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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1124 アラン -4

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 アランのジープは、海辺のジープである。スズキのジムニーは、僕も乗っていたが、スズキではないらしい。が同じような小さいジープだ。床は錆びて抜け落ちていてフレームに痕跡が残っているような床に気をつけて足を乗せる。日本でも九十九里に行くとこんなジープが砂浜を走っている。
 今朝、彼の奥さんが隣町のホテルまで僕たちの道案内できてくれたが、プジョーの車で、砂利道をぶっ飛ばして走る。奥さんはベトナム人でかなりの美人だ。
 アランの家は海辺に在ると思っていたのだが、ちょっとした山のような丘のうえにある。ジープで10分ぐらいだろうか。
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    プールがある。

 家は、石造りで、古い羊飼いの家をかってリフオームしたものだ。そして、プールまである。海の近くなのになぜプールがあるのだと聞くと、奥さんと二人でトライアスロンにでるので彼女が泳ぐためだという。珊瑚採りはかなりの収入になるみたいだ。想像だが、今日採ったような小枝ではなく、大枝がとれると数百万になるのかもしれない。アランいわく、この漁場もいい珊瑚はとりつくしたので、別の漁場を探しているそうだ。
 
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アランの家での、遅めのランチは、奥さんの手料理で、ベトナム風というか、中華だった。おいしかったが、箸で食べる。アランの箸つかいは、当然だが上手だった。
 食事が終わってから、インタビュー(通訳つき)で、僕が60歳を記念して100mに潜る計画を進めているとはなすと、真顔になって、「何のために潜ろうというのだ。」そして、「100m潜るということは、毎日のように70mとか80mに潜っていて、その上で、何かターゲットがあって、潜ろうとするものだ。」と、すこしたしなめる、忠告調でいわれた。僕は、1963年に100mを目指して、90mで引き返したので、のこりの10mを潜り詰めようとしているのだ、と説明すると。「そうか、わかった。冒険なんだ。ならば手伝ってあげよう。去年だったか、テレビ記者が潜りたいというので、ここで潜らせてあげて、放送した。」と写真をみせてくれた。」彼のぼー
との再圧チャンバーに二人で入っている写真だった。
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 日本の高知県、沖の島に珊瑚の採集に行った時のことも話した。そのときに、カメラを貸した。100mで使えるカメラが日本にはほかになかった。せっかく貸したのだけれど、凹んで戻ってきた。僕のカメラハウジングも100mは無理だったのだ。
 「あのときは、本当に冒険だった。自分のボートも持っていけなかったし、」
 アランは言う。飛行機代と、ホテルだけ持ってくれれば、ギャラはいらない、日本に行ってあげるよ。

 この後、僕は東伊豆で103mに潜るのだが、400トンの母船を使い、波が高くてステージを下ろすことができず、時間切れになりそうになったとき、沖縄のケラマでアランを呼んで潜水することを本気で考えた。

 再会を約して、日本にもどった。
 「地中海ブルーに深紅の宝石珊瑚」というテーマでテレビ番組の企画を書いた。一緒に潜って100mの絶壁で宝石珊瑚のポリぷを撮影したい。絶対の企画だと思った。通りそうな局が一つだけあったが、だめだった。
 その後、クリスマスカードを一度だけ送った。
 あれから、20年だ。アランは66歳になっている。コルシカにまだいるだろうか。 

 ここで言いたかったのは、最もシンプルなオープンサーキットで潜るにしても、再圧タンクを備えたボートが必要であり、ボートの上からの着実なアシストがなければ、潜水を続けれうことができないということ。そのことが言いたかった。

1126 シンプルイズベスt

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  自分のことだが、かなりにアバウトだと思っている。そのくせに、神経質だ。細かいことにこ
だわり、気を使う。これって、ダイバー的性格だと思う。
 そういう性格だから、それでも生き残れる方策を考える。すなわち、複雑精緻で完全が要求されるものはだめだ。シンプルで、まちがいは二つくらいは許される道具でないと危ない。我田引水的に言い分になるが、完璧でないと危ないのと、いい加減で大丈夫と、どちらが安全だろうか。僕が今、生きていられるのは、半分は運だけど、半分はアバウトでも大丈夫を追求したからである。
 しかし、徹底的にアバウトな奴は、危ない。そのあたり、かなり難しい。
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 現在、起こっていることは、すべて、過去の行動の結果である。これを因果という。自分のやろうとする潜水も同様で、過去のヒヤリハット、あるいは、起きてしまった失敗、の上に乗っている。 そこで、それらのことを書いているのだが、要約すると、「死亡事故例の90%は、命綱があれば助かっている。命綱があっても防がなかった事故のさらに90%は、物理的な圧死、切断死などで、これは自分も含めたチームの失敗であろう。命綱にこだわっていたから、アバウトでも生き残っている。
 だから、安全管理は命綱なしでは確実ではない。スクーバは、命綱を拒否したことから始まっている。だから、拒否したものの自己責任である。そのことを基調において、管理者は、スクーバで、命綱があるのと同じような状況を命綱なしで、作りだそうとする。学生の活動とか、自分のやっている潜水はそれである。できる限り、ラインを曳いて潜ったりする。ラインの無いときは、アンカーロープに見えるところ、あるいは、信頼できるガイドのおせわになる。
 このごろ、いつも出かけている波左間などは、施設的にそんな環境を作り出そうとしている。潜降索の多用である。それでも、ガイドロープの読み間違いがある。命綱ではないからだ。
 昔、スクーバダイバーは、空気がなくなると、あるいは、空気がなくなりかけるとどこからでも、とにかく浮上した。水面を泳いでもどってくる。今でも、大瀬崎の湾内あたりは、そうしているのかもしれない。陸からのエントリーで、どこからでも陸に上がれるからだ。僕は、そういうところでないと潜らない。

 言うまでもなく命綱を使うことは、技術が必要であるが、その運用技術について、ほとんど、研究、研鑽は行われていない。命綱が、使われていないからだ。
 今後も、大局的には、命綱は使われないと思われる。賠償責任保険で対応した方が管理者にとっては、安全だからである。保険が、管理者にとっての命綱である。

 ぼくも、命綱も付けず、バディもなく、完全に自己責任のソロダイビングが好きだし、幸せだ。ただし、そろで戻れるような手段は尽くす。自分だけに許される幸せだ。
 なお、チームはバディを基調にしているが、二人が組のバディシステムそのものではない。別のルールが必要で、これもほとんど議論されていない。
 何らかのかたちで、船、もしくは浮上地点と、直接的なコンタクトがなければ、安全管理はできない。これは、僕のフィロソフィーでありそれを基調にして、ダイビングについて書いている。他の人とかなり、ベクトルが違っていると思うが、それが、過去の出来事との因果である。コンタクトがなかったために、原因不明、たぶん突然死で社員を失っている。
 インストラクターでも、ガイドダイバーでも、水中でコンタクトを失って、フォロアーを死なせて、責任感の強い人ならば、僕と同様な考えを持つようになると思う。
 サーフェスコンタクトという言葉が、ダイビング全体にこのように使われているかどうか、知らない。命綱は、もっとも確実なサーフェスこんタクトであるが、命綱だけではない。何らかの形で、水面、陸上、船上と連絡が途切れなくしておくことを言う。

1128 ブランバン 時計

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 ニコラス・G・ハイエックセンターといわれて、どこ?とわからなかった。そのくらい銀座の町にうとくなっている。松坂屋の隣のスオッチ・センターだ。2007年にできた派手なお店なのだが、記憶にない。
 そういえば、松坂屋も取り壊されて、再開発になっている。
 目的は、ブランバンという時計のオーシャン・コミットメントというプロジェクトの発表イベントに潮美夫婦に呼ばれて同行する。ブランバンもよく知らない。調べてみたら、価格コムで最低が、125万の時計だ。縁が薄かった。
 その、ニコラスビルでのイベントで、ネクタイなしでよいということで、久しぶりに娘夫婦とあえるので、喜んで、風邪を押して、行った。イベントは、大昔、ローレックスのパーティに何度か行ったが、写真展示など豪華に小さくしたイメージだ。天井の映像がすごいが、感心して見ているのは、僕だけか。
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 ブランバンの価格が125万から1050万だ、ということも、帰ってから調べてわかった。それにしても毎度汚い格好で行くが、ここまでくるとなまじ薄ぎれいにして行くのもかえって恥ずかしいと開き直れる。しかし、これはもう宝石の世界だが、価格が定まっている宝石ということで成立している世界なのだろう。
 昔、ローレックスが、僕たちの競技会の優勝者にわたされて、学生が夢中になって練習したが、そういう時計ではない。
 海、満載のイベントだったが、二木アイさんがホステス役で映像を使ったトークをしていた。彼女と、僕がまだ潜っている。日曜はお台場で潜るなどと話をした。
 潜水業界では、モビイの社長だけが、知った顔だった。 終わってから、月刊ダイバーの坂部編集長を交えて食事をして、僕の企画中の,お台場プロジェクトを話題にして、
企画には、「東京湾、東京ベイ」をタイトルに入れた方が良い」などと話をした。

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 ブランバンの引き出物は、超豪華印刷の写真集、とにかく印刷がすごい。そうか、こういう印刷もあるのか、と感心する写真集で、それと、プラスチックタオルで、これも、お台場では使えない、辰巳で使おう。
 ベクトルが違いすぎるので、書くのに苦労する。しかし、ここまで違うと自分のライフスタイルも悪くはないとおもってしまう。
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   ニコノスの全機種を時代を追ってならべている。ニコノス Ⅴ は大事にしておこう。
   それにしても、ニコノスをやめてしまったこと、止めないで、あの大きさで、デジタルで最高級の性能を詰めて、100万から300万で世界で売る。そういうセンスは日本にはない。ブランバンとは、そういうビジネスをしているのだな。と思った。

1201 お台場

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お台場潜水  11月29日

 午後からは安全潜水を考える会 があるので、僕だけは、午前に一回の潜水で修了にした。
 ここ数日の風邪、咳風邪で、潜水しようか、やめるべきか迷った。迷う場合には、たいていの場合、僕は潜水する。ドライスーツ、水温は15度前後である。
 ウエイトベルトが緩んで気分が悪いので、ベルトに4キロつけていたものを微志の背中部分のポケットに入れてみた。ほかに7キロのウエイトベスト、1。4キロのレッグウエイトである。
 いつもウエイトベルトが緩んで、締めなおしているのが無くなって楽になるはず。
 たいていは鈴木君がエントリーを手伝ってくれるのだが、僕一人、人工砂浜からエントリーする。
 水際までは快調にあるいてきた。もちろん重いが、フィンをはくのがいつも難儀なのだが、わりと快調に右足のかかとに手をのばして、かかとのストラップを上げようとして。ちょっとバランスを崩したら、頭からつんのめって、前向きにばったり倒れた。砂浜だから良いが岩場ならば危ない。
 仕方がないので這って水に入り、フィンを履こうとした。片足だけ履いているから、もう片方だ。後ろに倒れ寺、起きあがることはもちろん、身体を回して腹ばいになることもできない。     砂浜はかなりのかくどなので、どんどん、深く落ちる。このままでは、おぼれる。マスクを手に持っていたのでマスクをつけて、レギュレーターをくわえる。これで死ぬことはなくなった。方向を変えて岸に向かって泳ごうとするのだが、なにしろ上向きのままだ。この夏、ウエットスーツの時には、BCの後ろポケットにウエイトを入れて潜ったけれど大丈夫だった。今日はドライだ。ウエットとドライの差、それにしても、4キロのウエイトが前から後ろに移るだけで、こんなに、、、、考えてみれば当然なのだが、それに、ドライは足に空気がまわる。泳いでいたら、清水まみにぶつかった。助け起こしてもらって、ウエイトベルトをとりにもどってもらった。タンクを背負って大変なのはわかるから、助けてもらいたくないのだが、仕方がない。必ず誰かが、助けてくれるシステムで動いているチームだ。助けてもらいたくない衿持、がいけない。
 背の立つところだから、一人でもなんとかなっただろうが、深ければ、危ない。
 このブログでも、いつもウエイトのバランスのことを掻いているけれど、前と後ろの位置の差、ウエットスーツとドライスーツの差は大きい。そして、その差をフィジカル能力でカバーできない衰え。
 その後のダイビングは順調だったが、透視度は2mは見えて良かったが、マハゼはもう、深みへ降りている。他のハゼもちらほら、来月はちらほらもしなくなる。どこかにひそんで、春を待つことになる。
 ボラだけは、元気だから、目立って見える。
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 一回でお台場をはなれて、海洋大学へまわる。安全潜水を考える会、海保の講演でヒヤリハットについて、話していた。特急隊でのヒヤリハットの例も話していた。先ほどの自分の体験と同じパターン、よく考えればやることなどないというパターンの体験の羅列であった。
 僕の場合、4キロのウエイトの位置を変えれば身体の動きがどうなるか、ウエットスーツとドライスーツの差、わかりきったことのまちがい。そのパターンが多い。
 
 何かがあれば、ウエイトを落とせばいいのだが、落とせないウエイトの問題がある。なお、BCにも前ポケットならば、ウエイトは落とせる。                  

1203 アラスカ夏物語

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 昔のフェイスブックより拾いました。
2011年頃かな。今のブログは、自分のダイビングについて目標を追って居るのですが、ちょっとくどくてしつこい。もっと軽い文章を、本当は書きたいのです。ダイビングはすぐに、安全とか、生きる死ぬの問題になってしまうので、軽くは書けないのです。
以下が、フィスブックからです。

アラスカの森の中の小道を歩いていました。向こうからヒグマが来ます。逃げても間に合いません。死んだふりをすれば良いと言いますが、そんなことできるわ けがない。どうするか?「ハイ!ベアー」と声をかけます。アラスカの熊ですから、英語で話しかけます。なるべく友好的な言葉をかけながら、静かに後ずさりをします。人間の目でにらめば、目をそらすと聞いていたのでやって見ました。目をそらすことなど無く、どんどんやってきました。が、あまり速い歩みで はなかったので、こちらが脇道にそれて、何もおこりませんでした。
 これは、アラスカのカトマイ国立公園にヒグマが鮭を獲る水中撮影をしに行った時のことです。1983年でした。僕のテレビ撮影のプロデューサー、山中康男さんの番組 です。(日本テレビ)ダイバーと呼ばれるヒグマが居て、ヘッドファーストで潜水して、潜水時間およそ2分、鮭を捕まえます。山中さんはこの旅で、 「アラスカ夏物語」というノンフィクションを書いています。アマゾンで調べたら500円でした。人間と自然のかかわりを書いています。面白いです。須賀も でてきます。
おやすみなさい。アラスカの夢をみます。
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鈴木雅子さんが、シェアして、コメントしてくれました。
「日本のクマ牧場の悲劇とは対照的な野生のクマとヒトとの付き合い方です。本来の生息地で本来の生活をしている彼らにとってヒトは「侵入者」。また野生の動物に詳しい人が彼らの森に侵入してきたヒトのニオイに気付いたクマが岩陰に隠れて、ヒトが立ち去るのを待っていたのも目撃したとも報告しています。私たちは「野生の生きもの」たちを正しく『畏れる』べきです。


野生と人との付き合い方はとても難しく、山中康男さんの番組はそのことが常にモチーフでした。一昨年亡くなりました。ほとんどの撮影に同行しました。僕の撮影は、山中さんの次が立松さんと潮美のニュースステーションで、人と自然のバランスが、テーマでした。人が生き続けるための永遠のテーマです。自然が死ぬとき人も死ぬと思っていましたが、人だけが死ぬのです。

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山中さんは、もう一冊「シルエトク」をだしています。これには、知床の仲間たちが全員出てきます。
楽しい本で、知床のこと全部わかります。しかし、山中さんの文章、上手すぎるのです。自分は下手でいいかな、と自分を慰めます。とにかく知床に興味のある方はぜひ読んでください。多分、アマゾンであるでしょう。

1205 田島雅彦

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 3日 ひどい下痢でたおれた。幸い熱が出なかったので、ノロビールスでは無いと思われるが、とにかくつらかった。今日5日から13日のシンポジウムまで、ぎっしりと予定がつまっている。今日はこれから、習志野のプールに明日の撮影器材を運んで準備する。明日は全日本水中スポーツ室内選手権大会だ。50mのフリッパーレースにでるよていだったが、でられるかどうか微妙だ。

 さて、田島雅彦だが、60歳の100m潜水で一緒に潜ってくれた。
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 彼は、若くして癌で亡くなってしまった。
 蒲田の子で、海が好きで大島の水産高校に入った。大島には、船長免状をとる専攻科がないので、茨城県那珂湊の水産高校専攻科に進んだ。専攻科は二年修了なのでその二年間を下宿して、その下宿先が、茨城で僕たちが仕事をするときの定宿の万年屋だった。そんな縁で、彼は船長にはならないで、スガマリンメカニックにきた。それは、1980年釜石湾口防波堤工事のときで、釜石が彼の初仕事だった。身体能力にすぐれていて、腹ばいになって後ろ手に回した手で、両足首をつかみ腹筋ではねることができた。これができるのを見たのはボクシングチャンピオンのグシケンだった。
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   JAMSTECでのトレーニング

潜水も上手になり、深海潜水に向いているということで、JAMSTEC、当時の海洋科学研究センターの深海ダイバー養成コースにスガマリンメカニックからの派遣で入学した。卒業後、対馬で行われているナヒモフ号の宝探し飽和潜水に派遣した。飽和潜水は一ヶ月に一度潜水する。たしか、深度90mで、二日だか、かけて飽和状態になる。飽和状態で10日間ぐらい作業をして、一週間ぐらいかけて減圧して、タンクからでてくる。一ヶ月に一度の潜水である。
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    対馬でのナヒモフの引き上げ飽和潜水
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 スガマリンメカニックに入ってくるギャラが、150万で、たしか、100万の給料を払っていた。
 ナヒモフが終わって、会社に戻ってきたのは、30になっていたはず。飽和潜水に出向したのが23歳だったか、だから、浦島太郎で、会社には彼のポジションがない。カメラマンとして、良いセンスがあったのだが、カメラマンは中川になってしまっていた。僕がカメラをやらないで、その分の仕事を田島にやらせれば良いのだが、僕が、カメラを離さない。アシスタントとしてつれていった仕事でカメラを持たせると須賀の絵よりも良いといわれる。
  それでも、会社の中心ダイバーとして、働いてくれた。沖の鳥島の長い出張から戻ってきた。その出張は、事故で亡くした脇水とバディだった。そして、「脇ぼう(みんなにかわいがられて、ぼうとよばれていた)なにかおかしいですよ、ダイバーやめさせたほうが、良いと思います。」多分、バディでなにかヒヤリがあったのだと思う。やめさせなかった。飽和潜水は精神的に安定していないと持たない。そこで養われたカンのようなものが、あったのかもしれない。そして、事故が起こり若者を亡くしてしまう。
 僕にとって、田島は一番信頼できるダイバーだった。やはり、会社にはポジションがなく、僕の100mが、退社する前の、最後の仕事だと言っていた。
 スガマリンメカニックを辞めて、フリーのダイバーになった。ギャラは良かったのだろうが、少し無理な仕事で、減圧症に二回かかった。二回目の時に、健康診断でおかしいと言われ、検査して大腸癌が発見された。だいぶ進行していて、手術したが、ダイビングは止められない。他に生きる道はないのだ。人にいえない苦労をして、ダイバーにどうやら復帰して、スガマリンメカニックの仕事もやっていたが、転移があり、手術をまたすることになった。それも復活したが、だめだった。癌になったダイバーは、必ず一度は復帰するが、二度目も復帰するが、三度目がない。
 

1207 スポーツダイビング選手権大会

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 時は移り、人は変わる。全日本スポーツダイビング室内選手権大会も22年を迎えた。1968年に日本潜水会がスピアフィッシングをやめるかわりになにかをやろうといって、目黒の日大プールではじめ、ロレックスがスポンサーになった時代も考えれば50年になる。
 ただひたすら、フィンで泳ぐ、という一点で不変だが、そのコンセプトは大きく変わっている。そのことはまた別の機会に書くとして、大学、それも関東学生潜水連盟、学連についての変遷についてである。

 
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 かつて、常勝であった法政大学の選手の姿がない。海洋大学もいない。健気にがんばっているのは、東京女子体育大学が目立つ。熊本大学は強いことが伝統となっている。
 関東学連のお世話をしてきたつもりの、自分としては、このような変化を残念だ、と思う気持ちを無くしてはいけないとは思う。
 しかし、競技の運営についての働きで、学連が表に目立っている。よくやってくれていると思う。運営については主催である社会スポーツセンターやそれを支えている全日本潜水連盟のこともあるが、それは、置いておき、表に立って目立つのは学連であって良いと思っている。
 そして、選手としての活躍の主流は海洋高校に移りつつある。そして、それも自分が目指していたことでもある。自分が目指すといっても、今の僕はなにもしてはいないが、とにかく、高校のスポーツとしての振興は、自分が目指していたことではある。大学生がお世話をして、高校生が活躍するという姿こそは、一つの理想なのかもしれない。
 昔、社会人の僕たちがお世話をして、大学生が勝利をさらって行ったことを思うと、時代の流れであり、悪い流れではない。言うまでもなく、スポーツの目標は勝つことだから、学連も負けて良いというものではない。
学連は大学対抗リレーを取り仕切るようになったが、これも常勝は関東ではない。
 
 次は、自分たちの世代、高齢者のことだが、自分たちが競技会を始めた頃には、年寄りはただの邪魔ものとしてだけ扱い、年寄りの競技などは考えもしなかった。
 僕が60代の400mの金メダルをとったのは、選手が僕一人だったからだ。そして今、60代は一つのレースが成立するようになり、石川などが、銀メダルをとり、金メダルを目指すなどと喜んでいる。これも、副賞の賞品などよりも、メダルが良い。喜んでもらえる。自分がプロデューサーの時に議論して決めた。
 エクスキュースさせてもらうと、僕の二つ目、三つ目の金メダルは50代、40代の選手も何人か抜いて勝ち取ったものだ。

 この話に結論もまとめもない。
 
 タイムはともかくとして、この日に泳ごうと準備を重ねてきた自分が、下痢の影響で、朝の集合では立っているのがつらかった。泳げば治ると知ってはいたし、実行委員長が倒れるのも悪くはない。悩んだ、しかし、ここまでの自分は、くやしがりながら、ぎりぎりのところで撤退して生きている。でも、一夜あけて今の自分は、泳がなかったことを後悔している。

1210 命綱 サーフェスコンタクト

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サーフェスコンタクトを追求してきた。
サーフェスコンタクトとは何だ。

サーフェスコンタクトという言葉があるのか?自分たちが編纂した最新ダイビング用語事 典にも、PADIの百科にもない。水面との連携とでもいうか?、命綱は、その中で、一番具 体的直接的、物理的なものである。. wiki にも当然無い。どこで耳にした言葉なのだろう ?まさか、自分の造語ではないと思う。しかし、これが一番、自分の感覚としてあってい る。だから、このまま使ってしまおう。

 水面、自分の帰り着く基地、出発点との繋がりはダイビング運用で最も大事なことだ。  基地との接触を失ってしまえば帰り着けない。ダイビングとは、つまるところ、基地に 帰り着く、戻り着くことが必須、絶対的な行動なのだ。主発する前に、そして、出発後も 、戻り着くまでは、そのことが何よりも最優先する。戻り着くまでに何が出来るか、が勝 負のスポーツ、行動なのだ。

 よく、パニックの話をする。パニックにも色いろあるが、直接物理的に自分の身体に受 ける衝撃でのパニックと人間の想像力による心理的なパニックがある。
 その前に、パニックの定義だが、直接自分の身体に受ける衝撃は、死の恐怖であり、パ ニックの先にあるものだ。先日の安全潜水の会でパニックの説明があったが、すべて、事 故直前状態のことだった。もちろん、それもパニックだがもう一つの想像力によるパニッ クは、物理的、身体的には衝撃は受けていないが、基地に戻れないのではないか、と想像 、予想することによって起こるパニックだ。
 すなわち、これを昔、「お家に帰れない心配症候群」と呼んだりした。自分の位置、自 分の状況がわからなくなる。僕の場合は、バディと離れてしまって、バディが事故状態担 っているのではないか、という心配が、一番数多く起こったパニックだった。一人で潜っ ていれば、こんなパニックはない。バディを連れて基地に帰れない心配、これもサーフェ スコンタクトだ。
 
 これは心理的なものだが、物理的、物質的には、アンカーロープもサーフェスコンタク トの一つだ。ダイビングを始めて、最初の危機一髪だった大学4年の時の人工魚礁調査の出来事では、頭上にアンカーロープがあったために助かった。なお、アンカーロープは、水深の三倍の長さを伸ばすから、ずいぶん広い範囲のサーフェスコンタクトだ。
 各ダイビングポイントに設置してあるブイもサーフェスコンタクトだ。船から下りづな を下ろす、減圧用のロープを垂らすことも、サーフェスコンタクトになる。ダイビングポ イントに張り巡らされているガイドロープも基地に帰り着く手段だ。時折、不慣れのポイ ントで、ガイドラインを読み間違えて、空気が残り少ないのに潜降ブイに辿りつけないと 、減圧停止ができないのではないかとパニックになる。昔は無減圧範囲であれば減圧症に なることはなかった?少なくとも自分の周囲では、無減圧範囲で減圧症になったダイバー はいなかった。だから、空気が無くなれば、無くなりそうになれば、どこからでもまっす ぐに浮上した。ボートダイビングの場合、ガイドラインに迷って、かなり離れたと思って 、浮上しても、ボートとの距離は100m以内の場合がほとんどだ。
 これも昔話だが、千葉県の金谷で潜っていて、ずいぶん離れて空気が無くなって浮上し たら、岸の自動車が豆粒のように見えて、パニックになったことがある。
  今では潜降索、サーフェスコンタクトに浮上しなければならないから、なくなりかけ て空気で戻る道、戻る場所を探しまわる。見つからなくて空気が無くなって急浮上という 馬鹿なことも実際に起こりえる。
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      巻き尺ガイドライン

 今、練習船豊潮丸で早稲田の学生と潜る場合、ゴムボートのアンカーを入れて、そのアンカーから 、80mの巻き尺を伸ばす。この巻き尺ラインが見える範囲、見えなくなっても、どこに ラインがあるかわかる状態で行動する。これで、まずアンカーに戻れないことはない。こ れもサーフェスコンタクトである。
 どのようにサーフェスコンタクトをとって、常に自分の帰り着くための方向、戻る時間 を考えに入れて行動する。
   
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       昔のテレビカメラはビデオ信号をケーブルで送っていた。
   
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       中性浮力の有線通話を使った体験ダイビング
 自分のグループ、チームにも、コンタクトを失わないように、コンタクトを用意する。
 少し難しい潜水の場合、例えば深い潜水、初心者が多い場合、などでは必ず具体的な命 綱を用意する。
 今、お台場の潜水では、水深が2m以内だが、必ず一人一個ずつの、浮きを曳航しても ぐる。水面から浮きを見れば誰がどこにいるかわかる。海保への安全対策計画書は、サー フェスコンタクトのてんこ盛りで、これでもか、これでもかというサーフェスコンタクト を要求される。
 一般のレクリエーショナルダイビングのパターンで、海保に安全対策計画書を書いたら 、ほとんどの場合、潜水許可にはならない。プロの作業は、大抵の場合海保に安全対策計 画書を出すから、言葉を変えれば、サーフェスコンタクト計画書を提出することになる。
 具体的であり、最も確実なサーフェスコンタクトが、命綱であるから、命綱をどのよう に用意して、どのように使うかが、安全対策の最重要なポイントになり、テーマになる。

1212

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明日のシンポジユウムの準備ほとんど完了した。お客も、おもいがけない、会いたかった人が遠方から来てくれるし。こられる人は、みな来てくれていると思う。
 そして、たくさんの人に、おもいがけないほど、おせわになり、甘えてしまった。
 人生、すべて途中経過、それは80歳になっても変わらない。結論はもうすぐ出てしまうのだろうが、途中経過に全力をあげるほかない。
 と、すぐにまとめてしまうので、いけない。シンポジユウムの内容については、明日から、終了してから書くつもりなのだが、おもしろければ、いいな、とねがう。

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公園が工事中で、木々が色づいても、近づけない。

 一つ楽しみなことは、ポスター展示と写真展示だ。ポスター展示については、今回が最初の試みで、今後たくさんでてくることを願っている。
 写真については、製作に努力してくれたフクちゃんにもうしわけないような写真ばかりのように見えるが、こういう展示をすることで、多分、このあと飛躍的に上手になる人がいると思う。
 
 自分の発表のPPのエンドに、一期一会と書こうとおもったが、やめた。が、心境として、一期一会が身にしみている。

 石川さんの忘年会があり、30人も集まるという。よかったな、と思う。石川さんと一緒にJAUSを始めたのだが、なかなか、思うようには行かなかった。しかし、彼が楽しみにしている、こういう集まりの人が増える第一ロケットにはなったのだろう。良かったと安心している。
 自分自身としては、たくさんの人が酒盛りをする場は好きではないのだが、良かったという言葉が述べたいし、述べるべきだと思うので、出かけていく。挨拶のチャンスがなければ、それはそれで良い。

1214 シンポジウム ①

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12月13日のフェイスブックから
シンポジウム、懇親会、二次会、すべて終了して、もどってきた。自己採点は80点、新しい、親しい仲間も何人かできたし、スージーから花束もいただいた。昔を振り返るとともに、新しい冒険への足掛かりも作ることができた。ダイビングとは、いつも冒険。
シンポジウムのこと、書こうとしたら、写真がない。撮る余裕がなかったのだ。まぁいいか、撮られる日、文章で表現しなさいと言うことか。
調査研究と撮影について話した。撮影は、調査であり、調査は撮影である。と、なのに、撮って居ない。
修行が足りないな。
金丸さん、三重県から軽トラで高速を走って、撮影に来てくれた。運転席には、子猫の銀丸と茶丸がいた。
これまでのシンポジウム、欠かさず撮影をしてくれている。ありがたい。でも、それを見た人は誰も居ない。...
子猫の写真がないのはともかくとして、シンポジウムの写真が無いのはちょっと困る。親しい、新藤健一さん、共同通信のOBカメラマンの写真と、いただいた賛辞を紹介させてもらう。

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ダイビング活動研究シンポジウム
 第5回JAUSダイビング活動研究シンポジウムが12月13日(日)、東京海洋大学品川キャンパスで行われた。http://jaus.jp/?cat=2
 JAUSは、撮影が水中活動の最重要なファクターと考え、サイエンスダイビング、リサーチダイビングによる撮影を活動の中心に据えている。したがって調査結果はもちろんだが、開発した撮影機器とその運用によって、何が撮れるか、何がわかるのかの手法も研究しているので実に楽しいクリエイティブな団体になっている。
 発表ではまず、東京海洋大学の藤本浩一准教授がスノーケリングとスキンダイビングの生理学的安全について講演した。これは安全については、JAUSがある大学にプライマリーコースの実施を提案したところ、「スクーバは必要なく、スキンダイビングを中心にする」という解答があったためで「スキンダイビングが、スクーバより安全だ」と誤解していることに対する警鐘でもある。
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続いてベテランダイバーの須賀次郎さん(80)らが館山の波佐間漁礁調査で実験したインターバル撮影による漁礁の定点活動の結果を報告した。

 映像作品の発表では辰巳のプールで撮影した斉藤真由美、福田克之、中川隆による「アメージング」が注目された。

 グラフィティ映像ではウツボに餌付けする故・後藤道夫さんの「まちゃあき海を行く」がユーモラスだった。会場には水中写真の他、ハイブリッドダイビングシステム器材も展示され、専門性と大衆性が融合した興味深いイベントで今後の益々の活動が期待される(Photo by Ken Shindo)
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1216 御茶ノ水界隈

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 13日のシンポジウムについて②のブログ原稿も書いているのだが、こちらは、かなり長くなりそうで、前から書いている命綱のことにも触れるので、5回ぐらい連続になる。5回のうちには、また途中で話題が出来てしまう。
 まあ、スムースには進まない。

 今日も、お茶の水界隈について、書くつもりで、ブラブラ歩いていたので、まずそのことを書こう。
 二ヶ月に一度ずつ順天堂病院の河合先生の診察を受けに行く。その帰り道に立ち寄るのが、JRお茶の水駅前の丸善のある通りだ。

 丸善の開くのは10時で、診察は朝一番で行くと、だいたいて9時には終えてもらえるので、少し時間が空くので、プロントでモーニングサービスとコーヒーを頼む。
 毎度なのに、ここは禁煙者がガラスの中に入っていることを知らずに、外の禁煙席に座った。周囲は喫煙なので、煙たい。次回はガラスの中に入ろう。日本では、このような店に入る人の80、いや、90%が喫煙者なのだ。
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院外処方で薬をもらうと10時になり丸善が開く。
この丸善のあるかなり大きいビルは、昔、瀬川病院という東京一の小児科病院で、病弱な僕は、この病院に通い詰めだった。(今でも丸善の階上に病院はある)
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まず、丸善の文具店に入る。100円ショップに負けて、町の大きな文具店はほとんどなくなったが、丸善、伊東屋は、昔通りだ。まだまだ、探せば他にもたくさん文具屋はあるのだろうが、門前仲町では壊滅した。僕も丸善に来ると買いたい文具がたくさんあるのだが、見るだけで買わない。100円で買う。

 丸善の書店では、どんな本が流行っているのか、見る。ほしい本は山ほどあるが、買わないと心に誓っている。時々、誓いが破られるが。
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 注目のキーワードは、まずドローンで、関係の本がずいぶん、ムック形式ででている。凧上げ少年だった僕は、今が30代だったら、ドローンのプロになったに違いない。
 
 次に目に付いたのは高齢の惨めさを扱った本が平積になっている。地獄の高齢者時代が近づいている。
 その隣に置いてあるのが、SEALDs の本、活動している女の子、男の子が大きな写真でスター扱いででている。

 それに下町ロケット2、昔、東亜潜水機にいた時分だったか佃製作所と取引があったのだが、それがなんだったのか忘れた。スガマリンメカニックを作ってからだったかもしれない。成功した取引ならば覚えているはずだけど。

丸善の向かい側、昔玩具店があり、ここで何かを買ってもらえるので病院に来たのだが、そのあたりに天神があり、今は、必ずラーメンを食べる。
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 医科歯科大学を見上げると、真野先生時代を思い出す。僕の頭の中には、潜水医学太平記があるが、書くことはないだろう。ちょっと書くとこの裏手の古い教室の上の方の階の行き止まりに真野先生の教室があり、今のタワービルのあるあたりの小屋に再圧タンクがあった。幸いにも入った思い出はない。
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   この水辺、橋の下は、どんなふうになるのだろう。

 地下鉄で大手町に来て、丸の内線を降りたところ、右側には「立田野」があった。あんみつ屋だったが、僕はここの昼限定のカレーライスが大好きだった。今は、スタバの席になっている。向かいのスタバでコーヒーを買って、こちらの席でゆっくりするのだ。
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 地下鉄丸の内線から東西線を繋ぐ通路に大手町タワーの入り口がある。毎季節の飾りがあり、当然、クリスマスツリーだ。
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 もうじきメリークリスマス僕はそのイブに辰巳で、ハイブリッドのテストをする。

1217 シンポジウム②

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 13日のシンポジユウム、自分としては、自分のダイビングのまとめと、その上に立っての今後を示唆することが目標だった。JAUSも5年目を過ぎ、模索してきた途をはっきりとさせたい。
 自分のダイビングについては、冒険、探検、科学がキーワード、この歳になって冒険とは? 
高齢を生きるということ、それは冒険そのものなのだ、そして、すぐ目の前には、避けることが絶対に出来ない死という最後で最大の冒険が待っている。
 60歳で100m潜ったとき、ここから先、20年をダイバーとして生きること、下世話にいうと生涯現役という目標をたて、この20年が生涯最大の冒険だと思った。
 しかし、80歳になりそれも終わってしまった。後は、死という冒険が残されているのだが、その前に、生きられる間はダイバーとして、価値ある生を生きなくてはならない、 
自分を中心に置いてしまうこと、それは気が引けたが、後残すところいくばくだから、自分は自分として全力を尽くすことにした。

 成功したかどうかはわからない。人生とはわからないものなのだ。
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 JAUSの進んで行く道をはっきりと見つけたい。この目標について、
 少なくともスタイルは出したかった。JAUSとはこういう団体だと。まず、メンバーみんなでやる、進むということ。
 よく、業界という言葉が使われる。自分が業界の人だろうか、あまり業界の人にはなりたくない。しかし、業界の妨げをしては、いけない。平行して、助け合う途を探す。また、指導団体と同じことをしてはいけない。物事は言葉では総括できない。形で示さなくてはいけない。それがシンポジウムだ。

  ユーザーユニオンという言葉も考えた。しかしちがう。業界と対立する匂いがする。平行して補うものでありたい。
 上から教えられること指導されることではなく、自分の活動を樹立すること、平たく言うとダイビングでなにが出来るのか、ダイビングを道具としてなにが出来るのか、そう考えた時、それは、60年前の潜水科学協会への回帰だった。
 このシンポジユウムで達成できたとは、いえない。そもそも一回のシンポジウムで達成できることではないのだ。
活動の道を求めている団体であることは、示せた。とおもう。

 具体的に考えて見よう。
 シンポジユウムでは、まず「映像ありき」調査、研究とは撮影で実証され表現される。出来る限り映像で、絵で表現したい。
 成功したかどうかは、わからないが、悪くはなかったと思う。

 いくつか、賛辞をいただいた。新藤健一さんからいただいたものについては、前回披露したが、うれしかった要点は「JAUSは、撮影が水中活動の最重要なファクターと考え、サイエンスダイビング、リサーチダイビングによる撮影を活動の中心に据えている。したがって調査結果はもちろんだが、開発した撮影機器とその運用によって、何が撮れるか、何がわかるのかの手法も研究しているので実に楽しいクリエイティブな団体になっている。」

  小池潔さん からも賛辞をいただいた。フェイスブックでの書き込みである。 小池さんさんは、Marine office Moonbay 代表、The Jane Goodall Institute Japan 理事長であり、。チンパンジーと自然の密林の中で親類関係を結んだ、グードル博士の日本における活動の中心になっていたり立派な活動を継続している。JAUSの理事である、慶良間在住の井上慎也君と琉球大学で同級のはずである。
 嬉しかったので、そのまま引用させてもらう。
「12/13(日)、海洋大で開催された、JAUS 第5回ダイビング活動研究シンポジウムにおじゃまして来ました。
心から楽しませていただきました。
あー、そもそもまさに、こういう感じに憧れていつか私もダイビングというものがしてみたいと思い始めたんですー!と何度も心の中で叫んでいました。
須賀さんの1963年の潜水記録映像に胸は高鳴り、後藤さん追悼「マチャアキ海を行く」の、ウツボに咬まれながらも、穴から出して輪くぐりをさせようと奮闘する姿に爆笑しました!...

1219 シンポジウム③ サーフェスコンタクト

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  サーフェスコンタクト

ダイビングは冒険だ。夢を追わなくては、ダイビングは海の中の夢、海の夢そのものだ。
とか言いながら、そして、ダイビングの目標は、深さだ。深く潜ることが冒険だ。だから、フリーダイビングだって、美鈴がスターになるし、深く潜れば偉い。などと言いながらなにかといえば安全のことを言ったり書いたりしている。
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       サーフェス サプライ  送気式

ずっと考え、追い続けて来たのは、ダイビングの運用であった。そして、今唱えるのは、サーフェスコンタクト。この言葉、ダイビングの用語として、あるのかどうか?日本水中科学協会の用語事典にもPADIのエンサイクロペディアにもない。命綱のことを書いていたら、思い浮かんだ。送気式=サーフェスサプライ テクニカルダイビング=スクーバ、そのサーフェスから、サプライ「送気」してもらわないで、常に連絡をとっている。すなわち、コンタクトを失わない。だからサーフェスコンタクトだ。最初は、命綱=サーフェスコンタクトと考えていたのだが、もっと広い範囲でつかえるのではないかと思うようになった。最大に広く考えれば、帰り途を確保しておくことまで、必ず帰れるのがコンタクトだと言っても良い。ちょっと広げすぎか。

命綱はもっとも直接的であり効果の高いサーフェスコンタクトである。現在、毎年発生するダイビングによる死亡事故の90%は、死亡にいたらなかっただろうと、思う。すぐ、何も考えずに、90%などという数字をデタラメに使う。悪い癖だ。日本語はべんりだ。ほとんどと置き換えよう。命綱を付けていたら、殆どの死亡事故は、死亡には至っていないのではないか。このところ、明らかな減圧症で死んだひとのことを聞かない。だいたいあ溺死だ。命綱をつけていれば、溺死はほぼ、逃れられる。
ところで、命綱を着ければ、スクーバとはいえない。言ってはいけないのだ。セルフコンティンド、水面から切り離さなくてはスクーバではない。だから、直接的なコンタクトがあったら、スクーバではない。有索潜水になる。そして、多分、冒険とも言えなくなる。

命綱でなくても、 自分の経験では、アンカーロープにも命を助けてもらっている。アンカーロープは少なくとも水深の2倍の長さが必要であるから、ダイバーの頭上にあれば、つかまって浮上する事が出来る。
ただし、アンカーは、船に引きずられて、移動するから、これだけを頼りにすると事故が起きる。アンカーを潜降索にしたために4人が事故を起こした件の裁判に関わったことがある。これは、かなり深いところから立ち上がっている根の頂上にアンカーを打って、アンカーから潜降させた。ところが、アンカーが根から外れて、50mの水深に落ちてしまった。20mの根の頂上だろうと思って潜降したら、50mに落ちてしまった。4人が潜水して、2人が急浮上した。その二人が流されたので、船は、アンカーを上げて、助けに行ってしまった。二人は下に取り残された。そして、水面で拾った一人が危篤状態になったので、船は港に急行してしまった。残された二人が行方不明になり、結局は骨で揚がった。
アンカーとダイバーの間に別のコンタクト、たとえば巻き尺を使うとか、ガイドラインの9リールを使う必要がある。
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     巻き尺をのばす。

 調査をするときには、位置を決め、その位置のGPSの値をとっておく。その位置を示すブイと潜降索をおろす。これが、命綱を使わない場合に一番勧められるサーフェスコンタクトである。

 レクリエーショナルダイビングのポイントには、ブイが設置されている。ボートをこのブイにつなぎ、潜降索にそって潜降し、同じ索にもどって浮上する。
 ただ、問題は、この索に戻れないことであり、各ダイビングポイントには、この索にもどるラインが張り巡らされているが、毎日、そのポイントに潜っているわけではない僕は、どのラインのどの方向が潜降索にもどれるのかわからなくなってしまうことである。
 サーフェスコンタクトを広義に解釈すると、帰り道の確保である。
 もっと広義に解釈すると、安全管理の物理的な道具であり支柱である。
 僕は、最近、高齢になってからだけれど、サーフェスマーカーブイを打ち上げて、浮上減圧するような潜水はしない。必ず潜降索に戻るか、ビーチへエクジットする。そんなことを言ったら、面白いポイントに行けないではないかハンマーにも会えない。昔、与那国で、ハンマーを追って、水深50mへ二回、無減圧の範囲だったが潜って、擬似減圧症になった。60代のころだったが、ハンマーとか、対象物があると、夢中になってしまう。危ない。だから、70歳で卒業した。ただ、50mに潜るだけ、60mに潜るだけ、もしかして80m潜るだけで、サーフェスコンタクトがあれば、悪くても減圧症だ。わかっていて、十二分に減圧停止時間をとり、浮上速度をゆっくりにすれば、激症の減圧症にはならない。12時間以内に再圧治療を開始すれば、すぐに治る。減圧停止は一番偉い先生が計算して暮れた時間の1.5倍にする。浮上速度は、出来る限りでゆっくりにする。そのためにはサーフェスコンタクトが必要、必須だと思っている。

 命綱で繋がれることは、鵜飼いのようなもので、ダイバーは積極的にこれを嫌う。なんとか繋がれないように願う。
 1980年代、テレビ番組で、水中レポートを始めた。
ジャック・イブ・クストーはアクアラングを作り、それを映画で紹介した時、その後で展開されるすべての水中活動を展開してしまった。ジャック・イブ・クストーが偉大なのは、アクアラングというスクーバを開発したことよりも、この展開したことである。と僕は思っている。そのジャック・イブ・クストーの展開のレパートリーの中に、この水中レポートは無かった。このことは胸を張っていえるのだが、その水中レポートは、有線通話器を使って行われた。すなわちサーフェスコンタクトである。100mの長さの有線通話ケーブルの範囲で、世界中の水中の事物90%までは撮影できた。そして、このコンタクトのおかげで、少なくとも2回は危機一髪を乗り越えている。
 実は、有線通話による水中レポートで与那国のハンマーを追って、ダウンカレントに吸い込まれ、ケーブルのおかげで助かっている。ケーブルが無くても大丈夫だったかもしれないが、NHKの南方カメラマン、商売敵で親友だったが、神子元でケーブルを使わないで、ダウンカレントに引きこまれて、亡くなった。良い死に方だと僕は羨んだが、一緒に潜っていたガイドは、未だに行方不明だ。

 その少し前、僕の経営するスガマリンメカニックは、別名をスガマリンサーカスと言われ、不死身だと思われた。不死身は有線通話というサーフェスコンタクトがある撮影チームのことであり、リサーチチームは、サーフェスコンタクトを無視した。この思い上がりが、若い社員を一人失わせることになった。事故の原因は突然死だが、命綱、もしくは有線通話があれば、死なないで済んだ。事故を起こした船上の片隅に、僕の用意した有線通話ケーブルは、ぽつんと取り残されていた。
 このことが、僕のバランス感覚を失わせることになり、繋がれることが死ぬよりいやなレクリエーショナルダイビングにまで有線通話によるコンタクトを強いるケーブルダイビングシステムを考えだし、それを普及する会社を設立して財産を失った。
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       ケーブルダイビングシステム

 レクリエーショナルダイビングは、命、安全、よりも魚のように自由に泳ぐことを優先するのだ。
 以来、自ら糸の切れた凧状態になっているレクリエーショナルダイバーは、勝手に、自由で幸せに潜ればいい。決して引き止めはしない。ダイビングは冒険だ。自分が若いころ散々やってきたことを、年寄りになって引き止めたりとやかくいうのは、いけない。
自己責任が原則だと唱えるようになった。

 次には自己責任の話をしよう。

1222 自己責任

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  この前に自己責任について書くなどと言ってしまったが、そのことに嫌気がさしている。ダイビングとは、もっとおおらかで楽しいものだ。何かがあってすぐに責任を論じるようなのは、スポーツらしくない。どうせ、人間が生きていけない海の中に飛び込んでいくのだから、危ないのは当たり前、生きるのも死ぬのもその人の勝手だ、と言いたくなる。これがつまり自己責任だ。
ずっと昔、僕がダイビングを始めたころは、そんな風だった。
 
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 しかし、バディ等と言って、ダイビングを一緒にしていると、彼、そのころは、だいたいは男だったので、彼だが、彼の奥さんとも知り合う。子供とも仲良くなったりする。そんな彼が、朝、元気よく、行ってまいります。と出かける。その頃は魚突き全盛だから、魚のお土産を期待しているのだろう。
そんな彼が、ふとしたことで事故を起こし、冷たくなった身体を戸板に乗せて、戸板に乗せるという表現は若い人には通用しないだろうが、昔の家は雨戸があって、それにちょうど人間が乗るので、それに乗せて担いでくる。そう、時代劇で斬られて死ぬと戸板に乗せて帰ってくる。
戸板に乗せて、朝元気よく送り出した妻子のもとに冷たくなっ彼を戸板に乗せて運んでいく。僕の神経はそれには耐えられない。
なんでも、みんなでやれば怖くない。みんなで集まって、「日本潜水会」をつくり、技能認定カードをだし、指導者の資格を作った。それで、内規、すなわちローカルルールを決めておけば、そのルールの通りにやっていれば、事故が起こっても、団体責任でみんながかばってくれるだろう。
ある時まで、1980年ごろまではそれでうまくいった。事故で友人が亡くなれば、故人はいい人だった。悲しい、という追悼の文集かなにかだして、みんなで悲しめばよかった。遺族も、「死んだりして、ご迷惑をかけました。」と頭を下げてくれる。たしかに迷惑だった、捜索をしなければならない。むろん、勤労奉仕だった。遺族が捜索のプロダイバーを頼むと、プロには日当を払う。友達は、ありがとうございます、とネクタイ一本ぐらいで終わりだ。それでは、仕事を休んだりして、やっていられない。捜索費用、自分たちの日当になるお金を積み立てた。これが安全対策費だった。もしも、捜索しなくてもいい死に方をしてくれれば、このお金は遺族への香典になる。
たぶん、今の人は、こんなことだったといっても信じられないだろうが、本当だった。

そして、海の向こうから保険がやってきた。
この保険にさえ入っていれば、指導者は、遺族に頭を下げる必要もない。なにもない。ただ弁護士に任せておけば、解決してくれる。遺族も納得ができる保険金の支払いを受けられる。すばらしいことだ。これが今の状況だ。捜索費用として積み立てたお金も不要になったので、取り崩して使ってしまった。
しかし、ここで、スクーバは自己責任という考え方が薄くなった。訴えれば、賠償してもらえる。でも、考えてみると、殆どの場合訴え出るのは家族であり、本人あ冷たくなってしまっている。自分の安全、自分の命については、依然として自己責任なのだ。怪我をした場合の責任というのもある。大方のスポーツは殆ど怪我についての責任だ。そして、定まったルールがあるから、あまり、自己責任は問題にならない。責任ははっきりする。
しかし、ダイビングの場合は死亡事故が問題になる場合が多い。死んでしまっているので、本人に事情を聞くことができない。遺族、家族としては事情が知りたい。誰が悪いのだ。もう、本人を責めるわけにはいかない。誰の責任なのかはっきりさせる、客観的に真相を追求するのは、訴訟しか無い。責任があれば、賠償が行われる。万事お金で解決できるし、解決される。
今、死亡事故が起こると、大抵の場合、8000万から1億の請求で訴訟が始まる。そして、示談の相場は3000万から5000万だ。本当に本人の責任が90%だとしても、10%は、インストラクターなりガイドダイバーの責任になる。1000万としても、保険がなければ、夜逃げすることになる。インドネシアあたりに逃げて、宝探しでもやる。宝があたれば、賠償が払えるから帰国できる。流れ者ダイバーになる。フィリピンあたりで結婚して、石油掘削のダイバーになるのも悪く無い。家族が居なければ、悪い話ではない。
守るべきものがあるから、保険をかける。
安全についての自己責任と経済的な補填の意味での賠償責任とは異なるものだ。
賠償責任の度合を決めるために管理責任が計られる。管理するとは、管理する、管理されるかんけいになって、管理する側に発生する責任である。有料、お金を払って、管理をしてもらうレクリエーショナルダイビングでは、事故が起これば必ず訴訟の対象になる責任だ。
事故の責任を100%として、自己責任が何%、管理責任が何%というような考え方をする。僕は法律家ではないから、これでよいのかどうかわからないが、少なくとも自分が関わった訴訟では、そのような考え方をした。僕が関わった幾つかの訴訟は、原告側、つまり、遺族側に立っての証人だった。なんとかして管理責任を80%、せめて60%ぐらいに持って行きたいと、遺族側の弁護士は考える。
スクーバは自己責任といっても、管理を依頼した場合には必ず管理責任が発生する。
ソロダイビングだけが完全な自己責任になる。業務潜水の場合はソロは事業者(業務を命令する者)の責任になるから、これはまた別に論じなければならない。ここでは、業務潜水以外のダイビングについて考えている。
セルフダイビングという考え方がある。これは、管理責任は発生しないだろうか?セルフを認めたという管理責任があるかもしれない。セルフと呼ばないで、このごろではバディ潜水と呼んでいる。ソロは認めないということだろう。バディの間に管理責任は発生しないだろうか。僕にはわからない。そこで話は振り出しに戻ってくる。昔は、すべてが、互いに責任の無い、もちろん救急と捜索の義務はあるが、命の責任は問われない?本当だろうか、バディの一人が上級者だったら、ましてはその上級者がダイブマスターだとか、アマチュアのプロダイバーだったりしたら、どうだろうか。
幾つかの本を読んでみると、訴えられる可能性がとても高い。ガイド料金をもらっていなくても、バディがインストラクターであったりしたら、まず訴訟が起こると思う。

 訴訟では、自己責任と管理責任は拮抗的に扱われるが、自己責任と管理責任は別の責任であるとおもう。スクーバは自己責任であるから、安全管理責任はない、というようなことではなく、同時進行的に別々に存在している。平行して存在して、事故を防止しているのであるが、する責任であり、事故の場合、自己責任の多い分だけ、管理責任が減ると考えられる。合算して100%とすれば、%の争いになる。
 その割合を判定する場合、ローカルルールの存在が大きな意味がある。指導団体の基準(プログラム)その区域、そのグループ、そのダイビングスタイルによるルール、などがローカルルールである。
 事故の責任を論じる時、自己責任、管理責任、規則で定められた責任、ローカルルールの存在とその適否、がそれぞれ物差しとなって、測られると今の僕は考えている。
 なお僕は法律家ではないし、弁護士でもないが、ダイバーとして長い月日を過ごしている。
  

1225 雑感

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 特に写真の無いテーマの場合、困ってしまう。写真を何も載せないと、顔写真がフェイスブックにでてしまう。
 でタカノケフサイソガニ 昔、保高くんが撮ったものだ。彼がお台場に現れなくなってもう何年だろう。
 内耳のトラブルがあったためかもしれない。 未だ治らないのだろうか。ダイバーに取って、耳は致命的なのだ。
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 ほぼ隔日でブログをアップすると決めている。他の企画書などで書くことが忙しいと、だいたいが忙しいのだが、思いついたことの書きなぐりになる。とんでもない間違いを書いていることもある。きちんとしたことを書くための下書きなのだと自分に言い訳しても、それを読んでいただけることでもあるのだから、無責任だと下を向いてしまう。
 自己責任だとか、管理責任だとか、かなり重い、大事なことを書きなぐっていると、これで良いのか、という反省が身に迫ってくる。
 
 企画書にしても、一言一句、身を削る思いで書いても、リリースしてしまえば、時間経過でどんどん自分の中でもいるあせてくる。

 資料として映像を用意しようとするとき、昔の事例だと、動画と静止画が平行して用意できることがほとんどない。スチルが二三枚だ。
 ああ、そういうことなんだなと思う。一つのテーマ、一つの調査記録、で100枚の静止画と3分の動画が整理された状態で取り出せるようにしておくこと。これが目標で十分なのだが、その整理がたいへんなのだ。でもやらなければ。

 人間関係というくらいで、人の悩みの多くは人間のかんけいだ。若い頃は、人間関係に悩むと、ディメンジョンが違う。次元が違うのだと自分を慰められたが、ほとんどのことについて結論がでてしまっている高齢では、この自分に対しての言い訳が通用しない。


001225 古い企画

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 企画書をかくために古い資料を見ていると、CDに保存していた文書がある。2000年、ごろだ。21世紀を前にして、お台場でなにかやろう。それでこんなことを考えた。今の自分の企画とずいぶんと違う。
 結局は実現しなかった企画だが、抄録する。

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最後のくだりに、「 あと5年、ダイバーたちがこの海に潜ることが普通になり、浄化のメッセージを発信し続ければ、東京の海の環境も変わって行くはずである。子供たちのスノーケリングも始められるかも知れない。お台場の海、港の海は、良くも悪くも人の手が加わった環境である。充分な研究のもとに行うならば、人の手による環境の改変も行うべきである。そのためにも、潜り続け、研究の場にすることが必要である。」と締めたが
 あれから15年たった。何も変わっていない。

 2000 お台場ダイバーズフェスティバル
        企画 須賀次郎(全日本潜水連盟・アアク・ファイブ・テレビ)
 
 私たち、お台場の水中を定点潜水観察しているグループは、お台場の水が一番きれいになる冬、2000年1月から2月にかけて、お台場の水中から、世界の水環境保全と復活を願うメッセージを発信する。
  
 お台場は、東京の水環境のリトマス試験紙です。
 お台場の水環境が良くなって行くことは、世界の水環境が良くなっている証です。
 お台場にダイバーが潜れなくなれば、東京湾の魚は食べられなくなり、それは世界の海にもつながり、人という種類の生物が地球上に生きて行かれなくなることにつながります。
 だから、私たちはお台場の海に潜ります。
 
 お台場の海は、東京湾の行き止まり、東京港の奥です。そしてまた、東京の中心を流れてくる隅田川が海に注ぐ河口に近く、隅田川の影響も強く受けています。
 お台場の水は、東京湾でも一番汚れているはずです。しかし、それでもなお、お台場の海の中には、沢山の生物がけなげに生きています。お台場のヘドロの海底には、江戸前のマハゼが深い巣穴を掘って産卵しています。私たちは、この東京の象徴とも言うべき海に隔月で定点潜水観察を行っています。

 行事内容
Ⅰ 潜水活動
①現在定点潜水を行っているグループ(東京湾潜水探検隊、東京大学海洋調査探検部、東京水産大学潜水部、全日本潜水連盟)がそれぞれ、テーマを決めて、1月下旬から2月中旬にかけて、述べ10日間、毎週末、お台場海浜公園の水中の定点を連続潜水観察し、この東京の象徴ともいうべき海を徹底的に調査検証する。
 ※学術的なバックアップとしては、グループの中心である東邦大学助教授風呂田利夫が現地でのアドバイスを行い、東京都水産試験場、東京水産大学に協力をお願いする。
②潜水の度に、必ず海底の廃棄物を回収し、定点を徹底的にクリーンアップする。
③首都圏のダイバーに呼びかけ、お台場の水中を体験してもらい、今後の活動の参加者を増やす。
④スチルカメラ、デジタルビデオカメラ、ハイビジョンカメラなど、使用できるカメラを総動員し、徹底的に水中撮影を行う。
⑤これまで、お台場の水中を舞台に活動をしてきた水中カメラマン、お台場に潜水したことのあるタレントなどにゲストとして協力をお願いし、一緒に潜水する。

Ⅱ メッセージの発信(テレビ番組)
 考えられる案
 
①北海道紋別流氷タワーの水中、沖縄・慶良間のサンゴ礁水中、お台場の水中を結んで、それぞれの水中を対比させ、水中環境について話し合う。同時水中中継、できなければ水中はビデオで、トークは中継。
②お台場と同様な、世界の港内奥深くの水中を紹介して比べる。ハワイ・真珠湾、ニューヨーク・ハドソン川など。
③お台場水中の徹底的な紹介
一年を通じて撮影したビデオ、行事期間にテーマを決めて撮影してビデオを紹介する。

Ⅲ 提言
①現在、お台場海浜公園の廃棄物の寄り場となっている潜水定点が港内での生物環境調査、人工海浜の水中環境研究の場となるような施設建設
具体的には、風を避ける脱衣場、器材の洗い場、ゴムボートなどの格納場所になるような小さな建物で良い。実際的な研究は、至近にある研究施設も利用できるし、メンバー各自の研究施設でも可能。

②内湾浄化の象徴種として、アマモの移植
現状ではとても生育の見込みがたたないので、砂の浄化作用を大きく利用して、タイドプールを作れば可能性があると風呂田氏は言っている。
タイドプールは、近在小中学生の理科観察の場ともなる。

③お台場に入る屋形船など観光船の排泄物垂れ流しの禁止
世界の港で、排泄物処理が出来ない船の入港を認めているのは、文化国家を自認する国としては日本だけである。

お台場潜水と私たちの活動の沿革
1950年代、昭和30年前後、日本の自然は豊かで、日本に潤沢にあるものはきれいな水などと言われていたが、その頃の東京湾は死の海であり、東京の都市河川は死の川だった。生産第一から、公害の防止が第一になり、少しづつ都市河川もきれいになり、東京湾も生物が豊かになってきた。
1970年代、昭和50年前後、お台場に潜水するダイバーたちが現れた。東京に住むダイバーたちにとって、一番近い海だったからであろう。東京都水産試験場は、マハゼの産卵の潜水調査を行うようになったし、中村征夫は、この海に潜水し撮影して、出世作である「全東京湾」を書いた。これに刺激を受けて、東京大学海洋調査探検部など、学生たちのグループがお台場近辺で潜水をはじめた。濁って汚い海ではあったが、生物が豊かであり、環境を観察する絶好のテーマもそこにはあった。何よりも近くてお金がかからないことが、良かった。
ところが、ここが公園になると、ウインドサーフィンの場とはなったが、ダイバーの潜水は、二重三重の許可が必要になり、しかも、ウインドサーフィンに気兼ねをしてでなければ、潜水できなくなった。

港湾の汚染防止、事故防止を司る海上保安部にも、ダイビングのエキスパートが多い。お台場潜水の許可を行う海上保安部の絶大な協力を得て、1996年より、6月の環境月間に、お台場の水中を有志ダイバーが潜水してクリーンアップする行事がはじまった。ただ、廃棄物を拾い集めるだけではない。「東京港を泳げる海に」というキャッチフレーズのもとに長期的な見通しの上に立った行事を目指した。「泳げる」と言えば、すでにダイバーは泳いでいるではないか。目指すものは、ダイバーの潜水だけでなく、子供たちが楽しくスノーケリングができるような環境である。
 時を同じくして、新しく出来たお台場の町づくり、町の住民、子供たちの行事としての砂浜のクリーンアップと同調することができた。第3回の1998年からは、地域自治体の港区の「港区スポーツふれあい文化健康財団(以下、ふれあい財団と略称)」が、事務方の中心になって運営をして下さることになった。東京都水産試験場も、地元子供たちのための生物教室を同時に開催することになった。
 あと5年、ダイバーたちがこの海に潜ることが普通になり、浄化のメッセージを発信し続ければ、東京の海の環境も変わって行くはずである。子供たちのスノーケリングも始められるかも知れない。お台場の海、港の海は、良くも悪くも人の手が加わった環境である。充分な研究のもとに行うならば、人の手による環境の改変も行うべきである。そのためにも、潜り続け、研究の場にすることが必要である。

1227 お台場

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 27日、今年最後のお台場の海、毎月、最終日曜日が定例の調査撮影会だ。
 お台場の海、の意味。東京っ子にとって、唯一の自分の地先の海だ。僕というダイバーにとって、自分の地先の海があり、そして、調べたり、遊んだりの海がある。
調べたりする海も、何回も通うホームグラウンドといえる海があり、これは過去を振り返ると、ずいぶん変転している。八丈島であったこともあれば、三宅島であったこともある。今、この10年来は、房総半島、そして、最近では東京外湾、内房の海がホームグラウンドだ。遊びに行く海では慶良間が大好きだ。
 しかし、お台場が地先の海だ、地先とは、自分の住んでいる地のすぐ先、泳いでも行かれる海のことだ。漁師でいえば、共同漁業権区域、自分たちだけが、漁をする権利がある海のことだ。
 このお台場の海に潜って、136回目になる。ようやく、ダイバーが潜っている姿が、違和感を持たないで眺められるようになったのかもしれない。
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 このところ、気管支カタルで、咳がとまらず、打ち伏している。でもとにかく、拘束衣(ドライスーツ)を身に着け、体全体、肩、腰、足に、合計13キロの鉛を貼り付けて、さらに10リットル、15キロの重荷を背負って立ち上がった。波打ち際まで歩いていく。心臓の鼓動が聞こえる。定期的に安定しているようで、特に不整脈ではない。が、音が聞こえる。
 ドライスーツでタンクとウエイトと背負って、体をこごめて、フィンを履くことができないので、鈴木君に手伝ってもらう。フィンが一人で履けなくなるようなことになるとは、思っても見ないで、これまで過ごしてきた。
 水に入り体を浮かせると、リラックスできる。お台場は波も流れもないから、水に入った瞬間に、体をらくにさせることができる。
 透視度は1-2m程度ある。ところによっては3m見えるかもしれない。水温は14度で、僕は手袋をしていない。手の触感を大事にするので、8度ぐらいまでは手袋なしで我慢してしまう。手袋をすると、人間の能力は50%減になると僕は思っている。
 このところの僕のテーマは、90mのラインを引いて、ラインに沿って、動画を撮る。その年度、例えば2015年、冬のお台場の海底は、どうだったのか、その様相を記録しておくためには、この方法が良いとおもいついて、この秋からこの方法で撮影している。
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 言葉で表現すれば、動く、ハゼ一尾、見つからない。カニが動くこともない。何も動かない。牡蠣殻が広がっている。牡蠣殻に付着生物は付いていないが、生きている牡蠣も少ないようだ。
 
 このごろ、メキシコのセノーテで、繊細な鍾乳石に身体を触れないようにサイドマウントの水平姿勢でフロッグキックを緩やかに使って、滑るように泳ぐ映像を三保先生などがよく見せてくれる。そのイメージで、水深50cmを滑るように泳いでみようとやってみる。なんとか、できているみたいだが、体が前後に揺れて、滑るようには行かない。まあ、どうでもいい。

戻り道は、生き物を探しながら戻ったが、めぼしい生き物は見えなかった。

この潜水は、研究調査が主目的に申請している。僕の調査は記録研究だが、メンバーそれぞれは、自分のテーマを持っている。持たなければ、いけない。
元東邦大学教授で、東京湾の生物環境では第一人者の風呂田さんは、二枚貝をターゲットにしている。金枠を人口砂浜の水底に置いて、枠内の砂を全部取ってきて、篩にかけて、二枚貝の稚貝を探し数える。もちろん成体も採取して測定するが、米粒のようなアサリの稚貝を数えて測定する。
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 ゴカイ、(多毛類)をテーマにしているメンバーは、尾島さん、自見くん、多留さんで、牡蠣殻などを採集してくる。これはパレットに開けてピンセットで丁寧に見ていく、他の採集方法もあるのだろうが、海底を掬ってきて、細かく見ていく。
 多毛類は、春夏秋冬、何時でも居るし、種類も多様でお台場にだけしかいない種類もある。これを双眼顕微鏡でのぞいてみると、美しい龍のようなのも居れば、かわいいと思えるのも居る。多毛類の分類は、趣味としても悪くはない。

 目的としたラインの撮影も終わったので、咳も出ることだし、一回の潜水でやめようかとも思ったが、でも、月に一回のチャンスだ。
 今度は誰の助けも借りないで、一人で両の足のフィンを履くことができた。
 今度も魚もカニも見えない。カニを呼び出して見ることにした。岩に付いている牡蠣だが、生きているのもところどころで見える。まだ小さい。もっと小さい牡蠣も付いていてやがては育つだろう。牡蠣はプランクトンを濾しとって食べて育つのだからどんどん大きくなる。ただ、塩分濃度が極端に低く、真水のようになると死んでしまって牡蠣殻になる。育っては死ぬ繰り返しだから、海底は牡蠣殻で覆われる。
 小さい生きている牡蠣にナイフを差し込んで、開き、岩と岩の間に置く。カニはどこにも見えない。10秒もしないうちに動くものがある。小さいカニが出てきた。親指の爪くらいの大きさだ。牡蠣の身に取り付く、しかし、すぐに逃げる。次の瞬間、もう少し大きいカニが現れる。岩の下から這い出て来る。
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 三尾ぐらいが取り付く、と岩の下から少し居大きい、3cm、いや、4cmはあるかなという奴が出てきて小さいカニを追い払う。小さい牡蠣なので、カニが引きずって、岩の下に持ち込もうとする。とさっき追い払われた小さい奴が、大きい奴に体当たりをする。そのまま岩の下で、押し合いをしているみたいだ。表に出てきて闘いの様子を見せてもらいたい。牡蠣殻をつまんで、広場、といっても20cm平方ぐらいの広場だが、広場に持ち出すと。カニは全部引っ込んでしまった。2分ぐらい待ったが出てこない。おそらく、5分待てば出てくるだろうか、何故かその気にならなくて、その場を離れてしまった。
 この状況を撮った動画をYUOTUBEに出した。僕は面白いと思うのだが、フェイスブックでもこの動画は地味であまり人気がないようだ。

 これで、今年は本当に潜り納め。
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1230 読書

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久しぶりに読書のこと。
上村菜穂子にはまっている。すなわち、作品全部を読むつもりになっている。まだ、時間がかかりそうだ。最新作でベストセラーの「鹿の王」、。僕がよむためには、この単行本が文庫になり、ブックオフにでてきて、それが108円にならなくてはいけない。何時のことになるか不明。このような、娯楽、楽しみだけの本については、そんな縛りをかけている。
 守り人シリーズのバルサ(女の隊商用心棒)が好きで、スターウォーズを見て、レイにイメージを重ねて見たが、レイは、「フォース」だけが武器だ。楽しく、おもしろければそれでよいのだから、どうでも良いけれど、レイにももう少し修行、トレーニングの要素があってもいい。上村菜穂子の方は、そういう欠陥がない。荒唐無稽な想像、イメージの世界では、なるほどとおもわせることが大事である。
 スターウォーズもあと少し、格闘部分の修行で、なるほどと思わせると良いのだが。
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 「ひかりの剣」海堂尊
 医学を学ぶ大学が、剣に生きるところだとは、ぶっ飛んだが、面白かった。外科の切ったはったと剣の道は同じなのかも知れないと思わせられたりする。 こちらの方は、ひたすら修行の道である。医者になっても悪くはないなどとおもったが、医大生が剣の素振りを、毎日1万回やって良いのか、それで単位が足りているのだから、天才でなければむりだ。しょせん、スターウォーズの世界である。


 部屋の片づけをやり、そのへんに転がっている本をスーツケースにいれて、ブックオフに行った。上橋菜穂子の神の守り人は、108円で買って、売値は5円だった。まあ、30円とかいうのもあるから、スーツケース(小型)一杯で、1850円になった。それにサービス週間だとかで、350円の読書券がもらえた。
 108円の本を4冊買って、350円プラス100円でお釣りがくる。
 少しまじめに「ツアー事故はなぜ起こるのか・ツアーリズムの本質・偶然ではないかならず、起こる。」平凡社新書、「鯨の王」藤崎慎吾 などを買った。

 僕の読書のパターンである。

0101  お正月

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 ☆ 賀状をピックアップに事務所に行く。勿論歩いて行く。あいかわらずのベビーカステラの行列。美味しいくとは美味しいけど、並ぶほどのものではない。しかし、並ぶものはすべて同じことが言える。並ぶことに意義があるのだ。
不動さまの行列も同じこと、お賽銭をあげるために並ぶ。
破魔矢を買ったり、おみくじを引いたり、お賽銭をあげる。そのことそのものが幸せなのだ。お賽銭とかベビーカステラに並べない。並ぼうとしない僕は幸せではない。
 
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賀状は、ほぼ、出した方からきている。安心するとともにちょっとがっかりしたりする。
住所が変わった方が3名、住所が変わった知らせを受けた記憶もあるが、住所録は訂正されていない。わすれないうちに訂正しておこう。

☆今、読んでいる本、「鯨の王」藤崎慎吾、この人の本、もう一冊ぐらい読んでも良い。ブックオフでウオッチしよう。
さて、鯨の王は、まだ読了していない。ゆっくり読もう。

☆フェイスブックでの新年のご挨拶。
「改めて、あけましておめでとうございます。皆様のおめでとうに付き合っていたら自分のおめでとう、を言いそびれました。
水中科学協会の皆様への年頭のご挨拶を書き、ここから今年の第一歩を踏み出します。日本水中科学協会は、メンバー=創る人、みなさま=受け取る人 になればと願っています。そんなことを書きました。
自分は、テレビを見ない人ですが、31日の紅白は、他の作業をしながら、昔懐かしい、ながら族をやりました。今度の紅白のメインテーマとして感じるのは「老い」です。「あの人はこんなになったか、」です。どういうつもりで作ったのだろうか?
作った人は、以外にも「若い」人で、若い人の「老い」の受け止め方が、ああいう形になったのか、と、納得したりしています。
とにかく、今年も皆様に多大のご迷惑をかけながら突進したいと思うのです。どこまで行けるかは、人の身としてはわかりません。今年もよろしくおねがいいたします」


0104 80m-1

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新しい年を迎えて.さて、何を書こうか迷っている。しかし、何かを書こうとするとき、まよっていることを書いてはいけない。
 やはり、80歳で80m潜ることを書こう。2016年で81歳になってしまうのだ。週刊朝日に発表などしてしまったので、「どうしたのですか?結果を知らせてください。」などと言われる。とりあえず、なんとか現状を説明しなくてはならない。
 あまり長く、くどく書くよりは、プツンプツンとかいたほうがブログ的だ。その間にトピックスがあったら挟んで行けばよい。そんな方針で進んでいこう。
  このテーマはすでに書き始めている。命綱、サーフェスコンタクトについてがそれだ。書きダブルことになるが、ブログはダブっても繰り返しても良いことにしている。時間が経てば考えも変わってくるし、書いているうちに考えがかわることだってある。もしもうまくいって、本にでもなおすとか。月刊ダイバーに連載ということにでもなれば、まとめて整理すれば良い。それまでは、かなり滅裂だが、試行錯誤を重ねて行こうとしているのだから、支離滅裂でも仕方がない。それから、もう一つ東京港生物研究会のテーマで実現困難な企画をしている。そのことも書くことになるので、これも試行錯誤で混乱するだろう。
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60歳100mでチャーターした新生丸 

 まず、なぜ80歳で80mなんてことを言い出したのか。
 60歳の記念に100m潜水をやった。おおがかりなバウンス潜水で、お金もかかった。。400トンの船をチャーターした。この母船の一日のチャーター料金で、80歳の80mは実行できてしまう。落ち惚れたものだと、肩を落とそうか。とにかく、60歳の100mはお金もかかったし、総指揮をお願いし、ヘリウムガスの都合もつけてくれた、石黒さんはじめ、たくさんの方のお世話になった。そして、ここから先、あと20年80歳まで、現役のリサーチダイバーと言える形でダイビングを続けようと決めた。
 60歳から見上げた20年、80歳は急峻な壁に見えた。一回のダイビングで冒険をするよりも、20年の方が、生涯最大の冒険だと思った。事実、冒険だった。胃ガンにもなったし、経営している会社の始末をつけるのも苦難だった。危機一髪のダイビングもやった。
 しかし、本当に20年は過ぎてしまい、今も、とにかくリサーチダイバーの形で潜っている。
 ここから先のことは別として、一応、締めなくてはならない。一本締めか、三本締めか、とにかく締めなくては、先に進めない。
 そこで、80歳80mと語呂合わせのような呪文をとなえた。そしたら、週刊朝日が取り上げ、朝日新聞の天声人語にもでた。高齢化社会の一つの形として、フィットしたのだろう。
  
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    さて、80m潜るとして、まず、常識的に考えられるのは、リブリーザであり、テクニカルダイビングである。70歳のときに、リブリーザ、「インスピレーション」を購入し、講習も受けた。講習は不合格だった。不合格の理由は、下手くそなのだろう。ダイビング事故の基は、病気、下手くそ、思い上がり、だと僕は唱えてきた。
 下手くその理由は、バランスが悪いことが、まず一点として挙げられる。僕は、テレビのカメラマンとして、絶対のバランスを誇っていた。中性浮力で静止して、撮影対象にフィックスして、360度巡りながら撮影できる訓練をした。しかし、その中性浮力の静止は、肺呼吸によるものだった。これが、習い性となっている。
 不合格でも講習を受け続ければ、合格したかもしれない。1回の講習が10万として、10回で100万。100万の元がとれる仕事があれば良い。しかし、70歳、すでに僕は、自分が潜水することで、100万の元を取る。売上金額で1000万の仕事はとれなくなっていた。撮影の仕事は、中川に譲っていたし、調査の現場仕事は、田沼に任せていた。僕に仕事は残っていない。
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     リブリーザー インスピレーション 辰巳にて。

 自分が練習するのはやめにしたが、この決断は、後になって正解だったとわかる。
 JAUSを始めて、久保彰良理事が創ってくれた基本練習プログラム、プライマリーコースは水平姿勢で完全な静止が求められるが、これができない。これも50年の習いが性になっていて、カメラを持つと、30ー40度の前傾姿勢になってしまう。

 
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