原稿ノート 用語事典Ⅱ
用語事典Ⅱの原稿とブログ二つはとうてい同時進行では進められない。用語事典Ⅱの原稿ノートもブログ煮出していくことにした。
ノートなので用語事典Ⅱ採用するかどうか未定だし、ブログに上げておくと検索に便利だし、共著者のメンバーに見て貰うこともよういになる。素眼 水中眼鏡
水中眼鏡が始まった、作り始まったのは、諸説ある。
水中眼鏡の前に、眼鏡がない時はどうしていたのだろう。
海女の起源は、古いし、海女でなくても縄文時代からいやもっと前の狩猟生活の時代から、人は潜って
魚介類を採集していた。いや、もっと前までさかのぼると「人は海辺で進化した」という学説もあるくらいだ。もちろん縄文の貝塚から水中眼鏡が出土したことはない。
どうしていたのだろう。もちろん眼鏡を付けないで、素眼でもぐっていた。ここで、眼鏡を付けないで潜ることを素眼と書いたが、国語事典には素眼ということばはない。と思ってネットで調べたら、「潜水眼鏡をかけないで、水中に潜り魚や貝をとること」とでていた。とにかく、その素眼で眼は大丈夫だったのだろうか。眼科の先生に聞いてみなくては、とおもっているが、眼科の先生の意見も様々だろうとおもう。
水中眼鏡の起源を調べていてこんなのを見つけた。 海士・海女の起源は古い。延喜式にもある貢納物のなかの海産物の多くは彼らの働きによるものである。彼らの働き場所はすべて海中のことであり、潜水技術を駆使しての活躍だが、すべての作業は「素目」といわれる海中で眼をあけて獲物を見つけるという方法で、この「素目」の作業は潜水の季節である夏の間中続けられるのである。したがって、海士・海女は、メクサと言われる眼病にかかり、眼を開けることさえできなかったと言われ、労働衛生上からも大変なことだった。
明治13年(1880)4月21日付けの「東京絵入り新聞」に、海士・海女たちが見たら、メクサの眼が飛び出るような記事がのった。その様子を伝えよう。「深川富岡門前町の高橋元義が発明したる水眼鏡というは、河海の水底を清明に見る拵えにて、沈みたる品の所在を見極め、暗礁の模様を知るなど、船舶にもっとも有用な道具云々」とあり、これまでは曇りガラスで海中を覗いたものが、潜水眼鏡をかけると透明ガラスを通すようにすべてが明瞭に見えた。それから数年後、大日本水産会は、水産物見分器機として本格的に製造に着手し、普及を始める。房総の海士・海女がこの潜水眼鏡を使い始めたのは明治25、6年のころで、当時の安房郡長尾町(現在の白浜町)に二つ目の潜水眼鏡がもたらされた。これによってアワビやサザエの獲物は飛躍的に増大したとある。
参考文献ー「房総の漁労習俗調査報告書」「明治事物起源」 佐藤魚水
この記事は「江戸東京湾辞典」新人物往来社1991年で佐藤魚水さんは僕の水産大学での先輩にあたる、彼がこの辞典を編集した。
これによれば、深川富岡が、海女の眼鏡の起源のようだが、もしかしたら、船の上から覗くタコ眼鏡だったかもしれない。大日本水産会が工夫して明治25年頃に白浜で使われ始めたのだろう。明治25年というと1892年である。これによれば、海女はメクサになった。
もう一つ、海士・海女漁業について、もっとも詳しいと思われる「潜水漁業と資源管理」大喜多甫文 古今書院 1989 によれば、 「明治中期以前、アマは素眼で潜水していた。しかし、海中で眼を開けると痛いので、多くは口の中に米糠などを含み、これを水面に吹き散らすか、または魚鯨油を海面に点滴して、水中を透明にし、海底にあるアワビを見定めておいて飛び込み、手探りで採った。
明治10年代には、四角な箱の底にガラスを張った箱眼鏡が製作され、船中よりアワビを見定めておいて海中に飛び込み採った。この段階では覗き眼鏡であり、アマはまだ眼鏡はかけていなかった。(上記、深川の眼鏡は箱眼鏡だった)
我が国における潜水用眼鏡の製作使用は、1885年(明治18年)、熊本県天草郡二江村の出島久八、出島辰五郎両名製作の両眼鏡(二つ眼鏡)が最初である。その後、1886年、沖縄糸満の漁夫、1887年壱岐郷ノ浦の海士がそれぞれ二つ目がねを使用した。このようにして、明治10年末に九州で使用去れ始めた両眼潜水用眼鏡は、その後各地に伝播した。志摩では、1890年神島の海女が使用許可申請をし、翌年から使用した。房州では、1892年頃安房郡長尾村(白浜町)で初めて使用され、それから少し遅れて伊豆半島に伝播し、伊豆ではこれを房州眼鏡と称した。このようにして明治20年代には、主要潜水漁業地に広まった。しかし、潜水眼鏡の使用が資源の乱獲を招来すると考えた志摩地方北部の組合では、1897年(明治30年)この眼鏡の使用を禁止した。
最初は眼鏡の枠は真鍮製で深く潜ると食い込んで眼が痛いので、1890年天草では、両端に空気調節用の皮袋を付け、下端からゴムホースを口にくわえて空気を送り込んだり、その後、鼻入り式一眼潜水眼鏡が改良普及し、外枠もゴム製に改良されていく。
使用禁止がいつ解除になったかは、書かれていない。しかし、眼が病んでしまうほどの辛いことであっても、眼鏡を禁止してしまうほど資源管理には厳し駆してきている。現在の海女もフィンの使用が認められているところと、認められないところがあり、ウエットスーツにしても、パンツだけが認められるとか、全く認められないとか、組合、部落単位で定めがある。
沖縄の糸満のウミンチューとか、最初に作った眼鏡は木製で手彫で作ったのではないかと思う。それに小さい眼鏡のガラスをはめこんで、膠かなにかで糊付けしたのだろうと、思う。上にある1885年の出島さんなどは、自分の手作りから、なんとか商品化したもので、記録にのこっているのではないだろうか。
用語事典Ⅱの原稿とブログ二つはとうてい同時進行では進められない。用語事典Ⅱの原稿ノートもブログ煮出していくことにした。
ノートなので用語事典Ⅱ採用するかどうか未定だし、ブログに上げておくと検索に便利だし、共著者のメンバーに見て貰うこともよういになる。素眼 水中眼鏡
水中眼鏡が始まった、作り始まったのは、諸説ある。
水中眼鏡の前に、眼鏡がない時はどうしていたのだろう。
海女の起源は、古いし、海女でなくても縄文時代からいやもっと前の狩猟生活の時代から、人は潜って
魚介類を採集していた。いや、もっと前までさかのぼると「人は海辺で進化した」という学説もあるくらいだ。もちろん縄文の貝塚から水中眼鏡が出土したことはない。
どうしていたのだろう。もちろん眼鏡を付けないで、素眼でもぐっていた。ここで、眼鏡を付けないで潜ることを素眼と書いたが、国語事典には素眼ということばはない。と思ってネットで調べたら、「潜水眼鏡をかけないで、水中に潜り魚や貝をとること」とでていた。とにかく、その素眼で眼は大丈夫だったのだろうか。眼科の先生に聞いてみなくては、とおもっているが、眼科の先生の意見も様々だろうとおもう。
水中眼鏡の起源を調べていてこんなのを見つけた。 海士・海女の起源は古い。延喜式にもある貢納物のなかの海産物の多くは彼らの働きによるものである。彼らの働き場所はすべて海中のことであり、潜水技術を駆使しての活躍だが、すべての作業は「素目」といわれる海中で眼をあけて獲物を見つけるという方法で、この「素目」の作業は潜水の季節である夏の間中続けられるのである。したがって、海士・海女は、メクサと言われる眼病にかかり、眼を開けることさえできなかったと言われ、労働衛生上からも大変なことだった。
明治13年(1880)4月21日付けの「東京絵入り新聞」に、海士・海女たちが見たら、メクサの眼が飛び出るような記事がのった。その様子を伝えよう。「深川富岡門前町の高橋元義が発明したる水眼鏡というは、河海の水底を清明に見る拵えにて、沈みたる品の所在を見極め、暗礁の模様を知るなど、船舶にもっとも有用な道具云々」とあり、これまでは曇りガラスで海中を覗いたものが、潜水眼鏡をかけると透明ガラスを通すようにすべてが明瞭に見えた。それから数年後、大日本水産会は、水産物見分器機として本格的に製造に着手し、普及を始める。房総の海士・海女がこの潜水眼鏡を使い始めたのは明治25、6年のころで、当時の安房郡長尾町(現在の白浜町)に二つ目の潜水眼鏡がもたらされた。これによってアワビやサザエの獲物は飛躍的に増大したとある。
参考文献ー「房総の漁労習俗調査報告書」「明治事物起源」 佐藤魚水
この記事は「江戸東京湾辞典」新人物往来社1991年で佐藤魚水さんは僕の水産大学での先輩にあたる、彼がこの辞典を編集した。
これによれば、深川富岡が、海女の眼鏡の起源のようだが、もしかしたら、船の上から覗くタコ眼鏡だったかもしれない。大日本水産会が工夫して明治25年頃に白浜で使われ始めたのだろう。明治25年というと1892年である。これによれば、海女はメクサになった。
もう一つ、海士・海女漁業について、もっとも詳しいと思われる「潜水漁業と資源管理」大喜多甫文 古今書院 1989 によれば、 「明治中期以前、アマは素眼で潜水していた。しかし、海中で眼を開けると痛いので、多くは口の中に米糠などを含み、これを水面に吹き散らすか、または魚鯨油を海面に点滴して、水中を透明にし、海底にあるアワビを見定めておいて飛び込み、手探りで採った。
明治10年代には、四角な箱の底にガラスを張った箱眼鏡が製作され、船中よりアワビを見定めておいて海中に飛び込み採った。この段階では覗き眼鏡であり、アマはまだ眼鏡はかけていなかった。(上記、深川の眼鏡は箱眼鏡だった)
我が国における潜水用眼鏡の製作使用は、1885年(明治18年)、熊本県天草郡二江村の出島久八、出島辰五郎両名製作の両眼鏡(二つ眼鏡)が最初である。その後、1886年、沖縄糸満の漁夫、1887年壱岐郷ノ浦の海士がそれぞれ二つ目がねを使用した。このようにして、明治10年末に九州で使用去れ始めた両眼潜水用眼鏡は、その後各地に伝播した。志摩では、1890年神島の海女が使用許可申請をし、翌年から使用した。房州では、1892年頃安房郡長尾村(白浜町)で初めて使用され、それから少し遅れて伊豆半島に伝播し、伊豆ではこれを房州眼鏡と称した。このようにして明治20年代には、主要潜水漁業地に広まった。しかし、潜水眼鏡の使用が資源の乱獲を招来すると考えた志摩地方北部の組合では、1897年(明治30年)この眼鏡の使用を禁止した。
最初は眼鏡の枠は真鍮製で深く潜ると食い込んで眼が痛いので、1890年天草では、両端に空気調節用の皮袋を付け、下端からゴムホースを口にくわえて空気を送り込んだり、その後、鼻入り式一眼潜水眼鏡が改良普及し、外枠もゴム製に改良されていく。
使用禁止がいつ解除になったかは、書かれていない。しかし、眼が病んでしまうほどの辛いことであっても、眼鏡を禁止してしまうほど資源管理には厳し駆してきている。現在の海女もフィンの使用が認められているところと、認められないところがあり、ウエットスーツにしても、パンツだけが認められるとか、全く認められないとか、組合、部落単位で定めがある。
沖縄の糸満のウミンチューとか、最初に作った眼鏡は木製で手彫で作ったのではないかと思う。それに小さい眼鏡のガラスをはめこんで、膠かなにかで糊付けしたのだろうと、思う。上にある1885年の出島さんなどは、自分の手作りから、なんとか商品化したもので、記録にのこっているのではないだろうか。