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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0731 豊潮丸航海記 -7 0725

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 AM1000  佐多岬沖 これが最後の潜水で、この後、豊潮丸は呉に帰る。
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7月25日 舮着けした山川港、大型船が横着けできる大きな市場は閑散としている。月曜日の朝なのに、水揚げする漁船も居ない。漁港は寂れる一方だ。 中尾先生が船から降りて、タラップの向こうに居る。僕も降りて挨拶する。 「対馬をぐるっと回る予定だけれど、一緒に行かれますか、」 僕は、一瞬、豊潮丸の航海のことではなくて別の話か、と思って「行きます。行きます」途答えた。その後で、来年の豊潮丸の航海のことだとわかった。この航海が10回目で、切りも良いので、これで降りるつもりだった。しかし、命がある限り、整理に入っては、いけない。とも思う。来年の航海にも乗れる、乗るつもりで、生きなければ、病気になってしまう。だめならだめで良いのだが、だめになる前に、自分でだめと決めるのはやめよう。
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 タラップの脇に猫がいた。優しい態度を顔をして、手を伸ばすとすり寄ってきた。なぜてやると、ごろんと横になって無防備の姿勢になる。痩せていて、乳首が目立つ。子供を産んだのだろう。飼い猫だろうか。それとも、漁港に住み着いていて、落ちた魚をもらっている漁港猫だろうか。漁船でにぎわう港でもなくなっているのだが、それでも人から餌をもらっているのだろう。
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 佐多岬 鹿児島湾の入り口   AM1000  佐多岬沖 これが最後の潜水で、この後、豊潮丸は呉に帰る。 岬だから流れが心配だった。岩の内懐にボートを止めた。 水は、すばらしくきれい。透視度は30mをこえるだろう。気持ちよく潜水できたが、中尾先生的な無脊椎動物、海綿は見あたらないらしい。 
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 何と言うこともなく、気持ちの良い潜水で、この旅の潜水、すべて、取り立てて危険を感じることもなく終了した。チームがきちんと機能してること、ゴムボートを芯にした段取り(運用)が完成していることで、今回の航海すべて危なげのない潜水になっている。僕のマスクのストラップトラブルが、流れの速いところで起こったら、ちょっとばかり困っただろうけれど、ヒヤリハットを感じるところまでは、行っていない。はぐれて少し心配しただけだ。
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 潜水のフォーメーション 赤いゴムボート(石川さん所有)にタンク7セットを積む。鈴木がこの積み降ろしのすべてをやる。うねりが大きいとこの作業が危なくなる。 エンジン付きゴムボートに横付けにして行き、岸近く、水深3ー6mに赤いボートのアンカーを入れる。エントリーして、水面でタンクを装着する。 アンカーから80mの巻き尺を海底にランドマークとして延ばす。今回の8回の潜水で、このマークがあって良かったと思った潜水が2回あった。すなわち、マークをたどってアンカーに戻った潜水が2回ということだ。 僕と中尾先生のバディ、町田と里奈にバディで鈴木がガイドのスタイルで監視する。北海道大学の酒井先生のバディは、原則としてお互いに見える範囲で動くことにしているが、今回の潜水では、とりたてて、注意はしなかった。このスタイルの練度が高くなっていて、酒井先生バディについての問題はなかった。 トラブルとしては、僕のマスクのストラップ外れ、中尾先生のフィンストラップの切断があったが、危ない海況と重ならなかったので、危ない思いはしなかった。 恐怖心を安全に結びつけることが大事なこと、と、いつも書いているが、流れがあるか、波はあるか、という心配はあったが、好天に恵まれて、不安に感じることは一度もなかった。幸運に恵まれた航海だった。 水面でタンクとウエイトを外して赤いボートにのせ、エンジン付きの迎えのボートによじ登る。腕力とキックで上るのだが、自力で上がれないのは、僕だけなので、腕をひっぱってもらう。くやしい。 里奈は、独力でよじ登るように、這い上がってくる。よじ登れることが矜持なのだ。

0801 夏が過ぎていく。豊潮丸航海記 おわり

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 石川さんの花火が終わった。石川さんが打ち上げている花火ではないけれど、石川さんのイベントだ。 豊潮丸の航海は7月に終わり、7月末の花火が終わると、8月、吹く風は秋の香りがする。昔だったら、セミの鳴き声が変わり、夏休みの宿題を諦めると秋だ。はるかな国遠い昔、いまは、未来は一年一年刻みだ。東京オリンピック、そのトライアスロンを夏のお台場でやるなんて、狂気の沙汰だなどと思っていても、その2020年は、自分には来ないかもしれないのだ。
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さて、今度の、2016年豊潮丸航海をまとめよう。 今度の航海は、呉をでて周防灘を北上して、関門海峡を抜けて、壱岐に向かった。壱岐で潜水して、壱岐・郷ノ浦入港、 五島列島に向かい、北端の宇久島で潜り、下五島・福江に入港 福江で潜水し、南に降りて牛深の先端、下須島で潜水、南下して枕崎沖、番所鼻で潜水し、山川港に入り、最後に佐多岬で潜水して、北上して、呉にもどった。すなわち、九州沿岸を一回りしたことになる。 好天に恵まれて、雨も降らず、海も時化なかった。すべての潜水を予定通りに終えた。
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 この時期、台風が南方洋上にあることが毎年の常であるとすれば、幸運というか、毎年、同じくらいの数の台風が来るとすれば、今後が心配になる。ともあれ、幸運で、僕がマスクのストラップを外してしまったこと、中尾先生がフィンのストラップを切ってしまったことを除いては、何事もなく潜水できた。 豊潮丸からのダイビングの型、システムが決まって、全員の潜水能力が高く、熟練度も安定したことが、この結果だと思う。北大の酒井先生のグループと一緒に潜っている。酒井先生は、体力抜群、運動能力も抜群、だから恐ろしいのだ。石川さんを、ガードに付けて、苦労させたこともある。しかし、年を重ねて、ようやく、僕の考えがわかってもらえたような気がする。ブリーフィングは大事だけれど、ブリーフィングは実は想定外のことが起こった時に、縛りになることが多いのだ。打ち合わせなくても、わかっている。そんなことを言いながら、マスクストラップが外れて、あとから追った僕が自分たち、中尾先生とは合えずに、酒井先生がそばに居た。流れがなくて良かった。いや、流れがあれば追わなかっただろうが。  一般のレクリエーショナルダイビングとは全く違うので、参考にならないかも知れないが、同じような研究者のフィールドワークの潜水としては、僕たちのゴムボートで、ラインを引くシステムが、ベストに近いパターンだと思われる。もちろん、メンバーの差、地形、海況の差によって変形しなければならないが、現地のガイドなどを雇わないで、未知のポイントに潜る方法としては、良い方法だと思う。  そして、自分のことだが、やはり81歳、身体能力は、がんばってトレーニングしているとはいえ、哀れなものである。中尾先生、酒井先生、平山先生、そして学生たちも本当に良く歩く。僕がこの旅を終えると、体調が良くなるのは、歩かされるかも知れない。と感謝はするが、付き合いきれない。一般に学者、研究者というと、研究室に閉じこもっている虚弱な人をイメージするかも知れないが、大きな間違いである。  実は、今度の航海で僕は卒業しようと思っていた。旅の途中で倒れるようなことがあれば、迷惑をかける。しかし、若い子だって倒れる可能性はある。同じことだ。今回もし、旅で調子が悪くなれば、潜水もやらないで、これで終わりにしようと思っていた。しかし、いつもと同じように尻上がりに体調がよくなって帰ってきた。 中尾先生も、次回は対馬周航だから、一緒にといってくれるし、酒井先生も、再見を約して握手してきた。平山先生も、また一緒に旅をしたいと言ってくれる。次回を目指すつもりになった。  ダイバーは潜り続けなくてはいけない。少なくとも、潜り続ける姿勢、ファイティングポーズはとり続けよう。
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 学生もみんな良い子で、僕をカバーしてくれる。学生にとってこの航海は、海を身体で知る良い機会だ。そして、多分、この航海のことを終生忘れないだろう。僕も大学時代の実習航海(東京水産大学)は忘れていない。この航海と違い、先輩にしごかれ、24時間定点観測では、船酔いで死ぬ思いをした。酔い止めの薬、なんて、軟弱なものは許されない。吐くものが無くなったら、吐いたものを口に戻せ、そんなことは出来るわけはないが、表現として、そういう雰囲気だった。 僕の役割は、スーパバイザーとしての安全管理責任だが、学生ともっとコミニュケーションをとり、海のことを話すことも役割としてあるのではないかとおもう。耳が遠いから、一緒に笑い転げることはできない。来年があるとすれば、映像などを見せて、お話をする時間が少し欲しい。お台場の生き物の動画などを見せて、話ができればと思う。 お台場の水中生物は、その種の極限状態で生きている。その意味で、とても貴重なのだ。

0802 お台場水浴び

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 7月31日 (日曜日)

 お台場と辰巳のスキンダイビングダブルブッキングの日だ。辰巳は、15時から17時 14時から誰かが居ないと、受付ができない。斉藤さんにお願いすることになった。自分は15時過ぎでもとにかくなるべく早く行く。

 必ずある忘れ物、海洋大学の江原君にBCを頼まれていたのを忘れた。僕のBCで交代で潜れば良い。

 お台場での港区の水浴びがこの日はあって、海辺研が企画した行事だが、全日本潜水連盟の中村が安全管理責任者を引き受けていたりして、なるべく協力するということで、僕は、集まる子供たちに見てもらう、お台場の水生生物の映像の提供をしている。
 昨年までは、自分たちのフィールドの隣でやっていたので、ついでに見てあげることもできると思っていたのだが、会場が、正面に移ってしまったので、歩いていくのに遠い。

 一回目の潜水を江原にBCを渡して、自分は11時からの潜水にすれば、良い。
 水浴びの場に訪ねた。
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 区域をブイを繋いで、厳重に囲ってある。その外側にエンジン付きの監視船が見張っている。このブイを乗り越えて外にでようという半ば頭のおかしな子、もしくは家族が居た場合の対応だ。
 全員がスノーケリングベストを着けている。マスクもスノーケルも着けていない。本当の水浴びだ。水を浴びるだけ。それでは、満足できないだろうと言うことで、僕の映像とか、都の水産センターは、小さな地引き網を曳いて、何かを採って、水槽に入れて、取れたてを見てもらう、などのイベントをする。
 昨日、土曜日は200人来たそうだ。今日も見たところ20人ぐらいが水に入っている。
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 担当の港区職員高橋さんと挨拶して、自分の映像が上映されるテントをみた。テントがなければ、映像は見られない。青いテントは作ってもらっているのだが、やはり明るくて,画面は鮮明には見えないかもしれない。しかし、かなり喜んで見てもらえているという。まだ、時間が早いので、誰も映像は見ていない。
 スタッフと印されている紺色のTシャツを着たアルバイトが、かなりの人数うろうろしている。中村に挨拶だけしておこうと聞くと、水に入っているとのこと、見ると、ウエットスーツ、マスクを着けて浮きの囲いの真ん中で仁王立ちになっているのがそれらしい。
 浜に、港区区会議員の榎本さんが来ていたので挨拶する。お台場のプロジェクトを彼に後押ししてもらおうと先日訪ねたばかりだ。企画書を昨日送ったばかりなので、よろしくお願いする。
 囲いの中、25mプールの大きさもあるかないかの囲いだ。その中で、フローテイングベストを着けて、顔を水に付けることなく水を浴びる。
 海水浴の何十倍も安全だ。しかし、お台場はアカエイが多い。アカエイを踏みつける危険はある。
  
 自分の子供の頃の河ガキ時代を振り返ってこれは何なのだろう。過保護に過ぎる?このイベントも、l7月30ー31日の二日間だけ、あとは水浴びも禁止だ。大腸菌数が海水浴場の基準に達しないため、いわゆる海水浴はできない。
 僕たちは20年以上、ここでダイビングを続けている。水に潜ってのクリーンアップもしていて、これも20周年になる。オーシャンスイムというイベントも年に5回、夏に行われている。クロールで泳ぐ大会だ。
 榎本区会議員に言わせれば、ここは都市排水垂れ流しの場だ。それを解決することが先決、と努力しているそうだ。もちろん、彼はとても良いダイバーだったので、京浜運河で潜ってスズキの撮影をしていた。それが彼との出会いだった。今はもう潜っていないという。
 榎本さんと話をしていたら、変な男(高齢)が僕に近寄ってきて、手を握ろうとする。知った人かとおもったが、知らない。手をつぶれるほど握られた。何だこれはと思ったら、離れて行ったが、10mほど先で倒れた。一度起き上ったが、また倒れた。酔っ払いか?こういう人も来るのだから、過保護と思われる安全対策も必要なのかもしれない。とにかく驚いた。

 挨拶して、自分たちの場に戻ろうと歩き始めると、地引き網をして、子供たちに魚を採って見せる、計画の農林水産センターの千野さんが居たので挨拶した。網で、ツバクロエイが採れたそうだ。以前何回か僕たちの水中生物研究会に来て潜ってくれたことがある。またどうぞ、とさそうけれど、おいでになると言う判事はもらえない。みんな潜水を卒業してしまっている。

 お台場の海に親しむこの水浴び計画、浄化を完全にしないで、顔を漬けてはいけないというまやかし海水浴だとツイッターなどで批判されていた。つまり、浄化をしないで見切り発車的に、水浴びをさせて、ごまかそうとするな、という批判だ。
 オーシャンスイムもある。オリンピックのトライアスロン競技も予定されている。浄化のプロジェクトを僕たちも考えている。何が僕たちにできるのだろうか。
 自分の考えでは、一大土木工事で、ここをプールにしない限り、無理だろう。ところで水の通わないプールにしたら、かえって汚染がひどくなるという意見もある。まず、ここの生態系を調べる。そして生き物の多い、豊かな海にすることが第一だと思う。
 残念ながら、生き物の勢いは、長い下り坂の途中にあるようだ。

0803 お台場潜水 0731

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 さて、潜水をしよう。
 みんなは、第一回目の潜水が終わり、上がりかけている。BCも戻ってくる。
 天気は、次第に雲が増えてくるが雨が来るという雰囲気ではない。でも雨が振るという予報だ。
 蒸し暑いが、今年の夏、お台場はドライスーツで通すと決めた。秋になり、ウエットスーツからドライスーツに切り替えるとき、ウエイトも7キロ増やすし、拘束衣だからつらい。ドライスーツで通してしまえば、少し暑いことを我慢すれば良い。
 豊潮丸では、ウエットスーツで水温が24度なのに3mmでは寒かった。5mmワンピースにフードジャケットでちょうど良かった。とにかく、お台場はドライスーツと決めた。
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 カメラは、お台場はSJ4000と決めている。5000円~9000円のウエアラブルカメラだ。お台場にはこのカメラが合っている。GOPRO2が3台あるが、次第に調子が悪くなりつつある。GOPRO4とかは買う気持ちがない。今度、オリンパスで出したカメラには興味があるが、ニコンのTW1300で間に合っている。ニコンが使えなくなりそうになったら、買おう。
僕の寿命がニコンが壊れるまであるか?と思ったりする。このごろ、物を買う時に、物の寿命と自分の残された寿命と比べて考えたりしている。あんまり良いことではないが、どちらも有限だ。 聞いてみると、今日の透視度は最悪で何も見えない。透視度30cmぐらいという。
 フィッシュアイのライトは壊れて修理に出しているが、見積もりは上代ということなので、本当はいくらにしてくれるのか、担当の池田さんにメールで聞いているが返事が来ない。こちらで思っているよりも高かったら、イノンの2700を買うつもりなので、催促していない。
 イノンの700ルーメンを二本束ねて、その上にSJ4000をビニールテープでくくりつけた。お台場はこれで良いだろう。フィッシュアイのライトも出力20%で使っている。豊潮丸では、ライトステイに漬けていたので、水面での機材装着の時に邪魔になった。このスタイルで、BCのポケットに入れて置けばよかった。 マスクは、豊潮丸でダイブウエイズのあたらしい、マスク、アイアイが良かったので、お台場では一眼のアイアイを使ってみる。これは、一度、波左間で使って、水が入って困ったことがあった。あのとき、どうして水が入って来たのだろう。今日、お台場でテストをもう一度してみよう。 水に入るとさすが、予想通りに濁っている。ライトの照らす範囲、海底から20cmぐらいにライトを近づけると、ライトの範囲は海底が見える。見えるということは写っているということなのだ。 こんなことは、誰でも、ダイバーならば知っていることだから、説明の必要もないのだけれど、たまには説明しよう。
 昔、本当の昔、東京湾が江戸湾と呼ばれていたころ、このあたりは、江戸前と呼ばれていた。羽田からこっち、大井、大森、築地、お台場、だから、今、東京港と呼ばれている範囲が江戸前に合致する。江戸町民の排泄物は、下水処理場などはないから、下肥として畑に運ばれて、野菜を育てていた。下肥にならなかった下水は海に流れてでるが、広大な干潟、芦原、それに続く、アマモ場、磯場などが浄化していたし、そこは、小さい生物、稚魚、カニ、などの育つ場だったから、有機物を食べて発生するプランクトンは、餌になり、魚、カニ、二枚貝を育てて、江戸市民を養っていて、バランスがとれていた。知ってのとおり、干潟、アマも場、磯場はコンクリートの岸辺になり、下水が発生させるプランクトンは、食べられることなく、いわゆる赤潮になる。赤潮は大型動物プランクトンに食べられれば、食物連鎖で魚やカニに繋がるが、食べられないで残り、死ぬと、海底に堆積する。つまり、過度の栄養化、富栄養化になる。これが酸素を消費して、貧酸素状態になる。貧酸素になると、酸素が無くても生きる嫌気性の硫黄バクテリアが発生して、有機物を消費する。それは良いことなのだが、嫌気性のバクテリアは、硫化水素を発生させる。硫化水素は生物には毒である。 今日、7月末の濁りは、広い意味の赤潮であり、バランスが崩れ始めた状態である。5月、6月も赤潮だったが、その頃は、お台場の水中全面に大型の動物プランクトンであるイサザアミなどが発生して、江戸前のマハゼは、それを食べてどんどん大考えているきくなる。
 今年は5月15日が赤潮で透視度が30cmぐらい。本当に潮が赤茶けていた。6月は、赤潮は薄くなって、1mほど見えたが、イサザなど大型プランクトンは見られなかった。そして、7月末の、今日、透視度20cm状態だ。毎月の赤潮濁度を則していくと良いので、今度のプロジェクトでは、撮影による濁度測定を考えている。
 
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                   5月15日の赤潮はまだ底は70cmぐらいの透視度だった。
               
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                    今日の濁りでは10cmぐらいまで近寄らないと写らない。
                    マハゼを3尾写した。
              
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                 綺麗な時 メバルとシマイサキの稚魚

 
 僕はお台場を最大干潮時に水深が50cmー1mぐらいで大きな転石がある地帯、ここは、いつでも水が比較的きれいだ。ここを地図でグリーンに塗って、グリーンゾーンと呼んでいる。グリーンゾーンから斜面を下って、水深2m前後の平らな海底には、マガキが一面に敷き詰められたようで、ここをブルーゾーンとする。ブルーとグリーンが、いわゆる磯場と考えている。磯場を下ると、ヘドロの平野になる。ここがヘドロ場である。
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綺麗な時のグリーンゾーン

 毎度、グリーンとブルーの磯場を見ながら(撮影しながら)端から端まで移動して、桟橋の杭の跡なのか、魚の隠れ場になっている、つまり、魚礁の働きをしている杭の部分まで行き、撮影してから戻って来る。今回も同じコースを行くが、途中の透視度は、これまでの最悪に近い。グリーンゾーンでも30cmも見えない。5月の赤潮の時も、杭のあたりに行くと、海底近くでは、70cmほど見えて、撮影になった。今日は、30cmぐらいしか見えない。隙間の一つ一つを懐中電灯で照らすようにして撮影していくと、マハゼが何匹か見えた。他の魚、シマイサキやメバルの子は、一つも見えない。
                
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                 硫黄バクテリアの膜がヘドロ場全体を覆っている。
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                 コンパスでコースをとって泳ぐ
 
 帰途は少し深度をとって、水深2mー3m、ヘドロの上を泳いで戻ってきた。この水深になると、水温は19ー20度になり、ドライスーツでもひんやりする。透視度も、1mほど見える。海底、ヘドロの上は白い膜のように硫黄バクテリアが広がっている。
 それでも、5cmほどのマハゼがライトに追われるように逃げる。がその数は6月のマハゼの数の20%ぐらいだろう。少ない。 13時ごろに僕の潜水は終了、潜水中に雨が降ったらしく、青いビニールシートは、裏返して、カメラなどを覆ってあった。 このあたりは、ポケモンがごろごろしていて、ポケモンをやる、三ツ橋と、尾島さんに説明を受ける。歩くゲームだから、僕には向いていない。
 辰巳の練習会、15ー17時、急いで、でれば、受付を始める14時には間に合う。

0805 館山人工魚礁 0804

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そもそも、この一枚の図が間違いの始まりだった。これはスガ・マリン・メカニックが、今回探そうとしている丸一(魚礁メーカー)の魚礁を試験枕設しようとして調査を行った時の報告図だ。 試験枕設とは、新しい設計の魚礁が、良い魚礁、つまり、魚、伊勢エビ、そのたの有用な水産生物を集める効果が高いことを証明するため、そして、その場所に適合しているか否か、そして壊れやすかったりしないか、をテストするために沈められる。 
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 ほんとうは、今回の調査で、試験枕設が行われた1997年、(20年前)からのこの魚礁のストーリーを書く予定だったのだが、見つけられなかった。 この前、最後に訪れたのが2004年9月だった。知らないうちに時が過ぎている。どうなっているだろうか?鋼製の魚礁は寿命が短い。耐用年数が30年といわれている。つまり、採用した責任者が定年退職するまで持てば良い。人間の耐用年数と同じならば良いだろうという発想なのだ。この魚礁は20年経っている。あと10年、僕は持たないから今見てまとめておきたい。  その1997年にスガ・マリン・メカニックの田沼が作った調査地点図だ。見たところよくできている。誰だって信用する図だ。 調査地点は、塩見と浜田の漁業区域境界線の浜田側にある。 GPSの値、NとEをガーミンに入れる。GPSは、器機個々の誤差もあり、必ずしも正確なものではない。そして、この報告は試験枕設のための調査地点の報告だ。実際に試験枕設のあとの値ではない。 その後、調査している僕がGPSの値をログに記録してとっておけば良かったのだが、ガーミンの航跡図と位置のプロットで十分だった。その記録が誤操作で消えてしまっていたことを、前回の塩見の調査報告ブログで述べている。  この調査地点の値を入れて、調査店を見た時、おかしいとわかるはずなのだ。その位置は4月の塩見の調査のさらに館山側にあった。なぜおかしいと思わなかったのか。ダブルトラックで思考できなくなっているからなのだ。つまり、思い込みだ。これは、フィールドでは、致命的なことでもある。戦争で指揮官がこれだったら、全滅する。ダイビングも戦闘の一つだ。命にかかわることは本能的に回避できるが、仕事の段取り、計画では、落とし穴になる。  そこで午前中の2時間、塩見地点を捜索してしまっている。魚探で魚礁のパターンが現れないので、荒川さんは潜ってアンカーを持ち、荒川さんを曳航して捜索した。そして、荒川さんが見つけた魚礁は塩見のタイヤ魚礁だった。さすがの僕もおかしいと気づいて、浜田の地先に向かって、水深13m線を探りながら移動した。魚礁の枕設位置が水深12。5ー13・8mであることがわかっている。値の幅は干満差である。 そして、浜田の地先13mで、大きな魚礁のパターンを魚探で見つけて、山本さんが潜った。6m角のコンクリート魚礁、メーカー名ではFP魚礁である。この魚礁は知らなかった。2000年以降に入れられたものだ。 魚はたくさん見えるという。どうしよう。ここで潜るべきか、予定通り3000型の捜索を続けるべきか。時計は12時を回っている。ここに潜ってから、タンクをとりに港にもどり、準備をして、捜索を再開し、見つけたとして、15時、言うまでもなく、調査仕事ならば捜索を続ける。しかし、仕事ではない。楽しみ、として潜っている。荒川社長も参加している。 ここに潜る。丸一は、次回のチャレンジとした。  荒川さんと山本さんはそのままで、行ける。僕、小俣さん、増井さんはこれから支度だ。 暑い日、快晴、波も流れもない凪だ。 僕はもう、トレードマークにしてしまおうとおもっている。穴のあいた青い5mmのワンピースに、きちきちの拘束のようなフードジャケットを着る。これで潜れるし、寒くないのだから、いまさら新しいウエットを作る必要もない。ウエイトは5キロで重いとわかっているが、沈めない恐怖で、そのままにした。3キロで適正だろう。
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 6mのコンクリート角が、20個だろうか。2段に積み重なっている。魚は見事に多い。20ー30cmのイサキの大群、イサキは魚礁の中に入ると接近しても逃げない。イノンのLE700を二本束ねて、GOPRO2をテープで固定したお台場仕様をそのまま、DWのマスクマウントにSJ4000を付けた。ニコンのAW130は、忘れてきた。しっかりチャージしたのに、そのまま忘れる。
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 魚礁の中で逃げないイサキを撮っているといつまでも撮っていたい気持ちになる。 まだ小さい10cm級のタカベの群、これはさほどの大群ではない。大きなオニカサゴを荒川社長と一緒に撮影した。
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              SJ 4000
 メジナ、石鯛、ウマヅラ、アイゴ、名前を連ねるのが面倒だ、マアジは居なかった。マダイも居なかった。ハタは、オオモンハタだけだった。ネンブツダイの群が見えなかった。メバルも目立たなかった。 写っていないかと動画を確認したが、見えなかった。季節的なことかとも思うが、波左間の同じFPにもドリームにも多数見られるはずだから、かなり興味深い。 ウエアラブルカメラは、古くなった GOPRO2よりも、SJ4000の方がシャープに見えた。どちらも、画質としては、粗悪なものだが、この程度の調査ならば十分に使用できる。それを前提にすると、時間がインサートされるSJ4000の方がリサーチカメラとしては良い。GOPROも次々と進化するが、廉価なSJも進化する。ところが、sjは、アマゾンなどで買っても、当たり外れが大きすぎる。
 今回、マスクマウントと手持ちを併用したが、次回からは手持ちがSJ,マスクがGOPROになるだろう。しかし、辰巳ではSJよりもGOPRO2の方が良いのだ。
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 海にでていて、この10年、いや、5年で、沿岸漁業、零細な沿岸漁業がドラスティックに変化していることを感じる。まとめておく必要があるのかと思っている。 昨日の日本水中科学協会運営委員会で、最新ダイビング用語事典 V2の企画が決まった。V!を編纂した2012年からの5年で、とんでもない変動が起こっている。  人工魚礁からみた、沿岸漁業の変遷というのも、書くべきテーマなのだろう。

0806 最新ダイビング用語事典

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最新ダイビング用語事典の2017年版を出すことが、日本水中科学協会 理事・運営委員会で議論され、出発:進行することになった。5年ごとに新しい版を作って行くことにしたい。毎度、自分の寿命のことを口にして申し訳ないが、行けるところまでは、自分のライフワークで進めさせてもらいたい。 たぶん?これが自分として最後の版。  日本水中科学協会の活動も6年目に入り、シンポジュウム、ワークショップ、いくつかの研究会を実施しているが、すべて、連携を持たせて、その整理公開という意味も最新ダイビング用語事典に持たせたい。 この最新ダイビング用語事典を出すことが、日本水中科学協会の目標の重要なもの、こんなことにしたい。 今度の、12月18日のシンポジュウムは、最新ダイビング用語事典 Ⅱ の計画発表もプログラムに入れたいし、シンポジュウムの発表も最新ダイビング用語事典の内容の一部としたい。これまでのシンポジュウムの成果も最新ダイビング用語事典に組み入れて行く。
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 この計画は、主に、書くこと、つまりキーボードをたたくことになるので、ブログを書く時間がなくなる。効率の悪い高齢である。メイキング最新ダイビング用語事典もブログにしてしまわないとブログが続けられない。ブログに書くことで、内容の誤りも指摘されるし、考えのまとめにもなる。 間違いえお指摘されることが前提だから、気楽に、まちがい、多数でも良い。ブログのサブタイトルに「最新ダイビング用語事典」とあったら、そんなことだと思って見ていただきたい。  ご意見をコメント欄に書いていただけば、とねがう。しかし、これまでもそうだったのだが、コメントをなるほどと思い、参考、反映させていただいてもお返事をきちんと書けない場合が多かった。今後も、ますますその傾向は強くなる。これも、ご容赦お願いします。

0807 危険

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安全とか危険だとか、何時も考え続けている。ダイビングをする人は、みな、そうだろう。今の気持ちとしては、正面切って安全とか危険とかを書くのは面映ゆい。そんなことを書ける義理か?と思ったりもする。 「安全について」は、何度も何度も書いているが、その都度、変わっている。年齢、そのとき置かれていた状況、やっているダイビングのそれぞれによって変動する。  このごろはまっている「宇宙士官学校:鷹見一幸」に、こんな一節があり、書き留めた。「危険のあるところに危険を見なければ、それは破滅的なクライシスを招く。だが、危険のないところに危険を見るものは効率こそ悪いが、クライシスは招かない。不効率は習熟でリカバリーできるが、クライシスはリカバリーできない。」ちょっとピントがダイビングからはズレているが、常に危険を見る。想定する。ということについての、良い表現だとおもう。それで、危険について書く気になった。
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 ところで、その危険って、なんなのだろう。 どいうことなのだろう。安全と対になっていることは、わかる。危険でなければ、安全である。でも、それでは答えにならない。具体的な細部が必要。 「安全」といいながら、危険のことをかたっているのではないか、そこで、レトリックが毎度逆転している。いまさら、これを修復しようなどとは、思っても仕方がない。しかし、ダイビングには、こういう危険があり、それを避けるには、こうすれば良い、と、言い直した方がわかりやすい。少なくとも、「ダイビングは安全か?」などというおかしな言い回しはされなくなる。  人も、会社も組織も変わる。その変遷を見ていくのが歴史であるが、時の流れでもある。1980年代初頭、PADIは、「ダイビングは安全です。」というコピーをつかった。後に、「ダイビングは冒険です。」にかわった。僕は「ダイビングは、探検であり、冒険ではいけない」と考えていた。そんな風に言ったりする人は、今も多い。でも、僕は、グラフィティを書いたあたりから、「ダイビングは冒険」になった。
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 冒険も探検も「そこにある危険を認知して、それを避けて行動すること」には、変わりはない。探検は学術的な要素があり、目標として、報告書を出す。もちろん冒険も報告書があった方が良いけれど、それは冒険の報告書、ドキュメンタリーであったり、旅行記で良い。まあ、この辺の区別は微妙ではあるが、その典型が南極探検のスコットとアムンゼンで、アムンゼンも探検家ではあるが、南極に到達することを何よりも優先して、速攻で南極にスコットに先駆けて到達してしまった。しかも、後出しジャンケンだった。スコットは、学術にこだわり、南極にアムンゼンの旗印を確認し、失意のうちに、帰途遭難死する。 スコットの悲劇的な南極探検隊に参加した、当時24歳の動物学者チェリー・ガラードの「世界最悪の旅」は、広く読まれていて、「探検とは知的情熱の肉体的表現である」という言葉は、多くの探検を目指す若者の座右の銘になった。 僕は「ダイビングは冒険」だけれど、いつも探検を志している。調査とは探検に他ならない。  人工魚礁調査は、レクリエーショナル・エキスペディション(PADI風の言葉だな)をめざしている。  ところで、危険とは何か?について、から離れてしまった。ダイビングの危険とは、「死」である。共通しているスポーツは登山である。しかし、その危険率は、登山にくらべて、一桁、あるいは二桁低い。そして、登山のように天候の急変という不可抗力に近い要因はない。レクリエーションダイビングでは、ほとんどすべて、自分が悪いのだ。作業潜水では、命令、指令、指示があるので、責任は折半される。 とんでもないガイドダイバーにあたったとしても、それを選んだのは自分なのだ。遺族は訴えて、対価を得ることができるが、ダイビングの危険が死である以上、賠償金は自分が使うことはできない。 従って、危険をどう逃れるか、リカバリーをどうするかは個人の問題になる。 僕の場合、危険のリカバリーは、もはや、習熟は期待できない。フィジカルな強さも期待できない。メンタルもダブルトラックの思考が難しい。チームワークと水面とのコンタクトに頼る他ない。弱者の思考である。でも、安全を考えるとき、弱者の思考が、キー、なのだ。

0808 ダイビングの危険 Ⅱ

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 ダイビングの危険について、ブログに書いた。善海のブログ 僕は、常々、天候の急変、海況の急変について、ダイビングは登山の天候急変に比べて、予想しなければならない時間が帯が短いだけ、安全度が高いと考えていた。最近では気象予報、波浪予測が調べやすい。そして、もしもの場合戻ってくるのに要する時間も短クてすむ。そして、僕は、天候の予測、海況の急変予測は、自分の責任ではない。海では船のキャプテンの責任と思っていた。 親しい友人で、タイのサムイ島でダイビングサービスをやっておられる増子さんから、こんなメッセージをいただいた。増子一点だけ、「天候の急変」はダイビングの場合も危険性の要因となると思います。“突然の時化”による事故も起こり得ますので。
そのために我々ガイドは観天望気の力も養わなければならないのですが、想定したよりも早く天候が崩れたり、どの程度の風雨になるのかなど、測り切れない部分があって難しさを感じています。 これを受けて考えてみると僕は海の急変で随分と危ない目にあっている。 須賀実は、東京湾の突風では危ない目にあっていますし、メナドでもヒヤリとしでいます。考えて見ると、僕にしてもダイビングの危険よりも、海況の危険の方が多かったかも知れないのです。議論が必要ですが、「ダイビングの危険」とは、分けて考えていました。増子さん方では、その危険の方が重大、とか、どうしても、別に考えてしまうのです。キャプテンシップが、絶対、とか、これは、視点の違いですが、ダイビングの危険には、海の危険が、80%を占める、とか、書き直さなければ、いけない。 増子狭義で水中のことのみを考えると、そのリスクは入って来ませんが、海に出ている間の行動全てを含めて「ダイビング」と捉えるか、ですね。実は案外水面が危ないというのが、個人的な実感です。 増子さんは、ボートの潜水、しかも長距離、長時間のクルーズを含む、タイのダイビングサービスのオーナーだから、ボートの運行、海にダイバーを入れている時の自分の位置などから、本当に神経をすり減らしているのだろう。僕は、海の上で、キャプテンに、ボートオペレーターの意見に異を唱えたことはあまり記憶に無い。一回だけ60歳の100m潜水の時、キャプテンに異を唱えたのではないのだが、 須賀振り返って見て、船の運航に口出しした記憶は、一回だけ、そのときもキャプテンに従ったのですが僕が正しかった。でも、船頭多くして、の、船頭ではない立場です。 増子海外では、キャプテンの資質も人によりますので(国民性も現れるのでしょうか)、任せて安心と言えない状況もありまして…。 須賀 そうですね。ほとんどの事故が、キャプテンの資質、未経験ですね。この前の漂流も。とても、重要な問題です。僕の視点からですと、人を信じるか、信じないかの問題になつてしまうのですが、信じられるショップに行く!でも、しんじられないようなことをやるショップが、ハワイでも、那覇でも、
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 ※インドネシアでドリフトをやった。浮いてくるとボートが居ない。遠く見えるのだけれど、動かない。これは、その時の写真。 10分ぐらい流されて、ようやくボートが走りだし、近づいてきた。聞けばエンジンがかからなくなってしまったとか。拾ってもらって帰途、スコールで、前が全く見えなくなった。 エンジンが掛かれなかったら?このシチュエーションは、そのあとで発生した、バリ島で助成グループが流されて、二人が死んだ状況とよく似ている。泳いでいるダイバーにとって、ボートは、どうすることもできないリスクだ。どうにもできないから、忘れていたのか? 増子リスクを考えると、自分以外は信用できない、というのが本音です。ずっと一緒に仕事をしているとか、限られた人間のみ信頼がおけなくもありませんが、相手の話を鵜呑みにする気にはなれませんし、それが知らない土地でだったらなおさらだと思います。 須賀フェイスブックとか、ブログに書くことのメリットは、自分とは、違う視点からのアドバイスがもらえることだ、と、書いたばかりでした。 増子全く同感です。 とても良い議論ができたと思う。増子さんに感謝するとともに、その概要⑤ブログに収録しておくことにした。そして、ダイビングの危険の中に、ボート運行者の責任になる事故がむしろ大きく、それについても自分以外のだれも信じることはできない。いうまでもなく、船長が、あるいはサービスの責任者が駄目だという時に強行して出港など論外だが、ボートオペレーター、キャプテンの責任に属する事故、あるいはヒヤリハットは、自分についてだけでも、例を挙げると際限も無い。ダイビングの危険の第一位?

0809 海で暮らすなら

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 豊潮丸から戻ったときは、具合が良かった。今、具合が悪い。具合とはストレスのことだ。 「島で暮らすなら~ダイバ船にお乗り」という歌があって、昔々、宴席で歌った。この歌を教えてくれたのは、なんと、ミナミスポーツの社長だった南 彰さんだった。それから、南社長はスポーツ小売り業界の雄に登り詰め、失速した。息子さんが、跡を次いでいると思うけど、お元気だろうか?思いでがたくさんある。こっちは親しい友のつもりだった。  この歌、岡晴夫という歌手の昭和10年代のヒットソングで、ユーチューブにある。 そのダイバ船。昭和10年ごろの減圧と潜水病事情は、長く潜っていれば潜水病になるから、できるだけ早く浮上して、後から「ふかし」をやる。今の、船上減圧と似ていないこともないが、それでも、どんどん潜水病になった。命をすり減らして、親方に搾取されても、親方にはなりたくない。ダイバで居たい。稼ぐ金は、酒と女に使い果たし、ぼろぼろになって、死んで行く。きっと、幸せな人生だったのだろう。僕も「須賀さんがダイバーをやめれば、会社は成功する」といわれたが、ダイバーをやめなかった。幸い減圧症にはかかっていない、きちんと減圧停止したからだ。  念のためにネットで調べたら歌は、「パラオ恋しや」で「島で暮らすなら」ではなくて「海で暮らすなら」だった。僕が教えてもらったのは「島で暮らすなら、ヤップ島におじゃれ」だった。たぶん、ヤップ島のだれかが、替え歌にしたのだろう。「おじゃれ」とは、平安時代の言葉だが、八丈島でよく聞いた言葉だ。流人の言葉だったのかもしれない。ところで、いまの八丈で「おじゃれ」と言ってくれるのだろうか。
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                  大学一年の八丈島遠征

 僕が、初めて八丈に行った大学1年のとき、先輩に教えられた。昔は八丈にいくと、港に草履が並べてある。どれかを選ぶと、その草履の持ち主が島にいるときの妻になる。これは、流人が、江戸をでるときに伝えられたことなのだろうか。「それも、悪くはないな」男と女なんてそんなものだ、と、島に流されていったのだろうか。  今、八丈島には、南社長と「ダイバーの歌」を一緒に手拍子で歌ったミナミの店員(後の本店長)斉藤さんが居て、ダイブサービスの田中さんの奥さんのお父さんだという。その斉藤さんが店長の時、大学生の潮美がアルバイトでスキンダイビング洋品売場にいた。彼女がいると、よく売れたのだ、という。  八丈に行きたいけれど計画がない。 マリンダイビングフェアで、田中さんに出会い、立ち話をしていたら誰かに割り込まれた。 計画を立てようかな。 https://www.youtube.com/watch?v=rFnpXCyQoNY 「パラオ恋しや」は、昭和の太平洋戦争前、南洋が日本の植民地だったころの歌だ。ネットで「パラオ恋いしや:岡晴夫」ですぐにでてくるから、聞いてほしい。 あの時代に、南洋でダイバーをやれるなら潜水病で死んでも良い、と僕は思っただろうか。きっとそんな風に思っただろう。そして、あまり長生きはしなかっただろう。 なお、木曜島で白蝶貝を採ったダイバー船は南洋で船を整えて南下したらしい。潜水病になる前の若いダイバーはきっと輝いていたのだろう。

0810 船の科学館

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 暑かった。40分歩くことを含めて、一仕事してきた。もう今日は、クーラーの傘下にいよう。昼寝もしてしまうかも知れない。 昼寝してしまった。 船の科学館に行ってきた。船の科学館の陳列品の、ダイビングの歴史に関する部分を12月18日のシンポジウムの別室に陳列させてもらって、手で触ったりも出来る展示をしたい。とお願いをしに行った。
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いろいろあるけれど、今日見せてもらったものでは、ウエイトベルト、これは、今のウエイトよりも良い。これが欲しいかも知れない。多分0.5キロが7個で3.5キロ、これで、ベルトをゴムにしたら、良い。
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これは本当に初期のタンク、恭しく箱に入っていて、ピカピカのアルミで、5リットル、二本で10リットル、三本で15リットルか。驚いたのは、バルブにOリングがつかってある。1954年の刻印がある。僕が1956年使ったタンクは、テフロンのパッキンで、レギュレーターはレンチで締め付けていた。まだOリングは日本では普及していなかったはずだ。
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「ダイバー」の新しいスタイルが届いた。編集長は大英断だと思う。すっきりとしていい。内容は、自分とは、パラレルワールド。だから、感心して眺めている。なるほどとも思う。  ブログに出して、そのことにコメントをフェイスブックでもらって、議論をするというパターンがいくつか続いていて、主にタイのサムイ島で、ダイビングサービスをされている増子さんがコメントをしてくれる。 今回は、リサーチダイビングからダイビングを始めた学生が、卒業後ダイビングから足を洗ってしまうことが残念だ。ということから始まった。  僕の意見では、何か目標設定をしてダイビングをはじめて、卒業という形でその目標が失われてしまうと、何の目標もないダイビングなど気の抜けた発砲飲料のようなもので、その上にダイビングはお金がかかる。自分の世界を作り上げて行かなくてはならない若者が無目的なレクリエーションダイビングはとうてい続けられない。それを誘うのが、ダイビング業界の世界だ。雑誌ダイバーも精一杯努力している。  学生のダイビングの目標は、僕のテーマで言えば、フィールドリサーチ、学生連盟で言えば後輩の指導、一般には、お金稼ぎのアルバイト、ショップや、サービスのアシスタントなどだ。写真撮影からプロのカメラマンになるコースも多い。 いずれにせよ、ひとたび、この目標を追った若者が、楽しいだけワールドのお客様にはなりにくい。  問題は、海に潜る研究者として残ってくれないことだ。なんとか、M君には、潜水して、海洋生物を研究するところに行ってもらいたい。アメリカ、場合によっては、この前一緒に行ったナポリもジェノアも良いかもしれない。里奈は、ヤップ島、インドネシアで一緒に潜ったリサのようにならないだろうか。リサはアムステルダムで今度自前の研究所を自分で持つようになったと聞く、リサと里奈だから、連想している。  東大は、僕がコーチをしていた海洋調査探検部は、プロの研究者ダイバーとしてフィールドにでてくれる人数が次第に減っている。というより、絶滅の危機に瀕しているようにみえる。三崎の実験所を訪ねたら、高圧コンプレッサーの小屋に蜘蛛の巣が張っていた。

 東京海洋大学は、アメリカでイセエビの研究をしていたkさんが、日本に戻ってきて助教になった。ここから、ダイビングによる研究グループが生まれるかと喜んだのだが、その教室そのものがダイビングをやらなくなってしまった。スクーバで研究するテーマはとても少ない。生命に別状のあるような手段での研究をしなくても、テーマはある。
 この頃話題になった小説は、潜水艇に乗る話だった。僕は読まない。
 もちろん、研究者の置かれる状況は、個々の問題、テーマだが、潜水してフィールドワークを続ける研究者が一人でも増えることを願う。、

0813 沿岸漁業とレクリエーショナルダイビング

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ブログをお休みしてしまった。理由は、ほとんどできあがっていた下書きを、3回分なくしてしまったからだった。ファイルを移動させたときになくしてしまった。なかばできあがっていたものの書き直しはうまく行かない。構成から考え直してしまう。テーマは沿岸漁業とレクリエーショナルダイビングの今現在の関わりで、これは、日本の漁業にとっても、レクリエーショナルダイビングにとっても、重要、僕の視点からは、最重要なことだった。テーマがおおきいので、構成を考えると大部になってしまうので、エピソードの羅列で行こうか、その切り口で5ー7回、書いてからまとめようかと思っていた。それが、なくなってしまって、、、それに暑い。それに、あまり面白くない話題だ。でも書いておかなくては、僕でしかかかけないことかもしれない。  まず、最新ダイビング用語事典を見てみる。  沿岸漁業は最新ダイビング用語事典でも一章を割いている。第9章で201pから211pまで、10pで潜水と関わる沿岸漁業についてのべている。項目は以下のようになっている。9ー1 潜水漁業9ー2 沿岸漁場整備9ー3 磯ね 藻場 増殖場造成9ー4 人工魚礁調査 次の最新ダイビング用語事典をどうするか、まだこれからだが、書き加えたいのは 9ー5 「沿岸漁業と、レクリエーショナルダイビング」だ。問題が大きすぎて、どうもこの小項目に入らないようにもおもう。 ここでは、最新ダイビング用語事典に入るかどうかはべつとして、この視点から考えてみよう。 そしてもう一つなのだが、 書き加えたいのは、最新ダイビング用語事典をだしたのが2012年、2013年から日本水中科学協会は人工魚礁調査グループを作って千葉県館山で人工魚礁調査をしている。これについてもまとめておきたい。これは、9ー4 でまとめているが、レクリエーショナルダイビングと人工魚礁という視点を加えよう。  この二つのテーマのどちらも、沿岸漁業の、この数 年の大きな変転を見て行くことになる。 アウトラインを展開してみよう。最近は、まずアウトラインを展開してみてから、書くようにしている。 これをブログに出すのは、?? でも、人それぞれの視点で見てもらうのだから、アウトラインで、僕とはまるでちがう発想をする読者も多いだろうし、こんな風にして原稿を書くというメイキングで行ってみよう。 (1)沿岸漁業とは
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 ①日帰り 数10キロ範囲  沖合漁業 80ー200キロ 数日かける 大陸棚   ※沿岸漁業との拮抗     遠洋漁業 日本から遠く離れた外国    その多くは行うことができなくなっている。   遠洋漁業のシステムで日本沖合で漁業を行う問題。  沿岸漁業の多くは家族単位であり、組合を作って地先で行っていた。  定置網、追い込み網など大規模な網漁業は?  ②最新ダイビング用語事典ではどうかいていたか (2)スクーバダイビングの歴史は、沿岸漁業との葛藤の歴史である。 ①スクーバダイビングは密漁行為としてはじまった。 本当のことを言ってしまおう。 グラフィティ  ②第二次大戦  食糧難  配給制度  日本は飢えた  闇   ③漁業調整規則 ④スピアフィッシング ⑤ギャングエージ ⑥真鶴潜水禁止 ⑦1967 日本潜水会の決断 ⑧全日本潜水連盟は清濁併せ呑んでしまった。 ⑨NAUI・PADI対石原慎太郎との戦いひとつをとってもブログ一回分になってしまう。思案、思案  (4)今後の沿岸漁業 ①古い世代 自分たちの世代か?が死に絶えたとき、ドラスチックな変化が起こると予想していた。 ②本当の個々、小さい部落単位で大きな差がある問題 (5)今後のレクリエーショナルダイビング ①レクリエーショナルダイビングの変動は当然、サイエンスリサーチ、沿岸漁業と連動する。

0814 沿岸漁業-1

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なぜ、沿岸漁業とレジャーダイビングなどに脱線しているかと言われそうだが、東京水産大学を卒業した僕にとっては脱線ではない、それが主務では生活ができない立ち位置だったから、水産の潜水調査が主務であり、その視点から、レジャーダイビング業界にかかわった。 ここしばらく、自分と、水産と、スポーツダイビングとのかかわりについて、もう一度整理して考えなおそうとしている。沿岸漁業との関わりについて、ここに来て、大きな転換期、あるいは転換を考えなければならない時がきているように感じる。その一つが、魚突きの復活であり、沿岸漁業の衰退である。 とともに、これまでのことを書きなおしておけと、方方で言われる。「ニッポン潜水グラフィティ」でも、視点はちがうけれど、書いているので、併せて読んでいただけると嬉しい。 沿岸漁業は、全国津々浦々、千差万別であり、共通項を見いだすことはとても難しい。 沿岸漁業の多くは家族単位であり、集まりあって漁業協同組合を作って、地先で行っている。 これも、農地改革と同じように、第二次大戦で日本が負け、個人、有力者による資源の独占が分解されて、漁業協同組合ができた。しかし、分解されても、農地のように個人の財産にはならない、協力しあって働く形も多いので、組合長も有力者であったり、あるいは有力者の傀儡であったりして、複雑である。
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                     タコ壺漁
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                     定置網漁
 潜水と関係の深い定置網とか追い込み網は、親方、網元などその地域の有力者が経営している。小資本による経営体であるが、組合自体が経営体になる形も多い。  ダイビングサービスの運営なども、一種の漁業権的に扱われる。それが試行錯誤的に、津々浦々それぞれに解決されてきた。他の多くの漁が、漁業法で漁業として農林水産省の指導、ルールによって、解決されてきたが、ダイビング対沿岸漁業の対立はノールールである。定置網漁業は定置漁業権として、権利が確定しているが、ダイビングサービス権などはない。 共同漁業権という、家族単位の漁業者が組合を作って漁業を行う権利を設定しているところに、全く新しいレジャーダイビングと言う行動が、漁業者から見れば空から降ってきた。ダイビング側から見れば強行着陸した。 そのことの歴史、成り行きを考えないと、レクリエーショナルダイビングと沿岸漁業の現況とこれからを見ることはできない。  なお、ここから書こうとしていることは自分と言う個人、せまい視野からみたものであり、一般論ではない。しかし、狭い視野の議論がやがて、一般論になり、ルールになっていくと言う過程が社会である、とも言える。 さて、視点を巡らせて、スクーバダイビングの歴史は、沿岸漁業との葛藤の歴史でもある。 定置網とか追い込み網の漁業とかの経営体ではなくて、家族的な漁業、潜水漁業とか、釣り漁業とかとの争い、葛藤である。さらに問題を複雑にしているのは、海は誰のものであるかと言う議論があった。海は漁業者が漁業をできるという漁業権のほかに、地域そのものが海を利用できる権利、地先権という考え方も持ち込まれた。 そんなことをここから述べて行こうとしている。 1950年代、ダイバーの敵は、同じく潜水をする潜水漁業者、海士、海女であった。 1950年代、レジャーダイバーと海女ちゃんは、 同じ漁獲対象を、立場を変えて追うわけだから、敵である。ちなみに、僕は海女ちゃんなどという概念は好きになれないが、それは、潜水漁業者との深く?長いつき合いがあるからである。  話を先に進ませる前に、もう少し、沿岸漁業について、補強しよう。「沿岸漁業とは、日本の沿岸、大陸棚で行われる漁業」と定義するのが自然でありわかりやすい。日本国民は大体そんな風に考えているのではないだろうか。しかし、国が司ろうとすると、定義ができてくる。漁業を沿岸漁業、沖合い漁業、遠洋漁業、養殖業、遊漁 にわけて、水産庁が司る。遊漁はあとから付け加えられたもので、このことについては別にのべる。沿岸漁業と沖合い漁業の区別はかなりとってつけたような感じでもあり、強いてわけなくてもよいのではないか、と思ったりする。 沿岸漁業の区域は、日帰りできる範囲で、規模は漁家、家族単位が多い。使う船は10トン未満程度である。なお、すべての漁業は免許制である。 沖合漁業は、10トンから100トン程度の船をつかい、主に小資本の経営体で行われる。数日にまたがる航海をするが、漁場は日本が専管する区域である。 遠洋漁業は、無制限に大海原を何処までも漁獲を追っていくが、世界情勢は厳しく、漁業は遠洋から沖合に、沿岸にという趨勢で指導されて来ている。 定置網漁業は、経営体は大きくなるが、やはり沿岸であることはまちがいない。 

沿岸漁業とスポーツダイビング 2

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海女:資源管理型漁業  いつも、海女と書くときに、男の海士はどうする、と自問する。房総では、1970年代男の海士にスクーバダイビングをおしえた。漁獲の為ではなく、種苗を入れたりとか、資源管理のためだった。各地域別の海女の男女比率のデータ(現状:海女サミットというのがあるので、底にはデータがあるかもしれない)は見たことがない。やはり女性の方が優れているのだろうか。いや、女にはたらかせて、寝て暮らすのが男の理想、そんなことはないが、海女の理想は男の君臨すること?脱線している。 とにかく、ここでは男の海士も含めて、海女と書いてしまうことにする。  海女漁は、資源管理を厳しくやったきた、そして、現在も続いている漁として、最古の歴史をもっている。貝塚は、海女が穫った貝の残骸も混じっているにちがいない。  黒いネオプレーンのウエットスーツが普及し始めた1960年代のはじめころ、僕は東亜潜水機で働いていて、海女にウエットスーツを売り込む行商をした。 海女の本場は、真珠の三重、ヌードで泳ぐ能登半島舳倉、そして房総、北限の岩手種市、だろうが、全国何処でも、潜って磯ものの漁ができるところは、人数の差はあるが、海女漁は成立している。 ウエットスーツで暖かく潜れれば、身体も楽だし、漁獲も倍増するだろう。 僕は、東亜潜水のお得意さんであるヘルメットダイバーの紹介で三重県の御座に行った。海女さんを集めて説明すると、もうすでにウエットスーツのことは黒いゴムの人形「ダッコちゃん」になぞらえて、知識はあり、説明は不要で、導入すべきか、しないか、議論が沸騰している状態だった。 ウエットスーツ導入派で僕を呼んだ海女さんは、スタイルがよくて、潜水は上手、反対するグループは肉付きがよくて寒さに強い。寒さがイーブンになったら、漁獲高の地位が逆転してしまう。結局この地域はウエットスーツの導入は見送られた。  新しい道具、新しい衣で漁獲が増大するようなものは、導入するかどうか、議論が沸騰する。そして、その結論は部落毎にちがう。僕のホームであり海女の知人が多い外房では、部落によって、ウエットスーツに差がある。ある部落では上は臍まで、下は膝上何センチとか、その上にきるジャージも全員同じものを着る。ある部落では、フィンの使用が認められるがある部落ではウイズアウトフィンで、衣装も伝統的な白い木綿で、とか細かく決められている。それは、現在、2016年でも変わっていないが、フィンを新しく導入の時は大変だったのだろう。 
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             外房 千倉部落の海女さん フィンなし
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              ゲージを当てて、漁獲サイズかどうか調べている。
 資源管理には二つの目標がある。一つは乱獲で資源が枯渇しないこと、もう一つは実力に応じた公平な分配である。 効率的に考えるならば、年間に穫ってよい資源量を決定して、それを組合員の数でわり、その量に達したら、その人の漁は終了する。早めに稼いでしまって、後は他の漁に回ることができ、年間の稼ぎは多くなる。オーストラリアのアワビ漁は、潜水機を使ってする漁であり、この方式だった。これは、男性型、マッチョな解決策だ。 しかし、それでは、上手な人も、下手な人も公平に割ってしまうことになり、達成感も競争の喜びもなくなってしまう。ルールの中で競うスポーツ的な喜び、生き甲斐がなくなってしまう。 海女漁はスポーツでもあるのだ、漁獲、収入も競うというスポーツである。そのルールを決めるのだから、大変である。千葉県外房の海女には、海女組合というのが別組織的にあり、組合長がいて取り仕切っている。以前、千倉の海女組合長の植木さんという方ととても、親しくしてもらっていた。植木さんの教えは、「欲をかくな」で、岩の奥にアワビが3枚いても、2枚であきらめる。アワビは逃げ足が早いので、もういちど、同じ場所に行ってもまずいない。次に残しておくとともに、自分の命を救う。「おれの代になって、まだ事故はない」というのが自慢だった。そう、事故も起こる。命もかかっているのだ。  海女漁との付き合いはながく、エピソードを語れば際限もない。書きたいのだが、今回のテーマから外れてしまう。  地域社会での富の公平な分配、その中でスポーツ的に競うことができ、資源も枯渇しない。自主的な運営も確立されている。 そんな海に、1950年代のスクーバダイバーは、息こらえもせず、長時間潜れる潜水機で入り込んでいったのだ。 房総ではヘルメット式潜水機による、海女が潜れない深さでの機械根と呼ばれる大原沖での潜水漁業があったから、明らかな、意図的な密漁の他では、スクーバが入り込む余地はなかったが、真鶴では大きな問題になった。  スクーバによるアワビ・サザエ取り  第二次大戦そして、戦後日本は食糧難で、統制経済であり、食料は配給制度だった。配給制度を正しく守っていて餓死した裁判官もいた。規則破り、すなわち闇 をやらなければ、生産者ではない都会生活者は生きていられなかったのだ。食料を生産する生産者、農家は強者だった。漁家は農家ほど縄張りがきっちりしてはいなかったが、共同漁業権が設定されて、縄張りはあった。 縄張りの中は、漁業者にとっては農家の畑とおなじであり、共同ではあったが組合の私有地のようなものである。 すでに述べたように同じダイバーである海女漁は厳格なルールのもとで行われている。  一方、1950年代にスクーバダイビングを始めた者たちは、都会生活者であり、食糧難、闇経済の中で育ってきた。 だから、食べ物を失敬する事に悪の意識はなかった。僕たちの世代の子供たちは、畑でトマトを盗んで食べるあじを知っている。隣の家の柿を盗むのも普通のことであった。トマトは農薬の普及によって、幸せではなくなってしまったが。  海女漁が行われている地域では、トマトを盗むようなわけにはいかないが、海女がいない、江ノ島、藤沢、千葉県では金谷などが、1950-1960年代にレジャーダイバーがアワビ、サザエ、イセエビなどをとっていた、1950年代はまだまだ牧歌的だったのだ。  現在でも、潜ってアワビやサザエを採って良いところはどこでしょうかという質問をうける。ばかばかしいようだが、これは、とても重要なことなのだ。漁業者の側に、区域を決めて、アワビ・サザエを放して釣り堀的に撮らせたらという発想が、1960年以来今でもある。試験場の技師なども含めて、その実現性について相談を受けたことがある。水産庁で考えないではなかった。  ドルフィンの記事この項をかくために、1957年から1965年の日本潜水科学協会の機関誌「どるふぃん」をざっとだけど、見直してみた。終始一貫して、アワビ、サザエを穫ってよいとはかかれていない。アワビ研究の泰斗であった猪野峻先生が会長になられていたのでとうぜんではあるが。 しかし、密漁を意識した密漁は、やくざがらみのプロもいて、逮捕されることは、毎年1-2度は新聞に出る。意識しない、一個ぐらいならというキャンプ密漁は、今日でも続いている。  1950年代の「どるふぃん」では、スピアフィッシングは、むしろ奨励ている。 そして、1962年夏の号で、「アクアラング潜水お断り」と言う座談会が特集された。その頃、のスクーバダイビングのメッカとなっていた真鶴の漁業組合長、漁師及び海女さん10数名、小田原にある神奈川県水産指導所の所長、真鶴にダイビングセンターを開業している後藤道夫、潜水科学協会の猪野会長、司会の田辺理事である。 組合員と海女さんは、アクアラングは来てほしくない。どうしてもというならば、せめて銛や水中銃は持たないで欲しい。ダイバー側は、何でも入漁料を払えば、許される場をつくれば、とかの提案をしたりしているが、もちろん結論などでないが、はっきりと、銛も水中銃も否定されている。そしてこれは、1980年の真鶴潜水全面禁止(後で述べる)につながっていく。 この座談会でもそうなのだが、県の漁業調整規則では水中をマスクで見ながら魚を突いてはいけないと決められていることについて、わかっていて無視しているのか、わかっていないのか、明確ではない。猪野先生だけが、規則でいけないと言うことなのだから、できないのだといわれている。  自分のことを少しだけ書こう。少しだけ、というのはすでに自分の「ニッポン潜水グラフィテイ」でこのあたりのことは、述べている。まだごらんになっていなければ、読んでほしい。  僕も、手に銛を持ち素潜りで魚を穫ることでダイビングをはじめた。 東亜潜水機では、水中銃を作って売った。 そして、水中射撃連盟を結成して魚突きの全国大会を神津島でやる。 射撃連盟は日本水中スポーツ連盟となって、八丈島でそして、伊豆大島で魚突き大会をやる。 自分のギャングエージだと思っている。  そのころ、房総では?

0816 沿岸漁業とスポーツダイビング 3

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 このテーマまだ始まったばかりだがずいぶん大きくなるようだ。途切れることがないようにしたい。連続すると、多分あんまり面白くないのだろうと、面白い話題があると、そちらに移ってしまうのだ。後でブログを整理すると、まとまったテーマでかいたもののブロクのほうが自分にやくにたっている。いや、読者に面白くなくても良いとは割り切れないが、出来るだけコースをはずれないようにしよう。ここしばらくブログはこのテーマと、ダイビングしたとき、旅をしたときとして雑なことは、フェイスブックなどに流すようにしたい。  房総
 真鶴では、アクアラングお断りという声があがったそのころからその後 房総では?     海女漁が確立しているところでは、さすがにレジャーダイバーが密漁することはない。 しかし、意識してやる密漁は別である。アワビのあるところ密漁は絶えない。 食糧難から引き継いだ初期には密漁も罪の意識はほとんどなかったようだ。ダイビング界のの大先達であった菅原久一さんも、酔っぱらうと、自分が密漁で生きていた時代のことを自慢する。もちろん現在進行形ではなかったが、そういう暮らしもダイバーの一つのパターンかとおもってしまう。そして、大なり小なり漁業者自身も何らかの形での密漁をしている。たいていの漁には規則があるのだが、漁師は意図して規則を破る。自分の海、自分の畑ならば、よいと思ってしまうのだ。 漁業者に船を出してもらうと、「ここにアワビがいるからとらっしぇいよ。」などと言われると素人のレジャーダイバーは、いただいてしまう。魚突きでもそうだ。地元の人が、良いと言えば、良いのだと解釈してしまう。 僕たちがやった神津島、八丈島、伊豆大島でのスピアフィッシング大会も、地元の後援、地元の承諾を得て行われた。しかし、僕たちに許可を与えた組合長が再選されなかったりしたことがあり、大会は無理だとわかった。笑うかもしれないが、今でも水中銃での魚突きは地元の了解を得て行われている。地元が許可すれば何でも良いのだが、大会は無理だ。実は、地元の許可などという者はなく、規則によって定められているのだが、このことについても後で漁業調整規則のところで説明する。
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              スガ・マリンメカニックの調査チーム

 なお、先ほどのべた自分の船に乗せたお客に禁止されていることを許可する権限などない。そして、そのことは、必ず誰かがどこかで見ている。自分の会社、スガ・マリン・メカニックは、房総半島をホームグラウンドの一つとしていたが、漁師がどんなに薦めても海産物は手にするな。籠に入れておみやげとして渡されるには良いと内規で決めていた。 しかし、地元の了解というのは、今も昔も事実上成立している。 海女漁の中心とも言える、千葉県外房、白浜にMさんという方がいた。もと漁師かとおもうが、自分だけで、生産組合というのを作ってしまった。この組合で船をだしてもらえば、魚突きOKだ。アワビも見つからなければ良かったのではないか。ここのお世話になって、大きなモロコを房総で穫った人も多いかと思う。  IOP 伊豆海洋公園 のオープンは1964年、東京オリンピックの年だが、真鶴でダイバーお断りのサインがでているのに、いや、でているからこそかもしれないが、魚突きのメッカになった。なにしろ、皇太子殿下(現在の平成天皇)が、おいでになり、スピアフィッシングが天覧に供せられた。という信じられないようなことがあった。ハゼの研究などで益田さんと親交があったからだと思われる。さすがに、このことは正史には掲載されていないが、1964年と1967年の間のことである。 しかし、真鶴の漁師がいうように、鉄砲や銛を持って泳げば、確実に魚は逃げていく。別の場所に移動する。  日本潜水会 1967年 1967年、スピアフィッシング大会に集まっていた僕の仲間で、ダイビングの指導を今後熱心にやって行こう、つまりインストラクターを作ろうとする者、後藤道夫のところに集まったNHKのカメラマンなどを集めて、潜水指導者の合宿が行われた。この合宿参加者を中心としてダイビングの免許を出そうという計画である。  それ以前、前出の「どるふぃん」の日本潜水科学協会も、潜水の講習を大きな目的の一つとしていて、講習終了の免許を出そうという動きもあった。これらについては、ニッポン潜水グラフィティにも書いているし、また、もっと詳しいことを書こうと考えているのでここではジャンプする。  一週間の合宿で、トレーニングプログラムの実践、学科のテキスト作り、今後のダイビング界のあり方などについてのディベートなどが行われた。そのとき、NHKカメラマンの河野から、スピアフィッシングをやめようと言う動議がだされた。1962年の真鶴半島でのお断りの動き、海洋公園もめっきり魚が少なくなって、益田さんは、撮影と魚の採集と飼育に姿勢が向いていた。おさまらないのは、スピアフィッシング大会で集まり、スピアフィッシングがより盛んになることを期待して集まった面々だった。 しかし、漁業調整規則という規則で、発射装置、あるいは銛をつかって水中めがねで魚を突くことは、非漁民の遊漁としては認められていない。規則で認められていないことの是非を論じることはまちがいではないか。今で言えばコンプライアンスだ。
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               鶴曜一郎 故人 写真は海外のブルーオリンピうの時、らしい。

 集まったメンバーの中心に後藤道夫のところにいる鶴耀一郎がいた。かれは素潜りの魚突きの世界大会、ブルーオリンピックに出場して国際的な選手になっている。彼も魚突きはできなくなる。結局彼は奄美大島で魚突き漁師 ウミンチューになる。 東京、関東はまだ銃をカメラに持ち換えるダイバーが多かった。名古屋、関西、九州は、「なにを関東はたばくれたことを言っているのだ。」魚突きはやめない。絶対にやめない姿勢だった。 しかし、潜水指導、免許については、合同したカードを出そうということになった。  ブルーオリンピック 年表を見ているとおもしろい。目下のところ、ニッポン潜水グラフィティ の巻末の年表が一番おもしろい。 その年表を見ると、1969年、日本潜水技術振興協会発足、雑誌 マリンダイビング 創刊 がある。 日本潜水技術振興協会は、どうしてもスピアフィッシングがやりたい、日本潜水界を除く、関西、名古屋、四国が時の衆議院議員、小宮山重四郎を冠にして、ほぼ全省庁の潜水に関係のあるセクション、潜水を研究の道具として使っている公的機関を集合させて結成した。加入していないのは、スピアフィッシングに反対する日本潜水会、関東学生潜水連盟だった。 日本潜水技術振興協会は、スピアフィッシングを公認のものにするため、1970年、八丈島で国際大会、ブルーオリンピックを開催する。ただし、この大会では水中銃は使用できず、銛を使い、素潜りで行った。来日した外国選手は、水中銃は使うことができず、顔見知りの鶴耀一郎も来ていない。奇異にかんじただろう。そしてそのときに事故が発生して、日本代表の田島君が亡くなってしまう。 事故が遠因だったのか、業界が思うようにまとまらないことが原因だったのかわからないが1971年、社団法人日本潜水技術振興協会は 消える。

0818  沿岸漁業とスポーツダイビング 4

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沿岸漁業とダイビングのか変わりも、今の視点から歴史的に見ていくと気がつくことがたくさんあり、しかもそれは、次に書こうとしている潜水指導、Cカード、認定証の変遷、とも密接に絡み合っている。が、しかし、ここでは、スピアフィッシングを軸とした沿岸漁業とレジャーダイビングの関わりの変遷から軸足をはずさないようにしよう。  全日本潜水連盟発足 1972年、スピアフィッシングを理由として別になっていた、関西潜水連盟 中部日本潜水連盟、日本潜水会は、社団法人日本潜水技術振興協会の消滅とともにもとの協力関係を復活させた。それに新しくPADI潜水指導協会(現在のPADIとはカードシステムは同じでも経営体が異なる。椎名勝巳が主催する「スポーツマンギャラリー」が中心になっていた。)を加えて全日本潜水連盟が結成される。スピアフィッシングは棚上げしての合同だった。日本潜水会としては、時代の流れはスピアフィッシングをすててカメラ主流になると思っていて、とにかく、一緒になることを選択した。関西、名古屋は、別に日本潜水会がスピアフィッシングをやらなくても、自分たちが勝手にやれれば良いという棚上げだった。 1973年、沖縄返還記念の海洋博が開催され、全日本潜水連盟はロレックス時計をスポンサーとして全国スポーツ大会を行い成功させる。 PADI潜水指導協会(現在のPADIとは経営基盤が異なる)も含めて全国統一組織になる。     漁業調整規則 スピアフィッシングについて、漁業調整規則は、非漁民がやって良い漁獲の方法として、水中めがねをしようしないで、やす(銛)で魚を突いて穫る方法、釣りを上げている。これは法律でよくやる手法で、香れに限りやって良い。すなわち、これ以外は禁止ということで、水中での魚突きは銛でも水中銃でも魚を突いてはいけないのだ。マスクなしは事実上不可能である。ぼくは、それが全国ほぼ同じであり、地域によってローカルな禁止事項が加えられる。  ところが、後に調べると、東京都だけが、水中銃での漁獲を禁止している、とただそれだけだ。非漁民云々ではない。1967年の段階では東京都もほぼ全国と同じだった。それが変わっている。東京都では素潜り、(潜水機を使用しないで)やす(銛)で魚を突くのは禁止ではないのだ。これが、前出のブルーオリンピックを合法的にするために改正されたものであるかどうか調べていないが、素潜りで水中銃を使用しないで魚を突くスピアフィッシングは、東京都では違反ではないのだ。ただし、漁業者の許可は必要であるが。要するに違反ならば、漁業者は許可をすることはできない。違反でないならば、地元の了解のもとであれば良いと言うことになる。違反でなければ、どこでやってもかまわない。海は漁業者のものではないと言う論理もある。これについては、後で大瀬崎に着いて述べる時に取り上げる。  1980年の真鶴半島潜水全面禁止 1962年とほぼ同じような主張を組合が言い出し、禁止になった。1962年とはずいぶん時が経っている。その間になにがあったのかわからない。というか、そのとき僕はわからなかった。要求はおなじころだったのだ。  後藤道夫のテリトリーだから、僕は関わっていない。この禁止の少し前、真鶴に潜りに行き、そのときは後藤道夫の勧めで、漁船を借りている。船頭は組合のかなり有力者であったが、仲良く、水深40mほどの深さのパッパガイを穫らせてもらった。パッパガイとはイタヤガイのことで、ダイバーが近づくと砂地からパッパと跳ね上がる。身はホタテよりも少ないが美味である。パッパガイを大量に穫って船頭にも分けてあげた。 そのすぐ後に潜水禁止である。信じられなかった。後藤道夫は知っていたのだろうが、僕が関わる話ではないと判断したのだろう。  要するに漁師に金を落とせ、船を使えということだったのだろう。 この紛争の解決はPADI潜水指導協会の椎名勝巳それに、関東学生潜水連盟も、真鶴を使うことがおおかったので、これにくわわり、もちろん後藤道夫も間に入って解決した。なぜか、僕は入っていない。そろそろ、カメラマンとして忙しかったのだ。悪いけれど真鶴のことは、後藤道夫が解決するのが筋だ。  結局のところ、 ダイバーが陸からエントリーできるのは、琴ヶ浜と、裏側のごく一部ということになった。結局漁師に金は落ちなかった。 このあたりから、問題は、漁師に、つまり沿岸漁業に金が落ちるか落ちないかが焦点になってくる。 この紛争にかかわらなかったことを今後悔している。

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 NAUI・PADIのスピアフィッシングにたいするスタンス  こんなことがあった。もと都知事の石原慎太郎氏が海のフアン、理解者であることはよく知られている。そして、それはスピアフィッシングを通じてのことであった。全日本潜水連盟は併せ呑んでしまっているから、石原さんのことを歓迎している。 僕の泣き所は、盟友、ほぼ親類のダイブウエイズの武田社長が陸上での熱心なハンターであり、水中でも同様、そして、世界最高の水中銃を繕うとしている。もちろん、僕がダイブウエイズには、このことで言い顔をしたことはない。見てみない振り状態で推移している。 そのダイブウエイズと石原慎太郎氏とは、ホットラインで繋がっている。 その石原氏が、豪華なヨットに乗って日本の領海のそとでスピアフィッシングをやった。そのことは良くはないけれど、個人の趣味だし、日本の外だから漁業調整規則はカバーしていないとも言える。しかし、そのアドベンチャークルーズをテレビ番組で放映してしまったのだ。 そのときのNAUIの理事長は、現在、僕のお台場潜水の相棒である。風呂田利夫だった。その風呂田のNAUIが石原慎太郎のスピアフィッシングにかみついたのだ。PADIもそれに乗った。PADIが先頭だったかもしれない。そのときのPADIはもう全日本潜水連盟に加わっていた指導協会ではなくて、PADIジャパンだった。たしか、そのときの石原さんは環境庁長官だっただろうか。日本の外だからと言って日本の規則で禁止されていることをやって、得意げにテレビで放映するものではない。陳謝を要求した。正論だから、石原さんは陳謝せざるをえなかった。 怒った石原さんは、NAUI、PADIを潰せという指令を、某団体にだした。 もちろん、そんなことで、PADIとNAUIを潰せるものでもない。 東京都で、国際競技場クラス(観覧席は不要)のダイビングプールを作り、外国のCカードは、使わせない程度のことをやれば局面は変わったかもしれない。僕は、その発想がなかったし、スピアフィッシングに反対しているのだから、だめだ。それに、まだ、石原さんは、都知事ではない。  日本潜水会は、全日本潜水連盟を作ってしまったことで、スピアフィッシングについて、アイデンティテイを無くしてしまった。と僕は思っている。その日本潜水会は、全日本潜水連盟のなかで、関東支部と名前を変え、潜水指導の場からは降りて、親睦団体となった。親睦団体となって以後30年以上、毎年恒例の忘年会をやり、大人の倶楽部であることを誇っていたが、次第に隠居するメンバーが多くなり、須賀は、その日本潜水会のメンバーに助けられて、日本日本水中科学協会を作った。スピアフィッシングにはもちろん反対の立場を貫こうとしている。   話を先に進めてしまったが、もう一度時計の針を1960年代にもどそう。

0820 西川名オーシャンパーク

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 西川名オーシャンパークをやっている石川文明は、大学の潜水部の後輩である。後輩であるばかりでなく、卒業後の関わりは書けば長くなるので次の機会にする、というつき合いだ。  今度 立派なボートを建造した石川君の夢のボートなのだろう。僕は、この2年ばかり、2014年から西川名を訪れていない。波左間が僕のダイビングのベースになっている。潜水の目標である人工魚礁が多く、それにオーナーの荒川さんが、良くしてくれていて、心地良い。館山海域全部の人工魚礁を調べたいので、そのベースにもなっている。 しかし、新造のボートを見に行きながら、このボートでの潜水を石川君とバディでやりたいと話した。これからも僕のベースは波左間であることは、まちがいないが、久しぶりの西川名も見ておきたい。のんびりしたいので、ウィークディにしたい。仲間の山本君も同行したいと言ってくれていたが、伊豆大島に行っていて今日はNG。
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                緑にカメラを持たせて、助手のつもり
 村上緑は小学校3年生の時に船の科学館の流れるプールでのスノーケリング練習会にお父さんと親子で参加してくれた。夏休みの間に3回ぐらい来てくれた。浦安プールのスノーケリング教室にも来てくれて、浦安フリッパークラブという子供たちのグループにも参加してくれた。そのほとんどが欠席なしだった。その後、御蔵島にも行き、中学生になり、辰巳のプールでスクーバを教え、スクーバにも連れていった。やがて、お父さんと二人でもスクーバに出かけるようになった、僕は一年に2回ぐらいしかつき合えない。それでも2回は必ず連れて行って、高校生になり、大学生になった。 今年も、GWに、赤沢に行った。中川等と80歳80m潜水の打ち合わせものときだ。「夏休みはどこかに連れて行ってもらえますか」というMailが来て、西川名行きと結びついた。 乗り物酔いの激しい子で、いつも吐く。吐かないためには眠っている。それでもダイビングには来るのだ。嫌いなら来ない。 この前のGWの時から、お父さんと一緒だが、軽自動車を彼女が運転して、、来るようになった。  今度の西川名、もう一つの目的もあった。それは久しぶりのカメラテストである。 撮影も人それぞれである、それぞれ、自分の撮影につかうカメラ、周辺機材を買って、自分がやりたい撮影をする。やりたい目的の撮影と合致させるテストをする。チューニングともいう。 僕の場合、お台場の撮影、豊潮丸の撮影、そして人工魚礁調査の撮影だ。記録的な色彩も強いというか、調査記録そのものだ。 ブログに載せたり、フェイスブックに使ったりもする。作品をつくるとか、写真展に出すとかいうことはここのところない。しかし、自分の書く出版物には使う。もちろん調査の報告書、企画提案にも使う。 それともう一つ、「豊かな海」という水産関連の団体の機関誌の表紙も請け負っている。それが、そろそろストックが尽きてきた。ほとんどのストックはフィルム時代、ニコノス20mmで撮った写真だ。最近の動画から切り抜いた画像でも、大丈夫で、一度だけ、海女さんの写真を使ったが、見るとやはり、いま一息で、そのつもりでその為に撮ったものにしたい。西川名は撮れるだろう。  久しぶりでキヤノンEOSデジタルXの一眼レフを使う。この一眼レフは2007年頃買った。フィッシュアイのハウジングが小さかったので、ニコノスを使うような感じで使えるのかと思った。GOPROを使うようになり、ペンタプリズムの上にGOPROを貼り付けて、GOPROは動画にして同時期録するようにして使ったが、画質の点で、オリンパスのTG2とあまり変わらないので、ワイドであるTGー2の方が良くて、一眼レフは陸上専用になっていた。 そのTG-2が沈没して、ニコンのAW130になり、なかなかタフなカメラで使えるので、それで間に合わせている。  もう一度、キヤノンEOSデジタルX を復活させられないだろうか。このカメラとハウジングを購入して、そのチューニングのことをブログに書いたのが、調べてみると2007年の11月である。10年経つと、旧式も旧式である。持っているのが恥ずかしくなる。 フイルム時代、古いニコノスを持っていても、恥ずかしいことは無かった。  2007年、そのとき同時にテスト比較したのがsea&seaのDX-1Gでこれは、コンデジをハウジングに入れて、ワイドアダプターレンズをつけたものった。これは、ニコノス20mmに近い。どちらもストロボを2灯つけてテストした。 キヤノンはワイド側で18mmであり、画角がせまいが、一眼レフのファインダーを覗いて、しっかりピントを合わせて撮れば良いのか、とデータ取りを熱心にやった。 使った結果だが、時に良い写真も撮れたが、総合的にはダメのカメラで、そのくせ、水没だけはした。水没はしたが、20万もして高かったのでハウジングがあきらめきれず、。オークションで代替えを買って現在は2台め、いや3台めだろう。つまり水没2回の名誉に輝いている。油断すると沈没する。二回目の沈没はこの西川名で、往路はなんとも無く、帰路、水没している事に気づいた。  もう一回だけ使ってみよう。イノンのストロボをつけたら、ちゃんと光った。現在、光量の大きいフィッシュアイのライトが故障中で、修理見積もりをもらったら高かったので、やすくならないのかと交渉したが、返事が来ない。おかしいと思ったら、Mailがとまっていた。 ストロボを使う気になったのは、大光量ライトが壊れたせいだ。  そして、自分の将来はもう無いことから、新しい機材はもう買わないことにして、現在あるもので、どのような撮影ができるかやってみることにしている。 世の中お金に不自由しない人も多い。また、プロで、どんなに高価なものでも買う人もいる。一時の自分がそうだった。しかし、大多数の人が、持っている機材でなにができるかを模索するのだろう。  準備したカメラは、キヤノンデジタルXとハウジング、イノンストロボ、イノンライト700ルーメン2灯、 ニコン クールピクス AW130、GOPRO2 SJ4000 SJ4000をキヤノンハウジングの上に付けた。SJは、モニターが付いているので、ファインダー代わりになるか? GOPRO2はマスクマウントで撮影することにした。
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 8時半に西川名に到着、10時の乗り合い船だから、9時半に準備を終えて集合冗談で、石川君にいう、新しいボートを作ってもウィークデイだったら、閑古鳥が鳴いているかと心配したけど、商売繁盛でいいね。今は夏のウィークディだが、冬のウィークディもあることを、知っている。僕たちも入れて、お客は15人?ほどか、スタッフが多い。外国人の、たぶん、フィリピンか?のダイブマスターを紹介された。僕の面倒を見てくれるらしい。握手した。 これまで西川名に来て、いつもお客を僕が世話をしていた。世話をされるお客になったこと、少しつらい。
 
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 船に乗り込み、セットしたタンクに背中を着ければ楽に背負える。みんなこの状態でまっている。楽だけれどこういうの僕の文化ではない。すぐにブイに到着する。サイドのデッキを下ろして、水面をロープで囲い、その中に飛び込むのは、前と同じだ。あまり流れもなく底も見えているので、そのまま潜降しようとしたら、ダイブマスターにつかまえられて、ロープに連れて行かれた。これが正しいのだ。みんながばらばらに潜ったら手が付けられない。、バラバラに潜るのを、ガイドが放置して事故が起こった例をシンポジュウムで発表した。 仕方なくロープにつかまったが、途中から、先だって底に着いて待つ形になってしまった。 かわいそうに緑は僕の重いカメラを持たされて、大事そうに抱えておりてきた。
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 コースはいつも通りに、V字谷に直行した。イサキのトルネードが見事だがキヤノンの18ミリでは中心部の一部切り取りになる。ファインダー代わりに見ているSJ4000は、見事なトルネードが写っている。 振り返って緑でも撮ろうかとカメラを向けると、あっちだと指さす。その瞬間を撮って、これはまあまあ気に入ったショットになった。その指さす方向にカメラを向けると大きなモロコ(マハタ)18mmでは、頭しか入らない。どうもおかしい。もしかして、ズームが動いてしまったのではないか、ギアは空回りしている。何時に出港とかせかされるとカメラのチェックが不備になる。
 
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 仕方がないから、それでも一眼のファインダーを形式的にのぞいて適当にシャッターを押す。 3mmのウエットスーツで24度は寒い。早めに引き返して、モロコ岩を覗。いつもの僕のパターンだ。もろこ岩から潜降ロープまでは10m程度だ。石川君が僕より前にでて、岩ノ下をライトでサーチしている。ダメだよ、そんなことをしたら魚が逃げてしまう。多分、彼は、ここにいた、と教えてくれようとしているのだろう。ぼくが一流のリサーチダイバーと言うことを忘れている。岩の下にはなにもいなかった。モロコ岩と言われるのは、モロコが隠れているからなのだが、このごろは、堂々と表に居て、かくれていないのかも知れない。イシダイが1尾逃げていった。
さてエキジットだが、タンクをはずしてもらってしまったので、あがりやすいかどうかよくわからないが、フィンが梯子にからむこともなく、手でつかまるところもカーブしていて、簀の子も海面と高さがおなじなので這い上がれる。タンクを着けていても上がれそうだ。及第点だろう。
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続く 次回は二回目の潜水と撮影の結果について。 

0822 西川名オーシャンパーク2

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西川名ー2 2回目、11時30分集合、緑は、寒いからとパス。僕も、石川君から5mmにしますか、と聞かれて、面倒でもあるので、寒くなったら上がるので、事故防止になる、と、やせ我慢をすることにさた。  船に乗り込もうと歩きながら沖を見ると、潮波がみえる。風と潮がぶつかって立つ波だ。ブイの地点には波は見えない。営業である石川君および、そのスタッフには、許容範囲なのだろう。 マスクマウントは着けないで、ニコン・クールピクスを持って行くことにした。キヤノン一眼の上にGOPROを着けるから、それで、3台だ。4台は多すぎる。 エントリー寸前にキヤノン一眼をキャンセルした。ニコンに絞ろう。流れが来る可能性がある。ダイブマスターがキヤノンを持ってくれるだろうが、流れがきたときに、僕のサポートと両方になったとき、ハウジングに衝撃を与える可能性がある。このハウジングは衝撃には弱い。前に、飛び込んだ衝撃で沈没したことがある。 となると、キャノンの上のGoProは、マスクマウントにしておけば良かった。潮の流れの体感がとれる。何処で発表する予定はないが、僕の撮影のポリシーは、アクション&アドベンチャー(アアク・ファイブ・テレビのAACは、アクション、アドベンチャークリエィティブ)だ。 付け替えている時間がない。ニコンだけで発進する。まだ、流れは感じない。イサキのトルネードと大きなモロコのツーショットを撮って「豊かな海」の表紙にしよう。迷わず直行する。  ニコンの液晶の方が、一眼のファインダーよりもみやすい。 イサキを見上げて撮るが色が気に入らない。プリセットをしておけば良かった。この状態撮影中の現場で設定はちょっと困難、ニコンでは、おまかせ、風景、オートの三つからの選択だ、選択と言ったって、オートかお任せだから、どこが違うのだ、と、つっこみたくなるが、おまかせよりオートのほうがましに見える。とりあえずオートで撮っておく。  デジタルは若干の補正は簡単にできる。連写の設定にしておけば良かったと思うが、これは、画質が落ちる。動画でも撮っておく。モロコについては、自分なりになっとくのシャッターを押したし、文ちゃんとモロコのツーショットも撮った。
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 10分も潜っていないが帰ろうと指示する。潮波が頭から離れない。流された経験は数えられないが、昔は泳力があった。今でもダッシュ練習は欠かしていないが、昔のように400mではない。50mで息がきれてしまうことを確認しているだけだ。 安全停止をするよりも、安全停止などしなくて良い時間をダイブコンピューターは指示するべきだと思うが、文ちゃんのダイブコンピューターに従うことにブリーフィングで決めている。  安全停止で、波で上下するボートで、ロープがしゃくられる。手を離して中性浮力で静止しても流されはしない。流れはわずかだった。 エキジットはタンクははずして上げてもらい。フィンは、片足を簀の子の上に満ち上げてはずしてもらい、ほとんどストレスなく上がった。ボートダイビングでは、タンクは上げてもらうことに決めている。だから、上げやすいようにBCにウエイトはいれない。  僕たちはほかのグループよりも5ー10分早く上がっている。みんなが上がるとき潮がかけてきた。引き上げるのに難儀をしている人もいる。タンクをはずすことをしないのでタンクと人間を一緒に引き上げなくてはならない。 タンクをはずしてしまうとボートから岸に上がるときに手間がかかる。この船は上がってからタンクを背負ったままベンチに腰掛けることが楽にできるように工夫されている。  流されないためのガードロープが身体に絡んでしまって、最後ははずしてしまったが、このガードロープも何か枠にして浮かした方が良いようにおもう、やってみなければわからないが、やってみる価値はある。体力、身体能力がどんどん落ちてくるとそれを補う物理的な道具を考えるようになる。それは、体力・フィジカル能力の強い人には理解しにくい。 体力が落ちたら、ダイビングはやめるべきというのが、今までの考えだ。体力を健康と言う言葉に置き換えてもおなじことだ。高齢は病気だ。  危ないからやめる、やめさせる、高齢化の時代になり、半数以上のダイバーが60歳を越え、やがて70を越え、80を越える。ぼくが60歳の時は、ダイバーは60歳定年の議論をしたことがある。安全第一ならば60歳は限界だろうか? そのことを真剣に考えたとき、どうしても安全をとる、つまりやめさせる方向で議論が進む。このことは現在の僕のメインテーマだから、また議論するが、せっかく介護保険を払っているのだから、無駄にしたくはない。そんな風に僕は考えない。 今度の潜水も高齢の方、それでも、僕より年下のグループがいて、更衣室で僕に心配そうに聞いてきた。ここは、流れが速いと聞いているのですが大丈夫でしょうか。おやめなさいとはいわない。今日はたいした流れはないと思います。と答えておいた。たいした流れになった。何も危ないこともなかった。
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 石川君に新しいボートを作れて、良かったね、とお祝いを言った。古い船はストレスの固まりでした、と答えが返ってきた。 インドネシアでのエンジン停止のトラブルについて書いたばかりだったから、良く理解できた。この仕事を続けるために、このボートは必須だった。  西川名は、できたときから知っている。最初はスガ・マリン・メカニックの社員がスタッフをしていたこともある。今、富戸にいる大西はその一人だった。それからの変転、ぼくも何十回ここで潜ったかわからない。そのストーリーはまだ書けない。 次は撮影のことを書こう。 

0823 西川名オーシャンパーク 撮影

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撮影は、人それぞれ、その目的、その撮影をした時の目標、その場、その環境によって異なる。 僕の目的は、フェイスブック、ブログ、JAUSのシンポジウム、新しい最新ダイビング用語事典に使う可能性がある。そして、なによりも記録、今回は、できれば引き受けている雑誌表紙 「豊かな海」のストックをつくりたい。写真展、写真集の出版もかんがえないではないが、自分としては、写真のクオリティよりも、記録としてのクオリティを考えるので、難しいだろう。   そして、自分のカメラマンとしての仕事は、テレビ番組の仕事が80%だったが、60歳以降は展示映像のしごと、そして次第に調査の記録撮影が主体になり、79歳以降で上記の状態になった。80歳までしか生きる予定がなかった。  立ち位置を明確にしておかないと、書いていることがわからなくなる。 新機材を買わないのは、財政的な問題もあるけれど、これから先の年齢を考えると、現状のもので何が出来るかを追求し続けた方が良い。意外にもこういうような前提は、読者の参考になるのかもしれない。
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                     豊な海の表紙候補 ニコンで撮った。
 19日の潜水で用意したかめらは、 ①一眼レフ キャノン・イオスデジタルX とフィッシュアイのハウジング、レンズは18mmがワイド側だかか、ワイドレンズではない。いろいろと欠陥があり、水没も2回、ダメなカメラで、10年以上前の超旧式カメラであるが、愛着がないわえではない。 もう一度だけ、最後に使ってみよう。新しい機材を買わないことが第一前提だから、もしも使えるならば、現役復帰も考えよう。
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  ②コンパクトデジカメ ニコンクールピクスAW130 オリンパスTG-2を中心につかっていたが、このニコンは30m防水、で、ニコンである。ニコンであるということはニコノスの血筋か?ということで買って、オリンパスが死んで以来、メインに使っているが、どうもGoProの動画からの静止画の方が、自分の目標には合致している。GoProを使うことが常で、ニコンは気が向いたら、すなわち、GoProがメインで、ニコンはサブである。 今回は海の事情で、2回目の潜水は、ニコンだけを持って撮影した。  ③SJ4000 お台場の撮影ではGoProよりもむしろ、シャープな感じにとれる。あくまでも感じではあるが、お台場ではこのカメラがメインになることが多かった。
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               GoPro2で撮った。SJが邪魔をしなければ、悪くない。
 ④GoPro、僕のGoProはGoPro2である。2012年、福島の放射性物質調査の時から、使っている。調査のインターバル撮影のメインでもあった。タイムインサートができないのがリサーチカメラとして致命的欠陥であるが、辰巳プールではこのカメラが一番無難に綺麗にとれる。GoPro3も持っているが、これは本当にダメなカメラで、使うことはほとんどない。電池がすぐに無くなってしまう。絵も安定しない。これがダメだったので、改造、改良された3;+ 4は良いらしいが、すでに、GoPro2を4台持っていたので、そのたぐいのカメラをもっているのに、良いからといって買うことは無い。買わないように決めている。決めていないと際限もなく買ってしまうからである。GoProも一台死んで、現在は3台つかっている。SJが2台だから、ニコンをいれて都合6台を割りとフルにつかっている。  一眼レフハウジングの上に載せる動画カメラはSJ4000にした。マスクは、一眼のダイブウェイズの新しい型で、石川式のマスクマウントを付けて、GoPro2を付けた。  一回目の潜水はニコンは持って行かなかった。実は、車の中に忘れたのだ。  V字谷という地点でイサキがうずを巻いている。トルネードになっていることは、フェイスブックなどの情報でしっていた。これが「豊な海」の表紙になると思ったのだ。 
 
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 18mmレンズの一眼レフを覗くのは大変だ。目の位置までカメラを持ち上げて覗かなければならない。レフを除いている間、周囲の状況を見ることはでいないのだ。デジタルXは、まだ液晶ファインダーが付いていない。壮観なトルネードの一部を切り取ってしか見ることができない。上に載せたSJ4000 はワイドだから、全景を見ることが出来る。そのギャップの中で、一眼レブのファインダーに集中することなどできない。適当にカメラを向けてストロボの光を確認しながら、シャッターを切っていく。そういえばストロボを光らせるには随分久しぶりだ。ライトをメインの光源にするころから、ストロボの光が邪魔になる。そして、ライトはその効果が常に見て取れるのに、ストロボは光らせた絵を確認しなければわからない。 緑ちゃんの顔でも撮ろうかとカメラを向ける。彼女は撮られるのが好きではない。どういうポーズをとったら良いのか、どんな顔をしたらよいのか、把握していないので、嫌なのだろう。自分もそうだから、よく分かる。カメラを向けた途端、「あそこに大きな魚がいる」と指差した。このカットは悪くはない。この潜水で撮った一眼レフの写真で、唯一、なんとか気に入った一枚だ。 指差す方向に、大きなモロコ(マハタの地方名)が居た。 
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 一眼レフの上に載せた、SJは、ファインダーの役割はともかくとして、画像は白くボケた部分があったりする。ハウジングのレンズ面に傷がついているのだ。このカメラは、タイムインサートが付いているので、インターバル撮影に多用している。垂直安定板を付けて引き回すことはともかくとして、船上に引き揚げての扱いが、安いカメラだからまあ良いかと乱暴になっている。この傷のためのボケは豊潮丸の航海の撮影でも気づいていたのだが、タイム記録だから画像はどうでも良いや、と放置していた。GoProの方は同じ扱いでもレンズ面に傷は付いていても目立たない。SJは安いカメラだから、この部分の材質に手抜きがあるのだろう。だからこそ、大事に扱わえない。
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            白い斑点のようなボケがある。ハウジングレンズのキスだろう。
マスクマウントに付けたGoProは、レギュレーターの泡が邪魔をする、そして、一眼のファインダーを覗く度にカメラを持ち上げるのが写り込み邪魔になって絵にならない。これは最初からわかっていたことだ。マスクマウントはタイム記録以外は使えないのに、逆にしてしまった。マスクマウントをSJ 一眼の上をGoProにすればよかったのだ。 二回目の潜水、潮が出てきそうだったのと、大きいけれどろくな絵は撮れないと、キャノンは水にいれないで、ニコンだけになった。マスクマウントにGoProをつければ良いのだが、付け替えが間に合わない。ライトステイも使わずに、ニコンで全部自然光で撮ることになった。このカメラはオリンパスのTGよりも画質は若干すっきりしない。特に新しいTG-4 に比べれば劣るだろう。ただ、液晶は見やすい。そして、片手、右手だけの操作がやりやすい。オリンパスは蓋を開けて(ほんの僅かなズレだが)しまって水没させた。ニコンの方は蓋を開けてまう可能性が少ない。人間工学的には優れている。水中撮影、特にリサーチの記録のような撮影では、人間工学的アドバンテージの方が大きい。もう少し画質を良くしても良いのに、天下のニコンなのだから。といっても価格の問題がある。このカメラが10万だったら、僕は買わない。たとえ画質が少し良くても、だ。  トルネードは、動画もスチルもニコンでとった。 イサキを撮りながら、色が気に入らない。色温度のプリセットをしておけば良かった。オートとおまかせだ、意味がどう違うのかわからないが、オートの方が良さそうだったので、オートで撮った。もう一度ニコンのチューニングをやる必要がある。 結局、この設定で撮ったニコンの何枚かが「豊かな海」に使えそうだ。
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                         ニコンで撮った。使えそう。  
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                       キャノンでで撮った。ダメ ストロボを光らせて居ないが光らせると返っておかしい。


 キャノン デジタルXは、やはりまるでダメで、これで水中からは引退する。 使い続ければ、必ず水没するカメラだ。すなわち人間工学的に劣っている。陸上の撮影に一眼レフが一台くらい会っても良いから、陸上勤務にしよう。

0824 21日 お台場

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 西川名に続いて、21日、日曜はお台場の潜水  撮影の話でつないで行こう。 使えない一眼も、お台場ならばマクロで何とかと考えたこともあるけれど、東京港の撮影は、自分としては個々の生物よりも全体像の把握と記録がねらい、このねらいは、長らくやってきた人工魚礁調査の撮影、磯ね調査のねらいの延長線上でもあったのだ。 自分の撮影を振り返るとテレビ番組の撮影、大型展示映像の撮影、撮影調査で、どれも広い撮影、その中で、マクロはクリオネを追った。顕微鏡撮影も手がけたが、ああ、脱線しかけている。 要するに僕のスタイルのマクロにキヤノンデジタルX は使えない。  もう、撮影機器にはお金は、最小限度しかかけない。ある機材を使い込む。しばらくは、このスタイルで行く。だから、化石になりかけている一眼を使おうとした。化石といっても、2007年、昨日のように感じる昔に買ったのだ。でも、買ったときにはたいへんだった。そのストーリーは、、、、、また脱線。  今回のラインアップは、ニコン(Aw130)をライトステイに載せて、イノンの700を右側に1灯だけ付ける。マスクマウントは、時間測定を必須として、SJを付ける。それだけにした。手にするカメラは一つだけにしよう。
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                 エントリー カメラを渡してもらう。岸は取材のカメラマン
             準備の苦労:左足肉離れについては、20日の土曜日は足の完全休養とした。  風呂田先生は、今日も行徳の干潟に、生き物が元気にあふれる干潟だ。自分ももうこのあたりで、と思ってはいけない。クリーンアップ大作戦を主催している港区キッスポート財団が発足20周年とかで、記念誌を出すとかで、インタビューを受けることになっていた。20周年と言うことは、僕たちのクリーンアップの方が先輩だ。海上保安部の宮野さんと一緒にクリーンアップをはじめて、その後で財団ができたのだ。そのあたりのいきさつを忘れてしまっている。ブログを書くことの意味は、そんなところにもある。 インタビューでは、自分の居なくなった後のことを考えて、ゴミ拾いだけではなくて、生物観察も入れようと提案しておいた。  台風9号の接近で、一日ズレたら大雨だった。台風の前で、暑かったけれど気持ちよく晴れていた。  今年、お台場では周年ドライスーツで過ごすことにしている。熱中症が危ないからウエットにするようにと河合先生に言われているが、僕はウエットからドライに変わる時が危ないと思っている。急に身体が拘束され、ウエイトが増え、首が絞められる。  7キロのウエイトジャケット、2キロのベルト、レッグが1、5キロ、合計10キロに、10リットル、およそ12キロのタンクを背負い、計22キロを身体に着けて歩く。15mほどの距離だ。左足は大丈夫か?。今日から、エントリーは、予定通り、這うことにする。波打ち際でフィンを履く。海洋大学の江原君が手を貸してくれる。このごろは、毎度来てくれている。 今日のメンバーは、ゴカイの分類の尾島さん、そして奥さん、科学未来館の三ツ橋、美人さんと言っておこう。みかけとちがってタフだ。日本水中科学協会事務局長の鈴木君 干潟研究者の多留さん、東邦大学、そして、江原君だ。 フィンを着けた位置で膝を折り、膝立ちになって、後ずさりして水に入る。インタビューの写真を撮るカメラマンに「立ち上がってください」と言われる。「無理」と断る。膝を折る前に撮っておくように言えば良かった。這っている姿では、絵にならない。 水が太股のあたりで、降りて、膝立ちで、マスクを着けるところを撮ってもらった。それから、身体を反転させて、泳ぎ始める。
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                       硫黄バクテリアの膜

 水の透視度は、この時期としては普通だ。人工砂浜とブルーゾーン(図参照)の境目あたりでライトを点ける。海底とカメラの距離は30cmくらいで、ニコンの液晶でよく見える。つまり、透視度50cm、撮影距離30cm以内なので、マクロに設定する。 すぐに硫黄バクテリアの白い膜の広がりが見える。このあたりまで広がっていることは、あんまりない。 「あんまりない」これは記憶であって記録ではない。記録する事が目的だから、タイムインサートが重要になる。お恥ずかしいことにこのごろまでタイムインサートは重視していなかった。写真的には無い方が良い。プロパテイで撮影日時はわかる。しかし、インサートがある方が記録価値が高い。sjも、ニコンもタイムインサートにしている。 硫黄バクテリア膜をスチルで撮っておく。5cmー7cmほどのマハゼがちらちら見える。先月からあまり育っていない。育っていないのではなくて、このサイズがここに集まるのだろうか。江原君は、ヌタウナギを研究するとか言っている。なぜヌタウナギなのだ。マハゼでないのだ。海洋大学にマハゼを研究する先生が居ないのだろう。ともあれ、お台場で論文を書いて卒業していく学生がいない。東大の杉原だけだ。 ドライのバランスに慣れたので、気持ちよく進む。少し深い、2mほど、のコースを取っている。帰りに浅いコースをとればいい。
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                     赤い線が今日のコース

 お台場の天然礁とも言える杭の跡を目指す。 杭の跡が、魚が多く、そしてイシガニが見つかる可能性がある。それに、杭につく付着生物が月毎に変化する。ここを詳しく見ることで何かがわかるはず。

 杭に到着、ていねいに見て行く。マハゼの10cmサイズが1尾
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                 マハゼが散らばっている
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                 マハゼ

、2尾、ニコンで動画の撮影を挟む。そして、杭の並びに、少し間が空いた杭の根本に7ー8cmのマハゼが2尾、その動く跡を追うと、数十の群が、蜘蛛の子を散らすように、と言う表現があるが、ここではマハゼが散るように、右左に動く。泳ぐと言うよりも動くのだ。マハゼは、たとえばイサキのように群を作るようには見えないが、群を作るとは、同じ方向に向くことだ。 群は作らないが、まとまって見えることが多い。そのまとまりの範囲を計るのは、その準備がないとできない。 前回の7月30日には、このマハゼのまとまりが、砂浜に近い牡蠣殻のブルーゾーンのあたり一面に見えた。動画で撮ってある。今回は、ブルーゾーンのあたりが硫黄バクテリヤの薄い膜ができていて、マハゼも2ー3尾は見えるが、まとまりは見えない。 まとまりのできる場所、その大きさと硫黄バクテリアの相関はわからない。息苦しいのか、それとも、餌になる微小生物の多少かも知れない。これも調べればおもしろい。 調べるとおもしろい、でもできないことの羅列だが、今は、羅列にとどめる他無い。羅列は羅列のまま終わることが常だが、羅列から全体のイメージが見えてくる。リサーチとは、疑問を探し、解答を探すことだ。 ニコンのバッテリーインジケータが三分の一ぐらいになったので、オフにして、マスクマウントをはずして、手持ちにする。ここでは、ニコンは不要なのでは、と言う考えが、頭をかすめる。
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                         チチブ(ハゼの類) お台場に周年多い。

 帰路は浅いコースを取る。岸辺に立つ看板のあたりの干潮線の下の転石の周り、そして陰が、マハゼのまとまり、イシガニが見られるところなので、動画をニコンでとりながら見ていく。バッテリーがなくなればSJの動画に切り替えれば良い。5cmほどのチチブがバラバラと、彼らは石の下に多数潜んでいる。酸素が乏しくなるとでてくる。乏しくは無い模様だ。 尾島さんの測定では、酸素は例年通り減ってはいるが、ひどくはないそうだ。魚の出入りをみていれば酸素濃度もわかる。この相関も調べたい。 5cmほどになったメバルが1尾だけ、メバルもシマイサキも杭のあたりで見られなかった。10月には見られるだろうか。  グリーンゾーンの転石を終わり近くまで見て、進路を深みへ変えて、3mゾーンに向かって降りていき、ヘドロの上を滑走して、硫黄バクテリアの様子を撮影する。かなり発達している。これも、撮影記録の比較が、今できることだ。そして、マハゼは1尾も見えなかった。例年ならば少しはみえるのに。    10時  40分から  11時 46分まで、これはタイムインサートの数字だ。お台場は、浅いので、ダイブコンピューターは働かない。 
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                波打ち際のゴミを拾っている尾島さん(奥さん)

 砂浜に帰り着き、フィンをはずして立ち上がるとき足を痛めそうで怖い。近くで尾島さんの奥さんがゴミ拾いクリーンアップをしていたので手を借りて立ち上がった。肉離れをかばったのだ。ここでも這い上がってタンクを外して立ち上がるべきだったかも知れない。砂の粘着力に足をとられて、ちょっと痛かった。三ツ橋、江原も走ってきて、目印に身体に点けているブイとロープを持ってくれた。 後は、自力で歩いて、犬が身体を洗うシャワーまで行き、タンクとウエイトをはずし、犬のようにしゃがんで頭から水をかぶり、ドライスーツを洗った。お台場には、人を洗うシャワーはない。犬の高さで水がでるシャワーだけだ。なお、ドライスーツはTシャツに少し汗をかいたが快適だった。 さて、撮影についてだが、一回の文字数を最大で3000と決めていて、3000をかなり越えたので次に続く。

0825 四国宿毛

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 羽田発 0725 松山着 0850 JAL 303 800 大洲を通り、四万十川経由 宿毛着 1600 途中、道の駅 二つ 伊予で昼食 田舎料理?バイキング 西土佐で、みんなはアユを食べる。僕は里奈から一口もらう。アユの味がする。それほどおいしいと思わないのだ。僕は。 四万十川の沈下橋をみる。気分が良くなる。橋の上は、肉離れも気にせずに歩いたり。

 中尾教授のサンプリングで、町田君 里奈ちゃん、そして僕の4人だ。  宿毛 パシフィックマリンの 森田君と明日の打ち合わせをする。 台風10号は 大東島の方で、うねりの製造に励んでいる。やがて北上して、小笠原経由関東行きか?
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                  森田君の店 天井には黒サンゴ
 明日朝から、午前中の勝負だが、明日は明日の風(うねり)が吹くだろう。 森田君と雑談、というか、昔の冒険はなし。森田とか、波佐間の荒川さんは、そして、僕も、絶滅種のダイバーだ。僕たちがそれぞれ終わったら、あとからは、永劫にこの種は現れないだろう。  僕の60歳の100m潜水で、宝石サンゴ取りのコルシカ島のアランの日常の100m潜水を見学にいった。彼は、日本の足摺に来て、120m潜水して生きた宝石サンゴの採集をした。 このプロジェクトのプロデューサーだある、関邦博先生は、今どこにいるかわからない。多分、南米のどこかにいて、不老長寿の研究をしている。200歳までは行けるらしい。そのデータが毎週2通ずつ定期的に送られてくる。とても通読できるボリューム(多い)ではないが、迷惑メールには入れられず、保存して時々みている。  アランが命がけで採った生きた宝石サンゴは、真鶴琴が浜の福島のところの水槽にい入れたが、すぐに死んでしまった。 福島君ともゆっくりとその時の話を聞こうと思っていたのだが、亡くなってしまった。 関さんの夢は、そのうちにワシントン条約で宝石サンゴの採取ができなくなるかもしれないから、宝石サンゴの養殖をやろうというもので、宝石サンゴ業界が資金をだした。「コーラルルネッサンス・プロジェクト」と呼んで、新宿の京王プラザホテルを借り切って大、宝石即売大会をやり、関さんが講師で、なんだかわからない話をして、僕も聞きに行った。  「日に焼けた女の子の宗元には、白サンゴのペンダントが似合う」とか、  旅先、宿毛の宿なので、あんまり複雑なことは書けない。
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