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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1022 東京港水中生物研究会ができるまで

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 大変なショック。という程でもないが、東京湾大感謝祭にお台場の撮影について、出展するので、お台場に僕達が潜るようになったその発端からの話を書いて置いたものがきえてしまった。テキストで書いて、ハードディスク代わりのポメラに入れておいたのだが、消えてしまった。およそ、1時間探したが、どこにもない。
泣いても始まらない。もう一度書きなおすのだが、風邪を引いて寝ている時に、およそ一日掛けて書いたものだから、とても復元はできない。
 さて、お台場の東京港水中生物研究会の沿革について、
まず、僕と風呂田先生、との出会いからはじまる。
それは1985年、ニュース・ステーションの水中レポートが始まった時だ。
始まったばかりのニュース・ステーションは、視聴率が悪く、7%とか8%だった。10%にしなければ、という梃入れで、水中撮影を中心にする10分程度の自然紹介コーナーを設ける企画がでた。これは、日本での水中番組の元祖ともいうべき、「まちゃあき海を行く」を制作していた田島昭氏の提案した企画で、それが通り、田島さんと一緒に仕事をしたことのある数名のカメラマンが知恵をかしてくれたとたのまれた。僕は、すでに水中レポートの中継番組まで手がけていたので、水中レポートによる東京湾の撮影を企画した。
他に幾つかの企画もでていたらしいが、水中レポートということで、僕がとった。
心づもりでは須賀潮美をレポーターにと思っていたのだが、すでに女性アナウンサーのレポーターが決まっていて、潮美はことわられ、その代わりに誰か男性のレポーターを探すことになった。
風呂田先生は、もちろんまだ若くて、(39)東邦大学の講師だった。同時にNAUIの理事長をやっていた。当時のNAUIは、若い学者の風呂田君が理事長をやるような団体だったのだ。僕が知り合うのは、当時の海中開発技術協会の行事でNAUIとの話し合いがあった時だったと思う。弁舌が爽やかで、ルックスが悪くない。そして、その頃から、東京湾と言えばダイバーの間では、風呂田君が第一人者だった。彼ならば撮影テーマから撮影場所まですべてやってくれる。
実はその時、どこで潜って撮影したのかはっきりとした記憶がない。とにかく、大変に好評で、視聴率が10%を上回った。
すぐに続編をということになり、北海道知床の流氷がテーマになった。再び風呂田君をという話もでたが、僕は須賀潮美を連れて行った。これで北海道知床の流氷の下から、立松和平さんとの掛け合いの水中レポートが撮影され、ブレイクして、須賀潮美の水中レポートは、20年近く姿かたちは変わったが続くことになった。
中村征夫君とは元から親しくて、東京湾のニュース・ステーション番組が放映されたとき、「須賀さん、ぼくも東京湾にこだわっていて、今本をかいているのです。」と電話をもらった。これが、風呂田君も主人公の一人のように出てくる、「全東京湾」で、1987年に出版され、東京湾をテーマにした、素晴らしいノンフィクションで、中村征夫がその後に出した本も含めて、これ以上の水中カメラレポートは無いと僕は思っている。
その後も風呂田先生(ここから先生に変わる)とは、親しい付き合いが続き、三番瀬の埋め立て反対運動とか、幾つかの番組を一緒にやらせてもらった。

そして、1990年代に入ってからだと思う。環境映像の仕事を一緒にさせてもらっていた、電通映画社の神領プロデューサーが、2000年を前にして、東京湾の環境をテーマにした仕事をしようと思うので、東京湾岸で活動している人たちを全員集合させようという企画が持ち出された。全員、一匹狼なのだから、集めても疲れるだけだ、と僕は半ば反対したが、電通の某有力プロデューサーがお金は出すという。お金が出れば、人も集まる。電通が事務局になり、みんなに声をかけた。もちろん風呂田先生、三番瀬の小埜尾さん、横須賀で後に市会議員になる一柳さん、そして現在の「海を守る会」は、横浜市役所に勤務の塩井さんと言う方がやっていた。集まってもらって、「東京湾海洋研究会」と言う名称で、事務局長を三番瀬の小埜尾さんにお願いした。一年か二年か続いたが、一年と言う約束だった小埜尾さんが三番瀬の活動でいそがしくなり、事務局長を辞めて、横須賀が中心になって何回か行事をやったが、自然消滅した。電通から、予想通りのお金が出てこなかったからかもしれない。

 そのまま消えるのはもったいないと僕は思い、風呂田先生を隊長にして、須賀潮美を副隊長にして、「東京湾潜水探検隊」と言うのをでっち上げた。東京湾各所を次々と潜り歩こうという計画だ。記憶に残っているのは富津岬で潜り、三番瀬で夜の海の24時間継続観察をしたこと。24時間観察は、船を浮かべて、定点として、一時間おきの潜水して、1時間おきにプランクトンネットを引いた。印象に残ったのは、プランクトンネットに入るプランクトンが時間によって種類ががらりと変わることだった。夜中の2時頃はヤムシが多く、3時頃にはハゼの稚魚が多くなるとか、これは電通がお金をだしてくれた。
もう一つ、そのころ千葉港で使われなくなったドックに水を入れて、ダイビングポイントとした。ビッグドックと言う名をつけて、生簀のようにして魚を離したり、潜水艇を持って来たり、面白い企画だった。そのビッグドックに行ったのが、潜水探検隊の終わりごろだった。
そのビッグドッグに行った時、テレビ朝日ニュース・ステーションの番組で駿河湾の深海サメの企画があり、深海サメが採集できずに奮闘努力したディレクターの増子さんが、ビッグドッグのチーフダイバーになっていたことだ。現在はタオ島のダイビングステーションのオーナーになっている。そのいきさつをそのうちに訊こうと思っているがまだ果たしていない。

そして東京湾潜水探検隊はお台場にやってくる。
1996年6月、僕は東京海上保安部の警備救難課長の宮野さんと「東京ベイクリーンアップ大作戦」を始める。宮野さんが特殊救難隊の隊長をされている時に取材して親しくなっていた縁だった。僕はこの功績を称えられて?海上保安部から表彰されている。表彰状がどこかにあったはずだ。探してみよう。

1996年6月、東京ベイクリーンアップ大作戦は、このお台場に潜って、人体に悪影響がないものだろうか、まず特殊救難隊隊員が潜る人体実験からはじまった。もちろん僕はその前にも、マハゼの巣穴の調査で何度も潜っているので大丈夫としっているので、一緒に潜水した。
 
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    そのときお台場には、ライブ用の大きなステージが海上にあり、そのステージで開会式をやった。
    特殊救難隊が開会式でも活躍した。ヘリコプターも来て吊り降ろしをやろうかという話もあったが、高層建築があるからダメだった。
  
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 その、1996年、12月、第一回の潜水をする。この時は東京湾潜水探検隊としての潜水であり、今でもお台場潜水のメンバーに、東京湾潜水探検隊隊員が残っている。
風呂田隊長はそのまま中心人物となっているが、副隊長の須賀潮美は、たしか、一回だけ来ているはずだ。
 第1回  1996  12月23日
 第2回  1997   4月 6日
 第3回  1997   5月18日
 第4回  1998   3月 8日
 第5回  1998   9月15日
 第6回  1998  12月13日
 第7回  1999   4月24日
 第8回  2000   2月19日
 第9回  2000   9月10日
 第10回 2002   6月30日
第10回を機として、風呂田先生、船の科学館の小堀課長、そして須賀で東京港水中生物研究会が発足する。

ようやく、東京港水中生物研究会が発足するまでの道のりをたどることができた。


  10月25日の東京湾大感謝祭で、日本水中科学協会・東京港水中生物研究会のタイトルで、いうもお台場で、大きい一眼レフを振り回して、一番長い時間潜っている清水まみ の写真展をやることになった。

「東京港お台場潜水撮影調査 写真展 清水まみ」
まみは写真展ではないと言いますが、立派な写真展です。なぜかと言えば、彼女の主張があり、想いがあるからです。僕は画質の悪い小さな画しか見ていないので、全体の効果は当日でなければ見られません。ただ、キャプションを見た時、ハゼがあえいでいるとか頑張っているとかいう表現が気になりました。僕は東京水産大学で生物の生態学を専攻しました。生き物を擬人化しては、いけないという教育をうけています。だから、ちがうとおもったのです。
しかし、まみが主張、コンセプトを変えませんから、考え直しました。それほどまでにお台場という劣悪な環境で生きる小さな魚やカニたちへの想いがあるならば、その熱い心が写真を通して伝わるならば、見に来ていただいた人たちに、その思いが伝わるならば、素晴らしいことです。ぜひ見に来てください。」


1023 何故東京港に潜るのか。

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 時系列を追って、お台場のダイビングについて書いて行こうとしているのだが、
むずかしい。その中に写真を挟もうとするともう支離滅裂になる。時間が無いので、支離滅裂のまま、並べて行こう。
お台場との付き合い、潜水も、いずれ本にまとめたいと思っているので、準備体操だ。
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   イッカククモガニ 1990年代、沢山居た外来種 今はあまりみない。まみは撮っていないのでは。

今、ブログで追っているテーマは80歳80m潜水とお台場だけど、80mの方は1935年の三浦さんで止まってしまっている。25日が東京湾大感謝祭なので、そのことも書きたいので、お台場に戻っている。一段落したら、80mに因んで、フルフェイスマスクの話にもどる。

なぜ、東京港でダイビングをするのか?
時系列は前後してしまうが
 サンデー毎日:2002年7月14日号、「雨の日・東京湾大腸菌汚染、晴天時の1000倍、それでもウインドサーフィン、水遊びができますか?専門家が緊急警告」という記事が掲載された。この記事については、機会があれば論じたいが、そんな東京湾、しかもその湾奥の、大腸菌汚染の中心のようなお台場でなぜダイビングをするのか?
雑誌「海洋と生物:1997 4月:特集 東京湾」の風呂田さんの記事(一部)を引用する。
 「東京湾は人為的影響を強く受けている海域であり、それから派生する多くの環境問題を抱えている。海岸部をとりまくように広がっていた干潟は、昭和期以降大規模に行われた埋め立てにより93%が消失した。消失した内湾面積自体もこの埋め立てにより20%も減少した。これに対して、有害な人工化合物質や有機物、無機栄養塩類などの富栄養化物質の流入は増加し、湾環境の劣悪化に拍車をかけている。また、海岸部のほとんどは工業や港湾用地であり、住民の海との日常的な接触が大きく妨げられ、東京湾海岸息に住んでいる意識さえ持てない状況になっている。 * 中略 *
 東京湾岸には、2600万の人が生活し、日本最大の経済活動地でもある。東京湾の環境問題はこれらきわめて大規模な人間活動のもとで生じている。つまり人間活動と環境問題を考えるうえで、東京湾はわが国を代表する空間であり、わが国の環境問題への取り組みにおいて極めて重要な位置にある。これまで、多くの市民や研究者が東京湾の環境保全を訴えてきた。その主張そのものはしだいに社会全体の中に浸透しつつある。しかし、現在でも埋め立ては進行し、排水からのさまざまな物質の流入は続いており、環境は依然悪化の方向にある。この問題の解決に向けては、住民ひとりひとりの行動から、排水管理、そして年や産業用地の構造など、人間社会のあらゆる視野からの検討が必要である。その検討のなかで、環境に関する科学的情報が不可欠なことは言うまでもない。」
 同じ号の海洋と生物のパネルディスカッションの項で、私たちの潜水仲間で、かつて活動していた東京湾潜水探検隊の中心メンバーでもあった工藤孝浩さん(神奈川県水産綜合研究所)が話している。
 「風呂田さんが常々おっしゃっておりますが、海の生物と同じ環境に研究者自身の身をおくということ、これは非常に重要なことだと思っています。実際に海に潜ると、水温の変化や底質の状態ということを全身で感じます。そして、貧酸素化しているような場所では硫化水素臭がマスクやレギュレーターを通しても感じられ、生理的な危険を覚えます。」
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     カレイの稚魚

 ビオトープと言う言葉がもてはやされている。海岸の護岸も、川の岸の堤防も、人間のことだけ考えて作られた。そこに棲む生物のことも考えて護岸や堤防をつくることを言うらしい。もしもそうならば、それを作る人、設計する人は、私たちと一緒に潜ってほしい。
「人間のことを考えると、いくらビオトープをやっても、その水が汚染されていたのでは泳げない、遊べないでは、何にもならない」と、先の「サンデー毎日」の記事は言っている。そのとおりだが、だからと言って、人々が海岸から遠ざかってしまったら、1000年待ってもだめだ。直下型地震による東京壊滅を待たなければ、水は澄まない。一般市民も、お役人も、子供たちも、積極的に水に近づき、水中の生物に親しみながら、生物の住みやすい環境を作って行かなければならない。」これは誰の書いたものかわからない。もしかしたら自分?
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 「東京生まれ東京育ちの私にとって、ふるさとの海は、東京港の海だ。東京港の海に潜ることは楽しい。どんな風に楽しいのか、ダイビング報告を読んでいただけるとわかる。」 これは、須賀が報告書のまえがきに書いたものです。
  
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     ゴミのボール箱にユウレイボヤが生え、メバルの稚魚が集まる。クリーンアップして良いのか?
     きれいにして、小さい魚礁を入れたら?といつも思いつつゴミ拾いをしていました。

 これで、1996年からだとして、今日でもう20年、大腸菌の海に潜っているけれど、なんともない。下痢もしない。もしかしたら、オリンピックのお台場での開催は、僕達を見て大丈夫と思ったのかもしれない。

 これで1990年代は終えて、2000年代に入る。

1024 東京湾 大感謝祭

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 東京湾大感謝祭に出展した。
 当初は僕のテーマである定点撮影と、清水まみの写真展示を予定していたのだが、定点撮影テーマの準備ができず。清水写真展示に丸投げしてしまうような結果になってしまった。
 それでもとにかく東京港水中生物研究会としての、昨年はビデオを映写しての講演を行ったが、今年はこの展示だけである。

展示のためのチラシをつくった。チラシと言っても、印刷代などは予算がないので、プリンターで150枚プリントした。本当は今日、送り届けられたのだが、余裕がなく、今日プリントした。
 明日は、お台場の定期観察撮影日とダブルブッキングになっている。清水だけ午前中に行ってもらって、AM800-1000 で飾り付けをする。10時からお客が入ってくる。
 僕たちは、お台場に行き、0900きっかりに潜水を開始して、1000には
終了して、そのまま横浜に向かう。12時には展示に参加することができるだろう。
 それから、夕方までに来たお客にこの150枚が配れれば、よしということにしよう。

 そのチラシ

  お台場水中撮影

東京港水中生物研究会は 1996年、東京湾潜水探検隊というグループ名で撮影調査を開始して、2002年より、現東邦大学名誉教授 東京湾潜水点検隊隊長当時 風呂田俊夫 :船の科学館 小堀信孝、:全日本潜水連盟理事長当時 須賀次郎で東京港水中生物研究会、現在の姿になりました。2010年より、東京湾生態研究センター NPO 日本水中科学協会が合同して行う現在の姿になり、これまでに125回の調査が行われています。現在は月例 調査結果は、「東京湾生態研究センター」及び「須賀次郎の潜水」のホーム・ページに、発表されています。
 メンバーそれぞれが、活動テーマ、研究テーマをもって潜水しています。例えば尾島智仁は、無脊椎動物の分類、須賀次郎は定点撮影観測の継続、東京湾生態研究センターは、人工砂浜のホンビノス貝の研究など、そのた、いくつかの大学の大学院生がそれぞれ研究テーマを持って参加しています。

 今回の写真展 の清水まみ は、日本水中科学協会会員として、大きな一眼レフカメラを持って、ハゼの類と同じ気持で撮影を重ねています。その生き物の気持が見ていただく方に伝われば、カメラマンとして、さらに歩を進めることになります。ぜひ、応援してください。
雑誌「海洋と生物:1997 4月:特集 東京湾」東京湾潜水探検隊の中心メンバーでもあった工藤孝浩さん(神奈川県水産綜合研究所)が話している。「風呂田さんが常々おっしゃっておりますが、海の生物と同じ環境に研究者自身の身をおくということ、これは非常に重要なことだと思っています。」
これで、1996年から、20年、大腸菌の海と言われるお台場に潜っているけれど、なんともない。下痢もしない。次第に泳ぐスポーツがお台場で行われるようになった。
 「東京生まれ東京育ちの私にとって、ふるさとの海は、東京港の海だ。東京港の海に潜ることは楽しい。どんな風に楽しいのか、ダイビング報告を読んでいただけるとわかる。」 これは、須賀次郎が報告書のまえがきに書いたものです。また、ブログ「スガジロウのどこまでも潜る」に潜った毎回の記録を書いています。全体として、ラインは成功だった。透視度は50cmから1m、GoProでなめるように撮影した。撮影幅でハゼも撮影できた。記録として使える。ランドマークとしても、45m地点から下ったところに、コンクリートブロックがあるとか、80mから下ったところに、沈木がある、とか、尾島さんが知らせてくれた。これまでも、感覚的に知っていたことではあるが、場所を数字で言える。メートルのタグを22mm幅のテプラで作ったが、白地に黒の字は反射してしまってだめだ。黒字に白の字はくっきりと写る。 aa 
 潜り続けること、定点で撮影を継続すること、なによりも大事なことだと思うのです。今年からは、定点を明確にして定量的な調査になるような態勢を作ります。 」

ここまでがチラシ

 ところで、僕の定点撮影とは、?
前回の9月にやってみたのだが、80mの鉛ロープ引いて、ロープに沿った撮影をする、ワイドなGoProだから、巾80cmぐらいの帯が撮影できる。そのほかに、ロープの40mから沖側には、土管があるとか。80mの沖側には沈木があるとか、65mロープの下に土管があるとか、対象物があるので、これを毎回丁寧に観察撮影する。これらで、撮れた魚種、数、大きさを記録しておく。この連続、積み重ねで、データーが出来る
 もう自分は後何回、何年、できるのかわからないが、方法だけ確立すれば、その継続が出来る。継続こそは力だ。もうあとこれから20年できれば、と思うと、過去の20年を無駄とは言わないが、このような方式を確立して置かなかったことが悔やまれる。
9月30日のブログを見ると
全体として、ラインは成功だった。透視度は50cmから1m、GoProでなめるように撮影した。撮影幅でハゼも撮影できた。記録として使える。ランドマークとしても、45m地点から下ったところに、コンクリートブロックがあるとか、80mから下ったところに、沈木がある、とか、尾島さんが知らせてくれた。これまでも、感覚的に知っていたことではあるが、場所を数字で言える。メートルのタグを22mm幅のテプラで作ったが、白地に黒の字は反射してしまってだめだ。黒字に白の字はくっきりと写る。
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   水底近くではよく見える。
ラインを曳くと、透視度がよくわかる。感覚では透視度50cm-1mというが、もっと先まで、底ではみえていることがわかる。

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    ラインからちょっと右を見ると沢山みえる。これは、横を向いた地点でカウントしよう。
 チチブがめだって多く、マハゼも多い。多い、少ないと言うのも感覚だが、それ以外に表現がない。8月よりはめっきり少なくなっている?
ラインの巾で撮影して、出現する数を数えると数値になる。

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    65mの位置の土管?

 まだ、ライン上の魚の種類と数を数えていないのだが、画像で残っているから、暇を見て数えよう。

1026 お台場のハゼ

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 三浦定之助の「おさかな談義」を読んでいる。かなり厚い本なので、寝る時の本に良い。面白いけれど、寝るのを忘れて読む、というようなことはない。いいタイミングで寝られる。あと四分の一ほどだ。戦前1930年台の日本の漁業のこと、魚のこと、魚のことは、潜水士て見たりしたことも、挟んでいる。もちろんスクーバではなくて、マスク式がヘルメット式の潜水だ。魚について、それぞれの習性など知らなかったなあ、ということが次々と出てくる。多分、水産屋さんには常識なのだろうが、ぼくは、よく知らなかった。例えば、ニシンが深海魚で、産卵の時に岸に寄せてくる。魚の深浅回遊について、知らないことが多い。
1995年の再刊で、三浦先輩は1961年に亡くなっている。亡くなってから30余年後の再刊だ。僕の本が、死んでから30年後に再刊される望みは全く無い。なんとか、そんな本を書きたいとおもうけど、不可能に近い。来年か再来年、東京港水中生物研究会の本を、風呂田と一緒に書きたいという話を昨日打ち合わせたが、これも、死んでからの再刊は、無いだろう。
 それでも、おさかなについて、お台場のさかなについて、書けるだろうか、とても無理だ。
 魚のこと、知らなすぎる。そして今、名前を教えてもらってもすぐに忘れる。
お台場で、春先から夏にかけての、ウロハゼとアゴハゼの区別がつかなかったり、ドロメの稚魚をウキゴリだとおもったり。
 お台場にいるハゼは、マハゼ、アカスジシマハゼ、チチブ、ウロハゼ、アゴハゼ、ドロメ、ぐらいかな。マハゼとウロハゼの区別もつきにくい。昨日25日、マハゼの穴にいたのは、ウロハゼだろうと思うけど、撮って居るときは、マハゼの色が一ヶ月でこんなに変わったのかと思ったりした。ウロハゼがマハゼに取って代わったとすると、マハゼはどこに行ったのだろう。もう、深場に下ったのか?
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   ウロハゼだろうと思う。
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   これは間違いなくマハゼ 5月の撮影だ。
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    では、これはウロハゼかマハゼか?
  ハゼの色は信頼できない。
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   これはアカオビシマハゼ
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    アカオビシマハゼの変身 これはアカオビだとはっきりわかる。
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    次の瞬間
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 お台場の魚について参考にするのは、「魚ッチング・ヨコハマ 海の公園の魚介類」これにはウロハゼが載っていない。ヨコハマ、野島のあたりにはウロハゼはいないのか、坂本さんに今度聞いてみよう。
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 はっと思って、僕達の観察リスト 2002-2004 を見てみた。
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   やはり、ウロハゼがリストに載っていない。そのころウロハゼはいなかったのか?
   そういえば、今普通に見ているシマイサキ の稚魚もリストにない。
   僕がシマイサキを最初に見た、とおもっているのh2012年だ。

  定点で撮影調査をする意味が あるのがわかってもらえるとおもう。しかし、種類の区別が見ただけではわかりにくいのが困った。 専門家に写真を見せて、聞いてみよう。
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さて、その「お魚談義」にもどって、「鰻について、鰻が川を遡上するのはメスだけで、雄は遡上しないで、河口付近にとどまっている。」ええつ、知らなかった。水産大学では鰻の実習があり、鰻に電気ショックを与えて硬直させ、針よりも細い血管に針を通して、血液を採り、寄生虫がいないか顕微鏡観察する実習までやったけど、そんなこと習わなかった。嘘だろうと、ネットで調べて、ウィキペディアにはそんなことは載っていなかったが、さらに調べたら、雄は途中までしか遡らないことが多いと書いてあった。そういえば、お台場で鰻を見たことが、僕ではなくて、風呂田先生だが見ている。雄の鰻は都市汚染で、もっと上流までのぼって居るのかもしれない。そもそも、江戸前の鰻は、今、隅田川、江戸川、荒川を遡上しているのだろうか。多摩川は登っているのだろう。 やはり、日本の鰻は絶滅危惧だろう。
 一方で、吉野家ではうな丼、麦とろに鰻皿を付けて800円とか、中国の養殖だろうが、危ないとか大丈夫とか聞く。僕は大丈夫でなくても食べるけど。

 こんなことでは、僕の「おさかな談義」は、かけそうにないな。

1028 ワークショップとシンポジウム

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 今日、10月28日、JAUSのワークショップをやる。
 ダイブウエイズの武田社長を呼んで、フルフェイスマスクの話と、汎用のマスクの話をする。何度もこのブログにその両方の事を書いているので、読んでいただいている方にはお分かりになると思うのですが、振り返って見ると、僕の潜水人生のキーワードはフルフェイスマスクだったかもしれない。
 日本に前からあったマスク式とフルフェイスマスクとは同じ意味だし、区別はないが、デマンドバルブを取り付けたものがフルフェイスマスクで、ただ空気を送るだけおマスクをマスク式と呼ぶのかなとおもっている。
 そのフルフェイスマスクに、143年に生まれたアクアラングのレギュレーターを取り付けて潜ったのは、日本では僕が最初だったと思う。世界では、ハイドロパックというマスクとレギュレーターが一体化したハイテクのマスクがあったが、高価であり日本には一台か二台輸入されただけだったと思う。
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 それを見せられた時は、到底こんな精密なものは、僕には作れないと思った。
 単純にマスク式にレギュレーターのマウスピース部分を取り付けただけの手製のフルフェイスマスクを作って1963年、館石さんとともに、館石さんは5本束ねたタンクを背負って、スクーバで潜った。
 そのとき、僕のホース系統にトラブルがあり、危うく一命を落とすところだった。
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 減圧症、も窒素酔も、水面とホースで繋がっていれば、あるいは命綱をつけていれば、生命を落とすようなことはない。再圧タンクに入ればいいだけのことだ。窒素酔については、これも命綱を付けて置き、意識を失ったら水面に引き上げれば、60mぐらいで意識はもどり、水面にもどれば、何の後遺症もない。
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 館石さんの5本組スクーバの方が安全度が高いと思った。その後、世界では、ホースでの送気に加えて、7背中にタンクを背負い、これを呼吸して脱出する。いわゆるベイルアウトタンクが、普通になったが、僕は、送気する空気源を、水中に持って入ってしまおうと、図のような方式を考えた。これはポンプを水中に持ち込んで、高価なヘリウムを捨てないで循環させる。いわゆるプッシュプルというというシステムのこれも嚆矢だったと思うが、実力が無いために実現せず。JAMSTECなどで実験されたが、実用には至っていない。
 解決方法はすごく簡単で、館石さんの背負っていたタンクを背中から降ろして、自分はホースだけで自由になれば、良いだけ、通話用のケーブルはそのまま残して、水面との連絡を絶たなければ良い。
その通話ケーブルをどのようなものにするかが改善のポイントだろう。
 しかし、1970年代は、まだBCがなかったので、5本組を中性浮力で浮かせておこうという考えに至らなかった。
 
シンポジウムのプログラムに次のようなことを書いた。
「ハイブリッドダイビングシステムについて。
 自分の60年の潜水生活を振り返って、キーワードはサーフェスコンタクト、水面との連携、通話できる有線ケーブルを命綱にしての潜水です。 1963年の90m潜水で、水面からの空気供給のトラブルで危機一髪だったことから、水中にガス供給の設備を持ち込む事を考えて、コンセプトシートを書きました。それは、ポンプを水中に持ち込んでの、いわゆるプッシュプルだったのですが、実現せず、今に至っています。
 1980年には釜石湾口防波堤調査工事で、混合ガスを使った船上減圧のシステム潜水を行いました。
 そして、1986年より、フルフェイスマスクを使用する、須賀潮美の水中レポート番組を始めました。20年近く続いたのですが、有線通話ケーブルが無ければ、死んだ、と思うことが2回ありました。人間は一度死ねば終わりです。
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 この放送の末期ですが、函館噴火湾の調査で、若い社員が一人で減圧停止中に死亡しました。通話機を使わなかったため、一人になったための事故でした。それで、バランス感覚を失った自分は、ケーブルダイビングシステムという有線通話装置を売る会社を設立し、失敗して倒産し、周囲に迷惑を掛けました。
 しかし、ダイビング事故の90%は、水面とコンタクトがあり危急の際に引き揚げることができていれば、死なずに済んでいます。
 2010年にサイエンスダイビングの安全を目指して、日本水中科学協会を設立しました。もちろん、サイエンスだけではなく、工事のプロもレクリエーションも同じように安全が第一です。
 そして、今回展示するのは、SSI 株式会社のアルミタンクをていようしてもらい、ダイブウエイズで艤装をお願いして、製作したシステムです。この後、東亜潜水機、株式会社ゼロにテスト潜水の協力をお願いしていますが、みなさまの応援を更にお願いしたく展示と発表を行います。
此処から先の有効さの説明、テストの詳細などは、当日の発表でしたいと思います。まずは、おいで頂く応援から、よろしくお願い致します。」
 
シンポジウムのプログラムは次の通りを予定している。
日時 2015年 12月13日 日曜日
場所 東京海洋大学品川キャンパス 楽水会館
受付 開場 AM 10時 
会費、一般 2000円、会員 1000円 学生 無料

プログラム
発表は楽水会館の大スクリーンを使って、動画を多く
ビジュアルに展開し、映画を見に行くような、楽しさを重視します。
発表は楽水会館の大スクリーンを使って、動画を多く
ビジュアルに展開し、映画を見に行くような、楽しさを重視します。
①1000-1100 展示の閲覧、説明
 器材 ハイブリッドダイビングシステム
 ポスター 写真 など
②1100-1200
  ワークショップの発表から、フルフェイスマスクについて、展示機材と関連付けて ハイブリッドダイビングシステムについて説明する。 須賀・武田
  映像 「命綱を降ろせ」1963年の実験潜水記録」
③1200-1300 昼休み
④1300-1400
 スノーケリングとスキンダイビングの生理学的安全について
  東京海洋大学 准教授 藤本浩一
 スノーケリングとスキンダイビングの生理学的安全について
  ( 2015年に刊行した「スキンダイビング・セーフティ」 当日会場でも販売致します。
⑤ 1400-1500
  水中撮影調査研究会の波佐間調査中間発表
  インターバル撮影手法の紹介。
  映像紹介 ビデオ山本、インターバルスチルは須賀
  撮影機器、画質等について(福田)
⑥ 1500-1520 休憩
⑦ 1520-1620520-1620
④映像作品 
ⅰ 斉藤真由美
ⅱ 福田克之
ⅲ 中川隆 
ⅳ グラフィティ映像 後藤道夫追悼
   「まちゃあき海を行く」
⑧隣の学生ホールで懇親会 会費500円

1029 ワークショップ

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28日 
 マスクワークショップ
 一つのテーマはフルフェイスマスクであり、これは昨日に書いた。
 実際にもこの通りの事を話した。
 ダイブウエイズのフルフェイスマスクは、映画やテレビ番組用としては、世界的に評価が高く、1000個以上売れているという。僕は作業用のもう少しシンプルなものを要求した。技術的には容易いが、売れるかどうか?僕は売れるといい。フルフェイスマスクならば、ダイブウエイズという評価が更に高まれば、需要はある。何しろ、潜水作業といえば、今はフルフェイスマスクの時代なのだから。
 もう一つのテーマ、汎用マスクについては苦労した。マスクをメーカーが持ってきて、宣伝するだけでは、ワークショップにならない。別の視点からの話をディベートしなければ、面白くない。しかし、反論すればお願いしたゲストの機嫌を損ねてしまう。
 ダイブウエイズの武田社長は、本当に古くからの親友で、僕は少額ながらダイブウエイズの株主でもある。そして、彼は日本人離れしたところもあるから、大丈夫か?
 とにかくやってみることにした。
 苦労したのだが、他のプロジェクト、東京湾大感謝祭などに関わっていて、告知する余裕がなく、まるで人が集まりそうになかった。集まらなくても良い。尾のイベントをやったという事実を告知すれば、良いと割りきって、フェイスブックやブログに精一杯書いた。
 このイベント、最大で30人まで、20人集まれば良しとするもので、20人ぐらいが、実物に触ったり、話しあったりする後半の21-22時が楽しみである。
 目標の20名には達しなかったが、中川隆が来てくれたり、河合先生も来てくれて、18名、まずまず形がつくところまで漕ぎ着けた。
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 今、ダイブウエイズの売り出しているのはアイアイで、これは武田さんが心血を注いだ、チャレンジで、マスク設計の総決算でもある。
 アイアイは、ゲージで顔を測定して、その人の顔に合わせる。顔に合わせる13通りのパターンがある。
 フィンとかは、状況に応じて、何種類かを使い分ける事があっていいし、だれでもそうしている。マスクは顔に合う、合わないがあり、水漏れは、マスククリアーでは間に合わないから、慎重に選んで、大事にしなければならない。
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 僕が対抗に持ちだしたのは、この頃愛用しているスーパーワイドⅡ これも武田さんの設計である。僕がこのマスクを使い出したのは最近で、アイアイは理想的なマスクではあるけれど、単眼ではないので、眼の前方を遮る、鼻の前の柱がある。これは僕が提案して、取り去って一眼になっている。しかし、それでも眼を下に向けると鼻の前の異物が見えてしまう。気にしなければ、気にならない程度の障害物だが、障害物はある。単眼のスーパーワイドはなにもないので晴れやかである。
 スーパーワイドは少し重くて、ストラップをキリリと締めないと決まらない。ところが、このストラップをキリリと締めるのが、気持ちが良い。水中でも締めますことができる。そして、きつく締めすぎるをちょうどいいところまでストラップが緩む。だから、顔あたりも具合が良くて、痛くならない。こんな具合の良い、締具を作るのは、やはりマスク設計の第一人者である。武田さんならではと思っていた。
 一方で、マスクは締め付けて使うものではない。ストラップを締め付けないで、洩らないマスクが良いとされていて、僕もそのように教えていた。その視点から見るとアイアイは最高のマスクであり、スーパーワイドは良いマスクではない。
 しかし、僕はこの頃は、ストラップをきりりと締めることに嵌っている。鉢巻を締め直す感覚、それに、アクションの時にぶらつかないので安心感がある。

 スタンダードはアイアイの方向である。
 ディベートで結論がでるものではない。感覚であり好き好きなのだ。
 中川は、僕の方向は、少数派であり、しかも知らない人が多いから商売にならない。儲からないという。これも正論である。
 アイアイは、オーダーメードの感覚がある。ダイビングショップで寸法をとってもらって誂えるというのは、アドバンテージがある。

 勿論結論は出ないのだが、僕の意見を採って、スーパーワイドが良いという人は、僕以外に約一名だった。
 スーパーワイドは売れないので、製作打ち切りになっていて、カタログにも載っていない。
 そういえば、スーパーワイドもカメラマンは単眼が欲しいと話して、作ったもので、武田さんに二個もらって試してみた。その時は、キリリと締める使い方に思いが及ばず、これはダメだと放り出していた。ある時、やはり、単眼が欲しいと幾つかのマスクを試してみた時に、鉢巻を締める感覚で締めてみて、気分が良くて、水が洩らない。洩ったら締めれば良い。しかし、このストラップの締具は、武田さんが意図したものではなく、そういう広告(カタログ)の記述もなく、終わってしまった。
 大部分の人が、武田さんの意見に同調してくれて、彼のオーダーメード論もセールストークとして説得力があり、僕の意見は、個性的であった。
 なお、アイアイは、僕の希望で、フレームの上縁に、ライトとGoProを着けるプレートを着けるオプションもあり、フレームもカラフルになっている。

 僕のスーパーワイドを復活させるように話したが、自分としては、別に復活しなくても良い。2個持っているので死ぬまで間に合うだろう。また発売していないということで、レアになる。スーパーワイド持っている人,は、大事にしておくことを薦める。買って使ってみたい人は諦める他ない。レアになったのだ。

 なお、アイアイのデザインは精悍なイメージで好きだ。しかし、名前は気に入らない。シーホークとか、海鷹が似合っている。ネイミングについてのディベートをすること、忘れていた。
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    プレートを付けた、アイアイ
 

1030 命綱を降ろせ

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 ワークショップで、「命綱を降ろせ」1963年、僕が100m潜水を目ざし、90mで挫折し、引き返した時のテレビ番組だ。そのタイトル部分だけ2分程を流した。
 12月13日のシンポジウムでは、全編を上映する。その時、生命を失いかけたが、それは減圧症ではなく、窒素酔いでもなかった。減圧症は再圧タンクに入れれば治るし。窒素酔いは、引き上げれば、けろりとなおる。後遺症もない。ただし、これらは命綱あってのことだ。気を失う前に「揚げてください!」と絶叫すれば、引き上げてくれる。命綱が頼りだ。 ただ空気が無くなれば、絶叫してもダメだ。再圧タンクに入れても治らない。
 実はその時、船上ではコンプレッサーの動力ベルトがスリップし、予備の高圧タンクに切り替えたら、圧力変化で、真夏の熱い日射しに過熱されていたホースが膨れ上がった。水を掛け、手で抑えて、圧力を下げた。空気圧が低くなり、また絶叫した。「空気を増やしてください。」修羅場だったが、なんとか生きた。
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 その時の相棒の館石さんは、タンクを5本束ねて背負っていったので、こんなトラブルはなかった。ただ、長い減圧停止の時に、空気が心配になった。重い、五本組のタンクを降ろして、軽いタンクに変えてもらった。
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 この潜水が、僕の潜水の第二の原体験、つまり、生命を落としそうになり、ラッキーで助かった二度目の修羅場ということだ。もう後、2回ほどあるのだが、そのどれもが命綱で助かっている。命綱がなければ、4回の危機一髪で全部が助かったとは思えないので、一度は死んでいるだろう。
僕にとっても、そしてプロのダイバーの誰にとっても命綱は、生き綱、生きるための綱なのだ。しばらく前に大分県で、窒素酔いだかなんだかで3人のダイバーが同時に死んだ。みんな、いろいろ言っているけど、僕は命綱があれば、全員助かったと思っている。今も思えば、「命綱を降ろせ」は、そういうことを知らせる番組だったのだ。
 僕の頭のなかにあるタイトルは「100m、決死の冒険」のようなものだったが、この番組の監督の竹山さんは鋭い人で、「命綱を降ろせ」にした。さらに「命綱を揚げろ」では先に進む意志が無くなる。ということだった。

 命綱をどういう形で使うか、呼吸ガスが無くならないように、どうしたらよいのか。
 それが僕のテーマで、今度の12月13日のシンポジウムではその発表をする。

 もう一つ、本当は何を書こうとしていたかというと、この「命綱を降ろせ」に出てくるひとの大半は世を去っている。親しい、重要なスタッフのほぼ90%が生きていない。ダイビングで死んだ人は一人もいない。
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 1963年に次ぐ、次の潜水のコンセプトシートを書いてくれた、杉江秀一くんもこの世の人ではない。
 今度のシステムはこれとはまるで違う形になるが、命綱があること、空気の供給源を水中に持っていくという基本コンセプトは変わらない。
 杉江君の会社は尾久にあって、プレス工場だった。その前、お父さんはカメラ屋さんで「ミハマシックス」という蛇腹式のぶろーにー6x6のカメラを作っていた。僕が杉江君と付き合いだした頃は、もうカメラはやっていなかった。
 付け足せば、杉江くんは芝浦工大の卒業生だった。
 
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 このマークも杉江くんが書いてくれた。
 1988年、アアク・ファイブ・テレビ 潮美のニュース・ステーションをやるために作った会社だ。

1103 命綱 ⅰ

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命綱について、①

 日本にアクアラングが正式に入って来たのが、1953年、これは天皇陛下がご覧になったというニュースが新聞に出ているので、これを正式としたが、実際にはもっと前に持ってきたアメリカ兵などが居るかもしれない。
 そして、その翌年の1954年に水産大学の小湊実習場で学生の潜水実習中に事故が発生して、学生二人が亡くなる。
 この事故のことは、ニッポン潜水グラフィティに書いた。謎が多い事故ではある。
 よくぞ、潜水実習が再開できたと思うのだが、恩師の宇野先生が頑張って、56年から再開した。その時に、実習生に命綱を付けさせた。鵜飼の綱のような命綱で、僕の願いは、なんとかして命綱が無くなれば良い。命綱は嫌だ。クストーの映画を見ても、だれも命綱など着けていない。魚のように自由に泳いでいる。
 その願いがかなったのか、僕達の代、1957年の潜水実習は、命綱が無く、喜んだ。
 命綱を付けてしまったら、スクーバではない。スクーバは、なんの束縛も受けず、死ぬのも生きるのも自分の責任である。
 だから、遊びのスクーバで事故を起こして、賠償責任を請求するなんて、スポーツダイバーの風上にも置けない。

 ただし、安全管理費がガイド代、インストラクターフィーに含まれている場合には、賠償責任が発生する。そのへんは微妙だけれど、そのことを論じるには、また別の話だ。
 社命、業務命令で潜水する場合は、命令した者(事業者)が、その責任のかなりの部分を負うことになる。管理責任である。レクリエーショナルダイビングと、業務の潜水の 大きな違いなのだが、この区別を未だに理解していない人がいる。


 とにかく、僕たちの実習は、命綱の束縛から逃れることができた。
 命綱の無い潜水実習が大学三年次、そして四年生になり、卒業論文は、伊豆大島の波浮港で、サザエの研究をした。、当時、伊豆大島にはまだ空気充填のできるところが無く。大ボンベに空気を詰めて持って行った。空気はすぐに無くなったので、毎日素潜り、スキンダイビングでサザエのライン調査をやった。7月中はスキンダイビングで潜り、暮らした。おかげで、スキンダイビングで20m程まで,潜れるようになった。
次には、日本橋三越の屋上に大水槽を載せて、ダイビングショウ、と言っても、バディブリージングと水中脱着を見せた。
 だから、僕のダイビングの基礎は、スキンダイビングと水中脱着であった。

 そして、4年生の秋
 僕達の教室、今ではゼミなどと読んでいるが、人工魚礁調査の研究委嘱がきた。僕はサザエが論文のテーマであったので、同じ教室の上島さん(後に日本アクアラングの社長)
が担当することになった。しかし、その頃、ダイビングについては僕の方が先任である。ま
 最初の調査ポイントは、三浦半島の浦賀であり、船を出したのは、鴨居港であった。
 秋も深かったので、水温も低く、当時はまだウエットスーツがない。ネオプレーンスポンジのウエットスーツが日本で作られたのは159年で、これは1958年の出来事である。今頃のダイバーは、ウエットスーツがまずあって、それからドライスーツができたと思っている人が多いかもしれないが、ヘルメット式の潜水服はドライスーツなわけで、ドライスーツが先にあった。

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     ドライスーツ コンスタントボリューム型と呼んでいて、頭の部分も全部完全に覆ってしまう
     マウスピースはスーツの中に突出していて、前のガラスを締めると密閉されて、外の空気は吸えな       い。スクイーズを感じたら、スーツの中に空気を吐き出す。スーツの内圧が高くなれば、頭の部分の      弁、足に着けた弁から余分な分は排出されて、中の圧力は外とバランスする。
     コンスタントボリュームである。これを着た。


 ヘルメット式のドライスーツでは、ゴワゴワで、スクーバで泳ぐことなどできない。薄い柔らかいゴム布で作ったドライスーツを、それも、お金のない教室では買えないので借りてきた。このドライスーツは、海底で膝を突いたりして、そこに鋭いカメノテなどがあると破れてしまう。
 そのドライスーツを着るのは二度目で、一回目は、プールで着ただけだった。昔のことなので、時系列がボケているが、とにかく、海で深くドライスーツで潜るのはこれが初めてだった。
 そう、深く、30m潜るのもこれが初めてだった。そして、借りてくるドライスーツは一着しかない。だから、一人で潜水する。生まれて初めての30m、慣れないドライスーツ。それこそ、命綱をつけるべきだったかもしれない。しかし、スクーバダイバーは、命綱を着けると、それが絡んだりして拘束されるのが恐ろしい。事実、命綱が絡んで危なかったこともある。
 
 魚探で人工魚礁の位置を確認して、そこにアンカーを落とす。アンカーロープをダグって行けば魚礁にぶつかるはずだ。

 ドライスーツで少し浮き気味だったので、ヘッドファーストで、ロープを手繰って潜降する。透視度は10mほどで、このあたりとしては悪くないのだろう。
 頭を下にして、アンカーロープを腹がこするような形で、潜っていく。実はロープの下に魚礁があったのだが、ドライスーツの下方視界が悪く、真上を通りすぎてしまう。

 ★☆

1105 命綱 2

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 ブログ、延々と続く話を書き初めてしまった。別の話題で中断することなく、それは別立てにして、延々と続けていこう。延々と続くほうのタイトルは「命綱」だ。どうか続けて読んでください。

 前を向いて、下が見えずに錨に到着した。その時に後ろを振り返って進めば、魚礁はすぐに見つかったはずだが、手に持っていた細いロープをアンカーに結んで、そのまま前方にロープを伸ばしながら進んだ。魚礁は見つからない。そんなはずはない。魚探で魚礁の形を確認して居る。ロープを海底にこするようにして左に旋回する。魚礁があれば、引っかかるはずだ。
 当時は、残圧計などというものは無い。時計もない。今の良いレギュレーターは、最後まで、同じ呼吸ができるが、その頃のレギュレーターは、空気の残圧が少なくなると、呼吸の抵抗が増す。その呼吸抵抗と時間の感覚で浮上を決める。リザーブバルブという残圧を知らせる装置もあったが、貧乏な僕達の使っているボンベは、消火器改造型で、リザーブバルブはついていない。水深30mではそんなに長くは空気がもたない。そろそろだなと思って引き返した。引き返して錨綱を水面に向かって手繰る。降りる時と全く逆のむきになる。少し進むと真下に魚礁が見えた。
そのまま浮上を続ければ、何事もなかった。しかし、今のようにすぐにタンクに空気が充填できるわけではない。充填したボンベを木枠にいれて、送ったものだ。僕達にはまだ車というものがない。電車で来た。
 タンクはこれだけしか持ってきていない。これで、なにもしないで、浮き上がるわけには行かない。ロープの下の魚礁に降りた。
メバルとソイの類がいた。写真を数枚撮った。その時魚礁に膝を突いた。これで、ドライスーツに穴が開いたらしく冷たい水が足に入ってきた。
空気が次第に渋くなってきた。浮上しようとすると足に水が入っていて、浮力を失ってしまっていて、浮かない。フィンで蹴っても、水で膨張しているスーツで満足に蹴れない。なんとか錨綱までたどりついて、この綱を手繰った。
 手繰り始めて、空気は完全に無くなって、吸っても来ない。死に物狂い手繰る。浮上速度だとか、息を吐き出しながら上がる、とか、そういう段階ではない。生物として、死ぬのを拒否している。ロープを手繰るのだが、片手には高価な理研のカメラ、未だニコノスが出ない前に、国産で使えるただ一つのカメラで、20万とか、40万とか言われている。今の40万ではない。次の年、卒業した僕が東亜潜水機に入った初任給が9800円だった。9万8千ではない。9千8百円だ。死んでもこのカメラを手放すわけには行かない。
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     理化学研究所が作ったカメラ、中にはトプコンという。スプリングモーター巻き上げのカメラが入っていて、先進的なメカニズムだった。


 死ぬ寸前、窒息する寸前に水面に顔をだした。
 しかし、ドライスーツマスクのガラスを外してもらわなければ、外の空気は吸えない。船に引き上げられてガラスをとってもらった。
 
 もしもこの時に頭上に錨ロープがなかったならば、助かっていない。先生は命綱を付けておけばよかったと思ったに違いない。

 そして、僕は東京水産大学を卒業して、東亜潜水機に入る。
 そして、「命綱を降ろせ」の100m潜水をやらせてもらう。

 東亞潜水機をお世話になったにも関わらず、やめることになり、カメラのハウジングを作ったりしていたが、人工魚礁の調査でなんとか食いつないだ。
 その人工魚礁調査でテレビの撮影でライトが必要だ。今は明るいバッテリーライトが各種売られているが、そのころはバッテリーライトといえば、乾電池の懐中電灯のようなもので、とても撮影には使えない。船の上で発電機を回して、1キロワットの有線ライトを使っていた。そのライトを持つアシスタントが必要だった。そのころのスガマリンメカニックの出資者で幼なじみの鈴木博が人工魚礁調査を経験したいという。かれは、日本スキューバ潜水という会社をやっている。今は二代目で立派になっている。
 茨城県水産試験場の仕事で「ときわ」という試験場の船で沖にでた。これも30m近い深度で、僕がカメラを構え、鈴木博がライトマンで撮影した。撮影に熱中していると、肩を叩かれた。振り返ると、空気が無いという。もっと前に知らせてくれると良いのに、後で聞けば、撮影しているから、空気が無くなるまでがまんしたという。そんなバカな!、マウスピースを渡した。バディブリージンングである。二回呼吸したら返してくれることになっている。しかし、返してくれない。無理に取り上げると溺れそうだ。ためらうこと無く、僕はマウスピースを戻してもらうことを諦め、彼を抱えて、ライトケーブルをたぐって浮上した。水面にでたときは自分も瀕死状態だった。
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    人工魚礁撮影調査、これは、もう少し後の写真だが、ライトのスタイルは同じだ。


 バディブリージングでマウスピースが戻ってこないことはよくあった話で、そのためにオクトパスができたのだが、ダブルホースではオクトパスは付けられない。そのためにダブルホースが無くなったともいえる。呼吸そのものとか、気泡がマスクの前にでないということではダブルホースの方が優れていたのだが、残圧計も付けられないということで、ダブルは消滅した。
 有線ライトケーブルのおかげで助かったと僕は思った。その後は有線ライトを意識して使うようになった。有線ライトを使うためには、ケーブルを操作するアシスタントが必須になる。つまりバディが必須になり助け合うことができる。
 現、海洋リサーチの社長である高橋くんもスガマリンメカニック出身だが、彼と、これも茨城で潜っているときに、急潮に出会って、有線ライトの線が切れるかと思うほど引っ張られたが流されなかった。

1106 命綱③ システム潜水。

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 1980 釜石湾港防波堤調査工事で、水深60-70mへヘリウム酸素の混合ガス、システム潜水を行った。システム潜水とは飽和潜水のことという考え方もあるが、自分としては、①複室のある再圧タンクが船上においてあり、船上減圧する。②混合ガスを使用するので、③大量のガス容器を束ねたカードルが船上に準備されていること。④ホースとフルフェイスマスクでもぐり、船上と常に通話がつながっていること、と考えている。
 参考までにテクニカルダイビングの定義をいうと、まず、①スクーバであること、スクーバとは送気、船上との連絡が無くて、拘束されることなく、自由に動くことが出来ることである。②混合ガスを使用して深く潜ること。

 1980年、民間の会社がシステム潜水をすることは、稀で、アジア海洋が何回か行っていて、トップ水準だった。アジア海洋の社長、柳井さんは、古い親友だけど。
 もちろん僕としては初めてのことで、海洋科学技術センター(現在のJAMSTEC)に応援をたのみ、米倉くんがきてくれた。トップコントローラーには、同じく、田淵くんにきてもらった。これは、三宅玄臓さんがJAMSTECにいて、お世話になったのだが、そのころは、まだ三宅さんとは面識がなかった。
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    釜石 船上減圧のタンク
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    小型のガスコントローラー ガスを切り替える。
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     ガスバンク カードルともいう。
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     使用した バンドマスク



 この後で、窒素酔いについて書くが、しっかり、窒素酔いもして、バンドマスクを使ってのサーフェスサプライも、船上減圧も体験し、マスターした。
 バンドマスクは、カービーモーガンのマスクをつかった。これは、アメリカではスタンダードである。エマージェンシーのエアーは、背中に12リットルのボンベを背負って、ホースからの給気のトラブルに対応する。
 ただ、僕はホースを使う潜水に慣れていないために、下手くそで、二人で潜るとホースがよれあったりした。長い工事だったので、終わりには上手になった。

 1982年には岩手県の龍泉洞に NHKの番組撮影のために潜ったが、この時のカメラも長いケーブルを引いているので、出口が迷うことがなかった。鍾乳洞は、透き通り様な透明なのだが、ダイバーの出した気泡が天井にあたったりすると、何万年?もの間にたまった水垢が落ちてきて、突然視界がゼロになる。その頃、秋芳洞に潜っている人たちの同人誌の誌名が「突然視界ゼロ」僕達の前に潜水したグループが突然視界ゼロになり、出口を見失って亡くなってしまっている。彼らもケーブルを引いたカメラで撮影していれば、事故をおこすことはなかった。

 1983年には、福島県、沼沢沼の発電所取水口トンネルの調査をした。このトンネルは長さが400mで、出口は金網で塞がれているので、入り口に戻る他ない。トンネルの径は、およそ3mだが3mのトンネルの中にいると、上下左右はすべて平らな壁に感じられる。どちらが出口だかわからなくなる。トンネルでの事故は、鍾乳洞でも同じだが、命綱を付けないために起きる。

現在のケーブダイビングでは、どちらが出口なのかのマーカーを着けたラインを張り、このラインに沿って移動する。ラインが尽きた先はラインを伸ばしながら進む。
 沼沢沼発電所のトンネルも、撮影のための有線ライトを伸ばし、400mの長さの途中何箇所かに、ライトと電話を着けたラインを敷設した。
 こんなことは、だれでも考える、知っている常識だと思うのだが、時に常識はずれの人がいる。富士の裾野の忍野八海という小さな泉に潜り、その横穴にケーブルもラインもなしで潜って、二人のダイバーが死んだ。ほんの小さい池なのだが、横穴は長くどこまでも続いている。

 1986年、須賀潮美の水中レポートのシリーズがテレビ朝日のニュース・ステーションで始まった。カメラもケーブルで信号を送って船上でモニターするし、水中レポートも有線通話である。この撮影もケーブル、つまり命綱に生命を救われた経験をした。それは与那国島での出来事だった。ポイント名を忘れてしまったが、シュモクザメを追っているとき、突然ダウンカレントに引き込まれた。カメラケーブルがボートを支点にして振り子のように揺れたらしく、何がなんだかわからないうちに水面に吹き上げられた。潮美の通話ケーブルは細いのだが、それでも持ちこたえて、ほぼ同じところに吹き上げられてきた。人によっては、ケーブルが無くても渦に巻き込まれれば、はじき出されてどこかに上がるという。そういうこともあるとは思うが、ずいぶん後になってからだが、NHKの親しくしていたカメラマンの南方さんがミコモトでダウンカレントに引き込まれた。彼はカメラを手からはなさず吹き上げられたが急浮上のためか、空気塞栓で亡くなった。死んでもカメラは離さなかった。良い死に方だとうらやましかった。そのとき一緒だったアシスタントの遺体は揚がらなかった。未だに行方不明だ。そのころにはもう、カメラも進歩してvtr一体型になり、ケーブルはついていなかった。

 ここで少し横道にそれて、窒素酔いについて考えよう。窒素酔いは、命綱があれば、水深60mまでは、初心者でなければ、生命を落とすことはないからだ

1107 命綱 ④ 窒素酔い。

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 窒素酔いとはなんだ。

 窒素酔いについて、まず、高気圧作業安全衛生規則の説明である潜水士テキストを見て 、それを基本にして自分の体験と、そして、どのようにしたら良いのかを考えて行こう。 によれば、
 潜水しテキストによれば、
「潜水深度がふかくなると、空気や、窒素酸素混合ガス潜水では、アルコール飲用時と類 似した症状を呈する。いわゆる窒素酔いの影響が大きくなる。
窒素酔いは症状発現が早く、潜水直後に発現し、潜水深度が浅くなれば軽減する。自信が 増加して、注意力が低下するためスクーバでは、呼吸ガスボンベの圧力低下に気づかず、 エア切れに、陥ることがある。深い潜水ほど窒素酔いは重く、その場合のエア切れは致命 的になることもある。
 注意すべきは、潜水経験を積むと、窒素酔いにかかりにくくなるという錯覚に陥るこお とである。医学的な研究では複数回の潜水によって、」窒素酔いに慣れたという客観的な 証拠は認められていない。深い潜水の経験があるからといって、過信するこおとはきけん である。
 高圧則では、窒素酔いによる危険性を避けるために窒素分圧限界を水深40m以下とす るように定めているが、窒素酔いの程度には個人差が大きいので、制限深度より浅くても 注意が必要である。
 また、飲酒や疲労、大きな作業量、不安なども、窒素酔いの作用を強くするので、注意 がひつようである。」
 誤解を避けるため書いておくが規則に反対するものではない。ただ、作業現場的にはこ の規則によって、規則に従うかぎりは、40m以上の潜水は空気ではできなくなった。そ れは、事実上このままでは40m以上に潜れないことを意味する。

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   後ろに投石が見える。


 まず自分の体験だが、1980年の釜石湾港防波堤調査工事の話をしたので、その続きから 。この工事は60mから、最深で70m弱で、上からガット船で、石を投入する、その石 がどのように積み上げられていくかを測定する調査だった。積み上がった山の上の方は、 50m程度になる。55m程度から上は、ヘリウム酸素を使わないで、空気で潜水した。 これは、ヘリウムが高価であるのとともに、空気の方が減圧時間が短くてすみ、体温のロ スを防げるためだ。
 今回の改正で、こんなことはできなくなった。40m以上だからすべて混合ガスである 。これは、この程度の水深の仕事のコストを大幅に高くする。
 この測量工事は水糸を張り巡らせたりして、かなり細かい作業だったが、空気で別に問 題になるような窒素酔いにかかったダイバーはいなかった。それに、テキストで慣れない と書いてあるが、慣れる。窒素酔いはメンタルな部分がかなりあるので、克服出来る。酔 いは軽減されなかったとしても、その酔いに慣れることができる。錯覚であっても、作業 ができれば良いわけだ。
 工事が終わりに近くなった頃、工事の船が、大きなアンカーを落としてしまって、それ を引き揚げるために鋼索を取り付けて来る作業があった。契約している作業とは別なので 、別料金がいただける。水深は55mほどだったから、空気で潜水した。僕と鶴町の二人 で潜った。アンカーから10mほど離れたところに鋼索が降ろされたので、二人で鋼索を 担いで、アンカーまで持ってきて、取り付けた、その間、5分ほどだったが、激しい労働だ った。二人共意識ははっきりしていたが、アンカーのそばにへたり込んでしまった。フル フェースで電話が通じている、予定した潜水時間は20分だった。作業が終了したのだから 上がれば良いのに、そのままにしている。上からは、10分経過、とか15分経過とか時間を 知らせてくる。そのたびに了解、と答えるのだが上がる意志がない。少しでも早く浮上し ようという思考ができないのだ。船上の指揮者も、こちらからは工事終了の報告をしてい るのだから、上がれという指示を出せばよいのに何も言ってこない。そのまま時間通りに 浮上したが、激しい労働のために、窒素酔になっていた。
 工事が終わる頃、隣の現場で別の工事会社で死亡事故がおこった。物理探査のために爆 薬を仕掛けに潜ったダイバーだった。水深は60m、空気のスクーバで一人でのの潜水だ った。60mにスクーバは危ない。まさしく過信だろう。
 これも、エキストラで僕が引き受けた。大阪のダイバーで僕が一番信頼していた上村く んと呼び戻して、二人で潜った。僕たちはホースでフルフェイスマスクで、空気で潜った 。作業は、すぐに、数分もかからないで終わった。透明度がよく、60mの水深から水面 がはっきりと見える。勿論、船も見える。気持ちが良くて、浮上したくない。もう少しこ
の光景を見ていよう。窒素酔いのもう一つの症状、深海能陶酔だったのだと思う。これは 、自分の意志で、すぐに上がったが、この透水を味わった、感じたことは、ダイバーとし て、幸せだった。

1110 人工魚礁、8日

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 12月13日のシンポジウムの準備でブログを書いている時間がない。
シンポジウムに向けてブログを書きながら考えてきたのだが、ここまで来て行き詰まってしまった。
それでも、何かを書いて行かなければと、スマホで書いて、書くことはなんとか書けたのだが、写真添付してのアップが上手く行かずに消えてしまった。
 窒素酔いの続きを書いていたのだが、消えてしまうと、気落ちしてしまう。もう一つ、ポメラで書いていた原稿も取り出そうとしたら、消えている。これは原因不明であり、ポメラはキーボードでしか使えないのか?SDCに保存して置かなかったのがいけないのかもしれない。

 8日に人工魚礁に行ったので、そのことを書いてあったのだが、読みなおして、書きなおしている時間が無い。

 8日にJAUSの人工魚礁調査、をやったので、人工魚礁のことを少し書こう。 
 人工魚礁の目的は、魚を増やすことだが、同時に魚を獲る、漁具としての効果も考えられていて、こちらのほうが大きい。何れにしても、製作、沈設にお金がかかるのだから、費用対比効果が考えられていなければならない。
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     今回潜った 1番 高さ15m その真中にカメラを沈めた。そのロープが見える。
今回の写真は福田克行くんが撮影したものです。「

 何度も書くのだが、魚はなにもないところには居ない。砂地の魚が微妙だが、それも、例えばヒラメなどは、礁 の付近の砂地に居る。礁 の上にもいる。砂地のマハゼにしても、岩の陰、岩の隙間に入っている。ちょっとした岩でもあるところに集まる。

以前、富戸定置網の日吉さんと親しくお話する機会があったが、富戸のような東伊豆の沿岸では磯根が発達しているので人工魚礁はいらない。館山のような根のないところでは必要だと思うが、と話された、そのとおりだと思う。磯根の上に人工魚礁を置くような馬鹿なことをやらずに、磯根のないところに集中すれば良いのにと僕も思う。しかし、釣り漁業などでは、磯根のあるところでも、岸近くに人工魚礁を入れて成功している例もすくなくない。釣れる場所が近くなれば、効率も良くなる。

僕達が通っている館山市波佐間の人工魚礁群は、著しい成功例だと思う。
もしも、羽左間に人工魚礁が無かったならば、今、高根と呼んでいる神社をおいた根につながる磯の岩の脈、根があるだけだ。これも、いい根だがこれだけでは足りない。
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 この地域に人工魚礁の沈設が行われた歴史は昭和56年からで、そのときに沈設された、小さい0。8 角で、ここにも、タマカイという巨大魚がきた。昭和58年には、タイヤ魚礁が沈設された。この頃は、タイヤ魚礁が廃物利用として、全国で盛んに沈設されたが、タイヤの成分が海に悪影響がある可能性があるということで、中止になった。平成10年には2.0mの角ブロックが沈められ、これをきちんと積み直して、ドリーム魚礁と呼ぶ、人気スポットになっている。ソフトコーラルが美しい。
ヘイセイ20年から、この地域に防衛予算として、多くの魚礁群が館山から坂田にいたるまで、数多く沈設され、これが、日本の沿岸で魚礁がまとめて沈設された、最後のプロジェクトだったと思う。それ以後の魚礁は、さらに沖合の超大型人工礁 に中心が写っているようだ。
平成20年から、23年に沈設された魚礁は、大型でコンクリートブロックは3m角、6m角である。更に沖に鋼鉄製が、5基沈設され、そのうちのいちばん沖の、、1番と呼ばれる、高さ15mの一番高い魚礁に今回は潜水した。
昔、1980年代に、どの形が一番良いのか各種を比較する実験が神奈川県大磯で行われ、スガマリンメカニックが調査を担当したが、要は容積あたりの価格と、コンクリートが良いのか鉄鋼が良いのかであろう。ここ波佐間では、水深別の各種魚礁が比較して洩られる。深さが深くなればそれに比例して、高さが求められ、高い魚礁が作りやすい鋼製が中心になった。だんだん、浅くなると高さは低く、広がりが大きい魚礁群になっている。
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この殆どすべてにインターバルカメラによる撮影調査を行ってきたが、高さの高い魚礁の調査にこの手法は適しているようだ。

 今回、8日の調査では、8個のインターバルカメラを沈めたが、人工魚礁の位置を確かめず、人工魚礁があると思われた場所に入れた。沖の魚礁の目標ブイは、すぐに切れたり沈んだりしてしまう。荒川さんなどはすぐに潜って探しに行くが、潜水回数が増えるので、あまり煩わせたくない。小さな魚探を使っているが、今回は、魚礁から離れたところに魚が回ってくるのが撮れるのではとだいたいの位置に投入した。一個だけを正確に魚礁の中に入れた。
 今回は、回遊性の魚が現れなかったこともあって、離れたカメラ、離れたといってもダイバーの持つライトが見える程度の距離であったが、まったく魚が写らない。つまり20mもはなれたら、魚はいないということだ。
 岸近くの魚礁は、距離が狭いので、連携があって、魚礁の中間でも魚が写るが、沖の鉄鋼魚礁は互いの間隔が離れていて、間では魚が写らない。9月の調査では、移動するブリの群が、写ったので今回もお期待したがだめだった。ブリは今、穫れていないはずだ。
 実は、このようなことは、昔からわかっていることではあるが、それが確認できた。
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     今度の調査では、小さい稚魚がほとんどだった。
 
 このような魚礁群が、羽左間と同様に、板田、西崎、見物、塩見、香、と岸から沖に向かって短冊のような漁業権区域にそれぞれ沈設されている。これらの相乗的な効果で、定置網漁業は確実に漁獲量は増えている。漁獲量については、定置網以外は、漁業者の高齢化もあって、減少せざるを得ないが、それでも、釣漁業、あるいは遊漁は、これら人工魚礁を狙って行われている。
 そして、これは、人工魚礁本来の目標ではないが、ダイビングポイントとしてのスポーツダイビングの為の役割を果たしている。
 外房は、広大な磯が広がっており、魚を目標とした人工魚礁は、砂地の場所以外は、必要はないが、外房については、また、別の議論になる。
今では、全国的にダイビングポイントが広がっている。伊豆などでは津々浦々すべてがダイビングポイントである。その各地で分析的な調査が、レクリエーションダイビングとして、行われるようになれば、その集積はめざましいものになろう。

1113 後藤道夫

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 後藤道夫のこと、今は、知っている人も少なくなっただろう。2013年12月、亡くなった。僕の生涯の親友の一人で、「ニッポン潜水グラフィテイには、ずいぶん出てきてもらった。今度のシンポジウムで、その出演、撮影した、「マチャアキ、海を行く」を上映する。
 後藤道夫メモリー
 1959年、日本で最初のダイビング・サービスを真鶴ではじめて、セントラル・ダイビングセンターと名付けた。それまでは、本当に、どこにもダイビングサービス、空気を充填してくれるところはなかったのだ。
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      後藤道夫と彼の作ったマスク

 ウエットスーツは、1960年に製作が始まったが、後藤道夫の作ったパターン、型紙がベストだった。みんなこの型紙をまねした。現在でも後藤道夫の弟の勇毅さんのお店、UGOが、その伝統を受け継いでいて、オーダースーツとして、日本で一番を誇っている。フリーダイバーの岡本美鈴もここのスーツを着ている。
カメラハウジングも作った。キヤノンAE-1のハウジングは、日本初の量産ハウジングだった。ストロボも日本初の量産型、トスマリーンをつくった。撮影も、日本初の巣一中テレビ番組「マチャアキ海を行く」は彼がカメラマンで始めた。今度のシンポジウムで映写するのは、それだ。彼は何でも作れれるし、作ってきた。最後は海洋研究開発機構などの深海撮影機器を作っていて、最後の仕事は僕が産業技術総合研究所と一緒にやろうとしていった、放射性物質の探査をする水中スペクトルメーターで、これを2013年の夏につくり、その年の12月に亡くなった。最後の仕事を一緒にできたが、実はそれが、二人でやった最初で最後だった。二人と言っても、僕はこういうものを作ってくれと言うアイデアとコンセプトで、彼が形にしてくれる。
 器用とというのでは失礼だ、もの作りの天才だった。今書いている目標はマスクのことだ。
 彼が設計制作したマスク、それは1960年代だったが、そのころのマスクの最高であり、今でももしあれば、これが最高と僕は言うだろう。このマスクを持って鬼怒川パシフィックの顧問になり、このマスクを鬼怒川でつくろうとしたのだが、型がすり減ってしまっていて、つくれない。新たな型をという段階で、今のダイブウエイズ社長の武田さんと協力することになり、武田さんもマスク設計の天才であり、僕もその開発チームに入って、マンティスができた。
マンティスは世界を制覇したマスクだが、それでも僕は後藤道夫が最初に作ったマスクが好きだ。マスクの視界を広くするのは、マスクのガラスをめにできるだけ近づけることで達成される。これが大原則である。後藤マスクはガラスを思いきって目に近づけていて、鼻に当たる。当たってもよいと割り切っている。外国人には付けられないだろう。
 このマスクがおわってしまってからだいぶ後に、鬼怒川の子供用のマスクでこれに近いものを見つけた。子供用だから2千円ぐらいだったのか
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    子供用マスク モンテゴ

、具合が良いから、3個買いだめをしていた。ところが浦安海豚倶楽部の さんがあうマスクがないという。これを使わせたら、ぴったり合う。それをずいぶん長く使ったが、だめになった。新たに買おうとしたらもうカタログにない。仕方がないから、僕の最後の一つをあげてしまった。このマスクはモンテゴという名前だった。どう意味かわからない。いまは、ダイブウエイズのスーパーワイドを使っている。少し違うが、このマスクの系列だ。これももう製造中止だという。今、二個持っているから、死ぬまでこれで持つだろう。
  
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        スーパーワイド

1114 命綱 ⑤ 窒素酔い

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命綱⑤窒素酔い
 窒素酔いについて少し書き足しておきたい。また、潜水士テキストの窒素酔いの定義から見直そう。

 潜水士テキストによれば、
「潜水深度がふかくなると、空気や、窒素酸素混合ガス潜水では、アルコール飲用時と類 似した症状を呈する。いわゆる窒素酔いの影響が大きくなる。
窒素酔いは症状発現が早く、潜水直後に発現し、潜水深度が浅くなれば軽減する。自信が 増加して、注意力が低下するためスクーバでは、呼吸ガスボンベの圧力低下に気づかず、 エア切れに、陥ることがある。深い潜水ほど窒素酔いは重く、その場合のエア切れは致命 的になることもある。
 注意すべきは、潜水経験を積むと、窒素酔いにかかりにくくなるという錯覚に陥るこお とである。医学的な研究では複数回の潜水によって、」窒素酔いに慣れたという客観的な 証拠は認められていない。深い潜水の経験があるからといって、過信するこおとはきけん である。
 高圧則では、窒素酔いによる危険性を避けるために窒素分圧限界を水深40m以下とす るように定めているが、窒素酔いの程度には個人差が大きいので、制限深度より浅くても 注意が必要である。
 また、飲酒や疲労、大きな作業量、不安なども、窒素酔いの作用を強くするので、注意 がひつようである。」

ここまで、三浦定之助という先輩の「潜水のとも」を読んできた。昭和10年に書かれたもので、そのころの最高の潜水マニュアルだったと言っていい。
三浦定之助先輩は本の著作が多い人で、当時として、論理的にものを考えることができる人である。 そのころの定置網潜水士の養成を多人数やられた方でもあり、その講習での潜水深度は最上級では80mを越えている。そのためにでもあるが減圧症の罹患も多かった。減圧症之問題は別として、そんなに深く潜ったら窒素酔いがひどいだろうとおもうのだが、窒素酔いについての記述がきれいさっぱり無いのだ。
 めまいという項があってこれが窒素酔いに相当するのかと思うのだが、本当にめまい程度のことしか書いていない。僕たちの、僕の体験した窒素酔いの症状などどこにも書いていない。
 三浦先輩は嘘を書く人ではない。しかも、この本は潜水の教本である。
 理由がわからない。もしかしたら、窒素酔いについてなにも知らなかったならば、窒素酔いにはならないのではないか。

 水産大学に入ったばかりの頃の乗船実習で、絶対に船酔いしない奴が何人かいる。みんな山国育ちだ、漁師の子はすぐに船酔いになる。船酔いを知っているからだなどといっていたが、そういうことがあるのだろうか。これは医学的には絶対に説明がつかない。
 窒素酔いでも船酔いでも、酒酔いでも、かなりの部分がメンタルなもの、気持ちの持ちようだといえるのではないか。
 潜水士テキストによれば、窒素酔いになれるというようなことはないと書いてある。
船酔いについては間違いなく慣れる。
 もはや三浦先輩はじめ、窒素酔いにならなかったダイバーたちはこの世の人ではない。聞くことも調べることもできない。ただ、「潜水の友」という本があるだけだ。
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 第二次大戦のあと、僕たち、少なくとも僕が窒素酔いを知ったのは、アクアラングが日本に知られたその後、アクアラングの開発者 クストーが書いた本「海は生きている(The Silent Word)」第二章 深海での陶酔状態、であった。 一部引用する。
「まず最初、軽度の知覚障害がおこり、次に本人はあたかも神にでもなったような気持ちになるものである。中略 その課程は複雑で、潜水生理学者の間では、未だに論争の種になっている。キャプテン・ベーンケによると、それは窒素の過飽和が原因しているのかもしれないが、あの屈み病(減圧症のこと)とは無関係のものである。最近の熱心な研究によると、この深海での陶酔の原因は、中央神経組織がガスに犯されるためである。すなわち、神経組織の中に二酸化炭素が残存するためであることがわかった。
 アメリカ海軍は、試験潜水の時、窒素の代わりにヘリウムを使ってみたところ、この奇妙な陶酔状態は起こらなかった。中略、スエーデン人の、ゼタストロームという人は、深海潜水の際に水素を使ったが、水面近くで減圧過程になってから個人的落ち度のために死んでしまった。」
 この本の日本語訳の発刊は1955年である。
 僕が潜水を始めたのは1957年で、その時に使ったテキスト「a manual for free-divers using compressed air / david m.owen 1954 には、Nitrogen narcosis として、説明がでていて、280-300フィート(80-90m)では、基本的な動作が不可能になる、と書かれていた。

 生理学者ではないので、窒素酔いの機序について調べてもわからないが、次に読んだ本、1971年 「潜水医学入門 スタンリーマイルズ」では、かなり詳しい説明があり、窒素酔いの適応について、「訓練と経験によって、多くのダイバーは確実に窒素麻酔に対する抵抗性を増強する。その適応は決して永久的なものではなく、維持するためには、一週間に一度、90mへ潜水することがすすめられる。これは加圧室などで行うことができ、わすか数分間、その深度に居れば良い。」とあり、これが自分の感覚・経験に一番あった説明であった。三浦先輩の時代は,慣れていたのだとしか説明できない。

僕は自分の経験から、窒素酔いは70mまでは慣れる。窒素酔いは起こっているのだろうが、その酔いに耐えられる。計算問題などはきっとできないと思うが、とにかく、決めた仕事はやり遂げられる。

 人によって、様々だが、伊豆海洋公園の益田さんたちは、80-90mに潜っていた。(日本の海洋動物 海深90メートルまで :1969)慣れたダイバーは、水深70mていどまでは、意識を失うようなことはない。ただ、マウスピースを口から離してしまうおそれはあるといわれていて、56m以上はフルフェースマスクをつけるという国際ルールがあると聞いている。
 普通のレクリエーションダイバーについては、空気で40mを越すことは危険であり、幾つかの事故を知っている。深度制限が40mということは妥当であり、かなり定着している。このことから、プロのダイバーも40mと決められたのかもしれない。アマチュアは自己責任とも言えるが、業務の潜水士は、管理責任がある。
 しかし、60m以上に潜れることが芸になっている何人かの定置網ダイバーを知っているが、規則がどうあろうとも、彼らは、死ぬまで空気で潜るだろ。
そして、やがて、そのようなダイバーたちはいなくなり、40m以上では混合ガス潜水をするダイバーたちの持代になるのだろう。窒素酔いを知らなかった昭和10年代、僕の生まれた頃だ。1950年台の沈黙の世界、1960年代、益田さんたちは80m.90mに潜っていた。1963年、僕と館石さんは100mを目指し90mが限界だった。1970年代、スタンリーマイルズは、窒素酔いは慣れるといい。僕もなれたのだろう、60m70mにあまり抵抗なく空気でもぐっていた。そして、40mの制限、時代の流れというものかもしれない。
 
 なぜ⑤命綱、が窒素酔い のテーマになってしまったのか。命綱を付けていれば、窒素酔いは、問題にならない。フルフェースマスクを付けていれば、気絶しても大丈夫だ。引き上げてもらえる。

1115 波佐間 ROV

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  メッセージで連絡しあっている。便利だ。11月14日波左間は雨で波も高かった。明日はもっと悪くなるかもしれないと、波左間海中公園のオーナー荒川さんは心配している。どうしよう、僕も心配になった。
 明日朝6時に荒川さんからの連絡ではんだんしよう、と
決めた。6時に決めて。6時10分に行動開始すれば、十分に間に合う。
 先週の次に今週と続けた理由は、自走式カメラ、ROVを走らせて見たかったからだった。ROVを借りる沿岸生態系センターの社員高沢君への連絡も0610と決めた。
 4時に目覚めたが、起きあがるのは5時でよいと、思っていたのが二度寝してしまった。ハット目覚めたのが0609、メッセージを見ると、荒川さんが0500に現在凪という通信を入れたために、小俣さんはじめ、みんな0600に行動を開始してしまっている。Fちゃんの車も動き始めている。迷ってなどいられない直ちに「了解」のメッセージを入れて高沢君に電話を入れた。
 メッセージという連絡手段がなければ、遅刻して、みんなに迷惑をかけるところだった。
 館山到着は0900、海岸通りを走りながら見る海は平らだ。天気は雨。
 
 波左間は満員のお客さんで、僕たちのようなダイビングの面倒をかけるのが、申し訳がない思いがある。時間をかけて機材準備をする。
 11時、第一回のダイビングから戻ってきた荒川さんが、ボートは小さい方しか出せないと恐縮したようにいう。凪ならば大丈夫と答えをかえす。
 波左間魚礁群でまだ見ていない13番と14番を見たい。ブイが切れてしまっているが、魚探で探せばすぐに見つかるだろう。位置としては、先週潜ってブイを付けなおした2番の岸側に位置していて、大きい魚礁だから。
 ただし、すかすかの魚礁だから、魚の集まりが悪く、今度、定置網の廃網をかぶせて見ようと思っていると荒川さんはいう。
 魚探に魚の反応があった。安い魚探なので、魚礁の形はくっきりとはでない。仮ブイを入れて、荒川さんがロープを持って飛び込む。潜水時間がながびいている。もしかして見つからないのでは、と不安になる。
 やはり見つけられなかった。GPSを持ってくればよかったと思う。カメラや、スマホのGPSでは、トラッキングができない。その周辺をいくら探しても魚礁の反応がでない。荒川さんはもう一度潜るが、見つからない。時間は過ぎていく。二番と岸の目標を結ぶ線上で水深30m線を探せば出ないわけはないのだが。少し風がでてきたように感じる。12時半をすぎた。タイムリミットだ13ー14をあきらめて、先週潜った2番に再び行くことを決断する。

 調査の絵としては、インターバル撮影カメラとROVが互いに写り合うシーンがほしい。時間が押しているので、インターバルカメラの準備に焦る。二回も確認しているのに次々にカメラバッテリー切れがでる。投入するが流れが強くて流されている感じだそれでも4台入れた。うち、一台は手で動かして魚礁の中に入れるつもりだ。
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 とにかくROVを入れよう。今回は、いつも僕をガードしてくれるFちゃんに撮影に専念してもらって、僕のガードは山本さんにお願いする。
 お願いする絵は魚礁と魚をバックにして、ROVが走る絵だ。インターバルとROVとのコラボレーション撮影はこの流れでは無理だ。

 ROVを魚礁に到達させるためには、魚礁からまっすぐ立つブイを入れて、ロープをカメラで見ながら降下していく、それも、ちょっと目から離れると到着しない。この流れでは無理だ。まっすぐなブイも打てない。小俣さんに手持ちで魚礁に持っていってもらう。
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 ダイバーは空気を呼吸する限り、40mまでしかもぐれなくなった。40mまでダイバーが持ち込み、位置を決めて放して降下させるようなオペレーションも今後は必要になるだろう。

船のうえで、ROVの動きに指示する。
体調はあまりよくない。ドライスーツだ。流れもある。僕が撮影したとて、どのような変化が撮れるか、たいしたことはない。しかし、ダイビングをするために生きているのだから、そして、どうしても自分の目で見たかった。

 山本さんを促して、潜水の準備を始めた。飛び込む、流れは強いけれど、なにほどの流れでもない。しかし、ロープのところまでが思うように進まない。ドライスーツと、付けている10キロのウエイトの質量移動がきついのだ。が、息をはずませるほどのものではない。マスクから水が入ってきた。最近、信頼をしているスーパーワイドなのに、顔に付けるときにしっかりやらなかったためだろう。それとも飛び込みでずれたか。片手にカメラを持ち、片手はロープを掴んでいるから、マスクをなおせない。姿勢が不安定になる。なんとかマスクをなおして、沈み、魚礁の方向に泳ぎだすと、目の前をROVの黄色いケーブルがのびている。するすると走って行ったが、途中で止まったので、追い越していく。

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 赤いキンギョハナダイと、縦縞のキンチャクダイが目にはいる。美しい。山本さんが手持ちでROVを魚礁の中、インターバルカメラのところまでROVをつれてきてくれる。
 魚礁の中でROVを撮る。透視度のよいときに、魚礁とROVを撮る。一つの小さな願いを撮っている。嬉しい。
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 ウマヅラハギがやけにきれいに見えた。
 浮上する。ウエイトベルトがずれている。海底まで降りなかったので、締めなおすことができなかった。
 減圧停止を終了してボートにもどる。8日には自分の力だけで梯子を上れたのに、手助けを受けてタンクをはずして受け取ってもらう。梯子の最後の段で、船縁をまたぐことが難しいのだ。こんなことができなくなるとは、つらい。
続く

 2回目のダイビングはパスした。インターバルカメラをあげるだけ、二つのカメラが絡み合って沈んでいてあげるのに苦労だった。
 帰り道、いつもファミレスのココスで食事しながら、プレビューを見る。Fちゃんの撮ったキヤノン10Dの映像が、美しい。これまでの人工魚礁撮影のなかで最高の美しさだ。
 どのように編集して12月シンポジウムで見せるか、話し合った。僕は5分の映像が作れると思うのだが、撮影したFちゃんは3分だという。
 それはそれとして、僕は3月の魚礁研究会で、この映像をとにかく美しい人工魚礁の映像として発表しよう。会場の映写設備では、このきれいさはでないかもしれないが。

 今度のシンポジウムでの発表と報告書の作成について、大筋が頭の中にかたまった。当初、波左間の魚礁群を比較して見るような考えだった。それと魚の蝟集状況の季節変化を追いたいと思った。
 そして各魚礁について、データを解析しようと考えた。しかし、10回の調査で、これだけ膨大な映像資料とあつめてしまうと、その分析など不可能に近い。時間がかかりすぎる。簡単なコメント付きアーカイブと、報告までしかできない。しかし、それで、研究者ではない僕たちの調査としては、それで十分であり、価値のあることだと思う。
 誰も見たことがない、見ることが無い人工魚礁群が全国にひろがっている。ここ館山でも波佐間と隣の西崎そして塩見、これは僕が潜ったところ、その他のところでは、アーカイブがない。僕の場合にもきちんと整理されては居ない。
 その保存の方法を検討してスタンダードを作ろう。それを発表する。
  

1117 ROVとダイバー

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11月15日の波左間調査でROVを使った。ダイバーが潜れる深さだから、ROVを使う必要性が合ったわけではない。人工魚礁をバックにしたROVの走りの、きれいな映像を撮影したかった、すなわち、遊びだった。幸いにして、透視度がよく、願っていたような映像が撮れた。季節もあって、魚礁を覆うようなイサキの群とかがとれなかったが、それ以外ではほぼベストの撮影ができた。
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 メンバーで話し合ったり、機材を提供してくれた沿岸生態系リサーチセンター(JAU S理事が代表)に映像を届けてオペレーターをつとめてくれた高沢くんを交えて、試写を して、いろいろ語り合ったが予期しなかったいくつかのことがわかり、収穫がおおきかっ た。
 
 これまで、ROVとのつきあいは長い。そのことを書くと、ROVグラフィティになってしまうから、これは別の機会として、僕は、ROVはダイバーが潜れない深さの観察をするものであり、ダイバーとの協働を考えたことは無かった。
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今回も、ダイバーが手に持って、目標の人工魚礁まで運んだり、人工魚礁の中、外に移動 させたりするのは、「やらせ」という感覚であり、発表する映像からはカットする部分か と思っていた。なるべく、ダイバーの手を使いたくなかったのだが、流れが速く、とうて いROV の自走では目標に到達できないので、ダイバーが運んだ。もしかすれば、このようなオペレーションが他所では普通に行われているのかもしれないが、魚礁調査のテキストでは、目標の直上にブイを立てて、ブイロープをROVカメラで見ながらたどってROVを潜降させるように書かれている。とにかく、潜水とROV 調査は別のもので二者択一であったことの方が多かったと思う。ROVの調査はダイバーがもぐれない60m以上の場合の主たる観察手段となっていた。会社によっては、観察撮影はROVのみで、浅いところでも、ROVでやったりもするが、ダイバーとの協働の運用方法のマニュアルはなかったと思う。
 今度の高気圧作業安全衛生規則の改正で、空気を呼吸するダイバーは40m以上潜れな くなった。混合ガス潜水はヘリウムが高価であること、装備に大きなお金が掛かることな どで、人工魚礁調査のような目的に使用することは、コスト的にできなくなった。
 たとえば、水深70mから40mまでの高さの高層魚礁などの調査では、今回のように 高層の頂上までダイバーが持ってきて、降下させてダイバーは上にいてリードをするとい い。あるいは40m未満でも、長時間観測などでは、ダイバーとROVの協働が通常の手段として用いれば有効である。
ROVを潜水するダイバーが使う道具としての位置づけとする使い方ができる。

1118 窒素酔いと空気潜水

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安全を維持するための規則は重要で、特にそれが、自分以外の人に関わるものであれば、まもるために、最善の努力をしなければならない。絶対といってもよい。世の中に絶対などないから、守らないことで被害が他に及べば、賠償をしなければならない。
 自分だけに被害が限定されるような場合には、人は規則に縛られるのは好きではない。誰でも自由が幸せだ。
 昔、ダイビング事故を自動車の事故と比較したことがある。たとえば、ダイビングには、原則としてもらい事故というのがない。自分さえルールを守っていれば、安全だ。そのとおりだが、同時に、ダイビングの事故は、レスキューで迷惑をかけることはあっても、他の人を傷つけることはないというのも大きな特色だ。

 いうまでもなく、ダイビングのインストラクターやガイドダイバーが、自分のことを自分で判断できない初心者を有料でめんどうを見ている場合には、大きな責任が発生する。
 しかし、その場合も、どこまでが、誰の責任なのか、線引きがわかりにくい。
 この前、エベレストという映画を見た。ヒマラヤ登山は自己責任なのだろうか、自分たちの周囲を見た場合、レクリエーショナルダイビングの限界を超えた、深さに潜るテクニカルダイビングで、その事故はどこまで、ガイドダイバーに責任があるのだろうか、もちろん、賠償責任保険でカバーされているならば、賠償は受けられるだろうか、人の命、あるいは身体障害は賠償金では解決できない。フリーダイビングでも同様だ。いずれにせよ、賠償は受けられても、自分の命は、自己責任だ。

 少し筆がすべったが、人に危害を与えるおそれがなく、自分の判断で行動できるランクのダイバーであれば、すべてが、自己責任であるべきだということを言いたかった。
 規則に縛られてしまうと、技術とか、行動も縛られてしまって発展がなくなってしまう。なにが言いたいのかというと、高気圧作業安全衛生規則で、水深40m以上は空気で潜ってはいけない、と定められると、どうしたら40m以上を空気で潜れるかという方法、機材などの開発がいっさいできなくなる。これまで経験や運用則でそれ以上の水深に潜っていた技術も消滅してしまう。
 ヘリウムの方が安価で安全であれば良いが、ヘリウムは高価であり、さらに、窒素酔いより恐ろしい減圧症については、ヘリウムの方が減圧停止時間が長い。減圧停止時間が長いということは、危急のさいに無事に浮上できない可能性が高いと言うことになる。
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 しつこいようだが、なぜ三浦定之助の「潜水の友」に窒素酔いの記述がなかったか。疑問が解決しない。慣れによるのではないかと書いたが、慣れならば、かかってから慣れる必要があるのであり、そのことの記述がない。僕自身がかかったような窒素酔いの記述がないことに納得できない。
 1000人を越すダイバーの講習を行ったというし、その中の上級者は80mを越していたともいう。三浦さんは信頼できる人である。うそをついたり虚勢をはったりするひとではない。なのに窒素酔いの記述がない。ちょっとした目眩にとどまっている。

 三浦定之助さんたちが使ったマスク式は、バイト式による呼吸、歯でかんで鼻のマスクに空気を噴出させる。この方法がなにか絡んではいないだろうか。小さいマスクに送気が噴出するのだから、そして、鼻から吸って口から吐いていれば、おそらく換気効率がとてつもなく、よかった。炭酸ガスの蓄積が絶対的に小さかった。このためではないのだろうか。酔いの症状が炭酸ガスの過多に影響されているところまでは確かなのだろうと思う。窒素酔いになりにくい潜水機が開発され、それを使えば空気で60mまで潜れる。そんな研究がいっさい望めなくなる。
 まあ、そういう研究をするとすれば、自己責任で自由な立場でやればよいのであって、それは規則の外にあるから、できないことはないが、成功しても、使えないことだから、意欲を持ちにくい。
でもやはり、どうして窒素酔いの記述がないのだろう?疑問は消えない。

とはいえ、規則はまもらなければならない。混合ガス潜水で、水深60mあたりまでの潜水調査を安全にしかも安価にやる方法を考えださなければならない。
昨日書いたROVを道具として使用することもその一つだし、今度のシンポジウムで発表するハイブリッドダイビングシステムもその一つだ。

1121 混合ガス潜水 アラン①

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空気を呼吸しないで水深40mから100mに潜る方法
 原則としてヘリウムと空気の混合ガスであるトライミックスを使用する。
 ヘリウムは高価であるから、ヘリウム・酸素のヘリオックスは使い切れない。また、ヘ リウムの問題点、熱伝導性、減圧時間が長くなる、などの問題もあり、トライミックスの 方がいい。
 まず、潜水方法、潜水機の種類には サーフェスサプライ ホースによる送気と
 スクーバ(自給気) の二つに大別される。今度のハイブリッドシステムは、基本的にはスクーバであり、その運用方法、システムについての提案である。
 だから、ここでは、スクーバに 就いてだけ述べる。
 スクーバは、
 ①単純なオープンサーキット
 ②CCRもしくはSCR
 ③ハイブリッド方式(運用の方法)である。
 なお、ハイブリッドは、新たな須賀の提案であり、まだ、夢の中である。お笑いにすぎ ないかもしれない。これから確かめてみるテーマだ。
 
 まず、単純なオープンサーキットについて述べよう。   
 単純なオープンサーキットだから、ようするにタンクにトライミックスを充填する。自 動的に酸素分圧を調整してくれる、CCRではないから、酸素分圧の関係で、水深40m までと、40を越してからと、二種類以上のガスを呼吸しなければならない。40m以上 を仮にボトムミックスと呼ぶ。
 2種類のガスタンクをそれぞれ別のレギュレーターを着けておき、途中でマウスピース をくわえ直し、切り替え、交換すれば良い。最も単純シンプルで、シンプルイズベストと すれば、最善の方法でもある。
ここで、その例として、1995年、60歳を記念して100m潜水を企画した時、毎日のように100mを潜っている、サンゴ採りダイバーの潜水を見学し、話を聞くために、フランス領 コルシカ島の アラン・ボゴシアンを訪ねた時の事を書こう。

アランの潜水は、僕の出会った潜水のなかで、最も強烈な印象をのこしているから、何回 も繰り返して書いている

神奈川大学の当時教授であった関邦博博士、著書は多数宇あるが、「ジャック・マイヨー ル:イルカと海に還る日、 水中居住学、潜水学」などが書架に並んでいる。親交があっ た。その関先生が宝石サンゴの研究をしていて、高知県、沖ノ島で宝石サンゴの生体を潜 水で採集しようとして、アランを日本に呼んだ。その時にアランと会った縁で、僕はコル シカ島を訪ねる。コルシカ島はナポレオンの生まれたところだが、フランスでも複雑な反
抗の歴史のある島で、反抗とはテロだから、常に安全な島ではないけれど、とても良いと ころで、また行きたいとおもうところだ。
 
 アランのダイビング、そして、生活はダイバーなら誰でも憧れるだろう。46歳、たく ましい、しかし、外国人としてはそれほど大きくはない使いやすそうな身体で、余分な脂 肪はついていない。トライアスロンをやるそうだ。
 彼の背負うタンクは3本束ねてあって、うち一本がトライミックスだ。ガスは家のバッ クヤードで調整して充てんしているようだ。
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  自分のボート、一人用の再圧タンクがはめ込まれているボートで、沖にでる。潜る場所は、ソナーとGPSで決めるのだが、この日は予めブイが入れてあるところに潜った。ブイは大型のペットボトルだ。ブイにつけている索は、細いトワインで、僕たちがよく使っているものと同じだ。その日、透明度は良くて、地中海のちょっとくすんだ、青い色だ。波もなく、流れも全くない。
アランは潜水の前、5分ぐらい瞑想する。水中でこれから起こることをイメージするのだ ろう。僕は彼より先に飛び込んで、8mほどのところで、潜ってくるアランを受けた。三 本のタンクを軽々と背負って、フィンをほとんど動かすことなくBCの空気を抜いただけで 、水平の姿勢で、索に沿って降りてきて、そのまま蒼黒い海底にすべるように降りて行っ た。「いいなあ」と僕は思った。
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 一緒に下へ潜ったわけではなく、僕は見送ると、すぐにボートに上がって、彼が浮上し てくるのを待つ。
 海底での出来事は僕の想像だ。その日の潜水は、ゲストの僕が来ているからか、浅くすると言っていたから90mぐらいだろうか。  タンクは二本の空気と1本がトライミックスだ。深い水深で吸うのだから、10分ももたないはずだ。
 最初からトライミックスを吸っていくのか、潜降途中で切り替える、そのどちらだった のか、そのことを彼に聞いていない。肝心のことなのに、
  ①潜降と、海底では、トライミックスを呼吸している。これはタンク一本だけだから持続時間は短い。水面から海底に降下する時間と、海底での時間、そして、50mまで浮上してくる時間、全部を加えてもだいたい15分ぐらいだ。50mまで浮上してくると、呼吸を減圧用ガスに切り替える。方針としては、できるだけヘリウムを吸わないことが、減圧停止時間を短くする結果になる。
 それとも、② ヘリウムの節約のために、窒素酔いのぎりぎりまで、多分65mぐらい までは空気で沈んで行くかもしれない。毎日のような、深い潜水だから、体が窒素酔いを おぼえている。その日の体調で、早く窒素酔いを感じたら、40mでガスを切り替えるか 、あるいは、その時の潜水をやめるのかもしれない。
 ①か②か、何れにせよ、首にぶらさげている二つのマウスピースをくわえなおしだけの ことだ。

 海底の溝のようなところに宝石サンゴは生えている。太い大きい立派なサンゴもあるの だろうが、それはきっと年に一度ぐらいで、その日採って来たのは深紅の小指ほどの枝を 刈り集めて、胸のところに掛けた篭に入れる。海底では、サンゴのポリぷは一面に開いて いるのだろうが、あるいは、閉じているが、宝石の価値があるのはその全部ではなくて、 探して採らなければならないのだろう。
 ボートの上で待っていると、ブイが浮いた。これは水深50mぐらいで放出した円筒形のブイだが、今は普通に日本でもみんな使っているが、当時、1994年ごろはまだ僕の目に珍しかったので、感心した。ボートを近づけると、浮いてきたブイの細い索にそってやや太い12mmぐらいのロープに添わせたホースを下ろす。もちろんホースの先にはセカンドステージが付いていて、この空気を吸って浮上してくる。 ホースには有線通話の線が這わせてあって、このホースに呼吸を切り替えると、ただちに 通話が開始できる。減圧停止中に原因不明の事故で社員を失った経験があるぼくは、減圧 点まで来たら、ただちに通話を開始するこのようなシステムをつかっていれば事故は起こ らなかったのに、と思った。
 あとでも、書くが、このように減圧用のガスを船上に用意して、ホースで送るのが、た とえ、CCRでも安全のためのキーなのだが、レクリエーショナルダイビングのテクニカ ルでは、やられていない、基本的に危険である。そのことも、ハイブリッドの目標でもあ る。
 水深10mぐらいまで浮上すると、下からの指示でボートから別のロープが下ろされた 。このロープに採集したサンゴの籠を結びつけて上げる。深紅の細い枝のようなサンゴだ った。磨けばネクタイピンとかペンダント、などになるのかと思う太さだ。
  下からの指示で僕に潜ってこいという。減圧停止も最終段階で、水深6m位だろうか、 タンクを脱いで、これもロープで引き揚げさせた。
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 僕に細いホースを渡して、これを袖に入れろという身振りをする。ホースを手で受ける と暖かいお湯がでている。これを袖に入れたり首筋から入れたりして暖をとるのだ。この 温水ホースもシンプルなもので、家庭用のガス湯沸かし器のようなものに、小さいポンプ が付いているだけだ。減圧停止の最終段だけ温まれば良いという考えだろう。
 いよいよ浮上するときになると彼はウエットスーツを脱ぎだした。

1122 混合ガス潜水 アラン-2

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  昨日のアランのこと、少し写真と説明が足りなかったので、まず、若干の補遺をする。
  これが採って来たアカサンゴ。綺麗な真紅だ。
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 僕たちは前もって、僕も潜るからダイビングギアを貸してくれるように申し入れていた。
 ところが、アランのボートに行くと、スクーバのセットはない。ダイビングリゾートではないから、余分な器材はおいていないのだ。
 空気を詰めたタンクはあった。これに浮きを着けて水に入れれば良い。そして、減圧停止に使う予備のホースがあった。ながさは20mぐらいだろうか。用意しておいてくれたのは、これだった。僕はドライスーツで潜るのだが、ウエイトベルトがない。漁師の港で、網の漁業をしている。そのあたりで、網の鉛をかき集め、ロープに通して腰に回した。
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 背中にタンクは背負っていない。楽に動くことができた。
 実は、今度のハイブリッドの着想のヒントでもあった。

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アランの潜る場所の魚探表示、海底に垂直に切り立った崖がある。多分この壁面にサンゴは生えているのだろう。

これはアランの減圧停止用のホース、ボートの上には酸素の親ビンがありこれからこのホースで送気する。
 ホースは長く、50mで連絡が来て、それからこのホースを下ろすから、多分30mぐらいから、このホースに切り替えるのだろう。
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これは、温水器、家庭用のものだろうか。プロパンガスを使っている。
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アシスタントをしているジャック、彼が潜水以外のすべてのことを一人でやってのける。日本語で言えば上回りとボートオペレーター、救急再圧員すべてだから一人3役である。
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1123 混合ガス潜水 アラン-3

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 さて、アランは水深15-10mぐらいでウエットスーツを脱ぎ始めた。3mmのスーツの重ね着でしかも被りのスーツだから、スクーバも揚げてしまい、フィンも上げてしまった後だから、減圧用の送気ホースから呼吸しながら脱ぐのはちょっとばかり難儀だ。脱ぎ終わると、裸だから直ちに浮上してボートにあがる。水深10mからの最終段階をゆっくりゆっくり上がるなどということはない。
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 タオルのガウンを着ると直ちに再圧チャンバーに入り、内側から閉めてロックする。
 ウエットスーツを脱ぎ終わってから、浮上、タンクに入るまで1分とかかっていない。減圧のこの段階は不安定で、もしも痛みがでたりすれば、一般の再圧表では、その潜水の最深部の圧力まで戻さなければいけない。アランの場合最深部は100m以上だ。そんな深くからの浮上であれば、最悪、即死のような減圧症も考えられる。チャンバーに入り、再圧するまでの時間は秒速を争うのだろう。
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 再圧タンクは一人用としてはかなり大きいが、タンクの中でスーツを抜いだりするのは、ちょっと大変だし、そんな身体を曲げるような動作をしたら、痛みがでるかもしれない水中で減圧中に脱ぐ必要がある。
 アランがタンクにはいり、純酸素呼吸を開始して、安定すると、ジャックは再圧タンクの側を離れて、操船し港に戻る。
 アランは音楽を聞くとか本をよむとかして減圧時間を過ごす。

 僕たちは海辺のちょっとしたレストランで、彼が出てくるのを待つ。時間を計時していなかったので正確にはわからないが、11時頃チャンバーにはいり、13時半ぐらいにでてきた。
 水中での減圧停止の時間表、いわゆる減圧表は何を使っているのか、再圧の時間表はぜひ教えてほしいと頼んだ。言葉は通訳を介してだから、正確に伝わったかどうかは分からないが、減圧表も再圧表も無い。テーブルは?というと、業務記録を見せてくれた。珊瑚の採れ高の表だった。ボートに上がるまでの手順、時間は多分定まっているのだろう。チャンバーに入ってからの再圧時間は自分の身体に聴きながら、十分な時間、好きなだけ、納得するだけ時間を掛ける。その日の水深、体調もある。アバウトで3時間、深い時、多分100mを超えて時は、4時間ぐらいかもしれない。

 このスタイルの潜水はコルシカの隣の島、隣島と言ってもサルジニアはイタリア領だが、サルジニアにはこの潜水のグループがあって、アランもそのグループに混じって、習い覚えたという。もちろん、ダイビングは上手だったのだろうが、そこから修行したのだろう。
サルジニアには、埼玉医大の小林さんが見に行っている。サルジニアにはテーブルがあるのかもしれない。
 ボートから上がると、アランは家に食事を用意しているので、と招待してくれた。テレビの取材だから、予め依頼はしていていて、彼の家でインタビューなどを撮ると決めていたのだろうが、僕は教えられていなかった。そういえば、海辺のレストランで12時になったのに、スタッフは食事を注文しなかった。
  続く。
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