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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0920 ダイビングの歴史 11

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ダイビングの歴史11 1954年 このところ、ダイビングの歴史はフェイスブックで下書きを書いていて、それはそれで良いのだけれど、この11は、蛇足を書きたい部分が多くなり、また写真も多く使いたい。そして、ちょっとブログの間が開きそうなので,ブログにした。
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「 昭和30年、1955年(出版された年)以来手元においている「世界海洋探検史 宇田道隆(東京水産大学教授)河出書房」によれば、 「1953年アメリカの海軍研究所から日本に派遣された海洋学者ディエツ博士は、潜水器アクワラングをつけて自身加洲沿岸で撮影した天然色映画と実物を持って自ら房州小湊などで潜水することによって日本に紹介した。」この文によって、ぼくらは日本にアクアラングが紹介されたのは1953年としたものだった。 そして「昭和29年(1954)8月1日、東京水産大学生 旭完爾、伊藤国彦は、本器で小湊で潜水実習中、我が国最初の尊い犠牲となった。」この事故は、僕の潜水の原点の一つであり、ダイビング事故小史のトップで書く。」  ここまでが年表の記述で以下蛇足である。  事故について、このように、出版された本の中で、実名を明記することは大事なことだと学んだ。事故は忌み嫌うものではなく、そこから何を学ぶかが重要であり、その人の実名を明記する事が礼儀であるかのように思う。賛否両論あると思う。この事故の旭君、伊藤君の遺族は、小湊実験場の磯に、名を刻んだ小さい石碑を建てたという。僕はそれをみていない。やがて、小湊実験場が千葉大に移管された時、石碑は品川の海洋大学にもってこられたというが、それもみていない。時とともに、石碑はどこかに消える。海洋探検史には残っている。
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 なお、宇田先生の海洋探検史、僕が海へと志した原動力になった本の一冊、もう一冊は、たびたび紹介しているユージニー・クラークの「銛を持つ淑女」 どちらが、といえば、今もたびたび見るのは世界海洋探検史だ。 今と1955年では、技術的な差は大きいが、簡略な名文であり名著である。「潜水と深海の宝」の項などは,全文をダイビングの歴史に収録したいと思うほどだ。 水中撮影について「アメリカのディエッ氏らは、アクワラングで海藻等海中風景を撮影した。それは水かきを着けて、かなり遠く水中をイルカかマグロのように動く」1955年当時のダイビングについての認識であり、本質をついている。
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 僕は,海洋探検史のなかのモナコ海洋博物館の写真を見て一度は行きたいとあこがれた。1993年、60歳を記念して100m潜水の番組を作ったとき、ジャック・イブ・クストーに合いにいくことになり、(ジャック・イブ・クストーの体調不良で果たせなかったが)ついでに行きたいところ、言うまでもなくモナコ海洋博物館だ。 副館長のシモーヌさん(女性みたいな名前だが男性)は、宇野先生の教室に留学していて、僕の後輩に当たり、水中写真の撮影の共著者である小池さんの親友だった。ということで歓待してくれて、館長のドモンジョさんともお話しすることができた。僕はそのころ三宅島に潜水博物館をつくろうと計画奔走していて、もしも三宅島潜水博物館ができたら、モナコ海洋博物館と提携という話もできた。三宅島の方は,むなしく潰え、その後で大噴火が起こった。 モナコ海洋博物館、ダイバーの誰にとってもあこがれの場所だろう。
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         これは僕の撮った写真 1993年

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