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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1216 学連  (海洋大学)

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 東京海洋大学、昔の名前は東京水産大学、僕の母校だ。そして、潜水部の第一代は、自分だから、当然たくさんの思いがある。ニッポン潜水グラフィティでも学生時代のことは、ずいぶん書いたが、それでも、潜水部については、その創世記、1957年と、1958年、自分が卒業するところまでしか書いていない。
その後のことを書いたら、終わらない。別に終わらなくても良いブログだけど、先に進まない。本当に書きたかったSAIにたどりつかない。
大体、僕は話が長すぎる。12月7日のシンポジウムでも20分の予定が、40分になった。それでも法政大学のスライドは外していた。これを加えていたら1時間を超えただろう。忘年会でもしゃべりすぎて、僕の話が最後なので、帰りたい人がそわそわしはじめて、途中打ち切りにした。そんなことで、できるだけ手短に書きたいが、手短に書くことは難しい。何回も、削ってゆかなくてはならない。そんな時間はブログにはないから、かきっぱなしになる。月刊ダイバーの連載も、ブログのつもりで書かないように、と念を押されている。
東京海洋大学が他の大学と少し様子がちがうのは、
 正課としての潜水実習があり、その修了者でダイビングクラブを作った。
水中生物研究会というクラブもあり、そこでも、主にスキンダイビングだが、ダイビングをやっている。1960年この研究会とダイビング部が分かれて潜水実習にかかわりなく参加できるようになり、潜水部ができた。水中生物研究会が文化部だから、運動部的体質である、これは、当時の水産大学が全学挙げてい運動部だったからだ。僕が水産大学に入学した時、まだ、校舎は久里浜と品川に分かれていて、一二年生が久里浜、三年になると品川に来る。その久里浜が凄まじかった。なんでも、終戦直後に海軍兵学校で死にそこねた、自分で言っているから死に損ないが、商船大学と水産大学に流れてきて、海軍兵学校の伝統を移植した。
その人達はほとんど卒業した後に僕は入学したのだが、伝統というものが、特に運動部に強く残っている。特に寮に残っている。僕はそういうのには耐えられないから、寮に入らず、鎌倉に下宿した。幸いに僕が潜水で付き合うようになる一年上の先輩、探検の師匠である白井祥平さんは、優しい先輩だったが、寮と運動部は、一年生は奴隷だった。

    1年先輩の橋本さん、優しい人だった。乗っているのは櫓でこぐボート 

僕は、奴隷、いじめの運動部は嫌いだが、上級生は下級生の面倒を見る。下級生は上級に対して、言葉づかいから態度をちがえるという体質は嫌いではない。海でのチームワークは、命令系統が明確でないと成立しない。だから、自分の会社スガ・マリンメカニックもかなり運動部だった。ただ、その運動部だったところが、脇水輝之の事故の遠因になったかもしれないと思えないことは無い。要はバランス感覚なのだが、バランス感覚と言うのは、すごく難しい。若者だけでは危ないというのはそのことである。
お客様とガイド、インストラクターとの関係も同じようなバランス感覚が要求される。

   下丸子の潜水専用プール

   窓からプールの中を見られる。

前に述べた、13代の高橋君、吉川君を連れて、僕はスガ・マリンメカニックを作るのだが、作って早々の仕事で、川崎の下丸子にJOTEK と呼んだ、潜水訓練用のプールを作った。深さが10mと5mで民間ではじめての立派な潜水プールで、これは新宿のDOよりも前だから、日本初だった。そのプールで息こらえによる死亡事故が起こった。
これも、ニッポン潜水グラフィティに詳しいが、5mプールで息こらえをしていて、そのまま呼吸停止してしまった。その瞬間を誰も見ていない,一人だった。一人にしたことが事故の原因だった。そして、この事故のために、この会社は潰れてしまう。
ここから後は海洋大学潜水部50周年記念誌から抜粋する。
「倒産した直後に潜水部15代の合宿を見てくれと声をかけられ、落ち込んでいたときだったので、嬉しく引き受けた。
 小湊の実習場で、艪漕ぎの小舟を漕ぎ出し、水深2mの海底で息こらえの練習をさせた。二人一組のバディで、二人が向き合う形で、海底にうつぶせになり、息こらえをするように指示した。おどろいたことに、みんな45秒ぐらいで浮いてくる。13代は、同じ練習でみんな2分を超えた。(前の代との比較で、決めることは自己の遠因になる)1分半の息こらえが出来ることが、1950年代の潜水実習参加条件だった。少なくとも1分半はこらえるようにと指示してしまった。
1分を超えたあたりでみな頭を出したが、一人上がってこない。すぐにバディと緊急要員を潜らせて小舟の上に引き上げた。呼吸していない。身体は硬直している。すぐにマウスツーマウスをやり、2回息を吹き込んだ時点で蘇生した。呼吸停止してから30秒も経過しない救助だったと思う。小舟の上で、蘇生した学生は、猛烈に暴れる。三人がかりで押さえつけて、陸に挙げ、救急車で病院に運び、1日入院して元気に退院した。幸いなことに、肺に水を飲んでは居なかった。水を肺に吸い込んでいると、蘇生しても、呼吸機能が冒されていて二次的に死亡してしまう可能性がある。
彼は息こらえが得意で,いつもは3分を超えていたそうだ。合宿1日目の出来事であり、合宿に参加するために冷蔵庫でのハードなアルバイトをしていて、寝不足だった。1分半と指示されたので、時計を見ながら息をこらえているうちに、ほとんど苦しさを感じないで、そのまま意識を失ってしまった。
下丸子のプールで息こらえで死亡事故を起こしたばかり、下丸子の事故も息こらえ能力の高い子で、奄美大島で子供のころから素潜りで、魚を突いていて、東京に出て潜水のインストラクターになろうと修行中だった。
その事故の直後に同じような事故を起こさせてしまった。僕は責任を感じて、コーチを止め、その後、潜水部との付き合いが断絶する。しかし、今度の50周年記念誌を見ると、その二期後に大島でブラックアウトの事故を起こし、自衛隊のヘリコプターで東京に搬送と言う記録を見た。」
記録を見たと書いて、50周年記念誌を見るとその詳細が書かれていない。22代の壇野君(現JCUE )が、[前年の大島合宿でスキンダイビングの練習中にブラックアウトの事故があり、ジェットヘリの救助があったということでした。] それで、21代を見たが何も書いていない。このようなニヤミスは詳細を書いておかなくてはいけない。
当時の顧問は山川先生だが、やはり記念誌に「実に残念なことは、それらが、一切顧問に伝えられなかったことだ。様々なうわさや風聞は隠しようもなく、伝わってきたが、もし事故の時は大学が直ちに現場で対策や救助のチームを作らなければならないという事が、自分の生活の中でいつも片隅にあったことを執行部には理解してもらいたかった。これは、学生が社会的沿うん財であることを実はわかっていなかったことになり、顧問として大変な責任を感じていることだった。」
実はその後、他大学の事故があたかも海洋大学の過去の事故であるという誤った言い伝えがあり、45代の時だったが、その頃は僕がまたかかわっていたので、顧問の谷中和先生にその真偽を聞きただそうとした。山川先生は知らないところでそんな事故があったとすれば、教授を辞任しなければならないと、在学中に死亡した学生の例を大学で調べて、違うことがわかった。そのことは僕のホームページ、「須賀次郎の潜水」に(幻の潜水事故)と言うタイトルで乗せている。この幻の事故の解明が、現在学習院大学の宮崎さんによって教えられ、第一回のシンポジウムでの宮崎監督の発表に繋がった。
★矢張り書きすぎ、ここで一応切るが、海洋大学についてはまだ続く。

 1218 学連(6) 海洋大学

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 1998年に水産大学潜水部のOBへのOB 会の通知があった。実はその時点で、潜水部にOB会は存在しない。なのになぜ、OBの集まりがあったのだろうか、企画した現役が39代なのか40代なのか41代なのか知らないが、なぜか、品川のプリンスホテルだったからか、出かけていった。まさか、僕が来るとは思っていなかったらしく、6代の清水信夫が主賓扱いだった。清水君は、海底居住のアクアノートで、深田サルベージの部長だったかだが、僕が深田サルベージの深海潜水研究班のコーチをしていた時の弟子だ。27歳の時の100m潜水で、僕は深海潜水の経験者だったのだ。
その席で、40代の主将、東君に挨拶された。
なにか込み入った事を書いているが、書いておかないと忘れ去ってしまうので、海洋大学の後輩のために書き残して置こうと書いている。どの大学のクラブの誰にでも、僕がここに書くこと、程度の思い出がある。大学のクラブは、それぞれ、それだけの歴史とOBの思いを背負っているのだ。だから、翻って、O Bは、後輩、現役、そして部を大事にしなければいけない。
その東隆司のお父さんが、東亜潜水で僕の下にいたのだ。東君のお父さんは、鹿児島の人で、中卒で、何故か僕のところに押しかけてきた。理由はわからない。天文館通りの自転車屋さんの息子だから、高校に行かれないわけがない。それに、中学では一二を争う秀才だった。いまだにわからない。大変な根性の持ち主だし、期待していたのだが、申し訳ないのだが、ダイビングには才能がない、熱帯魚を専門にするという。引き止めても聞くような人ではない。僕は送る言葉として、英語を徹底して勉強しなさい。しゃべり、本が書ける程に、(自分がそのことを悔やんでいたから)それから、いつも白衣をきて仕事をしなさい。研究者のように見えるから。彼は僕の言うとおりにした。皇太子殿下に熱帯魚のご進講をするまでになり、テレビに出てきた時には白衣を着ていた。今、東大和の東熱帯魚研究所といえば、その関係で知らない人はいない。本もたくさん書いていて、英語でもアロアナの本を書いている。その息子だ。東君(お父さんの方)は、奥さんと子供を連れて、アフリカのどこかの湖に古代魚の研究に行き、現地人の泥棒に襲撃されて、無一文、何もなくなり、そうなんの一歩手前で、アフリカに来ていた日本人似、偶然であって助けられた。探検家でもある。その息子だから、隆司も変わっている。

   左から東隆司 ピースサインが吉村くん 小坂くん、僕、そして、ごめん、名前忘れてしまった。確か、調査会社イデアに就職したはず。


思い出した。その年代に僕は、朝までテレビという番組を手がけ、なぜか、学連の子たちとダイビングについて語り合った。その時の学連の委員長が女の子で、立教大学、切れ味のいい子だったが、その彼女が言っていた。東はバカだと思っていたが、そんなことはなく、大変な奴だったと。お父さんの東くんからは毎年年賀状が来るけれど、隆司が、どこで何をしているのか、音信はない。
その次の代、41代の吉村くんは、東京湾の映像を撮ってもらって、板田の海を撮り、優れていたので、一緒に仕事をしたかったが、会社に空きがなく、リブリーザーの田中さんのところにお世話したが、向いていなくて、転職した。申し訳ない事をしたと思っている。43代(2001年卒)の小阪君は、全日本潜水連盟の指導員になってもらい、水産高校の教員になることを強く薦めて、今は小浜高校の教員でアマモの移植保護のエースである。先ごろはアマモサミットを小浜でやった。
 
     45代の今泉くん、井口さん、斉藤さんとは、親しく、親戚の子付き合いをした。今泉、井口は大学院に進んだこともあり、水産大学潜水部のO B会を作るときに中心になってもらった。その次の代46代、2004年卒がすごかった。女が4人、男ら1人で、主将の鎌田さんは、ハーフの美女、柄戸さんもハーフ?の美女、あとの二人の女の子との付き合いはなかったが、この4人が、学連のフリッパー大会での女性部門の金メダルを総なめにした。黒一点の宮坂とは、一度、学生時代にじっくり話したが、よくわからない。最近フェイスブックの友だちになった。彼は外国航路の船乗りになったが、乗船の前に、酒場で喧嘩をして、三人の敵に叩きのめされて、顔を骨折して入院し、船にのれなくなった。今はまた船に乗っているはず。4人のアマゾネス美女に、喧嘩っ早い黒一点、なんだかテレビドラマができそうだ。その後、鎌田さんは、どこかの神主さんと結婚した。神主さんは神楽を踊ることが、これもフェイスブックで知った。
こんな4人の下の代、47代が男一人、大井くんだけになりピンチに陥った。
その時(2004)に同じ海洋大学のダイビングサークル アビスができ、40人を集めた。40:1では比較にならない。アビスについて、ダイブネットで見ると、これは、現時点2014年のものであるが、

ABYSSは、東京海洋大学の学生を中心に活動しているダイビングサークル。
スキューバダイビングを通じて、海を全身で感じることの素晴らしさを伝えるため、2004年に設立されました。主な活動場所は、真鶴(神奈川県)・伊豆半島。現在のメンバーは約80人。男女比はほぼ1:1です。
スキューバダイビングのみならず、イルカウォッチングをはじめとしたスキンダイビング(素潜り)も積極的に行っています。
また、サークルメンバーの海外研修先は実に多彩。サイパン、パラオ、フィリピン、タイ、インドネシア、エジプトなど…さすが、といった感じです。
ライセンス取得は個人の自由ですが、ステップアップを目指す学生は、1年生の6月にOW(オープンウォーターダイバー)、10月にAOW(アドバンスドオープンウォーターダイバー)、12月にレスキューダイバー、そして春休みに海外でDM(ダイブマスター)の資格を取得する流れが多いです。
 サークルと部活動について、考えさせられる。自分たちは間違っているのではないかと思う。当然、学生、現役も思い悩むだろう。

1221 学連 (7) 海洋大学

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 サークルと部活動について、考えさせられいる。サークルは、部活動よりも数倍人数が多い。
 水産大学の潜水部存亡の時には20:1ぐらいのスコアの差がついた。そして、サークル活動をやめさせることも否定することもできない。サークルは潜水業界そのものだから、これを否定することは、業界を否定うことになる。部活動で卒業したOBも多数業界で生きている。僕もその一人ではある。とりあえず、自分なりの決着、結論をだしたが、それはこの学連の話の最後にまとめよう。考えているうちに、また行動しながら考えているうちにまとめも変わってくる。昨夜も海洋大学潜水部OB会の忘年会で、その話を後輩として、現状の情報  もうあと10日を2014年は切っているが、その29日に、先日のシンポジウムのパネルディスカッションのメンバーが集まって、話し合う。そのころまでに、この問題についてのまとめをしよう。
なお、このブログで学連の話を続けていて、ヒット数は全然上がらない。つまり、人気がないのだ。学生のダイビングなど、多くの人にとってはどうでもよいことなのだろう。しかし、潜水部の後輩が読んでくれて、考えてくれているらしいので、行き着くところまで続けよう。ダイビング活動、ダイビング業界の根幹にも触れることがあるはず、でもある。
2004年当時、ネットでは、サークルとしてアビスが発足したことが書かれているが、僕の記憶では、2004年当時のサークルの名前は、アバロンだった。頭文字が同じAの自分たちは間違っているのではないか、それともアバロンはつぶれて、あるいは名称変更してアビスになったのか、よくわからない。別に記録ものこっていないだろう。アバロンはダイビングショップの息子が入学してきて作ったのだという風聞も聞いた。こんど調べてもらおう。
どっちでもいい、とにかくそのころ、調べていないから正確な時日がはっきりしていないが、大瀬崎で、学生サークルの死亡事故があった。東大生も含まれていて、とうじも僕は東大の海洋調査探検部のアドバイザーをしていたので、そのメンバーではないかとおどろいた。しかし、これは、東大生も含む三つぐらいの大学が合同しているサークルだとわかった。文科省は、この事故に注目して、文科省関連の財団、社会スポーツセンターにこの事故を掌握しているかどうか聞いてきた。社会スポーツセンターとしては、かかわっているのは関東学生潜水連盟であり、この連盟については、完全に管理されており、問題はないと返事をしたらしい。僕が返事をしたわけではないので、らしい、である。しかし、もしも事故が起こったりすれば、どこも、だれも管理していない大学のサークルというのは、問題がある。そして翻って、かかわっている学連についてもなんらかの動きをしなければならない。
これも、後の祭りだったのだが、この事故のサークルが使っていたのが、大瀬崎の羽衣でそのオーナーの話を聞きに行くと電話を掛けながら、行かれなかった。その電話では、夜に酒盛りをやって不摂生だったということを聞いた。
事故が起これば、酒盛りは問題になる。

学連では、毎年、式根島で学連合宿というのをやり、各大学の部から、安全対策係とかトレーナーとか各大学では名称をちがえても、部活動の安全確保と司る係りがいる。その掛りが合宿をして、安全確保の方法、レスキューの方法などの研修を行い同時に親睦を深める。その報告書を海洋大学の潜水部, 43 代の小坂君から入手した。訓練プログラムは、同行してみれば改善点はあるだろうが、おおむね妥当なものだった。
しかし、その中に各部の代表のスローガンみたいなものと書いている部分があり、酒盛りを行ったことを嬉々として書いている。酒を飲むことを禁止する必要は無いと、当時は思ったが、学生の合宿である。野放しにしておくわけには行かないと思った。
僕自身は酒を飲まない。飲めないわけではない。ニュース・ステーションをやっていたころは、その営業で良く飲んだ。飲む席で企画が決まることが多いのだ。しかし、生涯スポーツの指導を社会スポーツセンターで行うことに本腰を入れるようになってから、完全禁酒をしている。

海洋大学では、毎年、執行部交代の儀式を執り行う。時間があれば出席していた。その儀式で、新入生が、酒の一気飲みをしながら挨拶をする。コップに酒を注いで、一気飲みをして、「○○高校出身、潜水部一年目、だれだれと申します。よろしくおねがいします。オース!」などと言ってまた酒を飲む。こんなのは、僕が大学生のころ、そして僕が指導していた14代あたりには無かった。僕が留守にしていた20代あたりから、39代のあたりで始まって定着したのだろう。
僕がこれを見て、喜んだり、賛成したりするわけがない。が、OBの中にもこれを芸にしている人がいる。まあ、いいか。同じ芸を、水産高校の先生たちに潜水指導している合宿でも見た。数少ない女の先生に一人がやって、大変に受けた。何も本当の酒でなくても良いのだろう。これを職場でやれば、変な芸をやらなくても、体育会系だという評価を受けることができる。体育会系的な女の子というのは職場での評価も高く、事実仕事もできる。
そのまま見過ごしていたら、やがて海洋大学では、一気飲み禁止令が出た。急性アルコール中毒の事故が起こった結果だろう。
それやこれやで、今海洋大学の潜水部では全面的禁酒、禁煙になっているとの報告を受けている。

サークルの問題に移ろう。とにかく、海洋大学では、サークルと部活動の差別化を図らなくてはならない。海洋大学には千葉県館山に研修・研究センターがある。そこではスクーバセット、タンクの充填施設がある。センターの技官の益子さんに社会スポーツセンターの、いまでは日体協のスクーバダイビング指導員になってもらい、全日本潜水連盟の指導員にもなってもらい、彼に潜水部の指導をお願いした。その指導を受けなければ、サークルのクラブ員でもこの施設を利用することはできないようにもなった。潜水部員は、この施設で我が物顔ができる。サークルは借りてきた猫にならなければならない。海洋大学には正規の授業としての潜水実習があり、その実習では、潜水部員が助手的な働きをする。サークルでも教える方に回る子は上手なのだろうが、それでも、潜水部員に比べれば、体の動かし方がちがう。
そんなことで、少しは盛り返し、5人から10人の新しい部員を獲得できるようになったが、それでも女の子二人だけになってしまった代もあった。しかし、その時も上と下はかなりの人数がいたので、ピンチにはならなかった。そんなとき、施設とそしてOB会がしっかりあれば、切り抜けていられる。
ところで、その頃海洋大学潜水部にはOB会が無かった。
 

1222 夢のカレー

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 学連の話が続いたので、ちょっと間をおくために、夢のカレーの話をしよう。
 

 夢のカレーだけど、金谷に行くたびに、お世話になっていた、保田のパロパロアクアサービスに行く途中で、大きな看板があって、日本一だとか、誇大広告であったとしても、気になる。行こう行こうとは思っていても、保田には、番屋という漁師食堂があり、若干の義理もあるので、そちらに通ってしまって、夢のカレーには、行かれなかった。
 東大の小久保と一緒の時に、思い切って入ってみた。写真には、2008 と出ている。


 お客など、一日に何人という程度だとおもうけれど、その時には別の一組が入っていた。
 おじいさんとおばあさんがやっている店で、なんとも不思議で、しかも、そうだろうな、と思う感じで、ガラクタや、絵がかかっていたりする。
 食べた味は、懐かしい感じで、これまで食べたことがあるような、ないような味、もう一度来たいね、と出てきたが、どうしてももう一度行きたいというほどでもなく、もう一度と思っているうちに、廃業して、無くなってしまった。

 金谷もなんとも納得のできない経緯で、潜れなくなってしまった。金谷については、別の機会にブログを書きたい。
 

 ゲッツ板谷という人、わりとフアンで、よく読んでいる。
 その板谷もこのカレーについて書いている。
 「味に驚くほどのこくがあってさ、店の雰囲気も、ライスも全部ダメんだけれど、カレーのルーだけは、そのすべてのマイナスを吹っ飛ばすようなうまさでさっ!!」と書いている。
 多分、メガネのおじいさんは、死んでしまったのか、あるいはあまりにもお客が来ないので、やめてしまったのかだけど、店は無くなってしまった。結局僕も一度しか食べていない。しかし、無くなったとなると、もう一度あの不思議な空間で、不思議な、つまり「夢のカレーを食べてみたいとおもっている。


1222 シンポジウム 

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 それにしても、この学連の話題が長くなっている。
この一年2014年のずいぶん大きな部分、長い期間を、シンポジウムで学連のことをテーマにするために、思い悩み、もうやめようと思ったりもした。そして決行した思い入れがある。2014年度の備忘としてどうしても、書き残して置かないと、次の展開にならないし、年を越せない。

ここで、少し、東京海洋大学から離れて、12月7日のシンポジウムで作ってPPのアウトラインからSAIの部分を抜き出し書き写しながら経過を説明する。

1.学連については、二年が一年を教え、三年が監督する体制で指導が進行する部が多い。
各部に安全対策の委員がいる。トレーナーもいるし、みんな、一生懸命にやっている。そしてその過程が大きな教育効果をもたらすことも知っている。しかし、客観的に見て、「何もなければ良いが?」という心配が常にあった。繰り返していうのだが、学生の部活としてのダイビングは自己責任ではない。元来自己責任であるスクーバダイビングで自己責任ではないのだ。誤解の無いように言っておくが、自己責任だから、一般のレクリエーションダイビングでインストラクターに賠償責任がないという意味ではない。自己責任と賠償責任とは別の次元のことだ。賠償責任は、命が失われた事による遺族の逸出利益について賠償するもので、失われる命は賠償することはできない。失われる自分の命については、自分の責任で確保しなければならない。
学生の部活動では、その自己責任であるべき生命についても、指導する者は責任をもたなければならない。人の命に責任など持ち得ないが、教育の一環として行われる部活動であれば、学校の責任も問われる。

当時発生した、大瀬崎での学生クラブ(学連ではない同好会)の事故があり、世話をしていた「羽衣」が、あれは前の晩に酒盛りをやりでたらめだ聞いた。学連の報告書をみても、飲酒の可能性が高い。式根島での自分のダイビングは、学連の合宿の宿とは別のサービスを使っているが、学生の宿を引き受けられない、半ば嫉視もあるのだろうが、学生の行動はあまり評判がよくない。もしもの場合には周辺の人の評判が大きく斟酌される。

2.2003年SAIを結成した。
当時、学連の各クラブの監督・コーチ、OBとのおつきあいは全くなかったので当時の学連の執行部と語り合って、二年と一年を監督する三年生の資格を作ろうとも考え、スチュウーデント・アシスタントインストラクターというタイトルで研修会を開催した。
学生の学生生活についての知識も無く、これが不可能であることを知らなかった。学生が現役だけで、安全管理、危機管理の向上を図る方策はこれしかないと思った。

3.東京医科歯科大学の真野先生、順天堂大学の河合先生と相談して、バックアップをお願いした。そして、第一回のSAI研修から、医科歯科大学の教室を借りて、真野先生、河合先生、そして山見先生(当時医科歯科大学)の講演を聞くことにした。これによって、もしも、学連に事故が起こって訴えられた場合。安全対策についての研修を、医科歯科大学で、行っているということで、真野先生、河合先生に鑑定書を書いていただき、危機管理の役に立てたいと考えた。もちろん、安全管理の方策を検討するのだから、安全にも役立つ。もちろん、これによって責任を免れるものではないが、マスコミ関係の野放しであるという非難を躱すことができる。前の法政アクアの事故では、マスコミの報道が遺族を痛く刺激し、真相が知りたいということで遺族の意向が大きくなって、訴訟の行方に影響した。もしも、あの時にSAIのようなものがあれば、その場にいた学生が訴えられるとしても、早く和解が成立したと思う。
そして、このSAIの時に、現役の学生執行部と、監督、コーチの間の連携が全く無いことを知った。学生を通して呼びかけても監督もコーチも存在が感じられなかった。

4.2006年
学連には、の安全対策主将会議というのがあるが、報告書を見たことがなかったので、そんな会議があると知らなかった。SAIを通して、危機管理についてのアンケートを依頼し、2006年の報告書をもらった。主将の危機管理について、まったく牧歌的であり、学連として、規範を考えて行かなくてはならないと思った。

5.2008年
学生がどのような練習をしているのか、そのマニュアルを書いてもらった。よくできていて、今もあまり変わらないと思えるので、報告書に載せた。
この2008年に学連の40周年記念のパーティ、学連OB会が新宿住友ビルで開かれ、呼んでもらった。この時に初めて、僕の空白時代の母校のOBたちと顔を合わせることができた。
母校の水産大学にOB会がない。僕の責任だとかんがえて、これをきっかけにOB会を作るように働きかけた。

6.ここまでのSAIの付き合いで、学生には継続性が無いことを痛感した。そして、4年生は卒論、就活で忙しく、とてもアシスタントインストラクターなどやれないだろうということもわかった。2008年の学連OB会で知り合った、監督・コーチに働きかけ、今後は監督、コーチとも付き合い、SAIを一緒にやろうと考えた。

7.2010JAUSを結成して、その第一回のシンポジウムで学習院大学監督の宮崎さんにお話をしていただいた。SAIを通じた現役との連携に加えて、コーチ監督とのおつきあいができれば、その融合もできるのでは、そしてさらに医科歯科大学での研修会を続ければ、と想定していた。
2011年、3月18日に監督・コーチを集めたミーティングを計画していたが、東北大震災で流れた。

8.2012年、SAIの休止。学生がSAIの研修会の代わりに、ベテランインストラクターの話を聞く会を設定した。学生としては、真野先生らの安全についての話に飽きて、もっと具体的な話を聞きたかったのだろう。SAIは、SAIで別に実行されることを、依頼したが、行われることがなく、こちらもJAUSに忙しく、フォローが無かった。

9.監督・コーチの方向では2012年、芝浦工業大学、2013年、中央大学の報告をシンポジウムでしていただき、監督・コーチの視点からのクラブ活動については、理解することができた。
10.2014年には学連の加盟大学からのアンケートを書いてもらい、これらを総合して報告書に掲載した。これによって、現状の関東学生潜水連盟の全貌がわかる、はずである。

12月7日のシンポジウム
次々と卒業して行ってしまう学生だけでは、将来の50周年を語ることはできない。監督、コーチ、OBと、現役の学生、次の年度の執行部と同じ壇上に登って話をすれば道がひらけるのでは、とパネルディスカッションを行った。

まとめ 次の展開
監督,コーチが居る大学、あるいは、ここにOBがおいでいただけている大学でも、それぞれ、自分の仕事に忙しくて、自分が監督する部で精いっぱいであり、学連にまでは気が廻らない。
監督、コーチの横の連絡は無い。
顧問の先生は名前だけの部も多いと推察できる。
孤立無援の中で頑張っているのが現役の学連執行部のようにみえる。
危機管理ができるバックアップ組織が必要だと思う。ただし、OB会だと、OBでない監督、コーチ、顧問を包含できない可能性がある。潜水医学、スポーツ医学、法律の専門家がバックアップする形、そして、現役が担当を決めて、運営する。SAIには担当が居たはず
社会スポーツセンターのバックアップも考慮に入れたい。

 これにそって、来る12月29日に、12月7日のパネルディスカッションのメンバーが再度集まって今後の展開を議論し、打ち合わせする運びになった。

1224 海洋大学

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 学生のダイビングについて、これで確か9回目になる。 学連と関係ない方々には、無縁のことだと思うが、現役の学生も読んでくれていると、この前の忘年会で聞いた。

 再び海洋大学潜水部に話をもどす。潜水部は1957年の創部だから、素直に計算すれば、2007年に創部50週年を迎える。だから2007年に50周年記念行事をしたいが、2007年当時、まだ潜水部のOB会がない。そのことは、潜水部との付き合いを再開した40代1994年から、気になっていた。1957年に僕、須賀と一級上の竹下さん、橋本さん、一級下の浅見らとダイビングクラブを作った。やがて、潜水部になるが、前身のダイビングクラブ時代から年齢を数えている。竹下さんはお元気だが、橋本さんとは連絡がとれない。浅見は亡くなってしまった。竹下さん、僕が元気なうちにOB会を作りたいと、連絡のとれるOB、すなわち、僕が教えていた14代あたりまでの、39代以降に声をかけて、辰巳の国際水泳場でスキンダイビングを楽しむ会を開催した。これを契機として、OB会つくりに持って行きたいとかんがえた。
 しかし、欠落していた15代以降と39代までのOBがわからない。その辺りが実は他の大学ではOB会の中心になっている。また、現役との接触は35 代の藤村くん、その前後が関わっていて、中間の彼らが抜けたままでOB会はつくれない。2007年の通算50年になってもその動きはない。
 そんなことをしているうちに、2008年に学連のOB会、新宿の住友ビルで学連の40週年を記念するパーティが開かれた。学連のOB会という組織は今でも存在しないから、この時はどういう仕組でパーティができたのかわからない。とにかく、僕のところにも通知が来たので出かけていった。その席上で、現役当時学連委員長で、真鶴潜水禁止問題にも尽力したという24代の下元くんらと出会い、僕も人集めと発起人になるからOB会を作ってくれるようにお願いした。 
なんだかんだと、2009年、ほぼ一年、まだ大学院に残っていた、45 代の今泉くん、49 代の戸田くん、を通して大学の研究室、教室を借りて、毎月のように集まった。こんなものは拙速でいいと僕は思ったのだが、何かと議論が多く、それでも2009   年の 1月に50週年を記念して、OB会が設立され、記念誌を発行する事ができた。2007年が50年目だが、部活動では、50年目、2007年に入学した現役が50代であり、その50代が3年になり、執行部になるのは、2009年だから、209年でも良い。なんだかわからないけれど、僕が潜水部を作った時3年であり、2年、1年もいたのだから、理屈に合わないものでもない。
計算はよくわからないけれど、そろそろ60周年になる。月刊ダイバーに連載していたニッポン潜水グラフィティは、僕の水産大学時代のダイビングシーンが前半を占めているし、潜水部を作った時のことも、詳しく書いている。

 その出版記念会があるので、これを機会に潜水部も出席して人間関係を新しくつくろうと下元会長にお願いした。出版記念会には下元会長はじめ、OBが数人、現役も一列に並ぶほど、きてくれて、やはり、こちらからお願いすることが大事だ。
ちょうど学連の委員長も海洋大学潜水部の筑紫君だったし、スポーツ大会のカメラも例年通りに協力してくれた。それを契機として、現役が、辰巳のプールのスキンダイビング練習にも、そしてお台場の潜水にも来てくれるようになった。こちらも現役の子たちは可愛い。できることは、何でもしてあげたい。執行部交代のパーティにも出た。
そんなことで、12月20日にOB総会があり、その後での忘年会があると通知が来た。かなり、日が詰まってからの連絡だったので、先約があり出席したいけれど、できないと、メッセージを送った。ところが、先約がドタキャンになり、行かれる事になり出席した。この会も、僕の欠落している20-30代が中心であとは現役だった。僕としては、積極的に失われているリングのこの人達とのコミュニケーションを図りたいと、ほとんど料理には口をつけないで、鍋のうどんだけ、みみっちいけれど、そうして席をまわり話し合いもした。
まだまだ海洋大学潜水部は分断状態で、3つの年代セクションに分かれている。14代以前をつなぐ輪は僕だけしかいない。60周年には、これが融合できるように努力をしよう。

関東学生潜水連盟の、僕が周年行事に呼ばれている法政、中央、芝浦工業大学、ほか、監督、コーチがしっかり定まっている大学はともかくとして、多分、その他の大学では、さまざまな事情でOBが分断していて、それが、各クラブの現状につながっているのだろうと想像する。それぞれの事情だから、どうする事もできないが、OB会がまとまっていないと、現役に人数が1-2名になった時に切れてしまって復活ができなくなってしまう。

頂いたコメントへのお礼。

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 コメント頂いたことについての返信の仕方が今ひとつわからない。書いていただいたコメントをクリックすると、頂いたコメントの時の部分がでるので、それにお礼をかいているのだが、届くかどうかわからないので、ここに、投稿してしまう。

 どうもありがとうございます。学生のダイビングにこだわっているのは、レクリエーションダイビングのすべてが商業スポーツになってしまうのは、健全ではないと思うので、自分の想いを書いています。時代の流れは商業スポーツだとおもいますから、力を抜くと消滅してしまいそうですので。学生スポーツとしてのダイビングがどんなものなのか、どうあるべきか、わかっていただけると嬉しいです。

頂いたコメントを貼り付けるのを忘れていた。


 コメントさせて頂くのは2度目となります。 ヒット数は上がらないとおっしゃられますが、私は常に拝見させております ので今後も記事を書き続けて下さい。 今年の2月のバリ島での事故が報道されてから、かなりダイビングの在り方 について真剣に考えるようになりました。 そうして、ダイビングとは を益々考えるようになり、偶然こちらのブログと出会いました。 私も生涯を通してダイビングを愛し、継続していけるよう 努力を続けて行く決心をしました。 これからも須賀先生がこれまで培われた知識をフルにお教え いただけますようよろしくお願いいたします。


1225 学生のダイビング(10)

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 学生のダイビングについて、これで10回になってしまった。もう少しお付き合い願いたい。幸いにして、こんなことは面白く無いだろうという僕の心配をなにかと励ましてくれる方たちがいる。

 それぞれの大学、何がしかの問題を抱えている。報告書のためのアンケート調査をみたら、学習院大学も、3年1名女子、2年1名男子、宮崎監督、そしてコーチもいる。これでは、学連のことなど考えていられなかっただろう。若いOBということは今年の4年だろうか、力を注いでくれて、1年は男子5名、女子4名と理想的な形になった。ようやく、今年、今度のパネルディスカッションにも出ていただくことができた。
海洋大学にしても、OB会からシンポジウムに出てきてくれたOBは、ゼロで、とうていそこまでは手が回らない。SAIをやっていた時、OB会が相手にしてくれなかったこともうなずける。
 監督、コーチにしても、自分の部で精一杯、そして、監督とかコーチとか定めていても、現役学生の合宿とかツアーのすべてについていけるものでもない。今年度、芝浦工大の足立顧問は、八丈島合宿を許可しなかった。足立先生の場合は、現役との直接的な接触、つまり一緒に潜水したり教えたりする事が多いので、見知って、肌で感じている学生の実力、そして心構えを把握しているから、計画書を見て、これは無理と判断したのだろう。
 何も見ない顧問は盲判を押すしかない。学生の自主性は尊重したいけれど、やはり、責任を持って判断するスーパバイザーが必要だ。

 そんな状況を踏まえて、12月29日にパネルディスカッションにでてくれたメンバープラスαでミーテイングが開かれる。時期も時期なので、学生の参加は前学連委員長の筑紫君だけだ。彼もすでにOBだから、現役は一人も参加できなかったことになる。
 しかし、とにかく監督、コーチ、OB会長が集って、会議を始めることができるようになった。僕としては、ようやく年来の目標がひとつ達成できた。
 これがどういう組織になり、どういう名称になるのか、自分なりの考えは持っているけれど、それは出さずに、バトンタッチをしよう。ただ、海洋大学はOB会からの出席がないから、その役割を果たすことはできる。組織が決まれば、そこでの集まり、シンポジウムもできるだろう。状況によっては、日本水中科学協会と共済でも良い。学習院、芝浦、中央、法政、海洋大学、今回集まる5大学、司会をしてくれた高野くんも日本水中科学協会の会員である。
 
 残った問題、ペンディングになっているのは、サークル、同好会と学連加盟の部の問題だ。
 先日の海洋大学OB会の忘年会で、現役今度三年の岩田くんと、サークルと部活動の問題について、語り合って、ずいぶんいろいろなことがわかり、自分の考えをまとめる、まだまとまってはいないが、ある程度、形づくるのにずいぶん役に立った。もう一度、ここで海洋大学のダイビングサークル「アビス」についてネットからコピーしたものを出そう。

東京海洋大学非公式ダイビングサークル”abyss..."へようこそ!
「ABYSSは、東京海洋大学の学生を中心に活動しているダイビングサークル。
スキューバダイビングを通じて、海を全身で感じることの素晴らしさを伝えるため、2004年に設立されました。主な活動場所は、真鶴(神奈川県)・伊豆半島。現在のメンバーは約80人。男女比はほぼ1:1です。
スキューバダイビングのみならず、イルカウォッチングをはじめとしたスキンダイビング(素潜り)も積極的に行っています。
また、サークルメンバーの海外研修先は実に多彩。サイパン、パラオ、フィリピン、タイ、インドネシア、エジプトなど…さすが、といった感じです。
ライセンス取得は個人の自由ですが、ステップアップを目指す学生は、1年生の6月にOW(オープンウォーターダイバー)、10月にAOW(アドバンスドオープンウォーターダイバー)、12月にレスキューダイバー、そして春休みに海外でDM(ダイブマスター)の資格を取得する流れが多いです。」

 学生がダイブマスターになり、インストラクターになって、教えている。順繰りに上級生がインストラクターになって行く。全員がPADIだから、PADIのシステムが大学の中にあると思えばいい。
 学生スポーツではなくて、商業スポーツだといったけれど、純粋商業スポーツでもないし、もちろん学生スポーツではない。ハイブリッドであって、かなり上手くできている。
 
 多分、海洋大学の潜水部では、面白さ、楽しさでは負けると思う。
 そして、安全については、潜水部の方が安全だなどというのは思い上がりで、事故死のチャンスは同じようなもので公平だ。その事故の場合、アビスは、PADIのインストラクターの事故処理で解決してしまう。一方、潜水部の方は、それでは済まない。学校当局としては、タイトルに非公式と書いているのだから、どうにもならないし、責任を取る必要もない。アドバンテージは向こうにある。
 多分、学連でも、同じようなクラブになっている加盟校もあると思う。
 岩田くんは、アビスはダイブマスターが中心であり、PADIのインストラクターも何人かいる。こちらは、単なるC-カードだ。学内では見下されているようだ。
 向こうから見れば、こちらは馬鹿に見えるだろう。
 では、どうすればいいのか。
 この問題についても、OB会が本気になって取り組んでやらないといけないと思う。こちらのアドバンテージは、歴史とOB会だけなのだ。海洋大学については、OB会を作っておいて良かったと思う。
 では、具体的にどうすればいいのか。それぞれの大学、それぞれのOBで考え方は違うと思う。僕の意見はあくまでも私見だが、こちらにあるものを生かさなければいけない。
 ①OBと現役との付き合いをできるだけ親密にする。その中でダイビングについても、人生についても、教えられることがあれば、教えてあげる。僕はそうするつもりになっている。
 ② 体育会系とサークル系の違いを、良い意味で作ってゆく、酒の一気飲みとか「オース」という挨拶などはマイナスだ。きちんとした人間関係を作る修練ができるようにする。JAUSの中尾先生(早稲田大学教授)がいいことを言っていた。現在の学生は、就職に有利になること以外に良いことだとは思わない。就職についてのアドバンテージをつけることで学生は集まる。良い体育会系が、仕事にも人生にも有利だということを、自覚させ、アッピールする。サークル系、軽薄、体育会系、ピシっと礼儀正しい。
③伝統を誇りに思えるような、伝統にしてゆかなくてはいけない。
④フリッパー競泳などを通じて、学連の活動をきっちりと、しっかりやってゆく。足立先生の発表で、学連が、本学のためになるのか、という言葉があったけれど、それを考えてもらいたい。古びた言葉だけれど、各大学は学連のために何ができるのかを考えて、学連という活動の場をしっかり固めて置くことが、それぞれの学生の活動を広げ、それが本人のためになると思う。学連とは、学生の社会的な活動の場であり、トレーニングの場になるようにしなければいけない。そうなるように、ここでも学連のOBが、何かをしてあげなければいけない。

 要するに、サークルと部活動の違いは、もちろん、部活動が楽しいものでなければいけないが、楽しさの上に、本人、自分たちの人生のためになるのだ、ということよりほかに、僕には思いつかない。そして、常に最悪の事態を予測して努力して、活動する3年間というものは、商業スポーツ的サークル活動では、身につかないものが得られる。

 サークル活動というものが、競争者としてあることを、自分を磨くために良いものだと思う必要がある。つまり、サークルがあるために、自分たちのあり方を真剣に考える事ができる。でなければ、こちらも非公式サークルになってしまう。

 海洋大学潜水部について言えば、サークルのダイブマスターなど、足元に寄れない、技術的アドバンテージを持ってもらいたい。

1226 人工魚礁インターバル撮影(1)

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 生きているうちにやっておかなくてはならないと思っていることが次々とあるが、学生のダイビングについて、そして人工魚礁調査を新しい視点から見てみようという二つのテーマが現在進行形だ。人工魚礁調査に関わって50年を超えるが、人工魚礁調査の手法もどんどん進化して、計量魚探だとかROV、データ解析の方法とか、すっかり科学になった。と同時に一箇所の魚礁調査にかかる費用が大きくなり。調査される魚礁がわずかになり、そして調査結果は、専門の研究者以外はわけのわからないものになりつつある。科学的に探求することは無論大事だが、漁業者を始めとする一般社会の人には、国が大きな予算を投じて作った魚礁がどうなっているのか、魚はどんな魚が、どんな時期にどれほど集まっているのか、それを数字と、出来るならば絵で見たいというのが普通だろう。数字は数字だけならば客観性がない。数字を裏付けるデータが必要だが、フィールドでの客観的で、誰にでもわかるデータは、写真、画像である。60歳以降、その方向にこだわっていて、65歳の頃には、全国豊かな海づくり大会の前身である全国沿岸漁場振興協会から小さな写真集を出させていただいた。今度はレクリエーショナルダイビングの活動として、楽しみながら人工魚礁調査をできないものか、とこの計画を始めた。要するに、人工魚礁に潜って魚の写真を撮れば良いわけだ。ただ、写真を撮るだけだと、調査にならないので、インターバルカメラを設置する手法を中心にしようとしている。

    僕の人工魚礁写真集

 ダイバーは、原則として、水中でなにもしないでいても楽しい。生きている力をとりもどす。だから、何もしないでも良いのだけれど、人間、何かをしないではいられない。
何かをすることは楽しい。一番最初は、魚突き、スピアフィッシングだった。人には狩猟本能というのがある。そして、狩猟したものを食べることに、原始的な喜び、本能的な喜びがある。しかし、スピアフィッシングは規則で禁止されている。それに、趣味的に生き物を殺すという行為はするべきではない。まあ、複雑だけど、1967年に、もうスピアフィッシング早めようとみんなで決議をしたとき、次の行為として、銃をカメラに持ち替えた。カメラで何をするのか?

 探検と、冒険との違い。冒険とはなにか、探検とはなにか?この数年考え続けてきたが、目下の結論は、探検とは、調べること、そして記録すること、記録したことを発表すること、と考えている。調査とは、探検なのだ。レクリエーショナルダイビングとしてのリサーチは、実は、サンゴの調査、環境調査、あるいはイルカの生態調査、など、様々な形で、レクリエーショナルダイビングと結びついている。

人工魚礁の調査を仕事とした時期が長くある。その仕事も少なくなり、加齢のためもあるけれど、仕事にならなくなった。
 人工魚礁の調査は楽しい探検だ。その楽しさを、一緒に行動しているレクリエーショナルダイバーに伝えたい。分かち合いたい。一方で、レクリエーショナルダイビングのポイントに人工魚礁が増えている。人工魚礁がダイビングポイントになり、人気もある。

 千葉県内房には、人工魚礁群がたくさんある。自然礁、と比べて、人工魚礁のほうが多いくらいの水域だ。その人工魚礁調査が殆ど行われなくなって久しい。旧友である荒川さんがやっている波佐間海中公園は、人工魚礁公園とも言って良い。
 この夏から、日本水中科学協会の水中映像研究会のテーマとして、人工魚礁調査を取り上げて、今度で三回目の調査となる。8月21日が第一回で、とりあえず、ダイビングポイントになっている、人工魚礁に潜った。波佐間ではドリーム魚礁とよんでいる、ソフトコーラルの花園のようなポイントがある。その隣の3m角の魚礁に潜って撮影した。二回目が10月30日で、これは深い、40mにある高さ12mの鉄骨魚礁にインターバルカメラを垂直3段に設置して撮影した。この成果は12月7日のJAUSシンポジウムで発表して、報告書にも記載した。これは、今後こんなことをやりますよ、という報告であって、これからが展開である。

 12月23日、本当に押し迫りつつある年の瀬、に計画した。23日は祝日で、荒川さんのところは、今年度最後のかき入れだろう。商売の邪魔をしたくないので、別の日に、水中映像研究会の会長である山本さんと二人で、(他の人は休みがとれないので)気楽にやろうか、とも考えた。調査としてはそれでもいいが、楽しさの追求、みんなが楽しく思ってくれるか、楽しさをともなう調査としては、二人では目的は達成されない。荒川さんにお願いして、祝日の23日に押しかけることになった。

 参加メンバーは、山本会長、増井さん、小俣さん、清水まみ、福田くん、そしてぼく、石川さんは、スキーツアーの後だから、来られるかどうかわからないということで、ペンディングのままで、来られなかった。
 ところが山本さんは、風邪で倒れ、増井さんも、当日朝、ドタキャンの風邪、参加したのは、福田くん、小俣さん、清水さんと僕の4人になった。
 調査仕様書を下に示す。


 今回は、昭和56年、1981年に沈設された、0.8m角のブロック、およそ120個の魚礁であり、これは、1981年当時、並型魚礁、つまり当時のスタンダードと考えられていた規模の魚礁である。この水域の魚礁は、この1981年頃が沈設の始まりであり、これが一番岸にちかく、次が1983年のタイヤ魚礁、そして、今ではドリーム魚礁と名付けられているのは、1998年の2m角のコンクリートブロック、そして、2010年には、10月に見た鉄骨魚礁と、岸から沖へと展開している。魚礁の間の間隔は、100m前後である。 図で見るだけで11の魚礁がある。とりあえずはこの全部を見て行きながら、調査方法を確立してゆこうというわけだ。


 前回、10月30日は、12mの高さの鋼鉄魚礁だったから、3基を垂直連結して、海底から、3m,8m.そして13mと三段重ねにロープで連結した。今回は、延縄方式に、40mのリールに巻いたロープに10m間隔で4基を海底からの高さ、2mに、これをAラインとする。これとは別に、2基を12m離したBラインを作り、二本のラインを作った。

 メンバー4人に、ガイドとして荒川さんがついてくれ、荒川さんは定置網作業ダイバーのベテランですごい人だから、水中での作業指導、手伝いをしてくれる。僕と山本さんの二人で何とか出来るかと思うのは、荒川さんをチーフダイバー的な戦力と考えたからだ。

     小俣さん


     清水まみ さん

 二本のラインを小俣、清水組が荒川さんと一緒に、設置する。僕はカメラを船上で、福田さんとともにセットして、水中の二人、+荒川さんに降ろす。それから、僕と福田さんが潜り、福田さんは全景の撮影、僕も設置状況を確認しながら撮影する段取りだ。

僕の手持ちカメラはGoPro3と、SJを2つ並べたセットを手持ちで使う。

AラインはGoPro2が3台とGoPro3が1台ノ4台、BラインはAEE21を2台、すべてウエアラブルカメラである。福田くんは1眼レフ、最高級の1DX で撮影した。
 僕は、ドライスーツで、ウエイトがジャケットノ7キロ、腰に4キロ、足に1.4キロ、合計で12.4キロ、それに12リットルタンクで、重くて、立ち上がってバックエントリーすることもできず。僕のスタイル、這って、サイドロールで飛び込んだ。情けないといえば情けない。水中に入っても、毎度ダッシュで鍛えているつもりなのに、体が重くて、水面移動では、思うように進まない。飛び込んだその場でヘッドファーストで潜り込めば良いのに、その日一回目の潜水では、潜降ラインを手繰って潜りたい。

     ロープの絡みをなおす荒川さん

僕が海底に降りる頃には、全部のカメラの設置がほぼ完了していたので、簡単に設置できたのかと思ったが、後で清水まみがつけていたマスクマウントの撮影で見ると、海底でロープが絡んでしまって荒川さんが苦労して解いている。荒川さんでなければ、うまく行かなかった。この方法、この細いロープではだめだ。次には別の方法を研究しよう。

 

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1227 人工魚礁インターバル撮影(2)

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細い、リールのコードを使ったのだが、これは失敗。次回は、鉛を織り込んだ調査用沈みロープを使ってみよう。これまでの千葉県乙浜の調査では、400mの長さの沈みラインで、ライン調査をやっていた。


AとB,二本のラインの設置状況を手持ちカメラで撮影する。4基のカメラ、が付いているAラインは途中で折れ曲がってているが、これは魚礁の上に張り巡らされた、ガイドラインを避けて、入れたためにこうなったのだろう。水底からの高さ2mは、少し高すぎて、魚礁のブロック群が映らないのかなとおもう。
高さ2mと言うのは陸上では高く感じないが、水中でのダイバーの目線は、水底から0.5mだから、2mはずいぶんと高い。

下を見て、ラインに沿って撮影して。終了、、浮上しようとした。まだ、残圧が100ある。僕の空気消費量が一番高いのに、他の三人は浮上してしまっていない。悪い癖で、全員がベテランだということもあり、この調査では、範囲が限定されているし、ボートの直下だからということもあり、サイドバイサイドのバディのブリーフィングをしていない。僕は自分のチームのつもりになっているが、実は混成、即席チームなのだ。考えなくてはいけない。浮きかけて、上を見ると、メアジの群れ、そして、10cmのイサキの若魚の大群が目に入った。2mラインは正解だったかなと思う。僕が一人だけになってしまったことが、怪我の功名になって、イサキの群れが戻ってきたのだろうか?中層に張り巡らしたガイドラインは、4個のブイで連結している。これから、上に向かってボートに至るラインが見つけられない。残圧は50で、十分にあるのだが、ちょっと焦る。昔ならばそのまま浮上してしまうだろう。多分、ボートとの距離は30mもない。それが、今の習慣で、ロープにつかまっての安全停止がいつの間にか、擦り付けられている。まあ、空気が少なくなったら、そのまま上がることにして、焦らずに探そうと思うのだが、土地勘がないので、上へ向かうラインが見つけられない。

その時船の上では僕の気泡が右往左往しているので心配し荒川さんが飛び込んで降りてきてくれた。こちらはホッとして、彼について行くのだが、速度が違うので、ようやくついて行く。それが、荒川さんなのに、浮上索が見つからずに、また戻ってきて、ロープを指さしてくれた。斜めの上に上がっているので見つけにくかった。荒川さんは安全停止などせずにスイと上がってしまう。昔の自分の潜水と同じだ。僕はちょっと3mで停止して、上がった。これも、このようなリサーチダイビングをする場合の問題点だ。
 潜水開始 1138 潜水終了 1211 潜水時間33分
 最大水深23m 平均水深18.4m 15.8℃

午の潜水は、僕は加わらずに、舟の上でのカメラの引き上げと整理格納をした。

東京に戻って、すぐに撮影した映像のPCへの取り込みと整備をした。
手持ちのSJは、何故か収録がされていなかった。飛び込んで潜降するときに、余裕がなく、ならんでいる、GoProだけしか確認していない。飛び込む前の確認ではまわっていた。衝撃で、止まってしまったのかもしれない。頻繁に確認しなければいけない。

設置したAライン4台のG0Proのうち、G0Pro3がこれも収録されていなかった。G0Pro2の、3台が働いた。魚礁の外側に設置した2台のAEE21は、健全に動いていて、ボートの上に上げてもまだ動いていた。結論として、この調査にに限って言えば、やはり、前から予測していたように、AEEがベストだろう。

 撮影されている時間は、11時50分ぐらいから、14時30分ぐらいまでで、5秒間隔で、例えばG0Proの1では 1154   から 1438   の間、AEEで1129 から1427  の間である。舟の上から投入して、安定するまでの時間は削除して考える。また、ダイバーが魚礁の上に泳いでいる時間も、魚群が安定しないので、考えい入れないとすると、12時から14時 30分ぐらいの 2 時間30分 が正味撮影時間ということができる。

撮影間隔は5秒で、あるから、1台が1800 枚、で5台で9000枚である。9000枚というと大変なように思われるが、PCの上に広げてしまえば、3時間程度で片付く。後でもう一度、報告書を書くときに精査するが、今日のところは雑でよく、それでもおおよその見当はつく。

 魚礁上の3台(G0Pro2)のうち1台は、高さが低く、魚礁とほぼ同じ高さで撮影している。残る2台は設定通り、2mの高さで撮影できている。
 魚礁と水平の低いカメラでは、魚礁のブロックに群れるネンブツダイと、やや上の方を泳ぐネンブツダイの群れがいる。


13時26分に出現したヒラメ、ネンブツダイが姿を消している。

   ヒラメが去ると、ネンブツダイが現れて群れている。

   コブダイの小さい個体が現れるが、ネンブツダイはそのまま。

 ネンブツダイの他には、ミノカサゴ1尾がカメラの周辺をうろついている。小さいコブダイと、タカノハダイが撮れている。ヒラメ、あるいはカレイが、2回、魚礁の上すれすれに通過した。その通過するときだけ、魚礁の上あたりにいるネンブツダイが消える。ヒラメが餌にしているのだろう。
ネンブツダイは骨ばかりという魚で、煮ても焼いても、食べられない。つまりなんの価値もない。魚礁に集まる大型魚の餌になるから、そのために大型魚を集める効果がある。役に立っているという考え方があって、胃の内容物を調べて、ネンブツダイがあったという発表もされているが、それも例が少なく、魚も食べない魚だということで、魚の捕食揉まれだということで、魚礁の上から逃げないで、大量に群れていられるのかもしれない。 魚探で調査すると、このネンブツダイとイサキの区別がつかない。一緒に群れている場合もある。イサキは有用魚だから、その区別ができるこの設置カメラと魚探の併用がが有効である。設置カメラを置いて、その周辺を魚探で調べて群れの広がりを見るという手法も考えられる。予算がゼロだから、僕たちはそこまではやらないが、やったところで、新しい知見が得られるものでもない。これで十分と思っている。

この低い位置のカメラで、イサキの群れが写ったのは、2時間半の間で、一度だけである。

 イサキは10cm前後の若魚で、これまで館山の調査では、11月いっぱいで、この大きさのイサキは見えなくなっていた。12月も中旬なのに大きな群れが見られた。荒川さんによれば、例年同じように見られているという。次回を1月中旬に予定しているので、その時は見られるだろうか?

 続く

1228 潜り納め

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 12月28日、もう3つ寝ると、大嫌いなお正月がやってきます。またひとつ年を撮り、今年出来たことが、新しい年にはできなくなるのです。
 愚痴を言っても仕方がない、今年度最後の潜水、月例のお台場です。最後という言葉は縁起がわるい。潜り納めです。魚礁の話は先に送って、潜り納めのことを。
 昨日は中川の60歳還暦のパーティがあり、行ってきました。60歳、若くていいな。昔の須賀スクールが、幸せに年をとるのはうれしい。しかし、しみじみと、すでに世を去った、昔のメンバーのことを思ったり、
話題を変えて、毎週、毎月、どのくらい潜るのですか?と聞かれました。毎月、5日は辰巳のプール、2日は浦安のプール、スキンダイビングのトレーニングです。月に一回、最終日曜日がお台場の定例調査、東京港水中生物研究会です。館山の魚礁研究会をこれも月一にします。幸いなことに、中尾教室の無脊椎動物の採集、安全スーパバイザーの旅行が年に3回、2014年は、地中海の旅に連れて行ってもらうことが出来ました。他に豊潮丸の航海、他にも1-2回、レクリエーショナルダイビング的なツアーは、GWに東伊豆似、1泊、伊豆大島の海豚クラブのツアーは季節ハズレの台風で、中止、年に何日ぐらい水に入るかと言うと 7日×12がプール、2×12日が定例の海、無脊椎動物が期間は長くても正味潜る日は少ないので、今年は8日ぐらい。レクリエーションが2日、ざっと136日は水に潜っています。今年出来たことが来年できなくなることが、少しでも少ないように、ストイックにできる努力をします。「アスリートの魂」どっかで聞いたな。

 「須賀さんはもうタンクを背負ったら一人では立ち上がれない。タンクを外して、引き上げてもらわなければ船に上がれない。」とあざ笑うような口調で言う人がいます。カチンときますが、いやいや、ありがたいことです。それにたいする反発心が自分を支えてくれます。

   カバー写真です。ハゼの類、ありふれていて、周年見るんですが、ヒメハゼ?アゴハゼ?スジハゼ?写真から断言できるほど、魚の種類に詳しくないのです。報告書などでは、ハゼの類 ですませてしまいます。


    風もなく、いい天気でした。陸上を撮るのをわすれていた。

 今日のお台場、水温10℃ですから、ドライスーツです。7キロのウエイトジャケット、4キロのウエイトベルト、1.4キロのレッグウエイト、合計12.4キロ+タンクが12キロはあるでしょう。低い台に腰掛けて、タンクを背負ます。人の手を借りないで立ち上がることはまだまだ容易です。正式にはバディが向き合って手をかけて、バディチェックをします。若い海洋大学潜水部の後輩が、来ていますが、感心にきちんと互いにチェックをしています。僕の場合残念ながら、バディの相手を立ってチェックする余力はありません。手を添えられるのは拒否します。自分で自分の事もできないと言われるのは嫌です。立ち上がり、一人で、渚まで30mほど歩きます。カメラを砂浜に置き、あんまり砂の上には置きたくないのですが、仕方がありません。マスクを着け、フィンを履きます。これが難行です。座ってフィンを履いたらもうたち上がるのがつらい。ダイブウエイズのスーパートライスターにつま先を入れ、体を曲げて、フィンのベルトを引き上げます。引き上げやすいように、輪になっているので、このフィンが一番いいのですが、それでも、この引き上げに息が切れます。誰かが近くにいれば、ちょっと引っ張ってもらうだけなので、頼むこともありますが、原則として一人でやります。両足のフィンを履き、マスクを着け、て、後退りするように水に入ります。砂浜の砂が、フィンの裏に吸い付くようで、足を運ぶのが難儀です。ここまでの動作で、心臓の鼓動が、激しくなります。
ドライスーツのネックで首を締めて、心臓に負担をかける動作をして、冷たい水にはいる。体に良いわけがないのですが、これをやらないと、元気を取り戻せないのです。
 膝の上、もものあたりまで水が来たら、膝を折り曲げて、もう一度マスクをチェックして、レギュレーターを咥えて、ドライスーツの空気を抜き、体を反転させて、水平にうきます。レギュレーターのセカンドステージはダイブウエイズの最新型で、テストをたのまれています。ほとんど呼吸抵抗がなく、空気が流れこんできます。水に入る、潜水反射の徐脈もあると思うのですが、心臓の鼓動が普通に戻ります。

 本当は水平姿勢でトリムをとって、フロッグキックで、泳がなくてはいけない。練習にならないと思うのですが、この状態では無理です。フラッターキックで進みながら、カメラのスイッチを入れ、ウエアラブルカメラの動画撮影を始めます。このカメラはエントリーからエキジットまで回り続けます。オリンパスのTG2を並べていて、これは、被写体を見つけて、スチルを撮ったり、動画をとったりします。

      
上から見下ろした時には、水が澄んで見えたのですが、入ってみると、濁りが雲のように広がっていて、雲の中に突っ込むと、透視度は50cmぐらいになってしまうのです。
潜水区画の最先端の、あたりまで、魚を探しながら行くのですが、本当に、カニも魚もどこかに潜り込んでいるらしく、動くものとていないのです。

目標の杭のあたりも濁っていて、ヒメホウキムシぐらいしか撮影するものがありません。オリンパスのスーパーマクロで、動画とスチルを撮ったのですが、これは毎度おなじみの画です。


帰途は、一応水平姿勢で、フロッグキックで泳ぎます。水深4mまで降りると、水全体が、透視度30cmの濁りです。雲海飛行のつもりで、コンパスを見て、もどります。北東方向で出発点に戻れるはずです。しかし、何も見えないので不安になり、計器飛行は中止して、水面に顔を出します。やはりだいぶ東に流れているようです。といっても、50mも泳げば戻れます。
エキジットは、膝をついて、フィンを後ろ手で脱ぎ、立ち上がって歩くので、フィンが砂に吸い付くこともない、やや楽です。

2回めの潜水は午後で、ドライスーツの水没訓練になった海洋大学の学生は2回めはパス。ドライスーツは、必ず水没するもの、3年も使っていれば、必ずと言えるでしょう。その時に焦って事故にならないように、僕が使えなくなったドライスーツでもぐらせています。それでもウエットスーツよりも温かいだろうと言ったら、微妙なかおをしていました。水温は10℃です。いまどきの学生がウエットスーツで潜れる水温ではありません。30分以上潜っていて、沖でスレ違いました。
 



2回めの潜水は、少しは体が慣れたので、フィンを履くきつさなどは変わらないのですが、水に入っての動きは良くなっています。今度は積極的に魚を探すつもりで移動します。良さそうな岩陰に体を腹ばいにして落ち着きます。見回すとムラサキイガイの大きいのが会ったので、殻を開いて、海底に身をむき出しにします。これで、カニとハゼは来るだろう。見守るまもなく、小さいイソガニがちらって動く姿が見え、恐る恐る、餌に近づきます。ハゼも岩の下から出てきます。小さいハゼが3尾、見ているうちに餌に食いつきます。これを撮影しているうちにオリンパスの電池がなくなるサインがでて、そろそろ帰ろうと残圧を見ると30,一本で2回潜るので、100で午後の潜水を始めると、当然、ゼロになる理屈です。水深は1m以下の浅さですからたちあがれい、背泳ぎで泳いでゆけば、なんともないのですが、一応、空気のあるうちに帰ろうと戻ります。なんとなく急いで、帰りついたらちょうどゼロになりました。
2時30分潜水終了。潜り納めでした。
 

1230 人工魚礁(3)

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      カンダイは、餌付けされていルので逃げない。

 イサキの大群は2mの高さのカメラの位置から下まで降りてくることが、2回ほど撮影されているが、2mよりやや上から、かなり高い位置まで、魚礁の上を覆う帽子のような形で、右往左往している。魚礁の上から外側まで、かなり広い範囲で動いているが、その範囲はわからない。ダイバーが何人も泳いでいる時には遠ざかっている。カメラには大型の30cmほどの、メアジが20尾ぐらいの群れて写っている。40位上のイナダも数は少ないが写っている。これらがイサキを捕食のために追っていて、それを避けてイサキの群れが動いている。
「これらを総合して見ると、魚礁の隙間から直上、1m、場合によっては3mあたりまでネンブツダイが覆っていて、ヒラメ(20-30cm)が時折、通り過ぎる、この時にはネンブツダイは隠れる。魚礁の上、3mから上に、これも魚礁の上から、その周辺にかけて、10cm-15cmクラスのイサキの大群がいる。そのイサキを捕食しようと、、30-40cmのイナダと20-30cmのメアジが外縁を周回していて、時折、魚礁の中に突っ込んでくる。」



       イナダ

 このパターンは、この館山内房付近の魚礁で典型的パターンとも言え、このパターンが成立している魚礁は成功していると考えて良いだろう。

 魚礁の外側、2mほど離れた位置に設置したAEE 2台には、スズメダイのまばらな群れ、多分マツバスズメダイ、と、イナダ、メアジが撮影出来ているが、イサキの群れは接近してきていない。遠くに1度見られただけである。

 なお、カメラを設置してから、しばらくの時間、20分ぐらい、カメラを船に上げてしまってから、また20分ぐらいの時間、20分×2回 40分ぐらいは参加したダイバーが自由に泳ぎまわって、フィッシュウオッチングの撮影時間が取れる。これが、従来の潜水観察で、定性、どの種類がいたかの撮影観察になる。この間に見た、あるいは撮影した魚種と大まかな数をリストアップする。(まだやっていないが)これは従来の魚礁目視観察調査になる。今回の調査では、設置カメラに写らず目立った魚は、メバル、オオモンハタで、この魚礁でつい最近、巨大魚、タマカイが見られていて、期待していたのだが、どこかに去ってしまっている。もしも、タマカイがいれば、魚礁の上での動きを追うことができたのだが、仕方がない。荒川さんは、まだ、どこかにいて隠れているのだというが。

 総合して、次回からの事を考えると、魚礁の低い位置からの観察撮影は、フィッシュウオッチングの撮影で事足りるから、高さ2mが標準でいい。透明度が10m以上あれば、魚礁中心に1基、外周に1基あれば、その魚礁群については、事足りる。ここ波佐間で考えるならば、タイヤ魚礁と2m角、の魚礁など、何箇所かの魚礁を同時に撮影観察すれば、同時期、同時刻での比較ができる。時期の良い時に、10-20台を用意して、一斉に4-5箇所の魚礁調査も考えよう。

 次回は、80mほど離れた、魚礁の間の砂地で撮影する事を予定している。二つの魚礁の両方に一台づつ、間は、20m間隔で3台、計5台で撮影する。多分1月中旬になるので、魚の数も少なく、動きも少ないと思われるが、四季を追っての比較もしたい。総じて魚礁調査は魚の数がいないと、効果がないように思われていたが、何時が多く、何時が少ないかを季節を追って調べてゆく事に意味がある。

 なお、従来の魚礁調査は、魚礁メーカーの依頼で行うことが多く、そのメーカーの魚礁の効果を見なければならなかったから、選択的に魚の数を追っていて、正しい評価ができなかったきらいがある。
 
 
 

1231 学生連盟

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  2014年も今日まで、 今年のシンポジウムは、関東学生潜水連盟にこだわった。しかし、なんども途中でやめようかともおもった。こんなことをしても、なんにもならない。しかし、2003年からこだわってきたことだから、なんとかまとめておきたかった。水中科学協会の報告書は関東学生潜水連盟特集のようになった。ここまでの学生連盟のことがすべてわかる。ここから先のことは分からない。
 あと、たしか2年で50周年を迎える。
 思い切って予定通りに進めた。
 そして、一作日 29日、シンポジウムのパネルディスカッションのメンバーで、延長戦をやった。3時から6時頃まで、懇親会を入れれば10時までだ。
 僕の気持ち、予定としては、このメンバーで、学連を支えてゆくなにか組織、グループを作り、書記を決めて、50周年に向けて活動を始めたかった。
 しかし、それぞれの温度差がある。OB会がしっかりして、監督もしっかりしているクラブ、集まってくれたメンバーは、自分のクラブは大事にしているし、努力をしているけれど、学連については冷たい。
 現役学生と、監督たちが語り合う初めてのチャンスを作るつもりだったのが、現役は芝浦工大の何人か、これは会場を芝浦工大にしてもらったためだろうが、他の大学は学連元委員長の筑紫くんだけ。これではおわらせられない。かなり強引に次のミーティングを3月21日、春分の日にきめた。この日には、現役がかなりきてくれるだろう。その後、どうなるか、変わりがあるかといえば、望みは薄い。
 年が開けたら、今度の報告書を学連現役全員に配りたい。
 始めたことは死ぬまでやめないつもりだから、その後も、出来る努力はする。
 そんな思いのうちに、、このテーマも年を越す。

1231  2014年 カウントダウン

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2014年、平成26年の回顧

ホームページ、「須賀次郎の潜水」に載せた。これをしておかないと、後で、何時、何をしたのかわからない。

1月10日、後藤道夫、お別れの会、12月20日没 生涯助けてくれた親友

後藤道夫は、その年の10大ニュースのように、スケジュールノートの一日を1ヶ月にしたものを書いていた。僕はそれを見て、ニッポン潜水グラフィティの時系列を確認して書いた。

 
 
一緒にした最後の仕事、原発事故、水中でのスペクトル分析装置を製作、でもまだこの装置は世に出ていない。

  2月2日 水中科学協会第三回シンポジウム
会 場 東京海洋大学品川キャンパス楽水会館
プログラム
1 南部もぐり(ヘルメット潜水)の伝統と各潜水機実習  
  岩手県立種市高等学校 海洋開発科  下川 顕太郎
     コメンテーター 須賀次郎
2.中央大学海洋研究部の活動紹介
  関東学生潜水連盟 中央大学海洋研究部
    中央大学海洋研究部  藤島靖久 監督  齋藤慶介 主将 
3 ダイビング事故防止について事故当事者の視点から 田中恒明   
コメンテーター 久保彰良
4.レクリェーショナルダイビングと人工魚礁
   独立行政法人水産総合研究センター 
          水産工学研究所 高木儀昌 
5.ウエアラブルカメラ研究会映像作品発表
        コメンテーター  齋藤真由美
 総合司会  早稲田大学先進理工学部 教授 中尾洋一 

 2月22日 法政大学アクアクラブ50周年式典

  校歌斉唱


  潮美、充君 夫婦  充君は法政アクアのOB会長を務めていた。僕はその縁で法政アクアと親類になっている。



 3月
  工藤和由くんと共著の出版。規則改訂があるので、今後の大きいテーマにして行く。
 規則は僕達でどうにもならないが、潜水士テキストの良否は、評論してゆかなくてはいけないと思っている。バカバカしいことがかいてありすぎる。潜降索をどうあつかうか、今度は純酸素の呼吸がむしろ薦められるだろうが、その様子は?


 
5月


 5月GWのツアーは、東伊豆 富戸、赤沢、小学生の時からスキンダイビング、そして、スクーバダイビングを教えて、一緒に遊んできた村上緑は大学生になった。
 隣は、浦安海豚倶楽部会長


 辰巳国際水泳場でのスキンダイビングトレーニングは、毎月4-5回
 この日は空いていて、気持よくフリスビーができた。



 浦安運動公園のプールでは、年に2回、スキンダイビング教室をやらせtもらっている。これは5月のスクール、毎週火曜日で4回で終了、これは5月27日。

 浦安海豚倶楽部 毎月2回の月例練習、これで15年目、今では、僕よりもフリッパーが速い、人ばかり。



 7月
7月2日-9日、豊潮丸航海、早稲田大学中尾研究室と、今年は日本海周航  僕の背丈が縮んだみたいで、一番小さい。



 
ニッポン潜水グラフィティ出版、7月26日石川さんの隅田川花火大会 90冊も売ってくれた。



 8月
地中海の旅、中尾研究室 8月29日ー9月6日  写真はジェノアの近く、・ポルト・フィーノ

久保彰良 さんと一緒でした。どこから撮っても形になるダイバーです。

 ナポリから30分のイスキア島。
イスタンブールのグランバザール、イスタンブールは、往復トランジット、往路は一泊で街を歩くことができた。

8月から、レクリエーショナルダイビングとしてのリサーチダイビング、千葉県館山、内房の人工魚礁すべてを潜ろうという計画をスタートさせた。

 9月
26日、白井さん、久保さん、吉田さんのアレンジで、ニッポン潜水グラフィティの出版記念会を開いて頂きました。
120名がおいでになり、古い友人も何人か来てくれました。


 海洋大学潜水部

 お台場海浜公園に、東京港水中生物研究会というタイトルで、毎月、最終日曜日に潜って撮影調査をしています。9月は、今年一番の透視度で、2mも見えました。
イサザアミのようなプランクトン。
トサカギンポ、かわいい魚なので、お台場のマスコットにしようかと

 
 11月  10-14日 奄美大島中尾研究室の採集 メンバーは中尾先生、町田くん、石橋くん、
須賀でした・


 11月23日、全日本水中スポーツ室内選手権に出場、50m泳いで最下位、とうとう、最下位を泳ぐひとになったか。しかし、トレーニングは続けます。



 JAUS 第4回 ダイビング活動(運用)研究シンポジウム
12月7日(日曜) 東京海洋大学品川キャンパス 楽水会館
1.テーマ1 ダイビング運用の安全管理と危機管理 10時~12時 
「関東学生潜水連盟、50周年を迎え、これからの50年を考える」。
発表・パネルディスカッション・フリートーキング、
① 学連のこれまでの歴史と現状の問題点について、: 須賀次郎
パネルディスカッション
 司会 高野修(筑波大学大学院 高度競技マネジメント研究室 研究員) パネラー
① 学習院大学宮崎雅博、②中央大学藤島靖久、③法政大学OB会長、宮城良和 ④2014年度学連委員長、筑紫哲矢(海洋大学)⑤芝浦工大 足立吉隆、
⑥日本水中科学協会 須賀次郎
パネルディスカッションの延長の形で会場を含めたフリーディスカッション
2.テーマ2 ダイビング技能と理論 13時30分~15時(10分の休憩時間を含む)
 「プライマリーコースについての概要」
JAUSの行っている技能講習会であるプライマリーコースについて、講習会の映像を映写しつつその内容、今後について発表
 報告書の内容:JAUSプライマリーコースの概要として、その技法(スキル)のすべて
3.テーマ3  水中撮影 15時~17時 
 報告書の内容: ①、水中映像撮影の現在のトレンド ② ウエアラブルカメラのマウント ③ 棒の先に付けたカメラの撮影法 ④ マスクマウントカメラに寄るイルカの撮影について ⑤ ウエアラブルカメラを中心とした撮影調査について、


 並べてみると、この年齢にしては、よくやったと見えるけれど、本当のことを言って、夏には、ギブアップ寸前だった。だれも、心の問題は助けてくれない。登り続けるしか道はない。そんな年だった。
ただ、病気をしなかったことは、助かった。もしかしたら、多分、白井さんのやっている、AOA のSOD様食品を飲み続けているから、だろうか。新しい年になっても、何かが変わるということのない年齢だが、年が明けて、おめでとうのあいさつは、ダイビング賛歌にしたいとおもっている。


0101 年頭にあたって(1)

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 あけまして、おめでとうございます。今年から、ブログのロゴ画像を変えました。
 

今年もよろしくお願いいたします。できるだけ、毎日、ブログを書きたいと思っています。頭の中に浮かんだことが、リアルタイムで書けると良いなと思っていました。この頃では、キーボードに向かうと、ほぼ、そんな風になってしまいます。だから、分量が膨大になってしまうのです。ブログは下書きだからそれでいい、あとから整理すれば、とおもっていたのですが、この前の、学生連盟のテーマのように10回も連続して書くと、どこに何を書いたのか整理ができなくなってしまうので、書き方を変えなければいけないのではないか、と思い悩んでいます。企画書はPPで一枚最悪でもA4 二枚に抑えるようにしていますので、いいのですが、その企画書をみてブログを書くと、多くなってしまいます。高齢の障害かも知れません。ここまでがまえがきで、まえがきの多いのも困ったものです。今年から、「まえがきは「ですます」でかき、本文は「である」で書こう、と心に決めたのですが、どうなりますか。

 テレビは殆ど見ない。水中撮影ものでも、よほどでないと見ない。でも、大晦日の紅白は、原則として見ることにしている。理由は、世の中と自分との距離感がつかめると思うからだ。ダイビングだけに凝り固まっているから、そして、付き合うのもその関係者ばかりだから、世の中が見えない視野狭窄の世界に生きている。

 で、紅白を机の横に置き、ヘッドフォンで音を聞きながら、ホームページにだした「2014年の回顧」をブログに書きなおしていた。紅白のいいところは、歌詞がテロップで流れることで、耳が遠い僕にとっても、何を歌っているのかわかる。しかし、このごろの若いひとの歌、歌詞は意味不明、感覚的な言葉を並べているのだが、テロップで流れれば、何を言っているのかわかる。なんか、背のやたらに高い女の子が出てきて、手旗信号のようなバックダンサーで歌っていた。だれだかわからない。でもまあいいか、目は惹きつけられ、テロップの歌詞はわかった。耳からの音では、何を言っているのか判断できない。
 五木ひろし、(これでいいのかな?)が出てきた。山口洋子が9月に亡くなったという。横浜たそがれ を歌った。たそがれのころの山口洋子は、美人だったな。そのころからだろうか、切れ切れの言葉を並べて、歌詞にする、新しい形の演歌が持てはやされるようになったのは、それにしても、歌うメロディが自分の頭の中に残っているのと違う、20年ぶりとか30年ぶりで出る歌手は、古い歌とはちがう感じを出そうとしているのだろうか、その後に出てきた、石川さゆりの天城越えも、聞くたびに違う歌のように聞こえる。
 耳が悪くなって、音程が捉えられなくなっているのではと心配したりする。ヘッドホンで聞いていればよく聞こえるのだけれど。
 そして、紅白の会場に来ないで、中継で出てくる人が多くなっている。中森明菜はニューヨークからだし、サザンは横浜 長渕剛も東北からだった。
 でも、これだけの事を全部ぶっつけ本番でやるのは、あたりまえだけれど、すごい。
 かつて、ニュース・ステーションで水中からの中継で、苦労した。中継は、今でも大変だろう。
 トータル的に言って、久しぶりに見るからだろうか、テレビは面白い。今年も一年、絶対とは言えないけれど、見ないようにしなければ、今はブログを書き、メールを見て、フェイスブックもやって、その上にテレビを見たら、本を読む、勉強する時間が無くなってしまう。
 正月三が日には、月刊ダイバーの連載原稿も書かなくてはいけない。水中科学協会の名簿の確認整理、企画書は、人工魚礁調査について、80歳80mについて、そして、水中科学協会の運営委員会、理事会の原稿も書く。
 読もうと思って、ブックオフで買ってきて、読みかけているのは、「精神と物質:利根川進:立花隆」 序に変えて、で渡辺格 が書いている。「近代自然科学は物理化学、あるいは物質の研究を先頭にして発展し、それが、今日の物質文明繁栄をわれわれにもてらした。しかし、1960年台ぐらいから自然科学の方向は大きく転換して、物質の研究から生命の研究へ、さらにそれを超えて精神(脳)の研究へと向かってきている。つまり、自然科学の最前線は化学を含めた物理化学よりもむしろ生命科学になっていると言ってよい。」
 僕は生命科学はちんぷんかんぷんだ。僕も生物学者の端くれだと思っているけれど、僕の生物学と今の生物学はまるで違う。そんなことを僕にもわかるように説明した本ではないかと期待して読み始めた。立花隆は、いろいろあるけれど、少なくともわからないことをわかるように説明することについて、賭けている人だと思う。

 でも、映画を見にゆこう。映画も見ないといけない。何を見ようか。映画も不作だ。絶対に見ようと思うようなものがない。ブラッド・ピットのフユリーか?ネットで調べたら、もう11月からやっているので、一日と二日で終わる。18時15分からだ。

0102 初詣

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  正月2日は、事務所に行って年賀状をピックアップする。そのまま。街へ出る。街は門前仲町、富岡八幡と深川不動尊が隣接している。初詣の人出は、どうだろう。僕の場合、元日は映画、2日が街の様子、初詣だ。
 そして、深川門前仲町は、東京で5本の指に入る縁日、フェスティバルだ。一位はどこだろう。明治神宮か靖国神社かな。どちらも行ったことがない。それとも浅草の観音様か?日本人は信心深いのだろうか?神も仏もなく、お参りが日常の中に染みこんでいる。日本は自由で良い国だ。

 地中海の旅以来、イタリア、塩野七生を読んでいたが、宗教の争いで、戦争が起こるヨーロッパとは大きな違いだ。靖国だって、そんなに拘ることもないと思う。こんなことで、戦争が起こったとすれば、特攻隊で散った若者は可哀相だ。その若者時代の僕、つまりギャングエージの高校の時、靖国に行ったけれど、裏手の方に秘宝館があり、それはパスして、隣の山形山中で生まれた熊娘、という見世物小屋を見た。ただ、毛深いだけの女の子だった。参拝のついでに、首相がこっちも見て行ったら、中国の反応はどうだろうな。それよりも、日本の右翼は?

 縁日の屋台、は、本当にありとあらゆる、店が出ている。今回初めて見る店も幾つか。

 これ食べて見たかったが、パス。来年にしよう。


  事務所からのコースだと、深川八幡から、別にたいした列ではなかったが、最後尾という札を見てUターンした。お参りはお不動様にしよう。八幡様は、夏の神輿でいいや。

 もんじゃマンというのを食べた。500円は高い。味は値段の割には美味しくない。


  トルコのケバブ、全部で4軒は見た。日本人はケバブが好き。2014年の地中海の旅で、イスタンブールでケバブを食べた。日本の屋台と比べてどちらが美味しいか?食べ比べてみようかとも思ったが、本場の味を忘れてしまっているから、意味が無い。それに大枚500円を投じる価値がある比較とも思えない。のでやめた。



 そして、ここからが深川不動尊。
 



 お賽銭は、小銭入れに入っている全部を掴んで、財布を軽くした。多分、400円ぐらいかな。

 護摩は、ディズニーランドのエレクトリカル・パレードのようなもので、撮影禁止、一昨年だか撮影してバチがあたった。お不動様は剣を持って睨んでいるから怖いのだが、隠し撮り。本当は動画で撮りたいのだけれど、お不動様ではなくて、警備員に捕まってしまう。

 不動尊から八幡様へ続く、地下鉄とかでくると不動尊が先で、八幡様へとコースが続く、その道にも屋台がいっぱい。

 ここで、変なおにぎり、肉巻きおにぎり、を買って食べた。これも500円、変な味だった。


 ここで引き返して、門仲の交差点にもどる。

 大阪焼きをたべた。200円、これもピンとこない味。

 
ベビーカステラは、何軒も、多分4軒は見たが、このカステラが、いつも繁盛している名店だ。しかし、それにしても、過去何年かの最長の行列だ。よほど根性を入れないと、このカステラは食べられない。普段も出ている店なので、何回も買っているが、甘さの具合が微妙で、あんまり甘くなく、素朴な感じでなんか美味しい。


 戻ってきて、ヤフーのニュースを見ると、箱根駅伝の往路は青山学院大学が優勝。記憶の範囲では初めてだ。復路がわからないけれど、往路の箱根の山登りが花だ。抜いて快走だから、青学卒業生は泣いて喜んでいるだろう。良いお正月でおめでとう。しかし、関東学生潜水連盟の青山学院は、ほぼ消滅状態、復活の見通しはない。意地をみせてくれないかな。

0103 ダイビングとは(1) 冒険

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 ダイビングってなんだ。ダイビングでする活動って?長らく考え続けてきた。そのことを年のはじめに書こうと思う。偉そうだけど、80歳になり、60年もダイビングを続けてきたのだから、まとめてもいいだろう。


 長らく考えたということは、長らくの途中での変化があり、変化の幅が大きい。
グラフィティの時代、20歳代は、何も考えずただただひたすらに潜りたかった。一番幸せな時期。ダイビングを仕事として選んだのだが、仕事の幅が大きい。
人間が直接に水の中に入ってすることはすべてダイビングである。水の中の仕事は、陸上での仕事と同じだけのバリエーションがある。60年やっても、そのすべてを体験したとはいえないけれど、たいていのことはやった。
悪い癖で、長くなるので、結論を先に言ってしまおう。ダイビングは冒険的スポーツで、さらに、一般社会でスポーツとみなされない労働、作業もダイビングで行うと冒険スポーツになってしまう。港湾作業も、調査研究も、すべて冒険スポーツになってしまう。少なくとも自分の場合には冒険スポーツのように潜水の仕事をやってきた。スポーツとしてしまうと、一面商業的成功から自分を遠ざけることにもなったと思うけれど、後悔はしていない。そのために続けられたし、現在生きている。

ダイビングは冒険的スポーツだから、冒険とは?スポーツとは?も考え続けてきた。
冒険とはなにか、スポーツとはなにか定義しなければならない。これも、グラフィティの時代、60~の時代、そして今と大きく違っている。
ここでは今について書くのだが、あくまで、僕個人の定義である。
定義とは、自分で考えた、現在の時点でのまとめである。そしてこれは、あくまで個人の考えだ、普遍的な定義は、辞書を見れば出ているが、辞書でもひとつの言葉に対して、いくつもの答えが載っている。そして、辞書の定義は、参考でしかなく自分のものではなくい。
 そして、自分の結論は、体験、あるいは読書などで、コロコロ変わって行く。
 定義は十人十色だろう。どれが正しいかを論じることは、大きな意味があり、その議論が、ダイビングで一番のテーマである安全にもつながってゆく、何も考えないほうが、本能と動物的感覚に従った方がいいかも知れないが、体験的に言えば、20代は幸運の女神が後ろにいた。30代になって本気で考えるようになったが、それでも考えが徹底せず、言葉が足りなかったために、自分が不在の場所だったが、事故を起こしてしまった。人の考えと行動は一致しないのが当然、当たり前だが、考えと行動の不一致が事故につながる。

冒険とは?Wikipediaで調べると、「冒険(ぼうけん)とは、日常とかけ離れた状況の中で、なんらかの目的のために危険に満ちた体験の中に身を置くことである。あるいはその体験の中で、稀有な出来事に遭遇することもいう。こうした冒険の体験者は多くの場合その体験報告を書いたりするが、荒唐無稽と一笑に付されることもあれば、またその内容に驚嘆されることもある。」

こうした冒険に敢えて挑戦する人のことを冒険者(ぼうけんしゃ)と呼ぶ。冒険には危険や、成果を上げられる確率の低さがつきもので、この意味でいつの時代にも未知なものへの挑戦、探検もすべて冒険と呼ばれてきた。新しい海路の開拓、山岳、アフリカの奥地、知られざる文明や文化の探索、自動車や航空機の速さへの挑戦など、すべて広い意味での冒険である。

語義は「険(けわし)きを冒(おか)す」。あぶないところにあえて(勝手に、ひそかに)入っていく意。英語adventureは投機、山師の意を含む。ラテン語ad+vent(外から来る、外からやって来た(~事件))。

冒険者として名高い植村直己さんは、冒険とは生きて帰ることが前提、つまり生きて帰れないこともある危険がある行為である。

僕も若いころは、冒険=危険と考えていた。僕自身も結果として危険になってしまった活動を冒険と考え、良い子の皆さんが真似をしてはいけないと、「冒険はしてはいけない」等と言っていた。

 今は、「冒険とは、困難が待ち受けているのに、あえて一歩を踏み出すことで、それが出来る人を冒険者である。」そして、何か困難があったり、辛いことがあると、「冒険なんだ」と呪文のように唱え、切り抜ける勇気を持とうとする。
週刊朝日の新年号をみたら、「2015 冒険者たち小泉進次郎、佳子様、大谷翔平、錦織圭、田中勝大、葛西紀明」と合ったので、買った。誰も、命を賭けてなどいない。でもそれぞれが挑戦者であり、そのことを冒険者とも呼んでいる。

ダイビングと危険を論じて。著書を何冊もだしている中田誠さんは、ダイビングとは、致死性の高い商業スポーツだと書いている。現状としては、そうなのかもしれないが、僕は、冒険的スポーツという言葉をとる。中田さんも、致死性の高い商業スポーツであってはいけないという意味で、書いているのだろうから、方向としては、ちがいはないかもしれない。とにかく、あえて危険を冒しに行く植村式冒険とダイビングを冒険的スポーツと定義する冒険とはちがう。いうまでもなく、植村式冒険が悪いとかいけないとか言うわけではない。そういう冒険もある。友人である角幡唯介は、そうゆう冒険家として、売り出し中である。

先に述べたように、定義とは十人十色である。冒険についても、同様で、絶対的に正しい定義などはない。僕は、ここでは、「ダイビングとは冒険的スポーツだ」というところからスタートする。

0104 ダイビングとは?冒険と探検

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  このブログをアップすると、それは、フェイスブックとツイッターに反映するようにしている。フェイスブックの方では、これを読んで、コメントしてくれる方がいる。それはとても参考になる。ダイビングとは、「命の大切さと生きていることを実感できる  そんなイメージです」そんなコメントをいただいた。とても良い答えだと思う。ではなぜ、命の大切さと生きていることを実感できるのだろうか?ここからの答えは人によって大きな違いがあるかもしれない。僕の答えは、もちろん、冒険スポーツだからだ。となる。
水中では、実に簡単に、「嘘だろう?」と思う感じで人が死んでしまう。そういう事故に3回出会っている。だからこそ、命が大事だという結論に到達するのだが、別の視点からみれば、本当に命が大事だったら、ダイビングなんてするべきではないとおもうのが論理的かもしれない。人はダイビングなどしなくても豊かに生きてゆかれる。
また、最先端の科学も、冒険するのでない限り、いまや有人、人間が水にはいること、ではなくて、無人で水中を探索しようとする。ジャムステックもとうに有人は視界から消している。
それでもなお、有人潜水をするのは、障害があれば、乗り越えようとして、乗り越えた時の、喜びがあり、生きていることを実感できるからだ。だから、冒険スポーツなのであり、(※スポーツについては後でのべる。)そこでは各人自己責任で命を大事にしなければならない。

 


ダイビングでは、いつも死神が隣にいるよう、思わなければいけないのだ。常に最悪の事態を予想しろというのがダイビングの鉄則の一つだ。最悪の事態がそこにある可能性があるならば、やめるのが一番安全だ。それでも行くダイバーは、もちろん死んではいけないのだが、僕の場合は自分の死の可能性をいつも、思いつめていた。だから、若いころ、僕は44歳で死ぬと思って、家族にもそうつたえていた。そのことを、娘の潮美は、朝日新聞の「おやじの背中」にかいている。「40で死ぬと言っていたのに、60まで生きて、さらにその先まで潜水するといっている。」生き抜いたのは、生存本能の方が強く、そして、運がよかった。こんな考え方をするダイバーは少数だけれど、かなりの人数がいる。
そんなダイバー気質を最もよく描いているのは、「木曜島の夜会:司馬遼太郎」だ。だから、誰彼となく、この本を薦めている。薄い文庫本のしかもその2分の1を占めている中編だから、ぜひ読んでほしい。面倒だから引用しないが、木曜島の白蝶貝を採るダイバーの10%は、死ぬか半身不随になる。木曜島の墓地には、日本人ダイバーの墓が林立した。親方はそんなダイバーを使って、大きな利益をあげる。それでも親方になれるのにならないでダイバーを続ける理由は、親方なんてつまらないものだからだという。当時のダイバーたちは、冒険的なスポーツマンであったと思う。
少し話が横道に進んでしまったが、生と死のすきまに身を置くから、生きていることの素晴らしさを実感でき、自然の中で自分を取り戻す活力を得られるのだ。と僕は思う。

話を元に戻して、グラフィティのころ、1980年ころまで、冒険は危険を敢えておかすものであり、探検は冷静に冒険を避けて、目的を達成する行動だと思っていた。そして世間一般の考えも、探検は良いけれど、冒険はいけないということだった。しかし、命を賭けることが冒険ではない。では、探検と冒険の違いは?およそ2年ぐらい、一生懸命考えた。ニッポン潜水グラフィティを書いている間ずっとと言ってもいい。
探検とは、「知的情熱の肉体的表現だ」という、英国のスコット南極探検隊のノンフィクションを書いたチェリー・ガラードの言葉が好きだ。古来、この言葉に魅せられて探検を志した若者は多い。だから、僕もダイビングを冒険ではなく、探検にしようと思った。
PADIも同じように考えたらしく、「ダイビングは水中探検です」と何かに書いてあった。
しかし、探検と冒険のちがいは?「「冒険」と「探検」の違いは、探検とは、帰ってくるかどうかです」と言った人がいた。で、冒険は危険、探検は安全?そんなことはない。探検とは目的意識が強いから、返って危険とも言える。先ほどあげた、英国のスコット探検隊は、全員が死んだ。命がけの探検は枚挙の暇もない。では、探検と冒険との違い、線引は?
また、ウイキでみると、「使われている漢字から意味を考えると『冒険』は危険を冒すと書き『探検』は探り、しらべると書く。冒険は危険な事にチャレンジし克服する事を目的とするが、探検の場合、未知なることを探りしらべる事が目的であり、その過程で危険を伴うことが多いため両者は混同されやすいが『けん』の字が異なるように本来別の意味である。」
冒険とは必ずしも危険なことにチャレンジしていることだけではないと、すでにのべた。危険を想定するけれども、危険を冒すことではない。昔は、僕も冒険とは危険を冒すことだとおもっていた。にも関わらず生きたのは、運が良かったことと、経験の積み重ねで、感が働いて。危険を避けられたからだ。だから、冒険とは、危険を前にして、危険を避けることで、「危険を冒すこと」という定義は、認められないが、「探検の場合、未知なることを探り調べる事が目的であり、その過程で危険を伴うことが多い」と言うのは半ば同意する。しかし、未知なるものが何を指すのか、もう地球上には、地理学的に未知なるものはそれほど残っていない。水中の殆ども、未知なる部分はあまり残ってはいない。未知なるものでなくても、調べる価値のあること、ほんの小さい未知、疑問でも、探査する必要のあるものを探り調べることは探検といえる。
僕の定義では、探検とは、探査、何かを調べること、そして調べたことを記録し、その記録に基づいて、世の中に公表、発表することとした。記録して発表しなければ、それは冒険であり、探検とはいえない。
こうするとほとんどすべての自然界の調査は、探検のカテゴリーに入れることができる。僕は自分の仕事、お金を稼ぐ仕事として、調査を行ったが、すべて探検のつもりだった。テレビ番組の撮影も、調べ、記録して、公表するのだから、探検とみなすことができる。

まとめると、あえて決意して、未知の領域に踏み込むこと、困難に立ち向かうことを冒険という。その冒険の目標が、調査、探査であり、その状況を記録して公表するものを探検という。

ダイビングで言えば、体験ダイビングは、それが初めての体験であれば、その人の生涯で最大級の冒険である。だからこそ、多くのダイバーは、最初に潜った時のことを生涯忘れない。

0105 スチルと動画

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 月刊ダイバーの原稿、お正月のうちに書かなければならなかったのですが、考えこんでしまっています。書きたいことの写真がないのです。今は画像が氾濫しています。その差が大きい。書きたい時点が1986年で、カメラは何台も持っていて、しかも、僕はカメラマンなのです。
言い訳の一つは、ビデオを撮るカメラマンで、それに集中していたこと。それから、一緒に動いていた監督の 監督の小早川さんが、僕に別のカメラを持たせなかった。仕事のカメラ以外を手にすると、露骨に嫌な顔をします。

それと、一緒に動いていた潮美が、ニュース・ステーションの専属になり、肖像権の一切が、テレビ朝日のニュース・ステーションのものになり、とある雑誌にスナップを提供したら、大問題にされたのです。潮美の肖像権だけでなく、TVロケの現場ではスチルととること警戒されます。どこかに出されたら、おおさわぎになります。テレビも映画も、舞台裏が製作者似意図とは、別の形で、出ることは、許されないのです。だから、映画ではスチルというスタッフが居て、専門に撮り、一元管理します。監督やプロデューサーがスナップをするのはいいのですが、メインのカメラマンがスナップをしていたのでは、職業倫理に欠けてしまします。一方で、スチルのカメラマンで名前のある人がテレビ番組のカメラをやるようになると、それはもう、仕方がない。左手にスチル、右手にムービーでも、大目に見てもらえます。それが今は、ムービーのカメラと、スチルのカメラが一緒になってしまっている。動画から静止画をとっても、4Kは、同等の画質になります。カメラは一つになっても、用途は一つではないから、プロとしては管理が厳しく要求されるでしょうが、1986年ですから、そろそろ、30年前ですから、もう良いのでしょうが、それでも、雑誌に使えるようなスチルを撮ってないのです。

0106 正月も終わり

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 正月終了




1日、映画 フユーリーを観た。ブラッド・ピット主演の戦争映画だ。なぜ、戦争映画なんて観るのだ。と自問したのは今回が初めてだ。これまで、なんにも考えずに、面白ければ映画は、何でもいいわけだから、戦争映画を観てきた。なぜ、戦争映画を観るのか、考えさせられた映画だ。今のアメリカがなぜ、第二次大戦末期、今少しでドイツは降伏する。そのことがわかっていて、しかし、降伏する前に沢山の人が死ぬ。そういう話だ。それをなぜ、今の2014年に作るのだろう。戦争に意味はない。人はただ争い、殺しあうということを言いたかったのか?フユーリーとは、ギリシャ神話の復習の女神で、凶暴とか、猛烈とかいう意味だという。
 今、ちょうど「とびきり陽気なヨーロッパ史、デランス・ディックス・ちくま文庫」を読んでいる。国と国が国境を接するヨーロッパで、縄張り争いを続け、人がころしあいの戦争を繰り返す歴史を陽気に描いたものだ。ヨーロッパの戦争の歴史がわかる。戦争を個人の視点で見ると悲惨だが、国と国との視点で、歴史的に鳥瞰して見ると、陽気な話になってしまう。個人の視点で見たら、悲惨でやりきれない。そして、相手を殺さなかったら、相手に自分が殺される。殺さなければ殺されるのが戦闘だ、という映画だった。

 二日は初詣に深川不動へ、このことは昨日書いた。
 三日は、駅伝を見て、年賀状を整理した。二日の初詣のブログをかいた。
 駅伝は、青山学院大学が初優勝、しかも、往路の箱根で優勝候補をねじ伏せ、その勢いで、復路は区間優勝を積み重ねて、二位との差を10分以上、もちろん、驚異的な新記録で優勝した。あまり今年の駅伝には熱心ではなかったので、詳しくは知らないが、青学が優勝するなんて予想をしたスポーツ評論家は居なかっただろう。
 およそ、競技スポーツで勝つためには、あるレベル以上の素質の選手を集めなければならない。だから、それは集めたのだろう。あとは、トレーニング+ピーキング+モメンタム+何か だと、フェイスブックに書いた。ピーキングとは、その時にベストのピークにもってくること、モメンタムは勢いだ。箱根の山登りで驚異的な記録で優勝候補の抜き去ったとき勢いに乗った。トレーニング+ピーキング+モメンタムは、すべて監督、コーチがつくり上げる。ダイビングの学連でも同様に監督、コーチは大事だ。青学の場合、最後の何か?は、楽しくやろうとしたことのようだ。楽しくなければ頑張れない。これまでの体育会系の駅伝は悲壮だった。楽しくしてしまったことが、もしも、優勝の原動力だったとすれば、これは革命的なことなのではないだろうか?
 僕自身の大学でのコーチングは、楽しくが、目標だったけれど、楽しく、真剣に、愚直に、だった。自分の会社スガ・マリンメカニックでも、楽しく仕事をしよう、だった。あんまり成功しなかったが、苦しんでやっても同じように成功しなかっただろう。ならば、楽しかっただけ良い。ただ、気の緩みは、ダイビングでは事故につながる。スガ・マリンメカニックでは、厳しい、きちんとやろうとした田沼の指揮で死亡事故が起こり、いい加減な僕の指揮では無事故だった。もちろん、いい加減だったから無事故だったわけではないが、結果は、厳しくでも事故はおこるということになった。「須賀さんが緩かったから、気持ちが緩んだ」という意見もあろう。結果がすべてで、議論は意味が無い。青学の優勝の原動力が、楽しさだったとすれば、それは、本当に大変なことだ。

 4日は、辰巳で、楽しく泳ぎ、沢山、上手な人たちが集まったので、フリスビーも最高だった。ここでは、楽しく自由に飛ぶ、フリスビーは空中戦のイメージだ。


 5日、の今日は、辰巳のプールを借りる抽選会、じゃんけん大会だ。昔、今から3年まで、僕はじゃんけんで無敵だった。それが、ある時から、負けが続いている。今回も必要十分なだけは、確保したが、じゃんけんでは負けた。最後に一回だけ勝ったのがなんとかなるところにつながったのだが、最初のステージでは負けている。じゃんけんの勝利の要素は、モメンタム(勢い)だと思う。いかにして、勢いをつけるかだ。若い、勢いのある人には敵わない。しかし、負け犬になってはいけない。
 ちなみにじゃんけんの結果だが、4月は、ダイビングプールは、5つ確保した。4月18日の土曜日について、じゃんけんに勝ッて取ったので、19日の日曜日、は連続二日になるので、降りてしまった。これがいけない。勝った勢いで、翌日の日曜日も取らないとモメンタムが逃げてしまう。深く反省している。 
 
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