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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0518 波佐間

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館山、波左間人工魚礁日本水中科学協会撮影調査研究グループ
小俣さんは風邪を引いたらしく欠席、山本さん、増井さん。
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最後までドライスーツにするかウエットにするか迷う。ウエットスーツ、6、5もある。3年ぐらい袖を通していない。着てみようと思ったが、ゴムが硬化していて、着づらそう。それにウエイトも8キロは必要だし、バランスに自信がない。ウエットスーツは、ボロのレンタル用のこれは、20年ものか?これがなぜか身体になじんでしまっている。 昔、ハワイに撮影しごとで出向いたとき、ハワイネーティブダイバーのグループに手伝ってもらって、一緒に仕事をした、ではなくて一緒に遊んだ。その、みんなのスーツが使い古しでかっこよかった。以来、自分のスーツもかっこよくなったが、ここは、ハワイではない。水温18度だ。

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                     寒いウエットスーツ
 準備をしていて、大変な忘れ物に気がついた。ライトと、ライトステイがない。これでは撮影出来ない。チャージしていて、別のところにあったので、目に入らなかった。一人ですべてをやるのだから仕方がないと、自分を慰める。 山本さんに小さいスポットライトを借りて、GOPROとビニテでくくりつけて、ニコンとひもでつなげる。
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 一回目のポイントは、水深45mの鋼製建築物だ。ほんとうに建築物!というイメージだ。インターバルは、縦の3連を魚礁の芯に降ろす。荒川さんにやってもらわないと降ろせない。 細いロープを降ろしながらカメラを取り付けるのだが、ここでまた、プチ間違いをやった。三段の印の下から2番目をとばしてしまったのだ。まあいいや、高い位置からの映像が撮れる。  ウエットスーツになり、7キロのブレストウエイトがなくなったので、ドライよりは楽に、それでも。全力を振り絞って、船縁から頭から乗り出すようにして、ロールして、つっこむ。 飛び込んでから、ロープにとりつくまでが、毎度ストレスだが、ウエットだから、泳ぎやすくはある。 降下は、ウエットになりバランスがよくなったので、当たり前の感じで下りる。
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                         山本さん
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                       これは、中段に設置したカメラからの撮影

 まちがえてつけた天辺のカメラが魚礁の上で見張っている感じだ。 魚礁の頂上にとりついて、持ってきたGOPROをONにしようとする。スイッチが入らない。30m近いから、窒素よいか?いくらがんばってもはいらない。考えて見れば、水圧で押されて入らないので、いつもは船の上で、ONにしているのだ。 仕方がない。ニコンで動画を撮ろう。 相変わらず、小さいイサキの群がいっぱい。少し大きい個体も混じっている。トゴットメバルが点々としている。動画にはあまり期待はできない。スチルにしよう。そうだ。ニコンにはフラッシュ機能があったはず。フラッシュを光らせる。黄色い反射の点でいっぱいになる。これもだめ、カメラに気を取られていると状況がみえない。設置したカメラの細いトワインに身体がからんでしまった。外さないとやばい。なぜか、レギュレーターのセカンドステージに絡んでいる。なぜこんなことになるのだろう。マウスピースを口から放して、くぐらせなくてはならない。一瞬、誰かを呼ぼうかと思ったが、荒川さんは40mを越したところにいる。仕方がない。マウスピースを外してやってっみた。うまく離れたのでさらに潜降した。今度はとワインに接近しないようにしよう。しかし、視野狭窄の感じだ。37、5mで浮上を始めた。結局、写真らしい写真は撮れなかった。 船への上がりは、一人で上まで上ったが、最後にフィンが船縁にひっかかって、船頭に外してもらった。まあ、良いできだろう。  天気が良いので、陸上ではそれほど寒くない。昼食は、トンカツ弁当を食べた。もちろん、おいしくはない。自分が注文するのならば、鮭弁当にするのだが、任せたから、仕方がない。 荒川さんと昔話をする。ヘリウム酸素で80mの玄界灘の魚礁の撮影を一緒にやった時の話をする。ダイバーは荒川さんで、僕は総指揮だった。
 今度の80mは、僕が潜る。現時点で荒川さんは75mまで空気で潜る。らしい。80mは記録と言うようなものではない。90歳で90mを荒川さんがもし潜る気になったときに使えるような潜水システムを僕は作るのが目標だ。
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                 荒川さん

 でも、「それにしても、昔は楽しかったね。」死ぬのも生きるのも。自由だった。体力もパワーもあったし、死なないようにはしていたけれど、世の中、水中、怖いものはなかった。 午後の潜水、 まず、沈めた3連のカメラを上げる。やはり引っかかって上がらない。荒川さんにお願いしてしまう。次回は中に入れるのではなくて、外周を撮るように外側に設置して、簡単に上がるようにしよう。  カメラを上げてからの潜水は、1982年に枕設した波左間で一番ふるい魚礁、0。8m角のコンクリートブロック250個、水深22mに潜ることにした。この魚礁が懐かしくて、僕は好き名のだ。ニックネームをパラダイスと荒川さんはつけている。
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 ドリームのように大きくはないが、美しいソフトコーラルが生えている。 でも寒い。ライトを忘れたので、山本さんに借りたライトにGOPROをビニールテープで固着している。今度は、船の上から回し続けているから、大丈夫だ。ライトで魚礁の隙間を照らしてみた。大きなイセエビがいる。これまで、腕のようなステイにライトをつけていたので、隙間の奥の方を照らして撮影することが出来なかった。それで、波左間はイセエビが少ないとおもっていた。出てきているイセエビが少ないのだった。
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 別の隙間に大型のオオモンハタが入っていったので、ライト・カメラで追う。ここにもイセエビがいる。全部の隙間を見ていきたいが、寒い。もう少し我慢すると、震えがくるはずだ。荒川さんに合図をして浮上する。 減圧停止も適当に2分ぐらいで浮上する。22mでもちろん無減圧の範囲である。荒川さんが、もう良いか、と聞いてきたので、良いと答えて、先に梯子にとりつく、膝をついていれば、フィンをはずしてもらえるので、楽に上がった。これまで、そんな潜水はしたことが無かったのだが、タンクを受け取ってもらうよりは、フィンを外す方が労力は小さいから、これでオーライということにする。  帰途は、わりあい空いていて、1830には戻りついた。さっそく撮影結果を見ると、隙間のイセエビはスポットにすぎて、光の芯の部分がオーバーだった。 明日のお台場は、この方式で撮影しよう。ライトは自分のものを使うから、もっと拡散できている。

0515 お台場

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 5月15日 お台場  予想通り?赤潮のような赤茶けた色で上から見た透視度の予想では、のばした手の先、いや、目の前に持ってきた手もはっきり見えないだろうという感じだ。 天気は五月晴れの良い天気。 昨日の波左間で寒さに震えたので、ドライにする。ここは、シャワーもないので、ドライで暑くて耐えられなくなるまではドライにするけれど、ほかのメンバーは全員ウエットになっている。 ドライも下着が薄く、長袖シャツのままだから、7キロのブレストに4キロのベルト、1。4キロのレッグ、合計12。4キロだ。タンクは8リットル、だいぶ軽くなったので、歩くのもそれほどつらくはない。 フィンも一人で履くことができた。 昨日の今日だから、疲れていてだめだろうと思うとそうでもない。疲れていた方が身体は動くのかな。  そのまま後ずさりして、膝のあたりの深さで膝を突き、マスクを着け、GOPROのスイッチを入れる。今日は、昨日の波左間と同様に、ライトにGOPROをビニールテープで固定した。以前に買ったGOPRO用のマクロアタッチメントを着けた。バーンドアのようになっていて、マクロの時だけドアを閉めるようにレンズを取り付ける。これはGOPRO3でないと、取り付けられない。 
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              珍しくはないがお台場では初めて見たリュウグウハゼ

 やはり透視度は20cmだ。目の前に持ってきた手は何とか見える。水面を泳いで、目的地に行くつもりだが、スノーケルを持ってきていない。上向きになって泳ぐ。目標まで100mほどなのだが、仰向けだとまどろっこしい。 水面は20cmでも、底は30ー40cmは見えるんだろう。潜って見ると、なんとか40cmは見えている。コンパスもこれなら見える。ときどき浮上して位置を確認する。浮上と言っても、水深1~2mだから、わけもない。 予定していたポイントに到着、なんとか50cmは見えている。撮影しようとしたら、絵が切れた。見るとバッテリーがない。走りながら回してきた。それでも15分程度だが、液晶ファインダーも点けていたのでバッテリー消費が多かったのだろう。ごぷろ3の僕の持っている古いタイプは、電池消費事情が最悪なのだ。とにかく、戻らなければ、戻りながらGOPRO3を呪う。使えないものを残してあるから、こういうことになる。ハンマーで叩き潰してやろうか。しかし、陸上では使える。使わないけれど、とにかく水中へ持ち込むことは、二度とするまいと心に誓いながら泳ぐ。  陸に上がるのは大変なので、波打ち際で膝を突いて、採集をしていた東邦大学の博士研究員の阿部さんにカメラバッグを持ってきてもらう。SJ 4000に付け替えて後ずさりで水中にもどり、もう一度100mを泳ぐ。まみのブイが水面にあったので目標になって、ポイントに到着した。しかし、メバルの稚魚が少なくて、シマイサキが目に付く。目当てにしていた穴は、ライトカメラだから、奥まで撮れる。この方法はお台場とか人工魚礁には向いている。
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               シマイサキが多く目につく

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               メバルは数が少なかった。

 一応、目的にしていたものは押さえたので、戻る。
 帰り道で、清水まみを追い越す。ついでに少し様子を撮影する。片手にRGBのライトを持ち、片手にTG4をもって、被写体にカメラを向け、角度、ライティングを何度もやり直して撮っている。しつこい、2時間から4時間は水中にいる。いちおう30分に一度は水面に顔をださなければ、いけないと決めている。 しつこいのはカメラマンとしての必須条件であるが、ほかの場所では減圧症の心配があるから、こんな風には出来ない。お台場は大丈夫だ。 二往復して、8リットルのタンクの残圧は50、今日はもう終わりだな。いつものコンビニで、オムライスのおにぎり、鮭、わけの分からないオレンジ飲料をかって飲む。オムライスがおいしかった
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。次は2個にしよう。 でも、気分としては、もう一度出て行ってもいい。それに、ライトにGOPROをテーピングする後、フィッシュアイの2000にすれば、もっと光が広がるし、香料の%が可変である。同じ場所で撮影して、午前中のライティングと比べて見よう。気分がいいので、新しいタンクと替えて背負い、歩いて、波打ち際でフィンを履き、膝立ちでカメラをセットして、後ずさりして、身体を廻して泳ぎ始める。この手順が一番良いようだ。 100mの距離だから、一直線に行けばわけはない。やはりライトとしては、こちらの方が調子がいい。また、まみを追い越す。ポイントの穴を一つずつ撮影していく。一つの穴にスジエビがいた。撮影しながら光を廻していくと5尾が数えられた。上にカメラを向けると、赤茶けた水、下の方が少し澄んでいてその濃淡がおもしろい。ライトを20%から8%にしぼっても同じように見える。おそらく8%の方が良いだろう。電池も長持ちする。 カメラが所詮GOPRO2だから、出来上がりの期待はできないが、撮影しているときは集中するから、すごいシーンだと思いながら、カメラをまわしている。
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 戻りは、海底を這うように泳ぐ。なぜか、トリム姿勢が決まって、フロッグキックもきれいに、思ったように足首がまわる。どうしたことだろう、急に出来るようになった。たしかに、このキックは足が翼になった気持ちになる。突然、茶色の水に突っ込んで、目の先のコンパスカードが見えなくなる。飛行機が雲に突っ込んだようだ。すぐに雲から抜ける。コースを東北東で基点に戻る。東に進路を変えて、深い水深に向ける。海底に沿って高度が下げる。ヘドロの上5cmぐらいを滑って行く。ヘドロというと、汚れたもの臭いもののイメージがある。この時期、まだ硫化水素は発生していないし、硫黄バクテリアも見えない。 若いマハゼの姿が少ない。マハゼは、多くの個体は一年強の命だ。3月頃に生まれる。昔の人は、湧いてでる。5月には、3ー5cmになって、ヘドロの海底をツンツンと泳いでいるはずなのだ。それが、見えない。写らない。2cmほどが、探すのに苦労する程度に見えるだけだ。 進路を北北西にかえて、岸に戻る。牡蠣殻の海底にきたので頭を上げて、水面にでて、位置を確認する。  膝立ちのところで、後ろ手でフィンを外す。トライスターはストラップを外しても、フィンは容易には外れないようになっている。フィンを手放してしまうと、探さないと見つからなくなる。立ち上がると、お台場OBの杉原奈保子が赤ん坊を連れて応援に着てくれていた。  この二日間の潜水、館山では17度の水温に古いウエットスーツで震え、お台場ではドライの自信を回復した。もしかしたら、夏でもお台場はドライにして冬に備えたトレーニングにしようか? 撮影については、ライトにウエアラブルカメラをビニテで縛り付けるセットを研究できた。お台場ではこの方法は有効である。そして、透視度30cmでの撮影手法について、何かを会得した。次の濁りがたのしみになっている。
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 二日とも満足のできるダイビングだった。もう少し生きていても良い、と思った。

0521 潜水士テキストについて 減圧表とダイブコンピューター 1

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減圧表のことを書こう。といっても理論的なことは書くほどの知識はない。M値についてやや詳しくわかるていどだ。それも、間違えて覚えていたのを修正して覚えたような具合だ。 僕の専門は、ダイビングの運用だと思っているから、その視点から書こうとしている。  理論は忘れていても大過はないが、運用の方法を間違えると、実害が起こる。先の今村さんにお願いしたワークショップも運用についてだったので、少し議論をしたかったのだが、難聴の身で、議論ができない。実はこれはとてもつらいことではある。  ダイブコンピューターと減圧表、ここでは、テーブルと呼ぶことにするが、まずそのことを考えてみる。自分のグラフィティ時代を振り返るとダイブコンピューターを本格的に使い始めたのは、1987年だった。その時、チュークでほとんど全部の船を潜って撮影したのだが、その時ダイブコンピューターを本気で使って、ダイブコンピューターの運用テストのようなことをやり、その記録(ノート)が残っている。 これが自分にとってダイブコンピューターのすべてであり、その後は、その経験(ノート)を芯にして、60mあたりまで潜り、実験的なダイビングを含めて、一度も減圧症で入院したことはない。その前、ダイブコンピューターのない時代にもかかっていないから、僕は一度も入院するような減圧症にはかかっていない。 1987年までは、テーブル頼りの潜水、1987年以降は、ダイブコンピューター頼りだ。1987年以来、テーブルは、いつも持ってはいたが使った記憶がない。
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 ここで高気圧作業安全衛生規則について、このところ高気圧作業安全衛生規則について書いているが、良かれ悪しかれ高気圧作業安全衛生規則の問題が、日本の潜水については重要なことなのだ。 レジャーダイバーは、自分は「レジャーだから」とこの規則を視界に入れないが、そのことが間違いだとこのところ書き続けている。規則だからと論ずることをせずに、あんな時代遅れのものと馬鹿にするが、時代遅れであるならば、その点を論じて、この規則を良くする。自分たちが使えるものにするべきで、この議論が無かったために、時代遅れの使えないような規則、運用則がまかり通っている。理論については触れない。 規則だから現実とは違う。理想と現実とは違うというのは、まだ納得できる。理想とはほど遠い、ただ現実とは違う規則を現実とはちがう、と投げ出してしまうのは論理的ではない。そのようなことをこのところ唱えて来た。  ただ、規則には縛られたくない、だから、という気持ちが自分の心の底にある。  規則では、計算式を規定しているが、ダイブコンピューターについては、なにも規定していない。だから、どう使ってもよく、自由なのだが、潜水士のテキストでは書いている。 書いてあることの良し悪しではない、準規則として、適切であるかの議論手続きが必要なのではないかと述べてきた。 そのテキストでダイブコンピューターについては、「ダイブコンピューターを業務に使用する場合には、内蔵された減圧計算プログラムが高気圧作業安全衛生規則に示された基準を満たすものでなければならない。また、高気圧作業安全衛生規則では、減圧浮上方法を含め、事前に潜水計画を立案することが求められているので、潜水の結果から減圧情報を計算するダイブコンピューターではこれに対応することは難しい。このようなことから、ダイブコンピューターを潜水業務に用いる場合には、あくまで補助的なものと位置づけ、主体はあくまでも計算等により策定した減圧表とすることが望ましい。」 これが準規則である。 ダイブコンピューターにたよって潜水することは望ましくない。と言っている。 自分の潜水は1987年まではテーブルにたより、以後はダイブコンピューターにたよってきた。1987年以前は望ましいが、それ以降は望ましくない潜水をしてきたことになる。そのどちらでも減圧症にはかかっていない。1987年は、ちょうど30年前だ。費用対比効果を言うならば、断然ダイブコンピューターなど使わない方が良い。 しかし、便利さについては、ダイブコンピューターはダイバーにとって、一般ダイバーにとって麻薬のようなもので、いちど使い出したら止められない。テーブルなど全く使わなくなる、使えなくなるのだ。  そして、ダイブコンピューターは事前に計画を立てる時にそのツールにすることは難しいというのだろうか、あのわけのわからない計算尺方式の高気圧作業安全衛生規則の別表第二で計画を立てるよりも、ダイブコンピューターのプラン機能を使ったほうがはるかに容易である。繰り返し潜水の場合には、その差は大きい。 ダイブコンピューターの機能が信用できるのかできないのか、その運用の仕方をどうするかというのは、次の重要な問題だが、このことについては別の長い議論になる。  さて、テーブルで潜水していたときは、目的とする最大水深で、何分潜水できるか、自分の持っている空気量と照らし合わせて潜水時間と浮上、そして、停止時間を決める。まず、無減圧をねらうから、何メートルで何分までが可能かおぼえて潜水する。すなわち、計画して潜水する。持っているのは、時計と水深計だ。潜水士テキストでは、ダイブコンピューターが無かった昔と同様に、これをやれ、というわけだ。計画したこの時間内であれば、少し浮いたり沈んだりはしても、最大水深は超えていないわけだから、上にいるときはとけ込みがすくないはずだから、余裕はある。  この余裕分がもったいないから、余裕を省略して潜水時間をのばそうと、階段を上るようなマルチレベルという表も出てきた。たとえば30mに10分、少し浮上して20mで30分とすると二つの水深で計算して合算すればかなり無減圧時間の延長ができる。自分についていえば、そんな面倒な計算をしてまで、無減圧にこだわるよりも、30mで30分として、3mで8分停止してしまう。その範囲内でなるべく最深部の時間を少なくする。このやりかたで1986年まで、最大水深70mまで潜っていて、減圧症にはならなかった。  ダイブコンピューターがないので、ボックスとかダイビングプロフィールなどかんがえることもできなかったが。  今の潜水士テキストでは、テーブルの計画で潜り、ダイブコンピューターは、参考にして、ダイブコンピューターで減圧停止の指示がでていなくても、スケジュール通りの減圧停止をして浮上しろ、というわけだ。ダイブコンピューターは、あとで記録(プロフィール)を確認するために使う。 文句の付けようがないが、ダイブコンピューターを持った以上、それにたよらないわけには、いけないのが、現実だ。 ダイブコンピューターのプラン機能をどのように使うかを考える、テキストとしては、そのことを説明する方が、良いのではないか。 細かく説明するとダイブコンピューターの機能、ダイブコンピューターの良否に踏み込んでしまうから出来ないと考えるのだろうか。 もう少し踏み込みたいので、序論です。考えながら書いているので、あとで矛盾が出てきそうだと思っている。

0522 日本ハウジング史 1   

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 水中撮影ハウジング史を書こうと思って、自分の関わったハウジングの資料、写真を集めている。しかし、全部を連続して、まとめて書くことはとてもできない。 散発的に、思いついた時に書いて出し、後からまとめれば良いと決めた。

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 この巨大カメラ、自分が作ったカメラではない。でも、ダイバーの装備を見ると、TUSAのBC、これは、とても好きなBCでずいぶん愛用した。バッグの縫い目から、空気が漏るので、修理をタバタに頼んだ。とても修理不能、しかし、長らく愛用してくれたということで、新しいBCをもらった。新しいものも悪くはないのだが、ごてごてしている。愛用したBCはシンプルなところが気に入っていたのだから、主に早稲田の中尾教室の学生がつかっている。 フィンはダイブウエイズの空色のトライスターだ。マスクはラクーン、スーツが、見覚えが無いが、こんなのを着ていたこともあるかもしれない。ちょっとあやふやだけど、まず自分であることは間違いないだろう。 拡大してみると、NHKと書いてある。NHKのハウジングで3Dだ。3Dで、サンゴ礁というと、葛西水族園の展示映像を、1994年に「伊豆の海」1995年に「珊瑚礁の海」96年に「知床の海を撮ったはずだ。 いろいろな形で日誌、日記、ノートなどを記していて、かなり詳しいことを書いている部分もあれば、空白の時もある。空白の時には、時系列がわからない。この1994年から97年ぐらいが欠落している時期だ。だから、これは95年か、もしかしたら96年かもしれない。 この3Dカメラは、見てのように、大きい。なぜ大きいかといえば立体のために2台のカメラが入っている。ケーブルで信号を送り、船上で2台の1インチテープのVTRに録画する。2台を同期させて立体にするのだが、道具が大変だった。航空便だと大変なので、コンテナーに入れて、船便で送った。座間味で使った船は、さきごろ無くなってしまった宮平秀保の光進丸を使った。この船は、船室が大きくて、カメラ吊り降ろしのデリックもついている。中村宏治の撮った、「彼女が水着」もこの船で撮った。三浦半島の水中を慶良間で撮るのだから、僕にはちょっと真似できない。いや、僕も北海道の撮影を与論島でやったから、まあ良いか。その話はまた後で。 とにかく、VTR二台と、モニター2台を積んだら船室が満員になった。夏の撮影であり、VTRとモニターの熱で故障する可能性があるので、クーラーまで船室に入れた。今、九州大学の海岸工学教授の清野聡子さんを監修にたのんだことは覚えている。彼女がまだ大学院生のころ、僕がキャスターだった衛星チャンネルでアシスタントをやってもらったこともある。多分、それで撮影のことを覚えて、そのご科学映画のプライズをとったこともある。
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記憶しているのは、夜の珊瑚礁のシーンで、コブシメを撮影していたら、目にも止まらない速さで、スズメダイを獲った。船上でこのシーンを見てみんな歓声をあげた。その声が、僕の耳には有線通話で入って来るのだが、ファインダーを通した僕の目には、とまらなかった。清野先生は、当時はイカとタコの研究者だったから、勿論喜んでくれた。 その時、撮影の合間にニコノスでスチルを撮った。その一枚がお気に入りで、いまも自分のPCのデスクトップにしたりしている。全チョウチョウウオの中で、一番好きな、えっつ、名前が頭に浮かばない。図鑑をみて、セグロチョウチョウウオだとわかる始末。一緒に写っているのはクマササハナムロだと思うのだが、クマササハナムロとグルクンの関係がよくわからない。益田さんの図鑑では、グルクンはでてこない。沖縄方言なのだ。そのグルクンはタカサゴのことだとされるが、クマササハナムロまでがグルクンに含まれるのか、クマササハナムロは、タカサゴよりも値は安いらしいが、いずれにせよ、分類学を不得手とした僕にはわからない。尾びれの黒い縞で区別がつくらしいが、写真には尾びれが写っていない。

0523 減圧表とダイブコンピューター 2

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 今の高気圧作業安全衛生規則のテキストのことをかいているつもりが、そのほとんどが、昔と交錯してしまう。  1987年のルーズリーフノートがここに残っている。これに1987年の僕の潜水のすべてが詰まっている。 40歳代から50代へが僕のダイビングの頂点だった。このノートを基にして、たくさんのこと、グラフィティがかける。しかし、まずは、ダイブコンピューターのことに絞ろう。  このノートのダイブコンピューターの部分は、トラック島の沈船を潜った記録、ログである。それぞれの船に思いがあるが、そして、その映像もあるのだが、それは、あとに送ろう。  ノートに書いていない部分については、もはや、おぼろげな記憶しかないのだが、ダイブコンピューターに始めて出会った記憶が、駆逐艦追風だったように覚えている。追風のことは、ホームページにも書いているし、ブログでも書いた。その追風への一回目の潜水だった。ノートにかいている潜水ではなく、その前の回の潜水だった。この駆逐艦の位置、発見者である吉村と一緒に潜った。名古屋テレビの番組で、吉村を主人公にしたドキュメンタリーだった。 そのころ使っていったRNPLの表で65mで10分の潜水を計画し、10mで5分、5mで10分の減圧を予定した。RNPLは英国王立海軍の減圧表で、頭にロイアルのRがついている。米国の10フィート(3m)ではなくて、5m刻みの停止である。やってみるとわかるのだが、二段、3段の減圧をするときには、5m刻みがやりやすい。そして、波があると3mよりも5mの方が止まりやすい。 そして、予定通りの潜水で浮上しようとしたとき、ガイドのアンドレイを見ると、ダイブコンピューターを見ている。僕たちはまだダイブコンピューターをもっていない。トラック島のガイドの方が文化水準が高いのでは、と思った。日本にもどったらダイブコンピューターを買おうと。  僕と吉村は、トラックし島のめぼしい船全部に潜って、ビデオ撮影をして、それを桐の箱にいれて、遺族に高く売ればロケの費用がでるのではないかといい加減な企画を思いついていた。 とにかく、 トラックに行かれれば良いわけで、行くについては、自分を納得させる企画になっていれば、後は何とかなるだろう、という自分スタイルの企画だった。  日本にもどって、医科歯科大学の真野先生のところに遊びに行った時、ダイブコンピューター、アラジンの代理店のマネージャー名前を正確に覚えていないが、増なんとかさんが来ていて、ダイブコンピューターの話になった。真野先生の後援もいただいて、次のトラックの企画はダイブコンピューターのテストにもしようという話になり、僕はアラジンを買い、吉村はスントを買った。  とにかく、なんとかやりくりして、お金を作り、トラックに出かけたのは、1987年の9月で、9月2日 松丹丸:50m、9月3日 日豊丸、35m、水深はいずれもダイブコンピューターのマックスをかいている。9月4日 リオデジャネイロ丸27.2m、おなじく4日、平安丸26.6    m、9月5日 愛国丸 41、3m同じく5日 カンショウ丸 29m 、9月6日 文月37、7m、9月7日 サンフランシスコ丸、50.4m、同じ7日に神国丸25mに潜っている。9月8日 潜水艦イ69 41、4m、 同じく8日に第六雲海丸31、4m、9月9日 風が強く島陰になっている愛国丸に2回目の潜水、48、1m、9月9日に2回目の第六雲海丸 37m、同じく9日に富士川丸、9月10日は休み、9月11日もシャークアイランドで28、1m、一式陸攻(飛行機)19、1m、二式大艇 16、8mの3回潜水、そして最後の9月12日に追風 62mに潜った。
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                   減圧停止する吉村

 全部の潜水の記録があるのだが、9月9日の愛国丸、第六雲海丸に一日に2回潜水の記録を見よう。
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 愛国丸 予定潜水深度 50m 予定潜水時間20分 予定減圧停止は、15m:5分 10m:10分、5m:30分  実行した潜水は、10時47分に潜水開始 最大水深は48、1m 潜水時間は予定通り20分で浮上開始 減圧停止も予定通り 15m:5分 10m:10分、5m:30分、なおトラックの潜水では、5mの位置に減圧用のタンクを吊してあり、タンクを背負い換える。 なお、アラジンの表示は、6mでの減圧指示が10mの位置で消え、3mの減圧指示が5mで5分経過したときに消えた。そのために、須賀は5m30分の予定を25分で切り上げた。テーブルによる計画がかなりの余裕があることがわかった。 ノートでは11時47分に潜水終了と書いてあるが、実際の潜水では、75分で浮上している記録になっているので、終了時間が別の時計で計時されたのではないかと思う。
 ダイブコンピューターの読みをプロフィールグラフにして見ている。
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 そして、2回目の潜水 第六雲海丸への潜水は30mを予定した。後で見るように、実際には37mまで潜っている。 予定の停止時間は、RNPLは、2回目の潜水は実際の潜水時間を2倍にすると言うことになっているので、15mで5分、10mで10分、5mで80分の停止となり、とうていつきあいきれないので、急遽米国海軍の表に変更して計画するというめちゃくちゃをやる。しかし、ダイブコンピューターがあるから、大丈夫だろう。と考えた。 潜水計画は 予定潜水深度 30m 予定潜水時間 20分だが30分として表を使う。 予定減圧停止は、 15mで5分、10mで5分 5mで20分とした。  13時55分潜水開始 実行最大水深が37mまで行ってしまった。 予定通り20分の潜水で浮上開始 15mで5分 10mで5分、5mで20分停止した。グラフを作っている。  アラジンは、5mの停止の早い時期に99がでている。 「感覚的にではあるがアラジンは速く浮上OKになりすぎる。」とコメントを書いている。  すべての潜水の解析と自分なりの考えは、今読んでもかなり参考になるが、長くなりすぎるのでここでは書かない。この時期にテーブルとダイブコンピューター2種類との比較を水深50mー60mの潜水で行ったということは、自分としては満足しているし、この潜水がその後の50mを超える潜水の基本パターンになった。  まとめて言うと、RNPLを途中で米国海軍に換えてしまうようなことをやって計画しても、ダイブコンピューターはさらに短い減圧を指示してくる。 減圧停止が計画される場合には、ダイブコンピューターは予備、あるいは緊急浮上用にしよう。 ただ、無減圧限界内で潜る場合には便利である。とその時は思った。 この時点(1987年)では、まだ、安全停止の考えは持っていない。 その後の、そして今の視点から見ると、ダイブコンピューターの指示よりも、長い減圧停止をする、テーブルによる計画が安全度が高いということができ、深い潜水はRNPLで一日一回の潜水にしておけば、安全度は高い。そして、ダイブコンピューターの無減圧限界を信用してしまうことの問題点も考えられる。深い潜水でどうかなと思うものが、無減圧限界については信用できるとする根拠はどこにもないが、この時点(1987)では、それを安全停止で補うという考えは持っていない。  この1987年の僕たちの潜水を昔の潜水、あるいは今は通用しない潜水と思われるかもしれない。僕たちは空気を呼吸して、何の問題もなく60mを越えていたし、テーブルで計画を立て、ダイブコンピューターで記録するという、今現在高気圧作業安全衛生規則で唱えていることとほぼ同じ潜水をしていた。今は、PCがあるから、簡単にプロフィールが見られる。ただ、水深40mを越えるから、今では業務の潜水はできないが、僕たちの潜水は事業者と労働者という関係の業務ではなく、自分の責任で、自分の好きな潜水をしているわけだから、今同じことをやったとしても規則違反ではないだろう。最近、古見君がトラックに通っていて追風にも潜っている。彼のことは大好きだから、そのうちに、どんな減圧をしているのか聞いて見よう。  そして、僕たちの使ったカメラは有線でビデオ信号を船上に送るカメラであり、僕と吉村は時間差で潜水して、撮影時間を長くしていた。10分遅れて、信号ケーブルをたどって潜水していけば、スムースにカメラマン交代で撮影を続けることができた。ケーブルをたどって浮いて行けば、無駄なく、迷わず、減圧停止点にもどり吊してあるタンクで呼吸する事が出来る。自分が考えてやった潜水では、安全な潜水の部類であり、だから僕は減圧症にもならなかったし、生きている。 
ダイビングプロフィールなど見ると、どうかな?と思うけれど、そういう発想がなかった時代のことだ。
 プロフィールをどのようにしていくかが、ダイブコンピューターによる記録の意味なのかもしれない。

 続く

0525 日本ハウジング史 2

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 日本に初めてアクアラングが(正式に報道されている)紹介されたのは1953年、東京水産大学、小湊実習場で、アメリカの海底地質学者、ロバート・ディーツ博士が持ってきて、使って見せて、多分講習のようなこともしたのだと思う。この時、写真のようなシネカメラを持つてきて、撮影すると共にご自分の撮影した映画を映写して見せた。 この時に、多分、習ったのが、僕の恩師の宇野寛先生(当時助手)と漁業科の神田献二先生(当時助手)ふたりとも教授になり、今は亡い人だ。当時の事を聞く由もない。この写真は神田先生の教室のものを複写させてもらった。
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 残念ながら、僕は1955年に東京水産大学に入学し、スキンダイビングはその年に始めたが、最初にアクアラングから呼吸したのは1956年、宇野先生から講習を受けたのは、1957年だから、ディーツ博士にお目にかかることはできていない。
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 この写真を見ると、カメラはベル・ハウエルのDR70 (世界的な名機でスプリングモーターで巻き上げるシネカメラ、後に僕もこのカメラのハウジングをつくり、沈没したが現在は富戸の大西博物館にある。)  この前ちょっとフェイスブックに書いたが、スプリングモーターのシネカメラは、手動で巻きあげるから、電池も必要ない。全部が機械メカだから、壊れるところがない。ああ、日本にもこのカメラを修理する名手がいて、今名前が思い出せない。その職人さんの娘が美人で、ダイバーだった。  そんなことはどうでもよいのだが、 第2次大戦も、ベトナム戦争もこのカメラで戦われ、カメラマンが地雷を踏んで、身体は砕け散ってもカメラは残り、現像すれば、その時に写ったものが再現できる。という伝説がある。 水没してしまえば、終わりだ。
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 大西宅においてあるDR70は、水没済みだ。ポナペ島で、鶴町が水没させた。死んでもまだ言われている。このハウジングとカメラがある限り、その時の事を思い出す。 ポナペのドロップオフで、サメを撮っている時のことだった。
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 これは、水没の前に、日本で初めて、摩周湖に潜って撮影した時のカットだ。 日本テレビのドキュメンタリーだった。たしか1966年か67年のことだった。この時のフィルムがどこかにあるはずだ。多分、日本スキューバ潜水(ゼロの系列会社)にあるはずだ。
 このハウジングを作ったのは1967年、日本潜水会(日本初の潜水指導団体)を設立した年だ。そして、このハウジングは大沢商会を通じて売った。その大沢商会に今一緒に水中科学協会をやっている白井常雄さんがいて、水中機器部門を始めたところだった。  僕らの世代のニュースカメラマンはこのカメラ一台で世界を旅して、ドキュメンタリーを作った。カメラマンが冒険家であり探検家であった時代だ。今のように税関でバッテリーが抑えられることもないし、お道具はこれ一つだ。ただ、20フィート巻のフィルムは、一本で3分しか回らない。30秒のカットが6カットで終わりだ。一回潜水して、6カットしか撮れない。回し始めたら、30秒は回さないと、つかいものにならない。短すぎると切った貼ったの編集ができないのだ。30秒の中の良い部分、使える部分が10秒あれば、そのカットはなんとか成立する。その頃はやった、お富さんという歌、「粋な黒塀見越しの松」を歌い終わると28秒になる。水中でこの歌を頭に浮かべてフィルムを回す。間違って回し始めても、カメラを静止させて、歌い終わるまでは我慢して、何かを撮る。 これはビデオでも同じことだが、魚を撮るとして、突然魚からカットが始まってもこまるのだ。何もない水中が5秒ぐらいあって、そこに魚が泳ぎ込んでくる。ビデオは回しっぱなしにしておけばいいだけだが、フィルムの場合は、から待ちになることがある。 だから、今の時代、ビデオを回さないで持っているのは、いけないことなのだ。撮影する場所に来たら、常にカメラは構えた形で回っていなければいけない。そこに何かが現れるようにする。フィルムでもカメラは目の前に構えて、何時でもシャッターを切れる態勢で泳ぐ。目の端に魚が見えたら、回し始めてゆっくりカメラの方向にパンをするか、魚が泳いで入ってくるのを待つ。

0529 減圧表とダイブコンピューター 3

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減圧表とダイブコンピューターについて 「ダイブコンピューターが示す無減圧潜水時間の危険性」、この前ワークショップでお話いただいた今村昭彦さんの書かれたものであり、赤線がたくさん引いてある。つまり、為になったということだ。まず、タイトルについて、ダイブコンピューターの無減圧指示は、使い方によっては危険でありそのために減圧事故が起こっていると言うこと、道具である以上、使い方、運用によっては危ないのは当然である。その使い方のマニュアルであろうタバタの「減圧症の予防方法を知ろう」が、さらに詳しい。もちろん、これも参考になる。  自分としては、ダイブコンピューターがでるまで、減圧表の通りに潜水すれば、その罹患率は生物学的な誤差範囲であり、もしも罹患しても海外、離島、自分にとってはトラック島あたりでは、「ふかし」で何とかなる程度の軽度なもので済むのだろうと考え、そのように実行し、3%(自分の想定する罹患率)の中にも入らずに、1956年から、1986年まで、30年間軽度の減圧症にもかからず潜水を続けてきた。その中には、1980年の釜石での60mシステム潜水も、1982年の竜泉洞の70m潜水も、1963年の90m潜水も含まれている。高気圧作業安全衛生規則の別表2が、米国海軍の空気減圧表とイーブンであったとすれば、これも使っていたことになる。RNPLをよく使っていたが、これは、安全率が高く単純で使いやすかったからだ。  使い始めた頃、ダイブコンピューターとは、ダイビングテーブルを内蔵していて、水圧センサーと時計を組み合わせて、テーブルと比べて、その時のテーブルの読みを表示してくれるものだと思っていたが、理論はテーブルとおなじだが、M値だとか、体の中の出来事を計算して、できるだけ無減圧で潜れる時間を増やそうとして来たように見えてしまう。一番いけないのは、無減圧範囲なのだが、そのことは別にする。  1980年代までは、何分潜ったら、何分の減圧停止をして空気量が足りるだろうかという潜水を普通にしていて、その根拠としていたのが、減圧表だった。 その減圧表も最初のうちは、潜水して到達する最大水深と潜水時間から、減圧停止時間を引き出すものだった。
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 平坦な海底で作業するならば良いのだが、スクーバ潜水では最大水深にいる時間はわずかであり、大部分の時間はそれよりも浅いところで終始する。マルチレベルという考え方で、たとえば27mに15分、15mに上がって20分、6mで20分潜水するとして、最大水深だったら、27mで35分になってしまって6mで5分3mで10分の、2 段の減圧停止が必要になってしまう。これを15、20、20にわけて、表を引く。最後の6m20分は事実上の減圧停止だが、これで上がれる。言うのは簡単だが、じっさいにやってみたら面倒だ。多くのダイバーもマルチレベルなどつかわなかった。最大深度のテーブルを使った。だから、減圧症にならなかったのだろう。 マルチレベルのの面倒な計算を全部引き受けてくれるのがダイブコンピューターだ。と思った。それが、マルチレベルの減圧表を計算してくれるだけではなく、無減圧限界を長くするように使われれてしまった。  マルチレベルの減圧表というものは、必ず深いところから計算をはじめて、階段を登るように計算を重ねていく。階段を下りる計算はできない。つまり、今のダイブコンピューターを使ってもそうしなさいという理想のパターンなのだ。 無減圧を常に求めてくれるダイブコンピューターになったら、上がり下がりも自由である。 今村さんの書いたものは、要するにマルチレベル減圧表の潜水をしなさいということだ。潜水士テキストも減圧表を主に計画をたて、ダイブコンピューターは記録と潜水中のチェックにに止めなさいということなのだ。 確かにダイブコンピューターでは、マルチレベルの計画は立てにくい。 では、潜水士テキストにマルチレベルの例が載っているかというと、そうではない。規則のアルゴリズムでマルチレベルの表を計算するのは、僕にはできない。
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 マルチレベルの減圧表の例はDCIEMで、1995年の全日本潜水連盟のテキストから撮ったもので、このテキストは僕が書いた。自慢させてもらえば、1995年当時は、このテキストが日本人の書いたものとしてはベストだったろ思う。  潜水士テキストでは、減圧表を使ってマルチレベルの減圧停止をすることはできない。DCIEM を紹介しているが、「日本潜水協会で用意しているから必要であればといあわせられたい。」とある。これは、国家試験に減圧表がようやくでなくなったと喜ぶべきなのか、ほんの数ページで済むことなのだから掲載すべきだと言うべきかどちらなのだろう? 私見としては、テキストにDCIEMでなくてもよいからマルチレベルの減圧表を掲載して、マルチレベルで計画をたてて、ダイブコンピューターでチェックする。チェックは任意であるとし、さらにダイブコンピューターでの潜水はマルチレベルのパターンにするべき、とすれば、1995年の僕の書いたテキスト並になる。1995年から20年の月日が流れた今の大改革である。少しばかり、情けない思いをせざるをえない。作業潜水の分野がレクリエーショナルダイビングよりも遥かに遅れているのは、この高気圧作業安全衛生規則のおかげだと言わざるをえなかったこと、を踏まえての改正であるならば、もう少しなんとかして欲しかった。外国、主にアメリカの指導団体の人に馬鹿にされるのは日本人としてかなり辛い。 アメリカにはこの規則はない。日本にはこの規則があるから、末端レベルのダイバーのレベルが高いと言われたい。なお、レベルを高くすると、末端のダイバーが受験に合格しなくなる、というのであれば、お得意の甲種、乙種 二つ程度に分けたら良い。日本人の特性として、みんな甲種をとりたくなり、レベルが上がる。しかし、そんなことをしたら、レクリエーショナルダイビングの甲種が多くなってしまう。実はそれは、レクリエーショナルダイビングの思い上がりだろう。作業ダイバーの知的レベルは本来高い。でなければ、生き残っていない。その知的レベルの発現を妨げているのが、潜水士テキストなのだ。甲種と乙種に分けることが、望まれる。しかし、甲種の資格の%は、レクリエーショナルダイビングの方が高くなるだろう。人数に差があるのだ。そうなれば、レクリエーショナルダイビングを無視することもできなくなるだろう。とはいうものの、全く期待できない?いや、そんなことはない。どうすれば? そんな先の話はあとにして、今、ダイブコンピューターとテーブルの問題をどうするか?マルチレベルのテーブルを何時も手元に持っている。計画を立てる時には何時も、そのテーブルで、大体のところを考える。大体で良いのだ。そしてダイブコンピューターを使う。ところで、自分のDCIEMのスレートはどこにある。この前までカメラバッグに入っていたのだが、最近見ていない。ダイブコンピューターにだけ頼って使っていないのだ。たしか車の中に小さいアイスボックスの入っていたはず。捜さなくては。

0530 減圧表とダイブコンピューター 4

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ダイブコンピューターとテーブルについて、書き続けている。 難しい理論は自分でもよくわからないし、読者もわからないだろうという前提で運用を中心に考えている。  ダイブコンピューターの進化を見ていると、生理学的なファクター、心拍数、皮膚温などを減圧計算に統合しようとするものが現れた。その効果のほどはまだわからないが、パーソナルな方向に進化しようとしていることはまちがいない。ダイブコンピューターが大幅にのびた。三点セットの次はダイブコンピューターなどと言われるようになったのは、ダイブコンピューターのリストウォッチ化だろう。ダイブコンピューターの紛失(僕の場合)もリストウォッチ化に原因があり、更に売上があがる。全員がそれぞれ、別のデザイン別の仕組みのダイブコンピューターを持って潜水すれば、それは、パーソナル化であり、 ダイブコンピューターはパーソナル、テーブルはグループ、チームへの計画と指示と考えるとわかりやすい。 作業ダイバーへの指示は、最大水深で定めるテーブル。 そして、テーブルは、レクリエーショナルダイビングでは、マルチレベルのものを使わないと、それぞれのパーソナルダイブコンピューターと整合しにくい。計画だから、個々と整合しないことで安全度が高くなる、ダイブコンピューターは最後の安全停止を見るための計器と割り切ってしまえば、それまでだが、今村さんの書かれたものなどを見ると、この割り切りが、ある日減圧症の原因になるように読める。ダイブコンピューターの安全な使い方をめざすならば、マルチレベルでの計画が良いように思う。
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         今振り返れば、マルチレベルのテーブルではなくて、DCIEMをマルチレベルとして使う手順表である。で、本格的なマルチレベルといえば、ダイブコンピューターになってしまうのか?

 すなわち、この前に書いたように、マルチレベルでプランを考えていれば、ダイブコンピューターの使い方も理想に近くなるのではないか。  では、マルチレベルのテーブルとは、どんなものかというと、1995年まで遡らないとマニュアルがない。PADIのエンサイクロペディアにも詳しい説明があるが、斜め読みでは理解できなかった。(理解が遅くなっている。高齢のため、言い訳) 
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 これは1995年のJUDFのマニュアルで、僕が書いたのだが、当然、もう忘れている部分が多い。しかし、自分が書いたものは斜め読みでも記憶がよみがえる。  さがしたら、マルチレベルのスレートもあったが、これも使い方を忘れている。というより、1987年がダイブコンピューターの使い始めだから1995年にはもう、こんな面倒なことはしなかった。面倒なことはしなかったが、ダイブコンピューターについてのこのマニュアルの記述を見ると、「ファンダイビングを楽しむスポーツダイバーは、減圧表(最大水深)で計画し、計画を守って潜水すれば良い。マルチレベルで計算して、無減圧潜水時間を長くする必要はない。減圧コンピューターも不要である。」JUDF衰退の原因はこのあたりにあった?。これでは、ダイブコンピューターが売れなくなってしまう。 続けて「しかし、一日に何回も繰り返して潜水するガイドダイバーやインストラクターはダイブコンピューターを一度使ったら手放せなくなる。 ダイブコンピューターの長所はもう一つある。というより、減圧表の欠点は計算間違いすることである。忙しい現場であわただしく減圧表を使うととんでもない思い違いをしていることがある。ダイブコンピューターは計算違いや思い違いをしない。」 一日に何回も繰り返し潜水するインストラクターに減圧症の発症はあったと思うけれど、概ね、今の「潜水士テキスト」とイーブンだ。 
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 さてマルチレベルだが、JUDFのマニュアルから、 「一回の潜水で、浮上するまでに二つ以上の異なった水深にとどまって潜水することをいう。DCIEMは、マルチレベルの無減圧潜水についても規定している。 ★DCIEMのマルチレベル潜水は、それぞれのレベルで無減圧であれば、総体的に無減圧であるという考えで組み立てられている。 ★三つのレベルで計画するとして、そのうちの一つのレベルで無減圧の限界を超えてしまえば、マルチレベル無減圧潜水は成立しなくなる。そのときは、三つのレベルでもっとも深いレベルで全部の時間を潜水したと見て、表を引いて減圧時間を決める。 ※潜水中にこんなことは実施不可能だから、最初から最大水深にしていればいい、というのが実用上の僕の意見だったが ※最深水深のテーブルを分割援用したものに過ぎないとも思っていた。  ★潜降したら、まず一番深いレベルで活動し、次々と階段状に上がるようにレベルを設定する。 ★それぞれのレベルの水深差は6m以上とする、深度が30m以上の潜水では、階段の水深差を9mとする。 ★一番浅いレベルは3ー6mの浅い水深として、このレベルで少なくとも5分は滞底する。」 ※これは安全停止のような考えである。1995年には安全停止の概念はない。  これを実際におこなうためにJUDFはこんなスレートを作った。すなわち潜水計画のスレートである。 確かに安全性は優れているが、まず使えないと僕は判断した。それでもJUDFの指導員は偉くて、このスレートを使っていた。僕はすでのダイブコンピューターを使っていた。
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★裏面の潜水計画スレートは、今回の規則改正により必須となった潜水計画書に好適である。今であれば、スレートに鉛筆で書き込んでスマホで撮影しておけば保存されたことになる。  作業ダイバーはこのようなマルチレベルは使えない。マルチレベルはあくまでもレクリエーショナルダイビングのためのものだと思うが、レクリエーショナルダイビングでこんな苦労をしてまで無減圧の限界を広げることはないと、先に述べている。  ただ、このマルチレベルを理解しているとダイブコンピューターの使い方が安全になるのではないだろうか。1990年代はまだダイブコンピューターが普及していなかったから、ダイブコンピューターの使い方のマルチレベル的ガイダンスは作れなかった。  今であれば、作業ダイバー用、スポーツダイビング用などダイブコンピューターの使いかたマニュアルが容易にできるのではないだろうか。適切なテーブルを参照、簡略化してその上でダイブコンピューターを使うガイダンスをつくる。潜水士テキストでやってもらいたいのは、そういうことなのだ。これはテキストだから、別に規則を改定する必要もない。  このあたりの議論が現時点でもポイントになるのではないかとおもう。 ダイビングの楽しみ方についてもいろいろあって、計器飛行を楽しむように、ダイブコンピューターを見つめて潜るというのもありだけど、撮影とか何かに注意をとられて、はっと気がつくと24mに30分、最大水深テーブルならば、問題ないが、ダイブコンピューターでは、箱型潜水?それでも安全停止をしているのだから、大丈夫だろうと思うのだが、減圧症に弱い生理状態の人が10人に一人くらいはいるのだろう。もう、高齢のことは言うまい、と思っていたが、高齢もその一人に入るのだろうか。 次は潜水士テキストについてさらに、

0601 夢

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 ぽっかり、2時間時間が空いた。有線通話機の整備を予定した時間なのだが、整備を必要としないような、完全な姿ででてきた。これは、石垣島の水産研究センターの名波さんに、ソロダイビングをやりたいということで、貸していたものだ。船の上と彼とがケーブルでつながっていて、彼の指示で、小さいボートが動く形だ。 そのままお使いになっても結構ですといったのだが戻ってきた。使いみちにならなかったのだろうか。それとも研究所内にバディが見つかったか。 そんなことで時間が空いたのでブログをまとまりなく書いている。
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       ダイブウエイズ の武田さんの娘、美香ちゃんだ。彼女の娘二人はもう小学校高学年のはず。

ニューシートピアシンポジュウムの報告書を読み始めた。日本の有人海洋開発の終末点だ。膨大な国家予算を使って、ついに何もならなかった、今のレクリエーショナルダイビングのテクニカルダイビングにも反映していないし、作業潜水にも反映されているのかどうか、よくわからない。自分たちがやった1980年の釜石湾口防波堤の基礎工事調査の技術提供をしてもらったが、以来、通常の作業潜水は、何も進んでいるところはない。(特別な作業会社は別として) 読んでいるうちに、ちょっとだけ読んだだけだが、 失われた夢、  なぜ映画、アビスが好きなのか、人間が潜るからだ。しかし、その制作者のジェームス・キャメロンは、カプセルで、地球(水球)の最深部に到達する。                    
              
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             バイカル湖の小島、オルホン島の町 夢には関係ないけれど、

久しぶりに夢をみた。忘れないうちにメモっておこう。船で離島に行っている。小さい島がたくさんあり、船が結んでいる。この海で、何か仕事をしている。船は、昔の古い東海汽船のような、木の漁船のような。場面はかわる。大きな大きな、縁日のような市で、野原の小道のような両側にどこまでも続いている。建物の中でプロデューサーと仕事の打ち合わせをしている。スチルを撮る仕事で、厳しい。とてもできそうにない。でも断りたくない。最初に出てきた離島の荒海での仕事だ。どうしても、僕にやってもらいたいらしい。ネームバリューだろうか、そんなものは過去の話だけど、夢のなかではそう思っている。おいくつになりました?ときかれる。81歳になりました。別に高齢だから断るということでもない。やると決まればすぐに出発の仕事だ。トイレに行きたい。立派な建物なのに中にトイレがない。アシスタントが案内してくれて「9サイのカメラを使っていますか?」と聞く、大判サイズのカメラだ。アシスタントは見抜いている。使っていない。仕事は断るべきかな、でも、できると思われているし、荒い荒い海での仕事だ。考え込んで歩いているのが野原の道に展開する市だ。何も買うものはない。 でも、夢で野原を見るというのは結構多いみたいだ。死後の世界、臨死体験には野原は定番化している。

0603 別表第二 ー1

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減圧表とダイブコンピューターのこと、もう少し、まとめよう。マルチレベルのテーブルは、DCIEMは、実践ではとても使えない。と僕は思う。このマルチレベルのパターンでダイブコンピューターを使えば良いのだ。3段か4段に分けてダイビングを計画する。それぞれの段で無減圧だったら、全体も無減圧だから、それぞれの段でDEKOを出さなければ良い。段差は6mー9mで、浅い段から深い段には戻れない。最後の段は6ー3mにして、5分以上、これは安全停止に相当する。これで、ダイブコンピューターの使い方は、パーフェクトだと思う。僕でもできる。 深い段で長く過ごす計画でも、6ー9m差の短い、2ー3分の階段を作って浮上する。 これのパターンを覚えておけば、無理をしているときは、それを自覚できる。わかっていて、仕方なく無理をする、たとえばレスキューの場合などでも、自覚していれば、ある程度ブレーキがかかるので、自分の場合は大丈夫だった。 一度、こういうことがあった。水面まで浮上して、カメラを助手が手放してしまった。沈んで行くのが見えていたが、追わせなかった。水深は20m弱だった。親しい友人の鹿児島の川俣は、水深30mで、水面で工具を落とし、すぐに拾いに行って車椅子に乗ることになった。僕のカメラは、後日ガイドが拾ってくれた。 さて、これはこれで、一段落として、次は、懐かしい別表2について書こう。潜水士であれば、別表2を知らない人はいないだろう。高気圧作業安全衛生規則が始まった1961年から、2014年まで、51年間日本の高気圧作業安全衛生規則実は規則の名前も制定当時は高気圧障害防止規則の時代から規則としてあった減圧表である。 この減圧表については様々な思いが、日本の潜水士であれば、あるはずだ。僕にもたくさんの思いがある。書き出すと際限もないので、とりあえず、表そのものについて述べることにして、表にまつわる思いはまた別の機会にしよう。
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 誰が作ったのだろうか、たいていの減圧表は、オリジンが外国、たとえば僕たちが使ったテーブルは、米国、カナダ、英国であるが、別表第二は、国産である。しかし、誰がどのような計算式で作ったのか、発表されていない。おそらくは、1950年代から60年代にかけて、日本の減圧症の第一人者であった梨本先生が、関わって作ったものであることはまちがいない。
                 
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  1950年代の真鶴、ゴムボートの向こう側で、タンクを背負って立っているのが、梨本先生だ。たしか?

梨本先生とは親しくさせていただいた。一番、印象に残っているのは、新宿ゴールデン街で飲んだことだ。梨本先生は大酒のみであった。僕の一番の親友だった石黒さん、彼にはお世話にだけなっていてなにもお返しをしていないが、その石黒さんが梨本先生のお酒のお守り役だった。ちなみに石黒さんはお酒のみではない。(彼は、日本アクアラングから、親会社の帝国酸素に行き、部長になり、最後はテイサンの子会社の社長でおわった。僕のヘリウムガスは、全部無料で石黒さんが都合をつけてくれた。)ある日、僕は、まだ酒を飲んでいた時代ではあるが、酒の席は早めに逃げることにしていたのに、なぜだか、石黒さん、僕、梨本先生の三人になった。そして、お開きになり、石黒さんが「たまには須賀さんが先生のおつき合いをしなさい。」と帰ってしまった。 それから、さらに、ゴールデン街に先生に誘われた。断るわけには行かない。それから、およそ2時間、先生は完全に潰れた。僕は先生の家をしらないのだ。たしか、八王子か立川だ。もう電車はないし、顔面蒼白になった。 とにかく、担ぎ出して、通りにでた。タクシーをとにかく止めた。タクシーで八王子あたりに向かえば、途中で意識が回復するだろう。 ところが、タクシーが止まったとたんに先生は正気になった。「須賀君、今日はどうもありがとう。また飲もう。」と足取りも確かにタクシーに乗り込んだ。 なんなのだこの先生は、もう飲まない。まあ、とにかく助かった。酒飲みは油断がならない。こういう方式でこちらの人物を測っている。石黒さんはそのことを伝えたかったのかもしれない。  なんだ。減圧表そのものの話をすると言いながら、直ちに脱線している。とにかく、日本の現在の潜水医学は、梨本先生にルーツがある。その前は慶応大学の植田先生だったかだが、植田先生は、僕の1963年の90m潜水の面倒を見てもらった。ために梨本先生から、僕の潜水は認められず、梨本先生の親友だった恩師の宇野先生が間に入ってとりもってくれた。  梨本先生は埼玉医大に移られて、それから起こる空中戦については、知らないこともないけれど、よく知らないので書かない。  そして、この別表2のすごいところは、日本で書かれた潜水医学の本で、どれもがこの表についてふれていないことだ。アルゴリズムも何もわからないと言うことは、文献がないのだ。 そして、その減圧表が規則として50年間、日本の作業潜水を支配する。 本当に支配していたのだ。僕が事故を起こしたとき、その事故は減圧表とは全く関係がないのに、RNPLを使っていたことが規則違反に問われ、真野先生にお願いして、不問にしてもらった。表が規則になるということは、そういうことなのだ。    続く

0606 別表第二 -2

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別表第二、その二 僕がこの規則、別表2と本式に対面したのは、196  年、第一回の潜水士の試験の折りだった。試験問題としてお目にかかったのだ。大部分の人は、この別表第二に試験でおめにかかっている。今は別表第二は消滅したので、出会うこともないが、前は、必ず別表第二についてのワンパターンの問題がでた。これさえできれば減圧表については無罪放免だから、やりやすくはあった。 問題、答案用紙には別表第二の必要部分が掲げられていた上で、「一日2回の潜水で第一回目の潜水では、水深25mに130分潜水する。第2回の潜水深度は18mである。2回目の潜水で許される最大の潜水時間を求めよ。」として、52分、70分、108分、126分、135分、五つの数字が示されている。五択である。別表第二には、1日あたりの潜水労働時間の規制がしめされていて、25mの欄での最右端、1日についての潜水時間の表を見ると200分になっている。
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潜水時間の制限は二つの制限がある。一つは、上記の一日についての潜水時間であって、200分であり、もう一つは一回あたりの最大潜水時間である。これは、修正時間を求めて、決めなくてはならない。長くなりすぎるからここでは省略するが、この問題でこの別表第二のすべてが解る良い問題である。しかし、普通には、減圧表はその水深に何分潜ったら減圧停止は何分であるかという使い方しかしないから、面食らう。前もって求め方の参考書を読んでいれば、誰でも解けるが、でなければ、数学が得意でなければ解けない。僕はその第一回の受験だから参考書とてなく、間違ったと思っている。それまで付き合ったどの減圧表には、一日についての潜水時間という概念はない。これは労働時間を制限する為であるが、1日について200分という長さはスクーバダイバーには考えられない。ホースからの送気で、耐寒にも優れているヘルメット潜水の時間である。その点で、この表は世界にもない。優れたものとも言えるが、修正時間はこれも、計算尺を図表化した別表第三で求めなくてはならず、現場では、計算尺が必要である。当時、一般には米国海軍の減圧表が使われることが多く、米国海軍の表と、別表第二とは、上記の一日あたりの潜水時間などは別として、減圧停止時環などは、酷似している。つまり、現場的には米国海軍の表を使っていればよいわけなのだが、この表は規則であるから、これを使って潜水時間を求めているという証拠を残しておかなくてはならない。この証拠を残しておかなければならないということが業務の潜水の肝である。ガイドダイバーのつけるログは、ダイブコンピューターを使っているから、原則的には、規則違反になった。このようにして、別表第二は、規則として50年間日本の作業潜水の世界に君臨、支配してきた。支配の結果、減圧症の罹患率は米国海軍の表とほぼ同じか、表を遵守している限りは、むしろ低かったのであろう。もちろんダイブコンピューターのマルチレベル頼りで無減圧限界範囲では、一日あたりの潜水時間制限のないレクリエーショナルダイビングよりも低くて当然だろう。すなわち、別表第二は、50年間その役割を立派に果たしてきたわけだ。現場的には、別に改正の必要もなく、国家試験の問題も例にあげた問題が定番ででるから予想もしやすく、準備講習の山場をつくることもできた。それらのこともあって、一つの減圧表が改正されることなく50年間も作業ダイバーを護り続けて来たのだ。一般社会通念ならば、表彰ものだ。しかし、自分もそうなのだが、減圧症を研究する学者や、最先端の知識を求めるダイバーたちからは、目の敵にされた。研究の成果が反映されることもなく、時が止まっている。一方で、元来、作業ダイバーは職人であるから、自分の業の世界に生きている。変革は好まない。保守的である。自分も規則が改正されてしまうまでは、規則の改正を望んでいた。しかし、テキスト、すなわち運用の面では、実勢にそぐわない部分も出てきて困惑することがあっても減圧表については、実務的に大過はなかったのだ。 しかし、時代は移る。深い潜水は混合ガスの潜水になり、別表第二は混合ガスに対応していない。また、規則では純酸素の使用を禁じているが、純酸素使用での減圧は、世界では当たり前のことになっている。表は改正せざるをえなくなった。表は規則から全廃され、表を作っている計算式を規則に取り入れた。そして、例示された計算式を安全性の下限として、それ以上安全ならば可ということで、学術的な対応もできるようにした。こうする他は無かったのだと思うが、現場の実務としては、前の方が良かったと思える部分もある。その一つは、40m以深での空気潜水の禁止であった。 続く

0608 別表第二-3

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別表第二 その3  混合ガス潜水の減圧表を考慮して、そして、純酸素減圧を考慮して、規則が改正されたと書いたが、別にこれまでも混合ガス潜水ができなかったわけではない。純酸素の減圧ができなかったわけではない。JAMSTECは、水深300mを目指す、ニューシートピアをやっていたし、海上自衛隊の潜水医学実験隊は、もっと深い飽和潜水の実験をしていた。
 1980年の僕たちの釜石湾口防波堤調査工事のときには、JAMSTECに協力してもらって、労働基準監督署に計画書、減圧表などを提出して混合ガス潜水を行った。別に禁止されることも無く、監督署の人が、一回現場に見に来て、説明を聞いただけだ。 他の混合ガス潜水も説明がなっとくの行くものであれば、許可になったはずだ。 だから、今度の改正は、「混合ガス潜水が特別の許可申請なく行うことができる」と言い直すことができる。 しかし、僕たちの釜石での潜水は、途中で金銭的理由でヘリウムの節約を図らなければならなくなり、空気潜水を取り混ぜた。別表第二に従っている形になっていれば、空気で潜水しても規則違反ではない。 今後はそんなことはできない。混合ガスで潜る計画で空気で潜り、事故が起これば、たいへんだ。

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  今度調べてみて意外だったのは、潜水士テキストの初版の別表第二は、水深は60mまでだった。1973年の改版で最大水深は80mをこえて90m以下になっている。(これは僕の持っているテキストだから、正確ではないかもしれない。)
 沿岸漁業の定置網潜水も60mを越える潜水を空気で潜ることがある。漁業と労働基準監督署の間も微妙だ。潜水士の試験に合格しなかった漁師も潜水はやめていない。ヘルメット式、マスク式の漁業潜水は、個人業主のこともあり、治外法権的なところもある。 違法であるか違法でないかは、別に労災をもらう意志がなければ、自己責任である。ただ、車いすの生活になったりすると悲惨なことになる。
 学問的にはどうあろうとも、アルゴリズムがどうであろうとも、空気で80mまで潜れないと困る生活者の世界がある。
 乱暴なことを言っているな、と思うけれど、医師の視点、役所の視点と、生活者の視点とは、真逆になることが多い。
 だからといって、自分の立場で、どうすることもできないが、漁業潜水については、どこかで考えなくてはならない問題だろう。 農水省のなかに、そのことを司る部署はない。 漁業においては、潜水そのものが、どんどん、必要性の比重を失っていくのが現状であり、ほっておけば消滅すると思われているかもしれない。
 たとえば、マスク式潜水による漁業は、これまで伊豆七島、伊豆半島、ほか各地で細々と続いていたが、そのマスク式の、旭式、金王式の製作会社はなくなり、部品供給が止まってしまった。潜水士テキストのなかからも、軽便式潜水の章が消えた。と言って、デマンドバルブ付きのフルフェイスマスクに換えることもできにくい。コンプレサーが違うからだ。ヘルメット式についても、ヘルメットを作る最後の職人、東亜の山沢君が、亡くなってしまって、もはや新品をつくることもできない。
高気圧作業安全衛生規則、及びそのテキストについて考えていることを述べてきた。述べているうちに意見が変わってきてしまったものもある。とにかく考えた。
 中間的に整理すると
(1)スクーバと下がり綱について、下がり綱は、スクーバでも有効であり、あった方が良いが、ヘルメット式の考え方をそのまま適用するのは無理だ。総合的な形をかんがえてほしい。運用の上、安全管理のうえからは、最重要な問題であり、たくさんの議論が必要である。このことだけでも、問題にして議論しようかと思っている。
(2)ダイブコンピューターについて、これも、テーブルで計画をたて、ダイブコンピューターで補正と記録をするのが、王道だとおもうけれど、時計と同様に使われるということが前提で、使い方について、もう少し触れておいた方が良いと思う。またダイブコンピューターメーカーの方も、この規則を視界にいれていない。今、ダイビング業界で売れているのはダイブコンピューターだけで、重器材はレンタルが中心になりつつある。潜水士など相手にせずに、十分にビジネスになっている。が、最初に述べたように、レジャー潜水のガイドダイバーもインストラクターも、この規則で規定されている。
 規則とテキストで水中時計は三ヶ月ごとの点検を義務づけている。もはや、水中時計という言葉は、ここだけにしか見ることはできない。昭和時代の水中時計の位置に今はダイブコンピューターが来ている。ダイブコンピューターが水中時計なのか?
(3)減圧表が規則の上で計算式に代わったことは、そうあるべきとは思っていたが、テキストの上では、現在使用されている減圧表とか計算式について、具体的な事例がほしい。
(4)レジャー潜水の規則の上での位置、ついてさらにこ述べて行きたい。一本の道が二つに分かれ、どんどん離れて行った歴史であり、それには自分も少なからずかかわっている。
 

0610 ロゴシーズ 1

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 朝発表したものに間違いがあったので書き直したものです。

ロゴシーズ 0607 まえおき 江東文化会館でのワークショップ、講師は山形カシオの鈴木克美さん。プレゼンテーション慣れしているのだろう。僕の耳でも聴きやすい。
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 第九回の今回、これまでで最高のワークショップだったと思う。にもかかわらっず、身内プラスアルファで、講師には申し訳ない結果になったが、元来ワークショップとは、みんなでなにかを作り上げていくという建前だから、これからも、時々は、大きなイベントにはなるが、会員仲間内での研究会に一般の方も参加できるということで良く、質的には高いところを目指しているので、是非来てください。参集していただき、ディベートができることを願っている。  さて、今回の講演、三つに分けて紹介しよう。一つはロゴシーズの開発エピソード、一つはロゴシーズを使う方法、三つ目が、なんでロゴシーズなのか、何のために使うのか、まだまだ、ロゴシーズとの付き合いは途上である。道具には全然なっていない。道具にするには、どうしたら良いのか。三つに分けよう。今回はその一回目。  まず、カシオという大きな組織が、ダイビングという超マイナーな業界に参入しようとする。しかも、全く新しい、実はあたらしくはなく、様々な失敗を重ねてきた超音波通話機をもって参入してくる。そのために調査会社によって市場調査をおこなっている。ダイビング業界のことを、おそらく一流であろう調査会社がどのように見ているのだろう。ぼくにとっても初めての知見であり、とてもおもしろく、勉強になった。その勉強から述べて行こう。
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 ダイビングの市場環境 ★ダイビング機材の市場規模: 700ー1000億円 ※0が一つ多いのではないかとまでは言わないが、所詮はムード的な数字である。僕のムードでは、300億だろう。この数字は機材だけの規模であり、講習とか、作業とかは含まないとしてだが。 ★ダイビング全体の市場規模 8千億円 ※これも港湾建設業、水産業を含めないレジャーだけの環境と考えれば、どうだろう。そもそも、千億などというムードにはない自分なのだ。 ★総ダイバー数 2000万人 ※これはもう多すぎる。 ★アクティブなダイバー数 400ー500万人 ※これは40万前後で推移している。事故死者数が毎年20人前後でずっと横ばいでいる。僕のムード的統計?では、死亡事故は2万人に一人だから、400ー500万ならば、年間200人から250人の死亡事故数になる。 ★あらたなダイバー数(初心者)毎年100万人 ※Cカード発行数がこれまでの最高で10万人ていど、最近は5万を切っているらしい。 ★市場の成長率 0% ※マイナス成長率になっているのではないか? ★現在の水中通話機の市場 なし。  これをブログで発表したら、鈴木さんから、これは国内のことではなくて、世界のことですとメッセージが来た。ええつ!と驚く。業界といったら、国内のことしか考えていないからこういうことになる。世界にも業界があるなんて知らなかった。削除して全部書き直そうとしたが、まてよ、これはこれでおもしろい。 数字を見ていると、0を一つ減らすと国内になるみたい。 ★ダイビング機材の市場規模: 700ー1000億円 ★ダイビング全体の市場規模 800億円 ★総ダイバー数 200万人 ★アクティブなダイバー数 40ー50万人 どうだ。ぴったりではないか。日本は世界の十分の一。  これがずっと同じ状態で続いていて、「時が止まっている世界」 
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 ★保守的な村社会を決まったプレイヤーで分け合っている。1980年代のビジネスモデルのまま現在に至る。 ※なるほど、1980年の始めにPADIが引っ提げてきたアメリカのビジネスモデルが、僕たちの1970年代のモデルを打ち破り、そのまま維持されて今日にいたっている。  スクーバの始まりから、ビジネスモデルという視点で考えて見て行こう。 1960年代、10ー50人ぐらいのダイビング倶楽部ができ、少し目端の利く人がダイビングの小売り業を始める。倶楽部がショップに成長していく時代だ。僕などは、ビジネスと考えたことも無かった。当然、ビジネスモデルはない。  そして、1970年代、1973年に僕が雑誌「海の世界」に書いた。ダイビングを仕事(ビジネス)にするには、ツアーとか講習に力を入れてはだめだ。とにかく機材を売る。機材を小売り価格で売るためのサービスとして、講習がありツアーがある。そのお店で機材を買わない人は遊んでもらえない。これが1970年台のビジネスモデルであろう。 アメリカのビジネスモデル、講習のマニュアル化、システム化で、講習もお金儲けになる。プラス、機材販売。二つがオーバーラップした1980年代の前半が一番良き時代だったのだ。たいていのショップはここでお金を残した。このビジネスモデルが死守できれば良いが、時の流れには勝てない。量販店、ネット販売が中心となり、ダイビングショップとしては、必勝のビジネスモデルはもはや見つからない。つまり、ビジネスモデルは崩れ、業界は危機感を持っている。 現地のサービスもピークは越えていると思う。 実は、こういう視点でダイビング業界を見たことは、2000年まで、なかった。この要諦を知っていて動いた人は成功した。アメリカのPADIは、1970年代から知っていて戦略を持っていたのだろう。  そして、次のビジネスモデルはどうなるのだろう。自分なりの考えはあるが、まだよくわからない。国際的なビジネスとしては、もうマーケットは日本を離れて、アジア諸国に移っている。テックダイビングにしても、レジャーダイビングにしてもそうだ。そこで、国際的なビジネスモデルと、日本の時代遅れのビジネスモデルとの競合、これも、苦もなく押しつぶされる。とか、いろいろおもしろいので、それぞれ、考えてみると良い。自分も考える。  ダイビング業界のビジネスモデルに変化がないと言うよりも、古いビジネスモデルを死守しつつ、時代に流されているという表現をぼくはしたい。  ★価格 ブランド化し、高級商品の価格を維持して売る。 ※それができれば、苦労はない。  ★流通 系列店を作り上げ強力に支配する・ ※これはCカードという商品についてはその通りだが、機材については、夢だろう。成功者、強者の論理だ。  これこそは国内のことだと思った。 聞いてみるとこれも世界のことだという。 固有名詞は違っても、日本と世界は同じ村社会か。  アメリカのことを考えてみよう。僕はアメリカ人ではないから、海のこちら側からの推測だ。たぶんあたっているだろう。 1950年代日本でも進駐軍がダイビングをはじめたように、アメリカでも退役した軍人、特に海軍のUDT,水中破壊部隊や、パラレスキュー部隊の出身者がダイビング倶楽部をつくり、ショップになっていったのだろう。日本では残念ながら伏竜特攻隊だから、歩く潜水だ。海の国日本では水産の潜水が盛んだったが、それはレジャーには結びつかなかった。その辺がすこしちがう。 アメリカでは最初にNAUIができて、日本からアメリカに留学していた、日本アクアラングの浅見さんが第一号のインストラクターだ。浅見と一緒に僕は日本潜水会を始めたから、NAUIとルーツが合っている。 PADIは、USダイバーが始めたから、最初からビジネス指向が強い。日本のPADIがアメリカのPADIに代わったのが1980年だ。それはアメリカとほぼ同時進行のCカード改革だったのだろう。 重ね合わせて不自然ではない。PADIを中心として考えれば、アメリカと日本が同じであってなにも不思議ではなく、このビジネスモデル変革は、イギリスでもフランスでも起こったのだろう。日本で僕たちの1970年までのビジネスモデルが敗退したのと同じく、イギリスでもヨーロッパでも起こったのだろう。 そして、いまや舞台はアジアに移る。 しかし、これは別のストーリーだ。元に戻ろう。  ※総じて言うと、日本では、2010年代は、1980年モデルが維持できなくなり、といって、新しいビジネスモデルも生まれていない。そのため、さらに貧乏人の村社会化が進行する 。世界ではどうなのだろう。  カシオとしては、時計=ダイブコンピューターであるから、悪くない市場であるが、ロゴシーズについては、 調査会社は、「手間、時間、コストが非常にかかる!」と結んでいる。  有線通話による水中レポートでご飯を食べていた自分のこれまでの経験から見ると、これまでいくつかの水中超音波通話機が失敗している。 そして、水中で話すということが一仕事だと知っている。これは市場調査会社にはわからない視点だが、これとてもポジティブではない。これを知っていて、あえてカシオは参入しただろうか。おそらくしたと思う。 人のやらないクリエーティブなものをつくる。 スケールはまるで違うけれど、僕のコンセプトと同じだ。一頃のソニー、ホンダにあったスピリットだ。そういうの大好きだ。 心配なのは、僕が大好きなような計画の成功確率は低い。失敗の可能性が大きいことが、すなわちチャレンジなのだが。  可能性については、最後の結びで述べよう。多分、誰も気づいていない?ちょっとわかりかけている人もいるだろう。カシオの鈴木さんは、わかっているのかな?形而上ではわかっているとおもう。具体的には、やってみないとわからない。今回の講演では、具体的には話されなかった。

0614 ロゴシーズ 2

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(1)ロゴシーズそのものの使用について①何とかして使いこなして、仕事(今は遊び)、につかえるようにしたい。②マウスピースでの会話 自分のハイブリッドは、フルフェースマスクだが、一般での使用は、マウスピースのまましゃべることを基本にしている。マウスピースでの通話は、自分のケーブルダイビングシステムでも提案し、なんとか、言葉が通じるていどには、うまく話せていた。複雑なことははなせない。③目標は3人から5人のチームで、通話しながらハイブリッドを運用することだが、これによって、チームプレーとしてのダイビングにはロゴシーズが必須、というところまでつかいこなしたい。④有線通話(命綱)との併用、僕の潜水人生は、命綱、サーフェスコンタクトの運用だから、命綱を芯にしてのチームダイビングで、水面と水中での有線通話の会話を、ロゴシーズで傍聴でき、ロゴシーズどうしも簡単な指示連絡はできるようにしたい。。⑤ただし、ロゴシーズは、有線通話とは、まるで違う別の使いかた、別のしゃべり方をしないといけない通信機だとわかった。
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(2)使い方について①話し方のタイミングについて もしもし。はい、と返ってくる電話ではない。珍しくワークショップに来てくれた潮美は、懇親会で、壱、弐、参だ、とテーブルを叩いて、タイミングの取り方を教えてくれた。スイッチ、(タップ)をしてから、壱、弐、参の間を取れということだ。水中レポートの要諦だろう。②せりふを考えて置く「須賀です。ただいま水深35m。水深35mです。どうぞ」 聞こえたら 「山本、35m了解」 そして 「須賀、ガス交換準備中。」 「山本、ガス交換了解」 「須賀、ガス交換開始 どうぞ」 「こちら須賀、ガス交換終了、異常なし」 「山本 了解しました」 「須賀、さらに潜降開始」 「潜降開始了解」  とか、そのチーム、その潜水に合わせたシナリオを作っておく。 (3)江東文化会館 ワークショップ ①6月6日の辰巳でのロゴシーズとハイブリッドの練習で撮った映像を3分にまとめて、ワークショップで発表した。 ②僕の声がよく通らない。杉山さんの声がよく聞こえて、わかりやすい。山本さんも聴きやすい。だめなのは自分だ。 ③僕の声がだめなのは、超音波独特の音質の問題もあるかもしれない。ニュースステーションでやっていたころの水中レポートの歯切れの良い、わかりやすい音声が、耳に染み着いている。いったんそれを忘れなくてはいけない。 ④ロゴシーズの良いところは、水中での会話がそのまま録音されていて、PCにつなげば、再生もできるし、映像編集ソフトで、編集し、動画に乗せることもできる。 (4)6月9日にも辰巳でロゴシーズの練習をした。 ①シナリオを決めておいて、ひとりでしゃべり、水中においた、別のロゴシーズで受けて、録音した。 ②シナリオを決めておけば、たしかに言葉は通じたが、自分の声を後で聞くと、やはり満足できない。自分の発生を自分が聞いているのは鼓膜からの音と、骨伝導の複合を聞いている。ロゴシーズでは骨伝導だけになるので、音質が全く変わってしまうのだろうか? ③撮影しているなか川に、水中に置いたロゴシーズを渡した。なか川の言葉は、自分によく通じる。やはり、自分だけがだめなのか?  続く

0615 ロゴシーズ 3

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ロゴシーズ 3 ①ロゴシーズのことをブログに書いていると、いろいろと僕の間違い、知らないことを教えてもらえる。「居酒屋で注文する時のように呼びかけると良いそうだ。僕は居酒屋で注文したことがない。だから声がよくないのか?」 ②さて、こんなに苦労して、水中で話すとは、なにを話すのだ。テレビ番組の水中レポートとは別のことだ。ところで、最近は僕のやっていたような、須賀潮美の水中レポートのような番組が無くなった。どうしてだろうかと考える。まだまだ、やり方によってはおもしろいのに。潮美も20歳でニュース・ステーションの水中レポートシリーズを始めて、30歳過ぎまでは、売れていて、今では?歳になる。20代の潮美ちゃんを知っているダイバーも少なくなった。 一方で、BBCがやっているクストーの息子の番組は、その中心が水中での会話だ。これは完全に水中レポートの音質で普通に話していて、ロゴシーズの骨伝導とは違う。フルフェースマスクの口元マイクではなしている。③何故骨伝導にするかといえば、多分、誰でも着けているダイビングマスクでそのまま付けれる、とにかく普通の装備で使えるというところにポイントを置いている。とすると、フルフェイスマスクを使おうとする、自分たちは、どうなのだろう。ここまで来て、まだ大事なテストをしていないことに気づいた。これからテストして、次回のレポートで発表する。
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④では、ロゴシーズで水中で話す、会話する意味とは何なのだろう。なれたバディならば、アイコンタクト、身振り、サインですべて通じてしまう。しかし、アイコンタクト、サインは、向かい合っている時だけだ。ロゴシーズは、後ろにいても、半径50mは条件の良いときのカタログ性能としても、10m以内ならば通じるだろう。そして向き合った二人だけではなくて、散開したグループで意志を伝えることができる。⑤しかし、練習しなければならない。僕の場合は耳が難聴のためもあり苦労しているが、見せてもらったテープなどでは、ごく初心者がインストラクターとの会話を成立させている。しかし、それにしても、二人ないし3人が意志を伝えあうという共通した意識をもっていなければ、会話は成立しない。⑥その会話を成立させようという共通の意識が安全確保につながるのではないだろうか。自分のキャリアで考えれば、ダイビングは自由なもので束縛されたくない。バディシステムは一つの拘束だ。基本的にはソロをやっている。バディはソロの二人である。ダイビングは安全の追求だけのために潜っているわけではない。⑦しかし、初心者の時からロゴシーズでの通話が自分たちのものになっているとすれば、ソロの二人でもバディを成立させることができるし、バディシステムらしいバディシステムで潜る初心者にとっては、安全性が高くなる。安全、安全と呪文を唱えているダイビング業界は、ロゴシーズによる安全をプログラムに加えて研究するべきだと思う。すなわち、ロゴシーズは安全のための道具なのだ。だから、安全のための水中会話、通話のシナリオは必要だし、そのシナリオでの稽古も必要になる。幸いにして、その稽古はかなりおもしろく、初心者はしゃべりながら潜ることも楽しいはずだ。⑧僕は常には安全のために潜っているわけでもない。ただ8080は、安全を中心におかないと潜らせてもらえない。すなわち安全のために潜るのだ。そこで、グループでロゴシーズを使うことを考えトレーニングしている。そのことから副次的に見つけられること、解ることが多数あるに違いない。
⑨使いこなせれば、お台場のようにアイコンタクトもサインも通用しない状況で役に立つはずだ。今度やってみよう。気付いていなかった。ブログを書くために考えるので、考えて何かに気づくことが多い。
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何故お台場のことを考えなかったのだろう。

⑩指導団体でも、ロゴシーズのコースを行っているところがあるけれど、セフティとの連携をどの程度取り入れているのだろう?寺山くんはかなりわかっていて、オーシャナでとりあげている。 ⑪ブログを書くときはポメラのD100で下書きをして、ワードに移して見なおして、ブログにする。下書きで① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ を使っているのだが、ワードでは外してしまったほうがよいのか考えている。別にじゃまにならなければ、付けたままでも良いのか?

0616 ブログ整理

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 少し手が空いたと感じたので、実は行き詰まって折れかけているのだが、空いたので、ブログを整理した。(6月14日現在)同時に下書き状態のブログ原稿も調べた。例によって積み残しも、中途半端もある。
記録として書いて置かなくてはいけない事項も書かないである。
☆ 
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          意味のないカット

このところズラズラと書かないで
(1)(2)(3)(4)(5)(6)
 ①②③④⑤
を使って箇条書きにしている。文学作品をかいている訳ではなくて、ダイビングのことを書いているから、箇条書きの方が自分で発想しやすいし、読んでいただくにもわかりやすいのかなと思ってのことだ。
 そこで
(1)積み残し
 ①日本ハウジング史はその2で止まっている。 
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                   次に書こうと思っていたカメラ

 ②高気圧作業安全衛生規則のルーツから今に至るまで、これは、その①を書きかけで止まっている。(2)記録として書いて置くべきことだけどかいていない。
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 2016年のお台場クリーンアップと
 お台場についての企画(3)企画としてメモしておいたもの
①これからのダイビング
サイドマウントと小さいリブリーザの組み合わせ。②高齢者のダイビング
高齢になったからこそ、見えてくるもの、感じるものがある。
ダイビングができなくなったら、ダイバーとしては、その時に死ぬつもり。でも、死ねるかどうかわからない。ダイバーの生命はしぶとい。③ダイビングのスタイル
ダイビングにはいくつかのスタイルがある。そのこと④ダイビングのスキルとは、
 スキル、スキルと騒がれるが、何時の頃からのことだろう。そして、これから10年のダイビングを想像しよう。軽いものでは
⑤1972年の鬼怒川カタログ⑥ホエールウオッチング今昔人工魚礁については、
⑦「かねくら石」と人工魚礁
人工魚礁調査要綱について僕の見たダイバー列伝
 人に評伝を書かれるのはいやだ。自分で失敗とわかっているからだ。だから、やめようかなとも思う。
 この前、ジャックモイヤーさんのことを書いた。⑧ 僕の益田一さんのこと これまで何度も書いているので、まとめてみたい。⑨ 関邦博と、ジャックマイヨール、
⑩ 上谷成樹のこと 知らない人が多いと思う。大瀬崎の漁協と迷惑料について裁判で争って、一審で勝ってしまった。海は誰のもの。そして急死してしまう。(4)でも、テーマとか構えないで、日記風にすなおにダイビングについてつれづれなるままに書くのも良いのかな?といつもおもっている。それも時々はやりたい。 なお最近、ブログについては、テプラD100で下書きをして、ワードに移して整理してから、ブログに上げる。
 下書きからワードに移すときに、箇条書きをせいりしようか、それとも箇条書きのままが良いのか。
 

0617 リサーチャー 小泉正行 さん  1

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ブログを書くと言うこと、考えることだし、考えなくてはなにも前に進まないから、だから書くのだが、そのために、勉強的な読書をする時間が無くなってしまっている。 楽しみのための読書はたくさんするのだが、勉強的に頭を使う読書はなかなか手に着かない。読み始めても、すぐに根が尽きて理解不能になってしまう。なかなか読む時間がない。 ようやくちょっとだけ 「東京湾の漁業と環境」 7号 平成28年3月 中央水産研究所 増養殖研究所 刊 「東京湾の研究を振り返って」小泉正行  読むことができた。ノートを取っておかないと、いけない。 小泉さんはもとの東京都水産試験場、今の東京都島しょ農林水産センター(なんでこんな面倒な名前にするのだ)を平成27年3月に退職した。 在職中、ずいぶん接触があった。一緒にお台場でもぐったこともあった。彼の仕事と僕の仕事がかなり重なっていたからだ。  まず、東京の鮎の話から始まる。東京の鮎は多摩川を遡上する。中流域で産卵し、稚鮎は川を下る。 多摩川は分断されている川だ。東京の水源地多摩川の水は、途中から多摩川上水に引き込まれ、東京の水道となって東京都内を流れ、海に下水として下る。 海に下る多摩川は、玉川上水の取り入れ口から下流に流れ込む支流とか地下水が流れる。それも調布取水堰で止められる。 いくつもの堰で区切られて、鮎の遡上を止める。宿河原の堰から上には上らなかった。そこから上は、なに養殖した稚鮎を放流すれば済むことになってしまう。小泉さんは天然の遡上する鮎がどこまで行くか、その数量はどのくらいかという調査研究をされていた。   僕もそのころ(1990年代)、衛星チャンネルで東京の川というシリーズを撮っていて、小泉さんと重なった。調布取水堰の下流に小さい定置網を設けて、遡上する鮎を捕まえて数を数える。もちろん資源学的な推計で数えるのだが、ちょうど桜の散るころに稚鮎が上ってくる。調布取水堰には魚道があって稚鮎が上る。その数を数える。鮎は壁に張り付くようにして遡上するので数を数えることが可能だ。 その両方とも撮影させてもらうという形で付き合った。彼はそこそこのダイバーであったことも、気持ちが合った。 鮎の遡上数は玉川がきれいになるのと比例して増え、平成24年には1000万匹を越えた。その鮎も前記上流の宿河原の堰でとまってしまう。小泉さんの調査が基になって魚道が改善されたが、それでも全部が魚道を上れるものでもない。それに鮎はそれほど上流出なくても産卵する。沼津の柿田川もその例だ。
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         アユの産卵 残念なことにこの鮎は多摩川ではなくて、沼津の柿田川  多摩川の鮎の産卵を僕は撮影したい。小泉さんに聞いたが、ピンポイントではわからない。だいたいのところはわかるけれど、とだいたいのところを教えてもらって潜ってみた。鮎はたくさんいるが、産卵は撮影できなかった。しかし、小泉さんの幸せな時期(ピーク)と僕の幸せな時期は重なっていた。 東京湾は鮎のゆりかごで、川の浄化にともなってその数は増え、2012年には1000万尾を越えたという。 小泉さんは1995年、八丈島に転勤された。そのころ、八丈島にあまり行かない時期にあたってしまって八丈島では、ご一緒できなかった。  東京に戻ってこられて、こんどは内湾の研究調査になり、お台場というフィールドで僕と重なった。2004年から2006年まで、お台場にアマモの移植実験をされる。これも、僕たちのフィールドと重なるので、1ー2度は来てくださって一緒に潜ったし、小泉さんがこられないときもそのアマモも見に行った。少し長くなり写すのがしんどいのだが、書き写そう。
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                お台場に移植されたアマモ、囲いがしてある。

「アマモの全容を把握するために、あえて、夏期から晩秋にかけて株移植する一方、花枝から種を採取して、透明度が良くなる冬季に播種試験も併せておこなった。予想通り、植物プランクトンが発生して透明度が低下する4月以降に毎年衰退した。しかし、この間、繁茂期の葉上には、オオワレカラガ気分が悪くなるほど蝟集するケースや、ギンポやメバル類などの稚魚が集まる様子が観察できた。このほか夏期に移植したアマモには、ムラサキイガイやフジツボ類が全面を覆い、光合成が遮断される負の連鎖をみた。」 ここで一応アマモの記述から外れるので、アマモについてのまとめを私見として書かせてもらう。結局この実験はお台場をアマモ場にするという事業には至らなかった。お台場ではアマモは生育しない。小泉さんの述べられているように、透視度が悪くなり光合成ができなくなること、そして付着生物が葉の全面をおおってしまうことで、これも光合成ができなくなるとともに、重くなって沈んでしまう。 小泉さんは書いている。「得られるものがいくつかあった。観察のため月回ほどの潜水をして、残りの空気を使い切るまで周辺域を観察していたところ、2004年の夏期には、アサリの分布密度がもっとも高い地点付近から岸と平行にアカエイがすり鉢状の穴を掘り始め、10日ほどで、田畑を鍬で耕したように一面が凹凸状態になるのを見ることができた。中略 11月になるとアサリの標本撮影が容易ではなくなるほど、アカエイのすさまじさを知ることができた。」 私見だが、沖縄などで浅い珊瑚礁の中で体を落ち着け、動かないでいると、10分もしないうちにさまざまな生き物が自分の周囲で動き出す。逃げなくなる。この有様を環境ビデオ風に動画を連続撮影したり、していたのに、お台場で僕はそれをしていない。 もしかしたら2時間も撮影を続けている清水まみはしているかもしれない。 そうなんだ。アカエイがアサリを食い尽くしてしまうのだ。  あまりにも長くなるので ここで切って次はアサリとホンビノスのところを、みよう。 

0618 小泉正行 さん 2

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 小泉正行さんの続き。 小泉さんは八丈島から戻られると、内湾、お台場のフィールドを担当されて、アサリを調べ始めた。  「転勤2ヶ月後の6月にお台場海浜公園に行くと、潮干狩りの終盤でもあるのに大勢の人々がひたすらアサリを採っている。手を砂に入れた瞬間、3cmほどのアサリ4ー5個体が指に当たり、感動したと同時に、春からの収穫量を明らかにして、干潟造成のアピール材料にしなければ、。。。中略 数日後にアサリの収穫量を計測させてもらうと2時間ほどで、3ー16キロほどのアサリを採っていた。一般客のお持ち帰りも参考に聞くと、均して4ー5キロが妥当な数字と判断された。その脇で、自転車に米袋いっぱい、30キロ以上か、のアサリを荷台にくくりつけて走り去るセミプロもみることが出来おどろいた。
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               お台場は潮干狩りの場になった。
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                プロも獲りに来た
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               プロの成果

 干潟の一角で大規模な浄化試験を行う東京都の機関が水遊びだけの人と潮干狩り客を区別して記録していたので、記録簿を拝借して、4月19日から6月18日の期間中だけで、のべ、4029人が潮干狩りをしていることがわかった。その結果先の平均収穫量をかけて、450mほどの南北ゾーンだけで、16から20トンほどのアサリが収穫されたことが推定できた。 そうなると現存量が知りたくなり、岸と直角にラインを張って最大干潮から40m沖まで59カ所で枠採り調査を3日間かけて行うことになった。その結果、3cm以上の収穫サイズのアサリの現存量は2。1から2。4トンと推定でき、20トンほどの生産力であることがわかった。」  ひところは、アサリが本当によくとれたのだが、2016年現在、収穫サイズのアサリは2時間で3ー16キロも採れないし、セミプロの姿も見ることはない。区域が狭いので、潮干狩りでとりつくしたのか、アカエイが食い尽くしたのかだろうか。 アサリのような二枚貝は水の浄化能力があるということで、今年度からアサリの養殖棚の設置を水産センターが開始した。  干潟再生とは、すなで海底を覆う、覆砂がその一つである。お台場の人工砂浜はまさに覆砂である。「覆砂など底質による二枚貝の分布調査を行った結果、覆砂の影響が及ばない全硫化物と泥分率が高く、酸化還元電位が低い地点では二枚貝は全く見られず、これとは逆に覆砂の影響が残る地点でアサリやシオフキなどの二枚貝数種が分布し、その中間域のやや還元的な地点では硫化物耐性の強い大型のホンビノスガイにほぼ限られている。同地点では、ホンビノスガイは3mほどの水深で帯状に分布しており、還元層が浅場に見られる京浜運河の干潟での分布とはことなっていた。」
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               お台場のホンビノス 黒い
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              売られているホンビノス、白いので白ハマグリなどと呼ばれても居る。
 「2006年の9月には硫化物耐性の強い大型のホンビノスガイの斃死個体が、底泥上に増殖する嫌気性細菌と考えられる白い膜状付近に散見され、その周りには、衰弱した水管が布切れのように薄くなった個体が観察された。これに大使10数メートルほどしか離れていない岸側の泥分率の低い浅場では、アサリの斃死が見られないことから貧酸素水よりも硫化水素などの生成に着目する必要を教えられた光景である。なお、DOと硫化水素の関係を見るための測定を計画したが、測定技術がないために重要とおもいつつあきらめた課題である。」
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             貧酸素で斃死したホンビノス
  私見。ホンビノスは硫化物耐性が強いのだが、2012年の貧酸素の夏には、この水域の大型ホンビノスが大量に斃死した。これほどまで多量のホンビノスが居たのかと驚くほど、死屍累々になった。しかし、小型のホンビノス、稚貝は生き残ったようで、現在、ホンビノスの資源量は回復しているように見える。 硫化物と貧酸素はどちらが強く二枚貝の斃死につながるかの問題は測定実験してみなければわからないが、並立してえ同時に起こるのであるから、そのどちらがより強く効いているか調べるのは容易ではないと思われる。  アサリなどの稚貝の研究は私たち研究会の風呂田利夫(もと東邦大学教授)が行っている。  もう一つ、ちょっとしたニュースになった小泉さんとのかかわりがあった。続く

0619 小泉さん 3

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さらに、小泉さんのこと 引用する。  「2004年11月に移植アマモのそばで在来種のモクズガニよりスマートな上海ガニ(チュウゴクモクズガニ)2個体が採取できたが、なぜこの場に居たのか理由は明らかにできなかったものの日本初記録であることを甲殻類が専門の武田先生お聞きしてとてもおどろいた。トピックスとして東京新聞の正月号に掲載されたところ、1月には38件もの取材が集中し、お台場に何度も同行したり・・中略・・・環境省が特定外来生物の整理をしており、ブラックバスよりも甚大な被害を及ぼす生物であるとともに、中国料理の目玉であることが格好のネタになったからと思われる。」  私見 小泉さんが上海ガニを見つけたことから、当然のように僕のところにも、写真はないかと問い合わせが何件も来た。僕は上海ガニどころか在来種のモクズガニの写真も持っていながった。ついにはテレビ番組の撮影依頼も来たので、受けた。
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                     2005年 3月 モクズガニ
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 何日間か探し回ったが、見つけられない。苦労の末、羊蹄丸のポンツーン下でやっと見つけることができた。と思ったらこれは在来種のモクズガニであった。 しかし、モクズガニを見たのも、このとき限りであり、その後もその前も見つけていない。上海ガニがどうしてこのとき2個体見つかったのか、小泉さんも書いているようにわからない。対岸の築地魚河岸から脱走して、2個体手を繋いで東京港を横切り、お台場に到達したのだろうか。その説が妥当なように言われたが、輸入されてきたカニ籠から二尾のカニが脱走し、お台場まで逃れてきて、アマモの陰に隠れていたら小泉さんに見つかってしまった。上海からお台場までの旅も考えるとありえようもない冒険ストーリーだ。カニの類は交尾期になると、雄が雌をキープするから、道行ということでもある。 もうひとつおもしろいことは在来種のモクズガニも、僕が同時期に見つけたことだ。モクズガニは、産卵のために川を下ってくるのだから、いても不思議はなく、聞けば、お台場の近くで取れたことも何度かあるそうだ。昔はもっと普通に居たのかもしれない。  在来種と外来種の問題は、お台場、東京港のような環境の悪いところでは、環境に強いとされている外来種が少なくない。 チチュウカイミドリガニという外来種が増え、在来種のイシガニの位置について、イシガニを滅ぼしてしまうのではないかといわれた。イシガニはガザミの類で遊泳足があるが、チチュウカイミドリガニにはない。別の属だが、ニッチ、居場所は一致している。
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               チチュウカイミドリガニ雄が雌をキープしている。
 しかし、お台場に限れば、チチュウカイミドリガニは、今は見られなくなり、イシガニは、少なくなったとは言え見ることができる。この環境ではイシガニの方が強かったのか。チチュウカイミドリガニもおいしいカニだという。食べたことはないが、大発生したら食用の名物になったのではないか?上海ガニならばなおさらのことだ。お台場に上海ガニの店ができ、食べられる。とか考えてしまう。いや、願ってしまう? 甚大な被害とは何なのだろう。いうまでもなく、地球は人類のものだけではない。あるべき姿を残しておかなくてはいけない。上海ガニは、上海以外で食べてはいけないのだ。これを許してしまったら、日本の生態系は大きく変わってしまう。 しかし、お台場という都市の海で、江戸前の海の姿はもはやどこにもないのだから、何もいなくなってしまうよりは、上海になったほうが良いではとか、でたらめなことを考える。  ホンビノスガイも外来種だという。ビノスとは、ビーナスクラムが日本語になったもので、外国ではクラムチャウダーの食材だという。硫化物に耐性がつよいと言われ、この4ー5年の間に東京湾全体に増えた。富津、木更津あたりでは、シロハマグリとも呼んでいる。ハマグリに取って代わられてしまった。都会の居酒屋でもハマグリは食べられないが焼きハマグリならぬ焼きホンビノスが出てくる。ハマグリとは比べられないが、それなりに、おいしく食べられる。 先日、船橋の三番瀬について、名物ホンビノスというテレビ番組が放映された。ついに名物になったか。ハマグリはどこに行ったのだろう。ハマグリの棲めない環境にホンビノスは繁殖して名物になった?三番瀬を守っている小埜尾さんも、名物がホンビノスになったことを嘆いていた。
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 人間と自然環境との付き合い方は、難しい。フィッシュフィーディング、餌付けの是非の問題もある。餌付けも是とし、ホンビノスも是、ならば上海ガニはどうだ。ブラックバス退治もやったことがあるが、これは、ワカサギを食べてしまうので、ワカサギかブラックバスかという選択で、人間の都合上で悪になっている。それならば、ヒメマスはどうだ。放流だが日本国内の移動だし、良いのだろう。 お台場という極限の海に潜っていると、外来種だろうが在来種だろうが、棲んで生きていてくれれば、いとしいと思ってしまう。
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                     アマモの囲いが奥に見える。
 この上海ガニ騒動で、学んだことがある。それは、アマモを護ろうとして囲った、囲いが大きな魚礁効果を示して、上海ガニまで呼び寄せたことだ。人工砂浜の、最干潮線水面のすれすれに魚礁効果のあるもの、つまり魚礁を置けば、砂浜に集まるカニの類、稚魚の類を集める事ができるということだ  小泉さんほど、僕の目標と重なった研究機関の友人は少ない。 彼は、ダイビングをするリサーチャーとして、日本有数の人だと思う。日本水中科学協会もリサーチャーの集まるところにもしたかった。力が足りず、果たせぬ夢になっている。まだ、あきらめてはいない。   リサーチャーとして東京の川に、海に、生きた小泉さんの全仕事の俯瞰だった。 しかしながら、ぼくよりかなり年下だから、まだまだ活躍されるとおもう。何かの形でご一緒できるだろう。僕のほうが生きていればだけど。

0622 高気圧 潜水医学会誌

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日本高気圧環境・潜水医学会関東地方会誌、睡眠薬の代わりに読んだのだが、眠れなかった。良いことなのか、悪いことなのかわからない。このごろ潜水医学の論文を読まなかったので、よいことなのだろう。
 それはそれとして、最近、なるべくこれまで読まなくて積ん読になっている論文集 報告書などをなるべく読もうと志をたてた。「平成26年度 魚礁機能のメカニズムの解明と定量化」「東京湾の漁業と環境 平成28年度」「ニューシートピアシンポジウム 平成2年:これはずいぶん古い」
「東京湾の漁業と環境」は一応読むべきところは読んだ。小泉さんの書いたものはブログで3回にわたって書いた。そして、「日本高気圧環境・潜水医学会関東地方会誌」だ。
 まず、「潜水中、潜水後の症状発現 その対策をいかにすべきか」鈴木信哉先生 とてもわかりやすく、減圧症の臨床の初動について書いていて、なるほどとおもう。
 一応、僕たちの常識として知っていることの復習になる。常識の無い人、初心者にはテキストになる。 「脊髄型減圧症の重症度及び治療時間と予後の関係」静岡済生会総合病院脳神経科 石山純三先生他、自分にとって一番参考になった。
「脊髄型減圧症は、各種減圧症の中でもっとも一般的で特にレジャーダイビングの減圧症では、高頻度で見られるが、その病態は重度の運動障害、膀胱直腸障害を呈するものから軽微な知覚異常にとどまる症例まで多様である。」
 脊髄型は、僕たちの時代、潜水士テキストではⅡ型と分類されるもので、皮膚のかゆみとか関節の痛み、つまりベンズのⅠ型よりも少ないと思われ、我慢できない痛みで病院に行くケースであり、なじみの深い物だった。
 脊髄型は、重度でなければ、プロならば、病院に行かないですませてしまうケースも多かった。その脊髄型の実体がこれでよくわかる。治療の具体的な例がよくわかる。
 軽症例では、二日以内ぐらいで再圧すれば、何とか治る。重症例では4時間以内に再圧しないと後遺症がのこってしまう。重症度でわかりやすいのは膀胱直腸障害、運動障害で、古典的な例は、ちょっとおかしい、知覚障害で寝れば治ると寝ていると、朝起きたら小便がでない。嫌も応もない病院行きというパターンで、それでは4時間を経過してしまっている。
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                    フィンで全力で100m泳ぐと、何メッツだろう。?

 「高齢者ダイバーに必要な運動能力」山崎博臣
は、高齢者としては、一番興味がある。興味と云うより闘いの対象である。次々にこれでもかこれでもか、と潜水をやめさせようとする基準(難題)を押しつけられる。最近では闘いに慣れて要領が良くなっている。こちら側、患者の側としては、高齢とはすなわち患者だから、患者としては、トレーニングと薬で対抗するほかないのだ。トレーニングと節制、食事療法だけでは、勝てない闘いである。
 闘いの相手、健康診断であるが、山崎先生の表、「ダイバーと康診断の流れ」では、年表的な流れで、最初の行で、「1990年代に横浜にてダイバーと健康に関するシンポジウム開催などダイバーと健康に関する討論が活発化された」これが闘いの始まりである。親友の後藤輿四之が監修した「Medical Examinatiou of Sport Scuba Dibers] の翻訳で、これによれば、「スポーツダイバーは血圧が140・90に維持されていなくてはならず、薬物を使用している患者では、トレッドミル運動負荷試験で14メッツが達成されなければならない。」60歳で100m潜水を目指した僕は1993年 この健康診断と闘った。システム潜水では、潜水することは別にどうということもないが、健康診断基準達成の闘いが容易ではなかった。
 考えてみると、スポーツマンとは、すべて健康診断と闘っている。自分だけのことではない。この闘いをするかしないかがスポーツマンの証でもある。
 しかし、この闘いをまったくしないで済む超健康な人をうらやましいとはおもうが、仕方がない。 山崎先生は、高齢者で要求されるのは、呼吸換気量の維持で、呼吸のトレーニングが要求される。僕は小児喘息だったから、最後は呼吸障害だろうとおもっていた。スキンダイビングは、呼吸換気量維持のトレーニングになると思う。辰巳のプールで 水深5mでの25m水平潜水を10往復、500mのトレーニングをできるだけやっている。
 喫煙するなどは、スポーツマンとしては、非常識である。禁酒は議論の種だが、いきる目的の一つになっているから、仕方がないだろう。僕は禁酒している。禁酒とトレーニングの続行が、もしも、死んだときに健康診断のスコアに関わらず、みなさまに納得してもらえるより所だと思っている。
 巻末にメッツについての指標がでている。活動内容の表にダイビングの、たとえば、フリッパー競泳のタイムとかを示してもらえると助かる。今の僕はなんとかフィンで泳いで8メッツは行けるだろう。足腰が弱くなっているので、8リットルタンクを背負ってのスクアットをやっている。 総じて、この会報の小田原セミナーの部分は役に立った。小田原セミナーは、東京海洋大学でやったので、聞きに行けた。小田原だったら、行かない。しかし、せっかく行ったのだが、難聴のためもあり、納得できる理解は難しかった。
 このようなセミナーで論文集がとても重要である。
日本水中科学協会のシンポジウムでも、報告書を重視している。次の小田原セミナーはやはり小田原でやるらしい。行っても聞き取れないのでどうしよう。
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