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0604 TG-2 ホワイトバランス

 水中撮影って、ある意味で、水そのものを撮っている。どこまでも透明な辰巳国際水泳場でも水を撮っているし、透明度50cmのお台場でも、水の微妙な透明度?色合いの変化を撮ろうとしている。
水の色合いをどのように映し出すかということは、長らく、カメラマンとしての僕の課題であった。モノクロ撮影の時代は、色がないだけに、その色を感じさせることが重要だったとはいえ、濃淡と光で表現するわけだから、写真は光の芸術だとか言われていたし、そんな風に努力した。 今でも、もちろん光と影だけれど、それに色が加わった。

自分のだしたい色、好きな色を映し出したい。
今、このごろ、あまりこだわらないで、忘れ去っていたホワイトバランスに心が向いている。撮ることを仕事にしていた時代、1番こだわっていたのは、環境映像を撮っていた1980-82年のとき、そしてその時のノウハウを生かして、ニュースステーションの潮美の番組を撮りはじめたころだから1986年、ずいぶん昔だ。それでも、ホワイトバランス操作の実際をしていたのはVE ビデオエンジニアで、僕は、気に入らなければ取り直しを命じていただけのことだったのだけれど、うるさかった。
空気の色は撮れない。水の色は撮れる。だから、水中撮影は光と影だけではなくてその場の水を撮ることでもあると思っていた。
このところこだわり続けてきたGOPRO が、ホワイトバランスを操れない、HERO 3では、操れるのだが、一度やってあきらめた。後処理とも関連しているようで、ビデオエンジニアがいないと難しい。そんなスタッフは、目下のところいない。
だから、GOPRO は、カメラ任せにしている。そのうちにこれもはまるかもしれないけれど、今のところはオリンパスのTG-2だ。触れば触るほど、欠陥が目についてくるけれど、いいカメラで、売れたのも頷ける。
まず、その色がオリンパスブルーとかで、青い。青いことは悪くはないのだけれど、操れる者ならば、操りたいと思った。
ごく普通のコンデジと同様に、TG-2も、オートホワイト、太陽光、曇り空、電灯、蛍光灯、SCN(すでに設定されている)そしてマニュアル設定が二つある。
自分でマニュアル設定をしようと試みた。その成り行きについては、このブログにも書いている。これが、間違いだった。間違いとも言い切れないまでも、最初の段階としては別にやることがあった。
マニュアル設定は無視して、オート、太陽、くもり、電灯、蛍光灯、そして、お魚マークの3種類を試みて見るべきだった。原点にもどらなければ、いけない。
オートホワイト、これはおおむねいい色がでる。しかし、これは向ける被写体の色にあわせて調節してくれるオートだから被写体が黒いものか白いものかで変わって来る。ほぼ 運まかせだから、運まかせを選定したことになる。その選定も悪くは無くて、だから、ホワイトにはこだわらないという人が多くなる。
一般的に、太陽光にしておくことが、水中撮影では基本である。ストロボは太陽光を再現することに努力を傾けてできた光だし、浅い水中は太陽光で撮るのがよいとされている。

忙しいので、結論を言ってしまおう。辰巳も浦安も屋内しかも夜であるから太陽光ではない。しかし、太陽光でもオートホワイトでも、ほぼ同じような色がでる。この結果はTG-2のものであり、カメラが違えば結果も違うだろうが、まず、水中では、オートホワイトと太陽光で撮って比べてみるといいだろう。その結果はほとんど大差がなく、きれいな水の色になる。オートホワイトよりも太陽光の方が安定しているだろうから、すべて太陽光で行ってしまって、はてな?とかんじたときに曇りにしてみる。ただし、TG-2 の場合、P、プログラムモードでは、オートしか選択できない。SCN の水中ワイドの1か2にする。ただし、辰巳のように透明度の高い水中では、ピントを固定してしまうと、遠くはぼけてしまう。どうせ遠くは見えない水中だからということで、遠くは捨てているのかもしれない。

辰巳及び浦安の透明なプール TG-2 使用
① SCN 水中ワイド1
② 太陽光

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    目下のところの結論、太陽光

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    SCN  水中ワイド2で設定されているホワイト、太陽光を選択することもできる。上の写真

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     ホワイトバランスをマニュアルで設定した 辰巳 

マニュアルでホワイトバランスを設定してみたが、これは蛍光灯と同等程度に青い。


0606 あとがき

 ニッポン潜水グラフィティ の単行本化、初校の締め切りが明日、おおづめにきている。
 「あとがき」これで何回かきなおしただろうか、10回かな。単行本を作るということ、大変な冒険だ。
 これは、多分3回目かの「あとがき」だ。書いているときは、良いと思ったのだが、没になった。
 今完成した10回目にくらべれば、やはり、これはダメだ。

 なお、写真はアイキャッチャーで、あとがきには直接関係はないけれど、本文とは関係がある。1980年、釜石湾港防波堤工事を始めた時の工事写真、黒板を持っているのは、潜水監督を頼んだ田淵君、僕ももちろんもぐっているけれど、潜水監督は僕はやらない。混合ガス潜水のトップ(水面でのディレクター)は、別に立てる。ところで、田渕君、どうしているだろうか。自分のチーム、もしくはチームだった人、一人ひとりについて、どうしているだろうと思うことが多くなった。しかし、思うだけで、どうすることもできない。
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  あとがきにかえて、冒険と探検そして潜水、夢

 夢と冒険を追って、水中探検を目指した。この本のコンセプトだ。では、夢とは?冒険と探検はちがうのか?僕は、そんなことは、何にも考えなかった。ただただ、海に潜りたかった。だから、これは79歳になった僕の後知恵、つまりあとがきだ。
 人間には鰓がない。水中では呼吸をつづけられない。海水浴も、スノーケリングも、潜水も常に危険。昔の人は、「板子一枚下は地獄」と言ったものだ。板子一枚下は冒険の世界である。冒険とは生きて還ってくる、安全の追求でもある。ダイバーにとって、潜水とは冒険である。
 水の中は、いつも未知の世界。江戸っ子である僕の故郷の海、100回以上潜っている、透明度が平均1メートルのお台場の潜水でも、潜るたびに発見がある。僕にとって、そしてすべてのダイバーにとって、探検とは潜水の事。山登りの人とか、にはまた別の結論があるにちがいない。
そして、ダイビングの事故は、想定外、つまり冒険として身構えていない隙に起こることが多い。常に冒険だと思って恐れ準備をしなければならない。でも、冒険だからパーフェクトはありえない。
 潜水する人のことを昔は潜水夫と呼んだ。この頃では潜水士と呼んだり、ダイバーと名乗ったりする。潜水夫という言葉も好きだ。「潜水夫魂」と書いたT シャツを作りたい。しかし、やはり自分のことはダイバーと名乗り、書くときは「潜水」と書くことが多い。
潜水とは、まずは息をこらえて潜る。スキンダイビングと呼び、ダイバーの基本教養だ。海女さん関係は素潜りという。だいたい10mぐらいまでを潜る。高齢になった僕でも楽にできる生涯スポーツでもある。
深く潜ることを競うフリーダイビング競技のメダリスト、岡本美鈴さんは、27歳の僕がようやく到達した90mに、息をこらえて潜ってしまった。しかし、長い時間潜水するためには、水中で呼吸する潜水器を体の一部にする。エンジンは潜水機、身体が潜水艇の船体、フィンは舵とスクリューになる。僕という意識が潜水艇に乗る船長だ。船長は船の上で、すべての責任を自分が負っている権力者だ。海の世界ではこれをキャプテンシップという。
責任を負うことのできない初心者は、責任をインストラクターに預ける。自分の命を人に預けても、水に潜ることは、冒険であり探検だから、知恵と判断が必要である。誰かが、体験ダイビング、あるいは、C-カード講習で生まれてはじめて水に潜ったとする。その光景、その感動は生涯忘れることがない。冒険であり、探検であるからだ。
最後に夢について。
三宅島に、潜水博物館を作ろうとした。プールがあり、昔の潜水機を体験できる。夢は破れ、その後、三宅島は噴火した。房総で同じ計画を某漁業組合長に相談したら、言われた。なぜ、須賀さんは、そんな夢みたいなことばかり考えるのだ。でも、その組合長も、港を仕切って、ヒラメ養殖のために海の深層から汲み上げてきたきれいな水を流して、ダイビングプールにしたら?と。すぐに乗ったが、残念なことに水産庁の許可が下りなかった。国の予算で作った漁港は、ダイビングプールにはできないと。そして、今の僕は、お台場の海浜公園をダイビングプールにしてしまおうという夢を抱えている。
でも、もっと小さい日常の夢もたくさんある。人が幸せになるのは夢がかなえられた時、
この本を読んでくださった皆様の夢がかなえられますように。

0608 年表、そして年齢相応

  80-80 80歳で80m潜るという企画、心当たりに後援、応援をお願いしようとしているのですが、「年齢相応」にしなさいと言われました。
 年齢相応とは、朝起きないことなのか、泳がないことなのか、潜水しないことなのか、養老院に入ることなのか?
 久保さんが助け船をだしてくれました。年齢相応、80m、それ以上は潜らないこと。80mの水深で下を見て、停まれるかどうか不安だけれど、「そうします」と答えた。
 ※ですます調になってしまっていますが、フェイスブックから引用するとですます調になってしまうのです。

「年齢相応」について考えています。人に与えられた時間は有限です。残された時間はどんどん短くなって行きます。残された時間に相応なことをしろ、ということだと思います。やりたいこと、やるべきことのすべてをやり終わるだけの時間は誰にもない。どれだけできるのか、ベストを尽くして進行形で消えて行くということ。今の時点での僕の結論。

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 安元君、亡くなる前、最後とわかっている会に行くことができました。木村さんに誘っていただきました。別れ際に5分間、二人の交錯、共有した時間について語り合うことができました。where or when
 彼は最後までベストをつくした。

吉田君に忠告されています。
「出来るだけ人に任せること、任せたら手を出さないようにすれば、残された時間に出来ることが増えると思います。」と
その通りですので、こころがけています。JAUS会員証の製作は石川さんにいちにんしました。これはうまく行っているようです。
プライマリー、何もしなかったら、5月は中止、
人集めだけ、これが一番大変なのですが、手を出して、6月は実施できます。7月―10月は、JAMSTECですが、この申請がまだです。これは、僕がやらなくてはならないのですが、その後の人集めは、どうなるでしょう。

お台場クリーンアップ、一切何もしなかったら、集まった人7人、0がひとつたりない。メールをだしまくり、お願いをしまくって、ようやく60人を超えました。目標は80名です。かかわっている一つ一つがそんなことですが、愚痴は言わないで、できることに全力投球するだけです。

グラフィティ単行本化、今日一杯で初校を終わらせます。
年表を作っているのですが、つけたすこと多数。
日本にスクーバが入って来たのは何時か?これがグラフィティの出発点なのですが。
1950 
大同物産 渋谷武乃丞氏(帝国海軍OB) が掃海部隊のためにフランスのスピロテクニックからアクアラングを輸入したと言われるが未確認
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    左側がスピロテクニックから輸入のアクアラングタンク、と国産無印レギュレーター、、右が、消火器改造のボンベとスピロのレギュレーター(みたい)




渋谷さんには、おせわになっています。
渋谷さんは兵隊の位で、少将か中将、僕は少尉か中尉、そんな人間関係でこき使われた。それでも、その1950年については、その頃考えても居なかったので、証拠となるような文書とか写真を、いただいておくことがなく、向こうの世界に特区に行ってしまっている。
それに1950年は、まだ海上自衛隊がカオスの状態で、誕生しかけたころ、アクアラングは、早くても1952か53年、これについては、これもお世話になった海上自衛隊のOB 逸見さんに潮美と一緒に出掛けて、お話を聞いたのですが、これも何の証拠品も無く、写真も無く、その辺りかなあ、という程度。
「1953年に、米国海洋学者、ロバート・ディーツ博士が東京水産大学小湊実習場において、アクアラングを海洋研究に使用するための運用を指導し紹介した。新聞の記録が残っている。」
これが正確な出発点としました。

これも、僕が年表として、活字にして残しておくことで、後の人たちが使うことができる。と思うので、できるだけ数字を確認した上で残しておきたい。

0609 あとがきー2

 グラフィティメーキング あとがきの別バージョンだ。やや完成形に近づいているが、まだちがう。これではあとがきにならない。
この次のバージョンで、ようやく使えると思うものができた。それにしても、満足ではないが、どこかで切らなければ、永久に解決しないで書き直し続けているかもしれない。そして、あとがきの後も、僕のダイビングは続いて行くのだから、エンドマークはもう少し先だ。

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 写真はあとがきとは関係ない。年表に写真を入れたのだが、小さすぎて虫眼鏡を持ってこなければなんだかわからない。わかりそうな画とは、形だけ、シルエットでもわかるような、フォルムだと考えて探した。1982年か3年、テレビ撮影のためにテストしたスクーターである。速かった。3ノットは出たと思う、3.5ノットになるとマスクが飛ばされる。しかし、3.5ノットでないと、2ノットの流れを遡れない。3.5ノット出たけれど、電池がすぐに終わってしまう。実用ではなかった。しかし、レクリエーショナルダイビングとは、実用ではなく遊びなのだから、これはこれで面白いのだが、やはり、電池チャージに8時間かかって、1時間も走れないのでは遊びとしても、コストがかかりすぎた。

 あとがき  V3

日本にスクーバが紹介された1950年代から1980年代、ひたすら海に潜り、夢と冒険を追った日々を連載してほしいとダイビング専門誌の月刊『ダイバー』から話をいただき、喜んで引き受けた。アクアラングの黎明期は、その頃の映画『沈黙の世界』や『青い大陸』のように、夢と冒険そのものだった。
冒険とは、目の前に障害があったら、それを乗り越えて行こうとすること。原始時代からこのかた、人間は障害を乗り越えて生き延びてきた。乗り越えることは人間の本能であり、乗り越えれば心の底からの喜びを感じる。つまりチャレンジこそ生きがいだ。
僕にとっては今も昔もダイビングは冒険だが、ダイビングの事故は、冒険として身構えていない隙に起こることが多い。僕が潜水でもっとも恐ろしいと感じるのは「エア切れ:呼吸の喪失」である。他にも恐ろしいことはあるかもしれないが、僕が「死ぬかもしれない」と思ったのが「エア切れ」であり、水の中で空気がなくなるのは人間の本能として恐怖だ。本書にも書いたように、大学4年の時にそれを思い知らされ、水深30m程度なら一気に浮上する能力があれば切り抜けられる、スキンダイビングが命を守る切り札だと考えた。
 しかし、27歳で挑戦した水深100mからではさすがに無理だ。エア切れを防ぐため、地上から空気を送り続けられるように送気式で潜ることにした。ところが、すべてに新しいことをやろうとして、水の抵抗が少ないビニール製の細いホースを使った。耐圧はじゅうぶんだったが熱に弱かった。コンプレッサーの圧縮熱で、ホースが膨らみ、後少しでスッポリと抜けて送気はストップするところだった。あの時、ホースが抜けていたら、僕は一巻の終わりだっただろう。後で考えれば、送気式の潜水機の他にタンクも背負う。つまり、2系統の空気供給原を持てば何ともなかった、深く潜る時には、複数の空気供給原を持つべきだと学んだ。今では、併用するのが常識となっている。
ダイバーという人種は、自分が死なない範囲で深く潜りたい。僕の100m潜水のレベルを、進化、洗練させたものが現在のテクニカルダイビングだろう。スクーバで窒素酔いにならないように混合ガスを用いた潜水のことをテクニカルダイビングという。これには二つの方法がある。一つは異なった性質のガスを詰めたタンクを何本も装着して、潜水する水深や時間に合わせ、使い分けながら潜る方法。もう一つは、吸ったガスを外に吐き出さないで、袋(カウンターラング)に吐き出し、炭酸ガス吸収剤を入れた筒(キャニスター)を通し、消費しただけの酸素を加える循環式の潜水器、リブリーザーを使う方法がある。人間が消費する正味の酸素の量は知れたもので、吐き出す息にはまだ大量の酸素が残っている。循環させれば、100m程度の深さに潜る潜水可能時間を稼ぎだせる。そして、2系統の供気源を持つという原則から、別に1本のスクーバを腰にぶら下げて行く。これらの、より複雑化、高度化した器材を使いこなし、深く潜りたいと夢を追うのが21世紀の冒険的ダイバーのスタイルだろう。
 僕はといえば、出来るだけシンプルに、オリジナリティーを持って夢と冒険を追うにはどうしたらよいのか、理想を追求しながら80歳で80mに潜る準備を進めている。
最後に成山堂書店、月刊ダイバー誌、励ましていただいた読者の皆さま、そして連載時から編集を担当してくれた娘の須賀潮美のおかげでこの本ができた。お礼申し上げます。
なお、この本を読んでわからない箇所があれば、同じ成山堂書店で出版した『最新ダイビング用語事典』を読んでくださることをお願いします。

 あとがき V2

日本にスクーバが紹介された1950年代から1980年代、ひたすら海に潜り、夢と冒険を追った日々を連載してほしいとダイビング専門誌の月刊『ダイバー』から話をいただき、喜んで引き受けた。アクアラングの黎明期は、その頃の映画『沈黙の世界』や『青い大陸』のように、夢と冒険そのものだった。
冒険とは、目の前に障害があったら、それを乗り越えて行こうとすること。原始時代からこのかた、人間は障害を乗り越えて生き延びてきた。乗り越えることは人間の本能であり、乗り越えれば心の底からの喜びを感じる。つまりチャレンジこそ生きがいだ。
グラフィティで書いてきた、1950年代から1970年代の冒険は、自分なりのダイビングを確立する助走距離だったのかもしれない。
1989年8月に起きた脇水輝之の事故は、確立したと思った潜水についての考え方、安全についての姿勢、そして事故が起こってしまってからの展開について、根底から覆す出来事だった。このことが書きたかったために、最後の章は、ほぼ10年突出したが、これだけは、このグラフィティの中に納めなければ終われなかった。安全、人の命の価値、そして、「嘘だろう!」と思うほど簡単に水中では人の命が失われてしまう。どうしたら良いのだろう。答えは無い。
助走距離が終わってからジャンプした夢と冒険については、昔々のグラフィではなく、現実世界と重なり合う。チャンスがあれば、グラフィティの後日物語も本にしたいが、終わりに、少しだけその後のことを、そして今後の出来るかどうかわからない計画についてお話ししたい。
1996年2月、60歳を記念して、103mに潜った。1963年、90mで意識朦朧となり引き返してから30余年の歳月が過ぎ、すでに、100mは中深度潜水と呼ばれていて、僕の60歳の100mを付き添って潜ってくれた社員の田島雅彦にとっては、通常業務の潜水になっていた。しかし、60歳になった自分にとって、それは、自分の体の中の世界での戦いだった。その数年前から、高血圧になっていたため、一人の医師からは、ドクターストップがかかった。しかし、それを乗り越えたことで、さらに生きる途が開かれ、あと20年、80歳まで現役のダイバーとして潜り抜けようと心に決めた。様々な事件に出会い、失意も重ね、大事なともだち、そして仲間(社員)も亡くし、スガ・マリンメカニックも田沼健二に譲ったが、一方では、新しく、特定非営利活動法人 日本水中科学協会を設立して代表になり、新しい友人もたくさんできた。そして、心に決めたとおりに、潜り抜けて、あと6か月で目標の80歳に到達する。
80歳で80mに潜ろうと計画を進めている。1963年の90mは送気式でフルフェイスマスクを使い、デマンドバルブを着けた、現在の作業潜水システムの嚆矢だった。1996年の103mは、大掛かりなシステム潜水と、スクーバであるテクニカル潜水とのハイブリッドだった。常に新しい潜水方法の提案をしてきた。今度の80mは、原理的にはシンプルに、そして、80歳のダイバーでも、あれならば無理をしていないと周囲の仲間たちに信じてもらえるような方式で潜りたい。テクノロジーの進歩は、どうしても複雑化に傾いてしまう。ダイビング機材も、電子化、自動化が進歩の方向であり、つまり、一つ間違えば危険になる。一つ二つ間違ってもなんとかなる。いい意味でのいい加減さが失われて行く。僕はといえば、出来るだけシンプルに、いい加減OKで夢と冒険を追いたい。なお、今度の80mは、日本水中科学協会のメンバー何人もが一緒に潜って来てくれる予定。出来れば、沖縄の海でやりたいが、館山になるかもしれない。

80歳の向こう側は、もし生きていれば、やりたいプロジェクトがある。舞台は大震災の後の海である。

最後に成山堂書店、月刊ダイバー誌、励ましていただいた読者の皆さま、そして連載時から編集を担当してくれた娘の須賀潮美のおかげでこの本ができた。お礼申し上げます。
なお、この本を読んでわからない箇所があれば、同じ成山堂書店で出版した『最新ダイビング用語事典』を読んでくださることをお願いします。

0611 年表についてー1

 グラフィティの年表を見直している。
成山堂での打ち合わせで、潮美が赤字を入れている部分を削除した。1972年昭和47年7月10日「月)静岡県におけるレジャーダイバーのスクーバ潜水全面禁止措置を発表。という部分である。えーっ、そんなことがあったのか、自分で書いた年表におどろいている。自分が調べて書いたものではない。ある雑誌の年表から、引用したものだった。
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1972年、昭和47年、その年に生まれた人は41歳になっている。静岡県と言うと容易な広さではない。雲見も、下田も、海洋公園も静岡県だ。そんなことがあったら、記憶にのこっているはずだ。
しかし、記憶になくても、何かあったかもしれない。雑誌、「海の世界」が72年の分と、73年の分が、全部ある。ぱらぱらと全部見たが、静岡県全面禁止などと言うすごいことは、出ていない。
 静岡県と言えば、あの大瀬崎も入る。全面禁止だったら、大瀬館も閉鎖か?大瀬館の50年史をいただいてあったので、それも見て見た。確かに大瀬館は古いけれど、ダイビング設備(コンプレッサーなど)を導入したのは、1982年とある。72年にはまだダイバーは大瀬崎では潜っていない。
 では、潜水全面禁止の72年には何があったのかと、編集途中の年表を見て見ると、なんと、「全日本潜水連盟設立 日本潜水会、関西潜水連盟 中部日本潜水連盟 PADI潜水指導協会が提携して結成」全日本潜水連盟がスタートしている。個人的には「水中写真の撮影」と言う本をだしている。「マンティス発売、当時、須賀は後藤道夫とともに、鬼怒川パシフィック社の顧問をつとめていた。」
 そんな中で、「静岡県、レジャーダイバーのスクーバ潜水全面禁止措置を発表」って、なにがあったのだろう。この雑誌もいい加減な雑誌ではない。「ダイビング・ワールド」だ。72年7月10日と日にちまでもきちんと入っている。何があったのだろう。もう少し調べなおすけれど、とりあえず、グラフィティの年表からは削除した。
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 このダイビングワールドの年表は、本当によく、細かいことまで調べ抜いている。ここにもう一つ。
 1952年、にニッセン式という化学反応による潜水機が開発されたとある。僕のグラフィティのスタート、日本にアクアラングが紹介されたのが、1953年のディーツ博士が小湊で潜ったことだから、そのアクアラング事始めよりも一年早い。日本で一番古いアクアラングの輸入は1950年の、大同物産の「大同物産 渋谷武乃丞氏(帝国海軍OB) が掃海部隊のためにフランスのスピロテクニックからアクアラングを輸入したと言われるが、未確認)
この渋谷さんには、東亜潜水機時代、一方ならぬお世話になった。なのに、ダイビング史なんかを後から書くとは思いもしていなかった、若き日の僕は何にも聞いていない、調べてもいない。渋谷閣下はとっくに亡くなっている。
 その1950年から、1953年の間、ニッセン式は、1952年のことである。
 化学反応による潜水機、これは過酸化水素、オキシフルを撹拌して酸素を発生させている。僕は神奈川県水産試験所で、この潜水機の残骸を見たことがある。厚手のビニール袋のような潜水機だった。

 有馬頼義と言う、かなり高名な作家がいる。旧筑後国久留米藩主有馬家の第16代当主。旧筑後国久留米藩主有馬家の第16代当主。と言うから、お殿様である。たしか、水天宮の家主でもあった。その有馬頼義が、「化石の森」と言う小説を書いているのだが、その小説の主人公が、水産試験場の技師で、小説の中で、このオキシフル潜水機を開発している。潜った話も出てくるから、潜れたのだろうか。ここに、一枚、そのニッセン式らしい写真がある。
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 これは、東京水産大学の神田教授の教室にあり、神田先生の後継者である竹内教授(僕の同級生)からアルバムを借りてきて複写したものだ。これが本当にニッセン式かどうか、単純な純酸素式のリブリーザーのようにも見える。不確実なので、惜しいけれど、この話は年表には収録しない。

 しばらく、ブログには年表の話ができそうだ。
 でも1972年の潜水禁止騒ぎは何だったのだろう。ブログに書いておくと教えてくれそうな人が、何人かいる。 教えてください。

0613 スキンダイビング

 嫌なことばかりたくさんある。嫌なこととは自分が自由にかんじられないことだ。自分のホームページに書いてあるスキンダイビングについて、「人間が幸せを感じるのは、自由を感じる時、言葉を変えて言うと、自分の思い通りに物事が運んだ時、でも、この世の中、特にこのごろは、自分の思い通りに物事は運ばない。ほとんどの時が不幸せです。
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  そんな時、自由な空間、いや水間で自由に飛ぶように泳げると、その時だけかもしれないが、自分をくびきから解放し、大きな声で、「自分は自由だ。フリー!!」と叫ぶような気持ちになる。それがスキンダイビングだと思っています。」
  ぼくのやっているスキンダイビング練習会にくるひとが多くなっている。ぼくの練習会は原則として、教えることがない。自由気ままだ。教えられることが好きな人もいるけれど、教えられるってことは自由ではない。
自由と一言で言うけれど、たいへんなことである。もしかすれば命をかけることもある。スキンダイビングの自由は命懸けではないから、ただ幸せだ。
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最近、プールにカメラ、おもにウエアラブルカメラが置かれている。動画で廻しつづけておくのだ。2012年に、シンポジウムでこのカメラについて発表するためにカメラをプールの底に置いたが、まだ、ぼくのカメラだけだった。最近では5ー6 台は置かれている。動画を撮って静止画を抜き出すというのも今や当然の手法になったし、ストロボフラッシュが、ライトにとって代わるということも当然になった。これらのことは、すべてダスキに書いたことであった。
映像を撮る、映像を使うということも大きな変化を遂げている。紙に焼く、プリントするということも、この二年ごしやったことがない。カラーの印刷はするけれど光沢紙にやくということはない。そうなってみて、映像を撮る、映像を使うって、どういうことなのだろうか。
目で見るイメージ、そのイメージから受ける感慨を文章にすることができなくなった。文章による説明などなくて、画が一枚貼付けてある。それですべてがわかるような映像が、良い映像である。だから、文章力、文章による表現が下手になったできなくなった。。困ったことになったのか、これで良かったのか、わからない。
プール底においてあるカメラで撮るのは、スキンダイビング練習会では、当然、人間である。ダイバーである。何度も何度も繰り返し書いているけれど、僕はイルカよりも人間のスキンダイバーの方が映像的には好きである。イルカが美しいと思われたのは、人間の女性のダイバーが今ほど洗練されず、美しくなかった時代のことなのではないだろうか。女性スイマーの美しさの先駆者は、ハリウッドの大スター、エスター ウイリアムズだが、今、辰巳の練習会にくるダイバーの中に、水中でだけならば、エスターウイリアムズ級がごろごろしている。
プールの底においてあるカメラはこの美しさを捕まえるトラップである。
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彼女らは、自分たちも自分の型を撮るべく、自分のカメラを置く、プールの底にカメラがごろごろしている所以である。
2012年最新ダイビング用語事典にウエアラブルカメラの可能性、動画ですべてを撮って切り出して使うことが多くなると予言のように書いたが、実際になってしまった。
スキンダイビング イコール撮影の時代になりつつある。

0617 雑感

0617
午前中の海豚倶楽部、例によって、疲れていて調子がでない。「疲れていませんか?」と聞かれると「疲れているよ、高校時代からずっと疲れている。高校の時のバスケの合宿の疲れを100とすれば、今は40ぐらいの疲れ方だろう。そんな風にいつも、ずっと疲れている。しかし、考えてみると、疲れることができるのは、体を動かせるからなのだ。病気になれば、疲れたくても疲れられない。

 午前中の浦安海豚倶楽部
 ダッシュを2本、22mだけどやって、一本は舟橋さんとの勝負。途中で左足が攣りかけたがだまして、最後にスピードが乗って、勝った。足さえ攣らなければもっと速いのだが。
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佐倉のyさんと会う約束をしていたので、速攻で走って行く。何か国が認定する難病にかかっているとかで、来年手術をするそうだ。手術の部位が脊椎。今、どこか痛いのかと聞くと、どこも痛くない元気だという。ではなぜ手術などするのかと聞くと、減圧症にかかりやすいからという。減圧症が何ぼのものだ。今は、減圧室に入って治療すればなおる。脊椎手術の危険性のほうが怖い。多分、手術するとき、お医者さんは成功率90%というだろう。10%は失敗する。僕の持論の統計学?では、昔の米国海軍の減圧表に従って潜水しているならば、減圧症になる可能性は3%、ならない可能性が97%だ。しかも、この3%は、重症とは限らない。今のダイビングコンピューターを使って、その上に安全停止などしていれば、限りなく0%に近くなっている。この頃のリクリエーションダイバーが、安全停止をしないで浮上すると緊急浮上などというが、僕の60年のダイビング生活で、50年は、毎度緊急浮上だった。もちろん、減圧表の示す減圧は必ずするし、3mと1.5mで一時停止はするが、減圧の指示が出ていないのに、3分停止などしたことはなかった。97%OKだ。
これは、空気、文化の問題だ。現在のダイビング文化がこうなっている。より安全であるのならば、逆らうことはない。自分は、自分の責任だからいいけれど、素人衆と潜るとき、彼らが減圧症になどなったら大変だから、現在の限りなく100%文化にしたがう。
Y君の店で、ウエットスーツを作ってもらう。この前のウエットスーツもそしてドライスーツも彼のところで作った。今のドライスーツはワールドダイブで作ってもらった。これは、すばらしいドライスーツだ。ファブリックとかインナーなど、いろいろ聞くと、それにしようかとも思う。先日は、日本アクアラングのドライスーツをお客にまとめてかってもらった。
今度作るウエットスーツは3mmのワンピースで、上にフードジャケットを着る。7月の豊潮丸航海に使うつもりだ。
Yさんは、JAUSの正会員になってくれるという。ありがたいことだが、入会の仕方がわからなかったという。ホームページでポチンとしてくれればよいだけなのだが。

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母親の墓が、白井にある。佐倉の近くだから墓参に回る。昨年のお盆、以来行っていないので気になっている。気になるということは、母が呼んでいるということだ。季節外れ、お盆でも、お彼岸でもないから、お花が売っていない。お寺の直近でいつも買う、小さな小さな、薄暗い、タバコと駄菓子と、お線香だけを売っているような店で売っていなかったらお花はなしだと思っていたら、一束だけ店の前にでていた。いつもは二束買うのだけれど、一束しかないから一束ですます。560円、お墓に来て、一束を二つにわけて両側に供えたら、なんとなく儚げでいい。
母と話すことは何もない。でも、頭の中は様々なことが駆け巡る。
母は、僕に対して、怒った、怒られたという記憶がない。僕が彼女の意に沿わないことをすると、涙ぐんでしまうのだ。気の弱い人ではない。あの戦火の中を、男を渡り歩いて生き抜いた。周囲の人は、彼女が男だったらよかったのに、とよく言ったけれど、女だから強かったのかもしれない。それが、僕を叱るということがなかった。
僕は、自分の娘、息子を叱ったことがある、それも自分の論理で叱ったことがあるのを今恥ずかしく思う。

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夜、21-22時の辰巳の長水路サブプール、誰も来ないだろうから自分だけの練習のつもりで借りたのだが、ねぜ、17日、浦安とダブルヘッダーになってしまったのだろう。よくわからない。
それでも、石川さん、鈴木君、山本さん、本間さん(新しい女の子)成田さんと、その友達、僕を入れて7人になった。コースを一つしか借りていなかったから、これでも満員だ。
50mダッシュを4本やったけれど、泳ぎ切れていない。石川さんもへろへろだったがとにかく泳ぎ切っている。

長い一日だった。

0618 日記

0618
予定していたデスクワークを速攻で片づけて、時間があったら、ちょっとばかりキーボードをたたきたいとおもっていた。この後JAUSの水中撮影研究会のミーティングが19時からあるが、一時間ぐらいはやれるだろう。
座って、コーヒーを飲めるところ、ミスドもドトールも満員だ。ケンタッキーはどうも、フレッシュネスバーガーに行こう。予想通りすいていた。バーガーもおいしいし、コーヒーも悪くないのだが、まあ、おかげで、ゆっくりできる。
本当は書かなくてはいけない個人的なメールがあるのだが、どうしても気が進まない。もう、とっくに期限は切れている。
やはり、その気にはなれない。

フレッシュネスに来る前に、ブックオフに寄った。寝るときに読む本が終わっている。このところ2冊、沢木耕太郎のエッセイだか、書評だか何だかわからない小文を集めたものを読んでいた。題名は忘れた。その程度の本で、わりあい読みやすく、気分よく読めて何も残らないような残るような本だ。彼の長編の肩肘張ったようなノンフィクションだか小説は疲れるからこのところは読まない。
買ったのは「彼らの流儀」「一号線を北上せよ」どれも1980年代の出版だ。30年前か。けっこうグラフィティだ。一号線、ベトナム街道編は、確か読んだとおもう。ベトナムが好きだから読んでいないわけがない。でもまあいいや。
もう一冊、サラ・バレッキー、「サマータイムブルース」を買った。これは、シカゴの若い女性の私立探偵の本で、日本でもこの手の女性の、日本では私立探偵ではなくて刑事物だが、これらも面白いのでほとんど全部読んでいる。沢木よりも、こっちのほうが先に読むかもしれない。

グラフィティといえば、僕のニッポン潜水グラフィティの表紙カバーのデザインが送られてきた。三人のダイバーが手をつないだ水中と、波打ち際をエキジットしてくるバディの写真、3枚で、写真は何回もブログでもつかっている。ダイビングはみんなで手をつないでやるものだ。1967年以来、この友人関係が今までも続いている。鶴耀一郎はなくなってしまったし、並んでいる野田は連絡がとれない。長谷川剛も連絡がとれない。もう一度電話してみよう。連絡が取れなくても、友情には変わりはない。そして、これらの写真は後藤道夫が撮ったものだ。

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今、打っているキーボードは、acea のネットブックだ。キーボードが打ちやすい。その代り、映像がスムースに動かないが、編集するときにPC用とすれば、滑らかに動く。これで編集するつもりはないから、映像もこれで何とか間に合わせよう。


それにしても、フレッシュネスバーガーは、人が入ってこない。穴場だ。
JAUSの原点は2010年12月12日のシンポジウムだ。もう一度、原点を見直してみようと、報告書を手に取った。

学生連盟のことを考え、かかわり続けている。大人がかかわらないことによって、事故が起こる。スポーツとは、そういうものだ。このことについてはたびたび書いているし、また、別に何度でも書きたいので、ここでは置いておく、今年度のシンポジウムで一応の目安をつけたい。うまく行くとは思っていないが、自分としての決着、形を作りたい。
2010年12月12日の第一回シンポジウムでの学習院大学ダイビング部、宮崎監督の発表を見直した。とてもいい。この発表が原点だといってもいいだろう。
 この表を見ただけでいろいろなことを考える。

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 希望者に差し上げますとフェイスブックで書いたら、沖縄の村田君はじめ、数人の人が申し入れてくれた。送り先の住所だけ、コメントしてくれれば、先着10名様、あと3名だけれど、おくります。なお、JAUSのシンポジウムとか、イベントでは無料で配布している。

夜は、JAUSの水中映像研究会の集まりに行く、映像は僕の仕事だったから、映像がJAUSの中心になるべきものだと思ってきた、しかし、もう、次の人たちに任せなさいということなので、あまりかかわらないほうがよいのかと思っている。しかし、今回は後藤道夫を介しての友達である金丸監督が映画の文法について話してくれる。行かなくてはならない。金丸さんの話はとても面白かった。僕とは違うスタイルの撮影なので、口を挟んで対談にするとさらに面白いと思ったが、やめておいた。次の企画として、対談、ディベートも良いが、僕の耳が聞こえないことが、問題だ。
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   金丸監督の作ったビデオクリップ、V6が出てきて、1960年代の真鶴でのダイビングがテーマになっている。


金丸君を引き入れたこと、良かったのかどうか、悩ましい。遊びを本気になってやって、フリスビーを撮ろうとしたことが、はじまりなので、まずはそれを完成させよう。そして、そのプロセスの中で、彼のもっているものをみんなに見せてもらえれば、とおもう。金丸監督にとっても、自分も潜って、水中撮影の監督が本当にできるようになる、そのシュミレーションができれば、大きなプラスになるとおもっている。

終わってから、懇親会、飲み会に出席する。これも、でるべきかどうか、お酒を飲まないのだから、昔、全日本潜水連盟の理事長の時は、専務理事の渡辺にこのようなことは一切任せて、僕は顔をださなかった。本当は、顔を出しても積極的にはしゃべらないで、聞いて、空気を感じているだけで良いのだが、やはり、テーマが映像だと、しゃべってしまう。3Dについて、少ししゃべってしまった。これもまた項を改めるテーマだ。

映像はともかくとして、今、ダイビングの世界、ダイビング業界は大変なことになっているとおもう。まさか、気づいていないということはないと思うのだが、どうなのだろう。
僕は、ダイビングの商売の世界からは一歩引いて見ているし、残された時間は長くはないので、横から見ているだけにしようとも思う。北海道の工藤君でもそばにいれば、話を聞くのだが、口をだしてもどうにもならないことだし、時代の流れだし、変革なのだから、
 口で議論せずにブログにでも書いて、とおもう。しかし、それも、きっちりと書かないといけない。


0620 関東学生潜水連盟

0619
昨日、関東学生潜水連盟についての2010年のシンポジウムでの学習院大学の宮崎監督の発表について、報告書を読み直して、改めて見直した。

ここまで書いたのが朝、続きは後で書こうとフェイスブックとメールを見た。それを片付けた。片付いてはいないけれど、イビングを長らくやっていると、死ななければ、事故を起こさなければ後の問題は時間が解決する。特に今の僕は、時の走り去るのが速い。

しかし、やる気を失うと立ち上がるのに時間がかかる。今日予定していた仕事をほとんどせずに午後になってしまった。事務所でいくつかの仕事をしようとしたが全然!コーヒーが飲みたくなってミスドに来たら、席が空いていて座ることができた。すぐにPCを開こうとしたが、読みかけた「サマータイム・ブルース:サラ・バレッキー」の方をひらいてしまった。2010年の文庫で、ブックオフで100円だが、ハードボイルド姐ちゃんの格闘シーンなどがあって、心が、癒される(嫌いな言葉だけど、ここに当てはまる)彼女は痛めつけられてもギブアップしない。あんまり急いで読み終わる必要もないので、30p程読んで、ページを閉じた。
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 学習院大学の変遷表 昨日も出した。
 まず、創世期 学習院の創立は日本潜水会と同じ1967年である。関東学生潜水連盟の最初のメンバーに入っていてもよいのだけれど入っていない。が、すぐに加入している。その頃の学生ダイバーって、自分の年齢も若かったためもあるけれど、僕たちと対等だった。法政の銭元君が、初代の委員長になった。銭元君は日本潜水会の一級を受けに来てくれて、潜水会のプログラムを学連に持ち込んだ。プログラムのそれぞれに、地獄の・・・とヘッドが付く練習で、全員が海猿を目指したと思えばいい。そして、彼らは日本潜水会とは別の道を、しかし、スピアフィッシングをやらないという意味では同じ道を歩み、やがて、ロレックスの全国スポーツ大会には出場して、あの高価なサブマリーナを総ざらいに持って行くことになる。法政の青木とか丸山(今ではNAUIのCEO)は、あのロレックスを今でも持っているだろうか。
 そして、1980年代の宮崎さんに言わせればビッグバンといわれる最盛期の時代を迎える。なぜ、ビッグバンが起こったか、それぞれ考えはちがうだろうが、まず世の中の景気が爆発した。バブルの時代を迎えようとする。1974年には新宿にドウ・スポーツがオープンして、青木、丸山、たちがそのコーチになる。次第に階段を上るようにしてダイビング業界としても最盛期を迎えるのだろう。1985年、日本はバブルの時代を迎える。
 その次に来る凋落、冬の時代はなぜなのだろう。ダイビングそのものがそれほど凋落したわけではないように思える。個人的な見解だが、ダイビングショップが増えた。そして、それぞれのダイビングショップが大学に入り込んでくる。母校の水産大学を例にとれば、ダイビングショップの息子が大学に入学して同好会を作る。厳しそうな練習などがある関東学生潜水連盟のクラブよりは、楽しいレジャークラブのほうが良い。それに安全性を考えても、2年生が一年生をおしえるような関東学生潜水連盟よりもインストラクターが教えてくれるショップ系の同好会の方が安心だし、保険も賠償責任保険などが充実している。水産大学などでは、同好会のあるクラブの入部者が40人に対して、潜水部は2名とか、スコアが開きすぎだ。
 ここから学習院大学は、何とか立ち直って、次の時代を迎えるが、そのまま立ち直れないで、伝統のあるクラブが消滅してしまう。立教大学、青山学院大学、両者とも歴史があり、立派なプログラムで活動していたのだが継続できなかった。
 
ここまで書いて、ASPIREのバッテリーが無くなるので、ミスドから引き上げる。
コーヒーのお替わりを3回注ぎに来てくれた。

消えた大学と立ち上がれた大学を比べてみると、一概には言えないが、OB会が力を持っていたかいなかったかだろう。水産大学の場合、部員が2名になり、1名になったとき、OBである僕が一生懸命後押しした。そのころの4年生、今泉君などに牡丹町の事務所にも何回も来てもらって、ずいぶん頑張ってもらった。そして50周年でOB会を作った。50年、OB会なしで来た結果が、部員1-2名になった。その上、驚いたことに、僕の知らないブランクの時代に、ヘリの出動を要請したような事故があったらしい。幸いにして死亡事故にならなかった。事故があったらしい、と書いた。OB会が無いと、それほどの事故でも「らしい」になってしまう。正式な記録はないから、未だに「らしい」である。
そして、さらに、なぜOB会が重要なのかというと、学生だけの場合の継続性の無さである。ある年次に一人か二人になり、次の代に新入生勧誘が失敗すると、学生だけでは立ち上がれなくなってしまう。3年の半ばになれば、一生を賭けたシューカツのために一人二人になったクラブをどうすることもできなくなる。
青山学院も立教も立派なOB会があったはずだけれど、機能しなかったのだろうか。立教は、学連の記録映像を撮り、朝までテレビで放映した時に女性の学連委員長を出していて、ずいぶん親しくなった。
名前を忘れてしまった。あの時のオンエアーテープがどこかにあったはずだが、見つけている時間が無い。

0620

0620
 日本対ギリシャのサッカーを見てしまった。サッカーのことはよくわからない。見てきた歴史は古いのだが、自分がプレィヤーであったことはない。それに男子サッカーはフアン、応援している好きな選手がいない。女子サッカーでは宮間選手、彼女だけをみていれば、そのゲームがわかる。
 普通、どんなボールゲームでも選手が一人欠ければ痛手で、まず勝てることはない。日本対ギリシャは、ギリシャがかなり早い時期に退場になってしまって、10人で戦った。どうしても守りに入る。サッカーは10人でも守るつもりになれば守れるらしい。自分がプレィヤーの経験がないから、その辺のところがよくわからない。
 しかし、最後まで見たが、日本が得点できるようなチャンスがなかった。あのシュートが決まっていたら、というような絶対的なシーンもなかったように思う。大久保のシュートも枠には行っていない。他にないから、あれを残念がっている。これで、多分決勝リーグには上がれないだろうが、そのことはともかくとして、この前の女子サッカーのように感動するシーンはない。勝っても負けても感動を与えてくれることがプロだとすれば、男のサッカーはプロではない。感動する負け方ではない。つまり、なんでもない。

海保にお台場潜水の許可書を取りに行った。6月から11月まで六か月6回分の許可である。今度は10月に12月からの許可申請をしなければならない。まず、東京港湾局に東京都知事の制限解除の申請をする。これはゴムボートを浮かべてもよいという申請だ。後述するように岸から20mの区域だから、ゴムボートなど不要だ。東京湾、瀬戸内海などは、監視船が付かなければ潜ることができない。何を監視するかといえば、屋形船が入ってきたり、水上バイクが遊びに来たりしないように監視する。もちろん、ここに入ってくるのは違反である。違反であっても入ってこないとは限らない。違反ですよ、と注意するための監視だ。
 このゴムボートの乗り入れ許可が大体1週間かかる。次は、公園管理課に行事届をだす。これは、届だからチェックして問題がなければ、受付のゴム印をおしてくれる。今回は緊急連絡態勢に病院名が無かったと注意された。があまりうるさくない。次には記載しますということでOK.
 さて、次にはこれらの許可、届を重ねて行事許可申請書を海保に、京浜港長に提出する。まずは受け取ってもらう。今回は担当官が変わったので、前のままの書類ではだめで、必ず何か所か直される。これで107回もやっているのだから、前と同じで良いのではないかとおもうが、そうはゆかない。日本の海保は優秀で必ずどこか穴を見つける。直されると納得するような注意指導でなければならないから、担当官はよく読んでいる。
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  最干潮汀線から20mだから最干潮で水深2m 溺れることなどない。ゴムボートは外から来る船への見張り、警戒船だ
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   ブイを曳行して潜る。
  どちらの図も、許可申請書に添付する図だ。

 今回も何か所か直すところがあり、潜水海域の地図も書き直しになった。たとえば、潜水前の機材の点検整備をする、というところにバディでという語句を加えるとか、一つ一つ、こちらがもっともだと考えさせられるものでなければならない。感心する。
 今回の担当官のY さんは人当たりがよく親切だった。海保の担当官は、他の役所よりも良い。これは親しい友達が多いことからの、身びいきかもしれない。
 とにかく、①書類の提出②訂正箇所の指導③訂正した書類を提出する。そして④書類を受け取る。全部で4回行かなくてはならない。港湾局が提出と受け取りの2回だから、合計六回足を運ぶ。
 六か月に一度だから、これで、あと何回この申請ができるのかな。などと思う。
 海保のある合同庁舎はお台場の隣の隣にある。海を見ると、青く見えない。まだ、濁りはとれていない。今年は3月から6月まで、魚の多い時期、一度も濁りは晴れないのだろうか。

海保からの帰り一休みして、このブログを書こうと、コーヒーを飲むことにした。イトーヨーカドーの大食堂のミスドに行った。ここは昼時でなければ、椅子はたくさん空いている。のんびりできる。
少しばかり本も読んだ。昨日のサラ・バレッキーは、意外にも面白く、熱中して読み終わってしまった。
沢木耕太郎「一号線を北上せよ」ベトナム街道編 文庫が2006年、単行本が2003年だ。ベトナムはもう一度行きたい国、しかし、今度行ったらどうだろうか、行かぬが花か?でも。
 フォー、サイゴン河、バイクの群れ、チョロンのビンタイン市場、
 純粋な旅行記として楽しめそう。

0621 雑感

年齢が高くなると、自分のモチベーションを維持するのが苦労だ。人の言うことを聞いておとなしくする。イコールモチベーションを下げることになる。これはもちろん高齢に関係なく、いわゆるわがままということだが、いやになると何もしなくなってしまう。この数日、モチベーションを下げていたので、ここで追いつくのが大変になっている。
0621
朝、5時、おきてASPIREの電源を入れる。文章を打つのは、メインの東芝ではなくて、小さいネットブックのこちらにしている。朝起きると、これから何をしようとしているのか、何を書こうとしているのかきれいに消えている。ただ、やらなければならないことが団体で後ろに押し寄せてきていて、それを終わらせることは出来ずに眠る時間を迎えることになる。
今日は夕方の1630ごろに鶴町さんが迎えに来てくれて、スガ・マリンメカニックの社員、米田茂の見舞いに行くことになっている。鶴町さんに頼んで連れて行ってもらうことにして、時間をフィックスした。鶴町さんも亡くなった元バディの鶴町通世の奥さんの雅子さんだ。鶴町が生きている間、彼の結婚式以来親しくしたこともなかったのだが、彼が癌で逝ってから、彼の娘たちともども、親しくなり、雅子さんはJAUSの主要な一員になっていて、まるで、石川事務局長の相棒のようだ。石川さんは、その今は亡き鶴町とは面識もない。人生って不思議、人の離合集散も不思議なものだが、JAUSをやっていること、そして、JAUSの中にも、僕にとってつらいことがいっぱいあるけれど、JAUSをやっていてよかったと思うところでもある。
組織、システムとしてのJAUSはそういう個人的な人と人とのつながり、すなわち仲良しクラブではいけないのだ、と言われるが、物語の始まり、創世記はすべて人と人との繋がりから始まる。その人と人との繋がりが何か事業、成すべきこと、成して意味のある仕事を生み出した時点で、それは組織になる。まだ、JAUSは残念ながら、組織となるべき事業を生み出していない、生みの苦しみのうちにJAUSはある。それが生み出せるかどうかわからないし、組織、システムとなった段階にたっしたとしても、個人的な人のつながりは捨ててはいけない。
昨日だったか旧友の尾崎幸司が撮影したテレビ番組のご苦労さん会を共同通信の新藤さんと、マリンダイビングの山入端キヨちゃん、それに石川さん、そしてこの鶴町さん、あとは僕の知らない人何人かで宴会をキヨちゃん宅でやっている。僕は、多忙らしくしているし、お酒も飲まないということで、キヨちゃんが呼ばないことに決めてくれている。呼ばれたら、行かなくてはいけないし、行ってもみんなを楽しませることなどできないから、正解だ。ありがたく呼ばれないことにした。人と人の織り成すタペストリーを見てゆくと際限もないが、僕がこの世を去るまでに、僕のタペストリー(人脈)をバトンとして伝えて行きたいと願ったこともJAUSを作って目的の重要な一つでもあり、それは成功しつつある。その接着剤としてフェイスブックが果たしている役割も大きい。フェイスブックでみなければ、この尾崎幸司の集まりを僕が具体的に知ることもない。
JAUSの設立目的のひとつネットワークの構築がこのような形で作り出されている。

僕は鶴町さんでもだれでも、実名を出して閉る。名前をここにだす。呼び掛けられないと、文章が書けないのだ。親しい人ばかりだし、フェイスブックにも平気で顔をだしていることだし、失礼でさえなけれエバ、良しとしよう。

0622

殺しても死なない奴ばかりをチームに集めたのに、次々と病に倒れる。今度の米田は立ち上がって欲しい。治る可能性を信じて闘うしかない。
一方で、僕も決して治ることのない病気、高齢と闘っている。これは、決して勝つことのない闘い。それも、一番難しいステージに来ている。僕も米田もダイバーだ。減圧症など屁でもない。高齢を予防する減圧表はない。米田の癌も再圧治療では治らない。
昨夜のフェイスブックで書いた。
「 病に倒れている、僕のチームメート、決して裏切らない米田を見まいに、鶴町さんに連れて行ってもらいました。明日にでもブログに書きます。彼はブログを見てくれているそうです。少しでも励ますことができればと願います。二人で旅をした場所、バイカル湖、アラスカ、なぜか北国が多いのです。ニュース・ステーションでも一緒でした。バイカル湖です。風に名前がついていて、ベルグズインと呼ぶ突風が吹くところです。風が吹かないように、コインを投げて通過します。」
 
 でも、昔の楽しかったころのことを書いたとして、それが彼の慰めになり、勇気を振り起す助けになるのかどうかわからない。でもしかし、バイカル湖に行った時のこと、オリホン島という、バイカルの中の島への10日ほどのクルーヅ、ロケだつたのだが、クルーズの前後はリストビャンカンカという湖畔の町のホテルに泊まる。
 ロシア、その頃はソ連のロケには必ず、通訳、コーディネーターの役人が付いてくる。もちろんエリートの役人で僕たちについたのは、名前は忘れたので、頭に浮かび上がってくる名前は「アンドレイ」だから仮にアンドレイとして、アンドレイは東海大学に留学していて、日本語は達者。
 ソ連の若い男はみんな恰好が良い。観光に来ていたアメリカ女にはもてる。
 アンドレイが、夜、自分の部屋で寝ていることはほとんどないと誰かが言っていた。
 食事の後、飲んでいるときに観光客とテーブルが一緒になった。米田が気に入ったらしい女の子がいて、米田は、アンドレイに通訳を頼んで、口説こうとした。
 僕は横で見ていて「馬鹿か、おまえは」と思った。予想とおりに、アンドレイとその女の子は消えた。
 
 バイカル湖の研究所のボートをチャーターしての10日近いクルーズ、潜水のこともたくさんあるが、食べ物のこと、食べ物は、出航するときに全部買いこんでゆく、クッキングするおばさんもソ連では資格は公務員であり、国中全部公務員らしい。もちろん日本とは公務員という概念がちがうみたいだから、国民全部が公務員なのかもしれなかった。おばさんもコックの有資格者で、ライセンスを持っている。だから、食べるものについては、絶対的な権力者である。そのおばさんが、10日分の献立を考えて食材を買い込む。
 この船に冷蔵庫はない。初の2日ぐらいは、ステーキは食べられた、3日目ぐらいから肉は腐る。ロシア人にとって、肉の腐った味も味覚のうちに入っているのかもしれない。日本人だった、鮒寿司なんていうのもある。しかし、僕は食べられない。野菜のたくさん入ったボルシチだけは食べられる。ボルシチを要求したが、あれは、一日に一度昼だけという献立になっている。変更は不可、船の食事だから仕方がない。豊潮丸のクルーズなら港に入るけれど、バイカル湖には港なんてない。目的地のオリホン島まで、30年前に建造された河船はとことこ、ノンストップでゆっくり走る。減量するしかない。
夕暮れ時になると、イルカがジャンプする。イルカはバイカル湖にはいないはずだ。あれはなんだ?とガイド役の研究所のチーフダイバーに聞くと、「バイカルあざらし」だという。僕たちはこのバイカルアザラシを撮りに来た。世界の海で、アザラシもアシカも人懐っこい。がバイカルアザラシは違う。人間に見つかり次第獲られて食べられてしまう。
ようやく、バイカルアザラシが群棲する島に到着した。水中撮影の予定だったが、とても無理。冬に湖が凍結している時ならば撮れるだろう。そんなこと、ここまで来て言われても困る。しかし、監督はドキュメンタリーの監督だから、やらせはしない。無理なものは無理なのだ。群棲地にも海から回れば逃げられてしまう。後ろ側の山をよじ登る。音を立てたら逃げる。山の上から、そっとそっと頭を出す。居ない。留守だ。
居ないものは居ない。どうすることもできない。バイカルアザラシを求めての僕たちの旅は終わった。
しかし、居ませんでした、で戻るわけにはゆかない。水中撮影で何とかしなければならない。そのことも書きたいけれど、これで時間が尽きた。JAUS総会の書類つくりをしなければならない。グラフィティの再校もある。
米田にはエピソードが書ききれないほどある。書きたいこともたくさんある。ニュース・ステーションの旅もほとんどが一緒だった。小早川監督は、米田にカメラをもたせれば、必ず何かは撮ってくる。何もいなくてもだ。何もいないどこかの川だった。「カワガラス」が水中を飛ぶ映像を撮ってきた。ちらっとだけだったが。
とりあえず、元気になれ。

0622

殺しても死なない奴ばかりをチームに集めたのに、次々と病に倒れる。今度の米田は立ち上がって欲しい。治る可能性を信じて闘うしかない。
一方で、僕も決して治ることのない病気、高齢と闘っている。これは、決して勝つことのない闘い。それも、一番難しいステージに来ている。僕も米田もダイバーだ。減圧症など屁でもない。高齢を予防する減圧表はない。米田の癌も再圧治療では治らない。
昨夜のフェイスブックで書いた。
「 病に倒れている、僕のチームメート、決して裏切らない米田を見まいに、鶴町さんに連れて行ってもらいました。明日にでもブログに書きます。彼はブログを見てくれているそうです。少しでも励ますことができればと願います。二人で旅をした場所、バイカル湖、アラスカ、なぜか北国が多いのです。ニュース・ステーションでも一緒でした。バイカル湖です。風に名前がついていて、ベルグズインと呼ぶ突風が吹くところです。風が吹かないように、コインを投げて通過します。」
 
 でも、昔の楽しかったころのことを書いたとして、それが彼の慰めになり、勇気を振り起す助けになるのかどうかわからない。でもしかし、バイカル湖に行った時のこと、オリホン島という、バイカルの中の島への10日ほどのクルーヅ、ロケだつたのだが、クルーズの前後はリストビャンカンカという湖畔の町のホテルに泊まる。
 ロシア、その頃はソ連のロケには必ず、通訳、コーディネーターの役人が付いてくる。もちろんエリートの役人で僕たちについたのは、名前は忘れたので、頭に浮かび上がってくる名前は「アンドレイ」だから仮にアンドレイとして、アンドレイは東海大学に留学していて、日本語は達者。
 ソ連の若い男はみんな恰好が良い。観光に来ていたアメリカ女にはもてる。
 アンドレイが、夜、自分の部屋で寝ていることはほとんどないと誰かが言っていた。
 食事の後、飲んでいるときに観光客とテーブルが一緒になった。米田が気に入ったらしい女の子がいて、米田は、アンドレイに通訳を頼んで、口説こうとした。
 僕は横で見ていて「馬鹿か、おまえは」と思った。予想とおりに、アンドレイとその女の子は消えた。
 
 バイカル湖の研究所のボートをチャーターしての10日近いクルーズ、潜水のこともたくさんあるが、食べ物のこと、食べ物は、出航するときに全部買いこんでゆく、クッキングするおばさんもソ連では資格は公務員であり、国中全部公務員らしい。もちろん日本とは公務員という概念がちがうみたいだから、国民全部が公務員なのかもしれなかった。おばさんもコックの有資格者で、ライセンスを持っている。だから、食べるものについては、絶対的な権力者である。そのおばさんが、10日分の献立を考えて食材を買い込む。
 この船に冷蔵庫はない。初の2日ぐらいは、ステーキは食べられた、3日目ぐらいから肉は腐る。ロシア人にとって、肉の腐った味も味覚のうちに入っているのかもしれない。日本人だった、鮒寿司なんていうのもある。しかし、僕は食べられない。野菜のたくさん入ったボルシチだけは食べられる。ボルシチを要求したが、あれは、一日に一度昼だけという献立になっている。変更は不可、船の食事だから仕方がない。豊潮丸のクルーズなら港に入るけれど、バイカル湖には港なんてない。目的地のオリホン島まで、30年前に建造された河船はとことこ、ノンストップでゆっくり走る。減量するしかない。
夕暮れ時になると、イルカがジャンプする。イルカはバイカル湖にはいないはずだ。あれはなんだ?とガイド役の研究所のチーフダイバーに聞くと、「バイカルあざらし」だという。僕たちはこのバイカルアザラシを撮りに来た。世界の海で、アザラシもアシカも人懐っこい。がバイカルアザラシは違う。人間に見つかり次第獲られて食べられてしまう。
ようやく、バイカルアザラシが群棲する島に到着した。水中撮影の予定だったが、とても無理。冬に湖が凍結している時ならば撮れるだろう。そんなこと、ここまで来て言われても困る。しかし、監督はドキュメンタリーの監督だから、やらせはしない。無理なものは無理なのだ。群棲地にも海から回れば逃げられてしまう。後ろ側の山をよじ登る。音を立てたら逃げる。山の上から、そっとそっと頭を出す。居ない。留守だ。
居ないものは居ない。どうすることもできない。バイカルアザラシを求めての僕たちの旅は終わった。
しかし、居ませんでした、で戻るわけにはゆかない。水中撮影で何とかしなければならない。そのことも書きたいけれど、これで時間が尽きた。JAUS総会の書類つくりをしなければならない。グラフィティの再校もある。
米田にはエピソードが書ききれないほどある。書きたいこともたくさんある。ニュース・ステーションの旅もほとんどが一緒だった。小早川監督は、米田にカメラをもたせれば、必ず何かは撮ってくる。何もいなくてもだ。何もいないどこかの川だった。「カワガラス」が水中を飛ぶ映像を撮ってきた。ちらっとだけだったが。
とりあえず、元気になれ。

0622 米田君とバイカル湖

殺しても死なない奴ばかりをチームに集めたのに、次々と病に倒れる。今度の米田は立ち上がって欲しい。治る可能性を信じて闘うしかない。

一方で、僕も決して治ることのない病気、高齢と闘っている。これは、決して勝つことのない闘い。それも、一番難しいステージに来ている。僕も米田もダイバーだ。減圧症など屁でもない。高齢を予防する減圧表はない。米田の癌も再圧治療では治らない。
昨夜のフェイスブックで書いた。
「 病に倒れている、僕のチームメート、決して裏切らない米田を見まいに、鶴町さんに連れて行ってもらいました。明日にでもブログに書きます。彼はブログを見てくれているそうです。少しでも励ますことができればと願います。二人で旅をした場所、バイカル湖、アラスカ、なぜか北国が多いのです。ニュース・ステーションでも一緒でした。バイカル湖です。風に名前がついていて、ベルグズインと呼ぶ突風が吹くところです。風が吹かないように、コインを投げて通過します。」
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   バイカル湖の夕暮れ、このあたりは突風の名所で、ベルグズインという40m近い風が吹く。風が吹かないように、コインを後ろ向きになって投げて通過する。
 
 でも、昔の楽しかったころのことを書いたとして、それが彼の慰めになり、勇気を振り起す助けになるのかどうかわからない。でもしかし、バイカル湖に行った時のこと、オリホン島という、バイカルの中の島への10日ほどのクルーヅ、ロケだつたのだが、クルーズの前後はリストビャンカンカという湖畔の町のホテルに泊まる。
 ロシア、その頃はソ連のロケには必ず、通訳、コーディネーターの役人が付いてくる。もちろんエリートの役人で僕たちについたのは、名前は忘れたので、頭に浮かび上がってくる名前は「アンドレイ」だから仮にアンドレイとして、アンドレイは東海大学に留学していて、日本語は達者。
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     左端がアンドレイ 先住民族の壁画を説明している。北方 史記のずっと前の時代の落書きだ。

 ソ連の若い男はみんな恰好が良い。観光に来ていたアメリカ女にはもてる。
 アンドレイが、夜、自分の部屋で寝ていることはほとんどないと誰かが言っていた。
 食事の後、飲んでいるときに観光客とテーブルが一緒になった。米田が気に入ったらしい女の子がいて、米田は、アンドレイに通訳を頼んで、口説こうとした。
 僕は横で見ていて「馬鹿か、おまえは」と思った。予想とおりに、アンドレイとその女の子は消えた。

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 このボート、建造ご何十年かわからない。このボートで10日のクルーズをした。バイカル湖は地球の割れ目である。湖岸のほとんどが絶壁だ。絶壁はそのまま湖底へ続く、船のへさきを岸に着けると、船尾はもう推進40mだ。湖岸のどこでもドロップオフだ。
 
 バイカル湖の研究所のボートをチャーターしての10日近いクルーズ、潜水のこともたくさんあるが、食べ物のこと、食べ物は、出航するときに全部買いこんでゆく、クッキングするおばさんもソ連では資格は公務員であり、国中全部公務員らしい。もちろん日本とは公務員という概念がちがうみたいだから、国民全部が公務員なのかもしれなかった。おばさんもコックの有資格者で、ライセンスを持っている。だから、食べるものについては、絶対的な権力者である。そのおばさんが、10日分の献立を考えて食材を買い込む。
 この船に冷蔵庫はない。初の2日ぐらいは、ステーキは食べられた、3日目ぐらいから肉は腐る。ロシア人にとって、肉の腐った味も味覚のうちに入っているのかもしれない。日本人だった、鮒寿司なんていうのもある。しかし、僕は食べられない。野菜のたくさん入ったボルシチだけは食べられる。ボルシチを要求したが、あれは、一日に一度昼だけという献立になっている。変更は不可、船の食事だから仕方がない。豊潮丸のクルーズなら港に入るけれど、バイカル湖には港なんてない。目的地のオリホン島まで、30年前に建造された河船はとことこ、ノンストップでゆっくり走る。減量するしかない。
夕暮れ時になると、イルカがジャンプする。イルカはバイカル湖にはいないはずだ。あれはなんだ?とガイド役の研究所のチーフダイバーに聞くと、「バイカルあざらし」だという。僕たちはこのバイカルアザラシを撮りに来た。世界の海で、アザラシもアシカも人懐っこい。がバイカルアザラシは違う。人間に見つかり次第獲られて食べられてしまう。
ようやく、バイカルアザラシが群棲する島に到着した。水中撮影の予定だったが、とても無理。冬に湖が凍結している時ならば撮れるだろう。そんなこと、ここまで来て言われても困る。しかし、監督はドキュメンタリーの監督だから、やらせはしない。無理なものは無理なのだ。群棲地にも海から回れば逃げられてしまう。後ろ側の山をよじ登る。音を立てたら逃げる。山の上から、そっとそっと頭を出す。居ない。留守だ。
居ないものは居ない。どうすることもできない。バイカルアザラシを求めての僕たちの旅は終わった。
しかし、居ませんでした、で戻るわけにはゆかない。水中撮影で何とかしなければならない。そのことも書きたいけれど、これで時間が尽きた。JAUS総会の書類つくりをしなければならない。グラフィティの再校もある。
米田にはエピソードが書ききれないほどある。書きたいこともたくさんある。ニュース・ステーションの旅もほとんどが一緒だった。小早川監督は、米田にカメラをもたせれば、必ず何かは撮ってくる。何もいなくてもだ。何もいないどこかの川だった。「カワガラス」が水中を飛ぶ映像を撮ってきた。ちらっとだけだったが。
とりあえず、元気になれ。

0623

0623
古巣の東亜潜水機を訪ねた。こんどのニッポン潜水グラフィティ、三分の一は、東京水産大学時代、三分の一が東亜潜水機時代、三分の一が日本潜水会から全日本潜水連盟、そして、駆け足で1990年まで駆け抜ける。東亜潜水機時代はその中心を占めている。
1969年の退社だから、40年の月日が流れている。
 佐野さんが担当しているコンプレッサー部門が、現在の売り上げの大部分を占めているのだが、その中でも潜水に関係する部分は小さい。佐野さんは、僕が東亜時代限りなくおせわになり、足を向けて寝られない、佐野専務の息子さんで、僕が東亜をでるときには小学校高学年だった。それから彼は中学、高校、そして大学は芝浦工大に入り、同好会だったアクアラングクラブを部に昇格させて。それからすでに40年の月日が流れている。
 グラフィティを買ってもらうこと、それから僕の80-80の潜水機をつくってもらうこと、二つのお願いだ。80-80の道具は後藤さんに作ってもらうつもりだったのだが、彼は世を去ってしまった。26日が後藤さんを偲ぶ会だ。
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 ヘルメット式潜水機を作っている工場には、水深10mの潜水訓練タワーがある。僕の東亜時代の最後近くに作ったものだ。中心になったのは、海軍の潜水の神様、伏流特攻の潜水機を作った清水さんだ。僕が作れば、もう少しスクーバの練習を頭において作ったのだが、ヘルメットとかマスク式の練習にしか使えない。
 社長の息子でこちらの工場の責任者である三沢一元さんと事務員の内山さんに会った。この前来た時には内山さんが歓待してくれたのだが、今日は冷たい。何があったのかよくわからない。
 ヘルメット式潜水機はもう作ることがないと言っていた。古いものを持ってきて、修理して、磨き上げて再生する。高齢化で廃業するヘルメットダイバーの方が、新しくヘルメットダイバーになって、ヘルメットを買う人よりも圧倒的に多いのだろうから、これで十分なのだろう。それにしても、東亜のこの工場、このセクションの将来はどうなのだろう。一元さんは僕よりも少し上で、年齢を聞いたら82ということだった。後継者はいないようだから、このセクションもコンプレッサー工場の佐野さんが引き継ぐのだろうか、彼だってもう60は越している。
 ヘルメット工場、今は潜水服工場が中心だろうが、語り合う言葉は居なくなってしまったひとのことだ。僕の助手だった安森君は独立して成功していたけれど、高血圧と糖尿病で亡くなった。橘君は、やはりコンプレッサー屋で、手伝ってもらったこともあるのだが,亡くなってしまった。

 どうしても暗い気持ちになる。

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 21時からは辰巳のダイビングプール、新しい人が増えて、総勢で30名を超えた。増えるのは嬉しいが、そろそろ定員を決めなくてはならないだろうか。面倒だ。
 鈴木あやのさんが大きいおなかで泳ぎに来てくれる。もうこのあたりがプールで泳げる限界だろうか。7月の10日ごろの予定だというから、瞬きする間だ。赤ちゃんが生まれたら、次に来てくれるときには赤ん坊をつれてくるのだろうか。まさか、だとすると、ベビーシッターに預けてくるのだろうか。泳ぎに来ないということは考えにくいから、いつごろから泳ぎにくるだろう。

 世を去るもの、うまれてくる者が交錯する。

 
 

0625 東亜潜水機

グラフィティ校正の最終、これで本になってしまう。いくつかの間違いがあった。その一は、お世話になり、足を向けて寝られない東亜の専務佐野さん、出身校を芝浦工大にしていた。息子の現社長佐野弘幸さんが芝工大だし、東亜の時の僕の相棒のようだった石崎が芝工大、そして、その弘幸君が創立のようなアクアラング部と親しくしているものだから、すっかりまちがえていた。昨日佐野弘幸社長に80-80のお願いと、本を買ってくださいというお願いに行き、間違っていると指摘された。彼は月間ダイバーの連載をしっかり読んでくれていたのだ。面白いとも言ってくれた。
 佐野専務の出身校は千葉大学の工学部で、実は舘石昭さんもその同じ工専のデザイン学科だとかで、同窓であることを語り合っていたのを横で聞いていたのに忘れてしまった。そのことを除いて、よく昔のことを覚えているとほめてくれた。しかし、その昔のことも、弘幸社長は、僕が東亜を去ったときは小学高学年で、会社に来ていたことはほとんどなかった。もしかしたら、今度出すグラフィティが東亜の社史になるのではないか、などと思っている。
 そのグラフィティに書き、カットされてしまったことがある。僕が入社する数年前までの東亜は土日がなく祝祭日もなく、休みは盆に正月そして藪入りだったと書いたところまでは乗っていたかと思う。そのあとのフレーズ、休日はなかったけれど、春はお花見、夏は海水浴、秋は温泉旅行、忘年会、新年会がある。つまり有給休暇などはとうていのぞめなかったけれど、会社が費用もちのリクリエーションがあり、親睦を深めていたのだ。古き(良き?)時代の日本の零細企業、お店(おたな)は、そういうものだった。
 そこに入社した若き日の僕は、そのころはすでに土日の休日があったが、それも第二と第四日曜日だけで、若手の僕はその第二、第四も日直ということで一晩宿直付の電話番をやらせられた。
 そして、夏の海水浴、秋の温泉旅行の幹事をやらせられた。良い企画を立てないと、その年中須賀さんのたとえば鬼怒川温泉は食事がよくなかったとか、つまらなかったとか、部屋割りで、仲の悪い人と一緒にされたとか、数年にわたって苦情を言われる。近くにある旅行社が毎年のエージェントで、パンフレットをもってくる。あるいはこちらから候補をあげて、資料を持って来させる。それをみんなに配って、アンケートを取る。そのアンケートの結果決めるのだから、みんなの総意なのだから、僕に責任がないなどとはいえない。アンケートの時の僕の説明、ここは、こんな風に良いのだという説明を要求され、その説明で決めるという部分がある。
 なぜか、僕の企画は評判がよく、僕の下に安森君が入っても、社員旅行は僕が仕切っていた。一つには、工場の女衆の圧倒的支持があったからだが、これもまた大変で、ちょっとでも女工さんの誘いに乗ったら大変、たとえば一緒にお酒など飲んだら、次の日には会社全員、と言っても50人足らずだが、知れ渡っている。とにかく当人が言いふらすのだから。
 しかし、それもこれも今となっては懐かしい。畳敷きの大広間のような潜水服工場で、ミシンや、低い大きな糊貼りの机をおいて、ヘルメット式の潜水服を縫ったり貼ったりしている。若い娘、おばさんのさんざめき、きわどい冗談、今はもう遠い昔だ。
 そう、この女衆のほとんどが、会社からあるいて10分程度の汐入からやってくる。古い長屋のような下町の家並みで、家の前には花の小鉢がならべてあるようなとても好きな町、こんな街に住むのも良いなと思ったりした。今は高層のマンションが立ち並んでいる。さびしい。
海水浴の手配は当然ながら、この会社で唯一のダイバーである僕に責任がのしかかってくる。忘れられないことが一つ、その海水浴で新入の若い社員、昔でいえば小僧さんがおぼれた。「須賀さんと一緒だったら、泳げると思った。」まるで泳げない子だったのだ。背の立つところでおぼれた。僕がダイバーで、一応レスキューなど心得ていたから何事もなかったが、海水浴は恐ろしい。今ならばライフジャケットをつけさせるのだが、そんなものはまだない。まあ、今でも泳げないのにライフジャケットなしで海水浴に行く人もいるだろうけれど、泳げない人の海水浴は、膝上の深さでもう危ない。
 昔の落語で、香具師が本を売っている。いくつかの秘訣が乗っているというふれこみで面白おかしく説明してそれを売る。その中で「泳げなくてもおぼれない方法」というのがあり、「腹の部分に筆で線を引く、この線よりも深く行かなければ大丈夫」という種明かしが載っているが、大間違いである。膝の下に線をひき、それでもうねりのある季節にはあぶない。引き波に足をさらわれる。

こんなこと、東亜潜水機での10年をノンフィクションスタイルでしっかり書いたら面白いだろうなとも思う。しかし、今度のグラフィティの中心も東亜での10年だが、100m潜水が大部分を占めている。それも含めて、ノンフィクションというフィクションにしてしまったら、などと考えるが。。。。。。目下のところ自信が持てない。

0626

0625
サッカーは予想通り。日本中のサッカーフアンのほとんどが同じ予想をしただろうが、緒戦のコートジボアールがすべてだった。これに勝ち、コロンビアかギリシャ、おそらくはギリシャと引き分けて、得失点差で決勝に進出、そこで敗退。その緒戦のコートジボアールに負けてしまえば、もう、あとはラッキーだのみ、ギリシャが一人欠けたラッキーがあり、これに勝って、コロンビアに引き分ければ、なんとか、だったけれど、コロンビアにはコテンパンだった。3点以上いれられたら、サッカーの世界ではコテンパンだろう。
 後から調べて見れば、日本のランクは46位、コロンビアが8位、ギリシャ12位、コートジボアール23位だという。現在のスポーツはデータを重視するとすれば、どうして予選突破という答えがでてくるのだろう。ましてはベスト8が最低なんて。
 しかし、負けを覚悟で出て行くというのも面白くないし、マスコミ的には困るから、景気を着けて出て行って、負けるというので良いのだろう。勝っても負けても、命はとられない。前回16位の岡ちゃんは大出来だったのかもしれない。今頃、ひそかににっこりしているだろう。
男子サッカーはまるで分らないから、監督の采配がどうのこうのまではわからない。それでも、決勝リーグまで行かれないのは監督の責任とは思えないが、どうも選手を作り上げて行く、チームを作り上げて行くタイプの監督には見えない。それに、そろそろ(ザックジャパン)とかジャパンの前に外国人の名前がついているのは、好きじゃない。責任は監督にあり、選手には無いというということなのだろうか。
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順天堂から御茶ノ水に向かってあるくと、この看板がでていて、サッカー大通りとタイトルがついている
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久しぶりでAEEをメモにつかったが、メモにはこの噛めればいい。

 順天堂大学病院の河合先生の二か月ごとの検診の日だ。少し早いのだが7月の3日から9日まで、豊潮丸に乗るので、その前の水曜日に時間をとってもらった。10時30分の予約で10時25分位についた。10時30分に呼ばれて診察室に入った。待っている人が4人もいたのに飛び越えた。診察は雑談だったが、いつもより長めにしゃべってしまった。これから出すグラフィティのこと、JAUSの会議のこと。
 診察を終えて、どうせ支払いまでの間、30分以上かかるだろうと、レストランに入った。ヒルトップ、山之上ホテルが出している店だろう。800円のモーニング。テーブルで時間つぶしのキーボードをたたいた。そろそろいいだろうと出ようとしておどろいた。空きを待つ客が列を作っている。キーボードをたたいていて悪かったなと思う。ところがこれだけ時間をおいても、計算ができたという表示がモニターに出ていないのだ。数分待ったが出ないので、信濃町の成山堂書店に行くことにした。13時の約束だ。
12時50分ぐらいに到着して担当の小野さんといくつかの打ち合わせをしているうちに潮美がきた。これで、最終であり、もう直せない。空いている部分にダイビングの危険についてのコラムを入れたのだが、危険だとか、安全だとかはそれぞれが判断するべきことだから蛇足だったかもしれない。書いたことは、ダイビングの危険は、エア切れ、そして原因不明と思われる意識喪失、だから、絶対に一人にはしないという事だが、これは、常識だから、蛇足だったかもしれない。しかし、どうしても入れたいとその時におもったのだから、そして、間違っているわけではないので、これで最終としよう。
信濃町の駅で、ちょっと立ち話して、潮美とわかれる。なかなかかっこいい奴になったなとおもう。
 信濃町からお茶の水にもどり、順天堂大学の支払いを済ませる。
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帰りには必ずお茶の水の丸善による。決して新しい本を買うまい。読みかけの本が積んであるのだから、と自分に言い聞かせる。しかし、「地図のない場所で眠りたい:高野秀行、角幡唯介 これが探検だ」買ってしまう。グラフィティで探検とは?冒険とは?さんざん定義づけで悩み、今日の成山堂書店での最終打ち合わせでも、冒険は冒険なのだ。その人が冒険だと思えば冒険だ。日常の仕事で、リスクをとることも冒険だなと思う。今度のグラフィティの出版も冒険だ。夢と冒険を追って来たのだから、冒険しなければ本はできない。それでは、探検とはなにか。冒険の中に含まれていて、誰でも行かれるところではないところへ行くこと。だからスクーバダイビングは水中探検だ。
角幡唯介君は僕のダイビングの弟子だ。高野さんの本は、『ワセダ三畳青春記」が好きで他の本も買ったが、最後まで読んでいない。とにかく、探検についての本だ。
一冊買ってしまうと、歯止めが亡くなり、もう一冊買ってしまった。「米海軍で屈指の潜水艦長による「最強組織」の作り方」、すべての会社から引退してしまった今、読んでも仕方が無いような本だが、米国海軍の潜水艦がどのように動いているのかを組織論の視点からみているのが面白そうだ。この二冊は豊潮丸に持って行こう。
他にも買いたい本があったけれど、思いとどまった。

0627 後藤道夫メモリアル

  0627 後藤道夫を偲ぶ会、を代官山花壇でやった。30名を予定していたのだば、36名を集め、椅子の数が足りなかった。
 この会は日本潜水会とはタイトルに出さなかったのだが、僕としては日本潜水会だった。日本潜水会は1967年に誕生し、1974年には全日本潜水連盟の関東支部に指導業務を移行して、とりあえずの使命を終えた。そして、1982年に、再び日本潜水会のダイバー仲間が集まりあおうということになり、指導組織ではない何もしないただ親しく助け合い、集まりあおうというクラブとして再スタートした。
 それ以来2008年まで、毎年一度、忘年会で集まった。日本水中科学協会もその中から生まれたのだが、この集まりは停止した。水中科学協会は水中活動を行う活動団体として成長を続けているが、古い友人が集うクラブではなくなった。そして、今(昨夜)集まると、心が休まり楽しい。本当に時を越えた友情、この輪を大事にするとともに、拡大してゆくことは、水中科学協会の活動とは違った意味で、ダイバーのためになる。何より、自分のためになり、自分と同じような考えをもつ古い友達のためになる。自分が死ぬ前に復活させておけば、後藤道夫、浅見国治、僕、そしてあの時代をともにダイビングですごした仲間たちが支えあいそして、後藤とか浅見と僕の友情と同じような友情を今も続けている友達との友情を持続させ、広げ続けて行くことは意味があるのではないかと思う。
理屈はともかくとして、楽しかったのだ。そしてみんなで再び助け合い友情を深めるクラブとして、之で終わりにしたくない。
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 お台場に出かける寸前なので写真をえらんでいるじかんがない。
それに司会者の視点からだけしか記念写真をとっていない。集合写真を撮ろうなどという知恵はわかなかったし、その時間も無かった。こんどからそのことを必ずやろう。
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 失われたもの、過ぎ去ったものへの想いはただのノスタルジーで現在にはよみがえらないものなのだろうか。蘇らないとわかってはいるけれど、生涯変わらないという友情、そしてそれを基本にした集まりが快く、どれほど、人の心を慰めて、明日への心の糧になるものなのだろうか。1967年の日本潜水会の指導員合宿以来、それは、僕の心の支えだった。もちろんそれは僕たちだけのものではなく、おそらく、NAUIの鶴町や村田さんの過ごしたインストラクター講習、法政大学のOB会でも、どこでもあることのようにおもえる。そしてそれらは共通のスピリッツなのだとおもう。それを一括するようなシンボル、集まりをつくり、それをさらに拡大しようとすることは意味がないだろうか。それには指導団体、業界とかもちろんJAUSもなにもない。だれでも、ダイバーである、あるいはダイバーであった、熱い心をもっている、あるいは持っていたことがあれば、集まって話した時に通じ合える、昔の事、今のこと、そしてこれから先のことも語り合える、オープンマインドなクラブを日本潜水会のメモリアルとして作り上げたいと、27日の集まりを司会して居ながら考え続けていた。
本当にこれが僕の最後の仕事になるかもしれない。そのことが先に世を去って行った友達、後藤道を、浅見国治、数え上げれば際限もない友達のこの世での輪、メモリアルになるのではないかと思う。
 では、日本潜水会とはどんなクラブであったのか、1982年からの呼びかけ、連絡の文書が残っているので紹介してゆくことで、これからさきのことを語ろうと思う。

0629 お台場

 0629 お台場
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 疲れた。今年初めてウエットスーツで潜った。そして、水道の水を頭からかぶって気持ちの良い季節が巡ってきた。
 しかし、今年のお台場は、3月以来、魚が見え始める季節になったて以来、ずっと濁っている。
 それでも僕はトレーニングだから、大事に潜る。一回目の潜水はウエイト5キロ、ちょっと重かったので、4キロにした。これで豊潮丸でのダイビングの調整ができた。ブーツが少しゆるくて足が痛いので、代えよう。
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 まるで濁っているから、チギレイソギンチャクぐらいが被写体だ。マハゼはたくさんいるけれど、ちらちら右往左往するだけだから絵にならない。
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 水面の上、沙海ちゃんが引いているブイが、ベストショット?
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 今日もボートレースが行われていて、監視ゴムボートの尾島さん奥さん、沙海ちゃんのお母さん、
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 しかし、こんな濁りの中に清水まみは、くそでかい、一眼レフを持って敢然と行き、1時間半は帰ってこない。
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彼女はすごい晴れ女で、今日も潜っている時だけ晴れた。帰りの車で走っていると、大雨、しかし、彼女が来るようになってから、濁りが取れないから、濁り女か?しかし、彼女はこんな濁りの中で、アナゴか何かのレプトケファルス幼生の素晴らしい写真をとっている。何かの写真展に出すらしい。芥子粒より小さい眼にピントが来ている。せめて二三年前からここで撮っていれば、小さい写真展ができたと思う。まあ、これも、僕の生きているうちに、お台場での撮影で彼女の個展が出来るように後押ししよう。頑張れ。尾島一家も、風呂田先生もみんな応援してくれるよ。中村征夫も東京湾のこの辺を撮って、メジャーになった。夢を追ってシャッターを押せ。このところ、この前の富戸以来、言いたかったことはそれ。アマチュアだって立派な写真集ができる。
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0701 辰巳

0630
月曜日の17時から19時 半端な時間なので、辰巳国際の練習会は、さすがに来る人も少なく、それでも12人、このくらいが本当に自由に気持ちよく潜れるといえないこともない。来たメンバーも気持ちよくおよげただろう。
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昨日7月1日、21時から22時の練習会はほぼ満員だった。
ありがたいことで、なぜ満員になっているのだろう。僕は、ゆるいこと、そして何もしないけれど、ホスピタリティだと思っている。前からのことだけれど、来てくれる会員の泳ぐのを見ていると、ほとんどバラバラで勝手に楽しくおよいでいる。初心者指導を受けたい人は、鈴木君が見てくれているけれど、ときどきはこれも10人近くなる。これも、緩い指導でのんびりやる。このごろ、フリーダイビング、日本チャンピオンの岡本美鈴と仲良くしている。プールに入る前に立ち話した。「緩い練習会にきて、もっときちんと習いたいという人がいたら、美鈴のところに送り込むよ。」
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 僕はといえば、ウエットスーツを新調した。横山君にお願いした。3mmのワンピース、ごく普通のウエットスーツだ。秋のフリッパーレースは全身のウエットスーツを着なければいけない。これを着て、25mダッシュを4本やった。このプールではウエットスーツを着ない、慣れていないので、タイムはだいぶ遅くなるだろう。練習が必要。
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 いつものフリスビーは楽しい。ウエットスーツは脱いで、自由になり気持ちよく潜って遊んだ。マスクマウントにGOPROをつけて、フリスビーには触らなくても、水中を巡航するように泳いで、撮影し、ディスクが来たら、捕ってすぐに投げ返す。
 すぐに投げ返すことがコツだと思う。フリスビーを楽しみに来てくれる人もすくなくないだろう。本当に気分がよくてリフレッシュできる。
 そう、21-22時、1時間を気持ちよくリフレッシュできる。それが人気をあつめているのだろう。

 さて、今日、2日から広島に行き、広島大学の練習船、豊潮丸に乗って周航する。今回は日本海を北上する。しばらく、ブログは航海記だけになるとおもう。79歳の航海記、である。

ところで、自分は体育会系ではないと思っていた。体育会系という言葉も嫌いだった。が、最近の自分の心の動きを見ていると、バリバリの体育会系のように思えてきた。
酒は飲まない。もちろん一気飲みなどは否定、できれば、会議のあとの親睦という意味での飲み会も パスしたい。全日本潜水連盟の理事長の時は、このような飲み会には一切参加しなかった。もしかしたら、そのことがいけなかったのかと思い、JAUSを作ってからは、極力参加している。しかし、あまり実質的な懇親になったかどうかわからない。それでも、自分は体育会系なのだなあと思う。そんな意味で大学生の練習航海に付き合うのは楽しい。

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