僕をコンペで破ったNHK(子会社)から立てられたカメラマン南方さんは、僕たちのダイビング根であった日本潜水会のメンバーである。1967年に日本潜水会をつくったときの同志が、NHKの水中カメラマンの元祖であった河野、竹内だったので、初期のNHKカメラマンの殆どが日本潜水会だった。だから、NHKの初期の水中カメラマンはみんな親しい。僕の視点から見たNHK水中カメラマン列伝を書けるくらいのものだ。河野、竹内、森江、畑中、そして南方、今のNHKの長老、木原は、まだ若手だった。 そして、南方さんだが、報道のカメラマンで、物静かな人で、撮影は上手の上の部類と見られていた。 なお、日本潜水会発足当時、僕はNHKの大島での研修の講師をしていた。僕はまだそのころは、カメラマンとしてプロではなかった。収入を撮影においていなかったので、競争相手ではなかったのだ。 プロになったことで、NHKの潜水の講師をすることがなくなったが、まだ、仲の良い友達だった。南方さんも仲の良い一人だった。 もともと、僕は水産大学時代から水中撮影には熱心だったが、自分の会社は水中ハウジングをつくる会社だった。その意味ではNHKは重要なお得意さんだった。やがて、日本テレビの山中さんというプロデューサーに出会い、僕は彼の水中カメラマンになるわけだが、皮肉なことに、日本テレビと平行して、僕はNHKのカメラを振る(カメラマンをする)ようになる。これは、NHKの職制のおかげだ。NHKでは、撮影部はフィルムのカメラマンで、ビデオカメラは中継部の仕事だった。中継部には水中で撮影できるカメラマンが居なかった。元来ビデオカメラは、スタジオとか野球中継で発展してきたが、やがてENG、エレクトロ・ニュース・ギャザリング ビデオカメラが街に出てニュースの撮影をするようになると、水中撮影の分野にもENGカメラを持ち込んで水中撮影をするようになるのだが、NHKのおかしな職制で撮影部のフィルムカメラマンは、ビデオカメラの撮影はできないのだ。やがては、すべてのカメラがビデオになるので、こんなおかしな職制はなくなるのだが、その過度期に、僕はNHKの水中撮影をやることになる。
日本テレビでやったいくつかの作品、流氷とか摩周湖などを見たNHKの大橋プロデューサーが1981年、岩手県竜泉洞の撮影を任せてくれ、また、その後で、東京無人島紀行という番組で孀婦岩を撮る。二つとも評判の良い番組で、視聴率が良かった。 NHKのフイルム撮影部が黙ってみているわけには行かない。撮影部がビデオの撮影もするようになり、僕のNHKでの仕事も無くなった。やがて1986年、僕はテレビ朝日のニュースステーションで潮美の水中レポートをやるようになる。 僕の竜泉洞の成功に反応したのが南方さんで、かれは山口県の秋芳洞の水中を手がけて、新しい洞窟を発見する。 宮古島のトライアスロンを撮影に行き、おなじく撮影に来ていた南方さんとホテルで会い、一緒に食事をして洞窟撮影のことを話し合った。 1998年だったか、福島のコンペに負けた僕は、葛西水族館の3D 立体展示映像では勝って「知床の海、春夏秋冬」を撮っていた。そして、この知床がが、僕の大型展示映像のカメラマンとしてのピリオドだった。 当時の3D カメラ
葛西水族園も映像展示をやめてしまったし、新しい企画も僕の守備範囲からは出なくなる。福島の敗戦があって、その方面の雄であるイマジカの仕事もなくなった。やがて、世は、大型スクリーンの映画での3Dが普通になる。特に展示映像ではなくても、普通の映画が展示映像に近くなったのだ。 その夏、慶良間の座間味港の前、二階にある座間味食堂で、焼きそばを食べていた。ここの沖縄風のやきそばは、僕の好みだった。 そこで、ばったり南方さんに会った。僕はお客を何人か連れてツアーに来ていた。入札で勝っていればツアーなどやっている時間はなかっただろう、などと思う時期だった。 南方とは福島の水族館の勝ち負けの話になった。そのロケで慶良間に来ているという。サンゴと亜熱帯魚を撮りにきた。仲良く話をしたが、立ち話だった。そして、これが南方を見た最後になった。 その、1998だったか1999だったか、秋だったと思う。南方の訃報を聞いた。神子元島でダウンカレントに引き込まれたという。ハンマーでもねらっていたのだろうか。彼と、助手を頼んでいた伊豆大島のダイバーが亡くなった。南方はカメラを抱えて上がってきた。吹き上げられたのだろう。肺が破裂していたという。伊豆大島のガイドは、未だに発見されていない。 葬式に行った。NHKのカメラマン仲間がみんな集まっていた。「良い死に方だったよね。」と僕は言った。不謹慎だなどという顔をした奴は一人もいなかった。「まあ、カメラを手放さなかったのだから」とも誰もいわなかったが、そういうことだ。カメラマンの本懐、南方の本懐だったろう。そう思ってあげるのが供養というものだ。 僕が勝っていれば、南方は死ななかっただろうか?人の命は定まっているもの、のように僕は捉えている。福島で勝たなかったとしても、南方さんは、どこかで別の潜水で死んだかもしれない。 もう一つ、南方さんには忘れ難い思い出、ちょっとした恨みがある。1988年7月だから、福島コンペの10年前だ。浦賀水道で潜水艦「なだしお」が、見物に接近してきた釣り船、富士丸を不注意で沈めてしまった。沈んだ水深は50mほどだった。 数日中には引き揚げてしまう、その引上げ作業中の釣り船だから、それに50mはなんと言っても深いから、だれも潜って見ようとは思わなかった。南方さんが、するすると出かけていき潜って撮影し、NHKニュースで放映してしまった。となると、民放各社も水中がニュースに無いわけにはいかない。本当にバカバカしいけれど、そういうものなのだ。ニュースステーションのかかわりで、テレ朝報道部が僕に潜れという。 海保は潜水許可を出さない。南方は、こんなところに潜る奴などいないという、隙をついたのだ。 民放各社は、NHKに潜らせて、民放に潜らせないとはおかしいと抗議した。 海保は、引き揚げ作業のじゃまにならないように、と作業が行われない時間帯を指定した。つまり、流れが速くて潜水しない時間帯だ。 行くしかない。 行ってみて驚いた。僕が使うテレ朝の取材船は、大型のタグボートだ。しかも、駆動が垂直軸駆動だ。これはスクリューではなくて、船の中央部船底に縦に回る大きな風車のようなものがついている。これで前後左右、自由に動けるわけだが、作業ダイバーは、この方式の船が動いているときは半径50m以内に接近してはいけないという船だ。 浦賀水道で流れのある時間帯に潜る。流されたら海保に救助してもらうほかない。「テレ朝取材班、無謀な取材で流され救助される」ニュースの見出しが予想できる。別の船を探して雇っている余裕はない。 見ると中村征雄君も来ている。彼は朝日新聞の依頼とかで、ちゃんと漁船をチャーターしてきている。もしものことがあったら彼に救助してもらえるか? 海保の救助の方が早いだろうな。 僕が連れてきた助手は田島雅彦、スガ・マリン・メカニックで一番マッチョなダイバーだ。マッチョだから危ないと考えて、僕が潜ることにした。 流されたら、すぐにロープをつけた浮輪を投げてもらえるよう田島に言いつけた。 沈没地点の上に来た。垂直駆動を停止してくれるよう船長に頼んだ。ダメ、停止して流されたら他船に迷惑をかける。見ているから大丈夫だと言われた。 僕は飛び込んだ、泳ぐ間もなく流され、田島に浮輪を投げてもらって引き揚げてもらった。中村征雄君も流されたみたいだ。撮影のダイバーは皆流された。 スガ・マリン・メカニックの元社員、フリーダイバーの新井拓も日本テレビの水中撮影できていた。彼もタグボートから飛び込んで流された。 普通ならこれでやめる。 僕らは普通ではない。深夜、海保が寝ているときに密かに潜ろう。水深50mならばライトがなければ暗いから夜でも同じだ。 日本テレビの新井拓は、夜、密かに出て行った。日テレの報道プロデューサーは、「映像は撮れ、骨は拾ってやる」という。僕ら、テレ朝のプロデューサーは、「映像は撮れ、フライングはするな」だった。フライングしなければ、映像は撮れない状況なのだ。 僕はゴムボートを考えた。早朝、まだ海保が眠っているうちに、ゴムボートを出して、潜ってしまう。潜っているうちに海保が来ても、最悪、始末書で済むだろう。夜、走って、ゴムボートを取り寄せた。 早朝、海底の富士丸には、すでに吊り線が付けられている。大型の起重機船が、引き上げのスタンバイをしている。富士丸が引き揚げられてしまえば、水中撮影は無い。見ると、起重機船は深田サルベージだ。深サルならば、知人がいるはず。後輩の横尾君がダイバーできているはず。一か八かで、横尾君の携帯電話(当時だから大きい)に電話した。幸運にも彼が引き上げの指揮をとっている。こちらから、僕のゴムボートが行くから、よろしく、とお願いした。その頃の水産大学のOBは、一年先輩ならば神様だ。潜らせてもらえた。映像を撮って、ゴムボートは本船のタグボートに戻る。その場でお椀のようなアンテナを出して、伝送する。早朝、一番のニュースに間に合った。そして、その日一日、この水中撮影が流れた。勝った!と得意になった。ゴムボートを待つ夜、夜食に焼肉屋に行った。その代金を請求したら、夜はお弁当が出ているはずだから、ダメと言われた。何とか交渉して出してもらったが、今後、報道の仕事で、命を賭けてはいけない。適当に、切り上げて、お弁当を食べて帰ってくればいいものなのだ、と、学習した。でも、各社が競り合っているあの現場では、やはり勝とうと思ってしまうかもしれない。 アクアマリン福島はオープンした。マリンシアターで映像は公開されただろう。東京だったら行ったとおもうけれど、福島だから行かなかった。南方さんの撮った、神子元島はどんな風に扱われたのだろう。 続く
日本テレビでやったいくつかの作品、流氷とか摩周湖などを見たNHKの大橋プロデューサーが1981年、岩手県竜泉洞の撮影を任せてくれ、また、その後で、東京無人島紀行という番組で孀婦岩を撮る。二つとも評判の良い番組で、視聴率が良かった。 NHKのフイルム撮影部が黙ってみているわけには行かない。撮影部がビデオの撮影もするようになり、僕のNHKでの仕事も無くなった。やがて1986年、僕はテレビ朝日のニュースステーションで潮美の水中レポートをやるようになる。 僕の竜泉洞の成功に反応したのが南方さんで、かれは山口県の秋芳洞の水中を手がけて、新しい洞窟を発見する。 宮古島のトライアスロンを撮影に行き、おなじく撮影に来ていた南方さんとホテルで会い、一緒に食事をして洞窟撮影のことを話し合った。 1998年だったか、福島のコンペに負けた僕は、葛西水族館の3D 立体展示映像では勝って「知床の海、春夏秋冬」を撮っていた。そして、この知床がが、僕の大型展示映像のカメラマンとしてのピリオドだった。
葛西水族園も映像展示をやめてしまったし、新しい企画も僕の守備範囲からは出なくなる。福島の敗戦があって、その方面の雄であるイマジカの仕事もなくなった。やがて、世は、大型スクリーンの映画での3Dが普通になる。特に展示映像ではなくても、普通の映画が展示映像に近くなったのだ。 その夏、慶良間の座間味港の前、二階にある座間味食堂で、焼きそばを食べていた。ここの沖縄風のやきそばは、僕の好みだった。 そこで、ばったり南方さんに会った。僕はお客を何人か連れてツアーに来ていた。入札で勝っていればツアーなどやっている時間はなかっただろう、などと思う時期だった。 南方とは福島の水族館の勝ち負けの話になった。そのロケで慶良間に来ているという。サンゴと亜熱帯魚を撮りにきた。仲良く話をしたが、立ち話だった。そして、これが南方を見た最後になった。 その、1998だったか1999だったか、秋だったと思う。南方の訃報を聞いた。神子元島でダウンカレントに引き込まれたという。ハンマーでもねらっていたのだろうか。彼と、助手を頼んでいた伊豆大島のダイバーが亡くなった。南方はカメラを抱えて上がってきた。吹き上げられたのだろう。肺が破裂していたという。伊豆大島のガイドは、未だに発見されていない。 葬式に行った。NHKのカメラマン仲間がみんな集まっていた。「良い死に方だったよね。」と僕は言った。不謹慎だなどという顔をした奴は一人もいなかった。「まあ、カメラを手放さなかったのだから」とも誰もいわなかったが、そういうことだ。カメラマンの本懐、南方の本懐だったろう。そう思ってあげるのが供養というものだ。 僕が勝っていれば、南方は死ななかっただろうか?人の命は定まっているもの、のように僕は捉えている。福島で勝たなかったとしても、南方さんは、どこかで別の潜水で死んだかもしれない。 もう一つ、南方さんには忘れ難い思い出、ちょっとした恨みがある。1988年7月だから、福島コンペの10年前だ。浦賀水道で潜水艦「なだしお」が、見物に接近してきた釣り船、富士丸を不注意で沈めてしまった。沈んだ水深は50mほどだった。 数日中には引き揚げてしまう、その引上げ作業中の釣り船だから、それに50mはなんと言っても深いから、だれも潜って見ようとは思わなかった。南方さんが、するすると出かけていき潜って撮影し、NHKニュースで放映してしまった。となると、民放各社も水中がニュースに無いわけにはいかない。本当にバカバカしいけれど、そういうものなのだ。ニュースステーションのかかわりで、テレ朝報道部が僕に潜れという。 海保は潜水許可を出さない。南方は、こんなところに潜る奴などいないという、隙をついたのだ。 民放各社は、NHKに潜らせて、民放に潜らせないとはおかしいと抗議した。 海保は、引き揚げ作業のじゃまにならないように、と作業が行われない時間帯を指定した。つまり、流れが速くて潜水しない時間帯だ。 行くしかない。 行ってみて驚いた。僕が使うテレ朝の取材船は、大型のタグボートだ。しかも、駆動が垂直軸駆動だ。これはスクリューではなくて、船の中央部船底に縦に回る大きな風車のようなものがついている。これで前後左右、自由に動けるわけだが、作業ダイバーは、この方式の船が動いているときは半径50m以内に接近してはいけないという船だ。 浦賀水道で流れのある時間帯に潜る。流されたら海保に救助してもらうほかない。「テレ朝取材班、無謀な取材で流され救助される」ニュースの見出しが予想できる。別の船を探して雇っている余裕はない。 見ると中村征雄君も来ている。彼は朝日新聞の依頼とかで、ちゃんと漁船をチャーターしてきている。もしものことがあったら彼に救助してもらえるか? 海保の救助の方が早いだろうな。 僕が連れてきた助手は田島雅彦、スガ・マリン・メカニックで一番マッチョなダイバーだ。マッチョだから危ないと考えて、僕が潜ることにした。 流されたら、すぐにロープをつけた浮輪を投げてもらえるよう田島に言いつけた。 沈没地点の上に来た。垂直駆動を停止してくれるよう船長に頼んだ。ダメ、停止して流されたら他船に迷惑をかける。見ているから大丈夫だと言われた。 僕は飛び込んだ、泳ぐ間もなく流され、田島に浮輪を投げてもらって引き揚げてもらった。中村征雄君も流されたみたいだ。撮影のダイバーは皆流された。 スガ・マリン・メカニックの元社員、フリーダイバーの新井拓も日本テレビの水中撮影できていた。彼もタグボートから飛び込んで流された。 普通ならこれでやめる。 僕らは普通ではない。深夜、海保が寝ているときに密かに潜ろう。水深50mならばライトがなければ暗いから夜でも同じだ。 日本テレビの新井拓は、夜、密かに出て行った。日テレの報道プロデューサーは、「映像は撮れ、骨は拾ってやる」という。僕ら、テレ朝のプロデューサーは、「映像は撮れ、フライングはするな」だった。フライングしなければ、映像は撮れない状況なのだ。 僕はゴムボートを考えた。早朝、まだ海保が眠っているうちに、ゴムボートを出して、潜ってしまう。潜っているうちに海保が来ても、最悪、始末書で済むだろう。夜、走って、ゴムボートを取り寄せた。 早朝、海底の富士丸には、すでに吊り線が付けられている。大型の起重機船が、引き上げのスタンバイをしている。富士丸が引き揚げられてしまえば、水中撮影は無い。見ると、起重機船は深田サルベージだ。深サルならば、知人がいるはず。後輩の横尾君がダイバーできているはず。一か八かで、横尾君の携帯電話(当時だから大きい)に電話した。幸運にも彼が引き上げの指揮をとっている。こちらから、僕のゴムボートが行くから、よろしく、とお願いした。その頃の水産大学のOBは、一年先輩ならば神様だ。潜らせてもらえた。映像を撮って、ゴムボートは本船のタグボートに戻る。その場でお椀のようなアンテナを出して、伝送する。早朝、一番のニュースに間に合った。そして、その日一日、この水中撮影が流れた。勝った!と得意になった。ゴムボートを待つ夜、夜食に焼肉屋に行った。その代金を請求したら、夜はお弁当が出ているはずだから、ダメと言われた。何とか交渉して出してもらったが、今後、報道の仕事で、命を賭けてはいけない。適当に、切り上げて、お弁当を食べて帰ってくればいいものなのだ、と、学習した。でも、各社が競り合っているあの現場では、やはり勝とうと思ってしまうかもしれない。 アクアマリン福島はオープンした。マリンシアターで映像は公開されただろう。東京だったら行ったとおもうけれど、福島だから行かなかった。南方さんの撮った、神子元島はどんな風に扱われたのだろう。 続く