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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1117  ホームページ について

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 メンバーのT君から連絡があり、辰巳スキンダイビング練習のスケジュールが載っているホームページが消えていると。見たら、憎らしいニフティがホームページのサーバーを新しいものに改変したために、僕のホームページは見られなくなっている。新しいサーバーに移行しなければ、古いホームページの残骸から新しいホームページに飛ばす事もできない。まず、辰巳に来てくれているメンバーにスケジュール表をメールした。これも、ヤフーのアドレス帳が使いにくくなっているので、時間がかかる。 次に、とにかく、新しいサーバーのアカウントを作った。
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 後から考えれば、いろいろなことがわかってから後だが、古いホームページを作ったホームページビルダーからでもこのアカウントに移行ができたはず。一応やってみたが、だめ、だめな訳は見当もつかない。古いプルダウンメニューには、新しいニフテイのサーバーのftpがない。時代物のホームページビルダーではだめだと思いこんでしまった。 秋葉原に行って一番やすいV3を買ってきた。これでプルダウンができる。これを機会にと、このソフトのマニュアルを頭の部分、必要な部分だけ読んだ。ホームページビルダーで作ったホームページもそのまま移行できる。 しかし、さあ、これでとプルダウンでやったけれど、あたらしいサーバーにアクセスできない。何度やってもできないのだ。何度も書き直してみたができない。  ついに、ニフテイに電話をした。しかし、電話で新しいサーバーにアクセスできないことについての相談は30分1800円かかるという。できる誰かに相談に行ったとしても半日、電車賃もかかる。1800円というのは、妥当か。しかし、そちらの都合でサーバーを換えたのだから、アクセスできるまで面倒を見るのがサービスというものではないか?そのほか、ニフティには、気に入らないところがいくつかある。日本水中科学協会で使っているロリポップの方が数等良い。 しかし、ロリポップに乗り換えたとして、検索でホームページにたどり着けなければ困る。10年以上使っていると、検索のポジションは捨てられない。 1800円かけることにした。理由は接続設定が間違っていると言うことだから、ケアレスミスだと思う。 ニフテイのホームページから、言われたソフトをダウンロードする。これによって、電話の向こうの人がこちらのPCを操作する事ができる。接続設定ミスを探す。 間違いは、プルダウンしたサーバー名にftpがついていなかったことが一つだった。ftp.bulue.coocan.jp となるべきところのftp.が抜けている。ソフトからプルダウンしたのだから、確実だと思っていた。プルダウンでなければいけないと思い込んでもいた。プルダウンは必要なく、ftp.blue.coocan.jp と書き込めばよいだけだった。つまり、東京都というアドレスをプルダウンしても、手書きでも手紙は届くのだ。
もうひとつ、.jp が抜けているところがあった。これは、ニフテイのマニュアルの図に抜けていたものをそのまま写したものだった。,jp は決まり文句のようなものだから省略が可かと。 登録確認のメールの記載をそのままコピーペーストすれば、良いわけで、それは一番先にやったのだが、プルダウンが問題だと思い込み、何度も書き直すうちに、抜け落ちてしまって、マニュアルの方が正しいと思いこんだ。 やはり、無知によるケアレスミスだった。
 それにしても、おなじような間違いをする人が無数にいるのだろう。だから、1800円の問い合わせがビジネスになってしまう。
 いろいろ、勉強させてもらったので、これを機会に、ニフテイ以外に、ホームページを作って、リンクさせて置こうか、などと思っているが、時間があるだろうか。

1117 今村さん講演

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何人かの友人は、デマショウにでかけた。僕は、今村さんの、「減圧症が2000年を境に激増した」という講演を聴きに行く。このような個人の講演としては、空前と言える人を集めた。そして、2時間半を越える話を眠りもせずに熱心に聞いている。だから、なに?というわけではないが、やはり、いろいろな意味でなに?を考えなくてはいけない。聞く人が、何?を考えてくれれば、その講演は成功といえる。

 ダイブコンピューターという道具について、その普及につれて、減圧症が増加したということは、大事な事柄で、それぞれのダイバー、そして、リーダー的な立場にある人が考えなくてはいけない事柄だ。 今村さんの話された結論の部分に異を唱えるものではない。正しい結論の一つである。 しかし、それはそれとして、それぞれが自分のポジション、自分の視点で考えなくてはいけない、と言う意味でかんがえている。  解決方法の一つは、ダイブコンピューターを使わない、と言うこと、そんな!と言うかも知れないが、潜水士テキストではそれに近い結論を出している。買うな!ということではない。必須でもある。たよるな!ということだ。テーブルで計画を立てて、それを時計と水深計で、確認して潜水する。いまさら水深計など見かけることもない。ダイブコンピューターを計時+水深計として使う。 正確な水深計は必要だからその意味からダイブコンピューターは必須である。潜水士テキストは、ダイブコンピューター以外に水深計は手に入らない、入りにくいと言うことを知らない。あるいは無視している。  ダイブコンピューターを手に入れてしまえば、無減圧限界をどうしても見てしまう。見てしまえば、それに左右されてしまう。無減圧限界を頼るな、と言うことで、セフティストップをする。セフティストップを確実にする道具としては、ダイブコンピューターが有用である。セフティストップをするという前提で無減圧限界を守れば、減圧症になる可能性は小さくなるはずだ。なのに、減圧症が激増する。 今村さんは、M値の遅い組織に窒素をためるな、ダイビングの中程、あるいは後半で深いパターンの潜水をするな、という。これは全く正しい。もう一つ、ボックス型の潜水はいけないというが、これはカメラマンにとっては不可能だ。途中で深く入るな、というのも、やめることは、ほぼ無理だろう。
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   図の潜水、まず25mまで潜り、後は15m前後ですごして、階段的に浮上する。
   レクリエーショナルダイビングで最も普通のパターンだ。ならば、どこをどう変えれば
良いのか。議論が欲しい。このパターンを検討する意味で、右側のM値のバーは有効で、これを表示するダイブコンピューターは意味がある


 M値の遅い組織に窒素をためるな、わかりやすく言えば、一日に2回以上潜るな、ということだろう。できるかできないかは別の問題であるが少なくとも減圧症は覚悟してやりなさいと言うことだろう。 リサーチダイバー、カメラマンはボックス型は避けられないし、ガイドダイバーは、一日2回限定では仕事にならない。減圧症になりやすい人と、なりにくい人がいる。なりやすい人は、職業的な適性がないといえるだろう。  現時点としての、僕の結論は、計画重視で、その計画の立て方については、最新ダイビング用語事典Ⅱで詳述しようとしている。計画の立て方については、M値は重要なファクターになる。 そして、やはり、一日2回以上の潜水計画は立てにくい。  自分の潜水を振り返ると、30m以上の潜水については、まず問題はない。テーブルをみて、良いと思えるプロファイルで潜っていた。 危ないのは25m前後の潜水で、いくつかのヒヤリハットがある。ダイビングについてだけ言うと、ヒヤリハットは油断の結果であり、計画を立てた上でのヒヤリハットは、無い。ダイブコンピューターは無計画になる道具であった。 結果として、僕は、減圧症にはなりにくい人だった。ダイブコンピューターの警告音は聞こえない。(難聴のため)ほとんど無視しても、減圧症にはかからなかった。 僕の視点から見ると、減圧症の罹患は、ヒューマンファクターが大きい。今村さんの講演でも、まず、個人差を挙げている。  今村さんの言う、遅い組織に窒素をためるな、その目安として、M値をバーグラフで表し、幾つかの警告を表示すダイブコンピューターは有効であり、彼の理想、夢の実現が、近い将来に実現する事をねがっている。 

1118 房総の潜水器漁業

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日本人は、歴史が好きなのだけれど、歴史を主なテーマに据えて出版しようとしたり、講演会をやったりしようとすると、そしてそれが日々の生存に直接関わりないブロックだったりすると、これで良いのかなと迷いが出てくる。大学の4年先輩の大場俊雄兄は、千葉県の水産試験場でアワビの人工採苗手法の確率に功績のあった研究者(最終職歴は、千葉県水産試験場長)だったが、千葉県のヘルメット潜水の歴史がもう一つのライフワークで、その本を出版された。そのとき、「こんな本を出して、良いのかな。漁業の直接的な役に立つわけのものでもないし?」と僕に相談を持ちかけられた。同窓会誌に長らく発表されていたものをまとめたものだったのだが、ほとんど世間的な反響がなかったし、直接生産に役立つ研究でもない。そして、ヘルメット式は当時から斜陽で、僕のスクーバやフーカーが取って代わろうとしていた。 当時、僕も歴史よりも、今が大事、月末の支払いに追われていた1990年代のはじめだったので、「とても大事なことだと思いますよ。先輩が本にしなければ、消えてしまうものです。」半ば社交辞令だった。しかし、この本はおもしろく、続編ともいうべき、「      」も出た。自分が歴史を中心にしたシンポジウムをやり、最新ダイビング用語事典Ⅱを年表を柱にしようとしたとき、大場先輩と同じ心配、心労がある。 僕の場合、事故の歴史をふりかえって見るなど、安全のため、つまり役立つ部分も入れているが、そして、物事の基本的な理解が歴史によって進み、それが安全につながるという重要な実学的部分もあるのだが、やはり、これでよいのかという部分もある。 とにかく、「房総の潜水器漁業史 崙書房 1993」は、日本の近代潜水器の発祥がわかるとともに、沿岸漁業史もよくわかる。スクーバ、マスク式の発祥について、この本のように、大場先輩ほどに入念に調べる期を逸してしまっている。しかし、これがスタートなのだと、自分を鼓舞する。
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 房総の潜水器漁業史によれば、日本で初めて潜水器が使われたのは、1858年、安政5年 長崎県での岸壁築造工事で使われた泳気鐘(ダイビングベル)で、本格的なヘルメット式は1866年 慶応2年、横浜港での船底修理で、この時に横浜港の世話役だった増田万吉が潜水術を修得して器械潜水業を始めた。これが日本の潜水業の祖であり、これを千葉県白浜の根本村の森清吉郎が導入、増田と組んで潜水器によるアワビ採りを始めた。これが1877年 明治10年で、物語の始まりである。 ここでも、そして、これから作ろうとしている年表でもこの本に述べられていることの詳細を書くことができないが、この二冊の本はぜひぜひ、読むことを薦める。潜水器漁業とはどんなものなのか、そして沿岸漁業とは、さらに漁業者のこと、がよくわかる。 そしていま、伝統的なヘルメット式潜水器漁業は消えてゆこうとしている。

1122  東亞潜水機

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このところ、東亞潜水機に2回行った。 僕は1959年東京水産大学を卒業した。研究者になろうと志していたのだが、実家が倒産して学費を都合することができなくなり、そのころ、東京水産大学に大学院は無くて、たとえば東大の博士コースに進む術もなかった。ブルトーザの修理工などをして、右往左往した結果、10月に東亞潜水機に拾ってもらった。これらのことは、ニッポン潜水グラフィティに書いたが、100mの実験潜水をするなど、やりたい放題をやらせてもらって、1969年に退社して自分の会社を作った。 その迷惑をかけた東亞潜水機だが、僕が辞める時に中学生だった現社長の佐野さんは、OB扱いにしてくれる。OBであることは間違いないし、他に生きている人もそろそろいなくなる年頃だから大事にしてくれる。  東亞潜水機は、二つのセクションに分かれていて、別のところにある。ヘルメット式などの潜水服関連の東亞潜水機と、コンプレッサーを作る東亞潜水機東京工場である。東京工場の社長が、佐野社長で、センス衣服の東亞潜水機は、三沢社長だ。 なにを目的に行ったかというと、今度のシンポジュウムで、歴史的な潜水器を展示するのだが、その一つとして伏竜特攻の潜水器を飾る。そのレプリカが東亞潜水機にあると言うことなので借りに行ったのだ。 伏竜は小型ヘルメットだから、潜水服の方にあると思った。社長の三沢さんは、僕が入社したときの三沢社長の息子で、彼は服工場の責任者で僕はアクアラングだから、関わりがないといえば無い。そのまま50年、60年かな、が経過している。とにかく、懐かしいのだが、お互いにあまり懐かしがらない。そんなつきあいだ。
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                僕が入社した頃の東亞潜水機
        以後、東京の下町、町工場の変遷、
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              突き当りが潜水服工場で、真ん中が機会工場ここで高圧コップレッサーを作っていたから、すごい。空き地のようなところに小屋を建てて僕のスクーバの居場所になった。
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           左手が僕の居城 前にワンマンチャンバーがおいてある。
 
 建物は、僕の居たときとはがらりと一変している。潜水訓練
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              作りかけのタワー タワーの右手に潜水服工場がある。
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     現在、右に道路ができて狭められた。JR常磐線が隅田川鉄橋を渡る時左手に見える。

タワーだけがそのままにある。そのままと言っても、敷地の真ん中やや左に建てたのが右端になっている。道路の拡張工事で、右側が削られたので、右端になった。伏竜特攻隊の潜水器を設計、製作した清水登大尉が、東亞潜水機に来て、僕の90m潜水の総指揮をやっていただいたりして、ずいぶんお世話になった。この潜水タワーは僕が設計製作したかったのだが、清水大尉にとられたと、僕は思った。もちろん、そんなことは無かったのだが、僕の方がなにかと反抗的で、だから、伏竜の詳しいことを教えてもらわずに退社してしまった。やがて、清水さんも退社して亡くなってしまうのだが、最後まで僕のことをどうしているか、会いに来ないけどと気にしてくれていた。今、自分が年老いて、後ろを振り返れば、言葉もない。
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僕の実験潜水の指揮をとってくれた清水さん 麦わら帽子

最近になって確認したのだが、この伏竜の潜水器は50:50のナイトロックスのセミクローズだったのだ。1960年代の僕はナイトロックス、そんな言葉もないから、知りもしない。世界中でだれも50%の混合気体の半閉鎖など知らなかったのではないだろうか。 まあ、当時の僕が50%の混合ガス潜水などに取り込まれたら、命は無かったと思うから、良かったのかもしれないけれど。  せっかく三沢さんのところにようやくアポをとって来たのに、伏竜のヘルメットは、佐野さんのところだという。そうだったのだ。忘れていた。僕の入ったころにも、東亞潜水機は服工場と機械場にわかれていて、ヘルメットは機械場の管轄だったのだ。 そのころヘルメットは、向島にある分工場で作っていた。ヘルメットは、本当に職人芸で作り出す。僕と同年輩だから、そのころは若い山沢さんが竹内さん?と言う親方の元で修行中だった。後に、機械工場と本社の建物が分かれたとき、機械工場に顔をだしたら、山沢さんが居て、美男子だったのに、禿になって、人のことは言えないけど、懐かしく話をした。しばらくしてからまた行くと、山沢さんの訃報を聞いた。これでもう、日本ではヘルメットを作る職人は居なくなった。職人が居なくなっても、樹脂の成形で作れるではないかと言っても、それはハードハットであり、フルフェースマスクの仲間になってしまう。伝統的なヘルメットではない。 なぜ、そんなにも、ヘルメットにこだわるのだというと、そこにこだわりたくなる潜水の精神、つまり何かがあるからだろう。変わらない、やたらに新型が出てこない何かだ。東亞潜水機で例年の一枚もののカレンダーをもらってきた。ヘルメット式の練習を今でも熱心にやっている種市高校をテーマにしている。2014年に種市高校の話をシンポジウムでやって、みんなでツアーを組んで訪ねていくからと約束して、そのまま果たしていない。種市高校卒業のダイバーは、自分がヘルメットで潜水をスタートしたと言うことを、それこそ、涙を流すほどかっこいいことだと思っているだろう。ただし、卒業してヘルメットダイバーになるわけのものでもないが、プライドを持つ、プライドを持ち続けるということは、プロのダイバーにとって重要なことだ。それにダイバーにならなかったとしても、教育の効果として大きい。 ヘルメット潜水器は、中古がたくさんあって、磨けば新品同様になってしまう。だから大丈夫らしい。 
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           2017年のカレンダー

 金曜日、佐野社長のところに行って、伏竜のヘルメットを借りてきた。このヘルメットにも謎があるのだが、それは、別の機会にしよう。 シンポジウムでは、陳列する。

1127 お台場

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 11月27日 お台場 シンポジウムユムのレジュメ原稿に取り掛かっていて、ブログを書いている時間がない。ところで今日、11月のお台場潜水に行った。ブログを潜水ログとしても書いているので、これは、後送りができない。25日 下痢をした。それほどひどくは無いのだが、2食ほど抜いた。食べ初めもパンを一個。体力が激減する。それほど具合は悪くないのだが、布団から起き上がる気力がない。しかし、お台場は休むわけにはいかない。27日、今日だが、朝5時に目覚めたが、起きるのが難儀だ。 毎度、具合が悪くても海で潜れば治る。と思って、立ち上がる。 鈴木敏久くんが、何時もお台場の手伝いをしてくれるので、僕は準備、道具の車への積み込みに余り身体を動かさなくてすんでいる。間の悪いことに、鈴木くんがお休だ。 なんとか積み込んだ。忘れ物がないか、リストでチェックした。 雨が降ったら辛いと思っていたのだが、なんとか曇りで持ちこたえている。 ゴムボートを使って見張りをするように、海保の許可申請にとどけてある。そのゴムボートの底板、とオールがない。たしかにチェックリストでゴムボートは積んだ。ゴムボートのバックは積んだのだが、底板とオールは別の場所に置いてある。 幸にお台場から事務所は20分で着くので、往復で40分、別に急ぐことはないので、取りに戻る。 今日のメンバーは尾島さん夫妻、海洋大学の依田くん、東邦大学の多留先生、科学未来館の三ツ橋と僕だ。 尾島さんがゴムボートで海洋観測をする。表面水温が15℃、底が18℃で、そこのほうがこの時期は温かい。 ドライスーツを着るのがすでに辛い。三ツ橋(女性)と一緒に潜ることにした。一人ではやばい。タンクを背負って波打ち際まで行くのが大変だ。フィンを履くと、そのまま膝を突いて膝立ちで水に入り、腹ばいになって這ってエントリーする。この波打ち際だ、毎度、左足のふくらはぎを痛めている。なんとか普通に歩けるようになっているのだが、昨日ちょっと痛かった。高齢が足の筋肉に来ているのだろう。なんとか水に身体を浮かせてしまえば、楽になる。 なにかに書いてあった。ダイビングは身体が浮くので楽だと思っている人が多いが、実は、かなりの負荷がかかっているので、高齢者は注意するようにとか。そんなのは、机の上の想像だ。タンクプラスウエイト、合計25キロを背負って歩き、エントリーする方が大変だ。別の何かに書いてあった。エントリーとエクジットが脈拍が高くなると。これが正しい。身体を浮かせてしまえば楽になる。  透視度は良い。2m-3m見える。GoProはマスクにつけて、手持ちをTG4にする。TG4 は、要部、ここというときに動画を回す。時々スチルのシャッターも押す。 水は見えるが、魚は見えない。人間、ダイバーは生き物を選択的に見て、生き物の居ないところを撮っていない。生き物だけを撮れば、嫌でも生き物で賑やかになる。居ないところも撮って置かなくては、居なかったことが記録に残らない。 岩の下を覗きながら行くが、小さいアカオビシマハゼが1尾だけ。スジハゼがちらっと見えて、すぐに穴の中に入った。スジハゼ
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スジハゼがどこに居るかわかる人は居るだろうか。

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 杭の列まで来た。水がきれいなので、杭の配列を撮る。往復で両側を撮る。これは後で使える。がなにもいない。ボラが1尾通り過ぎた。 一度、立ち上がって、三ツ橋と戻る打ち合わせをする。ランドマークは大きな榎の木のところだ。立ち上がってハット気がつく。右足のフィンが脱げている。 エントリーするときにフィンを履くのが大変なので、サンダルを引っ掛けたように履いている。それが脱げた。右足のフィンが無いと、身体の位置が保てない。転げたので、砂を巻き上げてしまった。三ツ橋に探してもらい、履かせてもらう。情けないことになっている。自分で履いたり脱いだりすることは諦めて、バディにやってもらうほうが安全だろう。しかし、情けないけれど、これが歳というものだ。
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 親指の爪ほどの多分ケフサイソガニだろう、動いた。近くの生きている牡蠣を開いて、カニが寄ってくるのをまった。何時もはすぐに集まってきて、カニの山になる。全然集まらない。先に見た小さいやつがちょっと姿を見せるがでてこない。急に水温が低くなったのだろうか。 戻って来てエクジットするのだが、無理に立ち上がって、またふくらはぎを痛めても困る。タンクは脱いで、砂の上に置いた。それでもウエイトが10キロあるので、頑張らないと立ち上がり歩けない。、三ツ橋は、タフで、スタスタと歩き、戻ってきて、僕のタンクもあげてくれる。 8リットルのタンクが50になっていたし、タンクを取り替えて潜るほどの目標がない。今日の潜水は一回にした。  それでも、潜る前の朝よりも遥かに元気になって、戻ってきた。 このところ訳があって、筋トレをしていない。筋トレと言っても、タンクを背負ってスクアットをする。エントリーエキジットのための訓練なのだが、やっていない。また再開しないと、波打ち際で立ち上がれない。

1130  マスク 旭式 4

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 ヘルメット式には、房総の潜水器漁業史のような資料があるが、マスク式については、なにもない1935年当時の山本式マスクについては、三浦定之助 先輩の「潜水の友」があるが、アサリ式、後の旭式、金王式についてなにも書いたもの周辺にない。一番詳しいのは、潜水士テキストだったのだが、2014年に規則が改定されて、テキストも改訂されたら、軽便マスク式の項は、無くなった。軽便マスク式は漁業者の潜水機、沿岸漁業の潜水機なのだが、沿岸漁業の潜水は、高気圧作業安全衛生規則では、問題にならなくなったのだろう。残るはヘルメット式だが、今の60歳以上のヘルメットダイバーが去ってしまえば、あとはモニュメント、ステイタスとしてだけ残るのだろう。作業潜水の殆どは、デマンドバルブ付きのフルフェイスマスクに成り代わった。 そして、デマンドバルブ付きのフルフェイスマスクがどの程度、沿岸漁業に使われているのだろうか。知らない。 こんなことを書いている僕でさえも、潜水器を使った沿岸漁業がどのくらいのこっているのか知らない。  沖縄の杉浦さんという、これはスクーバ器材のオーバーホールなど、ダイビングショップをやっておられる方だが、沖縄でお店の名前も旭潜水技研と名付けて、旭式マスクを復活させようとしている。沖縄でこのマスクが無くなると困る漁業者がかなりいるとか、12月18日にシンポジウムに来ていただけるので、そのあたりの事情を教えていただくとともに、全国的にはどうなのだろう。 たしかに今現在操業している漁業で、器材が無くなってしまうのは、大変に困ることだろう。 潜水器を使った沿岸漁業は、日本では、消滅の途をたどっている。千葉県富津では、ヘルメット式で、アサリやバカガイを採る漁がまだ続いているはずだが、最近はお邪魔していない。どんどん、盛んになりつつあることとは考えられない。水流のジェットで、砂を巻き上げてアサリを採る方法で、効率は良い。効率が良いということは、乱獲になってしまう。潜水器漁業の辛いところだ。  マスク式については、それほど詳しくはない僕が書いておくほか無いのだろうかとしつこくかいている。 そのことだけに打ち込んでいる時間がない。しかし、調べておかないと、消え去ってしまう。
 さて、沿岸漁業のマスク式潜水として、一世を画したアサリ式を作り出したのは、浅利熊記 ネットで調べたらhttps://www.city.hachinohe.aomori.jp/index.cfm/12,73153,43,265,html  八戸のページで当たった。1908 年うまれて、1963 年に亡くなった。上記ホームページより引用「昭和8年(1933)頃、後の「浅利式軽便潜水器」の原型となる「ポピュラー潜水器」を開発、販売。その後、ダイヤフラム(調整弁)によって自動的に吸気圧が調整される潜水器を開発して成功し、昭和13年、(1938)東京に旭潜水興業(株)を創設した。浅利式は、海軍省や農林省水産局に採用されたほか、大戦末期には戦闘機の高高度用飛行(与圧)服に応用され、浅利はその研究開発を担当した。」 電動烏賊つりの道具も作っている。これもアサリ式と呼ばれて全国に普及した。
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                 船の科学館にあった。上の写真と形が重なる。
 僕が旭潜水科学研究所とつきあい始めたのは、大学3年生、日本潜水科学協会ができた時からだった。1957年、旭潜水の代表は佐藤賢竣さん(以後佐藤さんとする)で、潜水科学協会設立の世話役の一人だった。やがて高気圧作業安全衛生規則が1962年にできるのだが、佐藤さんはそれについても中心人物であった。つまり、潜水世界のボスの一人となっていた。 浅利熊記氏が浅利式マスクを作ったのは1933年だとあるが、佐藤さんはそのころから浅利さんの助手のような、協力者として存在していたように見える。後に佐藤さんは潜水科学協会の機関紙ドルフィンに、自転車の空気入れのようなポンプで簡略に潜水することができるマスクを作りたいと実験を繰り返していたと書いている。 それで、ダイバーが息を吐き出しているときに送られてくる空気を一時貯めておく空気嚢をマスクに取りつけることを思いついた。そして、自転車の空気入れは無理としても、空気ポンプのピストンを往復で空気を圧縮送気することを考えつき、これまでの天秤式のポンプの半分以下の大きさのポンプの送気で潜水できるようにした。 沿岸漁業対象の旭式マスクの大きな用途は二つ、一つは海産物採取、一つは船のスクリューにからみついたロープや網の除去、副次的に追い込み網での追い込み、養殖場の管理などの軽作業、などである。
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 潜水科学協会の機関誌である「どるふぃん」に掲載された旭式の」広告を見てみよう。ヘルメット式と同じような潜水服を着て、どっしりと格納箱の上に腰を下ろしているのは、佐藤さん社長自身である。浅利さんが亡くなったのは、1963年であるが、僕は浅利さんにお目にかかったことはない。表にはでなくなっておられたのだろう。後に福島県水産試験場でお世話になった、増殖部長の浅利さんは、熊記氏の息子さんだった。佐藤さんは、訃報をきいていないが、とにかく高齢である。ネットで佐藤賢竣と引いてみると、自分の書いたブログばかりがでてくる。
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 潜水士テキストに掲載されている図は、この写真から作った図なのだろう。 この旭式が、作られた時点で、ヘルメット式をいかに簡略化できるか、すなわち、軽便にできるかを目標にしていたことが、わかる。ヘルメット式と同じ生地の潜水服を着て、足には鉛の付いた靴を履いている。大串式、山本式は、海女の素潜りの延長線上で作られた。フィンは着けていないが泳ぐように動く。だから、タンクを背負って、スクーバの元祖としての特許申請をしたりしているし、定置網の補修などは泳いで広い範囲を移動して作業している。 一方旭式は、ヘルメット式の軽便化を目指している。ヘルメット式と同じ潜水服を着ると言うことが、重要な目標だった。潜水服を着る。すなわち、保温である。浅利熊記氏の生まれ育った八戸は、北限の海女の町でもあるが、南部潜り、ヘルメット式潜水が行われた地でもある。ヘルメット式は寒くないが、準備が大変であり、装備も高価であり、ポンプも大がかりである。何とかして、簡略化、軽便化をめざしたのだろう。 浅利式ができたのは、1933年として、そのころは、マスク式としては、山本式が完成の域に達していて、伊豆の伊東では、定置網漁業についての潜水の講習が、三浦定之助らが行っている。なのになぜ、アサリ式が、と疑問に思っていたが、目指すところがちがっていた。大串、山本式の欠点は寒さを防ぐ手だてがない。ただ、我慢あるのみであった。  マスク式で、ヘルメットの潜水服、ドライスーツを着た場合、問題になるのはスクイーズである。服の中に空気を入れなければ、服の中が水圧より小さくなって、身体が絞られてしまう。潜水服とマスクは、一体に接合されなくてはならない。すなわち、ソフトヘルメットである。 この場合、マスクが先にできて、それに服を接合したものか、接合した形で最初から考えられたのか、わからないが、おそらくはマスクが先だったと思う。 旭式には潜水服接合型と分離型ができた。これが大きな特色であり、軽便と呼ばれる所以でもある。 マスク接合型の潜水服は、腰の部分で上着とズボンに分けられ、ゴムのパッキンと金属製の帯とバックルで接合されている。 これで、ほとんどヘルメットと同等に水中作業ができたかというと、港湾工事などはできなかったであろう。ヘルメット式の場合、服の中に空気を入れて、その浮力調節を兜の側面についているキリップとよぶ排気弁で微妙に、しかも手を使わないで頭でボタンを押すことでできるのだが、軽便マスクでは、それはできない。 しかし、この潜水服を着用して寒さを防ぐという利点で、旭式は北洋鮭鱒漁業の独航船のほとんどに積み込まれた。スクリューに絡んだロープや網を解きほぐす作業で、水深は3m程度だから水深3mも潜れば良いわけで、これで十分である。 この作業は水中に浮かんでする作業だから、海底に足をしっかりと着けて歩くための重い潜水靴は不要である。ヘルメット式の場合、この靴が必須になるが、この靴は一人では履けない。助手、綱持ちの仕事である。そこで、足には錘をベルトで巻き付ける方法になった。レッグウエイトである。より軽装になった。しかし、それでもフィンを履く発想が日本人ダイバーにはない。海女さんなど、フィンを付けなくても、あおり足などで充分な機動力があった。鎧を着ても、素足で泳ぐと言う古式泳法の影響だろうか。最後まで、(戦争が終わるまで、フィンを履かなかった。
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 これらの図はどちらも潜水士テキストに掲載されて居たものであるが、靴を履かない方が多かった。テキストから消失する前の図も重装備である。 そこで、スクリュー作業などの場合、フィンを履けば良いのにとだれでも思うだろう。テキストの絵には、フィンがない。1945年、第二次大戦がおわるまで、日本の潜水はフィンを履かなかった。敵国、欧米の潜水部隊はフロッグマンであり、フィンを履いたこれが大きな差である。歩く作業にはフィンは邪魔でしかないが、中層に浮いたり、移動のためには、フィンは必須である。 水産大学の潜水実習でも、マスク式を使う場合にはフィンは履かなかった。 東京水産大学の潜水実習は、1953年にアクアラングが正式に伝えられるまで、この旭式マスクで行われた。 自分も大学3年次の潜水実習では、この旭式マスクの体験をした。まず旭式、次にスクーバに進む順だった。素潜りをさんざんやっているし、わずかではあるが、スクーバも経験があったので、このマスク式に、何の抵抗もなく潜水できて、海底を這い回った。立って歩いた記憶はない。這った。 小湊の実験場で、磯根の上にコンクリートで台地が作られている上にポンプを載せて送気する。港の岸壁があれば、そこに載せれば良いし、漁船に載せても良いのだが、小湊の入り江は港ではないので、船着き場の水深は1mぐらい。とても潜水訓練にはならないので、張り出した磯根の上にポンプ置き場を作ったものだった。 耳抜きだけできれば、このマスクで潜ることは誰でもできる。問題は耳抜きであり、鼻をつまむこともできないし、マスクの縁で鼻を塞ぐこともできない。唾を飲み込むか、顎を動かす他ない。 後に、僕は旭式でフィンを履いてみた。フィンを履いて、小さなポンプで潜ったのだが、なかなか快適であった。やってみれば良かったのに、とは後でいうことだが、ポンプで旭式で潜る体験潜水など悪くない。  分離型は、今のフルフェースマスクでも同じだが、顔でシールする部分から空気が漏れ出すと空気消費が多くなる。空気消費が少ないことが売りの旭式だから、きっちり締め付けなくてはならない。 続く 

1202 マスク 旭式 金王式 -5

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 旭式マスクは、空気消費節減のために逆デマンドともいうべき空気嚢を取り付けたために空気を絶対に逃がさないようにマスクを顔にぴったりと張り付ける。マスクが顔に張り付きやすい人とそうでない人がいる。貼り付きやすい顔を軽便面、ケイベンヅラと呼んだりしたが、漏れやすい人は困る。漏れると空気の消費量が多くなるのだ。 しかしながら、自転車空気入れの兄貴分の手押しポンプが必須なのは、漁船のペラのロープ外しだけかも知れない。それも、ポンプを押す人が居なければ始まらない。 コンプレッサーがあれば、空気をそれほど節約しなくても良い。最初から盛大に洩らしてしまっても良い。排気弁も省略してしまって、魚の鰓のように空気を逃がしてしまう鰓マスクというのができた。
マスクが顔に合うか合わないかは、スキンダイビングでもスクーバダイビングでも同じ永遠のテーマである。それをネグッてしまったのが、海王式で、その権利を買って販売していたのが金王式、渋谷の金王町に店があったので、金王潜水だった。
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             金王式 マスク
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             金王式 盛大にフリフローしている

 金王式と旭式が、マスクの世界を二分した。旭式の方が歴史もあり、優勢だったが、マスクを使っている現地へ行くと、金王式もよく見られた。 その勢力分布を調べたところで何になるわけでもないので、調べもしなかったのだが。  マスク式にせよ、ヘルメット式にせよ、どこでどんな風に使われているのかについて、調べるのは容易ではない。 沿岸漁業にせよ、作業潜水にせよ日常の仕事になっているところでは、潜水器は、完全に道具化している。道具化しなければ、仕事にならない。 逆に仕事化、道具化からフィードバックする事によって潜水器が進歩する。 1980年代のニュースステーションの水中レポートとダイブウエイズのフルフェースマスクがその関係だった。現在、世界で、映画、テレビの世界ではこのフルフェースマスクが圧倒的に売れているのはそのおかげなのだ。 
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 2015年昨年の日本水中科学協会のシンポジウムで僕とダイブウエイズ社長であり、マスク設計者の武田さんが対談した。 ダイブウエイズのフルフェースマスクは重量級である。混合ガス潜水を含めて、何でもすべての要求に対応できる。それはそれで、とても良いことなのだが、ただフルフェースマスクで空気が送られてくるだけ、デマンドレギュレーターが取り付けてあるだけという軽量級が欲しかった。何度も進言したのだが、設計技術者特有の頑固さから、武田さんは取り上げなかった。その間隙で、これも親しい友人のゼロが、鬼怒川のマンテイスをベースにして、マンティスフルフェースマスクを作ってしまった。このマスクと同じようなマスクとしては、日本アクアラングが、アトランテイスをベースにしてフルフェースマスク化したものがある。この二つが現今では、日本の作業ダイバーの主流マスクになっている。  旭式、金王式は、軽量級フルフェースマスクなのだ。ダイブウエイズよりもさらに重量級のフルフェースマスクとして、カービーのバンドマスクとか、デスコとかアクアダインの軽量ヘルメットとかがあり、そうなるとダイブウエイズのマスクは中量級で、混合ガス潜水ができるマスクとしては軽量になるのだが、とにかく旭式、金王式は、軽量級である。軽量級でデマンドレギュレーターを着けたものがマンティスフルフェースマスク、デマンドのないのが旭式と考えても良い。 コンプレッサーの送気容量があり、水深が20m未満、10m前後までならば、デマンドレギュレーターは不要なのだ。道具はシンプルな方が良い。デマンドレギュレーターが無くても良いならば、無いほうが良いのだ。 沖縄のモズク漁(養殖の採集も含めて)、伊豆七島のテングサ漁、追い込み網漁などは、デマンドの無いフルフェースマスク、旭式を使っている。空気量が充分ならば呼吸嚢も必要ないのだ。特に鰓式で無くても洩らして、フリーフローで潜れば良い。デマンドレギュレーターを着けても、労働が激しい時にはフリーフローの方が楽だ。それに、フリーフローは整備の必要がない。 付け加えれば、道具として優れているのはメンテナンスフリーなのだ。  旭も金王も製造はとっくに止めてしまっている。しかし、細々ながら需要があり、その需要は無くてはならない需要なのだ。   ヘルメット潜水器の軽便化から、軽量級のマスクに至る面潜のたどった道の概略をのべた。なお、軽便マスク式のことを面潜とよび、マスクのことは面と呼んだりする。

1204 第23回 全日本水中スポーツー室内選手権大会

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 今年で23回、いや僕の中では、1968年、目黒の日大プールで、水泳関係者に邪魔されながら始めたフリッパー競泳大会がスタートだった。それから生々流転して、着生したところから数えて23回だ。思いはたくさんある。
 だから、今のことを。
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 毎年、バックスクリーンへの水中撮影を海洋大学潜水部の後輩に手伝ってもらっている。これは、競技会が辰巳から習志野に移ってからの、決まりのようになっている。潜水部の二年生と一年生、各二人、4人が来る。今年の一年生が来年は二年生になりリーダーで、二人の一年生を連れてくる。
 僕は、たいした指導、指示はしなくても廻っていく。
 たいした指導はしなくても良いのだが、この、ちょうど孫のような後輩と短い触れあいの時間が持てることが僕の喜びの一つになっている。潜水部の後輩だと言うだけで、なぜにうれしい感情を持てるのだろう。不思議なことだ。その感情を大事にしたい。
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 でも、昨年の一年生の顔を二年になった今年忘れてしまっている。今年の2年が、来年3年でもう一度くれば、忘れないのだろうが、それはないのだ。
 忘れないように顔写真を撮っておくのだけれど、それを並べてファイルしていない。やって置かなくては。
 一年前の今日が、昨日のような今日で、一年先の明日が、本当に明日のように月日が流れて行く。そして、その明日が僕には、来るのだろうか。

1206 海豚倶楽部 忘年会

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 落ち葉が風に舞い上がる。晴れているからそんなに寒くはない。海豚倶楽部の練習、太陽がプールに射し込んでいる。今頃の季節の9時から10時半ぐらいまで、射し込む。フィンが作り出す泡が光り輝く。真珠ともちがうし、ダイヤモンド、宝石の類では、空気の珠は例えられない。もちろん写真を撮っても、動画でも再現できない。アイマックスだったら、どうだろう。
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 浦安オリエンタルホテルで倶楽部の忘年会、僕は、オリエンタルホテルのバイキングが好きだ。僕の身の丈にあった味がして、何でもある。このバイキングの忘年会がこれまで回数が多い。その他、屋形船も2回、スパ、温泉も1回か。倶楽部を作ってからたしか16年かな。毎年忘年会をやっている。
 バイキングで満足なのだけれど、今日はカラオケだという。カラオケをやらなければ、気がすまない人が何人か。バイキングではカラオケができない。今日は、カラオケ一筋のカラオケルームだ。バイキングの前を素通りして、カラオケルームに、僕は耳が聞こえないから、カラオケは得意ではない。
 処々方々で人間関係のいろいろがある。もう後何年の命なのだから、クールでなければいけないと自分に言い聞かせて生きている。海豚倶楽部は、そんな苦労は無くて、ただ大事にしてもらっている。
 何が良かったかと言えば、僕が会長ではないことが良かった。僕が教えた人たちの集いから始まって、つくったのだから、僕が会長で当たり前なのだが、会長になるというのはあまり好きではないし、創立のときに倶楽部を仕切ってくれた有◯さんが頭の良い、何かマネージャーをやっていた人で、みんなで交代で会長、及び役員を決める制度を作ってくれた。もちろん、再選も良いのだが、だいたいにおいて、ベテラン、新しい人が交互に会長、役員になるのが慣例になっている。
 だから、ほぼ全員が役員経験者になる。会長ではない僕がいることで、バランスがとれているのだろう。とにかく、僕が楽しければ、みんなも楽しいのだろうと思い込んでいる。僕が死ぬまで、これで行けるだろう。今年は楽しかった。来年も楽しくありたい。 で、耳が聞こえづらくても、カラオケは付き合わなければいけない。「パラオ恋しや」を覚えた。これが曲目に入っていれば、歌おう。さすがカラオケ専門ルームだ。入っていた。歌わなくてはならない。「島で暮らすなら、ダイバ船にお乗り」という歌で、昭和12年、岡晴夫のヒット曲だ。ユーチューブで練習した。この曲についても、書くことがあるが、それはいずれ。
 調子の良い手拍子で歌える曲だから、ダイバーの歌に良いだろう。
 それと、カラオケで、盛り上げ役の前会長、彼女がこの忘年会までの会長だったので、カラオケルームになった佐々木さんとのデュエットも義務づけられているようなので、石原裕次郎になる。
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  まあ、そんなことで、今年も無事だったと挨拶したが、考えたら無事ではなかった。Aさんが、練習の後で倒れた。今も意識が戻っていない。プールで倒れたら、ちょっと大変だったかも知れないが、着替えて外にでる出口で倒れた。血圧が高いのは知っていた。平均年齢の高い生涯スポーツの倶楽部だから、今後もあることだと思っていなければならない。気分的にフラットで、Aさんのことも、僕の意識の中で事故になっていない。未だ、お葬式の知らせは来ていない。だから、何事もなく一年が過ぎたと思って挨拶している。灯が消えるように消えていく。それで良いのだと思う。
 去年、2015年の遠足で、彼女のゴムのサンダルが、伊豆大島だったのだが、プールサイドにぽつんと忘れ去られたようにあって、鮮やかなオレンジ色のサンダルだったのだが、僕がそれを履いてみた。Aさんが「そのまま履いていなさい」というので、そのまま履いて東京にもどり、今年の夏には、ダイバーバッグに入れている。

シンポジウム 12月18日準備

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走りながら考えるというパターンが習い性になっている。いけないこととは、思っているが、長年海事、海仕事をしていると、臨機応変になる。それで生きてきた。一方で、計画、段取りが80ー90%だということも唱えている。高齢になると言うこと、パラレルな思考ができなくなる、
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          シンポジウム報告書表紙にしようとして、没?やっぱり良いかな。


フィジカルのバランスが悪くなるとともに、パラレル思考のバランスをとる、つまりメンタルなバランスをとることも難しくなっている。 それと、どうしても感情に支配される。クールになれ、と念仏を唱えるように唱える。 もの忘れ、忘れ物は、段取りが悪いから、あるいは段取り、計画がないからだ。自己嫌悪に陥る。自己嫌悪という感情から離れないと、負のスパイラルに陥ってしまう。「離れる」「離」と言う言葉も唱える念仏の一つになる。 唱える念仏が次第に多くなってる。 そうなのか、「お経」って、そういう言葉を集めたものだったのだ。 心のあり方について唱えることで、冷静になれる。お経もいくつか、たとえば般若心経もベストセラーだけど、現世には対応していない。 「段取り9割」と唱えつつも、また、段取りが悪く、シンポジュウムが難航している。海事は、予期したようにならないが、陸上行事は計算できるのに、と反省のスパイラルに落ちる。 ともあれ、まだ、準備の段階を走っている。12日には、レジュメというか、報告書に近い、50pほどの印刷にはいる。講演のレジュメ部分と、最新ダイビング用語事典Ⅱの企画発表部分を2分冊にするつもりだ。企画発表部分は、最新ダイビング用語事典Ⅱの前半が年表であることから、その基本になる年表を掲載している。年表は、須賀の編纂したものと、シンポジウムのメイン発表者である山田稔さんが編纂したものと二つ掲載した。視点が違うので見比べると面白い。

1211 日本にスクーバが入ってきた時のタンク?

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シンポジウム報告書の表紙の写真、これにしようと思っていた。
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 でも、こちらの方(下)にする。昨日のフェイスブックに出して見て、悪くない。  表紙は、変えてしまったとして、ブルーメタリックに塗装した5リッターぐらいのタンク、何リッターなのか確認していない。12月18日のシンポジウムで展示するので、そのときに確認しよう。  このタンクはクストーが、映画「沈黙の世界」を撮った時に使われていたものと同じ形だ。クストー等はこのタンクを横に3本並べて連結している。 沈黙の世界が日本で公開されたのは、1956年である。この映画の第二の主人公とも言うべきカリプソ号は1941年に建造された英国の掃海艇である。掃海艇は、磁性で爆発する機雷処理に当たることから非磁性であることが求められるので、木造である。 沈黙の世界の「カリプソ号」になったのは1950年であるから、この映画も1950年あたりから撮影が開始されたと考えても良い。 なお、カリプソ号は1996年まで、クストーの死の間近まで、働いていた。現在は記念として保存されるか、否かとか、どこに保存されるのかとかゴタゴタしているらしい。  日本にアクアラング(開放式スクーバ)が伝来したのは何時だろうか。伝来って、種子島への鉄砲伝来ではない。ついこの間の出来事なのだが、正確には何年何月のことなのか記録がない。 二つのルートが考えられる。一つは米軍が持ち込んだ。もう一つは海上自衛隊が、機雷処理部隊のために輸入した。米軍の水中破壊部隊(UDT)の創始者のフランシス・フェイン大佐が、日本に来ていて、退役後は三崎あたりに住んでいて、後に伊豆海洋公園で開催した僕たちの水中スポーツ大会にも顔を出してくれたりした。そのフェインさんが書いたUDT創立の話が日本語訳されて、「人間魚」1961年 に出版されている。その一節に1949年の12月に初めてアクアラングの練習をしたと書いてある。それまでの潜水部隊は純酸素のリブリーザを使っている。海岸、波打ち際での上陸のための障害物撤去がこの部隊の第一の任務であったが、それは身軽にフィンを履いただけのスキンダイビングである。フィンを履いて、波打ち際を走る?日本の伏竜が潜水器を着けて海底に伏せていたのと対象的である。 幸いに、本当に幸いに日本の伏竜は実戦に参加したことは無かったが、米軍UDTは、勇敢で、海兵隊の上陸の前に、俺たちが先に来たという旗を波打ち際に立てたと言うアメリカ人らしい逸話がある。UDTの損耗率は40ー50%だったという。二人に一人は倒れたことになる。そのUDTがアクアラングを使った最初が1949年の12月だったと書いてあるのだから、それ以前に日本に米軍が持ち込んだとは考えられない。 海上自衛隊の前身である警察予備隊ができたのが、1950年である。機雷処理は当時の急務であり、創立時から今日まで実戦(機雷処理)を戦ってきた部隊であるが、それにしても、早くて1950年、常識的には1951年以降ではなかったのかと思う。その輸入は、米国からではなく、フランスのスピロテクニックであり、輸入代理店はバルコム交易だった。そのあたりのいきさつはニッポン潜水グラフィティに書いたが、展示するタンクは、そのときの1本なのではないか、と考えている。 僕がダイビングをはじめた、1956年、この形のタンクは目にしたことはない。消火器改造型と、フランスのスピロ製、アルミタンクの二本セットを使った。 このタンクは、タンクだけで木箱に丁寧に入っている。木箱の蓋の裏には、潜水可能時間らしき表が張り付けられている。どんなハーネスで背負ったものなのだろうか。それにあまりにもきれいだ。1952年として、64年前である。実際に海で使われたことがないタンクだと思われる。 なお、1951か52年の警察予備隊、自衛隊で潜水を始めたのは、逸見隆吉氏で、後に2代目の横須賀水中処分隊隊長、退官して、300mまで潜降できる潜水艇「はくよう」を持っていた日本海洋産業(現在ある同名の会社との関わりは知らない)の実質的な代表を務められて、自分はずいぶんとお世話になった。2000年に月刊ダイバーが、ニッポン潜水50年史をグラビア特集するときに、潮美を同行して、逸見さんにお目にかかり、1950年ごろの話を聞かせていただいた。しかし、日時は正確な記憶がなく、不明であり、予備隊ができたのが50年とすれば、51年、52年が有力だろうか。53年には水産大学小湊実習場で、米国の海底地質学者、ロバート・ディーツ博士が大学の若い先生たちに、おそらく、潜水の指導方法を教えている。この時の写真もニッポン潜水グラフィティには掲載した。そのとき小湊にはタンクの充填設備があった。その前年に持ち込まれたとすれば、1952年であるが、小湊にあったタンクはこの形ではない。このタンクは51年か、50年かも知れないと迷うが、日本に輸入された最初のものだったのだろう。

1214  シンポジウム報告 1

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18日のシンポジウム、申込みを集計してもらったら、61名、ちょっと少ないから80名にしよう。でも考えた。来られた方、みなさんとお話しようとしたら、60でも多すぎる。それぞれ、大事な方ばかりだ。どうしよう。中でも自分として、こちらから、じっくりお話を聞いてもらいたい人、相談したい方が10名はいる。 僕と話をしたい方、相談したい方も、いるだろう。 多分80名以上になるだろう。楽水会館の定員が93だったはずだ。  60名、いや40名の人と、ダイビングの話ができたらとても嬉しい。でも、この一年にシンポジウムに向けて費やした時間を考えると、もっと、たくさんの方に見てもらいたい、来てもらいたかったりもする。 しかし、費やした時間と言っても、ダイビングに費やしたのならば、自分のため、自分の勉強になっている。ここまで来て、自分の間違っていたところがわかったりする。身動きする、調べてみると、間違っていたことがわかる。81歳で勉強しているって、偉いのかもしれないと、ふと思ったりする。人に見てもらうということは、ともかくとして、自分が学んでいる、講演する人、準備する仲間と一緒になって勉強している。それに見に来てくれる方が参加している。 
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           大串式 マスク
 フルフェイスマスクの元祖、デマンドバルブの元祖である、大串式を展示して、そこから、マスクを並べて来たら、意図しないうちに、フルフェイスマスクの始めから今までの展示になりそうになった。過去から現在、そして今後の近未来に連続する。もっと、意図すれば良かったか?最初は、今、見られない状態になっている船の科学館の展示が、本来の展示よりも、目近に見られれば、そんなことから計画がスタートした。 レジャーのダイバーにフルフェイスマスクはなじまないけれど、プロのダイビングはフルフェイスマスクが、中心なのだ。手にとって見ておくくらいのことは、ダイバーとして、やつておいたほうが良い。と現今の主力機種であるマンテイスフルフェースマスクも並べることにした。  プロのダイバーにとっては、大串式を触れるのは、休日のひとときとしては、悪くないだろう。 講演は良いから、展示だけみに行こうと言う方もどうぞ来てください。今からでも間に合います。
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                復刻しようとしている旭式

 展示についての、講演というか説明だけど。もう一度、日本のライトウエイトマスク、軽便式を考えて見ることも提案している。旭式、金王式が無くなってしまうことは、それを道具として使っている漁師にとっては、困ることだ。復刻して生産しようとしている沖縄の杉浦氏が、このマスクを使って仕事をしているモズク養殖の映像を見せながら話してくれる。 最初は軽く考えていたのだが、計画を進め、展示が実現していく間近になって、これは大きな問題なのだと実感してきている。

シンポジウム報告 2

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 展示企画の計画段階では考えていなかったのだけれど、フルフェースマスクの流れを追って来たら、現在現在形のフルフェースマスクについても展示する形になった。現在形と言いながら、バンドマスクは1970年代からの歴史がある。
 これらについては、JAMSTECにほとんどのタイプがそろっていて、借りだしてお話をと言う考えもあったが、大事になってしまうので、見送った。
 できる範囲ということで、ダイブウエイズは、一代前のものち現在のもの、ゼロからマンティスフルフェースマスクを借りた。

 JAMSTECの、僕たちがプライマリーコース講習のために借りていたプールの階下、回廊のような廊下の部屋に置いてある。保存状態は余りよいとは言えず、用済みになったがらくた風である。きちんと展示したら、と残念になるが、JAMSTECとしては、もうがらくたの部類なのだろう。船の科学館の展示が復活したら、もらい受けても良い。東海大学清水にある博物館でも良い。しかし、まだその時期ではないのだろう。JAMSTECの資料館には置くつもりはないようだ。それとも、すでに一度は展示したもので、資料館から下がってきたのかもしれない。ほぼすべてのマスクのポスターが、プールに飾ってあり、その写真を撮ってある。
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 中で一番ポピュラーなものがカービーモーガンのバンドマスクで、これはスガ・マリン・メカニックでも所有していたことがあり、僕もこれを使っていた。実際は他のマスクを使ったことがないと言う表現の方が正しいだろう 東亞潜水機のカタログにも掲載されており、大概のダイバー会社が持っている。
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 このカービーのバンドマスクとほとんど同じ機能を持っていて、かなり軽量で、使いやすいマスクがダイブウエイズのマスクであり、僕が今現在使っている。重要なことはサイドバルブを持っていることである。サイドバルブとは、マスクの側面に取り付けられていて、送られてくるガスの切り替えができるバルブである。ダイブウエイズのサイドバルブも悪くはないが、カービーのような実績はない。混合ガス潜水が目標のマスクではないからだが、悪くはない。
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 一般の作業潜水に多く使われているのがマンテイスのフルフェースマスクで、一般のダイビングでのベストセラーであるマンテイスに継ぎ足してフルフェースマスクにしたものである。サイドバルブの機構を二階建てのように次ぎ足したものもあるが、継ぎ足しである。
 ただ、すべてのダイビングギアと同じように、フルフェースマスクも使い慣れたものがそのダイバーにとってのベストになる。身体と一体、自分の身体の一部のようにならなければ使えないので、ダイバーは、保守的、特にプロダイバーは保守的である。
 現在の時点では、ダイブウエイズのフルフェースマスクがこのクラスでは、世界最高だと僕は思っているが使い慣れていること、そしてセカンドステージの性能が良いからである。
 
 フルフェースマスクをクラス分けして、カービーを重量級、マンテイスフルフェースマスクを軽量級として、ダイブウエイズは、軽量級でありながら、重量級の機能を持たせたものと考える。もうひとつ、ダイブウエイズのマスクが他の追従を許さないのは、顔の全部が外から見られることである。これは、このマスクがニュースステーション、須賀潮美の水中レポートシリーズのマスクとしてつくられたからで、現在、世界でテレビ番組、映画などはすべてこのマスクで撮影される。カービーもマンテイスもレポーターの顔は見えないのだ。その上で使いやすい大きさで、デマンドレギュレーターの性能も良い。
 ただ、個人的には、ダイブウエイズの先代のフルフェースマスク、サイドバルブが着いていない純軽量が好きだが、ガス交換ができない。

これで、ずーっと続けて読んでもらうと、日本におけるマスク式潜水の歴史、沿革がわかってもらえるのだが、あんまりレジャーダイビングとは関係がないと言われそうだが、レジジャーダイビング、レクリエーション ダイビングがダイビングのすべてではない。
 人数的には、レクリエーション ダイビングが断然数が多いが、生産する産業的には、マスク式潜水がダイビングの主流、中心である。

1216 映像

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初期の後藤アクアティックスにいた志○君の娘さんと言う人からメールが来た。昔、ロケに参加していた「マチャアキ海を行く」VTRで採っていたのが、しまいこんでいるうちにカビでだめになってしまって、お父さんが見たがっている。僕のブログを見たら、後藤さんを偲んでマチャアキを上映したと書かれていたので、買いたい、譲っていただけないだろうか、ということだった。
 癌の手術をされたとかで、元気づけたいということだった。彼とはあまり一緒に潜ったことはないのだが、いくつか印象にのこっている。良いダイバーである。そして、とても良い手紙で、娘さんのやさしさがうれしい。もちろん、差し上げます、でも、お礼とか考えないでくださいと返事をして、探した。ウツボ君の曲芸、変身海の蝶、ウミウシの色分け、なまこのおなら、4本見つけて、取り込んで、送った。
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 ついでに、「我が道を往く」もとりこんだ。見るのは何回目だろうか、合唱も、若いクロスビーの歌もいい。ラストはやはり涙がでてしまう。そして、一人でバッグ一つで静かにでて行く姿が、映画の定番だけど、格好いい。
 マチャアキ、送ってしまった後だったのだが、そうだ、クリスマスプレゼントにしますと言って送れば良かったかな。

週刊朝日の記事

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 週刊朝日 12月30日号に、お台場の潜水について、インタビューを受けた記事が掲載された。週刊誌がどんなものか知っているから、遠慮したかったのだけれど、計画に援助をいただいている筋からの紹介であった。
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 「東京五輪トライアスロン会場 リオ笑えぬ死骸と大腸菌の海」
 そんなこと、言っていないのだが、タイトルをつけるのは、週刊誌だから、どうにもならない。
  きれいな海であることを強調して、これでよいのだということもできない。

「この20年で海中の環境はどんどんわるくなっています。マハゼやイシガニなど生物の数は減っているし、環境汚染に伴う青潮などの影響か、夏には海底近くが無酸素に近い状態となって、会などが死滅する現象が起きる。近年増えた外来生物のホンビノスガイなどの死骸が累々と折り重なります。」
どんどん悪くなっています。とは言っていないし、このようこのような言葉では語っていない。自分の言葉が、変えられるのは、困るのだが、2012年にホンビノスが青潮で斃死したことは間違いない。その時の写真を報告書に載せている。環境問題を語るとき、写真は大きなインパクトがある。ことさらに、斃死の写真を強調していることはない。復活した写真も報告書に乗せているが、報告書を見せれば、週刊誌の記者は、斃死の写真に目が行く。
1990年代に比べて、生物の種類数は減っている。マハゼは東京湾で激減しているし、イシガニはこの数年少なくなり、特に2016年は、ほとんど見られなかった。2012年に青潮でホンビノスガイが斃死したが、2015年には復活した。しかし、来年、青潮が来ないという保証もない。週刊誌記者がまとめれば、こういうことになる。そして、間違いではない。
「競技に直接支障はないでしょうがイメージの問題はあるでしょう」
競技に支障があるといわせたかったと思うけれど、それはトライアスロン選手の考えで決めることで、僕たちの潜水に支障がないのだから、問題ないでしょう、といった。これはそのままになっている。
「夏と言えば、まさに東京五輪の開催時期。リオ五輪ではリオ沿岸の海の汚さが話題になったが、日本もよそ様のことを笑っている場合ではない。
問題はまだある。都が2013年にまとめた環境調査では、この付近の海中で、国の水浴場の基準値(100ミリリットル当たり1000個)を超える糞便性大腸菌群が検出されているのだ。「大腸菌の値は、普段は基準値以下ですが、大雨のあとなどに下水処理場の能力が追い付かなくなり、汚水がそのまま放出されるために、一時的に高くなる。この状況は今も改善されていません」(前出の須賀氏)
東京都五輪・パラリンピック準備局に尋ねると「徐々に、下水処理場の貯留槽を増やすなどの対策をとっており20年までには改善が期待できる」とのこと、一方青潮などによる生物の死滅については、都の環境局の担当者が、「普段から、赤潮や青潮の原因となる海水の冨栄養化を抑制するため、排水の規制などに継続的に取り組んでいます。」と説明したが、今のところ五輪に向けて特別に手をうつ動きはないようだ。前出の須賀氏はこのように語る。
「赤潮や青潮の問題は簡単には解決しないでしょうが、数重メートルおきに、酸素を供給する生き物の避難所をつくるなど、局所的な対策も考えられます。せっかくの東京五輪なのだから、競技をして終わりではなく、これを機にきれいな江戸前の海を復活させて、世界にアッピールできるようにしてほしい。」東京はハコもの以外のレガシーを残せるのだろうか。

 タイトルでは、誤解を招くだろうが、それが週刊誌の目的なのだと、割り切れば、 まとめの部分では、だいたい、言った事とあまり違わない。

シンポジウムでも話したのだが、僕たち、ダイバーが潜るということが、環境改善につながれば、と願っている。

1221 12月18日のシンポジウム

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18日のシンポジウム  マスク式潜水機の歴史、レクリエーショナルダイビングには関係ない。シートピア計画、これも過ぎた歴史の一コマ、今のダイビングには何の関係もない。一般のダイバーが興味を持たないマニアックなテーマであり、集客の反応が少ない。それに募集の開始もでおくれた。皆様にはメッセージなどしつこく送って顰蹙を買うかもしれないでも、とにかく何をやるかだけは知っていただきたい。 最悪、50名程度で、月例のワークショップに毛の生えた程度でも良いか。それならそれで、おいでになった方一人ひとりとのコミニュケーションが密になる。 久保さんと話した。何人おいでになるかということよりも、誰が来てくれるか、ターゲットを絞って、早くからお知らせしなければだめだね。この反省は今もしている。そのレディネスがなかった、 12月4日、室内選手権大会の時点で、61名だった。80名にはしたい。最後の追い込みだ。室内選手権大会では、シンポジウムの勧誘に終始した。 海洋高校の感触があり種市高校の先生ともお話ができた。文科省の担当も、まあ、後輩ではあるのだが、行く努力をすると言ってくれた。海洋高校卒の弁護士松村房弘先生もおいでになる約束をしてもらい、沖縄水産高校の寺瀬先生も来ていただけた。誰が来ていただけるかという点で、大きな収穫だった。というのも最新ダイビング用語事典Ⅱを作るにあたって、海洋高校、種市高校にスペースを割こうと思っていたからである。
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              ニュース・ステーションで使ったバブルヘルメット

 結果として97名の参加、満席になり、後ろに椅子を置いたりした。 シートの後ろに空間を作って展示にしたことも良かった。参加者が展示を見るのに楽だったし、よく見られた。今後の恒例にしようと考える。 自分の発表と、スピーチ、で時間配分調整をしたのだが、これも一応納得できた。山田さん、久保さんの発表も、自分は耳が聞こえないので、聞こえなかったが、皆さんの反応は良かった。 来てくれた方 80%の満足はしていただけたのではないかと思う。
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                 写真とポスター展示
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自分としては次に繋げる感触を得ることができた。何時までできるか?だが、できなくなったときにも、次に繋げるバトンになれば、良い。

1222 歳の暮れ

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12月18日、およそ半年、時間をかけてきたシンポジュウムが終わった。今日は22日で、昨日21日にご苦労さん会をやった。
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                    ご苦労さん会 スタンバイ
あと、年末まで、指折り数えると、9日間だ。その9日間にやるべきことが無数にあるような気がする。全部メモにしないと、なにをしようとしているのか忘れてしまう。 今年は、年賀状を暮れに書くのは無理だ。正月の三日間にやることが特にはない。その三日間で、落ち着いて年賀状を書こう。返事の形で年賀状を書こう。書くのは、150枚限定にしよう。いや、返事を書きたい賀状がそれよりも多かったら買い足す。
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                シンポジウム展示 マンティスフルフェイスマスク改造型

 シンポジウムその他、今年のことでこちらからお礼を言わなくてはならない方には、年末、除夜の鐘がなるまでに書いて、「良い年をお迎えください」と書いて。報告書添付で、メールで出すことにする。これが必須だから、賀状を先にまわす。

1226 海に行った時の日記

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 海に行ったときは、「海に行ったときの日記」とタイトルをつけよう。 海に行くと行ってもこの数ヶ月、月例のお台場だけだ。 6時に目覚める。8時には鈴木と待ち合わせ手居る。毎度だけれど、寝起きは気分が乗らない。エンジンが始動しないうちに走り始める気分だ。  寒い。雨も降りそうだ。鈴木君は、雪も降るかもしれないと言う。ドライに着替える。山本さんは、暖かそうなインナーを着ている。水没しても寒くならないのだという。僕が寒さに震えているのに、暑いくらいだとか。買おうかな、いくらぐらいか? 4万円くらいだとか。僕のインナーは、土木作業員の着るキルティングのつなぎ、長袖だ。ダイビング雑誌で見たことがある。キルティングは、ドライのインナーには不適だと。でも、僕はこれで、流氷に潜っていた。斜里の洋品店で買ったのが最初だったかな。一緒にいつも潜っていたのは、テレビのロケでは、いつも西沢邦昭君だった。余市にいて、夏はホッケの産卵を一緒に追った。最後に一緒に潜ったのが65歳の時だから、もう15年の時間が流れた。今でも年末に「たらこ」を送ってくれる。今年も送って頂いた。もう、僕が流氷に潜ることなど、無いだろうが。 そのキルテイングの長袖ツナギの上に薄手のナイロンのセーターを着る。 少し下着が増えたので、ウエイトを増やす。ウエイトジャケットは7キロで、きまりだから、ベルトを4キロから、6キロに増やす。これ以上は増やさない。なにしろ水深が、1m、深くて2mなのだから、ウエイトは重くなる。いつもはレッグにウエイトを巻くのだが、今日は、マンティスドライフィンにした。 スプリングのストラップが付いている。 波打ちぎわで、一人でフィンを履けた。後ずさりして、膝まで入り、膝立ちになって、マスクを着ける。マスクマウントにカメラはSJにした。手持ちカメラは、TG4にワイドアダプターを付けて、イノンのライトが二つ付いたステイに載せる。フィッシュアイのライトは修理に出してそのままだ。忘れられているらしいけど、催促しない。
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 スノーケルを咥えて腹這いになった。ドライの空気を抜きながら泳ぎ始める。弁付きではないダイブウエイズの黒いただの筒スノーケルだ。素通しだから、呼吸が軽い。水面でバランスが良いので、オリンパスで動画を廻して撮りながら泳ぐ。液晶を通してみる水中はきれいだ。何もいない。マガキが元気良さそうに生きている。水深は50cmぐらいで、カメラの位置は、水深30cmにある。親指の爪ほどもないヒライソガニが、ちょろっと動いて隠れる。気持ちよく泳ぐ。このまま、目的の杭まで、行ってしまおうかとも思ったが、沈むことにした。水深は1m。スノーケルをレギュレーターにくわえ直すと、少し抵抗がある。ダイブウエイズのセカンドで、最高に軽いのだが、素通しのスノーケルよりは抵抗がある。今更のように、なるほどと思ったりする。もちろん、苦しいというレベルではなくて、数回呼吸すればなれて、気持ちよく空気が流れてくる。そう、空気が流れてくるのだ。
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          イソガニが潜んでいる。

 真牡蠣が一面に広がっている。生きている個体が多く見える。一年で交代するサイクルを繰り返して居る?のだから死に殻の方が多くて当然なのだが、勢いの良いときは生きている個体が多く目につく。勢いなのだ。牡蠣の勢いが強く、汚らしく見える付着生物が全く見えず、きれいだ。死に殻もきれいで、殻の中で動くものが。殻は、蟹や、ギンポの住まいになっている。ギンポの姿はない。小さなイソガニが隠れている。何とか殻を開けないで撮ろうと努力するが撮れない。 最終ターゲットの杭の列まで行くが、魚の姿も、イシガニの姿も見えない。 イソギンチャクがきれいだ。種類名は、チギレイソギンチャクと記憶しているけれど、記憶である。種類名はすべて記憶なのだ。本当のところは、採集して同定しなければわからない。同定は、専門家にならなければ、できない。イソギンチャクの類は、何種類もいないから、確実に覚えておけば良いのにとも思う。
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 きれいだな、と思えば、きれいに撮ろうと思う。何枚かシャッターを押す。 赤いのは猩々ケノリ、種名はカナが定めだが猩々と書くと、ああ、歌舞伎の猩々か、とわかる。しかし、これも、誰かに教えてもらった記憶だ。 イソギンチャクをきれいだな、と思うのと、公園の落ち葉のモミジをきれいだと思うのと、どうちがうのだろうと思う。潜水していることが違う。冷たい。身体のバランスをとって浮いていなくてはならない。そのことが、ものを見ることについての違いになる。のだろうか? ?マークが多くなる。 水温は水面で13度、2mの底で14度、寒くなってきた。せっせと泳いで帰ろう。 大きくて重い、マンティスドライフィンは気持ちの良いバランスだが、足を浮かしてのフロッグキックができない。できにくい。このフィンが設計された時は、フロッグキックは視界に入って居なかったのだろう。  今日は珍しく風呂田教授が来ている。正確には東邦大学元教授だ。東京湾の生き物研究に生涯を通して携わっている研究者だ。風呂田を前に出せば水戸黄門の印籠的効果がある。印籠を出しても、何も解決はしないけれど。このところ、江戸川河口の干潟に関心が移っているので、こちらにはあまり来ないが、風呂田と僕で、この潜水、東京湾水中生物研究会をはじめた。 東京湾潜水の来歴を話せば長い話になるが、 僕、須賀と、須賀潮美と、風呂田先生、三人が中心で東京湾潜水探検隊というグループを作った。風呂田が隊長で、潮美が副隊長僕が世話役となった。ニュース・ステーションの延長線上で作り、電通映画社の神領プロデューサーが応援してくれて、21世紀を前にして、東京湾の自然環境、もちろん、潜水して見る自然環境だが、それを探検しようということだった。 まず、富津岬に潜水した。東京内湾と、外湾の境目に当たる。 そして、その頃、千葉港にビッグドッグというダイビングポイントができた。千葉港駅に近い千葉港に、造船の不況だとかで造船場を止めたドッグがあった。ドッグに水を引き込んで、船が入り、水を抜いて船の修理をするドッグだ。そのドッグに水を張って、浄化装置で水を浄化して、魚も泳がせて、人工のダイビングポイントにしようという試みだった。まずまずの評判を集めていたので、とにかく行ってみようということになった。僕の記憶では、この潜水探検隊で、潮美が一緒に潜った、ただ一回のことだった。 そして、驚いたことに、その時、ついこの少し前まで、テレビ朝日のディレクターで、ニュース・ステーションにも関わりのあった増子さんが、テレビ朝日を辞めて、そのビッグドックでチーフダイバーをやっていたことだった。増子さんとは、今、タイのタオ島でダイビングサービス事業をやっていて、僕たちの間では、有名になっている人だ。 そのビッグドッグは、増子さんがいうには、水の浄化装置が予定通りに働かなくて、失敗したということだった。僕たちが行ってから半年もしないうちに閉鎖になった その時の写真を探しているのだが、どうしても見つけられない。 その東京湾潜水探検隊の行事として、お台場にも潜水して、そのまま風呂田先生と僕がお台場の潜水を続けることになり、やがて、東京港水中生物研究会になった。なぜ、唐突にそんなことを書いたかというと、つい先日、増子さんとその当時の話をしたのだった。
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 そして、僕が近くのコンビニでパンを買って、お昼を食べていると、なぜが、風呂田先生が、僕に肉まんをくれた。なぜだか分からない。あまり、最近、お台場に来ないので、そのエクスキュースだろうか。なんだかわからない。彼に食べる物を頂いた記憶もこれまでにない。がありがたく頂いた。その風呂田さんと、話し合う。「お台場もめっきり良いものが少なくなったね」「季節的にも少ないときだけれど、昔はこんなにシーンとした感じではなくて、何か賑わっていた。」「そうだね、東京湾潜水探検隊の時分よりも、ずいぶん少なくなった。江戸川の河口はどうですか」「東京湾全体で少なくなっているみたいだね。」「なぜだろう。」「わからないけれど」
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 朝、曇で雨、雪の心配をしていたのだが、日差しが射して来た。お日様がでると、嬉しくなる。ボンボンベッドを持ってきていれば、昼寝をするのだが、持ってきていない。ブルーシートの上に、カメラバッグを枕にして、横になった。何分ぐらい寝たのだろう。30分ぐらいか?仰向けの状態で目覚めて、目を開くと、雲一つない青空だ。本当に雲一つない。 朝方寒かったので、今日は一回だけの潜水と心に決めていたが、もう一回潜る気になった。海と言って、こんな海なのだが、僕が海に潜れる数少ない日なのだ。 尾島さんの奥さんが潜っている。あと、東邦大学の多留さんと海洋大学の依田くんが潜っている。時計を見ると、2時少し前だ。30分潜って上がってくれば、後片付けには間に合う。急に元気よく、潜り支度をした。今度は、フィンをドライフィンではなくて、いつものトライスターにしよう。ストラップが緩かったので、ワンノッチづつ短くした。持って入るカメラはGoPro2にした。動画を撮る。遠くまで行かないで、砂浜周りを見て回ろう。 波打ち際で、手助けなしでフィンを履いた。
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 砂地の近くにいるスジハゼを撮影する。スジハゼだけしか今日は魚が見当たらない。接近すると穴の中にパッと入る。かなりの数がいるので、撮った。ヘドロの上も撮ったが、水が濁ってしまっている。お台場は、浅い磯場は水がきれいだが、中心のヘドロ場は、何時も濁っている。濁ったヘドロの上も一周りして、上がった。 砂地に膝を突いて考える。フィンを脱いで、小脇に抱えてスックと立ち上がり、スタスタと歩いていこう。そんなイメージを頭に浮かべた。何時の昔のことなのだ。でも、やってみよう。歯を食いしばるようにして立ち上がり、よろけないように、して歩く。なんとか転ばないで、エキジットできた。

12月28日

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 日記以外に書く気にならないので日記、
 
 12月28日 2016年の終わりまで、残すところ3日になった。 年賀状、今年はもうやめようかとも思ったが、賀状だけになったおつきあいというのも大事にしなければいけない。生涯の一時期、親しくさせていただいた。意気投合した。一緒に仕事をして、賀状をやり取りするようになった。一期一会という言葉がある。歳をとるとともに次第に重くなってくる言葉だ。やはり、賀状を出さなければ、気持ちよく賀状を受け取れない。 もちろん、親しい仲であればあるほど賀状は省略する傾向にあるから、別に賀状がなくても、お目にかかってご挨拶をすぐにするような方は御免蒙ってしまうことが多い。だいたい、毎年200枚位をめどにしている。住所録への登録は2000ぐらいだから、だいたい十分の一だ。 そんなことで、今年も200枚 作ることにした。基本は2016年にいただいた賀状に返事を出す形、プラスαである。知人を増やす、人脈作りのために頂いた名刺で、さらに親しくなりたい方に出していたこともあったけれど、それでは、際限もなくなってしまう。今更だから、頂いたら返事を出せば良いだろう。
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               左側が出す賀状、右が2016年元旦に頂いた賀状
 PCとプリンターがあるから、賀状が栄えているのかもしれない。いちいち宛名を手書きにしていたら、200など大変なことだ。手書き、毛筆の時代には本当に特別の付き合いでないと出せなかったのだろう。だから、今の形、100枚を超えてだす賀状の歴史はそんなに古い昔からのものではないのだろうか?。 そのプリンターの調子が悪かった。簡単にできると思ったのだが、すぐに、印刷されないままでてきてしまう。はがきの厚みがいけないのかもしれない。これで、2時間ぐらいかかって、50枚も印刷できない。事務所のプリンターは、諦めることにした。自分の部屋に戻って、やって見たら、スムースにできる。事務所のプリンターは、キャノンのPIXUSだ。部屋のプリンターは、インクよりも安い、やはりPIXUSだがIP2700だ。出来上がりも遜色ない。今度インクが失くなったら、事務所もIP2700にしてしまおう。 そんなことで、はがきを2種類用意できた。これも失敗で、個人と、オフィシャルを分けて、100づつにしたら、個人が圧倒的に多いのだ。個人だけにしておけばよかった。まあ、良いだろうということにした。次の失敗は、さて、宛名を印刷したら、自分の住所も一緒に印刷できてしまう。原稿の下に、住所を入れているのが、無駄だった。でも作り直すわけには行かない。そのままにした。 およそ2日がかりで作って投函したら、どっと疲れがでた。 気を取り直して、事務所に行く。一日に一回は行って、郵便物と届け物を確認する。嬉しいことに、数日遅れのクリスマスプレゼントということで、「チョンモランマ」というあたたかそうな シャツの上下が息子から届いていた。ドライスーツのインナーのキルティングの上に重ねよう。今年の冬の海はこれで◯かな。

図書館に回って、正月に読む本を借りる。収穫は、「
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世界の無人航空機図鑑」 ドローンの図鑑があった。水中の僕たちがROVと読んでいた無人カメラは、「水中ドローン」ということで、一章設けられている。そうなんだ。無人機は、すべてドローンでくくられる?ドローンの定義が最初に書かれていたが、水中ROVは、航空機ではないから、ドローンとは言えないかもしれない。また、操縦の難しい無人機はドローンと呼ばれることに、パイロットが難色をしめしているとか、正月にゆっくり読もう。いや、正月には、論文といえるようなお台場についての企画書を書く予定にしている。自分の目指すところを確立しておかないと、流されてしまう。何をしようとして、何をするのか。しかし、外からの刺激がないと、考えが進まない。  古石場図書館は、小津安二郎監督の特別展示がある。何回か覗いたことがある。写真撮影禁止だから写真で紹介できないが、「小早川家の秋」 の大きなポスターが、見たかなあ?これが1961年で、遺作、1963年に60歳で亡くなっている。 60歳で一区切りなのだ。自分は1月25日に82歳になる。「80 代になると、近い将来に険しい峰、深い海を目指したくなるものなのです。」 年賀状の結びに書いたセリフです。

12月 29日 日記

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 ☆今年のシンポジュウム、マスク式を追って、その最後で、沖縄のモズク漁について、旭式マスクでなければ困るという漁師さんの話をしてもらった。浅い水深での作業だったら、コンプレッサーから送る空気が充分だから、デマンドバルブ(フーカーのレギュレーター)がないほうが、苦しくない。いくら良いレギュレーターでも素通しのフリーフローよりは呼吸に抵抗がある。事実フリーフローに近くして使っている人も少なくない。 だからライトウエイトのマスク式として、旭式の復活もありかもしれない。しかし、ローカルだから、大きな資金を用意して製品作りをすることが難しい。このごろ流行のクラウドファウンディングをやりたいという。その紹介がシンポジウムでできなかったので、拡散してくださいという要望があった。

したのURL がそれです。見てください。
https://readyfor.jp/projects/10999

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日記片づけものをして、ブックオフにスーツケースⅡ入れて本を持って行く。1200円也、600円ぐらい本を買った。 午前中で一段落したので、午後からは読まなくてはならないものを読んで、じっくり考えることをはじめようか、と考えた。もう、世の中は御用納めだから、こっちも納めて良いだろう。年末から三が日、4日までスケジュールがあいている。その間にじっくり考えて、新しい年の計画をたてよう。 ①お台場 これは、多難だ。自分の計画ではない計画とのスリ合わせをしなければならない。まずく行くと、自分の計画が終わってしまう。終わらないように、自分のスタンスを確立しておかなくてはならない。 ②最新ダイビング用語事典Ⅱ 池田知純せんせいから、論文「高気圧作業安全衛生規則の問題点」が送られてきた。ざっと読んだのだが共感する部分が多かった。最新ダイビング用語事典Ⅱと絡めて、考えをまとめてえ、送ろう。最新ダイビング用語事典の潜水医学、減圧症にかかわる部分の、おおよその構想をまとめて、池田先生に送る。そんな形でまとめる。 そして2017年のシンポジュウムは、高気圧作業安全衛生規則 についてレクリエーションダイビングとの関係 問題点 そんなテーマにしようかと思いついている。  昨日図書館でかなりたくさん借り込んだのと、今日のブックオフでの買い込み、読んでいる時間がない、くらいに仕事ができれば良いのだけれど、やはり、楽しみの読書をしてしまうだろう。 


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