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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0107 1986年

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 月刊ダイバーの連載、1986年の事を書こうとしている。エピソードが多すぎて、整理ができない。切れないのだ。カメラマンに編集はできない。自分のカットが切れないのだ。書きたいことは全部書いて、編集にカットしてもらおう。と決めた。



 昭和61年 1986年
 
 2月
 ☆ニュース・ステーション流氷ロケ、潮美 参加
 ☆知られざる世界 日本テレビ、知床ロケ 西沢くん、竹村さん 後藤監督
 
 3月
 ☆1日 スガ・マリンメカニック事務員、大森ともこ、JPの五十嵐くんと結婚、披露宴
 五十嵐は、女にもてすぎる。何かがあったら、何時でも戻って来い。五十嵐は親友だから良いのだが、来客はみんな普通の人、次第に固まってゆく。恐怖のスピーチ、と言われた。ともこは、しっかり録音して、何かがあったら五十嵐くんに見せると。その後、生まれた子、日本潜水会の忘年会に連れてきて、僕が抱いて孫とした写真をとった。その写真はどこかに消えている。後藤さんのお別れ会に出られないという電話が僕の携帯に入った。僕の携帯は相手が登録していないとでない。スガ・マリンメカニックの方にかけなおして、言付けを、その子が25歳になって、結婚の話が持ち上がっている。たしか女の子だった。
 (この話は原稿と関係ないが、どこかできっちりと書こう。)

   大森とも子と潮美 多分1982年


 ☆潮美、就職を諦め、テレビのレポーター一本でゆく事を決意
 ☆大阪湾、潮美は特別出演、ABC放送
 ☆風邪で咳がひどい
 ☆ニュース・ステーション西別川ロケ、猛吹雪  
  撮影後、襟裳岬に移動、襟裳の春はなにもない春、なんにもなかった。

 4月
 ☆十和田湖ロケ レギュレーター凍結 水深40mからの急浮上
 
 5月
 ☆撮影部分を分社してアアクファイブテレビとすることにした。
 ☆ニュース・ステーション積丹ロケ
☆八丈島で水中スクーターのテスト、潮美
☆ニュース・ステーション小笠原は、潮美が行かないかないことになり、中川がカメラマンとして出ることになった。初めての一本立ちだ。
☆テレビフォーラムの柿田川ロケ

 6月
 ☆ ニュース・ステーション佐渡ロケ出発 ナイトダイビングで平根崎の温泉、コブダイなど
☆水曜スペシャルの「女探検隊」メンバーのダイビング訓練のために八丈島へ、
 ☆新しく購入するHL79E の検査に池上電気にゆく。
 ☆田沼健二ガ、コモロ島からシーラカンスを持って帰ってきた。
 ☆ニュース・ステーション佐渡のオンエアー、海中温泉で寝ているコブダイ
 ☆伊豆大島、水曜スペシャル、女探検隊ロケ、みみず浜の海の蟻地獄、実はこの蟻地獄が海の中の噴火口なのだ。
 1986 7月
☆日本テレビ山中さんとテレビのロケではない遊びにアラスカにゆく。
若いカメラマンの田口茂雄が、ブルックスの滝で熊と対決する。
☆ニュース・ステーション 三宅島ロケ ジャック・モイヤーさんの話、レンテンヤッコの産卵行動
☆「日本テレビ、フォステックスのマイクテストを東亜のタワーでやる。友人石崎の娘栄子にモデルを頼む。次の年、栄子は自動車事故で死亡、18歳
 1986 8月
☆ニュース・ステーション長崎ロケ
☆ニュース・ステーション 天草ロケハン
☆三宅島オンエアー視聴率は6%しかとれなかった。惨敗、しかし内容的には評価された。
☆中川が小笠原からもどってきた。良いカメラワークで映像にキレがあった。
☆ダイブウエイズ、新型のフルフェイスマスクができる。まだ、吸気音をマイクが拾ってしまう。
☆ニュース・ステーション長崎ロケ、潮流が速くて苦労する。
☆ニュース・ステーション天草ロケ ナイトダイビングで、トサカの林を撮る。
☆船の科学館流れるプールに海水浴?に行く。

 1986 9月
☆バイカル湖ロケ 日本テレビ 米田をアシスタントにする。監督、野呂さん、陸上カメラ朝田さん。
☆鶴町くんに任せていた、沖縄でのシャークの撮影は成功、タイガーシャークとシュモクザメが餌を撮るところが撮影出来ている。
☆ニュース・ステーション瀬戸内海ロケ、僕も潮美も低調で、人間関係の行き違いが多くなる。日振島の海蝕洞、すごい洞窟で、調子を取り戻した。豊後水道、佐多岬、流れが速く、水深45m
☆山中さんの引退前、最後の知床ロケ、僕はニュース・ステーションのからみがあるので、カメラマンはできない。日本テレビ社員、勝見くんがやる。中川のパーティで、このごろ、いつも会う。今は日本テレビ子会社の社長さんだ。山中さんとは、世界を一緒に巡ったのに、最後のロケにつきあえない。

1986 10月
☆豊後水道のオンエアーがあり、出来もよく視聴率も10%で首がつながった。
☆久しぶりに茨城の人工魚礁調査、水深は50mでのスチル撮影 水深が深いと駆り出される。透明度2mで最悪。
☆ニュース・ステーション 紅葉の十和田湖に出発
 潮美は耳のトラブルで頭痛、低調で叱られてばかりいる。しかし、痛いとは一言もいわなかった。戻ってきてから医者に行く。内耳のトラブルの疑い。
☆カイ・エンタープライズ(ニュース・ステーションの仲介元請け)が手形が落とせないと連絡してきた。700万円、僕の体調が悪くなる。お金のこと、潮美の不調、田沼の神経性減圧症、中川に予定している大分での60m潜水の理由のない不安、次の知床ロケが迫っている。

1986年11月
☆ニュース・ステーション知床ロケ出発 鮭の産卵、鮭漁など
☆伊豆大島の噴火、ニュース・ステーションロケに出発 噴石落下の中で撮影。船のガラスは全部割れた。大島の人と一緒に避難。
☆潮美、ニュース・ステーションスタジオに初出演
☆ニュース・ステーション 伊豆大島水蒸気爆発の可能性のある水中噴火口撮影に出発、水曜スペシャルの蟻地獄がそれだった。大島への接近は禁止だから、不法?強行、爆発が起きれば僕は終わりだ。変色海域の水中撮影、潮美は連れて行けない。
やがて、伊東の手石島で水蒸気爆発が起こり、僕達のチームは危機一髪。

1986 12月
☆知床の秋から冬、オンエアー 12.2% まず合格。水中撮影は勝った。
☆全日本潜水連盟の理事会、お金のことでもめる。
☆日本潜水会忘年会
☆ニュース・ステーション忘年会
☆海中開発技術協会の緊急理事会 全日本潜水連盟との関係について。
☆冬の知床ロケに備えて、レギュレーターの凍結防止の工夫をダイブウエイズで打ち合わせる。低圧弁のレバー周辺にシリコングリースを塗れば解決する。毒ではないか、気分が悪くならないか人体実験。
☆スガ・マリンメカニック忘年会、いくつかのトラブル発生、中川が席を立って消え、鶴町が会社をやめるという。
☆1986年は大変な年だった。

1989年 1月
☆、ニュース・ステーション知床ロケ、中継 大雪、レギュレーターの凍結、マイナス1℃潮美のマイクの不調、

2月
☆ 与那国に出発
☆ 与那国のあと西表に向かう。西表では、ダウンカレントに引きこまれて、カメラのケーブルで助かる。ガイドをお願いした佐伯さんは、二度と僕のロケには付き合いたくないという。

ここで日記が終わる。


0108 日記

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 月刊ダイバーの連載、原稿を送った。1986年、僕が51歳、第三コーナーを回って、鞭を入れた時だ。僕は競馬に詳しいわけではない。何もわからないけれど、多分そういうことだろうと思う。
 ちょうどそのころ日記を書いていたので、記憶を克明によみがえらせることができる。グラフィティは、現在の時点から振り返って、昔を懐かしむ物語だから、時というフィルターで濾されて、嫌なこと、辛かったこと、苦しいことは消えている。日記を見ると、それが全部思い起こされる。だから、面白い。冒険ストーリーとしてもおもしろ。だから悩んでしまった。しかし、雑誌の原稿は限りがある。

数日前、1986年に起こったこと、やったことを時系列にそって、このブログにのせた。それを全部書くわけには行かない。およそ、一回が5000字だ。本当のことを言うと、1986年を二つに分けて、後半は伊豆大島の噴火と、それにまつわる潜水についてで1回にしたかった。しかし、写真がない。噴火の伊豆大島での出来事は、イメージとして、今でも鮮烈に頭のなかに残っている。自分が撮ったカットも思い起こしことができる。もちろん、このイメージも時というフィルターで濾し取られているから、本当とはちかうかもしれないが、とにかく覚えていて、イメージとして思い出すこともできる。
 しかし、そのイメージを筆にすることはできるけれど、絵として再現する事はできない。絵、写真がないから、1986年をひとまとめにするほかなかった。

昔と今と違うところは、今は、日常の生活の中でも、写真を大量に撮ることだ。ぶんかというものが発展することと、人が日常に撮る写真の量は、比例する。その写真の撮り方、使い方も、その量にしたがって変化している。その今のセンスで昔のことを書こうとする。写真を一枚も使わずに筆の力で表現してゆく文学もあるが、僕も望みとしては、筆の力だけで、表現したいと思わないでもないが、この連載のコンセプトが写真を使うことになっている約束だ。

これから写真事務所に行って写真をさがす。もはや、何度も何度も探した果てだから、もう見つかりはしないだろうが、やってみる。

0109  こころと感動の旅

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月刊ダイバーの原稿、第一稿、潮美(娘の須賀潮美で彼女が編集をしている)に送ったが、やはり、違うと全面的書き直しになった。13日まで待てるからじっくり書いてください。ということ。
 書いている1986年は日記が残っていて、それが面白くて読んでしまったことから、雑誌の原稿の構成、コンセプトが見えなくなってしまい。とりあえず時系列的につないで書いてみて、字数を調整したものを送った。ボールを投げたという感じで、投げたボールが戻ってきた。
 「わかっていると思いますが断片に囚われて、お話になっていない。」
 僕は、自分自身の心の葛藤、人間関係などすべて省いて、水中で起こったできごと、潜水技術に関することにスポットを当てていた。月刊ダイバーはダイビングの雑誌だから、と、それでは話にならない。
 僕達のニュースステーションの番組タイトルは、立松和平の「こころと感動の旅」心の感動は立松さんの世界、水中はぼくの世界と思わないではなかった。
 しかし、テレビの番組は、こころと感動を求めるものだったのだ。

 立松さんはこの番組の、始まってからだいたい一年1986年のことを、「雲をともとしてーこころと感動の旅」という本にまとめた。そのころは、当事者として、そういう視点もあるか、立松さんの視点ではこうなのだ、とおもうばかりだった。が、今、これを書くために引き出して見ると、涙が流れる。感動してしまうのだ。やはり、立松さんの筆の力はすごい。
 しかし、自分の文章を書くためには、この本の影響を最小限度に留めなくてはならないとも思った。
 もう一度の書き直しをしている。部分的に、数行だけれど、この本の文章も変形して使う。

 0110 ダイビングとはなんだ。

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 「ダイビングってなんだ」 ダイビングは冒険スポーツだ、と書いた。では、冒険とは?と次に書いた。では、この表現でのスポーツとは?あとで説明するとペンディングになっている。こういうことは、一気に書いてしまわないと途切れてしまうのだが、息が続かない。その後、習志野のプールで泳いだことを書いたり、月刊ダイバーの原稿について書いたりして浮上してしまった。

 スポーツとは?簡単なようで、ダイビングをスポーツと定義する場合のスポーツは、やっかいだ。前に編纂した最新ダイビング用語事典でもずいぶん迷った。「ダイビングはスポーツではない。レクリエーションだ」という議論をしたことがあったからだ。スポーツだと定義すると、政府管轄が文部省になる。レクリエーションとなると、経産省になる。いまとなっては、そんな縄張り争いはナンセンスで片付けられるが、海中開発技術協会が今のレジャー・スポーツダイビング産業協会に衣替えするときに問題になった。ちなみに文科省にはスポーツダイビングという言葉がタイトルになっている法人はない。そして、西が丘にある国立のスポーツ研究所には、スクーバはもとより、スキンダイビングももちろんフリーダイビングについても研究するセクションがない。他のすべてのスポーツについては研究されている。また、山岳の事故が多いということで、国立登山研修所があるが、ダイビングの事故が多いからといって、国の研修、研究機関はない。その理由は、ダイビング業界が、スポーツということで国に研究されるのは迷惑だと拒否したからで、まあ、それも一理あるのだが、ここのところ、こだわっている大学の部活動としてのダイビングなどを考えると、各学校での活動に関連する部分だけでも、文科省に研修センターなどがあり、海洋高校の潜水プールなみの、施設が西が丘、もしくは品川の海洋大学あたりにあったら、事情が全く変わったのにと残念だ。これも、僕の息が続かなかった。
 結果として、文科省に関連する公益法人としては、わが社会スポーツセンターだけがあるが、その力は室内スポーツ選手権大会がようやくできる程度である。でもこれが、目下のところ、最後の砦だ。高齢化社会の到来にアダプトすることをめざして、生涯スポーツとして、自分でも泳いだりしている。

  茨城県海洋高校の潜水プール

 
 国はスポーツとして援助はしてくれないが、最新ダイビング用語事典では、スポーツダイビングと項目名をつけて、レジャー、あるいはレクリエーションの上位の概念としてスポーツを取り入れている。
 
 ところで、港湾土木、漁業、あるいは研究的調査潜水もスポーツという概念からは完全に外れている。と思っていいだろう。しかし、僕は、工事の潜水も、調査もスポーツ感覚でやってきた。スポーツ同様の楽しさがある。そのうえに賞品としてお金をもらえて、生活ができる。趣味を仕事にしてしまう、という言葉はあまり好きではないのだが、明確にそれに該当する。
 沖縄とか八重山のウミンチューは、仕事だから、漁業だから、非漁民には禁止されているスピアフィッシングを、免許制ではあるが、お金を稼ぐ途として、楽しめる。最近ちょっと世の注目を浴び出した海女さんも、最高のスポーツだ。スポーツなんて楽な気持ちで、仕事の潜水はできるものではない、という人もいるだろうが、体がきついことでは、トライアスロンなんてものもある。あれに比べれば、たいていの労働はらくなものだ。
サルベージ作業もオイルビジネスのシステム潜水も、そしてもちろん宝探しも最高のスポーツだ。スポーツではない、スポーツ感覚でやってはいいけないダイビングを探すのは難しい。唯一、汚水の中に潜るのは嫌だが、これもスポーツと思えば我慢できる。ぼくはそうやってやってきた。
 そして、水の中に人間が潜る活動は、すべて冒険だから、すべてのダイビングは冒険スポーツである。と言い切ると、反発されるかもしれない。自分は仕事としてやっているので、スポーツというような遊びではないと。実は、その部分、スポーツと仕事の分岐点、アマチュアとプロの分岐点でもあり、身体運動と労働の分岐でもあるのだが、そこまで踏み込むと、ロジェ・カイヨワ(遊びと人間)の論理に行ってしまう。実は、このカイオワの世界、僕は正確にはよくわからない。わかる人は少ないでしょうが、最新ダイビング用語事典では、フロー経験という項目で、チクセントミハイ(心理学者、「楽しむということ」「スポーツを楽しむ、フロー理論からのアプローチ」、などの著書がある)について、少し触れてる。思えば、カイヨワについて、ちょっと触れておけばよかった。
脱線しないで、だから、すべてのダイビングは、冒険である。これは人間が生息環境である陸上から水中へ生身の体で踏み込むわけだから、言い切っても良いと思う。そして、スポーツ感覚で労働をするひとにとって、潜水という労働は冒険スポーツである。
個人的に言えば、僕はスポーツ感覚で仕事をしてきたし、そのことについては、全く後悔していない。
ダイビングは冒険スポーツであり、ダイビングによる労働はスポーツ感覚(あやふやな言葉だけど)で行うことができる。
なお、冒険スポーツという言葉は成立(使えるが)冒険レジャー、冒険レクリエーションという言葉は使われていない。ディズニーランド的な疑似体験でしか、レジャーとしての冒険は存在しないように思う。この部分は次の展開、「安全性の追求」部分に大きくかかわってくる。

なおこのブログは僕の思考過程の覚書のようなものであり、論理展開として確立しているものではない。いわば下書きであり、印刷発表するようなことがあれば、全く書きなおさなければならないかもしれない。
月刊ダイバーの連載も、全面的書き直しになって、今取り組んでいるところ。

0111 雑感

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 言うことを聞かないと、金をやらない、と言われるのが、一番プライドが傷つく、そして、金の恨みはなかなか消えない。沖縄は琉球であり、歴史的に、琉球と中国は、琉球と日本との関係とイコールだった。それに基地の問題をからめると、そろそろ、中国がなにか動きを始めるか、と心配する。どうなる。沖縄は独立しないだろうが、その底流が市民権を持つようになる。中国がもうすこしマシな国だったら、具体化するだろう。

 このところ読んでいた「米中開戦:トム・クランシー」、全くありえない想定、全くのフィクションだから面白く読める。筋立ての中に、日本、沖縄は影も形もでてこない。今度、米露開戦も1,2が出て、これも読んだ。3.4 が出たらこれも買うにちがいない。トム・クランシーは、亡くなり、これが遺作だ。共著者がいるから、おそらくほとんどを共著者が書いたのだろう。米中のほうがおもしろかった。


「新・戦争論、佐藤優 池上彰」、これは、トム・クランシーと同程度に面白い。同じような新書が、佐藤優と手島龍一で出ているので、これも読もう。佐藤優という人、本当に商売が上手だ。この人が、いろいろな形で、沖縄独立について書いている。お母さんが久米島のひとだとか。
 
 小説級におもしろい佐藤優の本が、本屋で何種類も平積みで並んでいる。安倍政権はもう一度、獄中記を書かせる?ことはないだろう。
 一方で本屋では自衛隊紹介のムック本が何種類も並んでいる。制服姿、そして女子自衛官がやたらとかっこいい。
 そして、猫の雑誌、猫の本が氾濫している。犬の方はちょっとしか見えない。「猫の吸い方」というぶっ飛んだ本を見た。猫は吸うものか?
 ところで、次の米国大統領はヒラリーになるだろうか?
 

 さて、日曜だけれど、明日の館山潜水の機材の準備に事務所に行く。ロープとプレートは昨日半日がかりで済ませた。潜水機材とカメラの準備、グラフィティの写真探し、もう一度、月刊ダイバーの原稿を見なおして、今夜メールで出す。22日の運営委員会の提案書の準備の一部、ここまではできないだろう。
 

0114

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12日の人工魚礁調査のことを書いているのだが、とてものことではまとまらない。待って載せるのではブログが開いてしまう。

 もういくつか寝ると、戸籍上の誕生日で満80歳になる。もうここまで生きてくると、生き方のスタイルも、ダイビングのスタイルも変えることは難しい。ダイビングについて言えば、スタイルを変えることは危ないかもしれない。この何年か、自分のスタイルを今のスタイルにあわせようと努力を重ねた。当然、下手くそだし、ちょっと気を許すと、トレーニングの成果が消えてしまう。もうこのまま、最後まで行こう。細かい手直しはするし、新しいスタイルのトレーニングも死ぬまで続けるけれど、基本的には、生き方を変えられないように、ダイビングも変えられない。これで60年水中で生きてきた。

 重いタンクを背負い、ドライスーツで体を固めて、12キロのウエイトを背負って、エントリーとエキジットがつらい。本来、バディは、水面で互いを確認しあって、それから、フットファーストで潜降する。穏やかな南の海で、浮いていることが極楽だったら、それでいい。今、僕のフィールドにしている、房総半島の海は、水面は極楽ではない。波が高ければ、流れが早ければ地獄のようなものだ。そこをできるだけ素早く通り抜けてしまおう。津波てんでんこのように、それぞれが切り抜けた、底で待ち合わせることにした。と言って、30とか40mではそんなことはできない。苦しくても潜降索にたどり着いて伝わってゆく。

話をダイビングから生き方にもどして、生き方もまっすぐに潜降、自分の生きられるようにしか生きられない。自分の生きる道が尽きれば、いろいろ言っても仕方がない。道の行き止まりを確認して、終わればいい。
 

また、話をダイビングにもどして、12日、館山の波佐間で潜った時、一緒に潜ってくれた福田克之君が、おそらく、現時点で最高の性能であろう、キャノン、イオス7Dで僕をフォローしてくれた。動画から好きな部分を静止画で取り出せば、4Kの映像だから、気持ちのいいスチルになる。まっしぐらに潜ってゆく姿に見えて、気持ちがいい。水の色も本当の色とは思えない。

本当の色は、こちら、GoPro2の色だ。


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 昨日のブログで福田くんが使っていたかめらをキャノンイオス7Dだと書いたら、1DXだと教えられた。鈴木あやのと福田克之がイルカを撮った「超・動物撮影術:角川のムック」これは素晴らしい本で、各方面の動物を撮影している新鋭カメラマンの作品と、その撮影過程を機材の紹介も含めて書いている。福田くんにもらって、目を通したが、カメラ機材の種類は無数であり、最新型の高級機にはこの所、縁がない。50万とか100万とかいうカメラ、昔のカメラマン時代、テレビカメラの500万、800万という機材を使っていた時代だったら、100万のカメラも、必要ならば安いと思って買っただろうが、今は必要のないし、買える見通しもない。それで、区別ができなくなっている。この「動物撮影術」の裏表紙が7Dの広告になっている。イルカの記事では、きっちりと、1DXと書いてあるのに、裏表紙の7Dが最高級機だとおもってしまった。

カメラが変わると、水中の景観も一変してしまう。当然だけど。

     鈴木あやの のイルカの撮り方

 デジタル1眼レフカメラのイメージセンサー(撮像素子)は35mmフルサイズ、APS-C サイズ、フォーサーズの三種類があり、フルサイズが一番大きくて、当然画質も動画では映画、CMが撮れるレベル、少し小さいAPS-Cサイズの高級機が7D、5Dというカメラがフルサイズで、その上がフルサイズの高級機で1Dになる。これは、キャノンのラインナップで、同じようなことがニコンでも、オリンパスでも富士でもすべてのメーカーにある。それらが次々と新しいカメラを出すのだから、そして、この数年がフルサイズが普及してきた時期。ここでハッ!と気づいた。日本水中科学協会が編集した最新ダイビング用語辞典では水中撮影にも大きなページを割いているが、ウエアラブルカメラの時代が来るということ、動画と静止画の区別が消えるということをしっかり書いているのに、イメージセンサーの説明が欠落している。
 今度、潜水士の規則も改訂になったそのことも含めて最新ダイビング用語辞典も改訂版を出さなければ、しかし、有限な僕の生命、頭の老化、がある。間に合うだろうか?
 リブリーザーもテクニカルダイビングもダイナミックに変化している。別の、「水中活動の最先端を行く」ような企画にすれば間に合うかもしれない。

0116 12日調査の報告

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  ようやく12日調査の報告、下書きである。

 1月12日 千葉県館山市の波佐間海中公園(旧友荒川さんがオーナーであるダイビングサービス水域の人工魚礁をリサーチするこれが4回目のツアー、水中科学協会の水中映像研究会が行っている。

 北北西の季節風が強く、前夜、エンジントラブルで館山湾に仮泊していた5万トンのコンテナー船が、流されて座礁した。
 実施が危ぶまれ、現地荒川さんも、須賀も迷ったが、なんとかできそうと実施に踏み切った。天候は快晴。
 
 参加メンバー:山本徹、小俣、福田克之、清水まみ、そして須賀


 今回の計画は、80mの鉛ロープに10m間隔で7台のインターバル(ウエアラブルカメラ) 撮影ポイントは、タイヤ魚礁から2m角型のコンクリートブロックを積み重ねた、ドリーム魚礁(レクリエーションの人気ポイント)の間40mにラインを設置する。
 準備したカメラは、G0Pro2・2台、AEE・2台、G0Pro3・1台、ソニー・1台、コンツアー・1台、の計7台である。各カメラの性能チェックにもなる。他に、山本徹会長が棒カメラG0Pro3、マスクマウントG0Pro4,福田が、高性能のイオス1Dを手持ちで撮影した。須賀は1回めの潜水ではSJ4000を手持ちでさつえいし、設置したライン・カメラの状況撮影を行った。

 潜水は可能であったが、ボートを動かしながら、80mのラインを伸ばしながら設置する事は難しかったので、タイヤ魚礁の上で2台をおろし、少し船を移動させて、ドリームの上に2台、その間に3台のようにラインを引いた。この設置については、荒川社長、ガイドの荻原くんが中心になって働き、山本、小俣、清水が手伝う形になった。
 須賀、福田は船上でカメラのセットと繰り出しを担当し、その後で二人バディで潜水して須賀はラインの状況の撮影を行った。

 前回は、各自の動きについての打ち合わせが不十分でチームとして満足できる潜水ではなかった。今回は、山本、小俣、清水の組と、福田、須賀のバディを明確に区別して、須賀、福田のバディは、須賀をキーにして、福田が付き添う形とした。

    福田くんはイオス1Dを持って撮影しながらぼくをフォローする

 タイヤ魚礁からロープを引いて、ドリーム魚礁で終えたのだから、潜水はドリームから入る。
 ウエアラブルカメラをマスクマウントで撮影する予定だったが、マスクマウントのマスクのベルトが切れてしまっていた。このところ、その日一回目の潜水が不安定なので、カメラを持たずに、両手をフリーにして潜降したい。BC.のポケットにSJを入れておき、とりだして、ラインの状況を撮影調査する。

予想していたとおりに、ドリームに2台のカメラ(G0Pro3とソニー)が並んでしまっていて、ロープもコイルになってしまっている。2つのカメラを少し引き離して一台【ソニー】は砂の上に、G0Pro3は、魚礁の上におく。

ロープをたどって行けば、タイヤ魚礁に着く。
 タイヤとドリーム 2つの魚礁は想像していたよりも近かった。これまで、タイヤ魚礁にも潜ったことがあるし、ドリームには、何回も潜っているが、2つを見通して潜ったことがない。もう一つ 大型のコンクリートブロックであるFP魚礁も近くにある。この3つをひとまとめにした、魚礁群とかんがえることができる。レクリエーショナルダイビングのゲストも、この三つのうちの二つを見ているようだ。

 ドリームとタイヤを往復して、ドリームから浮上した。
 午前の潜水は
  潜水開始 1050 潜水時間 30分 浮上 1120 水温 15.8度 
  最大水深 23.6m  平均水深 16.8m

午後の潜水は、まず7台の設置カメラを回収した。問題なく全数が回収された。これも上からラインを引き上げながら荒川さんが下で作業をしてくれた。自分たちだけでもできるようにしなければいけないのだが。

全員が午前と同じ魚礁に潜ろうかともおもっていたのだが、ツアー的には、2回目のダイビングは、波佐間の売り物であり、魚も多い高根に潜水した。考えようによっては、自然礁との対比を見てゆくという事もできる。
僕はSEA&SEAのコンデジであるG1を持って行く。もう、いつ壊してもいい惜しげの無いカメラで、これまで調査の記録にはこれを使ってきた。そろそろフイルム時代のストックが切れてくるので、良いカメラで撮って補充したいのだが、あまり期待できるカメラではない。

2回目の潜水になると、体が慣れてきて、水中での動きは良くなる。しかし、タンクを背負って立ち上がりエントリーするのは辛い。四つん這いの体勢から、体を横転させて、飛び込む。潜降ロープまで泳いでゆくのがフィジカルロスなので、直ちに真下に潜り込んでゆく。頭を下にしたら、フィンで船底を蹴るようになったので、蹴って直線的に降りた。ウエイトは7キロのベスト、4キロのベルト、足に1.4だから、水深10mを超えると重くなる。

プライマリーコース的には、トリム姿勢で終始しなければいけないのだが、ドライスーツでは無理だ。冬は、50年以上やってきた、体に馴染んだスタイルで潜ることにしている。荒川さんも、僕と同じスタイルだ。暖かくなってウエットスーツになるまで、形を気にせずに楽なスタイルでゆくことにする。もちろん、できるだけ水平姿勢で中性浮力で浮いて移動する。ただ、カメラを構えて静止すると、フィンピボットの姿勢になってしまう。

魚が集まる岩の隙間に行く。イシダイかハタがいればいいのだが、ハタも小さいオオモンハタだが撮影する。そのへんで、SEA&SEAの電池が切れてしまった。フルチャージではなかったのか?仕方がないので、先には行かず、のんびり戻ってきて、荒川さんがかわいがっているコブダイの頼子を見て、、浮上した。


潜水開始 1405 潜水時間 30分 浮上 1440 水温 16.6度 
  最大水深 17,8m  平均水深 13.8m

  戻ってのデーター整理
  ☆ソニーは水に入れるときに失敗で、シャッターが水中で切れていなかった。

 それぞれ、船上でカメラを作動させ、垂直安定翼に取り付けて、海に入れるのだが、水面から沈んで、また、あとから潜って、きちんとするまでには時間がかかるので、それぞれのカメラが使える、安定した絵を映しだすまでの時間差がある。

☆ G0Proシルバーはドリームに載せた。日時合わせが狂っていたので、0942-1248のおよそ3時間撮影している。
☆コンツアーはドリームとタイヤの中間砂地で コブダイが一度だけ10時37分に写っていた。日付写しこみになってはいなかった。画質はきれいで、使い物になりそうだ。

☆AEE-1 1146  1107-1352 タイヤ魚礁の上に置かれていた。


☆AEE2まだ安定していない1040からイサキの群れが写る。

1056に安定 遠くにイサキの群れが、見えるようだが、ネンブツダイの群れかもしれない。1347に引き上げ。
 このAEE2台はデーターも読みやすく画像もクリアーなので、この撮影にはAEE がベストだろう。

☆G0Pro2-A 1049に安定 タイヤ礁の上 AEE が見える AEEではGoProに写っていたネンブツダイの群れもイサキの群れも見えない。1250に終了


☆G0Pro2B  2つの魚礁の中間。
1039に安定 1331まで、2136枚で何もめぼしい魚は写っていない。

 今回の撮影で、課題と解決方法を考えた。
 次回は、船上では、カメラを取り付けないで、鉛入りの沈みラインの両端に標識ブイをつけて、まず。張ってしまう。つぎにウエイト付きの安定翼付きのかめらを持ってダイバーが潜っていき、ラインの目盛を見て所定の部分につけてゆく。0.5キロぐらいの沈みに調整してあるので、一人が楽に2台ずつ持って行ける。

 ライン撮影とは別に、目視の観察もしておきたい。出現する魚の種類とおおよその数をカウントする。これは、各自がマスクマウントのカメラを着けて、撮影しながら作業をすればできる。

 カメラも次回は日付が写し込めないG0Proは、マスクマウントに回して、日付が写し込める、AEEとSJをインターバルに使うことにしたい。SJ4000は、撮影時間が2時間ぎりぎりだが、二つの潜水の間を撮影するのだから、設置2時間でがまんすることにする。
水中で設置するときにシャッターをおすようにしたい。

0117 ダイビングとは

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 「ダイビングとはなんだ? これで5回目かな?」

 フェイスブックとブログの使い方、使い分けが自分なりに少しわかってきた。ツイッターは、ブログのリストのようなもので、ツイッターからブログを見てくれる人もかなりあるだろうと願っている。ときどき、ニュースを見たいときにツイッターか見る。
 フェイスブックは、自分のタイムラインにこだわっていて、自分の思うように並んでいないと気分が悪い。基調としては、水中の青がなるべく並んで見えるようにと心がけている。フェイスブックでは、その人の人柄がでてしまうので、どうかな?と思うこともあるが、自分を確立させておく、修行になると思い込んで続けて行く。そして、時にハッとするような、ヒントをフェイスブックから受け取ることがある。視線、視点の差を見ることができることで、ほんのちょっとしたことから、思い悩んでいることが解決する。メッセージとか通信手段としても、一番使いやすい。通信手段としてのフェイスブックをより便利なものにするべく、タブレットを買わなくては行けないと、思いつつ、できずに時を過ごしている。本当に買わなければならないと思うので、何にするか悩んでいる。

 僕のブログの欠陥は、ズルズル書いているうちに、別のテーマに移ってしまって、区切りがつかないところだと思っているが、まとめるというよりは、生活の中で書いているのだから、一冊の本でもないし、人生の下書きのようなものとして、考えレバ、これで良くて、読んでくださる人も、途中でなんだかわからなくなったら、その先を読んだ方が想像してくれるのだろうと、想像して、これはこれで、良いことにしている。

       福田克之くんからもらった写真、速そうに見える。

 ダイビングとはなんだ?という巨大(ぼくにとって)なテーマを何回か書いて、流れが細くなってしまっているけれど、

なんだ?を考えるときに、自分の立ち位置、視点を確認しておくことがまず必要だ。自分が何で、何をしているのだろう。そして、付き合う相手の立ち位置、視点がわからないと、喧嘩になってしまう。もちろん争いはしたくないけれど、心の中で葛藤がある。
 そして、例えば、ダイビングってなんだ、というようなことを考える時にも自分の立ち位置と、そして、議論をするならば、相手の立ち位置を知る、確認することがとても大事だ。そして、多くの場合、立ち位置が違っていて、そのことがわかってしまうと、議論にならなくなってしまう。そうだよね、君の立ち場だったら、そうだろうね。ということになる。だから、この頃では議論にならなくなって、互いに自己主張をして、そこそこに、理解してしまう。
 もちろん、すべての出来事、すべての事象はケースバイケースになってしまうのだけれど、ダイビングとはなんだ。というようなことを考えた時には、立ち位置、立場がわかると、それで理解ができてしまう。

 そこで、まず、自分とはなんなのだ。何者なのだ、を考える。何者と言っても、人は幾つもの顔をもっているが、幾つもの顔の中で表紙に相当するものが何か?を考える。そこで、この僕、自分は何者だと考えると、幸いなことにすぐに答えが出てくる。僕はダイバーだ。付き合っている友達はダイバーが多いけれど、本質はダイバーであって、世の中での姿は。社長さんであったり、商売人であったり、場合においては犯罪者であったり、エンジニアであったり、研究者であったりする。僕の場合は裏も表もなく、ダイバーであって、他の何者でもない。だから、生きていればダイビングのことを中心に据えて、考えたり行動したりする。言葉を変えるとプロフェッショナルである。先の、社長さんであったり、エンジニアであったりするダイバーは、プロフェッショナルではないのだろうか? それでも、もちろんダイバーに上下の区別はないから、プロでなくてもダイバーであることには間違いない。

 ダイビング雑誌を見たら、どこから先がプロなのかという線引きの図があった。ダイブマスターから先がプロだと書いてあった。昔だったら何か違うと思ったりするだろうが、今は、それで良い。立ち位置が違うのだ。遊びという立ち位置で、プロだと思えて、それが幸せならば、それはそれで、やっぱりプロといっても良いと思う。
 ここまでは一般論として通用すると思うが、此処から先は、自分という立場、立ち位置での論の展開だから、立ち位置で、全くものの見え方がちがってくることもある。見え方が違うのであって、正しいか、間違っているかではない。その人の視点からはそう見えるのだから、仕方がない。
 僕の立ち位置から見たダイバーとは、冒険者なのだ。海に、水に潜るという行為が冒険なのだから、冒険者なのだ。
 続く。

0119 ダイビングとは  6

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  ダイビングとは?冒険と危険

考えなくてはいけないことがあるとします。考えるのは時間がかかります。半日考えても、考えがつかない、まとまらないということもあります。考えているときは、他の本をよんでいたり、できればその考えと関連のある本がいいのですが、そうとも限らないのです。原稿、ブログを書いているというのも、僕の場合、有効です。だからブログも支離滅裂になることがありますし、下書きにもならないことも多々あります。
 ダイビングとは、と考えて、実はこれはどうでもいいことで、ほかのこと、例えばJAUSの企画などをメインのチャンネルで考えていて、その間隙にダイビングとはとは、とかんがえたりします。

 ダイビングとは、冒険スポーツだと定義しました。しかし、ダイビングをする人の多くは、そんな大上段に振りかぶることなく、海が好きだから、水中の写真や雑誌、テレビ番組などを眺めていて、やってみたくなった人が大多数だと思うのです。
 自分のことを言えば、幼年時代に海の近くに避寒し海を眺め、やがて、水族館がすきになり、そして、水泳、素潜り、スキンダイビング、潜水という経過で、ダイビングとはなにかなんて考えたのは、70歳を過ぎて、月刊ダイバーの連載、そしてその単行本化からでした。


 何も考えないで、ただダイビングがしたくて、ダイビングをした人の80%は、長くて3年、平均して2年ほどで、ダイビングからはなれます。ただ、その間の記憶があり、自分はダイバーになったと思いますから、ときどきダイビングがしたくなったりして、海外の、もちろん南の海に遊びに、潜りに行ったりします。そして、自分はレジャーダイバーだと位置づけたりするのです。ダイビング業界的には、この人達が一番大事です。マリンダイビングフェアなどは、この人、ダイバーを対象にしているものと思われ、毎年多数の人を集めます。
 安全対策などは、このレジャーダイバーを対象として行うことがとても大事で、ダイビング専門誌の安全特集などはこの辺りにターゲットを絞っています。


 そこで、「ダイビングは冒険スポーツだ」というテーマにもどりましょう。
 ここでしつこいようですが、冒険とは?何?という定義を繰り返します。
 冒険とは危険なことだ、と思っている人が多い。もしかしたら、国民の大多数がそうおもっているかもしれません。もちろん、ダイビング業界のひとでも、そうでしょう。僕もそう思っていました。だから冒険はいけない。探検ならば良い。このことはニッポン潜水グラフィティを月刊ダイバーに連載しているときも、冒険=危険であり、27歳の90m潜水は探検を目指して、危険になってしまった。などと反省したりしています。しかし、どうもおかしいな。とグラフィティを単行本化するときに考えました。冒険についての本を読み漁り、「冒険とは命がけでなければいけない」などという植村さんの言葉にぶつかったりしました。考えた末、危険と冒険とはまったくちがうカテゴリーのことだと思いいたりました。先に結論を言ってしまうと、この結論もしつこいくらい書いていますが、危険とは、人間の行動に待ち受けている障害であって、ある時、乗り越えられない危険にぶつかったり、あるいは不運で人の命を奪うものです。冒険とは、その危険があっても、目的を達成するために一歩を踏み出すことです。だから、危険を克服するために、計画し、準備して、進みます。大きな危険が前にあれば、危険な冒険ということで、たくさんの準備と幸運が必要になります。
 昔から、危険の度合いをいうために、自動車の運転とダイビングを比べたりしました。自動車の運転は、自分が正しくても、不運にもぶつけられたりすると命を失う。ダイビングの方は、自分が間違っていなければ、死ぬような危険はないだからダイビングのほうが安全である。などと本に書いたりしていました。実は、ここに答えがあったのです。自動車の運転は危険ですが、ダイビングは冒険なのです。

 最近ですが、親しい有人がトレーラーに追突されて、救急車に乗りました。幸い、風船とシートベルトのお陰で、大した事にはならなかったらしいのですが、検査が必要ということでした。これは、冒険ではなくて危険です。
 ただ、冒険と危険は親戚でもあり、実際の行動では、その差を見分けることが、とても大事でもあります。

 これらは、現時点では僕の考え方であり、ネットで冒険とは?と検索しても、この答えは出ていません。せいぜい、精をだして、ブログに書いていると上位に登ってくるかも知れません。

 また、2-3年でダイビングから離れるレジャーダイバーに話をもどします。彼らのダイビングは冒険ではないでしょうか?
 ダイバーならば、だれでも答えられるはずです。彼らこそ冒険者であり、かつ危険な冒険をしているのだと。
 前に体験ダイビングが、その人の生涯最大の冒険であるかもしれないと。
 そして、よく言いますC-カードを取得してから10本経過するところまでが事故率がたかいと。すなわち、その期間が危険の大きい冒険だということです。
 インストラクターもガイドダイバーももこの体験ダイビングと危ない冒険時代のダイバーのお世話をどうするかが、大事、すなわち、インストラクター、ガイドダイバーに取っての危険な冒険なのでしょう。
 その冒険についてのマニュアルは、本当にケースバイケースですが、それをしっかりまとめることはとても大事だと思います。よく言われるのですが10秒ルールとか、30秒ルールとかいう類のことです。
 そのことについては、僕はプロフェッショナルとは言いがたいのですが、ダイビングノ事故は、運用の失敗にあると、いつも言って(書いて)います。レジャーダイバーの安全確保マニュアル、とか、探してみます。もしかしたら、雑誌を探ったらあるかもしれません。
 僕として言えることは、レジャーダイバー出会っても自分のダイビングが冒険であることを自覚してもらいたいと思うのです。自分の危険についてのイメージをもつこと、そしてそこからの脱出についてのイメージを持つことが必要です。
 そのイメージとは?またどこかで書きます。

0120海豚倶楽部 習志野国際水泳場

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 朝、昨夜から少しばかり頭痛で、あまり調子が良くない。
 浦安海豚倶楽部の練習が、今日は、習志野の千葉国際水泳場である。0940集合なので、0840に出ても間に合うのだが、0800に出る。当然、30分前に到着した。

 今日は大寒だから、寒いはず。最近はウエットスーツを着てスキンダイビングの練習をする。昨年までは、ウエットスーツを着ないで、我慢していた。ところが、年末の全日本水中スポーツ室内選手権大会では、ウエットスーツを着なければ、レースに出られない。ウエットスーツを着たら、身体が動かずに10% ほど速度がダウンした。慣れておかなくては行けないので、常にウエットスーツを着ることにした。お陰で寒くなく、2時間、泳ぎ続けられる。
 徹底的に泳いで、風邪、頭痛を吹き飛ばさなければいけない。
 
 まず最初は、プールを廻って泳ぐ、9時37分まで、そしてダッシュ25m往復
 タバタのカイルを履いて泳ぐ。やはり往復だと復の後半がスピードダウンする。ほとんどのメンバーよりも遅い。それでも、往復ダッシュして息は切れなかった。


 少しばかり、スキンダイビングの息慣らしをやって、25mが楽に行けるようになったころ、横一列に並んで、25mを潜る。プール底、両側にGoPro2を置いている。
 一線に並んで潜りたいのだが、毎度バラバラになる。固まって泳いでぶつかるのがいやなのだ。このあたりは、高齢者メンバーだから、仕方がない。

 
 みんなは、1030頃にプールから上がってジャグジーに行ってしまう。
 その辺りから、25mの潜水を繰り返す。広いプールに一人だけというイメージが撮りたいのだが、何人か男性が残っているのでなかなか独り占めは難しい。


 今日はスノーケルなしで潜って見た。浮いたら背浮きになって息を整える。

 潜りながら思う。80歳から先、他の人が何を言おうとも、ただストイックに黙々とダイビングのことだけをやって行き、倒れるところまでやり、倒れたところで終わりにしたい。それならば、まだ10年やれるかもしれない。最後は本当に倒れたい。それを事故と呼ぶのだろうか。できるかどうかは別として、そんなことを考えながら息をこらえて潜る。
 周囲を見回せば四面楚歌のような状況に思える日が続いている。気にせずに潜り抜けるほか無い。

 みんなで昼飯を食べて、歓談。僕の80歳80mをどのようにやるのか聞いてくる。まだ確定していないけれど、こうやるのだと勝手なことを話す。ポイントはお金の集め方、スポンサーの集め方だ。
 25日が80歳の誕生日なので、お祝いしてくれた。茶封筒に「お祝い」と書いて、1万円札1枚。「ハッピーバースディ」

  誕生日の25日は日曜で、1月の最終日曜日、お台場の潜水だ。これは何かお菓子をくれるそうだ。みんなで食べれば良い。

0121

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二ヶ月毎の、河合先生の診療。900-930の予約で、ほぼ時間とおり。「あけまして、おめでとうございます。」先に先生からご挨拶されてしまった。血圧の測定、今は正常、「今月潜りに行きましたか?」「海にはレギュラーで2回、プールのトレーニングが7回」
 ドライスーツで12キロのウエイトとタンクを背負ってのエントリー、エキジットがフィジカルにつらい。「飛び込んで、3分ぐらいの間は、周囲を見る余裕がなく、バディを振り返る事もできないので、フォローしてもらうように頼んでいます。」「80mはいつですか?」「9月か10月に予定していますが、これからお金の算段をしなければならないのです。」「病院に相談しておきましょう。」「いや、病院は大丈夫です。お金が心配なのです。」

薬を待つ間、ちょっとキーボードを叩く。山のように薬をもらう。薬に頼ってはいけないとか、薬は良くないとかいう人もいるが、とりあえず、これで元気に潜水を続けていて、もう、80歳だ。最後までこの線でゆく。

御茶ノ水の駅前、必ず丸善に行く。
前には、門前仲町にもヒタチヤという大きな文具店があった。100円ショップに負けて、たいていの文具屋は店をたたんでしまった。銀座の伊東屋か、丸善ぐらいしか、僕の縄張りに文具屋がない。バイブルサイズのリフィルと、黄色にボールペン、バイブルサイズの6穴ホルダーを買う。
隣の本屋の丸善、この頃の新本の傾向がわかル。アサヒカメラの新しい号をパラパラとめくる。水中の写真が目に入る。中村卓哉君、ニコンレンズの宣伝で、イシモチの類の群れ、ありふれた魚でありふれた画だけど、とてもいい。いいカメラマンになった。
昨日、浦安海豚倶楽部で誕生祝いに1万円もらった。文具屋で2000円使ってしまった。
佐藤優と手島龍一の対談 戦略論、買おうかなと思ったのだが、佐藤優の本が数多くやたらに並んでいる。よく、こんなに書けるものだと思うと同時に、面白そうだけれど、買う気にならなくなった。「捏造の科学者、STP細胞事件、須田桃子著」須田さんという人、毎日新聞科学部の記者だ。この前利根川さんの本を読んで、わかったようなわからないような感じだったけれど、面白く読んだので、これにした。もう一冊「断固として進め:江上剛」文庫本だ。これは、よくわからない。衝動買いした。
 まだ、お金が余るので、蕎麦屋の天丼を食べた。これは、この前食べて後悔したのに、またやってしまった。胸焼けで具合が悪くなった。

0123 活動計画

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 昨日夜
 1月22日、水中科学協会の活動計画、活動方針を定める会議を行った。
 その結果を、公式ブログに発表した。水中科学協会の公式ブログと称しているものは、日本財団の主催している無料ブログサイトで、助成金の申請を日本財団にしたりしているところから、このブログに今回のような、活動計画とか、シンポジウムの結果などを掲載していて、ホームページと連携させている。ただし、新しいホームページではまだその更新方法を掌握していないために連携ができていない。近いうちに新しいホームページも自由に手直しができるようにしたい。新しいホームページは、須賀だけがいじれるのではなく、何人かの各セクション担当者がコンテンツを書き換えられるよう。そして、諸イベントへの参加申し込みが容易にできるよう、そして、かっこいいものということで、作りなおされたのだが、自分としては、うまく使えていない。古いホームページを作りなおして、新しいホームページから、飛ばすようにしたい。
 このホームページを改編するディスカッションが、昨夜の話し合いでは須賀のわがままのように騒がしく話し合われた。まだ、新しいホームページが習得されていないうちに、大幅な改革をすることを求めているようで、喧々諤々になった。

 ここに、公式ブログのアドレスを記すので、関心がある方は見ていただきたい。

 安全なスクーバ活動 CANPAN ブログ

しかし、残念なことに、このブログはお世辞にも、使いやすいブログではなくて、アクセスもしにくい。

 活動について、自分が関わっている部分についてはこちらのブログでも紹介しているのだが、
まず、水中科学協会、JAUSは何をしようとしているのかについて、まず、ちょっとだけ紹介しよう。

 水中科学協会の今年度の活動のコンセプトの一つは、「スポーツダイビングとサイエンスダイビングとの融合」クロスオーバーだ。
JAUSの活動開始いらいの一つの活動目標は、スクーバダイビング、スキンダイビングによるサイエンスダイビングの安全確保とその振興だった。アメリカにはAAUSという、アメリカの大学でダイビングをやっているところはすべて加入している歴史のある団体がある。確か、1975年頃からの発足だから、40年余の歴史がある。各大学には、ダイビングのインストラクターであるダイブマスターが何人か居て、彼らがその大学でのサイエンスダイビングのすべてをコントロールしている。
そんな組織を夢見たのだが、我が国に置いては、ほぼ絶望的であり、40年も、顧問のようなことをやっている、海洋調査探検部のある東大でも、僕たちJAUSがしっかりと根をおろせない。まあ、諸般の事情だ。
視点を変えて、こちらがわ、スポーツダイビングの方から、アプローチしたら、という発想の転換をした。
水中撮影調査グループである。サイエンスダイビングの手法をやってみたら、面白い。スポーツダイバーでも、なんの目的もなく、海底をふらふらしているのも楽しいけれど、結果の出せる活動をやるのも面白いということだ。もしも、スポーツダイビングのチームが、サイエンスダイビングの調査ができたならば、学術的な発表もできるし、大学とか研究機関の手伝い、相互乗り入れができる。
その方法をマニュアル化して、報告書、そして、出版すれば、全国に広まるわけだ。広まれば、次の展開があるかもしれない。
とにかく、水中での調査とは探検だから、面白くやれば面白い。
探検の定義は、とにかく目標、対象を調べ、記録(撮影をする)して発表することだ。記録も発表もなければ、探検ではない。なんでもないのだ。
みんなで集まって、発表会、写真展をやれば、形にはなる。そこから写真家になる人もいるだろうし、趣味としても素晴らしい。それはそれで良いのだが、探検調査も同じ程度に楽しく、探検で撮った写真も作品にすることができるし、もしかして、その探検写真だけの写真展もできるかもしれない。今、千葉県館山で人工魚礁調査を始めているが、その写真展をどこかでできるかもしれない。もちろん報告書にして、水産業に役立てる事もできる。僕たちがやって、成功すれば、その手法をどこのダイバーも勝手にやればいい。別に指導団体ではないから、探検調査のカードを発行しなくてもいい。いや、発行しようかな。発行しよう。とか、遊び心でやれば、いいのだ。

そこで、今年度の計画書だが、

3.水中映像研究会
 
 ダイビングによる水中活動の根幹は水中映像による水中の記録と、映像作品の製作である。
JAUSでは水中映像についての研究会を作り、会員の活動により、以下のテーマを実施している。


  マスクマウントでの目視撮影 写真は全て、福田克之撮影


①水中撮影調査研究グループ
ウエアラブルカメラを徹底的に使用して、撮影調査(リサーチ)に使う手法【フォーマット、マニュアル】の研究と普及。スポーツダイビングとサイエンスダイビングの融合点にもなる。この手法を大学、研究機関、研究者が行うことは有意であるので、スポーツダイバーと協力して作業をすすめることができる。またスポーツダイバーが行うフィッシュウオッチング、撮影などが科学的な調査データーとなり得るならば、日本沿岸の様々な水中調査の振興とグレードアップに役立つ。
一例として人工魚礁調査の企画を、千葉県館山市の波佐間で進行させている。
①100m前後のラインを海底に引き、ラインの適切な部位に、インターバルカメラを設置して、撮影する。5秒間隔、2時間の連続撮影ができるカメラ10台を用意している。
②同時にマスクマウント(マスクにカメラを取り付けたもの)による目視観察を行う。つまり、目視のすべてが記録されているということになる。
③現在では、動画からの静止画切り出し(2012年のJAUSシンポジウムの時点では新たな提案であったのだが)現在では通常に行われている。ラインの上2m位を水平に航空撮影をするようなかたちで、動画撮影を行い、ラインを指標にして静止画を切り取って連続して並べる。これによって、ラインと、設置したインターバルカメラ、そして周囲の状況が明確に読み取れる。
これら撮影調査結果と、ダイバーと撮影対象の魚の観察記録のまとめ方について、西海区水産研究所 亜熱帯センターの名波会員、海洋大学千足准教授【会員 】の学生実習におけるスキンダイビングによるライン調査、元東京海洋大学教授、山川先生、水産工学研究所の高木先生の監修、助言をいただく。

こんなことです。

0124

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0124 書かなければ、つまり書きたい企画書がいくつもあるのに、「捏造の科学者:須田桃子」読み終えてしまった。あの事件はなんだったのだろうという興味もあるし、このところ分子生物学、生命科学が少し理解できたような気もするし、研究者の事情、査読のある雑誌への投稿、大学の仕組み、理研の構造、それからそれと、これまで知れなかったことが、読み取れた。しかし、一番興味を惹かれたのは、科学ジャーナリズムかもしれない。著者の文体、書き方、整理の仕方にも。



10年ほど前、水中に墓(人工魚礁的墓)をつくろうと、考え、提案し、特許の申請までしたことがある。ある時、新しい人工魚礁の図面を見せられて、何だ、これは、まるで墓石だと思い、ならば墓にしてしまえば良いと考えついた。ジュール・ベルヌの海底二万哩もヒントになったし、水中に墓参りに行ける。入りたい希望者もかなりいた。墓地業者も興味を示して、聞きに来たりしたけれど、やはり本気になって考えると、障害がありすぎるし、成功するまで、自分の命がもたない。やはり散骨の方が手間がかからないか。でもなにもないのもつまらない気もする。30cm角くらいのブロックに骨壷を入れて、投入。悪くないけれど、やはり墓地というのは特殊なもので、心理的な抵抗感が僕の中にある。こうして、ブログに書くことすら抵抗感がある。

0124 ダイビングとは 8

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 ダイビングとはなにか?どういうスポーツか、ダイビングという側面からとらえて、スポーツとはなにか、そしてもちろん、ダイビングの安全性とその危険はなにかということを、考えることはとても大事で、ダイビングを始める前から、十分に考えてはじめなくてはいけないし、ダイビングを習う、Cカード講習に参加している時も、そして、ダイビングを始めるようになり、次第に経験を積んで、一人前になり、そしてベテランになり、あるいはその途中で中止する時も、常に考えていなくてはいけないことで、それを考え続けることが、ダイビングを安全なものにするか?いや、ダイビングで安全ということはないので、危険を避けられるか、乗り越えられるかに関わってくる。自分のことを言えば、ダイビングを始めた時から、そして、それから60年経った今でも考え続けている。そして、それは、いつも変わり続けている。大学2年生の時と今80歳になり、同じ考えであるはずもない。 ここまで書いてきて、この文をのせるのに気が進まなくなってきている。というのは、中田誠さんの本を題材にしていて、そういうのがあんまり好きではない。爽快ではないのだ。すっきりとしない。しかし、ダイビングとは冒険スポーツだというためには、致死性スポーツには、冒険は一切許されないとしている、中田さんの本について、触れないと、先に進まない。


 ダイビングとは何か、自分にとって、そして一般ダイバーにとって、そして社会にとってなにか?前にも書いたが、人それぞれの立場で、そして視点、性格、DNAによってそれは変わってくる。そして時々刻々変化を続けているのだから、一言で決めつけるのは到底無理、しかし、僕にとってその最大公約数は「ダイビングとは、冒険スポーツである。」
 いろいろなことを、一言で、あるいは箇条書き的に3つくらいに集約、まとめるようにいつも考える。とても難しいがとにかく、定義を上げておいて、それについて説明をして行き、考えるのが僕の思考パターンだ。


 中田誠さんはダイビング事故に関連して、沢山の本を書いている。僕が今手元にもっているのは、「誰も教えてくれなかった。ダイビング安全マニュアル:1995」「事故に遭いたくない人のための ダイビング生き残りハンドブック」1999」「ダイビングの事故、・法的責任と問題 」2001 「商品スポーツ事故の法的責任 2008」 「リキッドエリアの幸福、誰にでもできる安全ダイビングの手ほどき 2011」 まだ、他にも何冊かあるが、持っていない。全部お金を出して買った。他にも何冊かある。最初煮出された、本はなくしてしまった。

 中田誠さんとは、一番最初の本を出された時相談を受けて、夜遅くまで、たしか新宿のどこかで語り合ったことがある。彼の書いた本、すべての基調となっているハワイでのエア切れ、急浮上による事故と、現地ショップの対応が悪かったことの恨みについてで、僕もその恨みはもっともなことだと思い本を出されることに賛成した。その本のゲラも送ってくれたのだが、幾つか例としてあげた別の事故の関係者の肩書が違っていたので指摘させてもらったが、なおされていなかった。そんなことは些細な事であり、その後の著作では、用心深く書かれている。

 そんなこともあり、最初にあげた彼の著作のほとんどを、僕は丁寧に見ている。フアンと言ってもよいのかな。
 先に示した本のうちで、「誰も教えてくれなかった。ダイビング安全マニュアル:1995」「事故に遭いたくない人のための ダイビング生き残りハンドブック」そして、この前に出された同じような本で、本当に寄せては返す波のように、まず、自分のハワイでの事故について書いている。漫画にまでしている。先にのべたように、彼のダイビングについての論の原点なのだ。
 詳しくは引用できないし、前にも書いたことがあるのだが、同じことは何度書いても良いのだ。自分のへんかともに変わっているし、同じことを若干の表現を変えてかくということは、その人の立場、意見を明確に印象付けられる。このことはニュースステーションで一緒に旅をした立松和平に教わった。毎日同じことを喋っても、聞く人の方は変わっている。一回書いて終わりでは多くの人に伝わらない。中田さんの事故も何回も同じことを書いているから、それだけ広まったのだろう。ここにその概略を述べるけれど、正確な引用ではないので、間違っている部分もあるかもしれない。
 1993年、彼は、日本のどこか、パディのショップで講習を受けてCカードをとった。ハワイに遊びに行くことになり、そのショップの紹介で、ハワイのダイビングショップを紹介してもらった。そして、ボートダイビングで沈船に向かうツアーに参加した。何人かの混成で、知らない人ばかり、彼のバディと決められた人についてもなんの情報もない。引率したイントラだかガイドダイバーも一人だった。ブリーフィングを受けたが、残圧が1500ポンド(100キロ)になったら、ガイドダイバーに見せるように、そして、その時点で引き返すか、浮上するかを指示されるものだと、中田さんはおもった。最大水深が27mだったから、妥当な数字だ。中田さんは体の大きい方で、空気の消費量は大きいと想像できる。そして、初心者、ものごとを論理的に考えるような人だ。
 予定通り、彼の空気はあっという間に戻る残圧(現在ではこれをターンプレッシャーなどというが)100に近くなり、インストラクターに見せて、確認をしてもらったが、そのまま戻る気配はない。だれでもわかるように、このパターンで事故が起きる。中田さんは若干パニックになったが、そのまま後について入った。本当に浮上しなければいけないという圧になり、バディに空気が少ないサインを送ったが、当然無視され、やがて、苦しくなって、だれかからバディブリージングで空気をもらおう(当時はまだオクトパスは普通にはない)とも思ったが、相手がくれないのに、奪い取ることはできない。本当にギリギリで浮上するのだが、その時に水を飲んでいる。肺にも多少入ったのだろう。浮上して、ボートにあげてもらったが、この事態になってもインストラクターのケアは十分ではなかった。救急病院に搬送され、集中治療室に入った。幸いにして、  日の入院で退院したが、命を失っても全くおかしくない事故であった。
 現地のショップに補償を請求したが、満足できる対応ではなく、訴訟を起こすのだが、アメリカで起こった事故はアメリカの裁判所に訴え、アメリカ人の弁護士を頼まなければならない。結構な金額がかかって、それでも、なんにも結果が出なかった。そのことを、日本に帰って、日本のパディにも話しているが、日本で起こった事故ではないから、なにもしてくれない。そこで中田さんは自分の経験を書くことによって、同じような目に合う人がいなくなるように啓蒙するとともに、その本の原稿料で、損害を補填しようと考えた。その時にお話を伺った。
 今ならばもちろん、その当時でも、彼の話だけを聞いている限りでは、ハワイのショップは全面的に悪い。これが、日本で起きた事故で合ったら、日本のパディは誠実に対応して、然るべき金額を保険から支払ったと思う。しかし、アメリカの一ショップ、それが日本人経営であっても、そのことについてどうしようともしないだろう。
 僕は、この事故例を、自分の講習での事故例として使わせてもらった。戻る圧について打合せたならば、必ず、全員一緒に戻らなければならない。空気の早そうな人には、別のアシスタントを付けなければいけない。そして、本人、初心者の受講者には、空気が浮上圧、普通には30-50になった時には、サインを出して、サインを見てくれる人が居なくてもその場で浮上する。今度の大震災で津波「てんでんこ」という言葉があったが、ダイビングも最後は「てんでんこ」なのだ。中田さんは自分の意志だけで浮上するなどということは頭に浮かばなかったという。講習で教えてくれなかった。僕は教える。今頃安全停止なんてことを金科玉条にしているが、空気が尽きそうになって、そのまま浮上しなければ、減圧症になりたくてもなれない。「空気が尽きるまで、水中にいるのを馬鹿という。」
 しかし、講習で教えられていなくても、生命が危険になれば生理的な本能にかられて、陸棲の動物である人間は、水面の上の空気を死に物狂いにもとめて浮上する。に死のうとする。中田さんはもそうした。だから、生きて本をたくさん書き、若干、鬱憤を晴らしたと思う。彼が店の名前を実名で、自分の本で何度も書いている。いまはどうなっているだろうか、ネットで調べてみたら、元気に商売を続けている。

しかし、彼の本を書く動機が告発が原点だから、文体も、そして書く内容もそれに沿ったものになる。
 事故、次に来るものは法的な訴訟だから、やがて、彼は法的視点を中心にして調べ、論じるようになった。だから、彼の「ダイビングの事故、・法的責任と問題 」2001 「商品スポーツ事故の法的責任 2008」は、レジャー潜水業界に対する、彼としての法律的責任追求なのだ。
彼のダイビング業界に対する恨みについて、フィルターで漉しされば、この本は、事故例と、その訴訟例の資料として役に立つ。日本の各指導団体の状況についての、視点を変えての資料としても役に立つ。そして、その記述については、僕とは全く違う視点から、違う姿勢で、ダイビング事故について論じているのだから、ああ、こういう考え方もある、こういう人もいるのだ、と自分との差を知ることができる。同じ意見の本などみても、触発されることがない。
続く

0125 戸籍上の誕生日です。

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 こちらは80歳まで生きたのに、一緒にサーカスをやってきたチームメート、それも、はるかに年下なのに、次々と世を去ってしまう。1982年、釜石湾港防波堤工事の時の写真です。JAMSTECの米倉くんがおくってくれました。中深度混合ガス潜水だったので、彼が手伝いにきてくれていました。写真は田島くんと鶴町くんです。
人間、所詮は限られた命、どう生きて、どう死ぬか「生死事大、光陰惜しむべし、無常迅速、時人を待たず。」自分の潜水人生について悔いはないけれど、終わるまでに、自分でなければできないことをやろう。つまり、人があんまりやらない事をやろうとするから、外からの抵抗も、自分の内側からの抵抗も次第に強くなります。そんな抵抗に精一杯逆らって、友人各位、JAUSの会員諸兄にご迷惑をかけつつ、最後までファイティングポーズをとって生きて行くので、どうか、ご容赦、ご支援をお願い致します。

0125 誕生日、お台場潜水(1)

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 今日(1月25日)のお台場潜水のこと、ブログに書いてしまいたいけれど、やはり疲れていて、最後まで書けそうにない。お台場にせよ、潜水すると、頭のなかに沢山の考え、思いが浮かんできて、書きたいことが多い。これで、一夜寝てしまうと、その大半が薄れてしまって、そして次のことが出てくる。
 できるところまで行って、あとは次に続くとしよう。
 80歳になった。そのことについては、朝、ブログを書いてだした。
 
 海洋大学潜水部の現役学生2人が来るので、機材が多い。ドライスーツを2着、それに合わせるウエイト、ドライで履けるフィンも持っていないことが予想できるから持ってゆこう。フードもないのではないか。それやこれやで、ワゴンタイプの古いアベニールは、満杯になる。鈴木敏久君が居なければ、僕ではうまく積み込めない。彼は僕のアシスタント全般だが、こんどJAUSの事務局長にもなってもらった。

     何も居ない海
 
 いい天気。でも冷たいだろう。しかし、冷たければ爽快だ。このごろ、なにかとウジウジして爽快感がない。今日のメンバーは、東邦大の風呂田一族、が多留さんと風呂田さんの二人、風呂田先生は元教授で、東京湾の生物研究のパイオニアであり、むかしむかしはNAUIの理事長をやっていたことがある。尾島さん家族が今日は奥さんと二人、尾島さんは歯科医だが、ここに来るときは、環形動物分類の研究者だ。趣味の域を越えている。僕の組が、須賀と鈴木、そして清水まみ、海洋大学潜水部だが、もう博士課程に進んでいる自見君、現役2年生の江原くんと、岩田くん。6名。6+2+2で10人だ。清水まみは写真家を目指している。自見君は、環形動物の分類、尾島さんの同類だ。多留さんは、元風呂田先生の教室のドクターで、分類の研究者だ。この辺りの生き物のことならば、何でもわかる。
 現役学生二人は、潜水の修行だ。僕の今日のテーマは、SJ UMOXカメラのテストだ。
このカメラは現在、1万円の最廉価ウエアラブルカメラで、前からお台場でのテストをしていて、お台場に着いては、色の再現も良いし、見られる程度にシャープだ。だから1台買い足して、2台になった。今後はお台場はSJだけで、辰巳プールはGoPro2が3台、室内で、やはり暗いので、SJは、あまりシャープに見えない。人工魚礁は総動員でAEE2台を加えて7台、それに、みんなの3台をくわえて、2月からは10台で、秋には20-30台をめざしている。台数を増やすためには、最廉価のSJを増やすことになろうとおもうので、お台場でテストを繰り返す。

 どこから話をはじめようか。
 海洋大学現役二人と、ドクターコースになった自見君のことから始めよう。
 江原くん、岩田くんにはドライスーツを貸している。なぜか、僕が着ていた古い2着が体に合う。僕の首が太いので、ネックをベルトで締めないと浸水する。この前は江原くんが大浸水した。岩田くんは少し浸水。今日はどうだろうか。二人には、ドライスーツは浸水するもの、必ず着替えをもってくるように、と言い渡してある。
 残念ながら、今日もふたりとも浸水した。しかし、この前の時ほどではない。岩田は右手の部分だけだし、江原は胸のあたりだけで、じゃぶじゃぶの浸水ではない。とにかく二人とも、水温8℃-11℃で1時間近く潜っていた。ウエットでは絶対に無理だ。こうして、ドライスーツに慣れてゆけば良い。
 機材は完璧なものを貸さなくてはいけない。水が漏ったために、冷たさのショックで、心臓が停止するかもしれない。誰かが言いそうだ。しかし、それは、お金のあるお客様についてで、江原も岩田のドライスーツの浸水程度で死ぬならば、死んだほうが良い。だから死なない。姿形、気質、泳ぐ能力、一緒にフリスビーとかもやっているからわかる。
 自見くんのドライスーツも、僕があげた。残っている水のもれないドライスーツをあげてしまった。しかし、彼は、環形動物の専門家になりそうで、尾島さん、多留さんと同じ言語で語り合っているし、お台場の準常連になっているから、役に立っている。少し小さめのドライスーツだったが身体にピッタリフィットしている。
 言いたいことは、学生を教えてゆくのは一人ひとり、教えてゆくということだ。昔、1960年代、ダイビングを修得するのはダイビングクラブでだった。一応の初級講習を終えると、ダイビングクラブに入り、一緒に潜水しながら、コーチ、先輩の指導を受けて、上達してゆく。僕は、お台場の潜水はダイビングクラブだと思っている。鈴木敏久は、良いコーチだし、尾島さん一家も、マミも、良い先輩だ。学術的なことは、多留さんが教えてくれる。研究者が潜水修行するには、最高のクラブだと思う。手作りで研究者ダイバー、研究者でなくても若いダイバーを育てるのは、クラブ的個人指導がいい。数が増えないが、それは仕方がない。ダイビングは研究も冒険スポーツなのだ。冒険スポーツは、大量消費システムには適合しない。そこのところが、一番のジレンマであるとともに、解決のキーがある。

 今日、僕の誕生日だということで、ケーキを買ってきて、潜水の休み時間にハッピーバースデーをやった。僕だけではなくて尾島さんも25日、今日で50歳、風呂田先生は昨日24日に67歳だった。3人合同で野外誕生会をやった。そのケーキを買ってきてくれた、杉原奈央子もこのクラブのOBで、現在は東京大学海洋研で研究している。奈央子は、東大農学部の博士コースの時に、二枚貝、今を話題のホンビノスガイをテーマにして、風呂田先生のところに来て、お台場に来た。

  続く


0126 お台場(2)

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  今日、僕の誕生日だということで、潜水の休み時間にハッピーバースデーをやった。僕だけではなくて尾島さんも僕と同じ25日、今日で50歳、風呂田先生は昨日24日に67歳だった。3人合同で野外誕生会だ。そのケーキを買ってきてくれた杉原奈央子は、このクラブのOBで、現在は東京大学海洋研で研究している。奈央子は、東大農学部の博士コースの時に、二枚貝、今を話題のホンビノスガイをテーマにして、風呂田先生のところに来て、お台場に来た。

      ホンビノスガイ、お台場でとれるのは黒いが、普通には白い。

彼女のテーマであるホンビノスガイは、最近急に、ハマグリに取って代わった貝で、食べられる。居酒屋などで、ホンビノスガイを焼いたものなどが普通にでてくるようになった。彼女が来たのは、たしか2007年だったが、まだ食べることは普及していなかった。この貝は、潮干狩りではちょっとつらい深さ、最大干潮時に1mぐらいの深さの砂浜にいる。ハマグリと同じ領域だろう。もしかしたら、ホンビノスがハマグリに取って変わったのかもしれない。外来種が在来種のすみかを乗っ取ることはいけないとされているが、なにしろ二枚貝は爆発的に増える。それに、味はちょっとハマグリとは違うけれど、食べられる。ヨーロッパあたりではクラムチャウダーにするらしい。風呂田先生は食べることも好きで、僕たちも食べてみた。僕としては味噌汁の実が一番美味しいとおもうのだが、クラムチャウダーも悪くない。 
  彼女は、潜水は全然できない。風呂田先生たちにサンプルの採集を任せている。日本ではそういう研究者が多い。これが、深海潜水艇で行かなくてはならない、あるいはテクニカルダイビングで、数百万単位のお金をかけなくてはならないというならともかく、眼と鼻の先の海底での採集だ。
それでも、潜水器を着けなければ、1mの深さに潜ることができない。スキンダイビング、スノーケリングでもできると言っても、スキンダイビングができるならば、水深1mのスクーバダイビングは容易にできる。彼女は自分で潜って、自分の手で研究対象を触って見たり調べたりしたい。ところがその当時東大農学部は研究者が、潜水することを禁止していた。農学部の研究生が、採集中に死亡事故を起こして、その謹慎というか、まあそのことまで脱線すると止めどもなくなる。とにかく、いけない。

     鈴木くんに教わる奈央子

 僕が責任を持つから、潜れ、ということになった。彼女は、先生に怒られるという。大学で禁止しているのだ。彼女は、研究室で彼女のテーマを指導している先生を連れてきて、現場を見せた。僕は、自分が責任を持つからやらせてくださいと話した。責任を持つ等と言っても、人の命に責任など持てるわけのものでもない。自分の50年のキャリアと誇りを賭けるが、もしものことがあったら、謝る他に何ができるものでもない。お金の責任ならば、賠償責任保険で解決する。人の命、一生涯の問題なのだ。
 辰巳でスキンダイビングをやらせてみたが、なるほど泳げない。水深5m,水平25mを潜れるまでスキンダイビングの練習をすることになった。彼女が25m潜れたかどうか記憶に無い。まあ、潜れたのだろう。次にスクーバの練習をした。学科の講習は、昔書いた全日本潜水連盟のテキストでも渡したが、いくらでもダイビングの参考書はある。次に潜水士の資格を取らせた。東大生には容易なことだ。潜水士テキストをざっと読み、五択の問題は、匂いで正解がわかる。潜水士の資格など意味が無いという人もいるが、前述の東大の研究生の事故では、潜水士の資格をとらせていなかったために、責任者が書類送検された。テキスト、試験の内容が、スクーバダイビングに適合していない部分があるが、物理学、生理学の基本はおなじだ。
 現場では、鈴木敏久に密着バディで潜らせた。お台場は透明度がないから、密着せざるを得ないが、手を伸ばせば届く形で泳ぐバディだ。これで、水深2mまで潜らせて危ないことはない。
 お台場のダイビングを繰り返すうちに、次第に潜水は上手になった。しかし、多分、お台場以外では彼女は潜っていないだろう。自分の研究対象だけについて、安全にもぐれればいいのだが、一度だけ何処か、見える海で潜りたいといっていた。
奈央子はやがて、博士になり、いま、東大海洋研で、大鎚の海で研究の仕事をしている。大鎚で彼女の潜水が通用するかどうかはわからない。そこまでは保証しないけれど、基本は同じだ。多分できるだろう。一度だけ、冬のお台場にウエットで潜ってみたことがあった。やめろといったが、やってみたいという。5分で凍えたらしい。研究者も冒険家なのだ。


 もう一人、お台場の中心メンバーの三ツ橋知沙のことも書いておこう。彼女は、科学未来館で仕事をしていて、目と鼻の先の船の科学館での潜水に現れた。どうして現れたのか知らない。今度聞いてみよう。もちろん彼女も潜水はできなかった。でもやりたいという。辰巳のスキンダイビングをやらせたが、10回ぐらい来ただろうか。スクーバを教えるのは面倒だから、どこか一番安いところでC-カードを取ってこいと命じた。C-カードというのは、便利なもので、どこで、どのショップでとっても、自分が教えてC-カードをだすのと同じ効能がある。もちろんC-カードは安全をギャランテイするものではないから、ピッタリ密着バディでのお台場潜水をする。鈴木くんがほとんどで、その後、僕とも一緒に潜ることが多くなった。美人だけど、顔に似合わずタフで、彼女も80%の確率で浸水するドライスーツで冬場は潜る。ウエットスーツも僕のところに専門のものがある。この頃は頻繁に来るので、そのうち、ネットオークションでBCを買うとか言っていたけれど、まだ、僕のところのものを使っている。ドライスーツを買うのは何時のことか不明。
 科学未来館に見学に言ったが、彼女はフロアー責任者で、かなり偉そうに見える。確か、農工大で、専門を聞いたら稲の研究で、遺伝子組み換えをやっていて、どんな稲でもできるのだそうだ。なお、三ツ橋は昨日は、来るといっていたのだが、来られなかった。

 尾島一家のことも、書きたいけれど、今度は、この家族をテーマでテレビ番組を企画しようと思っているので、その時に。
 その他、不定期にお台場に来る、健康チェック台帳に名前の載っているダイバーは100人を越えている。海保に提出しているメンバー表には、現在30名ほどだが、書いたらたいへんなことになる。

 長々とメンバー紹介をしてしまったが、今関わっている、ダイビングとはなんだ?と関連が深い。ので、書いた。
 さて、ここから海に入る。
 

0128 お台場

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 ドライスーツは拘束衣だが、ようやく着慣れてきた。冬が終わり春になり夏が来て、ウエットの生活が秋まで、ドライの拘束感を忘れて、そして、またドライ。いつまで、このサイクルを続けられることだろう。
レッグウエイト、7キロのウエイトジャケット、ここまではいつもと同じだが、腰のウエイトベルトをいくつにするか迷う。毎度4キロだったのだが、今、辰巳で3mmのウエットで2キロで泳いでいる。その2キロで行けるのではないか、そうすれば辰巳とお台場がベルト共用ができるし。2キロ軽ければ少しでも楽だ。
 重いタンクを背負って立ち上がるとき、「さあ、これから、水の惑星に行くぞ。」潜っても、魚も何も居ないことが予想できる。クジラが跳ねるわけでもないし、イルカが遊んでくれることもない。ただ、水があるだけだ。

 砂浜をあるく、少し足元がフラつくがまあ、まっすぐに歩いて、割りと胸を張って歩く。
 フィンはダイブウエイズのスーパートライスター、右足のベルトがやや緩いようだが、履くのはこの方が楽だ。左足もなんとか履けて歩き出す。水に入るとフィンの底面が砂に吸着して足を持ち上げるのに難儀する。フィンを履かないで、水に入り、腰のあたりまで歩いて水中でフィンを履く。そんなことができたのは5年前までだ。
 膝のあたりまで来たので、歩くのが面倒になり、体を倒して泳ぎ始める。
 ドライスーツの空気を抜いて、BCの空気を抜いても沈まない。頭を下にして潜り込み、水深1mぐらいまでくれば水平になれるけど、10cmも上がると水面まで浮いてしまう。
 自見がエントリー仕かけているので、声をかけて、追加のウエイトを2キロ頼む。若いってすごい。苦もなく歩いて2キロ持ってきてくれた。この期に及んでも、ウエイトを少なくしようと思っている。BCの右のポケットに1キロ入れて潜ってみると何とか行ける。左にも1キロ入れればバランスが良くなるのに、ひとつは持って帰ってもらう。何と馬鹿なことをするものだ。左にも入れれば良いのに。固定観念に縛られている。
 なんとか泳ぎ始める。最近は、ダイブウエイズの新型マスクがようやく顔にあってきて、マスクの水漏れの心配は無くなっている。
 水は濁っているところと澄んでいるところのダンダラだ。表層が澄んでいて、透視度2mほど、底は濁っていて、透視度30cm。2013年には、底が澄んでいて、上が濁っている時が多かったのに。理由はわからない。そういうことなのだ。
 持っているカメラは、オリンパスのTG-2 ストロボを光らせるかもしれないので、ワイドコンバージョンは、はずしている。並べて、買ったばかりのSJ, を付けている。SJは、動画をエントリーからエキジットまで回して置く。
  

     タカノケフサイソガニ どこにいるか?牡蠣は生きていて、ちょっと口を開いている。SJでの撮影

 1分ほど泳ぐと体が安定して、呼吸も意識も正常になる。水はかなり冷たく感じるが、気持ちが良い。SJを回しはじめる。ライトを点灯する。いつもの引き返し点である並んだ杭のところまではまっすぐに行く。フロッグキックで水平に泳いで行く。フロッグキックをすると、呼吸のリズムとフィンのリズムが合う。吸うときに足を曲げて、吐き出す時に後ろに水を押す。このリズムがいいのかもしれない。
 移動する水深は70cm位だ。ちょっと浮いて、頭を上げると水面から頭が出る。目印の木の下に来た。少しコースを左に振って、水深は1mを越える。

   ランドマークの樹 これはSJ(1万円のカメラ)

   こちらはオリンパスTG2 これも3万円クラスのカメラだ。


 杭の近くまで来るとむこうにライトの点灯がみえる。清水まみが腹ばいになって、大きいカメラを構えて狙っている。多分何も居ないはずだ。それでもしつこく動かない。
 説明しておくが、僕たちはいわゆるバディシステムでは潜らない。講習中の奈央子とかはピッタリのバディだが、三ツ橋になると、いるところがだいたいわかっていれば良い。一人に一個づつのブイを曳いているので、どこにいるのか水面に顔を出せばわかる。

 今は何も居ない冬だ。その冬にカメラを構えて、ファインダーをのぞいている事が大事だと僕は思う。3月になればファインダーの中に何かが出てくる。4月、5月には爆発的に魚が出てくる。どこにひそんでいるのだろう。じっと見ていれば出てくるかも知れない。
 杭に生えているショウジョウケノリをTG2のスーパーマクロで写す。あとでSJの動画の静止画と比べて見るためだ。

  ショウジョウケノリ SJ

  TG2 さすがにこちらのほうが良い。


 空気圧が120まで下がったので戻りかける。直線で泳いで、10で岸にもどれる。途中道草をして、90-100で上がり、午後にそれを使う。目安としてのターンプレシャーは100だ。僕のタンクは軽い8リットルを使っている。
 途中で、牡蠣殻の間で小さなカニがあちらにもこちらにも、という状態の場所があったので、立ち止まって、すこし写す。タカノケフサイソガニというかニだ。昔はケフサイソガニだったが、多分タカノさんと言う人が、ほんのちょっとした毛の生え具合の違いを見つけて、新しい主として登録し、お台場にいるのは、そのタカノガニだ。どうでもいいように思うけれど、カニとしての立場では、犬と猫ぐらいの距離があるのかもしれない。種というのは自然状態で交雑して、子供を残さないことで区別するらしい。

 立ち上がって、エキジットするのも大変だ。気が付くと、右足のフィンのストラップが外れている。どうりでゆるく感じていた。外れてしまったら、結構大変だったろう。履くときに緩いほうが良い等と言っているとあとで報いがくる。きちんとしておこう。

 昼の休みで、杉原奈央子が買ってくれたケーキで誕生祝をした。

 13時40分ごろ、二回目の潜水エントリー。浅いとダイブコンピューターが動かないので、エントリーの時間が記録されていない。
 そのままエントリーしたら、体が沈まない。ウエイトベルト3キロで午前は良かったが、空気が半分になったら、1キロ軽くなっている。なんとかドライの空気を抜き、BCの空気を絞り出して、水深1mに沈むとなんとかバランスがとれる。10cm浮くともうダメで水面まで浮き上がってしまう。水深2mで泳いで移動する。空気圧が80だから、それほど遠くには行かれない。牡蠣殻の隙間、生きている牡蠣も多いのだが、隙間のタカノケフサイソガニと遊んで時間を過ごす。少し深く、水深3mのヘドロの上に行くが、水が濁ってしまっていて何も見えない。深くが水が見える時もあるのだが、このごろは下が濁っている事が多いみたいだ。

 カメラの比較テストがテーマだったから、今日はこれで満足。

0129 ダイビングとは

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 ほんとうは、違うテーマについて載せたかったのだが、このところ、ずっと考えてきたことだったので、

 前回、中田さんが沢山の本を書き、その多くで、スポーツダイビングについて、ネガティブなことを書かれている。その原点ともいうべき彼の体験に付いて書いた。そのことについても、まだまだ意見があるが、それはもうよしとして、なぜ、その原点を書いたか、次の文が、僕の「ダイビングは冒険スポーツだ。」という主張に真っ向から反対のように見えるからだ。引用は 「商品スポーツ事故の法的責任と問題」2001 」より。
 
致死性スポーツにおける資格商法展開の問題
「スクーバダイビングは、かつては一部の人々の間で生命の喪失をも視野に入れたリスクの高い一種の冒険としての要素を強く持って行われていた。その当時は実行者における危険の引受はごく自然なことであり、そこに異論が入り込む余地はないであろう。またその当時は、例えば「泳げなくてもダイビングはできます」というような認識はなかったにちがいない。そういった先人たちの努力を経て、今やスクーバダイビングはレクリエーション商品となり、スクーバダイビング業界がサービス産業として確立するに至った。しかし、サービス産業の一般向け「商品」を販売する以上、そこに真の意味での「冒険」は存在し得ないのであり、またかつての「冒険」の時と同じような「危険の引受け」の論理を持込み、かつ存在せしめてはならないのである。これはすべてのサービス産業の中で一般向けに商品化されたアウトドア・レクリエーションスポーツに共通すべきことである。」

 冒険など絶対に存在せしめてはいけないのである。

 まず、言葉について考えてみよう。中田さんは致死性スポーツ、僕は冒険スポーツである。
 広辞苑によれば、致死とは、「死に至らせること。死なせてしまうこと。「過失致死 「致死量 」などと使う。
冒険とは、「危険をおかすこと、成功のたしかでないことをあえてすること、「冒険するだけの価値がある」「その企画は冒険だ」「冒険小説」などと使う。
冒険も致死もそこに危険が存在することを意味しているが、致死は、「致死するだけの価値がある」「その企画は致死だ。」「致死小説」とは言わない。言葉の意味するところが全く違う。
どちらもやらないほうが安全だ。
だから、一時期、業界は「ダイビングは安全です」と唱えた。僕は最初に書いた本、アクアラング潜水 1966年では、「ルールを守れば安全です。」と書いた。しかし、ルールを守ることは、技術と知識が必要になる。そして、ルールを守らなければ危険なのだから、危険は存在している。この二つの条件を前提とすれば、ダイビングの安全についての記述としては間違っては居ない。そして、ダイビングに危険が存在していれば。「危険を冒すこと」になる。そして、「冒険するだけの価値がある」ので、冒険する。冒険とは、成功の確かでないことをあえてするのだから、その覚悟、準備が必須になる。
致死の方には「致死するだけの価値がある」「その企画は致死だ」とは、言わない。それは、やってはいけない行為になる。もしもダイビングが致死性スポーツならば、禁止されなくてはいけない。
一方冒険スポーツは?冒険は危険とは違うと言っても、危険を冒すことになる。人間は本能的に、危険に忌避感をもつから、冒険をしてはいけない。冒険的なスポーツはしてはいけないと連想する。同時に、冒険に魅了も感じる。僕の読む本の多くは冒険小説のカテゴリーに入る。気落ちした時、四面楚歌に感じた時、冒険小説を読んで、元気をとりもどす。
致死性スポーツと言う危険をあえてする冒険、としてしまえば、その距離は小さくなるが、「冒険など絶対に存在せしめてはいけないのである。」となると、妥協の術はなくなってしまう。
僕は、目の前に危険がある。それを避けて戻ってくるにはどうしたらいいのか、そしてその危険を想像して回避策を考えて、日々を送ってきた。今、月刊ダイバーに娘の潮美とした冒険の数々を書いているが、その日々は、身体を挺しても彼女を守るという意識を常に持っていた。彼女を守るといっても、僕は、命の危険があれば、動物的な本能で「てんでんこ」で、彼女を放り出して、にげてしまうだろうが、意識としては、彼女の命を優先していた。これは、親子でなくても誰でも同じで、バディになれば、最終的には逃げるけれど、まずは、バディを守ろうとする。それがレスキューであり、レスキューの心意気だと思う。最終的には「てんでんこ」で逃げるということを、ハードボイルドとも表現できる。
 
まず、中田さんは、消費者の立場からダイビングという商品を買うという立場でものを見ている。僕は、消費者として商品としてのダイビングを買ったことはない。ダイビングショップも小さいながらやってもいたが、商品としてダイビングを売っていたという意識はない。現在も、辰巳プールでスキンダイビングの練習会を、浦安運動公園でもスキンダイビングクラブのお世話をしているが、スキンダイビングという商品を売っているという考えは持っていない。ダイビング器材という商品を売ることはあっても、一緒に旅をしたり、楽しんだりするこは商品として考えにくい。長く、文科省の生涯スポーツの指導資格に携わっていて、労働の対価はもらったが、生涯スポーツの指導を商品として考えたこともない。
 お金の授受があれば、すべての人間の行為は商品であると決めることもできるだろうが、商品として、人の心にも関わるスポーツという活動を、しかも、命に係るかも知れない活動を売り買いすることには疑問をもっている。ダイビングが冒険であるという前提に立てば、冒険という能動的な行為を商品として売り買いすることが、事故の遠因になるとも思っている。多分、中田さんは商品スポーツを否定するニュアンスで、致死性という言葉を使ったのだとはおもうが、冒険を否定してしまうと、残るものは、安全。「ダイビングは安全です。但し、自分の提供するシステムを使えば」ということになり、その行動の範囲は著しく狭くなり、講習終了後のダイビングのほとんどを否定することになってしまう。

ダイビングの本質が冒険であるとすると、それは商品ではない。冒険は売れない。冒険をするための機材、冒険を安全に行うための技術、知識を教え、その教授料金は、もらうことはできるが、冒険という行為を売り買いすることはできない。ダイビングが安全でないとすれば、安全を求める人に、安全ではないものを商品として売ることはできない。安全にはお金がかかる。安全の度合いは掛けるお金に比例する。だからこそ、安全には 定価をつけることができない。ダイビングが致死性スポーツであるとすれば、それは売ってはいけないのだ。
商品を買うという受動的なことではなく、自らの意志で冒険をするという能動でなければ、ダイビングはできない、という立場に僕は立つ。

もちろん、ダイビングという安全な商品を買おうとする立場も存在しうると思う。しかし、この二つの立場は、一緒に行動する事はできない。ダイビングを冒険だとするダイバーと安全を商品として買ったとかんがえる人とはバディは成立しない。
僕が中田さんに対して、忌避感をもち、もしかしたら、彼も僕の考え方に忌避感をもつとすれば、それは、この人とは一緒に潜水してはいけないという立場の差を感じているからだろうと思う。知り合った時だけしか、親しくお話していないが、決して嫌いではない。彼の考え方も嫌いではない。この人とは、水中での付き合いはできないということだ。

インストラクターもガイドダイバーも心のつながりがバディシステムを成立させることを知っているから、できるだけホスピタリティを大事にする。お金の授受があろうがなかろうが、誠実な心に対しては、誠実で答えてほしいというのが、一人前のインストラクター、ガイドダイバーの願いだろう。しかし、ダイビングのインストラクター、及びガイドダイバーにとって、ダイビングは致死性商品であり、絶対の安全を買おうとする消費者に出会い、一緒に潜水することは、危険であり、避けたい。しかし、ビジネスであり、商売であれば、避ける事はできない。何とかして、自分の守備範囲では事故が起こらないように最大の注意を払い、なるべく早く縁を切りたいと願う他ない。早く縁を切りたいと思うことも事故の遠因になる。

もちろん、とんでもないガイドダイバーもインストラクターもいるが、良いインストラクター、ガイドダイバーは本能的に消費者ダイバーを感知する。これができないと、ダイビングの世界では、生きて行けない。事故の危険を想像できない、完全な安全を求める消費者ダイバーと、とんでもないインストラクターの組み合わせで事故が発生する可能性が高い。中田さんの事故については、本当にとんでもないインストラクター、ガイドダイバーに出会った不運であり、同じことを避けられるようにしたいという動機はまっとうなものであると思う。

ダイビングは、人が元来生存できない水中へ、進んで行く。だから、ダイビングの事故というと、生命が失われることが少なくない。だから、中田さんは致死性スポーツと呼ぶのだろう。僕は、前にある障害を自分の全能力で避け、行動することを冒険と定義して、冒険的スポーツと呼ぶ。致死とは、人を死に至らせる、過失、傷害 死ぬ可能性のある疾病であり、薬物、危険な生物の毒などを言う。致死性スポーツとネットで検索すると、中田さんの本と、それを論じた僕のブログだけしか出てこない。僕が作った言葉ではないから、中田さんの著書だけに出てくる言葉のように思う。
ただし、冒険的ダイバーの事故率が低く、消費者意識の高いダイバーが危険だなどとはいえない。冒険者のダイバーは、どうしても難易度の高いダイビングにチャレンジするだろうし、消費者ダイバーは幸いな事に、1-2年の間に冒険者に変身するかやめて行く。

中田さんの著書、「商品スポーツ事故の法的責任」前掲の「ダイビング事故、法的責任と問題」は事故例がよく収集されていて、事故例について、僕にとって座右の書でもある。しかしながら、致死性スポーツという語は、ダイビング関係者にとって、どうしても受け入れ難い言葉であり、すべての提案がネガティブにとらえられてしまう。

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