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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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リブリーザとは、ジュールベルヌの海底2万マイルのように、海底を歩く潜水機ではないだろうか。普通の作業ダイバーがフィンを脱いで、海底を歩いて作業するように歩けば、バランスを失って吹き上げられる心配もない。

 もちろん現行のテクニカルダイビングもリブリーザも否定するものではない。水深80mで浮いていることに、絶対的な自信が持てないのだ。下手だ下手だと言っても、水平姿勢にならないかぎり中性浮力は大丈夫だ。しかし、テクニカルダイビングのスタイルには、自信がない。自信がなくて、できるほど大深度のテクニカルダイビングは生やさしいものではない。
 また、CCRは、炭酸ガス吸収機構、酸素分圧の測定とコントロールに基本的に脆弱なものがあり、それを電子的ハイテクと、サイドに吊るしたベイルアウトタンク「予備の緊急脱出用のタンク」で解決している。電子的ハイテクというのは、僕は、おそろしい。
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インスピレーション

 71歳だったか、リブリーザーの独習をしていたころ、大瀬崎の先端に行って、一人で50ー60mに潜り、歩きはしなかったが潜る練習をしていた。カメラで真鯛を追っていた。先端に居る若い真鯛は美しい。年を経た、大鯛になるとくすんだ黒になってきて、美しくなくなるが、30cmほどの若い、天然の真鯛は本当に美しい。撮影していて、ちょっと躓いて、30cmほど浮いた。自分で30cmと感じていたのだが、横から見ていたら、1mぐらいかもしれない。とにかく浮いた。浮いたら口から吸って鼻から出して、カウンターラングの中のガスを抜いて浮力を減らす。同時にBCの空気も抜く。両方同時にやらなければならないのだが、タイミングが少しずれた。更に浮き上がる。浮き上がれば膨張して浮く方向に行き足が付く。同時にドライスーツの浮力も膨張で増える。カメラを手にしているから、手は一本しか使えない。浮きだしたら、そのまま水面まで、止まらない。水面で、すぐに全部の浮力を抜いて、30mほどまで急降下した。未だ、どこも痛いところはなかった。減圧を長めに取って浮上して何事もなかった。60mと言っても、タッチアンドゴーで浮上を初めて、浮上しながらの撮影だったから、助かったのだろう。
下手だからこんなことになったとは思う。しかし、上手になったとしても、間違いと言うのは誰にもある。失敗もある。自信が持てない。命がけは嫌いではないけど、自信が無くて、命を賭けるのは、冒険ではなくて無謀だろう。
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もう一度は、3リットルのディリューエントガスがなくなって呼吸できなくなった。深い水深で、身体が浮いたので、ガスを抜き、降りて、また浮いてということを何回かやった。何回だかよく覚えていないけれど、BCの空気を出し入れして、中性浮力をとっていた。こんなことをしていたら、3リットルのガスは、深い水深ではあっという間に無くなる。ベイルアウトタンクで浮上したが、減圧停止が不足した。減圧症には、ならなかったが、危なかった。
 もう一度は、手動で、酸素分圧を濃くして、エントリーで歩くのを楽にしたまま潜降して、自動に戻すのを忘れ、アラームが鳴るのに気づかなかった。新しい型では、アラームは音ではなくて光に代わったが、これは、同じようなニヤミスが多発したからだろう。毎日のようにリブリーザの練習ができるわけではないので、メンテナンスも心配だった。何とか2年は練習し、酸素センサーの寿命が疑われるところで、インスピレーションは、あきらめることにした。もう72歳になっていて、35キロのインスピレーションを背負ってエントリー、エキジットを一人でやるのは無理になってきた。全然上達はしなかったが、リブリーザがどういうものかは、わかった。極めたとおもった。
インスピレーションは40万で売り払った。酸素センサーの換え時でもあった。もしも、仕事があれば、新しい型を買って、オーバーウエイトで、潜降索と命綱で潜れば良いということがわかった。気泡が出ないということを売りにして、人工魚礁調査の見積もりを方々にだした。もしも、仕事が取れたら、親しくしていたリブリーザーの達人、田中さんにでも一緒に潜ってもらおうと、見積もりももらった。まあ、リーズナブルだった。
しかし、人工魚礁の調査で、気泡が出ないことだけでは、売りにはならない。カメラを設置すれば済むことなのだ。カメラは気泡をださない。新型を買うことはなかった。

 80歳で80m潜ろうという段になり、リブリーザを使って、誰かに手を引いてもらえば、簡単に潜れる。中川も、後輩の古島もリブリーザを使える。他にも、協力してくれる人も居る。しかし、おんぶにだっこで、80m潜っても、あっけないだけで何にもならない。
 考えた。
 1963年の100m潜水では、デマンドバルブを着けた、フルフェイスマスクを提案した。今では、この方式が作業潜水の定番になっているが、その頃は、これで送気式で潜水する方式は日本では見られなかった。
 現在のスタイルのテクニカルダイビングもCCRも、僕には無理だ。
 では80m潜るのをやめるか?別にやめても良い。特別に強制されているわけのものでもない。
 しかし、なんとか別のスタイル、別の方式でできる方法を考える。
 1963年、何のために100m潜るのか、と問われれば、新しいダイビングの方法、器材を作り出すため、と答えていた。
 今度もそうしよう。
 ① 複雑な電子制御をしない。
 ②体力的に弱いので、重いものは背負わない。
 ③サーフェスコンタクト、命綱をつける。
 三つの条件を考えたとき、1963年の90m潜水の後、1964年に考えたコンセプトシートを思い出した。
 これで100mを越そうと考えたものだった。
 ヘリウム混合ガスを使うとして、ヘリウムは高価だから捨てたくない。現在のリブリーザのような電子的なコントロールは、僕には考え出せない。コンプレッサーを水中に持ち込んで循環させてしまおう。僕の勤務していた東亜潜水機は、コンプレッサーメーカーだ。佐野専務(現在の佐野社長のお父さん)に相談すれば、なんとかしてくれるだろう。1963年の100M潜水で、船の上にコンプレッサーを置いて送気していてホースのトラブル出九死に一生の思いをした。水中に持ち込んでしまった方が安心だ。
 とにかくこの方式で特許をとってしまった。
 しかし、つくるとなって作れない。20年早かったのだ。もしも、無理に作って実験していたら、生きていなかっただろう。
幸か不幸か、申し訳ないことに、僕は東亜を辞めてしまう。
 このコンセプトシートのような潜水機を作ればいい。コンプレッサーを持ち込むのは無理だから、タンクを束ねて、水中に持ち込もう。
 現在の方法,、船上にカードルを置き、船上に再圧タンクを置くバウンス潜水、リブリーザーを使うテクニカルダイビングに反対するわけのものではない。しかし、違う方式を考えよう、試してみようとするところから、技術は進歩するのだ。第三の選択肢を見せることができれば、僕の潜水に意義がでてくる。

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何か書いていると、自動的に事故とか、安全の話になってしまう。だから、「安全」という字が嫌いだ。

 事故は、予期しないところで、予期しない形でおこる。ならば、いつでも予期していれば事故は起こらない、と考えることは、論理的に正しいのだろうか。
 予期するとか、予期しないとか、言うことはソフトのことである。ソフトとは、形のないものだから、目に見えない。ハードは目に見える。触ることもできる。ハードとソフトの絡み合いが運用である。そして、ソフトとは人間、ハードは人間でないもの。コンピューターは、道具だからハードである。人間のすることは、ソフトだろう。
 なんだかわからなくなってしまった。わからないのは人間がわからなくなるのだから、ソフトだろう。
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「エアバスの真実:加藤寛一郎」ブックオフで拾ってきた本だから、1999年の単行本、2002年の文庫だ。東大名誉教授だから、基本的には好きではない。だけど、書いていることはおもしろい。
 絶対の安全が求められる旅客飛行機が、次々と墜ちる。その中で、オートパイロットと人間パイロットとの相克、その相克についてのボーイングとエアバスの姿勢の違いを論じたもので、著者はエアバスの提灯をもっている。
いくらもらったんだ、エアバスから、といいたくなるのだけれど、おもしろかったし、安全とハードに対する姿勢について考えさせられた。
 エアバスはオートパイロットについて、先進であり絶対の自信をもっている。ボーイングの方は、最後の最後は人間だと言う思想、フィロソフィーソフィーを持っているらしい。100人単位で人が死ぬフィールドである。
ダイビング、リブリーザについて、全自動化がよいのか、手動が良いのかという問題とつながる。ダイビングについては、自分の命である。手動が良いと僕は思ってしまうのだが、さらに、安全について、自動か手動かを論じないで済むシンプルを求めるべきだと僕は思ってしまうのだが。
 もちろん、個のダイビングと衆の航空機とは次元のちがう事ではある。
 ダイビングでは、自分の命は自分で手にしていたいという願望が僕にはある。自己責任というフィロソフィーに帰着するのだが、危険と考えられる水中という環境で、自分が判断しなくて良いのか。
レスキューする側は、最大の努力をしなければならないことは、言うまでもないとして、人間である。最大の努力をいつでも、どこでも継続できるのだろうか。

全自動、すべて機械が、コンピューターがやってくれるというと、人間は何もしなくても良いと思ってしまう。ところが全自動を扱うのは絶対的な訓練が必要であり、そして全自動のハードと、そのハードを作った人の思想を理解しなければいけない。

「エアバスの真実」はエアバスのフィロソフィーに同調している。ボーイングの側のフィロソフィーの肩を持つ論理も聞いてみたい。
でも、自分のオートが絶対だと思うエアバスがヨーロッパで、ボーイングがアメリカだというところも面白い。
もう一つ、この著者は学振に携わっていて、どの分野の科学が盛んなのか、人気があるのかを論じている章も面白かった。学振から見た日本の学術の中心は、ゲノム、材料、情報、サイエンスの宇宙、エネルギー、食料、環境の順だという。

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エアバスのオートパイロットのことなど、少し脱線したようだけど、これは、リブリーザにも関連がある。リブリーザは、酸素分圧を自動で電子的に調整しているのだが、それが狂うと、酸素中毒、酸素不足、になる。これは、突然のように起こり、命を落とす。僕が使っていたインスピレーションは、酸素センサーが三つあり、一つが壊れても二つの多数決で決めるようになっていたが、それでも、こわれる可能性がある。酸素センサーは生まものなので、耐用が2-3年だと言われた。耐用が尽きる時は、一緒に尽きる可能性がある。一個3万以上した。一個がだめになるときは、三個一緒に変えた方がいい。早め早めに10万をかけていくのは辛いから、どうしても一個壊れてから変えようと思うだろう。その時は2個同時にこわれているかもしれないのだ。
  
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インスピレーションが、到着した日、2004年1月

酸素分圧の異常に、命を落とすまえに気づけば、ベイルアウトタンクに呼吸を切り替えて、呼吸回路の中のガスを排出して、分圧調整を手動に切り替える。最初から手動にしておけば、間違いないのではないか、と思ったりする。もちろん、手動も間違えがあるが、手動か自動かの議論は成立する。エアバスのように、自動に絶対の自信があれば、この議論は終わる。とにかく、酸素分圧センサーと、炭酸ガス吸収剤がリブリーザーのネックである。炭酸ガス吸収剤も、その効果を残圧計のように測る事はできない。(測ることが出来るものもできたと聞くが、そのゲージも頼りにならないかもしれない。)

セミクローズ(SCR)をまず考えた。CCRのような酸素分圧の電子制御ではなくて、その深度で酸素中毒にならない酸素分圧の混合気体を、ダイバーの酸素消費量だけづつ流すノズルを通して供給する。供給で増えた分だけが、呼吸回路から放出される。だから、気泡は僅かだがでる。普通のスクーバのガス消費量の3分の1ぐらいらしい。3本のタンクが1本で済む。炭酸ガスはやはり吸収材を通して取り除くが、電子制御が無いだけ、ローテクノロジーであり、シンプルである。と思った。
 ただし、市販されているSVRは、ナイトロックスを使うように作られていて、水深40mまでしか潜れない。すなわち、この潜水機は、浅い水深を、気泡の放出をわずかにして、長時間潜水できる機械なのだ。
 だから40mから80mの潜水には使えないのだが、途中でガスを切り替えれば40mを越すことができる。40mから先のガスを別に持って行き、40mのところで空気のタンクのバルブを閉じ、ボトムガスに切り替える。ボトムガスは、水深80mでも窒素分圧が400 KPa を越えないで、酸素分圧も140を越えないガスのタンクのバルブを開けてやればいい。
カタログをリサーチしたら、SCR はKISS GEMというメーカーのものが良さそうだ。これが日本のメーカーが作っているものならば、直ちに相談に行くけれど、アメリカまで行かなくてはならない。どうしても若干の改造は避けられないだろうから、リブリーザーの権威である田中さんに相談してみた。できそうだ。価格を聞いてみた。およそ70万だという。改造費を入れれば、実際には100万をこえるだろう。60歳の時の100m潜水当時だったら、その後の仕事にも使えるだろうから100万でも問題ないが、現在は事実上、これから先、この潜水機で稼げない。後がないのだから、この潜水機だけで100万は痛い。

更に調べてみると、日本でもこのGEMのトレーニングをしてくれるところがある。見ると、10年前のインスピーレーションのシステムとほとんど同じだ。
僕のセミクローズのイメージは、日本アクアラングでも扱っていたドレーガーだったのだが、ずいぶんと電子自動化が進んでいる。
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 ネットでは、「この機材は、警告なしにあなたを殺す可能性があります。冗談ではありません」という説明がまずでてきた。読むと、メンテナンスとか部品の交換をきちんとやらないといけないし、操作を間違えると死ぬ。冗談ではないのだ。シンプルなローテクかと思っていたのだが、やはり、電子部分がある。
 リブリーザーを使っていたら、僕の生きてきた時代、50年のダイビングライフで、2回か3回は死んでいる。電子と化学的炭酸ガス吸収はやばい、という僕の直感は正しかった。ヒヤリハットとよくいうけれど、ヒヤリもハットもなく、おさらばだ。もっとも、アメリカでは、このくらい脅しておかないと、訴訟で勝てないのだろうから、脅しかもしれない。でも、冗談ではない、と言っている。とにかく、勝手にガスの水中での交換などできそうにない。
 
 今更、安全潜水なんてことはいわないが、80歳、半ば死にかけている後期高齢者でも80mまで潜れる安全な潜水機の開発を目標としている。
 とりあえずは、SCRの改造は、やめておこう。ベイルアウトタンクが、命の綱ならば、ベイルアウとタンクだけで潜ってしまおう。
 リブリーザについては、権威者になるか、それともやらないか、のどちらかだろう。これから、権威者になる時間はのこされていない。1996年の100m潜水に引き続いて、リブリーザーにダッシュしていれば、権威者になれたかもしれないが、過ぎたことだ。

一番信じられるのは、やはり60年付き合ってきたオープンサーキットだ。

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 1月11日、成人の日だが、成人には関係もないし、興味もない。身体もたるんでいたけれど、今年初めての海、つまり、初潜りに波左間にいった。シンポジウムの水中調査研究グループに報告書を書き直すくらい考えた。潜水とは考えることなのだ。潜りながら、ドライスーツの冬は、ほぼ拷問的な身体の辛さで水に浸りながら、考える。
そんなことで、その考えを書きたかったが、少し長くなると8080がとぎれてしまう。こっちが一段落したら波佐間の話を書こう。が、忘れてしまうといけないので、原稿だけは書いておかなくては。

8080,
 結局のところ、SCR も僕の思い描いているものとはちがって、電子化され、自動化され、ただ、ナイトロックスを使う関係で、水深が40mに限定され、長時間潜れるというものになっている。危険度については、マニュアルをみる限りでは、SCRもCCRも同じようなものだ。パーフェクトが要求される。
 僕のダイビングは、パーフェクトどころか、間違いだらけだ。それで生き残っているのは、サーフェスコンタクトと文学的な想像力のおかげだ。理系的な能力は最低限度だが、理系に傾くと、フィールドでは、危険が大きくなる。リブリーザーは、理系そのものだ。

 そんな自分にとって、一番信じられるはやはりオープンサーキットだ。

 60m以上ではそんなに長く潜っている必要はない。長く潜るのならば、再圧タンクを船上において船上減圧をしなければならない。
60歳の100m潜水では、潜水時間を15分と想定したから、今度も15分としよう。40mから下、混合ガスを使用する時間を10分とした。減圧時間は後で決めることにして、とりあえずガス消費量を考えよう。毎分20リットルとして、深い潜水では酸素分圧が高いし、そんな労働もしないから20も必要ないだろうが、計算しやすいので20とする。80mは9気圧だから、毎分180リットルで10分として、さらに多めに見て2000リットルあれば足りる。11リットルのタンクに200キロ詰める予定として、2200リットル、1本でたりる。わかりやすい。
 呼吸ガスは生命線だから、2倍にして2本にしよう。40mー0mを同じく2本で減圧は船上から純酸素をホースでもらうことにして、4本組の11リットルで間に合う。
 4本にしても、僕の体力では背負いたくない。
 どうせだから、6本にしてこれを束ねて中性浮力で浮かせて、10mのホースでガスを送る。1964年の絵の実現だ。これをハイブリッドシステムと名付けることにした。
 
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6本の11リットルアルミタンクは、杉山さん(SSI)から借りて、ダイブウエイズで6本のくくり金具、バルブシステム、ホース周りを作ってもらって、12月13日のシンポジウムに実物展示した。
 そしてこのシステムの概要を講演発表した。
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    1963年の5本組タンク

 このシステムのルーツは1963年、舘石さんと100mを目指し、90mで引き返した実験潜水にある。この潜水をテレビで放映した「命綱を降ろせ」をシンポジウムでも、縮めて上映した。
 このとき舘石さんは5本組のタンクを背負い、ふつうのスクーバで、僕はフルフェースマスクで送気式で潜った。潜水機の実証実験として、深く潜る。
実は僕は危なかった、船上のコンプレッサーの過熱と夏の暑さで、ホースが抜けそうになったのだ。
 その100mを30年後に60歳の記念として目指した。定年というのは無いから、記念だ。60歳での100mは、絶対安全な船上減圧で、ステージに乗って潜降、浮上するバウンス潜水だった。これは安全だが、再圧タンクをのせる船を借りなければならないし、とても大がかりで費用がかかりすぎる。8080は、この60m潜水の一日分の費用でやらなければならない。なんとか小さいボートで、たとえばゴムボートででも潜れる方法で潜りたい。

 2016年はこのハイブリッド方式のテスト潜水を繰り返したい。できれば、この方式を商品にまで洗練させたい。
新しい方式とか、大げさなことをしなくても、リブリーザでちょっと80mまでならば潜れるだろう。それはそれでよい。前にも述べたように、僕がリブリーザをやるとすれば、オーバーウエイトで潜降索につかまって、降りて、海底を歩く。浮上は命綱でひきあげてもらう。
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しかし、僕はこの際、1964年のコンセプトシートに書いた、ガス供給源を水中に沈める方式を完成させたい。
どちらが良いかを論ずることは、意味がない。リブリーザのテクニカルダイビングはすでにマニュアルがあるものであり、市民権を得ている。ハイブリッドシステムは、これから試行錯誤を始める。ある程度完成されたならば、仕事で潜る場合に、リブリーザをつかうか、ハイブリッドを使うかの選択になるだろう。それが僕の望みだ。
そして、訓練と体力と、絶対間違わない自信があるダイバーはリブリーザでのテクニカルダイビングを選択すればよい。僕の身体能力は、身体障害者一歩手前だ。テクニカルならば、水深20mが限度だとか誰かが言っていた。
 6本のタンクを使うとして、6本をサイドマウントで潜っている人もいる。僕は自分ができる方法を追求している。リブリーザも6本のサイドマウントもできない。
 フィジカルに自信がなく、準備に万全を期し得ないのであればハイブリッドを選択する。そういう潜水システムをつくりたい。
もちろん、動ける自由度、についてはテクニカルが良い。ほぼ無限にどこまででも行ける。こちらは、タンクを束ねたカードルから半径10mの範囲では自由に動けて、カードルの移動はサーフェスコンタクト、命綱の範囲でよいならば、移動できる。昔、超大きいカメラをオペレーションしたことを考えれば、ハイブリッドの6本タンクを押して泳ぐことも出来る。
6本水中カードルは、岸からのエントリーができないという短所もあるが、岸からエントリーして80m潜れるのは、伊豆半島の一部、大瀬崎近辺に限定される。僕のホームである房総半島では、全部船からの潜水になるし、サイエンティフィックダイビングでの調査もボート使用がほとんどだ。

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ブログを書くのが億劫になっている。原稿料が入るわけでもないし、身にならないのだ。でも、かなりずーっと続けている。書きながら考えていて、考 えの基になっている。考えたことは、考えるその場で消えていく。字に残すと少なくとも 自分にだけは残っている。
 今、水中科学協会のシンポジウムの報告書を作っているのだが、直しに直している。ブ ログはなおしもしない、読みもしないで出している時がある。先日、石川さんに注意され た。少なくとも一度は読んで出しなさい。とても最もだが、これも、きっと読み直さない で出してしまうだろう。

 1月11日成人の日だ。
 1月に一度定例の波左間に行きたかった。調整したら、須賀、山本、増井、小俣、福田 、のメンバーが集まった。
 潜る魚礁はNO13,ROVの時に探して見つけられなかった魚礁だった。その後荒川さんがブイをつけておいたというニュースがあったので、それに潜ろうということにした。
 この13番と14番が同じ形で、ハウスのような形をしている。これに潜水すると、波 左間に沈設されている魚礁のすべての形をみたことになる。
 あと、残るのは1番だが、これは水深50mだから、たてまえとして、混合ガスでなけ れば潜れない。ハイブリッドのテストで潜ろう。
 ところが、13番に着けてておいたブイがなくなってしまっているという。捜さなくて はならない。GPSと魚探でさがす。
 相変わらずドライスーツがきつい。ネックを締めると、猛烈な肩こり状態になる。死に そうだ。首は、潜る寸前に締めることにした。
 ガーミンはN「北緯)とE「東経」で、目的地点を打ち込むと白い矢印がでる。自分の いる位置が黒い矢印で、黒と白を重ねると、目的地点に行ける。山立ができないから、こ れを使っている。たしか10年以上使っている。20年かも知れない。よくわからない。
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      ガーミン
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     捜索中

 目的地に近づくと、IN のボタンを押す。拡大されて、位置がピンポイントになる。
 魚探でその位置を見る。魚礁があれば影がうつる。安い、最低の魚探だから、あんまち はっきりしないが、良い魚探ならば魚礁の形が写る。でも、安くてもなんとなく形が映る し、魚のマークもでる。
 荒川さんとボートオペレーターの山立て、僕のガーミン意見がちがう。僕もしばらくぶ りでこのやり方をやるので自信が持てない。が、最後は、ここです。と言い切った。とこ ろが、フクちゃんのGPSででは、ここは9番の魚礁ですという。僕たちの行きたいところは13番だ。9番はすでに潜ってみている。
 福ちゃんのGPSは、韓国製だ。ガーミンは台湾製だ。台湾対韓国の勝負になった。最近やっていないとはいえ、僕の方はこれまでの経験がある。ここが13番と決めた。

 さて、潜らなければならない。
 ドライスーツのネックを被る。首が締め付けられて、苦しい。しかし、このくらい苦し くないと、浸水する。浸水か首絞めかの選択になる。以前は浸水を選択していたこともあ る。勿論、ほんのすこしの浸水で、下着を潜る度の変えるくらいだが、血圧が高いところ に首を締めて冷たい水の中に飛び込むのだから、血圧はどのくらい上がっているか見当も つかない。しかし、まだ死ぬという自覚はない。最近では血圧も安定しているので、首絞 めを選択している。
 飛び込んでから潜降索に掴まるまでが安定していない。オーバーウエイトにしているつ もりなのだが、ドライの空気を抜き、BCの空気を抜いただけでは沈んで行かない。潜降索 を手繰って、5mほど潜らないと潜降の姿勢にならない。何時の頃からこんなことになっ てしまったのだろうか。
 フクちゃんが僕の潜水の一部始終を撮影している。近々、僕が死んでから、僕の最後の 姿、とかいうことで価値がでるのだろうか。そうなるとなおさら無様な潜降はしたくない 。要するに自分の姿勢制御が客観的に感じられないのだ。主観だけ、自分の視野だけしか 感じられない。あまり深く考えないでありのまま、成り行きで潜水しよう。
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 たしかに13番の魚礁だった。台湾の勝ちだ。僕の場合、何はともあれ、一旦、海底の 着底して、身なり、バランス、ウエイトを締め直して、行動に移る。
 潜水開始1133,21分の潜水、1154浮上 水温16.8度 最大水深32m、 平均20m、浮上の速度は早過ぎる。どれでけゆっくりあがったら、このコンピューター は満足するのだ
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 この頃、魚礁を見て、どこのメーカーのものか言い当てることができなくなった。まあ 、貶すのだから、メーカーの名前は無いほうが良い。屋根はあるけれど、柱は細く、床は ない。中の部屋はスカスカという魚礁だ。きっと、立方体積あたりの単価が低い、CPの良 い魚礁なのだろう。荒川さんもこの魚礁のことを褒めていなかった。だから、場所はどう でもよいと、位置がわからなかったのだ。
 中には、ウマヅラハギの群れがいた。30尾ぐらいだろうか。
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 魚礁の中に、インターバルカメラを一台、いれてある。荒川さんが動かしてくれたのだ ろう。
 魚探で、位置を決めて、無作為に一台づつ投入したインターバルかめら 7台のうちの 一つを手で持ってきて魚礁の中にいれることにしている。
 GoProをメインにして保持しながら、片手でニコンのシャッターを押す。うまく撮れるはずがない。これほどいい加減に撮影するならば、むしろGoProの動画だけにしてしまった方がよいのではないか。
 それでも、豊かな海の表紙になるような絵が撮れないかとスケベ根性をだしている。な らばちゃんと撮れ。水の中でそんなことを考えている。
 昔から僕の潜水時間は短い。こんなものだと見切りが早い。だから、ろくな仕事もでき ないけれど、だから減圧症にもならずにここまで潜り続けてこられたのかもしれない。浮 上速度も速い。水中に長くいたらろくなことはないのだ。5mでの停止は、コンピュータ ー通りに3分我慢する。
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 浮上して、カメラを受け取ってもらう。荒川さんは、僕を引き揚げてくれるために、僕 よりも速い浮上速度で、停止も短くて、上で待っていてくれる。梯子につかまると、タン クを外せという。ドライスーツでは、自分の力だけで登るのが無理になっている。自分で 上がれないことがいつもトラウマになっている。
 二本目の潜水は、インターバルを揚げてから、さてどこに行こうか。初潜りだから、高 根神社に参拝とみんな思っていたらしいけれど、僕はドリーム魚礁に行こうと考えた。1 3番の魚礁がスカスカだった。ドリームはソフトコーラルで満ちている。同じ時期、同じ 時の比較を感じて見たいとおもったのだ。
 ダイブコンピューターを見ると、70本を越えましたおめでとうという表示がでてくる 。何でこんな馬鹿な、無駄なことをするのだろう。ダイビング器材メーカーって、基本的 に馬鹿(ダイビングのことをわかっていないという意味、必要以外のことをするなという いみ)なのだ。
 潜水開始0240  水温17度、 潜水時間23分  浮上0303 水深21.8m
 平均15m 
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 やはり、ここのソフトコーラルは美しい。もう少しまともなカメラを手にして、ファイ ンダーを覗いて、シャッターを押したいな、と思ったりする。今の自分はGoProを構えて泳いで居るだけだ。
 次回は インターバルカメラによる撮影のまとめをしよう。それが11日の潜水で一番考 えていたことだったのだ。

0117 大瀬崎のマダイ

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 見た目で一番好きな魚はマダイで、こんな美しい魚を食べるなんて、と、思ってしまうのが僕の思考回路で、結局は食べるけれど。
 マダイが群れて、列をつくって泳ぐ姿を撮りたい。出来れば魚礁をバックにと、魚礁の調査を仕事でしていた頃は、いつも、いつも心がけていたけれど、せいぜい5尾どまり、それも接近するとばらけてしまう。整然と列を作ることがない魚なのか。群れているといっても、てんでばらばらだ。
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       今、僕のデスクトップで泳いでいるマダイ

 それと、美しいのは30cmどまりで、オオダイは、黒くくすんでしまう。
 マダイを追って熱くなるのは大瀬崎で、みんなで、一緒に行くことが多かったので、つい、自分が群れから離れてしまう。目当てを決めて、魚を撮るということと、バディシステムとかフォーメーションは、厳密には成立しない。このことがダイビングの基本だと思う。

 人工魚礁は、魚をねらってバラバラになっても、人から眼を離しても、集まりやすい。しかし、眼は離す。

 大瀬の先端もきれいなマダイが多い。40mぐらいの水深がマダイが撮りやすい。そして、バディは離れてしまう。帰りは20m線でちょっと探して、10m線で探しながら、減圧深度で待つということになりがちだが、これは、バディシステムとは言えない。が、撮影するという時は、みんなこんなものではないだろうか。カメラマンはきっぱりと、「てんでんこ」と決めるのも潔いかもしれない。そうしている人が多いみたいだ。僕の考えでは、てんでんこ、とソロはちょっとちがう。どこにいるか、気にしながら、一人で被写体を追うのが、てんでんこ、と僕は定義している。ソロは、一人だけで、エントリーして、一人だけに終始する。たとえ二人でエントリーしても、バディのことを少しも気遣わないのもソロだろう。カメラマン(カメラを持つ人)にバディシステムは基本的に無理。もちろん、アシスタントを決める、とか、ガイドダイバーを個人的に雇えばバディになれる。
 
リサーチダイビングでバディが成立しやすいのは、美しさの追求をしないからだ。追求してはいけない。出来れば美しく撮る程度にとどめる。これはカメラマンにはかなりストレスだ。自分はカメラマンではない。セフィティオフィサーだと心に決めないといけない。

 さて、マダイだけれど、水深40m以上は混合ガスでないといけない、と決められると、これもバディシステム的ファジイな方便が必要になる?今の自分はハイブリッドシステム、インターバル撮影、ROV、すべて、40m線へのこだわりに源がある。リブリーザにしても、SCRが40mだ。魚を追うと、40mという線は微妙になる。


 ところで、今の僕は、大瀬の先端で、一人でマダイを追えるだろうか。
 このところ、タンクを背負ったスクアットが、少しおろそかになっているし、海ではチームに甘えている。つい、重いものを人にまかせてしまう。

大瀬の先端に深く潜った最後は何時のことだっただろう。ブログを繰ってみたら、2007年の1月21日に 先端で43.5m潜っている。その後は、ブログでは見つからない。
 ログを調べてみた、やはり2007年の1月21日が最後になっている。
 最大水深43.5m.水温17度 透視度20m、潜水開始1110 浮上1134 
潜水時間24分
 40mを越すと、タッチアンドゴーになっている。この時は43.5mで3分間撮影している。
 僕のログブックは2008年で終わっている。その後はブログが引き継ぐからいいや、とやめてしまっている。こういう記録を見るには、ログが良いのだけど、一度切れてしまうと復活しにくい。それに潜る回数も減っている。海に出た時には必ずブログを書くようにしているから、良い。だろうか?

0121 人工魚礁調査報告

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 やはり、1月11日の潜水について、考えたことがたくさんあったのに、潜水の経過だけを書いて、ブログにして、考えたことは書かないでいたら、何を考えたのか忘れてしまった。
 考えることが多すぎるので、上から上に重なって、下積になった考えは押しつぶされてしまうのだ。

 そうだった、この1月11日に潜りながら考えたことを芯にして、12月13日のシンポジウムで発表した人工魚礁調査報告のまとめを書き直したのだった。
 すでに12月13日に発表したことについて、その後の1月11日に考えたことで報告するというのは、時系列が逆転している。
 でも12月13日に発表したこと、その報告を考えながら1月11日に潜った。考えたことは仮説である。仮説を頭に入れて潜る、実証するわけだから、そして実証で仮説を補正するのだから、これで良い。

以下、イタリックで、考えの道筋を書き、報告書を引用して行く。

 人工魚礁観察撮影について
 撮影調査研究の対象の一つとして、人工魚礁を選んでいる。もう一つの対象がライン撮影調査であるが、ここでは、人工魚礁を対象として、およそ、2年にわたって、千葉県館山市の波佐間海中公園の撮影を行った結果を基にして、発表する。
 人工魚礁はその形状、位置が明確であることから定点観測がしやすく、その調査活動は、チームとしての潜水として、安全度が高い。
 日本では長い時間をかけて、全国の、各漁業協働組合地先に、地域によって、多い少ないはあっても人工魚礁が沈設され続けて来ていている。その多くは沈設時に調査されただけで、放置されている。例えば、私達が調査フィールドにしている。館山沖ノ島から房総半島先 端の洲崎までの間で沈設されている魚礁も、ダイビングサービスが有る、波佐間と坂田を除いては、撮影調査されたこと がない。

 ここから後の部分が11日に潜っていて、おもったことから書き直した部分だ。
 これまで、みんなで人工魚礁を潜って調査して、楽しかったし、写真も撮った。
しかし、それが何になるのだろう。これまで、僕が仕事をしていたように、行政からの依頼であれば請求書が書けて収入になる。今度のように誰からの依頼もなければ、お金も入ってこない。長らくリサーチの会社をやっていたから、思考回路がそうなっている。
 しかし、お金をもらって調査をして、記録を提出したところで、ソレが何になっているのだろう。現状確認以外に思い当たらない。そこで

記録の継続と集積について、
 なお、これまで、人工魚礁の観察調査で、同一魚礁群を、長期にわたって月例で調査が継続された事例はない。水中科学協会は、今後もこの形で継続していくのだが、できれば10年20年のタイムスケールで調査を続けたい。こんなことは、アマチュアだから、レクリエーションだから出来ることであって、プロでは絶対にできないことであると、しごと、プロで調査をおこなってきたから知っている。
予算が無くなれば、プロは継続して調査はできない。
 また公共の予算で行う調査は、多くの場合入札でおこなわれ、同じチームが同一コンセプトで調査を重ねることは、ほぼ不可能である。
 勿論、プロのレベルの調査をすることはできないが、レクリエーションダイビングとして、調査寄りの潜水をして、撮影した結果をアーカイブとして残しておく継続記録をおこなうことの価値は大きい。 
撮影方法については次に述べるが、一つのポイント、一つの魚礁について、1500枚のスチル。1時間分の動画、を撮影日時、ダイビングログ(決まった方式)で残しておく。
 もしもこれが、全国のダイビングステーションで、自分のダイビング区域内の魚礁について、それは年に2回でもよいから行って集積しておけば、それだけですごいことなのだ。このアーカイブを研究者が見れば、いろいろなことが言える。

さて、次に撮影方法なのだが、

調査研究のための水中撮影手法は大別して四つである。
①ダイバーが手に持って撮影する。
②マスクマウント、棒の先などにウエアラブルカメラを付けて撮影する。
③海底に設置して自動的にインターバル撮影する。
④自走するカメラ「ROV)で撮影する。
 
①の手持ち撮影は
  カメラマンの技倆と、カメラのグレードと画質に大きく左右されるが、できるだけ美しく、作品として価値があるように撮影する。
 私達のグループでは、キャノンEOS1DXを使って福田克之くんが撮影した。おそらくは人工魚礁について撮影した、最も美しい映像が得られている。
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 ⅱ コンパクトデジカメで、メモ的に撮影する。
 ニコン、AW130 クールピクス 及び、オリンパスTG-3.TG-4 を使った。最近のカメラはこのクラスのものも、とても良く、一般の調査であれば、十分である。

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②マスクの上にカメラを取り付け全行動を記録するマスクマウント、棒の先にカメラを着けての撮影は、近年のウエアラブルカメラの普及で出来るようになった撮影であり、水中科学協会では2012年のシンポジウムで、今後は、ほとんどすべてのカメラマンダイバーが、サブカメラとして、あるいは、アクションのメインのカメラとして使うようになるであろうと予想し、メンバーの石川総一郎がマスクマウント器具を製作し、アルバトロスダイビングクラブで販売している。

ここまでは、普通のダイビングのフィッシュウォッチング その撮影と同じだ。

③の設置インターバル撮影と④の自走カメラによる撮影が、この発表の主眼である。
近年の人工魚礁は、その沈設深度が深い。規則の改正によって、水深40m以上には、高価な混合ガスを使用しなければ潜れなくなった。
今回の目標は、人工魚礁調査において、③のインターバル撮影と④ROVの運用について最適な撮影方法を研究することだった。
  5秒に1枚ずつ自動的に撮影する無人インターバル撮影は、生態観察、調査撮影に置いて、有効な手段であるが、とりわけ、近年、超小型で高性能なウエアラブルカメラが、比較的廉価に入手できるので、多数のカメラの同時運用が可能になった。

インターバル撮影
手のひらに乗る小さなウエアラブルカメラを垂直安定板の上に載せ、下にウエイト、上にブイをつけて、水中に投入し、海底から立てる。
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使用したカメラは、GoPro、AEE HD4000など14台を用意した。画質は価格にほぼ比例するが、1万円を切る、HD4000 でも問題なく使用できた。
これらのカメラは動画も撮れるのだが、5秒間隔のインターバルで撮影した。動画は2時間撮影したら、見てチェックするのも2時間掛かる。5秒間隔、2時間でおよそ1500枚として、コンピューター画面に展開すれば数分でチェックができる。何か魚が写っていれば、拡大してみる。右の写真は下の左の上3番目を拡大した。イナダが31尾写っていることがわかる。
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①カメラの沈設展開であるが、海底に鉛ロープを引いて、延縄の釣り針を出すように、カメラを延縄方式は、ライン調査で魚の分布を知るのに使える。

②魚探とGPSで魚礁の位置をだし、その周辺に無作為に投入しダイバーが潜って移動させ、魚礁の中に入れたり、周囲に魚礁区域を想定して置いたりする方法をここでは主に行った。各魚礁の比較が出来る。
③12m、の高さの鋼製魚礁は、縦に、三連、海底から2m、8m、12mとつなげて撮影した。
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 今後は規則が改正になり水深40m以上は、混合ガス潜水でなければ潜れないことになった。
純然たるレクリエーショナルダイビングであれば、規則に関係ないのだから、これまでどおり。50mでも60mでも潜れるが、仕事はできない。
インターバル撮影は、ダイバーが潜らないで、低価格で連続的に、しかも魚を追い散らすこともなく撮影ができるので、深い調査はインターバルが有利だ。
 ③の三連が一番好結果が期待できる。今後の調査では、高さのある魚礁の殆どで、各魚礁の中と外に三連カメラを置いて、撮影し、比較しようと予定している。

魚礁の中に縦に吊り降ろせば、当然、引っかかって、揚げられなくなる。ダイバーが入って、引き揚げなくてはならない。 それでも海底まで潜る必要はないので、50mの水深でも30mまで潜水すれば撮影調査が出来る。三連の上、中、下、でおよそ2時間5秒間隔で1500枚のインターバルが2本あれば、1500×6の 撮影結果が得られる。ダイバーが撮影するよりも、多くの情報を得ることが可能である。

 報告書にはこんなふうに書いた。どうも整理が一般的にわかりやすいように、上手く出来ていない

0123 企画イコール写真探し

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  何か身動きすると、企画書を書こうとすると、必ず写真を探すことになる。写真が一発で出てこないようなシステム?になっている。フイルムの時代には富士のスライドケーに入って整理されていたので、まず探すことができた。
 フィルムをスキャンしてデジタルにする時、ごちゃごちゃにしてしまったので、見つかりにくくなったけれど、それでも現在のデジタルよりはいい。
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 今、なぜ見つかりにくいかというと、適当に時系列で携帯用の昔は500G, 今は1TBのハードディスクに入れている。一回取り出して使うと、また戻すのだが、その時に前のデータを消さない。だから、同じものが二つ別のところに入っていたりする。大きなハードディスクだったら、検索するのも一つだから便利だけど、今は、およそ20個ぐらいの小さいハードディスクに入っている。一個にすると、死んでしまった時に怖い。つい最近、一つ死んで、苦労してデータを移し替えた。その時にまたダブったりする。分散されているから、死んだとしてもどこかにある。最近、それではいけないと、項目別に別のディスクに入れている。館山の調査、お台場、水中科学協会、その他、にわけて、4個が何時も使う新しいディスクになっている。
 それが、さきほど、お台場にディスクが死んだ。青くなったが、システム復元したら、なんとか生きていた。
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 そんなごちゃごちゃの中で画像を探すのだが、探しながら考えていて構成を変えたり、探しているものではない、別のものが見つかって文章が変わったりするので、これはこれで良いと思っているが、それでも3時間、4時間探すと、いやになる。休憩時間のようなものと、考えてのんびりやる他ない。
 今、お台場の企画を考えている。環境浄化の企画だけど、企画とは壁をつくること、でとてもうまくできそうにないと思ったり、突破口があるように感じたり、精神的に浮き沈みが激しい。
 そして、古い資料を整理していると、ほんの数年前で、今よりは辛くなかったと思って辛くなる。歳を重ねるほど、上り勾配がきつくなる。死という頂上へむかっての登攀だ。
大事なことは、最後の時に登り続けていること。そんな風に自分を慰める。
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 今日は、お台場の海底で、夏の無酸素になると、底に硫黄バクテリアが白いかさぶたのようになっている。それを探した。何時も見ているのに、意外に撮っていない。カメラマンの本能のようなもので、汚らしく感じるものからカメラを避けてしまうのだろう。二時間ぐらい探した。

あまり重いことだけをブログにしていると間隔が空いてしまうので、この程度のものもはさんで行きたい。
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0125 81歳

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 誕生日というものが来てしまった。昔のように、淡々と通過したい。何を書いても、歳をとったようでいやだ。フェイスブック、せっかくお祝いを言ってくださるのだから素直にありがとうと返さなくては、申し訳ないと思う。
脳の活動が緩くなると、フィルムの回転がおそくなるわけだから、普通に映写すると早送りになってしまう。一週間が一日に、一年が一月ぐらいが、今の感覚だ。
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 今年が勝負の年だね、とこの前M君に言われた。80歳で80m潜ると言っていたのに81になってしまった。その向こう側にあるものが見えない。
 生涯にわたってやってきたリサーチダイビング、この20年余取り組んできた東京港の計画も、。。
何か目標を定めるとそれは、乗り越えなければならない壁を想定することなのだ。これは、人が生きている限り、何時でも、小学生の頃から同じ繰り返しだ。試験と言う壁。死と言う壁。
 たんたんと継続だけがすべて、道の尽きるところまで歩く、登る姿勢もある。

 「要約すると」というサマセット・モームの長いエッセイがある。大学時代に読んで感動した覚えがある。歳をとって、その視線から読んでみようとちょっと手にとったら、どうもちがう。「月と6ペンス」と混同しているようだ。こう書けば、ああ、あれか、と思いだしてくれる方もいるだろう。人生はタペストリーを編むのと同じ。
 振り返れば、すべて、あのころは幸せで、今は不幸、記憶というイリュージョン、未来を見れば、夢というイリュージョン、現在だけが真実なのだと言っても人は、イリュージョンがなければ生きてゆけない。でも、今の自分に未来に夢はない。冒険者として倒れたいと言う夢はあるか。
 ところで、冒険とは生き残ることだ、と定義すると、これも困ったことになる。

0126 ハイドロパっく

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 ハイドロパックのことを話すとなると、僕の前歴から話をはじめなくてはならない。だから長くなる。僕は水産大学で、サザエの生態の研究を卒業論文にして卒業した。研究者になるつもりで、留学を考えていたのだけれど、お金が無くなってできなくなった。就職先がどこにもなくて、建設機械、ブルドーザのスクラップ再生工場に入った。 その会社は、米軍が基地を作ったりするのに使った建設機械を二束三文で買ってきて再生する。再生とは、とにかくバラバラにする。バラバラにして、ガソリンで洗うと摩耗して使えなくなっている部分がわかる。使えなくなっている部分を別のスクラップからもってくるか、なければ作って、元通りに組み立てる。これが再生だ。元通りに組み立てる時、マニュアルを見る。そこで、マニュアルと呼んでいるのは、米国の建設機械メーカーが自社の製品について出している分解図で、これを青焼きにしてまとめてある。これを頼りにバラバラにしたものをまた組み立てるのだ。
 これが僕の機械についての教養だ。すべての機械はバラバラにして、悪い部品を取り替えて組み立てれば、元通りに動く。このことを覚えて、建設機械会社を辞めて東亜潜水機に就職した。
 就職してしばらくは本を読んでいた。午前中は会社のデスクで本を読んでノートをとり、午後は工場を回って、誰かの手伝いをする。主に機械工場でコンプレッサーの組み立ての手伝いをした。組み立てができれば、その機械について、極めたことになる。
その時に僕の面倒を見てくれたのが亀田さんだった。先日、東亜潜水に行った時、亀田さんの息子が東亜で同じ仕事をしていて、彼が車で僕を駅まで送ってくれた。東亜潜水機ってそういう会社で、昔の僕の手下の安森君の息子もいる。
 
 読んでいた本は。米国海軍のダイビングマニュアル。まだ日本語版がなくて英語版だった。英語版だから、じっくり読める。ダイビングも自動車の分解、組み立てと同じで、マニュアルの通りにやれば、出来る。勿論、僕は素潜りが上手だったし、大学でダイビングの講習も受け、実際に人工魚礁の調査をして、死にかけている。その基礎に基づいてマニュアルを読む。
 もう一冊の本が、BASIC SCUDA 1960年版だ。この本は当時、世界で発売されているスクーバ器材のほとんどすべてについて、建設機械のマニュアル的な分解図が載っている。この通りに作ればレギュレーターもできる。実際には、日本ですでに売られているスピロテクニークのレギュレーターや、無印のレギュレーター、川崎航空のレギュレーターなどを分解して見る。もちろん、日本人の特性である、改善コピーをするから、まあまあ、よりよいものができる。
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   ネムロードのレギュレーター
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   ハイドロパック

 レギュレーターのオーバーホールとは、バラバラにして悪い部品を取り替えて、洗って組み立てるだけのことだ。でも、時に部品を一個取り付け忘れたりする。そうすると、もしかすると空気が止まる。
 そのBASIC SCUDAに載っていたハイドロパックの図だ。これは米国のスコットいう会社が出したもので、スコットは呼吸器メーカーとして世界最高だ。今でも再圧室に入って、純酸素呼吸をする時に使うマスクがスコット製で、酸素呼吸器のことを通称はスコットとよんでいる。スコットは呼吸抵抗が少なくてとても良い。
 余談になるが、荏原病院で酸素耐性テスト(再圧室に入って、1.8キロかけて純酸素を呼吸して、酸素中毒にならないことを確認するテスト)をした時、酸素呼吸器の調子がわるかった。病院では、早崎が予算をケチって、スコットを買わなかったからだと言っていた。とても印象に残っている。早崎さんとは、今マラソンとテクニカルダイビングをやり、松沢病院に居る早崎さんで、水中科学協会の会員にもなってくれている親友の一人だ。スコットは高価なのだ。
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 ハイドロパックは、そのスコットが作ったダイビング用フルフェイスマスクで、マスク全体がレギュレーターになっているマニアックで高価なもので、なんと、このマスクを1960年当時に世界に売っていたのだ。僕が100mに潜った1963年、手作りマスクを作ったもっと前に、これが世界にはあった。勿論、僕はスコットのハイドロパックがあることをよく知っていた。まだ日本アクアラングが出来る前で、バルコム交易という輸入会社が、フランスのスピロのレギュレーターを輸入していた時代に、試験的に一台輸入してみたものがあった。
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 この写真、ハイドロパックを着けているのは、伝説の潜水研究所の菅原久一さんだ。僕と後藤道夫の師匠でもあり、ニッポン潜水グラフィティにも出てくる本格的な酒飲みで、酔っ払って電車の線路に寝て親指が切断されたという幸運な人だ。不運ならば身体を轢かれている。日本潜水科学協会の設立者の一人で、御茶ノ水の協会事務所で理事会があり、この事務所は屋根裏にあって、会議がおわってからの飲酒で、酔っ払った菅原さんは急な梯子のような階段から落ち、頭を打って亡くなった。心から羨ましいと僕は思っている。
 その菅原さんがテストをしているプールは水産大学のプールだ。後ろの建物は、水産大学の校舎だ。そして、このプールは現存していて、今も東京海洋大学の学生が泳いでいて、その一角には潜水部の部室がある。
このプールあと100年は持つ。
ぜんぜん自慢にはならないと思う。海洋大学、海の大学に屋内温水プールがないのは、大学の、文科省の恥だ。
 そのハイドロパックだが、僕が100m潜った1963年、僕の給料は3万円だったとおもう、その時、ハイドロパックの値段は38万だったと覚えている。TOA SCUBAは2万円、日本アクアラングができて、アクアマスターが2万8千円だった時の値段だ。これはもう、この世に存在しないものと同じだ。だから僕は手作りでフルフェイスマスクをつくった。
 しかし、僕はハイドロパックの位置の差の平衡の取り方をモディファイして、新型レギュレーターを作っている。
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   1967年に僕は水中狩猟はやめた。 念のため

 この写真が僕の新型レギュレーターで蛇腹管が1本であることが見て取れると思う。
 位置の差とはどういうことかというと、これは、ぼくが一番最初に書いた本「アクアラング潜水」からのコピーだが、肺の中心が呼吸の中心で、大気中、水面上では、呼吸する位置の差の抵抗はゼロである。水に入ると呼吸器の中心と、肺の位置の差が呼吸抵抗になる。背面飛行をすると、肺の位置のほうが高いので、レギュレーターとの高さの差が20cmとすると、20cmの圧力で空気がマウスピースから噴出する。水平姿勢になると背中のレギュレーターよりも肺の位置が低いので、その差圧が呼吸抵抗になる。20cmあれば200mmの抵抗に打ち勝って吸い込むことになる。ちなみに、レギュレーターの呼吸抵抗は現今のものは、現今のものはゼロから20mm、昔の呼吸抵抗の高いレギュレーターでも30-60mmだから、位置の差の200mmは大きい。身体を立てた位置になると、位置の差はゼロに近くなる。シングルホースになると、マウスピースの位置が呼吸器の位置になるから、水平姿勢の呼吸抵抗が少なくなる。僕はレギュレーターの呼吸抵抗と位置の差がイコールになるようにと、胸の位置にレギュレーターを置いた。
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最近ではレギュレーターの性能が良くなったから、あまり位置の差は問題にしていないようだが、レギュレーターの呼吸抵抗がゼロであったとして、位置の差の抵抗が、そのまま呼吸抵抗になる。

ようやく、誕生日のメッセージのお礼がおわった。見過ごした方がいるかもしれませんが、ありがとうございます。自分にとっては、めでたくないのですが、『生きていてよかったね』と思ってくださること、たいへんなことでほんとうにありがたいことです。冒険者として、のたれ死ぬのが望みだなんてうそぶいていたのですが。もしかして、これは死ねないな。とか、でも、
守りに入ってはいけない。
それにしても泳ぎがおそくなつた。昔のゆっくりが今のフルスピード。
とにかく、このごろとにかくが多すぎるけれど、

0127 ダイブビズショウ

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 ダイブビズ に行った。品川のインターシティホールだという。品川は海洋大学がある。毎度行っている。それでも、インターシティを知らなかった。スマホで位置を確かめてGPSで行こうと電車の中でセットした。
 行ってみるインターシティは、本当にシティで陸橋続きで、巨大な街だ。
 確か、この前この辺に来た時。数年前、少なくとも数十年前ではない。この辺りは屠殺場だった。食肉用の牛や豚を殺すところだ。
 東京の田舎者なのだ。
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 ダイブビズは撮影禁止である。だから入り口の写真しかない。
 プレスの申請をすれば、写真も撮れるのだろうが、僕のブログやフェイスブックでは、プレスとはおこがましい。
 要するに、写真を撮られて、PRする場ではなくて、業界の仲間内が、業界だけで、内覧の展示会をやるという発想なのだ。だれでも自由に入れてくれるのだから、これは建前だろう。建前故に撮影禁止だ。撮らなければ良いだけだから、別にとやかくいうことでもない。

 書いておかないと、話をした人、見たことなど忘れてしまう。
 まず、ぐるっと回った。グルっと回っても小さいホールだから、楽なものだ。その点、このショウは良い。こじんまりしている。ホールそのものも良い。
 記憶をたどることにする。全自動のセミクローズ。HOLlIS のエキスプローラの展示で田中光嘉さんと話をした。数年前までは何種類化のCCRを置いていたが、今はエキスプローラだけだ。全自動で問題があると潜れなくなるように作られている。僕は手動の方が良いと思うが、手動のSCRは、「使い方を間違うと、死ぬよ」と表示してある。これは再現もない議論だし、田中さんと会えば、あいさつのような議論だ。
 村上商会で、石川さんのマスクマウントが飾ってあるのをみた。ここは、あいかわらず珍しい物はなんでも扱う。混合ガスのブースターがでていた。詳しいことをそのうちに聞かなくては。
 イノンの井上さんと挨拶した。GoProのワイドアダプターレンズがある。そうだ、お台場でこのアダプターで撮影して、ワークショップをやろう。ワークショップ ①だ。
ワークショップはなにか実際にやってみて、そのことを議論、ディベートして、報告書をきちんと出していく。そういうサイクルにして行く。
 石巻の福田介人君に合った。この前石巻で一緒に潜った。お父さんの福田民治さんとは、彼が学生のころからの仲間だ。介人君が跡を継ぐ覚悟を決めた。大好きな若者だから、また石巻に行きたい。
 アクアパッツァもよく頑張っているねと話をした。フィッシュアイは大村さんがいなかったが、ちょっと挨拶をした。
 TUSA では、毎度お世話になっている今村さんとダイブコンピューターの話をした。ソーラーの新しいダイブコンピューターがでた。使いやすそうだが、買い換えるほどのことでもない。僕は、なぜ日本で売るダイブコンピューターが日本の改正された規則のアルゴリズムを使っているとカタログに書かないのだ。と議論を吹っかけた。実はこの問題が、何よりも一番重大で切実なことなのだ。5月ごろにこれもワークショップをやろうと約束した。②その議論をしている時に北海道の沿海調査エンジニアリングの会長の土田さんが挨拶してくれた。初対面なのだ。今村さんとの議論は、本当は土田さんにもくわわってほしいような議論なのだが、そのへんの柔軟さが僕にはない。跡からもう一度挨拶をしなおそうと、会場で探したのだが、少し時間が経って閉まっていたので、会えなかった。
 カシオの鈴木さんとは、ロゴシーズのプロ仕様について、80m潜水でのテストをしたい。その前にもう一度辰巳でテストをして、これもワークショップをやりたい。③と約束した。ワークショップの種が3つできた。
 挨拶は沢山交わしたが、串本の彦坂さんとは、本当に久しぶりで挨拶をした。フェイスブックだはおなじみなのだが、僕の知っている若いころの彦坂さんと同一人なのか、聞いてみたいと何時も思っているのだけど、聞きそびれた。もしも、違うとおっしゃられたら、間が悪くなってしまうので。

親しい仲間?としては、月間ダイバーのグループ、と立ち話、高橋実とも立ち話、鬼怒川の若社長に会って後援依頼。ゼロの五月女さんとも、スレ違い話で、2月2日の辰巳プールでのハイブリッドテストに来てくれる事を依頼。
 仲間としては、増井さんと少し話をした。今日メール添付したシンポジウム報告書が良かったということ。
 中村雅人とは、すれ違って挨拶。石川総一郎とはハイタッチ。
  自分の備忘だから、とりあえずのレポートはそんなところだ。

商品として、別に目新しい物はなく、売りたいものはダイブコンピューターか?カメラハウジングも平板だった。ただ、場所が良かったのか、きれいに見えたし、来場者も増えて、満員に近いちょうど良さになっている。喜ばしいことだ。
ただ、ここからレボリューションは起こらない。僕にあと5年の生存が保証されるならば全く別の形でこの一角を占められるのだが。

0131 お引越し

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 今日のお台場、天気が良くて、気持ちの良いダイビングができ、寒かったけど、僕は2回潜水した。
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    動いているものは、小さなカニと、スジハゼの巣穴、近づくと隠れてしまう。
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    この時期は、生きている牡蠣がかなり多い。死んだ牡蠣殻に生きている牡蠣が付着して育っていく。

 一方で、いろいろなことがあった。
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 僕たちは1996年以来、このベンチをベースにして、今回で確か124回の潜水をしている。1996年には水に入って泳ぐのはダイバーだけで、一般の人は下痢などの症状を起こしてしまう。と思われていたのだが、今度はオリンピックのトレイアスロン会場になるのかもしれない。僕たちが潜り始めたのは、海底清掃、クリーンアップからで、当時、とっても取りきれないゴミが海底にあったのだが、最近では探さなければゴミ拾いができなくなった。
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    よほど運が良くないと、こんなゴミには当たらない。

 僕たちの願いの一つは、このお台場でダイバーが市民権を獲得したいことだった。
 ウインドサーフィンと、SAPは、市民権がある。
 ところが、このベンチの立ち退きを命令された。近くの高層住宅に住むどなたか、東京都民が、あのベンチはダイバー以外の東京都民が使うもので、ダイバーが占拠してはいけない。選挙しては行けないということは、理解できるので、隅の5つあるベンチを2個だけ使うようにした。ところが、今度はその2個もダメで、手摺にドライスーツを干したりしては、いけない。
 管理事務所の人は、親切な人なのだが、これを命令するのは一番偉い人、東京都民さまだから、立ち退かないと、僕たちの潜水許可も取り消しになるという。僕も3代前からの都民様で、大空襲も体験したと、口まで言葉がでかかったが、管理事務所もこまっているのだろうと、抑えた。
 区会議員を動かして、とか都会議員をとか、考えもしたが、清水まみの提案で、引っ越すことにした。エントリーポイントに近く引っ越せば、便利になるし、ベンチの代わりに箱を使えば良い。バッグの代わりにボックスにする。車を園内に入れさせてもらえばかえって良くなる。管理事務所は、快く、車2台を認めてくれた。
 高層住宅の都民さまも、これで満足してくれるはずだ。
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 ただ、ダイバーという人種が、東京都で差別されている、認めてもらえていない事を知ってもらいたくて、書いた。いつの日か、多分、僕の生きているうちは無理かもしれないけど、ここに、ダイバー、スノーケリングのための施設、シャワーだけでも良いのだ。を作りたい。そして、お台場が硫化水素発生のヘドロ場では無くなることを目指す。江戸っ子ダイバーの志だ。

0203 ハイブリッドテスト

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 2月2日 辰巳国際水泳場 第2回目のハイブリッドテスト。1回目は、玉浮きを着けて浮かせようとしたが、とても浮力が足りずに、BCで浮かせた。今度はBCをタンクにきちんと着けた。
これで上手く行ってしまえば、なんだ、背中に背負っていたタンクを脱いで浮かせればいいだけ。
ちょっと考えればそんな簡単にはできないことが予想できる。
僕も最初は、金属、筒型の浮力タンクで調整しようと考えていた。
しかし、なんとなくBCで済んでしまいそうなふうにも考えて、BCで済むものを、タンクを作らなくても良いのではないか。と、今回のテストになった。
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ところがやってみると、ダイバーが離れてしまって、手で操作しないと、中性浮力が安定しない。ちょっと浮くと袋が膨張するから、浮力がついて、そのまま上へ行ってしまう。当然といえば当然だ。

 フェイスブックにコメントを書いた。
ハイブリッド、予想通り難航、やはり新しい潜水機を創りだすプロセスが必要なのだろう。よせ集めではできない。コンセプトがあって、ハードを作り、オペレーションを考える。
でも、そのプロセスが、面白いことはまちがいない。
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 みんなで、交代で、フルフェイスマスクを付けて、遊んでいるのはひどく面白い。
面白いけれど、次のステップを考えなくてはいけない。

①やはり、形もスッキリしたスマートな金属製の浮力タンクを作る。新しい潜水機だ。

②小さいBCの袋、例えばAPEKS のドーナツウイングを使って、満タンで、ウイングにいっぱいに空気を入れて、バランスするように、カウンターウエイトを付ける。空気が消費されて、浮いたら、BCの空気を少し抜いてやればいい。とにかく、BCの袋がフルで、浮き上がらずに中性浮力でバランスすれば良い。

③中性浮力は諦める。BCの空気を抜いて、潜降索とラニヤードで結んで、沈んで行き、着底させて、その周囲10mでだけ作業をする。タンクを移動させる時は浮力を付けて移動させ、浮力を抜いて着座させる。船上とのサーフェスコンタクトの有線通話ケーブルをつかうのだから、これが一番安全。 1964年に書いたコンセプトは、このようなものだった。ダイブウェイズの武田さんの意見もこれだ。
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③で良いのだが、サイドマウントで周囲を泳ぎまわって撮影している 中川カメラ、などをみていると、やはり僕もスクーバダイバーなのだ、①のパターンでかっこ良く泳ぎたい。

中性浮力でポッカリと浮いていて、女の子でも自由に軽々と泳ぎ回れて、フルフェイスマスクで、船上との通話が通じていて、というドリームもある。
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0206 80-80

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僕の8080計画について、ブログを呼んで、無謀、周囲の人がなぜ止めないのかというご指摘を頂いたが。ありがたいことです。
 そして、周囲の人にも、しっかりと忠告をいただいている。だからということではないのだが、なぜ潜るのか。何のために、どうやって、と、安全と危険について考える。
 この80m潜水、80mまで行くかどうかは別のこととして、これをやりながら、考えていこうと思う。机の上だけではなくて、スクーバの危険と安全、無謀と冒険について、手伝ってくれる仲間と考えて行くつもりで、それはその都度、書いても良いことについては、ブログにもフェイスブックにも書いていって、終わったらば本にまとめられたらいいと思っている。

 この80m潜水、80mまで行くかどうかは別のこととして、これをやりながら、机の上だけではなくて、スクーバの危険と安全、無謀と冒険について考えて行くつもりで、それはその都度、書いても良いことについては、ブログにもフェイスブックにも書いていって、終わったらば本にまとめられたらいいと思っている。

 
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 写真は8080とは関係ないものです。インターバルの古い形です。80m潜水では、新しい形で使う予定です。

 安全か危険かといえば、ダイビングは本来人間が生きてはいけない水中に入っていくのだから、間違いなく危険であり、その危険をどのようにしてか解決、克服して戻ってくる冒険がダイビングなのだと考えている。
その危険度は、当然のことだが加齢によって増加してくる。
 しかし、身体能力もメンタル能力も低下していく課程のなかで、行動し考えていると、若く能力が今の何十倍もあったときには見えなかったもの、感じられなかったことが、見えてきて、感じられもする。
たとえば、オープンサーキットのスクーバでも、なぜ、こんな簡単なことで、20mよりも浅いところで、人は死ぬのだといつも疑問におもってきた。だから、ダイビング死亡事故は原因不明が多い。高齢になり、能力が低下すると、その原因不明の原因が見えてくる。その解決方法もみえてくる。
 
 しかし、ダイビングは危険だから、いつでも命がけであって、年齢に関わらない。
 これまで、生きてきて、幾度遺言を書いたことだろう。字でかいたことも何回かある。頭の中で別れを告げたことは数え切れない、極端にいえばダイビングの度に頭の中では遺言を書いている。40m以上潜る仕事のときは必ずと言っていいほど頭のなかで書く。クリスチャンが十時を切るのとおなじなのだろう。
 しかし、60歳の100m潜水の時は書かなかった。計算し尽くして、他力本願になっていたからだと思う。今度80歳で80m潜ったとして、遺言を書くような状態だったら、先に延ばす。 こんな感じで8080で、書き進めて行く。

 無謀ということをいえば、生まれて初めて潜水機を着けて潜るとき、それはだれにとっても無謀かもしれない。だから、最初に潜った時のことは生涯忘れることはない。いつでも目をつぶれば、そのときの状況を思い浮かべることができる。誰でも一番最初と言うのはある。だから、無謀でもチャレンジする。
 
 もう一つ、80歳はハイブリッドなどと称してさらに訳のわからないことをやっている。このシステムの疑問点についてもこれまでいくつも指摘をいただいているし、今後もそのようだろう。しかし、だからこそやるのだともいえる。これまでやらない手法を試してみる、機材を試してみる。27歳の90mはデマンドバルブ付きのフルフェースマスクのテストとして日本初だった。自分で考えて作った潜水機だった。60歳の時は、新しいものを何一つ付け加えることがなかった。システム潜水に乗って、潜水させてもらった。だから不満でありフラストレーションが残っている。だから、今度は新しい潜水システムを作り出そうとおもった。そのシステムが使えない代物であったとしても、新しいことを実践、実証していけば、その過程で見えてくるものがある。

 これはまた、別の時に書くつもりだが、生きるスタイルが各人各様であるのとおなじように、ダイビングのすたいるも各それぞれで、その良否は、問えない。というのが自己責任の原則だ。ただ、思い上がりは事故の重要な原因であると、自分を戒める。自分が関わった事故については、何十度も書く。同じことを繰り返さないためだ。自分の関わった事故は、サーフェスコンタクトがない、一人の潜水だった。だからそれは、事業者、社長だった僕の責任だった。命綱を重要視する理由でもある。


 詳しいことは走りながら、泳ぎながら考えて、書いていく。

 そんなことを2月21日(日曜日)朝5時、テレビ朝日の「はい、テレビ朝日です。」でちょっとだけ話をする。是非ごらんになってください。

0208 ダイビングログ

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 ダイビングログをダイビングを始めた時から付けていればよかった。1954年からのすごい記録になった。
もちろんつけていなかった。ログブックなんてものはなかった。あってもつけなかっただろう。
 ニッポン潜水グラフィティを書いた時は困った。なにを参考にしたかというと、親友の後藤道夫が書いていた月報だ。毎月の出来事を、いまの月間予定表の日記のように一升になにかしら書いている。1年12ヶ月で12升だ。これだけのことで、記憶がいつ頃のことだったのかおもいだされた。
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     1955年、日本のダイビング講習第一回目が江東楽天地(錦糸町)のプールで行われた。いまは、遠い昔にこのプールはなくなっている。
     その後、ここのダイビング講習で事故が起こって、ここでの講習は行われなくなった。この事故の詳細はわからない。

 その「ニッポン潜水グラフィティ」で年表を作ったので、今はだいたいのことはわかる。
 毎月単位で一ます(区画)でいいから何か書いておくことを勧める。いや最近ダイバーはみんなダイビングログを書くから、それがランドマークになって、だいたいのことはわかるだろう。

 一度だけ三日坊主ではなくて、三日ログをつけたことがある。昭和58年だから、1983年のことだ。
 そのころ全日本潜水連盟でログブックを作った。
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 今のような一回一ページのログではなくて、横に一覧表的に書いていく飛行機のログのような形にした。見開きで2ページで10回の潜水が書ける。一年に1冊ぐらいで書いて行かれる。とてもよいログだと思う。そのログブックに5回、5本分だけ書いた。
それを今みてみよう。
 1983年10月17日、島根県の美保が関だから、島根半島だ。魚礁の調査に行った。東京から車で走っていったから、20時間はかかっているだろう。美保が関から島根半島の日本海側に抜ける道は細い道で、軽四輪の道だ。バンだったから、雨が降ったら抜けられないような感じだった。バディは誰だったか書いていない。書けばよかったが、たぶん中川だったと思う。思い出すことがあるのだ。島根半島の海側でポイントは書いていない。書く欄がない。一日かかって到着して、民宿に泊まった。大谷さんという宿だった。家に入ってみて驚いた。古いのだ。柱が太くて黒光りしている。給仕に来たのは若い奥さんのようだった。この家は何年ぐらい経っているのか聞いてみた。「300年といわれています。」仰天したが、その後も島根県とか山口県とか京都府とかの日本海沿岸に泊まると数百年の家が結構ある。能登半島では、平家の落人が建てたという民宿に泊まった。
 島根の日本海側は、マダイがよくとれるところで、マダイの姿造りのお刺身がでた。おいしかったが、ん!中川がタイの目玉を食べている。みているうちに、頭の身は全部食べてしまって、頭蓋骨になった。奥さんが膳を下げに来て、呆然とタイの頭蓋骨を見ている。たぶん、お吸い物か何かにするつもりだったのだと思う。中川と旅をして、この手の話は枚挙の暇がない。とから列島の悪石島では、、、摩周湖の弟子屈で吹雪に遭ったときには、、、西表では、、とか、
潜水は、10リットル2本を背負って、潜った水深は52m、潜水時間は6分だ。片道12時間の運転をして、6分の勝負だ。
年が空けて、2月28日には水戸の射爆場跡に潜っている。潜水の回数がこんなに少ないわけがない。たぶん、印象の深いダイビングだけを書いていたのだろう。もちろん書いたもの以外は覚えていない。
3月6日には、やはり美保が関に、田島雅彦と来ている。彼は深海ダイバーで対馬のナヒモフで飽和潜水をやっている。おしいことに、癌で命を落としてしまった。この日は、雪で、潜水は45mで潜水時間は15分だ。続いて5月7日には、同じ場所にきて、42mに午前12分、午後10分、2回潜水している。この日の波高は2mだった。
 これだけの記載でいろいろと思い出す。
 そして、この人工魚礁の潜水がすべて40mを越していて、空気の潜水だ。潜水時間、潜りはじめて浮上にかかるまでの時間が全部15分以内だ。もちろん、垂直潜降、垂直浮上だ。僕たちがやっていた調査の深い潜水とは、このようなパターンだった。
 規則が改正になり40m以上は混合ガス潜水でなければできなくなった。

 たった五回坊主のダイビングログでこれだけのことを思い出す。このまま続ければよかったのだが、ちょうどそのころは僕がわりと克明な日記を書いている。どうも、日記とログが一緒に書けない。どちらかでよいとおもってしまうのだ。

 次にログを書き始めたのは、2000年からだ。21世紀に入ったので、ログを書き始めたのだろう。
 もうこのころは、ログブックは指導団体のドル箱になっていた。
 一回のダイビングで、一枚だっから、どんどん消費する。カードよりログを見せないと信頼されないくらい、カードの信用がなくなった。その指導団体がログブックを売る。生涯学習だから、悪いことではない。それに、前に述べたように、ログの効用は大きい。
 僕は、さすがに全日本潜水連盟の今は改善?された団体的ログブックはつかわなかった。悪い理事長だ。
 エクセルで、一回のダイビングを一行とした。
自分的には、これが一番よかった。
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 2008年まで、8年間続いた。2006年にブログを始めたのだが、それほど頻繁には更新しなかった。2008年ごろ隔日ぐらいに更新して、ダイビングをしたときには必ずそのダイビングについて書くようになってログブックはやめてしまった。
 振り返ってみるとログとブログは別のものだ。ブログも検索できるが、ダイビングの記録だけを調べようとするときは不便だ。両方、ログをもっと簡略にしても良いから、ログもつけておくべきだったかな、思う。
 

0209 スタイル

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 ダイビングの安全とか危険とか考えるときに、スタイルという言葉をこのごろ考える。
 これまではオペレーション、運用ということを大事だと、シンポジウムなどでも取り上げてきた。勿論運用は重要だが、そのもう一つ上の概念があると思う。それが、スタイルで、あり方、という表現も出来る。別の表現があるかもしれない。

 まだ、漠然としかつかまえられていない。
 ブログを書くことで考えているから、そして、走りなが考えるというのが、自分のスタイルだから、一緒に考えていただけたら良い。いい加減といえばいい加減だが、ダイビングについて、固執しる主義主張があるものでもない。思いつきのレベルのことを書き留めている部分もある。
 
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 スタイルに影響するのは、道具、機材、ハードであり、それと、歴史、時代による違い、国民性、国のあり方、目的目標によるちがい、例えばレジャー、レクリエーション、スポーツ、作業、港湾土木、漁業、サイエンス、地域場所、海況による違い、それらが複雑に絡み合って、そのダイビングのスタイルが生まれる。スタイルという言葉がてきせつであるかどうか、まだわからない。とにかく、仮にスタイルとしよう。一つのスタイルでは、正しい、安全とされることが、別のスタイルだと危険と思われることもある。
 
 細かく論じていくと際限もない。その際限もない議論が、ダイビングの安全に関して、重要であり、大きいと僕は考える。ところで、困ったことに、その議論もスタイルによって、まるで相反してしまい、議論にならない事が多い。

 具体的な例はいくらでもあげられるが、海上自衛隊の機雷処理のすたいると、海洋保安部の特殊救難隊ではスタイルがちがう。甞て、その両方の訓練をテレビ取材したことがあるが、まるで違う。
 良否、正否ではなくて、スタイルを見て、論じていくことが、安全、危険についての判断、に繋がる。
 そういう例がたくさんある。中田さんという人が唱えている、スクーバダイバーは致死性の高い商品スポーツだという。これも一つの視点から見るスタイルである。

 PADIとNAUI、SSI、CMAS JUDF その他もスタイルが違う。あまり変わらないと見ていたのだが、次第にスタイルが違って、離れていくようにも見える。

 これらのどれ一つを取り上げても、議論ができて、それは安全か危険かの議論、判断につながっていく。
 
 まあ、そういうことなのだが、その議論が日本では、全く展開されていない。再度繰り返すけれど、正否、良否ではない。違いを議論して、違いを知り理解して、それぞれで適切な手法手段を講じて行かなくてはいけない。

 これは個人的な見解だが、ダイビングの多くのスタイルにおいて、安全第一では決して無い。安全と危険の折り合いを取っていく、そのスタイルであるという見方もできる。

 未だ、確固とした整理が出来ていないことを書いているが、そういう見方がダイビングを論ずるときには必要だと思う。

 体系付けられて居ないのに、各論から考えてしまうのだが、だんだん整理できれば、何とか体系づけられるかもしれない。して行こう。

 実は、僕のやろうとしている80-80計画が安全とみられるか危険とみられるかは、スタイルによって異なるということが言いたかったのだが、考えているうちにとんでもないところに来てしまった。

 さらに、ここまで来てわかったことなのだが、運用、オペレーションは、何のためらいもなく、自由に論じることができるのだが、スタイル、あり方を論じると、そのスタイルで生きている人を非難することになりかねないし、それはやりたくない。でも、それをやりたくないというところが、ダイビングと言う世界、日本という社会の特色化もしれない。年を重ねると、怖いものが無くなるのではないかと想像してきたが、その逆で、みなさまのおかげで生きさせてもらっているという意識が生まれて、批評批判することができにくくなった。

 まずは、高気圧作業安全衛生規則について見ていこう。
これも国が押しつけた強烈なスタイルと見ることもできる。この規則による国家試験の講師をやっていた頃、ここには、実際、リアルなダイビングの世界とは別の潜水士ワールドというようなものがある、と説明していた。
 潜水士テキストという本を書く人が日本のダイビングのスタイルを決めていってしまうのだ。そして、ソレは日本の法律、規則によって強制される。
 世界でこのような規則があるのか無いのか知らないが、アメリカには無いと思う。NOAAというのがあり、DANというのもあるけれど、規則で縛っていることはない。
 日本にはこの規則がある。だから、そのことが、根っこのところで、アメリカの団体には理解できない。理解はできても、承伏はできない。でも、規則だ。
 誤解されると困るので書いて奥が、この規則に反対しているものではない。反対しても意味は無い。無くなることはない規則である。ならば、できるだけ良いものにして、行きたい。そして、この規則、このテキストを論じることは、国との論争になるから、個人攻撃、他人のビジネスを阻害するということにはならない。その意味で、もっとろんじられても良いと思う。

 僕の8080計画も、この規則とは無縁ではない。この規則の最近の改訂がスタート地点でもある。すなわち、空気を呼吸して40m以上潜ってはいけないという規則である。
 従来の状況から、40mは困る。せめて60mだろうと考えるのだが、この議論には勝ち目がない。安全は水深と反比例するし、まあまあいい線だ。

0213 東京湾の風

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 明日14日館山の波佐間に行くよていにしていて、それだけを楽しみにこの数日事務所でブログの整理仕事をしていた。それが、明日は南風で、波浪予報は真っ赤にそまっている。中止だ。

 そこで、整理したブログから書き抜く
 2005年の夏、7月だ。

Jul 11, 2005 東京湾の風
 年をとると、早起きになる。3時に目覚めてしまったので、そのまま起き出して 朝、4時、車に乗り、館山に向かって走り出す。四時頃の夏、と言ってもまだ梅雨だが、早朝の朝の空気が好きだ。9時までに館山に着けば良いのだから、時間が余りすぎだ。海の見えるところまで行ったら、寝ていよう。
 途中から、雇う小舟の船頭に電話すれば良かったのだが、早すぎるので電話しなかった。館山に近づいてから電話をする。大風でとても潜れる状況ではないと言う。何時も天候には神経を使っているのだが、このところ、2月以降、館山は全部、潜れているので、ルーズになっていた。入梅の終わりの大風だろう。沖縄では、梅雨明けの大風を夏至の風(カーチバイ)と呼ぶ、強い南風が、10日も吹き続く。千葉県には夏至の風はないから、ただの不連続線の風だろう。それとも、名のある風かも知れないから、あとで調べて見よう。
 とにかく、この風では、とても沖には出られない。
 ところで、僕のお世話になっている船頭、網代さんというのだが、このあたりの船頭は、みんな定年退職後の趣味の漁業者ばかりだ。船頭と呼ぶのはどうもふさわしくない。船長と呼ぶのも、たかが船外機一つの小舟だから大げさすぎる。呼びかける時は、名前を呼ぶから良いのだが、こんな文章を書くときに困る。
 
 東京湾の風について、前に書き写したものが

「東京湾で魚を追う」1986年、11月刊 草思社 
 大野一敏、敏夫 著 加藤雅毅 編
 大野一敏さんは、東京湾・船橋の巻き網漁の船頭で、三番瀬の保全運動などでも苦労された。僕とは、ニュースステーションの始まりに東京湾を取り上げた時に知り合った。以後、何度も巻き網漁を撮影させてもらった。私のhttp://homepage2.nifty.com/j-suga/ 「須賀次郎の潜水」にも、「video 日本の漁法」で小型巻き網漁 として紹介している。
 敏夫さんは、大野一敏さんのお父さんで、ニュースステーションの時には、もう現役ではなかったがお目にかかることができた。加藤雅毅さんはテレビ朝日の社員で、日本の沿岸漁業を紹介する本の編をいくつも手がけている。千葉県千倉の海女さん、田仲のよ さんの本も加藤さんが作った。一敏さん、敏夫さん親子の著で、まとめが加藤さんの本だ。
 歳月は移り、敏夫さんも加藤さんも、故人である。
 さて、風の話だが、この本から書き出す。敏夫さんが語る形になっている。僕はこの語りが大好きだ。

「朝起きれば日の出の空を見て、今日は雨か風か、どっちから風が吹くか、こんどは夕日のころ。山の上の雲を見て、ああ、あそこはどういう風が吹いている、すると明日の天気はどうだ、商売しながらも顔を上げて空と雲を見る。自分は毎日、風というものを肌身で感じていました。和船では風が無ければできないウタセのような漁もあるが、天候を読み違えて沖出しして、シケでも食らえば船は木っ葉になって流される。タラセ(シーアンカー)を引いてしのぐしかない。自分が危険にさらされるわけで、風を読むのは漁師のイロハでしたね。
 風を見るには山の上の雲で見るのがいい。なにしろ山というのは動かない。それから雲は風の上へは行かないで、ふわふわ風に押し流されていくから一目でもって風の強さや向きがわかる理屈です。ここで見る山は、まず富士山、茨城県の筑波山、ヤマゼ(南東方向)にある鋸南町の鹿野山、いまはどの山もスモッグで滅多にしか見えませんが、昔は日時で毎日出ていました。
 風が吹いていると、雲の頭と尾っぽは箒ではいたようにながれていく。それが吹っ切っちゃうと富士山のてっぺんや肩に止まっちゃう。笠をかぶしたような笠雲になる。真っ白じゃなくて、たいてい黒いのがまじっている。これが次の天候の前兆になって、やがて雨かコチ(北東風)にかわる。土用の笠雲というと、向こうはビクッとも動かないのに、とどこおっては流しミナミで南西方向からの風が吹いている。富士山にまた風が当たり出すと雲が動く、すると一時たって、こっちの風の方向が変わってくる。
 季節、季節で風には特徴があります。春は北東の風、夏は南東、秋は北西風、そして冬は南西から北西の間の風が強い。すこしくわしくいいますと、イナサ(東)は千葉の方向、ヤマゼ(南東)は鹿野山、木更津のほう、そしてミナミが湾口です。西へ回ってサガ(南西)が富士山の方向、サニシ(西)は東京、そしてサニシナライ(西北西)にナライ(北西)、それからマナライ(北)が湾奥の船橋です。東に回ってシモウサオゴチ(北北東)という風がある。それからコチ(北東)となります。
 注:船で、沖に出たところから方向を見ている。
 なんでこんなに細かく風の方位をわけていたかといえば、和船では風が命とりになるので、危険な風を区別していたわけです。
 一番こわい風は冬の初めから春先にかけてのハヤテ(突風)で、逃げようがない。サガバヤテ、サガオロシ、富士オロシと富士山方向から吹きつけるハヤテ、また十二月の初めにくるサニシ、サニシナライの風。「サニシの八日吹き」といって、八日も十日も西が入れる。それからおっかないのが春のナライとミナミからの風、これも突風でくる。「二八の雲無し空に船出すな」で、二月の風はめくら風、空模様より早く風が入れてくる。沖で風につかまるのは漁師、なれていても嫌なもんで、綱笛、棹笛と言いますが、帆綱や積んである棹に風が当たると笛のようにピューピュー鳴る。一度なんかは大帆柱が根元から折れた。それほど強い風がきます。
 雲がどんどん飛んでいれば風が見えるわけですが、晴天の日は要注意です。大風の前触れで裏風、ひっこみ風というのがある。ミナミがそよそよ吹いている。そのミナミを信じるととんだことで、ぱたっと止んで、その次に、本まもんのナライ、マナライがぐあーんと入れてくる。また風には回り風がある。コチがヤマゼ、ミナミに回ると大風が入れてくる。秋になるとヤマゼに注意する。「吹いたヤマゼが別れ風」といって、台風を背負ってくることがありました。
 コチ雲、ナライ雲、サニシ雲、タチ雲(入道雲)タツ(竜巻)カンダチ(雷雨)そういう自然の動きにいつも注意していても、遭難騒ぎがよくありました。「西が曇れば雨となり、東が曇れば風となる」で、昔の漁師は自分、自分で天気予報をやっていたもんです。」

 これはもう詩だと思う。

東京湾では、と言うよりも、江戸湾では、風が吹いてくることを、風が入るという。
「早く上がらないとニシが入る(いる)ぞ。」館山で潜っていて、よく船頭に言われた。
東京湾のハヤテは本当に大変で、「試験船ふさかぜ」で潜っていて保田から館山に戻ろうとして、大房岬をかわすのに冷や汗をかいたことがある。その日、20隻以上の釣り船が沈没した。
 世界の風もみんな名前がある。直ぐに頭に浮かぶのが、シロッコ、ミストラル、これは地中海の風だ。
ベルグズインは、バイカル湖に吹く突風だ。バイカル湖で撮影していたとき、この風が吹かないように、神様にお祈りをしたので覚えている。

最近、自然との一体感が無くなっていて、風を読み、潮を読む習慣が無くなっている。だから、館山まで出てきて、波を眺めることになる。
前には、市原のサービスエリアで船頭に電話をして波を確認した。「今日は吹いているよ」と言われて中止にして、あとで聞いたら、あの日は凪だったと言われた。日本沿岸の多くでは、だいたいのところ、朝は凪で、午後から吹いてくる風が多いのだが、館山では、午後から風が止むことが多い。とにかく、現場まで行かなければ局地的な風と波はわからない。だから現場まで出てくるのだが、それにしても、風を読み、潮を読むことに集中心が無くなっている。
現場に出て、ヤマゼとミナミを確実に区別出来るかと言われると首をかしげてしまう。


0214 2006年のブログから

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  2005年から、ようやく2008年までの整理をした。
 いまのブログとずいぶんちがう。その2005年から2009年までは、写真をこのエキサイトブログにしていて、文章のほうは楽天ブログに分けていた。
だからということでもないが、その頃の方が写真を真面目に撮っていた。撮影の研究などもエキサイトの方には随分のせている。
 楽天の方には面白い、もう一度書き直して、あるいは書き直さないでそのまま、いま、このブログになると思うテーマがたくさんある。
 とともに、10年前と今の違いが、わかって、複雑な気持ちになる。高齢化というのは残念なことに下り坂といことだから、下ってしまった部分も多い。
 ブログについていうと、まとめて、シリーズのようにした方がよいのか、徒然なるままに書いて行った方がよいのか、いつも迷っているけれど、古いブログから移そうとおもうようなものは、一つの意志のもとに書き込んで行ったものが多い。
 そして、明らかに昔と変わったことは、フェイスブックも始めたことだ。
 フェイスブックは、連絡用と、コミニュケーションの道具で、ブログは、考えたこと、あるいは考えていることを、下書き的にかいている。下書きでは、自分の無知、考えのなさをさらけ出しているようで、これでよいのかと思うのだが、古いものからコピーして整理していくと、これはこれでよいと思うほかない。
2006年から7年、「リサーチダイビング入門」というシリーズで書いた部分は、その後、ニッポン潜水グラフィティの下敷きになった。豊潮丸航海記、お台場の記録、そしてトピックスの4つに分類にした。自分で言うのもおこがましいか、2008年までの分では、トピックスがとても良い。繋げてリライトすれば、本になるとおもう。本にすると売るのに苦労するので、こんな軽い気持ちでは本にできない。ポツンポツンとフェイスブックや、今のブログで紹介して行こうと思う。

 これは、今の話だが、2月21日の早朝、5時からの「はい、テレビ朝日です。」が僕の番組になる。録画するか早起きするかしてください。その番組のプロデユーサー、上野さんが、まだテレビ朝日に入社した頃に作った作品のことを書いたものが出てきた。
望月君のことだ。 リライトしていない。

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 以下、
 「望月君 」
Oct 15, 2006
 クジラ発見
整理のことばかり書かないで、海に行く話を書け、そう言われるのが嫌だから、潜れなくなったら、昔話は書けない。
明日、10月16日、伊豆に行くつもりだったけど、季節はずれの台風のために中止にした。
 今日は、望月昭伸君のことだ。
 ビデオを整理していたら、ニュースステーションの小笠原のテープが出てきた。僕が撮ったテープではない。そのころ、僕はニュースステーションの専属みたいなものだったから、プロデューサーに呼ばれて、「今回の小笠原は、申し訳ないけど望月さんという人にやらせてくれないか。それはそうと、望月さんはどんな人?いい人、それとも忍術使い?」
と聞かれた。望月君は、清水の魚屋さんの息子で、まだ十代の時に紹介された。魚屋を継がずに、水中カメラマンになると。それから十年以上経って、カメラマンとして一流になったころ、たしか、ダイバーズフェスティバルだったか、遠くの方から僕を見かけると走ってきて、抱きつかんばかりにして、「須賀さん、元気?」と声を掛けてくれる。なかなかそう言う人は居ない。
 文句なしに良い人だ。
 テープを見ると、まだまだ、小笠原のホエールウオッチングも初期の頃で、苦労している。小笠原ダイビングセンターの古賀さんのボートが全速で、ザトウクジラを追っている。クジラが水の上に跳び上がる。望月君は4リッターの小さいタンクを背負って、全速で走るボートの上からカメラを持って飛び込む。今ではきっと、あんなふうにクジラを追い回すのは許可にならないのだろう。ニュースステーションの番組は大成功だった。
 望月君もその後、クジラに慣れて、ゆったりと泳いでもクジラに接近できるようになり、ザトウクジラの尾に叩かれたのかも知れない、行方不明になった。多分接近しすぎたのだろう。クジラに賭けた望月くんらしい、良い死に方だと羨ましく思った。
  こんな死に方は、僕は事故とは言わない。ダイバーの水中での自然死だ。 

0216 ブログの整理

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 ブログの整理、2005年からはじまって、2009年まできた。2008年で、楽天から、エキサイトに変わっている。途中、エキサイトをフォトブログとして写真を多く乗せていたのだが、やがて、楽天のブログが、ダイビングショップの広告を入れられるのが、おもしろくなくなり、やめることにして、エキサイトだけになった。
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      テープの時代の画像の整理も同時進行でしている。

 エキサイトだけになって、2008年から9年ソロダイビング、自己責任について論じている。今振り返れば、どうでも良い気がするが、この論の延長線上にJAUSのマニュアルがある。これも、過ぎてきた道だ。今でも思うのだが、マニュアル、いわゆる、指導団体のマニュアルが、実際のダイビングにやくにたっているのだろうか、いや、実際のダイビングのマニュアルというものが、存在しているのか、もう一度、このあたり、2008年頃のブログをよみなおしてみよう。
 そして、このような安全についての事項をブログに書くことに意味があるのだろうか。何にもならない気もする。

 日々の出来事について書いたことをみると、昨日のことのように感じていることが、もはや、10年前になっているので、驚く。
 
 さて、では、これから、どうしたらよいのだろう。
 
フェイスブックと二分されているのをどうするべきだろう。フェイスブックに書いたことを、まとめて、ブログに転記して、記録に残しておくというのも、一つはありだ。三日分くらいをまとめて、転記しておく。これはフェイスブックが、ログ、記録にならない。フェイスブックでは、今ブログを遡って整理しているようなことはできない。コミニュケーション用だから、それで良いのだが、後の参考に残して置きたいこともある。
日々過ぎていくことについては、こんな感じにして、
もう一つは、やはり、ダイビングについての自分の考え、意見を書いて行く。
 とりあえずはそんなことでやってみよう。

0218 2006年のブログから シンクロ

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  2005年から2007年 テレビ朝日のスポーツ番組でシンクロの撮影を5回ぐらいやった。
その時、とびとびで、シンクロの事をブログに載せたのだが、まとめてみた。

Jul 26, 2006
 鈴木選手 シンクロ
新生日本ペアを組む鈴木と原田の勢いが初の大舞台ではじけた。雨中でのTRは規定要素をこなした上に元気な脚技を繰り出し、鈴木が「思った以上の出来」と振り返った演技で2位に。
 7月22日、その鈴木選手と原田選手の撮影をした。

 昨年まで、フランスの不世出のオリンピックメダリストで、日本にもよく来てくれた、ビルジニー・デデュー選手の撮影を何回かやってきたのだが、そのデデュー選手も引退、最後にデデュー選手と、これも引退した武田選手の特別プログラムの白鳥の湖を撮影した時に、鈴木、原田選手もおまけ的に撮影した。今回は堂々の主役である。時代は移り変わって行く。
 鈴木選手、原田選手は、カメラの、つまり、僕の側が、彼女たちの動きについて行けなくて、何回も演技のやり直しを御願いしたのだが、嫌な顔を全く見せないで、笑顔でやってくれた。
 僕も疲れ果てたが、スポーツ選手の撮影は何時も気持ちが良い。
 写真は鈴木選手のリフトされた足、この美しい足がめまぐるしく激しく動く。
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 いくら足がすばらしくても、足だけの紹介では失礼、そこで顔も撮影させてもらった。
 すべての撮影が終了してから御願いしたので、その時、原田選手はもういなくなってしまっていた。残念。
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Aug 10, 2006
シンクロ撮影

 このところ、シンクロの撮影が続いている。台風が来て、海には出られない時だから、プールの仕事はラッキーだ。
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 西ヶ原の国立スポーツー研究所のシンクロ専用プールで、この写真は、水中ハウジングではなくて、覗き窓から撮影した。西ヶ原の文科省の国立スポーツ研究所は、ありとあらゆるスポーツの研究ができる施設で、シンクロについては、こんなに立派なプールがある。すべてのスポーツの研究ができる施設だが、その中に、スクーバダイビングとか、スキンダイビングとかスノーケリングの研究室は無い。国の研究の対象になっていないのだ。そこを何とか、国立研究所で相手にしてくれる程度のスポーツにしたいと、(財)社会スポーツセンターで、社会体育指導者の導入をしたのだが・・・・

※スクーバとかスキンダイビングは、商業スポーツであり、国(文科省)が指導とか口をはさむスポーツではないという見方をされている。このことが良いことか悪いことかは、一概にはいえない。

 窓からでもこのくらいは撮れるのに、水中から撮影する理由は、カメラが選手に接近できて、迫力のある水中映像になるからだ。
 今回はテニスの松岡さんのコーナーで、彼が一緒に選手たちとプールに入ってみるところの撮影だ。松岡さんが潜水が上手なのにおどろいた。フィン・マスク・スノーケルは着けないで、ゴーグルだけで、けっこう息が長く潜る。今の僕よりは長く潜れるかも知れない。
 昔、昔、加山雄三さんがよく潜るので驚いたことがあるが、そのころの加山さんなみに、松岡さんは潜る。子供の頃にスイミングスクールに通っていて、水泳は得意なのだそうだ。

Aug 27, 2008
シンクロ 壮絶

シンクロ日本 壮絶!気絶!!5位
 「北京五輪・シンクロ」(23日)(ヤフースポーツ)
 日本が壮絶に散った。チームの後半フリールーティン(FR)を行い、日本は減点も受けて47・167点にとどまり、テクニカルルーティン(TR)との合計95・334点で5位に終わった。力を出し尽くした小林寛美(23)=浜寺水練学校=が、最後のポーズを決めた後に気絶するアクシデント。シンクロが初めて採用された84年ロサンゼルス以来、日本がメダルを逃したのは初めてのことだった。FRで満点を出したロシアが優勝し、スペインが2位。3位は中国だった。
  ◇  ◇
 シンクロニッポンの壮絶な結末だった。約4分の演技のフィニッシュ。15秒も続く息継ぎなしのフィナーレを迎え、水中から足で魅せた8人が同時に浮かび上がるはずだった。
 ところが、ほんの一瞬、小林だけが遅れた。過呼吸で失神寸前に陥っていた。頭が真っ白になり、1人では体を支えられない。異変を感じた鈴木や原田が声をかけたが、反応がない。目を閉じ、しばらく天井を向いたままだった。
 男性スタッフ2人が慌ててプールに飛び込み、担架に乗せられて医務室へ。幸いすぐに回復したが、小林はメダルを失った責任を背負い込むように「大丈夫です。すいません」と小声で繰り返した。
 極限状態で戦い続けていた。テクニカルルーティンは、中国に続く4位発進。背水の陣でのフリールーティンは、水の神とされる「瀧神」をイメージし、「龍」の文字を入れた衣装で臨んだが、気合は空回りした。
 開始早々、小林のリフト(ジャンプ)の際に、支える1人がプールの底に足をつけてしまい減点。中国が遠くなるどころか、カナダにも抜かれてしまった。
 「チームで取れなかったのは非常に悔しいし、残念。力がなかった」。完敗を認めた金子正子シンクロ委員長は、無念の思いを明かした。小林については「泳ぎ切った後、精も根も尽き果てたんでしょう。人一倍まじめな子。ケアしてあげないと」と思いやり、中国の初メダルには「デュエットでは井村先生に“おめでとう”って言ってもらった。今度は私が言う番」と、遺恨を捨てて祝福した。
 伝統の記録は途絶えた。主将の鈴木は「悔いが残ることをしたくなかった。覚悟を決めて臨んだが、世界が1歩も2歩も上だった」と敗戦を受け入れたが、このまま手をこまぬいてはいられない。金子委員長は「アトランタ後に落ちた米国、カナダの二の舞いにならないように」と肝に銘じた。4年後の復活へ。日本のお家芸に底力は残されているはずだ。

以上はヤフー・スポーツから。

2006年、7月26日、僕がシンクロチームの練習を水中から撮影した最後だ。その時もブログに書いたので、日にちも良くおぼえている。
 不世出のシンクロチャンピオン、フランスのヴィルジニーも何回か撮影した。そのことも、何回かブログに書いたし、まだ、ブログをやっていない頃には、ホームページにも書いた。
 シンクロには思い入れがある。シンクロの水中だったら、須賀だと思われていた。と思う。
 そのシンクロで、北京オリンピック、チームの一人が失神して、マスコミは壮絶と書いている。しかし、失神したことは、最近流行っている潜水選手権(※フリーダイビング競技のこと、当時はまだフリーダイビングという呼び名が一般的ではなかった)では失格である。潜水選手権では、水平に長い距離潜水して、頭を出したとき、1分半以内に、手の指で、オーケーサインを出して、「アイム、オーケー」と言わないと失格になる。
 失神(ブラックアウト)したことは、仕方がない。これまで失神しなかったことがおかしいと思えるほど、シンクロは壮絶な競技である。過呼吸で失神寸前になったなどと書いてあるが、潜水競技や、フリーダイビング競技ではだれでもやるハイパーベンチレーションなどシンクロではできない。競技の途中で、一呼吸か二呼吸、ちょっと息継ぎをするだけだ。それでいて、ただゆっくりと水平に泳ぐ潜水競技などとは比べ物にならない過酷な動きをする。安全のために、ウエイトを持って立ち泳ぎ練習をしないようにしたダイバーとは、レベルがちがう。過呼吸による失神ではない。呼吸できなかったための酸欠失神であると思う。息を一杯吸えないで、水中で運動することの過酷さは、ダイバーならば誰でも知っている。
 彼女たちは人ではない、と撮影しながら何時でも思った。
 失神した子は、最後のフィナーレの前に、きっと、息継ぎに失敗したのだと思う。
 ダイバー的に考えると、あの失神は、壮絶などというものではなく、よくも助かった。九死に一生だった。と思う。酸欠は本当に恐ろしい。紙一重で、廃人になってしまう。ダイビングがどれほど安全であり、シンクロがどれほど危険であるかがわかる。鍛え上げているから、助かったのだと思う。
 ダイビング界的な表現をすると、あの失神は「危険」であり、スポーツ的な表現をすると「壮絶」になるのだろうか。

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