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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1001 スマートフォンの紛失

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ブログが滞ってしまっている。書き掛けているテーマはいくつもあるのだが、気にかかっていることがあり、気持ちが乗らない。少しがんばる。  24日、土曜日、スマートフォンをなくしてしまった。最後に電話をかけたのが、12時ごろ、事務所からかけた。15時頃事務所をでて、家に向かい、鞄から出そうとしたら無い。 事務所にとりにいったら、所定のPCの横に無い。ありそうな場所を探したがない。また、もどって探したがない。いくら探しても無いので、翌日曜日、ロックをしてもらおうとNTTに連絡した。検索をしてもらったら、江東区古石場2丁目8ー1にあるという。そんなところには行っていない。誰かが拾った、とすれば、落としたことになる。検索の能力はすごいものがある。 なくしたら、ドコモサービスに電話して探してもらうと良い。GPSのスイッチも入れていないし、お探しのサービスにも加入していないのだが、ある場所がわかってしまう。 ただ、検索のためにはパスワードを覚えていなければならない。幸い、手帳に書いてあった。幸運なことにカレンダーも、無くなった前日にグーグルにしておいた。これは、PCでも見られる。これをしていなかったら大変だった。
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 落としたのだ。鞄はポケットが深く、落ちるようなことは、考えられない。チャックは締めていないが、スマホのポケットは締める習慣がない。服のポケットから出す要領で使っている。スマートフォンが脱出した。想定外の出来事だ。  誰かが拾ったのだ。その番地のあたりに行ってみたが、集合住宅もあり、一軒一軒訪ねる度胸もない。拾った人は、多分交番に届けてくれるだろう。土曜に拾っても届けるのが水曜ぐらいかもしれない。木曜まで待って、深川警察署に出向いた。 無い。届け出していないと、ドコモの保険が適用されない。保険を適用すれば1万円で、新しくなる。警察は各電話取り次ぎ店と連絡があり、見つかった場合には、ドコモならばドコモから、ユーザーに連絡がくる仕組みになっている。 スケジュールがグーグルになっていて良かった。メールもPCと共有だから問題ない。たいていのデータが共有になっている。僕の場合、映像も必要な物はPCに移している。 あと、問題は、電話番号だ。電話番号は携帯を最初に買った時からの蓄積だから、死んだ人まで入っている。そして、僕の場合登録してある方以外は電話にでないことが多いし、誰だかわからないとかけ直すこともしない。留守電も知らない人だと無視する。 これは困った、いつも電話連絡がある何人かの方にはメールを出して、常用の番号をしらせてもらった。 新しい端末を金曜に取りに行く。警察に連絡してもらつたが、やはり届けではなかった。落とす自分が悪いのだが、現金ではないので拾ったら届けてくれれば良いのにと恨んでしまう。お財布ケータイは幸いにして使っていない。あれはやめた方がいい。 それにしても携帯のない一週間、自分が如何にスマホに依存しているか思い知った。この上財布まで端末にしたら大変だった。  新しい端末を受け取ったら、電話番号はそのまま記録が残っていた。これもすごいことだ。とともに、NTTドコモにはその記録まで残されているのだ。個人番号どころではない。全部の秘密は握られている。

1002 2012年のこと

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ブログが書けなくなってしまっている。 テーマを決めて書きためてきたものもあるのだが、時間が経過すると出せなくなってしまう。  いろいろさがしものをする。デジタル化したものがかならずしも探しやすい使いやすいものとは限らない手帳に書いていたものの方が見つけやすいので探すのだがなざ、こんな簡単なことをメモに書いてなかったのだろうと思うことがたくさんある。その一がパスワードだ。当然のことなのだが、昔のパスワードを忘れている。昔は記憶力が優れていたこともあり、メモしなかった。今はもう使っていないニフテイのメールが復活できない。スマホを紛失して、どうにも復活できない。迷惑メールばかりだったので、どうでも良いのだがヤフーオークションにつかったいた。オークションのものは、あまり良くないので使うつもりはないのだが、やはり復活させておくに越したことはない。そのパスワードを探していて、こんな文章をみつけた。 2012年の1月に書いている。月間ダイバーの「グラフィティ」を書き始めた頃だったと思う。この文章はグラフィティには使わなかった。途中で脱線してしまったので使わなかった。使えなかったのだろ。それに、内容は不謹慎だとも思った部分がある。例によって支離滅裂にもなっている。  グラフィティ 夢と冒険 ダイビングを始める。ダイビングを始める誰にとっても、それが何時どこであっても、1956年でも2012年でも、初めてマスクをつけて海の中を見た時、タンクを背負い水中で空気を吸った時、それは驚き、それは胸をワクワクさせる夢と冒険だ。学術研究も夢と冒険だ。業界は安全を売っている。僕はそれが間違いだとは言わない。安全を売っているのだから、責任を問われる。安全と危険という言葉を生と死に置き換えてみよう。それは売れるものではない。 震災は東北を福島を夢と冒険の地に変えてしまった。それを不謹慎というならば、日本は立ち上がれない。東北は元気だという。ボランティアは元気をもらって帰ってくる。なぜだ。死は悲しい。打ちひしがれ涙する。あの時、日の丸を見たら泪がでてきた。悲しみを夢と冒険に置き換えて人は立ち上がる。悲しみの大地に日の丸が翻った時、日本人ならば泪が出て来る。
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                       福島県久之浜
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                        放射能測定
こレは、2012年に書いたものだ。その後、僕は自分ができることを探した。力仕事はできない。50歳代だったら、カメラを担いで、潮美を連れて、車で北をめざしただろう。残念だけど若くない。放射能の測定をしようと思った。魚礁調査で通った福島の海を、自然礁や人工魚礁が今どうなっているのか、放射性物質のホットスポットになっているのではないか、調べたかった。紆余曲折があって、2011年、12月から、理研の守谷君の研究を手伝って、福島原発から直近で潜れる久の浜に行った。全部で10回の潜水で、その10回目の潜水が2012年の2月4日で、これでこの潜水は終了した。そんないくつかのことがオーバラップしてこんな分賞を書いた。 その後スペクトル分析装置をつくり、2013年に再度、今度は福島第一の前にもぐるおとになった。しかし、それは実施3日前に中止になり、その装置は虚しく遊んでいる。 装置を作ってくれたTさんと話した。彼はいまダムの底、泥の中の測定をする装置をつくっているそうだ。海はどうなっているのだろう。でもあの時測定していれば、現在との比較ができる。僕にはもう福島第一の前に潜る機会はない。
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              後藤道夫の遺作になってしまったスペクトル分析装置
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                この装置が使われることはなかった。


つい先ごろ、福島のテレビ局から、僕のブログを読んで、あの時と、あれから5年経った今との比較を、僕が潜っているところでインタビューしたいという。残念ながら、僕はあの時も、今も、福島第一の前に潜っていない。特番でも作ってやらせてもらえば別だけど、と言ったが、そんな予算もない。もし予算があったとして僕はできるだろうか。 あの時2013年には、石川さん、鈴木くん、僕の3人で潜ろうと、ワールドダイブでドライスーツを作ってもらった。一回着たらも廃棄処分になる。 でも、あの時、3人で潜って、誰かが癌になったら。それが福島に潜ったためではなかったとしても、僕は良いとしても責任はとれない。僕はソロで潜るつもりでいた。船上でのアシスタントをお願いしようとしていた。 数日前、ソロダイビングの講演があったが、行かれなかった。死ぬのは一人で良い。

1005 全日本スポーツダイビング室内選手権大会

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12月4日 日曜日 第23回全日本スポーツダイビング室内選手権大会ガ千葉県習志野国際水泳場で行われる。23回だ。出場する学生諸君の多くがまだ生まれていない時からになる。もしかしたら、第一回に出場した選手の息子が、娘が出場しているかもしれない。その23回、ずっとプログラムの挨拶文を書かせていただいている。とおもう。もしかしたら抜けている年があるかもしれない。毎年、同じようなことを書いている。前年の文を見て少しリライトする。今年はなにか変えたい。前年の挨拶文を見ないで、適当に書き始めた。なにかキャッチコピーが欲しい。そこで以下のようになった。 「この全日本スポーツダイビング室内選手権大会も23回を迎えました。ここまで無事に続けて来られたことは、夢のようです。振り返れば、思い出は山のようにあります。始めたころは、生涯スポーツがメインテーマでしたが、高齢者の出場が少なく、私が60歳の400mに出場したときは選手が自分一人で、泳ぐ前から金メダルが約束されていました。その後、金メダルを四ついただいたのですが、二つ目からは一緒に泳ぐ40代、50代の方も何人か抜きましたから、立派なものです。心残りは、65歳の時に、出場をやめてしまったことです。負けても、遅くとも良いから出場を続けていれば良かったです。 継続は力なのです。一度出場された方は、生涯出場を続けられることを願います。 この競技が、海での活動を安全に行う基本になることは、繰り返してお話しています。「泳げ!命のために!」。  何処かで聞いたことのあるコピーだけど「泳げ!命のために!」海での危険回避のみならず、体調が悪く、死ぬかと思うときに、スキンダイビングをやったり、泳いだりすると、生き返る。それが何時まで続くのか、一昨年は50m泳いで最下位になったが、昨年は諦めた。撮影の世話とか、お客様と話をしたり、忙しい。やはり無理だ。無理をしないように無理をして、頑張れと娘に言われたが、無理無理になってしまう。65歳でやめて、80歳で復活というのは、やはり僕の現状では無理だ。無理無理になってしまう。だから、65歳でやめないで、続けていれば、と悔やむのだ。勝たなければ意味がないと思ってしまったの

1006 マスク式潜水機 

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ブログがぜんぜん進まない。
 書いても気に入らない。
 それが、ブログ停滞の理由の一つ。もう一つは、シンポジュウムの準備、そして最新ダイビング用語事典Ⅱの企画、これはシンポジュウムで発表するので、同時進行できるのだが、これをまとめなければならない。尻に火がついている。 シンポジウムの原案、をブログにしていくより他に両立させることは難しい。最新ダイビング用語事典Ⅱ の芯は、年表にしようと思っている。ダイビングの過去から現在までの道のりのすべてを表にする。大項目から中項目、そして小項目、三つの流れに分けて、系統的に表にしたい。
 これはもう僕が死んでしまえば、できなくなるとは言わないが、大変になる。
 だから、進めなくてはならない。本当に最後の仕事になるだろう。最後の仕事というフレーズも聞き飽きたと言われるかも知れないが、 最新ダイビング用語事典Ⅱ、年表の次に現在から未来につながるトピックスと並べて行けば、ダイビングのすべてがわかる。Ⅰのように項目別の事典ではないが、読む事典としては、コレでよいし、検索する事典としては索引を充実させる。どうも、Ⅰは索引が気に入っていない。
 当初、ⅠとⅡを合冊する形を考えたが、Ⅱが膨大になりそうなので、合冊すると大部、高価になりかってもらえなくなる。 最近の原稿の書き方だが、箇条書きに書いていって、その間を埋めていく。箇条書きは(1)(2)(3)(4)(5)(6)と①②③④⑤の二段だ。
 
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                        山本式 三浦定之助 「潜水の友」より
 マスク式潜水のことを書こうと思っている。マスク式潜水
(1)マスク式潜水は、日本が誇れる潜水機だった。(2)アメリカのマスク式潜水機 DESC0
(3)マスク式潜水の二つの流れ
   ①フリーフロー式
   ②デマンド式
(4)デマンド式は日本が元祖
   ①大串式
   ②山本式
   ③小型ヘルメット
(5)諸外国のデマンド式
   ①歴史時代 フランス
    ルキヨール Rouquayror 1864
   ②ハイドロパック
   ③カービーバンドマスク
(6)軽便マスク式
   ①浅利式
   ②旭式
   ③海王式→金王式
   ④そして今
(7)デマンドバルブ付きのフルフェースマスク
   
 ざっと項目であげただけでも、図版を探すだけで大変だ。大変だから、ブログで一つずつ当たっていく他無いともおもう。
 これまで、ハウジング史だとか、尻切れになっているが、最終的に最新ダイビング用語事典でまとまれば、かたちになる。
 ブログは下書きのようなものだから違うと指摘してくれれば助かる。 

1010 マスク式潜水機

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マスク式潜水になぜこだわるのか、なぜ興味を持つのかといえば、その多様性である。そして歴史の中での変化がある。そして、そのほとんどのマスクを使ったことがないマスク式について箇条書きに上げてきたが、その一、マスク式潜水は、日本が誇れる潜水機だった。なのだろうか。 1935年、僕が生まれた年なのだが、そのころまでは、日本のマスク式潜水は、世界の先頭を切っていた? しかし、そのころに、世界にはマスク式潜水と呼べるようなものがあったのだろうか。 その前にまず前置きとして、マスク式潜水には二つの流れがある。二つに大別できるということだ。 一つは、垂れ流しフリーフローだ。もう一つは弁を作動させた時だけ空気が流れる、いわゆるデマンドタイプだ。 もちろん原始的なフリーフローの方が古い。ポンプで空気を送って、ホースをくわえれば水中で呼吸できる。この方式は東南アジアた、しかフィリピンだかにあった。口でくわえる代わりにマスクの中に流し込んでやれば、立派なマスク式潜水だ。2000年だったかにインドネシアに宝探しの取材に行ったとき、現地の海鼠採り潜水漁師は、全員、この方式で潜っていた。 結構良いもので、採集型の漁業ならば、これで十分かもしれないと思った。息をこらえて潜る海女漁やウミンチュよりも効率的だ。効率的だから日本の海女漁では禁止されて、息をこらえて潜るのだが。 深く潜るためには大量の空気が必要だと言うことは、実際に潜るダイバーならば、すぐに経験で知ることが出来る。次に考えることは、深く潜るためには空気の節約が大事だと思う。 なぜ、深く潜るのか?ダイバーの本能だ。なぜ、早く走るのか、と同じだ。 水道に蛇口を付けるように、空気の出口に蛇口を付ける。最初は手動だった。 手を作業に使うためには手をフリーにしたい。 歯で弁を咬んで開く、空気はマスクの中に出して鼻から呼吸する方式が「大串式マスク」である。 大串式についての参考書はあんまりない。手元にあるのは、「海底の黄金:山田道幸 講談社 1985」だ。この本はおもしろいけれど、おもしろい部分はフィクションだ。だから、フィクションなのか本当なのかは、こちらで判断しなければならない。 大串式が、何時どのようにしてできあがったのか? 大正5年、1916年、今からちょうど100年前になるから切りが良い。 このことについて検索すると2015年10月10日の自分のこのブログに当たる。 「 http://jsuga.exblog.jp/16240658/          」 「http://jsuga.exblog.jp/20330768/  」 「http://jsuga.exblog.jp/20301021/ 」 良くも飽きずに書いていて、また書こうとしている。 タンクを背負った形での実用は疑わしいと思っていたが、本当にアコヤガイの採集にタンクを使って実績をあげたらしい。しかし、タンクを使ってアコヤガイ採取についての実績について、検索しても見つけられない。継続的には使われ無かったのだろう。 そして、歯で咬んでバルブを開くというアイデアも片岡弓八が、出したのも本当らしい。雑談的に出したアイデアから実用になるということも考えられる。  山本式についてもネットで検索すると僕のこのブログが二つ出てくる。「http://jsuga.exblog.jp/24986722/ 」 山本式は、山本虎吉というこれは、片岡弓八とはちがって、本人も潜水をする船長で、片岡氏とどうように商船学校を卒業している。 山本式は大串式の改善型なのかとおもう。それにしては、よく特許に抵触しなかったと思う。山本式の方は、タンクを背負うような使い方は考えていなかったようだ。 詳しくは上記のブログを見てもらいたいが、少し引用する。「第二次大戦前、僕が生まれた頃の1935年頃まで、日本の潜水は世界一だったと思う。安全性とか潜水医学で世界一だったわけではない。その実績、潜水深度、潜水病などをおそれない果敢さ、そして、大串式なデマンド機構を備えたマスク式の潜水機に追風世界一だった。」 「潜水病をおそれない」などとんでもないことを書いているが、時代なのだ。軍艦に砲撃、魚雷などで穴があけば潜水兵が修理しなければならない時代だ。それに、アラフラ海のなどでの白蝶貝採集などもお金のために命を賭けた。大串式八坂丸の10万ポンドの金貨引き上げでも、減圧症の犠牲者がでている。 後に伏竜特攻隊もでてくる。 その時代のダイバーでなくて良かったと思うが、ちょうど僕の時代が少しばかり重なり合っている。 このごろ思う。減圧症と潜水病はちがう。潜水病とは、誘蛾灯に蛾が引き寄せられるように、ダイバーが引き込まれて行く。精神病の一つかもしれない。業というものかもしれない。司馬遼太郎の「木曜島の夜会」を見ると、そう思う。潜水病全盛時代のことが書いてある。 とにかく、1943年にクストーがアクアラングを売り出すまで、デマンドバルブ付きのマスクは日本だけだった。少なくとも実用にして実績をあげていたのは日本だけだった。デマンドバルブ付きのフルフェースマスクは、クストーがアクアラグを作った以後、フルフェースマスクとスクーバのセカンドステージの組み合わせでつくられた。日本の大串、山本式は、クストーのアクアラングとは縁がない。 閉鎖循環式の純酸素リブリーザは戦争に使われたが、これは、マスク式ではなく、マウスピースをくわえていた。 大串式のマスクは船の科学館にある。借りてきてレプリカを作りたかったが、レプリカまでは無理かもしれない。シンポジュウムでは展示出来るはずである。 もう一つの山本式を手にとって見たい。前回のブログでも書いたのだが、真鶴の漁業組合の倉庫に1台あったと新聞にでたことがある。真鶴の組合は、今や岡本美鈴のホームグラウンドだ。彼女に聞いてもらったのだが、なくなってしまっている。そのうちにアメリカのコレクションででるかも知れない。  諸外国といっても米国とヨーロッパだが、それほど、事情に明るいわけではない。米国海軍のダイビングマニュアルぐらいが情報源だ。もっと詳しいマスク式潜水の英語の本を持っていたのだが、海中開発技術協会時代に、野沢徹さん、日野さんの二人と一緒に何かを書いていて、日野さんに貸してしまった。野沢ならば、いつでも取り返せるのだが、日野さんは潜水の世界から去ってしまった。
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 米国海軍のマニュアルには、ライトウエイトの潜水機としてジャック・ブラウン マスクが紹介されている。 逆三角形で、空気量は、マスクのサイドにある手動のバルブで調整する。コンプレッサーで送気するのであろうから、空気量が多すぎる時に絞るのが目的のバルブである。それはそうだ。空気量が足りないのはバルブを開いても足りない。 米国海軍の送気式潜水は、日本海軍の潜水兵と同じ役割だから、戦闘中の軍艦の補修だから、このライトウエイトは、ずいぶんと役に立ったにちがいない。多分犠牲者もおおかっただろう。 米国海軍のダイビングマニュアルでは、ジャック・ブラウンの隣りはもう、バンドマスクの類 マークⅡになっている。 ジャックブラウンのサイドバルブの位置に、セカンドステージを取り付けたマスクが、僕の東亜時代の参考書だった1960年刊のBASIC SCUBA に掲載されている。
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 この本では、ジャック・ブラウンではなくて、Desco のドルフィンラングとして紹介されている。 だから、僕はこのマスクをデスコのマスクと記憶している。 DESCO は、Diving Equipment and Supply CO. の略で、もっとも古いアメリカのスクーバ機材メーカーで1937年に創立とあるから、クストーの1943年よりも古い。デスコは第二次世界大戦の米軍の大深度潜水用の機材を提供していたとある。純酸素のりウブリーザも作っている。 日本でいえば、僕の古巣である東亜潜水機のような会社だ。僕も東亜時代、このドルフィンラングを研究した。研究したといっても、この本を熟読しただけなのだが、この三角型のマスクも、僕が作りたいと思っていた形の一つだった。 今でもこのドルフィンラングで潜って見たい。 なお、デスコのヘルメットは JAMSTEC のコレクションの中にあった。

1013 マスク式潜水 旭式-1

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 マスク式 続きを書いているのだがDESCO のドルフィンラングと並ぶ 先進のハイドロパックを積み残して来た。このこともブログで書いたはずだと検索してみる。くわしく書いていた。つけくわえることなどないくらい。「http://jsuga.exblog.jp/11784500/ 」  次にカービーバンドマスクこれも検索してみると自分のブログが 「http://plaza.rakuten.co.jp/sugajirou/diary/200710220000/ 」 えいつ! と、とばしてしまって、マスク式に進む。もちろんこれもブログに書いてはいるがこれはメインテーマだから、とばすわけには行かない。前に書いたこととかぶっても気にせずに書こう。
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                        旭式マスク
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 それでは、マスク式とは、どのような潜水機なのだろ。潜水士テキストが一番詳しい。自分の持っている一番古い、潜水士テキストは、S48と書いてある。昭和48年1973年の版だ。潜水士の試験が始まったのが、1962年昭和37年で、これはその時のテキストではない。最初の版も持っていて、これは大事にしなくては、と思っていたのに紛失している。失くしたことがとても残念だ。昭和48年、今手にしているテキストのときに規則が改正になり、女子も潜水士になれることになった。だから、最初の版には、女子が潜水士になれない規則が掲載されていたのだ。この48年のテキストにも書き込みがしてある。そのころは、潜水士試験講習の講師をやっていたので、そのためだ。 話は例によって余談に脱線するが、日本で初めて女性で潜水士になったのは、正田薫さんで、男装して受けに行き、薫の言う名前が男性でも使われているので、通ってしまったという伝説がある。その頃はまだ、潜水士の試験が国家試験ではなくて、委託されていたので、そういうこともあったのだろう。その後、僕は正田さんと親しくなって、CMAS(世界水中連盟)が日本の名古屋で世界大会をやった時、大会会長が、髭の三笠宮殿下で、その殿下の妃殿下と正田さんは親しく、その縁で、彼女が殿下を連れてきた。ダイバーがかなりやばい人もいたので、正田さんは、「どうしよう、須賀さん」と相談されたが、相談されてどうなるものでもない。僕自身が服飾的には潜水作業員だ。 脱線から戻って、潜水士のテキストでは、最初から、潜水機はヘルメット式潜水、軽便マスク式、そしてスキューバで、このテキストでは、「スキューバの一種のアクアラング」と言うタイトルで記述されている。アクアラングは商品名なのだが、日本ではまだアクアラングが通り名だったのだ。スキューバがスクーバになるのは、潜水士テキストでは、次の次の版、2001年の版からだ。このスキューバからスクーバへの言い換えも誰がどこで,換えたのかよくわからないが、オフィシャルには、この2001年である。 この潜水士の規則、そして制度の事を、レクリエーショナルダイビング業界ではあまり重要視していないようだが、とんでもない間違いだと思っている。レクリエーショナルダイビング業界がイニシアティブをとれないまでも、規則を左右する一角を占めていなければおかしい。完全なつんぼ桟敷、シカトされている。僕が若ければ、というと、僕がさぼっていたためにこうなったのだ、と言われてしまいそうだ。自分としても痛恨だが、いくらなんでももう遅い。
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マスク式に戻る、テキストで、マスク式は、空気嚢を取り付けたマスク式潜水機と、空気嚢を取り付けていないマスク式潜水機の二つに大別されている。呼吸嚢を取り付けたマスク式の方が右総代で、重く扱われている。呼吸嚢を取り付けたマスクは旭式と呼ばれていて、佐藤賢峻さんという方が社長である。佐藤さんはまだご存命なので、話を聞きに行かなくてはいけないのだが、気が重い。時間もない、潜水医学の大岩先生が佐藤さんとはたいへん親しかったので、大岩先生がいらっしゃれば、ご一緒してもらえるのだが、お亡くなりになってしまっている。その旭式の佐藤さんと、スクーバ潜水の菅原さん、そして潜水医学の梨本先生が、潜水士の規則の生みの親である。 この呼吸嚢のあるマスク式を作ったのは、浅利熊記さんという水産講習所の大先輩であり、その息子さんも先輩で、福島県水産試験場の場長さんをやっておられて、僕はおせわになった。その浅利さんのところに、佐藤さんは弟子入りしていて一緒にこのマスク式をつくり、後継者にもなった。浅利式、旭式、語呂合わせにはなっている。浅利さん(お父さんの)と佐藤さんは、潜水機進化の原則、空気の消費量を少なく、軽く小型に、と言う方向で、自転車の空気入れに毛の生えた程度の小さく手軽なポンプで10m程度まで潜れる事を目指した。
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1959年のドルフィンに佐藤さんが書いておられるが、昭和9年 1934年に,浅利さんと佐藤さんは、ダイヤフラムで弁を開くようはコンセプトを書いている。今のレギュレーターと同じである。これが、動くとは思えないが今のレギュレーターにあと一歩の所まで来ていたことになる。でもそれを現在の浅利式に変えたということは、呼吸嚢の方法に変えたわけだ。呼吸嚢とは、マスクの両側に象の耳のように袋がついている。ポンプで送られる空気はダイバーが吸うときだけでなくて、吐いているときにも送られてくる。吐いているときに送られてきた空気を袋にためて置いて、吸うときに、送られてくる空気にプラスすれば、空気量の節約になる。つまり吸うときに空気を送るのではなくて吐いているときに貯める。負のデマンドとでもいうべきだろうか。
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この方法が成功して、往復でピストンを押す小さいポンプで潜ることができる。随分あとになって、もうこのポンプなどどこにも見られなくなった頃、旭潜水に一台だけあったポンプを貸してもらって、茨城の海洋高校プールで水深10mまで潜ってみた。ポンプをゆっくり動かして、楽に呼吸ができて快適に潜水できた。僕はフィンを履いて、潜ってみたが、フィンを使った方が、僕の場合は楽にもぐれる。 それにしても、このマスクを浅利さん、佐藤さんが開発していた1934年は、山本式の全盛時代で、三浦定之助先輩の「潜水の友」によれば、この山本式で、50mを越す定置網で作業をしている。これは完全なデマンドバルブなのだ。その山本式が姿を消して、旭式が台頭するのはなぜなのだろうか。使ってみたことが亡いので、何とも言えないが、やはり、歯で噛んで鼻から吸うという呼吸は万人向きではなかったのだろう。少なくとも、誰でも使える潜水機ではなくて、職人にならないと使えない潜水機だったのだろう。だから、特別に深く潜る定置網作業とかでなければ、使えなかった。深く潜れば、当時のことだから潜水病は付き物だった。そんなことで、旭式は、山本式を駆逐する。潜水士テキストの1962年版には、山本式の記述は一行もない。そして、潜水士テキストには、毎分の送気量の規定があるが呼吸嚢のある潜水機は、毎分の送気量が28リットルで良く、呼吸嚢のない潜水機は、40リットルである。ただしこれは重撃でない潜水とされていて、やがては全ての潜水機が60リットルになる。
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呼吸嚢が優遇されている。やはり佐藤さんがこのテキストつくりに絡んでいる。なお、初版のテキストが出たとき、僕は東亞潜水機に勤務していて、新進気鋭?だった?その東亞潜水機と旭潜水研究所は、いろいろな事情があり、リーグが違っていた。セントラルとパシフィックだ。このテキストの原稿が東亞に送られてきて、間違いがあったら治すように、とか、意見があればおっしゃってくださいということだった。社長に任された僕は一ヶ月ぐらいかけて意見をまとめ、誤字脱字をなおした。全部無視だった。僕は若かったのだ。 もう少し、旭式マスクの事を書く。

1017 マスク式潜水 旭式-2

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 マスク式の事を書いていて、潜水士テキストの古い版を見ている。規則のところで、女子が潜水士になれなかった部分を確認したいのだが、その部分がない。女子も潜水士になれるように改正された時点のテキストが1973年版で、これが僕の持っている一番古い版で、一番最初の版を失くしてしまっている。潜水士の試験が始まって、10年経過した時点のものだ。今となってみると、最初の版をなくしてしまったことが本当に残念だ。まさか、ここに来てこんなことを書くとは思っても居なかった。 歴史は、自分の基本教養だと思っていたけれど、潜水の歴史は、あまり意味のあることとは思っていなかった。潜水のような技術に類することは、現在、そして現在につながる未来が重要である。このことは、現場的には今も昔も変わらない。ならば、技術史に類する博物館などは不要だろうか。そうではないことは、別に論じる必要もないだろう。ただ、自分についていえば、殆ど歴史無視で生きてきた。だから、伏龍特攻隊の技術的な責任者であり、帝国海軍の潜水の神様と呼ばれていた清水登さんと一緒に仕事をしていて、しかも、僕の90m潜水の総指揮までお願いしていながら、図面とか写真とか見せてもらっていないし、そして、当時のことを聞いていない。ただ、忘れられない議論がある。伏龍は、純酸素を呼吸しているのに、水深20mまで潜らせている。それでいて純酸素中毒にかかっていない。と言う。そんなバカな、いや数百人にやらせているけれど、数人、頭がふらついた奴が居るだけだ。そして航空医学の大家である、なんとか少佐の承認を得ている。これはもう議論にはならないと僕は投げてしまった。自分については、ハンスハースの純酸素リブリーザーの記録を読んでおり、数十人までいない科学者グループで、それほど深く潜っていない、たぶん15m程度、で二人が命を落としている。また「どるふぃん」でドレーガーの純酸素リブリーザーを紹介しているけれど、10mをリミットとしている。
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これは、僕の聞き方が悪かったのだ。伏龍のリブリーザーの仕組み、図面、写真などを見せてもらって、検討すればよかった。もしかしたら、純酸素を呼吸していなかったかもしれない。伏龍は、潜水服全体が呼吸袋の役割を果たしていて、ダイバーは、服の中の純酸素を鼻から吸い込んで、呼気を口元の筒に吹き出していた。このあたりに答えがあったかもしれない。一方で、そのころ酸素ラングで死んだダイバーの死因は、水面でマウスピースを離して会話して、窒素を洗い流さないで酸素不足になったからと言われる。これは呼吸袋(カウンターラング)の容積が小さいからだろう、とか、そういう構造技術的な議論ができたのに。しかし、もしもその議論をしたら、実験してみようということになり、僕は命を落としていたかもしれない。 脱線が続くけれど、伏龍といえば、三宅玄造さんにも話を聞いていない。三宅さんは、JAMSTECの前身である海洋科学技術センターにおられて、その後は、尾道のマリンテクノの講師をされていた。僕が、社会スポーツセンターの講師におねがいしていたし、僕もマリンテクノの講師をしていて、長い間、仲良く仕事をしていた。なのに、第二次大戦当時の事を聞いていない。さすがにこれは聞かなくては、写真も随分持っていらっしゃるとか、完全リタイヤして呉にお住い。僕は毎年のように呉を通る。年賀状だけのお付き合いなので、数年前にアポをとろうと、電話連絡したが、不通だった。メールは使っておいででない。マリンテクノの元廣先生を通じて連絡をとお願いしたが、ご存命ではあるが、お話できる状態ではない、とのことだった。せめて、写真、記録の類を散らさないでいただきたい。元廣先生にお願いしておかなくては。間に合うだろうか。 マスク式に話をもどそう。マスク式の図が潜水士テキストに出ている。ヘルメット式と同様の潜水服を着ている。ヘルメット式と違うところは、腰の部分で上着とズボンを分けている。上と下のとの水密は、腰ゴムと腰金で連接している。硬い金属の上に、ゴムを重ねて、リング状のバックルで締め付ける。(上輪 下輪と呼ぶ)実はこの図のスタイルは、マスク式としても古く、足には重い靴など履かないでレッグウエイト、足錘にして軽装にしている。軽装図は2001年版の潜水士テキストのもので、これは実際の姿と違うという意見でなおしたのだろう。せっかくなおしたのに、2012年の版では、また元の図にもどしている。なぜなのだろうか?
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潜水士テキストは、歴史的に重要な文書でもある。潜水士テキスト、歴史的な文書として、とか、基本的な知識を潜水士、ダイバー全員に理解させておく、という部分については、異論はあるにしても、納得はできる。しかし、潜水士テキストは、国家試験の問題がここから作成される。潜水士テキストのフレーズが正解になる。潜水について公文書として最高位にある。事故が起こって、裁判で責任を追求された時、潜水士テキスト違反であったならば、この本で弁論を展開できる。その意味で、レジャーダイビングの章が無いことは、良いことなのだろう。ただ、作業ダイビングについても、執筆者が自分のスタイルの潜水運用を書いている。何時も言っているのだが悪いというのではない。そのスタイルがルールになってしまうことが、問題なのだ。つい、何時も思っていることなので、筆が滑ってしまう。
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二つの旭式の絵で、重い潜水靴を履いて、ヘルメット式とほぼ同じ、ヘルメットがマスクに変わっただけという姿に比べて、レッグウエイトにしたスタイルはかなり軽装、現実の姿に近づいている。装備というものは、その潜水のオペレーション、運用で決まってくる。「沿岸漁業と潜水」について、論じることになる。まだ、系統立てて整理ができていないので、脱線的になるが、論理的にまとめようとすると、今の僕は拒否反応でブログが書けなくなってしまう。旭式の需要の大きな一つは漁船のスクリューに絡む網、ロープなどの取り除きである。これはとても大きい需要で、沿岸漁業の盛んなころには。大きい漁港には、たいてい潜水稼業、海事会社が一つはあった。零細であれば、潜り屋とでも言う。旭式は、この用途に最善だった。潜る水深は漁船のスクリューだから、3mで充分、副動式の小さいポンプは、一人でも押せる。二人でこの仕事はできる。スクリューに網やロープが絡むのは、漁港近くとは限らない。一例を挙げると北洋の鮭鱒漁業がある。漁獲の方法は、流し刺し網、刺し網を流して置くのだから、スクリューにも絡みやすい。この漁業は、独航船と呼ばれる、小さな船で荒れる北洋に乗り出して行く。漁獲は母船が引き取る。船団方式である。網がからみスクリューが動かなくなれば、北洋での遭難につながる。各船に一つづつ、潜水機が積まれる。その潜水機としても、旭式が独占とまでは行かないが、大きなシェアを占めていた。南の海ならば、裸で潜って切り解くこともできるが、北洋では凍死してしまう。潜水服が必須、潜水機が必須になる。この北洋型の絵が、潜水士テキストの簡略型である。  もう一つ、海産物の採取、海産潜りというくらいだから、潜水による漁がある。これはヘルメット式が、主役だった。房総のアワビ漁、三陸のアワビ漁も著名で、南部潜りとは、三陸の海産潜りが始まりである。ヘルメット潜りは、男の仕事だが、マスク式ならば女性でも、つまり海女でもできる。海女漁の中心であるアワビ、サザエ漁は、潜水機で採ると乱獲になってしまうから、海女が潜れる海では、潜水機は使えない。マスク式の潜水漁業で目立って大きいのは、テングサ採りである。テングサは、寒天だから、その需要は大きい。僕らの守備範囲、よく知っているところでは、伊豆半島、伊豆七島がテングサ漁の中心である。海女さんもテングサはマスクで潜っていた。 旭式は、良いマスクだが難点がある。顔にピッタリと合わないと空気嚢が機能しない。おでこのあたりから、漏れてしまえば袋に空気は溜まらない。だから厳重なベルトでしっかりと締める。おでこから洩らないように頭の上にも空気嚢を付けたタイプもあるくらいだ。この厳重に顔に縛り付けると言うのは、長時間は辛い。顔に上手く合う人は、良い。軽便面(ケイベンズラ)と言う言葉があった。軽便潜水で苦労しない顔貌である。でも、合わない人は縛り付けられる。少しばかり技術が進歩して、自転車ポンプでなくても、エンジン付きの船ならば、コンプレッサーで空気を送れるようになった。顔にはピッタリと付ける必要はない。むしろルーズにして、空気を漏らしだしてしまおう。漏れ出る、排気のクッションで顔あたりが良い。魚の鰓のように、マスクから空気を出す。排気弁も必要ない。鰓式マスク。逆転の発想である。これが海王式であり、後に金王式になった。渋谷の金王町に会社があったので金王式になった。岡本さんという関西スタイルの商売人が社長で、僕も随分と仲良くしていた。東亞潜水は、旭よりも金王が親しかった。東亞はコンプレッサーメーカーでもあったのだ。
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                   金王式

伊豆半島も、伊豆七島も、旭式と金王式が入り乱れた。潜水機と言うものは、良かれ悪しかれ、自分の身体の一部分にならなければ使い物にならないから、それぞれ、自分の道具に固執する。今、どんな様子になっているのかよくわからないが、旭式も金王式も製造販売を続けては居ないだろう。供給が途絶えると漁師は困る。昔のマスク式がそのまま新しく作られないと困るのだ。今度のシンポジウムは、マスク式が一つのテーマなので、その問題を一つとりあげようとしている。 

1017 マスク式潜水 旭式-2

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 マスク式の事を書いていて、潜水士テキストの古い版を見ている。規則のところで、女子が潜水士になれなかった部分を確認したいのだが、その部分がない。女子も潜水士になれるように改正された時点のテキストが1973年版で、これが僕の持っている一番古い版で、一番最初の版を失くしてしまっている。潜水士の試験が始まって、10年経過した時点のものだ。今となってみると、最初の版をなくしてしまったことが本当に残念だ。まさか、ここに来てこんなことを書くとは思っても居なかった。 歴史は、自分の基本教養だと思っていたけれど、潜水の歴史は、あまり意味のあることとは思っていなかった。潜水のような技術に類することは、現在、そして現在につながる未来が重要である。このことは、現場的には今も昔も変わらない。ならば、技術史に類する博物館などは不要だろうか。そうではないことは、別に論じる必要もないだろう。ただ、自分についていえば、殆ど歴史無視で生きてきた。だから、伏龍特攻隊の技術的な責任者であり、帝国海軍の潜水の神様と呼ばれていた清水登さんと一緒に仕事をしていて、しかも、僕の90m潜水の総指揮までお願いしていながら、図面とか写真とか見せてもらっていないし、そして、当時のことを聞いていない。ただ、忘れられない議論がある。伏龍は、純酸素を呼吸しているのに、水深20mまで潜らせている。それでいて純酸素中毒にかかっていない。と言う。そんなバカな、いや数百人にやらせているけれど、数人、頭がふらついた奴が居るだけだ。そして航空医学の大家である、なんとか少佐の承認を得ている。これはもう議論にはならないと僕は投げてしまった。自分については、ハンスハースの純酸素リブリーザーの記録を読んでおり、数十人までいない科学者グループで、それほど深く潜っていない、たぶん15m程度、で二人が命を落としている。また「どるふぃん」でドレーガーの純酸素リブリーザーを紹介しているけれど、10mをリミットとしている。
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これは、僕の聞き方が悪かったのだ。伏龍のリブリーザーの仕組み、図面、写真などを見せてもらって、検討すればよかった。もしかしたら、純酸素を呼吸していなかったかもしれない。伏龍は、潜水服全体が呼吸袋の役割を果たしていて、ダイバーは、服の中の純酸素を鼻から吸い込んで、呼気を口元の筒に吹き出していた。このあたりに答えがあったかもしれない。一方で、そのころ酸素ラングで死んだダイバーの死因は、水面でマウスピースを離して会話して、窒素を洗い流さないで酸素不足になったからと言われる。これは呼吸袋(カウンターラング)の容積が小さいからだろう、とか、そういう構造技術的な議論ができたのに。しかし、もしもその議論をしたら、実験してみようということになり、僕は命を落としていたかもしれない。 脱線が続くけれど、伏龍といえば、三宅玄造さんにも話を聞いていない。三宅さんは、JAMSTECの前身である海洋科学技術センターにおられて、その後は、尾道のマリンテクノの講師をされていた。僕が、社会スポーツセンターの講師におねがいしていたし、僕もマリンテクノの講師をしていて、長い間、仲良く仕事をしていた。なのに、第二次大戦当時の事を聞いていない。さすがにこれは聞かなくては、写真も随分持っていらっしゃるとか、完全リタイヤして呉にお住い。僕は毎年のように呉を通る。年賀状だけのお付き合いなので、数年前にアポをとろうと、電話連絡したが、不通だった。メールは使っておいででない。マリンテクノの元廣先生を通じて連絡をとお願いしたが、ご存命ではあるが、お話できる状態ではない、とのことだった。せめて、写真、記録の類を散らさないでいただきたい。元廣先生にお願いしておかなくては。間に合うだろうか。 マスク式に話をもどそう。マスク式の図が潜水士テキストに出ている。ヘルメット式と同様の潜水服を着ている。ヘルメット式と違うところは、腰の部分で上着とズボンを分けている。上と下のとの水密は、腰ゴムと腰金で連接している。硬い金属の上に、ゴムを重ねて、リング状のバックルで締め付ける。(上輪 下輪と呼ぶ)実はこの図のスタイルは、マスク式としても古く、足には重い靴など履かないでレッグウエイト、足錘にして軽装にしている。軽装図は2001年版の潜水士テキストのもので、これは実際の姿と違うという意見でなおしたのだろう。せっかくなおしたのに、2012年の版では、また元の図にもどしている。なぜなのだろうか?
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潜水士テキストは、歴史的に重要な文書でもある。潜水士テキスト、歴史的な文書として、とか、基本的な知識を潜水士、ダイバー全員に理解させておく、という部分については、異論はあるにしても、納得はできる。しかし、潜水士テキストは、国家試験の問題がここから作成される。潜水士テキストのフレーズが正解になる。潜水について公文書として最高位にある。事故が起こって、裁判で責任を追求された時、潜水士テキスト違反であったならば、この本で弁論を展開できる。その意味で、レジャーダイビングの章が無いことは、良いことなのだろう。ただ、作業ダイビングについても、執筆者が自分のスタイルの潜水運用を書いている。何時も言っているのだが悪いというのではない。そのスタイルがルールになってしまうことが、問題なのだ。つい、何時も思っていることなので、筆が滑ってしまう。
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二つの旭式の絵で、重い潜水靴を履いて、ヘルメット式とほぼ同じ、ヘルメットがマスクに変わっただけという姿に比べて、レッグウエイトにしたスタイルはかなり軽装、現実の姿に近づいている。装備というものは、その潜水のオペレーション、運用で決まってくる。「沿岸漁業と潜水」について、論じることになる。まだ、系統立てて整理ができていないので、脱線的になるが、論理的にまとめようとすると、今の僕は拒否反応でブログが書けなくなってしまう。旭式の需要の大きな一つは漁船のスクリューに絡む網、ロープなどの取り除きである。これはとても大きい需要で、沿岸漁業の盛んなころには。大きい漁港には、たいてい潜水稼業、海事会社が一つはあった。零細であれば、潜り屋とでも言う。旭式は、この用途に最善だった。潜る水深は漁船のスクリューだから、3mで充分、副動式の小さいポンプは、一人でも押せる。二人でこの仕事はできる。スクリューに網やロープが絡むのは、漁港近くとは限らない。一例を挙げると北洋の鮭鱒漁業がある。漁獲の方法は、流し刺し網、刺し網を流して置くのだから、スクリューにも絡みやすい。この漁業は、独航船と呼ばれる、小さな船で荒れる北洋に乗り出して行く。漁獲は母船が引き取る。船団方式である。網がからみスクリューが動かなくなれば、北洋での遭難につながる。各船に一つづつ、潜水機が積まれる。その潜水機としても、旭式が独占とまでは行かないが、大きなシェアを占めていた。南の海ならば、裸で潜って切り解くこともできるが、北洋では凍死してしまう。潜水服が必須、潜水機が必須になる。この北洋型の絵が、潜水士テキストの簡略型である。  もう一つ、海産物の採取、海産潜りというくらいだから、潜水による漁がある。これはヘルメット式が、主役だった。房総のアワビ漁、三陸のアワビ漁も著名で、南部潜りとは、三陸の海産潜りが始まりである。ヘルメット潜りは、男の仕事だが、マスク式ならば女性でも、つまり海女でもできる。海女漁の中心であるアワビ、サザエ漁は、潜水機で採ると乱獲になってしまうから、海女が潜れる海では、潜水機は使えない。マスク式の潜水漁業で目立って大きいのは、テングサ採りである。テングサは、寒天だから、その需要は大きい。僕らの守備範囲、よく知っているところでは、伊豆半島、伊豆七島がテングサ漁の中心である。海女さんもテングサはマスクで潜っていた。 旭式は、良いマスクだが難点がある。顔にピッタリと合わないと空気嚢が機能しない。おでこのあたりから、漏れてしまえば袋に空気は溜まらない。だから厳重なベルトでしっかりと締める。おでこから洩らないように頭の上にも空気嚢を付けたタイプもあるくらいだ。この厳重に顔に縛り付けると言うのは、長時間は辛い。顔に上手く合う人は、良い。軽便面(ケイベンズラ)と言う言葉があった。軽便潜水で苦労しない顔貌である。でも、合わない人は縛り付けられる。少しばかり技術が進歩して、自転車ポンプでなくても、エンジン付きの船ならば、コンプレッサーで空気を送れるようになった。顔にはピッタリと付ける必要はない。むしろルーズにして、空気を漏らしだしてしまおう。漏れ出る、排気のクッションで顔あたりが良い。魚の鰓のように、マスクから空気を出す。排気弁も必要ない。鰓式マスク。逆転の発想である。これが海王式であり、後に金王式になった。渋谷の金王町に会社があったので金王式になった。岡本さんという関西スタイルの商売人が社長で、僕も随分と仲良くしていた。東亞潜水は、旭よりも金王が親しかった。東亞はコンプレッサーメーカーでもあったのだ。
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                   金王式

伊豆半島も、伊豆七島も、旭式と金王式が入り乱れた。潜水機と言うものは、良かれ悪しかれ、自分の身体の一部分にならなければ使い物にならないから、それぞれ、自分の道具に固執する。今、どんな様子になっているのかよくわからないが、旭式も金王式も製造販売を続けては居ないだろう。供給が途絶えると漁師は困る。昔のマスク式がそのまま新しく作られないと困るのだ。今度のシンポジウムは、マスク式が一つのテーマなので、その問題を一つとりあげようとしている。 

1019 マスク式潜水 旭式-3

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潜水士テキストの最初の版をなくしてしまったと書いたら、親しい友人が見てくれて、自分が持っていたものを送ってくださるという。そのころは、「潜水士テキスト」ではなくて、「潜水士必携」だったという。忘れていた。実物を失くしてしまうと、こんなことまでも、忘れてしまうものなのだ。 旭式で、どうしても忘れられない、大事なことは、これは、グラフィティにも書いたのだが、東京水産大学の潜水実習は、マスク式、それも旭式で始まるということだ。僕の受けた頃の実習はすでにスクーバが主になっていたのだが、スクーバが紹介される1953年まで、そして、そのスクーバの実習が始まる1954年までは、マスク式の潜水が水産大学の潜水実習だった。どのように行われて、どんなものだったのか、詳しくは知らない。1940年代は、日本人が死ぬか生きるかという時代だから、潜水実習の様子は不明である。1950年代になってからだと思うが、このあたりのことを詳しく知りたいが、僕が聞けるとすれば、兄貴分であり探検の師匠だ。白井先輩が4期上級で、お元気なはずだ。なんでも記録する方だったから、多分写真も持っておられるはずだ。千葉県大網に居られるから、行かなくては。
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                 手押しポンプは東亞製
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                    マスク式でも泳いでいる。
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こんなミステリー伝説がある。小湊実習場は、火葬場の跡に建てられた。もう、本当によくある話だ。その火葬場の焼くところは、磯で、その場所に大学は、小さな水槽をおく磯根の魚を見せる建物を作った。以後異変があり、そのうちに大きな台風が来て、それは攫われてしまって、失くなった。失くなったが呪は残っていて、1954年度の事故につながる。これは、当時の実習場の主のような職員、古川さんに聴いたはなしだ。 その火葬場跡の前に、大きなプールのような生簀があり、見物客は、餌をやってタイがバチャバチャと餌をとるのを見て喜ぶ。小湊は日蓮上人の生誕の場所で、生誕を祝って、タイが跳ねたという。鯛の浦だ。鯛の浦は船を出して、鯛に餌をやって集まるのを見るのだが、今、2016年はどうなっているだろうか。生簀は、ミニ鯛の浦で、この生簀で、「1953年ディーツ博士が、アクアラングで潜ってみせた。その生簀に並んだ、磯の上に潜水台と呼ばれる、8畳敷ほどのコンクリートの台地があって、ここに手押しポンプを置き、マスクを付けて台から磯に降りて潜水する。僕たちは増殖学科だから、磯根の観察がテーマで、この潜水実習も行われたことなのだろう。当時の水産大学は、漁業科 増殖学科、製造科の三つの学部があり、漁業科は、基本的に船に乗って魚を獲る学部であり、館山に実習場があった。館山での潜水実習は、同じマスク式でも船に乗って、これは、スクリューへの網かかりを切り解くような実習だったのだろう。僕たちの方はサザエでも採って来れば良かったのだろうか。
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              円形の小湊実習場 一階が水族館 
何回かすでに書いているが、小湊実習場で、アクアランクのプレゼンテーションが行われたのが、1953年、その翌年の1954年の潜水実習で、アクアラングを使った二人の学生が死亡している。これは、泳げる学生ならば、アクアラングはあまりにも簡単であり、どのようにして死ぬのかわからなかったのだ。タンク、コンプレッサーなどを購入してからの実習である。1953年から、たったの1年で、どうやって道具がそろえられたのだろう。一応は大学である。空気塞栓のこととか、潜水病のこととか、マスククリアーとか基本的な技術と知識は獲得して、教えてからの実習だったのだろう。しかし、どのようにして人がアクアラングで死ぬかの知識はなかった。それは、2016年の今でも同じ傾向なのだろう。どのようにして死ぬか、基本的な運用は余り系統立てて議論されていない。議論はされても実際に行われはしない。学生の事故は、その時の実習グループで、一番泳ぎの得意な、あるいはすでに素潜りが上手な者に起こる。自分もそれに類する事があり、大学4年次に死んでいたかもしれない。潜水の上手下手、スキルだとかへったくれとかは、事故の可能性とは関係がないのだ。強いて言えば、死ななかった者が上手だ。その時の事故も、実習生の中の一番上手なバディ、実習終了して、海底に引いていたラインを撤収に行って起こった。実習中は、伝馬船が水面に居たのだが、二人を残して伝馬船は戻ってしまった。こいつらならば大丈夫と思ったのだろう。水深は10m以下だったから、空気塞栓だっただろうと、言われている。一人が浮上して、助けを求めていたらしいが、助けが到着する前に、彼も沈んで、ふたりとも亡くなった。 1954年の事故は、従来のようなマスク式潜水の実習であったならば、起こらなかった。起こり得ない事故だった。ホースで結ばれていれば、事故は起こらない。すなわち、典型的なアクアラング事故であり、犠牲者一号だった。僕の恩師が責任者だったから、なおさらなことだったのだが、ホース、、水面との直接コンタクトというのが、僕の潜水の、トラウマになっている。今も同様な事故の可能性が同じように存在している。それを如何に避けるかである。この事故の裁判は、直上に、伝馬船を置いていなかったこと、置けばおけるのに、船を出して置かなかったことについて、管理者の責任が問われた。もしも、この時、直上にボートを置かなかったことが管理責任になったとすれば、それが判例となり、その後の日本のスクーバダイビングはどのようになったのだろうか。これがスクーバダイビングの本質であり、僕の中では解決がついていない。つかないままで一生を終わると思う。①スクーバはコンタクトが無いから事故死がおこる。②コンタクトを付けてしまえばスクーバではない。③コンタクトが無くて、どのように事故を防ぐのか。スクーバダイビングとは、そういうことなのだ。 今の今、はっと気がついた。この時の裁判記録が判例として残っているのではないか。詳細な記録が残っているのではないだろうか。無いだろうと思う。小湊実習場では、学生の遺族が、記念の石碑を建てようとした。学校の許可が降りずに、記念の石を置いたらしい。東京水産大学は、小湊の実習場を去り、館山の坂田に引っ越した。小湊は千葉大学の施設になった。この石が邪魔になったとかで、品川のキャンパス、博物館に置かれていたという。その石は、今はどこかに居なくなった。

1024 東京湾大感謝祭 -1

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22日、23日の土日、二日間を横浜赤レンガ倉庫で行われた東京湾大感謝祭に出かけていた。東京都水環境局の風間さんのコーディネートでお台場で撮った映像をモニターで映写展示することになり、展示する以上、現場に二日間は行って、在駐しなくてはならない。 映像の編集のための整理に、10日はかかった。これはいずれにせよ、整理して置かなければならないものだから、これを機会に頑張った。 映写は、赤レンガ倉庫一号館の2階、NPO団体、下水道局などが、ワークショップを行うその片隅にモニターと机、椅子3脚を置いただけのもので、どなたか来てくれるか、立ち寄ってくれれば、親しくお話することができる。東京港水中生物研究会の報告書を、差し上げるように置き、映像説明のリーフレットをプリントして置いた。 一日目、22日には、辰巳プールなどに来てくれている、高山さんが来てくれて、3時間ほどゆっくりお話ができ、自分のお台場映像について、東京港とのスタンスについて、今後、やりたい企画などについて、熱く話ができた。話をしながら、考えを成長させていく、ことができるから、話しができるということは、とても大事で有意義なことなのだ。 二日目の23日は、杉山英雄さんがこられて、助けられた。東京港水中生物研究会メンバーで日本水中科学協会会員の尾島さん夫妻が居てくださった。鶴町さんは、この大感謝祭の被り物の踊りのメンバーで、近くに居てくれたので、大いに助けられた。
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                               僕のコーナー

 同じ部屋のワークショップに出展している人たちとお話もできた。 ワークショップは子供向けのちょっとしたもの、海藻の押し葉を作ったり、魚のおもちゃを作ったり、かるたをやったり、子供向けのものが多い。横浜市立大学の発表コーナーでは、東京湾環境水質浄化推進実行委員会メンバーの石井彰さんが常駐して説明役をされていて、これもお世話になった。まずは、みなさまにお礼をいう。 横浜下水道局は新しい、下水道についての幾つかの展示をしていた。一つ一つについて説明することはできないが、自分としては、新しい知識を取り入れる事もでき、東京湾の活動の傾向を知ることもできた。 大感謝祭の概略をいうと、屋外のテント展示と赤レンガ倉庫の展示があり、赤レンガ倉庫についてはすでにのべた。屋外のテント展示は、展示が軒を並べ、中に道筋が通っている。道筋は4本で、三つのブロック、街に分けられる。中心になっているのは、ステージと、展示テント、2列で、テントの展示は、東京湾で仕事をしている調査会社、建設会社、研究機関などなどで、展示の内容は、僕たち赤レンガ倉庫のワークショップ、展示と大同小異である。人の波、流れの中心だから、多くの人に見てもらえるという事は言える。とにかく何らかの形でここに出展していることが、東京湾で仕事をしている市民権になる。 ステージでは、途切れずに何かをやっていた。子どもたちのダンスだとか、太鼓だとか、新人の芸人、途切れもなく何かが出ている。パネルデイスカッションもいくつかあったはずだ。 後の二つの街は食である。一つは車屋台のような店、富士宮の焼きそばは定番で、寿司、江戸前天丼、など多数。真ん中の道筋には、机と椅子があり、食事をする。
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 もう一つの食の街は、全国各地、各県、各町の食の展示がぎっしりと並ぶ。目についたのは肉で、山形牛とか宮崎牛とか、県の名前が付いた牛、日本は全国で牛自慢をしている。ほんのちょっと、一口を無料で試食す出来る。もちろん、肉だけではないが、とにかく肉だった。昨年は、もう少し空いていたような気がする。赤レンガ一号館は、既設の食べ物屋とちょっとした店で、僕は、ここで崎陽軒のラーメンをたべた。 食がなければ客寄せができない。とにかく、人が集まれば、動きができる。流れが生まれる。人を多数集めることが力なのだ。
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                   各県、試食街?
  流れは、東京湾を大事にして行こう。開発ではなくて、これからは再生なのだと言うのが中心コンセプトであろう。  僕たち東京湾環境水質浄化推進実行委員会も東京港水中生物研究会も東京港の自然再生を目指す。「再生」がポイントだ。 お台場は、東京港、東京湾の行き止まり、東京湾の中でも最悪な水環境である。この東京湾の奥の再生とはどんなことかと言えば、江戸前の海をとりもどすことだ。江戸前とは、築地、品川、江戸時代は佃島から、大森、蒲田、今の羽田沖、千葉側では、葛西、行徳、浦安三番瀬 あたりまでの海域で、江戸の100万町民のタンパク源を供給するとともに、行楽の場でもあった。その昔の再生である。  再生の目標、大事に考えているのは生き物で、江戸前を具体的に言えば、マハゼ、アナゴ、スズキ、などなど、カニの類ではガザミ、貝の類では、アサリ、牡蠣、忘れてはいけないのは、海苔。現代的に言えば種の多様性も大事だ。その一つ一つについて、それぞれ、語ることがあるが、そんなことをしたら本になってしまう。  お台場の近く、今の水上バスの航路の近くに潜ったのは1980年代で、マハゼの巣穴の調査を手伝った。マハゼは柔らかいヘドロ、水深4-6m(8mとも言われている)に巣穴、産卵孔を掘って、その奥に産卵する。巣穴は、深いものでは2mにも及ぶ。穴に樹脂を注入して、固めてから掘り出せば、穴の形が掘り出され、レプリカになる。その頃の水産試験場の調査を手伝った。実は、その頃が、お台場の生物が今よりもずっとずっと豊だったのではないかと、今振り返って思う。 その更に前、公害の時代があって、死んだ魚が驚くほど多数浮いた時代は別として、公害がある程度解決して、まだ湾岸の大開発が進まなかった時代、1980年代に、もしも、定量的な観察が出来ていれば、良かったのにと悔やむが。現在のマハゼの巣穴を調べれば、定量的な比較が出来るだろうか?マハゼはお台場で産卵しているだろうか?1963年ごろに撮影したビデオがある。穴の入り口に居て、近づいたら穴の中にするりと逃げ込んだ。これがマハゼであったのかどうか定かではない。スジハゼかもしれないし。 今一度チャレンジしてみたい。
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                   スジハゼのようでもある。
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                           マハゼのようだ? 1993年に撮影

 次に潜ったのは、1993年で、特殊救難隊の隊長時代にテレビの取材で、仲良くなった宮野信昭氏が東京海上保安部の警備救難課長になっていたので、相談して、お台場のクリーンアップを始めた。未だ、そのころは、もしかして今でもだが、お台場で泳ぐと健康に障害があるのではないかと思われた。そんなところに100人からの一般ダイバーを潜らせて、ゴミを拾わせるのだから、何かが起こったら大変だ。僕は、というか、一般の作業ダイバー、調査ダイバーは、普通に潜っているのだから、何の問題も無いと思っていたが、念のためということで、特殊救難隊のダイバーと一緒にもぐった。勿論なんとも無かった。クリーンアップも、誰の健康にも支障はなく、この行事は港区の文化健康、スポーツふれあい財団の主管となって、東京ベイクリーンアップ大作戦と名付けられて、今年で22回を迎えている。   もしも、このお台場の海が、ハゼ一尾、カニの一匹も居ない、何も生き物が居ない、死の海だったならば、僕たちも潜るという気持ちにはならなかっただろう。 生き物が居て、賑やかな活気に満ちた海であることが、大事なこと、再生、浄化とは、生き物が豊になることに他なら無い。その思いを今度の大感謝祭でも強く感じた。僕たちの撮つた、お台場の生き物の映像を、見て、話し合った人たちは、誰でももそんな思いを持ってくれたと思う。あんまり多数の人とは話はできなかったが。今回作った映像をコーディネートしてくださった東京都の風間さんにも映像を差し上げた。諸処で見せてまわってくださるという。  続く

1036 大感謝祭 -2

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 大感謝祭の自分の映像を何回となく見て、説明をしながら、考えた。自分の仲間も含めて、自分の考えについての意見も聞くことができた。
 そんなことども、をここから書こう。
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                      2012年、貧酸素と硫化水素で、斃死するホンビノス
 ちょっと閑話休題になるけれど、横浜は何時も車で来る。車で来て車で帰る。ぶらぶら歩いたのは中華街ぐらいのものだ。それも数えるくらいの回数だし。赤レンガ館にも、昨年は車で来た。一昨年も車だった。 今年初めて電車で来てあるいた。桜木町から歩こうか、関内からあるこうか、考えたが桜木町にした。水辺の道を歩いた。気持ちの良い遊歩道だったので、帰りも同じ道をあるいた。観覧車が水に映ってきれいだった。
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 日曜日、朝も同じ遊歩道を歩いた。SAPを一生懸命漕いでいる人たちがいる。ブイを回っている。どうやらレースをしているらしい。そのまま歩いて行くと、やはりレースのスタートのところに来た。ちょうど女性のレースがスタートするときだった。  僕たちがお台場で目指したことの一つは、お台場の海でダイバーの姿を見ることが、異常なことではなくて、当然のことと受け入れてもらうことだった。まだまだお台場では市民権の獲得には至っていない。後発のSAPが水上スポーツとして盛んになり、市民権を得た。すなわち、ダイビングはSAPの邪魔をしてはいけないことになる。これは、水中と水面、船と潜水、本質の違いだからどうにもならない。しかし、出来ることは続けて行かなくては、続けて行く。東京港という港湾の中で、潜水は潜水作業であり、スポーツではない。僕たちは科学的な調査という作業をしていることになる。学生を潜らせるときには、学生の実習として、調査作業を行う。事実そうなのだけど。
  論をもとに戻して、お台場の再生が生き物の再生であるのならば、生き物が生きて行かれる環境作り、場所作り、だと考えて良い。環境について、この一年、試行錯誤的にもがいてきた。22年間記録は続けてきたが、改善について具体的なことを何もしていない。自分の無知を知らされた一年だったとも思う。
 お台場に限らないが、東京湾の生き物についての、生死の鍵は、貧酸素である。酸素がある限度以下に薄くなればバクテリア以外は生きにくくなってしまう。逃げ出せなければ死んでしまう。  貧酸素の原因は二つある。一つは青潮である。これは、5年に一度ぐらい?の割合で湾の奥お台場に広がってくる。もう一つは夏期の表層高温のため成層ができ、上下の水が入れ替わらないために、底層は、酸素を消費するだけだから溶存酸素が減少する。ハゼの類などは、表層の酸素を求めて、浮き上がってきたりする。多くの動物は表層、浅いところに逃れると思われる。  硫化水素について、少し説明する。実は、僕はバクテリアのことはほとんどわからない。わからないなりに、教えて頂いて、ネットで確認した程度である。 東京湾における硫化水素の発生は、まず、赤潮が発生するとそれが死滅沈下することで、底泥に有機物が供給される。夏期の成層化で底層が貧酸素になると、嫌気性菌である硫酸還元菌の働きで猛毒と言われる硫化水素が発生する。
 お台場の夏期、ヘドロは硫化水素の臭いがして、お台場にはシャワーとてないので、参加している女性は電車に乗るのがためらわれるという。夏期、お台場のヘドロ層には硫酸還元菌がそんざいしている。
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硫酸還元菌は、ヘドロの中にいる。白い皮膜のような硫黄バクテリヤは、硫黄酸化菌ともいい、硫酸還元菌が作る硫化水素を酸化して生育する。硫化水素を消費するから、善玉なのかもしれないが、硫黄バクテリアのあるところ硫化水素があると言える。  夏期、底層に魚が居なくなるのは、貧酸素のためであり、硫化水素の毒性が効いているかどうか定かではないが、底生生物が硫化水素で死滅することはよく知られている。 ヘドロの中の硫化水素が水中にどのあたりまで登ってくるのかどうか不明であるが、直上の水に時折溶出するとされている。硫化水素の検出は、面倒なので、自分たちでやるには手間と費用がかる。友人の沿岸生態系リサーチセンターの宮内に相談してみよう。
 ただお台場の硫化水素は、経験的には私たちの健康には何の問題も発生しなかった。しかし、ダイバーは水を口に入れるわけではない。唇が直接水に触れるが、口に含むことはない。
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 お台場の地形構造は、中心部はヘドロであり、ヘドロを取り巻くように、やや堅い底質が取り巻いている。お台場はコの字型で、
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 開いている口の部分も半ば塞がっている。海浜公園のコの字の二辺は人工砂浜になっている。一辺は磯で、大小の石が密に転がっている。この浅い部分はよほどの赤潮のようなことがない限り、透視度も1m程度に保たれている。きれいな時には、ここがお台場か、と思うほど澄んでいて、湧き水があるのではないかとさえ思う。この浅瀬から、ヘドロに至る部分は緩やかな斜面で、現在はこの斜面部分の70%程度は、真牡蠣で覆われている。
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 僕たちの調査許可範囲はこの磯の辺と砂浜の一部分である。砂浜の部分もきれいで、水深1mー2mあたりにはホンビノスが多い。この外周の部分、水深2mほどまでは、硫黄バクテリヤの発生も皮膜にならず、成層の底ではないから、ひどい貧酸素にはならない。  
なお、水は硫化水素の遮蔽体と考えられるので、上層を泳ぐ魚にはあまり影響はないとおもわれる。
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 調査範囲の端に昔の桟橋の跡らしい杭が残されている。これが、魚礁の役割を果たしていて、マハゼもカニの類も杭の隙間にもぐり込んでいる。水深は1、5mほどなので、成層による貧酸素の影響は耐えられる程度であろう。
 半閉鎖的な、お台場で考えているのは生物の再生、豊かさの促進と維持である。何をしたら良いのか?。



















1028 大感謝祭 3 お台場の生き物

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 ここで、お台場で観察される生き物の種類を紹介しておこう。まず魚類、江戸前の代表種ともいうべきマハゼ。マハゼは、数も多く3月の稚魚時代から、9月の成魚に至るまで、観察できる。
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 他のハゼの類で多く見られるのは、チチブ、アカオビシマハゼ、スジハゼ、ウロハゼ、ドロメ などである。ハゼの類は、稚魚時代は別として、海底で生活していて、隠れ家として、岩の隙間、岩の下、牡蠣殻の隙間などを隠れ家としている。
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 同じく、海底生活者としては、トサカギンポも多く見られる。泳ぐ魚としては、メバル、シマイサキが代表的なものだが、稚魚の時代だけをここで過ごすらしく、6cmほどになると姿を消す。 ボラは大きな個体が周年泳ぎ回っている。
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 人工砂浜の上ではイシガレイの稚魚が時に多く見られる。大型のツバクロエイ、小型のアカエイも見られる。エイの類は、二枚貝を餌としていて、かなりの量が食べられているものと思われる。
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 甲殻類 カニの類は1990年代は、外来種であるチチュウカイミドリガニ、イッカククモガニが多く見られたが、2005年頃から減少して、ほとんど見られなくなった。2013年、2014年には、イシガニが目立ったが、2016年にはほとんど見えなくなった。カニの類は激減したといえるだろう。
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 ヤドカリは、小さいユビナガホンヤドカリ、大きい ケブカヒメヨコバサミがいる。ヤドカリの類もめっきり減ってきた。東京都農林水産センターでは、ヤドカリの減少は、中に入る貝殻が少ないからだ、と貝殻を撒く計画をしている。効果があるかどうかわわからないが、水産センターとしてヤドカリを大事にすることは良いことだと思う。 なお、甲殻類は夜行性なので、夏には夜間の調査が必要と考えている。
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 貝類だが、磯の部分に目立っているのは、アカニシだ。周年産卵している。イボニシも多い。二枚貝では、何と言ってもホンビノスだ。この10年で、すっかり食用の貝として定着してしまった。お台場でも大きい貝が、取れる。潮干狩りのような遊びをしている都民も多いが、干潮線からの深さが50cmはあるので、なかなか採れない。採れないから、沢山いるのだろう。アサリは、2004年頃多く取れて、半ばプロまで現れた。その為、そして、棲息する砂浜が浅いので、殆ど取られてしまった。
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                    プロのアサリ採り
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 東京都水産センターでは、地元中学校と同調してクリーンアップ大作戦の一環として、網に入れ、枠にのせたアサリを砂浜の上に置き、二枚貝による水質浄化と自然教育の教材としようとしている。   ☆2012年、東京都は、実験的に人工浅場という名称で、高さ1.5m、2mの牡蠣殻を利用した人工魚礁を僕たちが調査を行っているフィールドのほぼ中心あたりに設置した。別に何の連絡を受けたわけでもなかったが、調査協力を申し出で、月毎の撮影調査の中心項目として、一応の報告書、写真帳も港湾局に差し上げた。 
  
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 設置した人工浅場だが、高さが高く、設置した水深が2mー3mで底の部分の一部はヘドロ域に乗っていた。 3月に設置して、4月には、メバルの稚魚が集まった。人工浅場の形状は、牡蠣殻を詰めたメッシュパイプを段にしたもので、2段のものと、3段のものがあった。牡蠣殻の隙間の上には、ユビナガスジエビが10の単位で見えていた。牡蠣殻の目的は小さな甲殻類をその隙間に誘うことで、魚の餌量として、魚を集めるということで、その意味ではねらい通りだった。ハゼの類は、アカオビスジハゼ、スジハゼが、メッシュの上に乗っていたが、マハゼは見られない。マハゼは底を這うように泳いでいる習性であり、中段に乗ると言うことはないのだろう。  5月は、赤潮が発生した。赤潮にも、表面だけが赤潮で、1mから下は、普通に見通せる状態と、表面から、2mの底まで赤潮になってしまう状態がある。全体の赤潮の時も、底から10cmぐらい上まで、底すれすれでは見通せる。しかし、上を赤潮に覆われるので、暗黒でライトの光束の範囲ないしか見えない。メバルの稚魚がメッシュパイプの隙間に入っていた。
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                          赤潮のとき  ウロハゼ
 6月、人工浅場は、自重で海底に沈降し始める。ヘドロ域に近いところは当然沈みが大きい。 6月は若いマハゼが多く底面を泳ぎ回る時期だが、人工浅場には寄りつかない。牡蠣殻を詰めたメッシュパイプには、次第に泥茶色の付着生物が付き始める。汚らしいが有害かどうかは不明  7月、8月は、次第に沈降して下の段はほとんど埋もれてしまった。沈降がどのあたりで止まるかを見定めれば、ヘドロの深さがわかると思っていた。 ヘドロ海底は硫黄バクテリアでお覆われ、人工浅場も下の段は、斑のようにバクテリアが付き始めた。
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 浅場を沈設した2012年は青潮も押しよせ、酸素がほとんどゼロになり、9月の調査では、人工砂浜では大型のホンビノスが砂の上に這い出て死滅、累々と死骸が続き、ホンビノスの量の多さに驚かされた。魚も、岸近くの浅瀬にも、どこにも姿がなく、当然カニの類も姿を消して、動く生き物の姿はゼロ、動いているのはフジツボの触手だけだった。  10月、貧酸素が解消すると、人工浅場の中段には魚が集まり始めた。主にシマイサキの稚魚で、10の単位で見られた。ここで、このような人工魚礁の魚の数を推定する場合、1尾みられれば、10尾はそのブロックにいる。10の単位で見られれば、100尾はいる。100の単位で見られれば、1000尾はいると推定する。
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 11月 さらに水はきれいに澄んで、中段は水族館のような様相になった。自然の回復力は大きいと思ったが、多分、貧酸素の時期には表層近くの浅瀬の隙間に身を潜めていたのだろうと推定する。お台場の外にでても無酸素は解消していないが、酸素のある浅瀬に隠れる場があれば、やり過ごすことができるのだろう。マハゼなどは、早い時期に川を遡上して逃れている個体もお、11月には、マハゼはお台場の浅瀬からは姿を消す。 12月から3月は魚が姿を消しているとき。4月からの調査を楽しみにしていたが、試験枕設は3月で、一年経過で終了した。 この実験で得られたものは大きかった。一年を記録したビデオは好評をいただいた。

1029 大感謝祭-4 お台場人工磯場

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  スタート地点にもどろう。東京湾再生を目指すという。何を持って再生したというのだろうか。 別件、日本水中科学協会のシンポジウムでの展示の件で、船の科学館に行った。船の科学館は、2012年以来耐震構造がのために、展示が休館になっている。 しかし、部分的には、様々なイベント、展示など行っている。今回は、一階の玄関の広間部分で、木で精巧な和船の模型を作ってジェオラマのように並べている。江戸は水の町だったのだ。人々の往来は、今の地下鉄のように、その前の都電のように、江戸時代は船で往来した。  壁面には大きな絵が張り付けてあった。「江戸一目図屏風」隅田川東岸の上空から西方の地上を見下ろした状態で描かれている。
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 その一部、お台場のあたりを見てみよう。 これが江戸前の原風景、これを再生しようとしても陸上はどうやったって不可能、しかし、水中の自然はある程度取り戻す、再生できるのではないだろうか。 同じような生き物が同じように生きているとするならば、それをもって再生と言えないだろうか。 水中も100%は不可能だと知っている。 陸上の風景、光景はどうにもならないとして、生き物だけでも80%、水中の光景は60%とか、マハゼだけならば、90%とか、イシガニは50%とか、 まあ、これは、絵から生まれた、江戸前についての一つの夢想でもあるのだけど。
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                       2012年に試験設置された人工魚礁
                       背が高すぎた
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                   ハゼの類、カニの類の住処になる床下部分が何にもならない。
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                     天然の人工磯場?になっている杭の列
                    横に差し渡されているような丸太の下がマハゼ、カニの寄り場になっている。
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                      干出した磯場だが、この石と石の間に人工磯場を置く。
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 お台場は人工の島である。コの字型に囲われる2辺は人工の砂浜である。一辺が人工の磯場で良い。 2012年の人口磯場実験の結果を生かして新しい形を考えた。設置するのは、貧酸素の層であってはいけない。可能な限り表層に近く置く。そのためにも背が低くなる。マハゼとカニをねらうのだから、桟橋跡の杭の形で良い。既成の牡蠣殻メッシュパイプでも良いし、木材でも良いし、最近流行っているらしい、竹の魚礁でも良い。材料として牡蠣殻を入れたメッシュパイプを使用するならば、殻は大きなものを踈に入れ、小さなカニ、ギンポの類などが入れるようにしたい。お台場の海底の磯部分は、真牡蠣が一面の部分が50%以上を占めていて、ハゼの類、小型のカニ、タカノケフサイソガニなどのすみかになっている。その層を厚くするようにメッシュパイプに粗く牡蠣殻を詰めたものを置くだけでも良いかもしれない。石の間に置いたりできる。どの場所にどのようなパターンで何をおいたら良いのか、その比較研究もできる。  

1031 お台場潜水

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お台場潜水 前回が9月10日だったので、一ヶ月半間が空いた。 10月も本当に末の30日、もうマハゼは深みに下ってしまっただろうか。 雨が心配な空模様だったが、一日持ちこたえた。体がなまっていて、動きが悪い。その上、ドライで、下着を増やしているのにウエイトを1キロ減らしてしまった。2mまで潜ればバランスがとれるのだが、水深1mでは、自由に動けない。そんなことわかっているのに、やってしまう。そのまま行く。 透視度は1.5m 10月としては少し悪いか、水温は暖かく感じる。
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             岩の面にミドリイガイが、ちらちら見える。
             こういう画を定期的に撮らなければいけないのだけれど

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               杭の列に倒れた杭が横になっている縁の下
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              杭の列の上の段、真牡蠣が生きているのがわかる。
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              奥に隠れる小さなイシガニ

 杭の跡まで直行して、いつもの隙間を見る。マハゼは居ない。カニの類もいない。杭の手 前端の四角い立方体の石にシマイサキの30mmほどの稚魚が2尾、段を上がるように向こう側に行く。マハゼのような姿が石の下に逃げ込む。何時も、なぜか、ここにはハゼの類が居るのだ。アカオビシマハゼ、チチブ、スジハゼが居た。小さいイシガニも隠れている。 だから、どうしたという気持ちになってしまう。 ターゲットがない。目標は、杭跡の陰の魚礁効果の確認だった。杭跡にハゼが見えずに、一段上にいる。なぜだ、と考えれば、それが目標になるのだが、水中で、あんまり動きの良くない体では、頭が回らない。一段上を一回りすれば良かったのだが、ウエイトが軽くて体の自由がきかない。少し寒さを感じたので引き返す。帰途は一段上、水深1。5mラインを移動する。三ツ橋、鈴木のバディが、身体は下段に視線は上の段に置いて観察している。姿勢が決まっている。 進路を右に、斜面を降りて、ヘドロ地帯をちょっと見る。まだ、硫黄バクテリアが見える。11月には消えるだろうか。
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 真牡蠣は、大きい個体が生きているが疎らである。砂浜に上がる手前、径50cmくらいの小さな石にハゼが集まる。このあたりの、このような石に魚が毎度集まっている。なぜだろう。今度は石に番号をつけて置こうか。砂浜の方も見ようかと思ったが寒くなってきてしまった。
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              砂浜の近くの石にようやくマハゼが見えた。
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 上がって、コンビニで暖かいものを買えば良いのにお湯を注ぐのが面倒で、いなり寿司とパンにした。ボンボンベットに横になったら寒くて身体が震えた。 2回目の潜水、ウエイトを重くして、近くの石を丹念に見たかったのだが、上がることにした。 
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 人が大勢、多分1000人以上押し寄せてきた。ポケモンの人たちで、走って砲台場の方に行く。仲間では尾島さんと三ツ橋がやる。尾島さんが言うには、ラプラスがでたという情報が流れたので、人が流れたらしい。ポケモンについて、三ツ橋からレクチャーを受けた。はまるのはわかる気がするけど、自分の足で歩き回るGPS探検ゲームだから、僕はやらない。お台場はポケモンの人の群だ。都内全域ではすごい人数だろう。そして、全国では、全世界では、と考えると何か恐ろしい。 

1103 年表 1

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お台場を一段落させて、12月18日のシンポジウムのことを書く 今度のシンポジウムでは、一つはダイビングの歴史を取り上げる。もう一つは、減圧理論と減圧表 について、2014年に改正された潜水士の規則に関連して、とりあげた。これは久保君に講演してもらう。 シンポジウムのレジュメにするために、自分がこれまで作ってきた年表をまとめた。全部エクセルで作っていたのだが、エクセルでは印刷の原稿にならない。別の文、例えばこのブログに挿入したい時もうまくできない。それに加入と入れ替えがうまくできない。エクセルのことだから、うまくやる方法があるに違いないが、今更、学ぶこともできない。エクセルからワードに項目の一つ一つをコピーペーストした。これも他にやり方があるのだろうけれど、一つ一つ確認できるので、コピペでやった。 期待通り、直したほうが良いところ、いくつかの着想を得ることができた。 なおしたとしても、この年表がそのまま最新ダイビング用語事典にはならない。基幹の一つとしてたたき台にする。シートピアについての講演をお願いする山田さんも立派な年表を作っている。うまく合わせられると良い。とにかく、最新ダイビング用語事典Ⅱの年表は、現時点でも、そして、さらに成長させて、一番信頼できる年表にしたい。 いくつかの直すところを調べる覚え書きをブログにする。  これまで、日本にアクアラング、今あるオープンサーキットスクーバが正式に紹介されたのが1953年、新聞にも掲載されたのでこれを正式としていたのだが、年表に並べてみると、明らかにもっと前からに違いない。確認する記録がないので、新聞紹介があった1953年をはじめてとしていたのだが、以下で考えてみたい。  今度のシンポジュウムの展示品として船の科学館から預かる一つ、タンクは、クストーらのグループが映画「沈黙の世界」で使ったと思われる形だ。展示するのは1本で小さいタンクであるが、映画ではこれを2本、もしくは3本連結して使っている写真がある。 1953年にディーツ博士が背負っているタンクはこれよりも後の形だ。 年表では、 1950 大同物産 渋谷武乃丞氏(帝国海軍OB) が新しくできる水中処分隊(掃海部隊のためにフランスのスピロテクニックからアクアラングを輸入したと言われるが未確認 1951 12月 米国でダイビング雑誌「スキンダイバー」が発刊される。 1952 クストーのアクアラングが米国で発売される。 オーストラリアのテッド・エルドレッドがシングルホースのレギュレーターを開発し販売する。 1952-53 過酸化水素によって酸素を発生させる潜水機、ニッセン式が実験されたが実用に至らなかった。 1952 教育 種市高校海洋開発科 日本で唯一ヘルメット式潜水機の訓練も含めて潜水士の養成を行っている。1952年に久慈高校種市分校に「潜水科」として創設された。 1953 米国でアクアラングを輸入していたルネ・スポーツ社がアクアラングを作っていた、スピロテクニック社に買収され、USダイバー社が誕生した。 1953 出来事 米国海洋学者、ロバート・ディーツ博士が東京水産大学小湊実習場において、アクアラングを海洋研究に使用するための運用を指導し紹介した。新聞の記録が残っている。 1954 出来事 洞爺丸海難事故に際して、当時・東亜潜水機に勤務して居た菅原久一氏がスクーバで捜索に参加した。このとき、菅原氏が試作したリブリーザーを持参したと言われているが、この時の写真を見ると、アクアラングを使用しているみたいだ。 1954 事故 東京水産大学の潜水実習で2名の死亡事故が発生する。日本でのアクアラング事故の始まりである。 1954 映画 イタリア映画 青い大陸 使っている潜水機の主体は純酸素を呼吸するリブリーザーである。 1954 指導 米国のロスアンゼルス・カウンティがブルーカード(C-カードの第一号か?)を発行した。  まず、1950年、大同物産の渋谷さんのこと、ニッポン潜水グラフィティにも渋谷社長のことは書いているが、僕が東亜に入社したその日に、渋谷さんが海上自衛隊にアクアラングのタンクを納入する検査を手伝った。それ以来、自分が退社するまで、贔屓にしていただいたが、その1950年のことを親しく訊いていない。ここにきて振り返ると、すべて、僕より一世代前の人たちが、年表に書くようなことに直接にかかわっているのに、何も聞いていない。聞いたとしても伝聞だから、正しいとは決まらないが、とにかく聞いていない。何かを書き残して行くことは、とても大事なことだと思う。今、最新ダイビング用語事典Ⅱを年表にする意味は、それである。渋谷社長は、帝国海軍のOBで、たしか大佐で終戦を迎えている。大佐というのは、終戦で米軍による追放パージにかからなかった最高位かもしれない。この人が、戦後の保安隊、今の海上自衛隊の潜水部隊、水中処分隊の創設に機材納入業者として関わっていることはまちがいない。 1950年についてはまず未確認としておいて、1951年には、米国で雑誌「スキンダイバー」が創刊している。1952年に過酸化水素を使ったニッセン式が日本で実験されている。このニッセン式だが、どこかで、カタログ、印刷されたパンフレットを見たことがある。実物を1958年、神奈川県の人工魚礁に潜水した時、神奈川県水産試験場で見ている。ビニールで作られたペラペラで、とても使える代物とは思えなかったが、すでに埃にまみれて、しまい込まれていた。もしかして、まだ神奈川県水産センターの倉庫の奥にあるのではないだろうか。

ニッセン式については、山下弥総左衛門先輩(本当に水産講習所・水産大学の前身の先輩なのだ)が1959年に書いた「潜水読本」に記述がある。この潜水読本は東亜潜水機もスポンサーになり、成山堂書店から売り出されている。僕は東亜に入社したばかりの時、この本をお得意様に発送する仕事をした。この本があるために、当時の潜水事情がよくわかる。潜水読本によれば、「ニッセン式簡易潜水機は、1953年6月、神田のYMCAプールで、実験された。旧陸軍工科学校出身の元曹長 米良勅夫氏をリーダーとして、元海軍技術大尉、技術中尉などのグループ5人が3年がかりで作り上げたものである。」52年ではなくて、53年6月に年表を直しておこう。過酸化水素、オキシフルで酸素を発生させる。こんなもので潜水ができるわけのものではないが、もしかして、ニッセン式かと思われる写真を持っている。この写真は東京水産大学神田教授の教室にあったものを複写させてもらったもので、神田先生の後任が同級生の竹内だったことから神田先生の写真コレクションを全部複写させてもらっている。1950年代について僕の持っている写真の半数が神田教室からの複写である。その中の一枚である。これがニッセン式かどうかわからないが、リブリーザでは無いように見える。もちろんアクアラングではない。ならば何だ?
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           山下先輩のスケッチ ニッセン式 似ていないこともない。

 ニッセン式が1952―3年だったとすれば、使えなかったにせよ、ディーツ博士の1953年と並んで、これがあったことになる。 有馬頼義という直木賞作家が1960年に「化石の森」という小説を講談社から出している。この小説の主人公が水産試験場の技師で、過酸化水素の潜水機にかかわっている。 主人公のモデルは、神奈川県水産試験場の誰かで、ニッセン式の5人のメンバーの一人かもしれない。だから、そのスクラップを神奈川県水産試験場で見たのか。  以前、水産センターに頼んで探してもらったが、スクラップは無かった。「化石の森」をアマゾンに注文した。読んでから、またブログにしよう。  とにかく、こんな日本製の新しいスクーバの動きが1953年ごろにあったとすれば、1953年をアクアラング元年にするのは、どうだろうか。水産大学では、1954年に学生のアクアラング潜水実習があり、2名が事故死している。実習を行えるだけのタンクとコンプレッサーがあった。すでに1953年には、水産大学にはコンプレッサーとタンクがあって、その使い方の指導にディーツ博士が来た、と考えるのが妥当ではないだろうか。
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p 型
 そして、後藤道夫の潜水の師匠である菅原久一氏は、東亜潜水機での僕の前任なのだが、東亞潜水機に1953年当時在籍していた。そして、P型、ポータブル型という酸素循環、リブリーザを作っている。これも山下弥総左衛門氏の潜水読本に、これはずいぶん詳しく掲載されている。これも、今から見れば、これで潜水して生き残れるとはおもえないのだが、とにかく1953年当時、菅原さんはこの潜水機を東亜で作りテストしていた。 1954年 洞爺丸が海難事故を起こし、その捜索に菅原さんが行っている。菅原さんは東亞潜水機にいて、そのときの荷造りをした人から僕は話を聞いている。P型を荷造りしたらしい。しかし、菅原さんの潜水研究所に残っていた洞爺丸の写真では、菅原さんはアクアラングのタンクを背負っている。P型はどうなったのだろうか。 1954年に東亞潜水機には、アクアラングもコンプレッサーも、P型潜水機もあった。1953年にディーツ博士が初めて紹介したのでは、間に合わない。  1950年、大同物産の渋谷氏はフランスからタンクとレギュレーターを輸入し、そのころのタンクが船の科学館にあった?多分、このタンクを持っていたのは菅原久一さんか? 船の科学館のコレクションは、潜水指導団体ADSの創始者であり、1967年の日本潜水会創立研修会に参加し、中部日本潜水連盟を作った望月昇さんのコレクションである。その望月さんと、僕、菅原さん亡き後の潜水研究所を後継していた山本さん、日本アクアラング社長だった上島さん、4人で宴席を持ったことがあった。その時、大串式の話がでた。 多分、望月さんはそのあたりで、潜水研究所から、大串式その他を譲り受ける話をまとめていたのではないかと想像する。
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            菅原さん 右
 今度船の科学館のコレクションを見て、大串式のネームプレートに、「菅原久一氏寄贈」とある。望月さんは、預かっていたのだった。それとタンクが一緒になっていたとすれば、タンクも菅原氏のものだったのではないだろうか。さらに調べてみよう。

1105 たまには読書ノート

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本を読むこと以外に娯楽?と呼べるようなものがない。テレビは時間に縛られるのでよほどでないとみない。動画は何時も見たり、探したり。映画は年に1-2本。  100円のブックオフか図書館で本を借りるのが50:50。図書館では。だいたい5冊ぐらい。片岡義男、ふと手にとってしまった。この人のもの、たくさん読んでいる。文体が好きなのだ。僕が中学時代、文学少年だった頃の文体が似ていたのではないか、と思ったりする。中学時代の文集が残っていれば良いのだが、とっくの昔に無くなった。教師の間で話題になったりして、もしかして小説家になろうかと思ったりしたのだが、良かったのは内容ではなくて、文体だったのかもしれない。いずれにせよ過ぎた遠い昔。  「青年の完璧な幸福」を借りた。すでに、多分、読んでいる可能性は高い。図書館で借りるのだから、別にかまわない。するすると読み終わって、するする読めるのがこの作家の良いところで、また、どれを読んでも別に変わらないのだが。 1966年から、1968年の時代の27歳の青年の話だ。自分と重なる。そして1966ー68は、いわゆる昭和、都内の移動は都電を使える。いいな、と思ったのはこの時代設定、そして、神保町界隈。読み終わって奥付をみると2007年、この作家にしても新しい。だから、僕は読んでいなかったのだ。 こんな風に、この人のことを書いてフェイスブックに載せると、自分も一時期この作家の本をたくさん読んだという人が何かを書いてくれる。
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 もうちょっと片岡義雄を読んでもいいな。とブックオフでみたが、全然ない。 赤い背表紙の文庫本で、前には目立ってあったのだが。 図書館で見ると何冊かあったので2冊借りてきた。「真夜中のセロリの茎」2013年「たぶん、おそらく、きっとね」2015年 新しい。2冊ともするすると読んでしまった。どちらも1965年中心の話。1960年代に20代後半だった音楽家、写真家、作家が主人公だ。もう、波乗りはしない。ハーレーに乗っている主人公の短編はあった。読んで勿論何も考えない。何も残らない。もっと読んでも良いなと思う。また図書館に行ってあったときには借りて来よう。

1106 年表 2 大同物産

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     左側が大同物産で輸入していたフランス製のアルミタンク
     機雷処理にはタンクは非磁性でなくてはだめで、アルミであることが必須
     アルミタンクについているレギュレーターは、無印で国産、
     右側の多分消火器タンクについているレギュレーターがフランス製

最新ダイビング用語事典Ⅱは年表を芯にしようと計画していて、下書きの下書きと言うか、企画のための年表を作った。その年表を見ていると、次々と連想が思い浮かんでくる。掬い取てみよう。







今、日本のスクーバダイビング事始めのような部分を書いていた。1950年か、もしくは1951年に大同物産の渋谷社長が、フランスのスピロテクニックから、アクアラングを輸入したことは、周囲の状況から考えて、妥当だと前回述べた。大同物産という大きい商社もあったのだが、その大きい商社ではなくて、社長と事務員一人、二人だけの大同物産で、有楽町の国鉄(今のJR)の高架線路下のビルの一室にあった。登記所の区域が違うと、同じ名称の会社も登録できるのだという。小さい大同物産の仕事といえば、海上自衛隊に主にスクーバを納入する。他にも何かやっていたかも知れないけれど、鎌倉にお屋敷があって基本的に金持ちだったから、仕事はそれだけでも良いのだろう。フランスからの輸入は、たしかバルコム交易という会社で、渋谷社長はその取次だけで商売していた。
東亞潜水機の社員の僕は、大同物産であつかうスクーバの実質的に全ての身体を動かす仕事を東亞潜水機内でやっていた。渋谷社長は、東亞に電話して指示するだけ、フランスから輸入されてくるスピロテクニックのアクアラングは、東亞に入る。荷造りをといて、テストする。納入のときは検査官が、横須賀から東亞にやってくる。検査を受けるのは渋谷社長立会で、僕が実質的な全てをやる。渋谷社長の大同物産は何もしない。頭のいい人だ。
場合によっては、神田のYMCAのプールを借りて、検査官の前で実際にそのスクーバで潜って見せる。全数検査などというと大変だ。一人ではできない。水中造形センターの館石さん、後のマリンダイビングのボスに手伝ってもらう。その後、社員としてアシスタントの安森が入ったので、そして、館石さんも仕事が増えて、館石さんの撮影を僕が手伝うようなことがおおくなった。手伝いの地位が逆転した。


 その大同物産が1950年にアクアラングを日本で初めて輸入したらしい?それほど親しくしているのだから、訊ねて確認しておけば良かった。とは言っても、渋谷社長が本当の事を言ったかどうかはわからない。証拠になる書類などを見せてもらうほどの熱心さはその頃の僕にはない。ただ、前回述べたように、幾つかの状況から、ディーツ博士の1953年ではなくて、渋谷社長の1950年、もしくは1951年の輸入というのが、最初だろう。
 アクアラングは米軍も戦争の道具として使っていたから、その方面から日本に入ってきたルートもあると思うけれど、それは1953年以降だろうと思う。それ以前については証拠がない。
実技の講習は、東京水産大学のライン、海上自衛隊のライン、二つのラインがあった。その一つ、東京水産大学のラインが1953年のディーツ博士の指導であったと考えよう。、もう一つの海上自衛隊のラインは、後に親しくなり、お世話になった逸見隆吉三佐(1952年当時?)飯田三佐 が最初の講習指導の中心だったことは間違いない。
 
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         大学時代の竹下先輩
         着ているウエットスーツは、ネオプレーンではなく
         クストーたちが沈黙の世界で着ていたのと同じデザイン。
         次の年、僕が着て、バラバラにしてしまった。糊が剥がれたのだ。




 1962年。僕は横須賀基地に水中処分隊を訪ねている。大学の一期先輩で、一緒に潜水部を作った竹下徹さんは、大卒の士官候補生になり,士官になって横須賀の水中処分隊に配属されている。潜水士官の草分けだと思う。飯田三佐が初代の水中処分隊の隊長で、竹下先輩はまだなり立ての士官だが、潜水能力は抜群だから、潜る実務の隊長だったのだろう。
 掃海艇「のぎく」が処分隊の船だが、米軍からの貸与だった。「のぎく」は木造船で250t小さい船である。処分する機雷は、磁気に反応して爆発するものもあるので、鉄の船ではいけないのだ。機雷を爆発させる信管は、接触して爆発する信管、音に感じるもの、磁気に感じるもの、水圧の変化に感じるものがあり、その組み合わせになっている。音を出してもいけないので、気泡を出す開放式スクーバは危ない。音を出さないが用いられるのはそのためである。しかし、そのリブリーザが国産化されて、処分隊に配属されるのは、もっと、ずいぶん後になる。機雷処分は、大抵は引っ掛けたりして、爆破するのだが、ソレができない状態では、潜水は必須であり、未だ当時は気泡の出るアクアラングが配置されるのだから、命がけである。竹下先輩は、自衛隊で命を懸けて戦争しているのは、処分隊だけだ。と胸を張っていた。
 二代目の隊長が逸見さんで、     全日空の飛行機が羽田沖に落ちたときの隊長で、活躍された。退役された後は、日本海洋産業という会社で石油掘削リグの仕事などをされて、僕は随分仕事をさせてもらった。
 さらに後になり、海洋産業もお辞めになった後だが、日本にスクーバが最初に入ってきたのは、大同物産で1950年だっただろうかお聞きしたのだが、はっきりした時日は覚えておいでにならないということだった。やはり類推する他ないのだろうか。
 竹下先輩も退役された後は、住友海洋開発という会社から、JAMSTECに出向され、シートピア海底居住の指揮をとられた。


 エピソードを一つ。1962年当時、僕と館石さんは、館石さんの実家が館山湾に面した船形で釣宿をされていたことから、館山湾内を虱つぶしに潜り歩いた。
 お気に入りは、魚礁にするために沈められた水雷艇で、水雷根と呼ばれていた。そのころは水雷艇の形がしっかり残っていて、船体の中に入ることができた。水雷艇は小さい船なので、船体も小さく、中に入るのが恐ろしいくらい狭かった。中に入ると、船を沈めて置くために、割石が詰め込まれて、敷き詰められたようになっている。その石の隙間、船体の天井、などにイセエビが詰まっている。大きいイセエビが髭を動かすと、きしむような、キイキイという音がする。その音でうるさいほどだ。僕はスカリを持って入り、イセエビを手当たり次第に網の中にいれた。網から逃げ出すのも居たがそれをつかむよりも、新しいエビを掴んだほうが手っ取り早い。狭い船体の中だから、若干焦っていたかもしれない。10尾以上詰めたのが、5尾しか残っていなかった。
 少し後に、同じことを期待して、イセエビを採りに潜ったが1尾の姿も見えない。竹下先輩のところに遊びに行った時、このイセエビの話をしてしまったのだ。横須賀から館山は、近い。館山湾は自衛艦の錨地でもある。聞けば、水中処分隊に処分されてしまったのだ。
 さらに歲月が流れ、どうしても水雷艇をもう一度見てみたかった。館山を基地にしている水産工学研究所の調査船、たか丸で調査をしている時、2005年だったか、水雷根に潜った。水雷艇は影も形も無く、上に魚礁のブロックが落とされていて、海底に折れた鉄の板に水雷艇の丸いガラス窓が一個残っているだけだった。

1107 ニッセン式

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            下の図は山下弥総左衛門著 潜水読本 より

 過酸化水素、オキシフルで酸素を発生させて呼吸するというニッセン式の話の続きである。 オキシフル潜水機のことがでていると記憶にあったので、注文していた有馬頼義の「化石の森」がとどいた。小説はロマンチックな話だが、それはどうでもよい。主人公の中泉という男が、この潜水機の研究をしている。彼は戦時中シベリアで毒ガスの製造の研究をしていた。そんな部隊があったたしか442部隊だったか、それにかかわっていたが、毒ガスがばれなかったので、日本に戻ってくることができた。つまり化学の応用の専門家である。彼が新しく研究した潜水機のことを婚約者に説明する下りがある。  「中泉の研究室は八畳ぐらいの広さしかない。床の上に台があり、その上にいろいろな実験機会が並べてあった。 「簡単に原理を説明しよう」と中泉は、台の端にある小さなボンベを指さした。「この中に過酸化水素の30%液が入っている。此処には触媒、つまり過マンガン酸カリの結晶がある。この二つが出会うと酸素が発生するんだ。しかし、この酸素の中には、水蒸気が含まれている。それで、この次にある濾過機を通す。この中にはソーダ石灰という奴が入っている。ここを濾過した酸素は化学的に作られた純粋酸素だということになる。それをこの気嚢の中に入れておく。ここから管がでて人間がそれをくわえるのだ。」 アクアラングとの比較も出てくる。「ホース式の潜水について、 …大きくて、行動が自由にならない。沈没船を発見しても、狭い入口から中に入るのに骨を折るし、送気管がなにかに引っかかれば、それっきりになる。それで、送気管を持たないアクアラングが登場したのです。これならば安心してどんな格好でもできる。水の中で逆立ちをして作業もできるわけだ。このアクアラングの欠点は、時間の制約を受けることのほかに、中の人間の吐いた空気を水中に捨てているわけでしょう。この気泡の音で、魚は逃げてしまう。」「これからはスポーツとしての潜水が盛んになると思う。その意味でも、ヘルメット式は手数と金と人力が大変必要だし、アクアラングは素人には使いこなせない。僕の潜水機なら、だれでも簡単に使うことができるでしょう。薬屋に行って、オキシフルを買えばいいんだから。」 このあと、伊東の水産試験場へ行き、この潜水機とヘルメット式が潜水を競うシーンがある。 まちがわないように、これはドキュメンタリーではなくて、小説である。だから、書いてあったことが実際にあったかどうかわからない。しかし、小説家の想像だけとも思えない。実物の残骸を見た覚えがある。  化石の森の初出は1960年である。 ニッセン式が神田のYMCAプールで実験され、潜水することができた。いう。 そして、もう一つ、僕の持っている写真である。これが何処なのか、何時の撮影なのかわからない。状況から見て、ニッセン式でプールでのテストに成功していたという神田のYMCAプールではない、屋外のプールでの写真である。この写真がニッセン式だという確認はしていない。山下弥総左衛門先輩の潜水読本にあった絵とにている。  有馬頼義が「化石の森」を書いた、1960年には、まだ、ニッセン式は存在していたのだろうか。僕が神奈川県水産試験場でその残骸をみたのは、1958年だから、1953年の何回かのテストだけで終わったのだろう。もし成功していれば、1954年ごろに、水産大学の小湊実験場あたりに現れて、遅くとも、1956年あたりには、僕が、潜れる、使うことができる形のものを見ているはずだし、きっと、使ってみるチャンスもあっただろう。 これも想像だけど、人間の呼吸で正味酸素の消費はわずかなものである。呼吸袋が十分に大きければ、炭酸ガスを除去して、呼吸を何回か繰り返すこともできるし、酸素が加われば、プールで潜るくらいはできたのだろう。 化石の森、に伊東の水産試験場がでてきている。当時伊東水産試験場は、水産の潜水のメッカの一つだった。三浦定の助先輩が定置網潜水の講習をやっておられて、僕はその弟子にあたる稲葉繁雄さん親しく、彼の家に泊めてもらったこともある。その時にニッセン式のことを彼に訊いてみたら何か分かっただろう。 しかし、ともかく、だめだったことだけは明らかだ。何も残っていない。でも、東亜潜水機の僕のデスクがあった倉庫の片隅で、ニッセン式のパンフレットを見た記憶がある。白い地に、赤と青のゴシック体の字で、写真はモノクロだった。ニッセン式の水中撮影の写真はない。

1111 お台場のマハゼ

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 お台場にこれで回数を数えただけで130回の上、回数を数えるようになったのは、1994年からだ。自慢になるのは回数だけかもしれない。何か論文を書いたということもない。ただ、継続は力だと思っているだけかもしれない。とにかく継続していれば、何かになるのだと思っていた節もある。 継続することはともかくとして、何のために継続するのだという目的、目標についてまとめて置こう。 目的、目標は、人それぞれである。ただ、継続するという目的もある。 自分の場合だが、一つはお台場という場所がダイビングポイントとして自分にとって魅力があることだ。これを細かく書いていると、今日書こうとしているところに到達できなくなってしまうのでまたの機会にするとして、生き物の観察に目標を持てるということがまず言える。ところでその観察で結果を残しているかというと、20年間も潜っていて残していない。これは、とても残念。残念がっていても仕方がないので、これから先のことを考えよう
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            8月のマハゼ

 お台場で一番多く見られる魚はマハゼである。そして、毎年見られて、それほど減っていない。 2015年、去年になってしまったが、東京湾大感謝祭で行われた ミニシンポジウム「東京湾を再生するためにどのような研究が必要か」「市民調査から見えてきた東京湾のマハゼ」 江戸前ハゼ復活プロジェクト 古川恵太氏の発表の報告から抜き出して、考えてみよう。古川さんは2014年に僕がお台場のビデオを大感謝祭で発表したおりにお世話をしてくださった。 2015年のミニシンポジウムでの発表んのPPスライドもわかりやすい。 発表は、市民が釣ったマハゼを分析したものだが、それは、ここでは述べない。その前提となっているマハゼについての東京湾での状況、常識の部分がよくまとまっているので、参考にした。 
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まず、「東京湾におけるマハゼの資源量だが、1960年代には、推定で1億尾、それが、1980 年代になると1000万尾十分の一になった。それが 2000年代には 100万尾、さらに十分の一になった。」 この推定は、神奈川県水産センターの工藤さんが行ったものだ。工藤さんもたいへんに親しい友人で、何度か一緒に潜る機会があった。 ずいぶん大ざっぱな推定で、本当かな?とおもうけれど。20年間で十分の一ずつ減って、40年間で100分の一になってしまった。1%である。とにかく、1960年代には今の100倍のマハゼが居たという推定である。 東京都の漁業というと何があるかというと、まずハゼ釣りがあり、次に島嶼の漁業だ。島嶼とは伊豆七島と小笠原である。ハゼ釣りは伊豆七島の漁業に匹敵していた。今、ハゼ釣りの船は屋形船の観光になり、ハゼ釣りよりも大規模となり、利益も上がっていることだろう。だから、ハゼの減少もそれほどの打撃にはならない。ハゼの減るのに比例して、屋形船が増えた。  この減少は、川と海が分断された結果と推定されている。マハゼは春先に生まれて、やがて川を遡り、夏が過ぎるころ川を下って汽水域にきて、やがて、深場といっても水深、6ー8mの柔らかい泥場、ヘドロとも言う、に産卵のための孔を掘って産卵する。産卵の為の孔は、1m以上と深い。そして、大半は、産卵を終えると死んでしまう。およそ1年の命、年魚である。中には2年、3年と生きる個体もあるという。 100分の一になったということは、川に上れなくなった。つまり棲息の面積が100分の一になったと見れば納得できる。 古川さんのスライドでは、今でも江戸川、多摩川、荒川にはマハゼが遡っている。隅田川は?になっている。 さらに古川さんのスライドで「マハゼの住みところ調査空間的にいくつかの独立群が存在している1ー3月産卵群と 4ー6月産卵群がいる。夏期には貧酸素から逃れる場をさがしている。安定して産卵できる場所 貧酸素から逃れる場を保全造成する事が必要?」 そしてマハゼが増える為には。「稚魚の為の浅場 潮だまり幼魚ー成魚とための駆け上がり産卵場所のための泥質海底」 としている。
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                  5月のマハゼ
 空間的にいくつかの独立群が存在している。江戸川にのぼる群、荒川、多摩川、それぞれ独立した群と考えられる。江戸川の群は、葛西、ディズニーランド沖あたりで産卵する。多摩川の群は羽田沖で産卵する。 では、?の隅田川の群は、お台場を含む東京港の隅田川河口付近と考えられないだろうか。 1月ー3月の産卵群があり、4月ー6月の産卵群があるということは、お台場でも夏場から秋にかけて、大きさの全く違うマハゼの群がいることで、想定できる。 多分、お台場、東京港のマハゼは、やはり隅田川を遡上しているのだろう。そのあたりの調査は川の調査をしなければわからないが、自分の守備範囲はお台場だから、他の調査の結果を待つ他無い。  東京湾の夏場の貧酸素だが、東京湾の鮎もマハゼも貧酸素の時期を川に上って避けている。しかし、上れない、上っていないとすれば、夏場、貧酸素の時期をどのように過ごすかが問題になる。  安定して産卵できる場所、お台場のヘドロ地帯、水深4ー6mでは、産卵していないだろうか。1993年に潜水した際、多分マハゼだろう、というハゼが孔を掘っていて、逃げ込むのを撮影している。今、2016年はどうなのだろうか。僕たちの潜水調査区域が岸辺に限定されているので、潜っていないのでわからない。調べて見たいとおもっている。
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 お台場のマハゼの状態を見ると、5月の稚魚の時、次第に大きくなっていく6月7月、そして大きくなった9月、10月には姿をけす。もちろん、大きくなるに従って数も少なくなっている。9月10月の大型個体は、川に上ったとしても降りてくる時期だから、お台場に居着いたまま大きくなった個体ではないだろうか。そんなことで、お台場の狭い範囲で、産卵も含めて、生活史を完結している個体が居るに違いない。

1114 安全潜水を考える会

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 マスク式潜水の原稿はほぼできているのだが、安全潜水を考える会が、良かったのでそれを書こうとしたら、ニフテイのホームページが式が変わって見られなくなってしまった。これは大変で、ブログどころの話ではない。もともとニフテイは嫌いなのだが、一番古い付き合いなのだ。まだ、修復できていない。  その安全潜水を考える会だが、そんな事情で、はしょって書くことになる。 良いと思ったのは、四つの講演が、運用、オペレーションを中心にしていたことだ。運用が安全の鍵なのだ、と、常日頃言ったり書いたりしている。日本水中科学協会のシンポジウムも2010年の最初の会から運用の話を必ず入れている。  四番目の講演、海保の和多田さんのスライドでは、何度も「段取り9割」と書いてある。段取りとは、運用のことに他なら無い。段取りを良くする、つまり運用のことだ。運用80%という言葉もある。
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 和多田さんは、特救隊隊長のキャリアがあるが、訓練で5キロもって15分の立ち泳ぎがある。今更立ち泳ぎを復活させるつもりは、無いのだが、救急ダイバーのトレーニングが目についている今日このごろだ。これがスタンダードだろう。学生連盟の事故は、限界を定めていなかった。海保の潜水士が15分ならば学生は、10分だろう。10分というのが僕たちが定めた時間だった。遠い日本潜水会の昔を思い出した。  あと三つの講演では、いずれも実例とその解決について、それぞれわかりやすくスライドを使っている。実例とその解決も運用が芯、9割になる。 弁護士の上野さんの話の中で、ご夫婦で潜っていて、初心者ではなく、ガイドともなじみ、という慣れた状況で、二人の潜水で、奥さんだけ先にガイドロープの下に潜降させて、後から追う形のご主人が沈んでしまう。ガイドは船の上にいて、あわてて飛び込んだが間に合わなくて死亡。
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 これは2014年の日本水中科学協会シンポジウムの事例と同じパターンではないか。日本水中科学協会の例は、ご主人が船上で準備中に、先行させた奥さんが行方不明になっている。細かい点はいろいろと違いはあるが、二人のバディの場合、一人だけを先に潜降させてはいけない。古典的ではあるが、必ず水面で顔を合わせて、潜降のサインで同時に潜らなければいけない。これは、潜水に慣れてしまうとなかなかできない。上手になれば、半ばソロに近くなってくる。しかし、このパターンの事故は、ガイドでなくて、リーダーだったとしても責任は追及されるだろう。 事故も古典的になるようなパターンは、マニュアル化が必要だ。  素潜りの安全について、藤本先生の話、彼はスキンダイビング・セーフティの共著者、つまり親戚だ。 水平25m潜水の繰り返しで12歳の健康な男の子、13歳の女の子が、強い胸痛を感じた後にめまいなどを感じた。 水平25m潜水の繰り返しは、僕のトレーニングの基本なので、子供でなくて大人でも同じようなことがないか心配になる。しかし、これもやめてしまうとトレーニング課目がなくなってしまう。 子供については、限界近くまで息こらえさせない、競わせないと言う結論だが、息こらえを限界までさせないというのは、大人についても、僕の練習会でのポリシーだけれど、その限界と言うのがどこかわかりにくい。子供の場合は、さらに限界を自覚しにくいということだろう。
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 親しかった木村京子の書いたジュニアスキンダイビングマニュアルのスライドも見せられた。ただ紹介しただけだが、今、木村京子は、どうしているだろう。  熱海の鈴木先生のアテンドダイビングは、ダイビングに不安を感じた人と一緒に潜ってみてアドバイスをしてくれるというのだが、難しい問題を内蔵している。できるだけ、ポジティブにダイビングを続ける方向での答えを探してくれるというのは、これまでにないことで、これができないと高齢者のダイビングは、行われ難いことになってしまうのだが、上野先生の訴訟例とは、表裏である。 すべては自己責任が原則でなければ、ポジティブなことは言えない。  安全潜水の会のあと、古い仲間の大方洋二君の出版記念パーティにまわった。池袋サンシャイン水族館の中でのパーティで、雰囲気としてはすばらしいものだった。来賓挨拶をさせられたが、大方君について、昔話をすると、とめども無いことになってしまうので、昔話はしなかった。昔話をしないとなると、上手な話はできない。 フィッシュアイの大村さんと話し込んだ。最新ダイビング用語事典Ⅱについて、お願いすることがあるのだが、改めて書面にすることにする。
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