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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0717 M値

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  M値のことを解決しないと寝覚めが悪い。
 
 
 まずこれまでの前提と経過を説明しよう。
①ダイバーが潜り、水圧がかかると、不活性ガスの分圧も高くなり、ヘンリーの溶解の法則で、液体と接する気体の分圧が高くなればそれに比例して、ガスが血液に溶け込む。
②血液に溶け込んだ不活性ガスは血流で組織に運ばれて、組織にも溶けこんで、組織の不活性ガス分圧も高くなる。
③圧力と時間の経過で、次第に溶解分圧が高くなる。飽和に達するとそれ以上は溶けこまないから、安定する。
 なお、気体の液体への溶解は指数関数的で、半分溶ける時間が5分だったとすると、次の5分では半分の半分、次の5分では、半分の半分の半分がとける。これを6回繰り返すと飽和に達する。
 体内の組織は、不活性ガスの溶け込み方に大きな差があり、規則で採用しているビュールマンの理論式では、5分から635分まで16通りの組織を想定している。この16通りのそれそれを、半飽和時間(5-635)のソレソレの時間で呼ぶ、例えば10分の半飽和組織とか。
④ダイバーが浮上にかかると溶解していた不活性ガスが血液に溶け出して、排出されるが、それも、ある時間がかかり、組織内の分圧がよほど高くなると、気泡になって排出されるために、その気泡の量が多くなると減圧症が発症する。
⑤飽和値よりも、溶解分圧がどのくらい高ければ、気泡化が起こらないか、その最高許容分圧をM値と呼ぶ。
⑥だから、減圧は、各それぞれの半飽和組織が、M値を越えないようにしながら浮上する。

さて、そのM値がが、分圧であるから、フィートあるいはメートルで表現される。例えばM値が27mだったならば、その組織は27mまでは無減圧で潜れる。この表現が、間違いではないのだが、勘違いの基であった。
 この間違いを旧友である唐沢さんに指摘されて、それでは、M値とはなんだとこんらんしてしまった。

そして、、そのM値を算出する計算式が出てきた。その計算式の意味を考えたりした。これが、第二の誤りにつながった。
計算式については、どの記号が何を意味するか知ることは受験対策としては必要で、それをかんがえてしまった。

M値というのは、各半飽和組織、それぞれによって、水深に応じた数値がすでに計算されていて、これが、減圧表の理論式の基である。下に各半飽和組織の水深とM値の相関グラフをしめす。

なおこれらのグラフと表は、池田先生のシンポジウムの講演のPPである。その講演をきいても、よくわからなかった。

M値は、各半飽和組織ごとに水深に応じて定まっている。グラフのセロメートルのところにも、M値が定められている。
M値とは、各水深での最大許容水深なのだ。この表は米国海軍の減圧表で6つの半飽和時間(あるいは半減時間、あるいは組織コンパートメント)で示されている。
水深ゼロ(水面での)での各半飽和組織のM値はそれぞれ、5分の104フィート、120分の51フィートと決まっている。120分の組織は、51フィートまでは、なんの問題も起こらない。5分の組織は104フィートまで大丈夫だが、半飽和時間が短いから、すぐにM値にたっしてしまう。


表のように、20フィートまで浮いてきた時のM値は、10フィートのM値よりも分圧が高い組織が三つある。これが、10フィートのM値までそれぞれが下がらなくては10フィートに浮上出来ない。


同様に10フィートの組織内不活性ガス分圧は、10フィートのM値よりは低いが、水面のM値よりは大きい、水面のM値まで下がらなければ、水面に浮上出来ない。

まとめて言うと、M値とは、各半飽和組織毎に、各水深で定まっていて、組織内不活性ガス分圧は、各水深でのM値以下でなければならない。

M値が51フィートであるということは、その組織は51フィートまで減圧なしで潜れるということにまちがいはないのだが、その51フィートのM値は、水深ゼロメートルでのM値であり、潜った51フィートのM値ではない。
潜水すれば、当然、30フィートに潜れば30フィートのM値が定まり、身体にとけている不活性ガス分圧はそれぞれの組織のそれぞれのM値まで許容される。しかし、20フィートに浮上するためには、それぞれの組織が20フィートのM値にならなければならず、20フィートの各組織のM値は20フィートではない。水深ゼロメートルのM値はゼロではない。


0720 お台場0719

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 ブログを書くということ、ずいぶんと無駄な時間を費やしているように思う。原稿臭われていたり、企画書、報告書の制作、しなければならない通信などがたまってくると、とても、ブログを書いている時間など無いように思える。しかし、自分の場合、ブログを書くということは考えていることであり、考えを文字にして、考えなおして修正したりしている。ソシテ、ブログは記録でもある。日記の代わりにしてもいる。
 日記も溜まって来ると、書ききれなくなって放棄してしまう。いわゆる三日坊主、3日日記である。日記もブログも義務、強制しないと書けない。

 お台場の海のこと。
 お台場は、東京都心の海だ。海を知ること、肌で感じることは、地元、自分の海でしなければならない。海で生きようということは、自分の海を大事にすることも大事なことだと思う。それは、東京が沖縄であったらいい、同じ東京でも小笠原であったりすれば、どんなに良いかとは思う。
 しかし、僕は、お台場の海が嫌いではない。よく、汚染汚染と騒ぐけれど、汚染とは、人間がする業のことで、台風が、津波が、地震が人工構築物を破壊することは汚染ではなくて、それは自然が自分の領分をとりもどすことであり、汚染とは言わない。人間が地球上で生きている以上、汚染は避けられない。自然は、人間の汚染が限度を越さないように定期的に再生する。再生と共に生きなければ、人は自然の中で生きていけない。滅亡するのだが、ちょっと脱線した。そのことはまた別の機会に。
 さて、汚染に戻って、お台場の汚染は有毒ではないが、なれないと不愉快であるかも知れない。人は、きれいなもの、美しいものを好み、汚いと感じるもの、あるいは得体のしれないものを拒むからだ。

 このお台場で、一般都民は海水浴ができるように、ダイバーであれば、ここがダイビングポイントであればいいと願う。しかし、もしも、その望みがかなったならば、お台場が江ノ島鎌倉の海水浴場になってしまうから、今程度が良いバランスなのかもしれない。でも、自分たちだけのものとして、独り占めにすることはできない。
 お台場を子どもたちがスノーケリングできる海を目指して、クリーンアップ事業をはじめたのは、22年前だ。僕たちはスノーケリングだが、海水浴を目指す動きが港区で起こり、去年から実施されている。去年は、僕たちの潜るテリトリーとは重ならなかったので、横目で眺めているだけだった。この何年か、僕たちは、毎月最終日曜日を定例として、お台場に潜っている。その許可申請をだしているのだが、7月の25日は、NGだという。他の行事が同じ場所、同じ水面を使うのだという。仕方がないので、こちらは譲って、一週前倒しにして、昨日19日に行うこととした。
 
 6月の月例、28日に、港区の人が現場に見に来た。一緒にクリーンアップをやっている港区ふれあい財団の人だとおもって対応したのだが、名刺を交換したら、港区の 港区芝浦港南地区総合支所 お台場担当とのこと、つまり、海水浴を主催している部所であり、25日は、海水浴で、僕たちの場所を使うのだという。協力することはとても大事なことなので、最初からわかっていれば、合同でやれたのに、それでも何か協力ということを考えたら、海水浴の場で、僕たちの水中写真の展示が可能かという申しいれがあり、喜んで協力させてもらうことにした。これも、スチルよりもビデオの方が良いのでは、とビデオのファイルも提供した。
 その25日、僕は豊潮丸に乗っているので、お台場には行けない。お台場の海水浴が知らされていなかったことは、スケジュル的にラッキーだった。

 7月19日、夏だから仕方がないのだが、透視度は良いところ、部分的には1mぐらい見えたが、平均すれば50cm,悪いところでは30cmぐらい。それでも、撮影はできる。
 エントリーして、海底に顔をすれすれにようにして、ウエアラブルのSJ4000 を廻しながら進んで行く。このごろ、14000円のSJ4000 がメインのカメラになってしまっている。若干、GoPro2の方が、画質は良いのだが、SJの方が、色が派手で、お台場のように濁っているところでは、コントラストのはっきりした絵の方が、くっきり感がある。

 6月のクリーンアップの時には、ずいぶんゴミが少なくなっていて、これも20年のクリーンアップの成果だろう、などと思ったが、海底はビニールや、包装のゴミが連なる。浮上して周囲を確認すると、クリーンアップで潜ったところよりも、10mほど、はなれて沖のほうだ。
 小さい動物プランクトンであるイサザアミの類が満ちている。口を開いて泳げば、動物タンパク質のスープを吸い込んで泳ぐようだろう。どのあたりまでこれがつづいているのだろうか。お台場全水域ではない。水深2mより下がると、見えない、水深50cmから1.5mの間にたなびいているようだ。所々で切れ目はあるが、どこまでもたなびいている。マハゼなどは、このイサザアミを食べてぐんぐん大きくなっているのだろう。
 豊かな栄養分の多い海、ということは、酸素が消費されてゆくわけだから、これらを食べる魚が少なければ、貧酸素になるのだろう。莫大なプランクトンを食べつくすには、莫大な小魚の量が必要なのだろう。
 この辺り、江戸時代には江戸前の海で、ヨシ原や干潟が広がっていて、小魚の数もばくだいだったから、バランスのとれた、豊かな海だった。
 ヨシ原や、アマモの集落の代わりに、人工魚礁で小魚や甲殻類を集められないだろうか。
 
 水面上は日曜日だから、そして、天気が良くて暑いから、人々が多数、あまり混雑しない、良いビーチ状態になっている。そのちょっと眼と鼻の先が、プランクトンのスープで、水底はマハゼで満ちていることなど、だれも知らないだろう。港区の海水浴も、単なる海水浴ではなくて、環境を知ってもらい、この海の環境を理解してもらうことも目的の一つだということだ。ならば協力ができる。

 イサザアミのスープを映像に撮りたい。動きを停止して、ニコンのCOOLPIXで撮ってみた、なんとか見られる映像になったので、30秒ぐらいに編集して、フェイスブックに載せた。フェイスブックではビーチの絵も載せたのだが、その対比を見とってくれる人がいたかどうか?


 毎度おなじみの、榎の木、があるあたりの水深50cmぐらいが、マハゼの多いところだ。マハゼは、ほぼ海底全面にいるが、7cm ぐらいのデキハゼ(今年出来たハゼ)はこの辺りが多く、深い(水深2m)底ではもっと小さい個体が多いようだ。

 丁度、共同便所の下あたりの石も魚をよく集めている。この辺りに人工魚礁の小さいものを沈めたら良いと、今計画を立てている。

 

 

0723 伊豆大島 トウシキ -1

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 0721 
海豚倶楽部のスキンダイビングツアーで伊豆大島に向かった。0740の竹芝発、ジェット船で9時半には岡田港に着く。
 行き先はトウシキだ。トウシキは、僕が、学生時代に卒業論文を書いた特別な場所である波浮港に接したような、波浮港の隣にある天然のプールである。伊豆大島は噴火山そのものだから、岩礁は溶岩であり、岩礁溶岩が、波を遮るバリアーになって、その内側がと天然のスキンダイビングプールである。
 
 台風が次々の襲来してきて、台風11号の影響が通り過ぎ、12号との合間にラッキーに滑りこんで、なんとか行かれたのではあるが、南西の風が強く、バリアーの外側の太平洋は白波が立っている。が、プールはなんとか潜れる。


 24名の団体ツアーのお世話をお願いしているのは、水中科学協会の理事であり、現在最強力運営委員である山本勤さんが関わっている「ケンボー ダイビングサービスにお願いした。ケンボーは、波浮港唯一のダイビングサービスである。そのケンボー、オーナーの健坊と山本勤さんとの関わり、関係はよくわからないが、きっと他人の身内、親戚のようなものなのだろう。僕と山本さんのような関係かな?
山本さんは、奥さん、子供、犬、を連れて、遊びに来ていて、趣味?でダイビングガイドをやっている。趣味ではあっても信頼できるプロである。

僕は、足元を固めて来なかったという失敗をした。スキンダイビングだからということもあって、スキンダイビングの装備、フィン・マスク・スノーケル、3mmのフルスーツで身軽にやってきたのだが、スキンダイビング用のフルフットのフィンに薄いブーツで、来たので、ブーツで溶岩の上を歩くのはとても痛い。ゴム草履を斜めに履いて歩いたが不安定この上ない。



トウシキは、養殖だか蓄養だかのために作った15mプールぐらいのコンクリートの蓄養池の残骸があり、このプールが一番手前のプール、その外側が岩礁バリアーのプール、バリアーは二重で外のプールと中心のプール、つまり三重のプールになっている。僕が初めて来た60年前に一番内側のプールは、すでに養殖池の残骸としてプールになっていた。その時の写真があるのだが、探す時間がない。
メインの中心プールに飛び込む。ここは、最初に来た、1958年以来、何度となく、映画のロケ、テレビ番組のロケに使ったが、まだその頃はケンボーダイビングはなかったみたいだから、一番最近でも、25年ぐらい前のことだろう。

スキンダイビング・セーフティでは、スキンダイビングのバディシステムを強調している。僕にも強力なバディが必要で、最近、ダッシュのパートナーをつとめてくれる玉田さんと手をつないだ。バディは、手をつないで、上に揚げなくてはならない。

     玉田さん
玉田さん、玉ちゃんは人工魚礁メーカーの部長さんをやっていた友達の娘さんで、海豚倶楽部での若手であり頼りにしている。

飛び込むと、かなり流れがある0.3ノットぐらいある。フィンを動かしていないと流される程度の流れである。流されないように、プールの両端には、浮き付きのロープが張られている。台風11号でこのロープも流されてしまったが、数日前に山本さんたちが貼り直してくれていた。

60年前とおなじように、サンゴイソギンチャクの群落が飛び込んだ岩礁の壁面を覆っていて、クマノミがちらほら出入りしている。1958年に、ここで生まれて始めてクマノミを見て感動した記憶がある。僕が潜水を習った房総半島、小湊にはクマノミは居ない。亜熱帯の魚なのだ。房総半島では冬が越せない。
透明度はずいぶん良い。15メートルは見える。水深は3mほどで、海豚倶楽部のスキンダイビングに最適である。
生えている海藻はクロメのようだが、密生ではない。造礁サンゴもポツンポツンとある。昔はこの造礁珊瑚は見なかったように思う。
30分ぐらい潜って、えーっ、もう上がるの?という感じで、玉田が上がることを伝える。今回は僕がリーダーではなくて、山本さんにお願いしている。溶岩をよじ登り、溶岩の上に立ち上がり、歩くのは、今の僕には難儀になっている。玉田にウエイトベルトとフィンを持ってもらった。それでも、薄いソックスで歩くのは痛い。

快晴で、夏の日差しが強くなっている。山本さんが日差しよけのテントを張ってくれたので、そこでお弁当を食べる。お弁当は美味しくなかったが、お弁当に美味しさを求めるのは、大島では無理だ。

昼食の後の潜水、今度は、プールの内側のタイドプールから水に入り、つながっている水路から外にでることにした。人数が多いので、グループを分けて、ケンボーダイビングの若い女性ガイドに第二グループを見てもらっていたのだが、彼女たちがここから上がってきて、楽そうに見えた。事実楽だった。のでここから入った。透明度の良いタイドプールは美しい。外から入って来る波が作る気泡が綺麗だ。けっこうシャッターを押した。カメラは、手にニコン、クールピクスを持ち、マスクマウントでSJ4000を着けた。

一回目のウエイトは3キロで、軽かったので4キロにした。3mmのウエットでも。海では3キロでは軽い。何とか潜って、クマノミを撮った。プールに差し込む陽の光と、波の砕ける気泡、表面を群れて泳いでいるムギイワシだろうか、美しいので何枚もシャッターを切った。
 帰ってきてから、見たのだが、液晶ファインダーで見た絵とまるで違う。美しくないのだ。やはり、高価、大型の一眼レフを使わなければ、撮れない?しかし、あんな大きい物をお持って、こんなところではとても助手なしでは動けない。

※、今日から広島に行く、出発の時間がせまっているので、ブログを書いていられない。残りは新幹線の中で書こう。書ければ。

0722 トウシキ-2

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 広島に向かう、のぞみの席でこれを書いている。のぞみは恐ろしく速く、そしてよく揺れている。

 二日目の潜水、半数が、レンタカーで島内一周観光にでかけた。別のところに行こうかとも考えたが、海況がトウシキプールより良いところは、考えられないし、同じ所を繰り返し、潜ることで進化上達する。
 レンタカー観光組のだれかが、プールサイドにサンダルを忘れていった。僕が薄いブーツを履いて、これを履くと、ぴったりとして。足に吸い付くようだ。これを拝借することにした。帰りの船で返せばいいだろう。

 一番手前の、養殖場跡地プールの底には、外に向け出られる隙間がある。1956年には、そんな穴は無かったように思う。記憶に無い。とにかくこの下をくぐり抜けて、外に出よう。回り込んだ位置は、中のプールの潮下の、安全ロープの10mほど下になっているので、遡らなければならない。
 とにかく行ってみよう。山本さんがするりとくぐり抜けた。僕が抜けようとしたとき、引き波の水の動きで押し戻されて、背中がひっかかり、2mほどの距離なのだがその中に閉じ込められるような感じで、すこし焦った。この壁の下の天井にイセエビがいるとかで、撮影しようと思っていたのだがその余裕は無かった。山本さんが「どうですか?」と聞いてきた。僕は、自分が引っかかって押し戻されそうになった感じから、「田端さんがムリだろうと思う。」と止めさせるように頼んだ。田端さんは最高齢の女性で、少し血圧が高く、降圧剤でコントロールしている。
 山本さんが戻って、少し間をおいて、次々とくぐり抜けてくる。そのうちに、田端さんまでが引張りだされるようにして抜けてきた。ここから、回りこんで、流れを遡るのが心配だが、みんなでまとまっていけば、ちょっとした冒険だけど、いいだろう。山本さんが細いタイヤチューブを持っていて、これにつかまらせれば、大丈夫という顔をしている。いっしょについてくれているスタッフの南さん(名前を確認していない)が一緒に泳いでくれるので、GO サインを出して、泳ぎだし、中のプールへ回り込んだ。波がかなりあるので、ショートカットはできない。先端を回りこむ。回りこむとかなりの流れで、昨日よりもずっと速い。1~1.5ノットぐらいある。一生懸命泳いで、遡れる程度で、ガイドロープにたどり着いて、ガイドロープにつかまって休んだ。
 水路(プールの真ん中)を強行して遡ろうと泳ぎ始めたら、バディの玉田がフィンの先をちょっと、後ろから引っ張って、縁を泳ぐように指さす。流れは、水路の中心で速く、縁であ遅い。当たり前のことだが、彼女に指示されている。みんな次第に上手になって行く。左の縁流れが止まっているところがあり、岩の上に立つこともできる。ここで、一息入れて、田端さんが来るのを待つ。チューブにつかまって、引っ張られて、ようやく遡ってきた。

その時、バディの確認をするべきだったのだが、僕も自分のことが精一杯で、やらなかった。一応揃ったとみたので、水路の中を遡って、昨日のタイドプール水路、潮上のセフティロープに接近して、撮影したり、クマノミを撮ったりする。バディはついてきている。が、全体を見ては居ないし、流れがあるので見られない。岩の上に上がる、上り口まで戻ると、田端さんが、アシスタントに助けられて、登ろうとしている。フィンを外そうとして転げて、フィンをはずしてもらっている。フィンをはずしても、ここからよじ登らなければいけない。心臓に負担がかかる。アシスタントは岸まで連れてくれば役割が終わったと思うだろうが、ここからが大変であり、危なくもあるのだ。ここで、人数チェックをした。Aさんが、Fさんが居ないという。
 彼女はかなり神経質に怖がっていて、それが良い方に働いている。目配りをしてくれている。たしかにFさんがいない。しばらく騒いでいると、上に上がっていることがわかった。ダッシュが得意で無いので、さかのぼりきれないで、きれないで、ガイドロープの辺りで上がったのだろう。おそらく、きつくてパニックになったのだろう。毎度の浦安の練習で、80mのダッシュをやってもらっている意味がここにある。
問題はバディがその場に居なかったこと、上がるのを確認していなかったことだ。バディのKさんは、泳力は抜群で、フリッパーレースの100mに出ている。親子のスノーケリング講習をてつだってもらって、バディシステムの手伝いをしてもらっている。バディシステムの重要さを書いたスキンダイビング・セーフティも買ってもらっている。僕の反省としてはバディシステムの組み合わせを熟慮しなかったことで、集まったその場で適当にきめていたことだ。

僕は、この日は一回のダイビングで終了かとおもっていた。高齢になり、やはり、考えが後退的になっている。若いゲストの寺内マトンや、小山君は、僕のアシスタント、レスキュー要員のつもりだったのだが、今回はケンボーダイビングのアシスタントにまかせきりで、楽しんでいる。良いことではある。楽しければそれで良いのだ。

 水路プールの上手のレスキューラインの外側に飛び込み台のような岩があり、山本さんの息子などと一緒に飛び込んで遊んでいる。水から上がって岩をよじ登ってまた、飛び込む。若いのだ。

浅い、膝の辺りの水深のタイドプールにエビがいるので腹ばいになってエビを見ている。これは、僕も付き合った。COOLPIXのマクロは、オリンパスに及ばないようだ。

0724 広島にて

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 東京をでるとき、書きたいこと、書くことが、頭の中に詰まっていたのに、ホテルで自分の時間が持てたので、「さあ、」ッて思ったら、全部消しゴムで消されたように消えている。
 昨夜は、ホテルの前にある、名前をどうしても思い出せないお好み焼き屋に行った。雨が降っても傘なしで行かれるくらい近いので、早稲田大学の豊潮丸航海で広島にステイするときは、だいたいここにきている。広島のお好み焼きが、どういう味が本格的に褒められるのか、東京の人である僕にはわからないのだけれど、何時でも食べた後に「おいしい、」と思う。思えば最近ずっと、素直に「おいしい」と思うものを食べていない。「まずくはないけれど、」そんなのばかり

 伊豆大島のラーメン、「ラーメンってこういう味だったのだろうか?」、

 なか卯のうな重「困ったなぁ」

 昨日 新幹線での駅弁 穴子めし、「駅弁だから、一生懸命に努力していることはわかる。」


 今日から豊潮丸にのるのだけれど、どうなるだろうか。停滞する台風に向かって降りてゆく感じ、これも、考えることがたくさんある。


 昨夜のお好み焼きは、広島の元スガマリンメカニック社員、榎並(今は松谷さんで、三児の母)と食べた。本当にいい子で、僕の秘書にしたかったのだけれど、僕の秘書役は、塩脇あつ子というのが居たのでそうならなかった。その塩脇(今は木村)のことを話した。彼女は、僕が70歳の時、「80歳のお祝いは仕切らせていただきます」といっていたけど、便りがない。榎並に言わせると、「あつ子は、メールを出しても決して返事が来ない人、のカテゴリーに入る」のだそうだ。僕も「電話に出ない人」のカテゴリーに入るから、人のことは言えない。電話してみようか。電話番号は残っていないだろう。

 

0726 豊潮丸航海-1

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 ネットがなかなかつながらずにアクセン奮闘した。

 7月25日 豊潮丸航海 第二日目 
 海に出て、船に乗っていると、書くことが面倒になるが、かいておかないと、あとで困る。
 昨日、7月24日13時、定刻に豊潮丸は基地の呉を出稿した。
 台風の接近で、スケジュールは大幅に変更になり、薩南諸島を奄美まで下ることはとうていできなくなり、中の島まで下りて、宿毛にもどってくるスケジュールになりそうだ。
 17時30分に伊予長浜に接岸する。

      長浜港での夕景
 長浜は豊潮丸の航海で、何度か立ち寄ってことのある街だが、地方の町の通例で、寂れている。シャッターを下ろし、閉店している店が多い目抜き通り、
 学生の散歩に付き合って、街のハズレまで、30分ほど歩く。往復で一時間、疲れるけれど歩く運動もしておかなくてはと歩く。

 7月25日
 長浜を8時にでて、9時から、小水無瀬島でもぐる。この島は、瀬戸内海の端に位置していて、これまで何度となく潜っている。
 航海、最初の潜水なので緊張する。
 例によって、ウエットスーツは、学生レンタルに昔使った、ハリサン(もはや亡くなってしまったメーカー)の安売り品で、しかし破れないで、持ちこたえている。ウエイトは4キロで良いと思ったが5キロ着けた。


 


 僕達のダイビングオペレーションルール、ローカルルールを説明しておこう。まず、第一にバディシステム、僕と中尾先生、鈴木と里奈、町田と石橋、北大の酒井先生のグループ。ゴムボート(多分6人乗り・これを仮に、赤い色なので、赤ボートと呼ぼう)にタンク6セットを積み、鈴木が乗る。エンジン付きの豊潮丸のゴムボートと舷を接して連結して走る。ダイビング地点で、赤ボートのアンカーを入れ、これを基点に潜る。ボートから器材を下ろしてもらった、水面で着装する。ゴムボートのアンカーに巻き尺を結びつけて50m(から80m)ほどのばす。当初はこれにそって採集調査をしていたのだが、今では、これをマークラインとしてこのラインから潮上の方向に動いていく、この50mの幅を外れなければ、コンパスの逆針で戻ってくれば、ラインに当たって、ボートに戻ることができる。
 豊潮丸では、タンクを120しか詰めてくれない。200詰めてあれば、100が引き返し点だが、120だから50を引き返し圧力(ターンプレッシャー)とする。
 小水無瀬島725日 潜水開始1008 潜水時間33分水温20.5度 浮上時間1041
  最大水深15.8 平均水深 9.6
 10時8分潜水開始、小さい島の斜面での潜水だから、地形はわかりやすい。透視度は、10m程はあるが、瀬戸内海の濁りで綺麗に青くはならない。メバル、スズメダイ、ベラの類が普通にいる。僕と中尾先生のバディは、いつも同じ。なにか、採集物(主に海綿の類)を見つけると、中尾先生がその写真を撮り、僕も抑えで同じものをとっておく。先生が切り取って、僕がビニールジッパーの袋を開けて採集物を入れる。大きな採集袋を持つのは中尾先生で、僕は、戻り道を見ておくことと、町田のバディ、鈴木のバディがあまり離れないように注意している。
 水温20度で5mmの古いワンピースではかなり寒い。我慢はできるけれど速く上がりたい。50になったので中尾先生に合図してターンする。水深は5-7mだから30までは浮きにかかる必要はない。50からも、2回、二箇所ほど採集して、マークラインは見えているので、心配はない。20になったので、ラインに乗って斜面を戻るボートの下、水深3mで、少し撮影をして、ゼロになったので浮上する。

 寒かった以外は、全く問題なく、心配点、反省点もない潜水だった。
 船に戻り、船は走り、昼食を食べて、13時から、周防大島のなんとかいう小島の裾で潜る。困ったことに巻き尺がこわれてしまった。普通の巻き尺で、塩水でつかって、10年の上つかった。壊れて不思議はない。
2回めの潜水は、マークライン無しで、マークラインがあるのと同じようなパターンで潜水することにした。地形は単純だし、水深も浅いし、流れもわずかだ。僕は寒かったので2mmのフードベストを上に着ることにした。午前の4キロで、BC.に空気を入れるようだつたから、ベストを着ても大丈夫だろう。

日平均水深
周防大島725日潜水開始1350潜水時間42  水温20,6度浮上1432
 最大水深 10,2m平均水深 6.6m

 フードベスト一枚でずいぶん暖かい。かなり寒さは軽減した。
 濁りは午後の位置の方が濁っていたが、別に問題もなく、同じように普通の潜水ができた。
 この二回の潜水で、ずいぶん慣れてきてチームとしての感覚が戻ってきた。


 中尾教室で初めての女性ダイバーである里奈ちゃんは、安定していて心配ない。予想通りに空気の消費も少ない。午前中、僕と同じタンクをつかって、僕がゼロになったのに、彼女は60残っていた。
 彼女は、早稲田水中クラブではない、同好会的なクラブで潜水を習い、Cカードをとって、それから水中科学協会のプライマリーコースを受けた。このコースが一番いいかもしれない。監督、コーチのいない同好会であっても、きちんとやれれば、それで良としなければ。

 ニコンCOOLPIX AW130は、底面の三脚ネジ穴が弱い。水中でのストロボ用ステイへの取り付けでねじ山が馬鹿になってしまった。ライトを付けたステイで使うことができない。仕方がないので、今回は、単体で手首にぶら下げて撮ることにした。ウエアラブルはマスクマウントで、これで両手がフリーで使える。一番シンプルなカメラシステムになった。この航海はこのスタイルで行こう。
 しかし、ニコンCOOLPIXがライトステイに取り付けられないとなると困る。修理に出せばなおるが、底の部分の部品交換だから、再発するだろう。それに保証期間中ではあるが、保証証がどこにあるだろう?

  カメラを被写体の30cm以内でしっかり保持して撮ったもの以外は、ニコンAWとマスクマウントからの静止画と大差はない。採集物の周辺状況を記録するのであれば、マスクマウントG0Proで十分であり、AWで撮る意味は無い。

    AWの画像 カメラのストロボが光っている。


    マスクマウントのG0Pro2 の動画から切り出した静止画、状況説明はこれで十分だ。
    
 柳井港接岸で買い物にでた。買い物というとウォーキングになる。みんなはイオンまで行ったが、僕は途中の大型ディスカウントドラッグストアーでドロップアウトした。町田くんがやさしくて、僕のドロップアウトに付き合ってくれた。好きなザラメ煎餅をさがしたがない。町田くんは、ザラメ煎餅というものを見たことがないという。今度、機会があれば、港屋の「ザラたん」を買って、大学に持って行ってあげよう。

0726 豊潮丸航海-1

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 ネットがなかなかつながらずにアクセン奮闘した。

 7月25日 豊潮丸航海 第二日目 
 海に出て、船に乗っていると、書くことが面倒になるが、かいておかないと、あとで困る。
 昨日、7月24日13時、定刻に豊潮丸は基地の呉を出稿した。
 台風の接近で、スケジュールは大幅に変更になり、薩南諸島を奄美まで下ることはとうていできなくなり、中の島まで下りて、宿毛にもどってくるスケジュールになりそうだ。
 17時30分に伊予長浜に接岸する。

      長浜港での夕景
 長浜は豊潮丸の航海で、何度か立ち寄ってことのある街だが、地方の町の通例で、寂れている。シャッターを下ろし、閉店している店が多い目抜き通り、
 学生の散歩に付き合って、街のハズレまで、30分ほど歩く。往復で一時間、疲れるけれど歩く運動もしておかなくてはと歩く。

 7月25日
 長浜を8時にでて、9時から、小水無瀬島でもぐる。この島は、瀬戸内海の端に位置していて、これまで何度となく潜っている。
 航海、最初の潜水なので緊張する。
 例によって、ウエットスーツは、学生レンタルに昔使った、ハリサン(もはや亡くなってしまったメーカー)の安売り品で、しかし破れないで、持ちこたえている。ウエイトは4キロで良いと思ったが5キロ着けた。


 


 僕達のダイビングオペレーションルール、ローカルルールを説明しておこう。まず、第一にバディシステム、僕と中尾先生、鈴木と里奈、町田と石橋、北大の酒井先生のグループ。ゴムボート(多分6人乗り・これを仮に、赤い色なので、赤ボートと呼ぼう)にタンク6セットを積み、鈴木が乗る。エンジン付きの豊潮丸のゴムボートと舷を接して連結して走る。ダイビング地点で、赤ボートのアンカーを入れ、これを基点に潜る。ボートから器材を下ろしてもらった、水面で着装する。ゴムボートのアンカーに巻き尺を結びつけて50m(から80m)ほどのばす。当初はこれにそって採集調査をしていたのだが、今では、これをマークラインとしてこのラインから潮上の方向に動いていく、この50mの幅を外れなければ、コンパスの逆針で戻ってくれば、ラインに当たって、ボートに戻ることができる。
 豊潮丸では、タンクを120しか詰めてくれない。200詰めてあれば、100が引き返し点だが、120だから50を引き返し圧力(ターンプレッシャー)とする。
 小水無瀬島725日 潜水開始1008 潜水時間33分水温20.5度 浮上時間1041
  最大水深15.8 平均水深 9.6
 10時8分潜水開始、小さい島の斜面での潜水だから、地形はわかりやすい。透視度は、10m程はあるが、瀬戸内海の濁りで綺麗に青くはならない。メバル、スズメダイ、ベラの類が普通にいる。僕と中尾先生のバディは、いつも同じ。なにか、採集物(主に海綿の類)を見つけると、中尾先生がその写真を撮り、僕も抑えで同じものをとっておく。先生が切り取って、僕がビニールジッパーの袋を開けて採集物を入れる。大きな採集袋を持つのは中尾先生で、僕は、戻り道を見ておくことと、町田のバディ、鈴木のバディがあまり離れないように注意している。
 水温20度で5mmの古いワンピースではかなり寒い。我慢はできるけれど速く上がりたい。50になったので中尾先生に合図してターンする。水深は5-7mだから30までは浮きにかかる必要はない。50からも、2回、二箇所ほど採集して、マークラインは見えているので、心配はない。20になったので、ラインに乗って斜面を戻るボートの下、水深3mで、少し撮影をして、ゼロになったので浮上する。

 寒かった以外は、全く問題なく、心配点、反省点もない潜水だった。
 船に戻り、船は走り、昼食を食べて、13時から、周防大島のなんとかいう小島の裾で潜る。困ったことに巻き尺がこわれてしまった。普通の巻き尺で、塩水でつかって、10年の上つかった。壊れて不思議はない。
2回めの潜水は、マークライン無しで、マークラインがあるのと同じようなパターンで潜水することにした。地形は単純だし、水深も浅いし、流れもわずかだ。僕は寒かったので2mmのフードベストを上に着ることにした。午前の4キロで、BC.に空気を入れるようだつたから、ベストを着ても大丈夫だろう。

日平均水深
周防大島725日潜水開始1350潜水時間42  水温20,6度浮上1432
 最大水深 10,2m平均水深 6.6m

 フードベスト一枚でずいぶん暖かい。かなり寒さは軽減した。
 濁りは午後の位置の方が濁っていたが、別に問題もなく、同じように普通の潜水ができた。
 この二回の潜水で、ずいぶん慣れてきてチームとしての感覚が戻ってきた。


 中尾教室で初めての女性ダイバーである里奈ちゃんは、安定していて心配ない。予想通りに空気の消費も少ない。午前中、僕と同じタンクをつかって、僕がゼロになったのに、彼女は60残っていた。
 彼女は、早稲田水中クラブではない、同好会的なクラブで潜水を習い、Cカードをとって、それから水中科学協会のプライマリーコースを受けた。このコースが一番いいかもしれない。監督、コーチのいない同好会であっても、きちんとやれれば、それで良としなければ。

 ニコンCOOLPIX AW130は、底面の三脚ネジ穴が弱い。水中でのストロボ用ステイへの取り付けでねじ山が馬鹿になってしまった。ライトを付けたステイで使うことができない。仕方がないので、今回は、単体で手首にぶら下げて撮ることにした。ウエアラブルはマスクマウントで、これで両手がフリーで使える。一番シンプルなカメラシステムになった。この航海はこのスタイルで行こう。
 しかし、ニコンCOOLPIXがライトステイに取り付けられないとなると困る。修理に出せばなおるが、底の部分の部品交換だから、再発するだろう。それに保証期間中ではあるが、保証証がどこにあるだろう?

  カメラを被写体の30cm以内でしっかり保持して撮ったもの以外は、ニコンAWとマスクマウントからの静止画と大差はない。採集物の周辺状況を記録するのであれば、マスクマウントG0Proで十分であり、AWで撮る意味は無い。

    AWの画像 カメラのストロボが光っている。


    マスクマウントのG0Pro2 の動画から切り出した静止画、状況説明はこれで十分だ。
    
 柳井港接岸で買い物にでた。買い物というとウォーキングになる。みんなはイオンまで行ったが、僕は途中の大型ディスカウントドラッグストアーでドロップアウトした。町田くんがやさしくて、僕のドロップアウトに付き合ってくれた。好きなザラメ煎餅をさがしたがない。町田くんは、ザラメ煎餅というものを見たことがないという。今度、機会があれば、港屋の「ザラたん」を買って、大学に持って行ってあげよう。

0727 豊潮丸航海-2

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 7月26日
 四国長浜港、本州柳井港泊、つまり瀬戸内海をでられずにうろうろしているということ。
豊潮丸には、海洋観測に必要とされる機器はすべて積み込まれている。スクーバのタンクも、充填のコンプレッサーもある。しかし、そのコンプレッサーは120キロまでしか、効率よく充填することができない。120キロから上げるには時間がかかる。たとえば、一日に二回潜るような場合、その間で充填するには120キロでも精一杯だ。大きな親ボンベも積んでいない。船の安全ということで、高圧機器の制限があるのだろうと思う。それにしても、120キロと現在の普通の充填圧200キロとの差は大きい。僕達の潜水も、15m程度が最大水深になる。

    もう少し、大きいコンプレッサーでも良いのに。

しかし、考えてみると、僕がダイビングを習いはじめのころも充填圧は120キロ、レクリエーショナル・ダイビングで20m以上潜ることはなかった。
学生のダイビングとして、この辺りを天井にしておくことも、ひとつの見識ともいえるかもしれない。スキンダイビング+α のスクーバダイビングのような感じだ。
北海道大学の酒井先生が言っていたが、北大の練習船ではスクーバダイビングをやらせない。やるように話し合いをしているが、どうしても船上と連絡が取れないスクーバには否定的だという。ケーブルダイビングシステムがおすすめできれば良いのだが、この有線通話・安全確保システムを売る会社「テル」は、事実上消滅してしまっている。※「テル」とは、脇水輝之の事故死で、この有線通話システムさえあれば、とその普及のために僕が作り、力尽きた会社だ。

0726 15時
台風12合の影響でかなりの波の中を走って、別府湾に錨泊した。


7月27日
豊後水道に出て宇和島沖になる日振島で潜水。
日振島は、村上水軍の宝が隠してあるという言い伝えがあり、ニュースステーションの時代に潮美と潜って、150mの長さ、向こう側に抜けている水中の海蝕洞を発見した。宝を隠すには絶好の場所だが、宝は見つけられなかった。古いことなので、場所をおぼえていない。


    積み過ぎで水がかなりはいったので、早めに飛び込んでしまって、流れが強かった。

僕達のスタイルで、赤ボートから飛び込んで、水面で器材を着けるのだが、流れが速い。これでは器材を着けているうちに流されてしまう。それに海底も単調だ。もう少し遡れば流れのゆるやかなところがありそうだ。と、流れに逆らって泳ぐ。辰巳での練習会、一回分ぐらい泳いで、流れのおだやかなところに来たが、ボートの上の判断では場所を変えるということだ。
再びボートに上がって場所変えをした。此処は流れも緩やか、透視度も瀬戸内海よりはよくなり、水温も高くなっていて、のんびりと楽なダイビングができた。



0727日 潜水開始1151 潜水時間39分 浮上1230 水温24度 最大水深7,2m 平均水深 5.4m


豊潮丸航海-3

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 日振島で潜水後、宇和島港に入港、恒例の徒歩買い物に出かける。僕もなるべく足を鍛えるべく参加するようにしている。港から市役所の前を通過して、駅近くのショッピングセンターまで歩く。よる、これも恒例のバーベキューをやる食材を仕入れる。山ほどになったので、タクシーで船に戻る数人と、見上げると見える宇和島城観光のグループ、日本の数少ない、本物の残った城だということで、気持ちが動いたが、小高い山の上にある。やはり、パスすることにした。



夕方から宵、気持ちの良い夜で、豊潮丸の接岸している岸壁でバーベキューが盛大に行われた。今頃の学生は羨ましいと思うが、自分の学生のころもが、自分の学生のころも悪くはなかった。とにかく若いだけで楽しいのだ。お酒も飲まないし耳も遠いが、このような折には補聴器を付けて、話に参加しようとは思うのだけれど、揃って、大声を上げて笑うようなときに、一緒に笑えない。時代が違うのか、僕が高齢者になったためか。北海道大学の酒井先生は、学生と一緒によく笑う。

とにかく気持ちの良い夜で、学生たちが巣立ってからも、たぶん、一生わすれないだろう。僕が卒業論文を書いた、波浮港(この前、海豚倶楽部で行った)の60年前の佇まいをわすれないように。
 ただ、僕の学生時代、先生は、ここまでサービスしてくれなかった。月謝を使い込んでの滞納を立て替え払いしてくれたけど。
  
 7月28日
宇和島を出て、宿毛に向かう。

0728 豊潮丸航海 4  宿毛へ

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 7月28日
宇和島を出て、宿毛に向かう。

宇和島の由良岬で潜水した。
僕達がゴムボートを出して、潜水する場所は、いわゆるダイビングポイントではなくて、豊潮丸がアンカーを入れて停止するか、船を流して、止まっていられる場所から、ゴムボートを出し、安全に戻ってこられるところが選ばれる。潜ってみなければ、その海底がどのようなところか事前には分からないが、僕がダイビングを担当して以来、このスタイルでのダイビングをしているし、中尾先生は、豊潮丸でのダイビングに長い経験があるから、大体のポイントは想定できる。つまり、豊潮丸ポイントが有るということだ。
由良岬は、そのように想定して潜ったのだが、良い場所だった。



潜水開始1056 潜水時間46分 浮上1142 水温26.8度 最大水深14.2M
平均水深8.0 メートル 透視度15メートル
バディは①中尾・須賀 ②町田・石橋 ③相馬里奈・鈴木
①②③はだいたいは視界の中にいる。


   今度の旅では、大きいストロボもライトも、船に持ってきて入るのだが、水中に持って入っていない。お写真を撮ることが目的ではない。両手を空けた状態にしたい。

久しぶりで恐怖を感じない、のんびりした気持ちのよい潜水だった。採取物の成果、価値はぼくにはわからない。恐怖心というもの、大事にしている。恐怖心があるので安全が確保できている。恐怖心はイメージとして持っている。

潜水後宿毛に到着して、宿毛では、この航海で唯一のレクリエーショナル・ダイビングのダイビングポイントに旧友のパシフィックマリン、森田さんのボートでガイド付きのダイビングになる。森田さんが船に見えられて打ち合わせ。

その後、徒歩遠足スタイルで街にでた。
「ラーメンを食べに行きましょう。」
宿毛の街、古い町並みだが完全に死んでいる。シャッター街だが、食べ物屋、飲み屋さえも港なのにない。その死んだ街を抜けて、田んぼの中を抜けている立派な舗装路をどこまでも歩く。途中で森田くんの車とすれちがう。船に魚をとどけてくれに向かう途中だという。乗せてもらって、船に戻り、そのまま戻ってくればこれ以上歩かないで済む。しかし、突っ張って、歩くことにする。この頃歩かない。歩かないことが陸での体力の衰えになっている。中尾先生たちとの旅は歩くトレーニングでもある。
それから、どれほど歩いたか、宿毛鉄道の駅があり、例によって、全てのチェーン店、住宅街がある。一つの街を殺し、別の新しい街が、車の便のあるところにできている。全国的な現象だ。

ラーメン屋は宿毛駅の近くの田んぼの中の一軒家的にあった。ラーメンは美味しかった。学生の情報だろいうか。戻り道も歩くつもりで歩き出した。大きなショッピングセンターが駅から少しのところにあり、中尾先生が森田を呼んで車で帰れという。自分はトレーニングのつもりだから、歩き通すつもりで居たのだが、車で戻ることにした。一緒に帰る学生がいるはずと思ったのだが、いなかった。

0731 豊潮丸航海 5

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  航海記をブログにするのって、ちょっと忙しい。しかし、この豊潮丸に乗せてもらうようになってから、毎回全部書いている。僕が何をどんなふうにどんな時に恐ろしがったか、注意したか、にもかかわらず、事故とはちがうけれど、流されて遡るのに辛かったとか、その時その時に海の中で感じたことを書いている。学生がこれを、昔の分も遡って見てくれれば、きっと参考になるだろうと思って頑張っている。もちろん、同行した学生だけではなく、一般のダイバーも、普通のレクリエーショナルダイビングとは、ちょっと違った、スタイルのダイビングについて、何かを感じてもらえるだろう。

7月29日

森田くんの快速艇を豊潮丸に横付けして乗り移り、ダイビングポイント、ブイが打ってあるところに向かう。
森田くんとの付き合いは長い。65歳の時に彼に手伝ってもらった、高知沖の黒潮牧場13号潜水は、僕のダイビングキャリアの中でも、忘れられないダイビングだった。月刊ダイバー連載のグラフィティは、この森田君と一緒に潜って潜水でしめようかと思っている。10月号だ。


一回目の潜水 沖ノ島 赤崎一番
潜水開始 1021 潜水時間 54分 浮上1115 水温25.8度 最大水深15.4M 平均水深 10.8M

到着すると流れがある。豊潮丸での潜水では、流れ恐怖症になっている。森田くんに言わせれば、表面は流れているけれど、下に入ってしまえば、どうともない。という。
中尾先生に、僕は、最後に行来ましょうと、様子を見る。潜降するブイまで25mぐらいだろうか。町田は難なく先頭で到着しているが、里奈が難航している。潜れば流れていないという。透視度が良いから、潜って行っても、良さそうだ。バディの中尾先生に、潜って行きましょうと声をかける。



飛び込んですぐに潜ったが、底でも流れはかなりきつい。
大きな岩の陰に採集対象が多い。キンギョハナダイの群れが見事だ。ニコンAWで撮るが、内蔵フラッシュでは、せいぜい30cmの接写用だから、キンギョの色は出ない。

  ニコンAWで撮った(人工光なし)でとった写真よりマスクマウントのGoPro2の方がいい。


中尾先生の採取を手伝う。
ブイから相当に離れたから、流れがあるから、50でターンしようと決めていた。帰る道筋はわからないが、森田くんがガイドして見ていてくれるから大丈夫だろう。


森田の進む方にゆっくりとついていく。50になったので、中尾先生に告げる。彼の残圧は70だ。中尾先生の指差す方をみると、彼のほうが周囲が見えている。ブイのロープが見える。ならばもう少し大丈夫だ。ロープをたどって浮上するのかと思ったら、森田君は、ロープから離れて泳ぎはじめる。もう残圧は40しか無いのにと思いながらついていく。ボートの真下に来たので、浮上してボートに上がる。アルミタンクなのでBC.のポケットに2キロ足してあるので、梯子を上るのがきつい。

上がってしばらくすると、僕達とは別のお客が5人、次々と上がってくる。かなりの年齢の女性と、男性だが、普通の顔をして梯子を上がってくる。それに、この流れだ。レクリエーショナル・ダイビングというのは、しかも高齢なのに、レベルが高いなとおもう。
スキンダイビング・セーフティで、高齢者は、重いタンクを背負わないで済むスキンダイビングがいいなどと書いたけれど、重いタンクを背負えるように、常にトレーニングしていることが大事なのかもしれない。

二回目の潜水 沖ノ島 外頭

潜水開始 1215 潜水時間67分 浮上1312 水温25.8度 最大水深21.2M 平均水深 11M

流れのない穏やかな海面で、少し透明度が悪いようだ。
大きな岩の陰、下、壁面にはヤギがいっぱいだが、ポリプが開いていない。ポリプが開いたならば、見事だろうな、と森田くんにいうと、冬が見事だとか。ヤギのポリプってそんなものなのだろうか、潮時で開くものだと思っていたけど。



毎日のように同じ場所、ダイビングポイントを潜っているのだから、当然といえば当然かも知れないが、森田の後をついていくと、残圧30ぐらいで、船の真下に戻ってくる。ここは、海綿の採取には良いポイントで、学生たちもかなりたくさん採っている。中尾先生の方針としては、学生たちにはなんでも採らせる、自分はセレクトして採っている。

土佐清水に入港、ジョン万次郎の記念館という海の駅がある。閉店してしまっている。此処は、街が遠く、湾の対岸に見える。さすがに徒歩遠足はなく、岸壁でのんびり、つりをしたり、網で魚を掬おうとしたりしてすごす。



そのジョン・マン記念館の前、つまり豊潮丸の前でもあるのだが、「よさこい」の練習が始まった。三々五々、人が集まり、号令をかけた準備体操からはじまり、かなり体育会系の練習だ。体育会系だが、踊りだから自由な雰囲気が感じられて、とても良い市民クラブなんだなあ、と思う。予備軍の子どもたちも、隅のほうで、グループには入らないで、一緒に練習している。
江東区の門前仲町、僕の事務所の前も「よさこい」全国大会の踊り場の一つになっていて、この全国大会は、東京の何箇所かで踊って、最後はお台場での締めになる。遠い土佐清水からも、東京の全国大会に行くのかな、と感慨が深い。
動画も撮ろうとニコンのAWを持ちだした。ところが、AWの動画よりも、スマホの動画の方がきれいなのだ。おどろいた。

気持ちの良い宵だった。今日は徒歩遠足はなかった。

0802 豊潮丸航海-6

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 7月30日
2010年にも昨日の宿毛、そして今日の土佐清水でも潜った、と中尾先生にいわれる。その明確な記憶がなくなっている。
僕の書いてきたブログが過去にさかのぼって全部みられる。これで見て、2010年の7月だとわかる。その時の様子もわかる。学生も古い僕のブログを検索してみてくれれば、その時の様子、僕が何を恐ろしがったのか、どんなことが起こったのかわかる。どんなことと言っても別に事故ではないのだが、ダイビングのヒヤリハットは、頭の中での出来事だから、それを読んでくれれば、安全度が高くなる。ダイビングの安全とは、水中に入ってから、それぞれが、どんな行動をしたのか、どんなチームワークで動いたかによって決まる。いわゆるログブックには、その時の頭のなか、恐怖心を書いておかなくては、と、瀬戸内海の航海、2013年ごろから思っている。
ブログの他に、一覧のログがあると、記憶が強化されるのだが、潜水の後、ログとブログ両方を書くのは、ちょっと無理で、ログをやめてしまっている。
書いていたころのログもスマートフォンに入れて置こう。

朝8時30分、第一回目の潜水準備

入港している土佐清水の岸壁に船を着けたまま、ゴムボートに乗り移り、土佐清水港の出口先端の磯で潜る。街がお祭なので、スクーバでは潜れないとか。お祭りとスクーバの関わりがよくわからないが、漁師はお祭りの日には漁にでない。そんなことかなと納得する。スノーケリングならば、それでもいいのか?まあ、のんびり泳ごう。
エンジン付きのゴムボートで磯に着き、水に入る。試しに潜ってみると、ウエットスーツを着てスクーバで適正の5キロでは、潜りこむのが難儀だ。スキンダイビング・セーフティでは、安全のためにウエイトは軽め煮と書いてあるが、軽めのウエイトで潜るのは脚力が必要だ。
大島では3mmで4キロだった。5mmにフードベストを着て、5キロでは無理だった。無理に潜る必要もないので浮いて、つまりスノーケリングで泳ぐ。スノーケリング協会のルールでは、スノーケリングはフローティングベストを着けなければいけないとなっているが、ウエットスーツを着て軽めのウエイトのスキンダイビングもスノーケリングに含める方が現実的だ。
 ルールはルールとして、一般ではやはり浅いスキンダイビングをスノーケリングとよんでいて、同行している広島大学の海藻の研究グループは、フローティングジャケットなど着けない、浅いスキンダイビングをスノーケリングと呼んでいる。
 潜ってウエイトテストをしているうちに、中尾先生をロストしてしまった。スキンダイビングだから、と言って出る前にバディの確認をしていない。とにかく探そうと、岩を巡って泳ぐのだが、全然進まないで疲れる。どうしてだろう。フィンが悪いのだ。スクーバダイビングだから底の厚いブーツを履く、そのブーツに合うストラップタイプのフィンということで、適当なのを持ってきてしまった。
 海豚倶楽部の大島海洋実習で、サンダルを持って行かないで、薄いソックスブーツで行ったものだから、足が痛くて歩けなかったので、ブーツのストラップにした。今度は船の上とゴムボートだから、ブーツでなくても良かった。大島の時に、海豚倶楽部の荒川さんにもらった、オレンジ色のサンダルが、ソックスブーツを履いた足にフィットしたので、この航海に持ってきて使っているのだから、バラクーダは、ゴムボートの上で取り回しが悪いとして、タバタのカイルでも持ってくれば、流れに流される恐怖も小さくなっただろうに。




 このスノーケリングで、水面スレスレの岩の生物のマクロをニコンAWのマクロでとった。小さいかわいいカエルウオの類、と海綿とカンザシゴカイが綺麗に撮れた。このマクロは使える。

 帰ったら、カエルウオの類は、図鑑で調べれば、すぐにわかる、と思っていたのだが、益田さんの大きい図鑑でもわからなかった。


 2010年には二回目の潜水が合ったので、そのつもりでいたら、今回は、これで全部のダイビングが終わりということで、豊潮丸は、呉にもどる。
旅はいろいろなことを考えさせる。考えたこと全てを書きたいのだが、旅の最中では、書くことが難しい。
しかし、東京に戻ると、また別の書くこと、デスクワークが押し寄せてくる。旅で考えたことを書く時間も無いと思う。出来るだけは、旅の中で書かなくてはならない。
 考えたことの一番は、ダイビングのスタイルの問題。これだけは忘れないうちに明日の新幹線ででも、書き残しておこう。できるかな?



 朝、広島大学が持ってきたメロンを食べ、とても美味しかった。帰路の甲板で、早稲田大学中尾先生提供の恒例の西瓜をたべた。これもおいしく、一年分の西瓜を食べた気分になった。

 航海の最後の日は、カレーライス。早稲田大学、学食のカレーよりも美味しかった。

 航海最後の夜、学生たちはよる遅くまで起きている。僕は一寝入りしてしまった、学生食堂に顔をだす。中尾先生から、霧がでていて月がきれい、と教えられた、甲板にでる。船は瀬戸内海に入ったところで停泊している。波はほとんどない。




 これで、僕の夏が行ってしまう。次の夏が僕にはあるのだろうか。もう一度この旅に来られるのだろうか。海の上にいると、もちろん身体は疲れるが次第に絶好調になってくる。そしてまた東京に戻って半病人になるのか?
 学生たちにはこれから何度も何度も、人生の夏がある。

 大学というところ、研究とともに教育の場なのだ。その教育、海の教育に、広島大学の、この練習船豊潮丸はずいぶんと大きな役割を果たしている。広島大学だけでなく、幾つもの大学が、僕達のように乗せてもらって、年間のスケジュールがフルに消化されている。ふと、水産高校の練習船は年間フルに動いて、水産高校だけでなく、高校の臨海学校的な航海をしているのだろうかと思う。8月には水産高校のダイビング実習の講師も引き受けているので、聞いてみよう。


 スキンダイビング・セーフティで、僕が書いたこと、強調したことのひとつは、ローカルルールの確立であった。この練習船豊潮丸での僕たちのダイビングのローカルルールがようやく安全なものとして確立できたのだろうか。そんなことはなくて、その都度、恐怖心、経験知(イメージ)を大事にして、その都度、考えなくてはいけない。しかし、パターンは出来たと思う。


 豊潮丸で、僕が使わせてもらっている個室、中尾先生よりも良い部屋なので、気が引けているが。

0804 何を撮るのか -1

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 「暑くて」と言い訳をしてはいけない。

 撮影のことを書きたい。
 するともう頭のなかは脱線している。昔は、とか、自分はどういうカメラマンだったか、などと脱線している。本当に書きたいことに辿り着くまでに、力尽きてしまいそう。
 だから、基本的に僕はテレビ番組のカメラマンだった、などということは、テレビ番組のカメラマンとは、などということは、またいずれ、ということで。カット。

 撮影するという行為が陸上でも水中でも、だれでも、どこででも、すぐにする、出来事になっている。スマートフォンのため、陸上ではカメラを持ち歩かなくても、いつでもどこでも、だれでも写真を撮る。あ、それから、動画と静止画の区別が無くなったから、どちらもまとめて写真と呼ぶようにしよう。と思いながら、スチルとかムービーとか言っている。


 カメラマンとそうでない人との区別は、何のために撮影するのかというコンセプト、基本姿勢が明確であるか、そうでないかの違い、と書きかけて、フェイスブックのため、とか言われてしまうと、「そうなのか、そうだよね」と納得してしまう。日常の中に写真が組み込まれている。しかし、それでも、何のために写真を撮るのかということを、一応考えるのか、考えないのか、という区別はある。

 記念写真こそ立派な目的、目標だから、それでもいいから、なんのためか、記念のためという立場を明確にすることから、始まる。
 一人の人、一人のカメラマンが多数の目標、目的を持っても良いから、シャッターを押すときには、なんのためか、意識しているはずだ。フェイスブックに載せようでもいい。



 何のためなのか、目標、目的によって使う器材が違ってくる。実はスマートフォンを使うようになってから、まだ日が浅いのだが、記念写真、フェイスブックに載せる写真は、スマートフォンで足りるとわかった。しかし、水中は?スマートフォンでは、スマートフォンの水中ケース、ハウジングもでているけれど、それほど、普及しないと思う。スマートフォンは、水中ではカメラとしてだけしか使えないからだ。水中で通信ができるとなったら、陸上と同じように、スマートフォンだけで、記念写真、フェイスブックはそれで足りるとなってしまうだろう。
フェイスブックと書いたけれど、ツイッターでもおなじことだ。


カメラとは、まず、記録のための道具であり、自己表現の道具である。自己表現と記録とは、混然としているが、記録であり、自己表現であることを自覚して使いこなすことが必要である。つまり、当然のことでけれど、自分のやっていることを自覚している。自覚することが撮影の第一歩だと思う。絵を撮ることが、身近になっているから、言葉で表現に絵を置き換える。一枚の絵で、言葉にして莫大な情報量があるのだが、言葉をちょっとそえると、理解が進む。言葉を添えないで、表現することを目指すべきだろうか、言葉を添えて、一つのものと考えるのか、そのどちらが良いのか。自分としては、素直に、言葉を添える、言葉の表現としての写真と、写真の表現としての言葉を混然と使いこなしたい。

 此処から先は、十人十色であり、人それぞれであり様々である。そして、同じ一人の人でも、その置かれた状況、時代、器材の進歩と変遷によって大きく変化する。

だから、自分の場合、昔話から始まってしまう。フィルムの時代、そしてデジタルの時代、カメラの進化によって大きく変化した。

ああ、また悪い癖で、前置きでこんなにながくなってしまった。
何を書きたいのか、書きたいと思って頭の中にあるものからどんどん遠ざかって行く。

そこで、態勢を立てなおして、
豊潮丸の航海で、何を撮りたかったのか。そして、このごろ、この数年、自分は何を撮ろうとして居たのか?!
暑いので、イリュージョンが乱れる。 ☆つづく

0805 何を撮るのか-2

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 写真撮影とは記録すること。
 目に見えているものを、写真という絵で切り取って保存することだ。
 ここで写真というのは静止した写真も、動く写真も含めていうことにする。

 現在のところ写真を撮って、コンテストに応募するという目標はない。遠い昔、50年前、「海の世界」という雑誌の水中写真コンテストに応募して、最優秀賞に選ばれて、副賞のニコノスをもらった。そこでこの話はカット。
プリントを作って、写真展をやることも、写真展に応募することも視界のそとにある。写真集を作ること。できれば、やりたいとは思うけれど、その方向に強い志はない。


 一番影響を受けたカメラマン、浅井慎平 浅井さんはスノーケリング程度しか潜水しないが、水中写真を撮る感覚で陸上のスナップを撮っていると思った。そして、目標は気持ちの良い写真



チュークのブルーラグーンホテルのダイニングルーム、今はどうなっているだろう、あい変わらずだったら嬉しい。

撮影の目的は、SNSに使うこと、報告書に使うこと、本を書くとすれば、その本に使う。
絵がかけない自分にとって、文字で書く以外で、記録するということは、撮影することに集約される。自分とは縁がないが、学術的な論文にも写真が重要だ。小保方さんがバレたのは、写真からだ。

器材、使用する道具は、目指す目的、目標に応じて用意する。
何を記録するかに応じて器材を選定する。今のところ、お金はない。
最小の予算で、最大の効用を目指す。

現在の記録の対象は、自分の場合、水中が大きなウエイトを占めているが、
①日常の記録:SNS:水中撮影も、記念写真も含まれる。
②旅の記録、これは豊潮丸航海からもどったばかりだ。
③人工魚礁を含めて、JAUSでやっている水中調査記録グループの活動。
④お台場の水中撮影

現在使用している撮影機材
①ウエアラブルカメラ
ウエアラブルは、撮影の革命だった。2012年から撮影の主軸をここにおいている。
②コンパクトな水中カメラ
 ニコンCOOLPIX AW130
 オリンパスTG-2 も愛用していたが、残念なことに水没した。
ペンタックスW-90  これは、スマートフォンを使うようになってから、ほとんど使わない。
③スマートフォン GALAXY S5


GoPro2 現在3台使っている。4台持っているのだが、1台は動かなくなっている。
僕が買ったGoPro3ははずれで、GoPro3+以後のものは買っていない。
ウエアラブルカメラは、他にHD4000を2台、AEEを2台持っている。

現在使用しないカメラ
①キャノン、イオスKISSのカメラとハウジング
②SEA&SEAのG-1 リコーのカメラが入っていて、ワイコンもマクロも持っている。
③ソニーのビデオカメラとハウジング、 ビデオテープ使用、機種の名前もわすれてしまった。
④その他、使用しなくなった古いハウジングは、無数


 今はいなくなってしまった後藤道夫がハウジングの理想を追求したもの。全て、円筒形を基本にしている。円筒が、オーリングシールが絶対な形状だ。ボデイはステンレスの削りだし。グリップなどにも人間工学的な使いやすさを追求している。そのころのベストセラーだったキャノンのAE1が入っている。残念なことにこのカメラで撮ったいい写真がどれか、の記憶がない。僕が手にしていたのは、ほとんどニコノスだった。
 この前、フェイスブックで、中村征夫の部屋に、ピカピカのこのカメラが飾ってあった。僕はこの通りで、後藤道夫にすまないと思っている。


さて、今度の、7月24日から31日の豊潮丸航海の撮影について述べよう。

0807 年次総会と、スキンダイビング・セーフティ出版記念会

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  8月5日 NPO法人 日本水中科学協会の年次総会、そして、その後で、スキンダイビング・セーフティの出版記念会が、白井理事のシャロン木魂で行われた。

年次総会は、正会員数65名のうち45名の出席、うち委任状33通で成立した。活動会員が25名だから、合計で90名の団体だ。クラブと呼んだほうがふさわしいのかもしれない人数だ。会計報告は50万の赤字、2010年から、今までの累積赤字がおよそ300万、赤字の部分は大部分が役員報酬の未払い、つまり、僕が報酬なしのボランティアをやっているという状態で回っている。商品として何も売っていないのだから、これで当然かもしれない。監事をお願いしている綿貫さんが、何のスポンサーも居ないで、こんなことを始めたのを「ええつ!」と驚かれた。監事も無報酬だ。

 この状況で何ができるか、が勝負なのだが、
 2014年の春から夏にかけては、会員に、報いることができない。会員になってもらって、何のメリットもない。自己満足にすぎない。意義がないのではないか、と、自分的にピンチになってしまった。

 中尾先生、久保くんと、そして学生たちとイタリアにも行ったし、水中調査研究会の人工魚礁調査潜水、月例のワークショップ、毎月の運営委員会によるホーム・ページの充実、古い日本潜水会の身内である白井常雄の物心とものバックアップでどうやら立ち直り、先が見えてきた。自分が居なくなった後も水中科学協会が意味あるものとして続いてゆくように思えてきたということだ。もちろん、時は移り、人は代わる。僕が思うような形には動いて行かないだろう。その中で自分はなんとしてでも、最後までダイビングにしがみついて行くけれど。

 スキンダイビング・セーフティが岡本美鈴、千足耕一、藤本浩一、それに出版社の担当の小野さんの気持ちの良いチームワークで、嫌なことが一つもなく、スムースに目指した本が出来上がり、評判も良かったことも、助けになったし、スキンダイビングのトレーニング、その仲間たちの援助も力になった。

 もはや先のない人生、他を、周囲を気にせずに信じるところに従って、直進する他ない。と、割り切れもした。

昨夜の出版記念会でスピーチしたことだが、水中科学協会のめざすところ。

 人それぞれはちがう。個性ともいう。誰がどのようなダイビング活動をしても、たとえそれが、自分のスタイルと違い、ポリシーとちがっても、メンバーであるという理由だけで、扶けあえる。成功を喜べるようにしたい。
自分が扶けてもらうためのお願いの裏返しなのかもしれないし、全体としては、ほぼ不可能に近いことかもしれないことなのだが、これは、1967年に発足した日本潜水会の心だった。やがて、指導団体という組織の拡大のために、1972年には、指導組織としての活動は全日本潜水連盟に移管して活動を停止したが、1983年からは、毎年一度忘年会を開く親睦クラブになった。同時に指導団体の枠は取り払った。メンバーが勝手に指導組織を作ったり、PADIになったり、NAUIになったり、いろいろになった。


 1967年 日本潜水会結成の時に集まったメンバー
 すでにかなりの人数が世を去っている。


2003年 益田さん、後藤道夫、大津善彦 
日本潜水会はダイビング界唯一のビジネスに関係しない大人のクラブだと自認してきた。


 昨夜、スキンダイビング・セーフティ出版記念会に集まってくれた人たち。
 一歳の福田幸輝もいるから、僕の年齢を相殺して平均年令は低くしてくれている。


 たった、100人のメンバーでも、一堂に集まることは、不可能。ここにでていないメンバーの方がもちろん多い。そのことがつらい。

ダイビングの活動を成功させること、安全を保持すること、とは、連帯と思いやりを基としたチームワークなのだ。信頼できる仲間がしっかり群れることが、ダイビングの基本である。ダイバーの性格は基本的には、一匹狼なのだが、群れる事を拒否しては、バディシステムもユニットも、チームも成立しない。信じなければ群れることができない。

その日本潜水会を基として、水中科学協会をつくった。亡くなってしまった盟友の後藤道夫は、古い形を追ってはいけないと、全く新しい出発を目指した。5年経って、目指したところとは、異なったが、結局は、互いに互いを認め合って、援けあって、水中と陸上を生きるという基本は同じだ。
例え水中科学協会のメンバーでちがう心の人がいたとしても、成功を喜ぶという芯を保持しなくてはいけない。常に、自分が一番弱いと自覚することだ、とこの一年で再度学ぶことになった。
抽象的にはそういうことだ。

このようなことは、記念会のスピーチでは、うまく語れなかった。

今度、これを機会に、岡本美鈴がメンバーになったが、彼女のダイビングをみんなで誇りに思い、バックアップしたい。彼女に言った。サポーターズクラブがもう一つできたと思ってくれと、会員それぞれについて、お互いにサポーターズクラブでありたい。
ようやくホーム・ページも形になってきて、会員全部の名前と、ホーム・ページのある人は、リンクがのせられるようになった。これも、プライバシーの問題で、反対する人もいたのだが、差支えがあると申し出があれば、消せば良いと、踏み出した。

記念会で話す事ができた、具体的なことは、毎年、本を一冊ずつ出すような活動を続けていく、20年続けて、20冊の本ができたら、文化になる。ワークショップ、シンポジウム、技能研修会(プライマリーコース)を続けていく。自分たちの活動研究を発表して行く。これは理事会、総会でも確認できた。そして、できるだけ、他の指導団体、業者、活動団体の活動とできるだけ重ならないようにしたい。協力できることであれば、競争しないで協力したい。

もちろん、個人的には、技術的な主張のちがいについて、内でも外でも、議論はするが、誹謗はしない。

地方に住んで、具体的な活動に参加できないメンバーについて、そして、古い友人で、とにかく応援だけをしてくれているメンバーに具体的に何を報いる事ができないのが、とてもつらいのだけれど、これは、水中科学協会のメンバーであることが、プライドであるような、活動を続けて行く他にない。

 スキンダイビング・セーフティだが、よく、短い時間のうちにこれだけのものができたと思う。岡本美鈴を始めとして、東京海洋大学准教授の千足耕一、藤本浩一、そして僕も、息こらえ潜水に突いた、書くべきこと、書きたいことがそれぞれたまって居たのだと思う。とてもいいタイミングで本にできた。スキンダイビング、フリーダイビング、スノーケリングについてと、ダイビングの安全について一つの提案ができたとも思っている。発売、一ヶ月で、再販が決まり、8月4日、記念会に間に合うように、新しい版ができてきた。ダイビング関連についてはベストセラーのうちに入るだろう。ぜひ、買ってください。
 

0808 シャーク

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  猛暑で立秋ですが、この暑さも行ってしまうのかと、ちょっと寂しい思いもして、今日は街を歩いて、クーラーのない事務所に行き、汗をかいて見ようかな、などと思いながら、クーラーの下で、くしゃみをしています。
 茨城のシャーク騒動はどうなったでしょうか?この土日、海水浴が禁止状態であったら、昔、友人の海の家が、台風続きで倒産したことがあるので、そして、人と自然のスタンス、人間とサメ、のかかわりについて、考えさせられます。


 ジョーズという小説そして、映画はスピルバーグの出世作でした。映画のメーキングを書いた「ジョーズの秘密」は愛読書の部、の書架にあります。懐かしい「特撮」の世界です。
 夏の観光シーズン、その夏の観光が終わってしまうことをおそれて、サメの出現を発表せず、海水浴の女性が食われてしまうオープニングがショッキングでした。
 あの映画が嘘だと言い切れないのが、海の関係者の悩みでしょう。これを書きながらも、このブログの影響で、全国の他の場所で、クローズになったらどうしよう、などと少し思い上がっていたりします。僕の考えは、日本のサメを恐れて、海水浴やダイビングをやめていたら,日本の海で泳げる場所はごくわずかになってしまう。日本でのサメの食害は、かなり多いのですが、そのパターンはほぼ決まっているようにおもいます。ダイバーが作業をしていて、海底の砂を巻き上げている、タイラギ採り、ボートの船底掃除を沖でやっていた時、で事故が起こっています。海女のアワビ採りも危険パターンに入りますが、被害の例はなく、昔、大原でサメがでたと騒ぎがありましたが、サメを怖がっていては海女はやってられない、と頼もしい発言で、漁は続けられていました。これに関連したテレビ番組をやったのですが、別の話です。
 
 オーストラリアは、ホオジロのご当地ですが、サメの居るところで、スキンダイビングでのスピアフィッシングコンテストをやったり、サーフィンをやったり、そして食われたりもしているのですが、止めません。そして、ライフセービング発祥の地です。面白い国です。

     この時に、今のウエアラブルカメラがあればよかったのですが、大きいカメラをポールにつけて居ます。


 ホオジロの中でアワビ採りをするために、モーターで動く、サメよけのケージを使っていて、以前の日本のタイラギ採りのヘルメットダイバーが、ホオジロに食べられた事件の時に、このケージを日本でもつくろうとオーストラリアのポートリンカンに行きました。とても良い乗り物で、もしかしたら、究極の潜水器か?身障者もダイビングができる。と思ったのですが、まだ実現していません。
 ちなみに、オーストラリアで、このケージを使っているアワビ採り組合は14人の漁師、高収入でヨットを持ったりしている漁師ですが、その14人のうちで、10人はケージで漁をしていたのですが、4人は、そんなものをつかったら、マッチョじゃないと使用せず、そのうちの一人が食われて、さすがに全員が使うようになったらしいのですが、そこで、僕のストーリーは途切れています。どうなったでしょうか。
 人命を大事にする、安全潜水、安全海水浴の国、日本は、世界で一番良い国だと思っていますが、ハンマーが下田に迷い出てきて、海水浴禁止になったら?
 もう時効でしょうが、神津島の恩馳島のタカベの追い込み網でタイガーシャークが出て、隠蔽シャークハントが行われ、僕は退治されて引き揚げられたサメを撮影したのですが、夏の観光シーズンでしたので、番組に流さず、隠蔽したことがありました。
 タイガーシャークも強力なマンイーターにみなされていますが、このごろ、ダイバーのお友達になっているところがあります。退治しないで、「神津島でタイガーに会える」?
 「今、神津島にタイガーは来ていません。」誤解されると困る日本です。

 ほっとくつもりでしたが、撮影するダイバーにとっては、サメはメインテーマです。書いてしまいました。

    月刊ダイバーの原稿、そろそろ、締め切りです。 今度の号で、一応の終わりになるので、書けないで、苦しんでいます。


0809 何を撮るか-3

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 撮影について「つづく」と書いていたのに、東京にもどって水中科学協会の年次総会があり、そのことを書き、次は茨城のサメ騒動について書いてしまった。
 サメ騒動は、海水浴場の回りを刺し網で囲い込むことで、解決。なかなかの知恵だとおもう。どっちみち、人を食うタイプのサメではないから、退治シなくてもいい。

さて、本当に撮影に戻って、
豊潮丸の航海で、まず僕の果たすべき役割は、潜る学生、研究者の安全確保だあ。事故なく採集調査の目標を達成しなければならない。中心の中尾教授は、30年以上のキャリアのあるダイバーだから、見方によれば、この航海に関する限りでは、僕よりも優れたダイバーでもある。ならば、僕は不要かとも思えるけれど、スーパバイザーが必要だと、売り込んでいて、中尾先生が受け入れてくれている。とにかく、安全については、僕が最高責任者である。
 採集の補助と、採集物の撮影も役割の一つに入っている。撮影については、僕が一回失敗した、カメラトラブルでうまく撮れなかったのだ。以後は、採集物の自然状況での撮影は、中尾先生をメインに、僕がサブで、標本を撮りながら採集している。

 安全という見地から考えると、僕はカメラを構えて撮影などしていては、いけない。
だから、採集物の撮影という項目を増やして、撮影してもいいように取り決めているのだが、一眼レフのファインダーに集中しているわけにはいかない。ファインダーを覗きこんでいる間に何が起こるかわからない。これは、一般のレクリエーショナルダイビングのガイドダイバーとかインストラクターでも同様であろう。
カメラを手放して潜れない僕としては大いに困る。

ハンズフリーで撮影できること、ウエアラブルカメラのマスクマウントで、解決している。これならば、学生を含めたチームの動き、それぞれの位置関係も記録できるので、機会があれば、学生たちに見てもらって、動きの復習もできる。もしも、何事かが起こった時には、その時の状況が記録されているから、原因と責任の所在を明らかにすることができる。今度の航海ではGoPro2をマスクの上辺にマウントして使用した。

     チームの位置関係と動き  動画で撮っている。

     

     採集物の周辺環境GoPro動画

     採集物 COOLPIX


もう一つ、手持ちのカメラだが、昨年までは、イタリア旅行でも豊潮丸でも、ライトを取り付けた、ステイにオリンパスTG-2 を付けて使っていた。TG-2の耐圧は15mなので、耐圧30mのニコン、COOLPIX、AW130 を買って、オリンパスと両方を適宜交代させて使っていた。
ところが、オリンパスを浸水させてしまった。多分、二台のカメラを使うことで、使い方が少し粗雑になり、TG-2 の防水機構が、粗雑な扱いには耐えなかったという理由だろう。残された、AW を中心に取り付けて、お台場、そして館山波左間で使用していた。ところが、7月のお台場で、カメラを取り付けたステイ(台座)を持ってエントリー使用とした時、波打ち際の人工砂浜の上に、ニコンがポロリと落ちた。台座ネジで取り付ける、カメラの底部分のネジの山が潰れてしまって、馬鹿になったのだ。人工砂浜の上で良かった。これがお台場の透視度50cmの水中で落ちたら、余程の幸運でないとみつからないだろう。
それにしても、ニコンのボディカラーを迷彩色にするなんて、なんと馬鹿なのだろう。おとしたら見つかりにくい色彩だ。鮮やかなオレンジ色にしておけばいいのに。

   ねじ山がつぶれた。

   このスタイルはあきらめた。

豊潮丸では、何とか取り付けようと、ライトステイも持っていった、しかし、ハンズフリーにする取り回しにすれば、また落ちる。今度は絶望のはずだ。ストラップを付けて、手首にぶら下げて泳いだ。これがなかなか良かった。マスクマウントと手首のニコンで、充分に撮影ができた。ニコンの方は、マクロがなかなか良かった。
マクロまでは接近しなくても、30cm程度の撮影距離ならば、ニコンでうまく撮れた。


    マスクマウントのGoPro2の動画から


今後は、他の場所でも、ニコンは手首にしよう。東京に戻ってから、ストラップの部分に延縄の餌を引っ掛けるフックを取り付けた。これは使いやすく絶対の信頼性がある。これで、BCの輪金具に引っ掛けて使うことができる。

      センターにGoPro2,サイドにHD4000 
  手持ちにCOOLPIX


そこで、ライトステイをお台場で使うときのセンターには何を?
GoProに液晶ファインダーを付けて、これは、きちんと撮影する時だけシャッターを押して、サイドの常時廻しておくカメラはHD4000か、これもGoProでもいい。AEEの5秒間隔でも悪くない。もともと、GoProでカメラを構えてきちんと撮ってみたかったのだから。そして、ニコンはマクロか30cmの撮影距離の時、右手に構えて、左手で、ライトを持ってライティングすれば。このスタイルを基本システムにしよう。ハンズフリーの時はライトステイは持たないで、マスクマウントと、手首のニコンにしよう。

長いポールカメラもあるので、ライトステイの変わりにポールを持ってもいい。

撮影の目標は5W1H の記録で、使い途は、SNS 報告書、それに表紙を引き受けている「豊かな海」 このシステムで十分に対応できるだろう。


0811 習志野プール

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0811 
久しぶりのスキンダイビング練習。
海豚倶楽部、7月は、伊豆大島の遠足があったので、プールトレーニングはない。僕はその後豊潮丸航海で、ちょっとスキンダイビングはやったが、ちょっとだ。辰巳は夏の退会シーズンで、8月は18日からだ。
そんなことで、久しぶり、そして習志野の国際水泳場のダイビングプールだ。

水が冷たい。
プールを反時計回りでラウンドする。スキンダイビング用のスフェラマスクも久しぶりで、その異常視界に馴染むのに少し時間がかかる。この異常視界はきらいではない。
白いバラクーダも久しぶりだ。

       GoPro2 一匹狼がいる。

身体を水になじませなくてはいけない。朝、眠くて疲れていたのだが、泳ぐのは苦にならない。気持ちが良い。10時15分ごろから泳ぎ始めて、37分までの予定なのだが、一人列を離れて、勝手な練習をプールの真ん中でしようとしている。これは、高齢の男性に特有のことで、自分にもその傾向がある。これは、海では困る。居なくなってしまうのだから、バディが大変だ。その内に、言っておかなくてはならない。バディシステムが絶対だとスキンダイビング・セーフティに書いたのだが、それはほんの中のこと、現実の自分はちがうと思うのが常だ。女の人の場合にはそれがないから、安全度が高い。

       GoPro3 

ダッシュで25mを2往復、100mダッシュ。これも息が上がらなかったが、遅い。自然に、息が上がらないように泳いでいる。まあいいだろう。

水面休息10分の終わりに、スキンダイビングを始める。
調子が良いのか、一回目のトライで、水平20m近くまで潜れて、すぎに25m行けた。それ以上はやらない。

      GoPro3
みんなで一列で25mを潜る。この時も、絶対的マイペースの人がいる。自分のペースだから、無理をしないことなので良いのだが、こちらがそのくせを掌握しておかないといけない。

メインをウエアラブルカメラの動画にしようと決めて、GoPro2には液晶ファインダーを付けている。液晶をつけると電池の消費量が大きく、回し続けて1時間は持たない。液晶を外してくれば良かったのだが、その代わりにGoPro3を持ってきた。
GoPro2と3,そしてSJ4000の三つを比べることになった。やはりGoPro3が一番悪い。多分、この一台がハズレなのだろうが、使えない。
やはり、GoPro2が気分が良い絵で、SJ4000 は派手にきれいだ。

        SJ4000

いずれにせよ、僕の記録としては、このスペックでよい。此処から先は4Kになる。4kにするのは現状では無理だ。PCも替えなくてはいけないし、自分の能力もステップアップさせなければ、ならない。やってみれば、意外に簡単なのかもしれないけれど、もう少し、水中科学協会の研究会で検討、議論しよう。

0812 スノーケリング セーフティ

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 シュノーケル事故が相次いでいる。僕たちは、30年ぐらい前からスノーケリングと呼ぶようになっている。PADIもNAUIも、日本スノーケリング協会もスノーケリングだ。海保がシュノーケリングと呼んでいるようで、DANは、どうかなと調べてみたが、容易に見つけられない。スノーケリングもシュノーケリングも視界の外にあるのだろう。
シュノーケリング事故は、ダイビング事故ではない。海水浴事故の範疇に入る。
海水浴の事故ならば、僕がダイビングに関わり、毎年新聞で見ていると、8月の第一日曜がピークで、昔は全国で20名程度、一日で事故が起きたこともあった。次第に減って、今では8月上旬ぐらいで、20人ていどだろう。今年は、下田管区で7-8月で死亡行方不明は8名だった。昔の海水浴事故は、湘南が中心だったが、今では中心が沖縄に移り、スノーケル使用中が多くなった。

これまでの、自分のかかわりでは、スキンダイビング、フリーダイビングを行う、つまりダイバーとスノーケリングング客とは、階層がちがう。ダイバーの常識は、スノーケリングング客には通用しない。しかし、自分たちがスキンダイビングの本を出したから、言うのではないが、ダイビングショップ、ダイビングサービスがスノーケリング、スキンダイビングを扱うところが増えてきた。やがてはフリーダイビングに拡大して行くのかなと推測している。

此処から先はスノーケリング事故をシュノーケリング事故とくくるような、スノーケリングングにもスキンダイビングにも知識のないマスコミ記者の報告を基にして書く。願わくば、事故が多いからと、スキンダイビング・セーフティを買ってくれるといい。同じスノーケリングでも、海水浴とダイビング関係者の持つフィーリングの違いがわかり、正しい講習を受けるように、と書いてくれると良い。

このところ事故が相次いでいる館山だが、長年のホームグラウンドである。
11日には7人の同僚ときていた、28歳男性が、波にさらわれた。という、どの海岸だったかは分からないが、普通の溺水事故で、スノーケルを付けていただけだろう。一緒に泳いでいた女性からの通報というから、バディシステムではあったのだろう。
12日には、早朝の6時に、会社役員43歳が、洲崎で行方不明になり、浜辺から20mのところで発見された。洲崎は、房総半島の先端で、東京湾の入り口であり、流れが速い。僕もその昔流されそうになり、必死に泳いで助かった。また撮影の仕事で流れが速くて潮止まりを待ったこともある。浜辺から20mというのだから流されたわけではないだろうが、一人で泳いでいた。

これらの事故は、季節的な海水浴事故で、どうすることもできないが、腹立たしかった。

 朝、メールを見たら、浦安屋内プールで行った親と子のスキンダイビング講習の受講者、お母さんから、映像を送ったお礼のメールが来ていた。





「お礼のメールが大変遅くなり、申し訳ありませんでした。
ちゃんと映像届いています、ありがとうございました。
シューノーケリングの事故もニュースでありますが、
ライフジャケットを必ず着用し、バディーシステムを忘れないようにし
楽しみたいと思います
ありがとうございました。」

僕のプログラムはとにかくフィン、マスク、スノーケルで泳ぐこと、5分間の水面での水平静止、ゆっくり泳ぐ、ダッシュする。水に慣れるためのマスククリアー、そして、15分間隔でのバディ確認、泳ぐ時は肩と肩を並べで泳ぐ。プールでは潜って遊ばせるが、海では必ずフローティングベストを着けること。
それだけのことを楽しくやればいい。 スキンダイビング・セーフティには詳しく書いている。

 それはそうとして、浦安の親子スキンダイビング講習の前期のテープは編集してユーチューブに出したが、後期の分が、約束不履行になっている。どうしよう。

0814 スキンダイビング・セーフティ スノーケリングについて

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スキンダイビング・セーフティを出し、おかげさまで好評をいただいている。
 そんな折、スノーケリングとフリーダイビングの死亡事故が起こった。
 スノーケリングとスキンダイビング、そしてフリーダイビングの区分けについて、この本で最も苦労した部分だ。
 
 スノーケリングとは、僕にも縁の深い社会スポーツセンターがつくり、形にしようとしている日本スノーケリング協会では、「フローティングベストを着けて、浮いている遊びであり、潜ることはない」と定義している。短絡的に言えば、フローティングベストを着ければスノーケリング、脱げばスキンダイビングだ。
スキンダイビング・セーフティでは、水に潜るスキンダイビングは、スクーバダイビングと同等、もしくはそれ以上に危険があるとしている。学生の部活動、同好会のダイビング事故の多くはスキンダイビングによる事故であり、スクーバダイビングの事故は、記憶では一件だけだ。
 この本を作る動機になったのは、身近でスキンダイビング事故が発生したからだった。
 
  先に、千葉県館山での2件の事故について述べたが、それと前後して、4人の家族が揃って溺れ、3人が揃って亡くなるという、スノーケリング事故史上最悪の、気の毒な家族事故が起こった。

 まず、事故が起こったのは、伊良部島、渡口の浜だという。残念ながら、この浜に行ったこともない。

    写真は、僕がよく行く、古座間味ビーチである。

 渡口の浜で、47歳の男性、72歳の男性、12歳の男児、8歳の女児がジュノーケリングを楽しんでいた。おそらくはお父さん、おじいさん、そして子供2人だ。
波があったらしく、フローティングベストを着用したらしい。らしい、と想像しているのは、見たわけでもなく、不確かなネットの情報に頼って書いているからである。事実はぜんぜんちがうのかも知れない。
まず、女児がフローティングジャケットを脱いで、溺れ、それを助けようとした3人がこれもフローティングベストを脱いで助けに行き、溺死した。女児は、地元の人に助けられたが、大人二人は浜から20mのところ、水深1.5mのところで引き揚げられたが死亡。男児は見つからないで、海保のヘリコプターが到着して、捜索し、引き上げたが死亡。なお、当日の海況は波高2m うねりも押し寄せていたという。岸では、母親らしい、家族の女性が早く助けてと泣きわめいていた。
なぜ、全員、フローティングベストを脱いでから溺れたのか、そんなことがあるとは信じられない。だから、不確かなネットの情報によると、先に書いた。
でたらめな切れ切れの情報であり、やがては宮古島の誰かが、詳報を知らせてくれるだろうが、全くちがうことになるかも知れない。
 とりあえず、ここに書いたことで、「それは違うよ、本当は、、、、」と教えてくれる人がでてくれれば、と思う。

 渡口の浜は行ったことがないのだが、ネットの写真を見た限りでは、素晴らしい海水浴場である。海水浴場であるが、砂浜の沖は、ちょっとした岩とかサンゴの瓦礫などがあって、美しい魚が泳いでいる、もしくは餌付けされていたのかもしれない。僕がよく行く、慶良間の古座間味ビーチのようなところかと類推する。ただ、前が開けているので、慶良間よりは波の影響を受けるのだろう。

   慶良間、古座間味ビーチ

   古座間味ビーチでの、浦安海豚倶楽部のスキンダイビング




 海況は波高2m うねりも押し寄せて居たというが、これは気象状況の発表で、この浜で、本当に2mの波が立ち、うねりが押し寄せていたとすれば、そんなところで海水浴をさせたとすれば、浜辺の売店、おそらくフローティングジャケットなどもレンタルしているのだろう、観光サービスが、なぜ留めなかったのかという責任になる。
 だから、少しは波があったかもしれないが、そして、うねりも、海水浴シーズンの江ノ島、藤沢の海水浴場と同等だったと思う。しかし、土地のものだったらとても泳がないような状態だったとも書いてある。それだったら観光課の責任になる。
古座間味ビーチでは、夕立で雷が鳴っているというだけで、役場の人が来て、僕達が泳ぐのを留められた。 

 これらのことから、これは泳ぎが上手でない海水浴客が、多分フィンとスノーケルを付けて、遊んでいた。4人共ベストを着けていたが、8歳の子がそれを脱いでしまって、あるいは脱がなかったかも知れないが溺れて、3人が救助に向かったのだろうか。全員が溺れて、8歳の子だけが助けられた。流されたというけれど、引き揚げられたところが、浜から20mで水深1.5mだというから、それほど遠くに流されたわけではないだろう。
 救助に向かった3人は、フローティングベストを借りたのだけれど、面倒なので着ないで泳いでいたのかもしれない。よくわからない。

 これらの事故を通じて考えた。スノーケリングとは、海水浴なのだ。
 最近、湘南の海水浴場に行ったことがないので、様子がわからないが、昔のように芋洗いにはなっては居ないのではないだろうか。空いているきれいな海を目指して拡散した。
 沖縄、八重山へ、海水浴に行く客も多くなり、その多くがフィン、マスク、スノーケルを使って遊ぶ。泳げなかったとしても、フィン、マスク、スノーケルをつければ、着けないよりも泳げる。そして、行動範囲も若干広がる。遊泳可の枠の外にも出て行くだろう。
 事故が起こると、スノーケルをくわえている。つまりシュノーケル事故になる。
 スノーケルとシュノーケルは同じ意味だが、僕たちは英語発音のスノーケルという。PADIもNAUIもアメリカ由来だ。カタログもダイビング雑誌もスノーケルという。もちろん僕もスノーケルだ。シュノーケルはドイツ語読みで、元来、第二次大戦で、ドイツの潜水艦U ボートが、水面にシュノーケルを出して、ディーゼルエンジン走行をしたという装置を指す言葉だった。今回の事故の報道でネットで調べたら、海上保安部はシュノーケルと呼んでいるようだ。

 シュノーケリングの安全は海水浴の枠組みの中で、考えるべきで、スキンダイビングと連接するスノーケリングとは別に考えるべきだと思う。スキンダイビング・セーフティでは、スノーケリングとしては、必ずフローティングベストを着けなければいけないが、ある条件の基でスキンダイビングに移行しても良いと考えた。ある条件とは、安全に責任を持つ、リーダー、あるいは、ガイドダイバー、インストラクターの監視の元でということである。

 同じスノーケリングでも、海水浴客と、スキンダイビングのトレーニングを受けた、スキンダイビングを視界に入れた、人たちとは、人種がちがう、と僕は思っている。海水浴の事故とスキンダイビングの事故を、同じシュノーケリングでくくるべきではない。
 そんな意味で、この前に述べた、館山の洲崎で朝の6時に一人で泳いで事故を起こした会社役員は、スノーケリング事故ではなくて、スキンダイビング事故である。

もう、10年近く前になるが、沖縄の渡嘉敷に、浦安フリッパークラブ(今はもうやめてしまっているクラブだが)の子どもたちを連れて行った時だが、海水浴場では、ベストの着用が義務付けられていたので、僕たちは海水浴場の囲いの外で、僕の責任の基で、スキンダイビングをやった。これも一つの解決方法だろう。海水浴場の外は、ベストを着けなくても着けても、すなわち、スキンダイビングであっても、スノーケリングであっても、すべて、自己責任、もしくはリーダーの責任だと、明確にすると楽になる。すべての場所で、沖縄、八重山は、ベストの着用が義務付けられたりしたら、スキンダイビングクラブである、僕たちは、沖縄、八重山には行かれなくなる。
これに伴う、資格制度の問題が出てくるだろうが、常識的には、ダイビング指導についての何らかの資格を持っていれば良いということでいい。そこから先は別の議論になる。


 スキンダイビングの安全確保については、「スキンダイビング・セーフティ」に述べた。
ぜひ読んでいただきたい。
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 一冊:1800+消費税144+送料180(スマートパック)=2124
 で 2100円にさせて頂いています。
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  で振込手数料は申し訳ありませんがご負担ください。

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