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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0130 ビズショウ

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  1月27日、28日、ダイブビズショウが、浅草橋、ヒューリックホールで開かれた。

 ながらく、この前身の前身の時代から通っている。この展示会の様子の変遷を見れば、イコールダイビング業界の変遷である。このヒューリックホールは、門前仲町から近いためもあって、そして、その大きさもちょうどいい。しかし、商談会のショウだというのに、商談会のスペースがない。まだ会場にはいらないエントランスホールにマレスと  エクスプローラーの田中さんと、リブリーザーの田中さんは、このところ、エクスプローラー一色だ。ナイトロックスが充填できるところが増えれば、一桁◯が増えるだろうと思うくらい、魅力的な潜水器ではある。 元SEA&SEAにいた岩間君がやっているスクーバシステムそして、ウエットスーツのサンファンが出ている。展示会場が満員で入りきらなかったのならば、めでたい。
 僕はマレスで、小さいナイフを買った。小さい残圧計ホースに取り付けられるようなナイフが前から欲しかったのだ。デザインが割といい。
 岩間くんが扱っているBCも軽くてバックフロートでハーネス周りの出来もよく、買いたいようなBCだったけど、現在使っているBCで足りているので、買わなかった。でもほしい。

 人とあって話をすることが、大事な仕事だと思って来ているので、せっせと、次々と人とあって話をしたので、全部ここには書ききれない。それに27日と28日の2日にわたっているので時系列で書くこともできない。

 フィッシュアイの大村さんと一番長く話した。青山学院大学のダイビングクラブのOBで、青学が学連の休部になっている。歴史の長い、大事なクラブなので、なんとか復活させたい。しかし、僕はOBではないから、なんともできない。聞けば奥さんも同じクラブ出身だというからなんとかしてもらいたいが、一度水脈、人脈が切れてしまうと、かれのような素晴らしいOBでもどうにもならない。しかし、大村さんは今度の室内選手権大会から、100mレースに出たいということ、多分、学生時代にそれなりに速かったのだろう。ついでだから、フィッシュアイのライトを買ったこと。スチルのカメラマンはストロボ命だけれど、テレビ(動画)のカメラマンはライトが命だ。動画と静止画が同じカメラで撮り、動画から静止画を取り出すのが当たり前になった今頃は、水中撮影はライトが命だ。事務所には有線ライト、バッテリーライトの残骸が、山になっている。そして、現在使うライトがない。小さいバッテリーライトはフィッシュアイと、村上商事のライトを幾つか買ったのだが、全部水没した。どちらも円筒形だから、水没する理由がないのだが、水没させている。現在は、ほとんど水没の可能性が無いように見えるイノンの1000ルーメンを2本使っている。1000が2本だから、2000ルーメンの光量になるかというと、光の当たる面積が広くなっているいから、1000の明るさしかないように見える。福田くんはじめ、中川もRGBの2500を使っている。安くしてもらってRGブルーをとも考えたが、フィッシュアイで同等のFIX NEO を出している。フィッシュアイ出だしているものは、フィッシュアイで買う。必要条件は全て満たしているライトだ。ブースで担当の池田さんに、これまでの水没の実績で安くしてくれないかと交渉したが、ダメ。ここで1000円、2000円値切ったところで、どうすることもできないし、無料でいただいたとすれば、大村さんにさらに義理ができてしまう。ビズショウの特別価格で買った。水没はしない。2500ルーメンで、光量の調整が自由にできる。バッテリーの取り外しが簡単で、飛行機に乗るときも、規定のアンペア数より低いギャランティがステッカーで貼り付けてある。照射角が100度ではちょっと足りないが、左側にFIX を、右側にイノンの1000をつければ良いバランスだろう。フィッシュアイのカウンターでは、法政OBで、潮美よりも3年下ぐらい(調べたら、潮美が19期で、井上くんは23期だ)の井上くんとお話する。彼もフリッパーでは速かったはずだと思う。学連の振興にお手伝いしているが、早稲田の中尾教授が「就職に有利、就職してからの人脈が有利」というキャッチフレーズがあれば、みんな入りますよ」そうなのだ。法政なら法政の一つの大学だけではなくて、学連として人脈を広げれば、より有利になる。青山学院大学の大村さんのところに法政の井上君がもしかしたら、フリッパー競泳の縁(本当のところは知らないが)で来ているとすれば、ずいぶんと値打ちのある人脈だ。僕も担当を池田さんから井上くんに移そうとも思ったが、そういうわけには行かない。あまり、そういうのが表に出ては反感を買うのだ。お互いに、もしも、とか、いざ、とか言う時に応援すれば良い。

FIX NEO 2500 DX
明るさ2,500ルーメン
水中照射角約100度
連続点灯時間最大光量時 約55分+10分(残電量5%以下で自動減光し、安全に浮上するまでの時間を確保します)
陸上点灯可否可(高温時自動減光)
バッテリー容量3,400mAh
充電時間2.5時間
本体材質耐腐食アルミ合金、強化樹脂
耐圧水深100m
サイズW53 x H57 x L110mm

 日本アクアラングのブースでは畠中さんと少し長話した。そして同じブースに入っているカシオのライトの鈴木さんとも話をする。ロゴシーズという水中トランシーバを提供してもらっているのだが、水中で会話をするということが、スクーバのような呼吸装置では、ひとつの仕事になってしまう。どうやったら使いこなせるのか、難儀だ。JAUSの2015年の研究テーマに撮影調査におけるトランシーバの運用方法というテーマで研究したらどうだろうか。
 まず、改善点は、今トランシーバをマスクのベルトに引っ掛けているが、着脱がとても面倒で、プロフェッショナルな仕事ではとても使えない。フードと一体にしてしまって、フードをかぶれば、自動的に使用可能になっていれば、いいと思う。
 次に運用だが、リサーチで使うならば、二人、バディ間の相互通信だけにしなければ、ダメだと思う。もしも、インストラクターとかガイドダイバーが、二人を引率するのであれば、そのシチュエーションを作らなければならない。運用はもちろん、リサーチだけではない。遊びもある。しかし、道具というものは、使い方の工夫、マニュアルが絶対的に必要だ。どうも、ロゴシーズのマニュアルが、楽しい系に偏っているように思う。水中通話は、水中科学協会のシンポジウムのテーマにしよう。

 月刊ダイバーの坂部編集長(美人)とばったりで、立ち話。今度発売の号で、ニュース・ステーションの話が終わってしまうが、ニュース・ステーションでは、まだまだ、命がけだったこと、大島の噴火で噴石が雨あられと降ってきた中での撮影、伊東の停止時まで水蒸気爆発で危機一髪だったこと、などなどがあると話したが、ニュース・ステーションのあとも、僕としての冒険は続いている。ダイビングの冒険とは、外から見て物理的に危険にさらされることだけではなくて、心理的、内面的な危機一髪が(ヒヤリハットともいう)があって、それを記憶していることが多く、その記憶が次の事故を防いでいる。
 「技能は知識の一種である。知識には、言語化、図式化が可能な形式知と、それが困難な暗黙知とがある。前者は論理分析的な頭で獲得する理論的な知、(たとえばマニュアル、スペック)であり、後者は身体五感で経験的に獲得する。場に特殊な知である。(たとえば、直感的イメージ、や熟練のノウハウ)」※アメリカ海兵隊 野中郁次郎著から
これは、ダイビングは冒険的スポーツであるということの次の段階で書こうとしているテーマだ。すなわち、ダイビングは海兵隊的なチームワークが必要。

もっと人とあって話をして、勉強になったことがあるが、書ききれない。書いておかないと忘れてしまうので、書かなくては、と思いながら、すでに忘れかけている。

0131 水中橇

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 それは1967-69年、東京水産大学潜水部、第11-13代の時だった。このころ、僕は母校の潜水部のコーチをしていたようなつもりになっているが、正式にコーチという制度があったわけではない。今でもない。コーチという制度はないが、いろいろと面倒を見ていて、自分的にはコーチのつもりだった。

僕の主張は、今も昔も変わらない。ただ、潜水して海底を散歩しているだけでは面白く無い。と同時に何にもならない。何かをしなくてはいけない。そして、このごろ思うのだが、何もしないから危険なのだとも思う。目標があって力を合わせている状況では、事故は起こりにくい。極限状態の実験、冒険は事故の可能性が高いが、その内輪で計画していれば、安全は確保できる。

戦闘機 パイロットは後藤一郎だった。

そのころ、(きっと今でもあるのか?)ポピュラーサイエンスという雑誌がアメリカにあって、定期購読していた。いろいろと面白い道具とか、ちょっとした科学、実験機材などが載っていて、思い出した、ポピュラーメカニックという姉妹誌があって、そのどちらかに、水中を曳航するソリ(橇、サンタクロースがトナカイに引かせる乗り物)の記事が載っていた。よし、これをやろう。潜水部で作らせて、みんなでこれに乗ろう。

潜水部、50年記念誌を見たら、第12代の佐藤英明君が、この橇の事を書いている。そうだった、東亜潜水の僕のところに始終、佐藤くんが遊びに来ていて、1967年、日本潜水会の初代の指導員ではなくて、初代の1級になった。指導員はしごく側、1級はしごかれる側だから、1級の方が難儀だ。ダイバーは、どこまで耐えられるかの実験台になった。その佐藤君に、これを作れと命令した。11代に大塚君が居て、その実家、大塚鉄工場が橇を製作した。僕は漫画のような図面を書いただけで、細かい苦労は大塚君、佐藤君がやったのだろう。ちなみにその上の10代の石川文明(現在西川名オーシャンパーク)その上の9代がダイビングワールドを創刊し、今はフェイスブックのともだちをしている黒川治雄、混合ガスを作ってくれる本山雄策がいる。
話を橇にもどす。作ったのは12代の佐藤くんが中心だったが、彼はそりに乗って走らせたことはなかったような気がする。気の毒に。

僕は去年2014年にも奄美大島の大島海峡、古仁屋、久根津に行ったが、大学2年の時に、久根津で初めてアクアラングで潜水した。1956年のことだ。1968年当時、その久根津にどうしてももう一度行きたかったので、この橇で大島海峡縦断の探検をやろうと企画した。もちろん潜水部としての第一回探検だ。テレビ、新聞に軒並みにあたった。大阪の朝日放送が、乗ってきた。1968年13代の時だ。残念ながら大島海峡に行く予算はつかず、もっとちかいところ、八丈島で走らせてテレビの番組になることになった。フィルムでの撮影は僕がやる。

 その13代が、今は、スリーアイをやっている海洋リサーチ社長の高橋実、彼が僕と一緒にスガ・マリンメカニックを始め、やがてスピンアウトした。潜海という作業会社を作って、お金儲けをして、現在芸術家として遊んでいる後藤一郎、関東学生潜水連盟第二代委員長で、のちに芙蓉海洋開発に入り、深海潜水球で、もう少しで死ぬところだった和久井敏夫、日本初の海底居住、シートピア計画のアクアノートになり、潜水ではなくて単車の事故で命を落とした大掛、同じくシートピアから始まって、僕のライバル撮影会社を創立させた奥川(後に早く病死)潜泳会の中心メンバーになった佐倉、スガ・マリンメカニックに入ってくれた吉川忠、がいる。潜水関係者が多く輩出したのは、僕がコーチで、水中橇をやったからだ、とおもっていたが、この13代に女性が3人もいるのに、その顔が頭に浮かばない。だから、正式にコーチなどしていない。この橇に関連したことだけをやったのだ。ダイビングの指導はだれかにやらせて、もちろん口は出すが、お金は出さず。ダイビングでする活動をプロデュースして、一緒にやる。僕のスタイルの原点かもしれない。

 橇は2種類作った。1台は単座の戦闘機、1台は、複座の攻撃機、別に戦争しているわけではないのだが、イメージとしてだ。僕は飛行機フアンで、ダイブウエイズのフィンも、ムスタング(戦闘機)、トライスター(旅客機)と名付け親になった。
 戦闘機の方は身軽で横転ができた。攻撃機も気持ちよく飛んだ。

 テレビ番組は成功し、その番組のフィルムから、画を抜き出した。フィイルムもあって、潜水部、50周年の時に上映したが、あんまり感動は呼ばなかったようだ。

そうだ、今度の水中科学協会シンポジウムで上映しよう。

 進水、八丈島神港
    

  水面曳航

0201 ワナドゥ

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 日本に、というかわが町に文房具屋というものがあって、門仲にはヒタチヤという大きな文具屋があって、そこに行けば欲しいものはなんでもあった。100円ショップができた時は、文具屋で買うものがなんでも100円で買えることに感動して、必要のないものまで買ってしまったのだが、おかげで文具屋のヒタチヤは店じまいをしてしまい、今ではファミリーマートになってしまっている。むかしのような文具屋は、丸善か伊東屋ぐらいしか近くにはない。よくゆくのは御茶ノ水の丸善で、順天堂病院に行くたびに必ず立ち寄って、何かを買う。そして、今年のスケジュールノートをバイブルサイズのバインダーにした。中に入れるリフィルが、100円ショップにはない。二ヶ月後の御茶ノ水にゆくか、東京駅の丸善の前を通った時かな、と思っていた。
 木場のヨーカドーは、スタバで人と待ち合わせることも多いし、コーヒーを飲みに入ることも多い。3階の109映画館にもよくゆく、何かと買い物はここでする。その3階には、映画館と食堂街、スポーッ洋品店、ゲーセンがあり、あともう一つ電気用品を売ったりDVDを売ったりする売り場があり、電気器具など、ほとんど売れている様子がなかった。それが、数ヶ月前だか、意識しないうちに ロフトという店になった。フラッと入ってみたらその半分以上のスペースが文具屋だ。もともとイトーヨーカドーの文具売り場は2階にもあり、どこのヨーカドーにもあるつまらないコーナー、子供、小学生向きの売り場だが、このロフトには、探しているリフィルがあった。その他にも、昔の文具屋、現在の丸善と同等、いや売り場が広いだけ、こっちのロフトの方が大きい。伊東屋には到底及ばないが、かなり楽しめる。

 ワナドウという日記帳のコーナーが有った。この頃流行っている?のだろう。自分が興味のあることをテーマに写真なども貼り付けて、自分の本を作ってしまおうという仕組みだ。およそ、考えられるアイテムのすべてがある。猫もあるしサッカーもあるし体重測定もあるし、登山、スキー、料理、おみやげ、何でもある。ヨットももちろんある。しかし、ダイビングだけはない。なぜだろう。やはりダイビングはマイナーなのかなと思ったが、ふと気づいたダイビングではすでにログブックが普及していて、ショップでも買えるし、指導団体製が幅を効かせている。つまり売れないだろう。そういう、自分がエクセルで作っていて、売られているものを買いもしないのだから。
 しかしなあ、猫のログってどんな内容だったのだろう。手にとって見ていない。もちろん育児日記もあるから、人間の育児と比べて見るのも面白い。次の機会に見てみよう。しかし、こんな日記帳を買って、その終わりまできっちりと書く人がいるとはとても思えない。でも売れているのだろう。
 それから、どうしてもほしい、ステッカーがあった。200円、買おうと思ったが、どこに貼るのだ?でもほしい。次回に買おう。

0202 神々の山稜

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生まれてこの方、2011年まで、誕生日のお祝いをしたことはありませんでした。なぜ歳を取るのが目出度いのか、まだわかっていませんが、友人たちがお祝いしてくれるのですから、素直にありがとうございますということがとても大事だろうとおもうのです。
 ということで、今年は1月25日、本当の戸籍上の誕生日をお台場でお祝いしてもらい。今日、2月1日に、石川宅の新年会の都合で2回めの誕生祝いをしてもらいました。一気に二つ歳をとったかもしれません。
 新年会をやった石川さんは、自分が何かをすることで、人が喜ぶことが生きがいであり、一番大事なことだとしている人なので、僕も喜ばなくてはいけない。素直に喜ぶという表現、表情ができないので、こういう時に困るのです。
それと、石川さんは人に挨拶の演説をさせるのが趣味だ。僕は、講演することはできるけれど、挨拶が苦手です。長くしゃべりすぎて、聞いている人が白けるので、いやなのです。今日は、ドサクサに紛れて、挨拶をしないですんだので、ここで、お礼を言い、ご挨拶をします。

1月25日の誕生日の日に生死事大(しょうじじだい)という禅語についてちょっと書いたのですが、

生死事大 光陰可惜 無常迅速 時人不待
さらにネットで調べてみました。http://www.jyofukuji.com/10zengo/2002/03.htm

生まれて死ぬ一度の人生をどう生きるか それが仏法の根本問題です 長生きすることが幸せでしょうか そうでもありません 短命で死ぬのが不幸でしょうか そうでもありません 問題はどう生きるかなのです。
 この世において 生まれたものは死に会ったものは別れ 持ったものは失い作ったものはこわれます。時は矢のように去っていきます
すべてが「無常」です。

 仏教は嫌いではないのですが、帰依することもない。得意ではないので、「一度の人生をどんなふうに生き、どんなふうに死んでゆくかが、人生です。光陰矢のごとしといいます。時は人を待ってくれません。」当たり前のことを言う、カッコのいい言葉だなと思うのです。
 80歳、ぼくはもう、生きることは大部分生きてしまった。今さら、どう生きるか悩んだところで、どうにもなりません。あとは、このままの姿勢を崩さずに、残りの時間を生きて、どう死ぬかです。できれば、死ぬ前になにか残ることをしたい。75歳で水中科学協会、JAUSを作りました。遅すぎる発足でした。紆余曲折があって、辞めたいと思ったこともあるのですが、辞めたら消滅してしまう。ようやく、協力してこの団体をやっていってくれる人たちが固まりつつあります。
 まだまだ、それで何をするかは、固まっていません。なるべく柔軟な姿勢で、柔軟に対処してゆこうと思っています。
 それでも、振り返ってみると、「ニッポン潜水グラフィテイ」にも述べましたが、ダイビングで何ができるか、何をするべきか、を、ダイビングを始めた1950年代から追い続けています。最後まで、ダイビングで何ができるのかを追ってゆこうと思います。同時に何をしているかの自覚も必要だと思っています。ただ、潜っているだけで楽しい、もぐることによってリフレッシュすることができる。これだけで良いのですが、それはその位置に前提として置いておき、その楽しいダイビングで、何ができるのか、つまり活動を追ってゆくことが、日本水中科学協会の進んでゆく方向です。方向はそれでよいとして。
 光陰可惜 無常迅速 時人不待、どこまで行けるのでしょうか。

 夢枕獏さんという小説家がいます。一緒にテレビの撮影で、快速ボートで吐噶喇列島周航の旅をしたことがあります。ただひたすら船に弱い人でした。暗示をかけようと、「船に酔わない方法をおしえましょうか?」というと、「いや、ここまで、船酔いの人生を送ってきたのだから、ここで酔わなくなってしまったら首尾が一貫しない。このまま酔い続けます。」とことわられました。
その夢枕獏の小説で、「神々の山稜」という山岳小説があります。エベレスト山頂を目指して行方不明になったジョージ・マロリーの遺品のカメラがあって、そのフィルムに山頂が写っていれば、彼が山頂に立ったかどうかがわかる。という筋立てです。その後、マロリーの遺体が発見されて、山頂には立っていないことがかなり確かになったのですが、この小説が書かれた時はまだ発見されていませんでした。

 エレベストの山頂を目指して登ってゆく、マロリーと同行したアーヴインの最後の姿を見送った登山家、N.E.オデルへのインタビューの引用で小説は終わっています。

「よく考えて見れば、あれは、私の姿なのです。そして、あなたのね。
 この世に生きる人は全て、あの二人の姿をしているのです。
 マロリーとアーヴィンは今も歩き続けているのです。
 頂に辿り着こうとして歩いている。
 歩き続けている。
 そして、いつも、死は、その途上でその人に訪れるのです。
 軽々しく、人の人生に価値など付けられるものではありませんが、その人が死んだ時、いったい何の途上であったのか、たぶんそのことこそが重要なのだと思います。
 私にとっても、あなたにとっても、
 何かの途上であること・・・・」
 N.E.オデルインタビュー 1987年、1月ロンドンにて
 N.E.オデルは、1987年2月、イギリスで死んだ。96歳であった。」

0204 生涯スポーツ

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 2月2日、3日の二日、本当に濃い二日間だった。この二日間のことをブログに書くだけで、4日と5日が消えてしまいそうだ。

 まず、2月2日、辰巳国際水泳場のダイビングプール、17時から19時という、特別の時間帯で、とっている。原則として、日本潜水会の辰巳練習会は、19-21,21-22時でやっているのだが、17-19という、この時間帯出ないと来られない人もいるし、それにしても、あまりメンバーが来ないので、ゆっくりとスクーバとか、自分のやりたいこと練習ができるというのが目標だ。

 
 事前の申し込みは、戸田市の消防の村上さん、あとはいつも来てくれる何人かだったが、その日になってSTEVE―O の直美さんも来てくれたり、中川がリブリーザーの練習、寺内羊子もスクーバの練習に来る。
 僕の練習は、水中通話のロゴシーズの練習、延縄式インターバルカメラをギリギリまで浮きとウエイトを減らして、中性浮力+少し沈みにしたもののテスト、それにもちろん、自分のトレーニングだ。
 ロゴシーズは、マスクバンドへの取り付けはかなり慣れた。会話は、鈴木くんに隣に並んで通話のテストをしようかと思っていたのだが、羊子にレギュレーターの取り付けなどを手伝っている。そんなこと、自分でやれなくてはダメではないかというが、鈴木くんは鈴木コーチと呼ばれるくらいのもので、人に手を取り、足を取りで世話をして教えるのが好きだ。



 ロゴシーズは、通話指示の内容を5種類ぐらいにシナリオを作っておくのでないと、実用にはならない。シナリオを作って、こんどの15日の調査実験に使ってみよう。

 インターバルは上手くいき、直美さんが興味深そうに撮影して、フェイスブックにのせていた。すでに報告書にも載せているし、秘密ではないから構わない。同時に何枚かの写真も撮ってくれた。せっかくだから、それを使おう。




延縄設置のG0Proをここでは動画で撮って、フリスビーをやった。羊子は、スクーバで参加した。混んでいれば危険だが、人数が少ないから大丈夫だろう。急浮上の危険が心配で見ていたが、全く危なげなかった。身のこなしとか動きについてはほぼ一人前になった。もともとスキンダイビングは上手だし、運動のセンスはいいから、一緒に潜るのに差支えはない。頭のいい人だから、あと一回プールでのスクーバをやれば、Cカード段階は卒業だと自分で判断していた。

2月3日 
朝10時から習志野国際水泳場での浦安海豚倶楽部の練習。浦安のプールが冬の間の修理で、3月いっぱいまで使えない。習志野は、辰巳よりも遠いので、その点は困るが、プールとしてはとても好きだ。水中のデザインが良い。プールで3mmのウエットスーツを着るようになってから、時間いっぱいまで泳ぐ。
最初にプールの縁を周回するラウンドだが、バラクーダが重い。昨日の辰巳にひき続いてだから、疲れているのだろう。10時35分、(15分から泳ぎ始めているので20分だ)まで周回して、25m往復、50mのダッシュをする。意外なことに調子は悪くなく、25mの往復、バラクーダを振り切れた。しかし、それでも思うような速さにならないのは、筋肉の劣化だと思う。それでも自分としては、満足している。


水平潜水に移る。最初の数回は、25mが潜りきれない。2-3回目で、とにかく25mまで行くことにする。何度か繰り返していると、炭酸ガスの呼吸中枢刺激に体が慣れてきて。楽に25m潜れるようになる。みんなを集合させて、同時スタートで、25mを潜る。あいかわらずまとまって泳ぐことができない。何人かは一緒に潜るよりも遊びだから、バラバラになる。何度言っても同じだ。

ジャグジーに入ると、もう、三々五々練習を切り上げる。僕を含めた何人かは最後(12時近く)まで潜る。僕が好きなのは、このプール全体で、一人で泳いでいるイメージである。かめらを対岸に置いて、動画を回したままにしている。カメラには、この広いプールに一人しか居ないイメージを撮りたいのだが、なかなか一人だけに映らない。ようやくワンシーン撮った。

更に人数が少なくなり、ワンマンシーンが撮りやすくなったのだが、カメラの1台、福田くんに直してもらった、G0Pro3のバッテリーが無くなってしまった。」
12時5分前に上がった。

毎度は、みんなで食事をして帰るのだが、多摩聖蹟桜ヶ丘の社会スポーツセンターでの室内選手権大会の反省会がある。その前にダイブウエイズにスクーバタンクを持っていか無くてはならない。

社会スポーツセンターには3時50分に着いた。議論はいくつもあるが、その中で、シニアダイバーレースの新設案がでたが、これには全く反対だ。全日本潜水連盟の玉置さんが84歳で100mを泳ぎ、それに何人かが伴走して、泳ぎ切り、好評だったことを受けての提案だと思う。それはそれでいい。また同じことをやればいい。僕はそれには出ない。2014年と同様に、でるとすれば、50mの普通のレースにでる。僕がレースに出るのは65歳以来だから、15年ぶりになる。それでも、レース前の整列で、他の選手に混じって、一緒に泳いで得るところが大きかった。このレースのことがもう一度あらためてわかった。顔なじみ、も何人もいる。スクーバワールドの岸くん、青木くんは辰巳のコースを借りて、周年練習している。だから早い、青木くんは50m50代で優勝した。僕が特別レースではなくて、みんなと一緒に泳いだことを歓迎してくれた。僕の隣のコースの横井孝吉さんは70歳で60代の部で、ダントツの34秒で優勝した。これまでに連続10回とか優勝している。彼の所属している、セントラルフィットネスクラブ西台は、すごい。僕と同じレースでも、榎本茂さん72歳、前のレースの岡部さん54歳、女子は竹内孝子さん80歳、彼女は玉置さんと一緒に表彰されていた。篠田久枝さん65歳、三浦幸子さん65歳、全部がセントラル西台だ。これこそ、生涯スポーツだと思う。チームとして表彰される価値がある。そして、今度の大会では、このチームを取材してくれるように東京新聞他に声をかけよう。そして、まだ今度の大会からなのだが、西台のように歴史はないが我が浦安海豚倶楽部は、玉田さん、鶴町さん、真玉橋さん400mで73歳の最高齢、よれよれになってゴールした、100mの小松武夫さんは、69歳で2位に輝いた。次回は、もっと多くが出る。70歳以上のランクを作って、表彰するならば悪くはないが、60歳代と競って勝っているのだから、特別扱いするのは失礼だと思う。

それにしても「80歳以上は危ない」という意見が出ているそうだ。ぼくのことを指しているのかもしれない。人間は必ず死ぬ。ダイバーが高齢で潜水で死ぬのは事故ではなくて、陸上人間の老衰死と同等だと思う。それでも、その時に迷惑を掛けることは避けたいので、トレーニングもする。トレーニングで限界も確認する。河合先生の定期診断を受け、薬も山ほど飲む。60歳以来酒は一滴も飲まない。タバコは35歳で完全にやめている。
それが生涯スポーツだと思う。これを否定するならば、生涯スポーツなどと口にしないことだ。高齢者は全部隠居して、長い寝たきり介護を10-20年受けて死ぬことを義務付けることと同じだ。
ただ、生涯スポーツといっても、60歳の人が最高に健康であっても、それからダイビングをはじめるのであれば、完璧なチェックが必要だろうし、それにしても、海に出る前に50mダッシュのトレーニングで限界を確認してからにするべきだと思う。そして、何があろうが全ては自己責任であり、絶対に自分の行動の結果の責任を他に転嫁してはいけない。
なお、ダッシュを100mでなく、50mとしているのは、西台の高齢者チーム全員が50mのレースだし、救助もわかりやすい。自分について言えば、50mで40秒を切りたいと練習しているが、」無理かもしれない。

もう一つ、今年の大会について、一般の人がマスクマウントででたら、どうするか?という話題がでた。ぼくはもちろん積極的に推進だ。推進力の補助になる理由のものでもなく、抵抗になるのだから、ライバルから反則だと言われるものでもない。
潜泳競技、バディブリージング競技など撮影したい人も出てくるのだろう。その迫力のある映像が、ネットで流れたりすれば、この競技会のPRになる。
PRについていうならば、事後の雑誌発表だけではなく、事前のPRを雑誌などで行うべきだろう。その時に使う写真としては、これまでぼくの撮ってきた写真が一番良いが、それはまあ、どうでも良いことだ。
チアリーダーによる応援という案もでたが、参加者を増やす、本質的なことではない。「やればー」という感じ。メーカーの展示即売という案もでた。これは、参加者に対するサービスと考えれば、悪くはない。


0206 減圧表

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自分と減圧表(症)

 ダイビング業界、ダイビング関係者は減圧症、減圧表について非常に熱心だ。今度高気圧障害防止規則が改訂になり、これについても議論百出である。
 ぼくは、ダイビングの安全について、とにかくすべてが運用(やり方)にかかっているという姿勢を固持している。減圧症も運用の失敗によって起こる。空気が無くなって急浮上するとか、減圧表(ダイブコンピューター)の使い方にかかっていると思う。

 これを前提として、自分と減圧表(症)との関わりを自分のダイビングの発展、時系列で考えてみよう。ぼくが減圧症になったのは一回だけ、60歳を記念する100m潜水だった。しかし、これも船上減圧の再圧チャンバーをでたら、症状は消えてしまったから、減圧症に罹患したとはいえない。
 船上減圧の原理は、減圧症にすでにかかっていて、症状がでないか、でても僅かのうちに、その場で再圧治療してしまおうということだから、予定通りといっても別にわるくはない。ぼくは減圧症については、全勝しており、一敗もしていない。半ばはラッキーだっただけだから、威張ることもできないが、そのラッキーも含めて、減圧症グラフィティだ。

 大学時代の減圧表は米国海軍標準減圧表のたしか1943年版だった。この表で、繰り返し潜水、2回目の潜水は、実際の潜水時間を2倍に考えて表を引くものだった。三回目の潜水は3倍というわけには行かないので、やらなかった。教室にボンベは3セットしかなかったし、実習場のコンプレッサーも空気を120以上に充填すると時間効率がわるいから、3回の潜水は不可能に近かった。これは、現在の広島大学の練習船豊潮丸でも同様で、減圧症にかかることは不可能に近い。潜水事故といえば、エア切れの溺水か、息をとめての空気塞栓だった。
 やがて、1952年版の米国海軍標準減圧表が入手できて、これは、以後改訂はくりかえされているが、現在のものと、使う仕組みはおなじであり、繰り返し潜水記号を使って2回目、三回目の潜水をすることができた。
 その米国海軍の減圧表も絶対的なものではなく、3%の罹患率があると教えられた。この3%というのは生物学的な許容誤差であり、そして、なったとしても軽度のものであり、一晩寝て、なおらなかったら、梨本先生(当時の医科歯科大学の先生で、僕達に潜水病の講義をしてくれた。)に相談しろというものだった。

 卒業して東亜潜水機に入社した。当時のスクーバ潜水の目的、目標の多くはスピアフィッシングだった。これは、人よりも早く海底に到達して魚を射ち、大物を撮れば、すぐに浮上して、船に上げる。もしも、空気が少なくなっている時に射てば、まっすぐに上がらなければ、空気が無くなって溺死する。急潜降、急浮上が日常の潜水だったが、魚突きの達人で重い減圧症になった人のうわさは聞いたことがない。スクーバダイバーで重度の減圧症になるのは、定置網のダイバー、工事ダイバーが主だった。だから、魚突きも潜水時間は短く、潜水深度も20m前後までだったからだと思う。なるべく上の方にいて、空気を節約し、魚を見つけた時、あるいは、魚の居る穴を見つけた時だけ、20mを超えるような潜水だった。それでも、軽度の減圧症は、魚突きの仲間でも、2-3例あり、肩の痛みに泣き叫んだとか言われたが、再圧タンクに入って、治療できていた。

 1962年、高気圧障害防止規則ができて、潜水士の講習が小田原であった。この時に、現在2014年に改正されることになり消える減圧表が発表された。米国海軍の表で引いた数値とそれほど変わらないので、スポーツダイバーは、これまで通りに米国海軍を使用して、実際には潜水士の表を使って潜ることもなかったが、潜水工事会社の潜水士は、最近に至るまで、比較的厳格にこの表を使って潜水していた。そして、この表を厳格に守っていて、重度の減圧症になったという話をほとんど聞いたことがない。たいていの減圧症は、米国海軍にしろ、潜水士の表にしろ、これを守らない状況で発生している。すなわち、3%の罹患率であり、罹っても重度にはならないという結果はキープされていたと思われる。だからこそ、50年以上もこの表を使って、作業現場からはさほどの苦情もなく、推移したのだと思う。

 ただ、悩まされたのは、修正時間の別表3で、定規を使って線を引かなくてはならず、到底現場で使えるものではなかった。この表は計算尺をモディファイしたものであり、これを元に計算尺を作れば良いわけで、旭潜水研究所がこの計算尺を売りだしていた。この別表3は、この会社の社長の佐藤さんが、この表を作ったことに関わりがあったので、計算尺を売るためではなかったのかと勘ぐったりした。

 続く

0207 自分と減圧表 (2)

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自分と減圧表 (2)日本の高気圧作業安全衛生規則の表が50年使われてきた理由

 1963年8月、館山湾で、舘石昭氏(水中造形センター創業)と100m潜水を目指した。使った減圧表は、1952年版の米国海軍標準空気減圧表だ。あとで考えれば、この時に、日本の高気圧作業安全衛生規則の表を使っても良かった。日本の表のほうが停止時間は長かった。しかし、自分としては使い慣れた米国海軍の表を頼りにした。報告書にはこう書いている。「今まで発表されている減圧時間表には、私達の目標とする100mの水深の減圧時間は表示されていない。私達は米国海軍のStandard air decompression table for exceptional exposure を参考にして潜水時間を定めた。」自分たちで定めたのだ。米国海軍の表では、一番深い水深が300フィートだ。およそ90mだ。90mの表で100mに潜ろうとする。ランクを一つ上げた。つまり、潜水時間を10分として、15分の数字を使えば良いとした。もちろん20分でも良いのだが、いずれにせよ、なんの根拠もない。あるとすれば、既存の表よりも適当に減圧時間を長くすれば良いのだろうと考えた。この考えは現場的には正しいと思う。学者、研究者だって、適当なアルゴリズムを考えだして、実験、すなわちやってみて、確認する他ないのだ。後に、60歳で100m潜った時、前回の冒頭に書いたように、僕は、肩の痛みをおぼえた。船上減圧で、3mの水深に加圧して、純酸素を呼吸し、20分の純酸素呼吸で5分のエアーブレイクで1クールとして、3クール、60分やったたが、痛みが消えなかったために、計画よりももう1クール要求して、それでも痛みは消えなかったが、タンクの外にでたら、痛みが消えた。
 その60歳100m潜水の時、コルシカ島で、120mまで潜って宝石サンゴを採っているアラン・ボゴシャンというダイバーのところに見学に行ったが、彼の減圧表はない。ボトムガスはトライミックスを使うのだが、この混合比も自分で決めていて、ボートの上で一人用のチャンバーに入って船上減圧をするのだが、自分の身体の要求するだけ、純酸素呼吸の時間を延ばす。長い時には3時間をこえる減圧をすると言っていた。

     1980年、釜石湾港防波堤、写真米倉司郎氏提供


      1963年館山湾

 話を1963年にもどして、僕たちの潜水では、
 潜水は一日一回とする。
 100mまでの潜降時間・・3分
 100mの海底で7分、潜水時間の合計が10分
 15mの水深までの浮上時間・・4分
 15mでの滞留時間2分、12mで3分、9mで6分、6mで15分、3mで26分とした。この値は、米国海軍の300フィートでの潜水時間15分のものである。
 結局のところ、僕たちは100mまで潜れず、90mで意識喪失して戻ったが、この意識喪失は窒素酔いではなくて、酸素中毒だと思われた。
 一方、日本の高気圧作業安全衛生規則では、空気を使用しての表での最深は80mを超え90m以下となっている。このことがとんでもないことだといわれ、50年経過してから、改正が行われたが、実際には、定置網の潜水では、空気を使って、90mまで潜るダイバーが居たのだ。
ただ、規則で減圧時間をきめるのならば、ファジイに自分で決められるようにしておかなくてはいけない。今度の改正では適当なアルゴリズムを使って、自分で決めることができるようになっている。アルゴリズムも適当にビュールマンのものを例に出して、これよりも良い物ならば良いと決めている。所詮は、60mを超える潜水は、現場の責任であって、労働基準監督署の責任ではありえない。まあ、適当な基準で潜っていれば、労災の適用はしてやるよ、ということだと解釈している。
 そう、現場の対応でいちばん問題なのは労災の適用なのだ。旧となった別表第二で、80mを超え90m以下というのは、そこまでは労災を適用してあげるよということなのだ。もしも、これが60m以下だったら、60m以上では労災が適用されず、事業者が労災分のお金を自分で払わなければならない。今度の改正では、空気の潜水では40mが限度と定められている。40mを超えると違反だから労災の適用がされるかどうかわからない。昔の僕たちは60mあたりまで普通に空気で潜って調査をしていたし、今でも定置網の潜水では、空気で60mを超える。

 ちなみに、僕が潜水を習う前の時代、つまり、米国海軍以前に着いては、先輩である山下弥三左衛門の潜水読本による他知る術がないが、45尋、約75mまでの表があり、定置網の潜水では、一等潜水士として50尋(83m)までの講習を行っている。ただし、潜水病の罹患率は20%程度であったらしい。すなわち、20%は、不適格者としてふるい落とされるということだったのだろう。
 
 所詮、現場での判断は誰が責任を持つかということであり、日本の高気圧作業安全衛生規則での80をこえ90m以下という表は、そこまでは労災が適用されるという意味では、悪くはない。
 旧規則でも、実際には、規則には例外があり、混合ガスを使用する場合には、理論的な根拠、(国際的な表で良い)を添えて、申請し、労働基準監督署が認めれば、許可になる。1980年に僕達(スガ・マリンメカニックと日本シビルダイビングのベンチャーが、海洋科学技術センター・現在のJAMSTECの前身の協力)行った釜石湾口防波堤工事では、混合ガスを使用し、純酸素減圧で水深65mの工事を行った。100mを超える工事でも、労働基準監督署が認めれば、出来るわけで、80を超え90m以下ならば、特別な申請をしなくても、この表を守っているという形式をとるならば、空気を使って死んだとしても、ここまでは労災が適用される。混合ガスの場合など、例外については、基準監督署に認めてもらえば良いのだ。
 これが、この規則の表が50年使われてきたということの理由だと僕は考える。しかし、時は移り、人は変わり、技術も進歩する。例外として基準監督署に申請する方法が安全であり、規則に定められている方法が危険であったとすれば、変更しなければいけない。改正の時はとっくに過ぎており、今回改正された。
 続く

0208 自分と減圧表(3)小田原セミナーで

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 今日は、日曜日、でも、一日デスクワーク、昨日、小田原セミナーで、高気圧作業安全衛生規則について、望月徹氏の話を聞いた。先日日本潜水協会のセミナーでも彼の話を聞いている。聞いている人たちの、規則というものについての、理解が、どうなのか気になった。ダイバーとしての水中活動が、自分の自由意志で、自己責任で行っている限り、規則に縛られることはない。どんな形で何メートル潜ろうが、死のうが自分の勝手(自由)これがダイビングの大前提だと僕は思っている。しかし、事業者に雇用され、自分の自由意志ではなくて、賃金のために命令、指示されて潜水する場合には、その責任は事業者にある。また、命の危険がある労働については、安全確保のために、行なって良いことといけないこととを区別していて、規則で線を引いている。だから、個人としてのダイバーが、これを行って良いのか悪いのかを規則で決められているものではなく、事業者がこれを命令してよいのかわるいのかが、問題なのだ。事故を発生させた事業者が、労働者への補償ができないということが無いように、国が補償制度を設けている。(労災)事業者は、この制度に加盟しなければ、労働者を働かせることができない。労働者も危険な労働についての、理解ができていなければならない。(潜水士)セミナーでの質問状とその答えなどについて、テクニカルダイビングのように思われる事項があり、これを規則でやっては良いことなのか、悪いことなのか、について、の問いなのだが、これは、事業者のテクニカルダイバーに対しての業務発注が規則で認められるか否かの問題なのだ。日本潜水協会のセミナーでの参加者は、ほとんどが事業者の立場、視点で考えている。小田原セミナーは、どうなのだろうと、周囲を見回していた。

 線引をすること、立ち位置を決める、視点を決めることがまずだいじだとおもっている。
潜水士の資格、業務の資格だから、元来、スポーツダイバーには不要のものだ。しかし、スポーツダイバーを教えたり、ガイドしたりするダイバーは業務だから、この資格が必要になる。商品スポーツという言葉についてさきごろ考えた。お客、スポーツダイバーは商品を買うわけだ。インストラクション、ガイドという商品を買う。その商品は高気圧作業安全衛生規則にしばられる。縛られることは安全管理の意味でも、否定しないが、ダイビングでは一緒にバディで行動し無くてはならない。これも、業務の安全管理で縛られれば、より安全だから、否定はできない。無理に折り合いをつけるとすれば、ガイド、インストラクターは、高気圧作業安全衛生規則の枠の中でしか潜水できない。ガイドされるスポーツダイバーが枠の外にでるときには、ガイドを伴うことはできない。全くの自己責任で、一人で潜る。バディのガイドは、業務を離れて、一人の友人として、付き合う。緊急事態には、人道的に救助の義務があるが、それ以上の義務はない。金銭の授受については、寄付、喜捨だ。ダイビングサービスへの支払いは、施設使用料、あるいは傭船料であり、そのなかに、施設を整備する、あるいは船を操縦する、要員としてガイドを雇っている。僕の潜水もそんな位置づけは不可能ではない。
 

 次にテクニカルダイビングを業務としてダイバーを雇用して行う場合、深さ何メートルまで、潜らせる事ができるか。減圧表を規則にすることは僕は反対だったのだが、前の表は、水深90Mまででていたから、とにかく90Mまでは潜らせて良い。今度は、表を定めないで、式を定めているだけだから、深度は青天井だ。そうなのだろうか?本当にそれで、良いのか?
 以前、真野先生が亡くなる前、先生はこの規則改訂の推進者だったのだが、こんな議論をしたことがあった。業務ダイバーは、「水深40メートルよりも深く潜る時には、SDC(クローズされたチャンバー)に乗って潜降浮上しなければならない。」ように提案しているというので、「そんなバカな、せめてオープンベルかステージにしてください。」と話したことを覚えている。」減圧表で制限するのではなく、道具とその運用方法で制限するのはより具体的で良い。
 しかし、プロがテクニカルダイビングでステージに必ず乗り、ガイドされるスポーツテクニカルダイバーが自由に泳ぐというわけには行かないから、困った。
 規則の改正で、深く潜る場合の方法、機材についての制限条項があるかと思って見ているが、全くない。本当に一切の制限が無くて良いのですね?と聞きたいけれど、藪蛇になるといけないので、様子を見ている。
 

0209 ダイビング運用雑感

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      インターバルで机の上にカメラを置いておくと。。

 潜水士に関する企画を一緒にやっている、北海道札幌のダイビングショップ・ポセイドンマネージャーの工藤さん、そして、日本アクアラングの畠中さんと、2月7日の一日を同行し、打ち合わせ、及び、この業界について、また水中科学協会の活動について、さまざま話し合った。
 ここに書いたことは、二人と話しながら、僕の頭に浮かんだことで、話した内容とは限らない。親しい友達と話していると、一人で考えている時とは別に思いついたり、考えついたりすることが多々ある。だから、書いてあることは、僕が話しかけ、そうですね。と同意したところで、頭のなかでは同意していないこと、もしかしたら、正反対のことを考えていたかもしれない。反対のことを思っても、口に出さないで、そのへんのバランスをとることなど、東洋人では、当たり前のようにある。

 この業界、どうなるのだろう。どこに行くのだろう。
 テクニカルダイビング、特にリブリーザー関連について、この10年先まで見た場合、一般化するものでもないと思うが、一般化の方向にベクトルが働いた場合、ダイビングフアンの中間層が抜け出てしまって、高度なテクニカルダイバーとC-カードをとって、2年でやめてゆくダイバーの二層化が進む可能性がある。それがダイビングショップとメーカーにとって、プラスになるかマイナスになるかわからないけれど、更に二層化が進むのだと思う。

 小田原セミナーでの田原君の話、面白かったし、同感するところ、というか、僕のいつか来た道、のような気もするが、
マニュアル化について。
マニュアルと呼んでも一つではない。僕が必須というマニュアルは、手順書、段取り、安全確保仕様書であり、自分のために、自分で考えた道具である。少し広げてもローカルルール、漂流しないためのパラオのマニュアルのようなものである。
また、教育マニュアルとして、インストラクター全員が遵守、縛られる、マニュアルもある。質の均一化という意味では必要なのだろうが、すべてのダイビング活動、指導が、すべてのステージでマニュアルに縛られてしまうと、僕のような人、もしかしたら、田原くんのような人には気に入らない。僕自身としては、別に反対はしない、C-カードから、インストラクターになるまで、生涯学習として、階段がつけられていることに反対する必要はどこにもない。ただ、自分はちがうけれど、夢と冒険を追って生きてきた、僕たちの時代について、今の人達が、羨ましいと思えば、生涯学習の方向を少し進路転換すればいい。

これまで、僕の撮影などの、アシスタントを努めてくれた人はNAUIのインストラクターが多い。残りは、全日本潜水連盟ルートで全国ネットワークがあったので、それでやってきた。PADIは、商売熱心なので、僕と遊んでくれなかったのかもしれない。
また、1970年代日本潜水会と田口哲くんが中心になっていた時代のNAUIが相互乗り入れをしようとしていたこともある。やがて、NAUIもPADI化して、その時にスピンアウトしたのがJCUE だと理解していたが、それも怪しくなってきた。
現時点でも、これまでは、NAUIはPADIに比べて、先にのべた、団体の規則としてインストラクターが縛られるマニュアル化は、緩かったのだが、今後どうなるのだろう。
JAUSもPADI、NAUIと等間隔で付き合っているが、NAUIの行方は気になる。

JAUSとしては、その活動をリサーチ(撮影を道具にした)を目標にして進みたい。之によって、スポーツダイバーとサイエンスダイビングがクロスオーバーできるし、環境活動にも、貢献できる。100人ほどのメンバーで力を合わせて、先頭に立つ気持ちになれば、フォローしてくれるダイバーも増えてくれるだろう。僕の目が黒いうちに増やす力を付けたいのだが、道は険しい。「何をしていたかの途上」になってしまうかもしれない。

目標としてのリサーチに高気圧作業安全衛生規則は、重い関わりがある。それをどのようにして行くか、企画化していくかが、工藤くんとの話し合いの大きな部分だった。工藤くんもこの部分について、ブログを書かれているが、よくまとまっていて、小田原セミナーの講義よりもわかりやすい。

 

0210 生涯スポーツ

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 またまた、スポーツの話、潜水医学の小田原セミナーの帰りの電車の中で、札幌の工藤くんと、スポーツのことを話し合った。競技スポーツのことを話したのだが、スポーツには、もう一つ重要な生涯スポーツというコンセプトがある。英語で言えば、ライフタイムスポーツだ。このことを話さなかった。
僕は1988年、文部省の財団法人社会スポーツセンターの常務理事隣、文科省、当時は文部省が定めた、生涯スポーツの指導資格である社会体育指導者の資格をスクーバダイビングに導入した。スポーツといえば、力と技を競い合う競技スポーツがまず第一に考えられる。オリンピックは、競技スポーツの頂点にある。
技も力も競い合わない、ただ楽しみ遊ぶだけのレクリエーションスポーツというのがある。これら競技もレクリエーションも生涯続ければ、生涯スポーツになるから、線引はなかなか難しい。しかし、日本は、2010年ごろから高齢化社会を迎える。高齢者が人口の40%になり、しかもなかなか死なないで、介護を受け、医療を受けるのでは、大変なことになる。この世の地獄とも言える。死ぬまでスポーツを楽しんで、身体を動かし、病むこと無く、ぽっくり死んでもらえば、国が助かる。そんな言い回しはできないから、生涯健康で幸せな生活をおくってもらうための生涯スポーツであり、国はその振興策に力を入れた。文部省のスポーツ課を二つに分けて、競技スポーツ課と、生涯スポーツ課とした。スポーツを振興させるためには、競技場、施設を作る。そして、指導者を作る。競技スポーツの指導者は、すでに日本体育協会がスポーツ指導者資格を作っている。これとは別の指導者資格として、社会体育指導者を作ったのだ。生涯体育とは言いにくいので社会体育指導者としたのだろう。
ちょっと考えれば、この二つに分けるコンセプトにかなり無理があることがわかるだろう。競技スポーツを高齢になっても、しぬまでやれば、生涯スポーツになる。例えば、水泳にはシニアのレースがある。高齢者の指導だけを別に分けるのも難しい。柔道だって剣道だって、高齢者のための特別な段位がある。すでに名前の通った、社会的に市民権がある普通のスポーツは、全部そっぽをむいてしまった。我がダイビングは、日体協にも入っていない。社会的にもスポーツと認めてもらっていない。公的な指導者資格も無い。この社会体育指導者をスクーバダイビングに取り入れることにして、これがダイビングスポーツの公的指導資格とした。
外国の指導者組織からクレームが入った。日本がそんな資格を作ったら、例えばハワイの潜水指導者は日本人に指導をして認定をすることができなくなる。これは貿易摩擦である。確かに、ハワイのアメリカ人が日本の社会体育指導者の資格を取らなければ行けないことになると、営業ができなくなる。しかし、粗悪なハワイの指導のために、事故を起こし散々な目にあっている人だっている。それに、ダイビングの指導は、輸入、輸出できるような形のあるものではない。
いろいろな交渉の結果、社会体育指導者という資格はダイビングに導入してもよい。しかし、全員がこれを受けなければ指導できないというようなことにはしない。また、これは指導者資格なのだから、その指導者が販売するC-カードのようなものは作ってはいけない。そんなことになった。
それはそれとして、生涯スポーツのコンセプトは、高齢者社会を迎える日本にとってとても大事であり、その普及と実施に力を入れなければならない。そこで、僕は死ぬまで現役で、ダイビングをやりぬくことにして、お酒も絶ち、努力を続けることになった。

        浦安海豚倶楽部でのダッシュトレーニング

        辰巳での宙返り フリスビー

生涯スポーツはどうなったかというと、日体協と別に指導者を作るというところに無理があり、やがて、日体協の資格に吸収され、スクーバダイビング指導者も日体協の資格と一緒になった。つまり、現在の状況である。
一方で、日本の社会は本格的に高齢化社会を迎える時となった。
文科省は、スポーツ基本法の中で、生涯スポーツを重視する戦略を打ち立ているなどというニュースを聞くが、抽象的な議論に終始しているように思う。でなければ、僕の80歳80m計画など、もっと評価されても良いと思うのだが、週刊朝日とか朝日新聞の天声人語など、口には出しているのだが、なんともならない。

まず、生涯スポーツで大事なこと、重要なポイントは、トレーニングを欠かさないようにするということだろう。トレーニングを重ねた上で、チャレンジする。
もう一つ、高齢者の事故が増えるということで、高齢者のスポーツ活動にブレーキをかけないでもらいたい。高齢な者から死んでゆくのは、自然の理であり、許されなければ、永遠に生き続けなければならなくなる。高齢者のスポーツフィールドでの死は、事故ではなく、もちろん当然の結果であってはいけないから、事故を避ける努力は最大限にしなければならないが、それでも、若い人の事故と同一視はしてもらいたくない。もちろん、どこで、どのような形で死を迎えたとしても、全て自分の責任であり、他に責任を転嫁してはならない。
生涯スポーツは、楽しくやらなければならないし、スポーツによるリフレッシュで、老化をゆるくする効果もある。しかし、ある部分はかなりストイックに自分に努力を課するものでもある。
80歳、ここまで来ると、そんなに遠くに目標を設定することはできない。60歳の時に、後20年、80歳までと目標を定めやってきたが、此処から先20年は無理だ。5年刻みで目標を定めることにしようか。
まだ、後5年は死なないで、生涯スポーツとしてのダイビングライフを送る。

とにかく、生涯スポーツという視点は、此処から先、ますます重要になってくる。
ダイビングは生涯スポーツだといえるようにしてゆきたい。海豚倶楽部は決して高齢者の倶楽部ではなくて、若い人も迎え入れたいが、やはり平均年齢は高い。みんな生きてスキンダイビングを楽しんでいれば、ますます平均年齢は高くなる。それは喜ばしいことと、社会に認めて貰いたい。

0211 昔のホームページから

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 久しぶりで、自分のホームページのディープな部分を見た。下のほう、底のほうだ。とにかく、古い作りのホームページで、格好が悪いけれど、自分の自由になるし、これでよいと思っている。
 その2002年、8月に佐渡に行った時の「佐渡紀行」 67歳の時だ。
 人工魚礁調査と、ツアーをちゃんぽんにやって、人工魚礁調査が終わったあたりで、ツアーのお客を大西が連れてきて、一緒に潜った。
 その人工魚礁の時、地元の組合の参事の内藤さん、大好きな人だった。と雑談した時の話、雇った船の春日丸の船頭も愉快な人だった。
 1回目の潜水が終了して二回目の潜水までの合間、


「次の潜水までの休憩時間、小船の上で、内藤参事さん(参事は、組合の実質的な責任者だ)、春日丸の船頭と三人で雑談する。
 私は、70歳で引退する時に、1億円の金を握っていられたかもしれない方法を話す。私の方法では、40歳の時にスタートしなければならないから、私はもうとっくに遅くなってしまっていて出来ないのだが。
まず、40歳までは、自分の仕事の方向、仕事の技術を身につけて充実させる。40歳で独立して、スタートする。70歳がゴールだから30年計画である。事業と言うものは、すべて30年計画で、最初の10年間は種を巻いて育てる期間であるから資金を注ぎ込む。ただし銀行から借金してはいけない。それまでにためた自己資金の範囲で計画を立てる。次の10年が収穫期で、もうかる。最後の10年は、惰力でなんとかプラスマイナスゼロで進行するから、その間に整理をする。
 とかく、お金と言うものは、稼ぐ人に貯まるものではない。稼ぐ人は、これだけ稼いだから、このくらいは使って良いはずだ、などと言って、ほとんどの稼ぎを使ってしまう。金は、稼ぐ人に貯まるのではなくて、使わない人に貯まるものなのだ。とにかく使わない。収穫期の収穫が少なくても、使わなければ、70歳で1億は貯まるはずだ。
 内藤さんも春日丸も、そんな、金を貯める生き方なんて嫌だ、という。みんなと酒をわいわい飲みたいし、金も使いたい。70歳になって1億あったって仕方が無い。人と仲良く、幸せであれば金が無くても良いではないかという。
 金の貯まらない生き方をして、私は、1億はおろか、一千万も無い。そして今、1億ほしい。1億あれば、ずいぶん方々へ潜りに行かれる。やはり使うことを考えている、だめだこれでは。
 しかし、人の生き方はともかくとして、会社の経営は、金を使わないで貯めなければいけない。自分に一億無いのは良しとしても、会社に1億がないことは、反省し、後悔しなければならない。(後悔していた。)
 そんなことを話しているうちに1時間が過ぎる。本当は2時間休まなければいけないのだが、忙しい参事さんを拘束しているのだから、それほどまでは休憩できない。」
 そうだ、このホームページ、2002年から始まっている。その頃の記事が今見るとかなり面白い。良かったら見てください。

http://homepage2.nifty.com/j-suga/index.htm

0212 古いホームページ

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ホームページの編集、編成会議をした。旧ホームページ、僕が作っていたものは、情報伝達力が小さい、アッピールする力が少ないということで、お金をかけて更新した。体裁だけは整ったが、①その体裁も写真が変えられないと、物足りない。フェイスブックなどは、毎日のようにカバーを変えている人がいる。僕はそれほど変えないが、やはり変えたくなった時に変えられないと不満だ。②現在、JAUSは12月7日のシンポジウムも終わり、次の準備中、プライマリーコースも態勢を整えつつある、JAMSTECをもう一度使う事になるか、使うとすればどういうふうにするか、企画案を担当の倉田君が考慮中、外に向かって募集をかける段階ではない。つまり目下のところ何もないのだ。③なにもないとホームページを見た人は、なにもないと受け取る。当然。④旧ホームページは、JAUSの出来た沿革、定款、会員の名簿やホームページ、などの情報が前にでていた。⑤後援してくれる賛助会員を募集したいのだが、賛助会員であるということがPRされなければ、誰も賛助してくれない。

 なお、決まっても居ない、こういう情報を発信することの是非もあるが、JAUSは秘密で何かをやろうとしている結社ではない。転びまろびつつ、迷走しながら、目標に向かって邁進する。その途中経過が見えることは、何も見えないよりも良いと思っている。
 苦労の結果、出来てくるものを見てくださるという方も居るだろう。何も発信しないよりは、予告編を、メイキングを発信するべきだとおもう。
 そして、旧ホームページだが、僕にとっては、5年間の苦闘の歴史であり、やってきたことは、一つの文化(おおげさ)である。ネット上から消滅させてしまうのは嫌だ。
http://jaus.jp/old_site/ で見られるようにしてはもらっているが。JAUSの出来た沿革、定款、会員の名簿やホームページ、は、新ホームページの、できるだけ良い位置に復活させたい。
 現在のかっこいいホームページに比べれば、体裁の古い僕のホームページも、アッピールする力はある、と自負している。ダイビングについて、わからない言葉をネットの上で検索すると自分のホームページが出てくる。僕のウイキペディアも、一生懸命作っていてくださる友達がいる。ウイキペディアは、来歴であり、歴史であり、もしかすると墓銘碑である。
 

0213 自分と減圧表(4)

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悪い癖で、また減圧表が小田原セミナーで放置されている。
0207の(2)では、米国海軍の標準空気減圧表で、100mを目指したところまでかいた。(3)では、今度の改正では、表を規則で決めずにアルゴリズムの例をしめしただけだから、自由にテクニカルダイビングで何メートルまででも業務で行なってよいのだろうか?という疑問だった。この改正を一番熱心にやっていた故真野先生が、深度についての潜水手法の制限として、水深40m以上はハッチアウトスタイルのSDCを使わなければ行けないように使用などと言っていて、僕はせめて、オープンベルぐらいにとどめておかないと、リサーチダイビングはできなくなると意義?申し立てをしていた。

 深く潜る場合の手法について、規則では全く触れていないようだ。だとすると、次に発表される潜水士テキストで、そのことが書かれるのだろうか。テキストは規則ではないかr拘束力はないが、国家試験問題は潜水士テキストの中から出題され、潜水士テキストの記述通りが正解になる。潜水士テキストと国家試験問題は公文書なのだ。それが常識になってしまう。現場の常識が活かされず、潜水士テキストの記述が正しくなってしまう。
 そして、潜水士のテキストの記述はどういう経過で書かれるのだろうか、ブラックボックスであり、執筆者の名前が記されるだけだ。今回講師になっていた望月徹氏が、埼玉医科大学の地域医学、医療センター、衛生学部門の肩書で第一編、第二編、テキストのほとんどを書いていることになっている。それで良いのだろうか、かつて、海洋科学技術センターで、用語集の編纂が行われた時、スポーツダイビング代表として委員にさせていただいたが、書かれた原稿について、読み合わせ、訂正の会議を何度も行なった。今度の改正でも、多数の委員が、スポーツ関係者はゼロだったが、会議を開かれていた、せめて、あのくらいの会議で、スポーツダイビングの代表者も加えて、テキスト編纂をおこなうべきではないのだろうか。不肖、最新ダイビング用語事典でも執筆と監修者の名前リストは3ページに及んでいる。潜水士テキストでは、この辺がブラックボックスにはいってしまい、しかも執筆者一人だけの名前しか発表されていない。なにも望月さんが悪いと言っているのでは決して無い。しかし、国家試験問題の基となるテキストであれば、各方面から監修者を選び、監修会議を数回行いその議事録をネットで流す。(規則の改正ではそうなっていた)そして、パブコメで異議が唱えられるていどの手続きが必要なのではないだろうか。
 まあ、結果(新しいテキストができてから、)を見てまたコメントしよう。
 テキストは3月末にできるのだそうだ。そして4月から新しい規則に準じた国家試験になるが、それは古いテキストに沿ったものになり、7月のテストから、新しい規則に本格的に準じたものになるらしい。
 僕らは外野?いや内野かな?だから、いろいろ想像して面白がっている。減圧表のサンプルも一つ掲載されるということなので、減圧停止についての問題は、その減圧表体されるのだろう。
 出されるとしたら、おそらくカナダのDCIEMではないだろうか。
 この前の日本潜水協会での改訂についての説明会では、DCIEMが例に出されていて、他の表は出てきていなかった。世界的に有名な減圧表は、米国海軍、英国のRNPL.,そしてカナダのDCIEMだ。更に、強いて言えば、日本の別表第二もこれに入れても良いだろう。これらの減圧表については、続きにする。

0216 波佐間人工魚礁(1)

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 スクーバ・ダイビングは、ただ、潜るだけで満足できるのだが、何か、目的を持って潜ることを覚えると、潜るだけでは、つまらなくなる。昔は魚を突いて獲るスピアフィッシングが盛んだった。食べ物を狩るのは原始時代からの人の生命線だったから、人間には狩猟本能がある。しかし、趣味的に魚を突き獲ることは、規則で禁止されているし、ダイバーが魚を追い回せば、少なくともダイバーが潜り、活動する水域からは、魚の姿が消える。スピア、水中銃をカメラに持ち替えた。これならば、規則にも触れないし、魚も減らない。
 水中撮影は映像のハンティングだから、狩猟本能も満足させられる。しかし、人は映像撮影の向こう側に更に何かを追い求める。撮影の結果の作品を売ることができれば、プロの写真家になれる。しかし、水中でカメラを構えるダイバー全員がプロの写真家になれるものでもない。もう一つ撮影には大きな意味がある。それは記録することである。撮影記録は、すなわち撮影調査である。これも結果を追い求めることができるから、狩猟である。

 ダイビングはチームプレーが原則である。バディが水中でのチームの最小単位であり、バディシステムによって、水中での安全が確保される。バディシステムについては、別の話で、詳しく述べるが、とにかく、ダイビングはチームプレーである。
 チームプレーで目的を持って潜水することは、たのしい。僕達の目的は水中撮影による調査であり、この調査をスポーツ的に行えば、楽しいとともに、それぞれ役割を決めて活動するのだから、安全性も高い。
 またまえがきが長くなってしまったが、僕たちは千葉県館山、内房側の人工魚礁調査を目的とした潜水を、毎月定例で行うことにしている。
 このスポーツダイビングとしての調査が、普及して、スポーツダイバーが潜水する津々浦々で行われるようになれば、日本の海に貢献できることが計り知れない。と目的を思い定めている。
 もうこれで、このブログでは、このようなまえがきは次回から省略しよう。これまでにも何回も書いている。

 2月15日、で数えて5回めになる。8月23日、12月23日、1月12日、そして今度の2月15日だ。カテゴリー、リサーチダイビングで検索してもらえると、このブログでのこの人工魚礁調査の全記録が見られる。

 朝7時の福田くんとの待ち合わせだ。どうしても、朝の待ち合わせは、置きられないのではないか、と心配になる、3時、4時と小刻みに目を覚まして、次に目を開けたのが6時だ。6時には、現地に電話してできるかどうかの確認を取らなければならない。「平らですよ。風が吹いているけれど南風だから大丈夫。1時間では、寝起きで、頭も身体も準備ができない。バッテリーチャージをしているカメラが2台ある。ハウジングに入れて蓋をして、どライスーツだから、「おむつ」を穿く。この前、マミと一緒に館山に向かった時、がまんができなくて大変だった。潜水中に尿意をもよおしたら、危険だ。別に「おむつ」をしたら、その中にしなくてはいけないという規則はない。パンツの代わりにおむつを穿けばよいだけのことだ。
 こうやって書かなければ、ぼくがおむつをしているなんて誰も知らない。今、穿いているのは、3回目の使用になる。汚くなっていなければ、5回は使える。
車で事務所に走らなくては間に合わない時間になってしまった。
 7次の待ち合わせだが、6時45分に事務所につくと、もう福田くんが来ている。この人はすごい正確なひとなのだ。事務所のドアの外に出していた荷物、ドライスーツのバッグとBC.レギュレーターのバッグを積む。出発、自分の車を車庫にいれる。
 海ほたるを通ってゆくことにする。これは速い。
 館山に着いて、館山湾を見ると白波が立っている。沖ノ島をかわせば波はすこしはおさまっているだろう。
 僕達がトップで到着した。
  ガイドの荻原くんが、申し訳無さそうに、「透視度が、6.5mかな」という。数日前までは15m見えたのに。残念だけど仕方がない。透視度の良否は兵家の常、いやダイビングの常だけど、2月は、寒く、水温も低いけれど、透視度は一番いい季節だ。それを頭に思い描いている。しかし、仕方がない。
 悪い、6.5mの透視度で、どのくらいの撮影ができるのか、のテストになる。

 車から撮影機材を下ろして、荒川さんの作業場で組み立てる。カメラは11台だ。ぼくのG0Pro2が3台、SJが2台、AEEが2台で計7台、福田くんが、SJが2台、コンツアーが1台、ソニーが1台、合計4台で、総計11台になる。
 ウエアラブルカメラのオンパレードである。どのカメラが使いやすいか、画質が良いか、そして、インターバルで何時間の記録ができるかの比較になる。


     コンツアー、意外に使いやすかった。



 カメラをウイング(垂直安定版)に取り付け、浮きとウエイトを取り付ける。辰巳でテストして、ウエイトを最小にしてバランスを撮っている。海でこのセッティングでは初めての使用になる。
 一応カメラのテストも行う。
  
  今日のラインの引き方について、荒川さんと打ち合わせる。4.5m角のブロックから、タイヤ魚礁に向かうことにする。タイヤ魚礁は前回も調査しているので、比較になる。そして、数日前、イサキの稚魚がタイヤで撮影されている。すごい大群だった。この真冬の季節でもイサキの稚魚がいるということは、イサキは周年産卵しているのだろう。
  この最悪の透視度で、どのくらい見えるかが課題だ。

 カメラの準備をしているときは、何時でも身体の調子が悪く感じられる。潜るのが億劫なのだ。しかし、ここで引き下がったら、僕はダイバーとして死ぬことになる。




0217 波佐間人工魚礁(2)

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 須賀の潜水について書いてきたが、何をしているのかわかりやすくするために、ちょっと離れて、11台あるカメラのうちの一つ、SONY AS15 のストーリーにしよう。
5秒間隔のインターバル撮影でカメラが何をみたのかの話になる。
 なお、調査データとなるのは、魚を写した部分だけになる。念のため

 11時12分、水に入れられる寸前、小俣さんを写している。


 11時12分 水面


 11時13分 沈んでゆく、多分、荒川さんが手に持っている。


 11時14分、4.5m角の魚礁の端に置かれる。
 水の色の変化がわかる。



 11時16分、4台持ってきた小俣さんのカメラがもつれて,大変なことになっている。
  この方法は、次回からはNGで、垂直版、浮子、重錘 それぞれ別に持ってきて、推定で組み合わせるようにしよう。もつれてほどくよりも良い。


 11時26分 山本さんがやってくる。


 11時27分 山本さんが、このカメラは1番の位置、ライン基点のゼロメートルであることを示す。これはとても良い方法だ。


 12時59分、ネンブツダイの群れが現れる。
 それまで、小さなカワハギが1尾写っただけで、魚は現れない。魚礁の比較的良い方向をむいているのにそんなものだ。ダイバーは、広い視界の中で魚を探して選択的に見ている。カメラは公平にみている。これだけで、魚の多少、効果を判定するものではないが、集計すると、傾向がわかる。


14時13分、未だネンブツダイの群れは見える。


14時18分、撮影が終了する。3時間、5秒置きに撮影されていたわけだ。PCの上でパラパラ写真のように見て、何分あたりに魚が見えたか、分けて置く。




カメラは100mの鉛を織り込んだ沈みロープに10m間隔で取り付けられて、1.5m上に浮いている。 11台、それぞれのカメラのストーリーを求めて置く。

 この100mのラインを3本、30台ぐらい使おうと思っていた。延縄漁のように、船からどんどん落として行かれれば可能だが、ここ波佐間では魚礁の上に減圧停止用の浮上rロープが張り巡らされているから、上からの投入はできない。この運用方法では、、1チーム5人でライン1本がやっとだろう。
 チームプレーで、この撮影をやるのはとても楽しい。

 続く

0218 波佐間人工魚礁(3)

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 秋になると、何時ドライスーツを着ようかと思う。このごろでは、早めにドライスーツになる。寒いからではなくて、なるべく早くドライスーツになじみ、身体に付けるウエイトになれようとおもうのだ。ドライスーツなしでは冬も潜り続けることができない。
 その冬が来ると、今年の冬は生きて越せるだろうかと思い始めたのは何歳の時からだったろう。76歳だったか、もっと前だったか。生きてということは、人間としての死ではなくて、ダイバーとしての死、本州太平洋岸に潜る気力がなくなるということだ。
 ダイバーとは、野生の動物だとおもう。冬を越せるだろうかなどと思うまでは、そんなことを考えもしなかった。そんなことを考えるということが、野生ではなくなるということなのだろう。

 タンクを背負う。今日は12リットルにした。10リットルでは、100mのラインの往復ができないと困る。ボートの床にタンクを置いてもらって、BC.のベルトに肩を入れる。ボートオペレーターが左肩を入れるのに手を貸してくれる。四つん這いの姿勢で、ベルトを引き締める。ホースをドライスーツにつないで、タンクのコックを開いてもらい、マウスピースを咥えて吸ってみる。

 バディの福田くんは、今、ベルトに肩を入れたところだ。そのまま少し待つ。
 二人の準備ができて、OKサインを交わして、ぼくはそのまま、船縁に這ってゆく。立ち上がる事はできない。7キロのベスト、4キロのベルト、それに今日は、1-4キロのレッグウエイトをしていない。レッグウエイト分の重さがあるドライフィンを履いている。このごろ、このフィンを履かないのだが、この方がバランスが良くなるかと付けて見たのだ。
 頭を下にして水中に突っ込む。身体が一回転して水面に顔を出すとき、足に空気が入っていると上手く起き上がれない。ドライの空気を抜いて、BC.の空気を抜く。どうやら正立して船を見る。福ちゃんが大きなカメラを、手渡したもらう、その船頭の姿を見た。潜降のロープまでの距離が8mほどある。その8mを泳ぐのが嫌なのだ。泳力が弱くならないように、プールではダッシュのトレーニングに余念がないのだが、重いウエイトとタンクを着けるだけで、息が上がりそうで、そして水中で一回転、そのまま、垂直に水底にむかうことは、福ちゃんと打ち合わせ済みだ。頭を下にしてフィンを動かす。フィンの推進力が緩い。ドライフィンのベルトはスプリングベルトなのだが、締め付けがゆるくて足首のところでフィンが折れるのだ。とにかく、懸命に動かして、沈む。
 透視度が6.5mの濁りだから、何も見えない。カメラを付けているラインの起点が見つからなかったらどうしよう不安になる。ロープをたぐれば良かったかなと少し悔やむ。

福ちゃんが前に回って姿を見せてくれた。フォローしていることのシグナルだ。そのまま潜ると、真新しいロープが斜めに見えている。良かった。ラインの端に着けられているブイのロープだ。
 ゼロ地点のカメラは、4.5角人工魚礁の縁に上手く着けられている。海底に膝をついて、カメラをチェックする。ソニーが付いている。これは福ちゃんのカメラだから、間違いはないだろうと、てから離して、鉛ロープのラインをたどる。ラインには黒いビニールテープで印がついていて、印のところにカメラのウエイトラインがクリップでとりつけられている。全部のカメラが正常に動いていることをぼくがチェックすることになっている。

 黒い10m間隔のマークではなくて、その中間の5mマークに付けられたのがあった。そのままにしておいても良いのだが、いや、そのままにしたほうが良かったのだが、はずして曳いて行く。どこかについていないところがあるはずだから、そこにつけよう。
 福ちゃんがフォローして上方から僕の姿と周辺の海底状況をさつえいしているはずだ。カメラと、もしも魚礁があれば、その魚礁との相対的な位置関係が記録できる。ダイバーの姿がうつりこんでいるということは、ものの大きさと比べるスケールになる。
 本当は、トリムをとった水平姿勢になり、フロッグキックで泳がなければならないのだが、フィンの調子がカクカクでそんなことはできない。なるべく、泥を巻き上げないようにと意識はする。
 SJのカメラが動いているかどうかのインジケーターが見難い。リセットして動かそうとすると電源が切れてしまう。水中でカメラをセットするのがこのカメラでは難しい。

 100mの端までチェックしたので、ラインの上を基点に戻る。
 実は、水中であまり調子がよくなかった。少し身体のバランスが悪く、気持よく泳いでいない。浮上のロープを手繰って、水面に向かう。実は、実はが続くがダイブコンピューターを忘れてきている。普段の生活では、時計型のダイブコンピューターがあまり使い勝手がよくない。カシオのプロテックスを使っている。今朝、寝坊したのでPCのキーボードの上に置いて、忘れないようにしていたのだが、PCも見ずに出てきた。
 別にどうということはない。水深25mならば無減圧の潜水時間は25分とおぼえている。安全停止は適当にやればいい。荒川さんがあとから上がってきたので、彼と一緒に浮上すればいい。
 荒川さんが浮上する。後をついて浮上。彼は身軽に梯子を上がる。ぼくもフィンのかかとを踏んで上がろうとするが、ロングのドライフィンでかかとが上がらない。膝で上がろうとすると、誰かがタンクを引き上げてくれる。自分の力で上がれなくなったら、引退だ等と言っていた手前、恥ずかしいのだが、とにかく引きげられる。右足のドライフィンが外れたと思ったが外れていなかった。このフィンがおかしかった。


 2回目の潜水はパスして、カメラの引き上げをした。2回目はフィンも変えて、レッグウエイトも付けて、いつもの体勢になり、2回めの方が調子が良くなるので、と思っていたが、この濁りでは撮影にならない。無理をすることもない。無理をしない、なんて言ったこともない。無理をして生きているのだ。が潜っても何の成果も期待できない、トレーニングだけだが、そのトレーニングをしないで、終えてしまった。

0220 自分と減圧表(5)

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  自分と減圧表(5)

 館山に行ったことも、まだ書き足りていない。自分の体力の衰えとともに、海との付き合い、潜水との付き合いが、タフに感じるものになってゆく。子供の頃(学生の頃)からダイビングをやっていると、素人が海に対して持つ感覚はわからない。自分が次第に素人に近くなってゆくから、その感覚に近づいてゆく。まだまだ、引き下がる、大事を取るというところまでには至っていない。常に突撃あるのみの気持ちで、そうでないと、冷たく、透明度が無く、波のある海には飛び込んで行かれない。しかし、海に飛び込んだ時の不安定さは、ついこの前、75歳あたりまでは無かったものだ。安全とは、おそれの気持ち、ネガティブと、突き進むポジティブの釣り合いのことだ。
 
 自分の置かれている環境も本当に劇的に変化してゆく。水中科学協会の運営委員会が昨夜あった。水中科学協会をつくろうと、古い友人を集めてスタートした。古い友人も中心を作ってくれているが、動くのは新しい友だちだ。亡くなってしまった後藤道夫が、新しい人が集まって、これはすごい、というようなことができなければ、新しい組織は生まれないと言っていた。まだ、なにもできていない混沌だが、もがいて進んでいる。

 振り返れば、いつも、常に混沌だった。
 1983年、全日本潜水連盟は、社団法人海中開発技術協会と合流的な提携をした。社団法人海中開発技術協会の前身は1957年に発足した潜水科学協会で、この潜水科学協会(水中科学ではなくて、潜水科学)で、僕は潜水を始めた。言葉を変えれば、僕に潜水、すなわち人生を教えてくれた師匠たちが、この協会を作った。僕は一番弟子のつもりであり、若者頭(やくざか)になろうとしていたが、1966年この協会は、70年代の海中開発時代を前にして、スポーツを切り捨て、海中居住計画への脱皮してしまった。捨てられた僕たちは日本潜水会を作り、関西潜水連盟をつくり、その他各地の連盟を作って、合流して全日本潜水連盟を結成した。それは、かなり成功して、日本全国を統一する組織になった。アメリカの、というか国際的な団体としてPADIが、日本にも上陸して居たが、これはまだ混沌であり、これは、やがて遊びのダイビングがビジネスに脱皮して行く過程で、力関係の変化が起こるのだが、まだそれは先の話だ。
 一方、海中開発技術協会は、産業的な意味での海中開発には失敗し、国の施策としての海の研究開発は、海洋科学技術センター(現在はJAMSTEC)が行うことになり、宙にういてしまった。僕たちはそこに里帰りをして、みんなで立てなおそうという、ことになった。無論、新しい全日本潜水連盟の中心になっている人たちは、合流には反対した。せっかく軌道に載っているのに、古い衣をまた着ようとしている。しかし、僕は師匠たちをすてられなかった。次の段階で、また裏切られて、(但し、僕の視点からの裏切りだが)次に進むのだが、本当にこのあたりは太平記で、書いておかないと行けないと、薦められるのだが、まだ、その時期ではない。
 ダイビングの指導にはテキストが必要である。全日本潜水連盟には本当によくまとまった、要部だけのテキストを、僕と石黒さんが作って持っていた。本当にシンプルで、良いテキストだが、国際的なダイビング団体は、プログラムというコンセプトを持ち、分厚いバインダーのようなもので売り出している。僕たちもテキストを充実させなくてはいけない。一方海中開発技術協会も、スポーツの世界に再び復帰するに当たり、テキストが必要だと、テキストを作成中だった。
 そこで合流が起こった。二つの原稿は、どちらかを捨てなければならない。僕はその両方で執筆している。どっちにも、プロデューサーの役割を果たしている。「エイ!面倒だ。合冊させてしまえ。」結果として最善の選択だったと思う。全日本潜水連盟部分は教育プログラム的な実際が中心で、海中開発部分は理論資料的なコンセプトが強く、記述に重複があっても、読む人にとって、それは、表現を変えて同じことを二回教えられる事になり、理解が進む。

今でも僕はこのテキストが、これまで日本で書かれたダイビングテキストでの最高のものだったと思っている。もちろん、時が進み技術も一変する。その後のダイビングはBCが中心になる。このテキストは、ライフジャケットから、胸掛式のBC、そしてスタビジェケット、への変遷の間であった。
 そして、この1983年頃が、僕の潜水人生の最高点でもあった。僕は45歳で、それまで、ダイビングの停年を45歳だとおもって生きてきた。全日本潜水連盟もこの時が最高地点であった。

 このテキストで、全日本潜水連盟はRNPLの減圧表を採用している。RNPLとは、Royal Naval Physiological Laboratory 英国海軍生理学研究所である。
 テキストではこんな風にかいている。原文のまま。
 いま、私達が取り扱おうとしている減圧表は3種類です。
 ①労働省が潜水士のために定めた減圧表
 日本の労働省では、労働基準法(労働安全衛生法)に基づいて、潜水士問おいう制度を設けています。この規則によれば、労働基準法の適用を受ける潜水は全てこの減圧表に従って行わなくてはならないことになっています。使い勝手が悪いために、労働基準法の適用をうけないスポーツダイビングでは、実際にはほとんど使用されていないのが現状です。しかし、日本の法律に基づいて居るただひとつの減圧表ですから、潜水士の資格を持っているダイバーは必ず使用法を学んでいます。
 ②米国海軍標準減圧表
 使いやすい工夫、配慮がいろいろとなされているために、日本でもスポーツ代がに最も広く普及している減圧表です。
 それぞれ、ちがうところで潜水の指導を受けた何人かが、グループを作って潜水に出かけようとする時、減圧表が異なると困る場合があります。NAUI、PADIはこの減圧表を使用していますし、スポーツダイビングの範囲であれば、この減圧表を使用することに、特別悪いこともありませんので、JUDFでもこの減圧表を使用するようにしています。
 減圧表の使用法については、海中開発技術協会編集部分に述べてありますので、個々では省略します。
 ③RNPL 減圧表
 この減圧表は、減圧停止深度が5mきざみになっており(米国海軍は10フィート:3m)メートル方で支持されていますので、フィート表示の米国海軍のものより日本人には使いやすく、しかも最も減圧症になりにくい表だとされています。
 中略
 いろいろな理由で、JUDFではこのRNPLを使いたいのですが、日本では米国海軍がふきゅうしているので、なかなか難しい状況です。せめて無減圧の限界だけはRNPLを使用することにします。
 無減圧の限界(減圧停止不要限界)とは減圧停止をしないで、1分間に18m(当時の数字、現在は毎分8m)以内の上昇率で水面までまっすぐに浮上して良い潜水時間を言います。
 中略
 RNPLの無減圧限界
 水深9mを超えなければ無制限
 水深10mを超えなければ 230分 水深15m:80分、水深20m:45分、水深25m:25分 水深30m20分、水深35m:15分 水深40m:11分


 この時間表をいつも持っていて、僕の場合には、水深25mで25分という数字はわかりやすいので、これを基準にして、潜水計画を立てる。
 このほか、繰り返し潜水も、2回の潜水で潜水深度が異なる場合など、簡単に数字をもとめられる。
 この表で潜っていて、全日本潜水連盟のメンバー及びその周辺で減圧症に罹患した人を知らないし、噂も聞かなかった。いまのダイブコンピューターよりも、安全率は高かった。


 このテキストの全日本潜水連盟部分は、須賀、田村和子(ドウ・新宿のチーフ、現在は合気道の師範)伊庭一男(大川ダイビングセンターのオーナー)寺島英一郎(後の全日本潜水連盟の理事長)笠原健男(後にCMAS JEFを創立 故人)壇野清司(後にNAUIのインストラクター、スリーアイ、そしてJCUEの役員をやっている)が執筆者に名を連ねている。

 続く

0221 自分と減圧表(6) 

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 自分と減圧表(6)

 さて、海中技術開発協会の作った部分、自分が入っていて最高というのはおこがましいが、執筆者は当時の潜水関係の最高の顔ぶれだ。
1.ダイバーを取り巻く水中環境:工藤昌男 2.潜水の医学:梨本一郎 3.スクーバ潜水に使用する機材:尾花英明 4.スクーバ潜水における基礎実技 5.減圧表:大道弘昭 6.海での潜水:須賀次郎、7.海の生物と自然保護:内田紘臣 8.スポーツ潜水と漁業:猪野峻 日本で日本人が作った最高のテキストだというのは、このことも含めている。
須賀は当時調べていた事故統計を中心にして、海での潜水の安全とレスキューについて書いた。
 減圧表について書いた大道さんは明治大学の化学の先生で、海中開発技術協会の専務理事であり、東京都の教職員潜水倶楽部の創始者である。大道先生は残念ながら亡くなってしまったが、いま減圧表のことなどを月刊ダイバーに連載している野沢君は、大道先生の直系だ。
 その大道先生の書いた減圧表についてであるが、労働省の減圧表、米国海軍の減圧表、そして英国水中倶楽部の減圧表として三つの減圧表について、使用方法を詳しくのべてあり、巻末にはこれらの表がすべて掲載されている。
 英国水中倶楽部というのは、BSACのことで、RNPLを若干スポーツで使いやすくして、RMPL/BSAC の減圧表として使われていた。
 大道先生のRNPLの説明を少しばかり引用する。
「水深20mを超えるより深い、より長い潜水を行う作業ダイバーの場合には、米国海軍の減圧表による潜水では、かなりの高率で減圧症が発症すると言われている。RNPL減圧表は、現在のところ、減圧症の発症率の最も低い減圧表であると言われている。比較的深い水深のところから減圧停止を開始し、停止時間も長いという特徴がある。」


 ところで、これらの減圧表がどのようにして作られ、どのようにして計算されてできたものであるかは、僕たちダイバーにとってはブラックボックスである。要するに定められた時間表を正確に守っていればそれで良いわけだ。しかし、知らないことは知りたくなる。ダイビングは知的なスポーツであり、知的な労働と言われている。潜水士の資格も実技ではなくて、学科試験のみで与えられる。
 そこで、全日本潜水連盟では、大道先生に書いてもらって、「減圧表作成の理論」という61pの小冊子を発行した。当時、全日本潜水連盟では安全教育シリーズとして毎年このような小冊子を発行していた。
そのすべてを引用することなどできないので、目次の引用をする。
1.減圧症と減圧表について
①潜水と減圧症 ②潜水と体内に溶解する窒素ガスとの関係、③浮上と減圧症、④階段式浮上法、⑤減圧をしなくても良い潜水
2.減圧表作成の理論
①Haldane ホールデン らの研究
半飽和時間、階段式浮上法、減圧スケジュールの決定
②米国方式 ③英国方式
3.RNPLの減圧表
①使用上の注意事項 ②RNPLの減圧表、③反復潜水
4.米国海軍の減圧症
①用語説明 ②米国海軍標準空気減圧表、③例外的暴露潜水 ④無減圧潜水、⑤反復潜水 ⑥浮上速度の補正、⑦補足説明 ⑧演習問題 ⑨反復潜水用簡易減圧表の使用法
5.高所潜水の減圧
①高所潜水の危険性 ②高所潜水の減圧法 ③飛行前の潜水制限

61Pと、ページ数が少ないが、この時点(1987)での日本で発行された(日本語)の減圧表についてのテキストでは、最も優れたもの、というよりも、他にはなかった。
減圧表作成の理論に着いては、数式が多く、ページ数が少ないこともあり、数学に素養のない僕などには、理解できない部分が多く、大道さんに聞き直したりしたこともあったが、偏微分方程式など、解けるわけがない。数式部分を無視して、読むと、減圧表作成理論の筋道は理解できた。


 たとえば、米国海軍の表と日本の労働省の表は、Haldene(ホールデン) の理論に基づいているが、RNPLは、Hempleman (ヘンプルマン)の理論に基づいている。両者の式の説明がある。
 Hemplemanは、1) ベンズを引き起こす体内組織は、ある限られた組織であること、2)その組織に窒素ガスがある一定量以上溶解した時に減圧によってベンズ症状が起こるのではないかと考えた。拡散によって、体内組織中にとけこむ窒素ガスの量、(q)は、水深Pならびに時間(t)の平方根に比例する。―数式略―、もしQがある一定量を超えなければ、潜水は安全である。
 要するにある現象があるとき、事象の間にある相関関係を表せる、数式をみつけだす。その数式が事象の相関関係に合致していれば、一つの数字を入れればもうひとつの数字が出てくるわけで、それをグラフで表すことができ、表にすれば減圧表になる。
次にはその表の数字が実際に当てはまる、例えば減圧症になったとかならなかったとか、動物実験、ボランティアダイバーの(人体)実証試験をへて減圧表が出来上がるということだ。



     
潜水士テキストは、半飽和組織については、1986年改訂の潜水士テキストの記述がわかりやすかったのだが、次の版の潜水士テキストでは、その記述は省略されてしまった。潜水士にこんなことを教えても意味が無い、と思われたのだろうか、それとも、潜水士は義務教育修了ていど、つまり中学卒で理解できなければいけないとされているので、カットしたのであろうか。ちなみに、この版の潜水士テキストがまあまあ良かったが、その後、記述が二重になったり、語句の間違いがあったりして、編集委員会が正常に機能しているのかどうかうたがわしかった。個々の執筆者は優れていたとしても、編集が適切に行われていないと思われた。テキスト、本は半ば以上編集者が作るものである。

今度の規則の改訂で、数式が規則になったので、テキストでは、どこまで説明するのだろうか。興味深い。
 ともあれ、大道先生のこの本で、RNPLと米国海軍の表とのちがいがわかり、RNPLの使い方も理解できた。
  なお、この小冊子でも労働省の減圧表については、その成り立ちについて、米国海軍の減圧表とおなじように、ホールデンの理論に基づいて居るとだけの記述であり、数値は近似であり、ほとんどのダイバーは、数値の運用方法が違っているだけという解釈をして、米国海軍の表をつかっていたし、各指導団体も同様であった。、
 
しかし、RNPLは、わりあい深い水深から減圧停止を開始して、長い時間の減圧停止をする表であり、安全度が高いとされていることから、全日本潜水連盟はRNPLを推奨していたし、調査潜水で、40m以上に潜水することが多かったスガ・マリンメカニックでは、RNPLを使用することにした。減圧停止も3mよりもRNPLの5mのほうがやりやすいこともある。

 そして、何度も書いているのだが、脇水輝之の減圧停止中の事故が起こった。
そして、この事故での労働基準監督署の取り調べでは、潜水がRNPLで行われたことが問題にされた。3m間隔ではなくて、5mなのだ。減圧停止中の事故だから、潜水記録が調べられたのだが、規則では労働省の表を使わなければいけない。そして、今で言う、減圧表に無い余分なストップ、つまり安全停止をしていた時だったので、それも問題にされた。東京医科歯科大学の真野先生に、RNPLのほうが安全度が高いこと、安全停止は国際的に認められていることを書いてもらって、それはよろしいということになり、やがて、潜水士テキストにも安全停止について、望ましいと書き加えられることになった。
今度の改正では、リーズナブルな表であれば、それを使ってよろしいということになっているから、このような問題は発生しない。どのタイプのダイブコンピューターを使っても、その元になっているアルゴリズムが適正であれば、良いわけでもある。
 

0222 モクズガニ?

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 今日、22日のお台場潜水についてまとめておかないと忘れてしまうので、(ログのようなものですが)減圧表について、を次に回してお台場のことを書きます。


    モクズガニか?7

 水中撮影に限らないのだが、この数年、撮影する、写真を撮るという行動が劇的に変化している。最新ダイビング用語事典の水中撮影の項でもそのことを書いたのだが、本当にそうなってきている。
 撮影する目的は、記録、と自己表現(芸術的といっても良い)に分かれる。記録とは、記念写真もこの頃はやっている自分撮りとかも入るし、その日の活動の記録、調査記録としての撮影、自己表現としては、写真展に出したり、コンテストに出したりである。この二つを両極に置いて、その中間の部分で撮影という活動をしている。記録のつもりでさつえいしたものも、自己表現になるし、自己表現のつもりでの撮影も記録になる。
 機材についても、記念写真、記録用としてのカテゴリーもあるし、最高の機材を用意する場合もある。プロとアマチュアについても、その両極と中間がある。
 できれば、自分の立ち位置がどの辺にあるのか考えて、目標をある程度さだめて撮影するのが良い。
 自分の場合には、プロであったのはテレビ番組、あるいは展示映像の動画撮影であり、テレビ番組の場合には、監督、あるいはプロデューサーの意図、目標を実現するチームの一員、かなり重要ではあるが、チームプレーだと認識していた。展示映像は、やや、自己表現方に寄るが、やはり、自分だけの作品ではない。
 撮影による調査は、完全に記録に振れて居る。その中で、できれば、美しさとか、気持ちのよさを追求する。

 いまの自分の撮影の位置は、記念撮影、記録、のサイドであり、撮影した画でお金をもらうことは、あれば良いけれど、まず無い。


 その位置で、今日使った機材は、オリンパスTG2 ワイドアダプターは付けない。そして、HD UMOX でSJというエンドマークがでないので、偽物だという。そして、ライトはINONの700と、新しく買ったフィッシュアイの (FIX NEO 2500 DX)だ。今後の撮影(記録側)はストロボではなくてライトだけで良いなどと唱えながら、今頃になって新しくこのクラスを買うのは?と言われるかも知れないが、バックグラウンドには、水中ライトの水没墓地がある。死屍累々だ。そして、お金をもらう撮影をしていないので、お金も無い。
 イノンのLE700は、とても良く出来たライトで水没の心配がほぼ無く、これまでは、この700を両側に取り付けて使っていた。やはり光量が足りないので、イノンの1100w にしようかとも考えたが、(FIX NEO 2500 DX) が、説明を聞いたり、カタログをみたりしたところではほぼ理想に近いし、これまでの長年の付き合いもあって、水没を重ねたのだが、今度は大丈夫そうなので、これにした。RGB というのも同じようなランクと性能であったのだが、こちらにした。
 そして、このライトを今日、初めて水中で使う。

 カメラについては、上記の二つを並べ、HD では動画を、エントリーからエクジットまで回し続け、TG2 は、スチルのシャッターを押す。つまり、スチルで撮ったものと、動画からの静止画抜き出しを比べて見ることができる。もちろん、動画は動画としてみせることもできる。僕の立ち位置として、ほぼ、「これで良い」というシステムである。

 では、潜水だが、2月22日、お台場では、今回が一番厳しいだろうと思っていた。毎年、秋が来ると、今年の冬は乗りきれるだろうかと心配する。乗り切る、とは潜り続けることで、これで何とか春が来て、初夏になり、ドライスーツが脱げれば、夏になりウエットスーツの楽な潜水になる。
 タンクは10リットル、胸のウエイトベストは7キロ、ウエイトベルトが3キロ、レッグウエイトが1.4キロ【両足の合計】である。
 魚、生き物は何も居ないだろうと予定される。
 ダイビングの安全はトレーニングの量に比例する。毎月2回の海、館山とお台場、あとはスキンダイビングが5-6回、現在のところの最大努力量だ。
 フィンは、館山でドライフィンで失敗したので、使い慣れたダイブウエイズのスーパートライスターにした。ドライスーツーは、この2年使っているワールドダイブの5mmだ。ついでにアンダーウエアは、5000円のキルティングの作業員用のものだ。もう、これを、10年使っている。流氷でもこれで行っていた。
 ドライスーツ用のインナーも買っても良いのだが、またバランスが崩れると、余分な練習が増える。

 雨模様だったが、降らなかった。風は吹いていないので、よかった。タンクを付け、立ち上がり、歩いて行くのは苦行だが、耐えることがトレーニングだ。人の手も借りないで、一人でフィンも履けた。
 毎度のことで、水に入ると呼吸は正常になるがバランスは悪い。水深1.5mで、底から20cmのすれすれを泳ぐのだから、トレーニングにはなる。水温は11-12℃でこの季節としては温かい。前には大体8℃だった。しかし、冷たい。透視度は、水面近く、水深1mぐらいの下層は見えるが水面は濁っている、二層になっている。2mに沈むと、よくはならない。水面下1mから2mの間だけが、透視度2mぐらいだろう。その上下は透視度50cmほどになる。水平に移動してゆくと、濁りのひどい部分と、割りと澄んで見えるところのダンダラだ。


 尾島さんの奥さんとすれ違って、うなづきあう。いつもだが良い姿勢、バランスで楽に泳いでいる。現時点の僕よりはよほど上手だ。

 目標地点の杭の所まで来る。杭に沿って泳ぐ、予想通りに魚はいない。

 あ!杭の裏に隠れているカニの足が見えた。中型のイシガニか。引っ込んだので、そっと回りこむ。こんなカニ一匹でこれをこれに逃げられたらいけない。なんて、慎重に集中出来る幸せ。ストロボが光った。ライトで十分なので、ストロボ分オーバーになるといけない。あれ、右のイノンを点灯していない。シャッターを連続して切っているうちに、穴の中に引っ込んだ。

 あとで見てみると、足に游泳肢がない。イシガニではない。外来の絶滅危惧種?のチチュウカイミドリガニか?PCの上で見ると、ハサミに毛がはえている。ではモクズガニか?


     HDの静止画
TG2 の撮影とHD の動画を比べてみる。拡大した画質については、TGがもちろんいいが、記録だけなら、HD でもきれいだ。なぜか、お台場の濁りの中では、GoProよりも、HDの方がきれいなのだ。

 身体が冷えて、冷たくなってきたので、戻る。水深2mを移動すると、フロッグキックで泳げる。


   このライトに取付たカメラで、三ツ橋くんが撮った。

   鈴木くんが、小さなカニを挟んで採っている。

 午後の潜水、1340にスタート、冷たいし、疲れたし、撮る被写体も無いから、やめようかと思う。いやいや、月に2回しか無いトレーニングだ。この前の館山は、二回目をパスしている。この年令になると、トレーニングが生死を分けるだろう。生きるために、泳がなければ!
 午前の潜水で、フィンのベルトが少しゆるく感じたので、ワンピッチ縮める。
 苦行で、汀まで行き、まず右のフィンを履く、ようやくベルトを引っ張る事ができた。左のフィンを右手で引っ張ろうとして身体が少しよじれて、横転してしまった。誰も助けてくれる人は居ない。いや、こんな姿を見られなくて良かった。お台場ではブイを曳航するソロダイビングだ。鈴木と三ツ橋くんはバディで潜っているが、僕は一人だ。
 一人で立ち上がることは不可能。後ずさりで這って入り、膝上あたりで、マウスピースを咥えて、横に転がりながら、フィンを履いた。2.5mで、水平姿勢でフロッグキックの練習。少し泳いで残圧を見ると50だ。50では、杭までは行けない。少し深く、3.5mまで沈んで、コンパスで岸に戻る。計器飛行のイメージだ。

0223 自分と減圧表(7)

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 お台場のモクズガニについても、もう少し書きたいが、減圧表の話をあんまり長く休んでしまうと、前回と繋がらなくなってしまう。

 減圧表にもどって、
 それでは、RNPLで終始していたかというと、ちがう。1993年から、DCIEMの減圧表を推奨し、全日本潜水連盟では、そのスレートを作るライセンスも取得した。ライセンス料はいくらだったか忘れたが、かなり高価だった。
DCIEMスポーツダイビング減圧表の紹介を見ると、「DCIEMスポーツダイビング減圧表は、カナダ国防省防衛民間環境医学研究所(Dsfence and Civil Institute of Enviromental Medecine) のロン・ニシ(Ron Nishi)によって開発されたカナダ国防軍のための空気潜水減圧表をもとに、スポーツダイバー用に作成された減圧表であり、その安全性については専門家からも高い評価を受けている。」
DCIEMのスレート


 なぜ、DCIEMを使うようになったかというと、当時の全日本潜水連盟の理事長は石黒信夫で、石黒さんは、潜水艦乗りで、日本アクアラング社に入社して名古屋出張所長が長く、その頃から、僕の親しい友人になった。やがて、日本アクアラングから帝国酸素に移った。あった。帝国酸素・テイサンでは、混合ガスの業務を担当し、日本での混合ガス潜水の元締め的な役割(ガス供給)を果たしていて、日本高気圧環境・潜水医学会の裏方も取り仕切っていて、小田原セミナーも彼が生みの親である。自分のことを言えば、僕のほうが先任ではあるが、僕の面倒をよく見てくれて、理事長という役職が嫌いな僕に代わって、全日本潜水連盟の理事長を引き受けてくれていて、僕の60歳100m潜水の総指揮もとってくれ、彼の方向に足を向けて寝てはいけない人である。筋肉的には超強靭であったが、野菜を一切食べないという超偏食のためか、健康を害されて、僕を助けてくれることができなくなってしまっている。もしも、石黒さんが助けてくれたならば、日本水中科学協会も別の姿になっていたと思う。
 その石黒さんがDCIEMにしようという。そして、DCIEMの特色はマルチレベル潜水に対応していることであった。
 減圧表は、その潜水の最高深度で、表を引かなくてはならない。30mに潜るとして、30mに5分居て、すぐに20mに浮上して、そこで25分経過したとしても、合計の30分を30mにいた事として減圧表を使わなければならない。
 マルチレベルとは、30mに5分いたとして、20mに来ると、30mでの5分の窒素ガス蓄積量が、20mでの何分に相当するかを換算した時間数を表で見ることができる、30mに5分が20mで10分に相当すれば、20mでは30分が無減圧の限界だから、後30-10=20分は潜水できる。30mでの無減圧限界は15分だから、これまでの減圧表では、20mでは、後10分しか潜水できない。減圧停止が必要になってしまう。このことを表で見ることができる。
 注意しなければいけないのは、30mで5分、居て、20mに上がったら、再び30mに戻る事はできない。30mに戻ったとすれば、全部の時間を30mで過ごしたこととして表を引かなくてはいけない。
 DCIEMは、非常に優れた減圧表であり、これを忠実に守っていれば、マルチレベルでの時間を使うことができる。しかし、現場では、マルチレベルなどやめんどうだ。よって、マルチレベルは使わないで、普通の減圧表としてつかっていた。それでもRNPL程度の安全率で使える。そして、どうしてもマルチレベルで無減圧の時間を長くしようとするときにマルチレベルをつかう。
 一方で、1987年には、ダイブコンピューターが使われ始めていて、1987年のトラック島での深い沈没船潜水では、アラジンを使い始めている。
 ダイブコンピューターはマルチレベルを自動的に計算してくれる。しかも、深いところから浅いところに戻って、空気の消費を節約し、また深くに戻っても、大丈夫だ。
 しかし、この大丈夫が、きわどいことであり、ダイブコンピューターが普及して、減圧症が増える事にもなっている。
 マルチレベルといい、ダイブコンピューターといい、どうしたら、深く、長く、無減圧で潜れるかを追求することになっていて、減圧症にかからないようにという第一義が弱くなっているように思える。無減圧を原則にして、減圧停止を避けて、デコがでてしまったなどと、潜水事故を起こしてしまったように言うダイバーがいるが、マルチレベルをやらない。ダイブコンピューターも使わないで、一番最初のスタイルで、停止するべきはきちんと停止したほうが減圧症対策としては、良いようにも思える。そこで、無減圧範囲でもなんでも、とにかく、3mで3分停止する安全停止が義務付けられるようになった。
 だから、減圧表によってきちんと計画を立て、そのように潜水すれば安全停止は必要ない。ダイブコンピューターで、浮いたり沈んだりしているから、安全停止が必要になる。
 個人的には、浅い水深で長いラインを引く調査潜水では、浮き沈みはほとんどしないので、無減圧の範囲であれば、安全停止をせずにそのまま浮上し、減圧停止が必要になれば、キッチリする。

 今度の潜水士の規則改正では、減圧表を規則でさだめていない。しかし、潜水士テキストでは、なにか減圧表のサンプルを示さないと、減圧停止についての話ができない。そのサンプルとしては、DCIEMが使われそうである。
僕が使ってきた減圧表は4つで、潜水士の別表第二(潜水士の減圧表)そして、米国海軍の表、RNPL、,最後にDCIEMだ。それ以後は、だれでも使える表は発表されていない。PADIのホィールもいいが、これは、PADIが著作権を持っているものだから、一般にこぴーしては、使えない。潜水士テキストでも使えない。また、NAUIのテーブルは、ダイブコンピューターの潜水時間と同様に、潜水してから水面に戻るまでの合計を潜水時間としている。高気圧障害防止規則で言う、潜水時間とは、潜水を開始してから、浮上を開始するまでの時間を言い。浮上を開始してから減圧停止などをして水面見戻ってくる時間は浮上時間である。今度はダイブコンピューターを使っても良いことになるから、潜水時間の定義は、これまで通りだろうか、DCIEMでも、潜水時間は浮上を開始するまでの時間である。
テキストでは、消去法で、DCIEMになるだろうが、ダイブコンピューターについて、どういう記述をするのか楽しみにしている。

 自分と減圧表の話も、此処から先は、60歳での100m潜水、混合ガスの潜水になる。
この潜水では、いま日本のテクニカルダイビングでの第一人者といえる、田中光嘉氏の師匠であるハミルトン博士に減圧表のデザインを依頼した。この事については、月刊ダイバーの4月号あたりから書くことに予定している。


混合ガス、システム潜水については、石黒さんが書いた「ダイビング・テクノロジー:2006」がある。これが、混合ガス潜水、主として、システム潜水について、書かれた日本で唯一の本である。システム潜水とは、送気ホース、電話線などで水面と直接に連携を保ち、安全確保を水面に頼っている生命維持システムで潜水する方式である。テクニカルダイビングとは、原則的にスクーバであり、水面からの直接連携を、断ち切って、全て、水中のダイバーだけで安全を確保する潜水のことを言う。
 
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