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0925 SJ テスト

25日、21ー22時の辰巳国際水泳場の練習会、自分の練習と、最近テストをしているSJ4000(僕のはQUMOX)の実写テストをする。プールの底に、SJとAEEを並べた。GoProも一緒に並べればよかったのだが、スタンドが足りなくて(後でみたらバックにはいっていたのだが)GoProはマスクマウントで使うことにした。

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        プール底におく、SJ

 撮影結果の前に、自分のトレーニングだが、デスクワークが続いていて、運動不足で調子が悪い。そして、秋になり、水も冷たく感じる。
 まず、ウォーミングアップで、200m、水面をゆっくりと泳ぐ。春先には力強く泳ぐことができたのにだらだら泳ぐようになってしまっている。

 25mのダッシュ。後半にスピードが乗ってくる感覚がない。2本でやめた。ここでダッシュを重ねると、スキンダイビングの息こらえができなくなる。5mの底に、SJとAEEを置いているのだが、倒れてしまったのをなおしに潜るのでさえ、ちょっと息が切れてしまう。
 25mの水平潜水、15mくらいで息があがってしまう。これは、繰り返して、炭酸ガスの呼吸中枢への刺激鈍くしてゆく。3回ほど繰り返すと、水平25mまでは行けるようになる。
 来ていた金丸監督と話をする。彼は、この一年、スキンダイビングに熱心で、パワフルな練習を繰り返している。
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       SJ
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      SJ  部分的な拡大 一応使える。
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       GoProの画像
僕もさらに水平25mをくりかえして、楽に潜れるようになった。
 ラスト10分が水中フリスビーの時間なのだが、15分前あたりから鈴木君がディスクを持ち出した。フリスビーも、定着してきて、参加人数が多い。僕も25mが楽になっているので、気分良く参加できて、マスクマウントで撮影できる。
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       フリスビー SJ 底においたカメラ
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        マスクマウントGoPro

 終われば、始めるときの調子悪さは消えていて、疲れてはいるけれど、気分はいい。やはり、泳げば体調はよくなる。練習時間、1時間はちょうど良い長さだ。


 sjのテストだが、クリスタルクリアーなプールの25メートル対角線の角から角がシャープに見えるその鮮鋭さ、色、光の色とび、(光が強く当たる部分が白くとんでしまう)を比べるのだが、かなり、感覚的な比較ではある。sjは、予想していたよりも良い。GoPro2を100として、80ぐらい、AEEよりも良い。

9月28日お台場、 SJ テスト

 もう九月も終わる。ダイバーにとって夏の終わりは、一年の終わりのように感じられてしまう。
 この一年、何をしたのだろう。忙しく苦闘を重ね、毎日、四面楚歌のような気分になっていた。しかし、世の中そうしたものなのだろう。自分を中心に地球が回るようにねがっても、よほどの馬鹿でないかぎり、それは望めないことはよくわかっている。わかっていながらも、自分の身の回りの出来事だけは自分を中心に回って欲しいと願う。それぞれの地球は衝突を繰り返す。
 身の回り、ダイビングについても、自分が熱くおもっているのと同じ温度で、人が考えてくれているものでもない。
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 さて、9月だが、28日、その月の最終日曜日はお台場潜水の日だ。昨年、2013年の9月は、青潮と、貧酸素でお台場は死の海になった。今年も、船橋方面では青潮が来たりして、お台場もひどい状況なのかな、と想像した。
 今回の僕のテーマは、このところこのブログでもテストの様子を書いている廉価版のウエアラブルカメラ、GOPROとほとんど同じ大きさ、同じデザイン、すべてをパクッたSJ4000のテストである。僕は、このSJを買うつもりでアマゾンで購入を決めた。しかし、送られてきたのは、QUMOXとネームプレートにあり、JAUSの水中撮影研究会では、コピーのコピーだと言われた。以来、陸上のスナップ、記録とメモに使い、辰巳の練習会でもテストをした。
 QUMOXとは、その呼称をしらないので、SJで通してきて、テストの結果をこのブログにも書いた。陸上のスナップとしては満足出来、辰巳でもまあまあで、GOPROを100とすれば、70-80ぐらいの結果だった。なお、この場合の結果は、撮れた画像の見た目、すなわち主観であり、客観的なテストの結果ではない。100とかいう数値も感覚そのままである。
 そして、いよいよ、お台場で、海へのデビューである。

 例によって忘れ物をする。まず、ゴムボートのオール、これはきちんとしている鈴木コーチの責任範囲だが、猿も木から落ちる。お台場から事務所まで片道15分、取に行った。さて、潜る準備をとバッグを開けたらマスクが入っていない。マスクは辰巳の準備バッグに入っていて、車から降ろしてしまったのだ。とにかく、もういちど事務所に往復する。30分。
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 それから、ウエットスーツを着て、機材をセット、カメラもセットしていたら、第一陣の尾島さんの奥さんが上がってきた。水が良く見えて(透視度が2mぐらいか)魚もすごい。プランクトンが満ちていて、それを食べる、ボラ、セイゴなどが泳ぎまわっている。いつもの杭のあたりは、ガザミが3尾岩ノ下にいる。トサガギンポも多い、と魅力的な情報をくれる。

 僕の最近の撮影システムは、イノンの1000ルーメンのライトを両側に取り付けた板(ステイ)でオリンパスのTG-2とGOPRO2を並べて取り付けたものである。地中海の旅は、これで通した。リサーチとか中尾先生のお供は、これで十分だと思っている。そのオリンパスを外して、SJを取り付けた。SJと、GOPROのツインである。
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 透視度はやはり2mは見える。おぼろげならば、3mは見えるだろう。岸辺近くはもっと見える。今のお台場撮影の熱中者、一眼レフなどできちんとし他スチルの撮影をしてくれると期待している清水まみ、が来るようになってから、初めて、透視度が1mを越えた。あの人はしつっこい(カメラマンとしての貴重な資質)から、よろこんで上がってこないで潜り続けるのだろうな。



 目標は、杭に置いた。この杭は、多分、このあたりに桟橋でも作って名残なのだろう、由来はわからないが、魚礁の効果を発揮している。2013年には本当に魚礁をテスト的に入れていたのだが、撤去されている。もう一度魚礁を入れる提案をしなければいけないと、以後、ずっと思っているのだが企画書を書けていない。

 杭に直行した。杭の根本の石の陰には、10cmほどのマハゼが居て、あまり逃げない。接近すると岩ノ下の穴に逃げ込む。マハゼは2月ころには深さ3mにも達する穴を掘って、その中で産卵する。穴を掘るのは得意だから、自分で堀った穴かもしれない。
 トサカギンポもそこここにいる。ちょっと良いカットもとれた。シマイサキの稚魚も3尾群れているカットをとった。
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トサカギンポ 可愛い SJ
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      トサカギンポ  gopro2
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      トリミングしたもの、 gopro2 の撮影

 ガザミ、もしくはイシガニは見つけられない。ようやく石のしたに隠れているのを見つけたが、角度が悪くてまともにとれない。GOPRO2を穴の前においてみた。これでは近すぎてボケるだろう。マクロアダプターが必要だ。
 陸に戻ってみると、GOPRO2が17分しか回っていないで止まっている。イシガニのカットも取れていない。電池を外してリセットしたら元に戻ったが、こんなことは水中ではできない。2台並列で置けばどちらかは生きる。しかし、良いカットがテストのSJだけになってしまった。

 午後からの潜水は、GOPRO3とGOPRO2を並べた。しかし、透視度は悪くなっている。このお台場は潮が満ちてくると濁りが満ちてくる。浅いところだけがかろうじて1.5mほど見える。杭の場所で2尾のマハゼが、くるくる回るように争いなのかなんなのかわからないがとにかく巴になっている。
しっかり取りたいと静かに接近したが、ファインダーの中心に2尾を持ってきたときには、2尾は離れてしまった。
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     GOPRO2  マハゼ

 2回の潜水を終了して、4時、銀座でやっている友人の新藤さん主催の写真展 辺野古の海 に回ったが、それは次のブログに書くことにする。

 もどってから、撮った動画の処理をする。
 SJがシャープなのだ。色調がGOPROと違うから、好みはあるだろうが、撮影距離で2m以下ならば、シャープさではGOPROと並ぶ。そして液晶のファインダーもGOPROが見にくい暗いところでもSJは見える。もちろん、小さい画面だから、細部はわからないが映る範囲の確認はできる。そして電池の持ちも、GOPRO2よりも良いようだ。GOPRO3は、液晶を着けると短くなるので、一番悪い。
 SJは、水中でメインでもつかえる。屋久島の友人榎田君    は、メインにしたと言っていたがうなずける。
 13000円という廉価だから、消耗品とも考えられる。CPは、最高だ。
 たとえば、地中海の旅ならば、これを3台ほど持って行けば、すべてが撮れる。もう2台ほど買ってもいい。
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       SJ プランクトンのイサザアミもそのように見える。
 
 

1001 SJ テスト

 辰巳国際水泳場の抽選会、これがいつでもプレッシャーになっている。10月11月は、スポーツの秋、水泳大会の季節だから、貸し切りの日数が少なかった。ので、余りよい時間帯がとれていない。12月はまあまあ、1月は、10個も貸し切りの時間があるので、気楽かとおもったら、やけに希望者(競争者)が増えている。それでも勝って5個確保した。

30日の辰巳は、9月で唯一とれた、19ー21時なのでたくさんメンバーが集まるかと予想していたが20人強だった。

 その辰巳で、SJのテストをする。今の僕の基本システム両側にイノンの1000ルーメンを取り付けたステイ(枠)をライトが上向きになるようにプールの底に置き、カメラも上を向いて置き、真上から、カメラに向かって垂直潜降する。ウエアラブルカメラの初期2012年のシンポジウムではこの方法でフラットポートとドームポートの比較テストをした。今はもうフラットポートがすべてで、ドームは、記念品として保存しなくてはいけないようになってしまった。
GoProだけだったウエアラブルカメラが、何種も売り出され、その廉価版のSJをテストしている。
プールでライトを上向きに置き、SJと、GoPro2そしてオリンパスのTG-2を上向きに置く。斉藤真由美さん、真島洋子さんに狙いを話して、上から潜ってもらう。中村君、浮穴さん、石川純子さんも潜ってくれる。そのほか来てくれている人も来る。斉藤さん、中村君、浮穴さんは、自分のウエアラブルカメラもしくはTGを同じようにして上向きに置く。最初に僕がウエアラブルカメラのテストをしていた2012年には、僕の道楽だとこの子たちは見ていた。僕としては、僕はプロのカメラマンだったのだから、撮影のテストは道楽ではないのだが、まあ、仕方ない。最近では生きているのが道楽にちかくなっている。
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 しかし、ウエアラブルカメラは恐ろしい。2012年に予言?したように、カメラの革命、特に水中撮影、海辺の撮影の革命なのだ。それも動画で撮って、PCの上で静止画を取り出す手法がだれでもできるようになっている。日本の既存のカメラメーカーは、この革命に気づかなかった。そして、中国のおそらくGoProをつくっている部品メーカーだろうか、廉価なコピー製品を出す。その一つがSJで、これは、寸法までGoPro3と一緒で、しかも液晶ファインダーが後ろについている。GoProも負けずにこの10月には、GoPro4のシリーズを出す。その一番廉価な型は19000円である。また買ってテストをすることになるだろう。その方法として、このライト上向き方法が手軽で分かりやすい。
それに、辰巳に来ているメンバーもこれはおもしろい。自分のカメラを置いて、上から潜って行けば、自分撮りができるのだから。

結果
☆SJ(僕のはQUMOX)
カメラを真上に向けると、天井の照明があるので、自動的に絞り込まれる。水面が暗くなり、潜り込んでくる顔は陰になり真っ暗になる。その陰を照らすように上に向けたライトがある。
 僕の800ー1000ルーメンのイノンは、水中ライトとしては暗い。2000のフィッシュアイを持っていたのだが、原因不明で水没してしまった。このタイプは次々と水没して、水中ライトの墓場となっている。イノンはオーリングがダブルに入っているので、まず大丈夫だろう。最近、まず大丈夫なより明るいライトが各社から売り出されている。どこも、僕にモニターを頼んでこない。落ちぶれたものだ。とりあえずはこのままイノンの1000で行こう。
 潜り込んでくる真由美さんの顔とイノンの光の強さが、よいバランスになった。とても美しい。しかし、見上げた水面は、あまり美しくはない。しかし、明るさ、水の色は良い。
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 真島さんの旋回は優雅で美しいのだが、画面からフレームアウトしてしまっている。SJの広角の画角は、GoProよりも狭いのだ。

☆GoPro
画角も広くて、真島さんの旋回もうまくは言っているのだが、暗い。下からの見上げるライトが暗いのだ。2000ー3000ルーメンのライトを買わなくてはならないか?これを機会に買ってしまおうか。
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☆オリンパスTG-2は、もっと暗い。しかし、ベルベットのような色は美しい。このカメラは、絞りの固定もできるから、次回はセッティングを変えて見よう。
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1003 時計

 ロレックス時計の事を書こう。いや、時計について書こう。
 事務所の引き出しを整理していて、引き出しの奥から出てきた。もちろん、忘れていたわけではないが、とにかく出てきた。オーバーホールしてから、20年経っているだろうか、もしかしたらもっとかもしれない。でも、時々、二年に一度くらい、思い出したように出してきて振ってやる。そして秒針の動くことを確認して、うでに着ける。数日着けて、また引き出しの奥にしまう。
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 ロレックス、ぼくはローレックスとロを延ばす呼び方がすきだけれど、時計屋さんは毎年とか、三年毎にオーバーホールをしろという。僕は、オーバーホールなどしたら、ローレックスに失礼だと思う。こんな伝説がある。ローレックスを着けたダイバーが海に沈んだ。数年して白骨化した遺体が引き揚げられた。腕のロレックスは、時を刻んでいた。ロレックスはメカニカルムーブメント、振り子の作用でゼンマイが巻かれる。ソーラーバッテリーの光が届かない海底でも波に揺られて動き続ける。多分この話は嘘だと思う。でも、僕のローレックスは、20年以上、時々思い出したように振ってやると、動き出して、数日後に引き出しに入れるときまで正確に動いてくれる。
 僕のは、sea dwller 耐圧600m、海底居住のためのヘリウム抜きバルブがついている。海底居住が世界潮流だった時代だから、1970年代の時計だ。ヘリウム環境に深く入ると、密閉した時計の中に、ヘリウムが入り込む。そのまま減圧するとヘリウムが膨張して時計が破裂する。それを防ぐためのガス抜きバルブがついている。もちろん、僕は海底居住のアクアノートではないから、ガス抜き弁など必要ではない。でも、そういう時計だ。
日本の本物のアクアノートである山田君が紹介してくれて日本のシチズンがつくったアクアノート用の時計をモニターとしてもらった。これは、スガ・マリンメカニックの米田が、ちょっと貸してくださいと言って持って行ったまま返さない。催促すると、これは須賀さんには似合わない。ロレックスがあるじゃないですか。とそのままになってしまった。
 ところが、その耐圧600mのロレックスが、プールで泳いでいて水漏れした。水漏れと言っても水没ではない。ガラスの内側に水泡が蒸着する。水がほんの少し入ったのだ。  
ニッポン潜水グラフィティに書いた、ロレックス時計がスポンサーの海洋博、そして、その後のロレックスカップ、海洋フリッパーレースのお世話をしてくれた広報部長の市川さん(現、脇坂夫人:脇坂さんは、日本潜水会の古い友人で、先日の出版記念会にもきてくれた。)のところに持って行った。ロレックスの修理は、日本人にはやらせない。スイスから職人が来ているのだとかで、カシオ、二個分の修理代がかかった。なお、彼女がローレックスと呼ぶものだから、そのほうが言葉の響きがいいなとおもっている。
 それ以来、水に漬けるのはカシオにして、今はダイコン、ロレックスは引き出しの奥にいれておくことにしている。もちろん、海になど持って行ったらすぐになくなる。
息子に形見でやろうと密かにおもっているのだが、この前会ったら金のロレックスをしていた。何となく、形見だと持ち出しにくくなった。もう一人の息子、潮美の亭主は、かなり有名な時計のコレクターで、月刊ダイバーにも、そのほかの男性雑誌にも時計の事を書きまくっている。ロレックスもざるに入れるほどもっていることだろう。しかし、先日の出版記念会にもきてくれて、そっと腕をまくって時計をみせてくれた。「着けてきました」はるか昔、日本ではじめての水中時計のころのセイコーを娘が持って行ったような記憶がある。彼のところに流れ着いたのだ。
 東大教授の小久保君は、密かに狙っている。しかし、彼はこの前大瀬崎で、僕があげた精密水深計付きのシチズンを失くしてしまった。だから、ロレックスを下さいとは言いにくいだろう。

10月5日

 元テレビ朝日のプロデューサー、長谷川挌さんのお通夜に行ってきた。

 今、字を書くのが嫌になっているし、月刊ダイバーの原稿も書かなくてはいけないのだが、どうしても今日、今夜書いておかないといけないように感じている・

 格さん(イタルさんとよむのだそうだが、関係者はみなカクさんと呼んでいた。)は、僕が60歳で100mを目指したテレビ番組のプロデューサーだった。
 それまで、そんなに口をきいたこともなく、よく知らなかったのだが、潮美とか、僕たちのニュース・ステーションのディレクターをやってくれた乾君などは親しかったようだ。当時の格さんは、スマートで、決断が早く、若い人たちに人気があり、格さんが良いと言えばそれは良い、という感じだった。僕がお酒を飲まないということも、あまりお目にかからなかった理由の一つだったとおもう。その僕が、なぜか、年末だったかのお酒の席に行った時、潮美と一緒にいて格さんと話をした。60歳で100m潜る計画は、それほど、真剣に考えているわけではなく、ちょっと思いついたていどだった。それをその時話をすると、なぜが、「それ行こう」ということになった。企画書も何もない、雑談のようなものだった。もっとも、決まってから、乾君あたりがしっかり企画書を書いたとおもうけれど、。
 もっとも、それまでも、決まる企画と言うのは、そんな風に酒の席で雑談的に話していて、プロデューサーのひらめきで決まるものが成功する。重さで勝負するような企画書を書いて、通った記憶がない。
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お世話になった番組に関して、ニュース・ステーションに出た。


 番組が進行している間も、僕とは直接に長話をしたことがなく、ナレーションを受けてくれた三浦洋一さん (これも惜しいことに若くして亡くなってしまった) が、打ち合わせに来ている時に、あいさつに来ただけだった。そして、放映が終わって全部終わった時に挨拶したが、ほとんど話をしなかった。切れるプロデューサーとはそんなものなのかと思っていた。

 そして、僕もテレビの世界からは次第に抜けて、そして、さらに年月がたち、フェイスブックを始めたころ、格さんの名前を見つけた。プロフィールは、その昔の顔ではなかったけれど、さっそく友達になった。だから、親しく、話?をしたのはフェイスブックになってからと言ってもいい。僕が辰巳で撮る写真をいつも「いいね」してくれて、プールの写真がこんなに美しいとは知らなかったとほめてくれた。
 そして、何かの時に、原始時代、人類が水中生活をしていたのだというアクア説をもちだしてきた。格さんは、当然、僕がアクア説をしっていると思ってのコメントだったとおもう。ところがなぜか僕はアクア説を知らなかったのだ。さっそく本を買ってしらべた。アクア説は、だイバーにとってはロマンである。
 そんなこととがあったうちに、しばらく、フェイスブックが途絶えた。脳の病気だとかで悪化したようだった。これも、フェイスブックで親しくなった.上野さん、彼とは小笠原の鯨で、小笠原で会ったのだが、鯨で亡くなった望月昭伸のカメラで番組をとっていたので、僕の現役時代は一緒に仕事をする機会がなかった。それでも共通の話題があるので、フェイスブックで親しくなった。そして、彼に連れて行ってもらって、厚生年金病院に入院していた格さんを見舞った。お世話になったお礼を申し上げただけで、それほど話が弾んだわけではなかった。
 残念なのは、100m潜水時代にもっと話ができていれば、と思ったことだった。
 そして、もう一度やや元気になられたということで、お見舞いに、と潮美に声をかけたのだが、スケジュール的に調整ができず、彼女だけ、ディレクターの乾君と一緒にいってしまった。
 そして、今日のお通夜、今度も潮美に一緒に行こうと誘ったのだが、時間のやくそくができないとかで、まあそれはそうだ。どこかで待ち合わせて行くというような女ではない。7時頃だというので、僕も7時にお寺に着くように歩いていたら、戻ってくるところでばったり、ものすごい多くの人が来ていたと言葉を交わしただけですれちがった。まあ、月刊ダイバーの原稿の話にならなくてよかったけど。

 何という事もないけれど、フェイスブックの効用で、お世話になった格さんに、フェイスブックの上だけだけど、親しくなれた。
 格さんのおかげで、僕の60歳の100mが実現した。その100mの事は、やがて月刊ダイバーに書くのだが、そこでは格さんにお礼を言うスペースがない。本当にありがとうございました。僕にとっても、今夜多数集まった人たちにとっても、理想のプロデューサーだったのだと思う。
 あわただしく、推敲もしない文章だけれど、今夜のうちにお礼が書きたかった。

1006 関東学生潜水連盟

  ようやく、シンポジウムのプログラムと企画書を書き上げた。9日に水中科学協会の委員会があるから、そのときに承認してもらう。しかし12月7日が予定だから、時間が押している。そして今後の水中科学協会の活動は、報告書重視だ。印刷された報告書がなければ、発表の価値は半減する。原稿がまにあうかどうか、難しい。まあ、なんとかしよう。
報告書(シンポジウムの発表は、テーマ1 ダイビングの運用、安全と危機管理で関東学生潜水連盟をとりあげたことだった。テーマ2 ダイビングの技能と手法研究、テーマ3 水中撮影 だが、テーマ1が難航した。
 これは元来、関東学生潜水連盟自らがやるべきことだろう。僕のやることは、だれにも頼まれたわけでもないおせっかいだ。もちろん、僕もOB の一人だから関係者ともいえるし、今年度は芝浦工大45周年、法政アクアの50周年にも招待されたし、中央大学には名誉顧問にしていただいている。他人ではないし、熱い心を持っている。しかし、関東学生潜水連盟は閉鎖的組織だから、一般のレクリエーションダイビングとは縁もない。このまえのシンポジウムを評して、ある人は、おもしろくも何ともないと言っていた。学生がどんな潜水をしようが、一般レクリエーショナルダイバーにとっては、どうでもよいことなのだ。
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しかし、
 JAUS発足のシンポジウムの時から、学生のダイビングを扱って、三つの大学の、学習院、芝浦工大、中央の監督に発表してもらった。今年は法政アクアを予定した。
 2003年から僕が中心になってやっていたSAIという安全管理、危機管理の研修会は2011年に消滅してしまった。 しかし、始めたことだから、このあたりでまとめなくてはいけない。
 報告書を作るために、各大学の監督のPPをまとめて読みなおしてみた。
 一つ一つのPPをみただけではわからないのだが、四つまとめて読むと全体像が浮かび上がってくる。
 これを、まとめた報告書をつくることは、意義がある。大学の部活としてダイビングは、すばらしいことではないかと思えた。
いろいろ、言われるけれど、僕は間違っていなかった。詳しくは報告書で見てもらうほかないが、僕は熱意をとりもどした。このようなダイビングのあり方、安全管理の在り方、運用の方法を見る(読む)ことは、一般のレクリエーショナルダイビングにも参考になり、役立つにちがいない。

問題は、僕がいくら熱中しても、周囲の人、そしてこの場合は当事者である学連の若者たちが、僕と同じ温度でかんがえてくれるとは限らないことだ。むしろ、絶対に温度差があると考えた方が良い。冷静とは、温度が低いことだ。このテーマを扱うとき、温度差に失望しないようにしなければいけない。活字として残すという手段で温度差に耐える。つまり熱い気持ちをキープしようとする。もちろん、活字にしたところで、読んでもらえるという期待はうすいから、これも独りよがりだろう。しかし、とにかく継続することが大事で、継続するためには自分の温度を維持することが必要だ。

1009 旅に出るときの撮影機材の選択



ダイバーが旅にでるといえば、水中撮影の機材と陸上での記念、記録撮影の機材を持って出ることになる。
その視点から、先日の地中海、イタリア旅行について考えてみよう。
僕の場合、重い一眼レフは持ち歩かない。撮影の目的も記録とメモだから、必要ない。また、たいした一眼レフももっていない。質としては、持って行ったオリンパスTG2と大差のない古いイオスしか持っていない。
 GOPRO2 これがメインのカメラで3台、GOPRO3が1台、オリンパスTG2が1台そして、ペンタックスのコンパクトデジカメW-100を持って行った いつもメモに使っているAE23(ウエアラブルカメラ)を持って行けばよかったのだが、ペンタックスにした。その理由は、このカメラは、とった画像を撮った日付のファイルに入れてくれる。だから、日記的に使うには便利が良い。今度の旅も、これで撮っておけば、何日に何をして、何を見たかが一目瞭然でわかる。
 ライトは、イノンの100ルーメンを2灯だ。飛行機の旅をするとき、一番問題だし、注意しなければいけないのがライトのバッテリーだ。プロのテレビクルーの場合には、何か特別の申請などをしているのだろうが、僕たち、そして一般の人の場合には、それは出来ない。そして、まず、成田空港で引っかかった。イスタンブールへ行くのだからトルコ航空である。そして、まず僕が引っかかった。セキュリティチェックは通っているのに呼び出された。どうしたのかというとなんの問題もないはずの単三電池がライトのボディに入ったままだったのだ。何かの拍子にスイッチが入ってしまうと加熱して火事のおそれがある。単三を抜き出して、事なきを得た。同行の久保さんは、もっと大きいチャージ式のライトを持っている。大丈夫かな、と心配したが、とりあげられて、戻ってこなかった。大容量の充電式バッテリーは、危ない。単三も外して別に持つようにする。GOPROのバッテリーは大丈夫だった。
 これは、とても大きな問題だと思う。

     さて、 イスタンブールに着いた。ホテルについて、チェックインしてから表に出るのだと思った。ところが、経費節減のため、チェックインは後にして荷物を預け、そのまま外にでた。そのときにスーツケースを開けて、別のカメラを持てばよかった。成田から、日記のペンタックスをもって使ってきたので、そのペンタックスだけで街にでた。

朝食は、街路のレストランで食べ、グランバザールに入っていった。グランバザールは5000軒の店がある迷路のようなものだ。そして、それぞれの店は、やたらとフォトジェニックで、シャッターを押してしまう。バッテリーの残量は二分の一まだ大丈夫、とおもっていたら、二分の一からの減りは早い。あっという間になくなり、金角湾に出たときには、ゼロだ。憧れのボスボラス海峡、金角湾で撮影ができない。携帯をだしてみたが、これもバッテリーアウトになっている。
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猫も全部撮った
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度に出るときは、いつでもカメラは2台身に着けていなければだめだ。スーツケースの中に5台入っていてもだめなのだ。2台いつも身に着けるには、小さく、そしてウエアラブルカメラでなければならない。すなわち、旅の記録、メモは、ウエアラブルカメラなのだ。

帰国してから、SJ-4000という。安い、13000円のウエアラブルカメラを買った。このところ、このカメラのテストをしている。当初、陸上は良いけれど、水中はだめとおもっていた。たしかに、テストをする辰巳のプールでは、30m先のタイルの格子がくっきり見える透視度のプールで、遠くはGOPRO2の方が良い。しかし、5-10mでは遜色ない。接近して撮らざるを得ない濁ったお台場でならば、GOPROと並べると思った。テストの結果は遜色がなく、むしろ、SJの方が派手な色つくりをしているので、お台場のようなぼやけたところでは、こちらの方が良い。9月28日のお台場は透視度が2mもあり、よかった。東京湾のお祭りの展示映像を作った。2013年と2014年の撮影から抜粋したのだが、2014年は春から夏にかけて、魚が出てきている時に濁りが続いた。
2013年の9月は、8月の無酸素のために、定着性の貝やカニの類は死滅し、逃げられる魚はどこかに避難してしまった。今年もだめかと思ったら、今年は良かった。魚は、お台場生物図鑑と言えるほど、撮影できた。勢い、9月28日の撮影分が、展示映像の中心になった。そのうちで、SJの方がGOPROよりも採用数が多くなってしまった。SJの方が、撮影した時の透視度が良かったのだが、それにしても、くっきりとして良かった。
つまり、SJは、陸上でも水中でも使える。
GOPROを一台買うならば、SJを2台買った方が良いかもしれない。

そしたら、GOPRO4が発表になった。
現在、僕がもっているウエアラブルカメラのラインアップは、GOPRO2が3台、GOPRO3が1台、AEE23が2台、そしてSJ4000が1台である。他にGOPRO960という初期のものを2台持っていたのだが、この2台が壊れてしまった。なぜこんなに多数持つかと言えば、JAUSでウエアラブルカメラ研究会をはじめて、その研究、そしてその応用としてのリサーチダイビングの撮影をやっている、計画しているからだ。その話は後に譲るとして、だいぶ旅のカメラから脱線してしまった。
旅に出るならウエアラブルカメラを2台、身に着けておくことを薦める。一台は胸のポケットに、一台はポシェット、もしくはナップザック、カバンに入れておく。


 

 

1009 旅に出るときの撮影機材の選択


ダイバーが旅にでるといえば、水中撮影の機材と陸上での記念、記録撮影の機材を持って出ることになる。
その視点から、先日の地中海、イタリア旅行について考えてみよう。
僕の場合、重い一眼レフは持ち歩かない。撮影の目的も記録とメモだから、必要ない。また、たいした一眼レフももっていない。質としては、持って行ったオリンパスTG2と大差のない古いイオスしか持っていない。
 GOPRO2 これがメインのカメラで3台、GOPRO3が1台、オリンパスTG2が1台そして、ペンタックスのコンパクトデジカメW-100を持って行った いつもメモに使っているAE23(ウエアラブルカメラ)を持って行けばよかったのだが、ペンタックスにした。その理由は、このカメラは、とった画像を撮った日付のファイルに入れてくれる。だから、日記的に使うには便利が良い。今度の旅も、これで撮っておけば、何日に何をして、何を見たかが一目瞭然でわかる。
 ライトは、イノンの100ルーメンを2灯だ。飛行機の旅をするとき、一番問題だし、注意しなければいけないのがライトのバッテリーだ。プロのテレビクルーの場合には、何か特別の申請などをしているのだろうが、僕たち、そして一般の人の場合には、それは出来ない。そして、まず、成田空港で引っかかった。イスタンブールへ行くのだからトルコ航空である。そして、まず僕が引っかかった。セキュリティチェックは通っているのに呼び出された。どうしたのかというとなんの問題もないはずの単三電池がライトのボディに入ったままだったのだ。何かの拍子にスイッチが入ってしまうと加熱して火事のおそれがある。単三を抜き出して、事なきを得た。同行の久保さんは、もっと大きいチャージ式のライトを持っている。大丈夫かな、と心配したが、とりあげられて、戻ってこなかった。大容量の充電式バッテリーは、危ない。単三も外して別に持つようにする。GOPROのバッテリーは大丈夫だった。
 これは、とても大きな問題だと思う。

     さて、 イスタンブールに着いた。ホテルについて、チェックインしてから表に出るのだと思った。ところが、経費節減のため、チェックインは後にして荷物を預け、そのまま外にでた。そのときにスーツケースを開けて、別のカメラを持てばよかった。成田から、日記のペンタックスをもって使ってきたので、そのペンタックスだけで街にでた。

朝食は、街路のレストランで食べ、グランバザールに入っていった。グランバザールは5000軒の店がある迷路のようなものだ。そして、それぞれの店は、やたらとフォトジェニックで、シャッターを押してしまう。バッテリーの残量は二分の一まだ大丈夫、とおもっていたら、二分の一からの減りは早い。あっという間になくなり、金角湾に出たときには、ゼロだ。憧れのボスボラス海峡、金角湾で撮影ができない。携帯をだしてみたが、これもバッテリーアウトになっている。
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猫も全部撮った
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グランバザールの中
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  店も珍しいものだから次々と撮った。
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   これが最後の一枚になってしまった。

度に出るときは、いつでもカメラは2台身に着けていなければだめだ。スーツケースの中に5台入っていてもだめなのだ。2台いつも身に着けるには、小さく、そしてウエアラブルカメラでなければならない。すなわち、旅の記録、メモは、ウエアラブルカメラなのだ。

帰国してから、SJ-4000という。安い、13000円のウエアラブルカメラを買った。このところ、このカメラのテストをしている。当初、陸上は良いけれど、水中はだめとおもっていた。たしかに、テストをする辰巳のプールでは、30m先のタイルの格子がくっきり見える透視度のプールで、遠くはGOPRO2の方が良い。しかし、5-10mでは遜色ない。接近して撮らざるを得ない濁ったお台場でならば、GOPROと並べると思った。テストの結果は遜色がなく、むしろ、SJの方が派手な色つくりをしているので、お台場のようなぼやけたところでは、こちらの方が良い。9月28日のお台場は透視度が2mもあり、よかった。東京湾のお祭りの展示映像を作った。2013年と2014年の撮影から抜粋したのだが、2014年は春から夏にかけて、魚が出てきている時に濁りが続いた。
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       SJ4000の画
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       これはGOPRO

2013年の9月は、8月の無酸素のために、定着性の貝やカニの類は死滅し、逃げられる魚はどこかに避難してしまった。今年もだめかと思ったら、今年は良かった。魚は、お台場生物図鑑と言えるほど、撮影できた。勢い、9月28日の撮影分が、展示映像の中心になった。そのうちで、SJの方がGOPROよりも採用数が多くなってしまった。SJの方が、撮影した時の透視度が良かったのだが、それにしても、くっきりとして良かった。
つまり、SJは、陸上でも水中でも使える。
GOPROを一台買うならば、SJを2台買った方が良いかもしれない。

そしたら、GOPRO4が発表になった。
現在、僕がもっているウエアラブルカメラのラインアップは、GOPRO2が3台、GOPRO3が1台、AEE23が2台、そしてSJ4000が1台である。他にGOPRO960という初期のものを2台持っていたのだが、この2台が壊れてしまった。なぜこんなに多数持つかと言えば、JAUSでウエアラブルカメラ研究会をはじめて、その研究、そしてその応用としてのリサーチダイビングの撮影をやっている、計画しているからだ。その話は後に譲るとして、だいぶ旅のカメラから脱線してしまった。
旅に出るならウエアラブルカメラを2台、身に着けておくことを薦める。一台は胸のポケットに、一台はポシェット、もしくはナップザック、カバンに入れておく。


 

 

1011 80m潜水

 週刊朝日が僕のことを、80-80計画を中心に1pを割いてくれるという。まだどなるかわからないが、インタビューを受けて、およそ2時間、言いたいことを気持ちよくしゃべってきた。きちんとしたことをしゃべろうと、メモを作って行こうとおもったのだが、メモは作らず、ほぼ口から出まかせだった。渡部さんという女性のインタビューで、要するに良い聞き手だったということだ。
 ポイントの80-80では、「命がけでやります。」というのは僕のスピリッツではないし、粋ではないとテレ朝の上野さんがいうし、つらい、苦しいというのも、感心しないと、これは、元電通プロデューサーの神領さんがいう。
僕のスタンスも気楽に楽しくだから、その調子でしゃべった。
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     60歳の時の100m潜水


1963年、27歳の時の90mも命がけのつもりは無かったのだが、器材の問題で事実上命がけになってしまった。1996年、60歳を記念しての100mは、危険と言う意味では楽勝だったが、支援に来てくれた、50余名の友達は、本当に支援だった。80歳80mは、来てくれた、支援ダイバーは、みんな一緒に楽しく潜ろうというスタンスで行きたい。ただし、この潜水のために新しく潜水機を開発したい。今、芝浦工大の足立教授にお願いして、学生の誰かにデザインしてもらおうと思っている。

参加してくれる支援ダイバーは、みんなそれぞれのスタイルで潜る。僕の大深度は、それぞれ、すべてテレビ番組作りが入っているから、今回もそうしたい。バラエティに富んだ、ダイビング機材、ダイビングスタイルの展示場になり、この番組を見れば、今のダイビングのすべてがわかる。そのようにしたい。じじつ、1963年、1996年、2015年?を続けて見れば、ダイビング技術の変遷、進歩が分かる。
残念なことは、1963年の時には、人類の今後の繁栄が海の開発にかかっているという、時代の先駆けで、その後に海洋開発時代が幕を開けた。
しかし、その結果は、有人の潜水、つまり、普通の潜水では人類の夢はかなえられず、より深い、深海の潜水艇、無人潜水ビークルによる海底開発の時代になってしまって、有人、つまり普通のスクーバダイビングは、レクリエーショナルダイビングだけが本道になってしまった。せっかく新しい安全度の高い潜水機を開発しても、それを、本当の意味での海を拓くことに使えるチャンスはあんまりなさそうだ。レクリエーショナルダイビングの技術も含めて、僕たちのスクーバダイビングがどれだけ、海を拓く、社会の要求にこたえられるようなものにすることができるか、これが水中科学協会の目標である。

ところで、今度の潜水は、僕の安全管理については、楽勝だが、参加する支援ダイバーの皆様の安全管理が大変になるだろう。それがこの潜水の目的、目標になると思う。

この計画。80-80プロジェクトもそろそろ、企画書にしなければいけないが、シンポジウムとか、一段落ついてからで良いだろう。

1013 海の世界 -1

 
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 事務所の整理整頓をしている。いつ果てるともない作業だが、古い海の世界、オーシャンライフ、ダイビングワールドなどの雑誌をキャビネットの中に入れた、大量なので横積みである。これで取り出して容易に見ることができなくなった。その時に目についた「海の世界」の表紙がある。あ、望月昭伸だと思った。もう今頃では、望月君のことを知る人も少なくなってしまったと思うけれど、小笠原の海で、クジラの撮影をしていて行方不明になった。カメラマンの常として一人で潜っていたから、何が起こったのか。知ることはできない。海の巨大生物に超接近すればそういうこともある。彼は静岡の人で、カメラマンになるかならないか、卵の時に、同じく清水の望月さんに紹介されて、苗字は同じだけど、親戚ではない。自分を頼ってきて水中カメラマンになりたいというから話を聞いてやってくれと頼まれた。頼まれたって、どうというアドバイスもできない。何も教えることもできない。道なき道を行くしかない、というようなことを話した。やがて彼は水中造形センターの舘石さんの下で働き、やがてフリーになった。彼が命を懸けたのは小笠原のクジラで、小笠原のクジラについては第一人者になり、そして命を落とした。良い人生だったと思う。
 彼は人懐っこい人で、僕と、たとえばダイビングフェスティバルなどで会うと、10m以内の距離に居れば、「須賀さーん」と声をだして走ってくる。これはとてもうれしい。今親しい友達になったテレビ朝日のディレクター上野さんが、望月君の撮影で小笠原の鯨をニュース・ステーションで作ることになり、当時は僕がニュース・ステーションの水中をほとんど手掛けていたから、「どういう人ですか望月さんって」聞かれた。僕は自分で小笠原の鯨を絶対に撮りたかったけれど。「いい子ですよ」と答える他ない。本当にいい子、いい人なのだから。そしてこの番組は、成功し、上野さんも評価され、もちろん望月君もテレビのカメラマンとしても評価されるようになった。
 ちょうどその望月さんと上野さんが小笠原にロケに行っている時、僕も沖ノ鳥島の撮影だったか、小笠原で船のトランジットをした。その時にも、気持ちのいい話をすることができた。その時のデスクがこの前亡くなった長谷川格さんだった。格さんとは僕が現役の時は僕のプロデューサーが小早川さんだったこともあり、一緒に仕事ができなかったが、僕の60歳の時の100m潜水をプロデュースしてくれた。大恩人である。お通夜に行き、その日のうちにどうしても、自分の思いとそしてお礼が言いたくて、ブログに書いた。そういうことをブログで書くことが良いかどうかわからないが、僕はそうしたかった。
 息子さんの卓さんから長文の丁重なお礼の文をいただいた。格さんは素潜りが好きで、海が好きで、僕に注目していてくれたのだと教えてもらった。僕の100m潜水を応援してくれたのはそんないきさつもあったのだとわかり、それならばもっと親しくしていればよかったと悔やんだが、とにかく自分の気持ちを伝えることは出来た。

 そんなことを一枚の表紙の写真から脱線して考えていて、もう一度よく見ると、どうも望月君ではないような感じもする、よく見ると女の子のような体形でもある。時系列もず
れている。この表紙は1976年の12月号で、誰が撮ったのかとみると,三栗万平とある。万平ちゃんが撮ったのならば、望月君ではありえない。三栗君は和歌山でダイビングサービスをしていて、親しかった。万平ちゃんなどと言ったが彼ももう70だろう。きっと元気だろう。この写真で手にしているのは、僕が作ったブロニカマリンに見える。フラッシュガンを付けているが、海蛇を掴んでいる。
 この雑誌の本文には、僕のブロニカマリンの広告も掲載されている。広告の住所は今の僕の事務所と同じ第一グリーンハイツだ。

 この海の世界の中身について、もう少しあと2回ぐらいブログが書ける。
 
 事務所の整理整頓をしている。いつ果てるともない作業だが、古い海の世界、オーシャンライフ、ダイビングワールドなどの雑誌をキャビネットの中に入れた、大量なので横積みである。これで取り出して容易に見ることができなくなった。その時に目についた「海の世界」の表紙がある。あ、望月昭伸だと思った。もう今頃では、望月君のことを知る人も少なくなってしまったと思うけれど、小笠原の海で、クジラの撮影をしていて行方不明になった。カメラマンの常として一人で潜っていたから、何が起こったのか。知ることはできない。海の巨大生物に超接近すればそういうこともある。彼は静岡の人で、カメラマンになるかならないか、卵の時に、同じく清水の望月さんに紹介されて、苗字は同じだけど、親戚ではない。自分を頼ってきて水中カメラマンになりたいというから話を聞いてやってくれと頼まれた。頼まれたって、どうというアドバイスもできない。何も教えることもできない。道なき道を行くしかない、というようなことを話した。やがて彼は水中造形センターの舘石さんの下で働き、やがてフリーになった。彼が命を懸けたのは小笠原のクジラで、小笠原のクジラについては第一人者になり、そして命を落とした。良い人生だったと思う。
 彼は人懐っこい人で、僕と、たとえばダイビングフェスティバルなどで会うと、10m以内の距離に居れば、「須賀さーん」と声をだして走ってくる。これはとてもうれしい。今親しい友達になったテレビ朝日のディレクター上野さんが、望月君の撮影で小笠原の鯨をニュース・ステーションで作ることになり、当時は僕がニュース・ステーションの水中をほとんど手掛けていたから、「どういう人ですか望月さんって」聞かれた。僕は自分で小笠原の鯨を絶対に撮りたかったけれど。「いい子ですよ」と答える他ない。本当にいい子、いい人なのだから。そしてこの番組は、成功し、上野さんも評価され、もちろん望月君もテレビのカメラマンとしても評価されるようになった。
 ちょうどその望月さんと上野さんが小笠原にロケに行っている時、僕も沖ノ鳥島の撮影だったか、小笠原で船のトランジットをした。その時にも、気持ちのいい話をすることができた。その時のデスクがこの前亡くなった長谷川格さんだった。格さんとは僕が現役の時は僕のプロデューサーが小早川さんだったこともあり、一緒に仕事ができなかったが、僕の60歳の時の100m潜水をプロデュースしてくれた。大恩人である。お通夜に行き、その日のうちにどうしても、自分の思いとそしてお礼が言いたくて、ブログに書いた。そういうことをブログで書くことが良いかどうかわからないが、僕はそうしたかった。
 息子さんの卓さんから長文の丁重なお礼の文をいただいた。格さんは素潜りが好きで、海が好きで、僕に注目していてくれたのだと教えてもらった。僕の100m潜水を応援してくれたのはそんないきさつもあったのだとわかり、それならばもっと親しくしていればよかったと悔やんだが、とにかく自分の気持ちを伝えることは出来た。

 そんなことを一枚の表紙の写真から脱線して考えていて、もう一度よく見ると、どうも望月君ではないような感じもする、よく見ると女の子のような体形でもある。時系列もず
れている。この表紙は1976年の12月号で、誰が撮ったのかとみると,三栗万平とある。万平ちゃんが撮ったのならば、望月君ではありえない。三栗君は和歌山でダイビングサービスをしていて、親しかった。万平ちゃんなどと言ったが彼ももう70だろう。きっと元気だろう。この写真で手にしているのは、僕が作ったブロニカマリンに見える。フラッシュガンを付けているが、海蛇を掴んでいる。
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 この雑誌の本文には、僕のブロニカマリンの広告も掲載されている。広告の住所は今の僕の事務所と同じ第一グリーンハイツだ。

 この海の世界の中身について、もう少しあと2回ぐらいブログが書ける。

1015 映像と教育

 北川智子著 ハーバード白熱日本史教室(2012新潮選書)
読み捨てない本の中に入りそうだ。ハーバードで、日本人のお姉ちゃんの先生が日本史を講義して絶賛されるサクセスストーリー、めちゃくちゃに頭が良くて、数学が専攻なのに日本史の先生になる。タフでなんでもできる。講義は準備を重ね、音楽、踊りを入れたエンタティーメントだ。サービス精神にあふれている。今の時代、教えるということ、そういうことなんだ、と知る。ハーバードの大学生活も垣間見られる。
 
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北川先生の教えている日本史は、日本の大学、それも、僕の学んだ50年前の大学でいうところの専門科目ではなくて、一般教養科目なのだろう。履修する学生が歴史の専門研究者になるわけではない。ただ、「基本教養は歴史で日本史です。」ぐらいのことは言えるのだろう。僕などは、学生時代にギボンの「ローマ帝国死亡史」トルストイの「戦争と平和」を読んだくらいで、基本教養は歴史だとおもっているのだから。僕の専攻はダイビング、基本教養は歴史であると自称している。
 ハーバードで日本史を教えるという事は日本を紹介し、理解してもらうという授業なのだ。
 1年目20人だかのクラスが3年目は200人を超えてしまう。彼女自身、自己表現の能力と手段をフルに使って、果敢にチャレンジして行く。彼女の kyoto と言う講座ではPCを使っての映像クリップの製作という展開になる。映像を授業にフルに使って行くというスタイルは、今の授業として、効果が最も高い手法である。JAUSも映像を使ったプレゼンテーション、その前段階の撮影を活動の中心に置くという方向で進めている。
振り返って、僕の大学時代、もう遥かな国遠い昔だが、僕は、専門課程として潜水を学んだと思っている。その一端というか50%ぐらいは僕のニッポン潜水グラフィティで書いた。もう少し、潜水という教育を受けたという自覚で絞って行けば、別の形の本になっただろう。いずれにせよ、60年近く昔のできごとだ。それにしても、僕のグラフィティのおよそ半分は大学で宇野先生に教えられた記述である。そして、僕の場合にも教材は映像だった。ハーバードのような動画ではなくて、モノクロのスチルだったが、学校の増殖学科の暗室は僕が占拠していた。
 そう、僕のニッポン潜水グラフィティも面白い本だと思う。

 話をハーバードにもどして、映像、ここでは動画が中心だが、大学にスタジオがあり、撮影機材と専属のカメラマンがいる。北川先生は、このスタジオを借り切って、学生に自作自演のクリップを作らせる。グリーンのスクリーンの前で、自分たちのアクションを20シーン、30カット撮らせて、それを京都のスチルや図にはめ込んでゆく。映画+タイムトラベルをする。これを、WEBで発表させる。他にも、ラジオ番組製作、グループでの活動など、アクティブラーニングの手法を駆使する。
 北川先生は、プレゼンテーションの達人だ。同じく白熱元祖のサンデル教授もプレゼンの達人で、この先生の本も読んだが、対話形式で授業を進めて行く。さらに北川先生はえんたーティメントの要素が強い。盆踊りまで踊らせてしまう。これは、もちろん歴史の授業だから、そして、一般教養としての歴史の授業だからこその手法であろうと思う。歴史は面白くなければだめなのだ。
 ダイビングを教える、あるいはダイビングショップでの講習、ツアーなどにも横流しできる手法だとおもうし、すでに成功している人も多分たくさんいると思う。
 JAUSの水中映像研究会も、意識しないで、それに近いものになっている。意識的にプログラムを組んで、ダイビングショップのインストラクターもこの研究会で学べれば良いというルートも考えられる。
 映像の使い方、これまで、記念写真、メモ、調査の記録すなわち目標、自己表現 を挙げていたが、教育(授業)の手段というのも、前から言われていたことではあるが、効果が大きい。特にダイビングでは最右翼に持ってきても良いのではないかと思う。
 動画は編集しなければ見られない。北川先生のコースでは、編集作業を授業手段にしている。研究はともかくとして、一般教養的な授業では、ハーバードでも彼女は最強だったのだろう。
 僕が今、海洋大学の一般教養(1-2年次)の生物の教師だったら、お台場を実習フィールドにする。観察して、動画を撮り、編集する。
 今、海岸工学でスピーカーになり、中心になりつつある清野聡子先生は、彼女が東大の学生の頃、動画を教えた。彼女はそれで何か賞を取ったはずだが、今、動画を使いこなしているだろうか。
 研究、学習のためのツールとしての映像、それは動画になった。調査 研究程度につかう静止画は動画から起こせるのだ。北川先生は、動画を自分の姿、自分が説明する姿で表現して、集めた歴史のスチルと組み合わせている。それをネットで発表させる。多分、ハーバードでそういうことが好きな学生はみんな彼女の講座に集まったのでは。受講生は体育会系の子が多いという。そして彼女自身も女子アイスホッケーなどのフォロアーになっている。
 人生、やり直せるものならば、水産大学(海洋大学)の生物の先生になって、潜水部の顧問、監督になる。ふと気が付いた、小浜の水産高校(今は名称変更)の先生になって、アマモの保護、育成を生徒たちにやらせている小坂先生は、それに近いのではないか。彼は潜水部の後輩で、僕が水産高校の先生になるよう、強力に薦めた。今はJAUSのかいいんでもある。教育に動画を使っているだろうか?
 

1017 海の世界

 海の世界76年12月 号ー2
 ブロニカマリンの広告の上に大磯のジャンボ魚礁の記事がある。そうか、魚礁オリンピックは76年立ったのかと記憶が新たになる。魚礁の調査は大学4年の時に危機一髪の思いをして、その後、1970年頃から、福島県の調査で僕のメインの仕事になった。1976年ー1980年が、カメラのハウジングを作る仕事が後退し、魚礁調査の仕事が前面にでてくる交代期だったのだ。
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1960年代までの魚礁は、1.5m角のブロックで、それを2段積にするとか、3段に積む、あるいはでたらめに乱積みにするなどして、高さの効果をだすようにしていた。魚は、小さい岩一つにも集まるが、大きく高い方がたくさんの魚を集める。魚礁には高さが必要。
一方、1.5角を、積み上げるのは潜水工事になってその費用がかかる。大きな魚礁を作ってしまえばいい。大型化するとともに、製造する各メーカーは魚を多く集める形状を
した。A社のものがいいのか、B社のものが良いのか、場所が違えば、魚の種類も違うし、海況もちがう。どこか一か所に沈設してその効果を競ったらという案がでて、各社がそれに賛同した。これが魚礁オリンピックと通称された試験沈設計画で、その場所として大磯が選ばれた。
 その各社の魚礁で最大のものが、ここに紹介されているジャンボ魚礁であった。
 この試験の調査をスガ・マリンメカニックが引き受けた。その当時で、魚礁調査の実績が一番だったということだ。僕は、大学4年以来、日本で、一番、水に潜って魚礁をに触ったことの多いダイバーだと自負していた。
 各社、大磯に沈設したのだが、その距離が詰まりすぎていると効果がわからない。A社の魚礁とB社の魚礁がくっつきすぎてしまうとどちらの効果が大きかったのかわからない。また、1個よりも2個の方が相乗効果があって魚を集める効果、蝟集効果というのだが、が大きくなってしまう。広い範囲にばらばらに置かれた。
 また、調査する眼も個人差があるから、なるべく一人、あるいは一つの会社が見た方がいい。だから、良い仕事になった。また、魚礁は沈設したばかりでは、その効果が大きくない。付着生物などが着いて、3年目あたりが最高になる。まあ、調査を3年続けたいための意見と言えないこともないが、この仕事は3年続いた。
 ジャンボ魚礁にも潜った。水深は55メートル、当然窒素酔いも起こる。僕は大丈夫だったが、社員の何人かは目を回した。
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 魚礁の大きさもさらに成長した。1990年代には、鉄骨タワーを水中に沈めたような高層魚礁が次々と沈設された。水深も70M-80Mである。潜水調査の深度も深くなる。調査も人間が潜るよりも、自走式のカメラが使われることが多くなった。大型の高僧魚礁の沈設は続いたが、ダイバーの潜水調査はあまり重視されなくなった。魚がいるという当たり前のことの確認に多額の費用をかけることは意味がないと考えられるようになったのだ。また魚礁のメーカーも数が絞られてきて、それぞれが自前で調査チームをもつようになった。
 スガ・マリンメカニックのビジネスとしては、あまり良い商売では無くなってきて、僕はテレビ番組の撮影の方に軸足を置くようになってしまう。
 また、潜ってみて、魚がいたとして、だからなんなのだ。漁が増えないことには意味がない。魚礁をよく使うのは、遊漁の釣り船が多くなり、県や水産庁が力をいれる調査ではなくなった。
 とにかく、人工魚礁のピークは、1976年ごろの魚礁オリンピックだった。
 今、大磯のジャンボ魚礁はどうなっているだろうか。魚礁の耐用年数は30年とされている。もう30年は過ぎた。今、どうなっているのか見たい。魚礁調査というよりも探検の気分である。探検と冒険の違いを述べたが、探検とは、調べ記録して文書にして報告書を出すことである。冒険には記録の義務はない。探検はメソードを確立しなければいけないし、調査手法も考慮されなければならない。JAUSが人工魚礁調査グループを作ったのは、もはや、水産としては相手にされなくなった魚礁調査を探検としてやろうということなのだ。
 大磯の水深55Mは、ちょうど良い探検だ。
 
 

1019 海の世界 4

  1976 海の世界 海底ハウス
  
 相変わらずだけれど、やることが多すぎてパンク状態。気持ちばかり焦って、全然前に進まない。「海の世界」1976年、12月号のいくつかの記事を題材にして、ブログを書こうとしているのだが、それぞれが長くなりそうで、踏み出せない。
  でも・・・・頑張って
 「三津長浜、海底ハウスの事故を考える」田中和栄さんの海底ハウスが空気塞栓の事故死で閉鎖されたのは1976年だったのだ、と思い起こす。
 
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 田中さんについては、「海底ハウス 田中和栄物語」登坂将司著 新日本文芸協会2009年 がある。ダイバーならばぜひ読んでほしいと思う。


 田中さんは四国の愛媛県、ミカン山の持ち主だったが、1970年代の海の中の世界の国際的な流行ともいえる海底居住にはまり込んでしまった。海底居住は日本では海洋科学センター(JAMSTEC)の前身が主たる目標としていたシートピア計画、アメリカではシーラブ、フランスではクストーのプレコンチナン、そのほか、先進国はみな手を付けなければいけないのではないかとおもったらしい国家的なプロジェクトである。今振り返ってみると、なぜ海底に居住しなければならなかったのかよくわからないが、とにかくその時代、人類は生身の体で海を目指した。海底に夢を託した。夢のある時代だったとも振り返る。
 田中さんはその国家的な海底居住を個人で目指してしまった。僕もやはり国家的な海のプロジェクトの一つであった大深度潜水に個人で、僕の場合には東亜潜水機という勤務先の応援があったが、個人的な夢で突っ走ったということでは同じであった。だから、馬鹿だなあ、と笑えない。ほぼ同時代に馬鹿をやったのだから接点があっても良さそうなのだが、電話で一度声を聞いただけだった。潜水については、僕の視点からは、田中さんは素人、僕は専門家だった。その素人であった部分で悲劇をおこしてしまう。しかし、それも笑うことはできない。紙一重で、僕は助かり続け、彼は事故をおこしてしまう。
  田中さんは四国のミカン山の若大将だったが、僕とほぼ同じ時代だが少し後(歳も下)にダイビングに取りつかれ、海底居住へと突き進む。ミカン山も売り払い夢に向かって突進するが資金が足りなくなる。日本財団の笹川会長が応援してくれて、歩号一世ができて、沼津の三津浜に沈設する。後により大きい海底ハウス2号を沈めたので、この歩号一世は船の科学館に現物が展示されている。
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 より大きな海底ハウス2号は、一般ダイバーに公開されて、かなりの盛況をおさめる。つまり、本当の竜宮城だ。ジャック・マイヨールもハンス・ハスも訪れている。僕は訪れていない。多分、田中さんは僕とは別のリーグ、セントラルとパシフィックのようなものだけど、行かなかった。
 ハウスは水深8mに沈められていて、2気圧、10m相当のやや陽圧を保っている。二か所のエアーステーションがあって、訪れる人は素潜りで行く。戻りは上向きになり、粋を吐き出しながら浮上する。つまりフリーアセントで戻る。
 今ならば、C カードを持っていることを参加条件にできるだろう。しかし、1976年である。僕たちのやっている講習は、C カードよりも、厳しいものだった。当時もこの事故について、それぞれ喧々諤々の議論があった。
 海の世界の記事を書いている辻さんは、お客としてハウスを訪れた人であり、現在の体験ダイビング的な講習を受けてから、4名のグループで、初心者の3人はボンベを使い、一人は素潜りで行っている。問題は浮上の方法である。やはりC カードを条件として、タンクを使っての浮上だろう。周囲で遊んでから潜降索で浮上が普通にできる。
 
 田中さんはこの事故を反省して海底ハウス2号を閉鎖する。今でも、三津浜で魚礁になってあるという。訪れてみたい。そして、田中さんはまだ挫けない。欠点をすべて改善した、海底ハウス3号に挑む。資金のめどもついて、さあ、というところで暴走族がらみの不運な交通事故をおこす。
 もしも、海底ハウス3号が三津浜にあったならば?大瀬崎に行く少し手前である。多くのダイバーが、多分、それぞれ一度は訪れ、魚礁化して魚も多いだろうし、周辺にはそれこそ、餌付けされた魚も集まっていることだろうから、彼の夢見たような形での大盛況になっていただろう。中に入ってお茶を飲むこともできる海底ハウスというダイビングポイントである。東の海洋公園、西の海底ハウスにはなっているだろう。

1023 助成金の申請

 助成金の申請書をつくっている。締め切りがあり、かなりの分量になる。
 とても面倒な書類といえる。
 そして、たぶん90%の確率で助成金は落選すると予想できる。ならばやめてしまえばよいと思うが、ベストをつくさなければいけない。
  
 そんなことで原稿を作ると、毎年のことなのだが、これまでのことを振り返り、そして現状を把握認識して今後のことを考える資料になる。また、今はホームページを作り直しているので、そのための原稿にもなる。ということで頑張っている。
 ここしばらく、申請書の原稿をブログに乗せよう。別に秘密のことはなにもない。
 ああ、そういうものか、と面白いかもしれない。今日はその第一弾。

JAUS活動の今後の方向性とビジョン

 日本におけるスクーバダイビングの現状と今後の展開
 国の産業としての海洋開発は深海に移った。国のエネルギー政策に深くかかわるメタンハイドレート、そして、地震予知のトラフの研究も深海である。国の海洋研究の中心である 海洋研究開発機構(JAMSTEC)も研究者のダイビングなどの訓練を行うことができる研修施設、訓練プールも閉鎖する。このプールを技術研修(プライマリーコース)に使っていた日本水中科学協会も研修の場を、小規模であり費用もかかる商業施設に移さなくてはならない。
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      4年間、慣れ親しんだ、JAMSTECの訓練プールもこれで終了する。これは、Vカード検定風景


研究者のライセンスだけでもJAMSTECが出すようにしてくれたらと思い、JAUSは、Vカードを作って追ってはいたがJAMSTECと提携の可能性も無くなった。すなわち、その方向は消えた。
港湾土木などの作業潜水は、人的、すなわち労働力としてはスクーバダイバーとクロスオーバーするので、JAUSもその交流を考えたが、行為としては異質のものである。水産に関するリサーチダイビングはスクーバダイビングの分野であるが、人的比率としては少ない。スクーバダイビング人口という場合、その90%はリクリエーションダイビングでる。そのリクリエーションダイビングは、最近では商品スポーツと言われ、しかも、致死性のリスクが高いといわれ、事実、事故が起これば、死亡に至る可能性が高い。※中田誠 商品スポーツ事故の法的責任 2008 信山社
商品スポーツも、技能的に高度になり機材もハイテク化して行くと、技術の習得も機材の購入も高額になり、可処分所得が200万以上ないと、あるいは一切をダイビングのために振り向ける、つまりダイビングのためにこそ働くようにしないと続けて行かれない。  リクリエーションダイビングも、ちょっとだけやってみる層と、それが生きがいになる層に二分化される。
一方で日本の国は今後十年?は衰退に向かうことを覚悟しなければならない。人的資源、エネルギー資源の多い東南アジア諸国に生産の拠点は移り、国内での産業は空洞化する。高齢化は進み、車いすに乗り、車いすを押す人が街にあふれる。
JAUSは、死ぬまでスポーツ(生涯スポーツ)を掲げて、80-80計画をすすめるが、ダイバーの高齢化 は、事故の可能性が高くなることは否定できない。どのように対処して行くかもJAUSの使命であると考えている。

スポーツとしての可能性
海の国日本、海洋教育を謳っているが、掛け声だけであり、実質的、具体的な方策もなく受け皿もない。すなわち危険であり、学生のダイビングもいわゆる商品スポーツになって行く。対象、受益者数も減少するので、助成金も、ダイビングは、商業的色彩の強いリクリエーションであり、対象、受益者数も限定され、急務とも思われないことから、受かりにくくなっている。
しかし、日本は海に囲まれた国であり、国民は海と向かい合って生きて行かなければならない国である。衰退すると言っても、ダイビング人口はこの20年の間、30万ー40万の数を維持している。やめる人の分、新規加入があるということである。コマーシャルベースではなくて、ダイビングを支えて行く、高齢者が、そして将来を担う若者たちが安全に楽しく、有意義なダイビングを行うことを支えて行くNPO団体として、役割をはたして行きたい。いうまでもなく、利益を追求するダイビング業界との協調の中で日本水中科学協会は存在している。
海を調べることを楽しみながら続けて行く方向も追及して行く。探究する、調べることは記録することであり発表することである。水中映像研究会は、それに向かって行く。
 

1024 今特に力をいれていること

 相変わらず、申請が順調に行かずに苦労している。インターネット申請がうまく行かない。ログインパスワードが変更されてしまっていたりで手間取る。その間、他の仕事ができないので、イライラしてしまう。
 基礎情報として、「現在特に力を入れていること」

 リクリエーションダイビングとしての生涯スポーツ、そして、若者のスポーツ、環境保全、環境の復活に対する支援 にあることは目的の項で述べた。高齢化に対する活動としては、80-80計画があり、それについては、アッピールの項で述べている。
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       2010年、JAUS発足の時の報告書


日本水中科学協会の活動は、実際にフィールド(プールを含む)での活動を行い、その成果をシンポジウムで発表し、報告書(年報)として公刊するサイクルを繰り返すことを基本として、計画している。2012年には 最新ダイビング用語事典を編纂し、成山堂書店から公刊することができた。
 私的なことではあるが、代表理事の須賀次郎が、1950年代から1980年代までの自分の活動を中心にした潜水の移り変わりを「ニッポン潜水グラフィティ」として成山堂書店から発行した。これはダイビングの歴史とともに、その安全、危険についても実例てきにしめして、スクーバダイビングとはこういうものだとわかることを目指している。
 残念なことに2013年度、は資金の都合がつかずに、シンポジウム、フォーラムの報告書を印刷公刊することができなかった。2014年12月のシンポジウムではどうしても報告書を公刊するべく、資金調達を含めて努力を集中している。
 シンポジウムは、その一、安全管理と危機管理 その二 ダイビング技術、その三 水中映像としているが、その一の安全管理と危機管理 では関東学生潜水連盟をテーマにしている。学生の潜水は自己責任ではなく、リーダーおよび学校当局が責任を負わなければならない活動で、それだけにより一層の安全管理の努力と、危機管理を想定した活動をしなければならない。
 学連は2014年で創立46年を迎えるが、その詳細な年表、JAUSのシンポジウムで講演してくれた監督の講演原稿、そして、今年度の学連現役のアンケート調査、などをまとめて、この時期の学連の活動がどのようなものであるかを正確にとらえたものを公刊し、これをもとに50周年の事業を学連が行いえるように後押しする。
 その二はプライマリーコースの発表であるが、これはこのコースの意義、内容、そしてこの4年間の実績をまとめて今後のための資料にしたい。このコースの実際的なマニュアルでもあるようにする。
 その三は水中映像の発表であるが、その報告書は現在話題を集めている超小型ウエアラブルカメラの特色、使い方、現在の映像撮影の総括、そして実例として、館山湾での人工漁礁調査を新たな手法でおこない、リクリエーションダイビングとリサーチのクロスオーバーを進めるとともに、プロの調査業界にも参考の一石になることを目指している。

 これらはすべて、講演、発表とともに印刷物となって配布されることが重要であり、印刷物になっていない(ネットでも詳細が発表されない)報告は意味がない。
 これまでスクーバダイビングの活動の研究は多々なされているが、その運用技術についての学会と言えるような発表と公表がない。日本水中科学協会のシンポジウムは潜水に関する唯一の学会としての発表となりえるように活字の形での発表に力を入れる。
 この、活動→発表→報告書印刷配布のパターンが継続できるならば、ダイビングの運用、すなわち安全管理と危機管理、そして技術、映像の撮影が一体となり、水中活動が一つの文化として成立し、安全のために大きな力となると確信している。


1025 東京港大感謝祭ー1

明日26日、お台場の潜水と、東京湾大感謝祭がダブっている。感謝祭の方はお台場の潜水について、ビデオを見ながらちょっとお話をさせていただけるので、10時頃に行かなければならない。
横浜に土地勘がないので、今日、どこくらい時間がかかるか下見に行ってきた。
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お台場の明日はよさそうだ


その前にお台場だが、明日はトライアスロンの全日本大会がある。僕たちの潜る範囲と重なるといけないし、交通規制があるかもしれない。心配なので、管理事務所に行ってお話をしてきた。トライアスロンのコースとはダブらないが、僕たちの潜水の先端の方に行くと、警戒船とバッティングする可能性がある。スイマーだけならばいいのだが、警戒船という危険物がある。僕たちのようにゴムボートかカヤックにしてくれたらいいのに。もしかしたらカヤックになっているかもしれない。

もう一つお台場でウォータージェットの催し物がある。潜水は隅っこだからまだしも、ウォータージェットはトライアスロンに近接する。
お台場も海のスポーツのメッカになりつつある。ダイビングがもっと巾を聞かせるように助成金の申請を頑張っている。あんまり望みは無いがやらなくては、
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        三番瀬の海苔、福田君のお店、結構繁盛していた。


とそして、久しぶりの横浜、赤レンガ公園、赤レンガの倉庫を記念的な建物として、いろいろな催しにつかっているものだ。駐車場が満員で困ったと思ったら一番近いところにはいれた。テントを張って、いろいろ出展している。ほとんどが工事会社。マリコン、が軒を並べている。そうか、国土交通省関連のイベントなのだと思い当たる。
赤レンガ倉庫の中は、いろいろガラクタを売るスペースで、結構人がきている。
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セミナーのホールものぞいてみた。和服のおばさんが帆船の説明をしていた。なんだかわからない。

隣りの埠頭には豪華巨大クルーズ船が横付けになっていた。こんなに豪華巨大なクルーズの採算が良くとれるものだとしみじみ感心する。
明日はいそがしい。
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1027 大感謝祭とお台場掛け持ち

毎度のことなのだが、日本財団の助成金申請、インターネットでの申請がうまくできない。去年も苦労したのだが、もう忘れてしまっている。助成金にあたる可能性はほとんどない。しかし、申請書をかくことで、自分の団体日本水中科学協会を客観的に見られること。データとして残しておけることで頑張る。
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     でっかい一眼レフを浮かして曳行している清水さん

     
10月26日、10月最後の日曜日、お台場に潜水する日だ。そして、横浜赤レンガ公園で東京湾大感謝祭というのも開かれていて、僕のお台場での活動を応援してくれている東京都の環境の仕事をしていた風間さんが、お台場の映像を大感謝祭で上映してくれて、少しばかり、僕にお話をさせてくれるという。それは外すわけには行かない。
まず、朝にお台場潜水の道具、タンクを運び込み、あとはみんなに任せて、僕は横浜に急行する。10時から風間さんがかかわっている東京湾一斉調査の発表会があり、その中での話題提供という形で僕のビデオを流し、お話をさせてくれる。
 それが終わったら、お台場にトンボ返りして、一回は潜水できるだろう。

 この日、お台場ではトライアスロンの全国大会がある。また、片隅ではウォータージェットもやっている。両方とも、泳ぐ可能性のある行事だ。お台場は大腸菌数の基準をクリアーできないので海水浴は禁止である。海水浴は禁止でもトライアスロンで泳ぐのはいい。僕たちが潜水するのも良い。トライアスロンもダイビングも不特定多数の人ではない。覚悟した特定の人たちだ。僕のお台場もこれで数えれば117回目、そのほかにもクリーンアップなどでも潜っているから130回にはなっているが、別に問題ない。クリーンアップでもこれは不特定なダイバーが水中でゴミ拾いをやるが、だれも下痢をしたとか聞かない。
 しかし、大腸菌数はこれで良いとクリアーさせてしまうと、国が、東京都が大腸菌数を減らそうとする努力をしなくなってしまうから、基準を低くしてしまうわけには行かない。

 トライアスロンは0835分に女子からスタートした。見ると、遠くの方で泳いでいる。かなりの差がついているようだ。撮影したいけれど望遠レンズをもっていない。要するに望遠でなければ撮れないほどの距離があるということだ。

 速攻で走って行ったら、0940に到着してしまった。赤レンガ館の3階が会場なのだが、まだレンガ館に入れない。10時開場なのだろう。イベントに出演するのか、子供たち、多分海洋少年団のような子供たちが手旗信号のショウをやるらしく、練習していた。小さい子もいてかわいい。
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 赤レンガ館とは、赤レンガの建物で、歴史的な価値もあり、そしてなんとなく横浜の雰囲気なので、イベント会場などに使っているのだろう。表にはステージと、そして出展、出店がある。出展は、水族館とか、国土交通省の関連なのだろう、東京湾の港湾土木会社が軒を並べていた。3階に登り、かなり奥まったところまで歩いたところに、僕の映像を映写してくれる展示場があり、大学祭の雰囲気の出展だった。話をさせてもらうコーナーは30人ほど座れる場所で、僕の前のプレゼンは、東京湾日生調査、のこと、東京湾の環境調査、マハゼを増やす。昔の勢いを取り戻そうという話、アサリわくわく、つまりアサリが大量発生する、わくところはどこかを子供たちに調査をさせていることの発表で、若い女性のスタッフの発表だったが、ゆるキャラを連れてきたりして上手な発表だった。僕の映像は、もう少し映写効果が良いとよかったのだが、まあまあで、話も後から振り返ると足りないところもあったが、一応急だ行ったろう。風呂田先生のシンポジウムが午後からあるとかで、聞きたかったが、即、お台場にもどる。二日間で8万人とかをあつめたそうで、大奮闘、大成功といえるだろう。
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     手作りのお金をかけない展示、こういうのが僕は好きだ。来年は出展しよう。


 お台場にもどったら12時だった。朝見たときには、水がこの前のようにきれいかとみえたが、それほどではなく、と言ってお台場のことだけら、特に濁っていれば何も見えないから、それほど悪くも無かった。
 このところ数日、肋骨の下の方、背中の方の筋肉痛で、タンクが背負えるかと心配したが、どうにか背負ってエントリーした。水はやはりきれいではない。ところどころ、濁りがひどかったり、そうでもなかったり、濁った水塊と少しきれいな水塊がある。
 とにかく、杭のあたりまで行く、シマイサキの稚魚が見える。群れるほどではないが、このごろよく見るようになっている。マハゼは見えなかった。
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 このところ、オリンパスのTG-2とGOPRO2を並べて、ステイに取り付けているのだが、オリンパスをやめてAEEとGOPROを並べた。今度の30日に調査研究にAEEを使うつもりなので、画質チェックのつもりだった。
 ノコギリガザミが2尾重なって穴の奥に隠れている。撮影しやすい穴だ。オリンパスを持ってきていれば写真になったろうがGOPROでは記録だけだ。清水まみさんが近くにいたので、教えた。彼女はいいライトとオリンパスをもっていたから、良い接写が撮れたことだろう。
 終了が3時過ぎ、事務所でタンクを下ろして、から戻ったが、さすがに疲れた。
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     科学未来館の三ツ橋さん
水温は20℃、お台場ではこれがウエットスーツの最後だろう。

1031 人工魚礁調査 1030

10月30日
 風邪を引いたかもしれない。少し熱がある感じ,具合が悪い。体調の悪い時は、夜中に何度もトイレに起きる。こんな時、飛行機に乗っていたらたいへんだなと思う。4時50分に起きて、出かける支度を始める。6時20分、清水まみさん20分の遅刻、中央線でうとうとしたとか。
車の中で、イスタンブールの話に夢中になり、僕は館山道に行かずに、成田にまちがえてしまう。四街道でUターン10分の遅れ、とにかく、ほぼ予定通り、9時に波佐間着。
 カメラの準備を始める、今日潜水する魚礁は鋼鉄製で水深35mに沈設されている。高さが12mある。透視度は良くないらしい。
 用意してきたカメラは、GOPRO2が3台、AEE21が2台、QUMOX が1台、久しぶりに、シー&シーのgx-1にイノンのストロボを左に、ライトを右に着けた。
 GOPRO3を縦に連結する。下から3M、その上が8M、一番上が13Mの3台、上に浮き、下に鉛で垂直に立てる。これは魚礁の中に入れるつもり。AEE21は、2台、下から3M、8Mで魚礁の側面に立てる。GOPROの初期がら966は、撮影準備のために取り出したら、死んでいた。GOPRO3も原因不明の死をとげた。この撮影は、行方不明になる可能性も高いので、事故率が高いが、3台が部屋の中で病死するとは想定外だった。
 もともとこのスタイルの撮影は30年以上まえからスガ・マリンメカニックでオートオブザベーションシステムと名付けて、売り物にしていたが、当時は10キロ以上のハウジングを使ったので、大変な作業だった。大変な作業=単価が高いから、3年ぐらいは看板として、稼いでいた。手間のかかる方法だったから、やがて自走式のrovが導入されたので、とって代われれてしまった。スガ・マリンメカニックを引退してから、シー&シーのデジカメを10台使って、延縄のように並べて、延縄カメラとして、外房乙浜の調査などで使っていた。GOPROが出てから、このシステムをより簡単に、小型にできるので、やろうと準備をしていたのだが、主たる仕事が調査からはなれてしまったので、なかなか実験もできなかった。
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     僕のバディ(サポート)をしてくれた山本さん

ダイバーは深い水深では、ほんの数分、長くても10分程度である。最近のリブリーザーを使えば、30-60分にはなるが、長大な減圧停止時間と、機材費、がかかる。この方式はつり下ろせば良いだけで、たとえば水深60Mだとすれば、下から10M(GOPROが50Mまでだから)15M、20Mとして、その上10Mにブイを付けておけば、魚礁の構造にもよるが、30Mまで潜れば、調査ができ、しかも2時間の連続記録ができる。さらに、この方式では、ダイバーが見ることができない魚を記録することも可能である。12月7日のJAUSシンポジウムで詳細を発表するが、今回のロケは、その発表に間に合わせられる、ぎりぎりの線だった。
 体調が悪かったが、表面に出さないように頑張って、準備をした。
 潜水が心配だったが35Mと深いので、12リットルを背負った。立ち上がれないのでバックエントリーとサイドロールのアイノコ型で、滑り落ちた。魚礁にブイをつけて潜水するという方法は、昔の僕の常道の潜水方式だったのだが、今では、全体の潜水回数が減ってしまっているので、久しぶりの感じになる。30を超すのは、2年ぶりだろうか。しかし、手慣れていたスタイルだから、何とか無難に潜ることができ、これも、いつものことなのだが、潜水することで、体調は、改善される。普通の状態に戻った。
 ダイビングコンピューターのログは
潜水開始1056 潜水時間27分 最大水深36M 平均水深18.4M 水温21℃

 2時間後、カメラを引き上げた。AEE21は、バッテリーパックを背負わせると5時間連続撮影できるのだが、GOPROが2時間だから2時間で引き上げる。引き上げには参加せず、同行した、山本、増井、清水、それに現地の超ベテランダイバーで、このような海事については神業に近い、波佐間海中公園のオーナー荒川さんが手伝ってくれた。彼の水中での動きは驚異的で、70を過ぎているとは思えない。とにかく引き上げてもらった。
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 水中は、全体に濁っていたために暗くて、慣れない眼には何も見えない。「これでもしも、映像が見られるようにとれているならば、予定通りに深い水深(60M)でもこの方法でできるね。」と荒川さんと話していたのだが、東京に戻って来て、見てみると魚の数と種類が判別できる程度に撮れている。自分としては大成功である。潜っての僕の目には入らなかった、ウマヅラの群れも中層に見えた。この方式でもっと深くの調査ができる。
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      上段 トップに設置したカメラ

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      上段カメラで撮った。キンギョハナダイ

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      中段のカメラ

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      中段かメラで撮ったウマヅラハギの群れ

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      下段のカメラで撮った底

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      外側側面に置いたAEE21 GoProと同等に撮れている。タイムインサートができるのでその分、GoProよりも良い。今回は魚の姿は捕えられなかった・。

  なお、参加してくれた、山本、増井、清水さんら、3人は、つい昔のスガ・マリンメカニックの調査で、自分の社員を使うように、仕事をやらせてしまったが、この程度の調査ならば、リクリエーションダイバーでもベテランならば、この作業は十分にできることもわかった。
 いつものことながら、疲れは疲れたが、体調はほぼ普通の状態に戻った。
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     荒川さんのまっさかさまに直進、レクリエーショナルダイバーに子のマネはできない。昔の僕はできた。

1102 海洋大学潜水部

 11月1日、東京海洋大学潜水部、執行部交代会に出た。執行部というのは、部長、副部長、トレーナー、以下よくわからないが、それぞれの役割分担をしての役員で、現在2年、来年度3年生になる部員である。彼らが、4月に新入生を迎え、責任を執って活動を行い。夏から秋、来年も11月で次にバトンタッチする。今回が59代執行部という事は、来年が60代の執行部になる。
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    顧問の荒川先生と、新部長、部長の女子率が高い。

 来年は創立60周年であり、60周年の行事、式典、記念誌などを、60代の執行部が掌らなければならない。今度の次の代だ。潜水部は、僕が大学3年生の時に作った。そのいきさつはグラフィティに書いたが、それから60年だ。月日は夢のようにすぎる。
 毎年、全日本スポーツダイビング室内選手権大会では、僕が水中撮影を受けているので、その手伝いを、海洋大学潜水部にやってもらって居るので、毎年3名ほどの部員とは、顔を見知る。コーチをやっていたのは40年以上昔のことになる。この数年は、その手伝ってもらう3名以外との付き合いがない。この執行部交代式にも、去年もその前も出なかった。疎遠になってはいけないと、OB会の会長にお願いして、グラフィティの出版記念会には現役10名近くが来てくれた。僕の潜水生活もあと残り少ない。過ぎてきた月日が夢ならば、残された時は瞬きする間しかない。これまでは、二年生の終わりで執行部で、3年の秋に終了だから、気心を知る暇もなくお別れになる。その一年間、せめてもう少し親密に付き合いたい。僕にとって、かれらは孫のようなものだ。かわいい。予定ならば、来年は80mに潜るから、その手伝いを彼ら潜水部にもしてもらいたい。
 付き合っている関東学生潜水連盟の他の大学、この前50周年で、娘の潮美の母校法政も、名誉顧問にさせてもらっている中央も、辰巳によく来てくれる学習院も、80mのための潜水機の製作をてつだってもらう芝浦工大も親密にしている。海洋大学よりもそれら親しくしている大学の方が親しいくらいのこの数年だった。今度の12月7日のシンポジウムも、関東学生潜水連盟、50周年を迎えて、次の50年をどのようにして活動してゆくかをテーマにしての公開ディベートなどを行うべく準備を進めて原稿を書いている。
 
 とにかく母校の水産大学(海洋大学)とは、もっと密にしたい。
 OBの何人かとともに、集まると、大人数である。現役は各学年の平均が10名だから、30名、それにOBが15名来れば45名だ。大広間が一杯になる。10年ほど前、新入生が1名になってしまい、風前の灯になり、僕が乗り出して行き、50周年をやり、何とかOBみんなで支えた時から見れば、大盛況だ。風前の灯の時に話したこと、とにかく、一年生を大事にしろ、先輩ではなくて世話人になれ、せっかく入部した新入生が止めたりしたら、それは執行部と二年生の責任だと、一年生はなにか上級生が気に入らないことをしたら、言いつけに来いと言ったこと守られているはずだ。それからも、次々と顔が入れかわり、少し離れていたので、みんなの顔は覚えていない。ただ、人数が減って危なかった時の顔は覚えている。
 宴席で僕のところにそれぞれ話に来てくれて、今度の新執行部のトレーナーの岩田君と辰巳にスキンダイビングの練習に来るように、お台場の潜水も練習になるのでくるようにと伝えた。うまく利用してくれて、顔を合わせることが多くなれば良いのだが。ひいき目かもしれないが、みんなきちんとした良い子だと思う。それにつけても、事故の無いように、支えてやらなければならない。

 11月2日、
 1日と引き続いて海洋大学に行った。同期会があるという事で行ったのだが、なぜか、やっていなかった。例によって日にち場所を間違えたかと焦ったがそんなことも無いようだった。どうしたことだろう。ともかく、海鷹祭(学園祭)は見た。
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 ずいぶんの人出で、食べ物、マグロとか、ホタテとか、人気のあるマグロ丼は、長蛇の列がますます長くなっている。年々、人出は多くなっている。潜水部は例年、たこ焼きをやる。出ているところが端のほうだから、売れているのかなと覗いてみた。一年生だろうか4人ぐらいが、やすむ間もなく手を動かして、焼いている。それでも数人の列ができている。声をかけようかと思ったが忙しそうなので、遠慮した。
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    潜水部 たこ焼き

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      潜水部部室 機材の置場

 プールは、毎年、釣り堀になっている。60年前もこのプールで泳いで練習した。プールはそのままだ。潜水の出来るプールをと望み、いろいろ策をめぐらしたが、昔の儘のプールだ。これはこれで、もうこのままで良いのだろう。

 JAMSTECの訓練プールも閉鎖される。海の国日本のダイビングは、ますますマイナーになってきて、商品スポーツとしてのレクリエーショナルダイビングだけになって行く。せめて、学生スポーツとしてのダイビングの灯を守り育てたい。それも、あと何年?

1108 1982年の日記

  ニッポン潜水グラフィティ 続を月刊ダイバーに連載している。一回と二回は、水曜スペシャル風、視聴率至上主義の番組について書いた。さて、第三回からは水中レポートの話になる。今、編集をしてもらっている須賀潮美が大学一年生、法政アクアにはいる。ここから彼女の活躍が始まる。
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  僕の日記は三日坊主ではないけれど、終身書き続けているわけではない。しかし、潮美が大学、法政アクアに入る1982年から、旅に出ている時とか、毎日ではないが、かなりの分量を書いている。最初は、「ダイビングを始めた娘への手紙」と言う感じで、ダイビングとはこんなものなのだという感じで書いていた。今のようにメールとかがあれば、抵抗なく送れただろうが、手渡すのも気はずかしいし、切手を貼ってだすのもわざとらしい。結局出さなかった。が、今ここに全部残っている。彼女が夏の合宿を終わって、秋になったころ、僕は、横井庄一さんと、7人の若い美女が、無人島でサバイバル生活を送るという番組の撮影にフィリピン行った。
場所は、マニラからそれほど遠くない。富士山より美しいコニーデ型火山、マヨン火山に近いレガスピという町から、バンカ(フィリピンのカヌー型ボート)に乗って2時間走る、ラプラプ島という無人島。無人島と言いながら、3000人の人口があり、反政府軍が支配している。とんでもない島だった。ロケもとんでもない話だったが、今日はそのはなしではない。いずれまた。ここでは、その時に書いた娘への出されなかった手紙、の一部。
「フィリピン航空のマニラ行きの飛行機の中で、潮美のことをとても心配して書いています。昨日、八丈島へ合宿で出発するのを竹芝に送って行きましたが、大きなダイバーバックと6キロのウエイトベルトを肩にかけて、よたよたと。それでもしっかりした足取りで、振り返りもせずに歩いて行きました。この前八丈島に行った時に、19歳、潮美と同じ年齢で、ダイビング中に亡くなった    さん(友人のグループでの事故、について、この手紙の前の手紙で書いている)の最後の場所、八条小島にお花を上げて来ようと思ったのですが、とても、そんな余裕がありませんでした。
ここからフィリピンの話になる。が、中略
マニラのホテルのベッドで、8度の熱を出して倒れています。ラプラプ島は悪霊の島でした。ハードなスケジュールで、この度の出発前からくたびれていたのです。レガスピから島まで、2時間の予定が、ボートが浅瀬に乗り上げてしまって4時間かかり、やっと到着した次の日の撮影で、どうしたことでしょう。絞りが二段階オーバーなのです。プロのカメラマンとしては許されないことです。眼がどうにかなっていたのでしょうか。そして、次の日は、砂浜でテープの交換をしたためにVTRの水中ハウジングに浸水、夜遅くまでランプのひかりで修理、電気がないのです。やっと12時ごろに横になってもなかなか寝付けません。やっとうとうとしたなと思ったら、午前3時私の寝ている小屋の床下の鶏が一番鶏のときをつくります。
次の日、撮影結果を見ると中心に焼き付いて様なしみがあります。太陽にレンズをむけたためです。この日も不眠で修理、最後の日にはついにカメラのハウジングに浸水。それでも、撮影の80%は済ませて、許してもらって帰途につき、レガスピには半病人、マニラには病人でたどり着きました。そして、なんということでしょう。私の乗る予定の飛行機に席がないことがマニラに来てわかったのです。このマニラで三日間またなくてはなりません。
 ☆
東京に着くと同時に電話して、潮美が無事に八丈島から元気に戻ってきたことを確認しました。
潮美たちの合宿のようすをいろいろ聞かせてもらいました。一年生では潮美が一番元気だったとのこと、おそらくは、うまく自分の体力をセーブするコツを、高校のときの剣道部で学んだのかもしれません。知らず知らずのうちに図々しく、「お前も、もしかしたら、潜水に向いているのかもしれないね。」などと言ったりしました。潜水に必要なことは自分の体力をうまく配分することで、ねちっこく長持させることです。
練習の様子を聞くと、ずいぶんバカバカしいことをやってると思うわれる部分もあるのですが、楽しくやっているのはなによりです。
これまで、大学のダイビングクラブのあり方に少し疑問を持っていました。一年生で潜水をはじめて、いちねんかかってどうやら半人前、二年生いっぱいで胴やら一人前になって、三年生になるともう指導者になって一年生を教えなければなりません。OBは現役と酒を飲んだりする会合は持つけれど、年間通じて指導するようなコーチ的なOBの居るクラブはほとんどないようです。これで、事故が起こらないのは不思議だと思っていました。 
いろいろ聞いてみると、これまでも、もしも一般のクラブで同じことが起こっていたら重大な事故になったかもしれないような、事故一歩手前のようなことはあちこちの大学クラブで起こっていたようです。ただ、見守ってい眼がる多かったこと、厳しい緊張状態であったから大事に至らなかったのではないかと考えます。前にも書いたのですが、私の27年の潜水歴(その頃47歳)の前半、20年くらいは、今振り返って見て、ラッキーで事故が起こら中と思えるようなことが何回かありました、その時幸いにも事故にならなかったのは、緊張して用心していた時にそのことが起こったからだと前にかきました。私だってそうなのだから、若い指導者のダイビングクラブがラッキーで事故にならなかったようなことがあっても仕方が無いと思います。潮美のダイビングクラブの主将(と呼ぶのでしたね)は、潮美とはたった一つ年上のボーヤです、その坊やが人を死なしてしまうかもしれない責任を負わされるのですから大変なプレッシャーでしょう。でも、そうやって男は(当時は男の主将が多かった]一人前になって行くのですから、彼の方はそれで良いとしても、そこに娘を預け入れる父親としては、その実態がわかるだけに簡単には割り切れません。
私の考えた末の選択は若い子供たちのグループを信頼するという事でした。信頼するという事は、もしも、という事があっても若者たちを責めたり恨んだりするまいという事です。若くて、プレッシャーを受ければ受けるほど、それに負けない限り真剣にやるはずだから、そして、ベストを尽くしたうえでの結果であるならば、それはそのまま受け入れるのが、海に生きる者の人生でしょう。
合宿から帰ってきて、それまでは潮美と一歳しか年がちがわないのに(浪人しているため)いつもピリピリしていて近寄りがたかった主将の   君が合宿を終わって、どうやら表情が軟らかくなってきたと聞いて、私の選択が間違っていなかったと思いました。
 中略
合宿が無事に終わったからと言ってこれで安心と言うわけには行かないのが潜水です。これからは、より一層力を合わせて、潮美自身もいくらかは力を持ったのですから、その力を合わせて、事故を起こさないように行動しなくてはいけないのです。みんなの力が付いた分だけ、上級生の負担が軽くなり、その分が一年生に負担として。廻ってくるわけです。クラブがそのように機能しないのであれば、コーチは絶対に必要だし、コーチなしでやって行こうとするならば、何時でも全員が力を合わせなければラッキーは続かないでしょう。

それから、30年の月日がながれ、関東学生潜水連盟は、幾つかの大学では監督、コーチが生まれたが、残りの大部分では当時のままである。学連創立50年を前にして、みんなで考えようというのが、12月7日のシンポジウムのその一のテーマです。

月刊ダイバーの連載記事は、一人前になった、潮美と僕の爽快な冒険を書くつもりです。どうなるかわかりませんが、しかし、冒険の内側にはこんな思いがあります。そのバランスで、僕たちが生きているのだと思うのです。
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