シンポジウム報告書の表紙の写真、これにしようと思っていた。 でも、こちらの方(下)にする。昨日のフェイスブックに出して見て、悪くない。 表紙は、変えてしまったとして、ブルーメタリックに塗装した5リッターぐらいのタンク、何リッターなのか確認していない。12月18日のシンポジウムで展示するので、そのときに確認しよう。 このタンクはクストーが、映画「沈黙の世界」を撮った時に使われていたものと同じ形だ。クストー等はこのタンクを横に3本並べて連結している。 沈黙の世界が日本で公開されたのは、1956年である。この映画の第二の主人公とも言うべきカリプソ号は1941年に建造された英国の掃海艇である。掃海艇は、磁性で爆発する機雷処理に当たることから非磁性であることが求められるので、木造である。 沈黙の世界の「カリプソ号」になったのは1950年であるから、この映画も1950年あたりから撮影が開始されたと考えても良い。 なお、カリプソ号は1996年まで、クストーの死の間近まで、働いていた。現在は記念として保存されるか、否かとか、どこに保存されるのかとかゴタゴタしているらしい。 日本にアクアラング(開放式スクーバ)が伝来したのは何時だろうか。伝来って、種子島への鉄砲伝来ではない。ついこの間の出来事なのだが、正確には何年何月のことなのか記録がない。 二つのルートが考えられる。一つは米軍が持ち込んだ。もう一つは海上自衛隊が、機雷処理部隊のために輸入した。米軍の水中破壊部隊(UDT)の創始者のフランシス・フェイン大佐が、日本に来ていて、退役後は三崎あたりに住んでいて、後に伊豆海洋公園で開催した僕たちの水中スポーツ大会にも顔を出してくれたりした。そのフェインさんが書いたUDT創立の話が日本語訳されて、「人間魚」1961年 に出版されている。その一節に1949年の12月に初めてアクアラングの練習をしたと書いてある。それまでの潜水部隊は純酸素のリブリーザを使っている。海岸、波打ち際での上陸のための障害物撤去がこの部隊の第一の任務であったが、それは身軽にフィンを履いただけのスキンダイビングである。フィンを履いて、波打ち際を走る?日本の伏竜が潜水器を着けて海底に伏せていたのと対象的である。 幸いに、本当に幸いに日本の伏竜は実戦に参加したことは無かったが、米軍UDTは、勇敢で、海兵隊の上陸の前に、俺たちが先に来たという旗を波打ち際に立てたと言うアメリカ人らしい逸話がある。UDTの損耗率は40ー50%だったという。二人に一人は倒れたことになる。そのUDTがアクアラングを使った最初が1949年の12月だったと書いてあるのだから、それ以前に日本に米軍が持ち込んだとは考えられない。 海上自衛隊の前身である警察予備隊ができたのが、1950年である。機雷処理は当時の急務であり、創立時から今日まで実戦(機雷処理)を戦ってきた部隊であるが、それにしても、早くて1950年、常識的には1951年以降ではなかったのかと思う。その輸入は、米国からではなく、フランスのスピロテクニックであり、輸入代理店はバルコム交易だった。そのあたりのいきさつはニッポン潜水グラフィティに書いたが、展示するタンクは、そのときの1本なのではないか、と考えている。 僕がダイビングをはじめた、1956年、この形のタンクは目にしたことはない。消火器改造型と、フランスのスピロ製、アルミタンクの二本セットを使った。 このタンクは、タンクだけで木箱に丁寧に入っている。木箱の蓋の裏には、潜水可能時間らしき表が張り付けられている。どんなハーネスで背負ったものなのだろうか。それにあまりにもきれいだ。1952年として、64年前である。実際に海で使われたことがないタンクだと思われる。 なお、1951か52年の警察予備隊、自衛隊で潜水を始めたのは、逸見隆吉氏で、後に2代目の横須賀水中処分隊隊長、退官して、300mまで潜降できる潜水艇「はくよう」を持っていた日本海洋産業(現在ある同名の会社との関わりは知らない)の実質的な代表を務められて、自分はずいぶんとお世話になった。2000年に月刊ダイバーが、ニッポン潜水50年史をグラビア特集するときに、潮美を同行して、逸見さんにお目にかかり、1950年ごろの話を聞かせていただいた。しかし、日時は正確な記憶がなく、不明であり、予備隊ができたのが50年とすれば、51年、52年が有力だろうか。53年には水産大学小湊実習場で、米国の海底地質学者、ロバート・ディーツ博士が大学の若い先生たちに、おそらく、潜水の指導方法を教えている。この時の写真もニッポン潜水グラフィティには掲載した。そのとき小湊にはタンクの充填設備があった。その前年に持ち込まれたとすれば、1952年であるが、小湊にあったタンクはこの形ではない。このタンクは51年か、50年かも知れないと迷うが、日本に輸入された最初のものだったのだろう。
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