「探検と冒険」全集を読み、角幡唯介の言う冒険0901とは無謀なもので、命の危険が無くてはならない。そして、命を確保するシステムから脱することなど、ダイビングは、その冒険なのだ。そして、その冒険の危機管理をする。安全管理をする。爽快感は失せて、具合が悪くなってくる。 そして、その管理責任を監督にゆだねる。そんなこと引き受ける人がいるのか?どうしてもいなければ、現役、あるいは上級生、学内OBにお願いする他ない。2003年にはそのためのルールをつくろうとした。SAIである。 が、たぶん、監督をやってくれる人はいると思う。僕は深く考えないで監督のようなものをやったが、監督はどこまでやるのか、その責任の範囲をまずきめておかなくてはいけないだろう。 具体策は、詰めて言ってしまえば、「自分の監督下では、絶対に一人にしないこと、一人にするときには、ロープ、ホース、通信ケーブルなど、物理的な連携手段を切らないこと。そして、そのバディは自分の管理の傘の下に置くこと。」それをどのようにやるかは、創意工夫の余地があるし、場所、状況によっても、異なるので、これをローカルルールという。 ローカルルールを作り、それを公知させて、それを守っていれば、守らせていれば、責任を果たしたことになるだろう。もう少し具体的にすると、以下のようになる。これは、自分が経験から言っているのであり、プラスそれぞれの創意工夫があるだろうが、だいじなことは、文書化しておくことだ。 ①メンバーの能力、性格、これまでの育ってきた環境、などをできるだけ知る。できれば父母会のようなものを作って、父母と連携する。 ②コーチ(現役、もしくはOB あるいは別にインストラクターを依嘱する場合もある。)が作る計画を検討し承認する。自分がコーチ役を兼任する場合もあるだろうが、できれば別の方が良い。コーチの人数に制限はないが、その能力、性格など熟知している必要がある。 ③事情が許す限り、試合(海での潜水)に同行する。ダイビングでは、監督は無給、ボランティアであることが、普通であるから、常勤ではない。だから事情が許す限りで良い。まるで行けなくてもそれでも監督は必要。最低でも、一年に一回は合宿の時などに行く。でなければ、①を果たすことができない。 ④ローカルルールを確立し、それが守られることを確認する。 ⑤ローカルルールの中に、計画書を必ず作ること、を入れる。エクセルでログと併用した書式を作っておいて、必ず残しておく。 ⑥安全のための環境、状況を作り出し確保する。状況に応じてボート、浮力体を用意する。命綱、潜降索の利用も考慮する。 ⑥チームワーク 現場の空気が良好であることに留意する。 先に述べたが、これは僕の現在考えているコードであり、僕が自分の経験、失敗から考え出したものである。要は、監督それぞれが、自分のコードを持てば、良い。ただ、それが、周囲の人たち、現役、コーチ、顧問の先生、父母 に文書で明示され理解されていることが必要である。 そして、その監督という名称は公称として認められていなくては、いけない。以下に述べるような、監督らしきもの、ではだめなのだ。監督を監督として認めるのは、OB会で良いだろう。そして、監督には、OB会のバックアップが必須である。 僕がおつきあいしている、中央大学、学習院はそのシステムが機能している。安心してみていられる。 僕が母校、海洋大学の監督らしきものを引き受けていたのは、第13代 14代 15代だ。 監督らしきもの、というのは、監督という制度名前がなく、自分で勝手に監督だと思っただけだからだ。 第13代、僕が自称監督をしていたとき、おそらく潜水部60年の歴史の中で、ダイビングの実績として、もっとも成功した代だったと思う。 まず、潜水部は、ただ潜水をする。潜水を習い覚える、だけでなく、何かを成し遂げなければいけないと考えた。これは、ダイビングは手段であり、何かをしなければならないという、僕のダイビング生涯のコンセプトに沿ってのことである。 そして、なにか具体的な目標があることによって安全策、ローカル・ルールを優先できる。バディシステムも保たれやすい。チームワークも作れる。 何をするか? そのころ僕はアメリカの雑誌、ポピュラー・サイエンス、ポピュラー・メカニック という雑誌を購読していた。そのメカニックの方だったと思う。水中ソリが載っていた。ソリと言っても梯子のような枠組に、翼が着けられ、風防があり、翼を動かして潜降と浮上ができる。 これだと思った。水産大学潜水部の研究目標は、水中ビークルと決めた。 僕は直接には教えなかったが12期に大塚君という、実家が鉄工場をやっている学生がいて、ポピュラーメカニックを参考にして、一人乗りの、ニックネームをトンボと名付けたものと、二人乗りの本格的なビークルができてきた。これを漁船で曳航するわけだ。
ここで、その頃の潜水部の学生少しさかのぼって紹介してみよう。 全員ではない、僕のこのプロジェクトの関係者、および、今ここに書いて、読む人が、「あああの人が」とわかる、つまり、ダイビング関係者だ。 第9代、1963年入学、(すべて入学年度で表示) 黒川治雄:後にマリン企画を創立して雑誌 ダイビングワールドを作る 本山雄策:テイサンに入社、最近まで、ダイビングのヘリウムガスは彼が供給していた。 第10代 1964年 石川文明:現在 西川名オーシャンパーク オーナー 第11代 1965年 大塚優 そりを作ってくれた 島義信:後に旭潜研 第12代 1966年 佐藤英明 日本潜水会の中堅になった、 船水欽一 第13代 1967年 僕の監督時のメンバーだ。なので、少し詳しく。なお申し訳ないが、女性メンバーとは、親交がないのでその後がわからない。 梅沢一民 大掛俊二:JAMSTECに入り、海底居住のアクアノートに選ばれるが、その潜水を前にして交通事故で亡くなってしまう。奥川均:やはりJAMSTECに入り、石油掘削リグのダイバーの草分けになり、独立して、撮影と潜水の会社を興し、僕のライバルとなったが、病気で亡くなってしまった。少し向こうが勝っていたから、今も生きていれば、日本水中科学協会の後援者になってくれていただろう。後藤一朗:作業ダイバーの会社 潜海を起こし、成功して、悠々自適、抽象的な造形を趣味でやり、総理大臣賞を取った。つい最近、亡くなってしまった。佐倉彰 津川三郎 高橋実:僕と一緒にスガ・マリンメカニックを始めるが、7年後に独立して、海洋リサーチを作り、潜水団体 スリーアイを創立する。津川三郎、吉川忠 鬼怒川パシフィックに入ったが辞めている。和久井敏夫:関東学生潜水連盟二代目の委員長 芙蓉海洋開発 第14代 1968年 佐々木良:東北海区水産研究所での磯根資源の専門家、大津波の石巻でお世話になった。 第15代 1969年 栗原正明 :練習中、ブラックアウトを起こし自分が、潜水部の指導から離れるきっかけになってしまった。 松野均:富山県の漁協組合長連合の会長になった。 話を元に戻して、大塚鉄工所で作ってもらった2機のビークルで、本格的なエキスペディションを企画した。 奄美大島の大島海峡は、1956年に自分が初めてスクーバで潜った場所だった。大島海峡水中探検をでやりたい。 でも、お金がない。 企画書を書いて、テレビ局、新聞社などに送りつけた。この方法は、1962年に自分が舘石さんとやった100m実験潜水で成功している。 大阪朝日放送から連絡があった。興味があるが予算がないので、エキスペディションの費用はだせない。水中撮影に必要な費用とカメラマンのギャラだけだという。奄美大島では、自費でいくお金が学生にはない。八丈島でどうだろうかと再度提案して決定した。 宿泊は、漁協の網置き場倉庫を借りて、倉庫の中で寝袋で寝て、自炊。エキスペディションなのだ。その状況も撮影する。
ジョテックのプール フーカーで練習できる。
その頃、川崎の下丸子に、深さ10m、と5mに区分けされ、10m×15mの日本でおそらく初のダイビング訓練用プールが作られた。ジョテックという会社で、スガ・マリンメカニックは、その会社とダイビング指導の請負契約を結んだ。高橋、吉川を雇い入れたのはその仕事を目指してのものだった。 13代のメンバーは、もともと身体能力が高かった。後藤一朗は、5キロの鉛を持って立ち泳ぎをさせて、20分、30分と泳がせても沈まない。5キロを7キロに増やしてしまう。重量挙げのウエイトを増やして、鍛えていくのとおなじだ。そして、増やした数がスタンダードになってしまう。指導者が自分でやってみる。僕は5キロが限度だったから、5キロ以上にはしなかった。指導者の身体能力がたかいと、それを全員にやらせてしまう。水中という環境では、常に弱者、一番弱い者をスタンダードにしなければいけない。 高橋実は、3分の息こらえが普通にできた。今でこそ、フリーダイビングのスタティック競技で、5分、6分、7分と息を止める選手が出てきて、3分は普通だろうか、1970年当時は、3分でも驚くほど長い息こらえだった。 その高橋が、下丸子のプールで息こらえの練習をする。水深5mで腹ばいになって息をこらえる。3分は、ずいぶんと長い。そばでみていればいやになる長さだ。それを、自主練習にきているお客がまねをした。