SAI の終熄
ここで、一つの前提条件だが、ここに書いていることは、その時、例えば2011年にどんなふうに感じ、どんなふうに行動したかであり、2016年現在の自分が考えていること、感じていることとは、ちがう。現在の自分であったならば、全く違う行動をしているだろう。
記憶間違いをしていた。学連 SAIができなくなったのは2012年だとおもっていた。
僕が出席した最後の学連安全対策主将会議が2012年でそれが学連の会議に出席した最後だったと覚えていた。今、その時の写真を探しだして、写真のタイム表示を見てみると、2011年の2月8日になっている。タイム表示の間違えということは、よくあることなので、ホワイトボード部分を拡大してみると、平成23年度安全対策主将会議とかいてある。2011年に間違いない。この会議は、僕の親類筋 須賀スクールの大西と NAUIの鞆さんをゲストにして、ベテランインストラクターとのパネルディスカッションだった。
僕も顔を出して、ちょっと挨拶だけさせてもらった。
しかしこの年、2011年には SAIは、開催されていない。その代わりに器材のモニター会が行われたのだと聞いて、機嫌を悪くした。しかし、学連の心づもりでは、 SAIとして、日本水中科学協会のシンポジウムに全員で出席してくれたのだろう。機嫌を悪くしてもうしわけなかった。その辺の意志の疎通があった。なんとか、2011年度には SAIを開催してくれることをお願いした。
現在の自分だったら全く違う行動をとっただろう。水中科学協会の発足で、多数参加してくれたことのお礼を言ったうえで、次に一緒に何ができるか、を話し合い、検討しただろう。
一方で、監督コーチについては、シンポジウムで発表してくれた学習院大学の宮崎監督の肝いりで、法政、中央、芝浦に声をかけて、監督コーチ、すなわち学生のダイビング指導者の集まりを持つ準備会が予定されていた。その予定日が3月18日で、3月11日に大震災が起こる。とても集まれる状況ではないとこの集まりは流れてしまった。
そして、その2011年は、震災の後の活動、自分としては放射性物質調査に全力をあげた。東北でのアワビなどの調査も流れてしまったが企画していてシンポジウムもできず、 SAIもできなかった。SAIができなかった理由の一つは、3月18日に集まる予定だった、それぞれの内意を聞いてみると、 SAIには賛成ではない雰囲気だった。それを説得してSAIに向かわせる説得に自分は自信がなく、逃げてしまっていた。
2010年の水中科学協会のシンポジウムのテーマは自己責任だった。自己責任とはリーダー、インストラクターの責任回避の言葉ではなく、スクーバダイビングの一つのフィロソフィーなのだが、そのこともまだ確立していたわけではなく、現在進行中の議論だ。
次の年、2012年のシンポジウムでは、芝浦工業大学の足立顧問と監督にお話をしてもらった。
そして、2013年のシンポジウムでは、中央の藤島監督に発表をしてもらった。
学連の執行部とは、室内選手権大会などでも顔を合わせることが多く、連携はあったのだが、 SAI の話はできなかった。中心になっていただいていた真野先生の都合もあった。
監督、コーチとの連携がシンポジウムなどを通じて強くなっていたと考えていたが、 SAIは持ち出せる雰囲気ではなかった。
2014年のシンポジウムは、法政大学に話をお願いする順になる。法政アクアクラブは50周年を迎え、僕は記念誌に執筆させてもらい、そのうえに50周年記念講演会に講演もさせてもらっていた。
この辺りで、学連との関係もまとめておかなくてはと、シンポジウムでは、自分がこれまでの学連との関わり、 SAIについてなどを発表し、学連の50周年にむけて、監督コーチ指導者と現役執行部が協力して、まとまって行ってほしいとお話した。
パネルディスカッションとして、芝浦工業大学の足立顧問、学習院大学の宮崎監督 法政アクアの宮城 OB会長、法政には監督という役割がなく、 OB会長が事実上の監督で、コーチとして山中さんが居るという形態いである。加えて、現役学連委員長の筑紫君に並んでもらった。筑紫くんは委員長を最近出していない、母校海洋大学だった。
シンポジウムの報告書は、これまでの SAIの成果として、各大学の練習プログラム、安全対策主将会議にまとめてもらった危機管理、そして2014年度の学連の年報のようなものをまとめてもらった。これを契機に同じような年報を学連が出してくれると良いとねがったものでもあった。つまりシンポジウム報告書は学連特集だった。印刷代に23万もかかり、傷手であったが、この年度で輪切りにした学連の状況を印刷物として残したかった。
パネルディスカッションは成功だったが、一回のディスカッションで話がまとまるものでもない。3月に同じメンバープラス、学連の次の執行部委員長など、学連各大学の中心が加わって、話を進めることを決めた。
その3月の集まりを前にして、月刊ダイバーの広告記事として、池袋の某ショップが某指導団体の資格として、スチューデントインストラクターを定めた。その講習はビデオなどで簡略に受けられるということでもあった、その広告記事に学連の全委員長が顔をだし、これが、学生の求めていたものであり、遠征などでリーダーとして振る舞うのが不安だったが、これで解消するというようなことが書かれていた。それこそが SAIが提案しもとめていたものだった。こちらの SAIが停滞し、終わろうとしている間に出来上がったものだろう。
この資格は関東学生潜水連盟だけを対象にしたものではなく、各大学の同好会、クラブも対象にしているので、ビジネス企画としては、当たるものだと思う。人のビジネスにとやかくいうつもりはないが、この資格には当然、監督コーチは賛同しない。自分としては、どうすることもできない。
3月の集まりには50周年に向けて、学連をどのように向けていくかがテーマのつもりであり、ショップの資格などについても、議論をしたいとおもっていた。しかし、この会議をリードすることはできなかった。 SAIが形になっていれば、ともかく、自分は大学を代表する監督でもなんでもない。ただ、おせっかいしているだけだ。それでも、50周年について発言すると、学連委員長から、50周年は自分たちの手で立派にやるから干渉しないで欲しいという発言があった。これは考えてみれば当然のことで学連の50週年なのだから、 OBの自分が中心になることではない。もしも、学連の OB会があり、その中で僕のポジションがあれば別だが、それはない。
ただ、学連の委員長は立派だったとも思い。その後も僕の方から声をかけるようにしている。しかし、立派だったことの客観的な証明は、50周年をどのようにやるのかであり、先輩の思い、力をあわせて50周年をやろうという提案を断ち切ったのならば、それを見せてもらわなければならない。
話を第一回にもどして、この3月5日におこなわれた学連指導者の集いは、4大学がそれぞれ発表して、すでに書いたようにこの集いとしては成功であり、このような集いができたことは、各指導者に取って身になるものである。自分のドロップボックスには、これまでの SAIの記録、そして水中科学協会のシンポジウムで発表した各監督の PP,そして、この3月5日に発表した資料もすべて入っており、この会議に出席した指導者、また学連関係者が共有している。2011年3月18日の集まりが流れなくても、これが、この プロジェクトの着陸地点であったと思う。
この次に学連について、SAIについて、現時点でのまとめを書きたい。そのまとめのために、ここまで延々と書いてきたのであり、また、まとめは書いて来ながら考えたことのまとめでもある。