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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0906 学生スポーツとしてのダイビング 3

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このブラックアウトのこと、何度と無く書いている。事故、及び事故に準ずること、責任者は何度でもその事を発表、言わなければならない義務があると思う。他の人の事故は、口にしがたい。責めるような形になるし、インストラクターやガイドダイバーは、明日は我が身なのだ。人のことは言えない。 高橋の息こらえを見ていたお客は、インストラクター志望で奄美大島から出てきている子で、それなりに自信があり、その所属するクラブの責任者は、事故の知らせを聞いて、まさか、あの子がプールで亡くなるなんて、考えられないと。 不幸なことに、お客を連れて練習していた吉川は、プールの水深10mに居て、息こらえをしていたのは水深5mのところ、10mから浮上してくるときに動かないままの人を見つけ、引き上げて救急蘇生をしたが、亡くなってしまった。経営者はダイバーではなく、その事故にショックを受けてやめようと決めてしまった。ぼくは、引き継ごうと努力をしたが資金が足りなかった。
 今のスタティック、息こらえの練習方法はこのような事故の教訓から、水面で息をこらえる人の身体に手を触れながら、見守る。こんな事故は昔のことだ。ところが違うのだ。今、2018年僕は辰巳の国際水泳場でスキンダイビングのフリー練習会をしている。それは、しないでくださいと注意書きを出しているのだが、梯子につかまって、息こらえの練習をしている人がいる。そして、近くでみている人がいない。下手な人が溺れるのなど何ほどのこともない。すぐにわかる。わかれば、助ければ良いだけ。息こらえ練習は声もなく、暴れもせずそのまま意識を失ってしまう。きちんとフリーダイビングのインストラクターが付いていて、しっかりした管理の下で練習しなければいけないのだ。それなりの費用、経費がかかるけど。
 
 そして、第15代、夏休みの合宿だけ見てくれと頼まれ、小湊実習場に行く。その第一日目、それぞれのスキンダイビング能力を把握したい。とともに、からだならしのつもりもあり、まず、息こらえをする。
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           サジッタに乗っている橋本先輩 一期上
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            小湊実習場 桟橋

 小湊実習場には、自分が学生時代遊んでくれた櫓漕ぎの小舟「サジッタ」がある。サジッタとは、プランクトン「矢虫」のことで、顕微鏡でなくても見分けられる矢の形をしていて、矢のように泳ぐ。当時、大学の各臨海実験場には、たいてい、木船の櫓漕ぎの小舟があり、たいてい、サジッタと名付けられていた。現在も実習場にはサジッタがあるが、現在のサジッタは、FRP船であり、船外機付きである。船外機付きは免許がなければ動かせない。学生がだれでも乗り出して遊ぶことができる小舟としては櫓漕ぎが良い。
 普通のオール漕ぎのボートは座って漕ぐ。水面を見下ろすことができない。スクーバダイバーが出す気泡を追うことができにくいのだ。櫓漕ぎの小舟、理想は木船がいい。ダイバーにぶつかった時の感じが、木船が柔らかい感じで良い。サジッタは、スクーバダイバーのための小舟なのだ。
 1954年の東京水産大学潜水実習中の死亡事故は、サジッタが追尾していれば起こらなかった。
 久しぶりでサジッタの櫓を漕いで、みんなは泳いで、岩礁を一つ回り込んで、隣の入り江でアンカーを入れた。
 バディ、二人、一組を作って、水深2ー3mで息こらえをさせる。
 みんな、ぜんぜんだめ、1分程度しか潜れない。それで良かったのだ。笑ってすませれば、それで良いのに、2分間こらえるようにと指示してしまう。
 2分間という数字は、自分たちが3年生1957年に潜水実習に参加したときの、参加条件、2分ぐらい息を止めていられなければダイビングはできないと言われたことが、頭に残って居たものだ。
 実際は、息こらえのプロである海女の平均潜水時間は1分に満たないのだが、当時はそんなことは知らない。
 そして、一人上がってこない。バディが潜ってすぐに引き上げてくる。その間、1分以内だったが、引き上げてサジッタに乗せる。チアノーゼで顔面は蒼白、四肢は硬直して死んだように見える。脈拍を調べたり、呼吸の有無を調べたりするようなことはせず、直ちに息を吹き込む。2回息を吹き込むと大声を上げて蘇生して暴れ出した。押さえつけながら舟を岸に戻す。恐ろしいのは、肺に水を吸い込んでいる肺炎である。救急車の要請をする。亀田病院から直ちに救急車が来て、入院する。念のために集中治療室に入るが翌々日には無事退院する。みんなでミーテイングを開き、合宿の中止を決定する。
 聞けば、事故を起こしたK君の息こらえ能力は、学年では高い一人で、3分を越えていた。合宿のための費用稼ぎで、過酷な冷蔵庫アルバイトをして疲れていた。しかし、本人はそれほど疲れているとは感じていなかった。
 息をこらえていて全く苦しくなく、2分ということで時計の文字盤をみていて、そのまま意識をなくした。
 線引きは、2分以上ではなくて、1分以内とするべきだった。
 舟は直上にあり、バディシステムは整っていて、そのために命は助かった。しかし、事故であることは間違いないと判断し、責任をとって、以後、監督のようなものはせず、次に潜水部と接するのは、第40代、それからの10年でOB会をつくり発足させる。
 監督を辞めるのが正しかったかどうかわからない。また、それからの自分は、仕事の正念場であり、とうてい続けることなどできなかった。
 しかし、この事故の経験、また現役に対する接し方のノウハウも得た。最初に述べたようなコードがあり、監督という名称があり、OB会のバックアップがあれば、続けたと思う。そして、続けていれば、その後に起こるヘリ搬送の事故も起こらなかっただろう。 また、学生のダイビングにお節介をしても、何にもならない、などと考えず積極的に介入していれば、次に起こる事故を防げたかもしれない。今、こんなものを書いている所以である。
 事故を起こしたK君のお父さんは、陸上自衛隊の幹部の方で、こちらから連絡したわけでもないのに、息子が迷惑をかけたという丁重な手紙をいただいた。
 立場を明確にして、現役とは規律のあるつきあいをしていかなくてはならない。それが、できないならば責任は負いえないと考えた。
 ここでの自分の判断は、すべて、ネガティブ、退くことだった。退く、すなわち捨てるということだった。 
 もう一度取り戻す、潜水部と関わるのは、第40代、それから、25年後のことだった。
 
 なぜ、フリーダイビングとの線引きをきっちりさせるのか、上達を目指さないようにするのか、わかってもらえる為に事故例を並べた。

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