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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0717 新・冒険論 角幡唯介

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                コルシカのマーク 冒険の旗っぽくて好きだ。

 冒険という言葉、くつかの意味があると思う。日常生活のうちにも冒険がある。「それは冒険だったね」と言うような事態は頻繁にあるし、人間が生きているということ自体がすでに冒険とも言える。病気になるのも冒険だし、高齢で生き続けているのも、かなりの冒険だ。このごろあんまり流行らないみたいだけど、人が冒険小説にはげまされるのは、日常のつらい、いやな思いもはさまる冒険を、造られた爽快な冒険小説、あるいは映画などに置き換えて、堪え忍ぶ。
 もう一つの冒険が、これは真正の冒険とでも言おうか、非日常の冒険である。角幡唯介の「新冒険論」は、その真正の冒険について、冒険とは何かを論じている。 角幡唯介のことは、前にも書いている。
 2011年、彼が朝日新聞、埼玉支局の記者の時、ダイビングをお台場で教えた。ダイビングの目標が荒川の環境を探ることだったから、お台場での講習でぴったりだった。
 
 角幡唯介は、なかなか魅力のある人で、ダイビングによる冒険でも一緒にと考えないでもなかったが、彼の冒険論を読めば、それは無理とわかる。彼のスタイルの冒険をダイビングでやれば、よほどうまくやらないと、すぐに死ぬ。どんな形の冒険も、死んでしまえば終わりなのだ。 角幡唯介は、彼の考える冒険の具体例として早稲田大学探検部の三原山の火口を覗き見る計画、地理学的な探検としてナンセンのフラム号による北極探検、服部文祥のサバイバル登山、探検・冒険と言えば日本人の頭にまず浮かぶ植村直巳、そして彼自身のチベット、ツアンボー渓谷の踏破(これは読んだ)などなどをあげて解説している。これらの部分は、おもしろかったけれど、なるほどと言う例の話である。
 彼が唱える冒険の定義、冒険とは 脱システム パイオニアワーク 無謀性 である。また参考までに挙げている、本田勝一の唱える冒険の定義は、生命の危険、主体性である。
 もう一つ、冒険のパターンとしてジョーゼフ・キャンベル 「千の顔を持つ英雄」を挙げたりしているが、これはおもしろかったが、なるほど、という視点だ。 およそ、冒険と探検について考える人が100人いれば、100通りの考えが出てくるだろう。ダイビンたテーマでもある。なお、角幡は、探検は冒険の中にくくることができる、としている。僕の考えでは、違うが、それは置いておく。
 角幡のいう冒険の定義は、「脱システム パイオニアワーク 無謀性」であり、特に脱システムは、考えさせられた。
 脱システム、といわれても、ピンと来ない人がいるかと思う。
 僕自身の60年のダイビングライフを振り返ると、当初、1950年代、アメリカのテキストはあったが、それだけで、あとは試行錯誤の持ち寄りだった。その中から知識を拾い上げ、安全管理のシステム化を目指して努力を続けてきた。
 なお、過ちによる危機一髪の体験は、個人の経験でありそれを文書化することで知識になる。その知識を集め組み立てて行動システムにする。
 今は、パーフェクトでなくても、安全管理のシステムがある。バディシステムも、チーム・ユニットシステム、フォーメーション、そういうシステムいっさいを脱ぎ捨てることが冒険なのだ。と角幡はいう。
 
 僕の27歳の時の90m(100mを目指した)潜水は、ホースで送気して、フルフェースマスクとデマンドバルブで受ける。今では主流になっているプロのダイビングスタイルのパイオニアワークだった。そして、空気で100m潜るという無謀性がある。角幡唯介のいう冒険に当てはまる。そして、60歳の時の100m潜水は「システム潜水」だから、冒険でも何でもない。システムだ。今、プロのダイビングで深く潜るのはシステム潜水でなければいけない。
 なお、この定義で考えれば、ダイビングは冒険です。などと言うことは在り得ない。これは、別定義の日常的な冒険である。なお、テクニカルダイビングも冒険の要素を排除しようとするから冒険ではない?。ただ、システムを構築するために試行錯誤を繰り返し、時に命を落としたりするのは冒険といえるだろう。
 
 角幡の新・冒険論では、安全を追求しつつ行う登山は、スポーツ登山であり、冒険ではないとする。時に命を事故で落としたりしても、それは冒険ではなくて失敗である。
 ロシアン・ルーレットの話をしたが、これは、人間の努力が入り込む隙がないから、冒険ではない。ばくちは冒険ではないのだ。
 角幡のいう冒険とは、脱システム、パイオニアワーク、無謀性がある活動で、努力、意志の力で克服し帰還する行動である。 また、スポーツは安全を確保するシステムを持たなければならないから、冒険ではない。
 自分のダイビングについて言うならば、試行錯誤を経て、システムを作り上げていく道程が冒険だったのだろうかと思う。そして、システムが作り上げられた後でも、システムが意に反して自然の力でキャンセルされてしまう事態は冒険である。
 それでも、角幡は、そこにシステムがあるならば、自然の力でシステムがキャンセルされた場合、真正の冒険ではないと考える。計画にシステムが組み込まれていては、冒険にならないのだ。冒険で生涯を組み立てて行かなくてはならない冒険家としては、そうなるだろう。 冒険は、人それぞれであるが。
 角幡唯介の「新・冒険論」 おすすめである。おもしろかったし、冒険について、考えることができた。
 もちろん、僕とは違う読み方もあるかもしれないが。
 2018/07/15 21:55 冒険に引き続いて、スポーツについて考える。中央海洋研50周年からの引き続き、というか、引きずりである。
 角幡冒険者は、スポーツになってしまったら冒険ではなくなる。とか書いているが、逆にスポーツは冒険が排除するところの安全確保のシステムを持たなければならない。持たなければ、それは無謀な冒険になりスポーツではなくなってしまう。
 そのあたりのこと、考えないで、自分はスポーツとしてる。好きな言葉の一つなのだ。ハイブリッド、これですべて片づけることができる。
 続く 

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