このブログで、豊潮丸の今年の航海の報告を終える。
7月11日(木曜日)
今日が航海最終日だ。朝、0830の潜水、それから帰り支度をして、14時に呉港入港、1830の新幹線だから、1600には呉をでなければならない。別に普通の忙しさだが、旅の終わりだから、やはり疲れ果てている。帰った明日、12日のスケジュールも入っているし、もろもろの連絡事項もあるだろう。昔から、長い旅から戻れば、棚からたくさんの荷物が落ちてくるのを受け止める状態。
昨日の水無瀬島から近い.
沖家室島牛が首、に潜る。
最大水深 19。7m
0909ー0950 41 分
平均12。0 19。8度
はじめて、全員、二つのチームがアンカーの位置に集まってラインを引き移動した。
僕の安全管理、安全対策は簡単だ。とにかく一人にしない。一人にならないことだ。これが、言うは易く行うは難し。だからそのためにあらゆることを考える。
それでもなかなか、難しく、ようやく、昨日から、みんな一緒になれた。そこまでの経過は、この日記、航海紀を読んでいただけるとわかる。
二つのチームが一緒だから、そして流れもほとんどないから、気楽なものだ。気楽に中尾先生の採集を手伝い、そして撮影する。
昨日までの撮影で、キヤノンの一眼、とても古いイオスキッスだが、その一眼で撮ったものよりもマスクマウントのGoProで撮った絵の方が良いと中尾先生はおっしゃるのだ。
では、イオスの上にGoProを乗せよう。もともとそんなつもりでアダプターが付けてある。マスクマウントのほかに、カメラに付けるから、GoProを2台持つことになる。言葉をかえれば、2台もてるということだ。合計では3台同時に廻っていることになる。
ところが、マスクマウントの方には、乾燥材もいれ、バケツの水に漬けて曇りを防いでいたのだが、カメラに付けた方は、まあいいか、とさぼって、なにもしなかったら、曇ってしまった。かなりひどい。水に入ってからそれでも回しておくか、と動画のスイッチをいれた。
そして、僕はへまをやってしまう。僕が中尾先生の残圧をきくことはいつもだが、先生が僕の残圧をきくことはほとんどない。ところが今回の旅では、水面での着装に時間がかかったり流されたりして、空気を使ってしまって、早く上がることがあった。それで先生は心配している。僕の残圧は70ある。先生の残圧を横目で見ると50とちょっとだ。こんなときは、キロで考える習慣になっている。Mpaでは考えられない。
70に50だから別に問題ない。ぼくは一眼のカメラをてにしている。70、両手を使えれば、7は、指2本と、開いた手だ。片手だから、つい、2本指を最初、次にプラス5だ。5が先ならなにも問題ない。2が先だった。先生は25ととってパニックになった。すぐに僕の手からリールをとって自分で巻きだした。そして、ふと気がつくように後ろをみる。酒井先生ちーむは5mほど後ろにいる。後戻りすると、石川さんにリールを渡した。最後尾をもどるものがリールを巻いて戻る。僕の腕をしっかりつかんで、斜面を登り始めた。どうもおかしい。僕はOKのサインを送って、先生をとり静めようとした。先生のパニックの原因が自分にあることを僕は知らない。とにかく2ぐらいのこしてゴムボートの下にきた。町田と先生は、あたりの石を返して見ている。僕は、海藻とメバルが陽に輝いてきれいだったので、スチルを一眼で撮り、マスクマウントをはずして、動画をきちんと撮った。もう、ワンカット撮りたかったが、空気がしぶくなってきたので浮上する。水深は2m程度だ。波も流れもなく静かならば安全停止をしていることになる。
ここは、とにかく海藻が多く、海藻が美しい、そして、いたるところにメバルが群れている。
このとき、一眼の上に付けたGoProとマスクマウントのカメラの撮影結果を比べてみた。まだ、一眼の上のカメラは曇っていたが、何とか撮影できていた。曇っていても、だめでもともとだから、廻しておくものだ。
ハナオコゼと、ハナオコゼにのまれていたハオコゼ
酒井先生は海藻の林の中でハナオコゼを捕まえた。バケツに入れて連れ帰った。腹がやけに大きい。子持ちか?見ていると、突然、口から魚を吐き出した。ハオコゼを飲み込んでいたのだ。ハオコゼは、飲まれていたハナオコゼよりも元気に泳いでいる。飲み込んでもぜんぜん消化されていなかったのだ。
ハナオコゼはホルマリンで殺されて標本になった。ハオコゼは早稲田大学に連れ帰られた。もしかしたら、まだ生きているかもしれない。
これで、すべての潜水を終え、全員元気で航海を終えた。
これで豊潮丸航海のブログを終了するので、まとめ を少し。
毎度危ないと思って、8回の潜水を続けてきたが、危機感をもっていれば、そして、その対策をいつも考えていれば、事故は起こらない。と、思わなければダイビングはできない。もしも流されても、流される先で島を回り込めば、陸に上がれる。本当に怖かったのは神戸空港だった。ただし、怖いと危ないとはちがう。怖いとは、危機感で味方だ。予見義務とは、危機感を持つことだ。神戸は、波が高くて、テトラには近づけなかったし、波をかぶってゴムボートは浸水して重くなり、つないでいた索が切れて、タンクが投げ出され、僕のライトが紛失した。それでも、まだまだ人の被害には遠かった。
いつも充填圧120で潜っていたことも、レクリエーショナル・ダイビングでは考えられないことだが、小さなコンプレッサーを持参して僻地のエキスペディションをやるとすれば普通のことだ。コンプレッサーは120を越えるとガタンと効率が落ちる。リサーチダイビングは探検だから、与えられた機材、与えられた条件で最善を尽くして安全を確保する他に道はない。
そして、今回北大の学生は、一人がC-カードを取って3本の経験、一人が屋久島で体験ダイビングをやっただけ、ということだった。レクリエーショナルダイビングでは、C-カードをとって10本までが危険と言われている。それが、この瀬戸内海である。無謀だろうか。北大は工藤君が頑張って教えているようだが、研究室の学生はそれとは関係がないのだろう。もちろん、潜水部などで上達している学生が研究室に来る場合もある。その場合が一番危ないと容易に想像できる。上手と言ってもインストラクターではないのだ。
大学の研究室の潜水はこのパターンが多いそして、事故が起こる。JAUSを作った発端もそれだった。それでも事故をおこさないシステムを作り出して、普及させなければならない。幸い、学生はみんなフィジカル能力は優れている。一人にしなければ死なない。
こんなことも含めてたくさんのノウハウをえた。書いてマニュアルにしておかないと来年までに忘れてしまうだろう。
撮影についても撮影マニュアルの材料をたくさん得た。この二つのマニュアルは整理してJAUSの研究報告にのせよう。
一眼レフに載せたGoPro
このところ、自己責任について考え続け、事故について考え続けて潜水を続けている。考えることがまず大事なのだと思う。自己責任とは、死んでもおまえのせいだよ、ということではなくて、安全について、全員が考え続けなければいけないということなのだ。僕が悪いのだけれど、僕のミスで中尾先生がパニックになった。おたがいにかばいあうことが自己責任である。
ガイドダイバーとゲストの間でも、ゲストはガイドダイバーを思いやらなければいけない。お金を払っているのだから、すべての責任はガイドにあるというのでは、もしも、ガイドダイバーがまちがえれば、事故になる。事故が起これば、賠償責任保険が遺族に降りるだけ。
今回のダイビングは、僕のスタイルのリサーチダイビングであり、マニュアルを作ったとして、それはローカルルールだ。そのルールが大事で、そのローカルルールを各指導者が持ち、それをメンバーにてっていさせることが安全の第一歩であり、とても大事だ。
しかし、それは、言うは易く、行うは難いことをこの航海日記からつかんでくれるならば、書いた甲斐があったということだ。
水中活動、インストラクターでもガイドダイバーでも、もちろんリサーチダイビングでも、作業潜水でも、一人前のベテランはみんなローカルルール、自分のルール、マニュアルを持っているはずだ。それを集めて研究することがダイビング運用の研究だ。水中科学協会の目指していることの一つである。