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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0418 マスク式潜水ー3

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 スクーバの元祖だと言われる大串式と呼ばれるマスクがある。
 これも水産講習所の先輩で、渡辺理一という人が考え出し、大串金蔵という鍛冶屋が作った。たぶん、僕がカメラのハウジングを作った時のように、僕はアイデアを出し、作らせて、改良点を挙げて、何度も作りなおさせたのだろう。実際に手を使ったのが、大串だから、大串式とした渡辺理一は偉い。

     大串式マスク、菅原久一氏がもっていたものを望月昇氏が譲り受けコレクションしていたが、望月氏が逝去、船の科学館に寄贈、現在、船の科学館は休館中

 大串式マスクについては、第一次世界大戦で地中海のアレキサンドリア沖でドイツの潜水艦にしずめられた日本の八坂丸という船が、およそ10万ポンドの金塊を積んでいて、片岡弓八という人がこの金塊を、大串式を使って引き上げて、世界に名を轟かした。10万ポンドというと、今のお金だと、およそ23億円だというけれど、この計算では、なんとなく少ないような気持ちがする。シリコンバレーあたりでは、命もかけずにもっと桁の大きいお金を数年の間に稼いだ人がごろごろいるみたいだ。
ただし、片岡弓八はダイバーではない。社長、親方、経営者で本人は潜らない。
 この片岡弓八と金塊引き上げのことを書いたノンフィクション「海底の黄金:山田道幸著、講談社:1985」がある。書いた山田氏は歯医者さんで、良く調べて書いてあり、物語としてとても面白いが、ダイビングについては素人であり、ありえないようなことがいくつか書かれている。しかし、面白い。この本によると、渡辺理一先輩は、この潜水機で海を耕す漁業をやろうとしていたようだ。そして、この潜水機はタンクからの空気を受けるスクーバとして考えられていたようで、英国への特許申請もしている。確かに、このデマンドの発想は、ホースによる送気式の延長線上では考えにくい。高圧のタンクを使おうとすれば、容易に思いつくだろう。この申請の折には、手動でバルブの開閉をして背中のタンクから、マスクの中に送り込む構造であったらしい。同じような手動のデマンドバルブがフランスの、ル・プリューが作っていて、これはタンクで潜水する実績がかなりある。渡辺理一の大串式は、テストとしてはタンクで潜水したことはあるのだろうが、実用として、タンクを使って仕事をした実績はみあたらない。スクーバの元祖といえば、言えるが、実用でなくても。テストだけで良いならば、フランスのル・キヨールのマスク式もさらに古いから、ヨーロッパでは、これが元祖と考えられている。

   これも船の科学館の展示だが、大串式をスクーバとして使った想像図である。

    海底2万哩の挿絵 

 なお、ル・キヨールのマスクは、ジュールベルヌの「海底2万哩」に出てくる潜水機の発想のもとになっているが、これはSFだ。しかし、海底2万哩の潜水機は、本当に夢の潜水機で、今のリブリーザーでもこの域には達していない。 
 さて、八坂丸の沈んでいる水深は80m(諸説がある)これを、当時のヘルメット式と手押しポンプでは、ポンプを押すことが到底できないだろう。潜水機の進歩は、より深くを目指すとすれば、より空気消費量を少なくする方向を目指さざるをえない。タンクからの空気供給を目指していた大串式は、空気消費量をできるだけ少なくする方向を目指していた。ホースで空気を送るとしても、普通の手押しポンプで10人程度で押せたのではないだろうか。大串式のマスクは目と鼻を覆うもので、小さい。デッドスペースが小さい。マスクに送られ、鼻で呼吸する空気のバルブ開閉は、手動式から、歯で梃子を噛む方式に変えた。これが画期的なことであり、八坂丸の金塊を引き上げることができた。当時のことであるから、当然、減圧症による死亡事故も起こり、ふかし療法用のヘルメットも用意していなかったために、ダイバーを殺してしまっている。この場面は小説でうまく書いているが、片岡弓八はダイバーではない。自分では全く潜らない。商船大学をでた船乗りである。僕がダイバー的な視点で見ると、片岡弓八は、金塊の引き上げのためにダイバーを犠牲にした親方であり、英雄でもなんでもない。しかし、自分が潜らなかったからこそ成功して巨額のお金を手に入れたのだろうが、僕がこのノンフィクションを書いたら、全然違うストーリーになったと思う。
金塊引き上げの資金を得ようと、アラフラ海での真珠とりの潜水機としてこの大串式を売り込んで、ヘルメット式との競争コンペをやる。この場面は小説としてとても面白いが、結局大串式はコンペに勝ったが採用されなかった。その理由は、ダイバーは、使い慣れない潜水機は使わない。大串式と、真珠とりダイバーが使っていたヘンキー式ヘルメットでは違いすぎる。
 ちょっとマスク式から脱線するが、木曜島あたりの真珠貝獲りは、ヘルメット式ではあるが海底のドロップオフを中性浮力になったダイバーをボートが曳行してゆく。ヘンキー式は、ハーフドレスと言って、半そで、上着はヘソのあたりまでしかない。ヘンキーのヘルメットは、普通のヘルメットよりも大きく頑丈に作られている。ボートで曳行して、岩にぶつかっても良いように作られている。ハーフドレスの上からヘルメットをかぶる。浮力の調整は、半そでの腕で行う。腕を上にあげると空気が抜けて沈む。腕を締めれば、ドレスに空気がたまって浮く。そんな潜水技術が習い性になって熟練しているダイバーがマスク式に替えるわけがない。漁業潜水では、ダイバーと潜水機は完全に一体化していなければ仕事にならない。
 なお、木曜島の真珠とりダイバーについては、司馬遼太郎の「木曜島の夜会」がある。ダイバー気質を描いて名作だと思う。読んでいない方、ぜひ読むことを薦める。

0420 水中映像祭

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 水中映像祭に行ってきた。そういえば30年前ごろに、工藤さんか誰かから話を聞いて、後楽園かどこかに、行ったことがあたかな?ということで、30周年記念だという。どんな組織で、どんな道を30年歩んだか、大体のところが理解できた。一つのスタイルとして、磨き上げてきた感じがして、学ぶべきところがある。
内容は、とても感心してすごいなと思った作品が2点、普通に感心したのが3点、あとはハイ・アマチュアのレベルがほとんどで、そのレベルに達していないと思ったのは3点だった。多分、このサークルとしては、新人なのだろう。どうしてもプロの眼で見てしまうのだが、それでこれだけのレベルだから、このサークルとしても、そして、今回の映像祭も大成功だと思う。

交流作品と招待作品は、こんな場合、サークルの上位のレベルか、それを上回らなければならないから、大変だが、征夫さんは名前とパーソナリティで、押し切ってしまうが、佐藤さんの映像は感心している。そのうちに遊びに行きたいけれど、遠い。交流作品の備後&ひろちゃんは、映像として面白いし、まとめ方のパーソナリティもあって良い。このごろ、こういうカップルで撮影をするスタイルが目立つ。井上&高松君あたりが、その始まりかもしれない。バディシステムとして、撮影の危険を回避することもできるので、言うまでもなく賛成。征夫君とは古い仲だから、握手一つで通じてしまうが、佐藤さんとか、備後さん二人とは長話をしたいので、いずれまた、とおもうことですれ違いにした。
 中川隆、久保さんと、ちょっとした、雑談があったので、他にも挨拶だけで済ませてしまった人が何人か、失礼してしまった。

映像は専門でもあるし、映像祭は、イベントとして明るく楽しく集まりができる。みんなでにこにこ笑える。一方、今年のJAUSのイベントテーマは安全なダイビングの運用だ。安全ということは危険、人が死ぬ話題だ。どういう風に運ぼうか。考えよう。
しかし、映像にしても、先鋭的な映像を狙えば、水中撮影と背中合わせに死がある。ついこの前にもあったことだ。
作品についての自分なりの評だが、これはあくまでも僕の好みと、スタイルからのコメントだ。それに、全部について、こんなコメントをする時間もない。
 ミラー;斉藤光一さん。この手の気持ちの良い、美しければ気持ちが良いという映像は浅井慎平が元祖で、その水中版ねらいが高砂さんの初期なのだろうが、(今は違う感じがしている)もしかしたら、水中版として、これらを越えているかもしれない。欲を言えば、今は動画と静止画がクロスオーバーしているのだから、もう少し動画部分が長くても良かったと思う。つまり、もう少し長く見ても良いとおもうほどだった。
 チチブハゼ:菊池三男さん 江東区の川でチチブを撮った作品だが、僕もお台場でこんな撮影をしているので、よく撮ったなと思ってみていたら、棒の先カメラで撮っていることがわかった。終わってから棒の先カメラを見せられて、本当かね?と思ったほど、棒の先カメラでのテクニックは完璧だった。
 やっぱりマナティーが好き、:山崎由紀子さん。女の子が、小さなGoProをもってフロリダに行っただけでこんな映像作品ができてしまう。GoProの可能性が証明される作品、竹内が技術指導したと言っているが、編集のセンスも良い。
 特に気に入った作品を三つあげたが、他もハイアマチュアとして、もちろん、悪くはない。

0424 マスク式潜水機ー4

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 第二次世界大戦前、僕が生まれた1935年ごろまでの日本の潜水は世界一だった。安全性とか潜水医学で世界一だったわけではない。その実績、潜水深度、潜水病などを恐れない果敢さにおいて世界一だった。そして、大串式などデマンド機構を備えたマスク式の潜水具においても世界一だった。
 しかし、1935年ごろ、広く使われていたマスク式は、大串式ではなく、その改良型ともいうべき、山本式だった。
 大串式、そして、この山本式については、2011年の9月6日、7日にこのブログに書いているが、これを省略してしまうと、マスク式潜水機、デマンド型バルブ付きのフルフェースマスクの全貌が書けないので、あえて再び書くことにする。興味のある方は、2011年9月6日、7日も参照してほしい。

大串式、山本式は、沈没船の引き揚げだけではなく、水産業のため、定置網の潜水調査、網の修理にも使われた。定置網の潜水調査を自らも行い、指導したのはやはり水産講習所の卒業生である三浦定乃助と山下弥三左衛門であった。山下氏は、定置網漁業も自営していて、自ら潜水して、水中で見る定置網が隙間だらけで、魚がどんどん逃げているのを見て、低智網とけなして、潜水による低地網の調査と補修ができるように、定置網潜水士を養成することを提唱した。しかし、定置網の潜水では、水深50mを越えて潜水することが日常であり、1935年、に三浦定之助が書いた「潜水の友」 日本潜水株式会社  によれば、三浦先輩の仲間の10人に2人潜水病で命を落とし、ほとんどのダイバーは潜水病にかかっている。
 この本を発行した日本潜水株式会社が、山本式マスク式潜水器のメーカーであった。「潜水の友」は、その山本式マスクの販促のために書かれたものである。大串式マスクばかりが知られているが、山本式の方がたくさん使われているが、山本式のことを知る人は少ない。歯で噛んでバルブを開閉するというところは、大串式と同じである。だったら、大串式の真似だとも言えるが、山本式を考案した、山本虎之助船長は、自分で長い間苦労して到達したものだと、山本式の販促の本、「潜水の友」で、三浦定之助は書いてある。山本
式が大串式にとって代わった理由は、使いやすかったからだと思う。原理は同じでも、ダイバーは使いやすい方を選ぶ。多分、歯で噛む力が山本式の方が軽く、歯が痛まなかったのではないだろうか。

 
山本式マスクを手にする三浦定之助、大串式よりも進んでいるように見える。開閉弁は、マスクの横側にあり、歯で噛んで梃子を動かして、弁を開閉する。

※ 潜水の友 三浦定之助 日本潜水株式会社 1935

第二次世界大戦が終わって、僕が潜水を始めた、1956年、アクアラング潜水機が水産にも使われ始めたころ、もはや、大串式も山本式も潜水に使っている姿は見られなかった。
東亜潜水機に入社したころ、倉庫に山本式がまだ一台のこっていた。どこかから注文があり送ってしまった。そのころ僕は潜水の歴史にも、古いマスク式にも全く関心がなかった。今振り返れば残念である。
 旭式マスクは、そのメーカーに、一年後輩の遠藤徹が就職して、しばらくはこのマスクの販売を担当していた。東亜潜水機は、マスク式潜水機を持たず、販売もしていなかったが、旭式は学生時代に実習で使ったこともあるので、身近であった。遠藤さんは、やがて郷里の福岡にもどり、ウエットスーツメーカーの福岡潜水を興して成功している。
 茨城県ひたちなか市にある茨城県立海洋高校には、立派な潜水訓練用のプールがあり、旭式マスクも、金王式マスクも、使用可能な状態で置かれている。
 10年ほど前、まだその頃は存在した旭潜研から、手押しポンプを借りてきて、茨木海洋高校のプールで、水深10mに旭式マスクで潜水してみた。フィンを履いて泳いで潜ったのだが、10mならば、まったく苦しいことは無く、快適だった。
 このブログにも書いたのだが、数週間前、沖縄の船具サービス兼、ダイビングショップの方から、旭式マスクのことを問い合わせて来た。まだ、沖縄ではこのマスクを使って漁をしたりモズクの栽培をしている漁師さんがいる。このマスクがほしいのだが、もう、メーカーは名前を変えてしまっており、製造も中止しているし、部品もないという。
 今ならば、すでにデマンドバルブ付きのフルフェースに替えたらと話したが、デマンドがどうしても苦しくて嫌なのだという。多分、コンプレッサーの能力が低いのだと思うが、それを言っても仕方が無い。漁業者は、自分の手慣れた道具でなければと、新しい道具を嫌う。
東亜を紹介したけれど、どうなっただろうか。

0429 お台場

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 毎月一度、その月の最終日曜日にお台場潜水があるということ、貴重なトレーニングになっている。都会で、海に行かないと、次第に体調が悪くなってくる。加齢とともに、仕事が少なくなっている現在、お台場が無いと、本当に病気になってしまうかもしれない。
 まず、体調について、お台場から戻ってきて、かなり疲れた。この年齢で、ドライスーツで12キロのウエイトを付けて、歩いてエントリーエキジットで2本潜れば、こんなものだろう。今日で、ドライスーツを次の秋まで、さらば、として、次の大瀬崎(5-03は)ウエットスーツとしたい。

 きっちりした、研究者としての観察研究目標を持ちたいとおもうが、現状の僕では、きわめて困難、撮影の目標を設定するぐらいが、研究の目標だ。
今回は、一眼レフカメラの上にGoProを載せて、撮影し、一眼レフでの撮影とその上のGoProの映像で、周辺の状況の説明が撮れるか、とともに、画像の鮮鋭度、使えるかどうかの比較がしたい。
また、JAUSでウエアラブルカメラ研究サークルをつくることから、そして、5月のマンスリーセミナーが、ウエアラブルカメラをテーマにすることから、その資料になることも考慮する。
 
 第一回目の潜水は、9時半ごろのエントリーで、10時半ごろのエキジット、だいたい1時間だ。ダイコンは、水深が1.5m以上でないと作動しないので、50cmぐらいのところに居ることが多い、この潜水ではタイムキーパーとしては役に立たない。水温は17.3度であった。
第一回目の潜水では、キャノン一眼 4月1日のブログで紹介しているが、ハウジングに入っているカメラは、 Canon EOS Kiss Digital X ファインダーも液晶がついていない。レンズは18-55の一応ワイドズームで、常にワイド側18mmで撮っている。これでは、画角が狭いので、GoProを上にマウントした。ハウジングはフィッシュアイで、とにかくコンパクトであることを買った。

前回、3月31日にメバルの稚魚を撮っている。今回は、稚魚が育っていることが楽しみだった。
今日は、大潮で、潮がどんどん引いて行く、10時では、もうかなり干出している。右側の石の間で、稚魚の小さい群れを見つけて撮影した。

    3月のメバル稚魚 マクロ魚眼撮影
 
   今回、4月 キャノン一眼 稚魚も一回り大きくなった。

      キャノンの上に載せたGoProでの周辺撮影

 周囲、全体の状況をとらえている。この方法で良いが、キャノンの上のGoProに液晶ファインダーをつけていて、このファインダーでも確認ができると思ったのだが、あまりうまく行かない。もっと練習が必要か、あるいはこのシステムではキャノンのファインダーを見れば足りるので、このGoProには液晶ファインダーは不要かもしれない。液晶ファインダーは電池を消耗させるので、使わないで済めば使いたくない。

 今回の失敗は、キャノンのストロボが発光しなかったことで、これは、事前の準備で発光テストを省略してしまったことの結果であった。
 2回目、午後の潜水で、ストロボを整備したが、潮がどんどん引いてしまって、午前中の撮影地点は、干上がってしまった。
 

      引き潮で岩が干出してしまった。

 どんどん奥に行き、突き当りの木の杭地点まで行って、ようやく群れを見つけて撮影した。しかし、この撮影では、せっかくストロボが光っているのに、キャノンの方は画になっていない。キャノンの上に載せたGoProはバッテリーがアウトしてしまったため、マスクマウントした、GoProの2型を、マスクから外して、手持ちで撮影した。
なお、画質とか使いやすさでは、2型とシルバーエディションは、ほぼ同等で、裏蓋が。開いてしまったトラブルを、ゴムバンドなどで止めて防げば、2型で十分である。が、シルバーエディションが出ているから、一般には2型を使う人はいないだろうが。
GoProでの動画は、かなりきれいに撮れた。編集すれば使えるだろう。
   

メバルの稚魚だが、お台場の石の下、隙間にむれていることから、東京湾全域の、このような浅い水深部分の石の下にメバルの稚魚が居るのだろう。この次の大きさになった時に、どこにゆくのか。青海埠頭公園では、少し大きい石の、投石が、埠頭の5m点に会ったので、そちらに移動していた。このあたりでも、多分、水上バスの航路のあたりにある。灯籠のある小さい島あたりに行けば、大きくなってメバルが群れているだろう。ただ、どちらも、夏の無酸素状態の時にはどこかに消えていて、また11月に出てくる。このことについての研究などはやりたいが、研究費が無ければ術がない。それに、時間もない。ただ、このお台場水域でできる研究についての提案企画は考えてみよう。
  

         マクロ魚眼でねらう
 

 木杭には、ヒメホウキムシ(扁形動物、ナガムシ類)が居て、これを撮ることが、マクロ魚眼を買った目的の一つだった。撮影したが、きちんとしたマクロレンズで撮ったものに及ばない。図鑑の写真はもう少しシャープである。まあ良いか、程度である。

0430 最新ダイビング用語事典訂正について

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 IANTD の代表を務められている、田中光嘉氏から、最新ダイビング用語事典について、主として酸素中毒、酸素分圧数値についてのご意見をいただいた。
 個人的なことであるが、田中氏とは、古い付き合いであり、仕事の上での協力関係もある。この本でもリブリーザーについての部分の執筆と監修をおねがいしている。ただ、お願いをした時期が編集プロジェクトの後期、終わりに近づいていた時期であり、全般についてみていただく時間が無く、ご意見を聞き議論をする時間が無かったことが残念であるが、それは後述するシンポジウムなどで、できればお話ししていただき議論して補正してゆきたい。
 最新ダイビング用語事典も完璧を目指して、電子原稿で3回、ゲラで3回の校正を行ったが、校正の度に大幅な変更と修正があったために、細部の字句の修正に不備があり、誤字、チェック漏れがいくつか生じた。大変に申し訳ないことであるが、正誤表の挟み込みによる修正と、ホームページ、メールなどによる修正で対応させていただく。
新しい知見による修正などについては、最新ダイビング用語事典を出発点とする問題提起として、日本水中科学協会がおこなうフォーラム、シンポジウムで発表、議論をしていただき、研究会報に収録させていただきたい。
 最新ダイビング用語事典は、ダイビングと海にかかわるほとんどすべてを網羅することを目指しているので、今回の酸素にかかわることだけでなく、多数の同様の指摘があるものと想像できる。できるだけ多くの指摘、問題提起があることを願うが、これらについても、シンポジウムでの議論、研究会報への収録で最終的には対処させていただきたい。
 ここでは、今回の田中光嘉氏のご指摘に対してよって行った修正、および、シンポジウムでの議論への展開について説明したい。
 
 田中氏の指摘
最新ダイビング用語事典17pで
「分圧1.46が低酸素と書いてありますが、明らかに高酸素の間違いです。ここでは酸素分圧が1.46以上で罹患すると書いてありますが、P56ではポールベール効果のところで1.3を超えると発症となっています。テクニカルダイバーなら酸素分圧が1.0以上で発症の可能性があることを教えられます。」原文のまま。
 ①低酸素という語のまちがい。
 ②1.46と1.3が矛盾している。
 ③1.3も、1.0ではないのか
 の3点で、
①の低酸素は、純酸素の誤記であり訂正する。
②の1.46、1.3について、
 現在一般に入手できる、一般ダイバー向けの書籍で、ダイバーが圧力下で呼吸してポール・ベール効果(急性酸素中毒)にならない数値について、確認した。ほとんどすべての書籍をあたったが、ここでは以下にいくつかを示す。
 ☆PADIのエンサイクロペディアでは、4-37で、「動いているダイバーにとっての許容量とみなされる最大酸素分圧は、1.4です。(減圧停止で休んでいる状態のテック・ダイバーの許容限度は1.6)。レクリエーションの深度限界内で、空気を吸っているのであれば、1.4に達することはありませんが、エンリッチドエアを使っているとその可能性がでてきます。」
 ☆潜水士テキストによれば、「脳酸素中毒に罹患し得る最小の酸素分圧はわずか1.3気圧であるとする厳密な学術報告もあるが、これはあまりにも厳格であるとして、潜水態様におうじて、1.4から1.6気圧前後に設定しているものが多い。すなわち、スクーバ潜水では痙攣発作によって、マウスピースが外れて溺死する可能性が高いことから低めの1.4気圧を、一方痙攣発作を起こしても直ちに致命的になるとは考えられないヘルメット潜水や全面マスク式潜水では、1.6気圧前後を上限の酸素分圧とするというものである。」
 ☆潜水医学入門 池田知純 1995 では、p55で、米国海軍のダイビングマニュアルの表を示して、酸素分圧と許容暴露時間について、1.3で無制限、1.6で30分としている。

 そこで、最新ダイビング用語事典 17pの「酸素」について、
 「分圧が1.46以上(低酸素を呼吸して4.6m以上に潜ることに相当)」を「分圧が1.3以上(純酸素を呼吸して水深3mに潜ることに相当)」に訂正する。これは、低酸素は純酸素の誤記であり校正漏れであることと、56pの表記である1.3とそろえることでもある。
 56pの1.3表記については、執筆をいただいている外川先生にも確認をとったが、1.3以下は、まだ定説ではなく、1.4としているところも多いことから、1.3のまま、もしも、1.3以下とするならば、潜水医学専門書で議論されるべきであり、最新ダイビング用語事典は医学専門書ではないので、現状の定説の中での最小値をとればよいとの意見であった。

元来通常の潜水で、空気を呼吸している状態で1.3になることも考えられにくいが、今後、リブリーザーがスポーツとして、一般にも行われる可能性があること、酸素分圧が高いナイトロックス潜水(別の指摘がある)が広く行われていることなどがあり、田中氏の提唱する酸素分圧1.0については、次回のシンポジウムで、ナイトロックス潜水についての課題と併せて、発表、検討するテーマとしたい。

ナイトロックスについての田中氏の指摘は、
「P95のNitroxの記述について、酸素分圧が高いために呼吸が楽で、疲れない。また視野狭窄も起こらないとありますが、楽というのは主観的なことではないでしょうか?確かにそうかもしれませんが、わからないと思います。また、窒素分圧から考えて窒素酔いが起こらない理由はないと思います。ですから、視野狭窄は起こる可能性があると思います。実際のところ、こういった症状が起こることを防ぐためにヘリウムが使われています。
さらに空気潜水の最大深度は窒素によって限界が決まり、酸素ではないと思います。ですから空気の潜水可能水深は安全面からも40msw以浅であるべきではないでしょうか?」
 さらに、実際に疲れないという意見に対して、
「。一般的に言われているのは多くの酸素が体内に溶け込むためと考える人もいますが、空気であっても、少し深く潜れば同じ分圧になることを考えると酸素ではなく、窒素が少ないから起こるのか?といった具体的な現象が科学的井解明されていないのではないかと言いたかったわけです。」
また、ナイトロックスで酸素分圧の最大許容値を1.0とすると、32%酸素で、許容深度はおよそ23mになる。これらの問題も含めて、シンポジウムでの発表と検討テーマとさせていただきたい。
 
 誤字については二つの指摘をいただいている。
☆「P145、P146に出てくるOUTではなくOTUですね。」
これは、OTU=(Oxgen Tolerance Unit) であり、誤字であり、訂正する。
 
☆「P51のM値に関してですが、Mの意味がこちらではMaximum allowable nitrogen value となっていますが、私がDr. R.W.Hamiltonからいただいた資料には、
Workman 1965, introduced the concept “ delta p” for gas pressures which was easier to handle than ratios and fitted the data better. He introduced “M values” (the M is for the Maximum tolerable gas tension (Partial Pressure).
となっていて、Mの略が違っています。Maximum allowable nitrogen valueがどこの英語文献に載っているか教えていただけますか?)
について、執筆者に確認したところ、「私は元々、Maximum allowable pressure valueという英語を使っています。どなたかが校正されたのではないでしょうか?」

ということで、M値の英語文を 
M value: Maximum allowable pressure value:Maximum tolerable gas tension
と訂正する。

もう一点 P106のフルフェースマスクについて、意見があります。
「フルフェースはマスク内のCO2濃度が上がりやすく、深いところで使用するには口鼻マスクがないと危険だということを書くべきで、深い水深ではフルフェースマスクを使うというのは誤解を招くと思います。」
 同じページの中に、口鼻マスクの説明があり、「口鼻マスクを使わないと炭酸ガスが蓄積してしまう。」という記述がある。構成上、語を分けて短い説明にしたいと考えたためにこのように分かれたものである。
フルフェースマスクの性能にもよるが、それぞれのマスクについて、何メートルぐらいから、口鼻マスクが必須になるか検討した結果の表示が必要であろう。というのは、フルフェースマスクが映画、テレビなどで、顔をしっかり出したいという用途に使われることがおおいのと、声の明瞭化も要求されることが多い。次回のシンポジウムでは、デマンドレギュレーターを付けたフルフェースマスクについての発表も予定しているので、これも検討したい。

まとめると、指摘をいただいて訂正する部分は
17p 酸素
「分圧が1.3以上(純酸素を呼吸て水深3mに潜ることに相当)のガスを呼吸すると酸素中毒になる可能性がある。」

p145,146
「OUT はOTU とする。」

P51のM値
M value: Maximum allowable pressure value:Maximum tolerable gas tension

田中氏には、幾つかのご指摘をいただいたことを感謝するとともに、12月、もしくは
来年1月に行われるシンポジウムで、例えば、「混合ガス潜水」について、適切なテーマで講演いただくことをお願いする。

大瀬崎にて、 その1

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五月の節句、ゴールデンウィークの終末、ブログが滞っている。
以前にはGW.に出かけるなんて、愚、ゆっくり体を休めて、本でも読むか映画でも見に行くという過ごし方、それこそ、ブログでも、丁寧に書くかという過ごし方を狙っていたのだが、昨年、2012年は、伊豆大島に行き、今年は大瀬崎に行くことにした。

      5月4日の大瀬崎

 いつものことながら、海に行けないで、都会でデスクワークに明け暮れていると、体調は悪い。秋にやった恒例の気管支炎、冬にひいた何回かの軽い風邪の後遺症、プラス幼少のころの小児喘息、の名残なのか、しつっこい空咳が続く、老人性の結核かと、数年前に疑って、病院に行ったこともあった。そして、体はだるい。つまり、半病人だ。
 半病人は海に潜りに行ったりしてはいけない。ダイビングができる条件は健康なことだ。サイボーグでない限り、50歳以上で、ダイビングができる健康感を常時維持している人などいない。常に、ダイビングは自己責任で行うものだと唱えているが、僕について言うならば、半病人ででかけて、たいていの場合、ダイビングで健康をとりもどし維持している。
 
 GWツアーのメンバーは、だいたい同じ、石川、小久保、黒田、黒沢、須賀の5人、今回のゲストは鶴町さん、母と子、3人だ。
 僕も車を出そうとしたが、石川さんの車で5人、鶴町グループは自分の車で行き、日帰りする。
 石川車は、6時45分に門仲を出発、海老名で鶴町グループと待ち合わせているので、携帯確認をしたら、すでに海老名に到着していた。何時に出たのか訊ねたら、寝るのをやめて3時に出発して、海老名で寝ているという返事、こちらは東名に入る用賀で、40キロの渋滞、4時間かかるという表示。11時に沼津だとすれば、大瀬崎には1時か。海老名には、混雑で入れないと予想して、駒角に待ち合わせを変更した。
 
 どうやら1時半に大瀬館に到着、準備をして潜水開始が、15時01分だった。
 

      GoProで撮影する石川さん

 石川さんは、現在の僕を支えてくれている最大の柱、JAUSの柱でもある。現在の通称は石川親分、肩書はアルバトロスダイビングクラブ会長、40年以上続いていて無事故の日本で最も優れたアマチュアダイビングクラブの一つだが、現在、メンバーの多くは卒業してしまっていて、全日本潜水連盟の主要メンバーになったりしている。石川さんは、現在、GoProのマスクマウントアダプターを開発していて、5月末には製品ができる。

      先頭を行く小久保君

 小久保君は、40年前からダイビングを教えていた東大の海洋調査探検部で、彼が大学一年生の時に出会い、そのまま、今までダイビングを一緒にやってきた。小久保君は理論天文学者で、大学生、修士、博士、東京天文台の研究員、助教授、教授とステップアップするとともに、ダイビングもステップアップしてきているとすれば、教授クラスだ。東大海洋調査探検部の監督である。
   

          ボラの群れと黒田君

 黒田梨絵は、東大の看護学校、東大病院の看護師、救急救命チームのリーダーとなり、そこまでは探検部のコーチで、将来の監督と見込んでいたが、筑波大学大学院に転じてしまい、修士、もう一息で看護学博士になる。そして、中学時代はオリンピック水泳の強化選手だった。

   

 黒沢美千代さんは、浦安海豚倶楽部創立の時からのメンバーで、ダイビングもその時以来、今回初めて聞いたのだが、骨の密度が高いという。たくさん食べても太らない。この夏に孫が生まれるが、おばあさんとはとても呼べないスタイルで、大瀬崎外海柵下のエキジットで、すっくと立ち上がれる身体能力がある。(僕は今回立ち上がれなかった)それに僕を加えて、5人のユニットである。最新ダイビング用語事典では、5人のユニットを推奨している。チームワークがとれたユニットが、ダイビングの安全確保にもっとも効果的である。

 僕は、このようなユニットを現在のところ、三つ持っている。もう一つのユニットは、早稲田大学の中尾先生のユニットであり、もう一つは、リサーチのユニット、ユニット間のメンバーは、別に固定したものではなく、石川さんは、早稲田大学も、リサーチのユニットにも柱をつとめてくれている。

 ゲストの鶴町さん、母子は、僕のリサーチのバディであり、後継者のつもりであった鶴町君(残念なことに亡くなってしまっている。)の家族であり、僕がダイビングの面倒をみなければ、いけない、つもりになっている。お母さんの雅子さんは、秋から海豚倶楽部のメンバーになっている。お父さんの鶴町は、NAUIのメンバーであり、現NAUI会長の丸山君の同期のインストラクターである。美帆と映美は、お父さんインストラクターが指導したが、亡くなってしまい、その後、僕がスキンダイビングを指導し、浦安プールでの講習でアシスタントをつとめてもらったことがある。
 ユニットの編成は、大瀬にくわしい小久保が先頭のナビ、一般にいうガイドダイバーの役割、須賀と黒田、黒沢さんと鶴町(母)の海豚倶楽部バディ、石川さんに、美帆、映美を任せた。全員は互いに視認できる範囲で行動する。
 透視度は8ー10m、水温は18ー19度で、僕は随分迷ったのだが、ドライを選択した。つけているウエイトは、ブレストが7キロ、腰が2キロ、レッグに1、4キロで合計10。4キロである。
 第一回目の潜水、僕はタンクを背負ってしまえば、重さがつらいので、少しでも早く水に入る。肩のあたりまで水に入り、左のフィンは、スムースに履けたが、右側は足の関節が悪いので、いつも苦労する。いつもの苦労の、80%ぐらいの苦労で、着けることが出来た。
 黒田と僕のバディは、僕のバディはいつも僕の右後方、1-2mで追尾するように、昨年のGW.の伊豆大島で教えてあった。一年のブランクがあり、そして、大瀬の湾内は、安全と思っているから、普通のバディ態勢にしてしまった。つまり、見えるところに居れば良い。


     石川さんと手をつないでいる美帆、そして、手前が映美

      全員 見えるところに居ること。

  投石の段を越して、砂地になり、小久保はガイドラインについている海藻を手でかき分けるようにして進んで行く。
  アナゴを見つけたので、撮影する。


   オオシロアナゴ

  ホウボウが出てきた

 2本目の潜水、美帆と鶴町さんは残り、映美は、参加し、石川さんとバディを組み、小久保が見つけたイザリウオを石川さんのカメラを使って撮影した。
 

      イザリウオを撮影する映美

 
 みんなで一緒に食事をして、鶴町チームは東京にもどり、僕たちはナイトダイビングで、おなじコースを潜った。
 書くことは撮影についてのことばかりなので、別に書くことにする。
  

大瀬崎 その2 5月4日

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 人生を12のコンパートメントに分けて考えている。区切りだから、セグメントでもよいのだけれど、ダイバーだからコンパートメントとしよう。 0-5歳、5-10歳、10-15歳、15-20歳、20-25歳、そこから先は10歳刻みで、25-35歳、35歳ー45歳、45歳ー55歳、55歳ー65歳、そこからまた5歳刻みになって、65歳ー70歳、70歳ー75歳、75-80歳だ。 80から先のことはわからない。12のコンパートメント一つずつ、別の人間のように思える。
その詳しいことはまた別の機会として、僕は75-80コンパートメントに居る。
75ー80は、水中ではまだ、バリバリでやれるが陸上では、準身体障害者に近い。そのように思わないと危ない。
 大瀬崎、二日目 5月4日の一本目は、マンボウを見に行こうと小久保教授が言い出した。マンボウなんて見られるはずがない。マンボウは大洋をさすらってクラゲを食べている魚だ。と思っている。決して根付きの魚ではない。たまたま、そのあたりに泳ぎよって来ただけだ。マンボウが多い年は、そのあたりにくる確率が高いだろう。なんだか気に入って、しばらく浮いている奴だっているかもしれない。しかし、それはバイチャンスであり、論理的にはマンボウはいない。

        こんなところに、マンボウはいない。

 理論天文学者の小久保教授にそのくらいのことがわからないのか?と言おうと思ったが、老いては弟子に従え、と行くことにした。理屈をこねたが、本当は、エントリー、エクジットが苦労なので行きたくないのだ。まだ、僕が70歳という若さで、CCRのインスピレーションをあきらめたのは、30キロ、ベイルアウトタンクを含めて36キロを背負って大瀬崎の先端で岸からのエントリー、エキジットが無理とわかったからだった。大瀬ばかりではなく、フィリッピンに訓練に行ったら、足を踏み外して墜落したら確実に大けが、もしかすれば即死する階段を上り下りさせられた。僕もかなり乱暴な潜水人生を送ってきたのだが、ここまで乱暴ではない。ダイバーは、減圧症などでは死なないが、手すりの無い階段から岩場に墜落すれば死ぬ。
 外海は波があるだけ先端よりも厳しいが、しかし、10リットルのタンク、ドライスーツ、12キロのウエイトならば、なんとかなるだろう。

 タンクは、水中に浮かべてくれたので、水中で背負う。ボートダイビングで、僕は水面水中脱着の達人だ。しかし、持ってきたBC.は、ショルダーベルトが10cmほど短い。左手が通らないのだ。古い、アポロのプレステージを持ってくればよかった。と思っても後の祭りだ。黒田に手伝ってもらって、水面でBC.と格闘してようやく背負った。今後は、古いBC.をつかうようにしよう。と深く反省した。

 水中は、しばらく、砂地を行くと水深25mぐらいで、段差のような根になっていて、ムチヤギが群生している。ハナダイもいる。マンボウがいるとすれば、頭上25mの水面だ。小久保教授は、もうしわけのように、時々、水面を見上げている。たしか、石川さんがまぐれでジンベイを見たのもこの辺だったはずだから、そういうものが回ってくる場所ではある。しかし、可能性はゼロに等しい。
 それに、もしも、水面近くにマンボウの影が見えたら、全員で浮上するのか。気泡を放出しながら浮上するダイバーをマンボウは待っていてくれるのか、それとも気泡に寄ってくるのか。僕の感では逃げると思うが、
 もちろん、マンボウなんて、いるはずもないから、いらぬ心配だ。心配はエキジットだ。

 先行する小久保は、器用にフィンを脱いでごろた石の上に上がる。黒沢さんもフィンを脱いで上がる。僕はあんなに器用にフィンは脱げない。ドライを着てタンクを背負い、12キロをつけて彼らのように立って脱ぐことはできない。体を横にして脱げば、フィンを脱いだ状態で波にころがされて、溺れる。フィンを流してしまうかもしれない。

    ここを這い上がる。



 這い上がることにした。波打ち際は、かなり波があり、打ち上げられて引き波にもどされないように、体をずりあげる。小久保が素早く、僕のフィンを脱がしてくれたので、何とか立ち上がる。少しよろけたが、彼の手につかまって、石の上を歩く。初心者どうしならば、つかまり、助け合えるのだが、人につかまるのは恥だと思っている。コンクリートの歩道まで来て、タンクを脱ぎおろす。上まで上がってから、ウエイトを置いて取りに戻ろうと、考えたのだが、石川さんが持って上がってきてくれた。

     左が僕、右が小久保君

 要するに、仲間の世話になるのが嫌なのだ。
 小久保と僕の20年余の一緒のダイビングで、こういう世話になることはなかった。
 しかし、80から先のコンパートメントでは、誰かの手を借りることを、スタンダードのエキジットにしなければならないだろう。
 終わってみれば、こんな形で、誰かに助けてもらえれば、リブリーザーも出来たかな、と思ったりする。

 なお、撮影は、バーの先に付けたGoProを先に受け取ってもらったものが岩場に立てかけられて、偶然のように撮れたものだった。

大瀬崎 その3

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 GWも終わり、GW も良い天気だったが、さわやかな季節になっている。
大瀬でのキヤノン一眼, 17m mでの撮影が、画角が狭く、ニコノス20mmの僕としては絵が作れない。
ワイコンをつけたシー&シーのG-1を使って見ようか、と持ち出して、浦安海豚倶楽部の練習で撮影してみた。悪くはないが、PC上で見たかぎりでは、画質がGoProとあまり変わらない。

 かといって、僕の現在の撮影では、これから50万以上の金をスチルカメラのためにつぎ込むことは、できない。トップを走っていた、45ー55のコンパートメントならばともかく、そろそろ最終コンパートメントの今はCPを重視しなければならない。もう一度ニコノス20mmに戻ろうか。フィルムも悪くない。個性的でクラシックだ。かなり魅力的な考えだ。そういえば、大瀬で隣のビニールシートで、女性ダイバーがニコノス20mmに105で潜っていた。

  その話題は、置いておき、5月4日、大瀬最後の潜水。
  たいていの場合、小久保は大瀬先端に行こうというはずだ。が、湾内にボロカサゴの稚魚を見に行くという。大瀬館のスタッフからでも情報を仕入れたのだろう。それとも、外海で苦労していた僕に気を使って湾内にしたのだろうか。たしかに外海では、手をかしてもらったが、先端のごろた石から潜れるというのが、僕の衿持だ。「先端にしよう」と言いかけたが、やめた。ここは小久保に任せたのだから、言うとおりにしよう。

 だいたい、僕はボロカサゴの稚魚だとか、イザリウオ(カエルアンコウ)の稚魚だとか、ダンゴウオ、ウミウシなどには現在のところあまり興味がない。もっと上手な、それ専門ともいうべきカメラマンがたくさんいる。もちろん、それに興味を持ち、熱中するレクリエーショナル・カメラマンは、とても良いと思うし、ガイドダイバーにとっては飯の種だ。なにもないゴミばかりの茨城の磯がウミウシ天国ということで、ダイバーを集めたりする。
 以前、小久保を人工魚礁調査に連れていったが、イザリウオを12個体見つけた、とかでイセエビの数は、数えてくれなかった。黒田に至っては、目の前にいるイセエビが目に入らない。もちろんアワビと岩の区別などつかない。悪いと言っているわけではない。関心、無関心の問題なのだ。
 ボロカサゴは、本当に小さいぼろ切れのようにして、人工魚礁の陰にいた。大瀬の人工魚礁とは、スクラップの捨て場のようだ。捨てた冷蔵庫に魚が住み着いていたりする写真を撮ると、売れた時代がある。スクラップやゴミの海洋投棄をお勧めしていたようなものだ。魚にとっては、人工魚礁もスクラップも区別はつかない。しかし、魚の居場所を作ろうと、どんどんゴミを捨てて良いものだろうか。



     こんな時のためにマイクロ魚眼を買って、持ってきていたのだが、持ち込んでいない。


 レクリエーショナル・ダイビング用の人工魚礁についてはアイデアがあり、9月のJAUSのフォーラムで発表して、活動を開始する計画を持っている。

 戻り道、投石の縁のモクのあたりで大型のマアジが10ー20泳ぎ回っている。豊かな海協会の雑誌の表紙にならないだろうかと一眼で何枚か撮った。きれいには撮れたのだが、画角が狭いので、1ー2尾しか入らない。せめて5尾は一枚に入れたい。同時に撮っているGoProは、絵にはなっているが、水が透明でないので、ちょっと使いにくい。もう少し粘って撮りたかったのだが、みんな行ってしまった。それでも、撮れば良かったのだが、一応、まとまって移動することをブリーフィングしている手前、それほど粘れなかった。初心者はいないのだし、黒田がサイドにいたのだから、空気がなくなるまで、ねばっても良かった。次のチャンスを考えよう。

      キャノン 一眼

      GoPro

 大瀬にいる魚は、人間、ダイバーを見慣れていて、ほとんど逃げようとしない。そのことも、人工魚礁研究の一つの目標、示唆になっている。
 
 これで、2日間の大瀬でのダイビングを終了

0509 高齢と死についてー1

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 高齢と死について

 このごろ自分の人生をいくつかの区切りで考えている。人それぞれだが、自分の場合、0ー5、5ー10、10ー15、15ー20、20ー25、ここまでは5歳きざみ、25ー35、35ー45、45ー55、55ー65、これは10歳きざみ、再び5歳きざみで65ー70、70ー75、75ー80 で12の区切りで、それぞれ別の人がその中にいるみたいだ。おなじDNA だけれど別の人だ。

       60歳、100mに潜水した。もう、18年昔になる。

 この前、それぞれをコンパートメントと呼んだが、セグメントでもステージでも良い。
 世の中では、75ーを後期高齢者と呼んでいるが、ファイナルステージだ。
 60歳で還暦、還暦記念に100m潜ろうとした。潜水医学のめんどうをみてくれた後藤輿四之先生と、大岩先生だった。後藤輿四之には、もういつ死んでもおかしくない年齢と言われた。とにかく103mまで潜って、その後で、残りの人生について、目標を立てた。あと20年、80歳まで現役のプロダイバーとして潜水を続けると。気の遠くなるような冒険に思えた。生涯最後の冒険だ。ただ、潜るだけなら楽勝かもしれないが、プロとして潜るのだ。プロとしてとは、一回潜るたびに、かならず収益をあげることだ。多くの場合、ダイビングフィーとして請求書を書いているが、さすがにこの頃では、直接の収益でなくても、例えば、本を書いたりして、そのための写真撮影でも良い、と若干妥協している。
 しかし、それから18年だ。あと2年だ。90%は成し遂げたことになる。65歳からの5年刻みのコンパートメント、いつ死んでもおかしくないという状況は、そこまでのセグメント、コンパートメントとは、全くちがう生き方、つまり、全く違う人に人をさせる。
 死ぬまでになにができるのか、なにをなすべきなのかを強く思うようになる。不幸にして、僕の場合それを自覚したのは75ー80のコンパートメントにおいてだった。それまでは、とにかくプロとして潜れれば良しとしていた。75歳からは、さらに何ができるのか、何をするべきかがプラスされた。あと5年しかなかったから、時間が足りない。それも、あと2年になってしまった。80歳から先、どのように死ぬかのファイナルステージも見通さなければならなくなった。
 しかしながら、いつ死ぬかは人間が知り得ることではないのだから、いずれにせよ、目標を目指して、歩み続ける途中で、死は突然にやってくるのだろう。
 
 フェイスブックもやっているが、読むと、それぞれのダイバー、カメラマンは、世界の海、日本の海を巡り、活躍している。人の常で、つい、自分と見比べてしまう。そのときに、その年代の、自分のコンパートメントでの状況を比べてみないと納得できない。僕だって、45ー55コンパートメントでは、と振り返ることで、納得する。今、8万円のライトがを買いたいけれど、我慢する状況だが、あのころは、50万のレンズを水没させ、平然としていた。
 コンパートメントの違いだ。その上で、自分の今の75ー80でなにができるか、なにをなすべきかを考え、80ー85コンパートメントを予測する。
 同時に、自分の死も予測し考える。

 ダイビングについて、5月、ゴールデンウイークでは、大瀬崎に行った。6月には座間味に海豚倶楽部のスキンダイビングツアー、7月は例年の豊潮丸航海、8月前半に佐渡ツアーがあり、7月、8月には、何とかして福島第一原発の前の磯ねの調査をしたい。9月には、JAUSのフォーラム、12月にはシンポジュウム、その間に、潜水士の参考書も仕上げなければ、いけない。
 友人の井筒さんが、僕がダイビングについて高齢のベンチマークだと言ってくれた。奥さんの厚子さんは、お母さんの話をしてくれた。お母さんも死期がせまっているが、最後まで現役で踊りを踊る覚悟で生きているという。励まされる。
 
 この前、マリンダイビングフェアで、「新しい潜水医学」の大岩先生に捕まった。僕の100m潜水の恩人だ。僕と共通しているところは、よく車をぶつけること、忘れられない思いでは、先生がまだ海上自衛隊の軍医監だったころ、横須賀のベースでハンバーガーをごちそうになって、おいしかったことだ。
 先生がマリンダイビングフェアでおっしゃることは、数々の健康診断の紹介だった。健康診断とは、高齢者としての僕が倒れ、死ぬ可能性の指摘だ。僕は、60歳を過ぎてからの健康診断は、死の予告、死の可能性についてのアドバイスにすぎないと思っている。しかし、健康診断を否定しているわけではない。
 僕の生死については、「死ぬまで好き勝手に生きさせてください。」とお願いして、順天堂大学の河合先生にすべて任せている。2ヶ月に一度の診断も受ける。薬も飲む。検査もうける。結果については、知らせてもらうけれど、だからダイビングのスケジュールを止めることもない。
 もしも、どこかで僕が死んだら、先生は「当然です。」と言ってくれると思う。
 念のために言っておくが、僕は、80歳までは、死なないで海で活動を続ける。80歳ー85歳のコンパートメントは、まだ見えないが、同じペースで続けたいと願っている。僕の周囲の人、JAUSのメンバーは、それを支援してくれている。その伝統がJAUSにできたとすれば、僕の後に続くメンバーにとって、JAUSのメンバーになれば、死ぬまで潜らせてくれるという輝かしい伝統になる。と自分勝手に思いこんでいる。もちろん、すべては自分の責任だ。60歳を過ぎたら、いつ死んでも不思議はない。当然だから、だれの責任でもない。

 最近、高齢者の潜水事故が増えているという。高齢者の死が増えていると言うことと同じだ。高齢者の死を防止するなんて、論理的に成立しない。ただ、死の可能性を知らせてあげることは必要かもしれない。しかし、このごろの世の中だ。死の可能性を知っていながら潜らせた、と糾弾されるかもしれない。

 1985年だったか、文部省が社会体育指導者という制度を作り、僕は社会スポーツセンターで、その制度をダイビング界に導入した。この社会体育指導者の目的は、それから数十年後に訪れるであろう高齢化社会で、高齢者がすべて寝たきり老人になったならば、保険制度も崩壊し、大変なことになる。だから、何とか高齢者に死ぬまでスポーツをやらせて、幸せに倒れてもらおう。つまり生涯スポーツのすすめだ。スポーツを生涯スポーツと競技スポーツと二つに分けて、振興させるべきは生涯スポーツだ。ということだったのだが、いつの間にか、いよいよ迫りくる高齢化を前にして、生涯スポーツは、影が薄くなった。現実になってしまうと、「死ぬまでスポーツをやれ」とは言いにくいのかもしれない。
 僕はそんなことで、生涯スポーツの教師になったが、教師としてやったことは、酒を断った。タバコは、34歳でやめていたから、酒もたばこも飲まなくなった。主治医の河合先生が、僕に死ぬまでアクティブに生かしてくれる理由は、酒を飲まずタバコも飲まないからだと思っている。僕が今、こうしてダイビングを続けていられる理由は、この社会体育指導者の教師になったおかげだと思っている。
 人それぞれだから、酒を飲み、タバコを吸って死ぬまで生きるのも悪くはない。僕も、75-80のコンパートメントに入ってから、人生すべてなんでもありだ。と思っている。ただ、人の前でタバコを吸うインストラクターだけは、職業倫理に欠けていると思う。また、酒を飲んで絡むような人、自分を失うような人は、人の前で、そこまでお酒を飲んではいけない。

0513 事故などについての雑感

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事故についての雑感 
このところ、高齢、事故などについてかいたものを並べた。



☆事故レポートについて
しばらく前に、ヨットの落水事故で、セフティラインをつけていなかったのか?と書いたら、内田光則さんが調べてくださった。
「アリランレースに向う対馬沖で亡くなった方は、セーフティラインを付けていたそうです。
スターンレーンがあり得ない程曲ってました。引きずられて亡くなったらしいです。外洋艇では30Knt以上だとセーフティラインを付けていても、亡くなる確立は高いそうです。
アメリカンズカップなどでは、逆にラインは着けない方が安全だと言われています。」
 ヨットは、完全な自己責任だと聞いているけれど、上記のように外側から見たり聞いたりしている範囲では本当のことはわからない。危険なスポーツそれぞれの、管理責任のあり方を比べて見ると、ダイビングという活動の在り方が見えてくるのではないかと思う。
 そしたら、ヨットについては、国際的な渡真利さんが書いてくれた。彼は宮古島の大ダイビングリゾート「24ノース」のオーナーであり、宮古島に行っての僕のダイビングベースだ。最近、行っていない。

渡真利 将博 須賀さん。正確にはセーフティーラインではなくセイフティー・テーザー(safety tether)といいますが、通常は自分の胸元側にワンタッチでリリースできる(構造)仕様になっております。どんな状況でベテランがなぜこのような形になったか、もうしばらくすると詳しいレポートが出て来るものと思います。

須賀 次郎 渡真利さん ありがとうございます。詳しいレポートが出来る、ということ、ダイビングよりもはるかに進んでいる気がします。ダイビング事故で詳しいレポートなど発表されたのは、東大の事故だけです。

振り返ってみれば、1970年代の末から1980年代にかけて、日本のダイビングでの事故報告、レポート制度の確立に努力を傾けたが、僕の力の及ぶところではなかった。最新ダイビング用語事典に載せた表の一部に生かされただけ、しかし、あきらめてはいない。
形を変えてでもなんとかしたい。JAUSのフォーラム、シンポジウムで提案する。

 事故の統計だけでなく、もちろん統計も大事だが、事故の具体的なレポートが、だれでも見られる形で存在していることが、一番大事なこと、そして、そのレポートについて、ディスカッションすることが大事。何とか、JAUSでそれができれば、と願うのだが。

☆ 自己責任について、
 終始一貫してダイビング活動での自己責任をとなえているが、実は、レクリエーショナルダイビングでの賠償責任保険って、一番安くてお徳用な保険なのだと思う。何が起ころうが、例えば死のうが生きようが、この保険さえかけておけば、訴えられなければ何の問題もない。訴えられれば保険がカバーしてくれる。社会的な責任とか、倫理上の問題とかは一切関係ない。だから、安易に流れないために、視点のちがいで様々なスタイルになるが、安全に関連するすべての研修は有意義であり、常に続けてゆかなければならないものだと思っている。

高齢者のダイビングについて考えると、どうやっても、僕が78歳でダイビングを続けることについて、ネガティブなことになってしまう。「死んだり、生きたりするのは、自分の自由なのだから、好きにさせてくれ!」というのが本当の自己責任で、これが、目指すところなのだが、うまくまとまらない。
もしも、60歳を過ぎ、70歳を過ぎてダイビングを続けたいならば、信頼でき、死ぬことも認めてくれる主治医を見つけること。そして、レクリエーショナルダイバーならば、賠償責任とか、管理責任の絆ではなく、人間として信頼できるガイドダイバーなり、インストラクターを見つけることだ。そのインストラクター、ガイドダイバーの年齢は関係ない。

☆降圧剤について、山本徹さんのフェイスブックから・

渡真利 将博
私は中高年が服用している薬について、高圧下での臨床結果に興味がある。多分そんな臨床実験はしてないだろうけど。現場側から見て、少なくとも薬の種類によって高圧化の影響があるような気がする。

須賀 次郎 僕は、降圧剤を飲むことに最後まで抵抗して、食事、運動にこだわりましたが、90-140より下に下がらず、70歳の時に、動脈硬化の方が問題になり、主治医の河合先生から、今後は降圧剤を飲まなければ潜水してはいけない。もっと早く、65歳ぐらいで、そうしておけばよかったと言い渡され、その後は薬漬け?毎日降圧剤を飲み、60-130を維持し、ダイビングを続けています。多分、僕の結果について、先生は論文を書くはずで、メッツの測定、は、これまでに4回、潜水中の血圧測定、検査をくりかえしています。降圧剤の高圧についての効果は、80歳の80mで明らかにしたいと思っています。

☆メッツの測定について
メッツとは、静かに寝ている、やすんでいる時の状態を基準として、運動がその何倍の強度になっているかの指標です。60歳で100m潜水をしたころの基準では、14メッツをかけて異常がないことが、スポーツダイバーとしての必要条件とされていました。今、ダイビングは8メッツぐらいの運動とされていますが、通常で8メッツならば、緊急事態では12メッツくらいかかる。余裕を見て14メッツとしたのでしょうか。とにかく14メッツをクリアーしなければなりません。
 メッツの測定は、大学の病院でスポーツ医学、健康医学を扱っているところならば、たいていその設備があります。
 ドレッドミル、(ランニングマシーン)に乗って走ります。体には血圧計、心電図計を着け、医師が監視します。トレッドミルは傾斜で負荷の増減ができるようになっていて、負荷を上げていきます。つまり、メッツとは運動負荷のことなのです。
 60歳の時、負荷が増してもあまり苦しくありません。「大丈夫ですか?」「大丈夫です」と答えますが、大丈夫ではなかったらしく、測定を終了して、ベッドによこになります。体を休めたあとから、苦しさが追ってきたようです。しばらく苦しく、その間、心電図が監視されますが、不整脈がだいぶでていたようで、あとで河合先生から話を聞いたところでは、16メッツがかけられたようで、測定した医師にクレームを入れたそうです。測定した医師は、100m潜水について、素潜り、フリーダイビングと誤解していたようで、其れならば、そのくらいかけなければと思ったらしいのです。その時わかったこと、自覚したことは、苦しくなくても限界に達していることがあり、そこで心室細動などがおこれば、すなわち心臓麻痺、この測定をしておかないで、苦しくて耐えられないまでしごいたりすると、死んでしまうかもしれないということです。
 70歳の時、再びメッツの測定をしましたが、今度は12メッツでやめ、さらに何年か後にもう一度やりましたが、10メッツでやめました。それ以後は、やっていません。
 中高年ダイバーは、この測定をしておく必要があるとおもいます。若くても、ダイバーは、この測定が必要でしょう。

0516 ガイドダイバー

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 一か月ほど前だろうか、SORA という小冊子がガイドの特集をしている。潮美の法政の先輩で、僕も親交がある横田君が、益田さんのことを書いている。ちょうど 月刊ダイバーで益田さんのことを書いていたので、手に入れた。横田君の記事もすばらしくて、益田さんがガイドについて、持っていた考え、トレーニングの方法などがしっかり伝わってくる。複数の人をガイドする時には、必ずアシストをつけるとか、エキジットするときに転んだ奴は、特訓が待っているとか、なるほどと思うことがある。なお、横田君はいまでも室内選手権大会で300mのスクーバ潜泳に毎年出場していて、やはり、IOPを根城にしている柳田君と競っている。柳田君の方が分がよくて、たいていの場合2位だ。彼が勝ったこともあってような記憶がある。しかし、若い人で、彼らを抜く選手は現れていない。横田君は、撮影も益田さんの弟子で、益田流の撮影を良くし、IOPニュース(今はない)に記事をかいていた。

 とにかく、ガイドに焦点をあてているというのは、いい着眼点で、偉い。毎年1冊ぐらいづつ出して行けるだろう。
 そして、ガイドダイバーだが、僕のテレビ番組撮影の仕事のほとんどが、ガイドとともにあり、ガイドダイバーだよりだった。僕をガイドしてくれた人たちは、今、SORAの企画では師匠になっている。それら、僕のガイドをやってくれたダイバーたち一人一人について、ブログが2ー3回かけるほどの思い出がある。ガイドダイバーとは、そういう仕事なのだ。僕のようなダイバーとのつきあいもあるが、初心者、レクリエーショナル・ダイバーの一人一人について、良い思い出を作って行く、作れる人が良いガイドだ。
 ガイドダイバーは、僕と同等、もしくはそれ以上のダイバーとして、僕よりも年下、全部年下だが、尊敬している。尊敬できるようなガイドダイバーと一緒に撮影すれば、たいていの場合、撮影は成功する。
 僕といっしょに潜ってくれたガイドは、みんな豊かな知性が感じられる。ダイビングはメンタルなスポーツだという。ガイドに必要な資質はインテリジェンスだ。それは、講習とかマニュアルで覚えられるものではない。一緒に仕事をした、アシスタントとして一緒に潜った師匠から受け継いだものなのだろう。だから、この小冊子の師匠と弟子のような構成が良かったのだと思う。
 つきあったガイドの一人一人について、ブログが2回分くらい書けるが、一つの話として、羅臼の関勝則君のことを話そう。その前に、ガイドは、お客と一緒に潜水する時には、自分がカメラを持って撮影したらいけないと思っている。僕といっしょ潜ったガイドは、僕の前でカメラを持ったことがないから、多分ほとんどのガイドは、カメラを持たないでガイドするのだろうと思う。しかし、マリンダイビングフェアなどを見ると、ガイドの集団はカメラマン集団のように見える。どうなんだろうとおもう。僕のガイド、西表の矢野君も、羅臼の関君も僕よりも優れたかマラマンで、写真集をそれぞれ何冊か出している。しかし、僕の前で、カメラを持って潜ったことは無い。
 彼と最初に一緒に潜ったのはニュースステーションの初期で、まだ、木澤さんというこれも流氷のガイドで名高い人の助手だった。僕は彼に、強く写真を撮るようにすすめ、ストロボではなくて、バッテリーライトを人工光源の中心にするようにすすめたりしていた。今でこそ、ライトが中心になりかけているが当時はまだ光が弱くて、メインのライトにはならなかった。僕は有線ライトを使ってでもスチルを撮っていた。
 関君と最後に一緒に潜ったのは、多分、僕が65歳のときだから、もうあれから12年か。羅臼にエゾメバルの群れを撮りに行った。エゾメバルはガヤガヤと群れているので、地方名はガヤともいう。
 確か、6月だったか、北海道の気持ちの良い季節だった。一応ドライスーツを持って行ったが、水温は3度とかで、ギャッと言った。15度くらいと思っていたのだ。とにかく、羅臼で船を出してもらって潜った。ガヤはすぐに現れて、たちまち目的のカットは撮れた。他にも、ホタテのジャンプ、カレイ、幾つかとって、自分としては目的を達成した。
 と、昆布の上で昼寝をしているミズダコを見つけた。この時の撮影はカレンダーのスチル撮影が目的だったが、僕は船の上に用意してあったビデオカメラをとりに行き、関さんには逃げないようにみていてもらった。
 そして僕はミズダコにカメラを向けると、少し撮影するつついて泳がせてしまった。僕の撮りたかったのは水ダコが腕をいっぱいに広げて飛行する動画だった。そのカットはまた別の時に関さんにガイドしてもらって、氷の下で撮影できたのだが、その時はうまく飛んでくれなかった。

 上がったあとで、関さんは残念そうに言った。「あのミズダコは、自分が昆布になったつもりになっていたから、しばらくは動かない。上にガヤが来るのを待って、絡ませれば良い写真になったとおもいます。」そのとおりだった。もしもそういう写真が撮れていれば、出色の出来になったはず。示したガヤのしたに大きなミズダコがいたとすればどうだろうか。もしその時関さんがカメラを持っていたとしても、僕よりも良いカットを撮ってしまってはいけないのだ。
 
 関さんほどのカメラマンでなくても、ガイドダイバーがカメラを持たないというのはつらいことだろう。僕自身も、まだ新米のダイバーと潜る時には、ユニットから目をはなせない。そんなときのことを考えてGoProのマスクマウントを考えた。ハンズフリーであれば、ガイドダイバーがカメラを使っても良い。かえって、ガイドした全部の状況が記録されるから、動画で撮影しておくことは事故防止にもなる。その上である程度の画質であれば、それをスチルとして使うこともできる。お客様サービスにもなるだろう。ガイドダイバーは、全員マスクマウントのカメラを着けるべきだ。

0520

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 月日が飛んでゆく、昨日ブログを書いたと思ったら、もう4日も経過している。せめて2日間隔でと思っているのだけれど,結構大変だ。
 その4日間の間に、22日に行うJAUSマンスリーセミナーでの講演のPPを作っていた。

   GoProで動画を撮り、静止画として切り出し、トリミングしてフェイスブックのカバーにした映像。
   このようにすると写真と呼びたくなる。感覚的には、静止画が写真、動画が映像なのだが、


JAUSマンスリーセミナー 2013 0522 
ウエアラブルカメラによる映像
 まず、前置きの話だが
 映像とは何なのだろう。写真とはどう違うんだろう。カタカナ語と混ぜるとさらに混乱するから、映像と写真に絞って。自分なりの定義をした。ウィキによれば、映像とは、「映画、ビデオ映画、テレビ番組などの業界や、その作品(コンテンツ)自体などを全般的に映像と呼ぶ」そうだが、それではアマチュアは映像にかかわれない。映画、テレビ番組という定義でいうと ユーチューブはどうなる。

 まず、文字と対応するものとしての画像、画像とは、カメラで撮影する画像、カメラ以外の手段で作る画像とに分ける。
カメラで撮影する画像は、映像と写真に分ける。ただし、写真というとクラシックな呼び名であるが、カメラで撮影するすべての画像を示す場合もある。これでは混乱するので、
ここでは、写真とはプリントされたもの、映像とは透過光で示されるものとしてしまう。映像には動画と静止画がある。映像は、映画、テレビ、PCでの投影などで、透過光で画面を見るものである。かつては、映像は映画、テレビとプロが作るものが主流を占めたが、現在では、デジタル化とPC画面で見ることが多くなったために、だれでも作れて使えるものになっている。

講演では、透過光(映写・液晶画面)=映像 をすべて映像とした。そして、プリント(印刷物)=写真 とした。
映像には動画と静止画がある。映像はプリントして写真になるので、ここでは、カメラによって作られる画像を包括して映像と呼ぶ。つまり、カメラを通して得られる画像はすべて映像だ。プリントすれば、あるいは印刷すれば写真になる。
ただ、PCの上で透過光で見ても、静止していれば写真と呼びたくなる。すると、静止していれば写真、動いていれば映像か?まだ混乱しているが、ここでは、映像=透視光で見る、動画と静止画がある。としたい。

わかりやすい定義だとおもうのだが、僕は学者ではないから、もしかしたら、すでに同じ定義をどこかでされているかもしれない。

映像を創る目的( なぜ、)映像を使う目的 (何のために)、がまず最初の問いかけとしてある。
仕事としての撮影 調査 記録
記念、自己満足、自己宣伝

このような論は、100人カメラマンがいれば、100の映像論がある。なくてはいけない。それが出発点。自分で映像とは何か写真とは何か、何のために、何をする道具として映像を作り、駆使するのか来てかからないと、飛び立てない。
僕の場合は、40-60は、テレビの撮影、主にニュースステーション、その後は、大型展示映像の撮影をしていた。その間に、電通で、環境映像の撮影、調査のための撮影は、20代から.仕事としていたが、60歳からは、調査の撮影が主になった。
そして、調査とは、映像を獲得することに他ならない。数を数えても映像が無ければ客観性がない。もちろんプリントして写真帳にして報告する。
調査とは
①映像を撮影し分析すること
②標本(実物)を手に入れること。同時に映像記録を行う。
 この前提で、ウエアラブルカメラだけで撮影した短い動画クリップを並べて講演をする。
 
 現代の、そしてこれからの映像は、動画も静止画も一つのカメラで撮影できる。映画、テレビの撮影は、やや高級なカメラが使用されるが、ここで使うGoProもテレビ番組で多用されている。その動画からの切り出した静止画は、まだ、印刷原稿として使うことが出来ない場面もあるが、報告書程度ならば十分であり、進化の方向としては、やがて、すぐにでも、グラフィックな印刷原稿としても使えるようになるだろう。

 フィルム時代、スチルのカメラマンは、自分の精魂を傾けて一瞬を切り取ってきた。機材の進歩で、モータードライブで、瞬時に36枚を撮影することもできるようになったが、それでも後の処理を考えると100枚単位で考えた。
 デジタル時代になり、1000枚単位で考えるようになった。
さらに、動画と静止画が、撮影の際の区別されなくなると、カメラマンはすべてを動画に撮り、あとでPCの上で切り取ることができる。なんとなく、卑怯に感じてしまうが、そうではなくて、撮影の形が変わったというべきだろう。別の形での技術が必要になる。

 ましてや、ウエアラブルカメラは超小型であり、マスクの上に取り付けられてしまう。
 

 少し混乱しているのは、時間が無いため、PPから、転写したので多謝。自分的にも世の中的にもくっきりと解決のついていない問題でもある。

0521 セミナー原稿

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 昨日、急ぎ働きで、セミナーの趣意をつくったが、ブログに載せたおかげで、見直し、修正ができた。
 これが、ほぼ完成原稿である。なお、映像については残念ながら、ここでおみせすることができない。

ウエアラブルカメラによる映像 JAUSマンスリーセミナー 2013 0522 

 映像と写真
 ウィキによれば、映像とは映画及びテレビと定義されているが、カメラで撮影されたPC画面上の絵は、やはり映像である。ここでは、カメラで撮影された画像を映像と呼び、映像をプリントしたもの、印刷物にしたものを写真と呼ぶことにした。写真も、映像からプリントされるので、映像の中に包括し、映像は動画と静止画に分ける。静止画はプリントされて写真になる。動画のことを活動写真とは今はいわない。100人カメラマンがいれば、100の映像論がある。なくてはいけない。だから、ここに述べることは、その一つ、須賀の映像論である。通説ではない。

 カメラは映像を撮る道具である。道具の進化は高性能化とともに小型化、高性能化とともにシンプル化を目指す。実態は高性能化=重量化、複雑化が多いが、ウエアラブルカメラは小型化として成功した例である。

       バーの先端にカメラを着けている。

 
映像を創る目的(なぜ)映像を使う目的(何のために)まず、仕事としてプロとしては、映像を売る、撮影技術を売る、調査する、記録するなどが考えられる。今では、調査、記録といえば映像を残すことと言っても過言ではない。映像のない調査、記録は客観性のあるものとしては認められない。これは、昔も今も同じで、ロストワールドで撮ってきた写真をなくしてしまったために、認められなかった小説(失われた世界)がある。
 レクリエーショナルダイビングとしては、記念、自己満足、自己宣伝などが目的として考えられるが、それも売れる可能性はあるので、プロとレクリエーションの間は紙一重である。
 道具とは結果の出せる道具のことを言い、結果の出せない道具をお道具という。ここでは、GoProを中心としてウエアラブルカメラを道具として使いこなせるように、工夫してきた その例を挙げてゆくGoProを使い始めた目的としては、調査の道具としてであり、また、最近の仕事が調査であるので、ここで紹介する多くは調査の例である。しかし、レクリエーショナルダイバーであっても調査の手法を知ることは大きな意味があるし、実際のダイビングはほとんど変わらない。また、応用可能である。違う世界について興味を持ってもらえるかもしれない。

ここで上げた例の多くは、GoProで動画を撮ったもので、スチルはその動画から静止画を切り出したものである。
フィルム時代、スチルのカメラマンは、自分の精魂を傾けて一瞬を切り取ってきた。機材の進歩で、モータードライブで、瞬時に36枚を撮影することもできるようになったが、それでも後の処理を考えると100枚単位で考えた。デジタル時代になり、1000枚単位で考えるようになった。さらに、動画と静止画が、撮影の際の区別されなくなると、カメラマンはすべてを動画に撮り、あとでPCの上で切り取ることができる。なんとなく、卑怯に感じてしまうが、そうではなくて、撮影の形が変わったというべきだろう。別の形での技術が必要になる。遠からずしてプロのスチルカメラマンもスチルを動画で撮ることがおおくなるだろう。機材はもうそうなってしまっている。つまり、動画のないスチルは売れない。カメラマンとしては、スチルを売り、動画を売ることができる。映画 テレビのカメラマンもスチルを生産していることになるから、版権の問題もでてくるだろう。
 これも、須賀個人の考えであり、近未来予測である。

0524 ガイドダイバーについてー2

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  http://oceana.ne.jp/feature/201305_divingguide  によれば、

「“ダイビングガイド”という職業のリスクが近年どんどん増しているように感じます。
問題意識のあるダイビングガイドさんたちは徐々に気が付いて行動に移しつつありますが、ほとんどの方々がそのことに無自覚であることが何より問題だと感じています。
つい先月、2013年4月のこと。とあるニュースを目にして、大げさに言えば、「ガイド付きのダイビングそのものの意味が変わるほど、新たな局面を迎えたのではないか」と思いました。
近年、懸念し続けていたことが決定的になったという印象です。
消費者庁が消費者安全調査委員会 事故調査部会を立ち上げ、その専門委員に中田誠さんが就任したのです。
 中略
 ダイビング訴訟を多く抱える弁護士の先生が最も困っているのが、ガイドという職責に対するガイドラインがないことです。」

 陸上世界の世の中とか裁判にはこの意見は通用しないでしょうが、海の世界では、ガイドは、海況判断のミス、ボートの操船だけに責任があると思っています。

 いつも言うのですが、この世のことは二律背反します。安全の維持にはお金がかかります。かかるお金を請求するのがプロですが、限度があります。
 二律背反の調整は、行政、あるいは公的機関と称されるものが行うのですが、ある特定の団体、そしてこの業界をこの10年以上攻撃し続けている人が、その公的機関にかかわり大きな影響を持つということです。偏見のない公正な意見が言えるのでしょうか。業界攻撃に精を出すのだとおもいます。講習中の事故については、賠償責任保険で解決されています。そこで、ガイドダイバーに矛先が向いてきたのかと思います。個人的には言いたいことがたくさんありますが、この世界入り組みあっています。だから、不愉快です。
 主張し続けていることは、講習中の事故は除いて、海の世界の事故、しかも個人的な事故を、交通事故、あるいは公共の事故と一緒にするなです。
 講習の不備を補う意味でインストラクターの囲い込み(ステップアップともいう)や、あるいはクラブ活動は正しいことで、そのおかげで、事故が減り、ダイビングの経験を積むことができています。その中の活動ではユニットとフォーメーションでの水中活動をすすめています。ユニットとガイドとの付き合い、あるいはユニットを離れて、ガイドとの個人的な付き合いでは、病気、へたくそ、思い上がり、つまり個人的な状況についてガイドは、アドバイスはするでしょうが、救急処置以外の責任はもてません。
 チームのリーダー、あるいはチームを離れた個人とガイドとの信頼関係であり、海の世界では、そこに裁判、訴訟な入り込むべきではないと考えています。陸上の世界では通用しないかもしれませんが、ダイビングをヨットなみにすることが、ダイバーの矜持だと思うのです。
 もしも、僕がガイドであり、海況判断、ボートの操船以外の問題で死亡事故を起こしたとすれば、遺族の心のケアについて、できるだけの誠意を持ってあたり、常識的な保険の範囲での支払いを済ませた上で、訴えられたとすれば、訴えられたことについての反訴を興して、一生を懸けて、最高裁まで争います。
 僕の高校時代の友人が、学習院大学のヨット、のスキパーで、新入生が落水し、荒天の中を捜索して座礁沈没して、命を落としました。葬儀に出席し、お父さんが彼が死んでくれて良かったとスピーチしたことを忘れません。落水を捜索するか、戻るか、他のクルーの安全もあり、難しい判断だったと思います。ガイドも状況によっては、命を懸けなくてはいけない局面もあるとおもいます。
 これは、ガイドではなかったのですが、命を懸けなかったために、ガイドだったら、命を張っただろうとインストラクター仲間に糾弾された事故もありました。賠償責任保険は降りましたが、命は戻りません。賠償責任保険があったから、命は懸けなかった。ともいわれました。彼が命を懸けていれば、助けられたかどうかは別として、賠償訴訟は起きなかったとおもいます。
 体験ダイビングとか、C-カード講習は別として、ガイドダイバーの世界、海の世界のことを消費者庁で扱ってもらいたくないというのが、この業界の、そんな意味で業界という言葉も好きではないのですが、海で生きるダイバーの矜持だと僕は思います。

0527 早稲田水中クラブ

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25日26日、JAMSTECの訓練プールでの講習は、プライマリーコースと早稲田水中クラブ二つの講習を併行させ行った。
 早稲田水中クラブとの縁は、7ー8年になるだろうか。

 僕の主治医である河合先生の息子さんに潜水を教えたのが、彼が小学校6年の時だった。土肥の101へ連れていった。中学生の時には、お父さんの河合先生とともにケラマツアーに行った。大学は早稲田の法科に入り、水中クラブに入ったと聞き、またお父さんともども一緒に潜りに行かれますね。と言ったら、このクラブはクラブでの潜水以外は、たとえ親子であっても禁止だそうで、なかなか厳しいクラブなのだ。
 彼が3年の時にまた縁が生まれた。クラブは蓮根のプールを借りて練習していたのだが、二年生と一年生が組になってマンツーマンで指導をしているのだが、一年生がスキンダイビングでマスククリアーをするのに付き添っていた二年生がブラックアウトしたのだ。幸い大事には至らなかったのだが、資格のある責任者がついていなければ、早稲田のクラブはお断りといわれてしまった。そこで、辰巳の国際水泳場を借りることになったのだが、当時の辰巳は厳しくて、ダイビングの指導ができる有資格者がつきそっていなければ、使わせてくれなかった。そこで、その頃、辰巳国際のの主催する講習などをやらせてもらっていた僕がつきあうことになった。
 このクラブの基本的な方針が、自分たちだけでやる、ということで、ちょっとした
注意をするだけにとどまった。やがて、河合正男君は卒業し、彼は卒業後にクラブにかかわらなかったので、クラブとは、指導する縁は切れたが、使用するタンクの供給を頼まれた。30本からのタンクを運び、撤収するのは自分ではできないので、空気屋さんに依頼したが、自分が付き添うことはなかった。
 JAUSが発足し、JAMSTEC(海洋研究開発機構)のプールでプライマリーコースをやるようになり、ここでやれば、空気の供給もできるし、辰巳では一日に2時間しか使えないのに、5時間使える。上級生にはプライマリーコースを受けてもらって、指導してもらえば、技術的に向上する。これが、一昨年2011年だった。2012年、も同様にして、今年2013年は、一年生のcカード講習も一緒にやったらよいのではと話し合った。もう少し関わった方が良いのではないかと判断したためだ。

 このクラブは、一年生の指導は、2年生、3年生の二人が一年の新入生一人に付き添って実技講習が進んで行く。二年生は一年生の指導をすることでダイバーとして成長して行くのだから、良いシステムだとは、思っている。その様子をサイドから見守り、一年にも二年にも適切な注意と指導をして行き、規定通りの実技ができ、ペーパーテストができれば、cカードを出すことができる。練習時間数は、十分すぎるほどである。プライマリーの指導員でもある米沢インストラクターにお願いした。彼は全日本潜水連盟のコースディレクターでもある。
 僕は、自分のトレーニングと、カメラのテストを行っていたが、カメラテストの撮影対象として観察したが、一年生を教える二年生を見ていた。一年生が下手なのは当たり前で、二年生の実力を見ることはしていなかった。
 二日目にちょっとしたお話をしたが、とにかく一番大事なことは、決して一人にはしないこと、死ぬのならばバディで死ぬようにと、相変わらず過激なことを言ったりしたが、とにかく、学生のダイビングではそのくらいバディが大事だ。幸いにして、このクラブはとてもよいチームワークを持っている。それをなによりも大事にすること、この講習だけで、もはや見ることもない彼らを海に送り出すのだから、チームワークだけが頼りだ。技能そのものは、安全にはあまり関係ないと実はおもっている。しかし、テクニックの訓練はいくら厳しくやっても、そのことで事故を起こすことはない。そのようにプログラムが作られている。そして、たくさん練習すればするほど、危険は少なくなる。海に行っての合宿でも、その練習を主体に行動すれば、危険が少なくなるし、面白い。格好も良くなる。
 一年生はこの後、たぶんNAUIのレスキューコースを受ける予定らしい。それはとてもよいことだが、本気のレスキュートレーニングをやると、それで事故を起こしてしまう。一年生の女の子を見ると、自分がレスキューをする立場には、フィジカルで無理のように見える。無理をしないように、と注意した。
 早稲田のプログラムには、一年生の講習に緊急浮上と水中脱着という項目があったが、緊急浮上練習は危ない。水中脱着も今回の練習で仕上げるのは、時間的にとても無理だし、最近では、プール底に腰を下ろしてする脱着は、あまりやらない。
 水面脱着を完全にできるようにとプログラムを変更した。水面脱着は、小さなボートを使うときも、レスキューの際も重要だ。
 水中脱着も、水面脱着も、目的はBC.のチューニング(体に合わせる、使いこなす)練習だ。見本を示したが、寄る年波である。あまりかっこよくできなかった。理由を言うと長くなる。では、やってみてくださいとやらせると、一瞬で着けた奴がいる。3年生の小林君だ。小林君という名前は、最初の日に、上級生の名前を確認したときに覚えた。岸さんも覚えた。他に何人か覚えたが忘れてしまった。
 何でも一緒にやってみないといけないものだ。少し認識を変えた。認識を変えて
小林君などをみると上手だ。そのままプライマリーに楽勝で合格する。
 もう一人の上級生、羽生君が学部転入試験で不在になってしまったので、小林君が責任者で、彼に相談した。彼の意見ではプライマリーは、三年である自分が受けるよりも、来年指導する二年生が受けた方がよいという。道理である。
 しかし、学生の指導をしていて、いつもおもうことは、つき合える時間が短すぎることだ。東大の探検部は博士コーで大学に残る子も多いので、長いつきあいができる。大学一年で付き合い始めた小久保君は教授になって、つきあいが続いている。
 早稲田のクラブと別れるのは残念だなあ。そんな風に思って、もどって、フェイスブックを見たら、小林君は早稲田の中尾教授の紹介で、友達になっていた。「ごめん、忘れていた。」とメッセージした。忘れていないで覚えていればよかった。

  昼休み爆睡中、女の子はペットボトルを頭に載せられてもわからない。

0530

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 「放射性廃棄物の憂鬱:楠戸伊緒里:祥伝社新書」この手の本は、読むのに時間がかかる。場合によっては終わりまで読み続けられないこともある。それなのに、一気に読んでしまった。放射性廃棄物、日本人、人類が直面している問題であり、自分も直面している。
放射性廃棄物、福島第一は、廃棄物にできるまでのまだまだ長い危険な道のりをたどらなければならないのが現実、僕の生きている時間のほぼ10倍の時間をかけなければ見通しがつかないのではないか。単純に、地中深く埋めるしか方法はないようだ。としか思わなかった。この本で、それほど単純なことではないことがよく分かった。僕はもちろん放射性物質については、素人だから、その関係の本をかなり読み漁った。それで、懸けていた部分がこの本でかなりよく分かった。
放射性廃棄物は1975年までは国際的に海洋投棄が行われており、1993年に、全面的に禁止になった。今、地層処分(500m以上深さの地下岩盤へのガラス状にしての埋設)が、目指されているが、その地層処分を受け入れてくれそうなところは、日本には皆無、アメリカでももめ続けている。ソ連は、受け入れをビジネスにするかもしれない。中国は? UAEの原発を韓国が落札受注した。
ここからは僕の感想、放射性廃棄物が、世界にあふれたら、戦争などできなくなる。現在のところ、処理は廃棄物を出した国が処理を義務付けられているが、やがて、国際協調で考えなくてはいけなくなるのだろう。それもできなければ、海洋投棄が再度検討されるのではないだろうか。

日本はとても良い国で、大事なものを落として、落としたことも知らなかったら、警察から電話がかかってきて、あわてて取りに行く。昼休みだから、どうだろうと思ったら、昼休み関係ない。拾い主は、本人に戻ればそれでよいと、お礼も請求していない。ありがとうございました。世界で、こんな国って日本しかない。フェイスブックにこのことを書いたら、みんないいねといってくれた。日本に来た外国人が一番驚くのはこのことだとか、自分も何度たすかったかわからないとか。この国をなくしてはならないと思う。

3月11日のすぐあと、街を歩いていたら、日の丸が掲げられていた。それを見て涙が止まらなくなった。日本の国のためになにかがしたい。もしも、僕が50代、潮美が20代で、ニュースステーションをやっているころだったら、すぐに東北に走り、津波の海、瓦礫の海に潜り、世界にレポートしつつ、遺体の捜索をやったと思う。そして、そのままボランティアで潜り続けただろう。もちろん撮影もする。しかし、僕は78だ。瓦礫の海では足でまといになるだけだ。放射能調査ならできる。追い続けているが、福島県、久ノ浜に潜っただけで、其れも、結果がでていない。
このリサーチをするには、原子力発電に反対であっても賛成であってもいけないと思っている。どちらでもないが、できるだけ数値が低いことを願ってはいる。

0601 スキンダイビングツアー

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  明日二日から五日まで、慶良間にスキンダイビングツアーに、浦安海豚倶楽部のメンバーとでかけます。
 なので、ブログも、フェイスブックも6日までは、更新できないかもしれません。PCは持って行きますので、努力はしますが、、、、
 
 純粋なスキンダイビングツアーです、スノーケリングでもないし、フリーダイビングでもありません。スクーバで潜れるメンバーが半分を占めるのですが、スクーバはやらない。触れもしないということに決めています。

 さて、スキンダイビングを楽しむ人は、重い、高価な、潜りに行く費用も高価な、スクーバダイビングなどやりたくない。シンプルで安価にできるスキンダイビングで満足する
というスキンダイバーが多いと思っていたら、そうではなくて、やはりスクーバダイバーを目指しているのだという論が昨日のJAUSの理事会で、議題が終了した後の雑談で吉田理事からの話で、議論が展開しました。

 JAUSの研究発表会、研究集会を年に2回やることに決めているのですが、その第一弾が、9月8日にやる予定の比較的小規模で100人程度を集める会を、フォーラム、次の200人をめざす、年をあけてからの会をシンポジウムと呼ぼうとしています。フォーラムとシンポジウムの区別はよくわかりませんが、WIKでは、フォーラムとは、「ディスカッションの略 テーマや趣味など、共通の話題について情報を交換し合う会合」、シンポジウムとは、「一般的には、あるテーマを決めて広く聴衆を集め、公開討論などの形式で開催されることが多い。」類似のイベントとして、フォーラム、パネルディスカッションなどがある。ということで、どうでも良い。
 シンポジウムの方はこれまで2回やってきて3回目だから、シンポジウムとして、9月のイベントは初めてなので、別の名前にしたい。なんとなくフォーラムがよさそう。
 そのフォーラムの第一回はスキンダイビングフォーラムにしようということになった。

H25 9月フォーラムで予定されている発表テーマ
 80--100人を集めて、スキンダイビングフォーラムのような研究発表会としたい。
 1.水圏環境リテラシー学習
   海洋大学が一年次海洋実習として行っているカヤック&スキンダイビングについて発表
 2.スキンダイビングの安全について
   ブレスホールドの生理と危険について
   耳のトラブルについて
 3.ウエアラブルカメラサークルの発表
   サークルのメンバーが撮影した作品2-3分を発表する20作品程度。
   今年度より、会員によるダイビング活動サークルを発足させる。
   その第一号として、前年度のシンポジウムでも発表した超小型のCPの高いウエアラブルカメラのサークルを発足させる。映像制作は、レクリエーショナルダイビングにとってもサイエンスダイビングにとっても主要な活動であり、これを恒例として、続けて行くようにする。明るいスキンダイビング、スノーケリング、ドルフィンスイミングなどのテーマを中心にしたい。
 4.スキンダイビングとスノーケリングについてのディスカッション、

  フォーラムだから「ディスカッションの略 テーマや趣味など、共通の話題について情報を交換し合う会合」全体として、ディスカッション的にやりたい。
  問題は、僕の耳だが、マイクとレシーバーで何とかなるだろう。

 明日からのスキンダイビングツアーもこのフォーラムでの、3.ウエアラブルカメラサークルの発表にもつなげて、撮影してこよう。

0602 ダイビングの危険

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旅にでるときは、読むのに抵抗のある本を持って行く。中田誠 「ダイビングの事故と法的責任と問題」2001年の出版で、読むのは二回目になる。アンダーライン、マークの挟み込みが多く、この前もしっかり呼んでいる。いま、また中田さんが業界で問題になっているので、もう一度、読もうとしたわけだ。
 冒頭からひっかかった。
 「ダイビングでは、「事故発生率がゲートボールよりも低い安全なスポーツ「という識者の見解や、多くの指導団体、及び主としてダイビングマスコミやショップなどが一般に主張している、ダイビングは「安全」で「簡単」ということにほぼ限定された主張や宣伝があるが、実際には毎年多数の人々が事故に遭い、そしてその半数が死亡しているという現実が存在する。」
 久しぶりにもって回った文章を読んだが、「ええっ、ダイビング業界はダイビングが安全で簡単」なんて言っているのか?うそだろう。と思ってしまうが、言っていたのだ。そのこととの僕の対決は、また別の機会に書くとして
 まず、僕のダイビングについてのスタンスだが、ダイビングが安全だなどと言ったことは一度もない。安全にしたいとは言ったし、全力も尽くした。その結果として、敗戦。危険は人それぞれ個人の中に内在している。他人ではどうすることもできない。
とにかく、ダイビングは危険であり、その危険を回避して目標を達成してもどってくる作業でありスポーツである。そして、どんなにパーフェクトを目指しても、絶対に事故ゼロにはならない。そしてダイビングの事故の多くは、他人、別の個体である人間にとって原因不明である。自分がやっていた会社、スガマリンメカニックでは、入社するとき、ダイビングはロシアルーレットみたいなものである。そのルーレットの弾の数をできるだけ少なくすることはできるが、それは本人次第だ。と言っていた。で、この言葉が気に入って入社した人もいる。70歳以降の僕のリサーチダイビングのバディであった鶴町君だ。彼は最後まで弾に当たらなかったが、癌にあたってしまった。不幸にしてダイビングの弾に当たってしまった脇水君もいる。
 これは、プロの世界のことであり、レクリエーショナル・ダイビングは、ちがうが、レクリエーショナルダイビングでは、インストラクター、ガイドダイバーの側からいわせれば、やはりロシアンルーレットだ。不特定多数のお客の原因不明の事故に常に備えていなければならない。
 だから、自分の責任回避の意味からも、危険について力説し、自己責任、つまり安全についての努力を負担してもらう。のが論理的に正しい。ダイビングは安全で簡単、そんなことを言うから、「ダイビングで死なないために」なんて本を書かれてしまう。知らない人が見たり聞いたりすれば、ダイビングで死なない方法があるのではないかと誤解する。「ダイビングは安全です」というのと50歩100歩だ。
 しかし、「ダイビングの事故と法的責任と問題」は、力作であり2001年だからちょっと古いが、その頃に書かれたダイビング書として、僕は高い位置をあたえている。読み解き、論じる価値がある。
 話は、この本から離れるが。
 賠償責任保険と言う保険がある。すばらしい保険である。あまり高い金額ではなくて、訴えられさえすれば、裁判、もしくは示談で解決する金額を補填してくれる。訴えられさえすれば良いのだ。お葬式に行っていやな思いをすることもない。最近ではどうかしらないが、お通夜とか葬式に行って陳謝したりしてはいけない。責任を認めたことになるから、という弁護士もいた。逆に、通夜にも葬式にも行かず、事故関係者の態度が悪いと言って、訴えられたケースもある。もちろん、訴えられてかまわない。保険がある。
 僕はこの保険が大嫌いだけれど、保険には入っている。責任があろうがなかろうが、好き嫌いによらず、世間は、訴えさえすればお金になると認識しているから、必ず訴えられる。事故者が90%悪くても、10%のお金をとられる。

 僕のリスクマネージメントは、まず、先にのべたようにまず危険であることを説明する。スポーツ安全保険に入ってもらう。この保険は当人が入っている形式だから、本人に必ず支払われる。これとは別に、国内であれば、事後申告の旅行傷害保険に入っておく。
 この二つの保険からでた金額を渡したうえで、申し訳ないという姿勢は崩さないが、自分が悪くないことを主張する。
 それでも、世間の常識で訴えられるだろう。そしたら、示談にはしない。判決を受けて、上告しても争う。
 
 僕もダイビング事故訴訟の原告側の証人を何度も経験した。原告側、つまり訴える遺族の側だ。先に述べた僕のスタンスから見ても、被告、つまりインストラクター、ガイドダイバーには、明確な落ち度があった。示談にするしかないのだ。

 プロのロシアンルーレットは、水中で一人でいるときに弾が飛んできて起こっている。それでも、誰かがサイドにいれば、とんでもない弾が飛んできても助かっている。社員のY君は、消化器官、小腸が溶けてしまう癌におそわれて、水中で腸が破れたが、仲間に助けられている。
 訴えられても負けない運用をして、そして、決して一人にならないようにする。そうすれば、ダイビングとは、かなり安全率の高いスポーツなのではないかと思う。
 
 飛行機でここまで書いたら、飛行機が高度を下げ始めた。あと30分以内に那覇空港である。

 中田さんは、ダイビングは安全だという業界の主張を崩すべく、交通事故と比較し、さらにラクビーフットボールと比較して、ダイビングの方が危険だという証明をしている。ご苦労さまである。
 しかし、ダイビングは危険であるという前提のもとに、一人にならず(何もバディとはかぎらない。一人にしなければよいのだ)運用にミスがなければ、つまり、訴えられても勝つ運用をしていれば、ラクビーよりも交通事故よりもダイビングの事故率は低いはずである。それに交通事故はこちらの責任でない場合もあるし、ラクビーはぶちとばしてなんぼのスポーツだ。それに引き換え、ダイビングは、自分さえしっかりしていれば、事故は起こらない。しかし、だから交通事故よりもラクビーよりもダイビングは安全だ、などと幼稚なことは言わない。違う種類の危険なのだ。ダイビングの危険の多く、事故原因の多くは、心的にも身体的にも、自分の内側にある。DNAかもしれない。人間の業かもしれない。
僕はその場にいなかったが、社員の脇水が、減圧停止中に原因不明で死んだのは、会社の空気が原因だったと思っている。僕の責任だ。
 学生の潜水部の合宿での飲み会をきびしくやめるようにいうのもそのためだ。飲み会の空気でダイビングして事故が起これば?起こる可能性もある。何といわれるか。社会人について、酒をやめさせることはできない。今夜も盛大な宴会をやった。せめて、自分は飲まない。自分は飲まないで、酒を過ごすなと言うことで、もしものことがあっても僕は自分を責めることがなくなるし、僕は悪くないと主張できる。酒を飲まなかったら事故が起こらないわけでは決してない。空気である。空気とはとても重い。人の命である。遺族のことを考えれば自分の命よりも重い。あらゆることを考えなくてはならない。
 
 那覇のホテルから送っている。次は座間味から送れるだろうか。

6月4日 座間味

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 6月4日
ホテルは、トマリンのかりゆしアーバンリゾート、良いホテルだ。宴会は、歩いて数分の「海のちむぽうら」沖縄料理でもない、日本食でもない、薩摩でもない、もちろん中華ではない。何だろうと言う料理、鉄板焼がメイン、刺身、締めはエビの天むすに赤出汁、でも、腹一杯食べた。最近、ストレスで食欲がなかったから、体の欲求に合ったのだろう。

      僕はノンアルコリック・ビール

 ☆中田さんの第2章は、業界の構造、現在日本では、どこかのcカードがなければ潜れない、事実上のライセンスになっていて、そのcカードは、指導団体統制下にある。そして、cカードは、商品である。人の命に関わる商品だ。商品の質は重要であるのに、質の管理は不十分である。これが中田さんの論であり、事故が起こった例を調べてみれば、業界は、反論しないでいる。これまで無視していたのだろう。次第に無視できなくなった。業界が何をするのか、あいかわらず無視なのか興味を持って眺めてゆく。それはそれとして、僕はこの本を読み解き、論理のとんでもない矛盾を解いて行く。

☆今、那覇から座間味に向かう、高速船のシートで書いている。だいぶ波がきつくなってきた。チービシの横、このあたりが一番波がきつい。海流があたっている。

座間味に着、二年ぶり、懐かしい。あまり変わっていないが、秀保君の海洋丸は、処分してしまったという。宿のパティオの前の、古い沖縄の家は二年前には住んでいたのが、今は廃屋、住んでいた人はどうしたのか。
花、蝶々、虫がいることが嬉しい。東京には虫がいない。蝶々を見たのは、今年はじめてか?


  うみまーる の井上君を訪ねて、今日の午後、阿真ビーチへ亀を見に行くことにした。
 雨が降りそうな梅雨空
 今日の満潮は16時、明日は17時になるから、今日の潮周りの方が良い。

 ☆ にもどって
 1967年、僕たちは日本で最初の、日本人がつくった潜水指導団体日本潜水会を結成した。僕たちも、認定証を発行した。まだ、cカードなどという呼び名はない。認定書である。ライセンスであるから、最低限を自分の意志と判断で潜れなければいけない。認定書を持っているものがリーダーを訴えるなど考えもしなかった。しかし、責任はある。認定書を持っているダイバーがどこかで事故をおこしたとき一緒に潜ったダイバーとか、その地の人に迷惑をかける責任だと考えた。彼を指導した指導員、認定した日本潜水会は、事故を起こすようなダイバーを送り出した責任がある。だから、指導員は容易には認定書を発行しなかった。認定書のランクは二種類で、一級と二級、で三級という自分の責任で潜れないランクもあったが、ほとんど発行されることはなかった。二級が、一人前の印であり、一級は実技的には指導員と同じ、一級をもっていれば、指導員になるために実技が免除というか、それほどしごかれなくても良いことになっていた。この考え方にそって、一級のプログラムには、「地獄の」というニックネームがつく、ものがいくつもあった。このニックネームは、NHKの潜水班が、日本潜水会の指導員が何人もおり、彼らに教えられた潜水班の新人がつけたものであった。
 もちろん、一級の講習の受講生は二級を持っている必要がある。
 指導員は、なかなか二級を出さなかった。一ヶ月、もしくは三ヶ月、あるいは、ついには認定を発行しない場合もあった。自分だけでは潜れないということである。

 このくだりは、あとでまた論じるところで出てくる。
 
  ☆
 訴訟についての本を読みときながらツアーをするというのも悪くない。これまで、僕のツアーはフリー!自由にさせていたが、今年はバディ遵守。浦安運動公園プールで親子のスノーケリング講習会を手伝ってもらっていて、この講習会の目標の一つがバディ習慣の
植え付けだから、手伝ってくれているメンバーは、よく理解してくれている。すなわち、僕が「バディ!」と号令をかけたら、手をつないで上に上げてくれるようにということなのだが、 しかし、一度や二度の説明では、そのとおりにしてくれない人もいる。
 水中でいつも一緒にいるための習慣づけなのだが、

 一回目の潜水は、ボートを出してもらう。
秀保の海洋丸を出してもらおうと思っていたのだが、売ってしまったとのこと。この船は、加山雄三が使っていたことがある船で、なぜかケラマに来ていて、僕はほとんどすべてのケラマロケ、中継にこの船をつかった。中村宏治君たちも、この船を ほいちょいプロの「彼女が水着に着替えたら」のロケにつかった。なにしろ、三浦岬と言う想定で、すべての水中シーンをケラマで撮ってしまったろいう乱暴な映画で、この映画のおかげで業界が伸びたという伝説の映画だ。ケラマのどこかに海上保安部に内緒で沈めてしまった、飛行機残骸のセットがある、あったはずだ。
 その大型の船がないので、2隻のボートに分乗して、西浜に向かった。
 天気は雨は降っていないがどんよりして、太陽がない。光がないから、美しい絵はとれない。撮影に来たわけではないから、時化ていなければよしにする。




 3mmのウエットスーツで3キロでよいと思ったら、4キロだった。それほど寒くはない。僕はスキンダイビングでダイブコンピューターを持ってきていないが、聞いてみたら25度だった。
 しばらくぶりの海で、水深5m、辰巳と同じなのに、それほど潜れない。なさけない。この前ケラマにきて2010年からこれほどに衰えたかと思う。
 40分ほど潜って遊び、期待のできない撮影をして、もどり、16時から阿真ビーチで井上真也君のガイドでウミガメを見る。
 彼がウミガメを見つけたら、手を振ってくれるという約束で水に入った。
 みんな沖に泳ぎ出たが、亀は岸近くにいた。満潮に乗って、岸近くまで海藻を食べにきている。潮が引いていると、餌の海藻のところまで浅くて行けないので満潮に乗ってくるわけだから、岸近くに来ていて当然。僕は沖にいってしまったみんなを戻すのにちょっと力を入れて泳いだら、足がつってしまった。それでも、みんなを集めた。亀は全く人間、ダイバーを気にしていない様子だ。人になれたのだろう。

 亀は個体識別もされていて、「みか」という名前だ。あまり美しくない亀なのに、「美香?」と思ったら、甲羅の右側が欠けているから 右欠 のミカだそうで納得。
 とにかく、二回潜水ができて、「海洋実習」的には成功した一日だった。

0607 0604の座間味

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 バスで、古座間味に到着すると、稲妻が光り、雷の音が空を走り、雨も本格的な降りになっている。昨日も阿真ビーチRにいた安全パトロールの人が、[落雷のおそれがあるので、水泳禁止だけれど、知っていても、あえて潜りますか?]。ところで、スキンダイビングでの落雷事故という例を聞いたことがない。事故例があるのだろうか。戻ったら調べてみよう。しかし、30分、様子を見て、それから潜ろうということにして、30分、バディシステムの話をする。
 30分で、雨も小やみになってきた。空も、落雷の心配もない様子。聞けば、阿真ビーチでは落雷があったそうだ。もちろん事故などは、なかったけれど。
 自分としては、30分のバディシステムについてのレクチャーは、無駄ではないとおもう。

 2010年に来たときには、魚肉ソーセージを魚の餌ように売っていた。ダイバーが泳いでいると魚が後を追ってきた。魚に餌をやることの是非があるが、このような観光ビーチでは、悪いことではないとおもう。餌を買おうとしたが、NGだという。そういうことになったのだ。それはそれでいいことだ。すべて成り行き肯定。
 雨のため、岸近くの水中はどんよりしている。二日目で海になれ、トレーニング不足もある程度解消できて、リラックスして、泳げる。まっすぐに左よりのコースをとる。カメラはマスクマウントにして動画を回し続けにする。バディは、寺内君にする。レクチャーで、黒田ならば、右後方をついてくるなどと話したので、忠実についてきてくれる。



 古座間味は、もう何度もきている。ニュースステーションの中継ロケもやった。そのころは、岩にミドリイシの類の造礁珊瑚、そして、ソフトコーラルがびっしり付いていたが、もはや、その面影はない。ウミバラ科のサンゴ、シコロサンゴ科など、地味な珊瑚が残っていて、その隙間にデバスズメが出入りしている。水深3ー4mに潜って、マスクマウントからカメラを外して、手持ちで撮影する。グループが泳いでいるのは、右側の方なので、回って行く。
 餌付けがないので、ハマフエフキがよってくることもないが、魚は多く、クマノミ、デバスズメが撮影の対象だ。
 メンバーの多くがコンデジを持っている。前回2010年のときには、調査用に使っていたシー&シーのカメラを5台持ってきて、撮影の指導らしきことをした。そのおかげだとみんなは言ってくれる。

 1130に上がって、注文しておいた昼食を食べる。僕はソーキそばを注文していた。今回の沖縄で初めての沖縄そばだ。ソーキそばらしき味はした。最近は、食べることに熱心ではない。ソーキそばの食い歩きをしたのは20年のかなた。昔のことになる。

 もう一度泳ぐことになり、12時に水に入り、1220に上がることにした。バスの迎えが13時だったのを、僕が1230と誤解していたので1220のエキジットにしてしまったのだ。
 僕のバディを黒沢さんにして、1度目と同じ、左手のデバスズメのサンゴをねらいに行った。場所を外してしまい、目当てのサンゴよりもそうとう沖までおよいでしまった。見つけた岩は、目当てのサンゴよりもきれいだったが、泳いで息があがってしまい、長く潜れなかった。すぐ引き返して、1220に上がったが、バスが13時だったので、時間をあましてしまい、全員の記念撮影をして時間をつぶした。そんなことなら、沖でゆっくりできたのに。

 ちょうど岸に上がった頃に、雨はあがって、太陽まででてきた。落雷から、太陽まで、幅の広い天気だ。
 太陽が出ているうちに潜ろうと、そのまま阿真ビーチにバスをまわした。もう、青空は消えていたが、なんとか明るい。今度は細田さんにバディになってもらった。タフな山登り男だから、信頼できる。入ってすぐに、細田さんが亀をみつけた。昨日の亀は、大きくて、あまりきれいではなかったが、今日の亀は若くて美しい。ある程度撮って沖に向かう。




 GoProは、バーの先につけている。昨日のボートからのダイビングではバーはむしろじゃまだった。水深2m強の阿真ビーチでは、バーは役に立つ。小さいきれいな枝サンゴの群落をバーで撮影した。しかし、角度の調整が難しい。ここ、阿真ビーチも確実に造礁珊瑚は衰えている。古座間味も阿真ビーチも海水浴場だから、仕方がないだろう。
 遠浅のビーチが深みに落ち込んでいる、真っ白な砂地の水深8mぐらいのところに、小さなパッチリーフがある。直径で80cmほどだ。プールの5m、10mはスキンダイビングでわけもなく潜れるが、ウエットスーツを着て、ウエイトをつけての、8mは深い。上から見下ろしてもずいぶん深い。フリーダイビングでは、50mを越えているダイバーも多く、30mは普通なのだろう?。が、僕は若い頃の最高が30m、50代までは、28mまで行けて、アシスタントの大西と競っていたけれど、スキンダイビングとしては、そのあたりが限界。そして、今の僕は、海ではこの8m程度が限界、今年も8m潜れるだろうか?なんとか潜れた。

      水深8mを目指す。


 バー(2m)につけたGoProは、使える。

スキンダイビングで接近して逃げてしまう魚も、あまり逃げない。2m以内の水深であれば、水面に浮いていて撮影ができる。いわゆる、水面に浮くスノーケリングに向いている。
 全員が岸に上がって、さらに、もう一度泳ぎたいという人が数人いる。自分を含めて5名、もう一度トライアルの8mに行くことにした。今日4回目のエントリーだ。スキンダイビングの良いおころは、何度でも連続してエントリー、エキジットを繰り返すことができることだ。スキンダイビングとはいえ、メンバーにもしものことがあった場合、責任者が水の中に一緒にいなければならない。泳ぎすぎて足がつりそうだが、座間味に来て、スキンダイビングだ。死ぬほど泳ぐことが目標だ。

 僕が先頭に立って泳ぐ、つまりナビをやったが、なんとしたことか、さっき行ったばかりのコースを間違えて、阿真の漁港の方に行ってしまった。延々と泳いで、心臓の鼓動が聞こえるけれど元気だ。マークの8mは、軽くクリヤーできた。
 
 これで、二日間、計6回のダイビングで、すべてのダイビングは終了。海洋実習という意味では、成功した。口うるさく言ったバディシステムは、完全に機能していて、離ればなれになった瞬間はなかった。
 新入りの男性会員は水に慣れて、潜れる水深は浅いけれどなんとか潜れるようになった。これは、いけないことなのだが、僕が、上手な人とばかりバディを組んで、新人を連れて出たのはラストの宮野さんだけ、それを補うように、新人が心配だと、古いお姉さんたちが気にかけてくれて、一団になって動いた。偉いなあ、と感心する。海豚倶楽部は、そういうチームなのだ。もちろん、僕についてきた中堅クラスのメンバーは、まちがったナビゲーションにも、危なげな無くついてこられた。
 亀と泳いでいるときに、浅いので、立ち泳ぎをしてしまうとか、砂を巻き上げるとか、細かい、部分に下手なところも、見えたが、それは末梢的なことで、危なげなく、僕は自分勝手にGoProの撮影で遊んでいた。

 終了後、「うみまーる」に行き、おみやげのTシャツ、写真集などを買った。井上君、高松さんは、ていねいにサインをしてくれる。
 夜は、バーベキュー、そして那覇で買っておいた花火で打ち上げになった。線香花火のような、打ち上げだった。

     うみまーる 井上君と 高松君


 
      打ち上げ線香花火 漆黒の夜    

 6月5日 
 事故の心配もなく、梅雨の沖縄で、23名のツアーができ、満足してもらえて、無事。初心者も4名、しかも高齢者が多い。20人のスクーバダイビングツアーならば、少なくても、5ー6人のスタッフがいなければできない。

 これまでは、スクーバダイビングをするメンバーは、スクーバダイビングを別にやることをみとめていた。今回は、スクーバダイビングは、全くなしとした。スクーバダイビングをやりたい何人かにとっては、残念なことだろう。5人のメンバーは阿嘉島で降りて、ダイビングショップ、シーサーでPADIのアドバンス講習を受けるという。良いことだと思う。PADIでも、NAUIでも、講習を受けることは良いことだ。僕の講習については、次はVカードを受けてくれればよい。教える側、シーサーのPADIのインストラクターにとって、バディシステムがすりつけられている、僕たちのメンバーは扱いやすいとおもう。まさか、バディシステムの習慣をこわされて、戻ってくることはないだろう。そして、何かを教えられおぼえてカードを取得することはとてもよいことだ。
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