ここのところしばらく、お台場のことを書いていた。やがては、一冊の本にまとめるほど書こう。本にはならないとおもうけれど、というぐあいに書いていたのだが、二枚貝のところで停滞してしまった。 福島のことも、やがては、と思っていて、こちらの方は、ある程度書いたものがまとまっていたので、こちらを先にすることにした。 アクアマリン福島 1997年12月16日1997年に僕は何歳だっただろう。1997ー1935=62、62歳だった。その頃のことだ。 今は、2017年、82歳の2月、僕は日本水中科学協会のチームで福島に行き、福島第1原発の前に潜水した。 チームは、久保、山本 中川 大西 国方だ。大風が吹いて海に出られない21日、中川、大西は、前夜東京に帰って、出直してくる。福島久ノ浜は、日帰り可能なのだ。2011年の調査の時は、日帰りで10回潜水した。今度は、福島のテレビュー福島の撮影だから、立派な温泉、いわき簡保の宿に泊めてもらっている。国方君は近くの富岡の出身だとか、同級生に会いに行った。残りの久保さん、山本さん、僕は、波で壊れた、カメラの取り付けステイを修理する部品を買いにいわきのドイトへ行った。ドイトは本当に何でもある。僕はサングラスと寒さ除けのフードを買った。買ったというより、久保君に買ってもらった。なぜだか、買ってくれてしまって、おカネを受け取らない。まあ、仕方が無い。サングラスをかけるたびに、これはいわきで久保君に買ってもらったと、ひそかに感謝しよう。少し面倒ではあるけれど。宿に戻ってきて、久保さんはのんびり温泉に浸かっているという。山本さんはアクアマリンに行くという。しばらく行っていないので、とか。僕は疲れ切っているので、温泉にしたかったが、なんと、僕はアクアマリンに行ったことがないのだ。これから書く、あれほどの因縁がありながら行っていない。いや、因縁があるから行かなかったのかもしれない。でも今行かないと、行かないで終わってしまうかもしれない。そういう年齢なのだ。82歳とは。 アクアマリン福島に行くことにした。もちろん見学、遊びに行くのだ。仕事ではない。僕とこの水族館のつきあいのはじまりは、1967年12月、この水族館のマリンシアターの展示映像制作のコンペに始まったのだ。このことを書こうと思ったのだが、日記記録がない。思い返して適当なことを書いた。適当にある程度書き終わったころ、別の調べ物で書架を見たら、大型映像 というクリアーファイルがあり、このときの映像コンペの書類が全部出てきた。僕の記憶と全く違っている。なにか証拠になる書類を見ないで、記憶だけでなにかを書くことは怖い。怖いけれど、ノンフィクションだからいいや、でも書類が出てくれば書き直すことになる。 僕はそのころ、大型展示映像の水中カメラマンとしてトップを走っていた。と自分では思っている。 1993年から1998年までの僕の作品を並べてみると ① 1993:レザーデスク「水」電通映画社・環境映像② 1993:網走『流氷館』ハイビジョン・マルチの映像撮影③ 1993: 函館『コンブ館』全天周イマジカ・ビジョンの映像撮影④ 1994:東京都立葛西水族館『伊豆の海』3D立体映像撮影⑤ 1997:東京都立葛西水族館『珊瑚礁の海』3D立体映像撮影⑥ 1998;東京都立葛西水族館『知床の海』3D立体映像撮影 だから、順風だったのだとおもっていた。ところが、今回、1998年周りの記録を調べて、1998年の5月~6月のノートがでてきたので、見ると。来月は三つあった会社の二つを閉めて、スガ・マリン・メカニック一つにしたい。などと弱気を書きつづっている。自分がカメラマンとして走り回っているので、経営が杜撰になったのだろう。借金が肩に重かったのだ。 とにかく、それでも売れっ子だった僕は、この1997年のアクアマリン福島のマリンシアターの大型ハイビジョン映像製作のプレゼンに、二つのグループから水中撮影監督の名前をだしている。普通、そんなことはありえないのだが、別にプレゼンの条件に水中撮影監督が掛け持ちしてはいけないと言うこともかいていないので、まあ良いかと、一つは、ビクター・ワークスというビクター系列もう一つはイマジカから名前をだした。 とにかく、コンペのプレゼンは、製作会社、プロデューサー、そしてカメラマンが企画書を持って行き、一室に次々と呼び出されて、面接のようなことをする。 ビクターの方が先に出た話で、いくつかの仕事をそれまでにやった縁があった。 もう一つの方はイマジカで、こちらは、35mmのフィルムを横に走らせる8パーフォレーションの巨大カメラのハウジングをつくらせてもらったし、そのカメラを駆使した函館昆布館の「北の炎」も撮影させてもらっている。親しさはイマジカなのだが、話がくるのが遅かった。そしてビクターの方は、すでにプレゼンの企画書もできていた。とにかく断ることはできないので、カメラマンとして二足の草鞋のような気もしたけど、一方ではどちらかが通ればと思ってもいた。 僕はカメラマンとして、そんなに優れていたとはおもわない。そもそも、優れたカメラマンとはなんなのだろう。どういうことなのだろう。カメラを被写体に向けてシャッターを切れば、誰だって写る。バイチャンスで、アマチュアの方がいい絵が撮れることもある。プロとの違いは、プロデュース能力のちがいなのだ。どこへ行って、どういう写真をとれば、どこで売れるかわかっていて、売れる能力なのだ。売れるためにはクオリティも必要になるから、機材のクオリティと、水準の技術が必要なのは前提だけど。水中の場合は、潜って生きて戻ってくる能力も必須となる。大型映像の場合はチームで撮影するから、撮影監督である。 テレビとか展示映像の場合は、別に全体のプロデューサーがいることが普通だから、そのプロデューサーの求めるもの、映像を撮らなければならない。それは、なかなか難しいことなのだ。プロデューサーとの人間の組み合わせがうまく行くこともあるし、まずいこともある。あんまり喧嘩をした記憶がない。あ、あった。一度だかあった。がこれは、僕から喧嘩したのではなくて、首を切られたのだ。僕はわがままだから、自分の思い通りにする。摩擦が起こると、割合すぐに謝る。謝ることで、打ち解ける人とは一生のともだちになる。中には決して許さない人もいる。そういう人は一生の友達はいないはずだ。 ※これまで、僕のブログは脱線が多く、脱線をやめる方向で書いてきたが、脱線こそが、ブログのようなものでは、命 かもしれないと脱線は自由にしようということにした。 脱線、ニューカレドニアのジュゴン ジュゴンと言えば、沖縄だ。そしてパラオで益田さんが撮影に成功した。だれかがフィリピン、インドネシアでも撮っている。 ニューカレドニアにもジュゴンがいる。 その撮影は別にジュゴンの撮影が目的ではなかった。大塚孝夫さんという素敵な人がレポートする。もちろんちょっと潜ってみせる。その部分はうまく撮影できた。それから、カタマランヨットでカレドニアを一周する。それも気持ちよく撮った。次にジュゴンである。ジュゴンはのんびりしているようだが、臆病で、逃げる時にはイルカのように速く泳いで逃げる。イルカよりも速いかもしれない。それにイルカはボートの走りに寄ってくるが、ジュゴンはただ逃げて、それで終わりだ。 ニューカレドニアには、ジュゴンの見える丘、ではないか、ジュゴンが見える崖がある。今もいるかどうかは知らないけど。崖から見下ろすとジュゴンが1頭泳いでいる。たいてい居るらしいけれど必ずとは言えない。ぼくたちが行って見降ろしたときは居た。ジュゴンを崖の上から撮影する場所としては悪くない。水中でも悪くないと思う。しかし、どうやって? 崖の上からジュゴンが見えたら、下の水面に浮いている僕に合図する。あっちの方にいると合図する。あっちの方に静かに泳いでいく。ジュゴンは餌を食べたりしているのだろうから、運が良ければ撮れる。僕はカヌーのような手漕ぎのボートを用意してもらった。 僕は運が悪かった。それに、一日だけのスケジュールだ。 次は、月がとってもきれいだから、水中から月を撮れという。ボートを出してやってみた。半水面で月を撮っても、月は小さくて点のようだ。波に揺られてズームインすればめちゃくちゃだ。それに、水中に射し込む月の光なんて、暗くて写らない。水中ライトを使って、月のイメージをつくれば良かったのか、と後になって思った。しかし、やらなかった。月は撮れなかった。ジュゴンも撮れない。 僕は、レポーターの大塚さんの絵は良いと思ったし水中の魚も、カタマランの走りも良かった。これでもう十分と思ってしまった。ジュゴンも月も無理だ。監督は怒ってしまった。 カメラマンとして監督を怒らせたのはこの一回だけだった。このロケでは、成立している良い部分も監督は使わなかった。その監督の上に立つHプロデューサーは親しく、何度か一緒に仕事をした。その縁でこのロケをしたのだが、「どうしたの? 悪い男ではないのだけれど」と心配してくれたが、どうにもならない。 このHプロデューサーとは、ハワイアンシャークハント というとんでもない番組をやっている。ハワイのワイキキの浜辺をジョーズが襲ってきて、サーフィンしていたお兄さんを食われた、その弟が仇を打つドキュメンタリーだ。そこまでは脱線しない。 話をアクアマリンに戻して。 今、2017年に、おそらくカメラマン人生の最後でそして、頂点だったと思われる1997年、62歳の時点でのコンペ企画書を見ると感慨にひたってしまう。
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