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0926 巨大浮漁礁

 今月号の月刊ダイバーで、長く続けさせていただいたニッポン潜水グラフィティ、続ニッポン潜水グラフィティが終わった。月刊ダイバーの坂部編集長、担当してくださったみなさま、最後の担当であった緒方佳子 さん,よりまえにお世話になった方たちのお名前を列記できない。思い出せない。もうしわけないです。そして、全部の面倒をみてもらった潮美に感謝したい。
さて、内容だが、最後の号で61歳の100m潜水から、今日今までの20年間を凝縮した。およそ4000字で20年を書き尽くすのは無理だ。機会をみてぼつぼつとブログに書いて行こう。

 終わりを80歳80m潜水で閉めた。本当は、この月刊ダイバーで、その状況も書いて行き、その実況も書きたかった。まだ、そこまでの目鼻がついていない。ここで、幕を引かざるを得なかった。
 何れにせよ、80mの潜水については、ブログでも書いて行き、本にまとめたい。それはそれとして、プロジェクトが成功してから、また月刊ダイバーに何らかの形で載せてもらおう。
 
 さて、月刊ダイバー10月号であるが、今、書店にあるので、ぜひぜひ、買って見てほしい。次にどうなるかわからないプロジェクトの成功までの間、連載はないから、一応の最終回になる。ここで、このブログで今急いで、この話をするのも、月刊ダイバー10月号が店頭にあるうちに合わせて見てもらえれば、という願いもある。

 この10月号では人工魚礁調査をとりあげている。
回遊魚、それも、カツオ、マグロ、シイラなど黒潮に乗って回遊する本格的回遊魚を寄せ集めようと言う浮き魚礁のことを書いた。

 人工魚礁には、魚を集めて採る漁具型と、魚が育つ場をつくる資源培養型があるのだが、浮き魚礁は、漁具型、それも非常に効果が大きい漁具型である。漁具型にしても浮き魚礁とか、その場で釣って獲っている人工魚礁は別として、たとえば定置網に魚を誘導するような働きは、なかなか実証し難い。誘導する魚礁群がなくても定置網には魚は入ってくる。漁獲高が増えたことによって間接的に証明されるが、漁は、別の要因で好漁、不漁があるから、効果があったと言い切れない。
浮き魚礁は、その効果は絶対的である。
 沖縄では、釣漁業はほとんどすべて、ウミンチューの釣りも、レクリエーションとしての釣りも、浮き魚礁に依存している。
 そう、この調査をやったのは、65歳の時だから、今から15年前のことだ。まだ、自分のダイビングは無敵だと思っていた頃のことになる。
 撮影の目的は、カレンダーの撮影だった。全国の漁業組合、水産研究機関に配布するカレンダーである。
 浮き魚礁は、その目玉になるテーマである。
 浮き魚礁にも、各漁協、あるいは何人かが組になって手製のパヤオを浮かす。なお、沖縄では浮き魚礁のことをパヤオと呼ぶ。そんな小さなパヤオから、国の予算で作った大型のものまである。沖縄では大型浮き魚礁は、ニライ号と呼んでいる。ニライカナイのニライだろう。ニライには、たしか1号から12号ぐらいまであった。
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       陸に揚げて整備中

 現在の数をネットでみたら、次々と引退して、今、働いているのは、八重山まで入れて、6基ぐらいしかない。宮古島のニライ44号が引退したというニュースがでていた。
 鉄製ではなくて、FRPの海宝号が交代している。
 
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 ともあれ、2000年前後の沖縄のニライ号を撮りに行く。航空運賃がかかる。ガイドは沖縄の仲間、棚原君とか、譜久里君に勤労奉仕させる。ボート代が8万から 10万だ。 第一回目、現東大教授の小久保君を助手につれていった。現地ボランティアが居るから助手など不要なのだが、どうしても行きたいというので連れて行った。
 那覇港から船を出して、2時間近く走る。快速ボートだから、伊江島を横にみて、本島はかすむあたりにニライ12号がある。
 ニライ号にモヤイをとって、ボートを繋ぎ、飛び込んだ。そのまま流された。2ノットはあった。死ぬ気で泳いで、20mをさかのぼり、ロープをたぐってニライ号に到着した。カツオももちろんマグロも、居ない。小さなコバンアジがちょろちょろしている。
 水中で見るニライ号は 2001年宇宙への旅、の宇宙ステーションそのままの姿だ。
 
 ニライ号に潜る許可をもらいに、沖縄県庁の水産課を訪ねた。ごめん、名前を忘れた。ここには大学の後輩がいる。すごい女で、東京から館山の実習場まで自転車で行く奴で、東海汽船主催のマリンピック、三宅島で行う海洋フリッパーレースで二年連続優勝している。
 一緒に潜ろうと誘ったが、本当に残念だけど、休みがとれないという。漁協に配布しているニライ号のちらしを見せてもらった。宇宙ステーションの下をキハダマグロの群が、悠然と泳ぎ過ぎている写真だ。
 この写真に、僕は縛られることになる。

 なんとしても、プライドにかけて、キハダマグロを撮らないわけには往かない。
 二回目は伊江島沖ではなくて、久高島沖のたしか11号に転じた。ここならば流れもあんまりない。あっても、今度はボートを繋ぐようなアホなことはしない。流されて拾ってもらう。
 2日通った。船代は一日8万だ。アシスタントは、譜久里くんにたのんだ。キハダはいない。カツオもいない。キハダはどこにいるのだ。流れは無いとしても、宇宙ステーションのリングのしたで、いつくるかもしれないキハダを待つ。東京から飛行機で行き、飛行機で帰る。
 聞けば、キハダは、水深100mほどのところに居る。ニライ号の太い鉄鎖は、水深150mから立ち上がっている。その底の方に居るのだという。漁師は餌を撒いて、マグロを水面に引き寄せる。譜久里の提案だ。なんでもやってみる他はない。二回目、通算3回目のトライでやってみた。すでに、一回目からの費用の累計が、150万を越えている。
 生け簀のタイとはちがうのだ。野生のキハダマグロが餌を撒いて、浮いてくるわけがないと、僕の常識が言う。
 一方で、あきらめないことが、信条だ。
 3回目の二日目、中層に浮いてマグロを待っていると、突然、ざわざわという音がした。下を見ると、黒い塊が浮き上がってきて、目の前で花火が開くように展開した。この仕事で使っていたのはニコノスⅤに20mmレンズを付けて、105ストロボだったが、下を向いた時から無意識にシャッターを、毎秒2枚ぐらいで撮っていた。そのころの撮影方法だった。カツオでも無く、もちろんキハダでもなく、30cmほどの大きいムロアジの群れだった。
 きっと、100mの下で、キハダに追われたムロアジが鎖にそって湧き上がるように逃げてきたのにちがいない。後からマグロがムロアジを追って上へと突進して来たならば、すごい迫力の写真になったのだが、マグロもカツオも追い上って来なかった。
 これはこれで、一枚のカレンダーになった。もうこれ以上は、資金が続かない。
 月刊ダイバー10月号のトップになった写真は、この時のムロアジである。

 沖縄のパヤオには、もう一つ話題があった。沖縄ではソデイカ、セイイカとも言う、大きなイカを釣る漁がある。マッコウクジラも追い回すと言われるほどの大きさだ。大きな物では、70cmは越えるだろう。肉厚の燻製が、土産物屋に並んでいる。もちろん、刺し身でも食べられる。まだ、生きている姿を撮影したことがない。ダイバーが潜れる範囲よりも深くにいるからだ。
このイカもパヤオについていて、漁をするときに10mぐらいまで上げてくるという。パヤオを追っていると聞いて、その時に潜れば、と勧めてくれる人もいた。しかし、夜の海である。夜の海であるからこそ、パヤオに何が現れるのか、ソデイカが現れなくても、キハダも上がって来るかもしれない。何が出現しても画にはなる。カレンダーの一枚にはなる。
 しかし、僕は夜のソデイカは追わなかった。やはり、マグロを撮りたい。


0928 ジョージマロリー 神々の山頂

9月23日、こんなことをフェイスブックに書きました。
 5連休も終わる。体調調整もあって、読書と雑用に終始、考えるところあって、今後の活動の道筋を熟慮してすごしました。努力の道筋が決まった。できるか出来ないかは時の運、運だからといって出来る努力をしないでピリオドを打つわけには行かないのです。。

「この世に生きる人は、すべて、あの二人の姿をしているのです。
  マロリーとアーヴィンは、今も歩き続けているのです。
  頂にたどりつこうとして、歩いている。
  歩き続けている。
  軽々しく人の人生に価値など付けられるものではありませんが、その人が死んだ時、いったい何の途上であったのか、多分、そのことが重要なのだと思います。
  私にとっても、あなたにとっても、
  何かの途上であること。。
   N.E.オデル 1987年 ヒマラヤの証言者より
  夢枕獏、神々の山頂 」 
 好きな言葉で、何度も引用しています。
  獏さんとは、昔、トカラ列島クルーズの撮影をしました。彼がレポーターでした。
  あまり船酔いがひどいので、「治してあげましょうか?」治るわけは無いのですが、ちょっとした暗示をかけて、船酔いの薬をのませようとしました。
  「いや、ここまで船酔して来たのだから、最後まで船酔していたい。」
  「神々の山頂」は好きな小説です。今となっては、マロリーの秘密も解けてしまっているのですが。
  獏さんとは、クルーズが終わって、「再見」また会いましょうと言って別れ、その後お目にかかったことはありません。でも、あの旅はきっと忘れていないでしょう。

とフェイスブックに書いたのですが、僕の思い違いで、マロリーとアービンが登頂にせいこしたか否かの謎はまだ解けていません。

1924年、ジョージ・マロリーとアンドリュー・アーヴィンは、エベレスト、チョンモランマの北稜を、山頂まであと250mの地点を登っていく二人の姿を、支援隊員のノエル・オデル(上記引用)が目撃したのを最後に、二人は深い霧の中に消えました。
1999年5月、米国シアトルに本部をおく、マロリー・アービン捜索隊は、エベレスト8300m地点の斜面で、75年ぶりにマロリーの遺体を発見した。寒さと乾燥のために、良好だったといいます。しかし、この遺体が、登頂の後だったのか、下山の後だったのかは、意見が分かれています。まだ謎なのです。マロリーがもっていたコダックのカメラが発見されれば、そして山頂が写っていれば、この謎は解けます。獏さんの「神々の山頂」は、このカメラを巡るストーリーだったのですが、探検はカメラによる撮影が最終結果なのです。

 獏さんの小説は引用した一節を書きたいために、書いたのかもしれないとおもっています。
「この世に生きる人は、すべて、あの二人の姿をしているのです。
  マロリーとアーヴィンは、今も歩き続けているのです。
  頂にたどりつこうとして、歩いている。...

※「冒険物語100年」武田文男 朝日文庫、1999を参考にしました。

0928 巨大浮魚礁でマグロを追う。

僕は、どうしても、マグロを撮りたい。

- 残念なことに若くて亡くなってしまったが、刑事ドラマのスター三浦洋一さんと、彼の水中レポートで日本国中をめぐったことがある。四国も徳島から高知沿岸を虱潰しのように潜ったことがある。室戸の沖でクロボクという浮き魚礁に潜ったことがある。黒潮牧場、略してクロボク、ニライ号と同じような超大型浮き魚礁だ。
 室戸沖のクロボクは、何時もは流れが速いというのに、なぜか流れが緩かった。三浦さんが潜って、魚礁をバックにして水中レポートを始める。ツムブリが群れている。ツムブリは美しい魚で、体型はブリ、虹色に光る。食べても美味しいが、市場価値がない。なぜか、漁師がまじめに狙わないのだ。大型浮き魚礁には何時でもこのツムブリがフラフラしている。三浦さんのレポートはツムブリとの絡みで成立した。
 僕は三浦さんを撮影しながら、カツオの群れが回っているのを横目で見ている。魚礁から100mほど離れたところで同心円を描くように100尾以上の群れが泳いでいる。何とかしてカツオに接近して、しかも群れの輪の外側から接近して、魚礁に追い込むように、バックを魚礁にして撮影したい。強く刺激しないように少しずつ距離を詰める。撮影距離10mぐらいで、カツオの群れはとらえた。なんとかバックには魚礁を入れた。もう一度三浦さんに入ってもらって、カツオ発見、回っている。魚礁に近づいてきては離れて行く、そんなレポートをしてもらって、カツオのシーンも成立した。

 そうだ、高知へ行こう。沖縄をあきらめて、高知の黒潮牧場に目標を定めた。撮影しているカレンダーのクライアントは、水産庁外郭の、現在は「社団法人、全国豊かな海づくり推進協会」当時は全国沿岸漁業振興開発協会だ。協会を通じて高知県のクロボクでマグロを撮影するのはどこが良いか。そして、その許可、船を出してもらえる紹介をお願いした。
 黒潮牧場13号がいいと紹介してくれた。ただし、水産庁としては、あくまでも漁業のじゃまにならないように、漁船が漁をしていたら、潜水しないようにという縛りを言い渡された。それはそうかもしれない。今魚を釣っている時に、僕らが飛び込んで魚が逃げた、あるいは魚の食いがとまったら、あとから問題になるかもしれない。しかし、ここには魚が、マグロかカツオがいることは間違いない。
 足摺岬の根っこのところにある下ノ加江漁業組合が、黒潮牧場13号を仕切っている。
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  減圧症覚悟で撮ったキハダマグロと浮魚礁

 漁協訪問、打ち合わせは、一升瓶2本が常識だ。夕刻、7時すぎ、僕の撮影について、小理事会、クロボクに出漁している船主の会議を開いてくれた。一人でも反対者があったら、出来ないのだ。快く迎えてくれる。「さあ、飲みなさい。」こういう時に「お酒はのまないのです。」というのが辛い。よほど、飲んでしまおうか、と、いつも思う。酒飲み天国の高知県だ。飲まないと嫌な顔をされるかと、心配したが、ぜんぜん、友好的な態度は変わらず。「もう、女の子も帰してしまったので、お茶もでないけど。」と話がはじまった。
 マグロを撮りたい、沖縄では撮れなかった。「そうかい、ここでは撮れるだろうが、サメもおるけど、どうする?」サメとのお付き合いについて、浮き魚礁では、サメがマグロの外側にいることも知っている。南オーストラリアにホオジロザメの撮影に行ったこともはなす。それならば、問題ないということで、どの船が乗せていくか、そして値段の話になった。

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 図は、今。2015年現在のクロボクの状況をネットで調べたものだ。沖縄では、だいぶ変貌があり、鉄のニライ号は、樹脂製の「海宝号」に代わり、数も減らしているが、高知では、三浦さんと潜った室戸の10号も健在だ。9号から始まっているから、8号までの歴史があるはずだ。4基のクロボクは、黒潮の流れに沿って配置されている。漁場が形成されている。クロボクも最新のものは、FRPになっている。クロボクに行けば、最低でも油代(燃料費)は出るという。燃料費だけでは、利益がでないから、魚を追って、さらに沖まで出て行くが、クロボクのおかげで最小限度食べて行かれるとも言えるそうだ。大事な漁場なのだ。
 船は、燃料代20万で借りられることになった。高いも安いもない、これがこの場所でのお金の単位、一個が10万で、二個にあたる。

 ダイビングのアシスタントとタンクの準備を、足摺岬の向こう側、車で走れば1時間かからない、宿毛のパシフィックマリン、森田君にお願いした。ついこの間、8月の終わりに宿毛に行き、森田くんと一緒に潜った。その時にも、これから書くダイビングのことを昔話にした。

 下ノ加江を朝7時に出港した船は、キャビンのある漁船だが船長一人で操船する。漁の時には数人の乗り子が必要だろうと思う大きさだ。
 足摺岬を交わすあたりで、カマイルカの大群にであった。カメラを構えると、船長は船を回して、群れの中に入ってくれた。こういう記述をすると、すぐに、あの時の写真は?と写真を探し始める。時間をとられて、はかどらない。フィルム時代の撮影だから、探すのは容易ではない。しかし、ファインダーを覗いてシャッターを切ったフィルム時代の写真は、何時でも頭のなかに思い浮かべることができる。定置網が張りだしていて、定置網に入ってしまったらどうなるのだろうと心配したが、ぴょんぴょん飛びながら、器用に定置網をかわして行った。
 途中、船長は電話してクロボク13号の海況をきいた。クロボクの観測機器は、1時間毎に観測結果をステーションに送っていて、電話に答えて、自動的に北東の風4m、水温、27度、流速3.5ノットなどと答えてくれる。3.5ノットは緩いほうだという。速い時には5ノット近くなる。
 そのまま走り続けて、足摺岬の陸地が、うっすりと、見えるか見えないかの境目あたりにクロボク13号はあった。
 
 クロボクには、ざっと見て20隻の漁船が群れている。漁船が漁をしていたら潜水しないようにと言われたが、そんな状況ではない。船長は、何隻かの漁船に電話をして、漁師言葉の挨拶と、「これから潜るからよー」と伝えている。全部に電話をしているわけではない。下ノ加江の船だけに挨拶すれば、後はどうでも良いらしい。他所の船は漁をさせてやっているという感じだ。たしかに、プレジャーボートのようなのも何隻か混じっている。
 いい天気で凪だ。波が無くて幸運だ。
 
 見ていると、各漁船はエンジンを回して、緩く流れに逆らうように流されていく。舳先では何人かが釣り竿をだして釣っている。一本釣りだ。餌と散水をしている。いわゆる土佐の一本釣りだ。大型のカツオ釣船は来ていない。きらり、きらり、と魚が釣り上げられている。それほど大きくないからカツオだろうか。シビだろうか。魚の釣れる範囲は決まっているようで、魚礁を通り過ぎると釣れなくなり,また潮上から流してくる。一つの船が良い位置を占拠しないようにうまく流しているようだ。
 僕達も、潮上から入り、魚礁の鎖に掴まって撮影しようと思った。沖縄のニライでは魚礁の下に止まっていられたし、室戸のクロボク10号では三浦さんが水中レポート出来た。同じようにかんがえていたのだ。
 飛び込んで、水深10mに急降下する。ヘッドファーストで急降下しなければ、水面をそのまま流されていってしまう。水深700mから立ち上がっている太い鎖につかまり、足で巻き付いて、撮ろう。
 
 とんでもないことだった。手でつかみ抱きつこうとすると、ガツンと自転車にぶつけられたような衝撃で、とても掴まれるものではない。3.5ノットの流れを体感する。
 二人でロープを持って、二人が両側でロープを伸ばしていけばどうだろう。魚礁から一定間隔でも撮れるし。
 25mぐらい潮上から10mくらいのロープで挟もうとした。ロープを伸ばしているうちに通りすぎてしまった。もう一度、今度は成功した。しかし、流れを身体で受け止めると、とてもロープを掴んでなど居られない。手放した。この試みの時、ロープを腰に縛り付けようともおもった。そうすれば両手が空くから、撮影もし易いし、そんな考えが頭を掠めた。しかし、ダイバーは、身体にロープの類を縛り付ける事を本能的に嫌う。この頃のダイバーは、カチャカチャ、色んな物を身体にぶらさげている。僕の世代のダイバーはあれを嫌う。BCだって嫌ったのだ。何かに引っかかると命取りになると経験で知っている。海底に拘束されて浮上できなくなるのが怖いのだ。だから、身体に縛り付けないで手に持つだけにした。手にも縛らなかった。輪もつくらなかった。もしも、縛っていたら、事故にはならなかっただろうけれど、その日は仕事にならないダメージは受けただろう。
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 こんなトライを4回繰り返しているうちに大体の様子がつかめて来た。
 夢にまで見たような、キハダがヒレを翼のように広げて翔んでいる。強い流れの中に浮かび、自在に遡っている。止まっている。1.5mから2mで巨大ではない。これを魚礁を背景にして撮る。考えてみれば、魚礁につかまったり、結ばれていたのでは魚礁の全景は撮れないのではないか。
 よし、潮上から流して潮の下で拾ってもらおう。釣り船が釣りながら流すのと同じだ。
 50mぐらい潮上から潜水する。あまり離れたら、魚礁に向かう流れにのれない。この流れの中で路線変更は不可能だ。それでも、一回目は離れてしまった。ワイドレンズ、ニコノス20mmだから、魚礁は小さく、マグロは米粒だ。黒潮本流の最中に居る。この強烈な流れが巾100キロ、深さはこのあたりで700-800mの水深でも2ノットぐらいで流れている。大洋の中の大河だ。その中にいるというだけで、身体が震える。
 今度は魚礁に近すぎた。あっという間にすれ違って、すれ違ったキハダを魚礁背景にしてとると、尾びれを撮っている。少し深く潜らないと、魚礁を俯角で撮ることが出来ないし、マグロもやや下から見上げたい。30mぐらいまで潜った。
 浮上だってゆっくり上がっていたのでは、流されてしまう。急潜降、急浮上の繰り返しになった。ダイブコンピューターは、スントのソリューションを使っているが、減圧停止は出ないが、急浮上の警告は出っぱなしだ。何回繰り返しただろう。撮影態勢を見つけるまでで4回、撮影も5回は繰り返している。このパターンが減圧症の可能性があることはしっかり知っている。森田がよくついてきてくれたとおもう。上方の水深10mぐらいから見下ろして見守っていたが、たいていのガイドかインストラクターならば、ヤメろと止めるだろう。止めて止まるわけがない。ハンターなのだ。獲物を前にして高揚してしまっている。もうこれで最後にしよう。30mぐらい潜って俯角でキハダを撮った。そして下を見ると、見上げたような群れではなく、数百の大群が悠然と止まっている。水深は50mは超えているだろう。黒潮本流だから、透明度は高い。しかし、これに急降下したら、多分減圧症にかかるだろう。僕は何時も最後の一歩を踏み出さないことで、ここまで生き延びて来ている。と自己暗示を掛けている。思いとどまった。これを上から見下ろしていた森田は、すごかったと後で言う。
 最後は船が上にいることを確認して5mで6分安全停止した。
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 僕は黒潮本流そのものを撮ったのだ。


 撮った写真を持って、東京のクライアントに見せた。マグロが小さい、目刺しのようだという。ちなみに、ダイバーが小笠原などで撮るマグロはイソマグロで磯に付いている。撮るのは楽だ。
そんな絵を見ているのだろうか、マグロと言ったら、巨大魚をイメージしている。
 水族館や養殖場のマグロではなくて、イソマグロでもなく、野生の、黒潮の中のマグロで、そして、これは黒潮を撮った画で、だから黒潮牧場なのだ。と押し通してカレンダーにした。
 しかし、この画一枚で説明もなく、見た人は黒潮を感じてもらえるだろうか。一枚のスチルではむりなのだ。僕がつかまろうとして激突する姿、ロープで止まろうとして失敗する姿、流れの中を翔ぶマグロ、悠然と、深さ50mを泳ぐ大群、これは動画にしなくては、テレビ番組にしなければ、感じてもらえない。
 下ノ加江の船長には、必ずもう一度来るから、また協力してくださいと頼んだ。

 東京に戻ってから企画書を書いた。幾つかの局、プロダクションに出したが通らなかった。ニュース・ステーションをやっていれば、と思ったし、僕の神通力も僕の下を去ったな、と思った。

 しばらくしてから、NHKの若いカメラマンがお台場で潜水して撮影したいと言ってきた。いろいろ話を聞いたら、同じような企画をNHK高知がやろうとしていた事を知った。そのカメラマンに、お台場での協力の代わりに、水中科学協会の会員になるようにお願いした。会費と入会金で2万円である。取材費として、雀の涙だ。そのまま、何も言ってこない。
 

0929

今日のお台場の潜水、(今日というのは9月27日 日曜日)ラインを引いて、簡単なマップを作り、ラインを芯にして撮影調査をしすることにした。鉛ロープを90m用意した。
 考えてみると、僕の潜水人生は、人工魚礁調査、ライン調査、テレビ番組撮影が忠心になって展開してきた。振り返ってみると、僕が生き延びているのもダイビングの目標が、調査潜水と番組撮影だったおかげだ。僕の時代、テレビ撮影は有線で信号を送っていた。安全度が高い。今度の80歳、80mも、主題は、調査手法をしての中深度潜水の技法の開発である。安全度が高い。どちらの潜水も約束事、フォーメーションが決まっていて、チームで動く、それでも、思い上がっては行けない。幸運だったのだ。人間、誰しも、突然たおれることがある。それが水中でなかったことの幸運だ。

 レクリエーショナルダイビングで、どの程度まで調査潜水を楽しいものとして、ミックスして行くか、その成果が何かの役に立つのか、立たせたい。これが、僕の最後のテーマである。

 お台場も、なぜ今日に至るまでラインを引かなかったか、疑問である。お台場に来るメンバーもリサーチ主体でやることに賛同してくれる人たちばかりだ。東邦大学の風呂田先生は元来が、東京湾の学術調査だし、それに繋がる、多留さん、海上くん、それぞれ、研究テーマを持っている。尾島さん一家は、多毛類の分類で、歯科医なのに研究者の領域に達している。東大の杉原君は、お産で、しばらくは、もしかしたら、かなり長い間ダイビングはできないかもしれないが、お台場で研究して、博士になった。
テーマが特にない仲間たちも、科学未来感の三ツ橋君は、なにか研究テーマを見つけてくれるという。清水まみは、でかいカメラを振り回しているが、その成果をなんとか陽の目に当てたい。
ラインは現段階では、遊びだけど、この頃参加するようになった海洋大学潜水部の学生も、そのトレーにグとしては、ラインサーチが好適である。
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ラインを曳くと、透視度がよくわかる。感覚では透視度50cm-1mというが、もっと先まで、底ではみえていることがわかる。

 先にのべたようにリサーチダイビングは、決まり があり、計画がある。たとえば、ラインに沿って行動するとか、レジャーダイビングよりも、安全性が高い所以である。もちろん計画が不備なら、危険になるけれど。

 タンクは10リットルで、 BC.は久しぶりでタバタを使う。この前のワークショップでタバタのBC.の説明を受けているので使ってみる気になった。いつもは、早稲田の石橋君が使っている。これが、僕の持っているBC.では、一番あたらしい。

 今日からトレーニングのためにドライにすることにした。ドライに慣れないと冬を越せない。ドライを着て、ネックで首を絞めただけでもう苦しい。7キロのベスト、2キロのベルト、1。5キロのレッグだ。少し重いけれど、水深50センチでバランスをとらなくてはならない。
 いつも愚痴っているけれど、この重さを背負ってのエントリー、エキジットが75歳以降の僕の問題だ。特に去年辺りからが胸突き八丁にきている。河合先生によれば筋トレをしなさいと言う。筋トレが循環器に負担になるのでは、と僕が心配するとそういうことは無いのだそうだ。
 タンクを背負うことが筋トレだと思うほかない。ジムに通う時間など無い。
 そのタンクを背負い立ち上がり、歩いて20mほどの渚まで、筋トレする。毎日これをやれば確かにいい。タンクを背負ってスクアットをやれば確かに良いだろう。事務所でやろうかな。

 しばらくぶりのドライで泳ぐのも難儀だ。これもトレーニングになる。
 牡蠣殻を敷き詰めたようになっている海底部分が茶色の付着物で覆われている。もはや、カキ殻には見えない。8月以来かもっと前からか、こうなっている。こういうことがわかるためにもライン調査が必要だ。僕にはきたならしく見えるのだが、美しくないつていうのは、人間の、僕の感覚であって、住まっているハゼのみなさんはどうなのだろう。三番瀬方面では青潮も出て被害があったようだが、ここお台場では、貧酸素もそれほどではなくて、みんな元気だ。このあたりは、チチブがめだって多く、マハゼも多い。多い、少ないと言うのも感覚だが、それ以外に表現がない。8月よりはめっきり少なくなっている?
ラインの巾で撮影して、出現する数を数えると数値になる。
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 ラインの近くにいる、マハゼとチチブ

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    65mの位置の土管?
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    土管の右手の浅いところではマハゼがたまっている。
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     潮が引ききっているので、上から撮影した。満ちると、岩は全部水面下になる。

 ラインはまっすぐのびている。10mおきにタッグをつけているのだが、65mの位置に経30cmほどの筒があり、その真上をラインが通っている。もちろん魚礁になっているから、ハゼがちろちろしている。そのまま岸の方を見ると石のすきまにマハゼが5ー10たむろしている。水深は40cmほどで頭を上げると、陸上のランドマークは棒杭だ。このあたりの浅瀬がマハゼの多い場所だ。そうか、65mの地点だったのか。65mとか言うと基点が重用になる。基点をしっかり定めなかった。次の時にきっちりきめよう。
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 続く

0930 お台場ライン調査


 岩の下の隙間にマハゼが重なり合うようにして、詰まっている。こういう隙間を人為的に作ろうと人工魚礁の計画をたてたがここでの実験的な計画は、いっさい受け入れられなくなっている。まあ、あるがまま、を受け入れよう。
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       これは二回目の潜水で撮ったもの

 マクロを撮るつもりのニコンを持ってくるのを忘れた。
本日の忘れ物だ。
 戻り道は、フィンがよく動くようになって、フロッグキックで戻る。
  楽になったとはいえ、エキジットはつらい。ベースにもどったら、疲労困憊だ。
 この日の潜水は体調も悪いことから、一回にしようと心づもりしていた。
 もう、潜らないつもりでドライスーツを脱いだ。
 みんなはそれぞれ支度をして出てゆく。
 筋トレをしようと思うのに、ここでやめては、いけない。それに、マクロのニコンAWでマハゼを撮っていない。準備をはじめた。一回目の潜水では、どうも腰がおちつかなかった。7キロのウエイトベストをやめて、4キロに換え、腰のベルトを2キロ増やそう。しかし、腰を増やすとベルトがゆるむのでいやだ。タバタのBC.は、腰の部分にウエイトポケットがある。ここに2キロ入れよう。全体としては1キロ減になるが大丈夫だろう。
 今度は、ニコンを持って行くBC.のD環に留めた。
 いつもそうだが、二回目は一回目よりは楽だ。毎日この程度の労作をすればいい。本当にタンクを背負うスクアットをはじめようか。
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     ゴムボートでライン撤収

 全体として、ラインは成功だった。透視度は50cmから1m、GoProでなめるように撮影した。撮影幅でハゼも撮影できた。記録として使える。ランドマークとしても、45m地点から下ったところに、コンクリートブロックがあるとか、80mから下ったところに、沈木がある、とか、尾島さんが知らせてくれた。これまでも、感覚的に知っていたことではあるが、場所を数字で言える。メートルのタグを22mm幅のテプラで作ったが、白地に黒の字は反射してしまってだめだ。黒字に白の字はくっきりと写る。 aa 

1001 ブルースチャトウィン 池澤夏樹

2015/09/26 04:44
 死ぬまでにやりたいことの一つは、水中のことを納得できる良い文章で書きたい。まだ書けていない。書くめどもたっていない。
 次に何を書こうとか、どういうふうに書こうとか考えた時、今度出した「スキンダイビング・セーフティ」がとても良くて、これを抜き去ることがちょっとむずかしい。
 難しいから、考える。

2015/09/26 04:48
 80ー80を本にする。たぶんこれが、僕の最後の本だろう。いつも、本を書く、作る時は、これが最後みたいなことを言ってきたが、スキンダイビング・セーフティは、速攻だった。潜水士問題集もそうだ。80ー80はちがう。80ー80の前に何か書くかもしれないが、80ー8が最後のつもりになっている。
 その下書きのつもりで、日記を書きだした。僕の場合、日記は三日坊主ではなくて、3年、5年周期ぐらいで書いてきた。グラフィティの参考になっている。ブログを書き始めた時、日記は置いたのだが、日記からブログも書ける。
ブログもフェイスブックも人に見せる事を前提で書いている。だから、見せられることし書けない。フェイスブックなどは、書くよりも消すことのほうが多かったころもある。消してしまえば、何も残っていない。日記の中で、人に見せても良い文を選べば書いたものは残る。そんなことで再開した。

2015/09/22 17:56
What Am I Doing Here
どうして僕はこんなところに
ブルース・チャトウィン
池・神保 訳 角川文庫
読了 多分2回目、もしかしたら3回目の読了だ。
ブルース・チャトウィンは、英国人 美術鑑定、考古学者、紀行作家、新聞記者、
1989年 48歳で夭折
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 この本は、1988年、いくつかの文をチャトウィン自身が編集したものだという。好きな文、こういう風に書きたいなと思う小文がいくつもある。
 日本の作家で言えば、これも好きな中島敦かな、いやぜんぜんちがう。早く死んだということかな、似ているのは、中島敦も何度も読み返しているが、これは別格として、チャトウインはセンスがいい。紀行文のヴオルガもいいし、中国の天馬も雪男もいい。人物紹介になるアンドレ・マルロー、エルンスト・ユンガー、ドナルド・エバンス、ガンディー夫人との旅も好きだし、亡くなるちょっと前の1988年のいくつかの小文もいい。

こういう書き方がしたい、と思うような本を、もう少し読みたい。

「どうして僕はこんなところに」の解説をドイツ文学者の池内紀が書いている。チャトウィンを、その書いたものを全部読みたい作家だという。若くして亡くなっているので、それほど多くはない。池内紀も紀行文を多く書いている。読んでいない。目についたら読もう。
書架にもう一度読んでも良いとキープしていた本がある。蔵書と言えるだろうか。文庫本ばかりだけど、それに、大事にもしていないが。
その中に「ハワイ紀行:池澤夏樹」この本も好きだったし、ちょっとチャトウィン風でもある。この人もチャトウィンの選集だったか翻訳もしていたはずだ。

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 取り出してきた。「ハワイイ紀行」文庫本がきたなくなっている。きたなくなっていることが、愛読の徴だ。僕のグラフィティもスキンダイビングもきたなくなっていてほしい。
 途中まで再読して、進化と環境について書いた「秘密の花園」、ハワイの歴史についての「アロハ・オエ」フラについて書いた「神の前で踊る」、サーフィンについて書いた「波の島、風の島」、大きな遠洋カヌーのことをかいた「星の羅針盤」が好きだ。こういう風に各章のタイトルを並べると、「読みたいな」と思うだろう。ダイビングについての章がないことがいい。
 「秘密の花園」部分、ハワイは海洋島である。孤立して海の真ん中にある。島ができた時、何も生物はいなかったはずだ。底に生物がたどりついてくる。
 以降抜粋
 「ではそうやって海の真ん中のハワイイ諸島に植物が渡ってきて、うまく芽を出し、成長し、自分でも実ををつけられるようになったとして、その先で何が起こるのか、あるいは動物の場合はどういうことになるのか。
中略
 定着した生物たちに起こるのは、まず爆発的とも言っていい激烈な種分化だとスティーブ(著者の友人で、ハワイでの生態学についての案内人)は言った。これは知らなかったことだ。生物たちは環境の中に自分が占める場所をそれぞれに定めて、そこで生きる。ここでいう場所とは単に島の中のあるところという意味ではなく、ニッチ、すなわち他の生物都の関係まで含めて環境全体の中で自分が利用できる空間や条件のすべてをいう。誰も居ない島に上陸した生物は、他の種との競争が全く無い理想の生活環境をそこに見出す。この場合、島まで持ってきた資質をそのまま活かして、かって住んでいた遠い大陸と同じ姿で繁栄するのかと僕は単純に思っていた。しかし、広すぎるニッチはたちまちのうちに細分化されるらしいのだ。進化は加速されるわけである。
 そこまで言われて僕は、遅れ馳せに、ダーウィンが」ビーグル号航海記」の中に記しているガラパゴス諸島の小鳥たちの話をおもいだした。」
 ハワイは海洋島である。孤立している。他の種との競争がない孤立した海洋島では、進化の時が止まり、生き物は変わらない、進化しないと思うと、おおちがいで、広すぎるニッチは、激烈に変化して、進化が加速する。ガラパゴスも同じだ。ハワイイには固有種が多い。なぜ、ニッチが激烈に変化するのかは、書かれていない。
 僕も、それ以上追求しない。

 ダイビングについては、ほんの少しだけ、ハワイは、全島、岸が急峻でリーフが発達しない、。だから、ダイビングがつまらない。この意見には、僕は賛同できない。
 確かに、リーフは発達していない。リーフがないために、サーフィンができる。サーフィンのほうがハワイでは目立ってしまった。サーフィンの方が、文学的にも、娯楽、レクリエーション的にもおもしろい。絵になるのだ。

 まあ、ハワイのダイビングについて書くときには、池沢説は参考になる。ここから、話を始めることができる。 



 
 こんな感じで書ければ、いいな、と思う。

1002 マスクの視界、視野


 このマスクをスクーバ用として、使うつもりです。10月28日のJAUS ワークショップでマスクを取り上げますが、その話題の一つとして、マスクの視界を考えます。
 マスクの視界というと、左右の幅が、常に話題になります。僕は、鼻の前にある柱がきになるのです。それと上下の視界です。人それぞれですが、僕の場合は、目球を下に向けたときです。そこで、このマスクを探してきました。
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 探すと言っても、オフィス カオスのマスクのたまり場に、忘れ去られていたマスクです。
 使ってみて、目の前に遮るものはなく、上下の視界は最高です。ただ、左右に目玉を動かすと枠が目に入ります。これは、二者択一です。おそらくは、視界最大であるスフェラをスキンダイビング用に使っていますが、目玉を左右に動かすとゆがんで見えて、これになれるのに苦労しました。ここから先の議論は10月28日のJAUSワークショップで、詳しくはJAUS jpで、夜19ー21時、場所は、地下鉄東陽町、江東区文化会館です。

1003 マスクの視野 2

 JAUSのワークショップでマスクをとりあげるので、その準備のつもりで、もう少し、マスクの話を。
    http://jaus.jp/?p=1274
     ワークショップです。

 前をさえぎるものがない単眼はカメラマンにとっては、必須、むかしのカメラマンかもしれないけれど、とにかく観ることが命のカメラマンは、単眼を使っている人が多いと思います。

 単眼で一番すぐれていたのは、今は亡き親友の後藤道夫が作ったマスクです。1960年代、ニコノスの数だけ、このマスクが使われたはずです。
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       後藤道夫のマスク、鼻の部分に注意

 このマスクのコンセプトは、視野を広げるためにガラスを眼に近づけること、鼻の高い外人は使えないほどで、日本人も鼻に当たる人が居るけど、痛くなければ視野のために我慢する。スカートの部分も水漏れが少なく、これは、後藤道夫のもの作りの天性の産物です。この後この才能は、カメラハウジング作りに行ってしまうのですが。

その後藤道夫と僕は、鬼怒川パシフィックの顧問に就任しました。後藤さんのマスクの型も一緒に行ったのですが、マスクのゴム型は、磨耗してしまって使いものにならなくなっていました。そのとき鬼怒川には、武田さんがデザイナーとして、居て、生涯の親友になり、マンティスが生まれるのですが、マンティスのあまりの成功で、世は、サングラススタイルの二眼に移行します。それでも単眼の需要はあって、横幅で視野を広くしたアトランティスなどがつくられます。
 このころから、日本のメーカーも多くなり向上して、次々と良いマスクができますが、ここでは、自分周辺の流れだけを書いて行きます。
 
 その前に、それ以前の歴史をちょっとさかのぼります。
 1930年代、地中海の南フランスで、遊びのための素潜り、いわゆるスキンダイビングが始まった時、スキンダイバーが着けていたのは、ゴーグルでした。だから、このダイバーたちのことをゴグラーなどと呼びました。そこに、確か、カラマレンコ(違うかもしれません。文献を再確認していません)という人が、眼と鼻を覆う、単眼のマスクをつくりました。そのアイデアは、日本の海女さんのマスクだったといいますが、これも定かではありません。僕が素潜りを始めた時はこの海女マスクでした。
 やがて、水産大学でスクーバを習い始める時、学校が用意していたのは、フランス製のスコールというマスクでした。これは、楕円形、シングルスカートで誰の顔でも、だいたいあう、良いマスクでしたが、ゴム質が悪く、ひと夏でゴムの部分がとろけてしまうのが難点でした。
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  このマスクが基本、若いころのユージにークラーク博士、
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  鼻で息を吸い込んで陰圧にすれば、マスクの水漏れはほとんどなかった。
 
 このマスクと同じようなマスクを国産で、ゴム質を良くして提供しようとしたのが、日本水中工業の高橋さんでした。名前だけは大きいのですが、お店は浅草の花川戸にあり、高橋さんは地元の高橋組の息子でしたが、不肖の息子?で組を継がずに一人だけのカンパニーを作り、マスクを作りました。マスクのニックネームはスイチューで、でした。(1958ごろ)
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       スイチュー

そして、日本アクアラングが誕生して、日本のアクアラング潜水も本格的になるのですが、そのころの世界をみると、楕円形のスタンダードが大半を占めていますが、水抜き弁がついたものや、無理やりワイドにした箱のようなマスクまで、様々な形が生まれます。
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 スキンダイビング用具の元祖ともいうべきイタリーのクレッシーサブは、マスクの内容席を小さく、視界を広くするためにガラスを目に近づけるために花の部分をゴムにしたピノキオというマスクをつくります。これが2眼マスクの元祖です。その進化形でリンチェ(メガネ猿)というマスクができ、マンティスを作る時、木彫人形のピノキオでも無く、メガネ猿でも無く、もっとかっこいいサングラスタイプのマスクを作ろうというコンセプトで作り上げたのが、カマキリ(マンティス)です。

 一方で、アメリカのボイトが作った、大きな排水弁の付いたマスクが売りだされ、日本でも、排水弁付きのアクアジェット(鬼怒川) パシフィカ(日本アクアラング)などがつくられ、マスククリアーを教えないで済む、(1963)弁付きマスク全盛となります。
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 なぜ、弁付きマスクが廃れたか、よくわかりませんが、指導団体のプログラムが確立普及してきて、マスククリアーが最初の講習のマストになったこと、弁が壊れると、困ること、そして、豚鼻と呼ばれた格好も、マンティスなどのかっこよさに負けたのだろうとおもいます。
 その頃から、マスクはファッションになってきます。このことは、とても重要です。
 ボディはクリアーシリコンになり、フレームの色は多彩になります。
 マスクの殆どが二眼になったのも、この流れです。

 流れに逆らっているのが、単眼です。 続く。

1005 マスクの視野 3 単眼マスク

 ダイバーにとって、マスクは眼の一部分だから、とても大事で、自分にあった、自分のマスクが決まったら、それを大事にして、使い続けることが基本で、たいがいのダイバーは、そうしている。だから、今、とりあげている、単眼のマスク、など、マーケットからは、問題にされないような、タイプでも、ひそかに売れる。ダイバーは、自分のマスクがこわれた、或いは磨耗、ゴムが老化して、水が漏れるようになったときの買い換えを、心配する。
 いっぽうで、車を乗り換えるように、マスクの乗り換えで、気分を一新しようという人もいる。メーカーにとっては、ありがたいお客さまだ。
 僕の場合、使うマスクは、ほとんどが、ダイブウエイズ、ときどき、キヌガワのマンテイス、だ。ダイブウエイズは、親戚同様で、新しいマスクができると、使ってみるようにたのまれる。テストドライバーみたいなものだ。
 それと比較するような気持ちで、他のマスクも使ってみる。そんな視点からマスクをみる。

 今、少数派になっている単眼のマスクについて考察しているが、なぜ、単眼かといえば、目の前を遮るものがないためだ。
 マスクは慣れだから、目の前にピラー(鼻の前の柱)があっても慣れてしまえばきにならなくなる。しかし、気にすれば気になる。なにもない単眼に慣れた眼で、二眼を使うと、なれるまで、うっとうしい。特にカメラマンは気になる。

 ぼくは、単眼マスクを三つ持っていて、それぞれ、かなり使ってみている。その一つは、今度、自分のスクーバ用正式採用のスーパーワイドⅡで、これについては、あとでのべよう。

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 一つは、キヌガワのアビス、後でフルフェースマスクのところで述べるスノーケリングマスクもアビスなのだが、そんなことは、どうでもいい。
 これは、クラシックな小判型単眼がシングルスカートであるのに対して、ダブルにしている。
 シングルとダブルのちがいは、シングルはスカートのゴムの縁が、ちょっと外にまくれあがるような感じで顔に圧着させる。水漏れはしにくい。良いしくみだが、ゴムの老化で水漏れが起こる可能性があることと、顔を圧する部分が痛い。たいしたことはないが、長時間着けているといやになる。ダブルは、その点を改善したもので、顔当たりはやわらかい。水漏れについては、むしろ、微妙になった。
 伝統的な小判型単眼をダブルリップスカートにしたのが、このマスクである。よくできたマスクで、ダブルであっても水漏れはしない。小判型単眼を愛用してきたカメラマンなどは、このマスクをかんげいした。
 しかし、単眼、小判型は、すでに時代遅れであった。一定の単眼フアンが買う程度と予測してカタログに残っている。カタログに残すていどには売れているのだろう。それに亡くなると愛用者が困るから、サービスなのだろう。

 ここでマスクの売れる要因について考察してみよう。マスクが売れるかうれないかは、ショップのおすすめである。
 ショップがおすすめするのは高いマスクである。たかいといっても、それほどたかくはない。たとえばマンティスLV は18000円である。マンティス5は、14500円でマンティスシリコンは14000円である。後述するように上下の画角に差をつけてはいるが、性能に大きな差を付けるわけには行かないから、その差は、美しさであり、デザインの差である。性能が同じか、微妙に差があって、デザイン、美しさに差があれば、そしてその金額差がリーズナブル、たとえば4000円であれば、ショップのおすすめする方を買って当然である。
 単眼マスクは、このような世界とは別の世界であり、キヌガワのカタログにも、終わりの方に、プロ用として載っている。
 アビスのブラックシリコンは9000円である。
 なお、マンティスLVは、美しい、良いマスクだけれど、僕は持っていない。使ったこともないが、よいマスクでなければ売れないから、とてもよいマスクだろうと思う。

 アビスに話をもどして、僕が気に入らないのは、耳抜きのために、鼻を摘むへこみがついていることで、このためにガラスが遠ざかり、視界を狭くしている。
 プロならば、耳抜きは鼻をつままないで抜けるか、あるいはマスクの下の縁を軽く当てるだけで抜ける。摘みにくいマスクの凹みに指を入れるのはむしろ面倒である。
 初心者は2眼のマスクを使って外から鼻をつまめるから、それはそれでよいが、カタログでプロ用をうたい、どうせプロしか買わないのだろうから、後藤道夫のマスクのように、鼻にくっつけたらよかった。このマスクを企画した青木さんは、後藤道夫の弟子筋で、僕は、ぺったんこにしろといったのだが、売れ筋を考えたのだろう。でも、どうせ、それほど売れることは期待できないのだから、思い切ってほしかった。

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 次は、バサラ、なんというネーミングなのだろう。ネーミングなどどうでも良い世界のマスクかもしれないが、このマスクの前身はレモラ(コバンザメ)だから、レモラⅡでもよかった。
 レモラは単眼で、横に幅が広く、その分だけ視界が広がっていて、プロはよくつかっていた。レモラが無くなったら困る。そういうプロの要望に答えて作ったものだと思う。
 僕もしばらく使ったが、ダブルに慣れた顔には、シングルがうっとうしかった。1時間も着けているといらいらしてくる。しかし、ダブルのない昔はこれでよかったのだから、慣れ、というか顔が軟弱になったのだろう。

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 そして、いよいよ、僕がスクーバ用として正式採用したダイブウエイズのスーパーワイドⅡ、単眼としては、一番新しい。新しいのに忘れ去られていて、ダイブウエイズとしても売る気がないらしい。ネットで調べても画像がでてこない。「幻のマスク」だそうだ。幻でもなくて、カタログには載っていて、8190円だ。
 単眼だからもちろん、眼をさえぎるものとてない。ダブルだから顔あたりも良い。僕の顔、髭で水が漏れやすいのだが、水ははいってこない。このマスクの特色はストラップである。かぶってから、帯の端を引っ張ると、きりりと締まる。締めすぎるとゆるんでちょうどよいテンションになる。これは他のマスクには無い機構だ。顔あたりの気分が良くて、視界を遮るものもない。快適なマスクだ。もう一つこのマスクのよいところは堅牢さである。ダイビングバックのなかに投げ込 んでも、プラスティック部分が割れるようなことがない。(なお、締め付けてテンションをかける方式の嫌いな人もいると思う)。
 欠点は、スーパーワイドなどと唱えながら、ぜんぜんワイドではない。理由は、鼻つまみが内側にあるからだ。これを取り去ってぺったんこにすれば、とうに愛用マスクにしていたのだが、これが気に入らなかったので、放り出してあった。しかし、今度取り出して使ってみたら、眼球を左右に動かすと、ほんのちょっと枠が眼にはいるが、気にするほどではない。それよりも、上下の視野がひろいことがカメラマンにとっては気持ちがいいい。

 上下の視野というのは、このごろ問題にされていて、キヌガワのマンティスはこれにこだわっている。LVが上下103度、5が99度、マンティスが90度とカタログにのっている。単眼も同じようなものだが、視野を遮る柱がない。
 この柱は実用としては、全く問題はない。ただ、うっとうしい。そして、単眼にするとすっきりとして気持ちがいい。

1007 マスクの視野 4

    
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       後藤道夫が作ったマスク 単眼マスクの僕のの理想だと思う。

  普通のマスクは、単眼ではなくて、今ではマンティスやラクーンのタイプが普通になっている。このタイプを二眼といいたいか、このタイプで単眼のものも少なくない。仕方が無いから、スタンダードタイプとしよう。
 スタンダードタイプで、僕が使うのは、ダイブウエイズでは、ラクーン、実はこのネーミングはすきではない。僕はマーリン、海鷲という名を提案したのだが、ラクーン、穴熊になってしまった。だれも穴熊のマスクなど着けたくないのに。
  
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    ラクーン、上部の補強材が取れてしまっている。実用上問題ない。今度、ここに、マスクマウントを貼り付けて見ようかと思っている。

 しかし、マスクそのものは、気に入っている。水漏れはほとんどなかったし、着けやすい。視界も、マンティスと変わらず、マンティスよりも上下が少し広い。今のマンティス5ぐらいだろうか。僕のスタンダードで、レンタルにはこのマスクが一番多く用意している。
 もうマスクはこれで充分だと僕は思う。しかし、ファッションとして、カラーとして、マンティスに及ばない。性能が同等ならば、フャッション性で、このタイプは選ばれる。要するにちょっとした見た目と、枠のカラーの多様さで劣っている。
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   マンティス、マスクマウントを付けている。

 これは僕がとっかえひっかえ、マスクを使った結果を述べているが、僕は、どちらかと言えば、マスクの水漏れを起こしやすい顔のようだ。もしかしたら、髭のためかもしれないが。
 ラクーンのもう一つの欠点は、プラスチックのフレームの上の縁の補強材がすぐに折れることだ。僕の扱いが荒いのだが、あえて荒くしている。荒くしても壊れないことがいいことなのだ。
 補強材はすぐに折れるが、補強しているだけだから、そのまま使えるが、今度折れたら枠そのものが折れることになる。折れたことはないのだけれど。

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    マスクマウントを付けている。

さて、今度は、新しいマスク、アイ・アイだ。このネーミングも、なんだか、よくわからない。合い、逢い、だとかいっていた。はっきりと言って、これをつくるよりも、ラクーンの設計なおしをしたほうが良いと僕は思った。しかし、それではデザイナーとしての武田さんのチャレンジ精神が許さないのだろう。次々と新しいデザインを、そして、それは、前のものよりも良く、そして、なにか特色を持っていなければならない。
 このマスクは何種類かサイズがあって、顔を測定して、サイズを選ぶ。
 スタンダードとしては珍しくシングルスカートで顔あたりがいい。顔に合えば、水は漏らない。何種類かサイズがあるから、サイズが合わないと水が入る。
 サイズが合えば、これまでのマスクの中のベストともいえる。とても良いマスクだが、やはり、目の前を遮る鼻をカバーするピラーが眼に入る。このマスクには右と左をつなげた単眼もあるが、鼻の上は、やはりじゃまである。このじゃまは、本当に遮らない、スーパーワイドのようなマスクを使ってみて、比べない限り気にならない。僕は気になる。
 キヌガワにも同じようなガラスがつながった、ヴエイダーがあるが同じだと思う。
 
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    スーパーワイド、マスクフェイスがまがぬけている。

 ということで、僕はスーパーワイドを使ってみることにした。面白いし、他の人がつかっていないし、何よりも、目の前を遮るものが無いので、気持ちがいい。どれほど、気持ちが良いかといえば、使った比べて見る他ない。上下の視界は、特に上の枠は眼球を上に向けても目に入らない。これは、カメラマンにとってはとても良いことだが、左右は枠が見える。差し引きで、僕にとってはプラスだ。ストラップのテンションも良い。
 ただ、マスクフェイス、マスクを付けての外見だが、これも大事な条件である。スーパーワイドはあんまり良くない。

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    スフェラ、マスクフェイスは気に入っている。

 ワイドといえば、僕は、スキンダイビングように、スフェラを使っている。スキンダイビング・セーフテイを書いて、共著者の藤本君がこれを愛用しているというので、使ってみた。レンズを思い切り眼にちかずけて、さらに両端をカーブさせてワイドにした。これこそ、スーパーワイドだ。水中で使ってみると、裸眼よりワイド?そんなことはないので、裸眼とおなじくらいにワイドだ。しかし、そのワイドになったガラスのカーブの部分で像がゆがむ。カーブのために遠近感が裸眼に近くなり、慣れるまで違和感がある。慣れれば慣れるのだ、というマスク使用の習性を活かした思い切ったデザインである。後藤道夫が、ガラスが鼻を押してもよいと思いきったのと、同等だ。
 まだ、何となく、スクーバでこのマスクを使う勇気がでない。像の歪みで、なにか、間違ったことをやらないかと、不安なのだ。

 さて、キヌガワの新しいマスク ヴェイダーを使ってみていないし、タバタで大ヒットのモルビーも使っていない。そのほかのメーカーにも触れていない。ダイブウエイズは身内だから勝手なことを言えるが、よそ様の悪口は言えない。でも、たぶん、どれも同じように良くて、同じように、時々水が入るのだろう。デザインの好きずきになるスーパーワイドや、スフェラのような個性的なマスクは、みつけられない。クレッシィイのミニマは、岡本美鈴はじめ、フリーダイバーの愛用者が多いようだが、想像が付く、ガラスを目に近づけているので、スーパーワイドで、スフェラのように特異な視界ではないのだろう。僕はスフェラの特異なワイドを楽しんでいるので、ミニマは試さない。
勝手なことを言うためには、お金を出して、マスクを買わなければいけない。提供されたら、褒めないわけには行かない。

1006,浦安海豚倶楽部の辰巳での練習で、スフェラとスーパーワイドを交互に使ってみた。スーパーワイドをスキンダイビング練習に使っても良い、つまり、スーパーワイドの方が使いやすいのだ。しかし、本当のスーパーワイドのスフェラも捨てがたい。今度はスクーバでスフェラをつかってみよう。
なお、スフェラは日本アクアラングが売っているものを使っている。 



 結論をいうと、スーパーワイドⅡのゴムボディを作りなおして、後藤道夫のマスクのように、鼻を押してもいいから、本当にスーパーワイドにしてほしい。

1009

80-80m のこと、お台場のことをブログに書いている。まだ、書いている途中で、載せられない。どちらもかなり長くなりそうで、丁寧に書こうと思っている。月刊ダイバーの連載が終わったので、グラフィティのようなことも、丁寧に書いて、重ならない。また、始めるとき、あるいは単行本にするときがあれば、書き直す下書きになればとも考えている。ただ、丁寧に書くと時間をとられるので、あまり丁寧に書けないのがつらい。
 丁寧に書こうとすると調べ物が多くなる。

 80-80は、つまるところ僕の潜水は、フルフェイスマスクとサーフェスサプライ潜水の追求であり、スクーバとサーフェスサプライの間に身を置いた、葛藤だったのだ。と今になってわかった。そのことを書こうとすると、サーフェスサプライの日本版、原点でもあるマスク式からかきはじめなければ、ならない。今、大串式の事を書いている。次に山本式に進み、軽便マスク式、そして、デマンドバルブ付きのフルフェイスマスク、そして、システム潜水、最後に自分の80m潜水にと進んで行くつもりでいる。あくまでも下書きだ。
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1960年代、先進のスクーバフルフェイスマスク、ハイドロパック、菅原久一師匠
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  大串式をスクーバ風に使った模式図、 船の科学館蔵


 お台場潜水は、東京港という環境との付き合いであり、葛藤だった。いまでも葛藤があり、悩んでいる。そのことを始まりから丁寧に書かないと、わかってもらえない。これも丁寧に書くと、一冊にまとめられるかもしれない。かも知れないが、が多くなるが、残り少ない生命だから、これらを書き終えるまで、生きていられるかもしれないのだから。
 
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    未来に残そう、潜れる東京港

 お台場のことを書いていると、船の科学館の存在が大きかったことが、今更のようにおもわれる。お台場に幾つかの建物があり、今度はオリンピックの中心になる。魚河岸も来る。その変貌の中で、船の科学館があれば、とおもう。船の科学館は再生するだろうが、それは、僕達の船の科学館ではなくて、また別のものだろう。過ぎてきた歳月、良き時代の思い出だろう。ともあれ、時間は止まらないし、まだ活動は続く、活動は葛藤であり、つらい日々が続くのだろう。
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  閉館間際、お名残に来館者が多い。
 
 

1010 マスク式 海底の黄金


 向こう2年間の自分のやろうとしていること、目標の座標軸を決めた。 
 8080潜水に関連づけて、マスク式潜水、サーフェスサプライとスクーバの間柄、プロのダイビングとレクリエーションダイビング、を書くノンフィクションを書く。
 もう一つはお台場の潜水を通して、海の環境、都市の環境、オリンピックの問題などを書く。ノンフィクションと言うのか、自分の行動を通して、海と社会を書いて行く。
 この二本が本になれば、僕の生涯はそこまでだ。でも、若い頃から、本を書こうとすると、生涯はそこまでのように見通してやってきた。その先はわからない。いつも。

 だから、もう一つ人工魚礁調査から沿岸漁業のことを書きたいが、三つは無理かも知れない。
 座標軸が決まってしまえば後は運だけか?
 あと、二年の間のことだ。

まず、マスク式潜水を軸にして、日本の潜水の歴史を追って行く。
 多分、延々と続くと思うけれど、なんとか目標まで行き着きたい。
なお、ブログでで書いているのは、下書きのつもりであり、下調べも不十分であるし、推測も底が浅い。何度か書きなおして、目標に到達したい。

 フルフェイスマスクと軽便マスク式のちがいは、日本の高気圧作業安全衛生規則(高圧則)では、デマンドバルブがついているかいないかで分ける。
軽便マスク式は、潜水士テキストから消えて、デマンドバルブ付き全面マスクだけになった。工藤和由君と共著の「潜水士試験 完全攻略テキスト」では、規則改訂による、ある程度の書き直しを行ったが、僕は軽便マスク式は消去してしまおうという意見だったが、工藤君はまだまだ、数は少ないが沿岸漁業での海産物採集や、追い込み網漁業では使われていて、潜水士テキストから完全に消去したのは間違いだ、という意見で、残すことにした。潜水士テキストよりも、この問題集のほうが良いとまでは言わないが、優れたものにしたいという矜持はある。

 ここから述べる、大串式マスクは、日本のマスク式潜水の元祖ともいうべきもので、日本独特の潜水器であり、世界で初、デマンドバルブの潜水機としての成功例だ。
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 ここでは、山田道幸 海底の黄金、講談社、1985を参考にした。
何分にも古いことなので、整合性に問題があるし、創作の部分もあるが、そして、その内容にもダイバーの眼からすれば、??のところもあるが、 第一次大戦で、エジプト沖でドイツの潜水艦に沈められた八坂丸から10万ポンドの金塊を、片岡弓八という船長が大串式マスクを使って引き上げた話で、小説として面白いし、手に入れることの出来るテキストとしては、もっかのところこれしか無い。マリンダイビングに、片岡弓八の手記が連載されていたのだが、今、手元にない。こんなことになるとは考えていなかったので、水中造形センターに就職した、潜水部の後輩に持っていたバックナンバーをさしあげてしまった。
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    八坂丸 12000トン

 著者の山田さんは歯医者さんなのに、このマリンダイビングの手記を見て、なぜかこのストーリーにはまりこみ、この本を書いた。だから、マリンダイビングの記事のエッセンスはここに、含まれているだろう。山田さんは、潜水もなさるみたいだけれど、C-カードの無い時代の、C-カード程度のようだ。

 大串式を作ったのは渡辺理一という人で、東京水産大学の前身である水産講習場の卒業生だから、僕の大先輩である。これから書く、マスク式潜水というと、水産講習所卒業生のオンパレードだ。その末席を僕が汚しているのだが、本当に汚してしまっている。が、がんばった。そのことも書いて行くので、長期戦になる。

 大串式を作った渡辺先輩は、卒業後、イタリーに留学とある。明治30年頃だから、ヨーロッパのイタリーに行くとは、大変な時代だが、なにをしにいったのだろう。
 ウィキで渡辺理一を探してもでてこない。ブログにこれを出しておくと、以後、ネットで渡辺理一 潜水 と検索するとここに当たることになる。

 渡辺先輩は、日本に帰ってから、故郷の大村湾の長島で真珠養殖を始める。1903年、明治36年というと、鳥羽のミキモト幸吉が、真円真珠をつくったという1905年よりもかすかに古い。このあたりのことは、定かではないが、長崎の大村湾は明治40年に鳥羽よりも先に真円真珠をつくったという説明もでてくるので、三重とともに、長崎が真珠発祥の地である。現在でも真珠養殖の場としては、環境的にはむしろ優れていて、生産量も多くなっている。その発祥の時に渡辺理一がどのように関わっているのかは、わからない。
 大村湾の長島とあるが、どこだ。これも、ネットで探したのだが、大村湾には長島という島はない。さらに探したら、長島は、八代湾、水俣の先にあった。この長島には2013年に中尾先生たちと行っているが鹿児島県である。

 とにかく、長崎県の大村湾で、渡辺理一は、真珠養殖を始める。 現在は母貝のアコヤガイも養殖してそだてているのだが、当初は潜水して採集するほかなかったのだろう。
 その潜水は素潜りであり、素潜りの海女さん、海士を少しでも長く潜らせれば、効率はよくなる。大量のアコヤガイも手に入る。
渡辺さんは鍛冶職、金属加工行の大串金造の協力を得て、全く新しい潜水機を作り上げる。そして、これでアコヤガイも大量に採取できたらしい。
 
 海女が着ける、目と鼻を覆う単眼のマスクの中に、空気を送り込めば、長く潜水できる。軽便マスク式の一つである海王式はマスクの中に空気の流れるままだが、吸うときだけ、それも必要なだけ空気が供給されれば、空気の量も少なくてすむ。消費する空気の量は今も昔も潜水器の優劣を定める重要なポイントである。

 誰でも考えつくのは、手動で、バルブを閉めたり開けたりして、開けた時だけ吸い込んで、吐いている時には閉めれば空気が無駄になることはない。当初の大串式は、この方式だったらしい。しかし、手で開け閉めしているのでは、片手が塞がってしまって手作業が不便である。歯で噛んで開閉するバルブを作り、歯でバルブを開くと、マスクの中に空気が出てくる。歯で噛んで吸う。これをバイト式と呼んだ。

 参考にしている「海底の黄金」は、面白い本だけど、事実に忠実であるかどうか疑問のところが、多い。そして、黄金を引き上げた片岡弓八が主人公だから、弓八に味方している。渡辺理一は、片岡弓八船長の船で、一等航海士をしていた。それをやめてから、真珠養殖を始めるのだが、ある日、渡辺は一つの潜水器を持って、弓八を訪ねてくる。この潜水器で海を耕し、海を開くのだ、と夢を語る。すでに、アレキサンドリア沖の八坂丸の金塊引き揚げを考えていた弓八は、この潜水器で出来るかもしれないと思う。そして、手動ではなくて、歯で噛むバルブ、バイト式を発案し、提案することになっている。だから、大串式は片岡弓八が作ったことになる。多分、片岡弓八は、あれは僕が考えたのだ、と後に言ったのだろう。その時には渡辺理一はもう亡くなっている。
 大串式は、渡辺がこういう潜水器がほしいと大串に相談して、大串が主要部分のメカニズムを考えだしたのだろうと推測する。
 アクアラングのクストーとガニアンの関係のようなものだったのだろう。
しかし、片岡弓八はダイバーではなかったが、この潜水機があれば、八坂丸に到達できる。金塊が引き上げられるという眼はあって、これに、すべてを掛けた。
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  英国に特許をだした大串式の写真、150キロ充填のタンクとある。
  フィンはつけていない。
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  歯で噛んでバルブを開くバイト式
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  大串式をスクーバ風に使った想像図
 いずれも船の科学館蔵


 とにかく、渡辺理一のコンセプトは、水中呼吸器を素潜りダイバーに背負わせようとする、今で言う、スクーバだったのだろうとも思う。クストーがスキンダイビングの延長線上で、より長く潜りたいために、アクアラングを考えたのと同じように、素潜りの延長線上で渡辺は大串式を考えたのだと思う。そんな風に思いたい。渡辺は、大串式をスクーバとして1918年に英国で特許申請をだしている。しかし、渡辺がこの大串式を、スクーバ、もっともそのころはスクーバという言葉はないが、スクーバとして使用してアコヤガイを引き上げたかどうかわからない。特許の写真はBSACのダイビングマニュアルから複写したものだが、ここには、150キロを充填と書いてある。150キロの高圧を充填できるコンプレサー、施設が明治36年に地方で簡単に手に入れる事ができたとは思えない。
 普通のヘルメット式潜水器はすでに使われていたから、ヘルメット式の手押しポンプのホースの先にマスクを付けて使った方が多かっただろう。もしかしたら、ボンベではほとんど使わなかったのかもしれない。このへんもよくわからないが、片岡弓八が八坂丸の金塊引き揚げに使ったのは、ポンプで押す送気式として使った。
 八坂丸の水深は、書いている本によってまちまちである。この本では、88mになっている。いちおう80mとする。八坂丸は、大きい船だから、沈んでいる水深が88mであっても、潜水深度は船の高さがあるから、もっと浅くなる。

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  手押しポンプ、天秤の両側に丸太を通して、何人もで押セば圧力を押せる。

 
 ここで、手押しポンプと聞くと、手押しポンプで80mなんて無理ではないかと思う人もいるだろうが、手押しポンプだからこそ80mも潜れる。そのころのコンプレッサーで、80m,9気圧の送気能力のあるコンプレッサーはない。手押しポンプならば、圧力が高くなれば、押す人間の数、人力を増やしていけば良い。マスクの内容積とほぼ同じ程度のピストンを押して送気すれば良い。だから、潜水器の内容積が深海潜水の可否の要になる。ヘルメット式のように大きい内容積では、換気が不十分になる。それで、マスクの小さい大串式が世界で一番深く潜れる潜水器だったわけである。大串式ではポンプを一回押せば、済むところを、ヘルメットでは、10回押すとすれば、勝負は明らかだ。
 
 片岡弓八は1918年、大串式の特許申請と同じ年だが東京潜水工業というサルベージ会社を設立する。これで、大串式を使って八坂丸の金塊引き揚げを目指す。
 水深70-80で減圧症を引き起こさないかといえば、まだ、減圧理論とて確立されたわけではなく、減圧テーブルも物語には出てこない。ヘルメット式よりも大串式の方が減圧症になりにくい、などという記述はある。それは嘘だから、減圧症による事故死は、一名ですんだのは、幸運と言えるだろう。
100万円、当時としては巨額の金塊が引き揚げられたのは、1925年だが、それ以前に渡辺理一は金塊を見ないで亡くなったという。

 この大串式潜水器であるが、多分、潜水研究所の菅原久一氏が持っていたものだと思うが、現 ADS の創立者である、清水の故望月昇氏が持っていて、船の科学館に寄贈し、展示されていたが、現在船の科学館は無期限の休館である。船の科学館の一室に潜水博物館をつくりたいというのが、僕の願いの一つであったが、僕が生きているうちには難しいだろうと思う。
 それに、大串式のレプリカ、使えるレプリカを作って、潜って見たい。ただ、僕はもう入歯なので、使えないだろうけれど。
 最後に潜水病、減圧症事情についても、「海底の黄金」は、書いている。一番軽いのは「ロマテキ」とよばれていて、今で言うⅠ型のタイプだ。次が「ハウカース」でⅡ型、最後が「パレライス」でチョークすであろう。本の記述を引用すると「これは、30尋(約54m)以上の深さで長時間作業した時に罹るものである。合図が無いので引き揚げてみると、すでに死亡していたり、人事不省に陥っていたりする。「血の玉」が上がってくるといって、血を吐きながら苦しむのもこの段階のものである。」
八坂丸でも若いダイバーが一名、これで命をおとしている。しかし、成功報酬は今で言うと3000万ぐらいだろうか、ダイバー気質の若い衆ならば、命を懸ける。僕だって、若い頃ならば、いや、年とって残りが少なくなれば、なおさらに、3000万ならば行く。
 なお、減圧治療は、「ガントン」といってふかし療法である。
 大正18年の時代である。簡単な減圧表もあっただろうが、本の記述ではでてこない。減圧停止の記述もない。ただ、ガントン、ふかし治療をやる記述はある。片岡弓八は、ガントン、ふかし療法でもいい顔をしない。責任者に詰め寄られて、しぶしぶ認める。

 僕は、片岡弓八は好きになれない。自分は潜らずにダイバーの生命を賭けて、巨額の富をねらう。自分も潜れば、好きになる。

 片岡弓八は、昭和33年75歳で亡くなる。昭和33年といえば、僕が東亜に入った前年だ。息子さん、たしか直吉さんが東亜に訪ねてきたことがあり、三沢社長に紹介されて、ご挨拶した。物静かな人だった。彼もダイバーではないから、挨拶においでになったのだろう。社長が片岡弓八の友人であり、葬儀にでたのかもしれない。

参考 海底の黄金 山田道幸 講談社 1985
   BSAC SPORT DIVING 1987

海底の黄金はアマゾンで4500円だった。

1011 日記  潜水読本

 山下弥三左衛門著「潜水読本」を全部コピーした。もうぼろぼろになっているので、この辺でコピーしておかないとバラバラになってしまう心配がある。

 
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  ※見ると東亜潜水機が発行したことになっている。この本は、今僕がお世話になっていr成山堂書店がだした。それを東亜が別刷りを作ってもらって、販促、お客サービスにした。入社したばかりの僕は、この本を封筒に詰めて、宛名書きをやり発送をやらせられた。

コピーは、プレゼンターという書写カメラを使っている。持っているスキャナーがあまり高いものでなく、かつ、古いので時間がかかる。
 これを取り込んで読むのに、キンドルはどうかと相談した。良さそうだけど、タブレッドの古いのがあったので、我慢してそれを使うことにした。
 昨日、昨夜、三浦定之助先輩の「潜水の友」をノートをとりながらじっくり読んだ。このコピーは前から持っていたのだが、斜め読みだった。追われているし、専門の潜水のことだから、斜めに読んで大意をつかめば良い。古い話だから、そんな感じでここまできた。こんどマスク式のことをじっくり書こうと思って読んだのだが、疑問に思っていたことがずいぶん解けた。
 山下さんも水産講習所の世先輩で、東亜時代にそして、その後も実家のある鹿児島でお目にかかって、お話をうかがった。三浦、山下と続くのが日本のマスク式潜水の系譜である。
 マスク式、大串式、山本式は日本独特のものであり、水深90mを潜っている潜水器である。そして、それは、今の送気式マスクにつながるものであるのに、ほとんど研究されていない。
 僕はその歴史的なマスク潜水と、新しいフルフェースマスクの十字路にいる。今書いているブログは下書きのつもりだが、マスク式のことはきちんと書いて置きたい。
 そのためには山下先輩の潜水読本もしっかり、もう一度見直さなくてはいけない。
 そのためにコピーをとって、タブレッドで読む。

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 ※ 僕と後藤道夫の師匠出会った菅原久一が、東亜潜水機に勤務していた頃、作った、CCRだ。危ない潜水器で、危ない目にあったらしく、菅原さんの後任で僕が東亜に入ったころには、処分されていて見たことがない。多分、苛性ソーダが吹いたのだろうと思う。菅原さんが言っていた。苛性ソーダが吹くときには、手で触っていると熱くなるからわかる。では、わかったらどうするのか?教えてくれなかった。善処するほかないのだろう。

 山下先輩も三浦先輩も潜水のことだけでなく、潜水してみた自然のこと、水産のことを何冊も書いている。
 三浦先輩の「おさかな談義」とアマゾンにでていたのでクリックした。

1012 三浦定之助 山本式マスク

 1935年、僕が生まれた年だ。「潜水の友」著者は、三浦定之助、彼も、水産講習所の卒業生だから、先輩だ。この本は、1935年9月に発行されたマスク式潜水のマニュアルだ。この本を参考にしてマスク式の話を続けよう。

 マスク式といっても、大串式ではない。山本虎多という、片岡弓八と同じ商船学校を同期ででたという船長が考案したものだ。この山本式のマスクも大串式と同じ、歯でかんでバルブを開いて鼻から吸うバイト式だ。大串式の特許には抵触しなかったのだろうか。大串式は、世界六カ国に特許を出している。片岡弓八は、こういうことにはうるさそうだ。
 山本は、ほぼ、同時期に考え、製作したといっているが、特許には抵触しなかった。
 
 山本式は、日本潜水株式会社が、販売していた。「潜水の友」の奥付でその住所を見ると、東京市深川区永代橋二丁目十一番地とある。今の僕の事務所から近い。もしや、何か?と思って行ってみた。もちろんなにも残っているわけもない。
 「潜水の友」などを見ると、僕の東亜潜水機よりも盛んにやっていた時期があるようにも見えるのだが、消滅してしまっている。
 なお、山本虎多船長は、サルベージ作業中に命をおとしてしまって、この会社の経営者ではない。
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 「潜水の友」は非売品で、奥付の隣に、昭和10年9月19日、発行所より寄贈、深川図書館と印がある。深川図書館、今の古石場図書館だ。僕は、そこで借りて複写した。この本は、あの戦争、あの下町空襲で焼け残ったのだ。なお、下町空襲で深川辺は死屍類類だったから、どこかに疎開してあったのだろうか。

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   三浦先輩、手にしているのは山本式マスク、マスク式は潜水服は着ない。この服装で潜る。

 三浦先輩は、静岡県伊豆の水産試験場伊豆分場の場長であったから、伊豆分場がマスク式潜水を使った定置網潜水のための講習のメッカになった。
 潜水の友は、その講習のテキストでもあった。

 第一章が心構え、つまり精神論と潜水器材の様々、ヘルメット式とマスク式の区別とか優劣とかの説明、すなわち概論だ。第二章が一般潜水作業員の心得、第三章がマスク式潜水器のハード説明と使用法、つまり、第4章が潜水ポンプによる送気法、第5章が潜水病と続く。
 実はこの本をコピーした時ななめ読みしたのだが、1935年、僕が生まれた年の日本の潜水の詳細が書かれている。これを機会に詳しく見ることにした。
ノートをとる、といっても、ノートを広げてメモはしない。このごろ使い込んでいるポメラでメモする。このメモは、テキストで打っているので、それを、今、ワードに移しながら、隙間を埋めて、手なおししている。

章毎の目次、項目をメモして、それに、自分の考えを付け加えて行く。

 第一章 一般潜水界の状況とマスク式潜水
 1.  行け!海国男児は海底へ
 圧力に耐え、荒波に挑む。潜水夫は、戦士である。恐れずに海に挑む。圧力と海底の様々な障害をあげているが、これは、うち勝つ対象なのだ。安全とか、危険とか言う言葉はここには、でてこない。

 僕にも、同じような血が流れている。戦士の赤い血だろうか、海の青い血だろうか、そんなことを考えてしまう。
 水産講習所の後身である東京水産大学に入学したとき、入学式には、演壇の後ろには、大きな日の丸が掲げられている。先輩に歌わせられた歌は、「我ら一筋、国のため」だ。つまり、国のため国民のために、食料である水産物を穫り、育てるのだ。
東京の高校では、社研とか左翼的なグループの勢いがあり、先生は日教組、メーデーにも参加した。僕にはカルチャーショックだった。右翼にもならないし、左翼にもならない、海一筋だ。

戦争が敗戦で終わって10年だ。大串式を作った渡辺理一先輩、潜水の友、を書いた三浦先輩、そして次に扱う予定の「潜水読本」の山下弥三左衛門先輩は、何の迷いもなく、この教育を受けて卒業したのだろう。
 そして、1935年の時代背景は、昭和10年は、これから中国戦争が始まろうという時代だ。
圧力も、海も、慎重に対応しなければならないが、恐れてはいけない。もう一つ大学で教えられた歌「一度死んだら二度とは死なぬ、たったひとつのこの生命、どうせ死ぬなら千尋の海の青い墓場に浪の花」おそらく、海軍兵学校から終戦で横滑りしてきた先輩が伝えた歌なのかもしれない。それが80歳になった今、すらすらと書けてしまう。

 僕は、戦前の侍精神と、戦後の民主主義の間にたっていた。
 
 第一章にもどって

 2.~3。で、潜水機の分類、マスク式ヘルメット式から潜水艇までの概略、マスク式については、かなり詳しく述べている。これは、あとの章で述べる。
4. 圧力、物理的な概念、ボイルの法則、送気圧と水圧についてなどを計算式を交えて、詳しく述べているが、分圧の法則、ヘンリーの溶解の法則はでてこない。
 6。潜水作業気質 
一部引用する。
 「潜水さえできれば、誰でもできるような仕事もあろう。しかしながら、現今の多くの潜水作業は、多年辛苦の結果生まれたものであり、最も荒い仕事の上に細密の注意を払うものでなければ効率を上げることが困難である。困苦欠乏に耐え、呼吸する空気さえも節約または中止してなおその上にいろいろな冒険をしてはじめてなし遂げることができる。」 
これが基本精神であり、この基本の上に、裸潜り気質、海産物採取潜水夫、サルベージ潜水夫気質、大謀網(定置網のこと)潜水夫気質、フケツ潜水夫(工事ダイバーのこと)気質、海の研究者気質、が述べられる。

 そして、6、(なぜか、6が二つあった)で、日本定置漁業研究会が行う、マスク潜水講習のプログラム大要が述べられている。
 「一般のこれまでの潜水夫になる階段は、まず「ポンプ押し」から入る、これは約1年、次に裸潜水、素潜りをやる。10mぐらい。そして綱持ちになる。これは潜水夫助手で一切のことをやる。綱持ちの時代に、間を見て潜水をさせてもらう。潜るためには、ポンプを押す人、綱持ちも省略できないから、なかなかチャンスはない。これが2年ぐらいで、ようやく潜水夫になれる。

 この徒弟制度を経ずして、定置網潜水ができるようにすると言うのが、日本定置漁業研究会潜水講習会である。

 第一期講習は15日間で、マスク式潜水のあらましを講習して25尋(1.8m✕25=45m)まで潜れるようになる。
 第二期講習はヘルメット潜水でこれも15日間
 第三期講習は、エリート対象で、学科も重視して17日間で最終日には50尋(90m)まで潜る。
 混合ガスではない。本当に90mまで潜ったのだろうか? 
 八坂丸が80mだったから、可能性はあるし、潜っていたと思う。
もちろん空気潜水だ。
 しかし、第三期については、
「特殊天才的の人であって、十分可能性のあるとみた潜水夫だけを採用するのであって、志願したところで、許可するものではない。」と述べている。

 第二章は、一般潜水作業員の心得
 運用方法について述べている。項目だけあげる。
 8 ポンプ押しの注意
 9 空気圧縮機を使用せる場合機関士の注意
 10 綱持ちの注意
 11 潜水船船頭の注意
 12 潜水練習者と心得
  ここでは健康について述べている。潜水に弱い人と強い人という説明で
 「潜水に強い人というのは、少しぐらい無理な潜水をしても容易に潜水病にかからない人で、多くは痩せた筋肉のしまった身体である。しかし、このような人は、潜水に適当であるかといえば、必ずしもそうではなく、潜水病にかかると、激烈で、直ちに死亡するようなことが多いので危険である。」
 要するに適当に太っていて、病気になるが抵抗力のある人、僕のような人が良いのかもしれない。そんなことは書いていない。

14 潜水合図
15 潜水後ろ捌き
16 潜水船の準備

続く

1013 山本式 潜水の友 2

  潜水の友 続き
この「潜水の友」の記述と図で、大串式はスクーバとして使っていて、長崎でのアコヤガイ採集に実績をあげていたことを知った。今、知ったのだ。
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図によれば、背中に背負っているタンクは充填圧が40キロでフィンは履いていない。バルブの開閉は、片手の手動で行っていた。
マスクにホースが直結されていて、ただそれだけだったが、まちがいなく、実用になったスクーバ潜水機として、大串式が世界初だった。スクーバの原点はフランスでもクストーでもなく、長崎県大村湾の渡辺理一だった。

前回、片岡弓八がバイト式のアイデアを出したのは、嘘だろうと書いたが、これは本当で、「潜水の友」の記述によれば、片岡弓八の考えで、大串式は完成したとある。
特許に出したのは、すでにバイト式であり、150キロのボンベだったが、やはり150キロの充填は容易ではなかったものだろう。40キロのために長い時間の潜水も出来なかったし、深く潜れなかった。
ここで、八坂丸の、送気式、デマンドバルブ付きマスクの潜水機になる。

ここでは、本文を全部引用できないので、引用部分はゴシックにして、後は、現行の自分の眼からみて、要約、意訳している。

第三章 マスク式潜水器について
17 ヘルメット式とマスク式の得失についてのべている。
 「マスク式の方が減圧症にかかりにくい。これは、実績である。ヘルメットは45mが優良であるが、マスク式では100m」
そんな風に考えていた。言うまでもなく、減圧理論では潜水機の種類には関係がないのだが、本当に潜水機の種類に関係がないだろうか?例えば、スクーバで、ドライスーツとウエットスーツと減圧症にかかる率は同じだろうか? 現今のように、理論式から割り出して行けば、大大公約数的には同じだろうが、この時代のように、限界すれすれで、潜っていれば、実績は無視できない。そもそも、減圧表も経験、実績で評価されている。
 「ヘルメットは45mが優良であるが、マスク式では100mまでの実績がある」している。

①潮流の抵抗が少ない。流れの速いところでは、絶対的にマスク式だと述べている。
 ヘルメットのような潜水服を付けないので、抵抗が少なく、歩くのが速く敏捷性にすぐれている。また狭いところにも入って行ける。
②潜水服を着けないので転覆する心配がなく、転覆に続いて足を上にして吹上などもない。
狭いところに入れない。
③中性浮力での作業ができる。ヘルメット式でも熟達者は中性浮力で作業ができるが、一つ間違ってバランスを失えば、吹き上げられてしまう。
※現行の高圧則で潜降索にこだわっているのは、ヘルメット式の吹き上げ防止のためである。
④スクイーズ
 浅い海では潜水服による下半身のスクイーズもさほどの問題にならないが、深く潜ると下半身が絞られて、真っ赤になる。
⑤ヘルメットは着装に時間がかかる。
⑥ヘルメットは、手元が見えない。

マスク式の欠点は、潜水服を着ていないので寒い。年齢は40以下、ヘルメットは、50以上のベテランも作業できる。
つまるところ、ヘルメット式のマスク式の差、というよりも、身体の動きを縛る、潜水服を着ているかいないかの差である。

 ヘルメットと比べたマスク式の欠点は、寒冷なること。
 ウエットスーツがまだ出来ていない頃の話だ。寒冷は致命的な欠点だったろう。しかし、そのために長く潜れない。すなわち、マスク式は潜水病になりにくい、ということだったのではないだろうか。

18 マスク式綱持ちの特に注意すべきこと
19 マスク潜水夫の心得

20 マスク式潜水器局部構造
 大串式は実物を見ているが、山本式は実物をみていない。
東亜潜水機に入社して、間もないころ、1959年頃だが、僕が作業デスクを作った、倉庫の天井から、このマスクが吊るしてあった。その頃はなんでも、フィンでもマスクでも天井から吊るしていた。ちょっと、手に持って見たと思うが、残念なことに、その頃は、アクアラングだけが、潜水機的に思っていたので、無関心だった。社長が、「マスクが吊り下がっているから、持ってきてください。」というので、持って行った。どうしてもほしいという人が居るということで、売ってしまった。そのころ、すでに山本式を売っていた、日本潜水は消滅してしまったらしく、(その辺の事情もわからない)もしかしたら、これが最後の山本式マスクだったかもしれない。
最近になって、真鶴の岩の組合の倉庫から、これが見つかったということを聞き、組合と親しくしている岡本美鈴に、聞いて見るように頼んでいるが、まだ返事は来ない。
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山本式は、目と鼻を覆うマスク部分とゴムで顔全体を覆うマスクが二重構造になっている。
顔全体を覆うゴムは、完全に水密になっているかどうか不明であるが、排気弁がついているので、いちおうフルフェースマスクになっているようにみえる。
 大串式は目と鼻マスクのみで、口金の部分は露出している。
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山本式の考案者山本虎多は、奇しくも商船学校で片岡の同級生であった。サルベージ作業で命落としている。大串式と、ほぼ同時期に着想しているというが、大串式の方が早いとは皆認めている。
なお、渡辺も大串も八坂丸成功前に亡くなっている。
 
マスクに水が入ったとき
の水抜きについてのべているから、山本式は外側のゴムの部分は、今のフルフェースマスクと同様である。
マスクの水抜きは一回口に入れて、外に吐き出す。上を向くなどの記述がある。排水弁の位置は、口に正対していて、排水には不便であったようで、水が漏れないマスク装着が重要だった。

すなわち、山本式と大串式の差は、山本式はフルフェースマスクだったことだ。
デマンドバルグのついてフルフェイスマスクとして、実用になり普及したものとしては山本式が世界初だ。


山本マスク式の空気消費は、ヘルメットの二分の一、思ったほどの差ではない。内容積比から考えて、もっと差があると考えていた。
なお、「潜水の友」では送気量、についての細かいデータが掲載されている。
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ポンプは天秤式と回転式があり、深さに応じたピストンの径、押す数と人数の表がある。最大16人で押している。16人力だ。それでも間に合わないで、手押しポンプを二台連結などもしている。
送気量を5段階に分けて、ピストンの径と押す回数を表示している。
空気消費量の差は、一番大きな問題であり、潜水夫の上手下手は、空気の消費量であり、
空気消費の多いダイバーはポンプ押しに嫌われる。
たとえば、45m潜るのとして、着底するまでに10人のポンプ押しが倒れてしまって、交代する。潜降する時の空気消費が多いのだ。
減圧停止も長いとポンプ押しが持たない。
深い潜水は10分以内、潜降速度はできるだけ速く。減圧停止については後述するが、6分以内である。これらはすべてポンプ押しの体力にかかっている。

山本式の特色の一つは、貯気タンクを使っている。ヘルメット式はヘルメットの中の空気などで、少しの時間の余裕があるが、マスク式は送気が止まれば待ったなしである。貯気タンクの役割は重要であり、また、深い圧力の時に貯めておけば、浮上を開始したら、ポンプを押すのをやめて、タンクで浮上することも行われていた。
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コンプレッサーも使っているが圧倒的にまだこの時代はポンプである。
この図は、水産講習所の潜水練習船のものらしい、現在のヘルメット潜水船とあまり変わっていない。僕らの母校東京水産大学、その前身の、水産講習書は、1935年当時、世界の潜水の最先端を行っていたのだったが、僕もそのことは教えられず、現在の東京海洋大学の博物館展示にも、その展示はない。

 次回はその時代の減圧症、潜水病事情について書く。僕自身、考えさせられるところが大きかった。

1014 インドネシアの大串式

 フルフェイスマスクのことを書きたくて、日本式のフルフェイスマスクすなわちマスク式のことをまず書こうとして、資料にあたったら、捕まってしまった。

 そして、これから書こうとしている潜水病についての1935年以前のダイバーの姿勢、これが、マスクよりも、自分にとって焦点になりそうなので、少し、慎重にじっくり書きたい。書けるかどうかわからないけれど。
 これに嵌り込むと、よそ見ができなくなるので、その前に、現代の大串式?について、ちょっと脱線しよう。大串式と言っても歯で噛むバルブ、バイト式の前の原型的な大串式だ。
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 インドネシアのなまこ採り漁師のマスク、ほぼ大串式

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 もう一度、これが世界初のスクーバである1918年ごろの大串式の図をみてみよう。
 この図も、三浦定之助先輩が、多分自分の手で書いたものだから、正確かどうかわからない。特に背負っている40キロ充填できるという背嚢、については、写真とかがほしい。と言ってどうなるものでもないので、この絵が、大串式が世界初のスクーバでというただ一つのてがかりである。
 このマスクの部分、マスクにホースが突き刺さっている。
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 この絵とほぼ同じ2000年代の、ホースが付いたマスクの写真だ。

2004年、僕はインドネシアに宝探しにいっていた。正確には、宝探の撮影に行っていた。宝探しをしていたのは、宇野沢徳太郎、旧友で、400トンの船で宝探しをしている。おしいことに、成功寸前で、癌に倒れ、亡くなってしまった。
この話は僕のホーム・ページに載っている。
  http://homepage2.nifty.com/j-suga/silkroad.htm
 
 引用しようと思ったのだが、あまりにも長く、そして結構面白く、そして写真も多いので、興味があれば見てほしい。

 その宝探しで雇い入れたインドネシアの漁師、ダイバーたちが、この写真のマスクを使っている。
 インドネシアの潜水漁師は、なまこをとる。なまこをとって干して中国に売る。
 中圧のちょっとした大きさのコンプレッサーで5人ぐらい一度に潜れる。空気の消費量が少ないのだ。ただし、潜水深度は25mあたりより深くは潜ってくれない。
 
 大串式の原型がこのマスクと同じだとは今知ったばかりだから、2004年当時はこのマスクを見て驚いた。20mぐらいのところで遊んだり、ちょっとした作業をするのならば、これで十分で、日本の軽便マスク式とかは不要ではないのかとおもってしまった。このマスクは鼻の前に排水弁が付いているから、余った空気はここから出て行く。呼吸もあんまり苦しくないのだろう。フィンは着けていないがよく泳ぐし、海底では、速く歩き、敏捷だ。
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 使ってみたかったが、やはり、練習せずに、もしものことがあるといけないと思いとどまった。やればよかった。

1016 潜水の友 3

書いてある内容の如何は、80年前の事情だから、現在のダイビング事情からの視点では、全部間違いと思えて当たり前であるが、この本は当時の潜水事情、マニュアルとして、とても優れている。これ一冊で当時の潜水がすべてわかる。
その頃の潜水病、減圧症事情はどうだったのだろうか。

第5章 潜水病
マスク式へとさかのぼったのだが、山本式、大串式マスクは、40m以上を日常に潜る。大謀網、定置網は、その設置深度が50mを越える。入り口が50mを越えるのだ。
 どんな減圧テーブルを使っていたのか、減圧症の罹患は、事故報告は、
 まず、断片的な記述を並べていく。


「剛胆無比の潜水夫は何が怖い?やはり潜水病だ。しびれだ。海底の大蛸(潜水病のこと?)の祟りによって、優秀潜水夫は次々と死亡又はフグ者になってしまった。小生等も二回其の厄に会してしまった。」

「大正8年1919年頃までは、マスク式では、潜水病はないと誤信されていた。しかし、その後ますます深く、かつ、広く行われるに従い死亡も罹病者もでたのであり、、、」

「英国海軍で研究発表された時間制限表があります。飽和潜水夫を深海から引き上げて実験されておりますが、減圧療法ににた長時間を要するものであり、多くの海底作業は、この能率では経済的に成立することが困難であろうと思われる。
 マスク式では、短い潜水時間と、交代潜水夫の多数を持って、浮上途中停止なしに、又は甚だ短い停止で浮上するなどの作業方法が採られている。」

「50ヒロまたは77m潜水:
 50ヒロの潜水記録を有するといえば、我が国にも十指を折るにたらない。一般潜水夫としては、このような深海に行くことは無理である。一回5分以上潜水はしない。連続二回潜水するというようなことも甚だ危険である。午前2回、午後一回位の回数でその間は休養し、また一日置き位に休養して潜水する。現今、対馬沖の日本海戦のナヒモウフ号などこのくらいの深さで計画されている。このように潜水時間が短縮するということは、交代する潜水夫が多数を要することになり、やく1人位なければ無理が行くであろう。日本定置漁業研究会では、第三期講習として、これくらいの練習を計画している。

では減圧表は?
「潜水の友」で減圧表に類するものをさがす。
 各潜水深度で減圧症にかかった事実がどのくらいあるか、其の状況をふまえて「マスク式連続潜水表」というのを作っている。これは、これ以上は潜ってはいけない潜水時間の表である。
 減圧停止については、「マスク式潜水、普通海底において潜水制限時間」という表があるが、これを見ると、たとえば、79mで4分までは停止なし、6分になると20ヒロ・36mで3分、18mで6分停止する。15ヒロ、23mでは、30分までは停止なし、30分以上は、10ヒロ・18mで3分停止する。
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 注意として
「以上述べてきましたが、以上制限時間外、長く海底にいると必ず潜水病にかかるとは限らない。否、少しくらい超過するも罹病しない場合が多い。大正年間ごろはまだ長く潜水していた。現今、我が輩始め制限外潜水もやる。しかしながら、事業計画として無理はあってはならない。」
 要するに、これでも慎重にす過ぎると言っている。


 三浦定之助 減圧症報告、抄録

2、7月10日より潜水作業を開始して、罹病は8月28日である。この間、毎日水圧により体力くんれんされておる。
3.8月14日より二週間、集魚灯試験の為夜間潜水をなす、疲労す。
4.8月26日、27日、大暴風あり、大謀網尽く流失す。この間、休養せるを持って、疲労なし。
5.8月28日、風無けれども波浪高し。11時より、11時半、第一回潜水終了
  28尋-30尋(54m)潜水時間32分無事
7. 海上にて全員食事せしも、潜水夫(本人のことらしい)食事せず。
8.一時南風強く吹き出し、潜水船操櫓自由ならず。※手漕ぎの船で、ダイバーを追尾していたらしい。
  潜水夫の歩く方向に曳航す。
10.潜水夫は海底土俵の山(定置網の固定土俵)を次から次に検査して歩く予定。
11.海底に置いては南東に向かって潮流が段々と急になり始めた。「表面は東流す。
12.  曳航はうまく行かなかった。
13.潜水夫は、息綱(命綱)が汐に流されて、網の方に横流れせらる。
14.潜水夫は 定置網を固定する錨綱が、頭上5-7mで、いちいち泳ぎ上がって引っ張らなければならないため苦境に陥る. ※ホースが綱と交錯するので、乗り越えなければならない。フィンを付けて泳いでいるのではなくて、海底を歩いている潜水である。泳ぎ上がるのは辛い労働である。
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15.進むに連れて、錨綱が高くなり、息綱は下流の土俵綱に引っかかり、信号不通(、※綱を引いて信号する。)これが直接打撃の大なるもの。
16.わずか10分で終了すべき仕事に約30分を要し、過労のため呼吸困難(めまい)に陥り、終了後横流され急浮上す。
17.浮上直後変わりなく調査報告をなして、帰途につく、帰港当時は急潮全海に亘り、大謀網竹全部沈下、風強きを以って沖島陰、20mの浅場でフカシ潜水をやるべく予定なるが、ここも海が荒くて不可能であった。第二の直接原因と思う。(浮上途中の減圧停止ではなくて、フカシで減圧する方法を当時はとっていたのだろう。現在の船上減圧と同じ考え方ではある。)
18.陸に付く頃、突然左足に痙攣を感ず。眼を開ければ、万物黄色に見えたり。
19.胸部に激痛を感じ呼吸困難なりしも、暫時にて止み、帰宅安静せるも左右両足時に痙攣止まらず。海荒く風ますます強く、ふかし療法困難なり、海況の為不幸は続く。
20.入浴してこれを揉むとき、痙攣去るも腰部に潜水病を感じ、歩行困難なり。
21 夕方、医師を迎えるころは用部の麻痺全身に広がり、寝る他なきに至る。排尿、排便共に不可能に至ったり、翌日より天気平穏ならず、フカシ療法を始めるも、ただ陸上にて潜水具を着けてやるに過ぎず、圧力低く大効なきが如し。※陸上でヘルメットを着けて、加圧したものと思われる。第三の不幸直接原因と思う。
 9月3日より快方に向かう。同5日直立しうるに至る。以後、ふかし療法二ヶ月を経て、快方に向かいたるものなり。
 22.潜水して15尋(27m)にて症候消失したるが如し、海底において不自由を感ぜず。

フカシについては、
「1908年のホールデーン博士の論文によって、作られた時間表をもとにしてフカシ療法が各国でおこなわれている。我が国では明治28ねんごろからフカシ療法をやることが始まっている。
最近(大正12年)隅田川永代橋架橋工事において、真鍋学士によりて、もっとも有力なる減圧方法が研究され、罹病者40人全部全快したのである。」
フカシが今で追う減圧停止である。罹る前にフカス、減圧停止。罹ってからフカス、ふかし療法である。
現在の再圧治療も同じことでもある。フカシがまず行われたその当時、減圧タンクが無いかといえば、複室のある立派なタンクはある。
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1017  潜水の友-4

 ダイビングは所詮はマイナーである。そのマイナーな中でも、昭和10年、1935年のダイビング事情など、マイナーにさらにマニアックであろう。それを延々と書いているのだから、だれも興味を持ってくれないのではないかとおもう。
しかし、自分にとっては、明治生まれの大先輩が、減圧症とどのように闘い、そして倒れて行ったのを知ることは、とても重要なことだ。僕は、今のダイビング、減圧停止が出ただけで、そのまま減圧症になるのかと問いたくなるほど、騒ぐ。80,90mに空気で潜って、急浮上、短い潜水、急浮上、減圧停止の代わりに、ふかし療法をやる。
 僕は2つの世界の真ん中辺りに居る。僕の同年輩の仲間のダイバーは、何人も減圧症にたおれて、半身不随になるか、それに近い症状でリハビリに励む。そんな場所に立っている。読者が減るな、と思うけれど、もう少し我慢しよう。

 42  潜水病症状の大体
1.脳神経径に発生する場合。
2, 腰部以下半身不随
 3 目の充血
 4 排尿、排便の自由
 5 発汗の不均衡による不快
 6 手足先など局部に発生する場合。
 7 めまい
と例があげたれているが、そのうちで、
1.脳神経系に発生する場合
 「潜水病により即死するか、または即時発生してその日のうちか翌朝までに死亡するようなときは、およそこの場合と見ることが出来る。これは、普通潜水病に強いというような人、よほどの無理をやっても、一度も潜水病にかからなかったというような人に多いのである。小生がこれまでの生涯で見聞きしたところでは、およそ、全罹病者の三割弱はこの即死の場合がある。これら即死の場合といえども船側に浮上した後に、または直後に死亡するので、二、三語話す余裕がある。海底で潜水病で死亡して浮上したということはないのである。後略」
2.腰部以下半身不随の場合
 「この場合、潜水病の発生は前者よりも遅く、上船語20分位より、最も遅きは十時間語、夜中安眠中に来ることあり、この種の場合も普通潜水病に強いと言われる人である。多くの場合、半身不随とはいうが全身不随も同様で寝返りさえもできない場合が多い。但し、頭と療法の手が自由であるのみ。潜水病としてはこの類が一番多く六割をしめている。小生の場合もこの類である。一度この病気に罹ったら、少なくとも三ヶ月は床上に横たわり、専らフカシ療法を施す。
 第四の、排尿、排便の自由 も悲惨である。

これが昭和10年、僕が生まれた時のダイビングマニュアルである。
急速潜降、深い潜水の場合には潜水時間が5分、10分と短いので、次々と何人ものダイバーがタッグマッチのように潜水を繰り返す。


 減圧症に罹患。 三浦先輩の場合。
「小生は2回罹病しましたが、やはりいずれも9月であった。いずれも1年中の悲哀身に迫る淋しい時期!半身不随の儘就床して耐えざる痙攣と針で刺すような局部の刺激に仮眠から覚めて虫の音を聴くとき、何と心細い深夜ぞ!
 中略
 潜水梯子に載せられて担ぎ出され、同情深い、友の手によるとは言え、再圧療法のため白波の下に沈み行く身!」

 「小生愛弟子の内でも深海潜水の部に入る人々は、約2割がこのために逝っております。」

 こうして、マニュアルに書いてあるのだから、わかっている、知っているはずである。それなのに何故、と思う。
 自分がこの時代にダイバーになったら、どうだろう。
このマニュアルを読んでも、ダイバーになったことだろう。なってしまえば、潜水病を絶対的に防ぐなどということはできない時代である。
 三浦先輩は1961年没だから、僕が東亜潜水に入社した1958年には、まだご存命だったが、潜水病の後遺症か、東京まででてくることはなく、こちらは、なにしろ、日曜休日もない会社だったから、見舞いにも行かれず、ついにお目にかかってお話を聞くこともできなかった。三沢社長に見舞いに行きたいと申し出れば、喜んで、もしかしたら、同行してくれたかもしれない。
 
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     僕が入社した当時の東亜潜水機 こういう時代だったのだ。

 潜水の友、に引き続き山下弥三左衛門の潜水読本、定置網漁業と人工魚礁の本も読んで行きたいのだが、その定置網の本の序論で、三浦先輩のことに、山下先輩は触れている。
「三浦先生は、潜水研究に着想され、定置漁業を自然条件のもとに観察され、定置界に新しい、指導標を建設された先駆者である。
 三浦先生の身命を賭とした業績を想い、潜水病苦に堪えて達筆を後進者に残された寄与は、高く評価せずにはいられないものがある。」
 これが、なぜ、そんなにしてまでの答えである。今風に考えれば、命を失うような道への定置網潜水講習などするべきではない、というかもしれない。しかし、海は、水の中はフロンティアだった。だったではなくて、今もフロンティアであるが、そこへ突撃していく以上、そのとき、其の時点での最前の防護策が万全でないとしても、命を賭けなければならないと思う時代である。
三浦先輩は一緒に突撃して、2回も減圧症になりその後遺症に苦しんでいる。命令して、自分の宝さがしのために、若い命を危険にさらして成功した片岡弓八とちがうとおもうのは、その点である。
戦争を肯定することがないのと同様に、潜水病に罹患する可能性を知っていて突撃することを肯定することは、今の自分達には考えられない。しかし、昭和10年である。明治の日露戦争では、日本兵は死の突撃を繰り返して勝利する。昭和11年には、2.26事件が起こり、やがて日本は戦争に突入する。
その時代に生きていれば、自分は三浦さんと同様なことは、しなかっただろうか。多分したと思う。

 三浦先輩に会えなかったといえば、今、伏龍特攻隊のいきのこりであり、海洋科学技術センター(JAMSTEC)で深海潜水の指導をされ、後に尾道海技学院でおしえておられ、社会スポーツセンターでも講座を持っていただいていた、三宅玄造先輩にもう一度あって話を聞いておきたい。尾道では、若い生徒たちに「ゲンゾウ」と呼ばれて、親しまれていた。最後に会ったときは、江田島を案内していただいた。が、今の僕の視点で潜水についてお話をしたことがない。この夏、広島、呉に行ったとき、連絡させていただいたのだが、返事が戻ってこなかった。お元気だろうか。僕が80なのだから、たぶん90を越えられたか。

1018 三浦先輩

三浦先輩のことを書いてきた。三浦定之助、三浦先生でもないし、お目にかかることもできなかったし、潜水の友という本、そして、「おさかな談義」という本に今目をとおしていて、むかし、「南の魚」という本を読んだ記憶がある。ただ書いたものをとおしてだけのだが、やはり、三浦先輩が今の自分にとって、呼び名としてしっくりする。
 ここで三浦先輩のことをまとめておこうと思う。おさかな談義の奥付によれば、
1887年 明治20年 生まれ、1909年 明治42年 農林省水産講習書漁撈科卒業
長崎県水産試験場技手、東京潜水工業 技師 静岡県伊東水産試験場場長
潜水技師として日本各地の漁場を調査  1961年 没 74歳
著書には、「潜水生活20年」「南海の魚」「おさかな談義」「海草」など、潜水の友は非売品でマニュアルだったから、リストアップされていない。潜水の友は、念の為にアマゾンでチェックしたが、でていない。以前、15000円ででていて、コピーを持っているので、買わなかった。
 ※引用の時、コピーをスマホに移して、スタンドに立ててみると便利、引用するような本はみんなコピーして使う。

 三浦先輩は人の噂話などを昔聞いたけど、剛毅な人だったのだと思う。
 そして水産人だ。水産人という言葉、今ではもう聞かれない。水産人とは、水産を通じて、国のため、国民のために尽くす人といういみだ。僕のあたりまでその教育を受けている。母校も今は東京海洋大学になり、良し悪しは別のこととして、まったくちがう大学になった。魚を獲ることはビジネスだが、明治から昭和10年にかけて、そして戦後も、食糧難、飢饉という言葉があった。今の人達は念頭にもないだろうが、食べるものが無くなるのだ。国民のために食料である魚を獲るのだ。魚が居なければ、魚を獲る手段kがなければ、国民の食糧にもならないし、ビジネスにもならない。捕鯨のことは、いつか書きたいとおもっているが、1950年代、鯨を捕ると、全国の小学生の給食にでるのだ。団塊の世代の最初の方のひとたちは、給食の鯨にノスタルジーがあるかもしれない。
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 そんな時代背景である。三浦先輩は、自分の潜水を水産に役立てるのだという信念があった。
現役時代は、ずいぶんと気の強い、怖い人だったようだ。スパルタ的にダイバーを育てたかもしれない。
潜水教育のプログラムを見ると、そんな感じがする。使う潜水機は山本式である。
 伊東の水産試験場辺で実習を行う。そして、最上級になると、常時50mを潜る。場合によっては90mまで空気で潜る。潜水の友で 驚くことは、窒素酔いの記述がないことだ。

 1。脳神経径に発生する場合。
2, 腰部以下半身不随
 3 目の充血
 4 排尿、排便の自由
 5 発汗の不均衡による不快
 6 手足先など局部に発生する場合。
 7 めまい

 7 目迷ひ
 「これは潜水病ではない。勿論、潜水中に時々発生する。がその原因は組織内の窒素ガス泡蓄積によるのではなく、過労から酸素の不足によって起こるのである。」
 窒素酔いのことは知らなかったのだろうか。もしかしたら、知らなかったから、90mも潜れたのか?
僕が90m潜った時も、あの意識消失は、酸素中毒(不足ではない)によるものだったのか窒素によるものだったのかわからない。窒素酔いは愉快になり、ハイになる。
 とにかく深海の陶酔のことは書かれていない。
 窒素酔いは、次のジェネレーションで発生する。

 そして、その講習の結果、教えた潜水夫は、次々と、潜水病に倒れる。それが1935年の「潜水の友」の時代だったようだ。そして三浦先輩も二回の潜水病罹病で、倒れる。
 その経験を基にしているのが、「潜水の友」であろう。文章を見ると、特攻隊までとは言わないが、戦場に兵士を送り出し、一緒に突撃するような心境だったのだとおもう。そして、国のため(食料のため、商売人であれば商売のため)に突撃するのは悪ではない。

 高齢になってからの潜水病の後遺症は辛かったと思う。多分、死んでしまっていた方が良かったとおもったにちがいない。日本の潜水の歴史の中で一つの壮烈な時代だった。僕が同じ時代に生きて、同じ教育を受けたとすれば、同じようなコースを辿ったものと思う。
 水産人として、自分が潜ることに賭けた悲劇と感じてしまう。

そして、第2次大戦をまたいで大串式、山本式の系譜は消失する。どうしてなのか?僕はその時代を生きていない。推測しかできないが、書いていきたい。

 日本の潜水の歴史を振り返るとき、器材の進化だけの歴史ではなくて、水圧との闘いの歴史として、潜水病のこと、窒素酔いのことを見ていかなければとおもう。

 ずいぶんと無駄なようなことを書いてきたかとも思うが、更にこの方向も書き続けて行きたい。やがてまとめれば、何かになると思う。

1020 辰巳国際・浦安海豚倶楽部

 
 今月は、あんまり泳げていない。18日は波浪で羽左間がNGになったし、
 浦安海豚倶楽部の練習が辰巳 AM900
やはり、浦安の倶楽部が辰巳だから、やや遠くメンバー8人。

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    遊びにきてくれた岡本美鈴

 浦安での練習とは少しパターンを変えて、練習の要素を強くしよう。辰巳のプールは広いから、ばらばらに自由にやるとどこにだれがいるのか把握できない時間が多くなる。それが、習慣化して、チームとしてのまとまりが薄くなる。この夏の大島での合宿で、その思いを強くした。でたらめな僕がでたらめにやった結果だ。少し反省。
 900練習開始、体操、そいて5分ぐらいのミーティングをやった。いわゆるブリーフィングだ。毎度のことなのでブリーフィングもあまりやっていない。反省。
 今日の話は、孤立しないこと。この話は繰り返そう。

 ブリーフィングを入れたので、水にはいるのは0925だった。これまではプールを巡って泳ぐラウンドを37分までだったが、開始が遅くなったので45分とした。
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 25mの四角をきちんと回ると、約100m、実質75mぐらいか。5周して時間になった。
 次はダッシュ。25mを2往復だから100mになる。この倶楽部をはじめた15年前、だれも僕に追いつけなかった。次第に抜かれるようになり、今では速い人の補飛んで全員に抜かれる。はやい男組には25m離される。女のなかでもあまり速くない伊藤さんに追い越された。
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 10分ぐらい水面静止呼吸で休む。その後半ぐらいから、潜り始めて、25m水平をちょっと苦しいぐらいで潜れたら、全員集合で並び、25m水平潜水をやる。すべて自分基準だから、自分が普通に25m潜れる感じになったら、全員集合して一列に並んで25m潜水をやる。いつもは2往復だが、今日からは5往復にする。3往復頃から、楽に潜れるようになる。これで、1015ぐらいになる。
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 自分的には快調だ。やはり潜れば元気を取り戻す。実は、このごろストレスに押しつぶされていた。自分はこれでよいのだろうか、間違っていないだろうか。これからチャレンジするハイブリッドダイビングシステムは、認められるだろうか。お台場潜水は、どうなるだろうか。そして、日本財団への多分空振り助成金申請。たかだか、100万の助成金をもらうために、こんなに努力する自分。昔だったら、瞬間的に決済してGO!になったのに、まあ、そんなことをしていたために、今の金なしに到達したのだが。
 そんなストレスが吹っ飛んだ。
 あとはいつものように自由に泳ぐ。GoProを置いて、空いた状態で自分を撮影する。
 となりの50mプールで練習していた岡本美鈴が遊びに来てくれる。深く潜る日本チャンピオンだが、そして、なによりも、彼女が一緒のプールで泳いでいるというだけでみんなが楽しくなる。これは、希有の才能だ。人間性?ホスピタリティ?ショートフィンで、今では海豚に勝っているだろう。
 左側に気配を感じたので、カメラを向けると、彼女が泳ぎ着いてきて、ポーズをとって、金メダルを取り出して、見せる。前にもこのポーズを撮ったことがあるから、彼女のサービスなのだろうが、それが、何のてらいもなく、本当にうれしそうに楽しそうにできる。
 これも才能だろう。
 久しぶりで時間のおわりまで、フルにおよいで、ストレスを半ば解消した。
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