンピュータの記録
0926潜水開始 浮上1020 潜水時間54分 最大水深は10.1mだが、おもに5-7mで行動した。ゴムボートだから、水に入ってタンクを着ける。その時には、流れは緩やかでほとんど流されることなくタンクを着けたが、最近は昔のように素早くは着けられない。
酒井さんはたちまちに消えて、石川さんは後を追った。二つのチームはなるべく離れないようにしようとは打ち合わせていたが、一緒に行動するという文化は酒井先生にはない。まあ、石川さんに任せよう。ところで、予定していた巻尺がない。石川さんが持って行った様子はない。僕は持っていない。すなわち水中に持って入っていないということだ。誰が持つかの指示をしなかった。やはり緊張して抜けているのだろう。仕方が無い。こちらのチーム3人が離れないようにしよう。




  石川さんに任せたチームも初心者が居るけど、安定している。

透視度は5-8mだがグリーンの海だ。地形は、陸の崖がそのまま水中に入っていると思っていた予想とは全く違っていて、平坦であり、なだらかな感じのところに着底した。瀬戸内海の典型の海底だ。多様な海藻が生えていて、モクの類とか大型海藻はない。魚は多い。スズメダイの類、ベラの類、キヌバリなどのハゼ、小さいイシダイ、コブダイの幼魚、ハタの類も多い。岩にはあまり海綿はついていないようだ。水深7mあたりから砂地の斜面になる。斜面を下りるのはやめて、岩礁の上を見る。かなり強い流れ、多分1ノットぐらいが、走り出した。岩をつかむようにして、潮上に向かう。中尾先生は潮下に行きたがっているようで、たびたび引き止める。上に上っていれば、水面に出た時にゴムボートから離れていても流されてゆけば良いから、泳がなくて済む。僕の気持ちは浮上してから流されることを恐れていて、どうしても移動が早くなる。二人は採集のために停止する。先生の採集を僕が袋に入れていれば離れることは無いのだが、三人編成としたために、町田君が袋に入れる役割になった。僕が速くなって、二人と離れてしまった。そのまま待ったが来ないので、下って合流した。
豊潮丸の空気充填は120までだ。50に近くなったので、水深4mまで上がり、僕が水面に上がり位置の確認をした。ゴムボートはすぐ近く10mと離れていないところに頭を出すことができた。空気が10ぐらいまで、浅いところで撮影と採集をした。これもいつものパターンである。
僕だけ先に浮上したら、エンジン付きのゴムボートがちょうどよく来ていて、酒井先生たちを回収していた。結果論としてはうまくいっている。

ゴムボートに這い上がり、本船に戻る途中大きな波が来た。基本的には凪で波もないのだが、ゴムボートを着けた時に波であおられて危なかったが、無事に上がり、今日の潜水はこれで終了。
石川さんのマスクマウントを見たが、北大の学生は、落ち着いていて、きちんと潜水している。システムをきちんと組めば、大丈夫だ。このような採集で命を落とした山下君も多分、おなじような状況だったのだろう。一人にならない安全なパターンのシステムが無かった。
しかし、今回は、巻き尺を使えなかったことを反省しなければならない。巻尺を使うだけ仕事が増えるし、回収もしなければならないので面倒だ。今回のようにうまく行けば面倒な巻尺など無い方が良いかと思ってしまう。しかし、今回も、僕と中尾先生が、視界の外に離れてしまった。お互いに動きがわかっているから、すぐに出会うことが出来たが、出会えない場合も考えられる。結果オーライと、予期していて、準備したとおりになっていることとは違う。
石川組も、石川さんのマスクマウントを見直してみたら、ゴムボートから離れて浮上している。20m程度水面を泳げばよいだけだから、これでも良いが、これも、計算通りにはなっていない。もちろん、全然危なげなく、こちらのゴムボートにも泳いでこられる状況だったが、あと少し潮が速ければ、ちょっとした運動になったはずだ。別に、ヒヤリハットまでも行かない、何でもないことなのだが、ラインが無かったために、戻ることに神経を使った。

0708 豊潮丸航海ー3

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7月6日
淡路島、湊港沖錨泊、0700抜錨 0800鳴門海峡通過
朝起きて、上甲板に登り、ネットをつないで、フェイスブックを見た。石川さんのスマホは、よくつながるのに、こちらのEMは、なかなかつながらない。それでも良いと思うことにする。つながり過ぎると、スマホに自分がコントロールされている時間が長くなる。

淡路島の由良と、和歌山県の加太 友が島水道を挟んだ二か所に潜る。流れが速いことが予想でき、心配している。ゴムボートから離れないようにする他ない。巻尺をたよりにする。中尾先生も酒井先生も、採集が目的だから、動き回りたい。流れのある場所では、海底の岩につかまって動く。中世浮力で漂うというスクーバダイビングの考え方を根本から変えなくてはいけない。ゴムボートが直上で追尾してくれれば、ドリフトも可能だが、エンジン付きのゴムボートは、広島大学の堀先生の海藻採集チームと共用だから、堀先生のスノーケリング採集の送迎と同時進行の使用だ。あちらに行っている時にはこちらにはいない。

朝食
突風が吹く可能性があるということで、鳴門海峡を前に反転し、小豆島にもどり、風の子島で潜る。午後は神戸港周辺に潜水。風の子島は、瓢箪島と大差ないのではないかと予想する。
風の子島
昨日同様、北大の学生は初心者。僕のチームは、自分が鍛えてきたということもあり、心配していないが、未知数の初心者はこの環境では怖い。よほど、断ろうかとも思った。しかし、研究者は、荒野を行く。初めてのことにもチャレンジしなければならない。それを手助けするのが僕の役割だから、断らない。しかし、事故が起こってしまえば、無謀と言われるだろう。この環境で重大事故が起こるとすれば、何が原因になるだろう?ただ、パニックが恐ろしい。自分も含めてパニックが最大の敵だ。身体の疲労、不調が、一番のパニックの元となる。

昨日、忘れ物になった巻尺の使用を確認する。自分が張れば良いわけだ。
ダイブコンピュータのログ
潜水開始 0916 潜水終了 1002
最大水深 14.1m 平均水深10.1 水温23.7℃
 標本のスチルを撮影するライティングで超ワイドのGoProでとっているので、ライティングとしてはきつい。

 採集した海綿


 この風の子島は、ダイビングポイントになっているとのことで、良い磯根が10mあたりまで展開している。気にしていた流れはほとんどなく、巻き尺ラインを砂地にある岩のところまで延ばした。ここから先は砂地だ。
水の色は瀬戸内海グリーンだが、透視度は10mぐらいだろう。
中尾チーム3人はいつものように採集、撮影をスムースに行った。須賀はマスクマウントのGoProと、中尾先生のキャノンで撮影する。キャノンは、標本の記録だから、こちらでは使わない。
メバル幼魚の群れがきれいだったので、撮影した。キャノンに着けたライトをあてているのだが、やはりライティングはうまく行かない。

酒井先生が連れてきた北大の学生2人は、昨日の子が、C-カードを取って、経験が3本、今日の子は、屋久島で体験ダイビングを2本というキャリアだ。
はぐれさえしなければ、パニックにさえならなければ、大丈夫だし、パニックになったところで、二人で支えれば事故にはならない。石川さんを信用し、巻き尺ラインのシステムを信じよう。
酒井先生のグループが見えたので、接近して様子を見た。大丈夫、安定している。先生が採集、学生が収納、石川さんが見張っている。システムが機能していれば、一人が四人のゲストを管理する体験ダイビングよりも安全だろう。それに学生のフィジカル能力は高い。パニックにもなる様子はない。
流れもでることがなく、巻き尺を巻きながら元に戻り、浮上した。

無事終了した。強風で神戸にも潜れそうにないので、本日はこれで終了。

 港に入港すると、恐怖の遠足がある。なんで研究者、学者というのはこんなに歩くのだろう。一昨年だったかの長崎入港の時は長崎を歩き回り、死ぬかと思った。
多分、彼らは高校から大学時代、一時期死ぬほどスポーツをやったに違いない。僕の持論だが、「人間は生涯で3年は死ぬ気でスポーツを、3年は死ぬ気で勉強をしなければいけない。」をやった人たちなのだろう。僕も3年は死ぬ気でバスケットをやったから、今も生きていて、彼らと一緒に歩ける。一か月分ほど歩いたので、雨が大降りになったのを幸いとタクシーでもどってきた。明日のダイビングのために体力を温存する。若くはない。
中華街まで歩いて、飲茶。行き当たりばったりの店だったがおいしかった。

0711 豊潮丸

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 瀬戸内海、周航の旅からいまもどりました。僕のEMはほとんどつながりませんでした。一回だけ神戸でつながっただけ{当たり前か}石川さんのスマホはよくつながります。でも、あれを買うと、縛られてしまうようで、もうすこしこのままにします。瀬戸内海は好天に恵まれ、ほとんどのスケジュールを無事終了しました。リサーチダイビングのマニュアルが書けるほどの苦労でしたが、おいおいブログで書いてゆきます。

0707 豊潮丸航海-4

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7月7日
 潜水事故の原稿を書きながら潜水する。というのはすごいプレッシャーだ。しかし、自分で考えて絶対と思う態勢をとってダイビングを続ける他に途はない。こういう、僕のプレッシャーは、表には出さないようにしている。しかし、先生たちもプレッシャーを強く受けているのかもしれない。ノー天気に商売繁盛を歌い上げているダイビングショップのオーナーも同じなのかもしれない。人の心の奥底はみえない。僕がこんな風に書いたりして表に出すことが良いのか悪いのか。良いとおもうから書いている。明日、何が起こるかわからないと、口にだし、説明を続けていることが、事故防止の役に立つのだと思う。と言って、あんまり神経質に細かいことをぐずぐず言い続けていても、不安をあおり、パニックのもとになるかもしれない。

 いろいろたくさんの出来事があり、日記に書ききれない。東京に戻ってから、反芻するとしても、とにかく書いておかなくてはいけない。
本船、豊潮丸からゴムボートタンデムで出発する時、これから何があるのか、どんな海なのかまるでわからない。そのわからないことが探検だとすれば、うれしいはずだが、必ず初心者の学生を連れてゆくから、そのプレッシャーは大きい。恐ろしいのは流れと波だ。
若いころは荒海の男だと自任していたのだが、もう若くないどころか、高齢も通り過ぎている。
アドレナリンが出まくっている。が年の功で、表面は平気な顔をするが、ゴムボートだと、体力的に、人をたよってしまう。今日は、神戸空港のテトラ護岸の辺りを潜る。岩礁があるというのだが、その位置は定かではない。とにかく行こう。

ダイコン 記録
0920潜水開始 浮上0952 潜水時間32分
最大水深8.0m 平均7.0 水温26・1度

流れは、0.5ノット以下だが、それでも、水面でスクーバを着けている間に10mほど流されてしまう。水面脱着がのろく、手際がわるくなっている。10mが20mになると、水面を泳ぐのがつらい、水深5mだから、潜って行こう。町田君が船酔いで調子が悪く、潜って来ないので、採集ネットがとどかない。水面に浮上してもらおうとするが、ネットがない。石川さんが持って行ったのかと思って下で待つが、120しか詰めてもらえないタンクがすでに80になっている。水面で泳ぎ、空気を消費してしまった。中尾先生の方がスマートに入ってきている。超初心者連れの、酒井先生のチームは、順調に採集している。学生は見違えるほど安定していて上手になっている。若いのだ。
石川さんが来たが、袋は持っていない。狭いゴムボートの上での準備作業で、段取りが上手くできないと、こういうことになる。


僕だけが先に上がった。
もどりのゴムボート、風が出て、波が出ている。横つなぎのタンデムだから波には弱い。
頭からしぶきをかぶるような波で、水がどんどん入ってくる。石川さんのボートもどんどん浸水し、転覆しそうになり、石川さんと町田は、海に投げ出された。落下したタンクはBCに空気が入っていたので、無事だったが、僕の買ったばかりのイノンのライトと、町田君のフィンの片方がながれてしまった。ボートはやや速度を落として、本船に戻った。遭難と言えば遭難だろう。


原因はゴムボートの浸水を排水しようとして、波が高いのに速度を上げたため、二つのボートを繋いでいる索が切れたためだった。
ゴムボートは決して沈まないが水が入ると、速度を上げて、後尾の栓を抜いて走る慣性で水を排水する。

7月7日 和歌山
和歌山県の加太で潜水の予定だったが、突風の心配があり、船長の判断でパス、上陸して磯採集に切り替えた。スノーケリングなので、僕も同行したが、スノーケリングできるような磯が無く、女の子がいるのでこれもパスして、加太を観光する。陸から海を見ると、波はほとんどなく、行けそうな感じがしたが、ゴムボートの転覆が利いたかもしれない。慎重になることで、悪いことは何もない。
淡島神社という、かなり由緒があるらしい神社がある。門前の店は3軒という規模だが
そして、商売熱心で、何でもある。僕はお守りの根付を買った。カエルは帰るというどこにでもありそうなお守りだったが、カエルコレクションの河合先生にお土産のつもりだ。もどったら、定期診断に行かなくてはいけない。カエルは700円だったが、お守りは500円、1000円が相場だから、しかたがない。でも、僕は500円のつもりだったから、高いとおもってしまう。値段は付けられていない。ついていたら売れない?少なくとも僕は買わなかった。絵馬もやっている。御神籤もあり、木の枝に結び付ける。そして、この神社は人形供養もしている。人形は魂、心があるように、大事にしていた人の心が乗り移っているように思えてすてられない。神社に収めて供養してもらう。しかし、それにしても、人形に類するようなものはすべて供養させられている。狸もネズミも、招き猫も供養されたのか、置かれている。花嫁人形はなぜか縁の下だ。



古い旅館の今はもう使っていないで、営業は新館の方に移動している建物が文化財的に残されている。伊豆大島の港屋は同じような建物で中は公開されているが、ここは公開されていない。大正時代の建物かと思ったら、昭和8年の建築だった。僕の生まれた年に先立つこと2年、築80年だ。多分、60年ほど使ったのだろう。使えなくなったわけではなくて、これでは営業できなくなって、新館に移ったものなのだろう。しかし、壊すのはもったいないような建物だ。吾妻屋という旅館だ。

 帰り道、東京にもちょっと無いような超大型のショッピングセンターに立ち寄り、夜のバーベキューの仕入れをした。およそ5万円分買ったとのことだ。
そして、夜は船の横で、恒例となっているバーベキューをやる。若い大学生だから、肉の類はあっという間に消える。
 僕たち、中尾先生組と北大の酒井先生組は、スクーバダイビングだが、広島大学のスノーケリンググループは、スキンダイビングよりも本当にスノーケリングに近い。亡くなってしまった鶴町がこの航海のアシスタントをしてくれている時、僕たちも一緒にスノーケリングをやり、撮影したこともあった。今回も一緒に泳ぐつもりで加太にはフィンをもっていったのだが、安全そうな良い磯がなかった。引率する堀先生によれば、この一週間の航海から戻ると、学生が一皮むけるのだという。旅は人を成長させる。三つの大学の学生が船の旅を合宿する。堀先生は海藻の専門家で、教授!という言葉がぴったりする。温厚、親切、を絵に描いたような人だ。
僕にも若い時、学生時代があり、月刊ダイバーでグラフィティ、過ぎた好き日々のことを書いている。ここにきている学生も、あと40-50年たち、今のこの時、この航海をグラフィティに書く、書かなくても心の中にきっと残る好き日々であってほしい。きっとそうなっている。

終わって上甲板でネットとつないでいると、何人かの学生が来て、話し込んだ。北大の学生がいう。酒井先生(教授)は、「何でも良いから、とにかく生きて戻ることを考えろ。それだけで良い。」と教えられている。二人の学生は初心者だ。しかし、これが教育だとおもう。協力している。人は危ない思いをすることで成長する。若いころに危ない経験を安全に経験することで、やがて、幸せになれるための何か、ポイントになる。

0708 豊潮丸航海ー5

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7月8日
 旅は続く、今は8日の朝、これから1030に淡路島でのダイビングだ。そろそろ準備をする。

 知らない場所に潜ろうとする時、何時でも恐ろしい。恐怖感がある。潮の流れ、波、機材の不備、うまく行くかどうか。心配する。恐怖感があれば、事故は起こらないことを知っている。何の恐怖も無く、何事も無いと思われた時、突然、若者は死ぬ。こちらから見れば死なせるわけだ。
 恐怖感こそ強い味方だ。それをいかにコントロールするかが、ダイビングという戦いで、目に見えるものではない。そのことを忘れた時が本当に恐ろしいと、いつでも自分に言い聞かせている。今朝も町田は食欲がない。おそらく二日酔いだろう。具合が悪くなれば昨日のように、自分から水にはいることをやめられる子だから、その判断が頼りだ。具合が悪くてもがんばっちゃう子が怖い。しかし、昨日潜らなかったから今日こそはと思っているかもしれない。

 友が島水道、淡路島由良
 潜水開始 1129 浮上1220 潜水時間51分
最大水深8.1m 平均水深6.1m 水温24.2℃

 波も無く、流れも無く良い天気。それでも僕の水面での着装はうまくできなかった。どうしたことだろう。体力を使うことではないので、チューニングの問題だ。僕は、右手右肩を右のベルトに深く差し込み、左手を後ろにのばして、左肩を左のベルトにスムースに入れることができない。肩が硬くて廻らなくなっている。ベルトを緩くしておいて、空気を入れたBC.を腰の下に入れ、左右の手を同時にベルトに差し込んで体を起こすやり方にしている。簡単なのだが、なぜか、左側のインフレーターホースが今回の旅では絡まってしまう。もう一度東京へ戻ったらチューニングしよう。
※チューニングとは、自分の身体条件、技術と機材を合わせて、使い方に習熟すること。

 そして、今日、ゴムボートに乗り移るとき、町田君が僕のマスクの上に腰を下ろして、ワンタッチマウントの角を折ってしまった。今回はGoProをあきらめようかと思ったが、中尾先生のカメラとGoProを、つまり2台を手に持って撮影することにした。



 島のような岩礁の根元に潜ることにした。海底は、カジメが群生するいわゆるカジメ場になっている。透視度は8mほどだが、岩礁だから、魚も多く、岩礁の下は、オーバーハングになっていたり、小さな洞窟になっていたりで、のんびりしたダイビングだった。
 淡路島と本州、和歌山との間の水道ということだから、潮が速いことを心配したが、流れはほんのわずか、何事も心配しないダイビング。
 
 良い天気で凪も良かったので、中尾先生持参の西瓜を甲板でたべる。これも恒例になっている。この夏は、これ以上おいしい西瓜をたべることは無いだろう。

 
 15時 鳴門水道,鳴門大橋の下を通過する。鳴門の渦を見られるかと思ったが、渦ができる時間には通らないのだろうか、流れは速かったが渦はない。


 児島から今治への瀬戸大橋の手前、玉野沖に錨泊、水面は鏡のようだ。おそらく、このあたりが瀬戸内海の絶景なのだろう。本州側、瀬戸大橋の向こうに夕日が沈む。皆出てきて、ブリッジの上、最上部で写真を撮る。 この頃の子は、スマホを持っているので、だれもがカメラマンだが、良い一眼レフを持っている子もいる。僕はペンタックスのWGとGoProで撮影した。遠景だからペンタックスだが、目で見るような色が出ない。女の子の持っているミラーレス一眼のペンタックスは、素晴らしい発色。僕のカメラは、身で見た美しさを再現できていないが、それでも、日が沈んだあとの残照、一番星、惑星だが、星の名前はわからない。久しぶりで、景色に酔ってシャッターを押し続けた。

     一番星



 撮影の失敗
 夜、中尾先生のキャノンの高級コンデジで、僕が撮影した絵をチェックした。ショックなことに、ほとんどがシャッターブレと露出オーバーで絵になっていない。

 これまで、このカメラで何の問題も無く撮っていたのだが、これまではストロボを光らせていた。 濁った水が予想できたので、ストロボの発光をやめてライトにした。この直前にやった館山の調査でのストロボ発光は、濁りを光らせてしまったのでライトにしたものだ。だから、瀬戸内海用に僕のキャノンのデジ一眼にライトを付けて使おうと、お台場でテストをしていたのに、それを使わないで、中尾先生のカメラにした。理由は、中尾先生のカメラの方が小さくて、扱いやすいから、そして、カメラが小さければ手にぶらさげて、採集のアシストができるからだった。そして、失敗の無いように撮影の度に、LCDで、像を確認していたのだが、撮影した像を確認する設定になっていなかったらしい。そんな馬鹿な!と思うが仕方がない。 町田がマスクマウントを壊したおかげで、一緒に片手で一緒に二つのカメラを持って撮っていたGoProで、8日の分は、何とかカバ―出来る。7日、6日、5日の分もGoProから静止画を作るが、マスクマウントでは、再現できないカットもある。
 明日からは、カメラが大きくなっても、GOPROはハウジングの上に載せて取り付けるキャノンの一眼を使用する。瀬戸内用に整備してきたシステムなのだから、これを使っていればよかった。
 自分のカメラでないカメラを使う前には、カメラのチューニングを必ず自分でやり、設定を把握しておかなくてはいけない。そんな当たり前すぎるほど当たり前のことだが、やることが多すぎて、やっていないから穴が開いてしまう。それに、自分のカメラならば、必ず毎日自分で像をPCに取り込んでいるから、失敗しても一日の失敗で済む。中尾先生のカメラだから、四日分見ていなかった。
言い訳になりにくいけれど、手慣れている撮影について心配の優先順位が低く、ブラインドになっていた。

0709 豊潮丸航海ー6

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7月9日(火曜日)
備後瀬戸にはいり、佐柳島(さなぎ島)に潜る。


最大水深3.7m 潜水開始0914 潜水終了 0958 潜水時間44分

 ボートを止めると流れが0.5ノット程度ある。アンカーを打ち直して、岸の岩の近くに止める。アンカーの位置から巻尺を伸ばす予定。今日の水面での着装は、まあ、うまくできてさほど流されなかった。ボートのアンカーではなくて、岸側にある大きな岩の根元の小さな岩に括り付けた。
 2チームがまとまっていれば、この変更が伝えられたが、酒井先生のチームは、自分の判断で別になってしまっている。僕の独断での変更だから、心配だが、ラインの近くにいれば何とかなるだろう。打ち合わせのとおりに、せめて、アンカーの近くにいてくれればよかった。
 岩の元から、巻き尺はアンカー部分を通過して、30mほど延ばしたのだから、アンカーの近くにいてくれれば一緒になれた。

  アンカー近くで採集する中尾先生

  流れが速くなってきたので、ラインは30mで止める

 しかし透視度は3m以下、1ー2mで、これまでで一番悪い。巻尺を伸ばしているうちに流れが速くなり、とても50mは伸ばせない。ここも急深の斜面のはずだが、その斜面にまでも行けない。とにかく流れの中で採集をする。何点か採集しているうちに流れはますます速い。1.5ノットぐらいだろうが、位置によっては、2ノットかもしれない。海底の石をつかむのだが、体が持って行かれそうになる。潮流の中で、片手に大きなカメラを持ち、巻き尺を扱うのは難儀だ。GoProのマスクマウントだけで済めば助かるのだが。もうこれ以上は無理、カメラを手に引っ掛けて、苦労して巻尺を巻き戻しながらもどる。酒井先生たちが巻き尺を目印にしていると撤去は困るが。アンカーの根元でも、それから後も、姿を見ていない。彼らのことは、3人で解決する他ない。

 巻尺を結んでおいた大きな岩のところまで、もどり、岩に片手でつかまって上半身を水
面にだす。岩の裏側の方が潮の陰になるのだが、岩に上がる手がかりがない。残圧は10だが、これは残しておかなくてはならない。岩に上がって別になった3人を見張りたい。
 岩につかまって、上半身を岩の上に伸しあげて、迎えのボートを待つことにした。酒井チームが心配だが、石川さんがなんとかするだろう。中尾先生は、岩の裏側にいて、裏側の方が楽だと迎えに来てくれたが、こちらはこちらで、右手で岩につかまって、左手で大きいカメラと巻尺、左手がふさがっているので、右手を離す勇気がない。ゴムボートまでは7m足らずだが、泳ぎ渡る気持ちがない。巻尺と、そして重いカメラを持っている。やってやれないことは無いが、迎えのボートをこのま待てばすむことだ。水中では年寄りだとは思いたくないが、決して若くはない。



 酒井先生チームが、70mほど下のやや沖に浮いた。頭が三つ見える。全員無事。水深5m以下だから、浮上には危険はない。彼らは偉い、というか仕方がないのだろう。水面をさかのぼって泳ぎだした。僕たちの潮下にもう一つ岩がある。みていると、そこにたどり着いて、石川さんが岩の上に登った。そのまま、迎えを待てばよいのに、しばらくするうちに、3人は、潮を遡って、水面をボートに向かって泳ぎだした。なかなか進まない。流れは1.5ノット程度だろう。人間は2ノット出るはずだから、少しずつ進む。彼らは浮いたところから岩まで泳いだので、自信をつけたのだろうか。酒井教授が一着でゴムボートに着き、カメラを揚げ、ウエイトを揚げる。北大の経験3本君をエスコートするので、石川さんはやや遅れる。学生は手も使ってクロール的に泳ぎ、三人がゴムボートに着いて、石川さん、酒井教授がボートの上に乗った。岩の上で待っていても良いのだが、マッチョでタフだから、自力で元に戻ることにしたのだろう。
 僕が、フリッパー競泳で400m6分半だったのは64歳の時だ。今は10分を切れないだろう。自分を知ってしまっているので、無理をしなくなっている。
 やがて、迎えのゴムボートがこちらの岩に接近するが、それには乗らないで、ゴムボートまで泳いだ。たやすく5mを泳いで、石川さんのサポートで、ゴムボートにタンクを載せて上がった。


 石川さんはマスクマウントのGoProを着けている。再生すれば、彼らの動きのすべてがわかる。船に戻って見なおして、5分程度に編集した。3分にするのが自分で決めている原則だが、短くすると、苦労が感じられない。

  右手に見える3人は僕たちで、さかのぼっている。

 やはり水面でのスクーバ着装をしているうちに、かなり流されている。三人が一緒になり、後でさらに流されて浮上してから泳いだ距離を考えると、この時に水面を泳いで遡ってゴムボートにたどり着く方が楽だ。しかし、それをしないで、酒井先生は潜降を開始する。石川さんは、コンパスをたびたび見て、ボートの方向を確認しているようだ。先生は沖に向いている。それから先は少しの間水中を遡りながら採集している。

石川さんは、ボードに戻る方向とは違うと書いて、二人に見せようとするが、ボードを書くために目を離した瞬間に二人とはぐれてしまった。水深が浅いのだから、昔ならば、見失ったら直ちに浮上して、バディが一緒になるという打ち合わせが出来ていたのだが、今は、途中浮上、ヨーヨー潜水とか言って、水面には出ない。石川さんは古いダイバーだから、水面に浮上して二人を待つ。結果的にはこれが正しい。アクアホーンを持っているので、ブーブー鳴らすが、これを聞いたら浮上するという打ち合わせはしていない。二人は水中を探し回り、時間と空気をロスする。2分ぐらい経過して、やがて、二人は浮上するが、この間にさらに流されていて、ゴムボートから遥か離れて見える。海底の石につかまって流れを遡ろうと決めて、再び潜ってボートに向かう。今度はコンパスで方向を定めて、3人離れないで進む。流れを遡るので、かなりな労働だ。残圧が10になり、水面に浮上するが、まだまだ離れている。それから数分、水面を泳ぎ、岩にたどり着いて、岩に登り、5分ほど休んで回復して、ゴムボートに戻った。僕の岩は登れない岩だったが、石川さんの岩は上に上がれる。
岩の上でそのまま迎えを待てば良いのにと石川さんにいうと、恥ずかしいのでボートに戻ることにしたそうだ。
 ゴムボートに上がって、本船に帰る途中で今泳いだ浜辺を見たら流された先が砂浜になっていて、そこに上がって、迎えを待てば何のことも無かった。流されながら採集をして、浜に上がる計画もあった。ゴムボートは曳いて行けば良い。しかし、地形と潮が読めないとできない。潮が読めないし、地形もわからない。まだ、ゴムボートを曳いて行くシステムが出来ていない。石垣島には、海歩き(うみあっち)という漁の方法があり、送気式のフーカーコンプレッサーをサバニの上に載せ、ウミンチューは、水中を歩いて、バニを曳いて流されながら漁をする方法がある。中尾先生に話したが、とにかく今は、やはりゴムボートに戻る計画が最善だろうということになった。

 タンク経験3本君は冷静でタフで、あわてた風はない。酒井先生にぴったりとついて泳いでいる。この旅の経験で、レクリエーショナルダイビングでいえば、アドバンスとか、レスキューをはるかに上回る実地の経験を積んだ。
 しかし、だ。これで良いのだと思うと間違いが起きる。
 僕もこのようなリサーチダイビングの経験が長い。およそ40年の上だ。その経験をレクリエーショナルダイビングに持ち込み当てはめてはいけない。決していけない。と心に言い聞かせて、レクリエーショナルダイビングとつきあってきた。そのレクリエーショナルダイビングの眼で今の僕たちのダイビングを見ると、どうだろう?自分としては、リサーチダイビングの方が安全だと思っている。とにかく、どちらも離れないことを何よりも優先する。

豊潮丸は、大三島・宮浦港に入港した。
 15時の入港だったので、大山祇神社に参拝する。オオヤマズミと読むらしい。全国的に1万の神社支店をもつ総本山である。また歩くが、かなり歩くのには慣れてきた。良いことだ。樹齢、3000年、2600年の神木である大楠があり、宝物殿があり、昭和天皇が葉山で海の生物を研究した採集船・葉山丸がある。


 神木は、3000年という時間経過を思うと感動したが、歴史的に言うとその頃は?と考えて、誰がいたのか?よくわからない。2600年の方は説明が付けられていた。僕の78歳というのも、樹齢?みたいなものか。 
 宝物殿には源義経が奉納した鎧が国宝として飾られていたらしいが、鎧がたくさんあり、見過ごしてしまった。源の為朝が奉納した強弓もあった。嘘だとは思うが、これが為朝の弓かと感心もした。



 船が入港すると、夕食は船では作ってくれない。街に歩いて食べにでるか、バーベキューをやるか、甲板で鉄板焼きをやるか、になる。鉄板焼きになり、太陽が沈み、残照のなかで、肉をかなり食べた。胃腸が心配である。もちろん、酒盛りがある。泥酔するような子はいないし、この飲み会はかなり大事なことだとは思う。スノーケリングの広島大学、早稲田でも船の旅の経験に来ている子はいい。この船の旅で、酒を飲むことの教育効果も理解している。しかし、スクーバで潜る学生については、心配するが、スクーバだけを別にできる雰囲気ではない。一緒に盛り上がらなければならない。僕としては心配するだけだ。関東学生連盟の合宿では、潜水の前夜は飲むなと言っている。僕が一滴もアルコールの類を飲まないのも、人に飲むなというからだ。

後、ダイビングは二日ある。

0710 豊潮丸航海ー7

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7月10日(水曜日)
月刊ダイバーのグラフィティがそろそろ締切だ。書きだしただけでストップしている。何とか、航海中に書き上げなくてはならない。


伊予灘、中島町 沖の孤島
潜水開始1125 浮上1217 潜水時間52分
最大水深 6.9m 平均水深4.4m 水温21.6℃
小さな島の陰にアンカーを入れた。それでも流れがある。50mの巻尺では、深い斜面の位置まで届かない。昨日流されたことから今日は、必ずアンカーの位置から潜水するように打ち合わせた。多種多様な海藻の生えている藻場で、全員、位置関係を確認できながら潜水できたので、特別のことも無く潜水を終了した。


今日は二回潜水する。常日頃は午前、午後、各1本の潜水が普通になっているが、今回の豊潮丸は一日に一回しか潜水できていない。一日1回の潜水に慣れてしまったのだろうか、二回目は身体が重い。
瀬戸内海の航海は、景色は素晴らしいが、流れがいつもあり、神経を使っている。あと一日、明日11日に午前中の潜水があり、広島に帰港して荷物整理、送り出して、夕方の新幹線で東京に戻る。忙しい。

周防大島町、小水無瀬島(こみなせ島)
潜水開始 1532 浮上1613 潜水時間41分
最大水深18.9m 平均水深14.0m 水温20.4℃
透視度は5-8m
毎度何回か潜っている。アンカーを入れる場所は流れが無く、すぐに急深になっている。潜りやすい。僕の記憶が間違っていて、ラインを曳いてラインから離れて横に移動しようとしたが、中尾先生は場所を覚えていたので巻尺ラインを持ったまま、伸ばして横に移動する。僕の記憶が定かでなかったために、少し時間をロスした。久しぶりの潜水らしい潜水だ。
豊潮丸のコンプレッサーは、原則として120kしか充填しない。移動の途中で船員さんが詰めてくれるので、エアーチャージに長い時間はとれない。

水深18mの目当ての岩に到着した時は、僕の残圧は70、中尾先生は80、海綿の宝庫のような場所だ。採集する対象を撮影し、ナイフで切り取り、1種類ずつビニール袋に詰める。僕もビニール袋に詰める作業を手伝う。町田君も同じ位置で採集する。酒井先生たちのチームは少し上に居て採集している。3種類ぐらい採集したら残圧は50になった。中尾先生は熱くなって採集していると思う。僕の残圧が30になったらもどろう。水深18mから50mの巻尺を巻き取りながらもどる。残圧10でゴムボートのアンカーに戻れるだろう。


30で、戻る合図をする、中尾先生は指を一本立てて、あと一種類、写真を撮って、採集を手伝って、とにかく戻る。残圧の余裕はない。急いで巻き尺を巻く。後20あるから楽に戻れる。もちろん安全停止などしている余裕はない。あれはレクリエーショナルダイビングの手順だ。途中で、酒井先生チームと一緒になり、一緒に戻る。体験ダイビング君は、上手になり安定して酒井先生のサポートが出来ている。石川さんの安全監視がなければ潜らせられないが、とにかく北大の二人は、上手になった。
 ボートに戻って残圧は予定通りに10キロ。中尾先生と町田を置いて一人で浮上したので、気になって振り返るが、残圧10では、待つしかない。やがて二人はボートの下まで戻ってきて、石を返して裏側を見ている。僕も残圧10で、3mに潜って、彼らに参加する。空気が渋くなったので、浮き上がる。BCに空気を入れようとしても入らない。ちょうど迎えのエンジンゴムボートが到着し、ゴムボートに上がる。僕は一回目の潜水でエントリーする時にひねって、右足の太ももの内側が痛い。BCなしの立ち泳ぎはややつらい。タンクをウエイトをあげてもらって、ゴムボートに上がろうとするが、引き上げてもらはないと上がれない。
この航海で、初めてダイビングらしいダイビングをした。天気がよく、太陽が輝き瀬戸内海のしまなみが美しい。


だいたい、残圧10で、ゴムボートに戻る。(流れのある時には、50で戻り、30で浮上するようにしたい、ができない。)流れがあり、透視度が悪い瀬戸内海などでは、ゴムボートからの行動半径は50mの巻尺ラインの届く範囲にする。安全停止なし、潜降索と巻尺ラインをたよる。絶対に一人にはしない。これが僕の豊潮丸でのリサーチダイビング、ローカルルールだ。とんでもない潜水をすると思われるだろうか。しかし、この環境、この設備、この状況で研究者の目標を達成しつつ安全を確保するのはこれしかない。ローカルルールをきちんとしておくこと、とても大事なことだ。リサーチダイビングというとき、リサーチとは探検のことだ。道なき道を行くのだから、一般ルールは適用されないことがある。目的、目標、使える道具、用意できる道具、予想できる環境、参加するメンバーの身体能力、技能などに合わせルールを作る。試行錯誤を重ねて、改善し確立する。僕がこの豊潮丸の航海に参加してたしか6年になる。最初に参加した時は、ゴムボートなし、巻き尺ラインなしだった。空気の充填圧は、今と同じに120キロだった。安全停止は空気に余裕のある時だけでいい。減圧症では死なないが、水中で空気が無くなれば死ぬ。
ダイビングサービスに空気とボートとガイドのサポートを頼めるようなときには、普通のファンダイビングなみのダイビングをする。安全停止は守る。


0717 豊潮丸ー8

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 このブログで、豊潮丸の今年の航海の報告を終える。
 


7月11日(木曜日)
今日が航海最終日だ。朝、0830の潜水、それから帰り支度をして、14時に呉港入港、1830の新幹線だから、1600には呉をでなければならない。別に普通の忙しさだが、旅の終わりだから、やはり疲れ果てている。帰った明日、12日のスケジュールも入っているし、もろもろの連絡事項もあるだろう。昔から、長い旅から戻れば、棚からたくさんの荷物が落ちてくるのを受け止める状態。

昨日の水無瀬島から近い.
沖家室島牛が首、に潜る。

 最大水深 19。7m 
 0909ー0950 41 分
 平均12。0 19。8度

 はじめて、全員、二つのチームがアンカーの位置に集まってラインを引き移動した。
 僕の安全管理、安全対策は簡単だ。とにかく一人にしない。一人にならないことだ。これが、言うは易く行うは難し。だからそのためにあらゆることを考える。
 それでもなかなか、難しく、ようやく、昨日から、みんな一緒になれた。そこまでの経過は、この日記、航海紀を読んでいただけるとわかる。
 
 二つのチームが一緒だから、そして流れもほとんどないから、気楽なものだ。気楽に中尾先生の採集を手伝い、そして撮影する。
 昨日までの撮影で、キヤノンの一眼、とても古いイオスキッスだが、その一眼で撮ったものよりもマスクマウントのGoProで撮った絵の方が良いと中尾先生はおっしゃるのだ。
 では、イオスの上にGoProを乗せよう。もともとそんなつもりでアダプターが付けてある。マスクマウントのほかに、カメラに付けるから、GoProを2台持つことになる。言葉をかえれば、2台もてるということだ。合計では3台同時に廻っていることになる。
 ところが、マスクマウントの方には、乾燥材もいれ、バケツの水に漬けて曇りを防いでいたのだが、カメラに付けた方は、まあいいか、とさぼって、なにもしなかったら、曇ってしまった。かなりひどい。水に入ってからそれでも回しておくか、と動画のスイッチをいれた。


 そして、僕はへまをやってしまう。僕が中尾先生の残圧をきくことはいつもだが、先生が僕の残圧をきくことはほとんどない。ところが今回の旅では、水面での着装に時間がかかったり流されたりして、空気を使ってしまって、早く上がることがあった。それで先生は心配している。僕の残圧は70ある。先生の残圧を横目で見ると50とちょっとだ。こんなときは、キロで考える習慣になっている。Mpaでは考えられない。
 70に50だから別に問題ない。ぼくは一眼のカメラをてにしている。70、両手を使えれば、7は、指2本と、開いた手だ。片手だから、つい、2本指を最初、次にプラス5だ。5が先ならなにも問題ない。2が先だった。先生は25ととってパニックになった。すぐに僕の手からリールをとって自分で巻きだした。そして、ふと気がつくように後ろをみる。酒井先生ちーむは5mほど後ろにいる。後戻りすると、石川さんにリールを渡した。最後尾をもどるものがリールを巻いて戻る。僕の腕をしっかりつかんで、斜面を登り始めた。どうもおかしい。僕はOKのサインを送って、先生をとり静めようとした。先生のパニックの原因が自分にあることを僕は知らない。とにかく2ぐらいのこしてゴムボートの下にきた。町田と先生は、あたりの石を返して見ている。僕は、海藻とメバルが陽に輝いてきれいだったので、スチルを一眼で撮り、マスクマウントをはずして、動画をきちんと撮った。もう、ワンカット撮りたかったが、空気がしぶくなってきたので浮上する。水深は2m程度だ。波も流れもなく静かならば安全停止をしていることになる。

  ここは、とにかく海藻が多く、海藻が美しい、そして、いたるところにメバルが群れている。

 このとき、一眼の上に付けたGoProとマスクマウントのカメラの撮影結果を比べてみた。まだ、一眼の上のカメラは曇っていたが、何とか撮影できていた。曇っていても、だめでもともとだから、廻しておくものだ。

      ハナオコゼと、ハナオコゼにのまれていたハオコゼ

酒井先生は海藻の林の中でハナオコゼを捕まえた。バケツに入れて連れ帰った。腹がやけに大きい。子持ちか?見ていると、突然、口から魚を吐き出した。ハオコゼを飲み込んでいたのだ。ハオコゼは、飲まれていたハナオコゼよりも元気に泳いでいる。飲み込んでもぜんぜん消化されていなかったのだ。
 ハナオコゼはホルマリンで殺されて標本になった。ハオコゼは早稲田大学に連れ帰られた。もしかしたら、まだ生きているかもしれない。
 これで、すべての潜水を終え、全員元気で航海を終えた。
 


これで豊潮丸航海のブログを終了するので、まとめ を少し。
 
毎度危ないと思って、8回の潜水を続けてきたが、危機感をもっていれば、そして、その対策をいつも考えていれば、事故は起こらない。と、思わなければダイビングはできない。もしも流されても、流される先で島を回り込めば、陸に上がれる。本当に怖かったのは神戸空港だった。ただし、怖いと危ないとはちがう。怖いとは、危機感で味方だ。予見義務とは、危機感を持つことだ。神戸は、波が高くて、テトラには近づけなかったし、波をかぶってゴムボートは浸水して重くなり、つないでいた索が切れて、タンクが投げ出され、僕のライトが紛失した。それでも、まだまだ人の被害には遠かった。

 いつも充填圧120で潜っていたことも、レクリエーショナル・ダイビングでは考えられないことだが、小さなコンプレッサーを持参して僻地のエキスペディションをやるとすれば普通のことだ。コンプレッサーは120を越えるとガタンと効率が落ちる。リサーチダイビングは探検だから、与えられた機材、与えられた条件で最善を尽くして安全を確保する他に道はない。

そして、今回北大の学生は、一人がC-カードを取って3本の経験、一人が屋久島で体験ダイビングをやっただけ、ということだった。レクリエーショナルダイビングでは、C-カードをとって10本までが危険と言われている。それが、この瀬戸内海である。無謀だろうか。北大は工藤君が頑張って教えているようだが、研究室の学生はそれとは関係がないのだろう。もちろん、潜水部などで上達している学生が研究室に来る場合もある。その場合が一番危ないと容易に想像できる。上手と言ってもインストラクターではないのだ。
大学の研究室の潜水はこのパターンが多いそして、事故が起こる。JAUSを作った発端もそれだった。それでも事故をおこさないシステムを作り出して、普及させなければならない。幸い、学生はみんなフィジカル能力は優れている。一人にしなければ死なない。

こんなことも含めてたくさんのノウハウをえた。書いてマニュアルにしておかないと来年までに忘れてしまうだろう。
 撮影についても撮影マニュアルの材料をたくさん得た。この二つのマニュアルは整理してJAUSの研究報告にのせよう。

     一眼レフに載せたGoPro

 このところ、自己責任について考え続け、事故について考え続けて潜水を続けている。考えることがまず大事なのだと思う。自己責任とは、死んでもおまえのせいだよ、ということではなくて、安全について、全員が考え続けなければいけないということなのだ。僕が悪いのだけれど、僕のミスで中尾先生がパニックになった。おたがいにかばいあうことが自己責任である。
 ガイドダイバーとゲストの間でも、ゲストはガイドダイバーを思いやらなければいけない。お金を払っているのだから、すべての責任はガイドにあるというのでは、もしも、ガイドダイバーがまちがえれば、事故になる。事故が起これば、賠償責任保険が遺族に降りるだけ。
 
 今回のダイビングは、僕のスタイルのリサーチダイビングであり、マニュアルを作ったとして、それはローカルルールだ。そのルールが大事で、そのローカルルールを各指導者が持ち、それをメンバーにてっていさせることが安全の第一歩であり、とても大事だ。
 しかし、それは、言うは易く、行うは難いことをこの航海日記からつかんでくれるならば、書いた甲斐があったということだ。
水中活動、インストラクターでもガイドダイバーでも、もちろんリサーチダイビングでも、作業潜水でも、一人前のベテランはみんなローカルルール、自分のルール、マニュアルを持っているはずだ。それを集めて研究することがダイビング運用の研究だ。水中科学協会の目指していることの一つである。

0719 倉沢栄一君再び

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 ブログを更新しようとして、左手を見ると、僕のブログを見てくれた人の多いランキングが出ていた。上位は最近の豊潮丸航海記だが、その中に古い2010年7月30日のものがあった。
 年下の友人、カメラマン倉沢が死んだときに書いたものだった。
 もう一度読んだら、目の奥が熱くなった。載せようと用意していた、9月8日のフォーラムについての記事は置いておき、再録する。少し手直しをするが、ほとんどがその時の原文のままだ。

 倉沢君の死

  カメラマン、倉沢栄一君が亡くなったと聞いた。水中科学協会の理事会をやっていて、その別れ際にビデオカメラマンの中川隆から聞いた。自死だと言う。

 最近、倉沢君も4月19日からtwitterをやっていて、僕はすぐにフォローした。
 4月22日
 「今日は、根室海峡で5頭の群れのシャチと出会いました。やっぱり、シャチの存在は特別です。」
 4月24日
 「9時から観光船に乗船。昨日のリベンジなるか。」
 「今日もまた、国後島側にシャチの群れが。たくさんいるのに残念。明日こそ、こっち側にきてくれないかな。」
  5月12日
 「昨日、友が亡くなった。自死。朝から冷たい雨が降っている。」
 5月13日
 「今、襟裳岬。窓の外から聞こえてくる波の音が心地よい。」
 5月28日
 「明日、厚岸の大黒島にいく。ゼニガタアザラシの水中映像を撮影する予定。透明度が良ければよいのだけれど。」
 
 そして、最後のtwitterは、
 7月18日
 「知床・羅臼は、今雨が降っています。」

 もうほとんど詩になっている。

 倉沢君に初めて会ったのは、知床、ウトロの港の脇だった。僕はニュースステーションの1年目で(1986)、流氷の下からの中継だった。港の堤防の影、深い雪に埋もれるように小さいテントが張ってあり、その中に、若いカメラマンが二人、倉沢君と、田口君だった。二人は大学(日大)の同級生、僕のアシスタントの米田が、二人の一期上。
 民宿に泊まる金がないから、二人でテントに寝ている。すべてを写真にかけて、フィルムを撮り貯めてストックして行く修行時代だ。
 田口君とは、その後、アラスカで羆の水中撮影をしているときに出会った。彼が浅瀬に入ってレッドサーモンを撮っていると、羆も浅瀬に入って来た。その距離3m、羆の忍者級のジャンプ力ならば、一瞬で倒される。僕は、彼が羆にやられるところを頭に描いて、カメラをかまえた。田口君もニコノスを前に出して身構えた。その時は何事もなく、僕の撮った彼の写真は、彼のグラビアを飾った。彼の構えたニコノスには、クマがうつっていたのだろうか。その後田口君は長良川のサツキマスを追って、郡上八幡に住んだ。子供向けのサツキマスの写真集を送ってきてくれたが、その後何の便りもない。

 倉沢君は羅臼に住んで、道東、知床をフィールドにして撮影を続けていた。これもニュースステーションで、羅臼に行ったとき、羅臼第一ホテルで出会った。第一ホテルに勤めている人と一緒に、ホテルの宿舎で同棲していて、その部屋で、二人で飲んだ。僕がまだお酒を飲んでいた頃のことだ。相変わらず貧乏生活だった。僕が何とかしてあげようと、その後東京であった。一緒に北の海のプロジェクトをやろうと、決めたのだが、その後、話は進展しなかった。
  そして、何年か経ち、彼の写真がブレィクした。何冊か立派な写真集がでた。本屋で横積みになっていた。これで彼の苦労も報われたと喜んだ。

 今年の4月に先にあげたtwitteを見た。 そして、今度の訃報。まだ子供が小さいのに、と中川から聞く。
 車で出ていっての死だというから、海での死ではない。
 
 人それぞれだ、どうしても死にたい理由があったのだろう。

  僕たちもニュースステーションで襟裳に行った。
 倉沢の撮っていたゼニガタアザラシが、襟裳にいる。当然彼にガイドを頼もうとしたが、不在だった。
 倉沢君の訃報はネットでみると、
 「風の館上映映画を撮影した自然写真家の倉沢栄一さんが7月21日に急逝されました。」とある。
 ゼニガタアザラシを撮った映画だ。
 僕たちが襟裳岬ロケ。風が強くて、とても船を出してアザラシのいる岬には行かれない。襟裳は風が強い岬だ。だから「風の館」という観光施設がある。その風の館にも行ってみた。他に何もない。
 どうすることもできない。僕たちのニュースステーションの旅は、風がやむのを待つのも、せいぜい一日ぐらいだ。風がやまないから、磯に降りた。タイドプールがある。水深1mぐらい。潮美を潜らせて、半水面を撮った。磯を立松さんが歩く。「本当に何もないね。でも気持ちの良い風だね。」強い風だけれど、少しだけ、春の匂いがした。タイドプールは透明で、風のように透き通っていた。
その時の映像オンエアー、バックには森進一の「襟裳の春」が流れる。ニュースステーションの旅は演歌の旅でもあったのだ。何もないのに視聴率はよかった。

  北の街ではもう 悲しみを暖炉で燃やしはじめてるらしい
  理由(わけ)のわからないことで 悩んでいるうちに
  老いぼれてしまうから 黙りとおした歳月(としつき)を
  拾い集めて 暖めあおう
  襟裳の春は 何もない春です。
 
  倉沢君と、第一ホテルで飲み明かした思い出が消えない。何を話したか全く覚えていない。酒を飲まなくなった僕が、飲んでいた時代、本当に数少ない良い酒を飲んだ。
 どうして死んでしまったのだろう。悲しかったからにきまっている。悲しくて死ぬのは良い。

 やはり、悲しくても死んではいけない。でも死にたかったのだろう。

 ☆
 今、ネットで倉沢栄一で見るとたくさんの記事がでてきます。その中にブログもあります。今夜は森進一の「襟裳の春」を聞いて寝よう。

0722 9月8日フォーラムー1

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 7月12日、僕の夏の最大行事である豊潮丸航海記は無事終わった。。この航海で得た、安全管理のノウハウ、撮影のノウハウは、機会を改めて書くし、JAUS研究会報にも掲載したい。
 来年度もこの航海ができることを願っている。中尾先生、そして広島大学の堀先生のおかげである。その堀先生だが、来年には退官、しかし退官されたあとも何年か大学に残られるらしいから、僕もまだこの航海ができると願う。

 僕が、フィジカルで研究航海の役にたつことはもはやできないだろうが、安全管理のスーパバイザーとして、そして、僕が高齢でも現場で生きる姿を学生に見てもらうことが、彼らのこれから60年余の時間を考えてもらうこと、その60年でなにができるのかを考えてもらう上で役に立つだろうと願う。今度の航海でも広島大学の学生で僕のブログを読んでいてくれている子がいて、須賀さんの文章が好きですといってくれて、とてもうれしかった。そして、今度の航海で知りあった学生も何人かが僕のブログの読者になってくれるだろう。

 さて、そんなことで、話題を変えて、9月8日に行われる日本水中科学協会ダイビング活動フォーラムのことを書く。尻切れになっている、僕とダイビング事故、それに関連した、ダイビングをはじめた娘への手紙も忘れていないので、この後に挟み込んで行きたい。願いはダイビングの安全、特に未来をになう若い人の安全なのだから。

 9月8日午後13時から17時まで、東京海洋大学品川キャンパス、楽水会館で行うフォーラム。
 実はフォーラムとシンポジュウムのちがいがよくわからない。学会発表に詳しい、中尾先生に聞いてみて、説明を受けたが、発表の仕方、質疑応答のちがいのような印象を受けたという頼りないものだ。あまりこだわらないが、フォーラムの方がくだけた、ということにしておこう。実際はわからない。なるべくのんびり時間をとって、ディスカッションとか、話し合う場を提供する研究集会としたい。


 遠泳、昔の遠泳ではなくて2007年の夏だが、昔に近い遠泳を館山でやっている中学校


 その発表の一
 海洋大学准教授の千足先生にお願いする
「水圏リテラシー海洋実習:カヤック&スキンダイビングによるライン調査」
 千足先生は、NAUIのかなり古いインストラクターで、筑波大学の吉田章先生の弟子である。僕が吉田先生の下で非常勤講師として、大学院の学生にダイビングを教えていた時に助手をつとめてくれた。お台場の潜水にもきてくれていたのだが、やがて鹿屋の体育大学に職を得て行かれ、お目にかかれなくなった。それが、僕の母校である海洋大学に准教授として来てくれた。僕の活動を手伝ってもらえると喜んだが、しばらくは音信不通状態になった。大学での位置が決まるまで、僕にいろいろなことを頼まれることを心配されたのかもしれない。今、このように講演をお願いしているのだから、心配ももっともだ。
ようやくお目にかかっていろいろなお願いができたのが、あの3月11日だった。お昼を品川で先生のおすすめの蕎麦屋でたべて、その後大学にもどり、珊瑚の移植研究の岡本先生のところで雑談していたとき激しい揺れが起こった。
 脱線をもとにもどして、
 水圏リテラシー実習、リテラシーって何だ。僕もわからない。海とのつきあい方、海とつきあう方法、決まり、よくわからないが、そんなことだろう。
海の仕事をするのならば、海に浸かってみないとうまく行かない。海を知らなくてはならない。海に潜らなければならない。我田引水すればそんなことだ。

 昔、僕が水産大学(現、東京海洋大学:と書くのがいつもめんどうだ)に入学したときのリテラシー実習(海洋実習)は、遠泳だった。六尺褌(ふんどし)を締めて2時間程度、泳ぐ、溺れた者を引き上げる櫓漕ぎの伝馬船に先生が乗り、太鼓をたたいて励まして泳ぐ。
 六尺褌とは何だ。「今時の子はわからない。詳しく説明してください」グラフィティに書けば、潮美に説明を求められる。六尺とは、長さ六尺、およそ1、8m、幅20cmの晒しの布だ。赤く染めてあれば赤褌(アカフン)だ。それで股間をきりりと締めあげる。溺れた時には褌の尻と腰の連結部分を竿の先の手鉤でひっかけて確保する、引き上げることができる。遠泳の先生は、飛び込んで助けるなんて阿呆のやることはしない。
 さらにアカフンは、サメに襲われた時に役立つ。最近のサメはフレンドリーになったというか、根性をなくして、ダイバーにタッチされたりしているが、昔のサメはマンイーター、人食いザメと呼ばれた。人食いザメに出会った時は、アカフンの一部を解いて曳いて泳ぐ、サメはそれを見て、長い生き物と見て、襲ってこない。とされていた。なお、赤はサメ除けの色であり、ヘルメットダイバーや、昔のクストーのグループが赤い毛糸のキャップをかぶっていたのはそのためだ。僕も持っているが、キャノンの長いレンズにかぶせている。いずれも有効とは思えないが、気持ちの問題だ。
僕たちの遠泳の教官は、海軍兵学校で柔道の師範、水泳の師範をしていた杵渕先生だった。海軍兵学校でも有名だった先生だ。だから、海軍兵学校の遠泳をややスケールダウンしたものなのだろう。遠泳の時ではなかったが、僕がクラゲに刺されて痛がっていると教官は「ちょっとこい」と手招きして、自分の股間に手をあてて小便をする。それを手にとって、僕のクラゲに刺された腕に擦り付けた。「クラゲに刺されたらこうする。だから、水泳の教官は、いつでも小便がでるようにしていなければならない。」僕は、小便は海でどんどんして良い。クラゲにさされたら、人に擦り付けても良い。汚いものではない。と知った。これが僕のリテラシーだ。間違っているかもしれない。
 今の海洋大学は女子学生が半分近くいる。もちろん、男子よりもたくましい人も多く、数年前までは、潜水部の歴代の部長は女子だった。ものすごい美人で、最近結婚した子が部長の時、彼女にしごかれるということで男子部員が半減したと、男子に言いつけられた。本当かどうかは知らない。が、もはや褌は過去のものだ。
 僕はどちらかと言えばたくましい女子が好きで、山崎マキコの肉食女子と草食男子のラブストーリなど読み捨てにしないで、保存の本に入っている。
しかし、一方で「ママの作ったお弁当でなければたべられなーい」という子がいて、実習場の昼食がたべられず、水泳実習で失神した利して、先生を恐怖のどん底に落とした。いずれにせよ、六尺の遠泳はできない。男子でも、同じような、もしかして女子よりも弱い子がいるだろう。だから?カヤック&スキンダイビングだ。
 僕の海での安全のリテラシーは小舟がそばにいることだ。昔の遠泳の櫓漕ぎの小舟、豊潮丸でのゴムボート、そして、海女さんの浮樽、千足先生の実習でのカヤックだ。そしてライン調査、ラインを使っての安全確保、海洋大学での詳しいプログラム、安全管理の実際を知りたい。

0725 9月8日のフォーラムー2

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 このテーマの写真があったはずなのに、3時間さがしてみつけられない。
 写真なしで、行く。

 スキンダイビングといえば息こらえだ。千足先生のスキンダイビング実習は、プールでのスタティック練習も含まれる。フリーダイビングのテクニックも含まれる、すすんだプログラムだ。
 フリーダイビングの息こらえについての発表を千足先生の教室にいる藤本浩一君にたのんだ。彼は、日本女子大学の助教であり、フリーダイバーでもあり、フリーダイビングの生理にくわしく、昨年、白浜の海女として活躍しているnaomi さんに協力してもらった、海女の研究にかかわってもいた。その結果とか、海女についても興味があるが、それは別の機会として、なんでフリーダイビングはあんなに長く息をこらえていられるのか、僕はわからない。
 最新ダイビング用語事典に執筆してもらった市川和明君は、苦しいと思ってはいけない。苦しいと思わなければ苦しくないのだ、という。しかし、苦しいのは炭酸ガスが呼吸中枢を刺激する生理現象であって、精神論ではないように思う。藤本君に聞いたら、彼も精神論ではないという。しかし、ジャック・マイヨールは、日本に来て、禅を学んだが、息をしていないと思えば良いという。これも禅問答みたいで、科学ではない。
 そのあたりを、現在のフリーダイビング理論では、どのように考えているのだろうか。

 僕は、1分30秒は息をこらえていられる。平均的だ。それで、水深30mまで潜れたことがある。深く潜ると酸素分圧が高くなるからか苦しくない。そのかわり、浮いてきてブラックアウトする可能性がある。苦しいというのは安全装置なのだ。ブレイキングポイント(息こらえの限界)はリミッターなのだ。リミッターをはずして、良いものか。一般のスキンダイバーにハイパーベンチレーションを禁じてきたのはそのためだったのだ。
 僕の主治医である河合先生は、限度を超えた、つまりリミッターをはずした息こらえが生理的に良いわけがないという。また、脳も酸素の欠乏には弱いはずだ。もしかすると、長い息こらえの度に脳細胞のいくつかが死んでいるのかもしれない。MRIで見ると僕の脳細胞はずいぶん死んでいる。昔の脳力の300分の一ぐらいになっているのだろう。医学的に脳細胞の死と息こらえによる酸欠の関連の問題は、アプネアのグループでは解決解決しているのだろうか。
 生物の身体には、必ずリミットがあるはずだ。以前、そうとう名の通ったフリーダイバーのブログを読んだら、ボア、ブラックアウトがかなり日常的に起こっているらしく見受けられた。ブラックアウトを起こしてもそれが事故につながらないような、手順、システムは確保されているのだろう。しかし、事故にならなくても、それが、日常になって、そして長生きしたとして、どんな影響があるのだろうか。
 海女さんは、80歳を越えてもザンブと海に飛び込み貝をとるハンターだ。アスリートである。そして、健康だ。しかし、海女さんの潜水時間は1分をこえることは珍しい。その繰り返しである。ブレイクポイントを越えてはいないはずだ。
 特にアプネアに志し人生を賭けている人については、なにも問題はない。彼らがパイロットになり、人間の可能性を試している。本当のトップアスリートだ。しかし、一般人については、スクーバでは神経質なくらいに減圧症を恐れて安全停止を念のためにさせている。
 脳細胞にも影響がなく、日常的に30mまで潜れるとすれば、リサーチダイビングの実用としては、スクーバは不要だ。
 千足先生のカヤック&スキンダイビングのライン調査のような手法で、20mまでの水域の磯根調査はカバーできてしまう。以前、日本の人工魚礁について研究に来た、フランスの研究者と伊戸の伊勢エビ魚礁を潜ったが、彼は僕たちがスクーバで潜っているのにスキンダイビングだった。そのスキンダイビングは、僕とほぼ同じ程度だったけれど、スキンダイビングにこだわっていた。

 藤本君は、医師ではないから、医学的なコメントはできないだろう。しかし、彼から最新ダイビング用語事典に「なぜ深く潜れるか」という項目について、書いてもらったが、文献の紹介で、ノーリミッツ(制限なしで、どんな道具を使っても、息こらえであればよいとする競技)で、オーストラリアのハーバート・ニッチが249mまで潜ったが、脳の動脈に塞栓を起こしたために記録としては認められず、同じ彼の214mが現在の世界記録であることなどを文献を紹介して書いてくれている。現在のフリーダイビングと、生理学的な研究がどのあたりまで進んでいるのか、文献をひいて話してもらい、同時に僕たちのいくつかの疑問に答えてもらうことをお願いしている。

0726 9月8日フォーラムー3

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 もう一つ、スキンダイビングでは耳抜きの問題がある。スクーバよりも、耳については厳しい。耳抜きこそが、スキンダイビング世界への鍵だ。耳といえば、臨床については三保先生だ。
 最新ダイビング用語事典の編纂で、、耳について、三保先生に書いてもらい、耳抜きについての認識を改めた。
 鼻をつまむバルサルバが耳のためには良くないこと誰でも知っている。だから、バルサルバではない方法を目指して練習する。それはどんな方法があるのか
 僕自身は顎の奥、耳下腺というのだろうか、お多福風邪になると腫れて痛いあたりに力を入れると、耳が抜ける。三保先生によれば、鼻をつまんで唾液を飲み込めばこれと同じであり、それを繰り返しているうちに、唾液を飲み込まなくても、耳が抜けるようになるという。
 その他、耳抜きの指導方法などについての話、そして内耳漏の話などを予定してお願いしていた。
 鼓膜は破れても、感染症にならなければ、2週間で復帰できる。と僕は考えているけれどそれで良いのだろうか。破れたときの注意だとかも聞きたい。そして、無理したとき痛みもなく、鼓膜は破れる。なぜ、痛みがなく破れるのか、そして、そんなとき、鼓膜は破れた方がいい。破れないと鼓膜破損よりも恐ろしい内耳漏になる。内耳漏になったときの処置、後遺症の問題なども聞きたい。
 ところで三保先生は、リブリーザーを使用してのケーブダイビングのフリークである。リブリーザーの話、ケーブダイビングの話も聞きたい。
 ケーブの話までしていただいたら、とても時間が足りない。ゆったり時間のとれるマンスリーセミナーにおいでいただこうと考えたが、スキンダイビングの話で、耳の講演がないと、歯が抜けたようになってしまう。マンスリーセミナーの方は、別に機会を作ることにした。

これで、スキンダイビングについてのすべての疑問が解決される。質疑応答の時間も十分にとるつもりである。7  
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