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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0321  幻の魚礁

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19日に行こうと計画していたところです。
2006年のブログです。
この時撮った写真は、来月の「豊かな海」の表紙になります。
Aug 28, 2006

幻の魚礁
カテゴリ:スクーバダイビング

 一度だけ潜って見たことがあるのだが、場所を忘れてしまった。
 その後何回も行こうとするのだが到達できない。自分で勝手に幻の魚礁と呼んでいた。
 8月26日、幻の魚礁を見つけることができた。
 場所がわからなくて幸いだ。わかって密漁ダイバーが行ったらば大変だ。
 イセエビの宝庫でもある。イセエビが抱卵して集まっているみたいだ。
 だれかに場所を知られたら大変だ。だからブログに書くのもやめようかとも思った。
  」 2006年のブログから

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この時記録した、GPSが消去されてしまっています。ノートに記録しておけば、良かったのですが、航跡が記録されているので、これで良しと思ってしまったものでした。

ここでさわぐと秘密がバレるかもしれない心配しています。人工魚礁には、そんな側面があるのです。
もう一箇所、八丈島に誰もダイバーが行ったことがない魚礁があります。これも、イセエビを対照にしている礁 です。僕も未だ到達していません。台風のために舟を出せませんでした。多分、八丈島のダイビングサービスも知らないでしょう。だから、どうなっているか、わかりません。荒廃しているか、伊勢海老の宝庫になっているか?
八丈島は、もしかして、これを読んだら、行ったという報告があるかもしれません。

人工魚礁調査とは、探検なのです。

0321 学生 5

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学生連盟のことを書いていて、こんなことを書いていて、何になるのだろう。 失意の連続だったし、事故のこと、関係者は古いことを持ち出されて、不愉快だろう。それに世の中のことは、なるようにしかならないし、  そして、今、僕がこんなことを書かなくても、事故はもう起こらない。だろうか?  書いていることの結末は現在、だから、それは、本当に現実だけど、未来、先のことはわからない。  そして、たしかに今、監督、コーチが集まった4大学は、事故が起こっても、大丈夫だろう、その他の大学は、ブラックボックスなのだ。立泳ぎ事故からSAIができるまでのブランクの間、同じような事故がいくつか起こっている。関東学生潜水連盟でネットをしらべると、僕の書いた「幻の潜水事故」が上位に出てくる。そして、母校の海洋大学では、どこにも記録がなく、ヘリコプター搬送事故が発生している。それが、SAIを作った時の状況だった。そんなことは学連自体がやるべきことで、OBの一人でしか無い須賀がやることではないだろう、と言ってくれる人が学連の中に居るのならば、ならば、僕を顧問にしてくれれば、学連そのものでやれる。しかし、2002年の学連はそんなことができるところではなかった。だから、学連SAIという形を作った。いずれ学連の中に入れ込もうと。  ここまで書いたのだから、終わりまで書こう。そして、まとめも書いておこう。思い通りにならないことが常だし、書いても自分だけの道標、それも、自分の場合、将来のない途中経過だが。  SAIという資格を着陸させることは、無理が大きい。ひとつには自分のポジションがあった。全日本潜水連盟の理事長をやっていたから、SAIは、全日本潜水連盟の資格にしなければならない。それはできないし、やりたくない。あとでも述べるが、発足したころの学連には、指導団体とは組織としてはかかわらないという内規があった。このことは、後でまた述べる。社会スポーツセンターでその資格を作れば良い。当時、自分は社会スポーツセンターの常務理事だった。出来るポジションであった。しかし、社会スポーツセンターは、社会体育指導者を導入する時、文科省、そしてアメリカ大使館と、そのような直接カードは出さないという約束になっていた、このいきさつは別の機会に書こうと思うが、とにかくそんな約束ごとがあった。しかし、SAIは、C-カードではないのだから、社会スポーツセンターの線で、強行突破できないことはなかった。そうも思った。しかし、それも、バックアップしてくれる、学識経験者、山見先生に慎重にといわれれば、強行できない。多分、真野先生は、GO!だとおもうから、迷った。そのときは無理だと思った。そのときに一緒に努力してくれた現役諸君には申し訳ないことになった。  そこで、SAIとして、考えた戦略は、もしも事故が起こったとき、社会的な糾弾に対応するために学識経験者のバックアップ態勢を作っておき、安全についての講演会を定期的に行っていることが盾になる。 もしも、それまでに起こった事故の時、SAIがあり、原因を追究、議論したならば、学連は違うかたちになっていたにちがいない。事故が起こったときも学連内部で議論はあったかも知れない、しかしその議論は科学的、医学的に追求検討された結果ではなかった。社会的にどう対処しようかという議論のようだ。呼ばれたわけではないから本当のことはわからない。医学的、スポーツ科学的に研究されたことはなかったようにおもう。あったとしても発表されていない。このような議論があったところで、あの立ち泳ぎは、是にはならなかっただろうが、そのような研究がなされて居た上でのあの時の状況であれば、あの事故はクラブの責任者の責任、少なくと社会的な責任にはならなかった筈で、廃部と言うような状況での顧問の先生の苦労も少なくなった筈だ。自分にしても、そのような発想は無かったし、そのように動ける状態にはなかった。本業での戦闘に明け暮れている日々だった。 もしも、循環器のお医者さんで、スポーツ医学にかかわっている河合先生のような方が近くに居れば、学連のあり方もかわり、これに引き続いて起こった幻の事故も起こらなかったに違いない。なぜ、幻と呼ぶかというと、死亡事故が一つだったか二つだったかわからないのだ。どちらも正式な記録がない。 いま、2016年現在これらの事故報告が学連で閲覧できる状態でそんざいするのかどうか、存在することが安全への道ではないだろうか。秘密のうちにあったのでは、あったことにはならない。個人ではつらくてできない。SAIでやろうと思った。一般的通念でいうならば、それは学連がやるべきというだろう。それは、できなかった、今ならば?今の学連でできるか?そのことは、このテーマのまとめで、述べたい。   立ち泳ぎは練習禁止種目になったが、本当に悪い練習方法だったのだろうか。
  続く

0323 学生連盟 6

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 事故以来、学連では負荷をかけた立泳ぎが禁止されたが、禁止されるようなエキササイズを考えだして、やらせた僕たちにも責任がある。練習方法を考えたのも、その雰囲気、空気を作ったのは、僕たちだ。そんな責任感があったのだが、その時点では、それ以上自分が突っ込んで行かれる時間も無いし、そのような立場もなかった。 そして、学生のダイビングからは、離れた。 学生のダイビングから離れても、鉛を持った立泳ぎが、本当に悪い練習方法なのだろうか、考え続けている。 もう一度、ここで、立泳ぎ練習、そして、このような空気が生まれてきた過程を振り返ってみよう。  伊豆海洋公園ができた。 1964年頃、スピアフィッシング全盛時代であったが、海洋公園で死亡事故が連続した。ある日、益田さんと会食した。どうしたら事故を減らせるのだろうね。という話題になった。 僕は答えた。泳ぎの練習をさせる他ないとおもう。水泳ではなくて、タンクを背負っての泳ぎだ。それとレスキューのための泳力が必要だ。 その頃のスクーバダイビングでは、まだ、泳力が大事だとして練習をしたことはなかった。 そもそも、泳力トレーニングという思想がなかった。  そして、 1967年、その頃の仲間を結集して、日本潜水会ができて、その第一回の研修が伊豆海洋公園で行われた。その頃の海洋公園は、夏は50mプールが、周辺別荘地帯の海水浴場として芋洗いの状況だったが、冬は、閑古鳥が鳴いていた。
 
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                  日本潜水会1967年
 この日本潜水会の第一回研修が契機となって、海洋公園はトレーニングのメッカになる。他にトレーニング出来るプールなどないのだ。海洋公園が計画された時、ヒョウタンのような形のリゾートプールが設計されていたが、益田さんが断固として、50mの長水路競泳プールに変更させた。彼の慧眼だった。  長水路の横には、深さ3mの、たしか縦横5mぐらいの小さいプールが併設されていた。ここで水中脱着などの練習をする。
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3mプール
 この二つのプールで、僕たちは考えられるさまざまな練習方法を試した。そのころの自分たちの考えでは、まさかプールで人が死ぬとは思っていない。ブラックアウトすれば、 30秒以内に引き上げれば、息を吹き返すと思っている。30秒で引き上げれば、人は死なない。 30秒以内で人が死ぬのであれば、海でのダイビングなど恐ろしくてできない。  みんなで考え、やってみて、自分たちが出来るギリギリ限界点を、練習項目、基準とした。僕たちの考えついた練習種目は、その後、一緒に日本潜水会を作った、 NHKカメラマン、河野、竹内らによって、 NHKの研修にも引き継がれた。河野は優しそうに見える男だが、 NHKでは、鬼と呼ばれたらしい。鬼が司る練習だから、すべての種目は地獄である。  3mプールでの、鉛を持った立泳ぎは、地獄釜と名付けられた。地獄で釜茹でになっているつもりだろう。50m長水路プールで、フィン、マスク、スノーケルを着けないで、タンク、ウエイトを付けて、泳ぎ、周回する。時間差をつけてスタートするのだが、3周するうちに、後発に抜かれると、一周プラスされる。これは、座頭市地獄旅と名付けられた。実は、別にスーパーマンではない自分たちが出来る限界だから、大したことはないのだが、NHKカメラマンたちらしい、半ば洒落のような発想でのネーミングだった。しかし、こういうネーミングは一人歩きする。経験した者が半ば得意になって、地獄の練習を耐えたという。 BCがない時代である。浮力調整はない。すべて泳力である。地獄とは別に、泳力の増強は、競泳で鍛えるのが、王道であると考えた。フィン、マスク、スノーケルで水面を泳ぐ競泳、フリッパーレースは、1968年、目黒区の日大プールで第一回を開催した。この第一回は学生連盟と合同だったが、その次のロレックスをスポンサーとした全国大会が伊豆海洋公園で行われたときは、全日本潜水連盟が全国に各支部をつくるために、地区対抗で行われたため学生は関東のチームのメンバーとして参加した。 そして学生は学生だという自立心が強く、学生は別の自分たちの大会を行うようになり、現在に至っている。  フリッパー競泳は立泳ぎには直接関係はないが、スポーツ大会の競技種目に水中重量挙げという種目があり、これは、水深5mからウエイトを引き揚げてくる重さを競う競技であり、泳ぎ方については、立泳ぎである。  全て、自分でやってみて、出来ることを基準にした。自分は仲間の中ではどちらかと言えば虚弱であり、自分を標準にすれば、学生も、誰も難なくできると思った。立泳ぎは中性浮力に加えて、5キロのウエイトを持ち、10分間が僕の限界であったため、練習種目は5キロを持って10分間立ち泳ぎできれば合格とした。そして、当初、東亜で作っていたチャンピオンという短い小さいフィンを履いていた。それで、5キロ10分が限界だった。だれかにクレッシいのロンディンを借りて使ってみたら、楽々と10分泳げる。20分でも30分でも続けられそうだった。  フィンの違いがこれほどまでに、大きいのかと驚き、立ち泳ぎはフィンの性能を試すのに絶好の手段だと思った。 果たして、このように負荷をかける練習、負荷を増やしていくことはやるべきではない練習なのだろうか。どこまで負荷をかけて良いのか。
続く

0324 学生連盟 7 負荷心電図

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心電図のセンサーを身体に着け、血圧計を腕に巻いて、ドレッドミルの上を走る。バーにつかまっているから足だけが回転するように動く。だんだん傾斜がきつくなって、歩道も速くなる。血圧計と心電図のモニターは、僕には見えないように、後ろ向きにされている。「大丈夫ですか?」ドクターが聞いてくる。別にそれほど辛くはない。大丈夫ですと答える。さらにきつくなるが、耐えられないほどではない。しばらくすると歩道が停止して、ドクターガコッ知恵来て寝なさいと、ベッドに横になる。すると苦しくなってきた。走っている時苦しくなかったのが、横になると、苦しさが追いかけて来たようだ。 かなり苦しいが次第におさまる。なるほど酸素負債とはこういうことか、借りている足りない酸素が押し寄せてくるのか。 ドクターに聞けば、モニターの赤ランプが、かなり前から点いていたという。15-16メッツぐらいかかっていたようだ。 河合先生に言わせれば危なかったという。さほど苦しくはないのに、不整脈がでていた。 なるほど、こういうことか、立泳ぎでそれほど苦しくはないのに、不整脈が出て心室細動、つまり心臓麻痺になったのだろう。 そのようなことなのか、と河合先生に質問したが、必ずしもそうではないらしい。 同じような負荷心電図の健康診断をしておけば、あの事故は防げたのだろうか。これも、必ずしもわからない。突然死が襲ってくるのは、予測できにくいのだろう。  最近だが高齢者の潜水について、80メッツくらいかけて検査することが望ましいが、その80メッツの負荷で、危ない人もいるのだという。 スポーツ医学というのも難しく、学生のダイビングでは、若く、身体能力が強いからと言って、安心して見ている訳にはいかない。ケアをしている他無いが、自分の例から考えても、本人もわからないかもしれない。  その後、自分の会社の若い社員、脇水輝之が減圧停止中ボートの真下で亡くなった。これも、どうしても原因がわからない。しかし、多分本人には自覚があったと思う。前の夜、異常に早く床に入っていた。 その次に起こった幻の事故では、本人に自覚があり、友人にはおかしいと告げているが、コーチ、上級生には伝えていない。 責任を持って、異常は自己申告してもらう他ないのだが、頑張る状況下ではとても難しい。前にのべた。プロダイバーになって2年目、の大学卒業生の事故とは、自己申告をしない真面目さを言うのではないかと思う。 その意味でも、クラブの雰囲気というのも重要だ。 と言って、自分の例を考えると、一番働いていた、40歳代-50歳代、毎日のように体調が悪いと感じていた、日表のように調子の特に悪い日を☓、ちょっと具合の悪い日を△、調子の良い日を◯として記録した。殆どの日が△であり、◯よりも☓が多くて、働き続けていた。△で自己申告していたら、仕事にならない。  ただ、学生の部活の場合、シゴキに見えるような練習、無理強いはいけない。用心深いケアが必要だ。酒を飲むなどとはもってのほかというべきだろう。スポーツ医学からの見地で学生のダイビング活動の分析研究がなされるべきであると考えたし、現在も考えている。 このようなことごとを、真野先生、河合先生、山見先生のバックアップでやって行こうとしたのがSAIだった。この体制で、研究を行いつつ、もしものことがあれば、その原因も追求できる(解明できるかどうかは別として)社会的な糾弾にも答え、父兄への説明責任もたすことができると考えた。


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 一方で、学連も安全対策主将会議という名称の会議を毎年開いており、かなり、突っ込んだ意見交換などをしている。しかし、その会議の記録を公開していない。印刷物にすることを求めた。書類としてまとめたものは2005年 合宿マニュアル2006年 安全対策主将会議 責任と危機管理2007年 ニヤミス対処2009年 各大学トレーニングマニュアルかなり質の高い、議論がなされて、まとめも行ったが2002年の酒盛り合宿(実態は見ていないので知らないが)から、ずいぶんと進んできたが、まだ、その合宿でSAIを行うところまでは到達していない。そして、その中には、監督、コーチの関わり方、その姿が出てこない。 そして、2008年、学連40週年を記念した、関東学生潜水連盟OBの会合が開かれる。 ☆★

0325 学生連盟 40周年 OB会

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 2008年、関東学生潜水連盟40周年を記念した集まりが新宿の住友三角ビルで行われた。新宿の住友三角ビルは、1970年代のレジャーダイビングのメッカともいうべき、ドウ・スポーツのダイビングプールがあった。 この深さ10mのプールが埋められたことは、ダイビングの一つの時代の終幕だったと振り返るのだが、2008年には、残されたスポーツクラブも終わろうとしていた。ドウ・スポーツは新宿から撤退して豊洲に戻って行った。 ずいぶん利用して、思いでの詰まっていた地下の商店街はシャッター街になっていた。 学連の40周年記念の会は、学連にはOB会があるわけではないので、現役執行部が主宰したものだった。 この集まりで、僕は学連の真ん中辺、20期前後のOBと初めて直接の繋がり、知己を得ることができた。母校の海洋大学についてもこれがきっかけでOB会を50周年に向けて作ろうという気持ちになり、呼びかけて作ることができた。母校でもOBは、僕が教えていた15期あたりまで、そして16ー40期あたり、40ー現在 の三層に分かれている。三層のつながりがないのは、OB会が無いからだろうと思っていた。このような世代間の隔離は、周年行事でOBが一堂に集まることで解消の方向に向かう。海洋大学の場合は、50周年に向けてOB会を始めて作ったのであるから、その第一歩であった。 中央大学もこの40周年 学連OB会で親しくなることができ、中央の40周年の会で、講演をさせて頂き、名誉顧問にもしていただいた。中央は、三層がうまく連携しているようだった。  
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 人間、身一つである。一人の人間は一カ所にしか存在できない。学連についても、海洋大、ちょうどそのころ母校の水産大学が、海洋大になってしまう移り変わりのときだったのだが、母校にかかわりあっているとSAIからは、目がはなれてしまう。  現役と監督コーチとの遊離をなんとかしたい。そのアプローチは現役SAIからでは、とどかなかった。 現役執行部というのは、はかない。1年、長くて2年つきあうと卒業、さようならになり、また、次の人間関係をつくらなければならない。今後しばらくは、窓口を監督・コーチにして、つきあいを継続的にしたいとかんがえた。 学連は全日本水中スポーツ室内選手権大会の実行には欠かせない運営の下働きの役割を果たしてもらっている。SAIには、社会スポーツセンターの遠矢君にきてもらい、学連執行部の兄貴役を果たしてもらえれば、どちらにとっても有意義であろうと、一部バトンタッチした。  個人的には、これはまた、別の話になるのだが、全日本潜水連盟の理事長職を退くことになり、日本水中科学協会の設立に全力をあげていた。自分が全日本潜水連盟の理事長である限りSAIを資格にするならば、それは全日本潜水連盟の資格にしなければいけない。一方で大学の監督、コーチはNAUI、PADI、さまざまである。作ろうとしていた日本水中科学協会は指導団体ではないので、SAIもくくりやすいと考えた。 日本水中科学協会が発足して最初の行事であったシンポジウムに学習院大学の宮崎監督に学習院のクラブの実態についての講演、発表をしていただいた。これが2010年の12月であり、そのシンポジウムでは学連の現役がほとんどの大学から参加してくれて、会場をうめてくれた。これはSAIの成果であろうと喜んだ。
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 発表していただいた学習院、そして、法政、中央、辰巳プールで知り合った芝浦工業大学の足立顧問、芝浦工大は、僕がお世話になっていた東亜潜水機の佐野社長が、ダイビングクラブの創始者の一人であり、その佐野社長は、僕が東亜を去るときに小学校6年生だったという縁があった。そしてできたばかりの海洋大学OBの5大学で働きはじめようと、第一回の集まりを予定したのが3月18日だった。3月11日の震災で、東京はどうなるか、日本はどうなるか、その集まりは流してしまった。また、その年のSAIも日本水中科学協会のシンポジウムも行うことができなかった。 しかし、流れた5大学の集まりでの内意は、SAIで資格をまとめることは賛成ではなく、監督コーチの話し合いの場を作ろうという方向だった。 SAIが新しい集まりのために発展的に解消することは吝かではないとその時に考えていたが、それがさらにSAIを減速させることになった。実はこれが誤りであったことが、やがて明らかになる。

0327 お台場

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お台場に潜った時は、ログとしてブログを書かなければいけないことにしている。朝、体調が悪かったが、大体において、水に入れば治らないまでも緩和される。緩和されるようなら、たいした病気ではないと判断がつく。2回潜水して、80%ぐらい元気をとりもどした。 しかし疲れてはいる。
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本当に何もいないし、何も無いが、ラインを引いて撮影することにしている。


今日は久しぶりに、バックフローティングのハルシオン BCを使った。バランスが取れない、足が浮いてしまうのだ。水深3m位まで潜れば気持ちよく泳げるが、水深80センチで水平になった、足を上に上げるとフィンは水万にでてしまう。今、7キロのベスト、4キロのベルト、2キロのレッグウエイトだが、次は4キロのベスト、6キロのベルト、2キロのレッグにしてみよう。


ラインに沿って泳いで、全体に牡蠣のフィールドで、生きている牡蠣が40-50%に見える。先端の70-80あたり、80を超えて90ぐらいのところが、牡蠣の勢いがあるように感じた。つまり、生きている個数が多くなっている。
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4月からのお台場の潜水許可申請をしているが、海上保安部の担当官から、潜水場所の海図がいい加減だ等深線のは行ったものにするようにと指導された。
図がなかなか見るから無くて苦労してが、見つけて作って見ると、見栄えがするし、よくわかる。
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                  黒い線の岸側が潜水水域 水深は4m 以内干潮線から30m以内



フェイスブックで沖縄慶良間で運瀬という激流の場所に初心者をもぐらせて、事故がおきた。ドリフトのポイントぐらいは、精密な等深線のは行った海図と流向流速の傾向などを記した、届出を海上保安部に届け出るようにすれば、事故が少なくなるだろう。


この事故については改めて書くつもりにしている。


0327 関東学生連盟 9

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SAI の終熄


 ここで、一つの前提条件だが、ここに書いていることは、その時、例えば2011年にどんなふうに感じ、どんなふうに行動したかであり、2016年現在の自分が考えていること、感じていることとは、ちがう。現在の自分であったならば、全く違う行動をしているだろう。

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 記憶間違いをしていた。学連 SAIができなくなったのは2012年だとおもっていた。
 僕が出席した最後の学連安全対策主将会議が2012年でそれが学連の会議に出席した最後だったと覚えていた。今、その時の写真を探しだして、写真のタイム表示を見てみると、2011年の2月8日になっている。タイム表示の間違えということは、よくあることなので、ホワイトボード部分を拡大してみると、平成23年度安全対策主将会議とかいてある。2011年に間違いない。この会議は、僕の親類筋 須賀スクールの大西と NAUIの鞆さんをゲストにして、ベテランインストラクターとのパネルディスカッションだった。
僕も顔を出して、ちょっと挨拶だけさせてもらった。
 しかしこの年、2011年には SAIは、開催されていない。その代わりに器材のモニター会が行われたのだと聞いて、機嫌を悪くした。しかし、学連の心づもりでは、 SAIとして、日本水中科学協会のシンポジウムに全員で出席してくれたのだろう。機嫌を悪くしてもうしわけなかった。その辺の意志の疎通があった。なんとか、2011年度には SAIを開催してくれることをお願いした。
 
現在の自分だったら全く違う行動をとっただろう。水中科学協会の発足で、多数参加してくれたことのお礼を言ったうえで、次に一緒に何ができるか、を話し合い、検討しただろう。


一方で、監督コーチについては、シンポジウムで発表してくれた学習院大学の宮崎監督の肝いりで、法政、中央、芝浦に声をかけて、監督コーチ、すなわち学生のダイビング指導者の集まりを持つ準備会が予定されていた。その予定日が3月18日で、3月11日に大震災が起こる。とても集まれる状況ではないとこの集まりは流れてしまった。


そして、その2011年は、震災の後の活動、自分としては放射性物質調査に全力をあげた。東北でのアワビなどの調査も流れてしまったが企画していてシンポジウムもできず、 SAIもできなかった。SAIができなかった理由の一つは、3月18日に集まる予定だった、それぞれの内意を聞いてみると、 SAIには賛成ではない雰囲気だった。それを説得してSAIに向かわせる説得に自分は自信がなく、逃げてしまっていた。


 2010年の水中科学協会のシンポジウムのテーマは自己責任だった。自己責任とはリーダー、インストラクターの責任回避の言葉ではなく、スクーバダイビングの一つのフィロソフィーなのだが、そのこともまだ確立していたわけではなく、現在進行中の議論だ。


次の年、2012年のシンポジウムでは、芝浦工業大学の足立顧問と監督にお話をしてもらった。
そして、2013年のシンポジウムでは、中央の藤島監督に発表をしてもらった。
学連の執行部とは、室内選手権大会などでも顔を合わせることが多く、連携はあったのだが、 SAI の話はできなかった。中心になっていただいていた真野先生の都合もあった。
監督、コーチとの連携がシンポジウムなどを通じて強くなっていたと考えていたが、 SAIは持ち出せる雰囲気ではなかった。
 2014年のシンポジウムは、法政大学に話をお願いする順になる。法政アクアクラブは50周年を迎え、僕は記念誌に執筆させてもらい、そのうえに50周年記念講演会に講演もさせてもらっていた。
 この辺りで、学連との関係もまとめておかなくてはと、シンポジウムでは、自分がこれまでの学連との関わり、 SAIについてなどを発表し、学連の50周年にむけて、監督コーチ指導者と現役執行部が協力して、まとまって行ってほしいとお話した。
パネルディスカッションとして、芝浦工業大学の足立顧問、学習院大学の宮崎監督 法政アクアの宮城 OB会長、法政には監督という役割がなく、 OB会長が事実上の監督で、コーチとして山中さんが居るという形態いである。加えて、現役学連委員長の筑紫君に並んでもらった。筑紫くんは委員長を最近出していない、母校海洋大学だった。
 シンポジウムの報告書は、これまでの SAIの成果として、各大学の練習プログラム、安全対策主将会議にまとめてもらった危機管理、そして2014年度の学連の年報のようなものをまとめてもらった。これを契機に同じような年報を学連が出してくれると良いとねがったものでもあった。つまりシンポジウム報告書は学連特集だった。印刷代に23万もかかり、傷手であったが、この年度で輪切りにした学連の状況を印刷物として残したかった。
 パネルディスカッションは成功だったが、一回のディスカッションで話がまとまるものでもない。3月に同じメンバープラス、学連の次の執行部委員長など、学連各大学の中心が加わって、話を進めることを決めた。


その3月の集まりを前にして、月刊ダイバーの広告記事として、池袋の某ショップが某指導団体の資格として、スチューデントインストラクターを定めた。その講習はビデオなどで簡略に受けられるということでもあった、その広告記事に学連の全委員長が顔をだし、これが、学生の求めていたものであり、遠征などでリーダーとして振る舞うのが不安だったが、これで解消するというようなことが書かれていた。それこそが SAIが提案しもとめていたものだった。こちらの SAIが停滞し、終わろうとしている間に出来上がったものだろう。
この資格は関東学生潜水連盟だけを対象にしたものではなく、各大学の同好会、クラブも対象にしているので、ビジネス企画としては、当たるものだと思う。人のビジネスにとやかくいうつもりはないが、この資格には当然、監督コーチは賛同しない。自分としては、どうすることもできない。
 
3月の集まりには50周年に向けて、学連をどのように向けていくかがテーマのつもりであり、ショップの資格などについても、議論をしたいとおもっていた。しかし、この会議をリードすることはできなかった。 SAIが形になっていれば、ともかく、自分は大学を代表する監督でもなんでもない。ただ、おせっかいしているだけだ。それでも、50周年について発言すると、学連委員長から、50周年は自分たちの手で立派にやるから干渉しないで欲しいという発言があった。これは考えてみれば当然のことで学連の50週年なのだから、 OBの自分が中心になることではない。もしも、学連の OB会があり、その中で僕のポジションがあれば別だが、それはない。
 ただ、学連の委員長は立派だったとも思い。その後も僕の方から声をかけるようにしている。しかし、立派だったことの客観的な証明は、50周年をどのようにやるのかであり、先輩の思い、力をあわせて50周年をやろうという提案を断ち切ったのならば、それを見せてもらわなければならない。


 話を第一回にもどして、この3月5日におこなわれた学連指導者の集いは、4大学がそれぞれ発表して、すでに書いたようにこの集いとしては成功であり、このような集いができたことは、各指導者に取って身になるものである。自分のドロップボックスには、これまでの SAIの記録、そして水中科学協会のシンポジウムで発表した各監督の PP,そして、この3月5日に発表した資料もすべて入っており、この会議に出席した指導者、また学連関係者が共有している。2011年3月18日の集まりが流れなくても、これが、この プロジェクトの着陸地点であったと思う。


 この次に学連について、SAIについて、現時点でのまとめを書きたい。そのまとめのために、ここまで延々と書いてきたのであり、また、まとめは書いて来ながら考えたことのまとめでもある。




関東学生潜水連盟 10 SAIがめざしたもの

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 SAIが目指したものは「学生のための、学生のリーダーの資格を、関東学生潜水連盟で作り、運営していく、」そんなことを、2002年にあつまってもらった学生諸君に話した。学生連盟の資格である。 やがては、関東だけでなく全国に拡大する。折から大学同好会の死亡事故が起こったことから、正規の学生連盟の輪を広げて行くことには、文科省も、バックアップしてくれる可能性もある。それでこそ、ダイビングが大学生のスポーツになる。 50年前学連が生まれた時、僕たちの指導の手を振り切って、「学生による、学生のための、学生の組織」を目指したはずだ。スピアフィッシングに反対したこと、真鶴の潜水禁止問題、など、大人の指導組織と肩をならべて発言し、行動した。1000人近いメンバーで活動していた。それから、50年経って、進化したとはお世辞にも言えない。 SAIなど、インストラクターの名称を名乗って、もしもの場合は、SAIが責任を問われる。可哀想ではないか。だからこそ、SAIが必要なのだ。責任をいうならば、今でも合宿や遠征では、常にコーチがついてきてくれるものでもない。そのコーチも監督もいない大学の方が多いのだ。街場のインストラクターやガイドダイバーを、常に雇っているか,と言えば、雇っていないことの方が多い。資格を定めて、資格に見合う運用マニュアル、安全管理責任の規約などをつくり、規約がまもられていること、マニュアルがまもられていることがSAIの責任とすれば、事故はほとんど無くなるだろうし、事故が起こった場合でも、マニュアル、運用基準がまもられている範囲であれば、個人が責任をおう部分がすくなくなる。学連全体でスポーツ安全保険などに加入しておけば、その範囲で収めることも出来る。 事故を防ぐためには、パニックにならない、冷静な恐怖心がひつようであり、基準の限界内での行動が常に行われるはずで、基準を守ってさえ居れば、個人が指弾されることはない。 基準、マニュアル、の制定には、真野先生、河合先生、山見先生が名を連ねて、監修してもらい、もしもの場合にはマニュアルの正当性を盾にして弁護、味方になってくれる。  2002年の最初のSAI講義の際、山見先生がもう少し足場をかためて、慎重にという意見をだされた。 その趣意にそって、合宿マニュアル、講習、トレーニングマニュアル、安全管理について、などそれぞれの大学で書いてもらってプリントにした。 今、振り返ってみると、2008年までに書いてもらった書類を重ねると、厚さが10センチに近くなる。勿論、玉石混交であり、石もゴロゴロしているが、玉を集めて、学連で編集すれば立派なものになる。きちんとした本の形にすれば、それが全国をまとめる拠り所になる。自分たちの作ったマニュアル、基準を自分たちがまもる。  この作業をしていただけで、その間は安全度が高かったはずだ。SAI会議が無くなった今、学生たちはその作業を続けているだろうか。2008年頃には、まとめて、SAIを立ち上げる事はできたと思う。   ダイビングの安全は運用にかかっていると、常に唱えている。学生たちのマニュアルも安全対策主将会議のまとめた練習の基準らしkものは、運用が主体になっているように見える。ソレが、僕の努力の成果であるのか、それとも、少ないながらも監督、コーチの指導が全体に影響をお呼びしているのか、あるいは、学生たち自身のポテンシャルであるのかわからないが、習慣、手順のようになってはいる。その意味では、町のダイビングショップのツアーなどよりは、はるかに安全度は高い。
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 写真は、監督もコーチもいない早稲田大学水中クラブの練習。新入生と上級生のバディ、をさらにもう一人の上級生がみまもりながら行動するフィーメーションができあがっている。  ここまでは、有利な点、ポジティブなことだけを述べてきた。ネガティブな面を見ていくと、まず、時間的、物理的に無理、がある。3年生で学内OBになる四年生をSAIになってもらうのだが、大学生の4年生は、生涯、生涯賃金をかけた就職活動がある。理系であれば、卒業論文があり、勉強が忙しい。潜水でサボっていた奴ほどがんばらなくてはならない。ただでさえダイビング部の人数は少ない。各大学にSAIなどになってくれる学生を見出すことは、ほぼ無理だろう。幾つか、一、二の大学はなんとかできても、全体としては無理だろう。 それに、学生の場合には、現役部員がいなければ消滅する。SAIの場合もある年度にテンションが落ちてしまえばそれで終わりだ。SAIの活動をしていた間でも、立派なマニュアルを書いてくれていた青山学院大学の部が事実上消滅した。そして、事実、僕が他の活動に忙しく、ちょっと息を抜いている間に、テンションが落ちてしまった。こちらが走り続けないとついてきてはくれない。  もう一つの問題が、監督やコーチがいてしっかりと指導しているクラブの問題があった。この監督、コーチが一緒にやってくれるのでなければ、無理をして資格を立ち上げても、長持ちしない。自分が死んでしまえば終わりだろう。僕も70歳をこえていた。何時死んでもおかしくない。死んだ後も継続させるためには、どうしても、監督、コーチそしてOB会を一つにまとめて資格を立ち上がらせなければだめだ。自分の性格として、知り合って、協力関係を続けてきてくれている監督、コーチなどに横を向かれたら、頑張り続けることなどできない。 それからの経過についてはすでに述べたが、監督、顧問、OB会長はほとんど現在の学連とは関わりをもっていない。学連は、学生たちがやっていることであり、完全に別の世界のことである。そして、自分の部の消長、安全維持だけで手一杯である。別に職業をもっているボランティアであり、ちょっとでも気を抜けば事故が起こるかもしれない。そして、その結果に対して責任を感じ、責任を負っている。他の大学とか学連などのことを見る余裕もない。  自分のやってきたことを振り返ると2002年から2009年までSAIという安全のための勉強会を続けてきて。それなりの成果を上げた。2010年から2015年まで、監督・コーチとお付き合いして研究発表をしてもらい、2014年のパネルディスカッションで、指導者の集いを作ることができた。これは、自分の後押しでやり遂げたことだと思う。しかし、2015年には、学連からのこの集まりへの出席は一人、形だけのものになり、学生たちはショップのインストラクターコースに顔を向けているようにみえる。  その結果としての50周年がどのような形のものになるのだろうか、わからないが、40周年と同じ程度のOB会ができれば上等で、あり、その集いと、指導者の集いの関係がどのようなものになるのかは、見えない。もしかしたら、という期待はある。 50週年のあとの50年、100周年はどうなるだろうか。自分としては、60周年を迎える母校の海洋大学については、100年周年までは、40年だから、なんとか現状維持プラスアルファにさせたい。指導者の集いの4大学も、苦労はするだろうが、なんとか現状維持ができるはずだ。学連はわからない。進歩、進化のないものは必ず消滅するのが原則だとおもうから、同好会的な方向に進化するのかもしれない。そして、今の傾向は、ショップのインストラクターをめぐって、分裂する可能性もある。分裂を接着させているのは、学連の水中スポーツ選手権、と全日本室内選手権大会だと僕は思っている。何か一つのことをする目標があれば、接着剤になる。しかし、同好会的な方向とフリッパースポーツとは、背反するから、次第に小さくなり、もしかしたら、6大学くらいに縮小して、続くかもしれない。50周年で何かの方向付けが出来るものならば、15大学くらいを維持して、分裂せずに行けるかもしれない。 指導者を持たない、持ちたくない学生にとっては、ショップの指導資格も安全のためには無いよりもあったほうが良い。このために、分裂の可能性もあるが、すでに指導、安全確認のための組織としては、分裂した状況が古くからあるのかもしれない。 要は、個々のクラブの安全確保と維持である。 概括してみて、2002年に見えていた事故の芽は、消えているように見える。振り返って、馬鹿のようだったとも思うが、悪くはない月日だった。遊んでくれた学生諸君には心からお礼をいいたい。  自分について言えば、まだギブアップはしていない。死んでしまう可能性が高いが、生きていれば、来年あたりから学生のダイビングについてのプロジェクトを立ち上げようと思っている。それが、どのようなものであるかは、今日述べたことから類推できる。なぜならば、この連続したブログを書きながら考えたことなのだから。でも、多分、時間が残っていないだろう。

331 魚の泪

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魚の泪

お花見が始まった。この数年、といっても5年ぐらい前からだが、お花見になると芭蕉の奥の細道への出立の句
「行く春や鳥蹄き魚の目は泪」
が、浮かんでくる。桜が咲き、散るのは、行く春なのだ。

以下の「」は、2007年2月に書いた、ブログ だ。

「作家の大庭みな子(おおば・みなこ)さんが、24日、亡くなった。(2007年のことだ)76歳だった。少しばかり愛読書がある。「魚の泪」「オレゴン夢十夜」「虹のはしづめ」だ。主な著作は、「三匹の蟹」「津田梅子」などだが、重くて読み返す気持ちになれない。訃報の写真も苦悩に満ちたような顔をしている。ずいぶんつらい人生だったのかな、と思ってしまう。
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「魚の泪」は、伊豆海洋公園の創立者、益田一さんにもらった。まだ、クラブハウスには、コンクリの生簀があって、捕まえてきた魚が泳いでいて、亀もいた。二階には、中村宏治が寝ていた。住んでいたとは言い難い。益田さんは、この本がいたくきにいっていたらしく、ぼくにくれて、「ぼく(益田さん)や、須賀さんは、最後はのたれ死にだからね。」といった。もらった「魚の泪」を読んだけれど、どこにものたれ死ぬようなことは書いていない。魚の泪→芭蕉の奥の細道の出立→旅→旅に死ぬ人生→のたれ死に、と連想をつなげるのだろうか。益田さんは、「のたれ死に」にかなりこだわっていて、娘の潮美がパーティで益田さんと話したとき、「君のお父さんとか、僕はのたれ死にだから」と言っていた。潮美としては、なんのことかわからないと僕に聞く。僕もはっきりとはわからない。僕はともかくとして、益田さんはのたれ死ぬ方向には進んでいない。立派な仕事をして、立派な家に住んでいるお金もちだ。きっと、覚悟として旅に死ぬつもりだったのだろう。益田さんは、みんなに見送られて、きっちり死んだ。形の上ではのたれ死にではない。一方の僕は、益田さんの言うとおりの道を歩んでいる。

益田さんのことを書けばブログ10回分ほどの思い出がある。そして、その思いが一つも不愉快なことがない。きっと、袖スリ合った人、だれにも、そのくらいの思いを残しているにちがいない。
 魚の泪は、「Xへ、」という書き出しで、Xへの手紙の形をとっている。Xは不倫相手のような書き方だが、あからさまではない。
 テーマはアラスカのことで、ご主人がアラスカに赴任して、アラスカでの生活の日常をとても美しい文章で書いている。
読んでいて快い。もう一度、引き出して、読み始めている。眠る前に読むのにちょうど良い。

大庭みな子は、96年に脳梗塞(こうそく)で倒れ、左半身不随で車いす生活になった。02年には夫との二人三脚の日々や若い日の追憶を詠んだ短歌を集めた「浦安うた日記」(紫式部文学賞)を刊行して話題を呼んだ。Xとの不倫は作家の創作だったのだろうか。
浦安に住んでいたことも、この「浦安うた日記」のことも知らなかった。けれど読む気持ちにはなれない。「魚の泪」「オレゴン夢十夜」「虹のはしづめ」を続けて読もう。」


さて、ここからが、今の自分だが、野垂れ死にが近くなってきて、ようやく、すこし意味がわかってきたような気がする。やはり、旅のうちに死ぬということだろうか?。


 今、もう一度読みたくなったので書架を探したが、表面にはない。

0401 学生のダイビング補遺

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学生のダイビング 補遺  ついでだから、もう少しばかり学生のことを。 学生連盟の事故の殆どが練習中の事故だ。しかもタンクを着けていない、泳力トレーニングとスキンダイビングトレーニングである。僕の知らない事故もあるのかもしれないが、スクーバタンクを背負った状態では事故を起こしていない。 だから、スクーバダイビングの実行の手順、判断基準を整理して危険の考えられる部分を抜き去って、論理的に組み立てれば、事故は皆無に近くなるはずだ。それがねらいで、SAIでは、何度となく安全対策マニュアルを書くように指導して、トレーニング安全対策マニュアルを提出してもらった。この全部を2014年の水中科学協会シンポジウムの報告書に掲載した。後の時代の学生諸君にも使ってもらおうと、部数を多く印刷した。学連の各部、あるいは学連以外の大学でも、郵送料を負担していただければ、送る。希望者は、学生ダイビング関係者であれば、jaus2010@gmail.com にもうしこんくれれば送料負担で送るこの報告書が10年間のSAIでの形になった成果である。分析した上で、総合的なマニュアルの原稿をつくり、みんなでディスカッションしたいというのが次の目標だったのだが、実現しないで終わってしまった。未だ未練は残っている。
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 そして、このマニュアルで一番分量的に多く書いてくれた青山学院大学海洋研の休部状態が続いている。フィッシュアイの大村さんがOBなので、なんとかレスキューできないものかと相談したが、OBがなんともすることはできない。 監獄 コーチの集いに現れてくれない獨協大学がわかりやすく先進的なマニュアルをかいている。海洋大学、学習院大学、芝浦工大、上智大学、早稲田大学水中クラブも検討の資料になる。この辺りをまとめて分析すれば、答えが出てくる。 ただ。一番事故がおおいスキンダイビングについては、不十分で、このこともスキンダイビングでの事故の可能性が大きい理由かと、スキンダイビングセーフティという本を書いた中で、学生の事故を一章を設けて論じている。ポイントは、スキンダイビング事故は上手なもの、上級生、主将、などに起こりやすいことだ。 2006年には、安全対策主将会議に「部活中に事故が起きた時の責任と、その責任は誰が取るのか、その理由」とアンケートを出して書いてもらった。これも2014年の報告書に掲載しているが、これはもう振幅が大きい。例えばこんなのがある。「社会、遺族に対しては、上級生全員で責任をとる。学校に対する責任は、関係者は退学」「直ちに廃部」というのもある一方で「イントラさんが責任をとる」というのもあった。これが悪いとはいえない。一般レジャーなみだというだけだ。学連として、総合的な規範を決めるべきだと考え次のテーマにしようと考えているうちに、学生が離れてしまった。学生とは一過性のものなのだ。 振り返って反省すると、SAIは、なんとか学生と監督コーチをまとめようなどと見込みのないことなど考えないで、次々とテーマを決めて各大学に書いてもらい、分析して、報告書をつくるサイクルを繰り返し、それが各部、各部員全体にテキストとして渡るように印刷して配る。そんな活動をもっと積極的にするべきであったのかもしれない。 しかし、それでは一時的なものになってしまう。一時的なものとしては、2008年までの成果で十分ではないものも、一応の成功と考えた。成功は全て、一時的なものだ。継続させるためには、どうしても監督・コーチを巻き込んだ形でなければだめだとかんがえた。まちがいではない。読みが浅く、戦略的に失敗をした。 諦めはしていない。別の視点、別の切り口からできないか考えている。 こんなことを考えている自分を見て、何だろうと思う。学生にも、監督 コーチにも依頼されたわけではない。ただ、学生の事故を見たり考えたりしたとき、野放しにしておいてはいけない。できるだけの事をしようと、心に決めたから、という他無い。

0401 マリンダイビングフェア 2016

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マリンダイビングフェア2016 足が棒になっている。つかれているので、ブログを今夜書くのはちょっとつらい。しかし明日になればまた明日の風が吹いてしまう。
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                     ガイド会の写真展示
 午後から出掛けた。豊島区の文化センターで村上商事の村上くんが別の小さい展示会をやっていて、それに仲間、マスクマウントの石川さん、アルミタンクの杉山さんが出展している。僕もハイブリッドシステムを展示したいとおもっていた。海でのオペレーションのビデオがあれば、絶対に出展したが、ただ、器材だけでは、二の足を踏んでしまった。6本組のタンク、タンデムのフルフェイスマスクなど、見栄えはすると思うのだが、映像も無いし、パンフレットもない。見送ってしまった。村上くんに来年こそは是非、といったのだが、来年があるかどうかわからないような答えをされた。 始めたことは、どんなに無理をしても、最低5年、10年続けなければいけない。継続こそが生命だ。頑張って続けてほしい。 2時半頃に行ってしまったら、展示の開場は16時身体という。ロゴシーズのスズキさんと、話し込む。80m潜水は全部ロゴシーズで連絡し会おうと思っている。エマージェンシーに備えて、有線通話のラインも使うが、原則として無線でやってみよう。僕の80m潜水がその通話テストの意味ももたせたい。なぜならば、有線はもう使いこなしているので、チャレンジにならない。
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中部潜水の山崎さんのROVが展示してある。思ったよりも小さい、そして、映像がとても綺麗だ。ただし、器材の価格は1000万程度だという。僕たちの予算は30万ぐらいのROVだ。まだまだ先のことになるだろう。しかし、彼には、僕の昔の会社、スガ・マリンメカニックが一緒に仕事をしている。もっかのところ、両者にとって助け合って、良い結果がでている。このROVでの撮影の成果を、先日、僕が発表した人工魚礁の研究会で発表すれば良いのに、僕がスガ・マリンメカニックをやっていれば発表する。今スガ・マリンメカニックをやっている、田沼くんも優秀なのだから、今度、気合を居れておこう。  この写真を撮ったあたりで、ニコンのAW130の電池が切れた。コンデジのわるいところだ。 サンシャインの会場に移動する。この辺りでもう歩くのが嫌になっている。お台場でひねった足の痛みがまだ消えていない。  鍵井くんの写真が大伸ばしで、入ったところに展示している。舘石昭のスペースがこれに代わったのか。なるほどと思う。 鍵井くんがいたので、久しぶりに話をしようとおもったが、フアンの女ノコが長話している。フアンの方が大事だからと、僕は先へすすんでしまった。でも目礼的挨拶はしたから、それで良い。 何か、あまり大きくのばしていない、小品写真展のようにずいぶん大きい部屋の壁面を一線に並べている。ゆっくり見る気持ちになれない、全部見たらたいへんだ。出している人が何らかの形で教えてくれなくては。次はガイドの写真展が続いている。これは、水中写真の宿命なのかもしれないが、並べられると、去年も今年も、同じように見える。展示の難しさだろう。
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 アクアパッツアの山本さん。これまで、どう言うコンセプトでハウジングを作っているのだ、とか、ずいぶん悪口を言ってきた。ようやく、僕がほしいなと思うハウジングが出来るようになった。しかし、カメラが40万でハウジングが30万、そのくらいのお金だったら、なんとかなった昔ならば、きっとすぐに買っただろう。 次々と友達と会って話し込む。新藤さんとは放射性物質の話。TUSAとは、新しいダイブコンピューターの話。小売が10万だという。丁度ダイブコンピューターを失くしたところだが、買えない。 丁度、この展示会の名誉会長の河野洋平氏が通った。秘書をよく知っているので、声を掛けたら河野さんに伝えてくれて、さすが政治家だから、僕のことを忘れていなかったようだ。これも過ぎし幾多の空中戦の名残だ。  フィリピンの下釜さんのところで記念撮影をされてフェイスブックにでていた。今後この業界がどうなるのか、話し込んだ。長くなるのでその話は書けないが、長い下り坂を下っていて、昔日の勢いは取り戻せないように思う。このフェアも出展者が少なくなっている。毎年、ヤップ島の安田さんに会えるのだが、今年は姿が見えなかった。もしかしたら所要で席を外しているのかもしれない。  疲れて、山入端さんのところで椅子に座り込んだ。石川さん、玉置先生、中村君にであい。腰を降ろして、鳥友のない話をして、今度は石川さんとともに、もう一度、村上コレクションに戻る。今度は4時から開店しているから、ずいぶん人が入っていて、久保くんもきていて、杉山さんとゴンペッサ、シーラカンスの展示を見て話し込んだ。シーラカンスについては、僕も縁が深く、飾ってあるパンフレットには、水中撮影監督 須賀次郎とクレジットが出ている。これも話せば長い話だ。僕もシーラカンスのウロコを何枚か剥がして持っていたのだが、紛失してしまっている。吉野スージーとも楽しく話をして、石川さんと一緒に足を引きずって帰ってきた。石川さんは明日も来いという。主治医の河合先生が公演するのだから、患者は行くべきだと石川さんはいう。 さあ、どうしよう。

0402 ブログを書くということ

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ブログを書くということ。自分にとって、ブログを書くということは考えていることであり、考えたまま、キーボードを叩いている。それを十分な推古もしないでナマのまま出している。そんなことで良いのだろうか。だから炎上という事態も起こりうる。だから、やめようと思いながら、10年続けてしまった。会う人のずいぶんたくさんからブログを読んでいますと言われる。読んで、どう思われたかは、わからない。だいたいは良く言ってくれるが社交辞令ということもある。 自分にとって見ると、10年間を整理してみると、考えさせられることが多いし、エバーノートに貼り付けてみたら、次のことを考える資料になる。 3月は、一ヶ月通して、学連のSAIのことを書いた。およそ10年の年月を、あまり飾らないで、その時の事を思い出して書いた。途中でバカバカしくなり、嫌になって、話題を打ち切ろうとも思った。そして、全体をまとめると、今だったら、今から始めるのならば、こういう失敗はしないだろうと考える。それがブログを書いて得たものだろう。
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このごろ読んだ、ウブカタテイ(検索しても漢字がでてこないペンネームの人)の「ライトノベルの書き方」という文庫からの抜き出し。この本は良い本だった。「体験とは、個人的な実感で、誰にもつたえようがない。多くの人に役立つように、伝えられる形にしたものが経験である。文章を書くことで、体験から経験に跳躍できる。」 ブログは体験から経験に跳躍できるだろうか。  読む人にも、経験を読むことによって考えてもらうことができたとすれば、それも効用だろう。昨日、フェステイバルで、元NAUIの丸山さんから、「ブログ読んでますよ」と言われた。丸山さんは法政のOBで1973年のフリッパーレースのチャンピオンで、NAUIの社長だった。何度も親しい接触がある。僕の視点からの学連をみるということは、それが成功談でないので、面白く、何かの参考になるかもしれない。 フェステイバルで写真を撮られた、自分の姿を見ると、見苦しい爺になっていると悲しくなる。それはそれで、どうにもならない。後何年でも無いのだから、直球勝負する他無い。それにしても、もう少しなんとかしたほうが良いと、河野洋平に挨拶をしている時の横から新藤さんに撮られたスナップを見て反省した。 。

0402 マリンダイビングフェア -2

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今日(4月2日)のダイビングフェア、お世話になっている河合先生が講演するので、聞くつもりで、でた。例によって時間間違えで、遅刻してしまったら、満員で入れない。満員ならば、人数になる必要もないと中には入らなかった。その後、食事をしながら、ゆっくりお話し出来た。カメラマン関係では鍵井くんと握手することが出来たし、マリンダイビングの北川君は向こうから声を掛けてくれた。どちらかと言うと、シャイなので、声を掛けてもらえないと、話ができない。フェイスブックとかがあるから、何をやっているのか、お互いに見えてしまっている。親愛の形を伝えることができれば、それで良いのだ。あと、このごろチュークの沈没船で活躍している古見くんにあっていない。トラックの沈船は亡き吉村の舞台で、全部の沈船を二人で潜った。今度は、一度、古見くんと一緒に行きたいなと思っている。思っているだけで終わると思うが、とにかく思っている。伝えたい事もある。
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今日はかなり満員で、PADIビレッジでは、人をかき分けて歩くのが大変だった。この業界の右肩は上がっているのか下がっているのか。その内側にいる人は、いつでも難儀だから、良いようには言わない。僕は調度良いスタンスの局外者だから、冷静に判断することができるかもしれない。自分の潜水のスタイルでの頂点は、1970年代で、1980年にPADIジャパンができて、リセットされた。C-カードの統計は、1980年あたりを基点(0に)している。それから、そのスタイルでのピークは何時だったかは、立ち位置によって異なるが、1995年頃から、下り坂に入り、以後、ゆるやかな下り坂が続いているというのが僕の視点からの観察結果だ。その下り坂の中で、ダイビングフェスティバルは、終末を迎え、規模を縮小してダイブビズショウになって、今年ぐらいで、落ち着いて来たように見える。マリンダイビングフェアはあまり陰りを見せずに盛況を続けてきている。ダイビング器材メーカーが後退して、ダイビングショップ、国内外のダイビングリゾートのフェアになっている。ダイビングリゾートは、海外が勢いを失っているように見える。別に書こうとおもっているが、全般的に、この業界、変換期に来ているように感じる。しかし、このマリンダイビングフェアは、まず写真の展示があり、撮影機材メーカーがあり、パディビレッジがあって、SSIがあり、続いて国内のダイビングリゾートが並び、セミナー会場のコーナーが有る。セミナーはDANと社会スポーツセンターなど、資格更新にかかわるがセミナーもやっていて、一旦外に出て、階上にあがって海外リゾートがあるというフォーマットは、定着しているし、これをキープしていけば、続けられる。ダイビング業界の変化、変革について、もう少し良く考えなければならないから、ここでは書かないが、このフェステイバルに足を運ぶ事によって感じることは、とても大きい。
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 さて、それから、村上商事が、歩いて10分ほどの場所、豊島区文化センターで、別の展示会をはじめた。これに、自分の知人、JAUSのメンバーの杉山さん、石川さんが展示している。自分もハイブリッドを展示しようとしたが、未だ、動いている姿の映像が無いので、やめにした。なかなかの盛況である。無料で、机一つ置けば展示ができて、そこに三日間通えば、ずいぶんと大きい効果がある。費用がほぼゼロでもできるから、費用対比効果は大きい。しかし、だからこそ、本体のフェスティバルとの摩擦はあると思う。摩擦の結果がどのような結果になるかはわからないが、どのようになったとしても、これは変化の芽であり、この芽をフェステイバルが上手に取り込むか、村上くんが根性をだすか、別の形になるか、だが、これが、フェスティバルの一つの変革になりうるとも思う。例えば、出店者が減って、隙間が出来た。有料写真展もなくなった。そのスペースを小さい写真で埋めた広場がある。区民センターの何倍かのスペースがある。普通に考えれば、足し算引き算ていどの計算能力があれば、答えはでる。どうなるのか。
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書くことがたくさんあり、それぞれが頭のなかでもつれ合っているから、また4月一杯は、この話題の周囲をめぐる事になるだろう。支離滅裂になっても良いから、考えながら書き、ある程度のまとめが出来る様になればまとめる。このフォーマットが良いと、ブログ整理のあと、思っている。

0403 マリンダイビングフェア 3

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今日はマリンダイビングフェア三日目で、3日続けて行くことになる。どうしようか、迷ったが、もう少し見ておきたい、考えたいことがあったので、でかけて行った。最後の日なので、倉田君につきあってもらって、出展を普通に見てまわり、チラシなどももらったりした。PADIヴィレッジでは、何となく各ショップが特別に作ったカードをみあげて、何でもカードにするんだなあ、見習わなければと考えたりしていると、PADIの島谷君が声をかけてくれた。 こういう会場で、こちらから声をかけたいとき、その人が誰かと話していると、横から入り込むのが好きではない。自分が話しているとき割り込まれるといやな思いをするので、割り込みたくない。ちょっと挨拶をするだけにしている。しかし、それだけで、離れていくと、なーんだ、と思われるといやだな。などと気遣いしてしまう。 また、まっすぐに歩いている状態だと先を急ぐのだと遠慮してしまう。そんなことで、遠慮したのに、向こうも気づいていて声をかけないことを気にしているといやだとも思う。中央の藤島監督は二回すれ違ったのにこえをかけなかった。気を悪くしていないかときしている。そんなことで、話に割り込んで、一言挨拶だけして終わりにした人もいる。また、話し込んでいるときに、割り込まれて、話途中で引いてきたこともある。それやこれやで、フェアの階上では、あまりじっくりお話ができなかった。一方で、区民センターの方は、ゆっくり話ができた。 なかなか、難しい。そんなことで、新しく、親しく話ができた方は、だいたい、村上コレクションでのことだ。
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 ジュリア 重城のり子さんはフェイスブックで、なんとなく親しい人になっているような気になっているが初対面だ。フェイスブックの効用といえば良いだろうか。そんなコミニュティが形成されてしまっている。この環の中に入っていないと、知らない人、知ってはいても、思い出せない人になったりしている。 実物も面白い人で、実物の方がチャーミングで、FACE という小さな写真集をいただいた。海の生き物が顔に見える写真集だ。富津を彼女の活動ホームにしていて、富津は僕も昔、何度も貝採りのヘルメット式潜水器の撮影に行った。村上コレクションはジュリアのような人の展示場になっていたりする。  吉野スージーとは、2日にわたって、ずいぶん長いこと話をした。シンポジウムでお花をいただいたりして。親友のようなものだ。吉野ユースケの撮影のフィールドであったチュークの話し、互いの知人のあれこれなど、話した。 田端重彦さんは、デザイナーで、月刊ダイバーの構成などをやっておられて、僕のグラフィティも作ってくれている。あの続きはないのですか、とか半ば社交辞令、なかば本音かも知れないご挨拶を頂いた。グラフィティというよりも、今の話になってしまうのだが、80m潜水が終わったら、何か書こうと思っているが、雑誌よりも単行本かもしれない。単行本は恐ろしいもので、水中科学協会が始まってから3冊の本をだしたが、その自分が売ったノルマの売上が、100万を越していて、その100万がどこに消えたのか、よくわからない。自分が使ってしまったことは間違いないのだから、仕方がないが、新しい本を書くのは覚悟がいる。雑誌には、今度は交遊録的に、ダイビングの移り変わりを見ていくテーマで書きたいともおもっているが、出来るかどうかわからない。 女川のハイブリッジ、高橋さんは、女川原発のスガ・マリンメカニックのしごとも手伝ってくれていたと挨拶された。前年なことに、スガ・マリンメカニックノ女川の現場には行ってことがないので、始めてお目にかかった。女川に潜りに行くことがあれば、と思うけれど、ちょっと難しい。 三陸ボランティアで活躍している佐藤さんも声をかけてくれた。前から話しをしたいと思っていた人で、共通の友人として、清水まみ もいるので、話が出来てよかった。今日の収穫の一つだろう。 水中科学協会でずいぶんお世話になった竹内勝俊君と再会した。これは昨日で、フェア会場で出会ったが、僕が移動中だったので、もう少し話したいのに、話せないで別れてしまった。水中ライトの輸入なども考えているということなので、是非、とお願いしておいた。安くて明るいライトならば、未だ売れる余地がある。 こんな風に挙げて行くと際限もないので、打ち切るけれど、僕がフェアに行く、目標の大きな部分だ。最近の交友とは、フェイスブックでだいたいどんなことをしている人なのか見当がついていて、このようなフェアの機会に確認するというパターンである。それにしても、自分にシャイな部分があるので、スマートにできず、かなり頑張らないと、上手く広がらない。それは、必ずしもマイナスだけではないと、自分で思い込むことにしている。それにしても、残念なのが、その人の海に、そのうちに行きたいと言いながら行かれない、自分のフットワークの重さだが、

0404  シーラカンス

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先日、10年分のブログを整理してみて、公表してはいるけれど、これは、自分のログであり、思考する道具、思考した記録であって、10年分をまとめて眺めてみて、繰り返し同じテーマをかくことは、良いことであって、繰り返して書くことで先に進んでいることがわかる。だから、繰り返しは厭わない。また、ある程度連続して、内容にも関連性をもたせてあとでくくれるように書いた方が良いとも考えた。 今は、ダイビングフェアで様々な、起きたことやったこと、考えたことをくくって書いている。 本当に久しぶりで小久保に会った。彼は、スポーツ指導者の講習を受けないと資格が切れてしまうということで、フェアで行われた講習を聴きにきたのだが、そのあとで、で自分が、池袋のカルチャーセンターで講演をするとかで、それが終わるまで、村上コレクションで待ち合わせた。僕は、そのことを忘れかけて、スージーらみんなに挨拶をして帰りかけて、はっと気が付き。このまま帰ってしまおうかとも思ったが、GWには彼と海に行きたい。その打ち合わせをしなければと、会場に戻って待った。  彼が来てから、会場のシーラカンスのビデオを一緒にみた。これは、昨年、2015年のマリンダイビングフェアにもきたローレン・パレスタが水深120mで撮影したものだ。シーラカンスは、僕も追っていた時代があり、村上くんとの商売以外でのお付き合いは、シーラカンスがきっかけだった。昨年だったか一昨年だったか、村上くんは、シーラカンスの絵を彼のダイブビズショウの出展に飾り付けて、日本人のシーラカンス探検隊をやりたいのだという。日本人のシーラカンス探検隊だったら、僕も関わったことがあると言って、自分の資料も貸した。貸した資料は戻って来ないで、今回の展示にも使われている。僕も水中撮影でシーラカンスを撮ろうとしたのだが、結局、当時のダイビング機材と技術では、生息している深さまでは潜れなかった。今回の村上くんの展示は、シーラカンスが芯になっていて、ローレンパティスタのビデオが表、僕がの水中撮影監督として、加わったビデオがその裏で展示されている。表というのは入り口に面していて、柱の裏側だ。僕は、現地に出発する寸前に現地コモロの政治情勢がわるくなり、出発できなかったので、僕は名目だけの水中監督であり、映写しているビデオは、予備調査の撮影分だ。予備調査に加わったのは、現在スガ・マリンメカニックの社長をしている田沼くんであった。
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 撮影禁止などと書いてあるが、僕の資料を無断でつかっているし、この魚拓も、スガ・マリンメカニックの事務所の冷凍庫に置いてあったものからとったのだとも思われるので、良いだろう。 ローレンは、テクニカルダイビングの技術で120mに潜って撮影することができた。テクニカルダイビングができた効用の、軍事的な目的を別として、役に立った数少ない例だろう。駿河湾にもシーラカンスが居てもおかしくはないし、そういう噂もある。TDIの展示に来ていた田原くんは村上くんの同級生だとかいうから、駿河湾のシーラカンスの撮影ができるかもしれない。夢を見るということは良いことだ。  この11日にJAUSのワークショップでやる、久保くんの水中スクーターをこのシーラカンス撮影で多用している。 シーラカンスだけではなくて、じっくり見ると潜水技術についてよく理解できる記録であった。僕のハイブリッドもこんな撮影ができると良いのだが、スポンサーも無いし、難航している。  小久保君は理論天文学の東大教授であり、最年少で教授になった。僕としては一番近しいダイビングの弟子であり、沖縄の大型浮き漁礁調査とか、ポートリンカンの頬白鮫撮影とか、連れ回して、東大の海洋調査探検部の指導を任せている。探検部はその発足以来、僕がコーチをしていて、その時期に小久保くんを教えた。探検部ともご無沙汰してしまっているので、ハイブリッドのテストを本郷の東大プールでやりたいこと、毎年やってきた、ゴールデンウイークのツアーを昨年は、小久保が参加せずに、緑ちゃんと波左間のマンボウランドに潜っただけという惨めな結果だったから今年は、小久保も来るようにして、毎年のように行っていた赤沢にしようと打ち合わせた。 自分も今日があって明日がない、そんなことを40代から言っているが、さすがに80代になると真実味を帯びてくる。何時も一期一会だ。 僕の80mは、10月を予定している話もした。10月はもうすぐそこ、明日なのだ。 いろいろなことをやりすぎているが、命のあるうちに、と思うとそれぞれ、切り捨てられない。 

0405 ダイビングフェア 5

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 ダイビングでなにをするのか、と言えば、まず水中撮影だろう。現在、この世の中では、撮影されていない、画像になっていないものは、存在していないもののようだ。撮影をしないで文章だけで表現したいと思う。しかし、画像が使えるならば使った方が良い。スマートフォン端末でカメラ機能のないものはない。端末は誰でも持っている。だから、どこででも何でも撮影してしまう。自分で自分の記念写真を撮ってしまう。10年前には、そのような機運はあったと思うが、ここまでにはなっていなかった。だから水中撮影も変革した。自分たちのことを言えば、マスクマウントなど、何にでも載せてしまうウエアラブルカメラを多用するようになった。昔のことをよく書いているのだが、あのとき、今のようにカメラを多用していて、どこにでもカメラがあって撮っていたらよかったのにと思うことが多い。たとえば、この前テレビに出演して、大島の大噴火のときに水中に潜って、水中に降り注ぐ噴石を撮影した。一つの伝説を作った映像を紹介したが、その時、僕の撮影を受けている船の上にカメラがなかった。噴石は当然、船の上にも降り注ぎ、船のガラスは全部割れた。その映像がないのだ。ディレクターが悔しがったが、今ならば、4台ぐらいのカメラがあり、すごい映像が撮れただろう。脱線からスタートしてしまったが、とにかく撮影する、画像を制作することについて書こう。
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ダイフェアで、地球の海フォトコンテスト2016が大きいスペースを取っている。スペースがもったいない、無駄だなどと書いたりしたが、撮影こそがダイビングのすべて、であるとすれば、これが妥当なのかもしれない。日曜のように満員だったならば、このくらいのスペースがないとゆったりと見られない。とにかく下手でもなんでも飾ってあげようというのは、大きなサービスだ。 自分の視点から作品を見て、どうにもならない写真もあるが、平均的にそれぞれ上手だし、先日見に行った、「海で逢いたい」写真展と比べても、入選した作品については、それほど見劣りはしない。それでも、なにをどういう形で撮ったのか(被写体)、なぜ撮ったのか(表現の意図は)、とか考えると、なんだかわからない作品が多い。水中撮影は、瞬間的な判断であり、感性の勝負であるが、だからこそ、コンセプトを整理しておかなければならない。 まとめて言うと、意図、被写体、切り取りかた、撮影技術(機材も含めて)、そして感性であるが、プロのカメラマンは、これらについて生活をかけている。 僕も生涯の一時期、大学時代かな、スチルにかけたときがあった。しかし、東亜潜水機で、ものつくりの仕事をしていて、次は指導の仕事をして、安全だとか、危険だとか、資格だとかいろいろあって、ブランクになり、自分の会社で撮影の仕事を始めた時には、調査の仕事が主となり、そのあとはテレビ番組撮影、最後は太画面展示映像の撮影と歩いてきて、プロのスチルのカメラマンとは、ジャンルが違ってしまって、スチルで肩を並べようと意図することにはならなかった。 そして、テレビや映画の監督は、カメラマンが現場でスチルを取るのを嫌う。特に水中とか自然相手の場合、ベストショットがスチルだったら、そのカメラマンとは二度と組みたくは無いだろう。テレビの仕事はチームプレイであり、カメラマンはチームの中心でもある。水中撮影でも動画の仕事はチームプレイであり、スチルの撮影は個人プレイだった。 それでも、大型展示映像を撮るようになった時には、シャッターを押すまでは観察したり考えたりする時間がある。フイルムで撮る事が多かったので、僕はニコノスⅤを露出計代わりに使って、少しはスチルが撮れた。たった一冊出した写真集は、人工魚礁の写真集だった。これは産業写真の分野になる。 村上コレクションで、吉野スージーと話した。ユースケは、いろいろ誘いの話はあったけど、ビデオカメラで動画は撮らなかった。それが良かったのだと僕が言うと、隣の芝生は緑で、両刀使いで稼いでいる人が羨ましかったらしい。 しかし、スチルで名前が出てくると、名前を買って、その人に動画も回させたくなる。動画のカメラマンとしては、それを見ていい気持ちはしない。うちの中川も、水産大学潜水部の後輩である古島もスチルは遊びでしか撮っていないはずだ。そして、動画のカメラマンとしては、スチルのカメラマンのように名前が上がった人は殆どいない。例えば、ダイビングフェアでトーkショーをやったりすることはない。 しかし、この頃は、動画から切り出したスチルでも、スチルとして勝負できるようになった。カメラマンも動画と静止画の区別はなくなるはずだ。それにしても、やはり、テレビなどの動画のカメラマンは職人としての位置づけが強く、スチルのカメラマンは芸術のような顔をする。  さて、アマチュアの地球の海コンテストだが、やはり意図があるように見える作品、意図を後から説明づけることができるような作品が選ばれるのだろう。選ばれた作品は、選者の感性と、好き嫌いで選ぶのだが、大体は的を得ている。被写体と光、自然光の使い方と思いつきの良さで決められているように見える。グランプリのトップ、環境大臣賞は、ジンベイが上を向いて光とともに餌を食べている絵だが、勿論悪くは無い写真だが、だからなんだという答えがでてこない。そもそも環境部門というのがどういう基準なのかわからない。環境問題を提起するのか、なんとなく環境を考える。環境つぽいとか。ガラスに反射してしまうので、綺麗に写らなかったので、写真の良さが分からないが、もしかして、撮影禁止なのかもしれない。きれいに撮れていなくて者sンに可哀想なので、ここには出さない。
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準グランプリのクラゲ

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 エルニーニョで白化したイソギンチャクとクマノミは、きれいな写真だが、温暖化という着想から3位になったのだろう。環境というリテラシーで考えると、エルニーニョでイソギンチャクが白化しても、クマノミは元気、という意図なのか、やがてはイソギンチャクは死んでゆくだろうと心配している意図なのかわからない。説明は意図的に読まなかった。読んでなるほどと納得するのでは、まずい。
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 入選した作品では、一緒に歩いていた倉田君の友達が撮ったものがあり、倉田君も同じところを撮ったとスマホで見せてくれた。倉田の方がよかった。エビがどっちをむいているかの差だったけれど。 とにかく、アマチュアが一生懸命に撮った作品が並んでいて、水中撮影を盛んにする、すなわちダイビングを盛んにするという役割を具体的に果たしている。  いろいろ言うことを言うけれどマリンダイビングフェアはコンセプトがきっちりとわかりやすい。まず撮影作品展、次に撮影機材、次にダイバー予備軍が多く集まる場所柄で、C-カード講習、遊びにゆく日本のダイビングスポット、海と島の旅、トークショウ、アトラクション、セミナーがあり、階を上がって、世界のダイビングリゾートと並んでいる。優れた企画であり、優れた催しであり、だから続いているのだとおもう。 このコンセプトから外れたものとして、村上君の展示がある。僕にとっては、これがあったことが、今回のダイビングフェアに三日も通う気になり、通うことができた。と言って、これをフェアの中に含めてしまうと旧ダイビングフェスティバルになってしまう。とにかく、別のところで、ゆっくりと話しあったり、見たりすることはとても良かった。機材方面は、ダイブビズショウがその役割を果たしていると言っても、勿論機材もでているけれど機材だけではなく、吉野スージーのように写真もでているし、ジュリアも出ている。僕はフリーゾーンという言葉がこれに当てはまると思うのだが、主催した村上くんは、楽市楽座だという。フェアとの関わりもあるので、難しいかも知れないが、もし僕が、ハイブリッドに成功したら、飾って見てもらうところは、ダイビングフェアでは、コンセプトが合わないし、ビズショウでもない。フリーゾーンが欲しい。
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また脱線している。今日は撮影について書くつもりだった。長くなるのでここで一旦切ろう。

0407 マリンダイビングフェア 6

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撮影機材のセクションに入ると、まず、オリンパスのブースが大きい。TGは、良いカメラで、これだけで水中撮影はなんとかなる。地球の海 展示ではコンデジのセクションもあったような気がする。そういえば、この大型展示をもう少し丁寧に見ればよかったと反省している。しかし、なにかカメラのグレードで作品の価値がきめられてしまうのか、と思う気持ちもある。第一日目は、素通りしてしまった。三日目にようやく、入選というところだけみた。むしろ、そこまで到達しないレベルの写真ももっと丁寧にみるべきだった。  オリンパスTGは、よいカメラだけれど、裸のままでは水没が多い。プロテクターを売りたいためにあえて、水密機構で手抜きをしているのか?僕のTG-2は、水没した。一度開けた蓋を閉めるときに不注意だった。そして、ニコンのTW130に変えた。こちらの方が水密機構としては、信頼出来そうだ。裏蓋(横の位置にある電池とカードのための蓋だ。)をきっちりしめていれば、まず大丈夫のように見える。しかし、裏蓋の閉め忘れ 警告が出ない。そして、友達の一人は、裏蓋を閉め忘れて水没させたが、修理できたらしい。蓋の閉め忘れ警告が出ないところが、このカメラの欠点だ。 そのニコンのブースがここに無いことが寂しい。ニコンと言えばニコノスで水中撮影機材の中心だったのに。オリンパスにとって代わられてしまっている。  次にハウジングだが、僕とハウジングのグラフィティをここで書こうと思ったが、随分の長編になる。イコール自分の写真史にもなってしまう。それに、使う写真も集めなければ、書けない。これは別にしよう。僕の体験した最初かあ、撮影機材でグラフィティを書くというのも、悪くない。ここではダイビングフェア展示のハウジングについてだけ書こう。 ハウジングメーカーは、フィッシュアイ、SEA&SEA イノン、アクアパッツアが出展している。ちょっと見では、あまり変わり映えがないので、じっくり、説明を聞いて見ることをしなかったことを、これも少し反省している。アクアパッツアだけが話し込んだ。ようやく、他のメーカーに並べるグレードのハウジングができていた。
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               アクアパッツア

 フィッシュアイもSEA&SEA もイノンも、各メーカーとも10-20万の中級機と20-30万のフラッグシップ型を出している。 大きいフラッグシップ型は、残念ながら使ったことがない。ハウジングが25万から40万、カメラとハウジングは同じ程度の価格となっているのが普通であるから、50万から70万の買い物になる。僕の現在の撮影では、50万から70万の投資をする価値がない。
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           フィッシュアイ
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                 イノン
残念ながら、この手の、このハイグレードのハウジングを使い込んだ経験がない。その前の世代のハウジングまでは、チューニングをして使った経験がある。フィッシュアイのハウジングでキャノンの一眼レフが入っていて、小型軽量の一眼レフハウジングで、小型軽量ということで買った。2回水没させた。2回とも、ヤフーオークションで、安いのを見つけて使っている。レンズが18mmからのズームなので、サイズが中途半端で、気に入った写真が撮れていない。 自分としては、そろそろ、70万クラスのカメラで撮影をしてみたいなあ、とは思う。ダイビング現場に行くと、何台もの大型高価カメラが、水に漬けてあるのをみる。こういうカメラを持つダイバーが、地球の海コンテストに作品を出したりするのだろう。 もうひとつ、気づいたのは、ビデオカメラのハウジングが表舞台にならんでいないことがある。一つのカメラで、動画も静止画もとることが一般的になったので、動画専門のカメラというのがレアになった。 
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               SEA&SEA

 フィッシュアイ、 SEA&SEA イノン、を比べてみると、 SEA&SEA が人の集まりが少ない。ダイビングフェスティバル時代に大きな贅沢なブースを作って、勢いがあったのに。ストロボメーカーに買収されたので、なのかもしれないが、ライトで出遅れている。イノンはライトも主力製品だし、フィッシュアイはライトの話をジェイキューで講演した。それにRGブルーというライトも評判が良い。ライトの選択肢のなかにSEA&SEAは入っていない。ネットを調べてみたら、ライトのラインアップがない。人工光は、ライトの時代が来ているのに、イノンに抜かれてしまう。イノンの井上君は、僕と親しく話してくれる。去年亡くなってしまったスガマリンメカニックの米田と日大の同級だったとかきいている。必ず社長自ら展示ブースに来て、説明をしている。話に行こうかと横目で見たが、買うものも無いし、お客がたまっていたので、今年は話をしないで過ぎた。フィッシュアイの大村君は学連のダイビングクラブ出身だし、僕もよく買っている。 SEA&SEAも昔から積算すれば、一番たくさん買っているし、埼玉の工場にもよく行った。ただ、マネージャーと仲良くなると、別の会社に移ってしまう。現在は知っている人が皆無だ。そんなことはどうでもよいようなことだけれど、ストロボメーカーに買収された結果なのだろうか。

0411 館山調査 1

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館山、塩見の魚礁調査。レクリエーションなのに、調査というタイトルで潜水している。レクリエー分際でと考えるのは、自分が、長らくプロフェッショナルだったからだろうか?レクリエーションと、プロのちがいについては、何度も書いているが、ダイビングという行動については、何の差もなく、お金のやり取りの差だけである。一番重要なことではあるが。レクリエーションダイビングにリサーチを定着させようと考えて、長らく自分の仕事だった人工魚礁調査をチームを作ってやっている。リサーチ、調査とは、探検のことなのだ。ダイビングで、探検は推奨されるが冒険はいけない、などという人もいる。この問題も、度々、論じてきた。とにかく探検というリクレーションはありだ。 何事によらず、その定義、あるべき姿について論じることは良いことなのだが、今回はその方向へは、脱線しない。  探検の技法として、あるいは、主題として、探し出す、位置を探るという本質的なテーマがある。 同じ位置に必ず行く、繰り返して定点で観測、観察することが、調査、探検の重要部分である。人工魚礁調査もそれに他なら無い。目的の人工魚礁に行き着けなければ、はじまらない。  出かけていく塩見の魚礁は、位置をロストしてしまっている。ロストしてしまった理由は、位置情報をメモしておかなかったという基本的な怠慢、あるいは知識の欠落が原因である。 それを良いことにして、位置の出しかたについて、ここで述べよう。なにもランドマークがない海での位置情報は、昔は山立て、六分儀による陸測、これは六分儀で山立をするようなもので、学生時代はこの方法に頼った。岸がはっきり見えない、九十九里沖などでは、電波測距儀による距離測定もやったが、これは、50m程度の誤差がある。今ではGPSで一切が解決している。六分儀は錆びついている。今更、GPSについては説明しないが、衛星からの情報で自分の位置を知る、緯度と経度の数値である。 僕は、GPSとして、ガーミンというメーカーのものを、2004年から使っている。
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緯度経度をマップポインターに入力する。画面に白い矢印ででる。現在位置が、黒い矢印で示される。舟を走らせて、黒い矢印と白い矢印が、合致したところが、目標地点である。ポイントは、実行を押せば記憶されて、ナンバーが付く。またボートの通った航跡も点線で示される。これで、これまで千葉県で潜った全漁礁の位置がガーミンに記憶されていた。ぼくにとっての財産だ。その記憶を誤って消してしまったのだ。知らないうちに、消去のキーを押してしまったらしい。フィールドノートをきちんと採っておかなかった自分の怠慢だが、悔やんでも間に合わない。もう一度、探索のやり直しをするほか無い。
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                      この画像は波佐間調査の時のもの
 探索はこのガーミンと、安価で小型バッテリー駆動の魚探を使う。普通の漁船でも、気の効いたゴムボートでも魚探を積んでいるが、千葉県で僕たちが使うような船外機の舟には積んでいない。 僕のお手軽魚探でも水深はきっちりと取れるし、魚がいると魚のマークがでる。きちんとして普通の魚探ならば、魚礁の形も写るのだが、僕の魚探は、水深変化の形で黒い山が写るだけだ。小さい魚礁は写らない。小さい魚礁でもたいていの場合魚が居るから、魚のマークはでる。
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 さて、そんな具合で4月9日、館山市塩見の魚礁調査を目指した。船頭も自分の山立てに自信があるわけではない。難航が予想され、捜索だけで一日かかるのかと予想した。
メンバーは須賀、山本、増井、小俣の4名だ。塩見の舟は小さいので、船頭込みで5名とタンクを積んだら、ちょっとした波、たとえば予報で波高2mあったら危ない。3月の調査は中止になった。 4月9日、幸いなことに海は平らだった。すばらしい凪だ。
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0412 館山調査 2

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 今回ねらったのは、中の魚礁と呼ばれている、角型の積み重ねと、僕が関わった小さいカネクラ魚礁と呼ばれる小さな魚礁だ。カネクラの由来については、別の時に書くが、カネクラの方は、数十回潜っている。しかし、この前に潜ったのが2年前だ。忘れてしまってはいるが、これは、簡単に見つかると思った。 中の魚礁については、昔の記録が海岸の漁師の小屋に貼り付けてある。これにも話があるのだが、脱線すると先にすすめない。これによって水深が18mであること、積み上げた頂上が11mであることも、わかる。  港を出て、船頭が山を見ながら、しばらくまっすぐ走って、水深が18mあたりで、大きな山が写った。魚のマークも見える。目印ブイをいれて、準備の早い、というか、この人は舟に乗るときからタンクを背負っている。もと山岳部なので、背負うことに強い、小俣さんを偵察に出した。角型ブロックの山だと確認した。山本さんが準備がすばやいので、小俣さんに続いてエントリーする。残念ながら僕は遅い。増井さんに手伝ってもらってタンクを背負い、というか背中にのせてもらい。ベルトをしめて、腹ばいのまま、船縁から頭からエントリーする。この方法が一番ストレスがない。高齢者エントリー方法だ。手繰って潜っていくロープが無く、目印の細い雑索だから、そのまま降りてゆく。水面を離れるのが楽なように2キロはオーバーになっているので、墜落をBCでブレーキをかけるかたちだ。一旦、着底する。へたくそな潜水だが、ドライスーツの期間は仕方がない。目印ブイは魚礁の端、理想的な位置に落ちている。
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 この魚礁も、何回か潜っている。ほとんど変わっていない。ここは、ちょうど波左間で言えばドリームの深さだ。この水域では18ー20mの深さが、美しくて、魚も多く蝟集するのだろうか。メバルの群が見事だった。 このあたりの海で魚礁が意味するのは、刺し網や蛸壺がしかけられないということだろうか。魚礁に掛かって上げられなくなる。上げられない網は、魚やイセエビを殺し続けることになる。だから、網は厳禁である。漁師は魚礁を避けるために、山を見て位置を見る。それでも、網がかかっている魚礁があるが、幸いなことに網は掛かっていない。網がかかっていると、網が朽ち果てるまで、魚やイセエビを殺すだけの罠になる。   浮上もロープなしで、安全停止をする。バランスが悪くなっている自分がいやになる。  昼食を取らないで、一休みで出港する。1時間ほどでかたづけるつもりだった。 水深が6mを越えると、船頭は行き過ぎだという。目標の魚礁の水深は7mで、今は引いていて、潮位差が1.5mあるから、水深は5.5mあたりだという。何回も潜っている僕の感覚では、一番引いているときでも、そんなに浅くはなかった。僕の感で、プロットした点は、水深が8mを越えている。しかし、先程は、一直線に魚礁の上に来た。船頭の意見を信じて、5.5m線で、動き回る。どうしてもみつけられない。試しに、僕がプロットした、点、ガーミンの上で NO3 付近にいってみる。魚のマークがでたので、ブイを入れる。これを、プロットNO 12とした。このとき、誰かスクーバで、ブイの周りをサークルサーチをすれば良かった。しかし僕に自信がない。魚マークだけで、魚礁の形がない。小さいとはいえ、何か形があるはずだ。また6m線に戻った。 山本さんが、飛び込んで、ロープに掴まって海底を見ながら動く。透明度が良いので、底がはっきりと見えて視界が30mくらいあるという。見つからないはずはない。
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              GPSの画面 
 すでに2時間捜索している。もう時間切れだ。山本さんも寒くなってしまった。  残念だが、もはや、これまでだ。12番のブイを上げておわりにしよう。 引き上げに行くが、やはり、このあたりにあるような気がする。いつものようにタンクを背負っている小俣さんに、せっかく準備をしているのだから、ちょっと見てきてくださいと送り出した。すぐにあがってくるはずがあがってこない。みんな心配になるが、気泡が見つかった。増井さんのアクアブザーで浮上の合図を送ったが、聞こえていないのだろうか。上がってこないのは、魚礁があったのだろうと僕は思う。ならば、舟を直上において、気泡を見て、待っているほかない。あがってきた。やはりこの真下だという。すぐにプロットしてブイを入れる。NO14としてGPS位置を記録する。自分は潜ろうと思った。しかし、僕の準備は遅い。時間も予定をすぎているし、みんな疲れている風だ。GPSの数値は記録できたし、小俣さんも撮影しているはずだ。とにかく、二つの魚礁の位置は確認できたから、もどることにした。このチーム、この機材での探索方法も明確になった。
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                         小俣さん撮影 この魚礁にはイシダイが多く付いている。

 小さいカネクラ魚礁が見つからなかった理由は、水深が干潮時で7mというのを船頭が満潮で7mと勘違いしていたこと、自分が自分の記憶を確かなものと思わず、簡単に見つかるものと古い記録を確認しないで出てきたことだった。 見られなかった山本さん、増井さんには申し訳ないことになってしまったが、悪く考えると自信をなくしてしまう。今の自分、高齢者の自分は自信を喪失すれば崩壊してしまう。  二つの魚礁の位置を確認でき、目標は達成した。

マリンダイビングフェア 7 BCDマスター

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マリンダイビングフェア の出展 展示で、これは?と活目したもの、それは、カメラハウジング関係と、PADIヴィレッジ との間の小さい展示で、プログラムにも掲載されていない。  
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「BCD master] と呼ぶ。 手で操作しなくても、BCが次動的に給気排気を繰り返して、どの位置、どの水深でも自動的にホバリングができるという装置だ。手動のインフレーターバルブの位置に取り付ける。 上昇、降下、ホバリングが自動的に出来る。浮上は分速18m、ちょっと早いけど、浮上でき、5mの水深で自動的に停止してホバリングできる。 つまり、ダイバーは何もしなくても良い。中性浮力のスキルもへちまもない。 そんなすごいものが本当に出来るのだろうか。 折悪しく、責任者は席を外していて、メガネのちょっと気の利いた女性で、ダイビングは素人のお姉さんが居た。  これがあれば、僕のハイブリッドシステムのなやみが直ちに解決されてしまう。カードルが、どの位置にでも次動的に停止してしまうのだ。ハイブリッドの場合には速度調整は必要ない。自動停止だけで良いのだ。
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 すぐに試したい。が、はっきりしない。試作品ということだが、その試作品もここにはなくて、木のモックアップ、模型だけがおいてある。それと、写真があるだけだ。関東学生潜水連盟にテストを依頼したとか。  あとからメールででも連絡して協力をお願いしようと、JAUSのシンポジウムレポートを渡した。名刺を貰えばよかったのだが、一枚のチラシがあったので、もらってきた。 
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 もどってから、チラシを良く見たが、住所氏名、電話、メールアドレスが書かれていない。 ホームページのアドレスだけがある。アクセスしたが、そんなアドレスは見つからない。 チラシを読むと、空気使用料を節約、と書くべきところが、酸素消費量とかいている。いまどき、空気と酸素を取り違えるのも珍しい。酸素と空気の区別がよくわからない、多分、C-カードもとっていない程度の知識の人が、大丈夫なのだろうか。  山の端さんにアドレス、連絡先を調べてもらうようにお願いした。 答えは、なんでもフランス人の作りつつあるもので、試作中、そして日本での代理店がきまっていないので、連絡先は教えられないということだった。  こういうフェアへの出展で、連絡先が教えられないというのもよくわからない。何のために出展したのだろう?  ようやく、わかったので、連絡先を教えてもらえることになった。 今後どのように展開するだろうか。かなりスリリングであり、一日も早く、プールで実験してみたい。  メールアドレスは、今日現在、未だ届いていない。
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