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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0705 豊潮丸航海ー1

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 7月3日に呉港を出港、今日5日、隠岐の島、西ノ島に入港、ネットがつながったので、航海記のその1を送る。
少しさかのぼって7月2日から

0702 人はだれでも、いつでも悩み事をかかえている。1日の辰巳でプールに入場の前、岡本美鈴さんと立ち話、美鈴さんでさえ悩み事があるとか、僕もいつも悩み事を抱えていて旅に出ていた。ただ、乗り越える勇気が加齢に比例して減ってゆく。
新幹線のぞみ、広島まで、グラフィティの最終校正、駆け足でやった。明日からは船に乗るのでもう見られない。もうやるべきことはやった。
元女性社員、榎並と広島駅で合う。実家の広島で嫁に行き、三児の母、榎並はいい女で幸せで何よりだ。どこかで食事。

結局、ホテルの近くのお好み焼き、小さい店ですが満席で、それほど通ではないのでわかりませんが、まあ、おいしかったです。ただ、あのヘラで食べるのが上手くできない。割り箸下さいと言いにくい雰囲気。

雨の呉港を12時に出港、1時間、予定よりも早く出航できた。
船はよく揺れる。

 大変な忘れ物に船に乗ってから気づいた。一番頼りにしているライン、巻き尺をわすれてきている。最近調査をしていないので失念していたのだ。持参品リストを作ったのだが、潜水用具と撮影用具だけのリストで、調査用具というリストを作っていない。しかたがない。持ってきたロープにウエイトをつけて海底に伸ばして目標とする他ない。このシステムを確立しよう。ロープをあるだけのばし、海底のロープをマークにして、コンパスで戻ってくる他ない。たとえば、北に行けば南に戻る。東に行けば西に戻る。あとは地形と流れを見るようにする。あとは透視度がよいことを願う。
しかし、このごろ重要な忘れ物が多い。
石川さんと相談、アンカーロープから20mのベースロープを引くことにした。空気は二分の一ルール。

0704
0600から、ゴムボートの組み立て、僕は何もしない。

曇りで、7月というのに肌寒い。
アンカーから引くロープは20mほどで十分だが水中での扱いが難しそう。
0800から潜水機材整備
最初の潜水なので緊張している。

0900より、青海島に潜水。
青海島(あおみしま)は、山口県長門市の前にあるちょっとしたリアス式地形の中の島で、ダイビングポイントにもなっている。
まず今回の航海のメンバーを紹介すると、広島大学、堀教授のグループ、女子が3人、男子3人で、スキンダイビングで海藻を採集する。北海道大学酒井教授のグループは、松永先生(女性)と学生が3人、そして僕たち早稲田大学の中尾教授、町田君、石橋君、石川さん、そして僕で、5人だ。北大と早稲田は、無脊椎動物を採集の対象にしている。

第一回潜水は、青海島の竹の子岩の付近。豊潮丸は錨泊、ゴムボートを下ろしてせんすいする。エンジン付きのゴムボートは一隻しかない。ピストン輸送をする。まず、広島大のスキンダイビンググループを岸に上陸させて、彼らは岸からエントリーして採集する。




僕たち、早稲田と北大は、エンジンをつけないゴムボートに機材を乗せ、エンジン付きゴムボートで曳航して行く。曳航というよりも、サイドバイサイド、横に並べて、保持して行く、機材ボートには石川さんが乗って、エンジン付きボートからは、町田と石橋が保持して行く。ロープで結びつけて、そのロープを持ってというのが実際の姿だろう。とにかくゴムボートを並べてゆっくり走って行く。ダイビング地点で機材ボートをアンカーで止め、エンジン付きボートは戻ってしまい。1時間後に迎えに来る。豊潮丸からは、望遠鏡で見張っているので、こちらの状況は大体わかる。

水深4mほどのところにゴムボートを止め、エンジン付きボートからエントリーして、機材ボートからスクーバを水に入れてもらう。水面でこれを装着するのだが、流れているとちょっと厳しい。今回は人数が多いので、北大グループと僕たちは分けて、ピストン輸送する。僕たちが先にエントリーして、あとから北大グループが来る。15分ほどの時間差で、まず大丈夫だろう。
久しぶり、一年に一度のこのスタイルでの潜水なので、飛び込むときは不安である。天候は小雨模様で、これも不安を拡大する。
エンジン付きのゴムボートから飛び込む。水が冷たい。下ろしてもらったスクーバを水面で着けるのだが、しばらくぶりなので、スムースに行かずに苦労してしまう。流れがあれば流されてしまう。秒速でできた昔は、昔の話だ。どうやら着けて、ボートからカメラを受け取ろうとしたとき、クラゲに唇をやられた。痛いけれど我慢する。

バディの編成は、僕が学生二人、町田、石橋について、石川さんは中尾先生につく、二つのバディは、見える範囲で行動する。
潜ろうとすると軽い。ウエイト不足だ。お台場でこの5mmのワンピースウエットを着てテストして、4キロとしていた。それに3mmのフードジャケットのウエイトが1キロ、合計5キロとしていたのだが、軽い。3mまで沈まないと浮いてしまう。

0938 潜水開始、1023浮上、潜水時間45分
最大水深 7.4m 平均4.6m 透視度は10m 水温23度
カメラはGOPRO2をマスクマウントで、オリンパスTG-2をステイに着けて、1000ルーメンのイノンのライトを1灯、左側に付けた。ゴムボートからのダイビングは荒いので、壊れたり紛失したりする可能性が高い。コンパクトに本当にタフな機材でないと使えない。
石川さんは、本線からゴムボートにタンク機材の積み下ろしをしているときに、マスクマウントのGOPRO3を海の中に落としてしまった。取に潜る時間はない。
 水中の様子は回し続けているマスクマウントのGOPROで記録を見ることができる。
 言葉で説明するような海でもない。予想外に濁っていたこと、ワカメの枯れた茎が群生していて、ウエイトが軽いので、水深1mまで上がった時には、ワカメをつかんで浮かないようにしていた。


 二回目の潜水は見島に移動する。見島港のすぐ近くにある大きな岩を巡って潜水する。流れも波もなく、今度はウエイトを6キロに増やしたので、まあバランスが取れた。水面での装着も普通にできた。透視度は20m近くあって、海藻も小魚も青海島より大幅にきれいだ。岩の根の先まで行くとさらに透視度がよくなり、きれいな海なのだが、なぜか開放感がない。ゴムボートからの潜水がかなりのプレッシャーになっているのかもしれない。町田、石橋、両君ともにダイビングについては問題がないが、やはり上級生の町田の方が安定している。町田は、僕が教えるようになってからの4代目になる。5代目が石橋君だが、かれはどこかのダイビングショップでアドバンスまで取ってきている。

    そろそろ引き返す点、二分の一ルールにしているが船のコンプレッサーの能力が低く、150キロまでしか充填されていない。引き返し点の近くで、40-50㎝級の真鯛が4-5尾ゆったりと泳いでいる。接近したかったが、学生から目を離すわけには行かない。3mあたりまで近づいたが、オリンパスでは写真にならない。

このカメラは、近寄って採集する海綿などを撮るにはいい。
   1443 潜水開始、1529浮上、潜水時間46分
最大水深 9.8m 平均5.8m 透視度は20m 水温22.6度
 ワンピースと2mmのフードジャケットでかなり冷たく感じた。

 豊潮丸に戻ってカメラを見るとオリンパスが水没している9,8mしか潜っていないのに、石川さんにハウジングを買わなければダメと言われるが、このカメラの値打ちハウジングなしでのコンパクトさだ。幸いにして露結の曇りであり水没ではなかったが、ひどい露結だったから、露結になったら、使えない。
  撮った画を比べてみて、GOPRO2の方がシャープに感じられる。

  豊潮丸は、隠岐の島に向かって走る。別に時化でもないのによく揺れて、何もできずに打ち伏していた。


0706 豊潮丸航海ー2

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0705
船はよく揺れた。
起きても揺れる船の上で体を動かすのは疲れる。
隠岐の島に到着、9時から潜水開始、小雨で肌寒い。食事に出てこない学生も多い。
800外に出て、まずウエットスーツをきてしまった。
カメラシステムは、オリンパスはあきらめ、GOPROもマスクマウントはやめにして、オリンパスをつけていたカメラステイにGOPROを取り付けて、イノンのライトをつけた。カメラはこれだけとした。

僕たちの潜る場所は、いわゆるダイビングスポットではない。200トン余の豊潮丸錨泊、あるいは漂泊して停止し、ゴムボートを発進させて、安全にダイビングを行い。そしてもどってこられるポイントである。その場所を選定した中尾先生に、その場所の水深は?と聞いても、地形は?と聞いても「わかりません」という答えが返ってくるだけ、ただ、そのポイントは、岸から近く、岸の地形を見ればその連続である海底の地形も予想できる。陸上の地形を見て、判断する。
 陸上の地形が断崖のような切り立った岩であれば、その延長線上の水中も岩であり、その岩に付着する無脊椎動物を採集する。ただ、中尾先生はこの豊潮丸による毎年の航海実習を20年以上続けており、僕のお手伝いも10年近く、教えて一緒に潜水してきた学生も初代が前島君、二代が勝俣君、三代が喜納君、四代が今の町田君、次の五代目が石橋君で、それぞれが二年~三年で、二つの代がオーバラップしている。四代の町田君は博士コースなので、もしかしたら六代までオーバラップするのかもしれない。

ゴムボートからのエントリー、水面装着も何とか少しはましになった。


この隠岐ノ島ポイントは、ホンダワラの密生で、水面から見下ろすと、一面のホンダワラであるところどころに岩が盛り上がっている、ホンダワラの根本を探ることになるのだろう。中尾先生の調子が悪く(多分船酔い)て、一度潜ってきたが浮上してエンジン付きゴムボートで本船に戻った。
僕と町田、石川さんと石橋のバディ採集を続けることにした。町田とのバディは、石巻での採集もやったし、意志は通る。彼が指差す、無脊椎動物、主として海綿を撮影し、できれば、ビニール袋への収容も手伝う。残圧、そして帰り道も記憶しておく、ラインを忘れ物したので、帰り道がわからなくなる可能性もある。しかし、水深は10m以下だし、透視度も20m以上あるから、水面に浮いてみれば、ゴムボートは50m以内の範囲に見えるはずだ。ホンダワラをかき分けての採集は、まあまあ順調にできた。自分の残圧が50を切ったので、戻る合図をする。船で充填する圧力は120-150で、今回は130だったから、使えるのは80だ。しかし水深が浅いからだいたい40分前後の潜水になる。50でリターンしてゴムボートの直下に来ても、まだ30は残っているから、10近くまで直下で粘れる。水温22度はウエットスーツでは冷たいので、ゼロまでは頑張らずに浮上する。

GOPROとイノンのライト一灯のシステムはこの用途としては割合うまく行く。しかし、画質として十分かどうかということになると疑問が残る。しかし、オリンパスのTG-2は、タフと名がついていても、僕たちの使い方に耐えられるほどタフではない。ゴムボートの上に放り投げ、上からタンクを重ね、その上をダイバーが踏みつける。

 潜水開始 0948 浮上1028 潜水時間40分 水温22.2度
 透視度20m、最大水深9.6m 平均 6.4m



   135の石段をかけあがる教授と学生たち

 午後の潜水はボンベの充填が間に合わないので中止して隠岐の島、黒木の港に入る。黒木には後醍醐天皇が流された御所がある。散歩に行こうということになり、歩いて5分だというので、皆について行った。ところがその御所は、石段を135段上ったおかのうえにある。きっと上るのだろうなと思って、とぼとぼ上っていたら、あとから教授と学生が、駆け足で駆け上がっていった。今頃の研究者はタフで健脚だ。中尾先生は、その昔自転車ロードレースの選手だったし、酒井先生は、ランニングシューズを船に持ってきていて、上陸の時は走る。女性の松永先生も一緒に走るし、ゴムボートに腕の力でよじ登れる。学生も、何かのスポーツを高校時代にやっている。

そのあと、山の上の岩窟の中に建築したという重要文化財の神社を見に行くという。極力断ったが、一人で残るのもさびしく、タクシーに乗った。



 その神社へと登る入口には、マムシを叩く棒が置いてある。マムシの巣窟みたいな小道を上る。こっちは沖縄の島草履だ。それでも仕方がないので一緒に上り始めた、5分ぐらい登っただろうか、あとどのくらいかと石川さんに聞いたら、これでまだ五分の一だろうという。この人たちと付き合っていたら殺される。僕は79歳だ。ダイビングに付き合うので精いっぱいだ。ここでドロップアウトしてもとに引き返すことにした。下で待っていれば、戻ってくる。やめて正解だった。これでも左足が少し引き攣っている。

  港に入った夜は、街に食事にでる。

  記念撮影をして、たちまちフェイスブックに乗せてしまう石川さん。
 

0706 豊潮丸航海ー3

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 隠岐の島前別府港(西ノ島町・黒木)を出て、途中、宇賀というところで潜水し、堺港に入っている。

    今日6日の潜水からゴムボートで帰投するところ

毎年のことなので、豊潮丸について、説明していないが、豊潮丸広島大学の練習船で、4代目で、電気モーターでスクリューを回す「全電気推進システム」を採用している環境にやさしいエコシップである。広島大学の水産関係の学生を対象にしているが、諸大学との共同研究の形で全国各大学が活用している。
 僕はこれで、多分、6回目の乗船だろう。(後で調べよう)
 全長:40m 幅8.5m 総トン数256トン、国際航海も可能である。
 船員12名 学生と教員20名 乗船定員は32名で、今回は満員である。

  後ろ甲板は潜水の支度をしたり、標本の整理をしたりする。現在はゴムボートとか潜水道具がひろげられている。

  ウエット、ぬれた標本をもちこんだり、ぬれた体でも作業できる研究室、同じような部屋がもう一つある。


  一階に相当する。トイレ、風呂、厨房、学生の食堂、サロン などがある。

   学生食堂 サロン


   階段を下りる階下が僕たちの居住区、学生、教官の寝室である。
   二階が船員の居住区であるが、ここでは紹介しない。


   僕はただのダイバーなのに、教授の部屋を占領している。本来ならば中尾教授の部屋である。
   
  と、まあ、こんなきれいな練習船で航海している。

0707 豊潮丸航海

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  200トンの豊潮丸からの潜水は、一般のダイビングとは違い、かなり変則的なものだといえる。本船は岸に近づけないから、本船からのエントリーは、特別な場合、たとえば水深50m以上の潜水などを除いて、まず考えられない。早稲田大学先進理工学部 中尾教室の場合は、無脊椎動物の採集であり、学生も参加するから、豊潮丸から深く潜水することはまずない。
 ゴムボートを下ろして、ダイビングポイントまで行く潜水になる。普通、ゴムボートからのダイビングは、ゴムボートが気泡を追って直上にいる形になるが、僕たちの場合は、広島大学のスキンダイビングによる海藻採集と並行するので、ゴムボートは、スキンダイビングのチームを岸に送り届け、岸からエントリーし、そして岸に迎えに行かなくてはならない。一つの場所での潜水、つまり一回は大体1時間で、準備を入れて2時間、だからスキンダイビングと僕たちのスクーバダイビングを並行して行わなければならない。つまり、ゴムボートは、僕たちの頭上を離れる。
 僕がかかわった最初の航海では、スクーバも岸に上陸して、岸からのエントリーにしていた。これでは、行動が制限されるし、危ない場面もある。別のゴムボートを曳航して行き、ポイントに止めて、これをベースにする方式とした。これならば、エンジン付きのゴムボートは、現場を離れて、たとえば1時間後に迎えに来る方式で潜水できる。2台のゴムボートも最初のときは、ロープで曳航したが、うまく行かず、舷を接して横付けて走るようになり、このシステムが確定した。

 もう一つ、この潜水は豊潮丸の空気充填能力が120キロまでしかないことである。コンプレッサーの能力は200までつめられるが、充填効率が良いのは120キロまでであり、150にすると、午前と午後、3時間ぐらいの間に10本の充填をして、一日2回の潜水は不可能になる。船員の負担も大きくなるので、120キロまでとされている。50キロ余してエキジットなど考えられない。20まで残して浮上ということになる。かなり特異なスタイルであるが、これを基本にして海況を判断して行動を決定する。

 0706
隠岐の島前別府港(西ノ島町・黒木)を出て、途中、知夫里島古海 というところで潜水する。
 0800隠岐の島、西ノ島町 島前別府港を出港、0830潜水準備
潮の流れを心配していたが、入り江に入り込んだところで潜水したので、ほとんど流れもなく穏やかだった。晴れ。
 潜水、4回目、ようやく慣れて、気分よく潜れるようになったきた。かいていは一面のモク(ホンダワラの類)で美しい。チャガラ、スズメダイ、マアジの群れ、モクの中に入り込むようにしてオハグロベラが点々と。


 天候は、薄く陽もさして、本当に穏やか、海の中も穏やかで気持ちよく泳げるが、肝心の無脊椎動物、海綿の類が見当たらない。ぐるっと回って戻り道、残圧が70ぐらいになってから、海綿の多い岩が見つかった。石橋君の採集に付き合った。彼にとっておそらく初めて採集する海綿なのだろうか、ライトをあてて、見守る。結構手馴れていて、しつっこく採集している。ナイフで切り取って剥がすだけだから、別にむずかしい技術がいるわけではない。

 僕の残圧が30になった。二人はまだ50ぐらいあるのだが、僕は水面に出てゴムボートの位置を確認して、水面をスノーケルで泳いでもどる。北大のチームが先に浮上して、エンジン付きボートで戻って行き、僕たちは残されたが、水面に浮いているだけで楽しい。

 潜水④
 潜水開始0923 浮上1005 潜水時間42分 水温22.6度
 最大水深 11.4m 平均水深7,2m 透視度20m

 今日の潜水はこれで終了。境港に向かう。

0708 豊潮丸航海-5

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 境港は水木しげるの博物館があるとかで、皆出かけて行ったけれど、誘われなかった。隠岐の島で、皆について行ったら殺されそうだとブログに書いたのを読まれたのかもしれない。ちょっとまずいな、まあいいか。
 雨が降っているので街中までは食事に行かないで、近くの食堂のようなレストランのような変な店に行き、海鮮丼を食べた。その店は、大学の後輩でフェイスブック友達で海藻の研究をしている新井さんとかかわりがあるのではないかと思われる、アカモクの酢の物のようなものを健康に良いと言ってうっている。そういえば、鹿児島の方で、アカモクを豚に食べさせたら、よく太っておいしい肉になったという発表を聞いたことがある。旅に出ると主治医の河合先生になにかお土産を買うことにしているのでが、今回の上陸地点はもうこれで終わり、なので一袋買った。話の種にはなるだろう。それに、まずくはなかった。


0707 1000境港出港、島根半島に潜水。
天候が曇っていたので、水は明るくないが、透視度は20mていどある。波も流れもない。ゴムボート直下に潜る。それでも、エントリー前は緊張する。ようやく慣れたが、6キロのウエイトが重い。といって4キロでは浮いてしまうのだから、自分のバランスが悪くなっている。海綿採集には良い場所のようだ。
中尾先生は10キロクラスという真鯛がいて、3mぐらいまで、向こうからよってこちらを観察に来る。


採集する無脊椎動物の記録をGOPRO 動画ー静止画にしてみている。写真としては弱いが、使えることは使える。

 潜水開始 1137 1219浮上 潜水時間42分
水温23.2度 最大水深11.8m 平均7.6m

 超強力な台風が沖縄に接近している。なんとか予定はこなせそうだ。潜水終了後豊潮丸は一路関門海峡を抜けて瀬戸内海を目指す。往路はあんなに揺れたのに、帰路は全く揺れない。石川さんは学生たちの仲間に入って、積木くずしをやって遊んでいる。揺れたらたちまちくずれてしまうのだから、それほど揺れないということだ。

お風呂にも入った。

0709 豊潮丸での読書

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旅もおわりに近づいていて、あと一回、瀬戸内海の入口に近い小水瀬島に潜るだけとなった。不規則な睡眠で早く寝るから、夜中に起きる。起きると本を読む。自分で何かを書くということは頭が働かないのでとても難しい。受動的に読むことならばできる。

「コンニャク屋漂流記」星野博美 文春文庫 2014
 星野博美はカメラマンであるとともにノンフィクションを書いていて、「転がる香港に苔は生えない」を読み、「謝謝!チャイニーズ」を途中まで読んだ。コンニャク屋漂流記は彼女のルーツがある、千葉県岩和田のこと、岩和田から出て東京の戸越にねじ切りの町工場を作った祖父から続く自分の一族のことを書いたものだ。写真家であるのに、このコンニャク屋では、自分の撮った写真を一枚ものせていない。ノンフィクション作家としての自信を深めたからなのか?そして読了はしたし、面白かったとは思うが、写真が入った方が良かったのか、それとも写真にはしにくかったのだろうか。たしかに、写真を使わない方がイメージが広がるということもある。僕の目指しているところも、写真を使わないで文章で海の中を表現することだが、写真を並べる方が楽だし、理解しやすい。
嘘のように揺れなかった豊潮丸が揺れだした。日本海から紀伊水道に入ったのだろうか、揺れると書けないので、横になってまた寝る。今5時23分だ。
6時23分、波がおさまった。あと1時間足らずで関門海峡。
「コンニャク屋漂流記」の岩和田は、僕も何回か行ったことがあり、思い出も少しばかりある。僕の岩和田と本の岩和田はほとんどオーバラップしない。どちらかといえば戸越の方がよく描かれているように思う。

境港では船の停泊した岸壁の近くに大きなスーパーがあり、買い出しに行き、雑誌「NUMBER この4年間は間違っていたのか・ザックジャパンの敗北」を買った。勝利の記録より面白かった。たしかにザックの戦術は間違っていたかもしれないが、FIFAの日本のランク相当の結果であり、勝ち抜く云々は本田が夢を語り、選手もその気になり、マスコミもその気になって夢をみた。そして、夢に向けて頑張った結果でありザックの責任ではないが、ザックが続ける意味もない。日本人監督にして、グループリーグ突破に目標を置いた方が良いだろう。

「地図の無い場所で眠りたい:高野秀行 角幡唯介、講談社 2014」も読了した。角幡君は、僕の潜水の弟子であり、お台場でもトレーニングして、荒川の取材をした。面白くて、たちまち読了した。高野秀行は片手間に書いたらしい「ワセダ三畳青春期」が面白かった。角幡君の「空白の5マイル」「雪男は向こうからやってきた」を読んでいる。
その角幡君がすごいことを書いている。
「冒険と探検と何が違うのですか」とよく聞かれるんですけど、僕は探検とは基本的に土地の話だと思っているのです。その場所がどうなっているのかということ。いっぽうで冒険というのは人の物語、主人公は自分であるというストーリー」グラフィティを書いていて、冒険と探検の違いにさんざん迷ったけれど、この言葉はわかりやすく納得できる。
僕は、冒険とは主観的なもので、その人が冒険だと思えば冒険になる。79歳の豊潮丸潜水は、自分としては大きな冒険である。探検とはその人にとって未知の世界を訪れることであり、ダイビングとは水中探検といえる。

0711 豊潮丸 まとめ

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2014年の豊潮丸の航海を終了した。
忘れないうちに記録をまとめておこう。

  終わりに記念写真、お世話になった船の船長以下乗組員、先生、学生、僕たち

中心は広島大学海洋生物資源化学 教室の堀貫冶教授で、これに早稲田大学先進理工学部の中尾教授、北海同大学の酒井隆一教授の三大学、教授、学生、そして須賀と石川で計19名である。須賀と石川は早稲田大学のチーム安全管理と無脊椎動物採集の補佐を担当した。
須賀は、2007年から毎年の参加で、これで8回目になる。
航海記は、ブログでできるだけリアルタイムでレポートした。レポートは須賀個人の感覚、心象で書いている。学術的なものでもない。

今回の航海は写真に示す航跡のように広島から関門海峡を抜けて、日本海に入り青海島、見島、隠岐ノ島、島根半島で潜水して 関門海峡にもどり、呉に無事帰港した。7月3日に出港し、予定通り9日に下船した。台風の北上接近の中、ほぼ予定通りのダイビングを行ったが、8日は、瀬戸内海の入口の小水瀬島で潜る予定だったが、関門海峡が視界不良のために通行止め。これが4時間続き、潜水する時間が無くなってしまった。
ながらく、一緒に公開してきて広島大学の堀寛治先生が来年3月に退官されるので、これが最後の航海になる。僕はもはやお目にかかることはないだろう。ベトナムにも一緒に行ったし、とにかく素晴らしい先生だった。もうお目にかかれないのはとてもつらい。

今回の潜水のまとめ

中尾教授は、30年近いキャリアのベテランダイバーであり、この豊潮丸での潜水も20年、20夏以上、僕は2007年からだから、これで8年、チームワークも心配ない。現場での動き、ポイントの選定は、先生がほとんどすべてを判断し決める。僕の役割は、このシステムを作り、学生の潜水を指導し、学生の安全に責任をもつことで、つまり、スーパバイザーである。、   僕がかかわるまでの潜水は、ボートからエントリーしたら、ボートはもどってしまい。浮いたらば本船から望遠鏡で見ていて、迎えに来る。流されて当然のダイビングだから、自由度が大きく、かえって楽かもしれない。しかし、もしも何事かが起こったならば、事故になる可能性が大きい。今のスタイルはゴムボートのベースに動きが制限されるから、せいぜい、ゴムボートからの半径が100mもない範囲、だから一般のリクリエーションダイビングよりも、よほど安全度が高い。しかも、学生の町田君の錬度はたかく、石橋君もアドバンスの上に、僕がトレーニングしており、町田にぴったりとはなれないようにさせていて、僕が近くにいて撮影をしている。中尾先生はベテランだし、石川さんとぴったりつけていて、二つのバディは見える範囲で行動している。僕の考えている理想的な体制をとっている。今年の潜水については、今までの豊潮丸の航海よりも安全度が高かったと言える。


この2年ほどは、僕の体力が落ちてきたこともあり、学生が僕を気遣ってくれる。僕としては不本意な形になっている。しかし、フォーメーションとしては、ほぼ完ぺきに近くなっている。自分中心に考えれば、僕が若いころの潜水よりも、学生にとっては今のパターンの方が安全なのだと思っている。何しろ79歳の僕に運動能力抜群の若者が合わせるのだから。しかし、油断はしない。僕はいつも緊張していて、怖い。何でもない、容易な潜水の時に事故は起こる。「ある晴れた、波も流れも無い海で、若いダイバーは命を落とす。」

ここで、恐怖心と安全について考えてみよう。ダイビング事故のほとんどは恐怖心の欠如から起こると思っている。しかし、恐怖心を外に出してしまうとパニックになってしまう。そして、恐怖心、想像力があるからパニックになる。恐怖心のコントロールと実際の行動への反映のバランスが大事で、それは常に変幻している。

中尾先生は、十二分に恐怖心を持たれているから問題ないし、学生も僕たちのチームに関する限りは、大丈夫だと思っている。そして、アシスタントをしてくれる石川さんには、万全の信頼を置いている。それでも、僕には常に恐怖心があり、恐怖心を大事にしている。恐怖心の克服のバランスがポイントだと意識している。

昔、スガ・マリンメカニック時代の僕のチームは、無敵に育て上げたと思っていて、独立した中川も大西もバランス感覚では、優れているから、それぞれの分野で、ほぼ最高の域に達しているとみている。しかし、恐怖心のコントロールという点では、僕に恐怖心が、現場ではほとんどなかった時代のチームだったから、どうだろう。しかし、今の僕の恐怖心では、あの仕事は出来なかった。と書いて、えっ、あの時代恐怖心はなかったのだろうか?ちょっとした難しいダイビングがあるたびに遺書をかいていたはずだ。メンタルな恐怖心はいつもあったが、生理的な、フィジカルな恐怖心はなかったというべきだろう。フィジカルな能力が落ちると、メンタルな恐怖心+フィジカルな恐怖心になる。フィジカルな恐怖心を持たない若いダイバーは、フィジカルな恐怖心を理解することはできないかもしれない。ダイビングの初心者、および高齢ダイバーの恐怖はフィジカルな恐怖心がほとんどである。メンタルな恐怖心を抱けるほどの経験を持ってはいない。恐怖心としてはフィジカルな恐怖心の方が強い。いずれにしても、ダイバーは恐怖心を常にもっているし、持っていなければ危ない。ただ、恐怖心に負けてしまうとパニックになりダイビングは出来ない。
今回の潜水は海況にも恵まれたし、地形としても安全だった。ゴムボートから100Mも離れなかったし、透視度もよく、水深も最大で11Mだった。それでも、僕としては、飛び込む前に、数十秒、精神を集中して、イメージを作った。水に入ることで精神を開放させて、自由になるイメージを作る。



撮影について
 残念ながら、オリンパスTG2を使いこなせなかった。自分がイメージしていたようなスチルが撮れなかった。調査報告の写真ならば、GOPROの動画からの静止画と大差がないように思えた。今比べてみると、近寄った標本写真としてはTG2の方がきれいだしシャープだが、少し離れてしまうとGOPROの動画からの静止画の方がきれいに見えてしまう。そして、水からあげてからだったが、まるで水没かと思うようなひどい露結をおこしてしまった。水中で起こした露結ではないのだが、GOPROが全く露結を起こさない条件で露結したということは不安でメインのカメラとしては使えない。
5日からは、GOPROとイノンのライトを組み合わせてステイに着けたセットをメインにした。これは、軽くて操作性が良い。ゴムボートからの発進、エントリーエキジットは、カメラを壊しやすい。GOPROは道具になっているから、ストレスが無かった。なお、このような荒い潜水では、大きな一眼レフは使えない。僕の恐れるのは、カメラを大事にする、あるいは撮影にこだわるために、安全がおろそかになることだ。
 TG2も露結を解決して、もう少し使い込めば使えると思うが、そのチャンスは研究会でやる人工漁礁調査プロジェクトだけしかなく、それは水深15Mを超えるので、ハウジングが無ければ使えないし、ハウジングを買ってまで使うカメラではない。しかし、良いカメラなので、露結を解決すれば普段のカメラとしてとてもいい。
 次はGOPROとTG2を並べて取り付けるステイを考えよう。


0713 JAMSTEC

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   GoPro動画より

 JAMSTECのプライマリーコース実技。今年から後進に道を譲って、このコースのプロデューサーから退く。後進と言ったって40歳以上だから、育成できる年齢ではない。自分たちで責任を持ってやってもらう他ない。とにかく、担当が変わるのでなるべく世話を焼かないようにと言われている。しかし、講習生を集めること、全くお役所のJAMSTECの申請をすることなど、世話を焼かなければ進まない。必要最小限度の世話をする。
JAMSTECのプールは今年終わる。取り壊されるらしい。まるまる3年間お世話になった。楽しい日々だったと思う。だから、最後の二回、7月8月は僕がプロデュースしようと思っていた。
 そんなことで今日は、いつも一緒に車に乗っていった石川さんは、ヨットに乗りに行ってしまった。僕は自分の車を転がしてゆく。お昼休みに着いて、一緒に食べようと、途中でサンドイッチ(自分の分)を買って行く。1220に着いたのにいつも食事をする芝生にはだれもいない。仕方がないから、車の中で一人で食べる。聞けば、雨が降ったので、研修室を借りてそこで食べたとか。
 午後から、1本だけトレーニングする。豊潮丸航海でゴムボートからのエントリーがやりやすいようにと、もう20年以上使っているアポロのBC.を使ったが、これが一回目の潜水では、思うように行かずにてこずった。2回目からはスムースだったが、水中での水平姿勢がとれない。町田はともかくとして、中尾教授のほうが上手なくらいだ。もう一度ハルシオンのバックフローティングを練習しようというわけだ。こういう風に、いろいろな道具を使うのがいけない。終始一貫して一つに決めなくてはバランスがとれない。まあ、とにかく練習する。3mmのウエットスーツもテストする。この前、横山君に作ってもらったばかりだ。豊潮丸では寒いと思って、5mmと3mmのフードジャケットにした。スキンダイビングとフリッパーレースは3mmでなければできない。体に慣らしておかなくてはいけない。

 もう一つのテーマはオリンパスTG-2とGOPROの動画から取り出す静止画の比較だ。2010年にはまだ動画から静止画を取り出すという手法は一般的ではなかったような気がしている。辰巳のプールでGOPROを使い始めた時には、1秒間隔のインターバルでスチルを撮影していた。インターバルは、僕が調査撮影に多用している方法だったから、これで、泳いでいるメンバーを撮って見た。しかし、インターバルのスチルでこちらも泳ぎながら、泳ぐダイバーをスチルでとると、シャッターブレが多くなる。動画からスチルを切り出した方がブレがない。
 やはり、しっかりと狙ってシャッターを押して切り取る方がカメラマン的だと思わないではないが、結果がすべてである。僕の求めているのは実用的な撮影である。実用的とは、調査の報告用撮影、記念写真、フェイスブックやブログに使う写真、これ以外に何かあるかな。元来、僕はプロとしてはビデオのカメラマンであったし、写真展に出したり、コンテストに応募したりするには、今さらの年齢だ。まあ、その方向は重いカメラを厭わずに担いでいる清水まみを応援している。彼女が写真集を出すまで後押ししようと思ってはいるが、写真集だって、オリンパスTG-2で行けるだろう。この頃ではそういう試みを井上慎也がやっていた。鈴木あやの もTG2の回し者だから、かなり写真集に近い撮影をしているはずだ。
 

 オリンパスのTG-2とGOPROの3、それにイノンの1000ルーメンのライトを並べて、ステイに取り付ける。これで、GOPROは動画を回し続け、TG2は、動画を回したり、スチルのシャッターを押したり、適当、交互にやってみて、動画から静止画を切り出して、比べたりシャッターを押したスチルとくらべてみようということだ。

     TG-2のムービーからの静止画
    

     TG-2のシャッターを押した静止画

     GoProからの静止画、サイドマウントの練習をする藤沢さん。

     TG-2のシャッターを押した静止画、山本さんもサイドマウントの練習
     要するに、受講生一人をコーチが教える組みのほかは、みんな、僕も含めて自主練習。  
     こういう練習をするのに、このプールは最適なのだが、みんなあんまり利用方法をしらないうちに終わってしまう。9月、10月も、人が集まれば実施するよていだし、このプールで泳げるのもこれが最後、ぜひ、参加することを薦める。

    GoPro動画からの静止画、国方君は、ひたすらポセイドンリブリーザーの練習をする。

     TG-2動画からの静止画
  僕は水平姿勢の練習をするが、フロッグキックが上手くできなくなっている。

  GoPro動画からの静止画
 
 結論としては、実用写真としては、どれも同じようなものだ。
 次は、海に出て、テストをしよう。次の海は、相変わらずのお台場だが、そのあとで館山を計画しよう。

 JAMSTECの担当の長根さんと雑談した。彼は種市高校の古い卒業生で、すべてのスタイルのダイビングに精通している。
 僕の年齢になると、いくら練習しても、上手になるということがない。去年より今年がどのくらい下手になるのかその歯止めのための練習でしかない。しかも、その練習をちょっと怠ると、がくんと悪くなる。今日練習しているだれよりも、スキルでは並ぶこともできない。しかし、トレーニングを怠れば、潜れなくなってしまう。
 

0716 ウエアラブルカメラ

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 、今日は中尾教授と話し込みに行った。豊潮で一緒の生活をしていてもじっくり話す時間がない。ちょっと聞きたいことがあったので、意見を聞きに行った。自分が馬鹿だなあと思ったのだが、馬鹿を承知のダイバー稼業、ここまで来たのだから馬鹿を後悔してもはじまらない。中尾教授は、やはり的確に物を見ていて、馬鹿でなければもっとお金持ちになるところなのに馬鹿をやりたいから、やっている人がダイバーには多い。と言われた。これで安心して、モチベーションを取り戻しつつある。原則として、ダイバーは頭のいい人が馬鹿を承知で馬鹿をやっている。それでも成功した幸せなダイバーもたくさん知っている。僕も過去には、一応成功した。ダイバーの馬鹿を馬鹿にしてはいけない。

 「幻獣ムベンベを追え:高野秀行」を地下鉄の中で読了した。豊潮丸航海で、この高野さんと角幡唯介の対談、「地図のないところで眠りたい」を読了していた。対談も面白いな、と思った。その高野秀行が早稲田の探検部の時代にコンゴの湖に幻の怪獣を探しに行った話で、正統的、学生探検隊の話で、彼の初期の作品で、ベストかもしれないと、角幡が言っていた。同じ高野秀行の「ワセダ三畳青春記」も読んでいてこれも面白かった。ムベンベも三畳青春記も馬鹿だなあと思うことができて、励まされる。他にこの人の本を2冊ほど読みかけているけれど読了していない。どこかに消えている。
 探検と冒険については考えつづけていて、冒険とは主観的個人的なことでもあり、自分が冒険だと思えばそれは冒険である。探検は、何かの発表による客観的な記録が必要であり、撮影に成功しないと、探検は成功とは言えない。幻獣ムベンベも見た人は何人もいても、撮影されていないというところから話はスタートする。だから、探検は撮影でありテレビ的でもある。僕のかかわったテレビ番組は、川口探検隊も含めて、探検の要素がある番組が多かった。川口探検隊と言えば、この本の高野秀行も角幡唯介も、そしてわが中尾教授も川口探検隊を見て育っている。

     GoPro動画からの静止画
     下はTG2のシャッターを押した静止画


 中尾先生のところでは撮影の話もした。いま、僕は動画からの静止画切り出しがどこまで使えるかという研究?をしているが、今度の豊潮丸航海では、小さいライトをつけた、GOPROのシステムによる動画からの静止画で標本の撮影には十分であるということで意見が合致した。動画からの静止画の良いところは、その静止画の前後の状況も動画として記録されていることで、その標本のすべてが視覚的にわかる。学生にはマスクマウントでウエアラブルカメラと小さいライトを着けさせておけば、良い。石川さんと相談しよう。
 探検的撮影と言えばGOPROあってのことであり、豊潮丸探検的航海の撮影も最初からGOPROがあれば、、、、ということだが、このGOPROのヘッドマウントを本格的に使い始めたのも、中尾探検隊のインドネシア調査がそのはじめだったし、石川さんのマウントもインドネシア調査が発端だった。

0718 グラフィティ完成

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 「ニッポン潜水グラフィティ」出来上がりました。カバーの写真は全部、後藤道夫が1967年の12月日本潜水会の第一回合宿の時に撮った記念写真です。

 
 内容については、自分で言うのですから、まちがいない?のですが、面白いとおもいます。1953年に日本にアクアラングが正式?に(天皇陛下に見ていただいている)紹介されてから、1975年、沖縄海洋博の行事として、全国大会を行うまでの道筋を中心として書きました。その時代に知り合ったダイバーたち、全部の紹介は当然ながら無理ですが、記録としてわかっているものについては、出来るだけお名前も入れるようにしました。そして、終わりには、須賀の視点ではありますが、年表もいれています。


 サブタイトルは夢と冒険ですが、最後まで冒険とはなにか探検とは何か、考え続けました。この本には結論は書けなかったのですが、冒険とは、人の心、主観的なもので、「冒険だなあ」と思えば冒険です。探検とは発表を伴うもので、証拠となる撮影が必須になります。スクーバダイビングは、冒険であり、探検でもあります。

 購入していただけるならば、コメント欄にお名前と送り先住所を、そして冊数を書いてください。
成山堂書店から直送させます。
直送の場合、本は、定価の1割引(=1冊1750円、税込)です。送料は、1件(1冊でも100冊でも)390円(税込)です。代引手数料は、ご購入金額1万円未満は324円、= 2464円です。まとめて買っていただけると、お徳用なのですが。
一冊では、アマゾンで買うよりも高くなってしまうのですが、こちらはサイン本になりますので、ぜひ、こちらから買ってください。


0720 グラフィティ あらすじ

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 月刊ダイバーに連載していた「ニッポン潜水グラフィティ」単行本になった。連載では、月ごとに途切れているのだが、単行本になれば、一気に読める。一気に面白く読める長さに縮めた。月刊では、1980年以降、テレビ番組の撮影まで書いたのだが、単行本では1975年の沖縄海洋博までで、あとはまとめ的に1990年代まで走っている。その代りに月刊ではなかったその時々のダイビングについて、コラムとしてはさんだ。
 1980年以降も雑誌と同じように入れた方が良かったのでは、と思わないではないが、グラフィティにふさわしいのは、やはり、1975年までだろうし、1980年以降は、また別のストーリーだ。とおもう。
 そして、かなり詳しいスクーバダイビングの年表を終わりにいれた。年表は2012年の舘石昭氏の死で終わっている。
 
 物語は、まず、1953年のアクアラング伝来に始まる。1943年に生まれたアクアラングは、1950年には日本に入ってきたらしいのだが、正式には1953年だ。天皇陛下がご覧になっている。東京水産大学の小湊実験場がその舞台だが、その小湊実験場で、その次の年、1954年に、潜水実習中に二人の学生が命を落としてしまう。そんな中で、1955年から素潜りをはじめ、奄美大島探検、潜水実習、卒業論文で海士のような生活を送り、人工魚礁の調査で、水深30mでエア切れで、ほとんど死にかける。
 ここまでが第一部と言っていい。ここまでで、ダイビングの危険についてのほとんどすべてがわかる。すなわち、どうしてダイバーの死亡事故が起こるかがわかる。すなわち、直上に小舟がいなければ、スクーバは危ない。深く潜って空気の計算をしなければ、運がわるければ死ぬ。

 そして、水産大学を卒業した僕は、家の倒産で研究者への道を閉ざされ、南千住の東亜潜水機に就職する。お坊ちゃん育ちの僕にとっては、カルチャーショックの職場だが、楽しく、潜水の研究をして、レギュレーターを設計して作り、すべてのスクーバ機材を作って行く。これが第Ⅱ部だろうか。
 ダイバーという人種は深く潜りたい。とにかく、深く潜りたいのだ。窒素酔いというものがあるならば、体験しないではいられない。とにかく自分の使える機材、自分のフィジカル、メンタルな能力を総動員して、1mでも、1cmでも深く潜りたいのだ。
 深く潜るのが潜水の目的ではないなどと本気で思ったとすれば、それはダイバーではない。深く潜ることが本能でないならば、フリーダイビングなどという愚かな行動はすぐにやめるべきだし、テクニカルダイビングなども意味がない。
 僕は、自分の作った潜水機で100mを目指す。すでに300m潜ったハンネス・ケラーというダイバーが出てきているが、彼は彼、僕は僕の100mを目指す。潜水機メーカーの東亜潜水機の社員だから、新しい潜水機を作り、テストするという大義をでっち上げて100mを目指す。バディとしては舘石さんをおだてあげて、一緒に潜る。

 このグラフィティでは、僕以外に何人かのダイバーの物語が含まれているが、その一人が舘石昭で、ヒーローである。だから、このストーリーは、月刊ダイバーで、というよりも舘石さんが主宰するマリンダイビングであるべきだったかもしれない。しかし、チャンスを与えてくれたのが月刊ダイバーだから、かなり思い悩んだ。月刊ダイバーの坂部編集長にそれで良いかと聞いたが、あったことであり本当のことならば、次郎さんの思ったままに、ということで、遠慮なく書いた。
 偶然のできごとだが、僕が舘石さんのことを書き始めたころ、舘石さんは世を去ってしまう。読んでもらって、「須賀さん、あそこは違うよ」などと言ってもらいたかったが。
 この100m潜水が第Ⅲ部である。(本ではこのような分け方はしていないが)

 そして、1967年、後藤道夫、浅見国治と三人で、日本で日本人による指導団体である日本潜水会を作る。
 やがて日本潜水会は、関西潜水連盟、中部日本潜水連盟、PADI潜水指導協会などと合同団結して全日本潜水連盟を作る。そして、1975年、沖縄海洋博の記念行事として全国のダイバーを集めて、競技会、フェスティバルを開催する。これで全国統一が成ったわけで、一つの頂点にたどり着いた。ここまでがグラフィティであり、第四部
1980年以降、この態勢が崩壊して次のC カードと賠償責任保険の世界、つまり商品スポーツだと誰かが言うような世界になって行くのだが、その商品スポーツの世界では僕は深くかかわらず、経営しているリサーチダイビング、テレビ撮影の会社がダイビング生活の中心になるが、この部分はこの本では駆け足で通り過ぎて、最後にスガ・マリンメカニックでの死亡事故について述べる。この事故は僕のダイビングを一変させてしまう。
1980年以降は、今の潜水であり、グラフィティとは言い難いので、単行本では割愛している。続編が書ければ、その移り変わりの部分からのスタートになるが、いまはとにかく、ここまでだ。

できるだけ多くの人に買ってもらうことが著者の願いである。このブログにメッセージで冊数と送り先をかいていただければ、成山堂書店より、サイン本が直送される。
本は、定価の1割引(=1冊1750円、税込)ですが、送料は、1件(1冊でも100冊でも)390円(税込)です。代引手数料は、ご購入金額1万円未満は324円、= 2464円です。まとめて買っていただけると、お徳用なのですが。一冊では、アマゾンで買うよりも高くなってしまうのですが、こちらはサイン本になりますので、ぜひ、こちらから買ってください。

0723 ニッポン潜水グラフィティ 沖縄海洋博

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 昭和46年、1971年 沖縄返還協定が締結された。現地の要望「核抜き本土なみ」とはほど遠いということで、抗議集会、とうきょうでは3万人の反対デモがあったが 僕たちダイバーにとっては、沖縄がもどってくる。夢のような話だった。
 
 さっそく沖縄に向かい、世界で一番美しい造礁サンゴがあるという、慶良間にわたるが、、ケラマにはまだコンプレッサーの一台もなく、ケラマ村の田中村長はケラマをマカオのようなカジノを作り、観光客がめちゃくちゃに来る夢をおっていた。
 そして、ダイビング界は、PADI潜水指導協会を含む、日本潜水会、関西潜水連盟、中部日本潜水連盟が大同団結し、九州、東北、北海道にも支部を作る形で全日本潜水連盟が結成され、大きな夢の第一歩として、昭和50年 1975年、沖縄海洋博会場で、ロレックス時計をフルスポンサーにして、水中スポーツの国際大会を開催した。
 開会式、旗手は、現在、日本潜水協会{港湾土木の法人)理事長の鉄さんです。
 

 ニッポン潜水グラフィティの第二のクライマックスであり、ぜひ読んでください。

競技の成績、順位表も掲載してあります。お父さん、お母さん、そしてもしかしたらおじいさん、おばあさんの名前も見つかるかもしれません。


suga@suga.name にメールで冊数と送り先をかいていただければ、成山堂書店より、サイン本が直送されます。
 本は、定価の1割引(=1冊1750円、税込)ですが、送料は、1件(1冊でも100冊でも)390円(税込)です。代引手数料は、ご購入金額1万円未満は324円、= 2464円です。まとめて買っていただけると、お徳用なのですが。一冊では、アマゾンで買うよりも高くなってしまうのですが、こちらはサイン本になりますので、ぜひ、こちらから買ってください。

0724 サイン

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信濃町は、慶応大学病院と創価学会の街だ。グラフィティを出した成山堂書店までの道はほとんど創価学会関連のたてものだ。大聖堂というのもある。一度中に入ってみたいものだが、門仲のお不動様のようなディズニーリゾート風にはなっていない。

信者になれば入れるのだろうか。亡くなった母親がいつの間にか創価学会員になっていた。母親は浄土宗の寺に嫁に行き、やがて夫である、前途有望な坊さんがチブスでなくなってしまい、浜町の待合の女将になり、戦災で焼かれ、いつの間にか創価学会のかなりの地位に上り、亡くなってから弘法大師のお寺のお墓に入っている。生生流転だ。創価学会が尽きると成山堂書店に到着する。

 全部創価学会の建物だ、ひっそりとしてガードマンだけがいる。中に何が?

    成山堂書店

 成山堂書店にきたのは、ニッポン潜水グラフィティのサインをしにきた。この前100冊サインして、今日も100冊、あと一回サインにくればなんとかなるだろう。100冊サインするのに小一時間かかる。明日から書店に並ぶそうだ。僕としては、売らなければならないノルマがあるから、こちらからサイン本を買ってほしい。suga@suga.name にメールで氏名住所を書き、申し込んでください。送料と代引き手数料がかかるので、コーヒー一杯分ほど高くなるけれど、僕も残り少ない人生なので?、きっと値打ちが出ると思う。
  

       サインした本

 もう一冊か二冊、本を出したい。80歳の80m潜水もノンフィクションにしたい。日々の暮らし、ダイビングを積み重ねて80:80に至る。つらい胸突き八丁の日々だから、生き続けるだけで冒険だ。後期高齢者は、毎日毎日が冒険。そんな視点で日々を見て、ノンフィクションのつもりで書いてゆこう。
冒険とはなんだ、探検とはなんだ。ニッポン潜水グラフィティを書きながら、考え続けてきた。夢と冒険を追い続けた、1950-1960年代の潜水、軽い気持ちで夢と冒険と語ってしまったが、本の中で、1964年の100m潜水では、危険な冒険になってしまったと反省したりしている。
  今の僕は思う。冒険とは自分の心の持ちようであって、主観的なものだ。自分が冒険だと思ってチャレンジすれば、なんでも冒険になる。日々の暮らしも、冒険だと思えば冒険だろう。一方、探検の方は、人に評価される記録を残さなければならない。ネス湖とか、ニューギニアとか、コンゴだとか、怪獣を追う探検も、撮影された写真が無いことから、探検がスタートする。記録されていて撮影された画像があり、客観的に正しいという評価を受けて、探検といえる。グラフィティでは、ニューギニアの湖に怪獣を追う探検に行こうという話も書いている。
範囲を広げると、非日常の世界へのチャレンジも探検と言える。PADIは、ダイビングは水中探検だと言っている。言ってもかまわない。それにしても探検だから何らかの記録が欲しい。水中撮影は探検であると言いなおそうか。
  ニッポン潜水グラフィティを書くのは、冒険だった。80:80プロジェクトは、探検だろうか?冒険であることはまちがいない。潜る先になにか探るべきものがあれば、探検になる。いや、潜水はすべて水中世界の探検だと定義してしまえば、どちらともいえる。

    犬の聡太が花火大会の名簿をチェックしている
 夜は石川さん宅へ、グラフィティのサインに行く。90冊、7月26日、両国の花火大会を両国の路上へ茣蓙を引いて、花火を見上げるイベントで売ってくれる。130人を集める、大イベントだ。夕方、雷雨があった。26日は大丈夫だろうか?冒険。

0727 お台場

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 お台場の潜水から戻ってきたのが17時、そしてPCを開いたら睡魔が襲ってきて、気が付いたら19時。2時間脱落していた。昨日の石川亭の花火、そした今日のお台場だから、少しばかり、ひどく疲れたのだろう。

 本格的猛暑という暑さだった。3mmのウエットスーツを着るのが暑い、暑い。
 本格的カメラマン,まみは、昨夜の花火から多摩の方角の家にもどったのが、午前2時、朝起きられないから遅刻とメッセージがあったのに一番乗りの朝に来ていた。
 
 あ、ダイビングコンピューターわすれている。時計と同じにつけているソーラーだから忘れるわけはないと考えていたのだが、辰巳に行くときに着けて行くと、スキンダイビングをカウントしてしまうので、外して、普通のプロテックにしていた。だから、ログが書けない。
 あいかわらず安定がわるく、水深1.5m透明度50cmの水中を転げまわっている感じ。水が濁っているので、カメラを落とすと、拾えなくなるので、曳航するブイをカメラに結んだ。これが悪くて、転げる自分にロープが巻きついてしまう。水深2.5mまで降りると、水が2度ぐらい冷たくて、気持ちがいい。透明度も50cmぐらいは見える。しかし、水深2.5mには、生き物を観察するような岩はなく、ヘドロの海底が続くだけ,それでも、マハゼが多い。マハゼだけ。


 昨日と今日だけ限定の子供たちの海水浴、明日からはトライアスロンがあるので、選手が泳ぐ。人が泳げることを立証しなければいけないから、子供たちを泳がせる。僕たちダイバーは、潜って、健康に異常はない、結膜炎ぐらいはなっている、ことをとっくに立証しているのに、結膜炎はプールででも罹るから、プールなみだ。
 魚はマハゼだけが多いけれど、7月後半の無酸素状態にはなっていない。
 しかし、この生き物の種類の少なさはなんなのだろう。90年代、お台場を子供たちが泳げる海にしようというスローガンを掲げて、クリーンアップを始めたころ、魚もカニも無脊椎動物も定性調査ができるほど多種だった。外来種の地中海ミドリガニが一面に闊歩していた。在来種のイシガニを圧迫するなどと目の敵にされていたが、今は地中海ミドリガニは影も形もなく、イシガニはまみが発見撮影して、50cmはあるような大きさを手を広げて示す。馬鹿な!でもはさみで威嚇していたので30cmぐらいと次第に小さくなってゆく。それでも鋏をふりかざすと20cmはあったのだろう。そのイシガニも2012年までは、そこにもここにもいたのに、今は見つけると自慢するほどに減ってしまっている。
 多様な種が生きられない、単一種になってしまうことは環境の悪化だろうか。
マハゼ、TG-2


 2本目は、すこし潮が満ちてきて、石が水に隠れ、石の陰に潜むカニを見つけられるようにと14時にエントリーした。それでも、石がある2mぐらいまでは透視度30cm以下でまるで見えない。しかし、海底はマハゼが多い。まだ5cmから8cmほどのマハゼが一面に散らばるようにしている。
 他に何もいないのならば、居るマハゼを撮ろう。イノンのライト1本とTG-2,そしてGOPROの横一列のシステムで、TG-2のシャッターを押す。これはこれでなかなか面白い。体もようやく平衡を保てるようになってきて、水深3mでは気持ちよくフロッグキックでおよげる。練習不足というよりも、前回の練習の結果を体が忘れてしまうのだ。2回目の潜水ぐらいで体が思い出してくれる。わりあいとすいすい泳げる。50cmから先はほとんど見えない海底だから、コンパスを見ながら泳ぐ、カメラシステムを持つ両手の左手の手首にコンパスをひっかけて、NEを保てば、出発点にまっすぐに帰れる。計器飛行をしている感じだ。水クラゲに衝突する。エントリーもエキジットも2回目の方が楽だった。


 上がって、体に水道の水をかぶり、スーツを干していると、一天にわかに掻き曇ってきた。夕立のさなかに片づけをすることになってしまった。昨日の花火で夕立が来なくてよかった。

0726 の花火大会

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7月26日、石川総一郎さん主催の両国花火大会。
 お台場潜水と前後してしまった。石川亭の花火大会は、石川さんにとって年最大のイベントである。そしてそれは、僕たち周囲の友人たちにとっても大きなイベントである。特に今年は、僕の出した「ニッポン潜水グラフィティ」の販売もしてくれるということなので、僕にとっても今年最大のイベントの一つになる。
 花火大会は、隅田川と並行している清澄通り、地下鉄両国駅前のあたりの交通を18時から21時ごろまで堰き止めて、東京下町の庶民が道路に茣蓙を引き(最近ではブルーシートを)花火をおよそ30度から45度の角度で見上げて、飲んだり食ったりしゃべったり、庶民のリクリエーションのエッセンス、安い近い楽しみに純粋にのっとっておこなわれるイベントである。
 最初に行ったとき、これはなんだろうと思った。下町、浜町の花柳界に生まれた僕にとって、花火とは、屋形船で、もしくは河岸にしつらえた桟敷(ビルの屋上も含まれる)から見上げるものであり、道路に茣蓙を引いて見るものではなかった。しかし、回を重ねて参加する毎に、これこそが、江戸の昔から下町に伝わっている庶民,お大尽さまではなくて町民の江戸の花火なんだと思うようになった
 
 まず花火大会は道路の場所取りから始まる。花火の10日ないしは半月前に道路の歩道の堰石部分にブルーシートを巻いたものを取り付け、名前を書いたテープを貼り付けておく。そのあとも、散歩のとき、通勤の道すがら確認は怠らない。
 石川さんにとっては、年に一度、下町っ子の心意気がかかっている。報酬は集まる人たちが喜んでくれること、笑顔を見せてくれること、ただ、それだけ一筋のイベントである。もちろん、お代などいただかない。今年は、僕のグラフィティをという目標が一つ加わったから、その2000円をいただく、ただそれだけである。
 おかげさまで、130余人という多い人数が集まってくださることになった。石川さんは大変である。130人分のお刺身をつくらなくてはならない。養殖の鯛と言っても鯛は鯛であり、高価である。そして、夏である。食中毒など起こしたら大変だ。氷の買い出しにも魚河岸に行く。僕はお刺身はやめようという意見を前から持っているが、彼は譲らない。お刺身が無ければ、喜んでもらえないと言い張る。
 
 雨が心配だ。去年2013年は、夜の花火が上がり始めたころに雨が土砂降りになり、引き上げとなった。今年こそは雨が降らないでもらいたい。前日、25日は夕方からの雷雨があった。





 
 地下鉄に乗ると、浴衣姿の女の子が目につく、地下鉄を上がると、もうたくさんの人が歩いている。第一ホテル、日大の高校、そして震災記念堂と並ぶ側は準備の側ではない。その対岸にみんなスタンバイしている。もう、座って宴会を始めているグループもあるが、車道に出ないように、多数のガードマンが警戒に右に左に行き交い、やがて、テープが張り巡らされる。わが石川亭は大所帯である。そして、もう見知った顔がみんなそろっている。順天堂の河合先生も学生を連れてきている。早稲田の学生グループも石橋君が引率できている。彼らがダッシュして茣蓙を広げる。別にダッシュしなくてもいいのだが、ダッシュするのだ。
18時に交通遮断が行われ、一斉に道路に飛び出すのだが、これも、一つのセレモニーなのだろう。緊張が次第に高まっていって、今か今かという空気が満ちてくる。一つの楽しみであり、幸せでもある。石川さんが車を着けて、最後の荷物を下ろす。17時55分だ。
18時を数分過ぎて、ガードマンが制止を解くかとかないかのうちに、テープを切るような感じで、ダッシュで茣蓙がひろがり、石川さん手作りの10人が使うテーブルが13基置かれ、手順良く席割りの紙が貼られてゆく。その間、5分と掛からない。別に訓練をしたわけではないのだが、楽しんでやっているから息がそろう。
 指定の座について、まず、とりあえず、ビールから宴会が始まる。僕は例によってコーラだが、かたくなに禁酒しているので、これだ。
 鶴町のお母さんと、三ツ橋千沙がグラフィティの販売をやってくれる。お金とひきかえに本を渡す。鶴町のお母さんは、僕のリサーチダイビングの最後の本格的バディで、彼に任せておけば、僕は何もしないでも調査が終了し、その結果も間違いがなかった鶴町の奥さんである。鶴町と僕との付き合いは、グラフィティに書いている。その鶴町の奥さんは、今では、いつの間にか、僕たちのグループの中心にどっかりと座をつくっている。鶴町の代わりに僕を援けてくれている。ただそれだけで何もない。僕のために、できることは何でもしてくれるといい、本当に何でもしてくれる。

 鶴町の娘の美帆と映美は、僕の娘同然だけれど、今夜は残念ながら顔をみせていない。その代りに、映美の勤めている会社が記念のブックマークを作ってくれたし、美帆は、石川亭の看板を書いてくれた。良い看板で、石川亭が続く限り、看板になるだろう。写真は魚料理研究家の宮内さんが撮ってくれたもののコピー、

 たくさんの人と話をしたので、そのすべてを書くスペースもエネルギーもないが、山入端きよ子さん。彼女は沖縄の人で、僕と舘石さんの間がしっくりしなくなった頃に舘石さんのアシスタント、兼モデルになった。それでもなぜか、僕の撮影のモデルもやってくれたりした。舘石さんと僕は、舘石さんが亡くなってしまうまで、社交辞令としてはともかくとして、残念だけど、打ち解けた昔に戻ることはなかったが、グラフィティは、僕の視点からみた舘石さんの物語でもある。素晴らしい人だったと思う。今生きていれば、どうだろう。多分、昔の笑顔を見せて、手を握ってくれて、僕はきっと泣いてしまうだろう。グラフィティ=センチメンタルの塊でもあるのだ。そのきよちゃんと僕がいま石川さんの仲介で大の仲良しになり、花火で話し合っている。生生流転とは、このことだろうか。

 辰巳で一緒に泳いでいるヴィーナスたちも来てくれた。未来ちゃん、純子ちゃん、佳苗ちゃん、羊子、羊子が浴衣に着かえてきて、美人に見えたけれど、ごめん、写真を撮っていない。毎度忘れ物をするが、この花火の忘れ物は、羊子の浴衣を撮らなかったことだ。
ほとんど全部の人とお話ししたので、そのすべてを書けない。

     石川さんと奥さんの笑顔、
 来てくれた人たち全部が楽しそうだった。最後の大仕掛けな花火まで雨も降らなかった。そのあとも降らなかった。全面的に降らなかった。

 娘の潮美も来てくれて、石川さん宅の二次会まで来てくれた。例によって、狭い(失礼)スペースに缶詰的に詰め込む二次会は、これぞ下町のパーティであり、気持ちが休まる。
 石川さんの奥さんもたいへんだけれど、嬉しそうな顔をしていた。清水まみは、花火が終了してから、石川さん宅の後片付けにだけのように来てくれていた。なんと、花火は見ないで、後片付けだけに遠く三鷹の方から来てくれるのだ。みんなが楽しければ石川さんは幸せであり、僕も楽しい。楽しいことをモチベーションにして、大きな目標を立てて、邁進したい。いろいろな考えがあって当然だが、いろいろな考えをまとめて行くリーダーシップの根源は、一緒にいて楽しいこと、政治活動とか金儲け活動はともかくとして、リクリエーション活動について言えば、皆が楽しいこと、それ以上のターゲットはないように思う。これは、言うは易く行うは難いのだが、石川さんをはじめとして、若い人たちまで、とにかく花火大会は楽しかった。

 トウキョウアクアラングサービス -1

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 グラフィティを買っていただきたいお願い、出版記念会のお知らせの通知を350通、ようやく終えて、メール便に出して、新宿御苑前の「トウキョウ・アクアラング・サービスを訪ねた。「トウキョウ・アクアラング・サービス」は、グラフィティにも書いている1962年に青木大二さんが創立した店で、それよりも前にあった「太平潜水」が消滅してしまった今、東京で一番古いお店だ。

  そのころの日本潜水科学協会機関誌ドルフィンへの広告




 忘れないうちに書き出しだけは書いておかないと、続かないので、アクアラング・サービスを出て、地下鉄に乗るその向かい側のタリーズのテラス席で、アイスコーヒーとドーナッツを食べて、ちょっとキーボードを叩いている。

 1962年、東京オリンピックの年に生まれた青木大二さんのお店の話は、グラフィティにかいた。それは、屋根裏のような4階のビルにあり、その頃は、アクアラングのタンクはそれぞれのダイバーが買い、東亜潜水機は青木さんの売ってくれたタンクを、工場で充填し、青木さんのお店に出前しなければならない。なんでエレベーターのない4階にお店を構えるのだ、と呪いながら、10数本のタンクを担ぎあげて、ほっと一息ついたら、神宮の国立競技場での東京オリンピックの開会式が、その4階の窓から見えて、ブルーインパルスが描く5輪のスモークが見えた。今でも目に焼き付いている。

 それが、新宿御苑の裏門近くの一階に引っ越してくれて、僕と、そのころのアシスタントの安森君には大変な救済になった。それでも、ミゼットの三輪車に10本のタンクを載せて、まだ路面電車が走る東京の街を、南千住から新宿まで出前をする。青木さんもスバルサンバーという日本軽自動車最大の傑作と思える車で引き取にきてくれたからなんとかできたが、とにかく、そういう時代だった。
 しかし、ダイビングに使うすべてのタンクを僕たちが出前するわけではない。そう、今の人たちには想像もできないだろうが、アクアラングをする人は、タンクを買うと同時にコンプレッサーも買わなくてはいけなかったのだ。
 今、気づいた。そのころのアクアラング潜水で一番重要なポイントであったコンプレッサーのことをニッポン潜水グラフィティでは詳しく書かなかった。僕の記憶力が抜群であるとほめられたが穴が開いていた。もしかしたら月刊ダイバー誌で続編、補遺がかけるかもしれないそこで書き足そう。なにはともあれ、ここでコンプレッサーの話を続ける。
 それは、いくらなんでも個人でコンプレッサーとタンクを買うわけには行かない。グループで買う。二人か三人でグループを作って買う。もしも、3人で買うとすれば、コンプレッサーと3本のタンクを車に積めばどこまででも行くことができ、どこにでも車を止めて、潜水して、その場で空気を詰めて、また移動して行くことができる。
 このコンプレッサーこそが、わが東亜潜水機の佐野専務が率いる機械場の主力製品の一つだったのだ。ああ、夢と冒険を負うことに忙しく、コンプレッサーのことを忘れていた。
 コンプレッサーにもいろいろある。ヘルメット式潜水機の送気のための低圧コンプレッサー、これは50mまで潜るとしても、6気圧まで上げられればいい。実用的には4気圧まで30mまでカバーすればいいので圧縮は一段のピストンアクションで済む。やや小さいマスク式潜水機のコンプレッサーもあったが、東亜潜水機ではあまり力をいれていなかった。ヘルメット式のコンプレッサーでマスクを使えばそれだけ余裕がある。
 さて、150キロまで圧力を上げなくてはいけないこれは一段圧縮では絶対にできない。
常識的には三段の圧縮になる。第一圧縮で、10キロ程度まで上げる。二段目で50キロぐらい、最後の三段で150キロまであげる。三段に分けて考えると、圧力が高くなるほど、充填効率が悪くなることが理解できる。その三段圧縮を佐野専務は、エイッとばかりに2段にしてしまったのだ。三段を二段にすれば、大きさも小さくなる値段も安くなる。二段減圧のPHC(ポータブル、ハイプレッシャーコンプレッサー)は、小型ガソリンエンジンと組み合わせて、その頃の価格(潜水読本:山下弥三左衛門)を見たら、80000円とある。ええっ、80万ではないのか?しかし僕のその時の月給が3万円だ。8万円は安くはない。そのときに僕が作っていたTOASCUBA レギュレーターが2万円、タンクが1万7千円となっている。
 三人でグループを作れば、ポータブルコンプレッサーは買えない値段ではない。

 
 3段圧縮を2段に省略したPHCは、(ピーエッチシーと呼んだ)は、やはり圧力が高くなると効率が極度に悪くなる。当時のタンクは標準で120-150キロで、国産および、消火器改造型は120まで充填した。それでも100-120の間は、ゲージが全然上らない。トウキョウアクアラングサービスでも太平潜水でもクラブを作っている。クラブ員の人数は10から30、そして100へと次第に増えて行く、その空気の充填が大変だ。
 伊豆の下田方面にトウキョウアクアラングサービスのクラブが遠征するのに付き合ったことがある。20人ぐらいだったと思う。もっと多かったかもしれない。まず、一日潜って、夜はコンプレッサーでのタンク充填になる。夜通し充填しないと、明日潜れない。交代で充填する。ガソリンエンジン付きのコンプレッサーである。
 タンクとコンプレッサーは荷台に幌のついた小型トラックで運んでいる。
 雨が降ってきた。その時、僕はなぜか空気充填を見回りに行った。虫の知らせかもしれない。エンジン付きコンプレッサーを荷台の幌に雨宿りさせてエンジンを回そうとしている。あわてて止めた。明日の潜水で、一酸化炭素中毒でごろごろ人死にがでるところだった。
 PHCは水冷のコンプレッサーだったから、冷却水をバケツに入れて、コンプレッサーに付属している小型冷却水ポンプで水を回す。バケツの中の水が汲みあげられ、また戻されて循環する。次第に水が温まってくる。冷却効率が悪くなると、コンプレッサーが熱くなる。コンプレッサーのピストン部分を手で触ってみて冷たければ大丈夫、熱くなって触れないほどになると、潤滑油が蒸発し始めて、コンプレッサーは一酸化炭素発生器になる。
 知ってのとおり、一酸化炭素中毒は致命的になりうる。
 話は飛ぶけれど、この小型コンプレッサーをずいぶん後になっても使っていたグループがある。僕がコーチをしていた東京大学海洋調査探検部である。探検だから、エアーサービスの無いところでも潜りに行く、のが建前である。毎回の遠征にはコンプレッサーを持って行く、離島でもエアーサービスができ、エアーサービスの前でコンプレッサーを回して充填するような様相になった。空気充填はガスの質の問題だけではなくて、タンクの破裂の可能性もある。充填している時のタンクは不安定である。だから充填所はコンクリートの壁で囲い、タンクが撥ねても上に向かうように天井はプラスティックの波板にしたりしている。そのコンプレッサーに東大生が付き添って充填する。コーチとしては、やめさせたい。何度もやめるように言った。しかしOBたちが聞かない。タンクを自分たちが充填することが探検のアイデンティティなのだ。その先輩たちも僕が教えた子供だった。成長してえらくなったりしている。
 やっとの思いでコンプレッサーを取り上げたら、今度は硫黄鳥島に遠征するという。そこにはエアー充填施設がない。自分たちで解決できたのだろう。

0803 グラフィティ外伝、 トウキョウアクアラングー2

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 トウキョウアクアラング・サービスのオーナーは、初代が青木大二さん、二代目が内藤君、三代目が浅芽君、そして四代が島田君になる。三代目までは親交があったのに四代目とは没交渉ではさびしい。幸い、島田君はフェイスブックのお友達になったので、そして、今度のニッポン潜水グラフィティでも青木さんをかなり書いたので、訪問することにした。

 今書いているトウキョウアクアラングサービスのことは、ニッポン潜水グラフィティ外伝とでもいうべきもので、外伝を読んだらぜひ本編も買って読んでください。
 申し込みは、suga@suga.name までお願いいたします。
 
 さて、まず初代の青木大二さん、この人のことはニッポン潜水グラフィティにかなり書いたが、外伝だから、、、、

 これは、彼の著作 「アクアラング入門」(1968 の表紙裏の写真だが、蝶ネクタイがきまっている。およそ、ダイバーらしからぬ風体だ。そう、彼は、下北沢でバーのオーナーをやっていた。1962年だったか、バーの深夜営業が禁止されることになった。これをもってバーが儲かることはもうなくなったと彼は見切りをつけた。バーはその後も繁栄したから、やめることもなかったのだろうが、とにかく大儲けの時代は終わったと彼は判断した。
 ある日、僕とアシスタントの安森が、コンプレッサーで空気を詰めていると、社長に呼ばれた。行くと、丸い人がいた。社長に紹介された。この人が今度アクアラングを売りたいというので話に乗ってやってくれという。どの視点から観察してもこの人はダイバーとは思えない。漁師でもない。海の男ではない。なぜこの人が、と思った。青木大二さんとの出会いである。
 当然のことながら、僕はやめた方が良いと忠告した。以後僕がやめた方が良いと忠告した人の大半は成功しているが、その第一号だった。
 青木さんは言う。「須賀さん、あなたはアクアラングの専門家でしょうが、僕は「お金儲けの専門家なのです。大丈夫です。儲けます。」僕はこの時に初めてお金儲けの専門家という言葉を聞いた。後に僕たちは青木語録というのを作ろうとした。作らなかったので、今そのほとんどを忘れてしまったが、惜しいことをした。いくつか覚えているので紹介しよう。グラフィティでは、順序立てて記憶を引き出して書くことができたが、外伝になると、もうだめで、いくつもの話の前後がもうわからなくなっている。
 青木さんは陸上の鉄砲撃ちが趣味だった。トウキョウアクアラングサービスのキャッチフレーズの一つ、「もう陸上の狩猟は終わりました。もう日本の陸上には大物は居ません。海は大物の宝庫です。これからの狩猟は水中です。」
 だから、当然、青木さんのダイビングクラブは狩猟クラブである。その頃のダイビングショップはクラブと並立している。クラブなのかショップなのか定かではない。そのショップでダイビングを習った人は、たいていの場合そのクラブに入る。クラブには、会長という人が居る。ショップオーナーが会長になっても良いのだが、商業政策上、別に会長が居た方が有利である。だから、クラブを作るとたいていの場合会長をつくる。お金持ちで、一番いいお得意さんか、あるいは一番面倒見の良い人を会長にしてしまう。
青木さんのクラブの会長は、松沢さんという水道工事屋さんだった。1967年に日本潜水会ができたとき、松沢さんに事務局長をおねがいした。その松沢さんも泳げないのだ。その松田さんの親友で大野さんという鉄工場経営者もいる。彼が副会長でこの人は足を引きづっていて、そしてやはり泳げない。青木さんも泳げない。
 後に「泳げなくても潜れます」というキャッチフレーズがどここの団体が掲げた。その時、日本潜水会は、あれはとんでもないと言ったが、何、自分たちの仲間は泳げないハンターであふれていたのだ。ここで泳げないというのはフィン・マスクを外したら泳げないという意味で、フィンを履いて魚を殺すことについては、みな一流であった。
 話はプッツンプッツンと飛ぶけれど、どうでもいい話、本当にグラフィティ(落書き)をしているので、思い出したことを書いている。このまま続ける。


 青木さんの「アクアラング入門」が1968年、僕たちが日本潜水会を結成してスピアフィッシングをやめ、水中銃をカメラに持ち替えたのが1967年だ。しかし、青木さんの本では堂々とアクアラングで潜りながら魚を突いている。挿入された写真のほとんどが、水中銃を片手にしている。
 どういうことなのだ。といったってだめだ。ニコニコと笑顔を返されるだけだ。やがて、全日本潜水連盟を作るのだが、その全日本潜水連盟も関西支部はスピアフィッシングをやめようというそぶりさえ見せない。漁師が、漁業組合がOKならば、OKなのだ。スピアフィッシングをやる人は絶交というわけには行かない。青木さんのトウキョウアクアラングサービスは、僕の勤務先東亜潜水機の特約代理店で、売り上げが大きい。
 青木さんのセールストーク、2台のレギュレータを取り出して、「これは、東亜潜水機の須賀さんという日本一の技術者が作ったものです。2万円です。こちらは世界の名器、アクアマスター(日本アクアラング)で2万八千円です。東亜でも大丈夫ですが、命の惜しい人にはアクアマスターをおすすめしています。」さてどっちだ。50:50で、命の惜しくない人が50%だ。
 だから、僕は自分では、1967年以来スピアフィッシングは決してやらなかったが、周辺についてはグレイにせざるを得なかった。

 青木さんはあるとき、ふるいつきたくなるような美女ともぐっているといったけど、これなのか?
 この程度だと、今、辰巳で石を投げたら、当たるな。


 しかしながら、世の中の流れ、そして新しい若いダイバーたちはスピアフィッシングはやらない。スピアフィッシングをやらないことが前提で、現在のダイビングスポットが成立している。日本潜水会で僕たちが決めた決議は正しかったのだ。
 青木さんがトウキョウアクアラングサービスを2代目の内藤君に譲ったのがいつだったのかさだかにおぼえてはいない。仮にだけれど1975年の沖縄海洋博の時にはもうやめていたのではないかと思う。2代目の内藤さんに聞けば正確なことがわかるが、もはや彼もいない。三代目の浅芽君に聞きに行けば分かるかもしれないけれど、どうでもいい。
 もしかしたら、スピアフィッシングの中止が、青木さんにこの商売の見切りをつけさせたのかもしれない。深夜営業禁止でバーに見切りをつけたように。
 青木さんはアクアラングをやめて、ボートを販売する青木ボートというお店を環八沿いに作った。その後さらに何年か経ち、僕がヤマハのボートを改造して調査撮影の道具を作ろうとしたとき、青木さんの紹介でヤマハボートに行った。驚いたことに青木さんの紹介だというだけで、下にもおかないサービスをしてくれる。聞けば、青木さんは中古ボートのトップセールスなのだという。中古ボートを売るのもアクアラングを一台売るのも、ほぼ同じ労力とするならば、中古ボートの方が利幅が大きいはず。青木さんはダイビングの専門家ではなくて、お金儲けの専門家だったのだ。青木さんにお目にかかったのは、そのボートのお世話をしてもらった時が最後だったとおもう。その後、日本潜水会が1982年から親睦のパーティを毎年行うようになり、お誘いしたが、まだ海への情熱は消えたわけではないから陰ながら応援しますという返事をもらった。
 そして、風のうわさに聞くと、ボートやさんもやめて、パラオで焼き物を焼いていて、芸術家になったと聞いた。そして少し前に現在のトウキョウアクアラングサービスの島田さんに、青木さんが何年か前に亡くなられたことを聞いた。芸術家をやっていた時に会えなかったのがとても残念だ。
 そして、僕はダイビングよりほかに生きる道がない。

0807 26-28

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沢木耕太郎の深夜特急 文庫で全六冊の6まで来て、イタリアのジェノバにいる。この本を読むの、前に読んだ気がするのではなくて、はっきり二度目だとわかる。好きな旅行記、好きな文章だ。そして、この夏、僕はイタリアに行く。これを機会に、その周辺の事を読んでおこうとも思った。日本のヒッピーの聖典ともいえる旅行記の旅行を沢木耕太郎がしたのは、26歳から28歳のようで、26歳ということは文中によく出てくる。26歳から27歳、まだまだ将来、未来はたっぷりあって、世の中のこと、自分の生き方も模索中ではあってもだいたい輪郭は見えている。実は見えていないのだけれど、見えているように思える。
 その26歳から28歳、僕は100m潜水という意味があるようなないような冒険に挑み、その話が今度出版した「ニッポン潜水グラフィティ」の中心になっている。その前の年だと思う娘の潮美が生まれている。そのあたりの家族のこと、生活のことをもっと書き込んだら、もっといいノンフィクションになったのかなあ、と思わないではない。しかし、それは出来ない。幸せだったことを振り返るのは悲しい。海の中の事とか、冒険とかは書ける。

そのころ、オリンパスペンで撮っていた。たくさん撮ったのに、渚の波にさらわれて、残ったのはフイルム5本分くらい。

 昨日だったか、できた本をもって、沿岸生態系リサーチセンターという大仰な、しかしわかりやすい社名の会社をやっている宮内(JAUSの理事)のところにいった。ぱらぱらとみて、読みやすい良い本だとほめる。そして、この本は潮美が書いたものだろうという。いや、間違いなく僕が書いた。月刊ダイバー連載中、書き直しの連続で、鬼のような編集者ではあったが、間違いなく僕が書いた。しかし、宮内は間違いなく潮美の文体であり、僕とは違うという。もちろん編集者としてのリライトもしていて。そのリライトが気に入らなくて、争う(心の中で)こともあったのだが。宮内は僕のブログをよく読んでいるらしい。だから、このブログも読むだろう。ありがたい愛読者なのだが、ブログなんかを書くやつは馬鹿だともいう。それはそうだ。原稿料なんてもらえないのに、書く。日記を書くやつはもっとバカだと反撃しようとしたけれど、宮内はもちろん日記も書いていないだろうから、そうだ、といわれて、日記を書く奴とブログを書くやつは馬鹿さ加減で優劣つけがたいという落ちになってしまうだろうと思ったから黙った。
 書いたのは間違いもなく僕だが、この本を作ったのは潮美である。あとがきにも謝辞をのべた。
 その潮美が生まれたころのころなど、書けない。もしかして、いつの日か、そんな日が来るほど僕の人生は残されていないけれど、もしも書けたら書きたい気もする。

0808 後期高齢者

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 後期高齢者とは、必ずやってくる死を前にして、限りある、未来のない短い時間を過ごすことだ。昔は隠居という形が一般的にあった。隠居と言う時間が死の前に必ず必要という考え方もある。でないと、社会に迷惑をかけると思われる。しかし、今日本は、あと何年か先、人口の一番多い年齢組成が隠居の時代を迎える。東京オリンピックなどと浮かれているけれど、ちょうどその時期に全員隠居になり、さらに、その後には、その多くが車いすに乗ったり寝たきりになったり、徘徊したりする時代になる。自分にとってもそれは避けられないのかもしれない。しかし、僕はチャレンジャーとして、ダイバーとして生きてきた。最後の日までチャレンジャーでありたい。ダイバーでありたい。
 チャレンジャーではあっても、ダイバーではあっても、死は一歩ずつ近づいてくる。判断力の衰え、優柔不断、間違いがおおくなり精神的に不安定になる。あるときにはどん底まで気持ちが沈み、ある時にはハイテンションになる。出来うる限りは、クールに判断して、生きて行こうと努力する。しかし、それは努力であり、努力が切れる時もある。それを後期高齢者だからと、認めるのは嫌だ。しかし、後期高齢者という称号を送りつけようとする。侮蔑と思うけれど、迷惑をかけているのは事実だから、怒ることはできない。

    1969年の水中グライダー

そういう日々を送る。
後期高齢者になって、試行錯誤で学んでいる。そんな中で、月刊ダイバーの続きが決まりそうで、アウトラインを考えなくてはいけなくて、それはマル秘で、ブログにはのせられない。
そして、8月29日はイスタンブールに飛んで行く。イスタンブールからイタリアに向かう。中尾先生が、地中海の無脊椎動物の採集に行くのに、付き合う。言葉もしゃべれないで役に立たないと辞退したが、多分、僕を慰める気持ちが半分で、どうしても来てくれと言う。やさしい人なのだ。そして、イスタンブールとかジェノバ、ベネチアは、一回は行きたかったところだ。

そのまえ、8月11日の辰巳は、17時から19時というがらがらの予定。なので、北海道の工藤さんの紹介で、ロゴシーズの提供を受けられることになっていて、テストを11日の辰巳でやる。
やった結果はまた書くとして、明日8日は、芝浦工大ダイビングクラブ顧問の足立教授と、東亜潜水機に行き、新しい潜水機のデザインを検討する。
これまで、ニッポン潜水グラフィティの中心になった1963年の100m潜水は、送気式フーカーにフルフェイスマスクを使って、水面と通話しながら潜水する方法の追求だった。詳しいことはニッポン潜水グラフィティを読んでもらうことにして、その次、60歳の時の100mリベンジ潜水は、テクニカルダイビングを目指した。テクニカルダイビングとはどういうものなのか知らなかったのだ。だからテクニカルと言えばテクニカルだが、基本はシステム潜水と言うハイブリッドになった。
この葛藤については、もう一度月刊ダイバーが短期連載してくれることになりそうだ。
そして、後期高齢者として、高齢化へのチャレンジとして行う予定の80歳での80m潜水は、後期高齢者でも安全に80mという中深度にもぐれる潜水機を開発する。80歳で80mに潜れる潜水機ならば、65歳までは深度潜水作業げできることになる。
そのためのコアになる新しい潜水機を作る。これを古巣である東亜潜水機に何かにしようと思うのだが、もはや東亜は高い技術のコンプレッサーメーカーが主体になっているから、あまり、必要がないかもしれない。しかし、芝浦工大の足立先生がデザインするのだから、芝浦工大のダイビングクラブのシンボルになるかもしれない。そして、それを中心にして関東学生潜水連盟のいくつかの大学の研修材料になるかもしれない。
学生の潜水は、人力飛行機のように、学生の潜水のコアが必要とかねがね思っていた。ただ、学連合宿で泳いだり潜ったりするだけではなくて、中心になるハードがあれば、安全性が高くしかも面白い。ずいぶん昔になるけれど、僕が母校の東京水産大学潜水部のコーチをしている時、曳行する水中グライダーを中心テーマにしたこともあった。その時の卒業生が後に日本のダイビングのコアになったのだが、彼らもすでに亡くなった人が多く、引退した人も、現役で残っているのは海洋リサーチ社長の高橋実だけだ。しかし、このグライダーの効果は大きかった。

0809 80-80 &東京湾

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   写真が前後するけれど、「神の子池」
 


 一日に一つのことしかできなくなっている。後期高齢者の頭のめぐりはその程度だ。後期高齢者とは、死ぬまでの死を前にした、一つのステージだと思う。そのステージを隠居という形でおだやかに過ごすことが日本の伝統かもしれない。しかし、死ぬまでにやっておきたいことがあれば、やっておかなければならないと突進する人もいる。僕は、隠居では死にたくない。戦場で倒れることが本懐だ。人にご迷惑を多大にかけている。

 昨日、8日には古巣の東亜潜水機に行って、社長の佐野弘幸氏と、芝浦工業大学ダイビング部顧問の足立先生に僕の80-80計画の新しい潜水機を作る計画の打ち合わせに行った。東亜でその骨格を作ってもらう。そのデザインは芝浦工業大学ダイビング部におねがいしたい。東亜の社長である佐野弘幸氏は芝浦工業大学ダイビングクラブの祖であるtその祖が、小学校高学年の時に、僕は東亜を去った。たくさん、たくさんの水が荒川鉄橋の下を流れた。
 

 東亜潜水機では、僕が、一緒に働いていた仲間の息子たちが働いている、左が安森君、右が亀田さん
 二人とも面影がお父さんに似ている。タイムスリップしたような気分

 このようなな潜水について、新しいデザインの潜水機を作るという試みは、多分、日本で初めてだろうと思う。その詳細については後日、足立先生からのスケッチが上がってきた時にお話ししよう。とにかく、お二人ともご迷惑そうだった。

 8月9日は、元、電通映画社プロデューサーの神領氏を訪ねて、川崎まで出向いた。
 話すことはたくさんある。まず、映像のこと、引退したとはいえ彼は映像のプロフェッショナルだ。カメラを構えて僕のことを撮る。僕もそれをAEEでとる。ウエアラブルカメラを含めた映像の話、映像、動画はすべて4Kでとらなくてはいけないと言われる。4Kもいいけれど、処理が僕ではできないので敬遠している。いや、あと2年したら、すべては4Kになり、4Kで撮っていない映像はすべて無価値になる。彼の構えているかめらは、当然4Kだ。


 今日の話の主は、僕が彼のプロデュースのもとに撮った衛星チャンネルのフリーゾーン2000の映像を、ちょっとした集まり(JAUSのマンスリーなど)で流してもよいのだろうかという問いとお願いだ。もはや、フリーゾーンを制作した衛星チャンネルという会社は存在していないから、著作権なんてあるようなないようなことになっているから「いいんじゃない」ということだった。
 衛星チャンネルで僕が作った番組は、「南海に沈む駆逐艦追風」「アラスカの熊」「サメのさまざま」そして、「東京の川シリーズ」だ。「東京の川」は、1990年代の東京の川を撮影して、記録にのこしておこうという番組で、変わってしまった今見てみることも意義があり、そのためにこそ、この映像を撮ったものだった。

 神領さんと言ば、東京湾の環境問題の一時代を作った人でもある。電通の予算で、東京湾海洋研究会というグループを作った。川崎で熱心に環境活動をやっていた安本君も神領さんの紹介であって、川崎浮島の海に潜り、それから親しくなった。残念なことに癌で余命がいくばくもなくなり、まだ、お元気なうちにお別れの集まりがあり、それを、やはり東京湾の木村さんから知らせられて、飛んで行った。その席で、彼が僕の後のよみうりランド竜宮城の水中舞台監督をやったことがわかった。水中舞台監督って、要するにインストラクターのことだが、思い出の話が咲いて、「もう一度一緒に潜ろう。再見!」と握手して別れたが、残念なことにもう一度はなかった。その安本君のお別れの会に、急だったこともあり、神領さんに知らせなかった。その時の雑談の中で神領さんの名前がでて、「あ、神領さんに知らせなかった。」と気づき、そのことが神領さんにももうしわけなく、ずっとトラウマになっていた。そのことを気にしていたとはなすと、彼は全然気にしていない。適当な適当「良い加減」をモットーとしているプロデューサーで、一緒に仕事をしていてつかれなかった。彼と一緒に撮った一番の作品は知床清里の原生林の中、ぽっかり開いた青い瞳「神の子池」の撮影だった。
 神の子池は、僕たちがあまり足しげく通うものだから、清里の町役場になんだろうと不審におもわれ、開発されて公園になってしまった。
 話を東京湾にもどして、東京湾海洋研究会というのが神領プロデューサーが作った東京湾の会で、電通がお金を出してくれたのだが、お金は長続きせず、3年ほどで、でなくなった。そのためにこの会は散り散りになったが、その会のメンバーが各地の活動のルーツになっている。
 そうだ、神領さんを囲む東京湾の同窓会をやろう。
 僕は転んでもただは起きない。その時に、今僕の抱えている「江戸前復活」プロジェクトの発表会にしよう、まだ発表できないが、神領さんに話すと乗ってきて、「80歳の80mは、それはすごいけれど、何の役にも立たない。東京湾のプロジェクトの方が先だ。」「では、神領さんもなにか役割をはたしてくれますね」「いや、もう僕には何もできない隠居だから。」「電通のようなお金がでないこと100も承知ですよ。隠居仕事の応援で」「映像のまとめぐらいはしてあげるよ。」ということになった。
 早く、企画書をまとめなければ。
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