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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0219 ブログ整理

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  ブログのコピーと整理、ようやく2010年の10月まで来た。その間、2010年の5月に水中科学協会が発足し、12月に第一回のシンポジウムが行われる。そして、2011年3月に大震災が起こり、以後放射能調査に力を尽くす。激動の時期にはいる。
 ある程度見ながらコピーしているので、これからのブログの方向、書き方を考え込む。後ろを振り返ることについては、整理したブログを再度取り上げて論じて行くのが良い。益田一さんについては、ずいぶん沢山書いている。益田さんのことをすでに一般の人は、お目にかかったこともない人がおおいだろうし、一緒に生きてきた人にとっては懐かしいだろう。
 先日、望月カメラマンを取り上げて好評だった。倉沢栄一君についても書いているので、今は会えなくなってしまった人シリーズになってしまうが、ジャックマイヨールも、ジャック・モイヤーさんに付いて書いている。自分的にとりあげたいのは、親しかった、そして会えなくなった人の話題だ。
 
 旅行記はもんくなく面白いので、なるべく旅をしたいができるだろうか。
 そして、現在進行中の計画、80-80 東京港環境調査浄化計画、潜水士規則について、魚礁リサーチ計画の実施と発表、そんなことを並べて行く。
 しかし、今整理している時代は本当によく書いている。内容は、今見ると、違うだろう、という部分もかなり多いが、
 
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     冬だから、何の意味もない冬のカットです。でも見る人が見れば、
 
 そして、二つの話題を一回に載せておくと後で整理するときに困ってしまう。一回にワンテーマ、短くても二つに分けた方が良い。
短くてもワンテーマにしておきたい。

 それと、昔はフォトブログのつもりで写真をなるべくたくさん並べたが、写真を並べられれば並べたほうが良いが、写真にこだわることはない。今書いているこのテーマは、写真が選びようがない。
 ただ、フェイスブックに連携するときに、カット写真がないと、自分のプロフィール写真がでてしまう

0221 0220 波佐間

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 ブログに書くことは決めていることなのだが、筆が進まない。

 前夜、まず、カメラの整備をしている時、カメラと同じバッグに入れてあるダイブコンピューターが見つからない。慌てて、周囲を探し、この前のお台場で使ったのが最後だから、車にでもあるかと見たがない。失くしたという記憶が無い。もっとも記憶があれば、なくすわけはないか。ドライスーツを脱ぐときに、外す。外した後、カメラのバッグに入れるという手順は決めている。この前から、板敷きのベースを追い出されて、地面に座ることになった。そのことが、なくしやすい環境になっているかもしれない。
 深く潜るつもりだから、ダイブコンピューターが無いと困る。最悪、荒川さんに借りる事になるかもしれない。

天気予報は雨、風も強くなるだろう。メッセージで増井さんが知らせてくる。しかし、前回。波浪予報が房総沖から、東京湾の館山あたりまで、真っ赤になっていて、波高、4mの予報で、中止したら、意味もわからずに凪だった。東京湾の風と波、潮は読み切れない。
とにかく、90%は出ることにした。念のために、AM600に連絡を入れる。

朝は凪だということでGO!
山本さんの車で、僕と増井さん、小俣さんは自分の車で行く。

今回は一番深い、水深45mの鉄骨魚礁 1番に潜る。
カメラを底から、5mの位置、10m、そして15mの三段にして、それを2本、1本は魚礁の芯に降ろし、1本は魚礁の側面に置く。

60歳を過ぎた頃から、チャレンジのイメージは、自分の身体の内側へのチャレンジ、危険は内側にある。65歳まではバリバリだ。75歳までは、頑張った。80歳は、ウエットスーツを着た夏は何の問題もない。しかし、冬、ドライスーツに拘束されて、首を締めたれ、11キロの鉛をつけ、15キロ以上のタンクを背負うことは、つらい。ブログに身体が辛いことを書く、弱音をはくことは嫌だ。
しかし、そのことがプレッシャーになっている。

1番の魚礁は、岸から遠いが、ブイは付いているので、さがさないで済む。
カメラを入れる。トラブルが一つ、NO SD SDの入れ忘れ。整備の時にダイブコンピューターが紛失しているのだ焦ってしまったのだろうか、
そう、ダイブコンピューターは事務所で、古いソリューションが、記念にとってある。60歳の100m潜水の時に、メーカーから寄贈してもらって使ったので、ヒストリーに99.4mが出ている。それから10年、2005年まで使って、引退させたが、その後、電池を入れ替えたはずだから、といっても忘れるほどの昔だが、もしも、動けばピンチヒッターとして使おう。要するにダイブコンピューターは、水深、水温が計測でき、減圧の指示が出れば、良い。10年、このダイブコンピューターで、かなり無理な潜水もやってきている。壊れてさえ居なければ自分の身体の一部になっている。
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 5台のカメラ、3連が一本、2連が一本、2本を入れて、そのうちの一本をダイバー作業で、魚礁の芯に降ろし1本をサイドに置く。

事件だ、僕がマスクを岸に忘れてきている。今更、どうすることもできない。山本さんと増井さんが第一陣で潜ってもらい。彼らが浮上してから、増井さんのマンティスを借りて、僕は小俣さんとバディでもグル。

ウエイトを着け、タンクを背負ったら、もはや、身動きできない。這って行って、頭から滑り落ちる。水中で態勢をたてなおす。足を下にしてドライスーツの空気を抜き、BCの空気を抜く。これだけで沈むのでは、オーバーウエイトで、20を超えてからが重い。潜降索、魚礁に着けたロープにたどり着くまでが、一仕事だ。数年前までは、水面でタンクを背負うのは大変だが、水に入ってしまえば、ベッドに寝転んでいるのと同じ打などと行っていたが、今では、ドライスーツでは意識してバランスを取らなければならない。
 結局、ヘッドファーストで潜り込んで、ロープに向かった。足を上にすると空気が足に回って、沈まない。もう一度身体を立てて、空気を抜く。
 こんな通常の動作を、ここに書かなければならないほど、意識してやっている。
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 10mを超えると潜降速度が早い。潜るのが頭からでも、ドライスーツではオーバーになり、身体が締められる。空気を入れ、BCにも空気を入れて、浮力を調整する。ちょっと耳抜きが追いつかない潜降速度になっていて、耳抜きをする。透明度は15m以上あって、10m潜れば、魚礁の上の部分が見える。小俣さんは後から、来るかと振り向いたが見えない。手に持っているGoProのスイッチを入れる。モニター付きを手持ちに着けているので、映像がでる。ここで僕は大変なミスをしてしまう。身体がどんどん落ちていて、30mぐらいで、ブレーキを掛けた能登、同時にGoProの操作をしている。シャッターを押していないのだ。モニターにでた絵を見ただけで、動画が回っていると錯覚している。魚礁の中に入って、周囲を撮る。実は撮っていないのだ。
マハタの稚魚といっても、30cmクラスを撮る。アズキハタがその後ろにいる。鮮やかな縞模様のあるトゴットメバルが点在して、ネンブツダイとキンギョハナダイの幼魚の群れが居る。カメラを向けたものは全部写っていると思い込んでいる。
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 一番下の段のカメラまで降りて、撮影する。海底は足の下だが、そこから浮上する。
 ソリューションの読みで、40.5m,しばらくぶりで40mを越えた。浮上を開始する。途中でカメラを下に向けて、浮上してくる小俣さんを撮る。気泡がキラキラ上がってきて、良いカットだなと思う。
 身体は思うように動かない。思うように、とは、40代、50代の身体のうごきを、身体は記憶していて、それとはちがう身体の動きに違和感を感じているのだ。一週間ほど、潜り込めば、バランスだけはもとにもどるかもしれない。きついけれど、夏にウエットスーツで自由に動けるためには、冬の間、ドライスーツで、実践でトレーニングしておかなくては、いけない。ロープを手繰りならラ、ソリューションを見て、速度のバーが、二つを越えないように、浮上する。昔を思い出して懐かしい。姿を消しているダイブコンピューターには、この目盛はない。
昔と今と違うところは、手でロープを掴んで、身体を支えて居るところだ。5mの停止点まで来て、潜水時間は15分だ。18分で浮上すればいい。
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5mから水面までの浮上は、1分掛けるとか、簡単に言ってくれるけど、波高が1mもあれば、身体が揺さぶられて、出来るわけはない。無視して浮上すると、ソリューションにSLOW の表示がでる。これも昔通りで、この印がでないのは、本当に波静かな南の海でブイを浮かべて、リールを巻きながらの浮上でなければ、できない。
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船に上がるのが一苦労だ。パイプで作った梯子の一番下の段に膝をつき、カメラを受け取ってもらう。二段上って、横に足を揚げて、フィンを外してもらう。水面に身体がでたところから、全重量が身体に掛かる。なんとか一人で上って、タンクを落とし、ウエイトを外す。常態にもどるまで、30秒ほどかかる。
実はこの時に、シャッターを押していないのではとフアンが頭をよぎる。
ソリューションでは、潜水時間19分、最大40.5m 水温は15度だった。
まともに動いている。
続く
 なお、自分が写っている写真は小俣さん撮影のものです。

0220 波佐間 2

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 一回目の撮影ができていない。山本さんにも、僕が撮ったような撮影をするように頼んであるので、画像が無いわけではないが、自分が撮ったものがほしい。第二回目の潜水が必須となった。
しばらくぶりの40mだ。次も40mだ。減圧停止には程遠いけれど、最近のダイバーの減圧症罹患状況によると、一日に40mに二回潜るのは、慎んだ方が良いと言われる。ましてや、81歳だ。おそらく、1っ回目の撮影が成功していれば、二回目はパスしたかもしれない。しかし、ボディコントロールの練習はしなければいけない。
 
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かなり波が出てきて、向い波なので、大きく飛沫をあげる。カメラをあげるためには、潜水してはずさなければならない。
まず潜水して、それからカメラの引き揚げになる。
忘れ物が無いから、今度は一緒に潜れる。
 ヘッドファーストで、水深5mほどのところで、潜降索にたどり着き、手繰って潜降するのは一回目と同じだ。今度はボートの上で、カメラのスイッチを押し、シャッターを押し、回っているのを確認して水に入っている。
 二回目だからと少しだけ浅く、38.4mだ。潜水時間は20分、5mからの浮上が速く、SLOW のワーニングサインがでた。これは昔のいつもどおり。

梯子を上る労働は、一回目よりもやや、ましになり、呼吸も元に復するのが早くなった。
それでも、前回の1月には、タンクを梯子の途中で脱いで引き揚げて貰ったが、今回は自力で登った。呼吸が戻るのもやや早くなったような気がする。
撮影は、一回目の方が良かった。マハタも居なかったし、カメラに落ち着きがなかった。
自分が撮ったというだけで、使えない。

カメラの引き揚げがかなり重く、篭に取り込んだのが、ぐちゃぐちゃになった。次回のためにこれを解きほぐすのが一仕事だろう。

帰ってから撮影した画像の整理、
魚礁の外側に立てた1本は、カメラは正常に撮れていたが、魚は何も写っていない。潮に流されて、やや離れていたこともある。
魚礁の中に下ろしたかめらは二連だったが、上の段が撮れていない、結局、45mの水深の下の段だけ撮れている。
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     マハタの子供が撮れていたので、拡大する。
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4つのプロジェクトをそのどれもが実施困難な状況にあって、落ち着いていない。
言い訳はできないので、次回は締めなければいけない。
そして、カメラを入れるのは、一つの魚礁に1本で良い。3連の一本を最も期待できる位置、鉄骨魚礁ではその中心にたてる。次回は、鉄骨魚礁二箇所に1本ずつ入れて、比較してみよう。効果調査という目的ならば、同じ時期、同じ時間に、同じような撮影装置を入れて撮影し、比較するのがベストだとおもう。
ようやく到達した地点かもしれない。
 同じことを何度も繰り返さないと、道具にはならない。

 

0223 ワークショップ

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 岡本美鈴のワークショップ 2016-0223
 計画の最初、彼女に声を掛けて、お願いしただけでもう何もする必要はないと思った。でもそれでは無責任を、自分も一緒に話す、トークショウを考えて、そのあらすじを、美鈴と司会、主催の山本さんに送った。了承ということで、そのまま。前日に辰巳で会って、打ち合わせをすればよいのに僕はハイブリッドのテストに頭のなかが塞がっていて、この頃、一つのことしか、一時に考えられなくなっているので、これが耄碌というものかと、日々を送っているので、打ち合わせもしない。当日になって映像の使いかたの打ち合わせをしていない。どんな映像を使うのかについても、分からない。慌ててメッセージをいれた。
 
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そして、当日、大きなモノフィンとかロングフィンを飾り付けて、映像の準備をして、ここでも、トークの打ち合わせはできない。頭のなかにイメージが固まらない。全てキャンセルして、計画の最初、彼女に全て任せたほうが良い。

聴いてくれる参加者、受け取り方はさまざまだろうと思う。自分としては、彼女の真っ直ぐなダイビングへの姿勢が受け取られ、それが、とても良いし、彼女の後援者、生徒などを惹きつけているところなのだろうと感じる。だから、演出シナリオとしてはこれでいい。自分のちょっと視点をずらしたようなシナリオは夾雑物でしかない。僕が質問しようと思っていたことについては、全部話してくれている。ただ、生理学的な部分についての、アクセントは、僕が訊いて答えてもらったほうが良かったのかなと思うが、それでは、生理学セミナーになってしまう。その部分は後半、の質疑のところでしようか、と考える。
しかし、その後半の質疑も、会場からかなりの質問があり、それにストレートに答えが帰ってきて、これでいい。残念ながら、僕の聴力は、質疑応答の間に入ってまとめることはできない。聴力が無いということは、二つの考えの間に立って、考えをまとめるということはできない。昔、そういうことが得意であったので、その感覚が自分に残っているが、もはや、むりなのだろうな。とおもう。
一言だけ、真鶴での競技会でのアクシデント修羅場の映像が流れて、凄いナマの映像で、安全ということを考える時、百の議論よりも一つの映像、こういう映像は当事者でなければ、発表できない。ストレートにこの映像を流して、まっすぐに説明と反省をしていた、フリーダイビングの集まりがあり、感動したので、そのことだけを話した。
しかし、その安全をクローズアップしてこの会をまとめたら、それは安全潜水の会になってしまう。それは意図したことではないので、それでも、安全を考えてしまう自分がいる。
冒険、チャレンジと安全から離れようとしながら、安全を持ってきてしまう。そのことが、僕を生き延びさせているのかもしれない。だから、それで良い。
 
 フリーダイビングについて、いろいろ考えることがある。何故、生理学的な限界に挑むのかとか、しかし、ダイビングの本質は、冒険者としてのダイバーの本質は底にあるのかもしれない。とか、考えるが、岡本美鈴をはじめとして、フリーダイビングのトップランカーの女性はそれぞれ、とても魅力的だ。みんな、まっすぐに話して見たいとおもう。男性の第一人者である篠宮くんも、実はまだ一度も直に会ったことがない。そのうちに会いたいねと、お互いに言っているが、会ったとして、どういう会い方をすればよいのかよくわからない。どこかのパーティで顔を合わせても、何も話をしなくても、わかってしまう、という感じで終わるだろう。だから、言葉がなくて、お辞儀を繰り返すだけかもしれない。
水中撮影の鍵井くんも大好きなのだが、このまえ、ダイブビズショウで、久しぶりにばったり出会って、話すことも無く、そのままスレ違いにわかれることも勿体無く、互いに頭を下げる挨拶を繰り返していた。横で見ていた人は、どう思っただろう。しかし、言葉は伝わったと思う。ここに書くまでもない。書かない方がいい。

 話を岡本美鈴にもどして、一緒に本を書けたことは、とてもよかった。まだ、販売のノルマが残っているので、僕たちから直に買ってもらいたいけれど、
 共著とは、親戚になったと自分は思っているので、そのことを口に出して、ワークショップを終えてしまった。

0224 ジャック・モイヤーさん

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 ふと、長太郎池のスノーケリングの写真をフェイスブックにだして、モイヤーさんのことを思い出した。
モイヤーさんは、三宅島アカコッコ館の館長さんをしていて、長太郎池でスノーケリングを、若い人、子供たちと一緒にする時間を作っていた。

テレビ朝日ニュース・ステーション
昭和61年1986年 8月13日放送。

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ニュース・ステーションの水中レポートシリーズについて立松和平さんが書いた「雲をともとして、心と感動の旅」1987年から書き抜いた。

「三宅島の大噴火、自然の恐ろしい力を前に、人間は全く無力でした。噴火が終わり、ようやく静けさがもどってくるや、アメリカ軍の夜間訓練飛行場を建設するという問題があ、富士箱根伊豆国立公園のこの島に降って湧いたのです。
飛行場建設予定地に、一人のアメリカ人海洋生物研究家が住んでいます。ジャック・もイヤーさんです。
昭和29ね3んから33年間もモイヤーさんは海と陸から三宅島の自然を愛惜してきたのです。世界でもここだけにしかない貴重は死zぇんがよく残っている点では、ガラパゴスに匹敵する。三宅島は日本のガラパゴスだ。とモイヤーさんは言います。生物学者の地に足のついた視点から、もイヤーさんは飛行場建設に異議をとなえ、レーガン大統領やワインバーガー国防長官に論文や手紙を送りました。
 モイヤーさんの案内で、僕たちも溶岩の流れ込んだ海に潜ってみました。大自然の猛威のために一度は死滅した海です。
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潮美 
陸上と同じように何も生えていない香料としてるところなのかと思ったら、いや、こんなに海藻が生えてるんですねえ。
立松
海藻がだんだんでてきましたね。
潮美
噴火からまだ2年10ヶ月しかたっていないのに、もうこんなに海藻が生えているんです。
モイヤー
これは新しいサンゴですね、熱帯のものがもどってきましたね。
潮美
海藻だけじゃなくて、もうサンゴもはえているんですねえ。
モイヤー
魚がいっぱいいますよ。海が浅くなりましたが、魚の種類は同じですね。あまりかわりません。
立松
いったん熱い溶岩が流れ込むと海の生物はその場所は死にますね。
モイヤー
もちろん溶岩のところには死にましたけれど、私はまだ泡のでた熱いとき溶岩の上に潜りました。もうスズメダイも入ってきました。
立松
海の中と陸の上とどちらが自然の回復が速いですか。
モイヤー
海は絶対に速い。もう今のところこれぐらいのサンゴが溶岩の上にあります。
立松
もう育っているんですか。そうすると自然の破壊というか、自然の力で火山の爆発とか、そういう破壊と人間の破壊は全然ちがうわけですね。
モイヤー
そうです。三宅島の溶岩も守ること良いと思います。その上にコンクリート作りましたら、自然はでてきません。」
 昭和61年8月13日放送。

 こんなふうに、水中と陸上をミックスした会話を続けて、ニュース・ステーション、「心と感動の旅」シリーズで私たちは日本を旅していた。
 モイヤーさんも立松さんももういない。

 三宅島の海の中の自然は、幸いなことに昔と変わらない。でも、三宅島に行って潜る若い人たちがモイヤーさんに出会うことはもうなく、モイヤーさんのことを知らない若いダイバーがほとんどなのだろう。御蔵島のイルカとダイバーとの付き合いは、モイヤーさんがルーツだったことも、きっとみんな知らないだろう。
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 三宅島の放映テープがどこかにのこっているだろうか。探してみよう。

0226 フェイスブックから

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 知らないことって、いっぱいある。メモにポメラを使っていて、ワンクリックで日時が秒まででるので、日にちを忘れすぎる僕にはとても便利、ワードには無いのか、挿入を見たら、ちゃんとあった。3クリックぐらいだけど、
16/2/24 12時24分9秒

16/2/24 12時19分4秒
探検とは世に発表出来る記録を残すこと、冒険とは、不可能に見えることに、その人にとっての不可能だから、個人差がありますが、不可能にチャレンジして、生還してくること。探検とはチームプレーであることが多く、冒険は個人プレーが多くなります。探検の失敗は世に発表して認められないこと、冒険の失敗は事故です。僕の今の時点での考え方です。冒険と探検のちがいは、その人の置かれた状況、年齢を含む状況で、大きく変わってくるので、沢山の議論があります。冒険イコール危険と思っている人もいて、それは間違いではなくて、考え方の違いなのです。

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 人工魚礁調査の映像の編集をしている。パワーディレクターという編集ソフトを随分前に買って、使い方のガイドブックを見たら、とても面倒なので、使わないで、単純に切るだけのムービーメーカーをつかっていた。今度の編集はかなり面倒なので、パワーディレクターを使ってみた。昔、テープの編集をしていた頃とほぼ同じで、ストレス無く使えてしまう。ガイドブクがダメなのだ。ガイドブック等読まない主義なのに、最初の10Pぐらいで放り出し、ついでにソフトまでほうりだしてしまった。

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2年にわたって撮ってきた人工魚礁の映像を編集している。巨大なアーカイブから、必要部分を抜き出し、一つづつのアイテムを削って整理する。その後、粗い編集をして、それから削って30分にして、最終的には10分にしたい。その作業をしながら考える。人工魚礁に潜水しての付き合いは20歳のときからだから、60年余、自分にとって人工魚礁とはなんだったのだろう。そもそも、人工魚礁とは、日本の沿岸漁業にとってなんだったのだろうと考える。大きく分けて二つある。ます1935年ごろから、2000年まで、各組合の地先に並べてきた人工魚礁、沖合に設置して天然礁 に匹敵する規模のものを築こうとしている魚礁、後者は僕の時代のものではない。前者について考える。零細な沿岸漁業、これこそが一番、日本にとって大事な漁業なのだと思いつつ、衰退をしてきた沿岸漁業にとって、人工魚礁が果たしてきた役割は何だった。そして、人工魚礁はある意味で、海底に日本が築いてきた万里の長城のようなものだ。天然の磯根が発達していない場所に、ダイバーが潜れば、そこには必ず人工魚礁があるはずだ。これからこの海の長城をどんなふうに活かしていくのだろう。活かすことができるのだろうか。
人間が潜るということは、考える頭脳がもぐるということなのだが、衰微の一途をたどる頭脳で考える。だから、編集作業がはかどらない。考えた結果をまとめて、報告書にしておかなくてはいけない。発表は3月10日、僕に与えられる時間は12分だ。

0227 インターバル撮影-1

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 一日、インターバル撮影の報告書を書いていた。ブログを書くじかんがない。
 報告書の下書きをブログにしてしまう。

人工魚礁撮影

Ⅰ.無人、長時間、インターバル撮影
 1980年代から今まで、カメラを設置して撮影するインターバル撮影にこだわり続け、追求してきた。
 まずはその流れを。なおこの部分は報告書の原稿ではない。

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  1980年代、スチルとビデオがついていて有線で水面に画像を送り、シャッターを押すとストロボが光って撮影される。
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 魚礁にビデオカメラを取り付けてしまった。なお、この実験は赤沢で行った。
 浅いところに置いたので、低気圧の大波で飛ばされてしまった。


1-1 概略
1980年代から、水中にカメラを設置して撮影する手法を追求してきた。水中撮影は①ダイバーの手持ち、②自走式カメラROV ③設置するインターバル撮影があり、人工魚礁の撮影には③が有利、有効な手段であるが、この撮影方法についいての報告がない。していない。
この手法を詳細に追求するべく、2014年8月より、2016年2月まで、12回のテスト撮影調査を行った。
撮影を行った場所は、千葉県館山市の波佐間海中公園である。千葉県館山市の沖ノ島より房総半島先端の洲崎に至る内房沿岸に各部落地先に、大小、8台の定置網があり定置網に魚を誘導するようなねらいで、多数の魚礁が設置されている。調査撮影を行った、波佐間海中公園は、昭和57年1982年沈設の0.8m角のコンクリートブロックから、平成23年2011年に沈設された、礁 高15m、水深46mに沈設された鋼製魚礁まで、9種類12箇所の魚礁が岸から沖へと、並んでいる。各種魚礁の比較ができるとともに、12の魚礁群全体をひとまとめとして見られる。また波佐間海中公園は、レクリエーショナルダイビングのだめのダイビングステーションであり、あたかも魚礁ランドとでもとも言える状況を呈している。この調査の一つの目的として、レクリエーショナルダイビングにおいて人工魚礁が果たしている効果も発表したいと考えた。
なお、調査は特定非営利活動法人日本水中科学協会の水中調査撮影グループが行った。レクリエーショナルダイビングの大きな目的目標が水中撮影であり、撮影技術も潜水技術も非常に高いレベルにある。そのダイビング、撮影の目的を調査に振り向けたならばどのようなことができるか、どれだけ興味をもってもらえるかをしることも目標の一つと考えた。
 この企画の目標は、①インターバル撮影の運用手法の実証テスト、②組合地先の展開されれいる魚礁群全体の連続観察 ③レクリエーショナルダイビングにおける撮影調査の展開であった。
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   コンパクトデジカメのインターバルカメラ
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    そして、今のウエアラブルカメラになった。


1-2.撮影器材について
インターバル撮影も当初はカメラが高価であることから、1台、もしくは2-3台の大型カメラを設置する手法であった。2000年台になり、カメラがデジタル化するとともに、インターバル撮影機能をもつコンパクトデジカメが出現し、10台程度の同時運用が可能になった。2011年頃から、GoProなどの超小型ワイドカメラを、安価に、多数の台数を取り扱い容易な道具として、使用できるようになった。
なお、ダイバーの手持ちカメラによる撮影も同時に行っているが、最高級一眼レフであるキャノン1D を使った他、ウエアラブルカメラも、手持ち、マスクの上に取り付けるマスクマウント、棒の先につけるバーカメラで撮影している。動画によるプレゼンテーションは、この方式で撮影し、5名のチーム全員がそれぞれ撮影しているので、膨大な記録が残っている。

1-3. 長時間連続観察
長時間連続撮影は、5秒間隔のインターバル撮影を行った。大体において11時に撮影開始で、13時まで、2時間、各およそ1500枚を撮影した。インターバルスチル撮影は、PCの上に一覧的に展開できるので、整理に時間をとられることなく、魚のう写ってい居るものに印を付けて、魚の種類た数を数えることができる。使用したカメラは、GoPro2が、3台、GoPro3が一台、AEEが2台、SJ4000が3台、ソニー、コンツアーが各一台11台であった。SJは、最も安価であり、1万円を切るカメラであるが、操作性が良く、今後買い足すばあいには、これでも十分である。カメラそのものは消耗品であり、使い捨ての感覚であったが、足掛け2年の調査で、AEEが1台浸水しただけであった。
なお、ROVカメラのテストも1回だけおこなったが、ROVの上に、ウエアラブルカメラを載せて、インターバル撮影すれば、一覧できるので、ROVのビデオ画像よりも資料として使い勝手が良いし、画像の質も優れている。

0228 インターバル撮影 2

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 今日は、これからお台場に行きます
 0228 AM0600 です。

1-4 多数のカメラを同時に使うことにより広範囲の同時観察ができる。
多数のカメラを散開させることにより、広い範囲の同時撮影ができるので、魚礁と魚礁の間、魚礁域、あるいは魚礁の同時比較などが出来ると考えた。
1.延縄方式
延縄のように沈みロープに枝をだすように、たとえば30m間隔で10代を設置すれば、魚礁間の撮影ができて魚の移動状況などもわかると考えた。
この方法はこれまで、広く広がる磯根、藻場などでの撮影で効果を上げたが、人工魚礁域の撮影では、魚礁の中、近くでは魚が多いが、その間の部分ではほとんど魚が写らない。写るのはキタマクラが多いという結果で終わった。一回だけ、イナダの群れが通りすぎたが、この魚礁群では、魚礁間の魚の往来は密ではないということがわかった。この場所での今後の調査で、この方式を使うことは考えていない。
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2.適当に投入
魚探で魚礁の位置を確認しつつ、適当に一台づつ投入して行くというやり方も試したが、魚礁から離れると、イサキの稚魚などを除けばほとんど魚は写らず、このことは、ダイバーの目視でも容易に想像できることであり、あまり意味が無いことがわかった。ただ、数十台のカメラを、12箇所の魚礁全部に同時に投入して撮影するという方法は、今後、やってみる価値があり、実行する予定である。
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3.ダイバーが持って行き設置する
撮影装置は軽いので、ダイバー一人が、3基は持って行くことができる。魚礁の適切な部位に持って行き設置する方法が取れるが、目視観察と結果はあまりかわらない、と言うか期待通りの結果が得られたにとどまった。

4.水深40m以上の観測ができる。
高気圧作業安全衛生規則が改正になり、水深40m以上は、混合ガス潜水でなければ潜れないことになった。テクニカルダイビングの手法で、混合ガスを使用して、100mまでは潜れるが、特殊な技術であり、費用もかかり、危険も無くはないので、大掛かりな潜水になり、標本のサンプリングなどの手作業が必須の場合を除いて、ダイバーの目視観察であり、ROVによる観察とあまり結果は変わらない。
水深40m-60mを手軽に、効果的に撮影調査する手法として、インターバル撮影が効果がある。

5.縦に2連3連につなぐ
例えば、水深50mの魚礁(波佐間では、A1が水深50m弱である。)の撮影で、海底から5mの位置に一つ、10mの位置に一つ、15mの位置に一つ、縦に3連にして、下ろす。A1は、高さ15mの鋼製魚礁である。ダイバーが、15mの頂上から、魚礁の内部に吊り降ろす。ダイバーは35mまで潜ればよいことになる。波佐間では、水深50mが最深であるが、水深80mぐらいまでであれば、調査可能である。波佐間のA1 では、水深45mで、水深30mと魚種は変わらず、小魚、ネンブツダイ、イサキの稚魚 などは、通常は中段、及び上段にいるが、2時間の連続撮影のうち、一度だけ、下段に降りてきている。この3連を、A1とB4, C9 いずれも鋼製で水深30m以上、に同時に降ろして、撮影比較する予定である。
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1-4.ROVについて、
水深80m以上は、ROVでなければ、撮影することができない。水深50m程度では、どうだろうかテストしてみた。使用したのは、ビデオレイというカメラで、現在使われているカメラの中で最小型である。
使用してみて、ダイバーとのコラボレーションが非常に面白かった。レクリエーショナルダイビングでの使用も考えられる。そして、今回使用した時は流れが速くて、多分、ROVだけであれば、非常に熟練したオペレーターでなければ、魚礁に到達することが、難しいと思われた。ダイバーが手持ちカメラのように持って行き、魚礁の前で離してやればいい。
ROVとインターバルカメラの比較であるが、水深80m以上であれば、ROVでなければならないので、比較にならない。水深40m程度であれば、ROVはダイバーの目視観察に及ばないし、水深60mまでならば、インターバルカメラは、長時間継続撮影、同時に複数の地点、水深で撮影ができる。そして、例えば3連のインターバルカメラは、ダイバーの目視よりも、客観的であり、資料(撮影成果)も情報量は大きい。
そして、なによりもインターバルカメラは安価である。ただし、インターバルカメラは水深30mまで潜るダイバーが必須になるので、運用費用としては、ROVの方が有利かもしれない。

0229 お台場の牡蠣

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   お台場の、僕たちのフィールドの地形、石垣の崩れたような転石場から、石がまばらにな る斜面、干潮時に1mから、2ー3mのヘドロに至る海底は、ま牡蠣が一面に覆っている 。死殻にいきている牡蠣がついていて、その牡蠣が死んで、また新しい牡蠣が付く、その 消長を20年記録しただけで、たいへんな価値があると思うのだが、やっていない、そう いう発想がなかった。牡蠣の海底をライン撮影調査を始めた所以である。二月、生きてい る牡蠣が多い。表面の3割は生きている。
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ここで潜水調査をはじめたのが196年だがそのころには、この牡蠣があっただろうか。牡蠣は夏に産卵して付着する。そして、何か岩とか、牡蠣の死に殻に着生して、翌年の夏には産卵する。このように繰り返して、死殻が堆積すれば、牡蠣礁 と呼ばれるような大きなものになるが、ここお台場では底までには至っていない。ということは、この場所で牡蠣の着生と成長のサイクルが繰り返されるようになってから、それほどの時日がたっていないのではないだろうか。
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 また牡蠣は貝戸しては、大きな水の浄化作用を持っていて、下水道局などでは、僕たちのフィールドの反対側に大規模な筏を作って、牡蠣の養殖のようなことを行い、水の浄化をはかった。多分、その筏の付近では水が浄化されたことと思うが一過性のものであり、養殖筏を取り去ってしまえば、元に戻る者と思われる。そして、2年ほどでこの実験は終わってしまった。

多分、こちらの調査フィールドの海底の真牡蠣もこの周辺の水を浄化しているのかもしれない。そうだとすれば、これが自然天然であることから、期待がもてるかもしれない。しかし、夏の貧酸素の時には、死に絶えると予測される。また、秋口には、一面の茶色い付着生物で覆われて、牡蠣の殻がみえなくなる。昨年12月からラインを引いて上を撮影する事を始めた。その目的性が明確ではなかったが、これから先は、牡蠣をターゲットにして、3月にはその分布の測量をして、十字に深浅交差するラインと、牡蠣殻地帯のを特定して、推移を見るとともに、浄化効果の測定として、何ができるのか検討を始める。

フェイスブックから トピックス

朝のスズガモ
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今日お台場で撮った魚、僕が見つけたのではなくて、尾島さんです。波打ち際に沢山居たおうです。未だ。魚は稚魚で、出てくるのは4月です。3月はポチポチかな。
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0303 関東学生潜水連盟について 1

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 3月5日 明後にの土曜日だが、関東学生潜水連盟の監督コーチの集いがある。
2014年の水中科学協会シンポジウムで学生連盟の監督、顧問、OB会長、学連の現役責任者などに集まってもらって、パネルディスカッションをやった。パネルディスカッションの僕としてのテーマは、やがて、多分2008年だろうか、学連50周年をむかえる。40週年の2008年には新宿の住友ビルでOBの集まりがあり出席させてもらった。50年続くということは、一つの文化と言えるかもしれないが、それは、100年を目指すという前提があってのことだと思う。100週年を前にした50週年、51年目から100年までの50年をどのようなスタイル、どのような活動をして行くのか、そのための50週年だから、OBも現役学生も、そして僕も大昔のOBとして、と言いたいが、実は僕が学生だった時、関東学生潜水連盟は、まだなくて、僕が卒業してから10年後ぐらいに連盟ができた。だからOBではないかもしれない。しかし、発足の時から、お手
伝いをしているし、40周年の時には、OBとして一番先輩としてたててくれた。
 だから、50周年も、と思ったのだが、このシンポジウムの延長線上でできた、監督、学生のミーティングで、僕が50周年の話を持ち出すと、自分たちでしっかりやりますから、ほっといてください。言葉は少し違うけど、自分たちだけでやり遂げます、ということだった。
 頑張ってもらえばそれでよいのだから、僕は距離を置かないまでも、積極的にかかわるのは遠慮しようと思った。
 その前の2013年に、2003年から続けてきたSAIという学生連盟の安全のための集いがノーチャージになり、それでは、僕が監督、コーチの役割をするわけではないので、監督とコーチの集まりを作り、それで、自分なりの責任を果たしたことにしようと考えた。僕の生命ももはや尽きようとしているのだから、10年やったからSAIはもういいだろう。50周年も生きて迎えることが出来るかどうかわからない。
 それでも学生連盟には思いがあるから、話だけは聞き、もはや出来ることもないけれど、出来ることはしてあげようという気持ちで、5日には出席させてもらうことにした。

 学生の活動の特徴は、継続性がないことである。2014年に、50周年を立派にやり遂げますと胸を張った子も、2016年には就活にいそがしく、2017年にはもう居ない。そのことを言おうかともおもったが、言っても言わなくても結果はわかっているので、頑張るようにとはげました。
 5日には、中央大学の海洋研究開発機構会の藤島監督が 期の引き継ぎについて話をしてくれる。バトンタッチがうまくいかないといけない。
 中央大学は、今や居ない僕のバディ、鶴町で副会長だったことなどもあり、名誉顧問にさせてもらっている。そして、数日前、その鶴町の奥さんから、中央大学OB会会長の吉野さんのメッセージを見せてもらった。吉野さんは、僕のグラフィティの出版記念会にもおいでいただいたのだが、しっかり話すこともできず、お帰りになってしまった。体調が悪いのを押して来ていただいていた。

 そんな思いもあり、古いブログから、抜き出してきた。

Feb 21, 2006

関東学生潜水連盟SAIシンポジュウム
カテゴリ:カテゴリ未分類

 
 関東学生潜水連盟のSAIシンポジュウムで、医科歯科大学の酸素治療タンクに入らせてもらった学生たち。40人近くが一緒に入れた。まるで電車に乗っているようだが、治療タンクの内部であり、10mの圧力がかかっている。減圧症治療に使われている、ヘリウム60%酸素40%のガスを吸わせてもらっている。ヘリウムを吸うとドナルドダックボイスになるのがおもしろい。ディズニーランドみたいな気分。
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これで5年になるだろうか。関東学生潜水連盟の安全対策を応援している。母校の東京海洋大学も連盟創立時の構成団体だったし、娘と娘の亭主の母校である法政大学も中心になっている。17の大学のクラブで構成されている連盟で、1968年の創立だから38年続いている。38年の間には、言うまでもなく、山もあったし谷もあったが、この10年は下り坂だったと言えるだろう。どちらかと言えば体育会的な雰囲気の潜水部、アクアクラブのあつまりである。同好会的なクラブ、中にはダイビングショップがやっている大学クラブがあるのだが、ただただ楽しいだけ、普通のダイビングショップとほとんど変わらないクラブが盛況になり、関東学生潜水連盟の方は減少して行く辛い年月だった。母校の海洋大学潜水部は、50周年を迎えるのだが、その数年前には新入部員が1名になってしまった。私もがんばって、なんとか盛り返したストーリーをこのブログの11月13日に書いた。
 継続こそは力、伝統は文化なのだから、何としてでも関東学生潜水連盟も衰退させたくない。そして、そのためにはなによりも安全が第一である。
 人の命は、何時でも何処でも、誰でも大事である。特に学生の命だけが大事なわけではない。
ダイビングに携わっていれば、すべての局面で安全性の向上のために自分の力をそそがなければならない。大人たちが最善を尽くして見守らなかったために起こった事故が過去にあった。
 この20年、関東学生潜水連盟の事故は起こっていないが、今でも学生の事故は起こっている。ダイビング関係者は、それぞれのポジションで、できることのすべてをやらなければならない。極端なことを言えば、安全のためならば、人の心を傷つけても良い。人の立場を失わせても良い。ついつい遠慮したために危険なことになってはいけない。
 私の関東学生潜水連盟に対する応援を無益なものを見る人も少なくない。それぞれの大学には顧問の先生も居るのだし、コーチ役のOBもいる。かかわっているショップもある。まかせておけば良いのではないか。まかせておいたら衰退する。衰退し荒廃すれば安全性が失われる。顧問の先生は先生、私は私で最善をつくす。
 顧問の先生は、学生のすべてのダイビングに同行するわけではない。中には名前を貸しているだけなのに、重い責任を追わされている気の毒な先生もいる。合宿が飲み会になっていることを顧問の先生が知らない時代があった。中には率先して、一緒に飲んでいる先生も居たけれど。ダイビングの前には、酒を飲んでぐっすり眠った方が良い、と言っていた先生が本当に居たのだ。
 コーチ役のOBも、世話をしているショップのインストラクターも、すべての局面で同行しているわけではない。これは学生だけでなく、すべてのダイバーに共通のことなのだが、ダイビングとは、何時いかなる場合でも、何処でも、ダイバーの技量の程度にかかわらず、Cカード講習中であっても、Cカードを取得した後でも、アドバンス講習中でも、マスターダイバーになった後でも、自己責任なのだ。インストラクターが講習中ならば、賠償責任保険はもらえるかもしれない。でも命はもどらない。Cカードを取って、自分たちだけで潜水していたら、賠償責任保険ももらえず、命も戻って来ない。
 「すべてをインストラクターにまかせています。ガイドダイバーにまかせています。遊びのダイビングですから、経験豊富なベテランにまかせた方が安心です。」スクーバダイビングの事故が起こるのは、このためなのだ。
 関東学生潜水連盟を始めとする学生のクラブは、一般の初心者ダイバーよりも恵まれていて、安全度が高いと思える部分もある。すべてマンツーマンに近い形で新入生講習が行われる。しかし、そのマンツーマンの指導者は二年生、子供が子供を教えているのだ。教える側の二年生の子供を急速に進歩させるシステムが無ければいけない。二年が一年を教える過程を監視する役割の三年生の教育システムが無ければならない。
 その指導者の役割をスチューデントアシスタントインストラクター、略してSAIとしようとした。この名称は学生が考えたものだ。
 アシスタントインストラクターと言う名称は、各指導団体で、カード資格として使われている。
 学生の身分で、アシスタントインストラクターというのは困るという抵抗があった。あからさまに私に言っては来なかったが、圧力を感じた。
 資格よりも先に、まず、安全性を向上させるためのマニュアルを作ろう。マニュアルを作る過程は安全のための勉強になる。マニュアルは実例によって常に改訂する必要があるから、ニヤミスを集めて改訂する作業も安全に役立つ。
 そんなことでSAI(スチューデント・アシスタントインストラクター)のシンポジュウムを開いた。2006年2月18日これが第二回目である。東京医科歯科大学の真野先生のご好意で、医科歯科大学の立派な講堂をお借りすることができた。真野先生、山見先生には、講義もしていただいた。他に順天堂大学病院の河合先生も、この関東学生潜水連盟のSAIをバックアップして頂けることになっている。
 SAIと言うと、何の権限があってアシスタントインストラクターを名乗るのだと問題視する人もいたが、実は関東学生潜水連盟では、安全対策主将会議というのをやっている。関東学生潜水連盟のホームページにその会議の報告が載っているが、ずいぶん頑張っている。安全対策主将、すなわちSAIのことではないか。ただ、安全対策主将などと言うと、同好会を好む学生たちは尻込みしてしまう。そんなところに、関東学生潜水連盟が人数的に後退していった要因があるのかも知れない。ただ、アシスタントインストラクターと呼ぶと、指導団体から白い目で見られるが、安全対策主将ならば、何も言わないという面はある。
 しかし、ここまで来たのだから、お世話をして頂いているインストラクターの補佐をするとともに、インストラクター不在の場所での安全管理をする役割を果たす資格として関東学生潜水連盟のSAIを確立させたい。
 このプロジェクトをはじめた時、学生の中には、そんな責任のある資格はつくりたくない。責任はすべてお世話をしてくれるインストラクターまかせで良いという人も居た。責任は既に負ってしまっているのだ。自分の命に対する責任、一緒に潜っている仲間に対する責任はダイビングをはじめた瞬間から負ってしまっている。事故の場合に法的な訴追を受けるか受けないか、それはまた別の問題だ。

 今2016年に2006年に書いたものを見る。自分は、ずいぶん変わったとおもう。
 SAIは、なくなったけれど指導者のミーティングができた。

 それでよかったのかどうかわからないが、今わかっていることは、僕の位置から見て、学生連盟をお世話することは、監督コーチの居ない学生をお世話するのか、監督、コーチを応援するのか二者択一で、そして、学生との付き合いは、賽の河原の石積みと同じ、必ず毎年、突き崩され、また積み上げる。2003年から2013年までその繰り返しだった。繰り返えしを否定するものではない。毎年、それなりに楽しかった。

0304 学生のスキンダイビング練習

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  昨日に引き続いての学生連盟のダイビングについて
  2006年の2月23日のブログ、今から10年前のことだ

Feb 23, 2006
 学生クラブの練習、その1

学習院大学のスキンダイビング練習
 ウエットスーツを着て、ウエイトなし、マスククリアーを練習している。
 監視のバディはウエイトを着けている。
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 2月22日、関東学生潜水連盟の辰巳プールでの練習に付き合った。このところ関東学生潜水連盟に遊んでもらっている。
 練習を見た講評は?と聞かれたので、ブログに書くと答えた。※2006年のことだ。念のため。
 練習は法政大学と学習院大学の合同練習である。合同と言っても一緒のプログラムをやるわけではなく、広いプールを分け合ってそれぞれが自分たちの予定していたプログラムで練習する。二つの大学の練習が個別に見られて良かった。SAIのシンポジュウムをやっても、それは机上のことである。実際の練習を見なくては、本当のところはわからない。合宿について行く時間も無いので、辰巳で見られるのは、好都合だった。
 学習院大学は、7人か8人だろうか、小人数だ。法政大学の方は、20人か30人で、これは大勢だ。
 まず、学習院大学の方から感想を言おう。感じたことをそのまま書くので、失礼があっても勘弁して欲しい。それに、ほんの一時間見ただけだから、それも自分の練習をしながら横目でみただけだから、真の姿かどうかはわからない。
 学習院というと、なんとなく派手なイメージを受ける。しかし、学習院は、かつて、競技会で全盛だったころがあるのを知っている。今でもバリバリの体育会系に見える。まず、ウエットスーツは全員が黒だ。黒のロングジョンの上に、前チャックの黒い長袖上着だ。女の子も同じだ。1960年代にタイムスリップしたようで、懐かしい。

※ 米印で現在の事を書く。
※、現在は学習院大学尾宮崎監督としたしくなり、この経緯もそのうちに書きたいが、とにかく親しくさせてもらっていて、学習院のクラブ員たちが辰巳にきてくれる。
自分としてはできるだけの事をしてあげたい。最近は僕がタンクを運んで、タンクを使った練習が半分で、あまりよくみていないが、危なげなくやっている。今でも黒のウエットスーツだ。人数も8人か9人で、これがこの倶楽部の理想に近い定員のように見える。すごく礼儀正しくて、練習が終わると整列して挨拶をされる。こちらがそんなことに慣れていないので、学生のようにまともな挨拶を返せない。これではいけないと反省するが、次もきっと上手く挨拶できないだろう。

再び2006年に戻って

 私が水中で見たのは、二時間の練習のうち、(後半は寒くなったので水からでてしまったので)前半の一時間だけだったが、1時間は徹底して、5mの深さに潜るスキンダイビングの練習であった。
 バディで、一人は監視する役割で練習が進行している。監視する役割(2年生?)はウエイトを着けているので普通に潜降できる。練習する一人(1年生)はウエイトを着けていない。炭酸ガスカートリッジで膨張させる型のライフジャケットを着けている。これは、ライフジャケットであり、BCDではない。おそらく海で練習する際にもこのスタイルで練習するのだろう。
 ウエットスーツを着て、ウエイトを着けていないのだから、潜降は強いキックをしなければ潜れない。水深5mだから、はじめての経験ならば、かなり苦労するだろう。すでに何度か練習を積んでいることの反復のようにスムースに潜っている。プールの底では、頭を下にして足が上に上がって、逆立ちの形になり常にフィンキックを続けていないと身体が浮いてしまう。
 この形で様々なエキササイズをやる。マスククリアー、腕時計の着脱などをやっていたが、バリエーションは様々に考えられる。
 この方法の優れているところは、フィンキックを止めると浮いてしまうことだ。
 息こらえでの練習でやめて欲しいのは、例えばプールの底に腹這いになって動かずに時計を見ているようなスタイルだ。昔、このやり方で意識を失ってしまう事故を経験したことがあるので、ことある毎に、横たわって動かない練習はやめるようにと言っている。
 スキンダイビングの練習で、とにかく大事なことは一人にしないことだ。監視役、教える方はウエイトベルトを着けているから付き添って練習を幇助するのは容易だ。これは、早稲田の水中倶楽部だが、幇助する側の上級生がブラックアウトを起こしたことがある。この方法ならば、教えられる方はフィンキックを続けなければならないのだから、潜っている時間は短くなり、上級生がブラックアウトを起こす可能性は少ない。
 マスククリアーは、潜ってから外してまた着けるやり方だったが、手早くやらないと息が尽きてしまう。これも、私が学生時代、瞬きをするのと同じ早さで水を抜きたい、などとマスククリアーの早さを競ったことを思い出した。
 つい先頃、秋田県の県立男鹿海洋高校で、潜水部の自主練習で、ブラックアウトの事故が起こった。この事故の詳細は知らせられていないので、意見を述べることは出来ないが、多分一人になり、動かない練習をしていたのではないかと想像する。スキンダイビング練習の危険について、この事故を例にして、SAIシンポジュウムの冒頭に話をしたのだが、海洋高校ではどんな練習をしていたのだろうか。海洋高校の先生は、一般の指導団体の指導を受けていたのだが、現在の民間の指導団体は、スキンダイビングをつきつめてやらないから、スキンダイビングの繰り返し練習のプログラムとノウハウを持っていない。

 学習院大学のスキンダイビング練習は、合理的なものであり、海洋高校などにも見習わせたいものだったが、気になることはいくつかある。小人数の練習であるのに、二つのグループに分かれていて、それぞれ別に行われていた。ダイビングは自己責任のスポーツであり、教える側、教えられる側が個々に責任を負っているのだから、これでも良いのだが、何かが起こった時には複数の目と手があった方が良い。しかし、私の目に映らなかっただけで、実際は離れていても10m、透明度は水晶のようなプールだから、実は繋がりがあったのかも知れない。実は、私も一人でスキンダイビングで彼等の練習を見ている。私に何かがあれば、目がたくさんあるから誰かが助けてくれるだろうとは思っていても、私と学生との間に有機的な繋がりがあるわけではない。一番危ないのは私かも知れない。

 SAIシンポジュウムで書いてもらったペーパーでは、学習院大学は、書いたマニュアルよりも、現場での経験重視のようだ。
 実際の海での活動で、彼等がどのように動くのか、とても見てみたい。
 1時間見ただけなのだが、学習院大学のスキンダイビング練習は、バディ個としてはとても優れた方法であり、危なげはなかった。実際に海では、練習でも活動でもバディ単位で行われるのだから、これでよいのだが。複数のバディがどのように連携しているのか、そのシステムがあるのかが見たい。それとも、徹底的にバディ単位で責任を持って動くフィロソフィーがあるのかもしれない。
 ただ、彼等のスタイルが、現代の若い子に受け入れられるのだろうか?だから部員が少なくなるのではないか、少し心配だ。
 でも、やり方によっては、かえって今の時代に受けるかも知れない。
 冬季オリンピックを見ているが、今の若者スタイルの、ハーフパイプ・スノーボードが阿呆馬鹿に見え、地味で真摯なカーリングが格好良く見えた。

※、宮崎監督によれば、その後学習院は冬の時代を迎えて、ことしようやく復活したと2015年に言っていた。
 学生のダイビングは、スキンダイビングが基本だが、そのスキンダイビングでの事故が多い。昨年 スキンダイビング・セーフティという本を書いたが、その中の一章を学生のダイビングについて書いた。また、スキンダイビングの事故例も全て、学生の例だ。

 自分たちのスキンダイビング練習会でも、学習院のようにやれれば良いのだが、できない自由練習だ。

0306 2006年の練習 2

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 また、学生クラブの話を置き去りにしてしまいそうだ。
もう少し頑張ろう。

Feb 23, 2006

学生クラブの練習 その2 

2006年、10年前のブログだ。現在の自分の気持ち、状況については※印で挿入する。
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 そろって立ち泳ぎの練習

 関東学生潜水連盟の練習、連続二回目は法政大学の練習だ。こちらは、最初の一時間は、全員そろって、号令のもとに練習をしている。次の2時間目が学習院と同じような個別練習になるのだが、私は寒くなり、一時間で上がってしまったので、個別練習の方は見られなかった。
 法政の練習は、最初の一時間は、水面を泳ぐこと、クロールで泳ぎ、フィンで普通に泳ぎ、おそらくダッシュもして、バックでフィンキック、横泳ぎのフィンキック、ドルフィンキックで少し潜って泳ぎ、マスクを額に上げて、目を出してスノーケルで泳ぎ、と、あらゆる泳ぎ方で次々と水面で泳ぐ。このごろ流行のフロッグキックはやらなかった。そして泳ぎ方の締めは写真で見られる立ち泳ぎだ。手を前にだして、親指を水面に立てるようにして泳ぐ、最後は両手を水面上に万歳のように挙げて泳ぐ。

 実は、法政大学には、立ち泳ぎで辛い事故の歴史がある。それ以来、立ち泳ぎ練習は関東学生潜水連盟では禁止、と聞いていたのだが、安全な形で残っている。
練習に無理は全くないし、スムースに流れる。泳力を増強しようというコンセプトは、良く理解できる。

※事故が起きたのはウエイトを持って泳ぐという負荷を書けた練習だった。この練習は、2006年に日本潜水会が始めた練習の踏襲で、しっかりその後のフォローがなかったために起こったと、僕は思った。そのことの責任を感じたために、大人、ダイビングのプロが必ず見ていてあげなければ行けないということで始めたのがSAI だった。

  フィンキックのフォームはみんな理想的だし、なんの問題もないが、学習院のような強い個性は感じられない。おそらく、マニュアルどおり、マニュアルになりやすい練習だ。
 後半の二時間目は、5メートルに潜る縦の練習だから、見ればよかったのだが、寒くなってジャグジーに入ったら、プールに入る気にならなくなってしまった。

 一緒に水に入っているとそれぞれの大学の個性というか、哲学というほど大げさなものではないだろうが、長い伝統に培われた見識が受け継がれていることがわかる。海での練習を見れば、おそらく、それぞれのクラブで起きたニヤミスを反映させ、フィードバックさせたプログラムがあるのだと思う。統一マニュアルを作ると言うことで、各クラブの個性、見識、伝統を失わせることは避けたい。それぞれのクラブの練習プログラムを整理して、共有できると良い。そしてその作業の中で、今、事実上果たしているアシスタントインストラクターの役割を明確に規定することによって安全性が高められるはずである。

今、学生の書く本が流行っている。「東大生が書いたやさしい株の本」と言うのを読んだ。すごいベストセラーだと言う。しかし、全然面白くなかった。
 関東学生潜水連盟の各クラブが書いた、ダイビングオペレーションマニュアルなどというのはどうだろうか。真野先生も言っていたけれど、真野先生、山見先生、河合先生、それに私も入れてもらって監修して作ったら、安全のためにずいぶん役立つと思う。

※後にこのオペレーションマニュアルを書いてもらった。2014年のシンポジウムの報告書にその全部を掲載した。自分が学生のために何かをした形をのこしたかったのだが、振り返れば意味のないことだった。学生にとって、全ては現在であり、過去を見たり、参考にしたりすることはない。その現在をどのようにつなげて行くのかが、問題で、昨日の監督ミーティングもそのように受け止めた。

※今の法政の練習はどんなものなのだろうか、10年前とまるで変わっただろうか、それとも、同じスタイルが引き続いているのだろうか。見たい気持ちもある。SAI が続いていればそれもできるだろうか。
現在の形については、別に述べたい。

0309 学生連盟 

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なかなか頭のなかの整理ができないで、関東学生潜水連盟について書いた原稿をブログに掲載することができなかった。ようやく、まあまあ、これでよいかという所まで来たので、掲載することにした。ただ、自分のことについての記述が多くなっている。
最近、過去のブログを整理していて、自分の記録として、書いていて良かったと思うので、自分に付いて、自分の活動について書くことが、読んでくださる方の参考に、きっとなるのだろうと思って、

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学生連盟の指導者の集まり、3月5日 グループの名称は聞いていないか、わすれたかである。中央大学が今回の司会で、学習院大学、法政大学、芝浦工業大学の4校があつまった。執行部交代が、今回のテーマだった。僕たちの頃には、執行部という言葉はなかった。
学連用語である。3年生で、リーダーの集まりを執行部という。それぞれ役割分担が決まっていて、一学年、10人以下であれば、ほぼ全員が執行部である。2年生が仮執行部で、1年生は新人で、直接指導を受ける身分とされる。お客様であり、サービスを受ける。
1年は、2年の仮執行部の直接の指導を受け、3年の執行部が全体の責任を持って運営していく。その体制を監督が大人の視点で見て、間違いが起こらないように、監督していく。この上に部長とか、顧問だとか、学校側の責任者が居て、動いていくのだが、部長という役職は熱心な先生もいれば、形式だけの先生もいる。
 このシステムが円滑に動いていくようにすることと、その状況を発表して、それぞれ、問題点、苦労するところなどを話しあおうというのが、この集まりなのだ。と僕は理解している。
 このテーマについて、僕は当事者ではないので、出席をためらったが、ここまでの推進者だと自分では思っているし、その行く末も見ていきたいので、オブザーバーとして参加した。その場で積極的に意見を言わなくても、何事によらず、評論家、善意で見ていく批評はひつようだとおもう。で、この文をかいている。学連関係者以外は興味がないかもしれないが、自分の記録でもある。

芝浦工業大学だけが、学生の発表であるが、それはそれで、面白かった。ただ、PPのスライドに、自分の名前学年、役職立場などが書かれて居なかったので、誰が発表したのか、正確に知り得ないのでここに書き記すことができない。と同時に、学連の現役の自己紹介もなかった。

監督、そしてOB会長の発表はそれぞれ、とても良かった。仮執行部が執行部に移行して行く過程での指導、その仮執行部が新人を指導していく、年間のスケジュールを追って部活動全体が説明されている。
それぞれ、ほぼ同じフォーマットであり、活動のスタイルも共通の部分が多いのだろう。だからこそ、話し合いが出来る。言葉が通じる。
このスタイルは長い伝統のもとに、それぞれの監督の苦心の上で、つくられてきた。ほとんどの部が50年を迎えている。迎えようとしている。
幾つもの事故があり、沢山のニヤミスもあってその中で、磨かれて来たものだろうし、このスタイル、学生連盟スタイルとしては、何年か前、僕が理想として思い描いて来たものにちかい。

ただ、法政の宮城会長がそのまとめで述べていたが、学連のダイビング活動は、1年がダイビングを覚えて、ダイビング活動ができるようになり、その二年生の活動が一年生の指導、というサイクルが繰り返されて行くだけなのだろうか、それだけで良いのだろうかという疑問もある。そのサイクルの中で、指導されているものから、指導する側、責任を受け止める側に育っていくわけだから、社会にでても、大いに役立つし、人間としての教育にも大きな役割をはたしている。だからそれで良いのだが、でも、、という気持ちが監督にも会長にもあるのだろうと思う。
 社会スポーツセンターの瀬田さんが、安全が全てであるという事を強調していた。安全ということについては、このスタイル、このシステムは完成されたものであり、だから事故がおきないとは言えないが、事故が起こったとすれば、それは仕方がないと思われるレベルになっていると思う。
 この運用について、一つだけ今後の課題として、それは、今の僕の課題でもあるのだが、ダイビング計画書フォーマットの作成であろう。これは高気圧作業安全衛生規則とも関連するので、早急に工藤君とも相談しなければならない。今年度のシンポジウムの課題の一つでもある。
 厚労省とおなじように文科省も計画書の不在が、事故の遠因だと考えている。

 ここで、この視点からのこの集まりは、ハッピーエンドであり、このような集まりがまず出来ることが第一段階であり、次にはこの輪を広げていくという課題がある。

続く

0311 人工魚礁研究発表-1

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 漁場施設研究会、第12回研究例会、僕が、「人工魚礁調査におけるインターバル撮影とROvによる撮影について」というタイトルで昨年一年調査活動を、水中科学協会の水中調査研究サークルで行ったことの発表をした。研究会を主催しているのは、(一財)漁港漁場漁村総合研究所で農水省の仕事をしている。
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   僕の発表の画像 

 研究例会の参加者は、農水省の水産庁漁港漁場整備部計画課の課長、課長補佐以下係長が名前を連ねている。後は、水産総合研究センター、土木研究所、各県の水産振興課、水産総合研究センター、この辺りまでがオフィシャルで、あとは、各研究調査会社、人工魚礁メーカーが名前を連ねている。
 前身は、社団法人 全国沿岸漁業進行開発協会 と呼ぶ農水省の外郭で、僕はこの協会から人工魚礁の写真帳を作らせてもらっている。社団法人が行政改革的に分解されて、一つは(公社)全国豊かな海づくり推進協会になり、一つがこの漁村総研になった。
 国が行う(助成する)おおがかりな人工魚礁関連の調査のほとんどは、この漁村総研が行う。

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 漁村総研の定めている人工魚礁調査のフォーマット

 発表の第一部は、この漁村総研が農水省の補助金をもらって行っている研究の報告で、そのための報告会のようなものだ。漁村総研の研究は、調査手法であり、このような方法で人工魚礁の効果調査を行いなさいという基準を研究する。その実証実験の結果の発表である。
①150トン型水槽を用いたスケトウダラ着底幼魚の漁礁性の検証、
②バイオテレメトリーを用いたウスメバルの行動追跡
③温暖化による水産生物の出現状況の変化と、今後の漁場整備について、
④ウスメバルの食性について、
そして⑤が僕の「人工魚礁調査におけるインターバル撮影とROvによる撮影について」であった。①から④は、かなりな費用を使って一年かけた研究を12分で発表するので、しかも数値とグラフの羅列であり、数値的解析が得意ではない僕にとっては殆ど理解不能であった。その①から④のあとに、オールドファッションな撮影調査手法(器材は新しいが、コンセプトが古い)を掲げてリテラシーを動画で発表するので、場違いかもしれないと、たじろいたが、年の功か、違う視点からの発表も大事だとチャレンジした。
 僕の論点は、たしかに新しい最新の調査手法(なんだかわからない)新しい魚礁の発表も大事だが、営々と、漁村地先に築いてきた、人工魚礁群がどのような状況にあり、どのように人々の暮らしに関わっているのかを調べ、調査するのも漁村総研の研究としては重要なのではないか、そしてそれには漁協、漁村(いまでも村というのが気になるが、町でも無いし、市でもない)とレクリエーショナルダイビングとの関わりが大きなポイントの一つである、ということだが、今ここで書くと整理されているが、途中経過では混乱だったから、論旨が通ったかどうかわからない。多分、通った。

 発表の第二部が漁礁効果
 ①長崎県壱岐市勝本沖における魚礁効果調査報告 住友セメントの関連の会社
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 水深100mに沈められた高さ20m幅15m56トンの巨大魚礁 の効果の発表だある。ROVを使って撮影し、なるほど凄い魚群の数を、メノコ計算して、重量を見積もったもので、これはわかりやすかった。僕でもわかる。確かに凄い数だけど、これを毎年一基ずつ、これで、10基沈設されている。巨費を投じて一つの巨大自然礁 に匹敵するものをつくりあげた。と言えないといけない。
 これは、今、一緒に泳いでいる玉田のお父さんの久木さんが始めた仕事の延長線上にある魚礁、で久木さんのやったSK漁礁というコンクリート礁 を芯にして外郭を鋼製にしたハイブリッド化したもので、最も高価であるから、最も効果が無ければいけない、。

 ②視認、聞き取り調査による魚礁利用効果について
 これもハニカム魚礁という蜂の巣の形状の巨大魚礁の効果調査だが、ROVが荒天のために使えないで、漁師に効果を聴いてきたという発表で、ROVを使う調査会社のだらしなさともいえる。親しい会社なので、僕にやらせれば、と昔だったら営業した。いや、だらしないのは、スガ・マリンメカニックかもしれないので、滅多なことは言えない。

③高層魚礁における定点カメラを付加した効果事例
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 カメラを高層魚礁の水深45mあたりに二基の定点カメラを着けてさつえいした。僕が昔、鶴町と一緒にやった水工研の調査に似たようなものだが、肝心の定点カメラによる撮影映像が発表になく、数値のデータとダイバーの手持ち撮影の写真だけだった。定点カメラは写っていなかったのか?と昔の耳が聞こえていたころの僕だったら突っ込んだかもしれない。これも昔の僕ならもっと上手くやった事例。

④乱積み設置漁場の集魚効果の優位性についての検証
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これも親しくしている、昔お世話になった、後輩が取締役になっている会社だが、要するに適当にばらまいたよりも、適当に積み重ねた方が効果があるという発表で、整然と積み並べたものとの比較でないと、絶対的有利の証明にはならないが、整然と積み重ねるためのコストは大きい。しかし、これは僕の意見だが、整然と積み重ねられれば、高さのある鋼製魚礁よりも有利かもしれない。大型のコンクリート魚礁を積み重ねて、例えば6m角を2個で12m、三個で18mにする工法を研究して、実験し発表すれば面白い。自分が現役ならば、その提案と調査研究をする。
現役ではないけれど今度漁村総研に遊びに行くから、提案して見よう。提案は自由だ。

続く

0312 人工魚礁研究発表

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第三部 増殖効果
魚礁がただ魚を集めるだけではなく、魚を増やす効果があることについての研究
①マウンド礁 周辺の流動に関する現地観測
 コンクリートブロックを山のように積み上げて、自然礁 のようにした礁
 これも、この10年来の新しいスタイルだ。
 流動の観測、土木の研究だから、まるでわからない。山に流れが当たれば湧昇流になるだろう、くらいが僕の知識の限界だ。
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マウンド礁

②貝殻魚礁における漁礁効果の長期持続について
 牡蠣の養殖等によって、膨大な量の牡蠣殻を金網のような筒にいれて、魚礁に取り付けたのが牡蠣殻漁礁で、20年来の歴史があるので、その効果が持続していることの調査。
 牡蠣殻礁 を作っているメーカー、海洋建設は水中科学協会の会員になってくれている。
 お台場に設置した人工浅場(魚礁)を作ったのも海洋建設で、むかし、この会社の会長とは、海外視察旅行に同行したことがある。

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③貝殻利用による物質循環促進効果の定量について
貝殻が水の浄化にもやくだっている。つまり貝殻に棲みこんでいるゴカイなどの生物が植物プランクトンを食べるので、水が浄化されるという実験だが、生きている牡蠣の浄化よりも効果は薄いようだ。しかし、この研究の手法は興味がある。提携して次のプロジェクトができるかと、発表した研究員の片山くんと話をした。
だから言う訳でもないが、プレゼンターションは抜群に上手でわかりやすかった。

第四部その他
①ガンガゼ駆除作業の労力軽減の取り組み
 ガンガゼが海藻を食べて、丸裸にしてしまう。つまり磯焼けになってしまうのでガンガゼを駆除する。ハンマーで3回叩かないと駆除できない。100個体、潰すためには、3000回叩かなくてはならない。圧搾空気の噴出針で突き刺し、瞬間的に飛散させる。これで、疲れない。ここで発表することなのか、とも思うが、ガンガゼを駆除するダイバーにとっては、福音だろう。周囲にはオニヒトデ駆除ダイバー入るけれど、ガンガゼ駆除はいない。しかし、オニヒトデは飛散させると、足のそれぞれが育ってしまうから、この方法は使えない。酢酸を注射して殺す。

②防波堤を越流する津波に対するブロックの安定性について。
 これも土木のテーマで、ケーソンを支えるブロックが飛ばないように組み合わせる仕組みだ。次に大津波が来るまでに、このブロックに取り替えるとずいぶん儲かるだろうなあと思う。

さて、ここからが、僕たちの発表の収穫だが、
千葉県水産総合センター生産技術研究室(人工魚礁の研究も仕事にしている)室長に会って、今後の協力態勢を話し会うことができた。
もともと、僕が何か教えたことがあるような記憶があるが、とにかく顔は知っている。アポイントを取ろうと、潜水部の後輩が生産技術研究室にいるので、連絡はお願いしていたのだが、、僕が登録していない電話に出ないという習慣なのですれ違っていた。
発表を聞いてもらうとともに、その後の話をすることができた。
水中科学協会の今後の人工魚礁調査の展開としては、波佐間を中心として、館山から洲崎までの全人工魚礁を潜って撮影する。その結果でこの地域の人工魚礁の総体的な研究につなげたい。それは、どうしても、僕たちだけではどうにもならない。水産センターと協同で行わなければ、効果を研究発表するところまで行けない。
 そして、これがオフィシャルに有効になれば、全国各地で、レクリエーショナルダイビングと水産研究機関の協力協働のさきがけになる。
 
 どこまで、自分が生きて活動できるかわからないが、進めなくては、と思っている。
 これまでの成果の整理をしなければならないので、3月の調査には間に合わないが、4月の調査の時に、波佐間で水産センターのグループとミーティングする段取りになった。
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      西崎の魚礁 僕の館山でのセカンドハウスだった。

そして、久しぶりに波佐間以外の場所、西崎、塩見にこれまでの調査で船を出してもらっている。西崎の網代さん、塩見の組合長に電話をかけた。
一年ぶりの連絡だった。二箇所とも船をだしてくれていた船頭が死んでしまっている。この地域、日本の沿岸漁業とは、そういうことなのだ。
 そのことはまた別に書くとして、一期一会というけれど儚い。新しい人間関係を構築しなければならない。メールもメッセージも届かない世界だから、久しぶりで電話をかけまくった。
 自分もできるかぎりは生きて、やれることはやらなくてはと、今更のように思うが、あとどれだけの時間があるのだろう。天命とはよく言ったものだが、電話する先から先へ、亡くなっているとさすがにこたえる。もっとハードボイルドに生きなければ。
 
 これまで、この地域で水産センターに協力することが滞っていたのは、僕の経営していたスガ・マリンメカニックの縄張りだったからだ。その邪魔をしたくない。しかし、もはや僕の生命も、ダイビング出来るのはあと数年だろう。後ろを向いていたら、完全燃焼することができない。


0315

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朝目覚めて、メモを書く、生きる力、パワーがどんどん無くなっていくような気持ち。
2016/03/15 07:40
気を取り直して、辰巳での浦安海豚クラブ練習に行く。浦安のプールが工事中で使えない。

冬だし、浦安でなくて、辰巳だから人数が少ない。ウオーミングアップとダッシュ。ダッシュがぜんぜんできない。泳ぐ力が失せたのか。

水深5mを、水平25mを10往復する練習。無理をしてはいけないので、メンバーには、何時やめても、良いし、力を抜いて水面を泳いでいるだけでも良いからと指示する。

 一回目、体調が悪いと思っているのにわりと楽に、25m潜れる。でも10往復するとなると、道は遠いような気分になる。
3往復目ぐらいから、トイレに行きたくなった。我慢して5往復したが、5往復で中止にした。僕だけはトイレからもどって6往復から再開。7往復目ぐらいから、全く息苦しく無くなる。
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 8往復、耳元で、水を切る音が聞こえるような気がする。スキンダイビング・ハイ。
飛んでいるきもちになる。結局12往復で、時間が来てみんな上ってしまった。自分だけ一人でさらに翔ぶ。
 身体の調子の悪いのは戻って、パワーを少しとりもどした。
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0316 ブログの整理

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半日がかり、13時から17時で、ブログの整理を2014年まで終えた。
 あと、1年分2015年を終えれば、現在に追いついて、書く毎に整理して行くことができる。
 2005年からだから、10年、よくも書いてきたものだと、振り返れば思う。全部整理してみると、一つの財産になっているような気分になる。
 此処から先は時系列のファイルとともに、項目別にまとめたファイルを作って行くことで、指針にすることが出来るかもしれない。例えば、お台場、学生クラブ、人工魚礁調査、水中科学協会、幾つかにくくれる。ダイビングの記録、豊潮丸の航海記は、まとめて、さらに整理すれば、南日本潜水旅行記である。
 これから先は、書くこと、そのものに疑いをもつことは、無くなると思うが、書くことの質を考えるようになると、これまでのよう自由には書けないかもしれない。
 文章のよし悪しも気になっている。書きなぐりの下書きにはできないか?
 できれば、あまり構えないで、これまでとは少し良くなるていどで行ければ良いのだが、難しくなった。行けるところまで行こう。

 振り返ると、すべてのことは、壊れた夢のかけらのようだ。人のやることは、全部、そ
んなものかもしれない。うまく書き表せないので、なんどか回を重ねて書きなおすかもしれない。一度だけ書いて、それが良いものになるような能力は今の自分にあるとは思えない。
 
 海洋大学の潜水部も、関東学生潜水連盟も、全日本潜水連盟も水中科学協会にしても、
全て、自分が追っていた姿とは違ってしまっている。振り返ってブログを見て、例えば、2012年の方が良かったとか、ちょっと前の2014年には良かったとかおもってしまう。今の2016年も、2018年までもしも生きて、動いていたとしても、2016年の、あの頃は良かった、のあのころになってしまうかもしれない。
 全ては、そんなものなのだが、全日本潜水連盟について考えてみよう、関東学生潜水連盟と海洋大学については、今日、整理した2014年に10回以上の連続で書いている。これまでは、同じことを繰り返し書くことも悪いことではないと、書いてきたが、整理すると、あまりの繰り返しは書けなくなる。繰り返すにしても、前のものを見ながら、かくことになる。

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  スキャンコピーしてあった画像を見て愕然とした。スキャナーの性能が悪すぎて、こんなものだ。
 幸い、オリジナルがあるので、スキャンし直そう。といって、これも大変な手間のかかる作業だが。


 全日本潜水連盟も、水産大学潜水部も、今となっては夢のかけらかもしれない。
 それでは、僕は何を目指していたのだろう。全日本潜水連盟が日本全国を一つにまとめ、各地域に支部のある潜水組織にするというのが目標であったとするならば、それは1973年に達成してしまっている。
 人も時代も変わっていく。その中で、達成されたものの継続が目標であったとするならば、それは不可能にちかい。
 達成された成果とは、自分たちの命と同様に通り過ぎて行くもの。全日本潜水連盟では、とにかく25周年までは、自分の目標を継続し得た。25周年をヴァンティアンで行ったときこの目標も通り過ぎた。
 過ぎてみれば目標はマイルストーンになる。頂上に立てられた旗でしかない。
 その後、失意に打ちのめされたことも、マイルストーンになる。
 そのうちに、全日本潜水連盟については、マイルストーン刻みで、なにか書くと思う。

 関東学生潜水連盟にしても海洋大学潜水部にしても、マイルストーンだけが自分の記憶の中に残っている。 来年、海洋大学潜水部は60周年をむかえる。周年行事というのは、継続していく組織のなかで参加している全員が共有できる分かりやすいマイルストーンである。

 出版する本もマイルストーンなのかもしれまい。
 報告書とか、ブログはマイルストーンにならない。途中経過記録、つまりログなのだ。
 ログがマイルストーン、到達点になるには、到達点、目標をさだめて目標にむかって歩き続けて、そして到達することである。到達したことで、それはもう記録にすぎなくなってしまうのだが、それでも、人間は歩き続けている。歩き続けなければならない。
 

0317 学生連盟 2

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 学連の話がおきざりになってしまっている。
書き出していたのだが、2014年に10回にわたって、書いている。同じことを繰り返して書いても、2014年と、2016年の今では、自分も変わっているし、状況も、監督、コーチの集いができたりして、変わっているのだから、何回ダブってもよいとも思う。これまでも繰り返して書いてきて、その繰り返しを自分で再読してみると、その変わりかたが考えさせられるのだが、

今度は年表から拾ってみよう。
東京水産大学潜水部のできたのが一番古くて1957年に須賀が作ったのだが、これは、今の潜水部の形はしていない。とにかく集まって練習を開始して、大学祭に出展した。
その後、紆余曲折して今の形になったが、関東学生潜水連盟ができる1968年には、今の形になっていた。
1964年、法政アクアクラブ、獨協大学体育会ダイビング部創設
1965年、日本大学スキン&スキューバクラブ創設、資料が手もとにないので?だが、1967年、学習院大学ダイビング部創設、芝浦工大アクアラング部創設、早稲田大学水中クラブ創設 
1968年 中央大学海洋研究開発機構部創設、立正大学体育会スキンダイビング部創設、
日本初の潜水指導組織だった日本潜水会ができたのが1967年だから、学生のダイビングクラブの方が早く作られていたことになる。
そして、
1968年、法政、独協大学、東京水産、中央、そして東京商船大学の5校があつまって関東学生潜水連盟が結成された。
東京商船大学は、西伊豆の中木で合宿中、昼休みにスキンダイビングでサザエ採り?をやっていた部員が岩の下からでられずに死亡して、廃部になった。詳しいことは、僕でもわからない。
東海大学の海洋探検部も1965年頃、できていて、東亜潜水機の僕のところに挨拶二来たのだが、地理的な条件、意見が合わずに学連にはかめいしなかった。この海洋探検部も1980年代?に伊豆海洋公園でドラム缶を使った海底居住実験をやって2名が死亡して、廃部になった。詳しいことは、中川にでも聞けばわかるのだが、資料はない。海洋探検部は、シゴキのクラブとして名が通っていた。


 立っているのが法政アクアの加藤くん 日本潜水会の学生会員第一号だった
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68年から69年にかけて、全国の大学を中心とする学園紛争が燃え盛った。紛争は、60年代の半ばから始まり(64年の慶応大学、65年の早稲田大学、66年の中央大学の各学費値上げ反対闘争など)、ピーク時には、全国の大学の約8割に当たる165校がストライキを含む紛争状態に入り、その4割以上の70校でバリケード封鎖が行われた。東京水産大学では、今考えるとびっくりなのだが、産学協同に反対して紛争が起こっていた。産の支配を学が受けてはいけない。学の独立であった。
 学連は大学紛争のさなか、その副産物として生まれたと言えなくもない。大学は休講が続き、時間があった。学生のムード、流れは、大人(教授などを含む)への反抗だった
 だから、時を同じくしてできた日本潜水会への反抗とまでは言わないが、学生は学生という考え方が強かった。
 法政アクアの、創立者の一人、加藤芳雅君は日本潜水会の会員であり、学連の会長であった銭本君らは、日本潜水会の一級検定を受けに来てくれたが、日本潜水会とは別の道を歩むことに決めていた。つまり、気分としては同格であり、直接の指導は受けない。
 学連の各クラブが、監督、コーチが不在であるところが多いのは、この成立、創部の時以来の伝統があるのかもしれない。OB 会が創立時からあり、あるいはすぐに作られて、OB会が監督を決めた部は、監督、コーチが居る。この場合もまず、監督ありきではなくて、OB会が監督を作った。
 法政アクアも今現在でも監督という呼称はない。OB会の会長が監督的な働きをしているのだろうか、OBに業界の人が多いので、間接的な指導は会ったが、責任のある監督はいなかった。このことが、後の事故に関係してくる。
 東京水産大学は、OB会ができたのが、50周年に僕が音頭取りで作った。だから、部活とOB会がかなり遊離していて、監督という呼称もコーチという呼称もない。

このような歴史があるから、今回の監督、コーチの集いに4大学だけしか集まらなかった遠因になっていると思う。

ついでだから、もう少し、年表を続けよう。
 1969年、全日本潜水連盟主催で、第一回ロレックス杯水中スポーツ全国大会が開催され、これが、現在も続いている社会スポーツセンターの 水中スポーツ室内選手権大会につながっている。
1970年、日本のNAUI指導員講習が発足した。
1970年 慶応大学スキンダイビングクラブ発足
1972年 PADI潜水指導協会発足これは現在のPADIに繋がるが、別の組織である。
1973年 沖縄海洋博で、ロレックス杯全国水中スポーツ大会が行われた。
 これで、全日本潜水連盟は全国、北海道から沖縄まで、の支部ができ全国組織となった。
1974年 明治大学スキンダイビングクラブ発足
 同じ1974年 新宿に海ができた。DOスポーツクラブであり、法政アクアのOBである、青木、丸山、松田らが、そのコーチ陣の中心になった。
 1978年 東京女子体育大学 アクアダイビング部創設
1980年 真鶴半島潜水禁止(一時的なものだったが、その解除に学連の代表も社会人の潜水指導者と協力してあたった。)
1982年 PADI潜水指導協会が無くなり、PADIJAPANができた。
 これがダイビング指導のC-カード元年といえる。
 現在のダイビング史としては、これ以前の経緯は別のものと考えられている。
 学連がC-カードとは別の歩みをしてきたのも当然のことであった。

 続く

0319 学生連盟 3

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 学生のダイビングを考える時、キーになっているのは、自分の娘の同級生に起こった事故だ。二度と同じような事故は起こさないと誓ったことなのだから、何時も思い出して論じて良いのだ。書けば際限もないが、僕の目からは、亡くなった本人はもちろん、現場にいた3年生もOBも誰も責められない事故だった。
 何が原因か、といえば、空気が大きかったと思う。
ダイビングの事故の原因は、病気、へたくそ、そして思い上がりだと言い続けてきたが、思い上がりが一番恐ろしく、そしてわかりにくい。その場の空気とは、思い上がりのうちではあるが、ちょっとちがう。思い上がりは、個人個人それぞれだが、空気とは、全体的な、雰囲気の内での思いあがりだ。具体的に説明できる時とできないときがある。法政の事故の原因は立ち泳ぎだが、掛け声をかけて健気に頑張る子供たちをみて、微笑ましいもののように受け止めている、そんな雰囲気があった。
それは僕の空気でもあり、責任でもあった。泳力至上は、市民権をもっている競泳のスタイルで行うべきで、鉛を持った立泳ぎについては、研究が十分ではなかった。そのウエイトをもっての立泳ぎを日本潜水会ではじめさせた自分の責任のように感じた僕は、亡くなった子のお父さん、お母さんに何度もお便りした。なんらかのケアになるかも知れないと思ったのだが、迷惑な逆効果だったかもしれない。それでも、お父さんは、きちんとした礼状をくれた。お母さんは、決してあきらめないだろうとも書かれていた。
 空気が事故の原因として大きいと知りながら、自分の会社でその空気で事故をおこしてしまう。スガマリンサーカスと呼ばれて、喜んでいるような雰囲気である。
 そのころ、東海大学卒業でプロのダイバーになった子の2年目が危ないというジンクスがあった。そういうことをおろそかにしてはいけない。それをケアしなかった僕は、東海大学卒2年目の脇水を殺してしまう。この事故は僕のダイビング人生を変えてしまった。
 
 学連の空気に、僕は関係しているOBとして、責任があると思ったが、自分の仕事としてのダイビングに忙しかった。何もできなかった。そしてその空気は学連で、そして母校の水産大学でもいくつかのニヤミスを起こす。水産大学については、50周年でOB会を作ろうとして、ブランクだった過ぎてきた日々のことをOBたちに聞いて愕然とした。助かっていただけというアクシデントがいくつもある。その内で、ヘリコプターで搬送された事故もあった。
 助からなかった例も学連ではあった。三宅島での事故だった。それは、僕のホームページに幻の事故というタイトルで載せている。
 
 監督、コーチがその場にいたとして、例えば僕がその場にいたとして。あの事故が防げたかどうかわからない。が、現場で指導していた上級生の心の負担がどれほどのものだったろう。しかし、それも彼らのダイビングを続行したいという願いと、チームワークで乗り切って現在の法政アクアがあり、自分の娘も、そして、上級生だった娘婿もそこには、いる。
 人間50年、夢幻だというコンセプトが好きだから、50年生きたら、後は癌で死ぬよりは海で死んだ方が良いなどと言っている。しかし、50年未満は死んではいけない。世に絶対ということは無いが、学生のダイビングの安管理は絶対に近いものであってほしい。自分として絶対と思えるのがケーブルダイビングシステムだ。これは、前述した自分の会社の事故と関係がある。命綱兼用の有線通話機を脇水輝之が着けていれば、この事故はおこらなかった。一人で潜るときには、必ず水面と直接のコンタクトを着ける。
このケーブルシステムの弱点はチームでなければ運用できないことだが、学生クラブはチームである。
 しかし、このシステムはスクーバダイビングには当てはめられない。自分が学生の時、ひも付きになることをいやがった。ひも、コンタクトをつけられるくらいなら死んだ方が良いとおもう。それがスクーバダイバーだ。だから事故は防げない。
 脱線してしまったが、最善は尽くさなくてはいけない。ケーブルダイビングシステムの普及に最善は尽くしたが、事故を起こしたスガマリンメカニックでさえ、ケーブルを使わなくなって、あきらめた。いや、部分的にはまだ、あきらめていない。自分の80mはこの方式でやる。

 学生とのつながりは、スポーツ大会、フリッパー競技会を通してあり、およそ、スポーツと名がつけば、学生が中心になってやるものでなければ、栄えない。僕たちのロレックス杯競技会は、法政が常勝で副賞のロレックスをさらっていった。その思い上がりがなかったとはいえない。
 このスポーツ大会が、自分が常務理事を務める、社会スポーツセンターが主催で行うようになり、学連を大事にしなければ、スポーツ大会はできないし、学生にとっても、社会人と向き合う、良い機会だと考えてそのように動いた。
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     第40,41代の子たちと潜りに行った記念写真。土肥だった。

 やがて、60周年を迎える海洋大学、水産大学の潜水部、第40代、41代のときだから、1994年だ。水産大学の潜水部から、OBの集まりがあると連絡がきた。まだ、その時はOB会はないのだから、現役の学生が企画した集まりだった。40周年のつもりだったと思う。学生とのコンタクトの機会は、大事だと感じていたころでもあったので、出席した。僕が、水産大学潜水部のコーチをやめたのが、1969年だから、これが水産大学潜水部との25年の間を置いたコンタクトだった。40代の中心だった東隆二君が、僕と一緒に仕事をしていて縁の深い、仲間の息子で、水産大学に入ったことも、潜水部に入ったことも、その時に知った。41代の吉村くん、43代の小坂くん、鈴木さん45代の今泉くん、井口さんとは、自分の子供のように親しくなり、41代の吉村くんとは、潜水部の有志にカメラを持たせ、撮影を教えて、ビデオクリップを作った。45代の今泉くん、井口さんなどを仲介して、50周年を期して、OB会を発足させた。OB会を作らなかったのは、自分の責任のように思っていたから、これで、責任を果たす事ができた。
 そのような流れの中で、関東学生潜水連盟の状況、彼らの練習の有様を知ることができた。何時事故がおこってもおかしくない空気を感じた。

0320 学生 4 SAI

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  僕が教えていた学生クラブ

 関東学生潜水連盟は、毎年、式根島で学連の合宿をやり、それぞれの大学の主将クラスの親睦と、練習方法、合宿ツアーの運営など、一緒に潜水しながら、安全な潜水を追求する。
それは良いのだが、学生が泊まらない近くのダイビングサービスからの情報では、
夜は酒盛りの状況になっている。実際にどのくらい飲んでいるのかわからないのだが
水産大学の潜水部から、もらった合宿のパンフレットには、さあ、飲むぞ!という雰囲気になっている。例え、酒を飲んでも飲まなくても、こんなことを印刷して配布すれば、もしも何か事故が起こった時、社会的に糾弾されるだろう。
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 そこには、各大学の監督の影も、コーチの姿も見えない。学連の大部分の大学で、「合宿で酒を飲むな」という注意もない。
 そして、その合宿のあった2002年だった。これは関東学生潜水連盟ではないのだが、東大生が入っているダイビングサークルが、大瀬崎で死亡事故をおこした。このサークルは幾つかの大学が合同で行っているサークルで、もちろん指導者も同行していない。大瀬崎で宿泊していた羽衣に電話しての情報では、前夜遅くまで酒を飲んで騒いでいたという。咎めるような口調だった。これは関東学生潜水連盟の合宿もおなじようなものだと推察される。
 このまま放置するべきなのだろうか。
 事故が起こった時、最善を尽くすと言ったのではないか。
 ここからは、自分なりに最善を尽くして、敗北する話になる。
 
 その昔、千葉真一が主宰するJAPANアクションクラブという。アクションスター養成の学校でダイビングの指導をしたことがある。僕の教え方は、お客様、ゲストに対する態度とおなじだった。若い子どもたちだから、教師に対する態度はとっていない。一緒に教えていた空手の師範、有名な方だったが名前は忘れてしまった。子どもたちを集めて師範が言う。「須賀先生は、やさしく教えてくれているけれど、先生の教えているダイビングは、一つ間違えば死んでしまう。空手の指導は厳しく、僕は恐ろしいかもしれないけれど、君たちを殺してしまうことはない。」その後、みんなの態度がかわった。そのときから、学生に対する態度は、お客様扱いではいけないのだと自分を戒めている。それでも、学生たちを叱ったり、きつく言うようなことはない。しかし、ダイビングは死ぬのだと教えるようにはしているつもりだ。

 学生のダイビング部活は二年半で終わる。リーダーも二年の経験しかない。
 せめて、リーダーだけでも後二年、卒業するまで部活に残る制度は作れないのだろうか?
 今では、そんなことは絶対に無理とわかっている。でも、さらにその後で述べるように、必ずしも無理では無かったのではないか、とも思う。

 とにかく、安全、人の命、若い命がかかっていると思えば、行くしか無い。
 これは、僕の潜水人生で、その最後で、もっとも大事なプロジェクトになるのではないかと信じ込んだ。
 呼びかけたら、学連の上級生、執行部を卒業しかかっている何人かが賛同してくれた。三年生を集めて講習会を開く、実技については、すでに、経験数も街場のショップのアシスタントのレベルに達している。安全管の方法論、システムを研究し互いに切磋琢磨し、それを記録に残しておけば良いのではないか。酒飲み大会になっている合宿を信頼できる教師、先生にきてもらって、講習とすれば、大幅に安全管理が向上する。ケーブルのオペレーションの実習もやろう。
 スチューデントアシスタントインストラクターという言葉も学生が考え出してくれた。そのころ熱心になってくれた学生の名簿を作っておけば良かったが、残っていない。ただ、事務所によく訪ねて来てくれた宮本君を覚えている。慶応のダイビング部だった。学連の場合、周期的に中心になる委員長を各大学に振り分けているようだ。そのころ、慶応立ったのかも知れない。
 忘れていた、僕は関東学連の執行部の学生たちとテレビ番組をつくったことがある。「朝まで生テレビ」と言う番組で語り合った。それもSAIの伏線になっている。そのときの学連の委員長は立教の女の子だった。その立教は、今は消滅してしまっている。
 各大学の監督、コーチとは全く知見がなかった。学生と、新しい企画を熱心にやっていても監督、コーチの姿は見えない。全然、別、二重構造なのだ。
 このことは、後で大きな問題になるのだが、それは置いておいて、話を進めた。
 
 指導をしている誰かに話をしてみようと、法政の山中くんを呼び出した。彼にとっては無駄な時間だったのだろう。僕の方が先輩だから、無碍には反対できないし、賛成もできない。冷静に考えれば、どうすることもできないことと知っている。
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 東京医科歯科大学の真野先生に相談した。良いんじゃないですか協力しますよ。先生はいつでも僕には協力してくれる。安全という方向であれば。

 順天堂大学、河合先生にも協力をお願いした。真野先生のところに居た山見先生を中心にするように真野先生は考えていたようだ。ダイビングの世界では、お医者さんがキーだ。
 2003年 10月26日 第一回のSAIセミナーを医科歯科大学の教室を借りて行った。
 
 監督、コーチの影も形も見えない。学生執行部からのアプローチができない。
 それでも、自分としては強行突破するつもりだった。しかし、山見先生は、無理をしないで、待った方が良いとい意見だった。
 続く
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