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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1111 東京大学海洋調査探検部

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 11月8日、東大海洋調査探検部45周年、に行って来た。タイトルは、「海洋調査探検の現状と将来、次はあと5年で50周年だ。あと5年生きるのはしんどい。海洋大学潜水部はあと2年で60周年。関東学生潜水連盟はあと3年、みんな半世紀。それぞれ、関わって来たので、感慨は深い。東大の探検部では配ってくれたパンフレットにも、僕のことを書いてくれている。創部5年目より、須賀次郎さんの協力のもとに、部内でのトレーニング体系が確立されている。現在は、小久保英一郎さんと相談して作成されたメニューを採用している。創部5年目より、という事は40年前だ。この集まりの座長をしている柴山教授も、会長の高瀬さんも、顧問の茅根先生も、新たに顧問になられた山川先生も、大学一年生の時にしごいた。
 山川先生に12月7日のシンポジウムの案内を一枚渡したら、瞬間的にコピーを作って全員に配布してくれた。こういうところが東大的ですごいなと思う。10人は来てくれるだろう? シンポジウムでは、おなじように50周年を前にした学連がテーマの一つなのだが、どのくらい来てくれるだろうか。
ダイビングは致死性の高い商業スポーツだというけれど、とにかく真摯に取り組むことが、安全の第一歩だ。

 


 発表はみんな上手で、PPの使い方も堂に行っている。多良間の柳岡君のところに行ってサンゴ礁の調査をした女の子、棚谷灯子さん、発表、ライントランセクトを使った調査研究、沖縄多良間島の高被度サンゴ群衆とその分布様式」の発表だ。衛星からの写真で、「宇宙から魚を探す、リモートセンシングによる珊瑚礁の魚類に関する研究」をした澤山君は旧知。フィッシュウオッチングで魚種のランク付け、データベースを作る研究は、レクリエーショナルダイビングにも当てはまりそう。魚種ラン。ミシュランのもじりだ。石井君、古園君の発表。特別公演は「ストレス防御反応を担う神経伝達物質」鹿児島大学の桑木先生、この人もOBだが、教えた記憶がない。

活発な質問と議論がある。僕たちのシンポジウムは、どんなふうに演出しようか。やはり、PPを使った発表をきちんとして、議論に移らないと支離滅裂になるだろう。僕がすべての議題に絡んで講演するのも何か気が引けるけど、限られた時間を生かそうと、僕がテーマを選んでいるから、僕が話すほかないだろう。心配なのは耳が聞こえないので、十分なディスカッションができないのではないかということだ。テーマ①、ダイビング運用の安全管理と危機管理、「関東学生潜水連盟、50周年を迎え、これからの50年を考える」は、パネルディスカッションの形になる。東大のパネルディスカッションの形は参考になった。12月7日は、まず僕がPPを使って問題提起を10分ほど話して、壇上に各監督、学生2人ぐらいに上がってもらい。問題についての意見を話してもらい、会場とのディスカッションにすれば良いのかと。会場とのやり取りが僕は聞こえないかもしれない。誰かに援けてもらおう。
懇親会、知っているOBとは話しこんだけれど、プライマリーに来てくれていた子が誰も声をかけてくれない。ああ、東大生ってそうなのだ。でも、考えてみると、僕が同じ立場でも声を掛けには行かれないだろうけど。一年生の人なつこい女の子が声をかけてくれた。もちろん初対面。その子と話が弾んでしまった。
東大はやはり東大で、感心するところも多かった。
彼らが真剣に考えて、ダイビングに真摯に取り組んでいれば、ここまでのように事故は起こさないで、ここから先の時を刻んで行けるだろう。プログラムの基本はシンプルで良い。細部について、新しい技術を取り入れれば良い。プライマリーに来てくれていない子もかなりいる。とりあえずは全員に来てくれるように働きかけよう。
12月7日のJAUSシンポジウムでの、プライマリーの発表をどのようにしたらいいだろうか。ここまでは報告書の原稿に集中してきた。次は演出、そして集客だ。
これから、中尾先生たちと奄美大島にむかう。戻ってくるのは14日、出発前の朝、あわただしく書いた。


1111 奄美大島

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 奄美大島、瀬戸内町久根津というところに来ている。羽田を12時に飛び立ち、2時に大島空港、レンタカーでおよそ3時間弱で着いた。
 1955年だったか、大学2年生の時、ここに白井祥平先輩の手伝いで来て、ここで一か月滞在して、その間に生まれて初めてのスクーバ潜水をした。その辺のいきさつは、ニッポン潜水グラフィティに書いたのだが、それから50年近くたって、豊潮丸の航海で奄美に来て立ち寄り、太田君と潜ったのが、もう5年前、僕の記憶では3年前だけど、とにかく月日は矢のように過ぎる。そして、またここに来ることができた。
 僕が滞在していた家は、空き地になっている。交通は便利になったが、住んでいる人口は減ったのではないかと思ったりする。

 町の広場のようなところにある巨木は60年前と変わらない。浜辺の変わらない。沈む夕日も変わらない。明日、明後日とここで潜る。潜るポイントの波が高そうなので心配している。全体としては瀬戸内だから波静かだけれど、季節によって、風があたるところがある。風の当たるところが目的地だ。季節の風だから止むことはない。

 渚と沈む夕日はかわらない。


 昔滞在しお世話になった家は、今はない。

1114 奄美大島ー2

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 奄美大島ー2


 僕たちの今回のダイビングチームは、早稲田大学先進理工学部、中尾研究室、生物化学、バイオケミストリー教室のチームだ。今回の、と書いたけれど、目下の僕のダイビングチームは、この研究室のチームだけである。中心は中尾教授、学生2名、博士課程の町田君、修士1年の石橋君と、そして僕の4人だ。僕の役割は、安全管理、撮影記録。その昔は、潜水のコーディネートも僕の任務だったけれど、もともと、中尾教授は、ダイビングのキャリアは古く、そして、町田君も有能だから、僕は半ばゲストで行動してお任せしている。
 なんで、自分が生存するのに精いっぱいの僕が安全管理なのか?と疑問に持たれるかもしれない。それは、こういうことなのだ。と、自分中心に考える。自分中心に考えることは、ダイバーの特性だと思う。ダイバーでなくても、人間は自分中心に考えるのが自然だが、僕は、僕が生存できる範囲で行動する。そうすれば、若い町田君、石橋君、そして中尾教授も安全ということなのだ。と自分で自分中心に決めつけて、もっかのところ、日本で最も安全にダイビングをしているチームだと信じている。今、月刊ダイバーに続、潜水グラフィティを書いていて、僕の真夏の時代、1980年代前半のことを書いているが、スガ・マリンサーカスの時代で、大学生の娘、潮美がサーカスに付き合わされているところを書いている。どちらが安全か、常識的に考えればすぐにわかる。どちらが、すごいかと言えば、これもすぐにわかる。どちらもすごいと、自分では思う。
 たとえば、空気消費量を考える。今日のダイビングで、僕の残圧が50だとする。中尾先生の残圧は60、町田君の残圧は70だろう。体が小さくてバドミントンの選手だった石橋君は90-100あるはずだ。僕は自分中心で、自分のゲージを見て浮上を決めればいい。
 奄美大島現地のサービス、太田君も、僕たちのことはよくわかってくれている練達のガイドである。絶対的に信頼のおけるガイドないと今の僕は潜れない。むろん、僕のスタイルがベストだとは言いにくいが、一番弱い人をキーにして行動するというのが安全の鉄則だから、これで良い。
 
 今回潜ろうとするポイントは、中尾教授が決めている。彼は、この地域でずいぶんたくさん潜っているはずだ。バイオケミストリーのサンプリングでは超の字が付くベテランダイバーである。サンプリングの成果については、中尾教授の責任だ。

 季節の風が強く吹いていて、目標のポイントに潜れるかどうかわからない。
 僕はと言えば、東京でしばらくデスクワークが続いていて、悪くなっている。たいていの安全誓約書には、調子の悪い方は、申し出てくださいと書いてあるが、都会で暮らす、たいていの人は、いつでも調子が悪い。多分、中尾先生の調子も僕と甲乙つけがたいだろうと想像している。彼は、僕よりも慎重で、よくダイビングをパスすることがある。僕は調子が悪くても、ダイビングすれば回復すると知っているから強行する。死ぬときは、前もってわかると信じているが、一連のダイビングでの、一番最初のダイビングは、それだけ慎重になる。
 流れが1ノットぐらいある。僕は行こうと思ったが、中尾先生が1ノットよりも強いと判断して、場所を移した。100mも場所を移すと変わる。ポイントは大島海峡の出口に近い、安脚場というところで、いわゆるダイビングポイントだから、ボートを止めるブイがいくつも浮かべてある。
 タンクを背負うのが難儀だから、船尾の梯子のところに腰を下ろして、タンクを背負う。そのまま前のめりに水に落ちれば、すなわち、エントリーだ。流れがあるといやなので、水に入ったら、水深7mぐらいの海底で待っていて集合しようと決めた。

 11月12日、一回目の潜水
潜水開始1026 潜水時間50分、浮上1116
 最大水深11,4m 平均水深6.2m 水温25度

 僕のウエットスーツは、元 学生レンタル用にしていた、5mmの両面のワンピース、もう20年近い時代物で、保温力も古い。目下のところこれが体にフィットしている。新しく作る時がきているのだが、今シーズンのウエットは今日までだろう。その上に2mmのフードベストを着た。最初は寒くなかったが、次第に寒くなってきた。もちろん、耐えられない寒さではない。

 本当にこのポイントには採集するべき対象が居なかった。町田君がいくつか採っただけで潜水を終わった。船上は風が体にあたると水中よりも寒かったが、太陽が出たので、プラスチックタオルでスーツの上から体をこすって、しのいだ。
 お弁当を食べてから、移動、対岸のポイントで潜った。ここも、水に入った瞬間に期待できないと中尾先生が身振りで言う。2回パスするのは、まずいのか、潜水を続行した。
 いくつかサンプリングしたが、思ったような成果はなさそうだ。海が悪くて、潜れる場所が限定されるので仕方がない。

 11月12日 2回目の潜水
潜水開始 1241  潜水時間 57分  浮上 1338
 最大水深 12.2m    平均水深  6.6m   水温 24.8度
 透視度18m   

 学生二人は、トリムの姿勢をとって泳いでいる。中尾先生も、水平になっている。僕だけが、45度の自然体で、泳いでいる。水平姿勢については、中尾先生の方が、良い。


 トリム姿勢はJAUSのプライマリーコースの基本であり、コースを作った久保君にいわせれば、最近、PADIのC カードがこのスタイルを採用したが、それよりも前から、JAUSはそれを唱えている。僕も、およそ3年間、JAMSTECのプールでのコースに付き合って、練習を重ねているが、ものにならない。プールで練習している時には、形になるのだが、長い年月の習慣で、フィールドにでて、カメラを構えると、45度の前傾姿勢になってしまう。
 若い人たちなら、新しい習慣を身に着けることもできるが、僕はもうできないだろう。決してあきらめることはしないが、目下の状態では、、カメラを構えた状態で、トリム姿勢を撮ると、カメラワークができなくなってしまう

 

僕の今のカメラシステムは、オリンパスのTG2にワイコンを付けたものと、GOPROを並べていて、GOPROでは、動画を、潜水開始から、終わりまで、回し続けている。これで、すべての状況が記録される。
 TG-2の方は、主としてスチルを撮るが、画面が明るくてきれいなので、常にTG-2の液晶画面を見ている。撮影結果は、GOPROと甲乙つけがたいのだが、液晶画面では大きな差がある。GOPROのデジタル画面は、暗いので、あまりよくわからない。並べているので、これはと思った時にTG2のシャッターを押す。このところこのシステムが気に入っている。このシステムに限らず、テレビのカメラマンだった時代も、常にファインダーを見てカメラを構えて、潜水している。カメラマンのくせに、ファインダーをのぞかずに手にカメラをぶら下げて泳いでいてはいけない。
しかし、インストラクターとかガイドダイバーは、原則として、ゲストから目を離してはいけないわけだから、ファインダーを覗いてはいけない。  
インストラクターやガイドダイバーのための記録用にマスクマウントのウエアラブルカメラブルカメラを考えた。
 今度のダイビングでは、サンプリングの記録をする撮影が仕事の内だから、TG2の液晶ディスプレイを見ながら動いていて良い。それに、僕たちのチームワークは万全だから、町田、石橋のバディが離れることも無いし、僕と中尾先生も離れない。先生が何かを見つけて指差すと、僕が撮影する。その撮影が終わったら、カメラは海底に上を向けて置いて、サンプルをジップバックに入れるのを手伝う。そして、移動してゆく。

    上を向けて海底に置いたカメラの映像。
 

1115 奄美大島ー3 鶏飯

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 昔、奄美大島によく行ったのは、鶴耀一郎が生きていた時分だから、もう30年以上前のことだ。いや、もっと前のこと、確か1975年だったと思う。出来たばかりの新宿のドウ・スポーツのマネージャーとなぜか気が合って、一緒に奄美大島に行って遊びのダイビングをやった。その時に、鶏飯の元祖、みなとやに泊まった。みなとやは、宿屋もやっている。その時、当然だけど鶏飯を食べた。皇太子殿下(現在の平成天皇)が奄美大島に来て、昼食にみなとやで鶏飯を食べて、お替りをした。それが、鶏飯のブレイクした始まりだ。という。だから、みなとやは元祖鶏飯を名乗っている。とにかくおいしいと思ったので、以後、鹿児島空港とか、鶏飯のあるところだと、鶏飯をたべている。

 2年前に、やはり中尾先生のチームで、豊潮丸の航海で、名瀬に入り、鶏飯を食べにみなとやに行った。ところが午後の2時に行ったのに、もう店を閉めている。昼食の時だけの営業のようだ。元祖を名乗っているならば、全国からお客がくるはずだ。昼時だけと言うのは、怠慢、ひどい、と怒ったが仕方が無いので、ひさ倉という別の店に行った。ここも鶏飯専門店で、悪くは無かった。今度の奄美の旅でも、13日に笠利に磯採集に行った時に、ひさ倉に行った。もう遅い時間だったので、みなとやは間に合わないとわかっていたので、ひさ倉にした。
ひさ倉の鶏飯
みなとやの鶏飯

そして、14日、空港に向かう途中、時間が良かったので、みなとやに行くことができた。あまり大きくない店だが、(ひさ倉の方が大きい)太ったおばさんがてんてこまいで、一人で店のお客対応をしている。これでは、このおばさんがダウンして、2時に終わっても仕方がない。昔、30年前も、変なおばさんが夕食の給仕にきて、その時は大きなエビが夕食に付いたのだが、尾の部分だけ食べて残したら、「なんで、こんなにもったいない食べ方をするのだ、」と胸の部分をむしってくれた。驚くほど肉があった。しかし、あれはプロの業で、僕にはできない。

出てきた鶏飯は、「やはり鶏飯は、元祖かどうかしらないけれど、みなとやがおいしい」ご飯が足りなくなって、追加してもらった。スープも追加した。もう、トッピングの具が無いので、ご飯にスープだけかけて、僕も、町田も、中尾先生も食べた。石橋君は、追加してから、2杯もスープだけで食べて、きれいに平らげた。その昔、僕が学生時代、駒形の「どぜう」で、鍋は一杯だけ、ネギとご飯を追加して食べたころのことをおもいだした。気持ちの良い、豪快な喰いっぷりだった。結論は、スープがみなとやは美味しいのだ。

 町田君はひさ倉がおいしいと言っていた。食べ物は好き好きだから何とも言えないが、
 僕はみなとやを100として、ひさ倉は、80、鹿児島空港のバイキングは60かな。さすがに、みなとやの後に空港にいったから、あまみ空港はたべていない。なお、むかしたべたばしゃ山は80ぐらいだったか?

 潜水の残りについては明日にでも書こう。

1116 奄美大島ー4

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 11月13日

    ロープに着いた付着生物

 午前中に2本潜って、午後は笠利の方のリーフに磯採集に行く。笠利は空港の直近だから、向こうに泊まるのかと思ったら、また、久根津まで戻ってくる。奄美大島の端から端を縦断して往復する。片道2時間強だろう。60年前は崖を巡る道路で命がけのような道だった。バスは一日2往復、60年前と比べれば、変わって当たり前だが、簡単に往復するという気持ちになじまない。
 ダイビングポイントは、ガテツ、漢字を探すのが面倒な名称だ。嘉鉄。大島海峡の端の方で、昨日のアンキャバの対面、大島側にある。風は相変わらず強いが、波も流れも無い。ダイビングも二日目になると感をとりもどす。立ってタンクを背負い、足から飛び込んだ。久しぶりでヘッドファーストで素早く潜りこんで、下で中尾先生を待つ。どうしても、潜り方がオールドファッションになってしまう。

    オリンパス TG2

     GoPro動画からの静止画

     GoPro動画からの静止画

     オリンパスTG2

 ガテツの中心ともいえる直径が17m?ぐらい、高さが3mの小さな根で、これがこのあたりの魚の寄り場になっている。ここに人工魚礁を置いたらどうだろうな、などと思ってしまう。
 昨日に比べると採集するべき海綿他の無脊椎動物、海藻のようなものがある。
 魚にはほとんど関心は無いのだが、このあたりにいるような魚は何でもいるのだろう。目立つのはヨスジフエダイ、ハタンポ、ユカタハタ、クマノミ、スズメダイなどなどだ。採集した標本はTG-2で撮り、GOPROはエントリーから浮上まで記録し続けて置く。標本の採集を手伝うときには、海底にカメラを真上を向かて置いておく。こうすると、作業の途中も何かを記録し続けている。
 うん、この採集の撮影はこのパターンが良い。

    上向きに海底に置いたカメラ、GoPro動画の静止画

 第一回の潜水
潜水開始0937  浮上1026 潜水時間 49分
水温25℃ 最大水深 9.6m 平均水深 8.0m
 第二回の潜水
潜水開始1241  浮上1338 潜水時間57分
水温24.8℃ 最大水深12.2m 平均6.6m

 4時過ぎが最干潮になるので、途中のひさ倉で遅めの昼食の鶏飯をたべた。

 残念ながら、リーフの端はうねりが高く、採集はできなかった。

 14日、出かけてくるときは体調が最悪だったが、二日潜ると調子が良くなる。潜って調子が悪くなるようなことがあれば、そろそろ引退を考えるのだが、まだしばらく行けそうだ。
 奄美空港から東京へは海の上を一直線に飛んでくるので、意外に近い。伊豆半島の辺りから、雲の上の富士山を撮り続けて、羽田空港への着陸寸前がベストショットだった。

      東京湾

1120 1986年の日記

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 中学生のころから日記は不定期によくかいていた。ほとんどの場合は三日坊主、一か月くらい続き、やめてしまって、どこかに紛失する。大学1年のころも、日記帳一冊分ぐらい書いたが、これも紛失。日記というものは書くことも大事だが、紛失しないようにすることも大事だと思う。なぜか、1982年から1986年、47歳から51歳までの日記が残っている。振り返ると、書き方が良かったのだと思う。小さい、薄い、手帳型の原稿用紙型のノートで、ある程度まとまると、ファイルにできる。ここスタイルに飽きたころワープロに替えて、これも、どこかに紛失した。残っているのが1982-86である。
 バインダーのナンバーと主なタイトル、タイトルは最近見直して、付けたものだが、次のとおりだ。
 NO1 1982年 潮美が大学に入った。
 NO2 1983年 潮美をつれて小笠原に行く
 NO3 1983年 キリバス、セブ、グアム
 NO4 1983年 ガラパゴスに行く
 NO5 1984年 アラスカ
 NO6 1984年 ケラマ テレビフォーラム 水中レポート開始
 NO7 1985年 知床 神の子泉
 NO8 1986年 流氷 ニュース・ステーションの始まり
 NO9 1986年 天草 バイカル
 NO10 1986 十和田湖 伊豆大島噴火 与那国

自分の生涯の黄金の時、時期であった。
 先般出版したニッポン潜水グラフィティは、およそ1980年までであり、現在再び月刊ダイバーに連載させてもらっている続ニッポン潜水グラフィティはその第一回と第二回が、水曜スペシャルの話を書き、そして、今回1月号が1984年の水中レポート開始であり、次回を1986年のニュース・ステーションの始まりを書こうとしている。そして、あと1回、伊豆大島大噴火を書いて、ニュース・ステーションは終了、後、時代をとばして、60歳の100m潜水を書き、これが2回、最後に現在のことを結びで書こうとおもっている。最後はグラフィティではなくなってしまうからちょっとだけにして終わろう。

 この日記を参照したら月刊ダイバーのグラフィティが書きやすくなるだろうとおもったら、違っていた。確かに、何年に起きたできごとだったのだろうという、時系列の参照にはなる。しかし、書く前にこの日記を見てしまうと、書けなくなってしまう。面白いところを引用しようとしても、水と油でまじりあわない。
 グラフィティは、すべて、時というフィルターを通して、現時点から見ている物語なのだとわかった。あまり日記に左右されないで、グラフィティのストーリーを運んだ方が良い。

 この日記からの引用は、これまで、このブログに2回だけ登場させている。その時は連続して引用を書きつづけたいと予告したのだけれど、途切れてしまっている。もう一度仕切りなおして、この日記から、随時、引用して、ブログにする。以前に書いたものとダブルけれど、前のものを探してみる人も少ないだろうから、それに、同じストーリーが二回出てきていけないということもない。
 そして、これはまた、雑誌のグラフィティとは全く別のものだから、雑誌の方も是非読んでいただきたい。

 前々号の月刊ダイバーに川口探検隊のことを書いて、日本冒険クラブの写真を乗せたが、川口さんとやった日本冒険クラブは1986年、ニュース・ステーションの知床、流氷ロケに出かけるすぐ前のことだったのだ。日記を見直してわかった。今書いている2月号の月刊ダイバーは、いよいよ、ニュース・ステーションに潮美が登場する話だ。だから、これはニュース・ステーションに出発する直前の日記だ。字の間違っているところ以外は当時のまま、1986年に書いたままでここに移す。


  後列、左から立原モグラ男爵、須賀、川口隊長、しゃがんでいるのが宮内淳、前列は三宅さん?

1月27日
 立原さん(洞窟探検家の変なおじさんだ)が主催する「日本冒険クラブ」発足の集まりを、週刊っ宝石のグラビア取材で行う。それに行く約束をしていた。まだ、風邪が治らないというよりも、風邪の最中で、朝の7時に出るのはとてもつらかったのだが、約束は約束だし、川口さんも来るのだからとがんばって起きた。冒険クラブの山本さんに車に乗せて行ってもらえるので、体が休められる。
 宝石の取材は「冒険のグルメ」で、伊豆シャボテン公園の山中を流れる小さい清流の河原で野外料理をしているところを撮影する。
 私は、「スズキの蒸し焼き」を作ることになっていて、出刃で鱗を取っているところを撮影された、。いうまでもなく、私がそんな料理を作れるわけもなく、宝石のスタッフが考え、材料も彼らが用意したものだ。TVでやっているスターの料理番組も同じようなものなのだろう。本格的なやらせだ。やらせの中心人物のようにみられている我らが誠実な川口隊長だけは、自分で肉を用意してきて串に刺してバーベキューを焼いた。川口さんは元来やらせの人ではないのだ。
 宮内淳君は、トナカイのバーベキューだ。これももちろん誰かがよういしたものだ。登山家の入沢さんはチャパティ、立原さんはアユの竹筒入り酒、カメラマンの三宅さんはオジヤ、山本君はキジの料理、その他子豚の丸焼き、アユの泥蒸し、サラダ、カレーなどだった。
 昨日ひどい下痢だったのだから、おかしなものは食べれれないと思いつつ、おじやを食べ、最も期待していた川口隊長の肉をたべ、意外にもおいしかったカレーをチャパテイに浸けて食べ、、結構な量を口に入れてしまった。
 国民宿舎に泊まって冒険クラブの第一回の集まりを開いた。山本さんという人はセールスマネジャーで、日経広告社を通じて、ダイエーに冒険の企画を売り込んでいる。その主人公が「モグラ男爵」こと立原さんだ。彼の25年にわたる、武蔵野市の子供たちに対する冒険教育がテーマだ。その立原さんにパラオの酋長がくれるという島、川口さんを中心とする彼の交遊グループが材料になる。
 山本さんは、この日本冒険クラブをダイエーに売り込んで、一億五千万を出させようとしている。クラブの何に対してお金がでるのか?冒険新聞というパンフを作り大量に日本中にばらまき、全国の冒険すきを組織化して行くのだという。立原もぐら男爵は、「いよいよ全国制覇の時がきた」などと言っているが、彼は正気なのだろうか。立原男爵直系の後輩である入沢登山家は、これまで、骨こちやってきた活動とまるで違うので、心配している。川口さんは、可能性のあるものならば、協力してやろうという姿勢でいる。私も同様に考えている。冒険というコンセプトがあり、ペーパーがあるならば、それを売ることは可能なのかもしれない。ところで冒険とは何なのだろう。
 宮内君は女のことが専門で、会議が終わってからの話はそっちに集中する。宮内と矢沢美智子の間柄はどうなっているのかなどなどだが、彼の女に対するコンセプトは明確で、セックスについての自信は大変なものだ。とにかく男は誰でもいいから、毎日女を抱かなければいけないのだそうだ。
 夜が更けて、川口隊長は押入れの中に寝場所をつくり、私は畳の上にきちんと敷いた布団の上に寝た。押入れの中でないと安心できないのだそうだ。奥さんの野添ひとみさんと寝るときもおしいれなのか。と聞きたかったが失礼に当たるので聞かなかった。

 中略

 ところで、冒険とは何だろう、昨日一日考え続けていた。冒険とは行動ではなくて、むしろ心のあり方、心の指示する目標ではないのだろうか。車いすの生活で、家から一歩も外に出ない人にも冒険は存在すると思う、チャレンジする気持ちで行動する心が冒険なのではないだろうか。行動するためには、技術、技能、の裏付けが無くてはならない。技術、技能の無い行動は、無謀になってしまう。冒険とは技能があったうえで、出来るかできないか微妙なところにある目標を目指す行動であって、出来ないと読み切れば行動を中断して、技術、技能の向上を企てなくてはならない。その時にも心の目標としての冒険は中断しては居ない。
 ※、これは1986年に考えた冒険論だ。今はちょっと違っているような気もするが悪くは無い。
 

12月7日のシンポジウムプログラム最新版

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12月7日のプログラム、詳細な最新版を作って、考えられるすべてにメールを出した。
フェイスブックなどの皆さんには、行き渡っていないと思うので、よろしくお願いいたします。

JAUS 第4回 ダイビング活動研究シンポジウム
12月7日(日曜) 東京海洋大学品川キャンパス 楽水会館

参加費
①学生:無料 報告書「JAUS年報」を含む。
②会員:無料 報告書「JAUS年報」を含む
③一般:2000円 報告書「JAUS年報」を含む
 報告書だけは、1000円とさせていただきます。

0930受付開始、
テーマ1だけ、テーマ2だけ、テーマ3だけ、懇親会だけの参加もできます。
1.10時~12時 
テーマ1 ダイビング運用の安全管理と危機管理
「関東学生潜水連盟、50周年を迎え、これからの50年を考える」
安全管理と危機管理についての具体的なローカルルールがダイビング活動で最も重要な事項です。絶対に事故を起こしてはいけない大学の部活動の管理について、これまで学習院大学(2010年)、芝浦工業大学(2012年)、中央大学(2013)に具体例として発表をお願いしてきました。今年度はそれらをまとめる意味で、学生連盟の執行部、および代表にも参加してもらって、これまでを振り返るとともに、今後のあり方を考えようと企画しました。現役学生にもOBにも、そして、関係者の皆様、あるいはまったく関係のない一般ダイバーにも、まず現状を把握してもらうことが、第一歩です。
報告書には、
①上記、各大学の監督の発表+法政大学OBの山中さんが法政50周年で発表されたPPの要約
②学連のこれまでの歩みの年表
③現在の学連加盟校各校の現状と今後の希望についてのアンケート
④2009年度にSAI活動で作った各大学の練習マニュアル
⑤2006年度の主将会議で、作ってもらった、危機管理についての意見
を掲載し、これによって、関東学生潜水連盟の現在の状況が把握できるとかんがえています。
学生諸兄には、来場とこの報告書を無料で配布して、学生連盟の状況、歴史をはあくしてもらい次の50年につなげてもらえればと願うものです。
当日の予定は、午前10時から12時の時間をとっており、
① 学連これまでの歴史と現状の問題点について、 水中科学協会 須賀次郎
 およそ30分程度
② 来ていただいた各大学の監督・コーチ、学連の現役など、パネルディスカッションの形で、5分、10人程度にお話をいただく。
③ 会場においでいただいている方から意見をいただき、フリーディスカッションをおこないます。
結論をまとめて、どうしようというものではなく、おいでいただいた学生諸君、監督、コーチ、関係者の皆さんに現状を認識、確認することが目標です。その上で、報告書を持ち帰っていただき、さらに安全で、実りの多い学生連盟の活動を考えていただき、できるならば、関東学生潜水連盟の50周年には、監督・コーチの定まっている大学も、あるいは定めていない大学も、現役、OB・監督・コーチ・顧問など関係者が力を合わせて、出来れば行事式典を計画していただくことを願うものです。

一般レクリエーショナルダイビングには無縁のように思われるが、安全管理、危機管理を考える上で、参考になるはずである。

 上記、準備に時間がかかり、まだ未定の部分があり、告知が遅くなったことをお詫びするとともに、関係者の皆様には是非おいでいただけますようおねがいいたします。
 なお、申し込みはJAUSのホームページから簡単に行うことができます。

2.13時30分~15時(10分の休憩時間を含む)
 テーマ2 ダイビング技能と理論
「プライマリーコースについての詳細」
JAUSの行っている技能講習会であるプライマリーコースについて、講習会の映像を映写しつつその内容、今後について発表
 報告書の内容は、JAUSプライマリーコースの概要として、その技法(スキル)のすべてを解説し、これまでの経過発表と今後の進み方、おいでいただけるようにとのお願い。をみていただきます。

3.15時~17時 
テーマ3  水中撮影
水中映像研究会は、ウエアラブルカメラ研究会として発足しましたが、ウエアラブルカメラが特殊なものでなくなる推移のもとで、すべての水中撮影に守備範囲を拡大し、レクリエーションダイビングでの楽しみと実用の撮影、調査・リサーチについての撮影について、実際の撮影技法についての発表、機材についての発表、これまで研究会がこの一年撮影した作品の抜粋映写などを行う。
 報告書の内容は、
 ①、水中映像撮影の現在のトレンド
 ② ウエアラブルカメラのマウントについて
 ③ 棒の先に付けたカメラの撮影法
 ④ マスクマウントカメラに寄るイルカの撮影について
 ⑤ ウエアラブルカメラを中心とした撮影調査について、

4.18時からが、ワンコインの懇親会


1123 人生80年

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 人生、80年が普通になった。自分にとっては来年の、すぐ前に来ていることで、これまでの時代の記念行事はまず60歳で、赤いものを着せられたりした。僕も赤いドライスーツで、100mに潜ったが、すでに20年の昔。今、月刊ダイバーに連載させてもらっているグラフィティの最後は、この60歳の100m潜水にしようとしている。20年前、60歳はすでにグラフィティの彼方だ。グラフィティと言うのは、日記に書くような日々の闘いの報告ではなくて、時のフィルターを通して、残されてきた、美化された記憶のことなのだ。20年前と、今ではダイビングの様相が変わってきている。そのことがグラフィティの主題になる。もちろん、美化されているから、今のダイビングよりも、20年前の方がずっといい。

 グラフィティは、置いておき、高齢化とは、自分の肉体、フィジカル能力、生理的な不都合、病気との闘いである。良く、ダイビングサイトに行くと、免責同意書というのを書かされる。60歳までは、免責同意書を書かせる側に立った気持だった。曰く、健康でなければダイビングはできません。妥協しても、お勧めできませんと言う側だったが、60歳を過ぎると書かされる、と言う気分になる。高血圧、腎臓の病気、喘息のある人はダイビングをご遠慮くださいと書いてある。高齢者のほとんどはご遠慮しなくてはならない。僕は、ご遠慮したくないから、異常ありませんと申告する。書いておけば良いのであって、その結果、腎臓のために水中で亡くなったら、解剖して腎臓に障害が見つかった時は、免責になる。そういうものだと理解している。困るのは、身体の調子の悪い方は申告してくださいと書いてあるが、これも、ほとんど毎日申告しなければならない。日記を見ると、すでに50歳のころから、毎日調子が悪い。僕は、潜れば調子が良くなる。三日もダイビングが続けば本当に快調になる。しかし、これは、高校ではバスケ、大学ではダイビングで、死ぬほど体を痛めつけた遺産であり、僕と言う個体の一時的な状況であり、普遍的なことではない。これは、困ったことに、もしもの死後に解剖してもオートプシーイメージングをしても、体調不良はわからない。だから、思い切って、60歳以上の潜水は、完全自己責任、免責書など書かなくても免責としてしまった方が良いとおもっている。60歳は免責になるお祝いで、これからは勝手に死ねると、喜べばいい。一方で、いま、シンポジウムで論じる、大学生のダイビングでは決して自己責任ではないから、注意するように。
 80歳、世間では傘寿と言うが、一つもめでたくなどない。高齢化社会が、日本の、そしてもちろん自分の、自分については最大の課題。どうすることもできない、避けることのできない課題である。中国との戦争は避けることも可能だし、避けなければ、高齢化などと言っていられなくなるが、避けられない高齢化、自分と言う個体にとっては、死、すなわち無につながる。悟りきれないし、悟るわけにもゆかないので、80歳を記念して、80mに潜ろうという企画をたてた。なんどか口に出したり、書いたりしているうちに、週刊朝日で取り上げてくれて、今度は朝日新聞の天声人語に出てきた。また、落日に間に合うように疾走する。今度のシンポジウムは、疾走の結果だ。みなさん、須賀だけが端ってはいけないというが、歩いては落日に間に合わないのだ。

 これからは、ダイバーの皆さん、80歳になったら、だれでも80mに潜るようになれば良いのかな。もちろん、60歳以上だから、死んでも良いとか、死ぬことは奨励できないが、避けられないのだから仕方がないことなのだ。
 死ぬことについては、感覚を研ぎ澄ませていれば、生理的にわかると僕は信じている。これまで大丈夫だったからこれからも大丈夫と思うのは、「正常化の偏見」とか言って、事故の原因にされているが、この偏見が無かったら、これまで生きて来られなかっただろう。
昔は、五万、十万のカメラの損害等、物の数ではなかったなどとえばったりしているが、毎月600万の売り上げがないと月を越せなかった。年間、数百万の赤字になる。3年に一度はドカーンという仕事があるから大丈夫、これが正常化の偏見で、これを頼りに資金繰りをする、時々、ドカーンと借り入れをする。これも正常化の偏見がなければ、借り入れなどできない。銀行の方もこれまでの実績[偏見の記録]を調べてお金を貸したりしてくれる。すべて人生、正常化の偏見で成立している。

 だから、フリッパーレースに出るなどと言っている。主治医の河合先生は正常化の偏見など頼ることができないから、困惑している。しかし、60歳過ぎたら何でも自己責任という事を、十分に理解しているドクターだ。良く、免責赤同意書とともに、医師の健康診断を添付などと書いてあることがある。河合先生に言わせれば、正気の医師だったら、ダイビングして良いことの健康診断など、書けないという。あなたは、これこれの障害がありますから、注意してくださいね、と言うのが診断書であり、それなら書いてもらえるだろう。
 僕の60歳の時の100m潜水は、健康診断書で、ダメだと言われたこととの闘いだった。正気の医師ならばダメだと書く。そして、あれから20年、60歳はもはやグラフィティの世界だ。
 


1124 全日本スポーツダイビング室内選手権大会

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全日本スポーツダイビング室内選手権大会 21回、1994年に、全日本潜水連盟から、社会スポーツセンターに移管してから21回になる。その前、1968年から1975年の沖縄海洋博でのスポーツ大会の事は、ニッポン潜水グラフィティに書いた。

プロデューサーをやっている時には自分が泳ぐなど到底できないが、実行委員長などという閑職、人とのお話やお付き合いは忙しいが、運営の責任者で亡くなってから、選手?として出場に、400mにでて、4回優勝した。僕の優勝タイムは、今のレースで5位程度だから、ずいぶんレベルが上がった。65歳でやめたのだから、14年前だ。
なぜだかわからないうちに、50mに出場することになった。12歳年下の石川さんと競争することになってしまった。バカバカしいけれど真摯に練習した。練習の初期、初夏には、勝てるかもしれないと思うほど好調な時もあった。しかし、夏から秋に向かって調子が悪くなった。その上、ウエットスーツを着たら30%ほどダウンした。そして、11月に入り、毎年恒例の秋の体調不良になった。

     僕のレース

     若い人のレース


 主治医は、当然、やめろという。春から練習して、50mを40秒程度に泳ぐと、息がはずんで苦しくなり、しばらく戻らなくなる。それはもう危ない。45-50秒ならば、大丈夫だから、その程度で泳ぐという事にした。
 全日本スポーツダイビング室内選手権大会の開会式の挨拶で、安全で楽しくとごあいさつする。自らAEDの実験台になるわけには行かない。50秒をリミットタイムにすることにした。
 応援団には50秒と書いてもらって、安全運転することにした。予想通り48秒で泳いだ。石川さんは好調で38秒で泳いで、60歳代の部で2位になった。一位は、これで20回近く60代の50mを制覇しているY さんだった。彼は60代新記録の30秒と言う記録を持っている。
 もうそろそろ、本当にレースから引退か?とっくに15年前に引退しているのに、まだそんなことを言っている。今回もトレーニングの目標にはなった。そして浦安海豚倶楽部他チームを作って参加してくれた。応援にもみんなで来てくれた、これは、僕がレースに出た効果だ。来年はもっと多くでチームを作ってくれるかもしれない。


 JAUSシンポジウムのPRとか、今日一日、得るところはたくさんあった。例年海洋大学潜水部の子たちに大スクリーンに出す映像の撮影を手伝ってもらっている。彼ら、後輩と一緒に居るのは楽しい。孫のような後輩は可愛い。学連を大事にしたいという気持ちは彼らとの付き合いが楽しく、全員が可愛いからだ。こちらが良く思っていれば心は通じる。12月7日のシンポジウムは、その気持ちで行こう。
 

1126 全日本スポーツダイビング室内選手権大会

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2014年の全日本スポーツダイビング室内選手権大会では、自分の79歳と言う年齢もあって、幾つか自分の心の中でのドラマがあった。そのまとめは、次にゆずるとして、 大会では毎年、大スクリーンに投影する画像の水中撮影を請け負っている。撮影全体は、過去に僕の下請けだった、親友の河内さんが受けている。水中撮影のカメラは、名器ともいえるソニーのVX1000で、これを20年近く使っているということは、この大会のはじめから、このカメラで撮影していることになる。このカメラについては以前のブログで紹介している。投影する巨大スクリーンはスタンダードからハイビジョンに変わったが、コンバーターを挟むことによって、美しい映像を映し出すことができる。タダ。このカメラ、そろそろバッテリーの予備を手に入れることができにくくなる。
 このカメラの水中操作については、毎年、東京海洋大学潜水部の後輩学生にお願いしている。

 動画撮影の要領はまずフィックスである。フィックスと言っても相手が驀進するダイバーであるから、そのダイバーの動きにフィックスでする。縦に振ってもいけないし、横に振ってもいけない。とにかく対象の動きにフィックスしてカメラをうごかす。もちろん、ズームするなどは論外で、いつもワイドで撮る。自分のファインダーのどの辺が、プールの大スクリーンに投影されるどの位置になるかの把握も必要になる。これらの技術は、すべての水中動画撮影の基本になることだから、彼等はその基本の実習ができることになる。
 この数年、潜水部とのこの撮影についてのかかわりが定着していて、二年生(すぐに三年になる)2名と一年生2名の4名編成になっている。今年の一年が来年の二年で来てくれるから、半数は経験者だから、スムースに動いている。
 僕としては、毎年2名ずつの後輩と新しく知り合い、2年にわたって親しくできる、とてもうれしい機会でもある。
 ところで、すでに半ば健忘症の僕としては、去年の一年生の名前も顔も、わすれてしまう。まあ、顔はおぼろげながら記憶しているが名前となると、ほとんど記憶から消えている。
 記憶を消さないために、また、来年思い起こすために、写真も撮り、印象を記録しておくことにした。彼らに送る言葉でもある。
 写真を見ると、それぞれ個性的で、好感が持てる。海洋大学に限らず、他の大学でも、潜水をやる子はどれも好感がもてる。今度の学連の委員長になるという、獨協大学の浅本君も、今度お台場に来てくれる、ああ、もう名前を忘れた君でも、早稲田水中クラブで仲良くなり、卒業してJAMSTECに就職する小林君もあの子もこの子も、名前を揚げたら際限もないが、みんな好きだ。だから学連をもっとよくしたい。消滅しないようにしたいとシンポジウムでとりあげている。

 二年生 江原君、前日の準備から手伝ってもらうので、接した時間もいちばんながくなる。自然発生的なチーフである。去年と今年ではたくましさがぐんと増した。
 巣鴨高校の出身だというから秀才である。どうして東大に行かないのと聞くと、一年浪人するのが嫌だったから、そして海も好きだから、と、僕が戸山高校から水産大学に入った時と同じ状態を答えてくれる。就職するなら勉強して官僚になれ、と僕の反省点をのべると、研究者への道を選んで、東大の大学院を目指すという。これも僕が果たせなかった道だ。そして、海洋大学4年生の後は専攻科として、海鷹丸に乗って南極に行くという。そのあとが大学院だ。海洋大学があと2年、海鷹丸が1年、どこかの大学院で修士が2年、博士課程が4年、あと8年で、さらに外国で2年のポスドクをやるとすれば、あと10年かかって、研究者になる。良い研究者になるとおもう。40年、つきあったきた東大の海洋調査探検部では、君ぐらいの年頃に付き合った子が、今では軒並に教授になっている。
 南極に行くのだから、海鷹丸に乗る希望者は多いのだろう、と聞くと、60人定員のところ希望者は40人だという。女の子も多いのだろうと訊くと、20人、50%が女の子だという。時代は変わった。もちろん、船乗りになる子はほとんどいないだろうが、卒業航海4か月を船で過ごすことは社会に出て、使い物になる人格形成になるはずだ。そういう評判だとも聞いた。この航海、昔は漁船運用学、大型遠洋漁船で漁業をする船長を養成するコースだったが、今は、もちろん漁船に乗ってくれる人も居ないと困るけれど役人になる子も、学者になる子も、単にキャリアガールになる子も一緒の旅を南極までする。

 もう一人の2年生大崎君、話をする時間もほとんどなかったが、彼は、戸山高校から海洋大学、僕も戸山高校だ。もちろん60年前の先生はほとんど死に絶えているだろう。戸山をでた林 望が戸山高校のことを書いた、帰らぬ国遠い昔も、さらに、すでに、はるかな昔になってしまっている。もう少し君と話がしたかった。

 一年生 鈴木君、彼が来年のチーフになってくれるのだろうか、顔かたち、そして潜水も頼りになりそうだ。その時に話をしよう。

 一年生、瀬戸口君、なにかユニークで面白そうだ。みんなでラーメンをたべたら、彼だけが、しっかり、僕を引きとめるように、こちらを向いて「ごちそう様でした」と言った。他の子も、みんな頭を下げて、小さな声でいってくれた。きみと交わした言葉がただそれだけだったことが印象に残っている。「あ!」と思った。僕の学生時代、先輩に食事をごちそうになり、きっちりとお礼が言える子ではなかった。

1128  生涯スポーツ

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  11月24日、祝日の月曜日、全日本水中スポーツ室内選手権大会、たしか21回目になる。1968年に日本潜水会が目黒の日大プールで始めたのがルーツで、全日本潜水連盟でやっていたのだが、全日本潜水連盟が衰退し、とても全国から選手をあつめることなどできなくなり、僕が社会スポーツセンターの常務理事だったので、移管して盛大におこなうことができるようになった。それからもう20年経つのだ。僕が事実上のプロデューサーだったから、それまで、選手としては一度も泳いだことがなかった。それが何で泳ぐ気持ちになったかというと、社会スポーツセンターがスポーツダイビングに導入しようとした、社会体育指導者という制度が、生涯スポーツを振興させるための指導者であり、一時は文科省もずいぶん生涯スポーツに力を入れていた。高齢化時代になり、ほとんどの老人が生きていて、車いすに乗ったりアルツでさまよったりしたら、日本は地獄になる。死ぬまでスポーツをやって、ぽっくり死んでくれるのがいい。これが生涯スポーツの基本理念だと僕は思っている。老若男女だれでも楽しめるスポーツなんていうと体裁がいいけれど、老が楽しむのは容易なことではない。しかし、僕はその講師になったから自分がちょうど高齢を迎えたから率先しなければならない。
 短距離のダッシュは心臓に負担が大きそうだから、長い距離、400mを泳いだ。率先というのは周りに誰もいない荒野をめざすのだから、レベルが低い。とにかく、僕は400mフリッパー男子60歳以上の部で4連覇した。2連覇のあとは50台の選手たちと一緒に泳いで、3着ぐらいで、60代の一位になった。金メダルも4個連続してとった。しかし、66歳の時だったか、60代の、少し年下だったが、ある人に抜かれて、メダルを逃し、引退した。泳ぎ続ければよかったと、今は反省している。

    浦安海豚倶楽部の練習

    辰巳でも練習を重ねた。

    かつての栄光

 それから、14年経った今、なぜ泳ぐ気持ちになったかというと、やはり、80歳という節目を前にして、泳いでみようと思った。生涯スポーツである。あれほど国が力を入れていたのだが、本格的に高齢化社会がやってくるというのに、今は生涯スポーツという声を聞くことがほとんどなくなった、今は、2020年の東京オリンピック一色である。
 しかし、全日本水中スポーツ室内選手権大会は、高齢者も楽しく泳ぐということを売り物にしようと僕は思っている。最近、フィンスイミングがやたら流行ってきている。それはいいことなのだが、これは競技スポーツであり生涯スポーツではない。ここまで来たのだから、生涯スポーツの旗を押し立てよう。小中学生、高校生(海洋高校)大学生、そしてあとは30代、40代、50代、60代のエイジグループごとの順位がある。自分が80になってくると、70代、80代もほしい。79歳で泳いでみようかと思った。幸い、全日本潜水連盟の名誉会長である玉置さん、長らく僕が事務局長、玉置先生が理事長の時に、全日本潜水連盟の水中スポーツ大会が全盛期だったのだが、その玉置さんも84歳で泳ぐという。僕はよせば良いのに相棒の石川君にも泳げとさそい。12歳、一回り年下の彼よりも早く泳いで勝つと言い出した。目標を設定しないと、本気になれないと思ったのだ。出る種目は50mとした。ターンするのが面倒であること、片道だけなら、もしも僕が途中リタイアしても、レースは続行できるから迷惑は掛からないとおもったものだった。
 春先から6月ごろまで僕は調子が良かった。いや、調子が良いと思った。浦安のプールの22メートルでは、60代の女の子と競って、負けない。男と競っても、何とか勝てた。辰巳のプールで泳ぐ姿を見た、皆も、僕は速い。もしかしたら石川さんも危ないという。もしかしたら、その時に競争すれば、対等で、タッチの差で僕が勝てたかもしれない。しかし、そのことが、負けたら何といわれるかわからないという恐怖心で石川さんが本気で練習するようになった。これは、僕の作戦負けだったかもしれない。僕の速さを見せずに、遅い姿を見せておけばよかったかもしれないと、思ったこともある。
 昔、60代のころは練習すればタイムが伸びた。いま、79歳練習してもタイムは伸び居ない。今のフォーム、今の、ロングフィのバラクーダではその頃が最高だったのかもしれない。20mを18秒、25mを20秒で泳げた。ロングフィンでピッチを上げられれば、40秒を切れるだろう。40秒を切れれば、石川さんとは、タッチの差の勝負になるだろう。秋になり、50mの長水路のサブプールを借りて泳いでみた。当たり前のことなのだろうが25mと50mとは違う、50mの40mあたりで失速してしまうのだ。そして、これは練習しても失速は防げない。考えてみれば人間の体とはうまくできているもので、心肺機能、循環器機能の衰えと筋肉の衰えはシンクロしている。だから、心臓まひにならない。無理して限界を越えれば、危ないと思うようになった。
 そして、このレースはウエットスーツを着なければいけないルールになっている。ウエットスーツを着たら、5秒くらい遅くなる。最後の10月30日の50mプールでの練習では48秒くらいだった。石川さんは40秒ぐらいで泳ぐから、これはもう勝負にならなくなった。
 僕は高血圧で、薬でコントロールしている。主治医は順天堂大学病院の河合先生だ。河合先生のおかげで、僕はスポーツを楽しみながら生きていることができる。他の先生だったら、絶対にドクターストップだろう。実は60歳の100m潜水の時から他の先生に素ストップを言い渡されている。それは、冠状動脈カテーテル検査でクリアーしたが、今は自己責任でコントロールするほかない。二か月検診で、河合先生は僕がレースに出ることはわかっている。当然、やめるように言う。安全運転するから泳がせてくださいとお願いした。石川さんとの競争は禁止された。競争になると僕は何をするかわからないと思われたのだろう。
 この時点で、僕はレースに出ることをやめようかとも思った。しかし、負けるとわかってからやめるのは卑怯だ。正々堂々と負けてやらなければいけない。

 僕がこのレースに出る副産物として、とてもよいことがあった。僕が指導している浦安海豚倶楽部の何人かが、僕が出るならば出ようと言い出してくれた。真玉橋さんは400mに出てくれる。自信がない。最後の100mを一人だけで、最下位を泳ぐのはいやだというが、今現在、何分で泳げるか確認できればそれでいいので、出なさいと尻をおした。あと、100m男子60歳以上の小松さん、女子50mに玉場③と、鶴町さんが出て、4名のチームが作れた。そして、応援団も結成された。僕は自分のリミットを確認するために、50秒を目標にするという幕を作るようにお願いした。50秒ならば危なくない。
 僕が大会の実行委員長であり、去年は挨拶が無かったのに、今年は挨拶がある。開会式で安全に今日一日を楽しみましょうといって、AEDのお世話になるのではシャレにならない。

 召集を受けて待機する席の前、横の人と話をする。前の席にはスクーバワールドの、騎士君、青木君、旅行会社的ダイビングショップだけど、この大会に随分熱心に選手団をおくってくれている。横に座っている横田さんも、前に僕が選手で出ていた、頃のことを覚えてくれている。彼は、50mのすごい記録をもっている。20年間連続敵なし、70歳代で、30秒の記録をもっているのだと、今年も優勝確実だ。ベストダイバー賞に来年、強く推薦しておくというと、喜んでくれた。
 スタートの席について、一人ずつ立って挨拶する。二階席に浦安海豚倶楽部の応援団が来ているはず。横断幕もあるかと見上げるが、目がかすんでいる。耳も遠いから、応援の声も届かない。
 スタートして、心臓に負担を掛けないように、しかし、みっともなくないようにと泳ぐ。タイムは48秒だった。ほぼ計算通り、残念ながら、年齢には勝てず、石川さんと対等の勝負にならなかった。
 ブログを書こうとして、全日本スポーツダイビング室内選手権大会のランキング表をチェックした。ランキング表がすぐにネットにアップされる。前は、1000円で買わなければならなかった。ランキング表で、僕のタイムは女子も入れて、最下位、48秒だった。 80歳の女子竹内孝子さん(ベストダイバー賞)は、43秒だった。自分で泳いでみて、いろいろなことがわかる。

        最下位を泳ぐ日

 自分が最下位を泳ぐ日。50mレースで41秒で泳いだ玉田規子さんよりも、20mの競争では僕の方が速いのに、僕は50mになると、48秒、ゴール手前の40mで失速する。心肺機能、循環器の問題だとわかっている。
明日からは、現在のエンジン、循環器で失速せずに、40秒を切ることができるかのチャレンジを開始しよう。フィンはバラクーダが速い。だから玉田規子に20mでは勝てる。しかし心臓への負担は大きい。昔使っていて最速だったミューのM,、もしくはスーパーミューに変えて見ようか。タバタのKAILの方が速かったら、これは、事件だ。鬼怒川とタバタに相談しよう。来年の大会で結果をだす。もちろん、エンジン、循環器に無理をさせれば、AEDだから、公平だ。もしかしたら、それでも、やはりバラクーダの方が速いかもしれない。明日からのチャレンジ目標だ。
 

     ベストダイバー賞の玉置先生と、竹内さん43秒だった。

玉置さん、84歳 全日本潜水連盟名誉会長で、かつて、玉置さんが理事長、僕が事務局長の時代に、この大会が始まって、全日本潜水連盟の最盛期をすごした。その玉置さんが、僕と競争しようという事だったのだが、やはり、ドクターのアドバイスで、50mは危ない。100mの特別レースにするということになった。その表を見ると、玉置さん以外の全メンバーが、僕の浦安海豚倶楽部と水中科学協会だった。僕は自分の50mに出て、精いっぱいで、このレースに出ず、文科省の瀧田先生と話し込んでいて、はっと気がついたら、このレース終わっていた。

浦安海豚倶楽部は、小松さんが男子100mの60歳以上の部で、銅メダル、真玉橋さんも何とか完泳して、400m60歳以上、3人泳いで三位になり銅メダルになった。
僕は残念な結果だったが、浦安海豚倶楽部は、選手団、応援団、大きな成果で12月2日の忘年会はこのレースの話で盛り上がるだろう。


1129 高気圧作業安全衛生規則改正 

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  11月28日、今度、改正される高気圧作業安全衛生規則の説明会ともいうべき「潜水作業の安全対策せみなー」中央労働災害防止協会主催 に行ってきた。今日29日の安全潜水の会は、予定を入れるのを失念してしまい、欠席、12月のシンポジウムの勧誘があるから、行かなければいけなかったのだが、他のメンバーが行っているし、チラシも渡してあるのだから、上手くやってくれるだろう。 潜水士の方は、北海道の工藤和由君に誘われて、会費を12000円も先払した。わざわざ北海道から出てくる工藤君とも久しぶりに会える。工藤君と共著で、潜水士試験の受験本を書いている。規則が改正になれば、受験本も書き直すか増補しなければ、いけない。そのことのリサーチも重要だ。

まず、演題の1 
 「高気圧作業安全衛生規則の改正について」
 労働基準局、安全衛生部、労働衛生課 中央産業安全専門官、戸田剛 氏


 改正の概要
 ①減圧の方法、改正前は空気を呼吸して減圧する。空気以外は使っては行かないことになっていた。そして、減圧表も規則で定めたものを使用することになっていた。改正後は、空気以外、酸素も呼吸できることになり、所定の計算式、もしくはより安全な計算式で事業者が設定するか、一般に公表されているものを使用できることになった。
 減圧をするときに酸素を呼吸させることは、もう遥か昔から世界で行われていることであり、日本でも、特にある現場に限って特別に申請すれば、例えば海底居住計画、飽和潜水等、では許可になっていた。僕のスガ・マリンメカニックなどでは、20年ほど前、魚礁の調査で深い潜水が続いたときには、もぐりで、3mで純酸素を呼吸したこともある。それが認められるわけだから、当然である。
 減圧表については、日進月歩してきた、潜水医学の世界であり、減圧理論も一つだけではなくいくつかあるのに、規則で表を定めてしまう事は、適切ではないと、潜水医学関係者も、現場のダイバーも思っていた。レクリエーショナルダイビングでは、もう30年も昔、石黒理事長の時代から、DCIEMと言うカナダの減圧表を全日本潜水連盟では使っていて、そのスレートの使用許可をカナダから受けており(有料だった)そのスレートをカナダに逆輸出していたこともある。今度の改正では、ダイブコンピューターなどに多く使われている、スイスのビュールマンの計算式が規則に書き込まれていて、この計算式から事業者が各自の潜水について計算するか、あるいは公表されている減圧表を選んで使って良い。その条件としては、このビュールマンよりも安全率が高ければ良いということになった。事業者が自分で計算するという事は、拡大解釈すればダイブコンピューターを着けて潜っていれば、毎度計算しているわけだからよしということなのだろう。また、テーブルとしてはDCIEMが推薦されている。
 これに伴って、規則の減圧表は撤廃された。
 潜水士の国家試験について予想するならば、減圧表関係の問題が無くなり、半飽和組織の窒素分圧の計算、M値(許容過飽和分圧計算]などが出されて、考え方によってはより難しくなる。計算式は見てだけで蕁麻疹が出る、僕のような人種にとっては、かなり、一時的にではあるが苦労になるだろう。良いことだと思う。

 ②呼吸ガスについて、
 これまでは空気だけであったが、混合ガス、ナイトロックス、トライミックス、ヘリオックスが規則に組み込まれて来て、空気潜水と混合ガス潜水を分けて考える、つまり両者認めるわけで、之等も、レクリエーショナルダイビングでは当然の事であり、すでに普及している方法と知識を追認するかたちである。
 混合ガスを認めることにより、これまで空気潜水が、表の上では90mまでみとめられていたものが、40mが最大水深になり、それ以上はヘリウムが混合されたガスを用いることになる。
 これに伴い、呼吸用ガスの分圧の制限が規則に書き加えられた。酸素、窒素、二酸化炭素などの分圧である。
 大きな変更点はこれだけだが、次に改訂される潜水士テキストで、これらの一般人にはわかりにくいことをどのように説明してくれるのだろうか、という事が、問題、ポイントである。

演題の2
 「新しい減圧浮上安全基準の考え方」
  東京慈恵会医科大学、・日本潜水協会
  池田知純 
 
  この人の書いた、潜水医学入門、潜水の世界、は、お医者さんの書いた本としてはわかりやすく、引用文献も明確であり、最新ダイビング用語事典を作る時など、大いに参考になった。
 減圧理論とかM値の考え方などを説明されたが、新しいテキストの潜水医学のセクションは池田さんがかくとおもわえるのだが、テキストに書いたことから試験問題がつくられるという配慮はほとんどされない人なので、どうなるか心配ではある。


演題の3
 「空気潜水はどう変わるのか?」
 株式会社潜水技術センター 望月徹

  この人が潜水士テキストのオペレーションの部分をこれまで担当してきている。新しいテキストでも担当するであろうから、この発表からテキストをある程度類推できるかもしれない。
 この人の特色は、もちろん理論的には詳しいし、現場も自分がかかわったことについては詳しい。しかし、自分の視点以外については良くわからない。これは誰でも同じだが、せめて、何人かの人がディスカッションしてテキストを書いてくれれば良いのだが、これまでのテキストでは、まったくそういう様子は見られなかった。
 今回は、やたらにナイトロックスを使用した送気潜水について詳しく話していた。そのくせ、送気源、どのようにしてナイトロックスを作るか、現場での対応については述べていなかった。受験問題としては等価空気深度などをテキストに書くであろうから、そのあたりが出てくるとおもう。

演題の4
 「混合ガス潜水法に必要な基礎知識」
 防衛医科大学校脳神経外科 和田孝次郎

 この人だけが現役のお医者さんだ。話は分かりやすかった。テキスト作成にどういう風にかかわるのか、興味がある。

この規則改定は平成27年4月1日だから、4月の国家試験は、改正後のテキストから出題される。そこで逆算すれば、年が変わり、1月頃に発売されなければ、準備に間に合わない。JAUSでは、新しいテキストについてのフォーラムをやりたいと思っている。工藤君とも、その話をしたが、やはり、4月と7月、2回の試験を経なければ、論じられない。4月の試験は受けに行かなくては。何人か学生を連れて受けに行こう。学生ではないけれど、受験研究家であるらしい、鈴木あやの さんをコンサルタントにお願いしようかと考えている。

 

1130 お台場

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  デスクワークが続き、と言っても24日には、全日本スポーツダイビング室内選手権大会で50m泳いだけれど、爽快になる結果ではなかった。やはり海で泳がなければ、海と言っても、お台場。毎月一回のお台場ダイビングが、生命綱になっている。
 先日は奄美大島に行ったし、その前には地中海で潜っている。トレーニングも辰巳が尽きに、4-5回、浦安が2回、館山にも行っている。普通のダイバーであれば、この程度でいいだろう。しかし、僕はプロのダイバーなのだ。プロとは何か、いろいろな考え方がある。お金を稼げるダイバー、技術の上手なダイバー、確かに僕もお金の稼げるダイバーだったけれど、それは現在月刊ダイバーに連載中の1980年代のことだ。潜水技術が上手と言うのは、きっちりと仕事をこなして、死なないというのであれば、上手と言えるだろう。細かいテクニックとなれば、終始一貫して二流だったと思っている。プロとは、潜らないと具合が悪くなり、やがては死んでしまうダイバーのことをいう。
 3年ほど前までは、僕はプロだから足の裏を濡らしたら、必ずお金をもらうなんて言っていたが、潜らなければ死んでしまうレベルになった。

 眠ったのは、0時30分ごろだから、何時もならば、5時半には目覚めるのに、目を覚まして、時計を見たら、7時10分、鈴木さんと8時の待ち合わせだ。飛び起きて、そのまま昨夜準備してあったカメラを持って車に乗った。今日は、海洋大学潜水部が2人来るので、荷物が多い。
 何とか間に合った。


    お台場はわたってきた鴨がいっぱい。そんな季節になった。

 今日からドライスーツになる。一昨年だったかは、ドライスーツになるのが嫌なので、一年通してドライスーツで過ごしたが、今年はウエットスーツで夏をすごした。
 ドライスーツは首が絞めつけられる。血圧が上がっているだろう。苦しいけれど、我慢すれば、水に入れば、大丈夫状態になるだろう。ウエイトは、レッグに1.4キロ、腰に4キロ、ジャケットウエイトが7キロ、合計で12.4キロ、それに15キロのスクーバセットを背負う。インナーは、この前ユニクロでヒートテックの新しいものを買った。それにキルティングの上下つなぎ長袖を切るのだが、まだ18度ぐらいだから、ヒートテックだけにした。

     SJで撮影

 ブイを曳行して一人で潜る。一人で自由に潜れるというところが、お台場の良いところだ。石垣の崩れたような岸に沿って泳ぐから、岸から20m以内で、水深も最大で3m。ブイで潜っている位置がわかれば、一人でも何も危ないことは無い。
 
 一人でエントリーするのが、一番の労働だ。およそ30キロを身に付けて、70mほど歩いて、水に入る。水に入る前にフィンを履くのがつらい。足をフィンに突っ込んで、タンクを背負った体を折り曲げて、フィンの踵を引っ張り上げる。ダイブウエイズのトライスターのベルトに輪が付いているのが、一番ストレスが小さい。それでも息が弾む。立ち上がって、後ろ足で水に入るのだが、砂にフィンが吸いついてしまって、足を動かすのが難儀だ。難儀という沖縄語がぴったりくる。岸の下りスロープを後ずさりするので、この前、砂に足をとられて転んでしまった。その時の経験から、ひざ下ぐらいまで水に入ったら、膝を付いて、腹這いになってしまう。波など全くないお台場だから、腹這い、後進で、進水できる。膝上ぐらいまで下がれば体が浮く。身体が浮いたら、カメラのスイッチをいれる。GoProとオリンパスTG-2を並べでステイに取り付け、両側にイノンの1000ルーメンのライトを点けている。GoProは動画で廻し続ける。オリンパスでは時々スチルを撮り、時々マクロにしたいときはマクロにして、動画を撮る時もある。オリンパスTG-2のモニターは明るくて、透視度1mのお台場では、肉眼で見るよりもモニターの方がよくみえる。GoProの方はモニターが暗くてよく見えない。どうせ見えないのならばバッテリーの消耗を防ぐために外しても良いのだが、バッテリーは1時間のダイビングは楽に持つし、2時間の終わりごろに切れる。一回の潜水で一台ずつ使うから、モニターがあっても良い。それに、時々はモニターを確認する。

      SJ で撮影 雲のようにたなびく濁り

 透視度はわりに良くて、よく見えるところでは2-3mある。しかし、お台場の濁りと言うのは空の雲のようなもので、濁りがたなびいている。濁りの中に入れば、50cmくらいになる。上と下で濁りの層がわかれているが、今日は全体としては良く見える。しかし、魚は少ない。アカオビシマハゼ、チチブ、スジハゼがちょろちょろしていた、マハゼは見つからなかった。
 楽になり、気持ちよく泳げるようになたので、先端の杭まで、行くことにした。
 杭で、この前見たガザミの穴を探したが、居ない。それに、お台場のマスコットフィッシュにしようとおもうトサカギンポも全く見えない。多分、牡蠣殻の中に入っているのかと思うのだが、牡蠣殻を開く、ナイフを持ってきていない。蟹もほとんどいない。

     GoProHのシマイサキ

    GoProH2のアカオビシマハゼ

 シマイサキが居た。着底して、シマイサキをTG-2スチルで撮った。じっくり着底していると魚が出現してくる。どうも、アカオビシマハゼや、チチブは、カメラに向こうから接近してくる。
 しばらく、アカオビと遊んだ。
 ヒメホウキムシがきれいだったので、TG-2のマクロモードでスチルを撮り、動画も廻して、ズームインしてみた。後で見たら割と良い。このパターンは使える。

     ヒメホウキムシ

 一度上がって、昼の弁当をコンビニで買ってのんびりする。ドライスーツだと脱いでくつろげくので、そのことについては良い。

 2回目は、GOPROを止めて,SJ-4000にしてみる。GoProのH2を3台持っていて、これが主力なのだが、1台のモニターが壊れ、全体として、そろそろ寿命の感じになってきている。H3 は、一台買って持っていたのだが、早々と死んでしまった。H3+もH4
も高いので、僕の撮影ではオーバースペックだ。買い替え、買い足すとすればSJになる。お台場の撮影ではSJで十分とこの前のテストで感じているが、もう一度、確認のために、SJを着けて行く。
 2回目なので、ドライスーツも楽になったし、調子が良くて自由な飛行を楽しめる。濁りは浮かぶ雲のようなものだ。空気の消費だが200が午前の潜水で100になっている。午後は50で引き返そうと思っているので、杭までは行かない。ちょっと、ハゼが見えたので着底して腹ばいになり、目線を底に近づけると、けっこうたくさんのアカオビや、チチブ、スジハゼが行き来している。
 
 結果を見ると、SJで十分だし、水中ではGoProのモニターよりもSJのモニターの方が明るい。H2の画は落ち着いていて、はではでのSJよりも好きだが、H2 が死んだら、SJで補充しよう。そのうちに、GoProの廉価版モデルから、それも視野に入れて選ぶ。H3,H4は、買うことはないと思う。ただ、オンエアー撮影をするようなことでもあれば、わからないが
 スチルも僕の使用目的ならば、TG2で行ける。


 2回潜水した。海洋大学の潜水部後輩、2年生の岩田君と難波君は、潜る前にきちんとバディチェックをして、潜っているブイを見ても、並んでいる。うまく仕込まれている。 
 岩田君は、お台場の水が塩辛くないといっていた。こちらは慣れてしまっているので感じないが、汽水に近いのだ。
   
 今回の収穫のもう一つは、ダイブウエイズの新型マスクが、もう新型ではなくなった今頃、顔にフィットするようになったことだ。


 

1205 人工魚礁調査

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 ブログを毎日書いている錯覚をしている。確認するとこの前の更新が11月30日、今日は12月5日だ。ヒット数を調べてみると、一桁落ちている。多分、更新するとアクセスする仕組みで見ていただいているのだと思う。
 もっと短く書くのでも良いから、毎日更新しなければ、とも思うのだが、書こうと思っているテーマがながくなるものばかり。今回は、11月30日から今日までを、日記風にフォローしておこう。ブログイコール日記としても考えているので、間隔が空くとまずい。

 12月1日はなにをしたっけ。午前、辰巳国際水泳場の抽選―ジャンケンに行った。ジャンケンも負けたが日程のとりかたも失敗してしまった。それでも4回は抑えたのだが、2回の日程が連続してしまった。ちょっと考えれば良いことなのだが、間違えてしまう。
 13時から17時の人工魚礁の研究会に行った。このことをブログに書いたものと勘違いしていた。ああ、また長くなってしまう。このテーマ。
 シンポジウムのタイトルは「魚礁機能のメカニズム解明と定量化」主催は水産工学研究所、会場は南青山会館。
 南青山会館は、農林水産関係の宿泊、そしてパーティ、さらにこのような発表の場で、最近では久し振りだ。また、人工魚礁についてのこのような研究発表会えお水産工学研究所がやるのも久し振りだ。水産工学研究所と言えば、高木さんが魚礁調査の中心で、僕は高木さんの仕事を70歳以来させてもらってきている。その高木さんもそろそろ定年で、個々にも出て来ていない。ということは、僕がこのセクションでまともな調査仕事を受けることはもう無い。
 僕のやっていた会社スガ・マリンメカニックも魚礁調査で生きてきた会社だ。僕の後を引き継いでいる田沼も、この研究会に来ていない。どうしたのだろう。

 近年の沿岸漁業の低調は、何とかしなければならない。そこで、資源回復の手段としては①種苗放流、②資源管理・漁獲の制限だ。③漁場造成、これが人工魚礁漁場の造成だ。あいも変わらない定番だが、他に画期的な手段など無いのが水産だ。人工魚礁も次第に大規模になり、沖合いに天然の堆に近い大きさの、フロンティア漁場も行われている。
 調査も大掛かりになり、深い魚礁の調査はROVが中心になる。その他、魚の量を計測できる軽量魚探も使用される。
 また、今回のテーマ定量化という事は、結果の数字化であり、ここでも数式が使いこなせないと、仕事にならない。数式となると、一般人、漁業者には理解できない世界になる。

柿本さんの業績発表

 もはや、僕が追っているのはそのような最先端の話ではない。自分の背丈にあった調査をしよう。しかし、最先端のトレンドだけでも感じておこうとこのような研究発表会にきているが、あまり画期的な発表は無い。僕と同世代の故柿本博士の研究の再紹介などもおこなわれた。柿本さんの研究程度なら、僕も理解できる。業績集を持っているので、もう一度読み直そう、読み直すと言っても前に熟読したわけではない。パラパラと見ただけだ。読む時間は今も無いのだが、読まねばとおもったりしながら発表を聞いた。

 魚礁がどんどん沖へ大規模になって行くのに、僕が魚礁調査を主な仕事にしていた、1970年代から1990年ごろまでに沈設された魚礁は、今は調査する者とてなく、沿岸漁業の衰退とともに、遊漁船の漁場になり、またレクリエーショナルダイビングのポイントになったりしている。この春には、レクリエーショナルダイビング用の人工魚礁の沈設を提案したりした。実る見込みは今のところない。大瀬崎の湾内に大型魚礁を一つ置いたらどうなるだろうとか思うのだが、なかなか難しい。伊澤さんと組んで、東伊豆の先まで行き、何か実現しそうだとも聞くが、その後の報告は来ない。僕の提案は、富戸の前浜か、大瀬崎湾内だけれど、富戸では必要ないと断られてしまった。今現在十分に繁盛しているので、それにアプリを着ける必要もないということだ。

 話を元に戻して、僕の企画は、「千葉県館山の魚礁群」
 調査地点は内房の波佐間、西崎、塩見だ。まず波佐間をみると、図に示すように、岸に一番近く、S56年(1981)に設置した0.8m角ブロック192個がある。ここには最近、巨大魚のタマカイが出現しているという。なぜこんなところに、多分魚礁による隙間のでき方が気に入ったのだろう。

     0.8角コンクリート


     タイヤ魚礁


    6m角コンクリート魚礁


 少し沖に昭和58年(1983)に沈設したタイヤ魚礁がある。
 その沖が、1998年に沈設した2m角、これが現在ドリーム魚礁と名付けられて、レクリエーショナルダイビングで人気のポイントになっている。そして、その沖に6m角のFP魚礁と称するものがあり、さらにその沖がこの前潜水調査した。鋼鉄魚礁があり、さらに沖にもやや大型の鋼製がある。これを順に撮影して行けば、人工魚礁の歴史調査にもなる。
 ただ、問題点は波佐間の魚礁がすべてダイビングポイントになっていることで、これが魚の量に影響があるのだろうか。そのことについては、少し先の塩見に同じように魚礁が配置されており、こちらはダイバーを入れていない。その比較ができる。

      鋼製魚礁

 
 その手前の西崎には、一年にわたって調査したハウス型の魚礁がある。つまり、この館山市内房にはすべてのスタイルの魚礁がある。ダイビングポイント以外の魚礁はすべて忘れ去られている魚礁で、正式の調査がされていない。
 調査の手法としては、今度のシンポジウムでも発表する、ウエアラブルカメラの設置による調査で、これはリサーチするダイバーの能力差も無く、時間も長時間連続調査できる、魚礁調査のスタンダード化を図る手法で行う。

 このことは前にも書いているが、やはり千葉県の漁場だから、千葉の農林水産部に話して、予算は無理だけれど、応援してもらわ無くてはならない。その千葉の担当者が、この研究会にくると、名簿に載っていたので、会いたいという事も目的だった。千葉県には潜水部の後輩の田村君もいるので紹介してもらおうと思っていた。幸い、田村君にも担当者の河野さんにもあえた。年が明けたら企画書をもって訪ねなければいけない。

 その後、21-22時で辰巳の練習会があるので、魚礁の方の懇親会には出られずに、戻ってきた。辰巳には、海洋大学潜水部の岩田君引率で、8名が来てくれた。彼らのスキンダイビングはやはりちょっと違っていて、何時も来てくれる人たちと混ざり合うと、軟らかさが無い。身体はそれほど大きくないのだがごつごつ潜っている感じである。

1206 海豚忘年会

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さて、12月2日は、何をした。
浦安海豚倶楽部の練習日、朝9時から11時だ。
この浦安運動公園のプール天井の高いサンルームのようだ。最初に来たときはなんとバブリーなもったいないと思ったが、朝の日が一杯にプールに射し込んだ光の中で泳ぐのは、ここでしかできない贅沢だろう。



 
 練習が終了した後は、忘年会、いつもはホテルのバイキングで、これが割と気に入っていたのだけれど、今度はユーラシア温泉、プールからもよく見える大きな温泉だ。宴会は、4時からで、それまで、温泉にでも入っていてくださいという事、温泉好きならばいいけど、それにしても、3時間も温泉に浸かっているわけでもない。シンポジウムを前にした4時間を無駄にするわけには行かない。
 幸い、JAUSのそして大島トーシキの山本さんも、今年、大島が台風で流れたお礼?でご招待したので、一緒に行く。
 食事をしてそのテーブルでコンピューターをたたいていたら電池が切れた。コンセントのあるところに移動したいというと、ここではコンピューターを使わないでくれということ。仕方が無いから手帳を出して、原稿の構成をかいてすごした。


   
        新役員は全部、フリッパー競泳の選手

 忘年会では、浦安海豚倶楽部が今年初めて、全日本スポーツダイビング室内選手権大会にチームを送って出たこと、これは、ぼろぼろになりながら、僕が50mを泳いだ効果で、
小松さんは100mで銅メダル、彼は早かった。真玉橋さんは、400mで涙のこれも銅メダル、彼は遅かった。
そして、84歳の玉置さんのための特別レースでは、イルカ倶楽部の全員と、それから石川さん、米沢さん、僕のグループで占めた。生涯スポーツクラブとしての成果であり、勝利である。来年はクラブ全員がでるようにとお話しした。それにしても、僕が最速のころこのクラブを作ってみんなで出ようと言ったのに関心が無く、僕がぼろぼろになってから出るようになるとはと挨拶した。考えて見れば、僕が遅いのに出るから、自分たちも遅くてもよい、その年齢でのタイムがわかれば、という趣旨が浸透したのだろう。



来年の僕の80歳、80mはみんなで応援してくれる。そのプラカード幕は、「目指せ生還」となった。
来年と言わず、毎日が目指せ生還の生活だけど、太く短く生きようとして、80年、まあ、いいか。



1207 シンポジウム

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 12月7日のJAUSシンポジウム、おわった。10月、11月とこれに集中してきた。学連の問題は、微妙で難しく、途中で投げ出そうと思った。つまり、別のテーマとさしかえようかとおもったのだ。迷いに迷ってこの形に落ち着き、学連委員長の筑紫くんに連絡して、協力の養成と、発表をお願いしたのは、11月に入ってからだった。4年生、大学院に進むということだから、就活はないが、勉強が本当に忙しい。中途で、船に乗って福島水域にでかけてゆくとかで、若干中断した。
学生の反応、集まりがにぶい。何度となく、お願いした。
学連のテーマで話をするのに、現役が集まってくれなければ、やる意味がない。
ようやく、これで大丈夫とおもったのは、12月4日だったと思う。
会場の楽水会館は90名で満席に近くなる。詰め込めば110人は入れられる。一般の関心が薄い学生がテーマだったら、40人ぐらいで終わることを覚悟した。少人数でしっかり話を交わすのもわるくないだろうと。





昨日の来場者は、97名、学生が36名だった。プログラムの構成を大きく三つに分けて、午前が学生のテーマ、午後に、プライマリーと映像の二つを掲げた。午前中を学生にしたことは成功だった。朝の10時から夕方の5時という長丁場も大きく分けたことで、あまり、来場者は飽きなかったのではないかと思う。
最終プログラム、当日配布したものを下に示す。

JAUS 第4回 ダイビング活動(運用)研究シンポジウム
12月7日(日曜) 東京海洋大学品川キャンパス 楽水会館
参加費
①学生:無料 報告書「JAUS年報」を含む。
②会員:無料 報告書「JAUS年報」を含む
③一般:2000円 報告書「JAUS年報」を含む
0930受付開始、
テーマ1だけ、テーマ2だけ、テーマ3だけ、懇親会だけの参加もできます。
会場とのトークが十分にできるよう時間を設定しました。

1.テーマ1 ダイビング運用の安全管理と危機管理 10時~12時 
「関東学生潜水連盟、50周年を迎え、これからの50年を考える」。
発表・パネルディスカッション・フリートーキング、
①学連のこれまでの歴史と現状の問題点について、: 須賀次郎
パネルディスカッション
 司会 高野修(筑波大学大学院 高度競技マネジメント研究室 研究員) パネラー
①学習院大学宮崎雅博、②中央大学藤島靖久、③法政大学OB会長、宮城良和 ④2014年度学連委員長、筑紫哲矢(海洋大学)⑤芝浦工大 足立吉隆、
⑥日本水中科学協会 須賀次郎
パネルディスカッションの延長の形で会場を含めたフリーディスカッション
2.テーマ2 ダイビング技能と理論 13時30分~15時(10分の休憩時間を含む)
 「プライマリーコースについての概要」
JAUSの行っている技能講習会であるプライマリーコースについて、講習会の映像を映写しつつその内容、今後について発表
 報告書の内容:JAUSプライマリーコースの概要として、その技法(スキル)のすべて
3.テーマ3  水中撮影 15時~17時 
 報告書の内容: ①、水中映像撮影の現在のトレンド ② ウエアラブルカメラのマウント ③ 棒の先に付けたカメラの撮影法 ④ マスクマウントカメラに寄るイルカの撮影について ⑤ ウエアラブルカメラを中心とした撮影調査について、
4.18時からが、隣接した学生食堂にてワンコインの懇親会
 できれば全員参加、会場での議論の延長ができ、さらに懇親を深めようとする会です。

僕は20分の予定が40分喋り、足立先生は10分の予定が30分話した。しかし、熱い話ならば、昼飯の時間に食い込んでもいい覚悟だった。途中で切られるのも、切るのもいやだ。でも終わりはキッチり17時で終わって、会場のとなりの学生食堂を借りての500円懇親会。これも、学生たちがかなり来てくれたので、よかった。海洋大学と、東大の探検部がお台場にさんかしてくれることになった。

懇親会は余裕を持って18時から、終了17時として、17時に終わってしまったので、一度仕事に戻って、懇親会に出かけてきた学習院監督には迷惑をかけてしまった。

「関東学生潜水連盟、50周年を迎え、これからの50年を考える」。
 実はもうこれで、関東学生潜水連盟についてのおせっかいに近い活動はやめよう。今回も、このテーマは学連自身がやるべきことで、僕がやることではない。最後のイベントとおもっていた。
 しかし、今回のイベントで、問題点が明らかになったともいえる。つまり、これがスタートだ。
 学連委員長の筑紫くんの話もよかった。会場からの学生の声がもっと欲しかったけれど、こちらも慌ただしかったし、学生も準備する時間がなかったし、どういうあつまりなのかわからない。心の準備がなかっただろう。


      筑紫くんの発表

 関東学生連盟が50周年を迎えて、次の50年の迎えるまで、あと2回は考えよう。少なくとも、後一回はやるつもりになった。おいでになった、根岸さん、、未来島という子供たちのスキンダイビング、御蔵島の教育プロジェクトをやっている方から、フェイスブックで、言葉をいただいた。「形式的でなく、現場の生の声が集まった本質的なシンポジウムだったので、今後のインストラクションにいかせます
開催本当にありがとうございました!」多分、学生の、その一のテーマについてだろう。
 なんとなく平穏に過ぎながら、次第に衰退してゆくところに,、石を投げた。投げていいのか、迷ったが、投げて良かった。危機感をもってくれれば、上向きになる。
 ダイビングの安全にも、危機感が大事で、僕の場合でも、危機感が失せて、幸せに楽しくやっている時に、重大事故が起こっている。

テーマのその二、プライマリーコースの倉田君、鈴木くんの発表も僕が予期していたよりも良かった。動画の使い方も悪くなかった。


テーマその三、水中映像では、代表、山本徹さんの司会が上手でおどろいた。
斎藤真由美さんの御蔵島の映像もすばらしかった。この前下見をしたとき、これだけでは、素晴らしいけれど足りない、なにか足してくれと要求したら、メイキングをつくってくれた。これも良くできていた。「イルカが泳ぐだけではおもしろくもおかしくもない。」という僕の言葉を受けて、見事に面白くしてくれた。


 総合的に考えて、これで一つのスタイルを作り出せたと思う。このスタイルでテーマを選んでゆけばいい。

1210 大学の部活動ダイビング(1)

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  危機管理とは、事故は、起こるものと想定して、その時にどうするかを考えて、それに基づいて安全策を考えて実行する。すなわち、危機管理とは安全管理と一体のもので、安全管理とは常に最悪の事態を想定して管理を行うことである。
 ダイビングとは、一人前の人間が、すべての危険についての責任を自分で背負って、自由に行動することだが、学生の部活動としてのダイビングには、それが許されない。すなわち、最悪の事態の責任を、自己責任、本人に負わせることが許されない。必ず責任者が想定され、ことあるときには責任の大半を背負わなければならない。これを逃げることは、無責任ということで、許されない。事故は起こってしまうことで、安全管理がパーフェクトであるなどと考えることは不遜であり、危険に対する想像力の欠如であり、事故の最大の原因になる。
 自分のダイビングライフを振り返ってみて、安心、安全と思っている時、事故を想定しなかった時に事故は起こっている。①自分が指導して、現場で見ている時にニヤミスが起こり、自分としてはパーフェクトだとおもう準備をしていたために、最悪の死亡事故は防ぐことができた事故、水産大学潜水部のコーチをしていた時の事故がこれである。自分の会社、自分がかかわっている仕事で、自分が居ない場所で起こった事故が二つあり、どちらも死亡している。②一つはスガ・マリンメカニックの脇水君の死亡で、これは自分が背負った。③もう一つは、川崎に作ったダイビング専用プールでの事故で、自分がやってはいけないと、指示していたにも関わらずやったことの結果であるから、仕方がないとことだと、、あまり、自分の責任を感じなかった。④自分がアドバイザーとして、禁止していたにもかかわらず、そのことをして、救急病院に担ぎ込まれ、九死に一生という事故があった。 ⑤そして、もう一つ、自分はかかわっていないが、自分が関与できたにもかかわらず、関与しなかったために起きた死亡事故ある。これが法政アクアの事故である。
 これらの事故のすべてが、若者の事故である。
 自分が危なかったと感じたことは、無数にある。この無数の、ほとんどが、想像力、イメージの上での危険であり、一歩手前で、ディフェンスしている。

 これらのことを総合的に考えて、上記、5例のうち三つが学生の事故である。何とかできることはしなくてはいけない。いくつかの会社を整理して、他にまかせて、少し時間ができた。そして、学生の安全のために、SAI、スチューデントアシスタントインストラクターという制度を考え、時の学連執行部、そして真野先生、河合先生、山見先生の協力を得て、第一回の講演会を2003年に行った。しかし、もしもSAIの資格を実施したとして、その資格に到達するまでの経験が2年しかない。三年生で責任を負わなくてはいけなくなる。大学三年生で人の、仲間の死に対して責任を負って行かれるものなのだろうか。負わせて良いものなのだろうか、4年になれば就活、論文で、部の指導責任などを負えるはずもない。不可能と思い知り、それではと、危機管理のために、先生方がバックアップしてもらえるように医科歯科大学の教室で研修会を開催し、もしもの時に、この学生グループは、このような研修会を開いていたと鑑定書をかいてもらえるようにしようと切り替えた。そして、各大学の責任者に、実施している講習マニュアルを書いてもらうなど、2008年までは続けたが、2011年に、SAIに監督、コーチが姿を現さない。つまり、賛同していない、その代で区切られてしまう学生には、継続性がなく、繰り返しになり、先に進まない賽の河原の石積みのようなものだと、自分としては終止符を打った。そのSAIで学生に書いてもらった結果を今回、12月7日のJAUSシンポジウムの報告書に掲載した。これによって、学生現役が考えている危機管理、安全マニュアルの実態についてみることができる。
  今度のシンポジウムで、監督、顧問、4人に話をしてもらった。ユニークであり、新しい知識になったのは、芝浦工業大学の足立顧問(教授)の話しで、10分の時間制限で、30分話をされた。僕も20分の予定で40分話したから、五分五分だが。

足立先生発表では、顧問は学校に対して、部の活動の安全について大きな責任を負っている。これは、一つには大学当局が顧問に責任を押し付けていると思われる節もあるが、とにかく大きな責任を負っていて、今年度の八丈島合宿にたいして、GO!の印を押さなかった。安全に責任がもてないということだろう。先年、芝浦工業大学ダイビング部の45周年記念でのあいさつで足立顧問は、ここまで無事に活動を続けてきて、よかったと涙を流していた。本気で責任を負っているのだ。
シンポジウムの後の懇親会で芝浦の現役で、学連の安全対策の責任者になった子に、足立先生は、絶滅危惧種だから、現役が大事にしなければいけないとお願いしておいた。
顧問が大きな責任を負っていることが、この発表でわかった。監督、コーチは、その顧問の責任を肩代わり、あるいは分け合って、安全を確保すべく、学生の活動を見守り、育てて行かなくてはならない。大学のダイビング部活動とは、教育である。ダイビングは、協力して、上級生が下級生の面倒をみて、危険を克服して行く、教育的効果が大きい活動である。こちら側から見て、2年生と一年生ではまるで違うし、三年になるとずいぶんしっかりしてくる。だからと言って、人の命に責任をもてるものではなく、この責任はたとえしかりと大人に近づいたとしても、負わせるのは過酷である。法政の事故の時に、つくづくと感じて、自分もその責任の一端を負いたいと、遺族に何度となく手紙をだした。どうなるものでもないが、心のケアの一端を、同級生の父親として、努力をした。(事故は娘の潮美の同学年のクラブメートだった。)お父さんから、気づかったことについてのお礼の手紙が来た。しかし、許すとか許さないとかの問題ではなく、なぜ、どうしての真実がしりたいという趣意だった。

続く

1212 学生連盟(2)

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12月7日のシンポジウム、その始まりの
テーマ1 ダイビング運用の安全管理と危機管理 10時~
1. 学連のこれまでの歴史と現状の問題点について、:須賀次郎
20分の話をする予定だった。50年の話が20分で終わるわけもない。結果として40分はなしてしまった。それでも重要なことを何も話していない。実は話せなかったのだ。危機管理とは事故が起こったあと、それからの事なのだ。とても、しゃべれなかった。事故のことただその部分だけ話せば、安全潜水のはなしになってしまう。そうではないのだけれど、とても微妙であり、はなせない。
ともあれ、20分が40分でも語りつくせなかったことを、どこかに書いておかなくてはならない。どこかに、って、ここしかないではないか。
すべての物事は、過去があって、その因果関係のうちに現在がある。そして、現在につながる未来がある。いきなり、問題点はここだと指摘しても理解できるわけもない。
最初にさかのぼって書こう。しかし書けば、ニッポン潜水グラフィティ一冊の半分ぐらいになってしまう。出来れば、ニッポン潜水グラフィティを読んでいていただけると、重複する部分を述べないで済む。
 ここでは、ニッポン潜水グラフィティを読んでくれている皆様と勝手に想定して、この本では殆ど書いていない学生連盟の事を、できるだけ手短に書いて、次に2000年代のSAIのこと、それから現在の事を書こう。


 関東学生連盟ができたのは、
1968年、僕たち、僕と後藤道夫、浅見国治(水産大間を募って、日本で初めての潜水指導団体、すなわち、潜水のライセンスを出す団体を作ったのが1967年だった。このあたりの事情については先ごろ出版した「ニッポン潜水グラフィティ」に書いたが、その日本潜水会の仲間として、法政大学、法政アクアクラブ創立者の一人である加藤芳正君が、学生会員として参加していた。
その翌年の1968年に関東学生潜水連盟が誕生するのだが、その初代委員長になる法政の銭元君は、その年度に行われていた日本潜水会の一級検定に参加していた。その一級検定の項目が後に問題になる立ち泳ぎであった。
そして、その1968年、僕は母校、そして、僕が創立した潜水部の監督のようにふるまっていた。監督・コーチという役割名称は、今2014年に至っても海洋大学(水産大学の後身)にもないから、当時にはもちろんない。要するに先輩の一番上で,ある僕が監督のようにふるまっていた。
 昔も、そして今も、僕はダイビングとは、ただ水中散歩をするだけではなく、何かを成し遂げなければならないと主張している。

ただひとり商社マンになった津川くん

 裸でいるのが和久井君


 その時、僕が取り上げたのは、水中グライダー(水中橇)である。舟で曳航して、翼を下げ舵にして潜航する。
 その13代は、水中グライダー効果もあったのか?
高橋実(その後僕といっしょにスガ・マリンメカニックをつくり、現在は独立して海洋リサーチ社長、潜水団体スリーアイの会長だ。)
吉川忠(やはりスガ・マリンメカニックに入ったが、後に鬼怒川パシフィックにトレード、その後ウエットスーツメーカーに移動したが、現在の仕事は不明、残念ながらダイビング界からは去ってしまった。)
後藤一朗(潜水作業会社「潜海」を設立し、人入れ稼業で儲けて、現在はスポーツカーを乗り回しながら絵を描いている。)
大掛君(海洋科学技術センター、今のJAMSTECに入り、海底居住のアクアノートとして、嘱望されていたが、酒によって二輪車に乗り、激突して死亡)
奥川君(大掛とバディでアクアノートになり、後に水中撮影会社を興し、僕のライバル強敵となったが、若くして病死)
和久井君(二代目の学連の委員長を務め、後に芙蓉海洋開発に入社して定年まで勤めた)津川君、(ただ一人だけ潜水関係に職を求めず、三井物産?とかの巨大商社の歯車になったが、多分偉くなっただろうが不明)
僕がコーチを本気になってやったのは、この代が中心で、ほぼ全員がダイビングに関連した仕事に就いた。ダイビングでご飯を食べられた、ということだ。
 しかし、監督とかコーチとか自称しても、所詮は、ボランティアで、公認されたものではないし、学校から任命されたものでもない。自分が、東亜潜水機から独立して、スガ・マリンメカニックを作り、その13代の高橋君と一緒にダイビングの仕事を始めたために、忙しく、監督・コーチを続けることはできなかった。
今も昔も、監督とかコーチは自分が生きて行く所以である仕事が忙しくなれば続けられない。

その1968年に、関東学生潜水連盟が結成される。
東京水産大学(現海洋大学)のクラブ発足が1957年で、一番古い歴史を持っている。これは、別にして、法政と独教が64年、日本大学が65年、学習院、芝浦工大、早稲田水中クラブが67年、そして68年には中央、立正のクラブが発足し、その68年に法政、独協、中央、東京水産、東京商船が加わって関東学生潜水連盟が発足した。1964-1968年が大学潜水部の設立ラッシュだったといえる。
 その、1964年から1969年は大学紛争の年である。
 大学紛争とは、?ウィキで調べると。
• 68年から69年にかけて、全国の大学を中心とする学園紛争が燃え盛りました。紛争は、60年代の半ばから始まり(64年の慶応大学、65年の早稲田大学、66年の中央大学の各学費値上げ反対闘争など)、ピーク時には、全国の大学の約8割に当たる165校がストライキを含む紛争状態に入り、その4割以上の70校でバリケード封鎖が行われました。
    JICLより
 学連は大学紛争のさなか、その副産物として生まれたと言えなくもない。大学は休講が続き、時間があった。そして、学生のムード、流れは、大人(教授などを含む)への反抗だった。
 反抗から学連が生まれたとは言えないが、社会人から、先輩の制約を受けることなく、独立して、学生だけの固有の活動をしてゆこうという伝統が出来上がったともいえる。

日本潜水会で教えた銭元君が初代の委員長、次の二代目が、僕がコーチしていた水産大学の和久井君だから、学生連盟の結成、発足については、何らかの相談を受けてもおかしくない。しかし、相談も受けないし、知らされもしなかった。僕に秘密で結成された。僕たちの日本潜水会の影響を受けることが嫌で、相談なしで作ったのだろうと勘ぐった。聞いてみないことにはわからないが、その通りだろうと思う。しかし、その基となっている動機は、僕個人に対しての反抗などと、僕が不遜にも思い上がってのとは違って、当時すでに萌芽を出していた、商業スポーツとしてのダイビングとは、軌道を等しくせず、学生は学生のスポーツーとしてのダイビングを確立して行こうという、志があったのだろうと、ずっと後に僕は法政アクアダイビングクラブ30周年記念に発行された、「法政アクアの曙」を読んだ時に気づいた。


ここでも、この後、この小冊子からの引用が多くなると思う。当事者たちが、発行している冊子は公文書でもあり、その引用でなければ、述べられないことがある。この小冊子は、編集委員長が、今、娘の亭主である柴田充君、そして、編集委員に今はもの書きの端くれをしている潮美がいて、それで一緒になったと勘ぐったりしている。
とにかく、この冊子は日本の学生のダイビングを語る時、必ず目を通さなければならない資料だと思っている。今現役の学生たちにも見せたいけれど、もう、手に入らないのだろう。
僕は、そんなことを見越して、今度のシンポジウムの報告書も、また前の報告書もたくさん印刷して、部屋の邪魔になっているが、今や、名編集者である柴田君の作った「法政アクアの曙」に遠く及ばない。また脱線がはなはだしくなった。ので、次に続くとして仕切りなおす。

1213 学生連盟(3)

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「法政アクアの曙」30周年、「法政アクアの絆」40周年、「法政アクアの桟」50周年、よくもまあ、わかりにくい字を見つけて、タイトルにしている。「きずな」「かけはし」とよむ。だれの趣味なのかな。
僕も桟、と絆の巻頭にちょっとしたこと、当たり障りのないことを書かせてもらっている。娘夫婦が、法政アクアだから、親子の関係だとおもっている。法政アクアは、他人ではない。

 自分の母校海洋大学、海洋大学と水産大学は明らかに違う大学になったのだが、50周年を迎えて、なんとしても記念誌をだしたい。そのためにはOB会を作らなければならない。法政アクアとは対照的だ。法政アクアはまずOB会ありき、で30年、40年、50年、これから100年まで60,70,80,90か。僕の海洋大学は、僕がOB会を作らなかったために、絆、桟 がない。一年間、奮闘して、なんとかOB会をでっち上げ、50年記念誌をだした。僕の手元にある大学記念誌は、この4冊だけだが、今も学連のことを考える度に、この4冊を見直している。学連のことだけではない。ダイビングの安全を考えるとき、この4冊を見ると、安全とは、そして危機管理とは何なのだと、生の感覚が伝わって来る。ほかの大学の記念誌も合冊して、学連50周年の記念誌にしたら、と思ったりする。本気になって提案しようか? あらたに原稿を書くよりも、歴史そのものを合冊してしまった方が、その時、その時に何をして、何を考えていたかの空気、流れを感じることができる。
歴史というもの、伝統というものは、こういうことなのだ。だから、それを大事にしなければいけない。とにかく、今の現役に、現在、傘下の各大学の記念誌を全部集めさせよう。そういう時のために、海洋大学の50周年記念誌は、余分に剃らせて、30冊ぐらい僕が持っている。そんなことをするから、僕のオフィスはカオス状態になっている。
記念誌を持っていない大学は急遽作れ!それが48年記念であっても、46年記念であってもいい。記念誌をつくろうと思った代の名前が残る。
 いま、しまった!このことを12月7日の講演に話したら良かった。
 
法政の、30,40,50.三冊全部に、19期、娘の潮美の代の渋谷くんの死亡事故のことが書かれている。

続く

1214 学生連盟(4)

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 12月7日のシンポジウムの講演でもこの事故についてのスライドを作った。
•「この時の法政アクアは、これでクラブを消滅させなかった。その後見事に立ち直って、今年50周年をむかえた。つまり、危機管理ができたということである。
•30周年記念誌では、決してこの事故を風化させてはならないと書いてある。
•この時学連は、法政を一時的に除名し、遺族との和解の後復帰となった。
•しっかりしたOB会、OBが居たことが危機管理の成功につながったのだと思う。
 
 このスライドはシンポジウムの話では使わなかった。事故と危機管理については、自分の事故例、そして、自分の行った危機管理について述べた。
 やはり、実際にあった事故の話をするのは辛かった。別に誰を責めるのでもない。危機管理の成功例として話すのであっても、避けてしまった。
 その当時に詳しいことも、どこかで書いたような記憶もあるが、ここでは書かない。自分のしたことといえば、遺族に3通手紙を書いた。事故について、子供たちを責めることになる形での訴訟はしないで欲しい。それは、亡くなった彼をも責めることであり、悲しむだけだと書いた。自分の例として、大学4年の時に人工魚礁調査で死にかけて、もしも死んでいたら、母親は、指導教官であった宇野先生を訴えるのだろうか、訴えないで欲しいと思ったことを書いた。この大学4年の九死に一生については、ニッポン潜水グラフィティに書いた。
 お父様からは、僕の気遣いについてお礼の手紙をもらった。しかし、母親は、どうして?がはっきりしないと納得できないという内容だった。この手紙は今も大事に持っている。
そして、学生4名と、顧問、学校が訴えられたが、幸いなことに、学生との訴訟は、長引かずに和解が成立した。学校当局との訴訟は残っていたと記憶するが、その後のことはわからない。
クラブの再開については、並大抵ではない努力があったと思うが、小松君、村田君などNAUIインストラクターが指導し、練習を見る、ということで解決した。
言いたかったことは、学校からは、解散命令が出され、遺族は訴訟を起こしたその時に、学連は除名という方法しかなかったのだろうか?僕は当事者ではなかったから、本当のことはわからない。その時、法政と学連との間にどのような話し合いがあったのかわからない。学連は今と同じように現役学生だけの組織であったであろうから、対応が難しかったと思われる。
事故の状況、その後の対応などについては、30周年記念誌、「法政アクアの曙」に16期の徳武氏が書いている。端的に言えば、立ち泳ぎ練習での事故であった。
この立ち泳ぎ練習は、僕たち日本潜水会が始めた方法であり、訓練方法としては、間違っていないし、その後の映画など見ると、海猿でも、そして米国の沿岸警備隊のことを描いた「守護神」にも出てくる。BCのない時代、立ち泳ぎ能力が溺れを防ぎ、レスキューにも重要な役割を果たす。
後にあった、東大の海洋探検部のブラックアウトでは、ブラックアウトして沈みかける溺者を引き上げるのに時間がかかっている。これは立ち泳ぎ能力の問題である。現今のスキンダイビングであっても、ブラックアウトして沈むダイバーを引き上げる能力は、立ち泳ぎの強さにかかっている。
しばらく前だが法政の練習を辰巳で見たときには、ウエイトを持たない立ち泳ぎ練習を行っていた。
負荷をかけた立ち泳ぎも悪いとは思っていない。ただ、そのケアが十分であったかどうか問題ではある。スポーツのトレーニングは、記録が伸びるのと同様に、練習の負荷も増えてゆく。現在ではフリーダイビングがスポーツとして盛んになってきている。これは、専門のコーチが、そばに付き添っていて責任を負っている状況でなければできない。フリーダイビングのトレーニングでは、ブラックアウトすれすれのところで行われる。学生がこの専門家のトレーニングをうけて、それを自分たちの練習に取り入れたとすれば、危険が大きい。もちろん、自己責任で、フリーダイビングのチームに入り、世界を目指すのは悪くない。繰り返していうのだが、大学の部活としてのダイビングは自己責任ではない。同好会については、よくわからない。同好会と部活の区別をきっちりと付けて、新入生にアッピールする必要が有る。今、ダイビングは致死性の高い商業スポーツとされている。学生スポーツとは、一線を画さなければいけない。商業スポーツで事故死は賠償責任保険で償われる。それで終わりである。同好会も同様だろう。


 一般に体育会系が厳しく、同好会系が緩やか、そういう見方もあるが、違うと思う。以前、海洋大学潜水部が、人数が集まらず、また入部してもやめてしまう例が多く、ピンチにたったことがある。一年生、新人は神様、二年生は奴隷のつもりになれと説教し、もしも、一年生が二年生に不満があれば、言って来いと指導した。僕の水産大学時代は、一般の運動部は、一年生奴隷、二年神様だったが、1957年に潜水部を作った時の僕の一級上の上級生、竹下さんと橋本さんは本当に優しくて、まるで僕が上級生のようだった。このことも、ニッポン潜水グラフィティに書いた。それが伝統になればよかったのだが、後に誤解が生まれたらしい。今の体育会系は、下級生を徹底的に大事にして、下級生は上級生を尊敬しなければいけない。ダイビングで、昔の体育会系をやったら危ない。またあとでもこのことについて触れる。

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